Friday, July 27, 2012

片山杜秀著「未完のファシズム」を読んで




照る日曇る日第526


「持てる国」英米ロと「持たざる国」日本の余りにも大きなギャップ、これが本書のキーワードです。

国土に資源なく、人こそ満ちたれどそれを養い育む科学技術産業も剰余豊かな文化文明もない日本を、いかにして文武両道を兼備した欧米並みの強国に仕立て上げてゆくか。それが漱石鴎外のような知識人のみならず日本の軍人と軍隊にとっても最重要の課題でありジレンマであったことを、私は本書によって初めて教えられました。

わが国が持たざる国である以上、その身の丈に合った軍事力で西欧先進国に対抗しようと考えた荒木貞夫や小畑敏四郎などの「皇軍派」と、まずは日本を豊かな強国にしてから一流国と対等になり、ある段階で軍事的に叩こうと考える永田鉄山や鈴木貞一・石原莞爾などの「統制派」の骨肉の闘争は有名です。

日本のような持たざる国が物資物量の豊富な大国と戦ってもまず勝ち目はない。しかしそれでは持たざる国の軍隊の存在理由なんて全然がない。物資兵力が劣勢でも精神を鼓舞し、側面攻撃などの戦略を活かして賢い短期決戦を挑めば、局部的な勝利を収める可能性はあるはずだから、その間に味方に有利な休戦にもちこむ道もあるだろう。

そういう苦し紛れの現実主義に立つ「皇軍派」の小畑たちは、武器より精神力が大事だと力説した「統帥綱領」と「戦闘綱領」を残してあの2.26事件で「統制派」との党派闘争に敗れてしまいます。

しかしいくら統制派でも単なる陸軍の派閥ですから、持たざる国を一挙に持てる国にするなんてたやすくは出来ません。それには長い時間と経験、そして政治・経済・社会全体にまたがる機能・権限の強力と集中が必要です。

それでもあえてここを強突破するためには、議会と明治憲法と天皇主権の掣肘をとっぱらって陸軍軍事独裁体制を敷く必要がありました。統制派きっての跳ね上がり石原莞爾は、わが国を豊かにして1966年に世界最終戦争を仕掛けるはずだったのに、実際にはおのれの理論をおのれの軍靴で踏みにじって「満州国」を創成!?しましたが、この恣意的で無思慮な試みが不毛な突出に終わったことは他ならぬ歴史が証明(未完のファシズム)しています。

そして「統帥綱領」と「戦闘綱領」の精神力賛美は、その後、中柴末純の歪んだ脳髄によって東条英機の「戦陣訓」に発展的に継承され、仮に劣勢でも勝敗に関係なく降伏せずに全員戦死せよ!という「一億玉砕」の思想に結晶していきました。

以上駆け足で著者の考えを紹介しましたが、その他にも宮沢賢治の文学と国柱会の関係など興味深い論考が随所で繰り広げられています。


介護される方が死ぬか介護する方が死ぬかそれが問題だ 蝶人

No comments: