Monday, August 18, 2008

平野啓一郎著「決壊」を読んで

照る日曇る日第150回

この節は自分を独り静かに滅却できない人間が通りすがりの人間を無差別に殺害する殺人事件が流行しているが、この小説でもその種のテーマをなんのてらいもなく取り扱っている。これは一昔も二昔も前にはやった小説作法における「主題の積極性」なるもののお色直し再登場?ではないじゃろか。

しかしいずにせよ殺人事件の真実を明らかにすることは法律家の手に余るので古来多くの作家や心理学者や研究家がその因果関係を深層まで下降してあれやこれやとろんぴようしてきた。ホームズやポアロやくりすていなどが活躍する専門的な文芸じゃんるすらあるが、けっきょくなぜジキルやハイドが不可解な殺人事件を起こしたのかを素人にもよくわかるように解明してくれた作物はドストエフスキーの罪と罰以外にはなかったというても過言ではない。

こんかいこの若き俊英が鋭意取り上げた無差別テロルも、悪魔のような殺人鬼やら国会図書館の調査員やらフジテレビの人気女子穴や、京都警察署の刑事やら鋭くきれる高校生や交際相手の陰部の写メールやらあほばかクレーマーママやら浮気する主婦やら2ちゃんねるの書き込みやら残虐なぶり拷問やら携帯ごっごやら田舎のじいさんばあさんやらぷーる教室に通う少年等々が上下2巻にまたがって次々に登場して、これでもか、これでもかとばかりにあれやこれやの悲劇や惨劇や社会正義の演説や精神心理の最新御託やらマスコミ評論家のあほばか解説の限りを尽くすのだが、この某宮中外殺人事件がいったいどうして起こったのかはついに解き明かされることはない。

ただいかにも「真実らしい」事実や情報や解釈や想像や推察やら断定やら教条やら著者の主観的なあまりにも主観的な思い付きが陸続と登場し、結局は全山雷動して鼠一匹も現われないままにいたずらに原稿料を稼ぎまくる文字数だけは膨大な「小説らしきもの」は終わってしまう。

既存の情報やデータをいくらさかしらに「コピペ」したところで、現代も、人間もその本源はおろか片鱗すら描き得ないという好個のサンプルだろう。致命的なのは、登場人物のほぼ全員の生活と生命の精髄が描かれず、まるで著者手作りのでくの坊のように、バリ島の亡霊のように、不出来な操り人形のやうに気色悪く揺曳していることである。

なんのことはない、決壊しているのは自分自身の小説世界であることは、その哀れな結末を読めば自明である。少しはドスト氏のラスコーリニコフの肖像なぞを研究してから筆を染めてほしいものである。

なお著者は、単なる小説の単なる興味本位の筆のすさびであるとはいえ、共犯の少年を流行の精神鑑定にかけ、これまたいま大流行の「広汎性発達障害」なる代物と恣意的に結びつけてくだらない三文小説の座興の種にしている(下巻348p)が、現今のようにこの障害の定義が大混乱し、いまや猫も杓子も発達障害視されている不透明な状況において、このようなとれんでぃ用語を登場人物に仁義も切らずに刻印すること自体が、この小説の風俗小説としての本質を雄弁に物語っているのではないだろうか。

♪耕君のため巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた「木」さんに感謝すありがとう 茫洋

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