照る日曇る日第127回
きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく
というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、
碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく
というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁になんなんとする長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。
引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。
陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。
本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。
全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。
さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。
♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
No comments:
Post a Comment