鎌倉ちょっと不思議な物語136回
三好達治が住んでいた家を過ぎて、江ノ電の踏切を渡ったところに阿仏尼の旧居跡がある。
鎌倉時代の歌人阿仏尼は、藤原定家の子為家の側室となったが、息子冷泉為相への資産相続を鎌倉幕府に訴えるために京を下り、極楽寺に程近いその名も雅な月影が谷に住み、その旅行記と当地での暮らしぶりを「十六夜日記」に記した。
京を発ったのは神無月の十六夜だったのでその名がつけられたのである。
彼女は、「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」と綴り、都からのおとずれがいつしかおぼつかなくなってしまった、と訴えている。
いまもあまり人影のない一角であるから、700年前の昔はさぞや寂しい谷戸だったろう。ここで彼女が山寺と書いているのは、たぶん極楽寺の七堂伽藍のひとつであろうが、すでに亡失した霊山寺の可能性もわずかだが、ある。
鎌倉時代は御家人のみならず女性を含めた民衆の訴訟が急増した時代だった。正妻を退け、愛する息子の権利を勝ち取った阿仏尼の墓は、鎌倉に現存する唯一の尼寺英勝寺にある。
ゆくりなくあくがれ出でし十六夜の月やおくれぬ形見なるべき 阿仏尼
♪品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く 茫洋
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