小澤氏は音楽そのものよりは、主として彼の類まれな人間性の魅力でここまで到達された方なのだと思います。
病が癒えてまた楽壇に復帰されましたが、ウイーンでも日本でも今後彼の芸術が飛躍する可能性は残念ながらないのではないでしょうか。
私も昔から彼のライブやCDには接してきましたが、数少ない例外を除いて心からの感銘を覚えたことはありません。
とりわけウイーンオペラでのWagnerやモーツアルトやウインナワルツ等の演奏は思わず耳を疑うレベルのものが多く、かつてのトロント響、サンフランシスコ響との現代音楽や新日フィルとのブルックナーの交響曲第2番の演奏などがただただ懐かしいだけです。
それよりも気になることは、これほど無残な演奏が多い割合には国内での評価がかつてのカラヤンのように異常に高すぎる!?ことです。
もしかすると日本の聴衆はくだらない演奏に対して「ぶー」をいう代わりに「ブラボー」を叫ぶ奇妙な風習があるのではないでしょうか? 私にはまったく理解できません。
もうひとつ小澤氏の指揮を観察していますと、例えばオペラとか、ウイーンフィルとのブラームスの交響曲4番とかブルックナーの9番ライブ(余りにも悲惨な就任記念演奏!)にしても、いつも音楽の自然な流れをさえぎるような、わざと引き止めてぎくしゃくさせるような不自然な振り方をされています。
これはもしかすると、彼の恩師である有名な斉藤秀雄氏(有名な英語学者斉藤秀三郎の子)の指揮法の機械的な「たたきパターン」の悪しき面のあらわれではないかと、最近ひそかに考えている次第です。
ちなみに私は斉藤秀三郎氏の英和と和英辞典が大好きでときどきパラパラ眺めていますが、例えば、Love is like a pityという決まり文句を「可哀相だた、惚れたってことよ」と訳しています。
またうろ覚えですが、たしか漱石の「猫」だか「三四郎」の中にもほとんど同じような粋な日本語訳が出ていたと思います。二人とも落語好きの江戸っ子だったのですね。
No comments:
Post a Comment