照る日曇る日第507回&バガテルop151
せんだってキーン翁は、晴れて我らが同胞の一員となられた。これについてわたくしは北区西ヶ原の区役所が小さな花束を贈ったことは知っているが、その他からあまり歓迎の声が掛からないのはいかなる仕儀であろうか。
わが国はアメリカなどと違って二重国籍を許さない偏狭な国家なので、すでに老境に達した異国の人が、いかに日本および日本人を愛しているとはいえ、大震災で来日に二の足を踏む外国人や原発被害で南西日本や海外に逃げ出す日本人も多い中、愛する母国アメリカを捨ててまで東洋の島国に骨を埋める決意を固められたことについて少しは思いを致し、江湖の声をひとつにしてその勇気ある決断を称えてもよいのではなかろうか。
さりながらめでたく帰化して「かけがえのない日本人の宝」のとなられたキーン翁から、改めてわが国の古典文学についての話を聞くことは、さしたる愉しみなき境涯の身のわたくしにとって、またとない悦びであった。
本巻では吉田健一の訳した「日本の文学」を皮切りに、篠田一士訳の「日本文学散歩」、大庭みな子訳の「古典の愉しみ」、そして全国各地で日本語で語りかけられた文芸講演、エンサイクロペディア・ブリタニカに掲載されている「日本文学」の英語解説まで、じつに多種多様、バライェティに富む本邦の文学、小説、詩歌、演劇などの論考や随想が載せられているが、執筆年代が少し古いにもかかわらず、いま読んでもどれも新鮮で面白い。
とりわけ「日本文学散歩」出てくる大村由己、細川幽斎、木下長嘯子、宝井其角、平田篤胤、大沼枕山、仮名垣魯文などの諸氏の文芸事績とその作品評価は、彼らについて暗いわたくしには初めて聞くことばかりで勉強になった。
芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」について、「イ音」が多いことに注目し、芭蕉はこれがセミの鳴き声に似ていることを知って意図的に詠んでいると指摘しているのも興趣深いが、ここからその時に鳴いていた蝉が、アブラゼミでもクマゼミでもヒグラシでもミンミンでもなく、ニイニンゼミであることを改めて認定できよう。
NYのメットで「アイーダ」の終幕のリハーサルをしていたトスカニーニが、主役のソプラノに「そんな悲しそうに歌うんじゃない。これは生涯のうちの喜びの瞬間なんだ。喜びをもって歌いなさい」と指示するのを聞いた瞬間、「これこそは近松の心中する主人公たちが考えたことだ」とつい思ってしまうのが、ドナルド・キーンという人なのである。
キーンさん、日本人になってくれてありがとう! 蝶人
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