照る日曇る日第145回
新潮社のクレストブックは用紙や装丁がどことなく西欧の文学書のにおいをほのかながらも伝えているので、たまに手に取るが、この本はタイトルに惹かれて読んでみた。なんとなく私の愛してやまない「旅の日のモーツアルト」を連想したのだが、驚いたことに登場した主人公はロシアの文豪ドストエフスキーその人であった。
私は行ったことがないが、バーデンバーデンは南ドイツの温泉町で、かつてミヒャエル・ギーレンをシェフとしていた前衛音楽の演奏に長けた渋いローカル・オーケストラを擁する街である。
古くからヨーロッパの貴族やお金持ちが保養や避暑に出かけたらしいが、ドストエフスキー夫妻もこの町に出かけ、最後の一カペイカまで賭博に投じる場面がこのドキュメンタリー的私小説のかなりの部分を占めている。
著者は文学趣味を持つ旧ソ連の科学者だが、バーデンバーデン、ドレスデン、パリを流離うドストエフスキー夫妻の旅を史実に即して追いながら、著者自身のドストエフスキー発見の内面の旅がピアノのフーガの連弾のようにめまぐるしく交錯しながら描かれ、文豪への熱烈な愛と献身に貫かれた遁走曲は、1881年1月28日の文豪の死の床の感情を抑えた、しかし感動的な描写でその絶頂に達する。
エドワード・ラジンスキーの「アレクサンドル2世暗殺」でも詳しく叙述されていたように「カラマーゾフの兄弟」を書き上げたばかりのドストエフスキーは、書棚の下に転がり込んだ愛用のペンを探そうとしてかがんだときに肺を傷つけ、そこからの出血が原因で無念の突然死を遂げてしまう。
昨日の赤塚不二夫と同じくらい、早すぎた無念な逝去であった。
なおこの本は、2004年に亡くなったスーザン・ソンタグによって「最も美しく感動的でユニークな作品」と絶賛されてはじめて世に出たが、「ドストエフスキーを愛すること」という彼女の序文も心に深く沁みる。
幼虫をトイレに捨てたる息子かな 茫洋
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