照る日曇る日第449回
甘味滴る書名に惹かれて読んでみたが、柔らかな表皮の内部は博学才知をもって鳴るこの著者ならではの広く深い考察に満ち満ちていた。前半はジェームス・ジョイスの「若い藝術家の肖像」と「ユリシーズⅢ」を巡る才走った文芸評論、後半は八代集や源氏物語、王朝和歌、後鳥羽上皇、折口信夫などを、筆が疾走する思考に追いつこうと必死に飛び回る刺激的なエッセイだが、もちろん後者が抜群に面白い。
折口の推測では、源氏物語の主人公がやたら王朝の女性をものにしようと齷齪するが、これは彼が色狂いしているのではなく、女の財産を狙っているからで、その代表が光源氏が朱雀院の懇望を入れて女三の宮を引き受ける箇所だという。
もちろん源氏は「皇女」を蒐集したい気持ちもあったが、この豊かな財力を持つ少女が政敵の太政大臣の息子の柏木に収蔵されたらマズイ、というので紫上の正妻の地位を格下げにしてまで結婚したというのです。
これに関連して著者は、男子が単独相続する父権制社会の成立は鎌倉時代からで、それ以前は女性が荘園領地内の不動産や物権を相続する母権制の名残が色濃く残っていたのだ、と主張しています。目から鱗とはこのことでしょう。
また著者は、偉大なる学者、高群逸枝の驥尾に付して、天皇家という家系は存在しない。その証拠に天皇には名があっても姓がない、と説いて我々を驚かせます。確かに神武以来歴代天皇の系譜は存在するが、それは家系図ではなく、単なる皇統譜であるというのです。
例えば源氏物語を読んでも桐壺の更衣は里の実家に下がって源氏を産んでいる(源氏は天皇ではないけれど、天皇の場合も同じことです)。
つまり母権制の社会では、帝は皇居をあちこち移動させながら、複数の后の実家に婿入りをしているのだが、帝名義の家族は、ない。家族がなければ、姓もない。だから現代でも裕仁だの明仁という名前しかないというのですが、どうやらこの人は筋金入りのフェミニストのようですね。
ギースチョンを二匹助けてやりました 蝶人
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