Thursday, July 24, 2008

網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで 

照る日曇る日第139回

日本について考えたり、議論する前に、日本という言葉とその内容にこだわらなければなるまい。「日本」という称号が歴史に初めて登場するのは7世紀末の689年制定の飛鳥浄御原令からであり、ほぼ同じ頃に「天皇」なる称号も誕生したと著者はいう。

すると、倭の国の王が存在したことはあっても、神武から天智までの天皇は存在せず、「縄文・弥生時代の日本人」などはそれ自体が形容矛盾でありナンセンスな表現であることになる。

「日本」にしても「天皇」にしても、それは始まりと終わりのある単なるひとつの歴史的存在にすぎないのに、私たちはそれらが格別に重要・重大な名称や存在であるかのように錯覚しているのではないだろうか。

日本と日本国の明確な定義すらできていないのに、日本人論だの日本文化論だの日本国民国家論がにわかに成立するわけがないとも、著者はいう。

著者によれば、日本、日本と一口にいうが、日本が孤立した島国で一元的に水田稲作に特化した瑞穂の国であり、万世一系の日本民族という単一民族が作り上げた単一国家であるなどという幻想は、とっくの昔に打ち砕かれている。

縄文人、弥生人の昔はさておくとしても、列島にかろうじて成立したのは本州西部を基盤とした倭人が住む「ヤマト国家」だけであって、もともと北海道はアイヌ王国、沖縄は琉球王国、東北と九州南部は完全な別国家であった。

それだけではなく、本州本体の東部は源頼朝が確立した「関東国家政権」であり、京の西部政権とは別の政治的経済的文化圏を構成していた。ヤマト国家ですら異質で敵対的な要素を内部にはらんだ2重権力国家であった。それらを長い時間をかけて名目だけのパッチワーク&アマルガム体制にもちこんだのが現在の日本国と日本民族なのである。

それなのに私たちはどうして誰一人確証できない日時に「建国記念日」を祝ったり、陰気な短調の和旋律を無理矢理起立して唱和するひつようがあるのだろうか? 
私たちは毎日服装を取り替えるように、いつだって国名や国歌や象徴天皇制を自由に改変・改廃してもいいのである。


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