照る日曇る日第144回&鎌倉ちょっと不思議な物語140回
室町幕府は京の花の御所にあったが、関東の政務は鎌倉公方4代目の足利持氏が関東管領の上杉憲実と共に執り行っていた。鎌倉公方の御所は私の住まいから5分の浄明寺にあり、その旧蹟には写真のような鎌倉青年団作成のおおきな碑が建っている。
1438年永亨10年6月、足利将軍義教に逆らって兵を挙げた持氏は、斯波、一色の軍勢に敗れて鎌倉永安寺に武装を解いて恭順の意を表していたが義教は許さず、翌年の2月にこのいまはなき廃寺を十重二十重に取り囲んだ憲実の兵の前で息子の義久とともに自刃して果てた。これを永亨の乱という。
持氏が死んだ永安寺は基氏に続く2代目鎌倉公方足利氏満の菩提を弔うために鎌倉二階堂紅葉が谷に創建された禅寺で、名刹瑞泉寺のすぐ近くにあった。
公方は毎年2月に参詣することになっていたので、その2月の梅の季節に持氏が亡くなったのもなにかの宿縁であろう。わが愛読書の「鎌倉廃寺事典」によれば、「結城合戦絵巻」に悲劇の将足利持氏が自刃するさまが描かれているようだ。
翌年持氏の遺児安王丸、春王丸を擁して結城氏朝が幕府に反旗を翻した。持氏を殺して鎌倉の主となった上杉憲実にたいする反感もあって茨城の結城城には関東の名だたる武将が参集して頑強に戦ったが、武運つたなく1441年嘉吉元年結城氏朝は戦死し、安王丸と春王丸も京に送られる途中で殺された。
これが結城合戦であるが、名門大守護の結城氏がこうして没落してくれたおかげで、その部下の末裔であった今川氏や織田氏が戦国の世に活躍の場を得ることができたともいえる。
♪一日に二匹の蝉を拾いけり 茫洋
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