照る日曇る日第523回
「女性作家の世界」と題された本巻に登場するのは、佐多稲子、岡田嘉子、田村俊子、伊藤千代子、杉山智恵子、西沢あさ子、平林たい子、林芙美子、宮本百合子、野上弥生子、湯浅芳子、森茉莉、幸田文、井上荒野、岡本かの子、宇野千代、金子みすず、杉田久女、瀬戸内寂聴、鈴木真砂子、河野多恵子、中城ふみ子、富岡多恵子、網野菊、芝木好子、武田百合子、曽野綾子、竹西寛子、津村節子という圧倒的な壮観で、これを総覧すればとくに男子の作家など昭和の本邦では不要ではなかったのかという不逞で不届きな疑問すら湧いてくる。
総じて男の小説は観念的で一面的で万物を一刀両断して我が事足れりとする傾向があっるが、女のそれはそんな生易しいものではない。男のかっこつけた与太話が終わったあとでおもむろに女の終わりなき因果と因縁の世間話がはじまるからだ。
今回印象に残ったのは岡田嘉子と杉本良吉の手に手を取った北帰行である。人民抑圧国家ソ連にあらぬ幻想を懐いて国境を越えた二人は、それぞれ銃殺と流刑の憂き目をみたばかりか無辜のメイエルホルドまで巻き込んで粛清されるという悲劇を生んでしまった。
社会主義にめざめ大連に逃避して零落し、命からがら帰国してから文学人生を切り開いた平林たい子の小堀甚二、江田三郎との交渉も興味深いが、林芙美子と外山五郎、森本六璽、巴里の恋人白井晟一との数奇な異性関係、それにも増して宮本百合子、湯浅芳子、野上弥栄子の肉体と精神とが複雑に入り組んだ同性関係を叙した箇所は優れた小説を読むより面白い。
昭和四八年八月、著者が同席した井上光晴の通夜の席で、埴谷雄高が歌った時に瀬戸内寂聴が号泣したという「どこからきて、どこへゆくのか」という歌を、わたしも聴いてみたかった。
どこからきてどこへゆくのか誰ひとり知る者はなく日々は流れやがてわれらも去る 蝶人
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