Thursday, September 23, 2010

福田和也著「現代人は救われ得るか」を読んで

照る日曇る日 第374回

著者は私のように粗放な脳味噌の持ち主と違って、おそらく非常に頭が切れる人なのでしょう。華麗なレトリックを凝らした超絶的美文?と該博な知識と教養を、これでもか、これでもか、とみせびらかすように駆使して、ただでさえ分かりにくい論旨をもっともっと難解にして、さあどうだ。これでも食らえ、とばかりに投げてよこされるのには、はなはだ迷惑です。

―江藤淳と江國香織を対置した時、江國の方がはるかに森鴎外に近い。それは、意識された「ごっこ」が、欺瞞が、「現実」を作り出す、社会を、国家を、家族を仮構する事を知っているからに他ならない。(396p)

これだけではどなたも何のことやら分からないでしょうが、その前後を繰り返し読んでも理解できないのは、きっと私が極度のアホ馬鹿人間だからでしょう。しかし才子才に溺れるの諺ではないけれど、著者の筆が、自分でもよく分かっていない内容についてどんどん滑っているように直観されます。文中で普通に「決して」と書けばいいのに、変に恰好をつけて「けして」「けして」と連発するのも、あまり良い趣味とは言えないでしょうね。

ところでこの本の最後は、村上春樹の「1Q84」を巡る考察になっています。

いとけない娘をレイプしている教団の大幹部を葬るために青豆を駆使する謎の老婦人は、はたして正義の味方か、それとも悪事が生んだ新たな悪事の張本人なのか? 

「眼には眼を、歯には歯を」。国家権力による法と秩序を無視して、あるいは自覚的に逸脱して、私憤を疑似的な公憤に擦り変えた彼女は、共同体からの処罰と自裁を覚悟の上で個人テロルの「暴挙」に訴えます。

しかしテロルはテロルを生み、復讐は復讐、殺戮は殺戮の果てしない連鎖を生みだすことでしょう。「眼には眼を、歯には歯を」の論理をうべなう限り、この連鎖のひと組には
「主観的な合法性」があるので、それらの鎖を任意の1点で切断することはおそらく当事者同士には不可能です。

それでもこの連関を断ち切るためには、双方がそれぞれの正義をテーブルの上に並べて、それぞれの正義の正しさの内容を、第3者の公正で客観的な視点でこまかく吟味しなければならないでしょう。しかし一口に正義というても、大義もあれば小義もあるし、中には正義という名の虚義もあるであろう。そしてもし天から見下ろせば、世に絶対的な正義なぞついにないのかもしれぬ。

血眼になっている正義の復讐者を争闘の現場から、広大無辺の裁判所に拉致して次元の異なる認識に目覚めてもらわなければなりませんが、さてそうするためにはどうしたらいいのか。

ああ、またしてもひとつの悪がひとつの復讐を生み、その復讐がまた別の悪を呼んでいる。己が信じる正義を貫徹しようとしたはずなのに、その貫徹の最後の瞬間に、正義が不正に、善が悪に転化する。
おそらく人はこの究極のパラドクスに突き当たった時に、はじめて自己滅却を願い、己を一挙に無化して、かの人知を超えた大いなる悟りを得ようとするのではないでしょうか。



太郎病んで尖閣諸島に月が出る 茫洋

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