照る日曇る日第130回
―18世紀がどれほどはちゃめちゃで、ぶっ壊れていて大胆でエッチで絶望的で、でも優美で比類ないバランス感覚と人間愛にあふれていて、少し哀しげだけど微笑みを忘れず、しかし途方もなくラディカルで、人間観察においてぞっとするほど冷酷かつ徹底的でそしてどれだけ現代的であるか、つまりモーツアルトの音楽そのものであるか。
という著者の言葉を、著者がゲーテやスタンダールやカントやヘーゲルやラディゲやキルケゴールやアドルノなどの文学者・哲学者の思想を自在に引用しながら、「後宮からの脱走」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」という5つのオペラの登場人物たちの愛の試練の分析を通じて明らかにしていく、なかなかに興味深い音楽哲学書である。
「後宮からの脱走」におけるフィナーレで高貴な太守はひっそりと身を引き、その結果2組の恋人たちは船に乗ってトルコを去っていく。これはいちおうの愛の勝利ではあるが、けっして完璧ではなく、ある和解の不在をそれとなく示唆している、と著者はいう。
「フィガロの結婚」のあまりにも神々しいフィナーレはまるで夢の中の花火のようにあっけなく過ぎ去ってしまう。かつてあれほど愛し合った伯爵夫妻の愛は、おそらくもはや復活しないだろうし、フィガロとスザンナの若い愛もどうなることやら誰にも保証できない。けれど、とりあえず狂乱の一日を終わらせてやろうじゃないかと、モーツアルトは一気につじつま合わせの第4幕の終曲に突入するのである。
「ドン・ジョヴァンニ」は騎士長の死からはじまり主人公の英雄的な地獄落ちに終わる死のドラマであり、ドン・ジョヴァンニという永遠のドンファンによっておおいに活性化された貴族や農民たちの恋愛は、彼の死と共に死んでしまう。
つまり愛の共同体という視点から見たとき、「後宮からの脱走」はとりあえずその建設であり、「フィガロの結婚」はその再建であったが、「ドン・ジョヴァンニ」はそれらすべてを破壊してしまった、と著者はいうのである。地獄落ちととってつけたようなフィナーレの間には、橋の架け様もない深い断絶が生じているのである。
その結果、「コシ・ファン・トゥッテ」の世界では、恋人たちはもはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければならない。何が起きようがもう絶対悪のせいにはできず、頼れる庇護者・後見人・王様も悪魔もいない世界において、カントのいうように「未成年状態から脱して大人として自立すること」が恋人たちに課せられた課題になる。
女も、男も、世の中も、所詮はこんなもの。アドルノのいう「絶対主義と自由主義の間の一種逆説的な均衡状態」こそが「コシ・ファン・トゥッテ」を特徴付ける礼節の世界、英国流のゼントルマンの世界であると著者はいうのである。
モーツアルトは最後の作品「魔笛」では、一転して清く正しく美しい愛の世界を描き出す。散文化されたオペラの世界は、ふたたび一つの宇宙として神話化され、フィナーレではありとあらゆる音楽形式がめまぐるしく呼び戻され、最後はまるでベートーヴェンの第9のフィナーレを先取りするようなオラトリオ的な交響が世界にこだまする。
しかしベートーヴェンやワグナーと違って、モーツアルトはロマン派や恋人たちが大好きな感動フィナーレを冷徹に排除する。「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に互いに仲良く暮らしていける日が来るかもしれない」という希望がほんの一瞬つかの間にきらめいて、フィナーレはあっという間に終わってしまうのである。
♪太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな 茫洋
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