照る日曇る日第149回&鎌倉ちょっと不思議な物語143回
いっぽう弟の義経を憎みその殲滅をはかろうとした頼朝は、文永3年1186年4月8日に京で捕らえた静御前を鎌倉八幡宮に召し、白拍子の名手として知られる彼女の踊りを強いた。
よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いるにし人の あとぞこいしき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
の「黄竹の歌」2曲を、彼女自身による歌唱と舞踏、工藤祐経(後に曽我兄弟による仇討ちで富士巻狩りで殺される)の鼓、畠山重忠(後に北条氏の陰謀で殺される)の銅拍子(現代のシンバル)による伴奏で御前演奏したのである。
「黄竹の歌」というのは中国の清商曲、呉声歌のレパートリーであるが、当代一流の美しきシンガーソングライター静は、前者は古今和歌集の壬生忠岑、後者は伊勢物語第32段からの本歌取りを試み、自分の夫への純愛を限りなく称揚することによって、対極にある権力者の非人間性と政治的無節操を真正面から批判してのけたのだった。
その内容も内容だが、当時彼女は妊娠7ヶ月の身重であったから、このパフォーマンスは文字通り命がけの公演であったのである。
頼朝は激怒したが、妻政子によって「あなたの伊豆時代の私への恋情を想起せよ」といさめられ、ようやく矛を収めた。が、同年7月29日になって、誕生した義高の子息を安達新三郎に命じて由比ガ浜の海に捨てさせた。
静は赤子をひしと抱きしめ何時間も泣き続けたが、母の磯禅師が強引に奪い取って新三郎に引き渡したという。
同病相哀れむではないが、こんな憂き目をみた静に対して、大姫は温かい同情を寄せていたようだ。「吾妻鏡」5月27日の条には、静が病からの回復を祈るために南御堂(勝長寿院)に籠っていた大姫を訪ねて芸を披露して、褒美をもらったと記されている。
9月16日、静と磯禅師は暇を賜って帰洛したが、政子と大姫は多くの貴重な宝物を与えたという。
頼朝が由比ガ浜を訪れたのは、翌文治3年1187年の7月23日のことだった。夏の海浜を散策しながら、孤独な関東の王は、己が圧殺した甥のはかない命に思いを致したのだろうか。
♪世界一速き男の脇見かな 茫洋
♪観衆を見物しつつゴールせり 茫洋
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