Wednesday, September 08, 2010

橋本治著「リア家の人々」を読んで

照る日曇る日 第369回


 シェークスピアのリア王の悲劇を軽く踏まえてはいるが、作者は、娘に離反されていく明治生まれの文部官僚一家の運命を描きながら、改めて私たちにとって戦後とは何であったか、を自問自答しようと試みている。

 戦時中初等教育の管轄責任者であった主人公は、公職追放されても、数年後に文部省に復職しても、おのれを大河にもてあそばれる1枚の木の葉のように感じるだけであり、いまもむかしも「生活が第一」。自己の社会的責任を問おうとする発想などさらさらない。
かつて中原中也がうたったように、

「幾時代かがありまして、茶色い戦争ありました」

という一行で戦争が総括されていくのである。

60年代の後半になると既成の秩序や権威に若者たちが異議申し立てを行う「嵐」の時代がやってくるが、主人公と末娘はそんな流行に眉をひそめながら嵐が通り過ぎるのをじっと待つ。昔ながらの家庭生活を墨守しようと蛸壺の底にもぐりこむ臆病な蛸のように…。
しかし蛸は、おのれの生のむなしさをはっきりと自覚している。

当時の私もこの小説に登場する三女のように、自分を思想も生きがいもない空虚な存在と自覚していた。だからこそおのれを燃焼させる対象物がむやみに欲しかった。それが麻薬であれ歌であれスポーツであれ…。

別に自分で政治や革命ごっこを選んだわけではないが、そこに炎が燃え盛っているなら、思い切って飛び込んでも、飛びこまないよりはたぶん面白かろう。見る前に飛べ、である。 そしてそのささやかな自己投企は、狭い蛸壺の底で自縄自縛に陥っていた孤我をおびただしい他者たちが渦巻く広大な世界に連れ出してくれるうってつけのチャンスにつながっていったのだが…。

「幾時代かがありまして、茶色い闘争ありました」

作者はこの不器用な小説を書くことによって、戦前戦後を通じて本質的に変わることのない日本人の、思想も節操もなくただ時代に流されていく没主体的な「体質」を摘出することに成功したようだ。

幾時代かがありまして、茶色い人たち騒いでおりました 茫洋

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