照る日曇る日第151回
満州帝国の影の支配者といわれた甘粕は、超天皇主義者であったとおなじくらいに、超合理主義者でもあった。
本書の371pには満映理事長時代の甘粕は東条に満州情勢を報告するために一時帰国した折の挿話が書かれている。甘粕は、国民精神総動員などと書かれたポスターや宮城を電車が通る時に帽子を脱いで頭を下げる人々を見て、「こんなバカなことをさせる指導者は人間の心持ちがわからない人たちです。国に対する忠誠は宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません」といったそうだ。
そこで「そういう精神指導は誰がやっているのでしょう」と武藤富雄がみえすいたことを訊ねると、「そりゃ軍人と彼らに迎合する人たちですよ。軍人というものは人殺しが専門なのです。人を殺すのは異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです」
と軍人である己の本質を見据えた発言をしている。
関東大震災の戒厳令下、東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長甘粕正彦は、東京憲兵隊長の小山介蔵、その上司の憲兵司令官の小泉六一の名に従って大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥の宗一を「一種の気ちがい」となって拷問、凌辱、殺戮した。
著者は発見された死因鑑定書やさまざまな聞き取り調査に基づいて殺害の直接の実行犯は甘粕ではなく、彼の命令に従った部下であったと主張しているようだが、仮に100歩譲ってそうだったとしても、主義者撲滅と抹殺を熱烈に唱えていた当時の彼が、このおぞましい犯行を主導・教唆・加担したことは間違いないだろう。
1945年8月20日、青酸カリを服毒した甘粕の最期を看取ったのは当時満映の映画監督をしていた内田吐夢であった。
「体温はまだ残っていた。テーブルの上の灰皿からシガーの最後の煙がゆらゆらと立ち上がって、永井荷風の「濹東綺譚」の本の頁に三通の遺書がはさんであった。人間が自分の股倉の中で死んでいくのは決していい気持のものではなかった」(409p)
♪西暦2008年8月31日「夏の思い出」をじっと聴いている我が息子よ 茫洋
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