照る日曇る日第447回
本巻では寛喜3年1231年から嘉禎3年1237年の7年間の鎌倉幕府の事績を取り扱っているが、そのわずかな期間の叙述にかなりの重複があるのが解せない。
そもそも吾妻鏡は北条一族の息がかかった歴史整序が恣意的になされているので注意して読まなければいかないのだが、この重複は単なる編集ミスとしか考えられず、一時代を画する正史の編纂のでたらめさに驚く他はない。
しかしそうケチはつけても北条泰時の治世にゆるぎはなく、彼のイニシアチブの元で1232年の御成敗式目が制定され、御家人・守護・地頭の法制の整備が果たされたことは、その直前の寛喜の大飢饉を思えば武家政権の見事な成果と誇っていいだろう。
本巻の編者西田友広氏によれば、寛喜の大飢饉ではそれまで禁止されていた人身売買が容認されたというが、当時はこれを禁止することがかえって「人の愁嘆となるべき」異常な事態に陥っていたのである。
本巻では私の近所に現存する実朝が建てた五大堂明王院に新しい御堂が建立されて将軍藤原道経をはじめ北条時房、泰時が臨席して晴れの披露が行われたとか、九夜連続の大地震に見舞われたとか、さまざまな天変地異が相次ぎ、安倍一族が各人各様の占いを行ったりするという叙述があって七七〇年の歳月を一瞬のうちに無化してくれるが、そろそろ鎌倉で大地震が発生する時期が訪れていることは、この「吾妻鏡」を読め読むほどあきらかになってくる。人こそ変われ、歴史は何度でも繰り返すのだから。
天福元年1233年3月7日、智定房という元武士の1人の僧が、尾形船の尾形をすべて釘でうちつけ、窓ひとつない密封された狭い空間に30日分の食料と油を積み込み、熊野の那智浦から補陀落山めがけて乗り出したというが、どうにもこの人の末期が気になる第10巻であった。
喨々と油蝉鳴く正午かな 蝶人
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