Wednesday, October 25, 2006

「芥川龍之介展」で思ったこと

「芥川龍之介展」で思ったこと
今日は、はとつまとわたしの3人で鎌倉文学館の芥川龍之介展に行きました。

旧前田侯爵邸でかつて佐藤栄作首相の別荘でもあったこの英国調の洋館の歴史は古く、三島由紀夫の最後の作品にインスピレーションを与えた建物としても有名です。

広い前庭にはさまざまなバラが咲き誇り、その向こうには太平洋や大島を望むことができます。(文学館の入り口右手の坂の上には、かつて長勝寺という大寺があったんだよ)

私は以前この文学館で中原中也や夏目漱石の展示に接することができました。

そして中也が生前に通ったカトリックの教会や空気銃を買った玩具屋やまだ長谷に実在していることを知り、そこを訪ねたものでした。
ちなみに私は昭和12年に彼が亡くなった病院で毎年の身体検査を受けています。(関係ないか)

それから夏目漱石の名刺のおしゃれなことにも驚きました。

現在私たちが使っているものに比べると天地も左右も短いそれは絶妙なプロポーションで構成され、使用されている日英のフォントの繊細さは、彼が好んで描いた南画の神経質すぎるほどの繊細さとあいまって私を感嘆させたものでした。

そして今日この眼で接した龍之介の「芋粥」や「鼻」や「蜘蛛の糸」、「奉公人の死」などの生原稿の筆跡は、驚いたことに私の亡くなった母の筆跡に瓜二つだったのです! 

私は思いもかけないところで母の亡霊に出会ったような気がしてちょっとショックでしたが、それだけになおいっそう芥川に親近感を抱くことができたように思います。
漱石ほどではありませんが、生真面目な書体が印象的でした。

さて現在の東京北区の滝野川に生まれた芥川は、塚本文と結婚直後の大正7年3月から1年ほど鎌倉で楽しい新婚生活をエンジョイしました。

若すぎた晩年に芥川はこの短かった鎌倉時代が最も幸福な時期だったと回想しています。

彼は最初は大町、次いで由比ガ浜の借家(野原西洋洗濯所跡)に住んで久里浜の海軍機関学校の英語教師を勤めるかたわら「蜘蛛の糸」や「邪宗門」などの短編を書いていました。
この2箇所とも漱石の夏季の借家があった近所ですね。

私にとって芥川の最高の作品は「蜜柑」です。

寒村から奉公に旅立つ少女が、上り列車の窓を開けはなって見送りに来てくれた弟たちに放り投げる別れの蜜柑の鮮やかな黄色の放物線を思っただけで、涙がにじんでくる涙腺の弱い私ですが、この名編も当時の軍用列車であった横須賀線での体験がもとになっています。

よせばよいのに東京に出て、トレンドの最前線で苦悩した挙句に「将来に対するただぼんやりとした不安」が原因で昭和2年に服毒自殺を遂げた龍之介。

おそらく彼は、満州事変から日中戦争にいたるその後の昭和日本の暗い道行きを直感し、その前途に絶望して自栽したのではないでしょうか? 

そして恐ろしいことに、芥川が懐いた「将来に対するただぼんやりとした不安」とは、平成の今に生きるわたしたちにも感じられるまったく同質の時代的不安ではないでしょうか? 

村上の龍ちゃんにも増しては、芥川の龍ちゃんは、今こそ私たちにとってリアルな存在です。

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