Thursday, June 05, 2008

網野善彦著作集第7巻「中世の非農業民と天皇」を読む

照る日曇る日第128回


宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。

もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも

と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。

往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。

しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。

律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。

鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。

やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。

しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。

かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。

♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋

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