照る日曇る日第167回
雨上がりの月曜日の午後、心ゆくまでピカソの2つのピカソ展を堪能しました。
いつどこで鑑賞しても私の目と心を楽しませてくれるピカソですが、今回の国立新美術館&サントリー美術館あわせて200点以上の大回顧展は、1901年から1972年に至るまでの数多くの作品を制作年代順に配列してあったために、私なりの発見がありました。
それは当り前のことなのでしょうが、彼の芸術が歳月とともに成熟し、ついに最晩年に至って心と技、人格と芸術とが見事に融合し、自由奔放に独自の表現世界を切り開いたということです。
とりわけ1970年から72年にかけて制作された「家族」、「母と子」「風景」(新国)、そして画家が91歳で亡くなる前年に描かれた「若い画家」(サントリー)という題名の自画像は、この恋と冒険と波乱と試行錯誤に満ちた偉大なる芸術家の集大成ともいうべき虚心坦懐にして融通無碍な至高の芸域を私たちにあざやかに示しています。
それまでのピカソは、たとえ抽象画を描く際にも、「女の頭部」とか「マンドリンを持つ男」とかのタイトル(名辞)の意味に最後までとらわれていたようですが、晩年にいたってゲルニカに代表されるそれらのきまじめな名辞の世界との自問自答や自縄自縛からも最終的に解き放たれたように、私には感じられます。
「家族」や「母子」などという題名こそつけられていますが、もはやそれらはどうでもよくなって、対象との直截的な対偶関係を無視し、名辞以前の真に自由な世界に晴々と飛躍していったのではないでしょうか。
いつまでもこれらのキャンバスを眺めていたいと思わずにはいられない、この明るく、楽しく、軽やかで透明な境地にたどりつくまでに、おそらくは彼の初期の青の時代や、キュビズムの冒険や、新古典主義の迷走や、ミノタウロスへの肉薄、シュルレアリスムへの逸脱があったのでしょう。
とりわけ最後の最期の作品は、まるで芭蕉の俳諧のわび、さびの境地に通じるような枯淡と諦念と幻化、さらには一種の悟りさえ想起させる東洋的な作風が印象的で、これを1901年に描かれた有名なセザンヌ風の自画像(サントリー)と対比させて眺めると、ある偉大なる芸術家の生涯の最初と最後の足跡を同時に見せつけられたようで、凡人の一人としても複雑な感慨がわき起こってきます。
それから絶対に言い忘れてはいけないのは、彼の素晴らしい色使いです。初期の青の時代の青などはまだまだ素人の若気の至りであったと痛感させるような深々とした青、緑、そして紫などの色彩の取り合わせのなんと美しいこと。ゴッホのような狂気、をはらんだ濃さはなく、マチスの華麗さ、デユフィの浮遊性はありませんが、色彩本来のありかを正しくわきまえたものの見事な色使いに酔わされます。
しかし、それらの大型の油彩の超大作にも増して私が気に入ったのは、メリメの「カルメン」の挿絵の小さなリトグラフでした。余白をたっぷりとってまるで水彩画のような軽みと遊び心でひといきに描き上げられた闘牛士や闘牛や観衆の描線のなんと生き生きしていることでしょう。私は思わず良寛のひらがなの優美さや、北斎漫画の線の律動を思い浮かべたことでした。今回の作品でただ1点を選べと言われたら、私はこのあまりにも洒脱な筆のすさび(新国作品番号60)をあげるでしょう。
♪有名な青の時代の青よりもなお青き青をわれピカソに見き 茫洋
Monday, October 06, 2008
ョン・ウー監督「男たちの挽歌」を呆然と眺める
照る日曇る日第167回
平成万年失業者じゃによって今月も仕事にあぶれているものだから、BSで放送されていた「男たちの挽歌」という香港映画を3本も見てしまった。
チョウ・ユンファを一躍スターダムに押し上げたホンコン製フィルム・ノワールだそうだが、あらすじもシナリオも演出もあらばこそ、善玉悪玉、素人ギャング警察男女が近親組織国籍入り乱れて弾丸銃弾手榴弾戦車まで登場して弾丸火の球血しぶき雨あられ、やたら人を殺すので辟易しました。
第1作ではやくもかっこいいチョウ・ユンファが殺されてしまうので、2作目では急遽彼そっくりの兄弟がニューヨークから香港に帰還して大活躍するいいかげんさには驚いたが、ベトナム戦争最後の日を舞台にした3作目には、ヒロインの元恋人役の組織のカンボジア人のボス役に時任三郎が登場して中国語をしゃべるのでまたまた驚く。
実は片親が日本人だとあとで種明かしがあるが、中国復帰前の香港を舞台に動乱のアジアのあらぶれた雰囲気を随所にまき散らしたのが歴史的なお手柄だろうか。
欧米そして日本など先進国の映画が精力を喪失していちはやくげいじゅつ的反抗の狼煙を上げたのがこの香港、そして台湾、中国西安、グルジアなどだったが、あれから数十年、世界映画の根拠地は最終的に消滅し、全世界が終焉化じゃなくて周縁化されたような気がする。いやさ、映画はとっくの昔に終わっていたのかも知れないと、この暗澹たる映画の底なしの闇、退嬰と滅亡の断末魔を垣間見ながらひそかに思ったことであった。
♪ピチャピチャと真夜中に水など飲んでいた我が家のムクを思い出すかな 茫洋
平成万年失業者じゃによって今月も仕事にあぶれているものだから、BSで放送されていた「男たちの挽歌」という香港映画を3本も見てしまった。
チョウ・ユンファを一躍スターダムに押し上げたホンコン製フィルム・ノワールだそうだが、あらすじもシナリオも演出もあらばこそ、善玉悪玉、素人ギャング警察男女が近親組織国籍入り乱れて弾丸銃弾手榴弾戦車まで登場して弾丸火の球血しぶき雨あられ、やたら人を殺すので辟易しました。
第1作ではやくもかっこいいチョウ・ユンファが殺されてしまうので、2作目では急遽彼そっくりの兄弟がニューヨークから香港に帰還して大活躍するいいかげんさには驚いたが、ベトナム戦争最後の日を舞台にした3作目には、ヒロインの元恋人役の組織のカンボジア人のボス役に時任三郎が登場して中国語をしゃべるのでまたまた驚く。
実は片親が日本人だとあとで種明かしがあるが、中国復帰前の香港を舞台に動乱のアジアのあらぶれた雰囲気を随所にまき散らしたのが歴史的なお手柄だろうか。
欧米そして日本など先進国の映画が精力を喪失していちはやくげいじゅつ的反抗の狼煙を上げたのがこの香港、そして台湾、中国西安、グルジアなどだったが、あれから数十年、世界映画の根拠地は最終的に消滅し、全世界が終焉化じゃなくて周縁化されたような気がする。いやさ、映画はとっくの昔に終わっていたのかも知れないと、この暗澹たる映画の底なしの闇、退嬰と滅亡の断末魔を垣間見ながらひそかに思ったことであった。
♪ピチャピチャと真夜中に水など飲んでいた我が家のムクを思い出すかな 茫洋
Saturday, October 04, 2008
山田洋次の「学校」を見る
照る日曇る日第167回
93年の第1作は東京の夜間中学に通う国籍、年齢、性別もさまざまな生徒と熱血教師(西田敏行、竹下景子)が繰り広げる教育愛の物語。田中邦衛演じるイノさんの話が中心だが、中国からやってきた若者の就職口に悩む竹下の演技や突然出てくる渥美清、不良の裕木奈江、不登校の中江有里など多彩なキャスティングが楽しい。山田洋次は「真の教育」は夜間中学にあると知っていた。
96年の第2作は、北海道の高等養護学校を舞台に、西田敏行、いしだあゆみ、永瀬正敏の3教師が活躍。永瀬を泣かせ、教室中をパニックに陥れていた障碍の重い生徒を、それに比較すると重くはない生徒(吉岡秀隆)が一喝してまるで魔法のようにおとなしくさせるシーンは、全教師の夢のまた夢だろう。吉岡が、「自分が馬鹿であることを知っている僕は、それを知らずに済んでいるより重度な弟分より不幸だ」と泣くシーンに心打たれる。また3年間の課程を終えて卒業し、荒い世間に乗り出す生徒たちに「ずっとこの学校においてやりたい」と泣く西田にも。
重いテーマだが、アムロのコンサートと、北の大地の雄大な自然を背景にした熱気球をドラマ転換にうまく使った。山田は才人である。
98年の第3作は、東京江東区の職業訓練学校が舞台。自閉症の息子を持つシングルマザー大竹しのぶが見事な演技を見せる。黒田勇機の自閉症児も上手に演じているが、できれば我が家の本物を起用してほしかった。(冗談、冗談)。それにしても山田はこの難しい障碍についてよく勉強しているのには驚いた。ボイラー士をめざすリストラされたリーマン小林捻侍が好演。ラストも情感がこもる。
2000年に製作された第4作は15歳の不登校児のビルドングスロマンにして長大なロードムービー。主演の金井勇太が長距離ドラーバーの赤井英和、麻実れい、シベリア帰りの不良老人丹波哲郎に巡り合いながら世間と己にめざめていくプロセスを感動的に描く。よくは知らないが、この作品は松竹大船撮影所と丹波の遺作ではないだろうか。
あんな歴史のある撮影所を京浜女子大などにたたき売って、その代わりに別の場所にまた撮影所を作って、当時の松竹はいったい何を考えていたんだろう。
シリーズといっても現在までに4本しかないが、普通のシリーズものと違ってだんだん内容が良くなってきているのが山田洋次のすごいところ。この人と井上ひさしは代々木の頭で脚本を書いても、手と足(撮影と演出現場)がそこから大いに逸脱して噴出するところが素晴らしい。芸術がその本性を発揮してかたくななイデオロギーを乗り越えるのである。
♪幸せはわが枕辺に妻子居て安けき寝息を耳にするとき 茫洋
93年の第1作は東京の夜間中学に通う国籍、年齢、性別もさまざまな生徒と熱血教師(西田敏行、竹下景子)が繰り広げる教育愛の物語。田中邦衛演じるイノさんの話が中心だが、中国からやってきた若者の就職口に悩む竹下の演技や突然出てくる渥美清、不良の裕木奈江、不登校の中江有里など多彩なキャスティングが楽しい。山田洋次は「真の教育」は夜間中学にあると知っていた。
96年の第2作は、北海道の高等養護学校を舞台に、西田敏行、いしだあゆみ、永瀬正敏の3教師が活躍。永瀬を泣かせ、教室中をパニックに陥れていた障碍の重い生徒を、それに比較すると重くはない生徒(吉岡秀隆)が一喝してまるで魔法のようにおとなしくさせるシーンは、全教師の夢のまた夢だろう。吉岡が、「自分が馬鹿であることを知っている僕は、それを知らずに済んでいるより重度な弟分より不幸だ」と泣くシーンに心打たれる。また3年間の課程を終えて卒業し、荒い世間に乗り出す生徒たちに「ずっとこの学校においてやりたい」と泣く西田にも。
重いテーマだが、アムロのコンサートと、北の大地の雄大な自然を背景にした熱気球をドラマ転換にうまく使った。山田は才人である。
98年の第3作は、東京江東区の職業訓練学校が舞台。自閉症の息子を持つシングルマザー大竹しのぶが見事な演技を見せる。黒田勇機の自閉症児も上手に演じているが、できれば我が家の本物を起用してほしかった。(冗談、冗談)。それにしても山田はこの難しい障碍についてよく勉強しているのには驚いた。ボイラー士をめざすリストラされたリーマン小林捻侍が好演。ラストも情感がこもる。
2000年に製作された第4作は15歳の不登校児のビルドングスロマンにして長大なロードムービー。主演の金井勇太が長距離ドラーバーの赤井英和、麻実れい、シベリア帰りの不良老人丹波哲郎に巡り合いながら世間と己にめざめていくプロセスを感動的に描く。よくは知らないが、この作品は松竹大船撮影所と丹波の遺作ではないだろうか。
あんな歴史のある撮影所を京浜女子大などにたたき売って、その代わりに別の場所にまた撮影所を作って、当時の松竹はいったい何を考えていたんだろう。
シリーズといっても現在までに4本しかないが、普通のシリーズものと違ってだんだん内容が良くなってきているのが山田洋次のすごいところ。この人と井上ひさしは代々木の頭で脚本を書いても、手と足(撮影と演出現場)がそこから大いに逸脱して噴出するところが素晴らしい。芸術がその本性を発揮してかたくななイデオロギーを乗り越えるのである。
♪幸せはわが枕辺に妻子居て安けき寝息を耳にするとき 茫洋
Friday, October 03, 2008
ムーティ指揮ヴェルディ「仮面舞踏会」を観る
♪音楽千夜一夜第44回
2001年5月にミラノ・スカラ座で行われた公演。伯爵のリチートラと女占い師が立派に歌っている。クレギナのアメリアは最初は不調だが、徐々に乗ってくる。
演出は上流映画監督のリリアナ・カヴァーナだが特にどうということはない。強いて言えば3幕の墓場の装置がシンプルで良いのと、2場の舞踏会の群衆シーンの処理くらいか。ポネルやゼフィレッリに比べるとなんと凡庸な演出であるかと思うが、最近のあほバカ演出家どもと違って英国から独立して間がない米国という歴史的現実を踏まえた舞台なので安心して見ていられる。
ムーティの指揮は例によって立派だが、いささか退屈である。
最後に昨今のクラシック界についてひとこと。
のだめだかくそだめだか知らないが、猫も杓子もクラシックにまたたびのように寄り付いてうっとりするのはいい加減にやめてほしい。昔は非国民しかこの種の音楽を聴かなかったものだ。モーツアルトの音楽であなたの息子の頭が突然良くなったり、ねむの木の葉っぱがぐっすり眠ったりするわけがないのだ。それからモーツアルトを歯医者やデパートでBGMで気安く流すな。あれは癒しどころか死霊の音楽である。うかつに耳にすると祟られて霊魂を彼岸に持っていかれるぞよ。
それから中欧の聞いたこともない寄せ集めオペラや世にも怪しい管弦楽集団の来日金稼ぎ公演にいくら金持ちだからというてみだりに大枚をはたくな。この外国かぶれの耳なし芳一め。そんなに朝青龍を見たいか。もっと価値のある国内公演がどっさりあるぞ。特に各地のアマチュアオケの演奏は腐敗堕落したNHK皇居楽団の何層倍も心を撃つぞ。ニャロメ。
帝国と己を癒着させ強き日本を呼号する人 茫洋
2001年5月にミラノ・スカラ座で行われた公演。伯爵のリチートラと女占い師が立派に歌っている。クレギナのアメリアは最初は不調だが、徐々に乗ってくる。
演出は上流映画監督のリリアナ・カヴァーナだが特にどうということはない。強いて言えば3幕の墓場の装置がシンプルで良いのと、2場の舞踏会の群衆シーンの処理くらいか。ポネルやゼフィレッリに比べるとなんと凡庸な演出であるかと思うが、最近のあほバカ演出家どもと違って英国から独立して間がない米国という歴史的現実を踏まえた舞台なので安心して見ていられる。
ムーティの指揮は例によって立派だが、いささか退屈である。
最後に昨今のクラシック界についてひとこと。
のだめだかくそだめだか知らないが、猫も杓子もクラシックにまたたびのように寄り付いてうっとりするのはいい加減にやめてほしい。昔は非国民しかこの種の音楽を聴かなかったものだ。モーツアルトの音楽であなたの息子の頭が突然良くなったり、ねむの木の葉っぱがぐっすり眠ったりするわけがないのだ。それからモーツアルトを歯医者やデパートでBGMで気安く流すな。あれは癒しどころか死霊の音楽である。うかつに耳にすると祟られて霊魂を彼岸に持っていかれるぞよ。
それから中欧の聞いたこともない寄せ集めオペラや世にも怪しい管弦楽集団の来日金稼ぎ公演にいくら金持ちだからというてみだりに大枚をはたくな。この外国かぶれの耳なし芳一め。そんなに朝青龍を見たいか。もっと価値のある国内公演がどっさりあるぞ。特に各地のアマチュアオケの演奏は腐敗堕落したNHK皇居楽団の何層倍も心を撃つぞ。ニャロメ。
帝国と己を癒着させ強き日本を呼号する人 茫洋
Thursday, October 02, 2008
ダニエル・ハーディング指揮「イドメネオ」を見る
♪音楽千夜一夜第43回
05年12月5日、ミラノ・スカラ座におけるモーツアルトのオペラ「イドメネオ」の公演記録である。指揮はこれもたまたまダニエル・ハーディング。古楽の奏法を要所要所で世界一のオーケストラに強いて、いわゆるひとつの現代風の演奏に仕立てているが、かつて老ベームがライプチッヒ・シュターツカペレとウイーンと入れた同曲のLPの演奏に比べれば大人と子供、月とスッポンというも愚かなりである。
私はオペラの演出はもとより、最近の指揮も演奏も退化の一途を辿っているとしか思えない。もっともトルコの恐るべきピアニスト、ファジル・サイなどが突如出現して腐れ耳の年寄衆を驚倒させる事件もときおり起こるから、端倪すべからざる再現芸術界とはいえばいえそうだが。
さて「イドメネオ」だが、曲は後年のダポンテ3部作に比べるともちろん見劣りするが、いずれのアリアも合唱もさすがモーツアルトならではの劇性と抒情に充ち溢れ、われらの耳目を釘づけにする。
面白いのは、表題役イドメネオの息子イダマンテに恋するヒロイン、イリアが歌う「手紙の歌」。趣向と曲想が「フィガロ」の伯爵夫人とスザンナの有名な手紙のシーンを先取りしているようだ。
歌手はまずまずの出来だが、ゆいいつ良いのは敵役エレクトラを歌ったエンマ・ベル嬢か。リュック・ボンディの演出は凡庸そのもの。もすこし真面目に仕事をせよ。結局さすがと思わされたのはスカラ座の管弦楽と合唱のみだった。
♪強き日本!明るき日本!と獅子吠せり国権病に罹りし男 茫洋
05年12月5日、ミラノ・スカラ座におけるモーツアルトのオペラ「イドメネオ」の公演記録である。指揮はこれもたまたまダニエル・ハーディング。古楽の奏法を要所要所で世界一のオーケストラに強いて、いわゆるひとつの現代風の演奏に仕立てているが、かつて老ベームがライプチッヒ・シュターツカペレとウイーンと入れた同曲のLPの演奏に比べれば大人と子供、月とスッポンというも愚かなりである。
私はオペラの演出はもとより、最近の指揮も演奏も退化の一途を辿っているとしか思えない。もっともトルコの恐るべきピアニスト、ファジル・サイなどが突如出現して腐れ耳の年寄衆を驚倒させる事件もときおり起こるから、端倪すべからざる再現芸術界とはいえばいえそうだが。
さて「イドメネオ」だが、曲は後年のダポンテ3部作に比べるともちろん見劣りするが、いずれのアリアも合唱もさすがモーツアルトならではの劇性と抒情に充ち溢れ、われらの耳目を釘づけにする。
面白いのは、表題役イドメネオの息子イダマンテに恋するヒロイン、イリアが歌う「手紙の歌」。趣向と曲想が「フィガロ」の伯爵夫人とスザンナの有名な手紙のシーンを先取りしているようだ。
歌手はまずまずの出来だが、ゆいいつ良いのは敵役エレクトラを歌ったエンマ・ベル嬢か。リュック・ボンディの演出は凡庸そのもの。もすこし真面目に仕事をせよ。結局さすがと思わされたのはスカラ座の管弦楽と合唱のみだった。
♪強き日本!明るき日本!と獅子吠せり国権病に罹りし男 茫洋
Wednesday, October 01, 2008
ダニエル・ハーディング指揮「ドン・ジョバンニ」を見る
♪音楽千夜一夜第42回
2002年のモーツアルト・イヤーに南仏エクサン・プロバンスの大司教館の中庭で行われたライブ公演である。
若き俊才ダニエル・ハーディングが古楽演奏のマーラー室内管弦楽団を勢いこんで振るのだが、ティンパニーの強打も夏の夜空に吸い込まれ、音も演奏も歌唱もすべてが散漫で薄っぺらに聞こえてしまう。こんなライブをよくも収録したものだ。
しかしさすがに見るべきはピーター・ブルックの演出で、シンプルな装置と色鮮やかな照明とシックな衣装を駆使して、あざやかに舞台を転換し、まるで現代演劇のように軽快に登場人物を操ってみせるが、地獄落ちの迫力は皆無である。
最後の六重唱を地獄に落ちたはずのドン・ジョバンニと、落としたはずの騎士の石像が脇に並んで聞いているというのは、いったいどういう意味なのだろう?
歌手は中堅どころの実力派だが、いずれも可もなく不可もないまずまずの出来栄え。ということは、この名作の演奏史に付け加えるべきなにものもないということだ。ああ、往年の大指揮者の音楽と大歌手の歌声がげに懐かしい。
米帝の手前勝手な金融危機ただ一言も世界人民に謝罪せず 茫洋
2002年のモーツアルト・イヤーに南仏エクサン・プロバンスの大司教館の中庭で行われたライブ公演である。
若き俊才ダニエル・ハーディングが古楽演奏のマーラー室内管弦楽団を勢いこんで振るのだが、ティンパニーの強打も夏の夜空に吸い込まれ、音も演奏も歌唱もすべてが散漫で薄っぺらに聞こえてしまう。こんなライブをよくも収録したものだ。
しかしさすがに見るべきはピーター・ブルックの演出で、シンプルな装置と色鮮やかな照明とシックな衣装を駆使して、あざやかに舞台を転換し、まるで現代演劇のように軽快に登場人物を操ってみせるが、地獄落ちの迫力は皆無である。
最後の六重唱を地獄に落ちたはずのドン・ジョバンニと、落としたはずの騎士の石像が脇に並んで聞いているというのは、いったいどういう意味なのだろう?
歌手は中堅どころの実力派だが、いずれも可もなく不可もないまずまずの出来栄え。ということは、この名作の演奏史に付け加えるべきなにものもないということだ。ああ、往年の大指揮者の音楽と大歌手の歌声がげに懐かしい。
米帝の手前勝手な金融危機ただ一言も世界人民に謝罪せず 茫洋
Tuesday, September 30, 2008
若林宣編「戦う広告」を読んで
照る日曇る日第166回
大東亜戦争当時の日本は、国も国民も異常だったが、広告も異常だった。
「撃ちてし止まん」、だの「欲しがりません勝つまでは」、だの「七生報国」などという大政翼賛会のおかかえコピーライターが書いた見事な?檄文に産業界は一斉に飛びついた。
「億兆一心非常時突」「堅忍持久は最後の勝利だ」「土守る心が護る瑞穂国」(いずれも朝日新聞)、「健康翼賛」(わかもと本舗)、「鉛筆も兵器だ」「着剣した鉛筆」(トンボ鉛筆)、「スパイのご用心」(三菱鉛筆)、「机上挺身隊」(地球鉛筆)、「進め一億火の玉だ」(東芝)、「進め進め突撃だ、驕鬼米英撃滅の日まで」(塩野義製薬)、「一億挺身、報復増産」(住友化学工業)、「送れ飛行機、貯め抜け戦費」(住友銀行)、「みたみわれ大君にすべてを捧げささげたてまつらん」(三和銀行)みたみわれ力のかぎり働く抜かん(日本紅茶)、「皇国再起」(三和銀行)「国民総特攻」(住友通信工業)
などという現在も名前こそ一部変わってもしぶとく存続している大企業の戦争中の広告を眺めていると、つねに「新体制」に追随して権力と大衆に媚びるこの隠微な接客業の下卑た奴隷根性が、なまじ私自身にも見おぼえがあるだけに、見る者の心胆をそぞろ寒からしめるのである。
そして時と所、対象敵こそ異なるものの、今日も広告代理店や制作会社の片隅で、「屠れ米英我らの敵だ」、「感謝貯蓄は投資報国で」、「見敵必殺この戦果」、「富国徴兵堅忍持久」、「諸君の友達を射殺したアメリカの飛行機をたたき落とすために」などと同工異曲の大衆俗耳詩歌を作詞作曲する数多くの広告戦士たちが、60年前とまったく同一の精神構造とリテラシー機能を駆使して華やかに活躍している。
一言にして尽くせば、恐るべき破壊兵器が、純粋無垢な中立的科学者の脳髄から生まれてきたように、戦争と平和のイデオロギーは、まったく無思想な純粋言語技術専門家のお筆先きから今も昔も誕生するのである。
道端に斃れし獣一匹さも余の死骸に似たり 茫洋
Monday, September 29, 2008
西暦2008年茫洋長月歌日記
♪ある晴れた日に その40
逝く夏やあまたの栗を拾いけり
紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ
名月や五人揃いし美人かな
道端に魚の尻尾が落ちていた
水に漬け叩きつけたるわがパソコン
おんどりゃ誰じゃあ正体明かせ
オラオラ、オンドリャガアア~
片脚を置いてどこかへ消えた人
一ヵ月発注がない怖さかな
彼岸花刈られず残りし力かな
月下美人誰一人見ず散りにけり
紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ
この場所で死んだ人を覚えている
暮れなずむ夕陽か
はたまた朝焼けか
わが心なる行き合いの空
生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む
輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた
道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った
卒中の後遺癒えざるも
理髪師は
巧みにわれを切りたり
紺碧の翡翠
故地を
魔境に変える
佐渡の空
発信カードつけて飛び立ちぬ
100%中国産のニッポニア・ニッポン
ご丁寧に発信筒をつけられて
佐渡の空に放たれしは
中国産ニッポニア・ニッポン
結局は
他人がやっていることには興味がない
ということになるんだな
ドミンゴもフレーニもゼフィレッリもみな若かった
クラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜
スカラ座の罵倒にめげず
オテロ振る
カルロス・クライバーの雄々しき姿
われのみが
段ボールを捨てるらし
雨音しげき火曜日の朝
この場所で
確かに人は死んだのだ
世界は死に塗れている
誰もが知っている
小さなことを
ひそやかに語りたい
逝く夏やあまたの栗を拾いけり
紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ
名月や五人揃いし美人かな
道端に魚の尻尾が落ちていた
水に漬け叩きつけたるわがパソコン
おんどりゃ誰じゃあ正体明かせ
オラオラ、オンドリャガアア~
片脚を置いてどこかへ消えた人
一ヵ月発注がない怖さかな
彼岸花刈られず残りし力かな
月下美人誰一人見ず散りにけり
紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ
この場所で死んだ人を覚えている
暮れなずむ夕陽か
はたまた朝焼けか
わが心なる行き合いの空
生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む
輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた
道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った
卒中の後遺癒えざるも
理髪師は
巧みにわれを切りたり
紺碧の翡翠
故地を
魔境に変える
佐渡の空
発信カードつけて飛び立ちぬ
100%中国産のニッポニア・ニッポン
ご丁寧に発信筒をつけられて
佐渡の空に放たれしは
中国産ニッポニア・ニッポン
結局は
他人がやっていることには興味がない
ということになるんだな
ドミンゴもフレーニもゼフィレッリもみな若かった
クラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜
スカラ座の罵倒にめげず
オテロ振る
カルロス・クライバーの雄々しき姿
われのみが
段ボールを捨てるらし
雨音しげき火曜日の朝
この場所で
確かに人は死んだのだ
世界は死に塗れている
誰もが知っている
小さなことを
ひそやかに語りたい
「「満洲国」とは何だったのか」を読んで
照る日曇る日第165回
いわゆる満州国について私たちの父祖たちが行った行為について、私たちはあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか。
おりから珍しくも日本と中国の歴史家たちが共同で「満州国」について研究した成果を集大成した本書が刊行されたのは意義深いことだった。
日本から見ても中国から見ても、政治経済生活文化面から見ても、民族自決の観点から眺めても、日本帝国主義の軍事的侵略と植民統治の奇怪なアマルガムであるこの偽国家の威勢の良いでっち上げとその最後の土壇場の目も当てられない無様な崩壊は、日本人の本性をあますところなく全世界に見せつけるむごたらしくも口悔しい事例となった。
そしてその源流を垣間見るためには、「韓満ところどころ」で無邪気に一等国の優越感に浸って二等国民を見下していた漱石子規の時代、いな本当は日清日露以前の征韓論の時代までさかのぼらなければならないが、だがしかし、もしも一九三一年九月一八日の柳条湖事件なかりせばと思ってみるのも阿呆なことか。
とにもかくにも、頼まれもしないのに自分の勝手な都合だけでよその国に武装して乗り込んでいって、気に入らないやつを皆殺しにしたり、自分で鉄道を爆破しておいてそれを他人のせいにして罪をなすりつけたり、反対する者を投獄したり、拷問したり、「丸太」と称して生きたままでマウス代わりに細菌実験の検体にしたり、土地や財産を取り上げたり、異国の太陽神や王を拝ませたり、生産物や収穫の大半を取り上げて異国に送らせたり、それらの行為をけっして悪事とは認識せず、八紘一宇だの王道楽土だの五族協和のために行った素晴らしく善いことだ、もしもどこか悪い点があったとすれば、それはその悪事を余儀なくしたもっと悪い奴らのせいだと世界に向かって公言した。
侵略と植民地支配の被害の実体的質量は、加害者から見ても被害者から見ても共通して等価であるはずだが、その認識は、加害者には霞のようにおぼろで、時と共にすみやかに忘れ去られ、対して被害者側には子子孫孫にまで痛々しく伝承される。
私はこの本で今まで知らなかった多くの事実を知らされて、日本人の普段は柔和な心性の深奥部には秘められた爬虫類の暗黒領域が根強く横たわり、そこには武と暴への陶酔が現在もなおめらめらと隠微な炎を消さずにいるのではないだろうか?という疑いを懐いた。あるいはそれは万国に共通するフロイドが説いた「エス」に起因するのかもしれないが。
満州には自分で望まずに渡った人やかの地で生まれた人も数多くいたが、志願して渡満した人もいた。漱石の「それから」に登場する平岡は、三部作の最後の「門」では安井と名前を変えるが、彼は日本ではうまく行かず、満州へ行って一旗揚げようとたくらむ。
帝大を出たインテリの安井には満州が日本の正当な領土であるという確信などあるわけがない。しかし、うさんくさい新天地ではあるが、もしかするとそこは己の胡散臭さにふさわしい新世界かもしれない。すでに先が見えたこの本国にはないものが満州にはあるかもしれない。その海のものとも山のものともつかない新天地で新しい自己実現を果たそうと見果てぬ夢を見るのであるが、まさにそのときこそ一個人が自覚的に侵略に乗り出した瞬間ではなかっただろうか。
のちになって日本帝国は余剰国民男女を国策で強制的に満州へ移民させるが、当時の日本には左翼崩れをはじめそういう了見の人物がごまんといたのである。
♪一ヵ月発注がない怖さかな 茫洋
いわゆる満州国について私たちの父祖たちが行った行為について、私たちはあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか。
おりから珍しくも日本と中国の歴史家たちが共同で「満州国」について研究した成果を集大成した本書が刊行されたのは意義深いことだった。
日本から見ても中国から見ても、政治経済生活文化面から見ても、民族自決の観点から眺めても、日本帝国主義の軍事的侵略と植民統治の奇怪なアマルガムであるこの偽国家の威勢の良いでっち上げとその最後の土壇場の目も当てられない無様な崩壊は、日本人の本性をあますところなく全世界に見せつけるむごたらしくも口悔しい事例となった。
そしてその源流を垣間見るためには、「韓満ところどころ」で無邪気に一等国の優越感に浸って二等国民を見下していた漱石子規の時代、いな本当は日清日露以前の征韓論の時代までさかのぼらなければならないが、だがしかし、もしも一九三一年九月一八日の柳条湖事件なかりせばと思ってみるのも阿呆なことか。
とにもかくにも、頼まれもしないのに自分の勝手な都合だけでよその国に武装して乗り込んでいって、気に入らないやつを皆殺しにしたり、自分で鉄道を爆破しておいてそれを他人のせいにして罪をなすりつけたり、反対する者を投獄したり、拷問したり、「丸太」と称して生きたままでマウス代わりに細菌実験の検体にしたり、土地や財産を取り上げたり、異国の太陽神や王を拝ませたり、生産物や収穫の大半を取り上げて異国に送らせたり、それらの行為をけっして悪事とは認識せず、八紘一宇だの王道楽土だの五族協和のために行った素晴らしく善いことだ、もしもどこか悪い点があったとすれば、それはその悪事を余儀なくしたもっと悪い奴らのせいだと世界に向かって公言した。
侵略と植民地支配の被害の実体的質量は、加害者から見ても被害者から見ても共通して等価であるはずだが、その認識は、加害者には霞のようにおぼろで、時と共にすみやかに忘れ去られ、対して被害者側には子子孫孫にまで痛々しく伝承される。
私はこの本で今まで知らなかった多くの事実を知らされて、日本人の普段は柔和な心性の深奥部には秘められた爬虫類の暗黒領域が根強く横たわり、そこには武と暴への陶酔が現在もなおめらめらと隠微な炎を消さずにいるのではないだろうか?という疑いを懐いた。あるいはそれは万国に共通するフロイドが説いた「エス」に起因するのかもしれないが。
満州には自分で望まずに渡った人やかの地で生まれた人も数多くいたが、志願して渡満した人もいた。漱石の「それから」に登場する平岡は、三部作の最後の「門」では安井と名前を変えるが、彼は日本ではうまく行かず、満州へ行って一旗揚げようとたくらむ。
帝大を出たインテリの安井には満州が日本の正当な領土であるという確信などあるわけがない。しかし、うさんくさい新天地ではあるが、もしかするとそこは己の胡散臭さにふさわしい新世界かもしれない。すでに先が見えたこの本国にはないものが満州にはあるかもしれない。その海のものとも山のものともつかない新天地で新しい自己実現を果たそうと見果てぬ夢を見るのであるが、まさにそのときこそ一個人が自覚的に侵略に乗り出した瞬間ではなかっただろうか。
のちになって日本帝国は余剰国民男女を国策で強制的に満州へ移民させるが、当時の日本には左翼崩れをはじめそういう了見の人物がごまんといたのである。
♪一ヵ月発注がない怖さかな 茫洋
Saturday, September 27, 2008
残雪の「暗夜」を読んで
照る日曇る日第164回
そういえば私も時々夢を見る。いつものように見る夢だ。会社でリーマンをやっていたときの話だ。
わが親しきリーマン・ブラザーズが続々と登場して、中間管理職の私に対してある種の決断を迫るのだ。
会社はバベルの塔のような高い高い塔の上に聳えていて、いつも雲や霧で覆われている。
塔の下は荒涼たる海原だ。世界の中心からきびしく隔離されているので訪れる人もまばらだ。私たちリーマンは外来者に期待せず、またわずらわされることもなく、ここ数カ月来のテーマである、「父母未生以前の真面目とは何か」に真摯に取り組んでいた。
部下Aが「それは天然の旅情というものではないでしょうか」というので、私は少し考えてみたのだが、どうもその答えは問いに対して正しく答えているとは思えない。しかしその答えのどの点が正しくないのかさっぱりわからなかったので、仕方なく、「天然の旅情から父母未生以前の真面目が誕生しないとは言えないけれど、この問いが期待している答えとは、そのような情緒的なものではないでしょう。もそっと実証的なもの、もそっと科学的なものではないだろうか」と答えた。すると部下Bが、「では課長、そのもそっと実証的なもの、もそっと科学的なものとはいったいどういうものなのですか」と迫ってきた。
困った私が思い余って波が立ち風が荒れ狂う眼下の海を眺めやると、おりよく巨大な一羽の鳳がやってきた。
鳳はその優美な形態に似合わない不気味な声でひとこえ鳴いたが、その鳴き声がなにを意味するのかは私にはさっぱりわからなかった。部下Aにも理解できないようだ。
そこで部下Bが鳳に「Never more?」と大声で尋ねると、鳳は目玉をぎょろりと半回転させて、しかし何も答えず、胸壁で見張りに立つ私たちリーマンの帽子を灰色のくちばしで順番にたたき落してから、小雪が舞い落ちる暗黒の空高く舞い上がったのであった。
♪彼岸花刈られず残りし力かな 茫洋
そういえば私も時々夢を見る。いつものように見る夢だ。会社でリーマンをやっていたときの話だ。
わが親しきリーマン・ブラザーズが続々と登場して、中間管理職の私に対してある種の決断を迫るのだ。
会社はバベルの塔のような高い高い塔の上に聳えていて、いつも雲や霧で覆われている。
塔の下は荒涼たる海原だ。世界の中心からきびしく隔離されているので訪れる人もまばらだ。私たちリーマンは外来者に期待せず、またわずらわされることもなく、ここ数カ月来のテーマである、「父母未生以前の真面目とは何か」に真摯に取り組んでいた。
部下Aが「それは天然の旅情というものではないでしょうか」というので、私は少し考えてみたのだが、どうもその答えは問いに対して正しく答えているとは思えない。しかしその答えのどの点が正しくないのかさっぱりわからなかったので、仕方なく、「天然の旅情から父母未生以前の真面目が誕生しないとは言えないけれど、この問いが期待している答えとは、そのような情緒的なものではないでしょう。もそっと実証的なもの、もそっと科学的なものではないだろうか」と答えた。すると部下Bが、「では課長、そのもそっと実証的なもの、もそっと科学的なものとはいったいどういうものなのですか」と迫ってきた。
困った私が思い余って波が立ち風が荒れ狂う眼下の海を眺めやると、おりよく巨大な一羽の鳳がやってきた。
鳳はその優美な形態に似合わない不気味な声でひとこえ鳴いたが、その鳴き声がなにを意味するのかは私にはさっぱりわからなかった。部下Aにも理解できないようだ。
そこで部下Bが鳳に「Never more?」と大声で尋ねると、鳳は目玉をぎょろりと半回転させて、しかし何も答えず、胸壁で見張りに立つ私たちリーマンの帽子を灰色のくちばしで順番にたたき落してから、小雪が舞い落ちる暗黒の空高く舞い上がったのであった。
♪彼岸花刈られず残りし力かな 茫洋
Friday, September 26, 2008
続 ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読んで
照る日曇る日第163回
秀吉、家康を経て我が国は鎖国に突入したというこれまでの学説を全面的に否定したのがロナルド・トビさんの本書である。幕府は一方ではキリスト教を禁じ、日本人の海外渡航と帰国の制限、ポルトガルの追放を行ないつつも長崎、対馬、薩摩、松前の「4つの口」を絶えず開放して琉球、朝鮮、中国、ロシア、オランダなどの異世界との交易と情報交流を継続しながら幕末に至ったと説く。それはそうかもしれないが鎖国体制が存在しなかったとまでは強弁できないのではないだろうか。
それはさておき、この本の面白さは朝鮮通信使など絵画に描かれた異国人の解説である。異国人をどのように描くかは、日本人がどのように異国人を認識しているかということでもある。南蛮人と出会う前の日本人にとって世界は、「本邦」と「唐」、「天竺」の3つの世界しかなかった。「三国人」から多国籍「万国人」への視点の広がりに対応して、我が国の画家たちはそれまで類型的であった「毛唐人」の顔や体形や衣服や装束を琉球人と朝鮮人と中国人の実態に合わせて写実的に描き分ける様になるが、それは正確な国境の測量と地図の完成に比例している。
著者が次々に取り出してくる絵画や地図が興味深いのは、そこに当時の日本人たちの世界観と彼らの自己同一性の位相がはしなくも表現されているからである。
江戸時代の初期まで我が国の成人男子はひげを蓄えるのがマッチョとされて一般的だったが、幕府が安定してくると後水尾天皇の頃からはそりおとすようになる。黒澤明の「七人の侍」では不精な有髭だった武士たちが、ゴリゴリの法治国家となった近世では無髭を強制され、「月代・髷・ひげなし」の三点セットが日本の「国風」をあらわす身体的な特徴になった。とトビさんは説くが、なにあと二〇年もすればこの国も、もっとゴリゴリの超国家主義体制が一世風靡して、新しいメンズファシズム三点セットが汝忠良なる臣民に強要されるようになるだろう。
それはともかく、第三章「東アジア経済圏のなかの日本」、第五章の「朝鮮通信使行列を読む」や第六章「富士山と異国人の対話」などは通史の枠をはみ出して生き生きと叙述され、これは小学館版「日本の歴史」の白眉と言うてもあながち愚かではないだらう。
♪ご丁寧に発信筒をつけられて佐渡の空に放たれしは中国産ニッポニア・ニッポン 茫洋
秀吉、家康を経て我が国は鎖国に突入したというこれまでの学説を全面的に否定したのがロナルド・トビさんの本書である。幕府は一方ではキリスト教を禁じ、日本人の海外渡航と帰国の制限、ポルトガルの追放を行ないつつも長崎、対馬、薩摩、松前の「4つの口」を絶えず開放して琉球、朝鮮、中国、ロシア、オランダなどの異世界との交易と情報交流を継続しながら幕末に至ったと説く。それはそうかもしれないが鎖国体制が存在しなかったとまでは強弁できないのではないだろうか。
それはさておき、この本の面白さは朝鮮通信使など絵画に描かれた異国人の解説である。異国人をどのように描くかは、日本人がどのように異国人を認識しているかということでもある。南蛮人と出会う前の日本人にとって世界は、「本邦」と「唐」、「天竺」の3つの世界しかなかった。「三国人」から多国籍「万国人」への視点の広がりに対応して、我が国の画家たちはそれまで類型的であった「毛唐人」の顔や体形や衣服や装束を琉球人と朝鮮人と中国人の実態に合わせて写実的に描き分ける様になるが、それは正確な国境の測量と地図の完成に比例している。
著者が次々に取り出してくる絵画や地図が興味深いのは、そこに当時の日本人たちの世界観と彼らの自己同一性の位相がはしなくも表現されているからである。
江戸時代の初期まで我が国の成人男子はひげを蓄えるのがマッチョとされて一般的だったが、幕府が安定してくると後水尾天皇の頃からはそりおとすようになる。黒澤明の「七人の侍」では不精な有髭だった武士たちが、ゴリゴリの法治国家となった近世では無髭を強制され、「月代・髷・ひげなし」の三点セットが日本の「国風」をあらわす身体的な特徴になった。とトビさんは説くが、なにあと二〇年もすればこの国も、もっとゴリゴリの超国家主義体制が一世風靡して、新しいメンズファシズム三点セットが汝忠良なる臣民に強要されるようになるだろう。
それはともかく、第三章「東アジア経済圏のなかの日本」、第五章の「朝鮮通信使行列を読む」や第六章「富士山と異国人の対話」などは通史の枠をはみ出して生き生きと叙述され、これは小学館版「日本の歴史」の白眉と言うてもあながち愚かではないだらう。
♪ご丁寧に発信筒をつけられて佐渡の空に放たれしは中国産ニッポニア・ニッポン 茫洋
Thursday, September 25, 2008
ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読む
照る日曇る日第162回
663年の天智天皇の「白村江の戦」は同盟国の救援という大義名分があったとしても、豊臣秀吉による文禄・慶長の役は明々白々な海外侵略であった。
この狂気の戦によって日本軍は多数の敵兵を殺しただけでなく老若男女の民間人を貴賤の別なく殺戮し、その耳や鼻を大量に切り取り、塩漬けにして秀吉のもとに搬送したのみならず、島津、藤堂、伊達、毛利、加藤、小西などの諸将は数万人を下らない朝鮮人捕虜を一種の戦利品として国内に拉致し、陶工を有田、唐津、萩、薩摩苗代川などに監禁して陶磁器の生産に従事せしめ、あまつさえ少なからに人数を東南アジアやヨーロッパに奴隷として売りとばした。
私たちは北朝鮮による日本人の拉致を金正日の専売特許のように非難するが、それに先駆けてそれと同じような行為を私たちの英雄と称えられるご先祖たちが大手を振って敢行していたこと、またこれらの蛮行はすぐる大戦においても帝国軍人によって各地で繰り返されたことを忘れてはいけないだろう。
秀吉のみならず隆盛、利通などの明治の元勲たち、そして昭和の軍人の一部はとかく中国、朝鮮、台湾、琉球などの異邦の人々を己よりも下位に見てもっぱら軽侮、差別し、軽々に植民地支配を企図し、実践したが、本書では三代将軍家光が明朝の再興をめざす鄭芝龍一派に加担して対清遠征軍派遣計画を立てていたという驚くべき史実が明らかにされている。(137p)
私たちの黄色い肌の下には、何世紀経っても侵略戦争大好きのDNPが潜流しているのであらうか。
♪結局は他人がやっていることには興味がないということになるんだな 茫洋
663年の天智天皇の「白村江の戦」は同盟国の救援という大義名分があったとしても、豊臣秀吉による文禄・慶長の役は明々白々な海外侵略であった。
この狂気の戦によって日本軍は多数の敵兵を殺しただけでなく老若男女の民間人を貴賤の別なく殺戮し、その耳や鼻を大量に切り取り、塩漬けにして秀吉のもとに搬送したのみならず、島津、藤堂、伊達、毛利、加藤、小西などの諸将は数万人を下らない朝鮮人捕虜を一種の戦利品として国内に拉致し、陶工を有田、唐津、萩、薩摩苗代川などに監禁して陶磁器の生産に従事せしめ、あまつさえ少なからに人数を東南アジアやヨーロッパに奴隷として売りとばした。
私たちは北朝鮮による日本人の拉致を金正日の専売特許のように非難するが、それに先駆けてそれと同じような行為を私たちの英雄と称えられるご先祖たちが大手を振って敢行していたこと、またこれらの蛮行はすぐる大戦においても帝国軍人によって各地で繰り返されたことを忘れてはいけないだろう。
秀吉のみならず隆盛、利通などの明治の元勲たち、そして昭和の軍人の一部はとかく中国、朝鮮、台湾、琉球などの異邦の人々を己よりも下位に見てもっぱら軽侮、差別し、軽々に植民地支配を企図し、実践したが、本書では三代将軍家光が明朝の再興をめざす鄭芝龍一派に加担して対清遠征軍派遣計画を立てていたという驚くべき史実が明らかにされている。(137p)
私たちの黄色い肌の下には、何世紀経っても侵略戦争大好きのDNPが潜流しているのであらうか。
♪結局は他人がやっていることには興味がないということになるんだな 茫洋
Wednesday, September 24, 2008
さらばプロムス2008
♪音楽千夜一夜第41回
この夏8週間にわたって英国各地で繰り広げられたプロムス2008が9月13日のラストプロムスをもって終了した。
私のパソコントラブルのために多くのプログラムが聞けなかったのは残念だ。諏訪内選手の鋭いヴァイオリンは聞けたが、ポリーニやブレンデルやウチダミツコを耳にすることができなかったのも残念無念。毒にも薬にもならないサイモン・ラトルとベルリン・フィルのただうるさいだけの演奏にはほとほとうんざりしたが、晩年の輝きに静かに燃えるベルナルド・ハイティンク指揮のシカゴ響が素晴らしいマーラーを聴かせてくれた。
若くしてロイヤルコンセルトヘボーのシェフとなってフィリップスに数多の凡庸な録音を残したこの大根指揮者が、よくぞここまで円熟の境地に達したものである。どうかベルリン・フィルと果たせなかったマーラーの交響曲の全曲録音をシカゴと入れてほしいものだ。
ここ数年は私も疲れ、英国も、世界も、さだめしあなたも疲れ、古典音楽じたいぐったりと疲れているせいだかなんだかよくわからんが、ともかく最終日のあの熱と感動が失せていくのはいかんともしがたいところである。往年のマルコム・サージェント、コリン・デービス、アンドルー・デイビスの熱っぽい演奏といかにも英国人らしいスピーチが懐かしい限りだ。あの英国ナショナリズムはちょっとグローバル・ナショナリズム的なところがあり、「なるほどこれがかつて7つの海を制覇した大英帝国の歌の根っこなのか」と判然とするところが、すこしくありますね。
去年はチエコの凡才ビエロ・フラーベックだったが今年のトリはロジャー・ノリントン爺。例のノン・ビブラート奏法でワグナーやらベートーヴェンのなんと合唱幻想曲を狼少女エルモーのピアノで格調高く演奏したが、エルガーの「希望と栄光の国」をノンビブラートで演奏する暴挙に出たニリントンはただの馬鹿野郎か。テンポもリズムもめちゃめちゃで英国国歌につづく恒例の「蛍の光」のア・カペラの大合唱も聴衆のノリはいまいちだった。結局ターフェルの巨大な一吠えにシカない小手先だけの演奏だ。
来年はどうあってもアンドルー・デイビスをアメリカのピッツバークから呼び戻してBBC響を♪ヒップ、♪ヒップ、♪ヒップさせてほしい。
♪ドミンゴもフレーにもゼフィレッリもみな若かったクラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜
♪スカラ座の罵倒にめげずオテロ振るカルロス・クライバーの雄々しき姿
Tuesday, September 23, 2008
息子の言葉『父の遺したもの』第2回
ある丹波の家族の物語 その10&♪遥かな昔、遠い所で第83回
オルコット作「若草物語」を読んでの父の感想は、次のようなものでした。
「何でも買うことのできる金持ちは不幸です。」
また父は、特殊学級の先達者、杉野春男氏(小倉市、四七年モスクワ空港で没)の「花に水やりを教えられた精薄児が、雨の中、傘をさして水をやる姿に感動す。」という言葉をメモしていますが、私は、障碍児を孫に持った父なりの関心と苦悩がこれを書かせたのだろうと想像しています。
キリスト者としての父については、実は私はよく知らないのです。けれども信仰が父の生きる糧であり、絶えず聖書の言葉を胸に刻みつつ生活していたのは、熱意と集中力をもって書き遺された聖句のメモがおのずとそれを物語っています。とりわけ私が驚かされたのは「ヘブル書一一章」と「使徒行伝七章」。この二つの章は旧約聖書を凝結したものである」との断定でした。
さらにまた五九年四月二二日、イースター昇天祈祷会における中島牧師の言葉、「イエスの復活は信仰の出発点である。」も、父の心にしっかりと触れたのでしょう。
父はおそらくこうしたメモを下駄の商いを営んだと同じ、暗くて狭い仕事場で書きつけ、折にふれて思考を反芻し、一人の信仰者として、一人の市民として、一介の商人としての在るべき道を必死で摸索し続けたのでしょう。
私は息子として、そのことにいささかの感銘を覚えたものですから、父の許しも得ずに、つい長々と駄文を連ねてしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、いま何者かに一生懸命に次のように祈りたいと思います。「死せる父よ、死んでも私たちと共に在って、私たちを見守ってください」と。
一九八五年九月一三日
♪丹波竜わたしの実家を闊歩して 茫洋
オルコット作「若草物語」を読んでの父の感想は、次のようなものでした。
「何でも買うことのできる金持ちは不幸です。」
また父は、特殊学級の先達者、杉野春男氏(小倉市、四七年モスクワ空港で没)の「花に水やりを教えられた精薄児が、雨の中、傘をさして水をやる姿に感動す。」という言葉をメモしていますが、私は、障碍児を孫に持った父なりの関心と苦悩がこれを書かせたのだろうと想像しています。
キリスト者としての父については、実は私はよく知らないのです。けれども信仰が父の生きる糧であり、絶えず聖書の言葉を胸に刻みつつ生活していたのは、熱意と集中力をもって書き遺された聖句のメモがおのずとそれを物語っています。とりわけ私が驚かされたのは「ヘブル書一一章」と「使徒行伝七章」。この二つの章は旧約聖書を凝結したものである」との断定でした。
さらにまた五九年四月二二日、イースター昇天祈祷会における中島牧師の言葉、「イエスの復活は信仰の出発点である。」も、父の心にしっかりと触れたのでしょう。
父はおそらくこうしたメモを下駄の商いを営んだと同じ、暗くて狭い仕事場で書きつけ、折にふれて思考を反芻し、一人の信仰者として、一人の市民として、一介の商人としての在るべき道を必死で摸索し続けたのでしょう。
私は息子として、そのことにいささかの感銘を覚えたものですから、父の許しも得ずに、つい長々と駄文を連ねてしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、いま何者かに一生懸命に次のように祈りたいと思います。「死せる父よ、死んでも私たちと共に在って、私たちを見守ってください」と。
一九八五年九月一三日
♪丹波竜わたしの実家を闊歩して 茫洋
Monday, September 22, 2008
息子の言葉『父の遺したもの』第1回
ある丹波の家族の物語 その9&♪遥かな昔、遠い所で第82回
父が私たちの前から、それこそ忽然として姿を消してから早や1年を迎えようとしています。
最近の日本人の平均寿命からいえば、短すぎた生涯ではありましたが、その最後の瞬間が、隣人への奉仕に捧げられていた事実に象徴されるように、その71年の生は父なりに充実し、終始一貫していた一生であったように思います。
百年余の歴史を持つ地方の商家をつつがなく経営し、3人の子供を大学にまで入れてやり、信仰を培い、傍目もうらやむ夫婦愛を晩年に至るまで守り育てた男、それが父でした。
当たり前といえば当たり前、世間でよくある話じゃないかといわれればそれまでですが、その平凡な人生を、普通の人として淡々とやり遂げた父と、その父を傍らで力いっぱい支え続けた母に対して、私は大きな拍手を贈ってあげたいと思います。
父は死後2冊の小さな覚書を残しました。粗末なメモ用紙に父らしい几帳面な筆致で晩年の日々に書き残されたこれらの文章の多くは、やはり父自身の言葉ではなく、古今東西の作家、思想家の言や、聖句からの引用であります。
内村鑑三、椎名麟三、夏目漱石、キェルケゴール、ドストエフスキー、森有正、遠藤周作、亀井勝一郎、マリア・テレサといった有名人の言葉に交じって、次のような書き抜きがありました。
「五七年一月一三日、ワシントン・ポトマック川に航空機墜落の時、一人の紳士ヘリコプターの命綱を二回も人にゆずり、自らは河の中に沈んだ。」
おそらく父は、もし自分がこの紳士の立場にあったらどう振る舞えただろうと何度も自問したに違いありません。
♪一歩くたびにポケットの中で鳴くんだよニイニイゼミが 茫洋
父が私たちの前から、それこそ忽然として姿を消してから早や1年を迎えようとしています。
最近の日本人の平均寿命からいえば、短すぎた生涯ではありましたが、その最後の瞬間が、隣人への奉仕に捧げられていた事実に象徴されるように、その71年の生は父なりに充実し、終始一貫していた一生であったように思います。
百年余の歴史を持つ地方の商家をつつがなく経営し、3人の子供を大学にまで入れてやり、信仰を培い、傍目もうらやむ夫婦愛を晩年に至るまで守り育てた男、それが父でした。
当たり前といえば当たり前、世間でよくある話じゃないかといわれればそれまでですが、その平凡な人生を、普通の人として淡々とやり遂げた父と、その父を傍らで力いっぱい支え続けた母に対して、私は大きな拍手を贈ってあげたいと思います。
父は死後2冊の小さな覚書を残しました。粗末なメモ用紙に父らしい几帳面な筆致で晩年の日々に書き残されたこれらの文章の多くは、やはり父自身の言葉ではなく、古今東西の作家、思想家の言や、聖句からの引用であります。
内村鑑三、椎名麟三、夏目漱石、キェルケゴール、ドストエフスキー、森有正、遠藤周作、亀井勝一郎、マリア・テレサといった有名人の言葉に交じって、次のような書き抜きがありました。
「五七年一月一三日、ワシントン・ポトマック川に航空機墜落の時、一人の紳士ヘリコプターの命綱を二回も人にゆずり、自らは河の中に沈んだ。」
おそらく父は、もし自分がこの紳士の立場にあったらどう振る舞えただろうと何度も自問したに違いありません。
♪一歩くたびにポケットの中で鳴くんだよニイニイゼミが 茫洋
孫の言葉『おじいちゃん』第3回
ある丹波の家族の物語 その8&♪遥かな昔、遠い所で第81回
八月九日 ねんど
きのうねんどで遊びました。
はじめハンバーグを作って、クッキーも作りました。クッキーは、ABCDEFGHIの形にしました。
おいじちゃんに「おひとつ、どうぞ。」と言ったら、「お、上手にしたなあ。」と言いました。
ボールも作りました。そのボールで、おじいちゃんとキャッチボールをしました。
ねんどは重いので、ちょっと手がいたかったです。
八月十日 おはかまいり
今日の朝、早起きをして、おじいちゃんとお母さんとおはかまいりに行きました。
じょうろで、花立てのところに水を入れて、持ってきたトレニアとしゅうかいどうをさしました。
そして、おまいりをしました。
「○○の、おなかに赤ちゃんができました。どうか、元気な子が生まれるように守ってやってください。」とおじいちゃんが言いました。○○とは、お母さんの名前です。
そして帰りました。
♪誰も知っている小さなことをささやかに語りたい 茫洋
八月九日 ねんど
きのうねんどで遊びました。
はじめハンバーグを作って、クッキーも作りました。クッキーは、ABCDEFGHIの形にしました。
おいじちゃんに「おひとつ、どうぞ。」と言ったら、「お、上手にしたなあ。」と言いました。
ボールも作りました。そのボールで、おじいちゃんとキャッチボールをしました。
ねんどは重いので、ちょっと手がいたかったです。
八月十日 おはかまいり
今日の朝、早起きをして、おじいちゃんとお母さんとおはかまいりに行きました。
じょうろで、花立てのところに水を入れて、持ってきたトレニアとしゅうかいどうをさしました。
そして、おまいりをしました。
「○○の、おなかに赤ちゃんができました。どうか、元気な子が生まれるように守ってやってください。」とおじいちゃんが言いました。○○とは、お母さんの名前です。
そして帰りました。
♪誰も知っている小さなことをささやかに語りたい 茫洋
Saturday, September 20, 2008
孫の言葉『おじいちゃん』第2回
ある丹波の家族の物語 その7 ♪遥かな昔、遠い所で第80回
一二月二九日 おてつだい
おじいちゃんは、はき物店をしていて、毎日げたをすげていました。
わたしが「げたのうしろのシールをはる。」と言って、シールのカンをとって中のシールを出しました。
シールには「てらこ」と書いてあります。お店の名前が「てらこはき物店」だからです。
できあがったげたへどんどんはっていきました。
はりおわって、たいへんな仕事やなと思いました。
小学四年生、夏休みの日記から
八月三日 ほたるがり
きのうの夜、おじいちゃんとほたるがりに行きました。
川の近くに一ぴきいました。
「ほら、あれがほたるだよ。」とおじいちゃんが言いました。
わたしは生れてはじめてみました。
「本当、きれいね。星みたい。」
わたしは空の星とほたるを見くらべました。
おじいちゃんが、「つかまえられないから帰ろうか。」
「うん。」と言って帰ろうとしたら、もう一ぴきいました。
♪耕君はいま昼食を喰らいつつ今晩のメニューを尋ねる大谷崎に似たり我が家の長男 茫洋
一二月二九日 おてつだい
おじいちゃんは、はき物店をしていて、毎日げたをすげていました。
わたしが「げたのうしろのシールをはる。」と言って、シールのカンをとって中のシールを出しました。
シールには「てらこ」と書いてあります。お店の名前が「てらこはき物店」だからです。
できあがったげたへどんどんはっていきました。
はりおわって、たいへんな仕事やなと思いました。
小学四年生、夏休みの日記から
八月三日 ほたるがり
きのうの夜、おじいちゃんとほたるがりに行きました。
川の近くに一ぴきいました。
「ほら、あれがほたるだよ。」とおじいちゃんが言いました。
わたしは生れてはじめてみました。
「本当、きれいね。星みたい。」
わたしは空の星とほたるを見くらべました。
おじいちゃんが、「つかまえられないから帰ろうか。」
「うん。」と言って帰ろうとしたら、もう一ぴきいました。
♪耕君はいま昼食を喰らいつつ今晩のメニューを尋ねる大谷崎に似たり我が家の長男 茫洋
Friday, September 19, 2008
孫の言葉『おじいちゃん』第一回
ある丹波の家族の物語 その6 ♪遥かな昔、遠い所で第79回
―小学三年生、冬休みの日記から
きょうはおじいちゃんと、なわとびをもっておはかまで、さんぽしました。
おはかについて、さかをのぼっていくと「○○家」とかいたおはかがありました。○○とは、おじいちゃんのみょうじです。
中に入ってみると、おはかが五つありました。手をあわせておいのりをしてから、おはかのまえでなわとびをしました。
あとでおじいちゃんが「じゅうじかのところまでいってタッチして、またもどってくるからとけいではかっといて。」と言いました。わたしは、ちょうどデジタルどけいをもっていたので、「いいよ。」と言いました。
「よーい――どん」と言ったとたんにおじいちゃんがはしりました。じゅうじかにタッチしてもどってきました。そしたら、なんと五四秒でした。
♪紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ 茫洋
Wednesday, September 17, 2008
父の言葉『思い出の記』第四回
ある丹波の家族の物語 その5 ♪遥かな昔、遠い所で第78回
「おそらくキリスト教より立派な宗教があるかもしれない。それだのに、そんな宗教をさがさないのは、キリスト教が私の求めるものに対して必要にしてかつ十分な保証を与えてくれているので、他の宗教を探す気になりません。」
干天で乾ききった土に慈雨が降ったように私の胸にしみとおりました。この文を目にしたことを心から感謝します。
神よ、常にこの迷える者にみ手をさしのべてください。1980年五月『丹陽』第三号より
―テモテヘの第二の手紙
「私が世を去るべき時はきた。私は戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠が私を待っているばかりである。
♪紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ 茫洋
「おそらくキリスト教より立派な宗教があるかもしれない。それだのに、そんな宗教をさがさないのは、キリスト教が私の求めるものに対して必要にしてかつ十分な保証を与えてくれているので、他の宗教を探す気になりません。」
干天で乾ききった土に慈雨が降ったように私の胸にしみとおりました。この文を目にしたことを心から感謝します。
神よ、常にこの迷える者にみ手をさしのべてください。1980年五月『丹陽』第三号より
―テモテヘの第二の手紙
「私が世を去るべき時はきた。私は戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠が私を待っているばかりである。
♪紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ 茫洋
父の言葉『思い出の記』第三回
ある丹波の家族の物語 その4&♪遥かな昔、遠い所で第77回
さて、誠にたよりない足取りで信仰の道をたどりはじめましたが、聖書に記されている数々の奇跡を、如何様に頭でなく心で受け入れる信仰をもつことができるかと、迷い続けました。
この世の常識を越えたい岩のようなこの難関を突破しなければと、立ち向かうたびにハジキ返される思いをしました。そして、私ごとき者は、とてもみ救いにあずかる信仰は持つことはできないのではないかと思っていました。―私の拙い筆ではこのあたりを上手に表現できないのです。―
水に浮かぶ根なし草のようなこの信仰を力づけ、励ましてくれたのはクリスチャン作家椎名麟三氏―戦争中筋金入りの共産党員として検挙され、長い間東京の警察署をグルグルとタライ回しされている間に、神の存在を知り転向した人―の「生と死に就いて」の中で書かれた次の文章でした。
「一体信じられないことは信仰の浅さや罪の深さの証明でせうか。端的に申し上げれば、キリスト教には信じるか信じないかのようなせっぱつまった自刃のやいばは持っていないのであります。キリスト教においては不思議なことと思われませうが、信じられないということもそのまま充分に生きていけるようにされています。」
この場所で確かに人は死んだのだ 世界は死に溢れている 茫洋
さて、誠にたよりない足取りで信仰の道をたどりはじめましたが、聖書に記されている数々の奇跡を、如何様に頭でなく心で受け入れる信仰をもつことができるかと、迷い続けました。
この世の常識を越えたい岩のようなこの難関を突破しなければと、立ち向かうたびにハジキ返される思いをしました。そして、私ごとき者は、とてもみ救いにあずかる信仰は持つことはできないのではないかと思っていました。―私の拙い筆ではこのあたりを上手に表現できないのです。―
水に浮かぶ根なし草のようなこの信仰を力づけ、励ましてくれたのはクリスチャン作家椎名麟三氏―戦争中筋金入りの共産党員として検挙され、長い間東京の警察署をグルグルとタライ回しされている間に、神の存在を知り転向した人―の「生と死に就いて」の中で書かれた次の文章でした。
「一体信じられないことは信仰の浅さや罪の深さの証明でせうか。端的に申し上げれば、キリスト教には信じるか信じないかのようなせっぱつまった自刃のやいばは持っていないのであります。キリスト教においては不思議なことと思われませうが、信じられないということもそのまま充分に生きていけるようにされています。」
この場所で確かに人は死んだのだ 世界は死に溢れている 茫洋
Tuesday, September 16, 2008
父の言葉『思い出の記』第二回
ある丹波の家族の物語 その3 ♪遥かな昔、遠い所で第76回
私は、子供のころから今日まで、内向的で人見知りする性で、しばしば自己嫌悪におちいることがあります。そして早くから罪ということを意識していました。
どの兄も私を無理に教会に連れて行くことをしませんでした。私自身、このような罪ある者は教会に行く資格なしと、愚かにも敬して遠ざかっていました。
旧制商業高校を出ると兄の商売を手伝って、ますます礼拝出席がおろそかになりました。その間にあって、今に至るまで頭に焼きつき忘れ得ないのは、「汝らのうち罪なき者まづ石を投げうて」のみことばです。
このみことばに就いて評論家、亀井勝一郎氏は「私は感動なくしてこの一節を読むことはできません。その背後にある大沈黙が私を感動させるのです。深い叡智と偉大な愛情のごとき沈黙に感動します。」と書いておられますが、私はわが意を得たり、とうれしく思いました。
が、次の文章で「キリスト信者の最大の嫌みはその罪悪感であります。彼らは自分はこのような苦しみを経験した。このような罪を犯したと罪の意識を忘れぬようにし、懺悔こそ神に愛される道であると安心して、罪の意識の深さを誇るのは傲慢である。」とあります。
これには衝撃を受けました。氏の説が全部正しいとは思いませんが、大いに反省させられました。
♪水に漬け叩きつけたるわがパソコン 茫洋
私は、子供のころから今日まで、内向的で人見知りする性で、しばしば自己嫌悪におちいることがあります。そして早くから罪ということを意識していました。
どの兄も私を無理に教会に連れて行くことをしませんでした。私自身、このような罪ある者は教会に行く資格なしと、愚かにも敬して遠ざかっていました。
旧制商業高校を出ると兄の商売を手伝って、ますます礼拝出席がおろそかになりました。その間にあって、今に至るまで頭に焼きつき忘れ得ないのは、「汝らのうち罪なき者まづ石を投げうて」のみことばです。
このみことばに就いて評論家、亀井勝一郎氏は「私は感動なくしてこの一節を読むことはできません。その背後にある大沈黙が私を感動させるのです。深い叡智と偉大な愛情のごとき沈黙に感動します。」と書いておられますが、私はわが意を得たり、とうれしく思いました。
が、次の文章で「キリスト信者の最大の嫌みはその罪悪感であります。彼らは自分はこのような苦しみを経験した。このような罪を犯したと罪の意識を忘れぬようにし、懺悔こそ神に愛される道であると安心して、罪の意識の深さを誇るのは傲慢である。」とあります。
これには衝撃を受けました。氏の説が全部正しいとは思いませんが、大いに反省させられました。
♪水に漬け叩きつけたるわがパソコン 茫洋
Monday, September 15, 2008
ある丹波の家族の物語 その2
♪遥かな昔、遠い所で第75回
父の言葉『思い出の記』第一回
私は大正二年、岡山県倉敷市に生まれました。父は、私が九歳の時に亡くなりましたが、姉一人、兄六人、妹二人という賑やかな家庭でした。
倉敷教会は、田崎健作先生の精力的な伝道で発展し、県内でも指折りの教会になっていました。
母と長兄夫婦は弘法大師を拝んでいましたが、五人の兄は大学在学中に洗礼を受けました。私のすぐ上の兄、豊は母に内緒で同志社大学神学部を受験、合格しました。母はとても立腹しましたが、田崎先生の説得に折れて入学を許しました。
同級に東方信吉先生がおられました。この兄が在学中夏期伝道のため、ひと夏綾部に来て、当時小学生だった家内らと共に楽しく過ごされたそうです。
また後年、東方先生が丹陽教会を牧されたことをお聞きしてその巡りあわせに驚きました。
われのみが段ボールを捨てるらし雨音しげき火曜日の朝 茫洋
父の言葉『思い出の記』第一回
私は大正二年、岡山県倉敷市に生まれました。父は、私が九歳の時に亡くなりましたが、姉一人、兄六人、妹二人という賑やかな家庭でした。
倉敷教会は、田崎健作先生の精力的な伝道で発展し、県内でも指折りの教会になっていました。
母と長兄夫婦は弘法大師を拝んでいましたが、五人の兄は大学在学中に洗礼を受けました。私のすぐ上の兄、豊は母に内緒で同志社大学神学部を受験、合格しました。母はとても立腹しましたが、田崎先生の説得に折れて入学を許しました。
同級に東方信吉先生がおられました。この兄が在学中夏期伝道のため、ひと夏綾部に来て、当時小学生だった家内らと共に楽しく過ごされたそうです。
また後年、東方先生が丹陽教会を牧されたことをお聞きしてその巡りあわせに驚きました。
われのみが段ボールを捨てるらし雨音しげき火曜日の朝 茫洋
Sunday, September 14, 2008
ある丹波の家族の物語 その1
♪遥かな昔、遠い所で第74回
―心は、すすがれて良心のとがめを去り、体は、清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。『へブル人への手紙10-22』
―霊魂のない体が死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。『ヤコブへの手紙』
母の言葉
今年も昨年のような暑い夏がやってきました。
しかし、朝露にぬれた、野あざみを、野菊、河原なでしこ、そして、つりがね人参など、私の好きな野の花々を、朝のジョギングの帰りの折々に摘んでくれた夫は、もう帰ってきません。
私の朝は七時の露台の草花の水やりから始まります。今朝も、お水をやりながら田町の坂を下りてくる夫のズックの足音を、口笛を、心待ちに待つのです。
思ってもみない日、突然、夫が帰って来ない人になってから、早や一年が経ちました。
一年経っても、まだ心のどこかに、夫の帰りを待っている自分に驚きます。
子供たちが四〇歳になるのですから、結婚して、それだけの歳月はたしかに経っているはずなのに、その長さが嘘のような気がします。
何か夫の記念になるものをと思いましたが、思いつかぬままに、先年丹陽教会発行の『丹陽』に書かせていただいた文章をお目にかけることにしました。
目立つことの嫌いな、自己主張をしない人でしたので、他にはメモはあっても自分のものとしては、書き残している唯一のものです。
その文章の中にやさしい故人を偲んでやっていただければ幸いに存じます。
一九八五年八月
暮れなずむ夕陽かはたまた朝焼けかわが心なる行き合いの空 茫洋
―心は、すすがれて良心のとがめを去り、体は、清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。『へブル人への手紙10-22』
―霊魂のない体が死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。『ヤコブへの手紙』
母の言葉
今年も昨年のような暑い夏がやってきました。
しかし、朝露にぬれた、野あざみを、野菊、河原なでしこ、そして、つりがね人参など、私の好きな野の花々を、朝のジョギングの帰りの折々に摘んでくれた夫は、もう帰ってきません。
私の朝は七時の露台の草花の水やりから始まります。今朝も、お水をやりながら田町の坂を下りてくる夫のズックの足音を、口笛を、心待ちに待つのです。
思ってもみない日、突然、夫が帰って来ない人になってから、早や一年が経ちました。
一年経っても、まだ心のどこかに、夫の帰りを待っている自分に驚きます。
子供たちが四〇歳になるのですから、結婚して、それだけの歳月はたしかに経っているはずなのに、その長さが嘘のような気がします。
何か夫の記念になるものをと思いましたが、思いつかぬままに、先年丹陽教会発行の『丹陽』に書かせていただいた文章をお目にかけることにしました。
目立つことの嫌いな、自己主張をしない人でしたので、他にはメモはあっても自分のものとしては、書き残している唯一のものです。
その文章の中にやさしい故人を偲んでやっていただければ幸いに存じます。
一九八五年八月
暮れなずむ夕陽かはたまた朝焼けかわが心なる行き合いの空 茫洋
Saturday, September 13, 2008
「七人の侍」再見
照る日曇る日第161回
このあいだBSでやっていたのでまた見たが、さすが黒澤の名作、なかなか面白かった。
以前見たとき宮口精二演じる久蔵が野武士の棟梁から種子島で撃たれて死ぬ。そのとき倒れながら投げつけた刀が刺さって頭目は絶命した。と長い間思っていたのだが、実際にはそんなシーンはなかったのでガッカリした。あれは私の幻影だったのだろうか。しかし、しかとこの目で見たはずだ。黒澤の演出よりも、私の幻案のほうがずっと優れていると思うのだがどうだろう。
村娘津島恵子に惚れて初体験した木村功は、ラストで大いに迷う。武士を捨てて村に残るか、娘を捨てて武士にとどまるか。その去就を描かずに映画を終わらせたところがオシャレである。また二人のラブシーンはスタッフが手植えした花々で美しく彩られており、豪雨の大決戦と見事なコントラストをなしている。
しかし欲をいうなら、七人の侍のうち最初に死ぬ千秋実と二番目に死ぬ稲葉義男の容貌がなんだか似ているのは良くない。もう少し別の顔を用意してほしかった。
味方は七人、敵の野武士は四〇人。七人はその四〇人を全滅させたが志村喬、加東大介、木村功を除いて四人とも火縄銃で撃たれて死んだ。敵が所有していた銃は全部で三丁。うち一丁は宮口が、もう一丁は三船敏郎の菊千代が敵から奪っているので、残りのたった一丁が三名の味方の命を奪ったことになる。
宮口が単身森の敵中に忍び込んで銃を奪ってきたときには賞賛されたのに、三船がもう1丁を奪って帰還したときには、軍律違反だと志村から非難され、持ち帰った火縄銃はその場で打ち捨てられて顧みられなかった。もっと敵の飛び道具にきちんと対処しておけば愛すべき主人公たちをむざむざ殺されることにはならなかったはずなのである。もっとも一九五四年度のヴェネチア映画祭で銀獅子賞はもらえなかっただろうけど。
しかし私は、ここに七人の侍のみならず武田勝頼、そして後年の日本の軍隊にも見られた「飛び道具(近代兵器)の軽視と蔑視」という懐かしい土着のにおいをかぐ。ノモンハンの悲劇や万歳突撃、戦艦大和の悲壮な最期につながるあの前近代的な鍋釜土着思想の残滓を。
♪たった一個生りたる西瓜食べにけり今日から短期入所する息子と共に 茫洋
このあいだBSでやっていたのでまた見たが、さすが黒澤の名作、なかなか面白かった。
以前見たとき宮口精二演じる久蔵が野武士の棟梁から種子島で撃たれて死ぬ。そのとき倒れながら投げつけた刀が刺さって頭目は絶命した。と長い間思っていたのだが、実際にはそんなシーンはなかったのでガッカリした。あれは私の幻影だったのだろうか。しかし、しかとこの目で見たはずだ。黒澤の演出よりも、私の幻案のほうがずっと優れていると思うのだがどうだろう。
村娘津島恵子に惚れて初体験した木村功は、ラストで大いに迷う。武士を捨てて村に残るか、娘を捨てて武士にとどまるか。その去就を描かずに映画を終わらせたところがオシャレである。また二人のラブシーンはスタッフが手植えした花々で美しく彩られており、豪雨の大決戦と見事なコントラストをなしている。
しかし欲をいうなら、七人の侍のうち最初に死ぬ千秋実と二番目に死ぬ稲葉義男の容貌がなんだか似ているのは良くない。もう少し別の顔を用意してほしかった。
味方は七人、敵の野武士は四〇人。七人はその四〇人を全滅させたが志村喬、加東大介、木村功を除いて四人とも火縄銃で撃たれて死んだ。敵が所有していた銃は全部で三丁。うち一丁は宮口が、もう一丁は三船敏郎の菊千代が敵から奪っているので、残りのたった一丁が三名の味方の命を奪ったことになる。
宮口が単身森の敵中に忍び込んで銃を奪ってきたときには賞賛されたのに、三船がもう1丁を奪って帰還したときには、軍律違反だと志村から非難され、持ち帰った火縄銃はその場で打ち捨てられて顧みられなかった。もっと敵の飛び道具にきちんと対処しておけば愛すべき主人公たちをむざむざ殺されることにはならなかったはずなのである。もっとも一九五四年度のヴェネチア映画祭で銀獅子賞はもらえなかっただろうけど。
しかし私は、ここに七人の侍のみならず武田勝頼、そして後年の日本の軍隊にも見られた「飛び道具(近代兵器)の軽視と蔑視」という懐かしい土着のにおいをかぐ。ノモンハンの悲劇や万歳突撃、戦艦大和の悲壮な最期につながるあの前近代的な鍋釜土着思想の残滓を。
♪たった一個生りたる西瓜食べにけり今日から短期入所する息子と共に 茫洋
パソコン音痴の嘆き
♪バガテルop71
この夏楽しかったことはなんといっても利尻礼文島への旅行だった。そしてその反対は、わがパソコンのスパイウエア感染である。おかげで8月18日からおよそ1カ月近くこの日記の書き込みはおろか原稿書きすらできないという悲惨な状況に陥ってしまった。
結局電機屋さんに修理に出して悪性ウイルスを駆除し、ついでにこの際だからというので、メモリー、HDDを増設し、オフィスを2007に入れ替えて4,5年前に買ったパソコンの再活性化を図ったのだが、ここでまたしても別の問題が起こった。画面の文字が以前よりぼやけるのである。
PCとモニターの両方の設定をいろいろ変えて試してみたのだが、いまなお改善されない。今回の事故の間に急いで購入したOSがヴィスタで同じオフィス2007のPCは文字も画像もきわめて鮮明なのに、と腹立たしい限りだ。ちなみに事故ったPCはウンドウズのⅩPで「アウトルック・エクスプレス」、新しいやつは「アウトルック2007」なのでもしかするとその互換性の問題があるのかもしれない。
さらにもうひとつどうにも不可解なのは、メールである。私は便宜上2つのPCとも同一のメールアドレスを使用していた。事故の後も同じように設定したはずなのに、「PCその1」から「PCその2」にメールを送っても相手に届かない。その逆もだめ。外部からのメールは2つのPCにちゃんと入っているのに、これはいったいどうしてだろう?
さらにさらに、不要パソコンのファイルを破棄するためにPCの蓋を開いて内部の部品に触っても感電死しないだろうか? 説明書には「危険につき分解するな」と書いてあるのだが……。
♪名月や五人揃いし美人かな 茫洋
この夏楽しかったことはなんといっても利尻礼文島への旅行だった。そしてその反対は、わがパソコンのスパイウエア感染である。おかげで8月18日からおよそ1カ月近くこの日記の書き込みはおろか原稿書きすらできないという悲惨な状況に陥ってしまった。
結局電機屋さんに修理に出して悪性ウイルスを駆除し、ついでにこの際だからというので、メモリー、HDDを増設し、オフィスを2007に入れ替えて4,5年前に買ったパソコンの再活性化を図ったのだが、ここでまたしても別の問題が起こった。画面の文字が以前よりぼやけるのである。
PCとモニターの両方の設定をいろいろ変えて試してみたのだが、いまなお改善されない。今回の事故の間に急いで購入したOSがヴィスタで同じオフィス2007のPCは文字も画像もきわめて鮮明なのに、と腹立たしい限りだ。ちなみに事故ったPCはウンドウズのⅩPで「アウトルック・エクスプレス」、新しいやつは「アウトルック2007」なのでもしかするとその互換性の問題があるのかもしれない。
さらにもうひとつどうにも不可解なのは、メールである。私は便宜上2つのPCとも同一のメールアドレスを使用していた。事故の後も同じように設定したはずなのに、「PCその1」から「PCその2」にメールを送っても相手に届かない。その逆もだめ。外部からのメールは2つのPCにちゃんと入っているのに、これはいったいどうしてだろう?
さらにさらに、不要パソコンのファイルを破棄するためにPCの蓋を開いて内部の部品に触っても感電死しないだろうか? 説明書には「危険につき分解するな」と書いてあるのだが……。
♪名月や五人揃いし美人かな 茫洋
Thursday, September 11, 2008
西暦二〇〇八年茫洋葉月歌日記 続編
♪ある晴れた日に その39
今宵一夜の想い出にと
エーデルワイスを歌いしは
礼文船泊のホテルの女
小巻貝に
食われし冷た貝の成れの果て
船泊の浜にうずたかし
利尻富士は富士よりうるわし
利尻山より落つる水
うまし
走れども走れども一台の車なし
車なき礼文の人の
喜びと悲しみ
八つ手の葉っぱの上で
何度も羽を開いたり閉じたりしている
ヒメジャノメよ
耕君のため
巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた木さんに感謝す
ありがとう
2月に母親が行方不明になった家
夏空に
洗濯物が揺れている
たった1個なりたる西瓜
食べにけり
今日から短期入所する息子と共に
毎日毎日
三浦スイカを喰らう限り
わが夏は終わらざるべし
今宵一夜の想い出にと
エーデルワイスを歌いしは
礼文船泊のホテルの女
小巻貝に
食われし冷た貝の成れの果て
船泊の浜にうずたかし
利尻富士は富士よりうるわし
利尻山より落つる水
うまし
走れども走れども一台の車なし
車なき礼文の人の
喜びと悲しみ
八つ手の葉っぱの上で
何度も羽を開いたり閉じたりしている
ヒメジャノメよ
耕君のため
巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた木さんに感謝す
ありがとう
2月に母親が行方不明になった家
夏空に
洗濯物が揺れている
たった1個なりたる西瓜
食べにけり
今日から短期入所する息子と共に
毎日毎日
三浦スイカを喰らう限り
わが夏は終わらざるべし
西暦二〇〇八年茫洋葉月歌日記 正編
♪ある晴れた日に その38
脳天を震撼させてアブラ鳴く
一日に二匹の蝉を拾いけり
幼虫をトイレに捨てたる息子かな
先祖累代油蝉は鳴き続けてきた
世界一速き男の脇見かな
観衆を見物しつつゴールせり
敗者にもわれが授けむ月桂樹
利尻島一軒の魚屋もない豊かさよ
全村の踊りは長し利尻町
新宿の西口地下の中華屋でフィリピン女性が運びしラーメンを食う
健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり
生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ
道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉
電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り利尻礼文の海山に着きたり
利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉ひがなジジッと鳴きおり
いつまでも村人たちは踊りたり余りに短き利尻の夏に
漆黒の闇を揺るがす大太鼓 利尻の民はみな踊りたり
大太鼓利尻の夜を揺るがせて老若男女みな踊りたり
選挙迫り地元議員は浴衣着て山車に跨り太鼓叩くも
沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか
ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし
利尻にはただ一軒の魚屋なし魚屋なしに魚喰う人の幸
わが国の最北端の岬にて営業す民宿スコトンはとことん商人
樺太を追われて来たるアザラシはサハリン1、2の犠牲者なるかな
リーダーは頭を一旋加速せりいずこへ急ぐや樺太アザラシ
きのうオホーツクより南下せるアザラシの群れ日本海目指す
利尻富士に聖なる神が居ますゆえ蛇は棲まぬと親爺説きけり
荒き波荒き風より生まれたり荒磯に咲けるあら波の華
福岡や沖縄生まれの人もいて人口5千の最果ての島
バスガイドはなんと沖縄生まれなり人口5千の最果ての島
桃太郎が空に向かって投げつけし強大な岩を桃岩というにや
にやうにやうと哀しき声にて鳴きにけり最果ての空にウミネコどもは
ウミネコはかうかうとも鳴いていた最北の地の最果ての空
ノコギリソウツリガネニンジンウスユキソウエゾカワラナデシコなど咲いておりたり
朝五時にサイレン鳴りて島民はこぞって昆布漁を支援するなり
昆布干しは過酷な仕事よ村人はいくたびも葉を浜に並べて
「冷た貝」に食べられてしまった「小巻貝」礼文の浜に静かに眠る
さいはての冷たき海に沈みけり真っ赤に燃えし礼文の夕陽は
立秋の宗谷の海が尽きるところ水平線に樺太現る
最北の宗谷岬の突端で遥かなる島樺太見たり
樺太はわが指呼の間に横たわる海と空とが接するところに
サハリンと呼ばず樺太と言うバスガイド国家主義者ならねど好ましと見る
台湾人は怒鳴るがごとく会話せり礼文稚内のフェリーの中で
稚内の青物市場で買った富良野メロン余す所なく食べにけり
稚内の生鮮市場で買うた蟹一匹残らずわれ食いにけり
遠ざかる利尻礼文の海と山わたしの夏がゆるゆる暮れて
脳天を震撼させてアブラ鳴く
一日に二匹の蝉を拾いけり
幼虫をトイレに捨てたる息子かな
先祖累代油蝉は鳴き続けてきた
世界一速き男の脇見かな
観衆を見物しつつゴールせり
敗者にもわれが授けむ月桂樹
利尻島一軒の魚屋もない豊かさよ
全村の踊りは長し利尻町
新宿の西口地下の中華屋でフィリピン女性が運びしラーメンを食う
健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり
生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ
道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉
電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り利尻礼文の海山に着きたり
利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉ひがなジジッと鳴きおり
いつまでも村人たちは踊りたり余りに短き利尻の夏に
漆黒の闇を揺るがす大太鼓 利尻の民はみな踊りたり
大太鼓利尻の夜を揺るがせて老若男女みな踊りたり
選挙迫り地元議員は浴衣着て山車に跨り太鼓叩くも
沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか
ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし
利尻にはただ一軒の魚屋なし魚屋なしに魚喰う人の幸
わが国の最北端の岬にて営業す民宿スコトンはとことん商人
樺太を追われて来たるアザラシはサハリン1、2の犠牲者なるかな
リーダーは頭を一旋加速せりいずこへ急ぐや樺太アザラシ
きのうオホーツクより南下せるアザラシの群れ日本海目指す
利尻富士に聖なる神が居ますゆえ蛇は棲まぬと親爺説きけり
荒き波荒き風より生まれたり荒磯に咲けるあら波の華
福岡や沖縄生まれの人もいて人口5千の最果ての島
バスガイドはなんと沖縄生まれなり人口5千の最果ての島
桃太郎が空に向かって投げつけし強大な岩を桃岩というにや
にやうにやうと哀しき声にて鳴きにけり最果ての空にウミネコどもは
ウミネコはかうかうとも鳴いていた最北の地の最果ての空
ノコギリソウツリガネニンジンウスユキソウエゾカワラナデシコなど咲いておりたり
朝五時にサイレン鳴りて島民はこぞって昆布漁を支援するなり
昆布干しは過酷な仕事よ村人はいくたびも葉を浜に並べて
「冷た貝」に食べられてしまった「小巻貝」礼文の浜に静かに眠る
さいはての冷たき海に沈みけり真っ赤に燃えし礼文の夕陽は
立秋の宗谷の海が尽きるところ水平線に樺太現る
最北の宗谷岬の突端で遥かなる島樺太見たり
樺太はわが指呼の間に横たわる海と空とが接するところに
サハリンと呼ばず樺太と言うバスガイド国家主義者ならねど好ましと見る
台湾人は怒鳴るがごとく会話せり礼文稚内のフェリーの中で
稚内の青物市場で買った富良野メロン余す所なく食べにけり
稚内の生鮮市場で買うた蟹一匹残らずわれ食いにけり
遠ざかる利尻礼文の海と山わたしの夏がゆるゆる暮れて
Wednesday, September 10, 2008
レイモンド・カーヴァー著「必要になったら電話をかけて」を読む
照る日曇る日第160回
村上春樹の翻訳によるレイモンド・カーヴァーの未発表の短編集である。
1988年に50歳の若さで亡くなったカーヴァーの人の世のほろにがい哀感をえぐった忘れがたい作品をもう読めなくなることは悲しい。
この人はその短編の最初の1行で、生の無常をさししめすことができた稀有な作家だった。
願わくば、いづれの日にか村上春樹の手になるマイケル・チミノの未完の映画「ドストエフスキー」のシナリオが公刊されんことを。
♪母さん
あのカンカン帽どこへ行ったんでしょうねえ
5年前浅草で買ったあの1500円の麦稈真田 茫洋
村上春樹の翻訳によるレイモンド・カーヴァーの未発表の短編集である。
1988年に50歳の若さで亡くなったカーヴァーの人の世のほろにがい哀感をえぐった忘れがたい作品をもう読めなくなることは悲しい。
この人はその短編の最初の1行で、生の無常をさししめすことができた稀有な作家だった。
願わくば、いづれの日にか村上春樹の手になるマイケル・チミノの未完の映画「ドストエフスキー」のシナリオが公刊されんことを。
♪母さん
あのカンカン帽どこへ行ったんでしょうねえ
5年前浅草で買ったあの1500円の麦稈真田 茫洋
Tuesday, September 09, 2008
横尾忠則著「人口楽園」を読んで
照る日曇る日第159回
自作の絵に短いエッセイがつけられて全部で105の見開き世界が繰り広げられている。その第24回の「魂むしばむ戦争」は次のような文章で始まっている。
「朝、目が覚めた途端、うっとうしい気分に襲われる。生きている証拠である。眠っている間は死んだも同然、意識の動きが停止しているからだ。眠りから目が覚め、生を自覚するやいなや今日も生きるのかと思うと、イヤーな気分になる。別に身体が悪いとか、借金に追われているとか、嫌なやつに会うという理由ではない。ほとんど理由もなく目覚めそのものが不快なのである。その理由として「生きている証拠だ」と言ったが、生きているというほとんど理由があってないような理由によって始まる「生」のせいに違いないとぼくは考える」
年をとると生そのものが鈍重になり、生物としての人間が担うに堪えない重すぎる荷物と化すのであろう。かくいう私も毎朝骨が痛む。身を起こそうとするのだが、上半身の骨格の重さを弱くなった筋肉が支えきれずに悲鳴を上げるのである。頭に体がついていけないのは仕方がないが、骨に肉がついていけなくなる日がやってくるとは思いもしなかった。
生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む 茫洋
自作の絵に短いエッセイがつけられて全部で105の見開き世界が繰り広げられている。その第24回の「魂むしばむ戦争」は次のような文章で始まっている。
「朝、目が覚めた途端、うっとうしい気分に襲われる。生きている証拠である。眠っている間は死んだも同然、意識の動きが停止しているからだ。眠りから目が覚め、生を自覚するやいなや今日も生きるのかと思うと、イヤーな気分になる。別に身体が悪いとか、借金に追われているとか、嫌なやつに会うという理由ではない。ほとんど理由もなく目覚めそのものが不快なのである。その理由として「生きている証拠だ」と言ったが、生きているというほとんど理由があってないような理由によって始まる「生」のせいに違いないとぼくは考える」
年をとると生そのものが鈍重になり、生物としての人間が担うに堪えない重すぎる荷物と化すのであろう。かくいう私も毎朝骨が痛む。身を起こそうとするのだが、上半身の骨格の重さを弱くなった筋肉が支えきれずに悲鳴を上げるのである。頭に体がついていけないのは仕方がないが、骨に肉がついていけなくなる日がやってくるとは思いもしなかった。
生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む 茫洋
Monday, September 08, 2008
網野善彦著作集第3巻「荘園公領制の構造」を読んで
照る日曇る日第158回
荘園の支配者は天皇家、貴族、寺社などの経済的基礎になってはいるが、その実態は現地の領主が年貢などを支配者に貢納する際の請負の単位であり、国家に規制された公的な行政単位でもあった。それゆえ最近ではこのような土地制度を、荘園制度ではなく、網野が提唱したように荘園公領制と呼ぶようになっている。
中世の人々は土地に縛られることなく、各地を旅行し、それが新天地の開発につながることもあり、「逃亡」さえもが日常的であった。ようやく院政時代に確立された初期の荘園公領制がこのような危機をはらんでいたために、田地、住居に百姓を安堵することが地頭などの中世権力の最初の1歩とならざるを得なかった。
宮廷の行事においては発声の「微音」と「高声」は明確に使い分けられていた。たとえば政始のさいに上卿の召しに同音称唯するとき、弁・少納言は微音、外記・史は高声で答えるのが常であった。高声は日常の世界や寺社の内部や仏前・宝前では禁じられ、忌避されたが、高声念仏による往生のように門前や市庭などの特定の場では、それが当然とされる場合もあった。
著者は、高声が往生のように仏の世界への道をひらくことになっていること、門前や市庭などが神仏の支配する聖なる場所であることを考えると、このようなケースでの高声は神仏の世界と俗界を媒介する役割を果たしていたのではないかと推察し、祭りや雨乞い、あるいは禁忌や集会などを村全体に知らせるときに発せられる「おらび声」が、神霊と交わる契機そのものであってそれゆえにタブーを伴っていたと指摘している。
オラオラ、オンドリャガアア~
荘園の支配者は天皇家、貴族、寺社などの経済的基礎になってはいるが、その実態は現地の領主が年貢などを支配者に貢納する際の請負の単位であり、国家に規制された公的な行政単位でもあった。それゆえ最近ではこのような土地制度を、荘園制度ではなく、網野が提唱したように荘園公領制と呼ぶようになっている。
中世の人々は土地に縛られることなく、各地を旅行し、それが新天地の開発につながることもあり、「逃亡」さえもが日常的であった。ようやく院政時代に確立された初期の荘園公領制がこのような危機をはらんでいたために、田地、住居に百姓を安堵することが地頭などの中世権力の最初の1歩とならざるを得なかった。
宮廷の行事においては発声の「微音」と「高声」は明確に使い分けられていた。たとえば政始のさいに上卿の召しに同音称唯するとき、弁・少納言は微音、外記・史は高声で答えるのが常であった。高声は日常の世界や寺社の内部や仏前・宝前では禁じられ、忌避されたが、高声念仏による往生のように門前や市庭などの特定の場では、それが当然とされる場合もあった。
著者は、高声が往生のように仏の世界への道をひらくことになっていること、門前や市庭などが神仏の支配する聖なる場所であることを考えると、このようなケースでの高声は神仏の世界と俗界を媒介する役割を果たしていたのではないかと推察し、祭りや雨乞い、あるいは禁忌や集会などを村全体に知らせるときに発せられる「おらび声」が、神霊と交わる契機そのものであってそれゆえにタブーを伴っていたと指摘している。
オラオラ、オンドリャガアア~
Sunday, September 07, 2008
フォークナー著「アブサロム、アブサロム!」を読んで
照る日曇る日第157回
フォークナーはハワード・ホークスに頼まれて「三つ数えろ」などの脚本を書いて身すぎ世すぎしながら、大脳前頭葉の奥底深く、壮大な幻想世界を築きあげ、ここからロダンが彫刻を切り出したように、本作や「野生の棕櫚」や「響きと怒り」や「八月の光」などの“ヨクナパトーファ・サーガ”と呼ばれる米国南部の仮想の街と住民の物語を生涯にわたって描き続けた。その小説幻想は現実よりもリアルであって、作家が彫刻を加えるにつれてその存在感を増すのだった。
若くして亡くなった一つの文章の間にいくつもの副文が密林の大樹の無数の葉脈のように繁茂する一読しただけでは容易に理解できないプルースト張りの複雑な文章なので、翻訳にあたった篠田一士氏もさぞや苦労されたことだろう。私がクラシックの演奏会に上野の文化会館を訪れると、必ずと言っていいほどでっぷりと太った氏がロビーの片隅でいつもたったひとりで立っておられたことを思い出す。もっと生きてたくさんの仕事をしてほしい文学者だった。
この作品のタイトルは、旧約聖書「サムエル後書」第一三章にはじまるダビデ王とその息子アブサロムの父子葛藤の物語にちなんでいる。アブサロムは妹タマルを犯した兄弟アムノンを殺すが、最後には自分自身も無残な最期を遂げ、恩讐を超えて父王は「ああアブサロムよ、アブサロムよ!」と嘆くのだ。フォークナーの「アブサロム」もアメリカ南部の本質をえぐって余すところがないが、「サムエル書」もこれに輪をかけて面白い「小説」である。
最後にフォークナーのノーベル賞受賞スピーチから。
私は人間の終焉を受け入れることを拒みます。人間は単に絶えることができるから、最後の赤い夕陽の中で潮の干満にも濡れない価値なき最後の岩から運命の最後の鐘がディンドンと鳴り響くときに、その取るに足らない疲れ知らずの声がまだ話しているが聞こえるから、だから人間は不滅だ、というのはあまりに容易です。私は人間は耐えるだけでなく、勝つことができると信じています。人間は多くの生き物の中で唯一疲れ知らずの声を持っているから不死なのではなく、魂があるから同情と犠牲と忍耐の能力のある精神を持っているからこそ、不死なのです。詩人や作家の使命はこういうことについて書くことです。人間の心を押し上げ、人間に過去の栄光としての勇気と名誉と希望と誇りと同情と哀れみと犠牲のことを思い出せることが詩人と作家の特権なのです。詩人の声はただ人間の記録であるばかりではなく、人間の忍耐と勝利の支えとも柱ともなり得るのです。(池澤夏樹訳)
たった1個なりたる西瓜食べにけり
今日から短期入所する息子と共に 茫洋
フォークナーはハワード・ホークスに頼まれて「三つ数えろ」などの脚本を書いて身すぎ世すぎしながら、大脳前頭葉の奥底深く、壮大な幻想世界を築きあげ、ここからロダンが彫刻を切り出したように、本作や「野生の棕櫚」や「響きと怒り」や「八月の光」などの“ヨクナパトーファ・サーガ”と呼ばれる米国南部の仮想の街と住民の物語を生涯にわたって描き続けた。その小説幻想は現実よりもリアルであって、作家が彫刻を加えるにつれてその存在感を増すのだった。
若くして亡くなった一つの文章の間にいくつもの副文が密林の大樹の無数の葉脈のように繁茂する一読しただけでは容易に理解できないプルースト張りの複雑な文章なので、翻訳にあたった篠田一士氏もさぞや苦労されたことだろう。私がクラシックの演奏会に上野の文化会館を訪れると、必ずと言っていいほどでっぷりと太った氏がロビーの片隅でいつもたったひとりで立っておられたことを思い出す。もっと生きてたくさんの仕事をしてほしい文学者だった。
この作品のタイトルは、旧約聖書「サムエル後書」第一三章にはじまるダビデ王とその息子アブサロムの父子葛藤の物語にちなんでいる。アブサロムは妹タマルを犯した兄弟アムノンを殺すが、最後には自分自身も無残な最期を遂げ、恩讐を超えて父王は「ああアブサロムよ、アブサロムよ!」と嘆くのだ。フォークナーの「アブサロム」もアメリカ南部の本質をえぐって余すところがないが、「サムエル書」もこれに輪をかけて面白い「小説」である。
最後にフォークナーのノーベル賞受賞スピーチから。
私は人間の終焉を受け入れることを拒みます。人間は単に絶えることができるから、最後の赤い夕陽の中で潮の干満にも濡れない価値なき最後の岩から運命の最後の鐘がディンドンと鳴り響くときに、その取るに足らない疲れ知らずの声がまだ話しているが聞こえるから、だから人間は不滅だ、というのはあまりに容易です。私は人間は耐えるだけでなく、勝つことができると信じています。人間は多くの生き物の中で唯一疲れ知らずの声を持っているから不死なのではなく、魂があるから同情と犠牲と忍耐の能力のある精神を持っているからこそ、不死なのです。詩人や作家の使命はこういうことについて書くことです。人間の心を押し上げ、人間に過去の栄光としての勇気と名誉と希望と誇りと同情と哀れみと犠牲のことを思い出せることが詩人と作家の特権なのです。詩人の声はただ人間の記録であるばかりではなく、人間の忍耐と勝利の支えとも柱ともなり得るのです。(池澤夏樹訳)
たった1個なりたる西瓜食べにけり
今日から短期入所する息子と共に 茫洋
Friday, September 05, 2008
丹波と能楽
続 梅原猛・松岡心平著「神仏のしづめ」を読んで
照る日曇る日第156回
梅若は現在は観世流れのシテ方であるが、もともとは丹波猿楽の一流であった。丹波の殿田には梅若屋敷跡があり、墓とともに殿田稲荷が祀られている。ただその本貫地は京都市右京区の梅津で、梅若の名はここから出たという。それで梅若姓の元は梅津であり、梅津氏は橘諸兄を祖とし、諸兄の9世の孫、橘友時より梅若を名乗るようになった。
この友時のとき、丹波の何鹿郡大志麻の庄を領したために丹波に居を移した。すなわち綾部市の大島で、著者の故地でもある。ちなみに「弱法師」の原話「しんとく丸」伝承は、梅津長者が父なる人であった。
梅若の丹波におけるもっとも古い根拠地は綾部市舘町の赤国神社を氏神とする地域だとされるが、残念ながら私はまだ訪ねたことがない。
いずれにしても丹波という地は能の歴史の中で大きな比重を占める。観世流のシテ方である片山家、大槻家、河村家も丹波の出である。
以上本書256pより引用しました。
♪道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った 茫洋
照る日曇る日第156回
梅若は現在は観世流れのシテ方であるが、もともとは丹波猿楽の一流であった。丹波の殿田には梅若屋敷跡があり、墓とともに殿田稲荷が祀られている。ただその本貫地は京都市右京区の梅津で、梅若の名はここから出たという。それで梅若姓の元は梅津であり、梅津氏は橘諸兄を祖とし、諸兄の9世の孫、橘友時より梅若を名乗るようになった。
この友時のとき、丹波の何鹿郡大志麻の庄を領したために丹波に居を移した。すなわち綾部市の大島で、著者の故地でもある。ちなみに「弱法師」の原話「しんとく丸」伝承は、梅津長者が父なる人であった。
梅若の丹波におけるもっとも古い根拠地は綾部市舘町の赤国神社を氏神とする地域だとされるが、残念ながら私はまだ訪ねたことがない。
いずれにしても丹波という地は能の歴史の中で大きな比重を占める。観世流のシテ方である片山家、大槻家、河村家も丹波の出である。
以上本書256pより引用しました。
♪道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った 茫洋
梅原猛・松岡心平著「神仏のしづめ」を読んで
照る日曇る日第155回
梅原猛の「神と仏」対論集の第4巻は私が致命的に無知である能についての蒙をひらいていただくのである。
両氏によれば能の基本に敷かれているのは「草木国土悉皆皆成仏」を唱える天台本覚論で、天台宗始祖の最澄にはじまるこの普遍的な思想は、円仁、円珍、源信、法然、親鸞、道元、日蓮みな影響を受けた。それが思想というより身体的な実践として観阿弥、世阿弥、元雅、金春禅竹の能に及んでいる。
伊賀の国に生まれた観阿弥は南朝の支持者で楠正成の甥。その子世阿弥は足利義満に寵愛されたが義教によって疎んじられ佐渡に流された。世阿弥は当初甥元雅に観世太夫を継がせたが、(観→世→音)その後実子の元雅に乗り換えた。しかし元雅は音阿弥に観世太夫を継がせようとした義教の命を受けた斯波兵衛三郎によって殺害された。
また、日本の音楽は古代は雅楽、中世から近世は歌舞伎も含めて能楽、明治以降は洋楽の時代となる。このうち真ん中の能楽だけが絶対音階を否定する相対音階を基調とする。らしい。
♪月下美人誰一人見ず散りにけり 茫洋
照る日曇る日第155回
梅原猛の「神と仏」対論集の第4巻は私が致命的に無知である能についての蒙をひらいていただくのである。
両氏によれば能の基本に敷かれているのは「草木国土悉皆皆成仏」を唱える天台本覚論で、天台宗始祖の最澄にはじまるこの普遍的な思想は、円仁、円珍、源信、法然、親鸞、道元、日蓮みな影響を受けた。それが思想というより身体的な実践として観阿弥、世阿弥、元雅、金春禅竹の能に及んでいる。
伊賀の国に生まれた観阿弥は南朝の支持者で楠正成の甥。その子世阿弥は足利義満に寵愛されたが義教によって疎んじられ佐渡に流された。世阿弥は当初甥元雅に観世太夫を継がせたが、(観→世→音)その後実子の元雅に乗り換えた。しかし元雅は音阿弥に観世太夫を継がせようとした義教の命を受けた斯波兵衛三郎によって殺害された。
また、日本の音楽は古代は雅楽、中世から近世は歌舞伎も含めて能楽、明治以降は洋楽の時代となる。このうち真ん中の能楽だけが絶対音階を否定する相対音階を基調とする。らしい。
♪月下美人誰一人見ず散りにけり 茫洋
梅原猛の「神と仏」対論集の第4巻は私が致命的に無知である能についての蒙をひらいていただくのである。
両氏によれば能の基本に敷かれているのは「草木国土悉皆皆成仏」を唱える天台本覚論で、天台宗始祖の最澄にはじまるこの普遍的な思想は、円仁、円珍、源信、法然、親鸞、道元、日蓮みな影響を受けた。それが思想というより身体的な実践として観阿弥、世阿弥、元雅、金春禅竹の能に及んでいる。
伊賀の国に生まれた観阿弥は南朝の支持者で楠正成の甥。その子世阿弥は足利義満に寵愛されたが義教によって疎んじられ佐渡に流された。世阿弥は当初甥元雅に観世太夫を継がせたが、(観→世→音)その後実子の元雅に乗り換えた。しかし元雅は音阿弥に観世太夫を継がせようとした義教の命を受けた斯波兵衛三郎によって殺害された。
また、日本の音楽は古代は雅楽、中世から近世は歌舞伎も含めて能楽、明治以降は洋楽の時代となる。このうち真ん中の能楽だけが絶対音階を否定する相対音階を基調とする。らしい。
♪月下美人誰一人見ず散りにけり 茫洋
照る日曇る日第155回
梅原猛の「神と仏」対論集の第4巻は私が致命的に無知である能についての蒙をひらいていただくのである。
両氏によれば能の基本に敷かれているのは「草木国土悉皆皆成仏」を唱える天台本覚論で、天台宗始祖の最澄にはじまるこの普遍的な思想は、円仁、円珍、源信、法然、親鸞、道元、日蓮みな影響を受けた。それが思想というより身体的な実践として観阿弥、世阿弥、元雅、金春禅竹の能に及んでいる。
伊賀の国に生まれた観阿弥は南朝の支持者で楠正成の甥。その子世阿弥は足利義満に寵愛されたが義教によって疎んじられ佐渡に流された。世阿弥は当初甥元雅に観世太夫を継がせたが、(観→世→音)その後実子の元雅に乗り換えた。しかし元雅は音阿弥に観世太夫を継がせようとした義教の命を受けた斯波兵衛三郎によって殺害された。
また、日本の音楽は古代は雅楽、中世から近世は歌舞伎も含めて能楽、明治以降は洋楽の時代となる。このうち真ん中の能楽だけが絶対音階を否定する相対音階を基調とする。らしい。
♪月下美人誰一人見ず散りにけり 茫洋
Thursday, September 04, 2008
山田邦明著「戦国の活力」を読んで
照る日曇る日第154回
小学館の日本の歴史第8巻である。戦国大名の誕生から大坂落城までの150年間を駆け足で描く。
鎌倉関連では永正11年1514年に日蓮宗本覚寺の陣僧役と飛脚役と諸公事が免除されている。坊主は意外にも健脚の者が多く、戦国大名は僧侶に祈祷をはじめとする様々な任務を与えていたのである。
鎌倉材木座の光明寺は良忠によって創建された浄土宗の大本山であるが、戦国時代のはじめごろ観誉祐崇という傑物があらわれ近隣の諸国を歩きながら信者を獲得し、1代のうちに30あまりの寺院を創建した。明応4年1495年には宮中に召されて光明寺を勅願寺にするとの綸旨を与えられた。
京の本能寺は天正10年1582年信長が暗殺された寺として有名だが、ここは日蓮宗勝劣派の拠点で、一致派の他の寺社とするどく対立していた。日蓮宗の経典は法華経である。全28の品からなる法華経は前半の14品が迹門、後半の14品を本門と称するが、迹門迹門の優劣が甚だしいと考えるのが勝劣派、迹門にもそれなりに価値はあると評価するのが一致派で、本能寺は前者の代表選手だった。
法華経のもっとも壮麗なシーンは本門冒頭の「従地湧出品」である。弟子達が「この有難い経典を護持することをお許しください」と頼んだ時、世尊が「この世には無数の菩薩たちがいて彼らこそがこの地においてこの経を護る使命を持つのだからこの経を護持する必要はない」と語るやいなや、突然引き裂かれた大地の奥から幾百億千万の求道者たちが金色に荘厳された菩薩となって地中から湧き出てきて虚空に聳え立つのだが、法論の問題箇所は、ここで世尊がいうお経とはなにを指すのかという点であった。本能寺派は、この経とは本門冒頭の「従地湧出品」以前の「迹門」全部であると主張したが、その後この説に同意できない一致派との間で長く法論が続いたようである。
♪毎日毎日
三浦スイカを喰らう限り
わが夏は終わらざるべし 茫洋
小学館の日本の歴史第8巻である。戦国大名の誕生から大坂落城までの150年間を駆け足で描く。
鎌倉関連では永正11年1514年に日蓮宗本覚寺の陣僧役と飛脚役と諸公事が免除されている。坊主は意外にも健脚の者が多く、戦国大名は僧侶に祈祷をはじめとする様々な任務を与えていたのである。
鎌倉材木座の光明寺は良忠によって創建された浄土宗の大本山であるが、戦国時代のはじめごろ観誉祐崇という傑物があらわれ近隣の諸国を歩きながら信者を獲得し、1代のうちに30あまりの寺院を創建した。明応4年1495年には宮中に召されて光明寺を勅願寺にするとの綸旨を与えられた。
京の本能寺は天正10年1582年信長が暗殺された寺として有名だが、ここは日蓮宗勝劣派の拠点で、一致派の他の寺社とするどく対立していた。日蓮宗の経典は法華経である。全28の品からなる法華経は前半の14品が迹門、後半の14品を本門と称するが、迹門迹門の優劣が甚だしいと考えるのが勝劣派、迹門にもそれなりに価値はあると評価するのが一致派で、本能寺は前者の代表選手だった。
法華経のもっとも壮麗なシーンは本門冒頭の「従地湧出品」である。弟子達が「この有難い経典を護持することをお許しください」と頼んだ時、世尊が「この世には無数の菩薩たちがいて彼らこそがこの地においてこの経を護る使命を持つのだからこの経を護持する必要はない」と語るやいなや、突然引き裂かれた大地の奥から幾百億千万の求道者たちが金色に荘厳された菩薩となって地中から湧き出てきて虚空に聳え立つのだが、法論の問題箇所は、ここで世尊がいうお経とはなにを指すのかという点であった。本能寺派は、この経とは本門冒頭の「従地湧出品」以前の「迹門」全部であると主張したが、その後この説に同意できない一致派との間で長く法論が続いたようである。
♪毎日毎日
三浦スイカを喰らう限り
わが夏は終わらざるべし 茫洋
Wednesday, September 03, 2008
小川国夫著「止島」を読んで
照る日曇る日第154回
これも最近物故した作家の遺作短編小説集である。晩夏の昼下がり、一枚1枚拝みながら味読しました。
「しのさん」という少女に主人公は2回ほどつかみかかるが、ひらりと逃げられてしまう。しかしみなしごの彼女は若くして肺病で亡くなってしまう。
「三輪川という川の川口の近くに焼き場があるもんですから、そこで焼きました。五人ばかり人が来て、若宮の家からも人が来ることは来ましたが、あんなにひっそりしたちり焼きも滅多にはないでしょう。われを忘れていたのは、結局私たち3人だけでしたでしょう。火が入り赤々と焼けていくのを、かまどのうしろの耐火煉瓦を一箇はずしてもらって、みとれていました。しのさんのあぶらが樋をつたわって、三輪川へ落ちる音も聞きました。これで終わりか、と思っていたんです。」(37p)
あるいは「未完の少年像」における海軍少尉の友人、渋谷嘉一郎との最後の会話。
「ぼくはお国のために死にますが、君は勉強してください」
特攻隊で「見事玉砕した」その友人は、2日か3日の故郷滞在中に弟に
「鹿屋に戻りたくないと言ったのだそうです。その弟さんから聞きました。これは小説ではありません。ですから、あるがままで怖ろしい意味を持っているのです。」(125p)
そうは言ってもこれは小川国夫の小説の中の言葉であって、つまり彼の小説はこのように怖いのである。
♪輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた 茫洋
これも最近物故した作家の遺作短編小説集である。晩夏の昼下がり、一枚1枚拝みながら味読しました。
「しのさん」という少女に主人公は2回ほどつかみかかるが、ひらりと逃げられてしまう。しかしみなしごの彼女は若くして肺病で亡くなってしまう。
「三輪川という川の川口の近くに焼き場があるもんですから、そこで焼きました。五人ばかり人が来て、若宮の家からも人が来ることは来ましたが、あんなにひっそりしたちり焼きも滅多にはないでしょう。われを忘れていたのは、結局私たち3人だけでしたでしょう。火が入り赤々と焼けていくのを、かまどのうしろの耐火煉瓦を一箇はずしてもらって、みとれていました。しのさんのあぶらが樋をつたわって、三輪川へ落ちる音も聞きました。これで終わりか、と思っていたんです。」(37p)
あるいは「未完の少年像」における海軍少尉の友人、渋谷嘉一郎との最後の会話。
「ぼくはお国のために死にますが、君は勉強してください」
特攻隊で「見事玉砕した」その友人は、2日か3日の故郷滞在中に弟に
「鹿屋に戻りたくないと言ったのだそうです。その弟さんから聞きました。これは小説ではありません。ですから、あるがままで怖ろしい意味を持っているのです。」(125p)
そうは言ってもこれは小川国夫の小説の中の言葉であって、つまり彼の小説はこのように怖いのである。
♪輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた 茫洋
Tuesday, September 02, 2008
♪バガテルop70
きのう福田首相が突然辞任を表明した。彼は靖国神社に参拝しなかった一事をとっても、自民党のなかで数少ないましな政治家の1人であった。狂気のライオン丸や隠微阿部が退陣してようやく普通に凡庸な福田に代わったばかりだというのに、これからまたしても愛国男根主義者の麻生や政治芸者の小池なぞの魑魅魍魎が登場するのかと思うとぞっとする。1日も早く総選挙を行ってこの稀有の2重権力状態を解消するか、それとも継続するかを決定することがのぞまれる。
ところで、私はニヒリストなので政治に多くを求めすぎたり、政治に安易に夢や理想やロマンを結びつけたりする人たちにはあまり心を動かされない。そのこと自体が政治を本来の役割から逸脱させ変質させる危険があるからだ。また超保守主義者の私は、凡庸な国民にふさわしい凡庸な公僕がまあまあそこそこの政治をもの静かに行って市民の自由を侵害しないようにしてくれるのを好む。政治には指導性が必要だなどとむやみに呼号する人物は眉に唾して冷静に見つめる必要があるだろう。
いずれにしてもこれから私たちは21世紀の長い長い坂道を下っていかなければならない。それは大きな苦痛と犠牲をともなう後退戦である。史上最大の痛苦な作戦である。1億2600万人をいかに無事故かつ安全に麓まで下ろすことができるか。それがわが国の政治家、ではなくて私たちひとりひとりの腕の見せ所だろう。
2月に母親が行方不明になった家
夏空に
洗濯物が揺れている 茫洋
Sunday, August 31, 2008
小川国夫著「虹よ消えるな」を読んで
照る日曇る日第152回
小川国夫という人はどこか懐かしさを感ずる人だった。もういまではどこか遠くに行ってしまった古く懐かしい時代の息吹がそこここに感じられる。
この人の筆法は単刀直入で、物事の本質だけを短刀でグサリと心臓を抉るように墨痕黒々と楷書で書き下ろす。まるで全盛期の漱石の短編か志賀直哉の芸を見るようだ。
なにがまっとうであるかを定義することはできないが、この人のはまっとうな文章であり、まっとうな人柄であると感じられる。「文は人也」という言葉や宮本武蔵の剣の技を突然思い出したりするのである。
氏は最晩年に日経の夕刊で短いエッセイを連載していたのだが、私はこれにどういうわけだかひきつけられ、毎晩読んでいたのだが、それらを一堂に集めたのが、この本だったと読んでいるうちにわかった。
連載ではその他の著者がみないわゆるエッセイを書いているのに、この人だけは短編の、それも超短編の小説を勝手に書いているのがとても印象的だった。
最後におかれた南仏カマルグの物語が、やはりもっとも心に残る。ここはミディの湿地帯であり、たしかキャシャレルというフランスのブランドを起こした実業家ジャン・ブスケという男の出身地がここいらであった。ブスケも朴訥な南仏の田舎者であった。
♪逝く夏やあまたの栗を拾いけり 茫洋
小川国夫という人はどこか懐かしさを感ずる人だった。もういまではどこか遠くに行ってしまった古く懐かしい時代の息吹がそこここに感じられる。
この人の筆法は単刀直入で、物事の本質だけを短刀でグサリと心臓を抉るように墨痕黒々と楷書で書き下ろす。まるで全盛期の漱石の短編か志賀直哉の芸を見るようだ。
なにがまっとうであるかを定義することはできないが、この人のはまっとうな文章であり、まっとうな人柄であると感じられる。「文は人也」という言葉や宮本武蔵の剣の技を突然思い出したりするのである。
氏は最晩年に日経の夕刊で短いエッセイを連載していたのだが、私はこれにどういうわけだかひきつけられ、毎晩読んでいたのだが、それらを一堂に集めたのが、この本だったと読んでいるうちにわかった。
連載ではその他の著者がみないわゆるエッセイを書いているのに、この人だけは短編の、それも超短編の小説を勝手に書いているのがとても印象的だった。
最後におかれた南仏カマルグの物語が、やはりもっとも心に残る。ここはミディの湿地帯であり、たしかキャシャレルというフランスのブランドを起こした実業家ジャン・ブスケという男の出身地がここいらであった。ブスケも朴訥な南仏の田舎者であった。
♪逝く夏やあまたの栗を拾いけり 茫洋
佐野真一著「甘粕正彦 乱心の荒野」を読んで
照る日曇る日第151回
満州帝国の影の支配者といわれた甘粕は、超天皇主義者であったとおなじくらいに、超合理主義者でもあった。
本書の371pには満映理事長時代の甘粕は東条に満州情勢を報告するために一時帰国した折の挿話が書かれている。甘粕は、国民精神総動員などと書かれたポスターや宮城を電車が通る時に帽子を脱いで頭を下げる人々を見て、「こんなバカなことをさせる指導者は人間の心持ちがわからない人たちです。国に対する忠誠は宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません」といったそうだ。
そこで「そういう精神指導は誰がやっているのでしょう」と武藤富雄がみえすいたことを訊ねると、「そりゃ軍人と彼らに迎合する人たちですよ。軍人というものは人殺しが専門なのです。人を殺すのは異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです」
と軍人である己の本質を見据えた発言をしている。
関東大震災の戒厳令下、東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長甘粕正彦は、東京憲兵隊長の小山介蔵、その上司の憲兵司令官の小泉六一の名に従って大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥の宗一を「一種の気ちがい」となって拷問、凌辱、殺戮した。
著者は発見された死因鑑定書やさまざまな聞き取り調査に基づいて殺害の直接の実行犯は甘粕ではなく、彼の命令に従った部下であったと主張しているようだが、仮に100歩譲ってそうだったとしても、主義者撲滅と抹殺を熱烈に唱えていた当時の彼が、このおぞましい犯行を主導・教唆・加担したことは間違いないだろう。
1945年8月20日、青酸カリを服毒した甘粕の最期を看取ったのは当時満映の映画監督をしていた内田吐夢であった。
「体温はまだ残っていた。テーブルの上の灰皿からシガーの最後の煙がゆらゆらと立ち上がって、永井荷風の「濹東綺譚」の本の頁に三通の遺書がはさんであった。人間が自分の股倉の中で死んでいくのは決していい気持のものではなかった」(409p)
♪西暦2008年8月31日「夏の思い出」をじっと聴いている我が息子よ 茫洋
満州帝国の影の支配者といわれた甘粕は、超天皇主義者であったとおなじくらいに、超合理主義者でもあった。
本書の371pには満映理事長時代の甘粕は東条に満州情勢を報告するために一時帰国した折の挿話が書かれている。甘粕は、国民精神総動員などと書かれたポスターや宮城を電車が通る時に帽子を脱いで頭を下げる人々を見て、「こんなバカなことをさせる指導者は人間の心持ちがわからない人たちです。国に対する忠誠は宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません」といったそうだ。
そこで「そういう精神指導は誰がやっているのでしょう」と武藤富雄がみえすいたことを訊ねると、「そりゃ軍人と彼らに迎合する人たちですよ。軍人というものは人殺しが専門なのです。人を殺すのは異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです」
と軍人である己の本質を見据えた発言をしている。
関東大震災の戒厳令下、東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長甘粕正彦は、東京憲兵隊長の小山介蔵、その上司の憲兵司令官の小泉六一の名に従って大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥の宗一を「一種の気ちがい」となって拷問、凌辱、殺戮した。
著者は発見された死因鑑定書やさまざまな聞き取り調査に基づいて殺害の直接の実行犯は甘粕ではなく、彼の命令に従った部下であったと主張しているようだが、仮に100歩譲ってそうだったとしても、主義者撲滅と抹殺を熱烈に唱えていた当時の彼が、このおぞましい犯行を主導・教唆・加担したことは間違いないだろう。
1945年8月20日、青酸カリを服毒した甘粕の最期を看取ったのは当時満映の映画監督をしていた内田吐夢であった。
「体温はまだ残っていた。テーブルの上の灰皿からシガーの最後の煙がゆらゆらと立ち上がって、永井荷風の「濹東綺譚」の本の頁に三通の遺書がはさんであった。人間が自分の股倉の中で死んでいくのは決していい気持のものではなかった」(409p)
♪西暦2008年8月31日「夏の思い出」をじっと聴いている我が息子よ 茫洋
Saturday, August 30, 2008
イサク・ディネセン著「アフリカの日々」を読んで
照る日曇る日第151回
「アフリカの日々」を読んでいて、これはいつかどこかで見聞きした話だなと思っていたら、やっぱりロバートレッドフォードがかっこよく死んでいったあの愛と哀しみの「アウト・オブ・アフリカ」の原作だった。しかし映画ほどあまっちょろくはない。映画はメロドラマだが、こちらは文字通り土着のアフリカへのつきせぬ共感と愛そのものが美しく正確な文章で淡々と綴られていく。
作者はデンマーク人女性というので驚くが、独立前のケニアには英国やフランスンなど多くの西欧人が入植していたという。白人の植民地にはもちろん土着のスワヒリ族、マサイ族がソマリ族、それにアラブ人が連れてきたソマリ族も住んでいて、雄大な大自然を舞台に様々な国籍、人種の人々がほとんど神話的な物語を営んでいたようだ。そこでは太鼓が打ち鳴らされて村人たちの激しいダンスが始まり、ライオンやキリンや牛や馬たちが部族の族長たちと戦い、神々と人間たちと動植物が渾然一体となって不可思議な交歓を楽しむ。
もとより愛と音楽もかけては入ない。
レッドフォードに相当する人物は、この小説には登場しないが、強いていえば彼女に空から見るアフリカの素晴らしさを満喫させて結局は飛行機事故で墜落氏を遂げたデニスだろうか。映画では野宿する2人のテントに鳴り響いたモーツアルトの23番のピアノコンチエルトが印象的だったが、デニスは、「ベートーベンもあんな風に俗悪でなければ我慢するんだけど」と著者に語るような実にものの分かった男だった。
私はいまちょうどベト氏の全作品を聞き終わったところだが、この人はバッハやバロックの時代の音楽家、あるいはハイドンやモーツアルトに比べても成り上がり者の音楽で、それは必ずしも悪口ではないのだが、やはりお上品さなぞ微塵もない音楽と言わざるを得ない。
2人がライオンを撃つところ、2人がアフリカの大空からバッファローを見るところは素晴らしい。
それはそうとアフリカの老人は知恵がある。「ベニスの商人」のシャイロックの言い分はまったく正しいというのだ。(これは私も同感)問題は血であるが、老人はアントニオの胸に真っ赤に焼けたナイフを差し込めば血は1滴も出ないし、一ポンドになるまで計りながら少しずつ切り取れば苦痛は激しく正確にカットできると主張するのだが、少年時代の演劇でアントニオを演じた私にはことのほか興味深かった。
♪ウイルスに冒されし傷は深くしてブログの夏はとく去りにけり 茫洋
「アフリカの日々」を読んでいて、これはいつかどこかで見聞きした話だなと思っていたら、やっぱりロバートレッドフォードがかっこよく死んでいったあの愛と哀しみの「アウト・オブ・アフリカ」の原作だった。しかし映画ほどあまっちょろくはない。映画はメロドラマだが、こちらは文字通り土着のアフリカへのつきせぬ共感と愛そのものが美しく正確な文章で淡々と綴られていく。
作者はデンマーク人女性というので驚くが、独立前のケニアには英国やフランスンなど多くの西欧人が入植していたという。白人の植民地にはもちろん土着のスワヒリ族、マサイ族がソマリ族、それにアラブ人が連れてきたソマリ族も住んでいて、雄大な大自然を舞台に様々な国籍、人種の人々がほとんど神話的な物語を営んでいたようだ。そこでは太鼓が打ち鳴らされて村人たちの激しいダンスが始まり、ライオンやキリンや牛や馬たちが部族の族長たちと戦い、神々と人間たちと動植物が渾然一体となって不可思議な交歓を楽しむ。
もとより愛と音楽もかけては入ない。
レッドフォードに相当する人物は、この小説には登場しないが、強いていえば彼女に空から見るアフリカの素晴らしさを満喫させて結局は飛行機事故で墜落氏を遂げたデニスだろうか。映画では野宿する2人のテントに鳴り響いたモーツアルトの23番のピアノコンチエルトが印象的だったが、デニスは、「ベートーベンもあんな風に俗悪でなければ我慢するんだけど」と著者に語るような実にものの分かった男だった。
私はいまちょうどベト氏の全作品を聞き終わったところだが、この人はバッハやバロックの時代の音楽家、あるいはハイドンやモーツアルトに比べても成り上がり者の音楽で、それは必ずしも悪口ではないのだが、やはりお上品さなぞ微塵もない音楽と言わざるを得ない。
2人がライオンを撃つところ、2人がアフリカの大空からバッファローを見るところは素晴らしい。
それはそうとアフリカの老人は知恵がある。「ベニスの商人」のシャイロックの言い分はまったく正しいというのだ。(これは私も同感)問題は血であるが、老人はアントニオの胸に真っ赤に焼けたナイフを差し込めば血は1滴も出ないし、一ポンドになるまで計りながら少しずつ切り取れば苦痛は激しく正確にカットできると主張するのだが、少年時代の演劇でアントニオを演じた私にはことのほか興味深かった。
♪ウイルスに冒されし傷は深くしてブログの夏はとく去りにけり 茫洋
Monday, August 18, 2008
平野啓一郎著「決壊」を読んで
照る日曇る日第150回
この節は自分を独り静かに滅却できない人間が通りすがりの人間を無差別に殺害する殺人事件が流行しているが、この小説でもその種のテーマをなんのてらいもなく取り扱っている。これは一昔も二昔も前にはやった小説作法における「主題の積極性」なるもののお色直し再登場?ではないじゃろか。
しかしいずにせよ殺人事件の真実を明らかにすることは法律家の手に余るので古来多くの作家や心理学者や研究家がその因果関係を深層まで下降してあれやこれやとろんぴようしてきた。ホームズやポアロやくりすていなどが活躍する専門的な文芸じゃんるすらあるが、けっきょくなぜジキルやハイドが不可解な殺人事件を起こしたのかを素人にもよくわかるように解明してくれた作物はドストエフスキーの罪と罰以外にはなかったというても過言ではない。
こんかいこの若き俊英が鋭意取り上げた無差別テロルも、悪魔のような殺人鬼やら国会図書館の調査員やらフジテレビの人気女子穴や、京都警察署の刑事やら鋭くきれる高校生や交際相手の陰部の写メールやらあほばかクレーマーママやら浮気する主婦やら2ちゃんねるの書き込みやら残虐なぶり拷問やら携帯ごっごやら田舎のじいさんばあさんやらぷーる教室に通う少年等々が上下2巻にまたがって次々に登場して、これでもか、これでもかとばかりにあれやこれやの悲劇や惨劇や社会正義の演説や精神心理の最新御託やらマスコミ評論家のあほばか解説の限りを尽くすのだが、この某宮中外殺人事件がいったいどうして起こったのかはついに解き明かされることはない。
ただいかにも「真実らしい」事実や情報や解釈や想像や推察やら断定やら教条やら著者の主観的なあまりにも主観的な思い付きが陸続と登場し、結局は全山雷動して鼠一匹も現われないままにいたずらに原稿料を稼ぎまくる文字数だけは膨大な「小説らしきもの」は終わってしまう。
既存の情報やデータをいくらさかしらに「コピペ」したところで、現代も、人間もその本源はおろか片鱗すら描き得ないという好個のサンプルだろう。致命的なのは、登場人物のほぼ全員の生活と生命の精髄が描かれず、まるで著者手作りのでくの坊のように、バリ島の亡霊のように、不出来な操り人形のやうに気色悪く揺曳していることである。
なんのことはない、決壊しているのは自分自身の小説世界であることは、その哀れな結末を読めば自明である。少しはドスト氏のラスコーリニコフの肖像なぞを研究してから筆を染めてほしいものである。
なお著者は、単なる小説の単なる興味本位の筆のすさびであるとはいえ、共犯の少年を流行の精神鑑定にかけ、これまたいま大流行の「広汎性発達障害」なる代物と恣意的に結びつけてくだらない三文小説の座興の種にしている(下巻348p)が、現今のようにこの障害の定義が大混乱し、いまや猫も杓子も発達障害視されている不透明な状況において、このようなとれんでぃ用語を登場人物に仁義も切らずに刻印すること自体が、この小説の風俗小説としての本質を雄弁に物語っているのではないだろうか。
♪耕君のため巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた「木」さんに感謝すありがとう 茫洋
この節は自分を独り静かに滅却できない人間が通りすがりの人間を無差別に殺害する殺人事件が流行しているが、この小説でもその種のテーマをなんのてらいもなく取り扱っている。これは一昔も二昔も前にはやった小説作法における「主題の積極性」なるもののお色直し再登場?ではないじゃろか。
しかしいずにせよ殺人事件の真実を明らかにすることは法律家の手に余るので古来多くの作家や心理学者や研究家がその因果関係を深層まで下降してあれやこれやとろんぴようしてきた。ホームズやポアロやくりすていなどが活躍する専門的な文芸じゃんるすらあるが、けっきょくなぜジキルやハイドが不可解な殺人事件を起こしたのかを素人にもよくわかるように解明してくれた作物はドストエフスキーの罪と罰以外にはなかったというても過言ではない。
こんかいこの若き俊英が鋭意取り上げた無差別テロルも、悪魔のような殺人鬼やら国会図書館の調査員やらフジテレビの人気女子穴や、京都警察署の刑事やら鋭くきれる高校生や交際相手の陰部の写メールやらあほばかクレーマーママやら浮気する主婦やら2ちゃんねるの書き込みやら残虐なぶり拷問やら携帯ごっごやら田舎のじいさんばあさんやらぷーる教室に通う少年等々が上下2巻にまたがって次々に登場して、これでもか、これでもかとばかりにあれやこれやの悲劇や惨劇や社会正義の演説や精神心理の最新御託やらマスコミ評論家のあほばか解説の限りを尽くすのだが、この某宮中外殺人事件がいったいどうして起こったのかはついに解き明かされることはない。
ただいかにも「真実らしい」事実や情報や解釈や想像や推察やら断定やら教条やら著者の主観的なあまりにも主観的な思い付きが陸続と登場し、結局は全山雷動して鼠一匹も現われないままにいたずらに原稿料を稼ぎまくる文字数だけは膨大な「小説らしきもの」は終わってしまう。
既存の情報やデータをいくらさかしらに「コピペ」したところで、現代も、人間もその本源はおろか片鱗すら描き得ないという好個のサンプルだろう。致命的なのは、登場人物のほぼ全員の生活と生命の精髄が描かれず、まるで著者手作りのでくの坊のように、バリ島の亡霊のように、不出来な操り人形のやうに気色悪く揺曳していることである。
なんのことはない、決壊しているのは自分自身の小説世界であることは、その哀れな結末を読めば自明である。少しはドスト氏のラスコーリニコフの肖像なぞを研究してから筆を染めてほしいものである。
なお著者は、単なる小説の単なる興味本位の筆のすさびであるとはいえ、共犯の少年を流行の精神鑑定にかけ、これまたいま大流行の「広汎性発達障害」なる代物と恣意的に結びつけてくだらない三文小説の座興の種にしている(下巻348p)が、現今のようにこの障害の定義が大混乱し、いまや猫も杓子も発達障害視されている不透明な状況において、このようなとれんでぃ用語を登場人物に仁義も切らずに刻印すること自体が、この小説の風俗小説としての本質を雄弁に物語っているのではないだろうか。
♪耕君のため巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた「木」さんに感謝すありがとう 茫洋
Sunday, August 17, 2008
続 五味文彦・本郷和人編現代語訳「吾妻鏡」第3巻を読んで
照る日曇る日第149回&鎌倉ちょっと不思議な物語143回
いっぽう弟の義経を憎みその殲滅をはかろうとした頼朝は、文永3年1186年4月8日に京で捕らえた静御前を鎌倉八幡宮に召し、白拍子の名手として知られる彼女の踊りを強いた。
よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いるにし人の あとぞこいしき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
の「黄竹の歌」2曲を、彼女自身による歌唱と舞踏、工藤祐経(後に曽我兄弟による仇討ちで富士巻狩りで殺される)の鼓、畠山重忠(後に北条氏の陰謀で殺される)の銅拍子(現代のシンバル)による伴奏で御前演奏したのである。
「黄竹の歌」というのは中国の清商曲、呉声歌のレパートリーであるが、当代一流の美しきシンガーソングライター静は、前者は古今和歌集の壬生忠岑、後者は伊勢物語第32段からの本歌取りを試み、自分の夫への純愛を限りなく称揚することによって、対極にある権力者の非人間性と政治的無節操を真正面から批判してのけたのだった。
その内容も内容だが、当時彼女は妊娠7ヶ月の身重であったから、このパフォーマンスは文字通り命がけの公演であったのである。
頼朝は激怒したが、妻政子によって「あなたの伊豆時代の私への恋情を想起せよ」といさめられ、ようやく矛を収めた。が、同年7月29日になって、誕生した義高の子息を安達新三郎に命じて由比ガ浜の海に捨てさせた。
静は赤子をひしと抱きしめ何時間も泣き続けたが、母の磯禅師が強引に奪い取って新三郎に引き渡したという。
同病相哀れむではないが、こんな憂き目をみた静に対して、大姫は温かい同情を寄せていたようだ。「吾妻鏡」5月27日の条には、静が病からの回復を祈るために南御堂(勝長寿院)に籠っていた大姫を訪ねて芸を披露して、褒美をもらったと記されている。
9月16日、静と磯禅師は暇を賜って帰洛したが、政子と大姫は多くの貴重な宝物を与えたという。
頼朝が由比ガ浜を訪れたのは、翌文治3年1187年の7月23日のことだった。夏の海浜を散策しながら、孤独な関東の王は、己が圧殺した甥のはかない命に思いを致したのだろうか。
♪世界一速き男の脇見かな 茫洋
♪観衆を見物しつつゴールせり 茫洋
いっぽう弟の義経を憎みその殲滅をはかろうとした頼朝は、文永3年1186年4月8日に京で捕らえた静御前を鎌倉八幡宮に召し、白拍子の名手として知られる彼女の踊りを強いた。
よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いるにし人の あとぞこいしき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
の「黄竹の歌」2曲を、彼女自身による歌唱と舞踏、工藤祐経(後に曽我兄弟による仇討ちで富士巻狩りで殺される)の鼓、畠山重忠(後に北条氏の陰謀で殺される)の銅拍子(現代のシンバル)による伴奏で御前演奏したのである。
「黄竹の歌」というのは中国の清商曲、呉声歌のレパートリーであるが、当代一流の美しきシンガーソングライター静は、前者は古今和歌集の壬生忠岑、後者は伊勢物語第32段からの本歌取りを試み、自分の夫への純愛を限りなく称揚することによって、対極にある権力者の非人間性と政治的無節操を真正面から批判してのけたのだった。
その内容も内容だが、当時彼女は妊娠7ヶ月の身重であったから、このパフォーマンスは文字通り命がけの公演であったのである。
頼朝は激怒したが、妻政子によって「あなたの伊豆時代の私への恋情を想起せよ」といさめられ、ようやく矛を収めた。が、同年7月29日になって、誕生した義高の子息を安達新三郎に命じて由比ガ浜の海に捨てさせた。
静は赤子をひしと抱きしめ何時間も泣き続けたが、母の磯禅師が強引に奪い取って新三郎に引き渡したという。
同病相哀れむではないが、こんな憂き目をみた静に対して、大姫は温かい同情を寄せていたようだ。「吾妻鏡」5月27日の条には、静が病からの回復を祈るために南御堂(勝長寿院)に籠っていた大姫を訪ねて芸を披露して、褒美をもらったと記されている。
9月16日、静と磯禅師は暇を賜って帰洛したが、政子と大姫は多くの貴重な宝物を与えたという。
頼朝が由比ガ浜を訪れたのは、翌文治3年1187年の7月23日のことだった。夏の海浜を散策しながら、孤独な関東の王は、己が圧殺した甥のはかない命に思いを致したのだろうか。
♪世界一速き男の脇見かな 茫洋
♪観衆を見物しつつゴールせり 茫洋
Saturday, August 16, 2008
五味文彦・本郷和人編現代語訳「吾妻鏡」第3巻を読んで その1
照る日曇る日第148回&鎌倉ちょっと不思議な物語142回
7月下旬に発注された賃労働が本日午前にやっと終了。午後3時から30分間の由比ガ浜海水浴を楽しむ。今日は大潮であった。昨日より波風少ないが、なぜか遊泳注意の黄色い旗が翩翻とひるがえっていた。
この頃は愛用のデジカメは海には持っていかないことにしている。細かな砂塵がレンズというよりCCDに付着して画面を汚すからだ。修理はこれでもう4回目になる。機種は富士のファインピクスだがこの会社とこのFX-F30という機種に構造的な欠陥があるのだろうか?
それはさておき、源頼朝と政子の長女大姫と義経の妾、静は史上稀に見る悲劇の女性である。
木曽義仲の長男義高と政略結婚させられた大姫は、にもかかわらず夫を愛するようになる。ところが義仲が京から追われるように放逐され、頼朝の子範頼と義経の連合軍によって一敗地にまみれ、寿永3年1184年に近江の粟津で殺されると日本のロメオとジュリエットの運命は一変する。
政子の懇望むなしく義高は冷酷非情の男頼朝によって暗殺され、これが愛娘の生涯癒えないトラウマとなった。あまつさえ頼朝は大姫を京の後鳥羽天皇の妃として入内させようとはかるが、このことがますます彼女の心の病を亢進させる原因となった。
大姫はその後13年間生きたが心はたえず死んだ恋人の元にあり、恨みは暗殺者頼朝の胸に永久に刻まれた。
頼朝と政子はおのが政治的野心愛する娘の生きがいを奪ったことを後悔し、毎晩杉本観音から巡礼古道を通って逗子の岩殿寺までお百度参りを行なって回復を祈ったが、建久9年1197年7月14日、大姫は二十歳の若さではかなくもこの世を去った。
巡礼古道は堤一族の開発によって山もろとも鎌倉霊園に造成されてしまったが、岩殿寺は健在である。
♪健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり
7月下旬に発注された賃労働が本日午前にやっと終了。午後3時から30分間の由比ガ浜海水浴を楽しむ。今日は大潮であった。昨日より波風少ないが、なぜか遊泳注意の黄色い旗が翩翻とひるがえっていた。
この頃は愛用のデジカメは海には持っていかないことにしている。細かな砂塵がレンズというよりCCDに付着して画面を汚すからだ。修理はこれでもう4回目になる。機種は富士のファインピクスだがこの会社とこのFX-F30という機種に構造的な欠陥があるのだろうか?
それはさておき、源頼朝と政子の長女大姫と義経の妾、静は史上稀に見る悲劇の女性である。
木曽義仲の長男義高と政略結婚させられた大姫は、にもかかわらず夫を愛するようになる。ところが義仲が京から追われるように放逐され、頼朝の子範頼と義経の連合軍によって一敗地にまみれ、寿永3年1184年に近江の粟津で殺されると日本のロメオとジュリエットの運命は一変する。
政子の懇望むなしく義高は冷酷非情の男頼朝によって暗殺され、これが愛娘の生涯癒えないトラウマとなった。あまつさえ頼朝は大姫を京の後鳥羽天皇の妃として入内させようとはかるが、このことがますます彼女の心の病を亢進させる原因となった。
大姫はその後13年間生きたが心はたえず死んだ恋人の元にあり、恨みは暗殺者頼朝の胸に永久に刻まれた。
頼朝と政子はおのが政治的野心愛する娘の生きがいを奪ったことを後悔し、毎晩杉本観音から巡礼古道を通って逗子の岩殿寺までお百度参りを行なって回復を祈ったが、建久9年1197年7月14日、大姫は二十歳の若さではかなくもこの世を去った。
巡礼古道は堤一族の開発によって山もろとも鎌倉霊園に造成されてしまったが、岩殿寺は健在である。
♪健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり
Friday, August 15, 2008
宇苗満著「幻の鎌倉」を読んで
照る日曇る日第147回&鎌倉ちょっと不思議な物語141回
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
宇苗満著「幻の鎌倉」を読んで
照る日曇る日第147回&鎌倉ちょっと不思議な物語141回
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
Wednesday, August 13, 2008
Tuesday, August 12, 2008
Monday, August 11, 2008
Sunday, August 10, 2008
Saturday, August 09, 2008
Friday, August 08, 2008
利尻・礼文島にて その1
♪ある晴れた日に その32
――今月の5日から7日まで生まれて初めて北海道の利尻島と礼文島を旅行した忘れ形見に
電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り 利尻礼文の海山に着きたり
利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉 ひがなジジッと鳴きおり
利尻富士は富士よりうるわし 利尻山より落つる水うまし
大太鼓利尻の夜を揺るがせて 老若男女みな踊りたり
沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか
♪ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし 茫洋
――今月の5日から7日まで生まれて初めて北海道の利尻島と礼文島を旅行した忘れ形見に
電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り 利尻礼文の海山に着きたり
利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉 ひがなジジッと鳴きおり
利尻富士は富士よりうるわし 利尻山より落つる水うまし
大太鼓利尻の夜を揺るがせて 老若男女みな踊りたり
沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか
♪ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし 茫洋
Monday, August 04, 2008
桐野夏生著「東京島」を読んで
照る日曇る日第146回
おそらくは東シナ海にある孤島東京島に吹き寄せられた日本や中国やフィリピン人たちが繰りひろげる真夏の夜の夢のような一場の戯画であるが、メンデルスゾーンの夢幻世界と違うのはそれがまぎれもなく私たち現代人に親しい夢魔の世界であることだ。
東京島はロビンソンクルーソーが漂流した絶海の孤島の比喩でもあり、日本やアジアの国々や国民が直面している政治的、経済的、社会的、文明史的状況の象徴であり、男と女の性的関係の極限状況の縮図でもある。
遭難や緊急一時避難やらで余儀なくこの狭い東京島に暮らすことになったそこいらにうよいよしている私のようなくたびれ果てたフリーターや大工見習いや主婦やライターや学生や歌手やダンサーたち。それらはみんな普通の人々である。
彼らは人工の衣装や文明文化を奪い去られて原始に還る。おのがじしの肉体と思想だけに依拠せざるを得なくなる。
徹底的に解体されて原子に還る個、結合されて原始的宗派や党派として再組織化されていく共同性の中の個。それらの共同体の内部と外部ではじまる分裂と敵対と戦いが、はるか彼方のスペースシャトルから俯瞰遠望された21世紀の生物化学実験、iPS細胞を使った生命文化の再生実験のように精密に描写される。
著者は、時代閉塞の現状にあえぐわたしたち現代人のいくつかのサンプルを拉致し、プレパラートに乗せて人類黎明期の人工舞台に放ち、そのやっさもっさの行状をするどく見据えようと試みようとした。
この文学的シミュレーションが大きな成功を収めたとはお世辞にもいえないが、物語の結末にどこかからある種の微光が差してくるところに、著者の未来への強い思い入れを感じないわけにはいかない。
♪わが子ながら毎日よく働いたね 施設のボーナス一四六〇円 茫洋
おそらくは東シナ海にある孤島東京島に吹き寄せられた日本や中国やフィリピン人たちが繰りひろげる真夏の夜の夢のような一場の戯画であるが、メンデルスゾーンの夢幻世界と違うのはそれがまぎれもなく私たち現代人に親しい夢魔の世界であることだ。
東京島はロビンソンクルーソーが漂流した絶海の孤島の比喩でもあり、日本やアジアの国々や国民が直面している政治的、経済的、社会的、文明史的状況の象徴であり、男と女の性的関係の極限状況の縮図でもある。
遭難や緊急一時避難やらで余儀なくこの狭い東京島に暮らすことになったそこいらにうよいよしている私のようなくたびれ果てたフリーターや大工見習いや主婦やライターや学生や歌手やダンサーたち。それらはみんな普通の人々である。
彼らは人工の衣装や文明文化を奪い去られて原始に還る。おのがじしの肉体と思想だけに依拠せざるを得なくなる。
徹底的に解体されて原子に還る個、結合されて原始的宗派や党派として再組織化されていく共同性の中の個。それらの共同体の内部と外部ではじまる分裂と敵対と戦いが、はるか彼方のスペースシャトルから俯瞰遠望された21世紀の生物化学実験、iPS細胞を使った生命文化の再生実験のように精密に描写される。
著者は、時代閉塞の現状にあえぐわたしたち現代人のいくつかのサンプルを拉致し、プレパラートに乗せて人類黎明期の人工舞台に放ち、そのやっさもっさの行状をするどく見据えようと試みようとした。
この文学的シミュレーションが大きな成功を収めたとはお世辞にもいえないが、物語の結末にどこかからある種の微光が差してくるところに、著者の未来への強い思い入れを感じないわけにはいかない。
♪わが子ながら毎日よく働いたね 施設のボーナス一四六〇円 茫洋
Sunday, August 03, 2008
レオニード・ツィプキン著「バーデン・バーデンの夏」を読んで
照る日曇る日第145回
新潮社のクレストブックは用紙や装丁がどことなく西欧の文学書のにおいをほのかながらも伝えているので、たまに手に取るが、この本はタイトルに惹かれて読んでみた。なんとなく私の愛してやまない「旅の日のモーツアルト」を連想したのだが、驚いたことに登場した主人公はロシアの文豪ドストエフスキーその人であった。
私は行ったことがないが、バーデンバーデンは南ドイツの温泉町で、かつてミヒャエル・ギーレンをシェフとしていた前衛音楽の演奏に長けた渋いローカル・オーケストラを擁する街である。
古くからヨーロッパの貴族やお金持ちが保養や避暑に出かけたらしいが、ドストエフスキー夫妻もこの町に出かけ、最後の一カペイカまで賭博に投じる場面がこのドキュメンタリー的私小説のかなりの部分を占めている。
著者は文学趣味を持つ旧ソ連の科学者だが、バーデンバーデン、ドレスデン、パリを流離うドストエフスキー夫妻の旅を史実に即して追いながら、著者自身のドストエフスキー発見の内面の旅がピアノのフーガの連弾のようにめまぐるしく交錯しながら描かれ、文豪への熱烈な愛と献身に貫かれた遁走曲は、1881年1月28日の文豪の死の床の感情を抑えた、しかし感動的な描写でその絶頂に達する。
エドワード・ラジンスキーの「アレクサンドル2世暗殺」でも詳しく叙述されていたように「カラマーゾフの兄弟」を書き上げたばかりのドストエフスキーは、書棚の下に転がり込んだ愛用のペンを探そうとしてかがんだときに肺を傷つけ、そこからの出血が原因で無念の突然死を遂げてしまう。
昨日の赤塚不二夫と同じくらい、早すぎた無念な逝去であった。
なおこの本は、2004年に亡くなったスーザン・ソンタグによって「最も美しく感動的でユニークな作品」と絶賛されてはじめて世に出たが、「ドストエフスキーを愛すること」という彼女の序文も心に深く沁みる。
幼虫をトイレに捨てたる息子かな 茫洋
新潮社のクレストブックは用紙や装丁がどことなく西欧の文学書のにおいをほのかながらも伝えているので、たまに手に取るが、この本はタイトルに惹かれて読んでみた。なんとなく私の愛してやまない「旅の日のモーツアルト」を連想したのだが、驚いたことに登場した主人公はロシアの文豪ドストエフスキーその人であった。
私は行ったことがないが、バーデンバーデンは南ドイツの温泉町で、かつてミヒャエル・ギーレンをシェフとしていた前衛音楽の演奏に長けた渋いローカル・オーケストラを擁する街である。
古くからヨーロッパの貴族やお金持ちが保養や避暑に出かけたらしいが、ドストエフスキー夫妻もこの町に出かけ、最後の一カペイカまで賭博に投じる場面がこのドキュメンタリー的私小説のかなりの部分を占めている。
著者は文学趣味を持つ旧ソ連の科学者だが、バーデンバーデン、ドレスデン、パリを流離うドストエフスキー夫妻の旅を史実に即して追いながら、著者自身のドストエフスキー発見の内面の旅がピアノのフーガの連弾のようにめまぐるしく交錯しながら描かれ、文豪への熱烈な愛と献身に貫かれた遁走曲は、1881年1月28日の文豪の死の床の感情を抑えた、しかし感動的な描写でその絶頂に達する。
エドワード・ラジンスキーの「アレクサンドル2世暗殺」でも詳しく叙述されていたように「カラマーゾフの兄弟」を書き上げたばかりのドストエフスキーは、書棚の下に転がり込んだ愛用のペンを探そうとしてかがんだときに肺を傷つけ、そこからの出血が原因で無念の突然死を遂げてしまう。
昨日の赤塚不二夫と同じくらい、早すぎた無念な逝去であった。
なおこの本は、2004年に亡くなったスーザン・ソンタグによって「最も美しく感動的でユニークな作品」と絶賛されてはじめて世に出たが、「ドストエフスキーを愛すること」という彼女の序文も心に深く沁みる。
幼虫をトイレに捨てたる息子かな 茫洋
Saturday, August 02, 2008
続々安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
照る日曇る日第144回&鎌倉ちょっと不思議な物語140回
室町幕府は京の花の御所にあったが、関東の政務は鎌倉公方4代目の足利持氏が関東管領の上杉憲実と共に執り行っていた。鎌倉公方の御所は私の住まいから5分の浄明寺にあり、その旧蹟には写真のような鎌倉青年団作成のおおきな碑が建っている。
1438年永亨10年6月、足利将軍義教に逆らって兵を挙げた持氏は、斯波、一色の軍勢に敗れて鎌倉永安寺に武装を解いて恭順の意を表していたが義教は許さず、翌年の2月にこのいまはなき廃寺を十重二十重に取り囲んだ憲実の兵の前で息子の義久とともに自刃して果てた。これを永亨の乱という。
持氏が死んだ永安寺は基氏に続く2代目鎌倉公方足利氏満の菩提を弔うために鎌倉二階堂紅葉が谷に創建された禅寺で、名刹瑞泉寺のすぐ近くにあった。
公方は毎年2月に参詣することになっていたので、その2月の梅の季節に持氏が亡くなったのもなにかの宿縁であろう。わが愛読書の「鎌倉廃寺事典」によれば、「結城合戦絵巻」に悲劇の将足利持氏が自刃するさまが描かれているようだ。
翌年持氏の遺児安王丸、春王丸を擁して結城氏朝が幕府に反旗を翻した。持氏を殺して鎌倉の主となった上杉憲実にたいする反感もあって茨城の結城城には関東の名だたる武将が参集して頑強に戦ったが、武運つたなく1441年嘉吉元年結城氏朝は戦死し、安王丸と春王丸も京に送られる途中で殺された。
これが結城合戦であるが、名門大守護の結城氏がこうして没落してくれたおかげで、その部下の末裔であった今川氏や織田氏が戦国の世に活躍の場を得ることができたともいえる。
♪一日に二匹の蝉を拾いけり 茫洋
室町幕府は京の花の御所にあったが、関東の政務は鎌倉公方4代目の足利持氏が関東管領の上杉憲実と共に執り行っていた。鎌倉公方の御所は私の住まいから5分の浄明寺にあり、その旧蹟には写真のような鎌倉青年団作成のおおきな碑が建っている。
1438年永亨10年6月、足利将軍義教に逆らって兵を挙げた持氏は、斯波、一色の軍勢に敗れて鎌倉永安寺に武装を解いて恭順の意を表していたが義教は許さず、翌年の2月にこのいまはなき廃寺を十重二十重に取り囲んだ憲実の兵の前で息子の義久とともに自刃して果てた。これを永亨の乱という。
持氏が死んだ永安寺は基氏に続く2代目鎌倉公方足利氏満の菩提を弔うために鎌倉二階堂紅葉が谷に創建された禅寺で、名刹瑞泉寺のすぐ近くにあった。
公方は毎年2月に参詣することになっていたので、その2月の梅の季節に持氏が亡くなったのもなにかの宿縁であろう。わが愛読書の「鎌倉廃寺事典」によれば、「結城合戦絵巻」に悲劇の将足利持氏が自刃するさまが描かれているようだ。
翌年持氏の遺児安王丸、春王丸を擁して結城氏朝が幕府に反旗を翻した。持氏を殺して鎌倉の主となった上杉憲実にたいする反感もあって茨城の結城城には関東の名だたる武将が参集して頑強に戦ったが、武運つたなく1441年嘉吉元年結城氏朝は戦死し、安王丸と春王丸も京に送られる途中で殺された。
これが結城合戦であるが、名門大守護の結城氏がこうして没落してくれたおかげで、その部下の末裔であった今川氏や織田氏が戦国の世に活躍の場を得ることができたともいえる。
♪一日に二匹の蝉を拾いけり 茫洋
Friday, August 01, 2008
続 安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
続 安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
照る日曇る日第143回&
盂蘭盆には死者のために経を読み、供物や手向け水を供える。風流(ふりゆう)、風流踊り(盆踊り)はほんらいは死者の供養のためのダンスだが、これらは室町時代に日本全国で流行し、芸能化・娯楽化の道をたどっていたと著者の安田次郎氏は書いている。
応永30年1423年船津村の風流踊りは「吾妻鏡」の朝比奈三郎義秀の活躍の場面を脚色して村人総出で踊ったそうだ。
私の家の近くに朝比奈切り通しがあるが、この難所は鎌倉幕府の侍所長官和田義盛の剛勇無双を謳われた息子、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説で知られている。
そして和田氏がかの悪名高き北条氏に陰謀に抗して和田合戦を引き起こしたとき、義秀は総門を単身突破して幕府の南庭に乱入したと「吾妻鏡」は伝えているが、彼らはこの有名なシーンを再現したのであった。
道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉
生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ
照る日曇る日第143回&
盂蘭盆には死者のために経を読み、供物や手向け水を供える。風流(ふりゆう)、風流踊り(盆踊り)はほんらいは死者の供養のためのダンスだが、これらは室町時代に日本全国で流行し、芸能化・娯楽化の道をたどっていたと著者の安田次郎氏は書いている。
応永30年1423年船津村の風流踊りは「吾妻鏡」の朝比奈三郎義秀の活躍の場面を脚色して村人総出で踊ったそうだ。
私の家の近くに朝比奈切り通しがあるが、この難所は鎌倉幕府の侍所長官和田義盛の剛勇無双を謳われた息子、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説で知られている。
そして和田氏がかの悪名高き北条氏に陰謀に抗して和田合戦を引き起こしたとき、義秀は総門を単身突破して幕府の南庭に乱入したと「吾妻鏡」は伝えているが、彼らはこの有名なシーンを再現したのであった。
道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉
生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ
Wednesday, July 30, 2008
2008年文月茫洋詩歌集
2008年文月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その31
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや
わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ
Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター
かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり
中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏
品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く
こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち
こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前
沿線の紅いカンナの命かな
セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ
妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生
たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生
あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る
息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう
ダガーナイフに罪はない ダガーで刺すやつが悪い
アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり
ファンドなどと英語でカッコつけてるが我利我利亡者の仕事なりけり
♪ある晴れた日に その31
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや
わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ
Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター
かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり
中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏
品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く
こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち
こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前
沿線の紅いカンナの命かな
セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ
妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生
たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生
あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る
息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう
ダガーナイフに罪はない ダガーで刺すやつが悪い
アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり
ファンドなどと英語でカッコつけてるが我利我利亡者の仕事なりけり
Tuesday, July 29, 2008
安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
照る日曇る日第142回
足利尊氏の執事として権力をほしいままにした高師直は、四条畷の激戦で楠木正行を戦死させ、一時は尊氏の弟直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍で十重二十重に取り囲んだほどの勢いを見せた。
師直は夜な夜な貴族の家に忍び込んで評判の娘を誘拐してはその貞操をほしいいままに蹂躙していた典型的なバサラ大名で日本史上有数の好色な武人だった。
あるとき美人の誉れ高い出雲守護佐々木塩冶判官高貞の妻に横恋慕した師直だったがまったく相手にされない。いつもならお得意の夜這いと暴力に訴えるのだが、考えた挙句に「兼好と云ける能書の遁世者を呼び寄せて」ラブレターの代筆を頼んだ。「徒然草」の兼好法師はどうやら当代一のゴーストライターとして知られていたらしい。
ところがせっかくの名文なのに高貞の妻は開封すらせずに捨ててしまったので、師直は怒り狂って「今日よりその兼好法師、是へよすべからず」と出入り差し止めにしてしまったという。
兼好にすれば、彼女が読んでくれさえすれば色男になびかせる自信もあっただろう。彼女が読まないのに自分を首にした師直に対しては頭にきたのではないだろうか。
しかし権力者の要請にこたえて恋文を書いてしまう吉田兼好の姿は、独立不羈な「徒然草」の世界を知るものにとってはいささか意外の感もしないではない。
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図 茫洋
足利尊氏の執事として権力をほしいままにした高師直は、四条畷の激戦で楠木正行を戦死させ、一時は尊氏の弟直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍で十重二十重に取り囲んだほどの勢いを見せた。
師直は夜な夜な貴族の家に忍び込んで評判の娘を誘拐してはその貞操をほしいいままに蹂躙していた典型的なバサラ大名で日本史上有数の好色な武人だった。
あるとき美人の誉れ高い出雲守護佐々木塩冶判官高貞の妻に横恋慕した師直だったがまったく相手にされない。いつもならお得意の夜這いと暴力に訴えるのだが、考えた挙句に「兼好と云ける能書の遁世者を呼び寄せて」ラブレターの代筆を頼んだ。「徒然草」の兼好法師はどうやら当代一のゴーストライターとして知られていたらしい。
ところがせっかくの名文なのに高貞の妻は開封すらせずに捨ててしまったので、師直は怒り狂って「今日よりその兼好法師、是へよすべからず」と出入り差し止めにしてしまったという。
兼好にすれば、彼女が読んでくれさえすれば色男になびかせる自信もあっただろう。彼女が読まないのに自分を首にした師直に対しては頭にきたのではないだろうか。
しかし権力者の要請にこたえて恋文を書いてしまう吉田兼好の姿は、独立不羈な「徒然草」の世界を知るものにとってはいささか意外の感もしないではない。
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図 茫洋
Sunday, July 27, 2008
続々 網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで その3
続々 網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで
照る日曇る日第141回
「百姓」とは文字通り百の職業・職種の民を指すのに、いつのまにやらそれが「農民」だけを意味し、都市の商工業者や漁民や山民を排除し、あまつさえ差別するようになったと網野は執拗に説いた。
たとえば養蚕業者は稲作農耕とは無関係なのに、いまなお養蚕農業というカテゴリにー取り入れられ、農民の仲間とされているのは果樹農家という用語と同様に奇妙な話である。
養蚕の原料となる桑は漆と同様弥生時代以降全国で生産され、主に女性の手で生産・販売された。それは稲作のそれが主に男性によって担われたことと好一対をなしていると網野はいう。
女性はまゆや糸や絹を自らの宰領で商人に売り渡して自らを飾り、自らの収入とし、夫の家業の農業が不振な年には、ルイス・フロイスが安土桃山時代に証言しているように、「妻が夫に高利で貸し付けていた」。
その後わが国で発達した工業制工業の時代にあって、富岡の製糸業や綾部の郡是製糸などが花形産業として活躍するようになるが、その主要な担い手はやはり2000年以上の養蚕・製糸の技術を持つ女性たちであった。
それにもかかわらず、彼女たちの力量は正当に評価されずに「女工」とさげすまれ、かずかずの哀史がいたるところの野麦峠で繰り返されるようになったのはどうしてだろうか。
このように遠い昔の歴史を掘り返してみると、社会の中で女性の占める位置がもっとも高くなったのが現代であるとは、いちがいに言えないようである。
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり 茫洋
照る日曇る日第141回
「百姓」とは文字通り百の職業・職種の民を指すのに、いつのまにやらそれが「農民」だけを意味し、都市の商工業者や漁民や山民を排除し、あまつさえ差別するようになったと網野は執拗に説いた。
たとえば養蚕業者は稲作農耕とは無関係なのに、いまなお養蚕農業というカテゴリにー取り入れられ、農民の仲間とされているのは果樹農家という用語と同様に奇妙な話である。
養蚕の原料となる桑は漆と同様弥生時代以降全国で生産され、主に女性の手で生産・販売された。それは稲作のそれが主に男性によって担われたことと好一対をなしていると網野はいう。
女性はまゆや糸や絹を自らの宰領で商人に売り渡して自らを飾り、自らの収入とし、夫の家業の農業が不振な年には、ルイス・フロイスが安土桃山時代に証言しているように、「妻が夫に高利で貸し付けていた」。
その後わが国で発達した工業制工業の時代にあって、富岡の製糸業や綾部の郡是製糸などが花形産業として活躍するようになるが、その主要な担い手はやはり2000年以上の養蚕・製糸の技術を持つ女性たちであった。
それにもかかわらず、彼女たちの力量は正当に評価されずに「女工」とさげすまれ、かずかずの哀史がいたるところの野麦峠で繰り返されるようになったのはどうしてだろうか。
このように遠い昔の歴史を掘り返してみると、社会の中で女性の占める位置がもっとも高くなったのが現代であるとは、いちがいに言えないようである。
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり 茫洋
Friday, July 25, 2008
続 網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで
照る日曇る日第140回
私たちは、そも何のために、何に忠義立てして、重厚長大な国家という鎧兜を身にまといたがるのだろうか。恐らくは己の魂に自恃がないからだろう。
と、これは私のひとりごと。
それにしてもこれから日本はどこへ行くのだろう。私たちは日本をどうすればいいのだろう。
今を去ること遠くない時代に、この国の理想は「東洋のスイス」であると語った人もいた。
またある痴人は、日本という国家を解体し、アジアの南極にすることが生涯の夢であるという。特定の国家権力と戦力がない永世中立世界万民公有自由通商地域にしようというのである。さうしてそれが実現不可能ならば、廃藩置県ならぬ「廃国立県」を行なって江戸時代の昔に戻ろう。「統一と団結」から「孤立と自由」へ、「集権」から「分散」へ向かおうというのである。
思うに、少なくとも沖縄・東北・北海道はいますぐ独立すべきだろう。そのほうがけっきょくお互いの仕合せになるだろう。さもなければこの奇妙奇天烈な国家は、勝手に暴走して人民をまたしても鉄のくびきで緊縛し、最後にはお得意の「自衛のための侵略戦争」をおっぱじめるにちがいない。
と、わが親しき三年寝太郎は、このときばかりは目を山猫のようにらんらんと光らせて熱く語るのであった。
♪あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る 茫洋
私たちは、そも何のために、何に忠義立てして、重厚長大な国家という鎧兜を身にまといたがるのだろうか。恐らくは己の魂に自恃がないからだろう。
と、これは私のひとりごと。
それにしてもこれから日本はどこへ行くのだろう。私たちは日本をどうすればいいのだろう。
今を去ること遠くない時代に、この国の理想は「東洋のスイス」であると語った人もいた。
またある痴人は、日本という国家を解体し、アジアの南極にすることが生涯の夢であるという。特定の国家権力と戦力がない永世中立世界万民公有自由通商地域にしようというのである。さうしてそれが実現不可能ならば、廃藩置県ならぬ「廃国立県」を行なって江戸時代の昔に戻ろう。「統一と団結」から「孤立と自由」へ、「集権」から「分散」へ向かおうというのである。
思うに、少なくとも沖縄・東北・北海道はいますぐ独立すべきだろう。そのほうがけっきょくお互いの仕合せになるだろう。さもなければこの奇妙奇天烈な国家は、勝手に暴走して人民をまたしても鉄のくびきで緊縛し、最後にはお得意の「自衛のための侵略戦争」をおっぱじめるにちがいない。
と、わが親しき三年寝太郎は、このときばかりは目を山猫のようにらんらんと光らせて熱く語るのであった。
♪あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る 茫洋
Thursday, July 24, 2008
網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで
照る日曇る日第139回
日本について考えたり、議論する前に、日本という言葉とその内容にこだわらなければなるまい。「日本」という称号が歴史に初めて登場するのは7世紀末の689年制定の飛鳥浄御原令からであり、ほぼ同じ頃に「天皇」なる称号も誕生したと著者はいう。
すると、倭の国の王が存在したことはあっても、神武から天智までの天皇は存在せず、「縄文・弥生時代の日本人」などはそれ自体が形容矛盾でありナンセンスな表現であることになる。
「日本」にしても「天皇」にしても、それは始まりと終わりのある単なるひとつの歴史的存在にすぎないのに、私たちはそれらが格別に重要・重大な名称や存在であるかのように錯覚しているのではないだろうか。
日本と日本国の明確な定義すらできていないのに、日本人論だの日本文化論だの日本国民国家論がにわかに成立するわけがないとも、著者はいう。
著者によれば、日本、日本と一口にいうが、日本が孤立した島国で一元的に水田稲作に特化した瑞穂の国であり、万世一系の日本民族という単一民族が作り上げた単一国家であるなどという幻想は、とっくの昔に打ち砕かれている。
縄文人、弥生人の昔はさておくとしても、列島にかろうじて成立したのは本州西部を基盤とした倭人が住む「ヤマト国家」だけであって、もともと北海道はアイヌ王国、沖縄は琉球王国、東北と九州南部は完全な別国家であった。
それだけではなく、本州本体の東部は源頼朝が確立した「関東国家政権」であり、京の西部政権とは別の政治的経済的文化圏を構成していた。ヤマト国家ですら異質で敵対的な要素を内部にはらんだ2重権力国家であった。それらを長い時間をかけて名目だけのパッチワーク&アマルガム体制にもちこんだのが現在の日本国と日本民族なのである。
それなのに私たちはどうして誰一人確証できない日時に「建国記念日」を祝ったり、陰気な短調の和旋律を無理矢理起立して唱和するひつようがあるのだろうか?
私たちは毎日服装を取り替えるように、いつだって国名や国歌や象徴天皇制を自由に改変・改廃してもいいのである。
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る 亡羊
日本について考えたり、議論する前に、日本という言葉とその内容にこだわらなければなるまい。「日本」という称号が歴史に初めて登場するのは7世紀末の689年制定の飛鳥浄御原令からであり、ほぼ同じ頃に「天皇」なる称号も誕生したと著者はいう。
すると、倭の国の王が存在したことはあっても、神武から天智までの天皇は存在せず、「縄文・弥生時代の日本人」などはそれ自体が形容矛盾でありナンセンスな表現であることになる。
「日本」にしても「天皇」にしても、それは始まりと終わりのある単なるひとつの歴史的存在にすぎないのに、私たちはそれらが格別に重要・重大な名称や存在であるかのように錯覚しているのではないだろうか。
日本と日本国の明確な定義すらできていないのに、日本人論だの日本文化論だの日本国民国家論がにわかに成立するわけがないとも、著者はいう。
著者によれば、日本、日本と一口にいうが、日本が孤立した島国で一元的に水田稲作に特化した瑞穂の国であり、万世一系の日本民族という単一民族が作り上げた単一国家であるなどという幻想は、とっくの昔に打ち砕かれている。
縄文人、弥生人の昔はさておくとしても、列島にかろうじて成立したのは本州西部を基盤とした倭人が住む「ヤマト国家」だけであって、もともと北海道はアイヌ王国、沖縄は琉球王国、東北と九州南部は完全な別国家であった。
それだけではなく、本州本体の東部は源頼朝が確立した「関東国家政権」であり、京の西部政権とは別の政治的経済的文化圏を構成していた。ヤマト国家ですら異質で敵対的な要素を内部にはらんだ2重権力国家であった。それらを長い時間をかけて名目だけのパッチワーク&アマルガム体制にもちこんだのが現在の日本国と日本民族なのである。
それなのに私たちはどうして誰一人確証できない日時に「建国記念日」を祝ったり、陰気な短調の和旋律を無理矢理起立して唱和するひつようがあるのだろうか?
私たちは毎日服装を取り替えるように、いつだって国名や国歌や象徴天皇制を自由に改変・改廃してもいいのである。
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る 亡羊
Tuesday, July 22, 2008
プロムス2008はじまる
♪音楽千夜一夜第40回
この夏もロンドン恒例の音楽祭プロムス2008が始まった。第114回目のヘンリーウッド・プロムナードコンサートの開幕である。
これからおよそ2ヶ月間毎日毎晩何千何百というコンサートをライブ中継で聞くことができると思うと、なにがなしにうれしくなる。
初日はおなじみロイヤルアルバートホールからの中継で、ルイジ・ビエロフラーベック指揮BBC響によるリヒアルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(クリスチン・ブリュアー独唱)、モーツアルトの「オーボエ協奏曲」(ニコラス・ダニエル独奏)などを聴いたが、オーボエがよい音を出していた。指揮者は昔から三流の人だが、三流だってべつに悪くはない。私もようやくそういう悟りの境地に達しました。
しかし何千マイルを隔てて聴くこの巨大ホールの音の素晴らしさは、有楽町駅前や渋谷区神南の最悪音響犬小屋空間の比ではない。なによりも音楽を愛するロンドン市民の心の鼓動に触れるよろこびがある。
そのほかのプログラムは、これまでにピエール・ローラン・エマールの素敵なシューマンのピアノ曲やチョンミュンフン指揮ラジオフランス響によるサンサンスの交響曲オルガン付きなどを聴いたが今年もなかなか楽しめそうだ。
ともかくソロもオケも世界各国から古参、新進気鋭のめぼしいものがどんどんやってくるので連日のプログラムから眼を離せない。内田光子とアルゲリッチのピアノはいつも素晴らしいが、去年は長年にわたって低迷を続けていたポリーニが久しぶりに光彩陸離たる演奏をやってのけたのでちと驚いた。どっこいミラノの孤高の天才はしぶとく生き延びていた。どうか今年も世界一うるさいロンドンの聴衆と惰眠をむさぼる小生のロバの耳を驚かせてほしいものだ。
なおプロムスにはクラシックだけでなく詩の朗読プログラムもたくさんある。
♪翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ 茫洋
この夏もロンドン恒例の音楽祭プロムス2008が始まった。第114回目のヘンリーウッド・プロムナードコンサートの開幕である。
これからおよそ2ヶ月間毎日毎晩何千何百というコンサートをライブ中継で聞くことができると思うと、なにがなしにうれしくなる。
初日はおなじみロイヤルアルバートホールからの中継で、ルイジ・ビエロフラーベック指揮BBC響によるリヒアルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(クリスチン・ブリュアー独唱)、モーツアルトの「オーボエ協奏曲」(ニコラス・ダニエル独奏)などを聴いたが、オーボエがよい音を出していた。指揮者は昔から三流の人だが、三流だってべつに悪くはない。私もようやくそういう悟りの境地に達しました。
しかし何千マイルを隔てて聴くこの巨大ホールの音の素晴らしさは、有楽町駅前や渋谷区神南の最悪音響犬小屋空間の比ではない。なによりも音楽を愛するロンドン市民の心の鼓動に触れるよろこびがある。
そのほかのプログラムは、これまでにピエール・ローラン・エマールの素敵なシューマンのピアノ曲やチョンミュンフン指揮ラジオフランス響によるサンサンスの交響曲オルガン付きなどを聴いたが今年もなかなか楽しめそうだ。
ともかくソロもオケも世界各国から古参、新進気鋭のめぼしいものがどんどんやってくるので連日のプログラムから眼を離せない。内田光子とアルゲリッチのピアノはいつも素晴らしいが、去年は長年にわたって低迷を続けていたポリーニが久しぶりに光彩陸離たる演奏をやってのけたのでちと驚いた。どっこいミラノの孤高の天才はしぶとく生き延びていた。どうか今年も世界一うるさいロンドンの聴衆と惰眠をむさぼる小生のロバの耳を驚かせてほしいものだ。
なおプロムスにはクラシックだけでなく詩の朗読プログラムもたくさんある。
♪翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ 茫洋
Monday, July 21, 2008
由比ガ浜で泳ぐ
♪バガテルop69
夏は海に限る。昨日も今日も夕方近くの由比ガ浜で消夏した。
今年は南風に吹き寄せられた赤い海草が海岸近くにうごめいているのが気になるが、少し沖に出れば消えうせてしまう。昔はこうやって泳いでいると体にボラだのがこつんこつんと体当たりしてきて心地よかったものだが、最近はあまりそういう体験がなくなった。
けれど海は海だ。
泳いでいると、ここが吾等人類の発祥地であると体感できる。
毎日のように日替わりで起こる人殺し事件も、それらを朝から狂ったように報道しているマスコミも、それらすべての原因をおのれ一人が分かったつもりでしたり顔にロン評しているさかしらな人たちや目前に迫った仕事の締め切りなんぞもすべて忘れはて、寄せては返す相模湾の穏やかな波にぽっかりと浮かんでいた。
それから陸にあがって寝転んでいると、日本人だかブラジル人だかよく分からない若者たち数人がサッカーの模擬戦をしていて危ないので、「馬鹿者、こんなところでサッカーなどやめろ」と注意したが、「済みません、済みません」と口先で言うだけでいっこうにやめない。
良識は無理だとしても、最低限の常識さえ持ち合わせない手合いが日々増殖しているようだ。家に帰ってからピエール・モントウー八〇翁指揮ロンドン響の演奏でラベルを聴いていると、おおいに清了されちまった。
♪アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
夏は海に限る。昨日も今日も夕方近くの由比ガ浜で消夏した。
今年は南風に吹き寄せられた赤い海草が海岸近くにうごめいているのが気になるが、少し沖に出れば消えうせてしまう。昔はこうやって泳いでいると体にボラだのがこつんこつんと体当たりしてきて心地よかったものだが、最近はあまりそういう体験がなくなった。
けれど海は海だ。
泳いでいると、ここが吾等人類の発祥地であると体感できる。
毎日のように日替わりで起こる人殺し事件も、それらを朝から狂ったように報道しているマスコミも、それらすべての原因をおのれ一人が分かったつもりでしたり顔にロン評しているさかしらな人たちや目前に迫った仕事の締め切りなんぞもすべて忘れはて、寄せては返す相模湾の穏やかな波にぽっかりと浮かんでいた。
それから陸にあがって寝転んでいると、日本人だかブラジル人だかよく分からない若者たち数人がサッカーの模擬戦をしていて危ないので、「馬鹿者、こんなところでサッカーなどやめろ」と注意したが、「済みません、済みません」と口先で言うだけでいっこうにやめない。
良識は無理だとしても、最低限の常識さえ持ち合わせない手合いが日々増殖しているようだ。家に帰ってからピエール・モントウー八〇翁指揮ロンドン響の演奏でラベルを聴いていると、おおいに清了されちまった。
♪アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
Saturday, July 19, 2008
コクーンの建築
勝手に建築観光31回
9/11の同時多発テロ以降も、コクーンニングcocooniningの思想はしぶとく息づいている。
私たちはその証左を渋谷東急文化村のシアターコクンや埼玉県大宮市の商業施設コクーン新都心といったネーミング、さらには最近新宿西口に建設中の東京モード学園コクーンタワーや北京五輪メーン会場の建築デザインにもその格好の例を見出すことができる。
北京国家体育場は、プラダ青山店やドイツのワールドカップのメイン競技場、ロンドンのテートモダン美術館などを設計したスイスの有名な建築家デユオ、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるものであり、すでに「鳥の巣」の愛称で親しまれている。
またモード学園のコクーンタワーは、名前どおりの繭とも見え、直立させた鳥の巣のようにも見えるが、北京と新宿のいずれもがけっして内に閉じこもらず、外部に向かって威圧的に聳えているようだ。
9/11の同時多発テロ直後のコクーンニングcocooniningの思想が、ともかく安全無害な隠れ家に逼塞しようという温和で後退的な負の姿勢であったのに対して、およそ10年を経て建てられたこの2つの巨大建築では、己の領分と身の安全をしっかりと守りながら、外部世界(先進西欧諸国や競合専門学校)に対して激しく自己を誇示しつつ攻め込み、切り込む姿勢をするどく表明している。
遠くから眺めるその姿は、「繭」や「巣」という平和的な名称とは裏腹に、盾と矛を備え、和戦両様にすばやく対応する現代戦士の象徴のように、私には映るのである。
♪ダガーナイフに罪はない ダガーを持つやつが悪い 茫洋
9/11の同時多発テロ以降も、コクーンニングcocooniningの思想はしぶとく息づいている。
私たちはその証左を渋谷東急文化村のシアターコクンや埼玉県大宮市の商業施設コクーン新都心といったネーミング、さらには最近新宿西口に建設中の東京モード学園コクーンタワーや北京五輪メーン会場の建築デザインにもその格好の例を見出すことができる。
北京国家体育場は、プラダ青山店やドイツのワールドカップのメイン競技場、ロンドンのテートモダン美術館などを設計したスイスの有名な建築家デユオ、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるものであり、すでに「鳥の巣」の愛称で親しまれている。
またモード学園のコクーンタワーは、名前どおりの繭とも見え、直立させた鳥の巣のようにも見えるが、北京と新宿のいずれもがけっして内に閉じこもらず、外部に向かって威圧的に聳えているようだ。
9/11の同時多発テロ直後のコクーンニングcocooniningの思想が、ともかく安全無害な隠れ家に逼塞しようという温和で後退的な負の姿勢であったのに対して、およそ10年を経て建てられたこの2つの巨大建築では、己の領分と身の安全をしっかりと守りながら、外部世界(先進西欧諸国や競合専門学校)に対して激しく自己を誇示しつつ攻め込み、切り込む姿勢をするどく表明している。
遠くから眺めるその姿は、「繭」や「巣」という平和的な名称とは裏腹に、盾と矛を備え、和戦両様にすばやく対応する現代戦士の象徴のように、私には映るのである。
♪ダガーナイフに罪はない ダガーを持つやつが悪い 茫洋
Friday, July 18, 2008
コクーンの歴史
ふあっちょん幻論第22回
繭には家蚕と野蚕の2種があるが、そのいずれにも不可思議な効能が秘められていることは古代の中国でよく知られていた。
紀元前2600年頃のある日、当時の中国の皇帝の妃西陵が1つの繭を誤って湯の中に落としたことが絹の誕生につながった。そして絹を着ることは美しさだけでなく、心身の健康のために役立つことが分かったのである。
わが国の絹織物は、応仁の乱がようやく終わった焼け跡の西陣を産地として作られはじめたが、明治2年に政府が大阪、のちに京都に開設した舎密局が絹やカイコを近代科学の観点から研究し、これが大きく産業振興に役立った。
さらに1930年代に蛹・糞・繭などカイコの生活史を徹底的に研究した結果、繭やそれを原料とする絹はたんぱくのかたまりで抗菌性があり、絹のガーゼを患部に当てるだけでさまざまな効果があるということが広く知られるようになった。
では最近のカイコ・絹情報をいくつかご紹介しておこう。
カイコは糸を作る際にCO2取り込む。いまはやりの「環境に優しい」生物なのである。
家蚕は「春嶺鐘月」という蚕からとるのが普通だが、京都の老舗呉服商「誉田屋源兵衛」では、皇室の「紅葉山御養蚕所」でしか飼育されていなかった日本原種の希少蚕「小石丸」を使って1着100万の絹織物を生産している。
絹産地である山形県米沢市「クレッシェンド・ヨネザワ」の生地はことのほかシャネルに愛され、毎年のように発注されている。
デザイナーの岡正子は、ハイテク新合繊の自在さと繊細な絹の美しさの両立をめざして糸加工から染めや織、仕上げの精錬加工に至る伝統技術とハイテクノロジーのハイブリッドに挑戦している。
日本伝統のカイコ技術は、海外にも進出している。
インドは生糸生産が年1万4千トンで中国に次いで世界2位の蚕大国だが、JICA国際協力事業団は12年にわたってインドにおける飼育研究を指導した結果、丈夫で長い生糸の生産に成功し好評を博している。この改良型は07年に6700トンまで増産されたが、肝心の日本生糸は年産400トンに急落しているのが残念。
日本・中国のカイコは年2回孵化するが、暑いインドでは5回である。しかしもちろん2化性の方が糸は丈夫で長く、高品質である。
カイコの食草はクワだけだと思っていたが、クヌギ、コナラ、クリも食べるという。今度試してみよう。チョウも複数の植物を食草にしているからこれは考えてみれば当然のことだった。
♪息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう 亡羊
繭には家蚕と野蚕の2種があるが、そのいずれにも不可思議な効能が秘められていることは古代の中国でよく知られていた。
紀元前2600年頃のある日、当時の中国の皇帝の妃西陵が1つの繭を誤って湯の中に落としたことが絹の誕生につながった。そして絹を着ることは美しさだけでなく、心身の健康のために役立つことが分かったのである。
わが国の絹織物は、応仁の乱がようやく終わった焼け跡の西陣を産地として作られはじめたが、明治2年に政府が大阪、のちに京都に開設した舎密局が絹やカイコを近代科学の観点から研究し、これが大きく産業振興に役立った。
さらに1930年代に蛹・糞・繭などカイコの生活史を徹底的に研究した結果、繭やそれを原料とする絹はたんぱくのかたまりで抗菌性があり、絹のガーゼを患部に当てるだけでさまざまな効果があるということが広く知られるようになった。
では最近のカイコ・絹情報をいくつかご紹介しておこう。
カイコは糸を作る際にCO2取り込む。いまはやりの「環境に優しい」生物なのである。
家蚕は「春嶺鐘月」という蚕からとるのが普通だが、京都の老舗呉服商「誉田屋源兵衛」では、皇室の「紅葉山御養蚕所」でしか飼育されていなかった日本原種の希少蚕「小石丸」を使って1着100万の絹織物を生産している。
絹産地である山形県米沢市「クレッシェンド・ヨネザワ」の生地はことのほかシャネルに愛され、毎年のように発注されている。
デザイナーの岡正子は、ハイテク新合繊の自在さと繊細な絹の美しさの両立をめざして糸加工から染めや織、仕上げの精錬加工に至る伝統技術とハイテクノロジーのハイブリッドに挑戦している。
日本伝統のカイコ技術は、海外にも進出している。
インドは生糸生産が年1万4千トンで中国に次いで世界2位の蚕大国だが、JICA国際協力事業団は12年にわたってインドにおける飼育研究を指導した結果、丈夫で長い生糸の生産に成功し好評を博している。この改良型は07年に6700トンまで増産されたが、肝心の日本生糸は年産400トンに急落しているのが残念。
日本・中国のカイコは年2回孵化するが、暑いインドでは5回である。しかしもちろん2化性の方が糸は丈夫で長く、高品質である。
カイコの食草はクワだけだと思っていたが、クヌギ、コナラ、クリも食べるという。今度試してみよう。チョウも複数の植物を食草にしているからこれは考えてみれば当然のことだった。
♪息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう 亡羊
Thursday, July 17, 2008
コクーンの時代
♪バガテルop68
2001年9月11日の同時多発テロ以降、世界は変わった。
人々の心に疑心暗鬼が忍び込み、お互いがお互いを無邪気に信じることが出来なくなった。信頼と無垢の時代が終焉したのである。
この年の冬、米国社会では「コクーンニングcocoonining」とか「コクーンニング消費」という言葉が流行した。Cocoonとはチョウやガやカイコが作る繭のことで、繭の中には蛹が入っている。まるで小鳥がぬくぬくと巣の中で眠っているようだということで、「巣ごもり消費」という言葉も生まれた。
いつ殺されるかわからないような危険な場所に出かけず、家族が家内で身を寄せ合って過そう。安全を確保し、家族の絆とささやかな幸せを確認しようとする自己完結的な生活と消費行動がその年のクリスマスには顕著だった。これがその後世界中に流行し、一世を風靡した「癒しとヒーリング」志向のはじまりではなかっただろうか。
「癒されたい」とか「癒された」という甘っちょろい用語が、その用語の使用者の精神の退廃と堕落をあますところなく証明していることはさておくとしても……。
ちなみに01年のクリスマスには、わが国でもクライスラー「愛の喜び」などのヒーリング音楽CDや32000円の銀製スプーンセット、12000円の日比谷花壇の本物のツリーが売れ、DVD、大画面プラズマTV、ホームシアター元年となった。ソニーのプレステに対抗してマイクロソフトの新型ゲーム機「Xbox」発売されたのはその翌年のことだった。
「コクーンニングcocoonining」の元になったロン・ハワード監督のSF映画「コクーン」は1985年に公開されていた。映画宇宙のからやってきたアンタレス星人がフロリダのプールの中に沈めた巨大な繭が、じつは生命の力を回復させる驚異的な能力を持っていて、瀕死の老人たちを救うというあらすじである。
確かに繭には玄妙なエネルギーがある。私の郷里は養蚕業の盛んな口丹波であるが、少年時代の毎日のおやつはカイコの蛹であり、こんがりと炒ったあの素晴らしく美味な蛋白質を摂取することによって貧しい日々の糧を補っていたことを懐かしく思い出す。
コクーンの生命力はアジアの片隅の農村で数多くの勤労青少年とルンペンプロレタリアートを救済していたのである。
♪たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生 茫洋
2001年9月11日の同時多発テロ以降、世界は変わった。
人々の心に疑心暗鬼が忍び込み、お互いがお互いを無邪気に信じることが出来なくなった。信頼と無垢の時代が終焉したのである。
この年の冬、米国社会では「コクーンニングcocoonining」とか「コクーンニング消費」という言葉が流行した。Cocoonとはチョウやガやカイコが作る繭のことで、繭の中には蛹が入っている。まるで小鳥がぬくぬくと巣の中で眠っているようだということで、「巣ごもり消費」という言葉も生まれた。
いつ殺されるかわからないような危険な場所に出かけず、家族が家内で身を寄せ合って過そう。安全を確保し、家族の絆とささやかな幸せを確認しようとする自己完結的な生活と消費行動がその年のクリスマスには顕著だった。これがその後世界中に流行し、一世を風靡した「癒しとヒーリング」志向のはじまりではなかっただろうか。
「癒されたい」とか「癒された」という甘っちょろい用語が、その用語の使用者の精神の退廃と堕落をあますところなく証明していることはさておくとしても……。
ちなみに01年のクリスマスには、わが国でもクライスラー「愛の喜び」などのヒーリング音楽CDや32000円の銀製スプーンセット、12000円の日比谷花壇の本物のツリーが売れ、DVD、大画面プラズマTV、ホームシアター元年となった。ソニーのプレステに対抗してマイクロソフトの新型ゲーム機「Xbox」発売されたのはその翌年のことだった。
「コクーンニングcocoonining」の元になったロン・ハワード監督のSF映画「コクーン」は1985年に公開されていた。映画宇宙のからやってきたアンタレス星人がフロリダのプールの中に沈めた巨大な繭が、じつは生命の力を回復させる驚異的な能力を持っていて、瀕死の老人たちを救うというあらすじである。
確かに繭には玄妙なエネルギーがある。私の郷里は養蚕業の盛んな口丹波であるが、少年時代の毎日のおやつはカイコの蛹であり、こんがりと炒ったあの素晴らしく美味な蛋白質を摂取することによって貧しい日々の糧を補っていたことを懐かしく思い出す。
コクーンの生命力はアジアの片隅の農村で数多くの勤労青少年とルンペンプロレタリアートを救済していたのである。
♪たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生 茫洋
Tuesday, July 15, 2008
ミクシィ2周年
♪バガテルop67
早いものである。このSNSを畏友やわらかなひかりさんのお導きで開始してから今日で丸2年が経った。その間幾多の見知らぬ友人各位とお近づきになり、かつまた旧友諸賢と久闊を叙す楽しみにめぐり合えたことはまことに近来の快事であった。
やわらかなひかりさん、そしてマイミクの皆々様ありがとうございます。
2年という時間は私にとっては節目の区分である。ライブ通いにしろ、映画見物にしろ、○○にしろ取り付いてから丸2年の間は無我夢中になるが、3年目に入るとだんだんマンネリになり、もう見るのも行くのも面倒くさくなる。いつだったか「恋は2年が命」という珍説が取りざたされたが、人間の飽きっぽさを考えると十分に頷ける考えだ。
だからというわけでもないが、私のSNS通いも当初のういういしさと意気込みを急激に失いつつあるようだ。
しかし先日糸井某コピーライターが「私は吉本隆明さんになんでもいいから10年間ひとつのことを続けたら1人前になれると言われたので10年間毎日ブログを続けてきました」と語っていたのを聞いて、それを言うやつもスゴイが、言われてやる奴も超スゴイ」と思い、もう少しぐあんばってみようかと思い直しているところです。
ついでに私の初めての日記を再録して2周年の記念にすることにしよう。
2006年7月15日
昨夜、近所の和泉橋の傍の木の葉に1匹だけ平家蛍が点滅していた。 一昨日、妻は大蛇を、僕は小蛇を見た。
真っ暗な路上に寝そべるそいつは全身が縞々で装飾されているようだったが明かりが不足して品種は確認できなかった。 今日の午後、散歩道でムラサキシジミを発見。珍しいことだ。 玄関先のパンジーに巣くうツマグロヒョウモンの五齢の幼虫は妻が嫌がるのでその大半を駆除したが、2匹だけは飼ってあげることにした。 妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
♪ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生 茫洋
早いものである。このSNSを畏友やわらかなひかりさんのお導きで開始してから今日で丸2年が経った。その間幾多の見知らぬ友人各位とお近づきになり、かつまた旧友諸賢と久闊を叙す楽しみにめぐり合えたことはまことに近来の快事であった。
やわらかなひかりさん、そしてマイミクの皆々様ありがとうございます。
2年という時間は私にとっては節目の区分である。ライブ通いにしろ、映画見物にしろ、○○にしろ取り付いてから丸2年の間は無我夢中になるが、3年目に入るとだんだんマンネリになり、もう見るのも行くのも面倒くさくなる。いつだったか「恋は2年が命」という珍説が取りざたされたが、人間の飽きっぽさを考えると十分に頷ける考えだ。
だからというわけでもないが、私のSNS通いも当初のういういしさと意気込みを急激に失いつつあるようだ。
しかし先日糸井某コピーライターが「私は吉本隆明さんになんでもいいから10年間ひとつのことを続けたら1人前になれると言われたので10年間毎日ブログを続けてきました」と語っていたのを聞いて、それを言うやつもスゴイが、言われてやる奴も超スゴイ」と思い、もう少しぐあんばってみようかと思い直しているところです。
ついでに私の初めての日記を再録して2周年の記念にすることにしよう。
2006年7月15日
昨夜、近所の和泉橋の傍の木の葉に1匹だけ平家蛍が点滅していた。 一昨日、妻は大蛇を、僕は小蛇を見た。
真っ暗な路上に寝そべるそいつは全身が縞々で装飾されているようだったが明かりが不足して品種は確認できなかった。 今日の午後、散歩道でムラサキシジミを発見。珍しいことだ。 玄関先のパンジーに巣くうツマグロヒョウモンの五齢の幼虫は妻が嫌がるのでその大半を駆除したが、2匹だけは飼ってあげることにした。 妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
♪ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生 茫洋
Monday, July 14, 2008
真夏のマーラーこの身に浴びて
♪音楽千夜一夜第39回
まだ梅雨だというのにどんどん気温が上がって30度を超えた。まるで真夏のようである。
夏にはマーラーの音楽がよく似合う。ニイニイやウグイスが鳴き、カワセミが笑い、赤いカンナが微風に揺れる風景の中で第10番のアダージヨを聞いているところだ。
ロンドンのBBCのネットラジオはクラシック音楽を伝統的に大切にしているのでじつにうれしい。クラシックだけでも数多くのチャンネルがあり、ポッドキャスティングで24時間オンエアしているが、ここ1週間は6月にロンドンのセントパウロ教会などで開催されたゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏によるマーラーの交響曲の全曲演奏を楽しんだ。
一昨日は7番、昨日は8番、そして今晩はこれから9番の放送があってチクルスの輪を閉じるのである。
ゲルギエフの演奏は全盛時代の若き小澤を遥かに凌ぐ精力的なものであり、フォルテッシモでは音響最悪のバービカンセンターを揺るがすような轟音を響かせるが、アダージオになれば一転して精妙で優雅な演奏を聴かせる。ヤンソンス、ラトルと並んでいまもっとも旬の指揮者であろう。(ただし残念ながらこの3人ともいずれも私の好みではないが)
ロンドンでのライブは大盛況だったようである。毎晩のように聴衆の大喝采が沸き上がり、それがスピーカー越しに伝わってくるが、演奏が終わってもロンドンの聴衆はわが国のそれとは違ってすぐにブラボーのドラ声を張り上げることがない。
終曲の余韻をしみじみとかみ締め、感動が胃の腑にずしりと落ちる。私たちは終演後の静寂こそが至高の音楽であることを知っているはずだ。
それからおもむろに三々五々両手を打ち合わせ、あちこちで歓声が上がるようになる。よい演奏の場合は、それが時を経るごとに頻度と強度を増していき、やがてそれがシャンシャン7拍子の拍を刻むにいたって歓声と賛嘆は堂に満ちる。また指揮があまりにも素晴らしい場合には、聴衆と演奏家はともに床をどんどん踏み鳴らすことによってその演奏を称える。
また演奏がよくない場合には、演奏直後にブー!の罵声を遠慮なく浴びせかけ、拍手のひとつだって呉れてやることはない。以前パリのシャンゼリゼ劇場でダニエル・バレンボイムがパリ管を振った「ドン・ジョバンニ」では、終演後の毀誉褒貶の嵐が耳を聾せんばかりに凄まじく、賛否が真っ二つに分かれた両派が猛烈なブー!とブラボー!を舞台に向かって10分間以上も浴びせ続けたが、その間作法どおりに右手を垂れて聴衆の評価に身を晒しているバレンボイムはなかなか格好よかった。
演奏家も聴衆も真正面から音楽に向き合っている真剣さと清々しさがそこにはあった。
このような姿こそが、長い歳月と経験を経て世界中で確立された古典音楽鑑賞の奥ゆかしい流儀作法ではなかったのではないだろうか。
ところが昨今のわが国のコンサート会場では、演奏の是非などに無頓着のブラボー屋が跋扈し、演奏がまだ終わらないうちに不気味な蛮声を張り上げる。会場で携帯を切らずに会話する無神経な輩に加えて、こういうアホ馬鹿聴衆が異常なまでに増殖してきた。なかには場内で殴り合いをする豪の者まで登場している。まことに情けなく嘆かわしい事態である。
最近TDKからムラビンスキーやベームの来日公演のライブ録音CDが出回っているが、それに耳を傾けるに、70から80年代前半までのわが国の聴衆が演奏家に示す品格ある反応は、世界のお手本であったと思わずにはいられない。
それがどうしてこのように無様に崩れ去ったのであるか。この現象は音楽以外の領域におけるボンサンスの崩壊に見合っているような気もするが、少しは歌舞伎の立見席を見習って欲しいものである。
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ 茫洋
まだ梅雨だというのにどんどん気温が上がって30度を超えた。まるで真夏のようである。
夏にはマーラーの音楽がよく似合う。ニイニイやウグイスが鳴き、カワセミが笑い、赤いカンナが微風に揺れる風景の中で第10番のアダージヨを聞いているところだ。
ロンドンのBBCのネットラジオはクラシック音楽を伝統的に大切にしているのでじつにうれしい。クラシックだけでも数多くのチャンネルがあり、ポッドキャスティングで24時間オンエアしているが、ここ1週間は6月にロンドンのセントパウロ教会などで開催されたゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏によるマーラーの交響曲の全曲演奏を楽しんだ。
一昨日は7番、昨日は8番、そして今晩はこれから9番の放送があってチクルスの輪を閉じるのである。
ゲルギエフの演奏は全盛時代の若き小澤を遥かに凌ぐ精力的なものであり、フォルテッシモでは音響最悪のバービカンセンターを揺るがすような轟音を響かせるが、アダージオになれば一転して精妙で優雅な演奏を聴かせる。ヤンソンス、ラトルと並んでいまもっとも旬の指揮者であろう。(ただし残念ながらこの3人ともいずれも私の好みではないが)
ロンドンでのライブは大盛況だったようである。毎晩のように聴衆の大喝采が沸き上がり、それがスピーカー越しに伝わってくるが、演奏が終わってもロンドンの聴衆はわが国のそれとは違ってすぐにブラボーのドラ声を張り上げることがない。
終曲の余韻をしみじみとかみ締め、感動が胃の腑にずしりと落ちる。私たちは終演後の静寂こそが至高の音楽であることを知っているはずだ。
それからおもむろに三々五々両手を打ち合わせ、あちこちで歓声が上がるようになる。よい演奏の場合は、それが時を経るごとに頻度と強度を増していき、やがてそれがシャンシャン7拍子の拍を刻むにいたって歓声と賛嘆は堂に満ちる。また指揮があまりにも素晴らしい場合には、聴衆と演奏家はともに床をどんどん踏み鳴らすことによってその演奏を称える。
また演奏がよくない場合には、演奏直後にブー!の罵声を遠慮なく浴びせかけ、拍手のひとつだって呉れてやることはない。以前パリのシャンゼリゼ劇場でダニエル・バレンボイムがパリ管を振った「ドン・ジョバンニ」では、終演後の毀誉褒貶の嵐が耳を聾せんばかりに凄まじく、賛否が真っ二つに分かれた両派が猛烈なブー!とブラボー!を舞台に向かって10分間以上も浴びせ続けたが、その間作法どおりに右手を垂れて聴衆の評価に身を晒しているバレンボイムはなかなか格好よかった。
演奏家も聴衆も真正面から音楽に向き合っている真剣さと清々しさがそこにはあった。
このような姿こそが、長い歳月と経験を経て世界中で確立された古典音楽鑑賞の奥ゆかしい流儀作法ではなかったのではないだろうか。
ところが昨今のわが国のコンサート会場では、演奏の是非などに無頓着のブラボー屋が跋扈し、演奏がまだ終わらないうちに不気味な蛮声を張り上げる。会場で携帯を切らずに会話する無神経な輩に加えて、こういうアホ馬鹿聴衆が異常なまでに増殖してきた。なかには場内で殴り合いをする豪の者まで登場している。まことに情けなく嘆かわしい事態である。
最近TDKからムラビンスキーやベームの来日公演のライブ録音CDが出回っているが、それに耳を傾けるに、70から80年代前半までのわが国の聴衆が演奏家に示す品格ある反応は、世界のお手本であったと思わずにはいられない。
それがどうしてこのように無様に崩れ去ったのであるか。この現象は音楽以外の領域におけるボンサンスの崩壊に見合っているような気もするが、少しは歌舞伎の立見席を見習って欲しいものである。
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ 茫洋
Sunday, July 13, 2008
石井宏著「天才の父レオポルド・モーツアルトの青春」を読む
石井宏著「天才の父レオポルド・モーツアルトの青春」を読む
照る日曇る日第138回&♪音楽千夜一夜第38回
メイナード・ソロモンの浩瀚なモーツアルト伝の訳者として知られる石井宏氏が自身の企画と構想によるモーツアルト家の物語全5部の執筆に乗り出した。
本書はその序論であるが、天才の父親レオポルトの生誕から天才児の誕生の瞬間までを「史実をベースにした小説」というユニークなスタイルで叙述している。
1791年、レオポルトは欧州中世の封建的な伝統を色濃く受け継ぐ南独アウクスブルク近郊の貧しい製本屋マイスターの息子として生を享けた。鋭い頭脳と強い意志の持ち主だったレオポルトは、貴族社会の一角になんとかして食い込もうと、父親の死後母親の嘆願を退けてザルツブルクの大学に進学したが、何者かの陰謀に巻き込まれてエリートへの階段から転落してしまう。
母親からも絶縁されて天涯孤独の身の上になったレオポルドは、小さな伯爵家の使用人兼楽士家業に身をおとすが、親切な老人の庇護のおかげでザルツブルクの大司教付き宮廷オーケストラの4番バイオリニストの席にありつく。レオポルドの職業音楽家への道、天才児モーツアルトの教育者としての遠大な道はここからはじまったのである。
産んでは死なせ、死なせては産んだ数多くの子供たちのなかからかろうじて残ったのが姉ナンネルとその弟ウオルフガングのたった2人のきょうだいだったが、彼らの愛と憎しみの物語はまだ語られてはいない。興味深いのはモーツアルトの授乳を母乳にせよと命じたレオポルドの決断で、おそらくはそれが彼の夭折を救ったのだった。
本書の第5章で詳しく取り上げられている「レオポルド・モーツアルトのヴァイオリン教則本」の内容は、今日ではもはや常識となったことが述べられているが、当時としては画期的だったと思われる。
「モルト・アレグロはアレグロ・アッサイよりもほんのわずか遅いが、アレグロよりも速い。(中略)アダージョ・カンタービレと指定されている箇所では、けっして俗悪な装飾音を付け加えたり、長く音をひっぱったりして歌わせ過ぎてはてはいけない」(適当に引用)などというくだりを読むと、逆に当時の演奏の実態がうかがえるし、同じザルツブルク生まれのカラヤンのレガート奏法のことなどが思われて複雑な感慨が沸く。
レオポルド・モーツアルト指揮ザルツブルク宮廷オーケストラの演奏は、もしかすると現代の演奏に近かったかもしれないという気がしてくるのである。
♪セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ 茫洋
照る日曇る日第138回&♪音楽千夜一夜第38回
メイナード・ソロモンの浩瀚なモーツアルト伝の訳者として知られる石井宏氏が自身の企画と構想によるモーツアルト家の物語全5部の執筆に乗り出した。
本書はその序論であるが、天才の父親レオポルトの生誕から天才児の誕生の瞬間までを「史実をベースにした小説」というユニークなスタイルで叙述している。
1791年、レオポルトは欧州中世の封建的な伝統を色濃く受け継ぐ南独アウクスブルク近郊の貧しい製本屋マイスターの息子として生を享けた。鋭い頭脳と強い意志の持ち主だったレオポルトは、貴族社会の一角になんとかして食い込もうと、父親の死後母親の嘆願を退けてザルツブルクの大学に進学したが、何者かの陰謀に巻き込まれてエリートへの階段から転落してしまう。
母親からも絶縁されて天涯孤独の身の上になったレオポルドは、小さな伯爵家の使用人兼楽士家業に身をおとすが、親切な老人の庇護のおかげでザルツブルクの大司教付き宮廷オーケストラの4番バイオリニストの席にありつく。レオポルドの職業音楽家への道、天才児モーツアルトの教育者としての遠大な道はここからはじまったのである。
産んでは死なせ、死なせては産んだ数多くの子供たちのなかからかろうじて残ったのが姉ナンネルとその弟ウオルフガングのたった2人のきょうだいだったが、彼らの愛と憎しみの物語はまだ語られてはいない。興味深いのはモーツアルトの授乳を母乳にせよと命じたレオポルドの決断で、おそらくはそれが彼の夭折を救ったのだった。
本書の第5章で詳しく取り上げられている「レオポルド・モーツアルトのヴァイオリン教則本」の内容は、今日ではもはや常識となったことが述べられているが、当時としては画期的だったと思われる。
「モルト・アレグロはアレグロ・アッサイよりもほんのわずか遅いが、アレグロよりも速い。(中略)アダージョ・カンタービレと指定されている箇所では、けっして俗悪な装飾音を付け加えたり、長く音をひっぱったりして歌わせ過ぎてはてはいけない」(適当に引用)などというくだりを読むと、逆に当時の演奏の実態がうかがえるし、同じザルツブルク生まれのカラヤンのレガート奏法のことなどが思われて複雑な感慨が沸く。
レオポルド・モーツアルト指揮ザルツブルク宮廷オーケストラの演奏は、もしかすると現代の演奏に近かったかもしれないという気がしてくるのである。
♪セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ 茫洋
Saturday, July 12, 2008
稲村ガ崎の海岸にて
稲村ガ崎の海岸にて
鎌倉ちょっと不思議な物語138回
とうとう稲村ガ崎の浜辺に出た。こいらの海岸は年々砂浜が後退し、海水浴ができなくなっているが、サーファーたちはそんなことなど委細構わず年がら年中波に寝そべり、波と戯れている。
彼らの中には海難に無知で無関心な輩もたくさんいるようで、毎年沖に流されて救助を求めたり、中には長谷川なんとかさんというモデルの恋人や北野武監督の映画の主人公のように溺れ死んでしまう人もいる。
「ビッグ・ウエンズディ」という映画を見れば、サーフィンと死は隣り合わせであることがよく分かる。七里ガ浜では十二の御霊を奪った恐ろしい波だ。そんな荒波に挑むサーフアーは、心の中のどこかで死を希っているのではないだろうか。
太宰治が心中を図った岸壁もこの近くだ。けれども誰かのように無闇に死にたくなっていきずりの赤の他人を殺すくらいなら、どうぞこの海岸から補陀落島めざして単身渡海してもらいたいものである。
岬の上に立って沖を眺めていると、今日は相模湾からなかなか良き波が押し寄せているようだ。ところで鎌倉幕府の三代将軍実朝が編んだ「金塊和歌集」に、この稲村ガ崎の見越の崎に登った人のこんな歌が載っている。(ちなみに見越の崎の直下は、天に奇跡を祈った新田義貞の軍勢が、大量のアサリを踏み潰して上陸した地点である。)
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ 読み人知らず
また恐らく同じ場所から実朝本人が詠んだのは、
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも
という有名な歌で、その後段の鋭い客観的な観察眼が、明治の子規の「写生」という視点に引き継がれ、それが短歌改革に結実した。まるで北斎の神奈川沖裏をセザンヌが模写したような犀利なリアリズムが感じられる。右大臣実朝の感性は、私たちの時代のそれであった。
しかし私がもっとも愛する実朝の歌はこれではなくて、
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
である。ここには己の死すべき運命を哀しくも悟達した貴族的精神のニル・アドミナリな白い輝きがある。
♪沿線の紅いカンナの命かな 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語138回
とうとう稲村ガ崎の浜辺に出た。こいらの海岸は年々砂浜が後退し、海水浴ができなくなっているが、サーファーたちはそんなことなど委細構わず年がら年中波に寝そべり、波と戯れている。
彼らの中には海難に無知で無関心な輩もたくさんいるようで、毎年沖に流されて救助を求めたり、中には長谷川なんとかさんというモデルの恋人や北野武監督の映画の主人公のように溺れ死んでしまう人もいる。
「ビッグ・ウエンズディ」という映画を見れば、サーフィンと死は隣り合わせであることがよく分かる。七里ガ浜では十二の御霊を奪った恐ろしい波だ。そんな荒波に挑むサーフアーは、心の中のどこかで死を希っているのではないだろうか。
太宰治が心中を図った岸壁もこの近くだ。けれども誰かのように無闇に死にたくなっていきずりの赤の他人を殺すくらいなら、どうぞこの海岸から補陀落島めざして単身渡海してもらいたいものである。
岬の上に立って沖を眺めていると、今日は相模湾からなかなか良き波が押し寄せているようだ。ところで鎌倉幕府の三代将軍実朝が編んだ「金塊和歌集」に、この稲村ガ崎の見越の崎に登った人のこんな歌が載っている。(ちなみに見越の崎の直下は、天に奇跡を祈った新田義貞の軍勢が、大量のアサリを踏み潰して上陸した地点である。)
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ 読み人知らず
また恐らく同じ場所から実朝本人が詠んだのは、
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも
という有名な歌で、その後段の鋭い客観的な観察眼が、明治の子規の「写生」という視点に引き継がれ、それが短歌改革に結実した。まるで北斎の神奈川沖裏をセザンヌが模写したような犀利なリアリズムが感じられる。右大臣実朝の感性は、私たちの時代のそれであった。
しかし私がもっとも愛する実朝の歌はこれではなくて、
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
である。ここには己の死すべき運命を哀しくも悟達した貴族的精神のニル・アドミナリな白い輝きがある。
♪沿線の紅いカンナの命かな 茫洋
Friday, July 11, 2008
薔薇は薔薇
♪バガテルop66
むかしペンギンブックスからアメリカ現代詩の要約本がでていた。もちろんまともに読んだことなど一度もなかったが、たまたま開いたページにカニンガムだかカニングハムという人の短い1行詩があって、時折そしていまも印象深く思い出す。
それはたしかこういう詩だった。
A rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose
おしまいが…で終わったのか、それともピリオドで終わったのかもう覚えていないが、まずはイメージの核にひとつの単語、すなわち一輪の薔薇があって、それが隣に並ぶもうひとつの薔薇に等格で接続しながらひとつの文章に置き換えられ、続いて「薔薇は薔薇也」というその文自体が新たな薔薇に値すると形容され、以下中心軸を基点として次々に大輪の薔薇がウオルト・ディズニーのファンタジー映画か万華鏡のごとくに花開き、そのめくるめく華麗なイメージの渦にのみこまれていくようだった。
で、それに触発されて私が作ったのは
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
チンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチン
補注その1 ムクは今は亡き我が家の無垢な犬。槿の下に棲んだ尨毛の犬だった。
補注その2 チンは朕、狆、陳、珍、沈、チンなど。
♪実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前 茫洋
むかしペンギンブックスからアメリカ現代詩の要約本がでていた。もちろんまともに読んだことなど一度もなかったが、たまたま開いたページにカニンガムだかカニングハムという人の短い1行詩があって、時折そしていまも印象深く思い出す。
それはたしかこういう詩だった。
A rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose
おしまいが…で終わったのか、それともピリオドで終わったのかもう覚えていないが、まずはイメージの核にひとつの単語、すなわち一輪の薔薇があって、それが隣に並ぶもうひとつの薔薇に等格で接続しながらひとつの文章に置き換えられ、続いて「薔薇は薔薇也」というその文自体が新たな薔薇に値すると形容され、以下中心軸を基点として次々に大輪の薔薇がウオルト・ディズニーのファンタジー映画か万華鏡のごとくに花開き、そのめくるめく華麗なイメージの渦にのみこまれていくようだった。
で、それに触発されて私が作ったのは
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
チンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチン
補注その1 ムクは今は亡き我が家の無垢な犬。槿の下に棲んだ尨毛の犬だった。
補注その2 チンは朕、狆、陳、珍、沈、チンなど。
♪実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前 茫洋
Thursday, July 10, 2008
ジョン・アーヴィング著「熊を放つ」を読む
照る日曇る日第136回
「ガープの世界」、「ホテル・ニューハンプシャー」の作家ジョン・アーヴィング26歳のデビュー作を読む。
ビンテージ・オートバイを無軌道にぶっ飛ばしてあっけなく事故死する青年、第二次大戦のどさくさまぎれに爆死させたはずの不倶戴天の敵によって捕らえられ、小便壷にさかさまに首を突っ込まれて殺されてしまう青年、ひとつオートバイに跨り、ひとつテントで性交する若い男女、ヒーツィング動物園のアジア・クロクマをウイーンの街に脱走させる青年、友がノートに書き付けた箴言を座右の銘として中央ヨーロッパのど真ん中をさすらう主人公―どこをとっても後年のアーヴィングを彷彿させるわくわく大冒険といきあたりばったり人生という2つの主題がほとんど変奏なしに(そこが後年の作と違う)ライブで奏でられる。
訳者の村上春樹は、アーヴィングはバルザックの再来であると規定しているが、それをいうなら主観性100%で自己中バルザックのよみがえりであろう。
アーヴィングにとって、文学とは時空を超えためくるめく物語の奔流であり、主人公の死さえもいともたやすく呑み込んでしまうおびただしい生の蕩尽なのである。
それにしても、オーソン・ウエルズまたはヴィクトリオ・デ・シーカの祖父、ヘルムートバーガーが悲運のヒーロー、ジークフリート・ヤヴォトニク、アル・パチーノのハネス・グラフ、アーヴィン・カシュナー監督による「熊を放つ」を、コロンビア映画が映画化しなかったことがまことにくやまれる。
♪こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻 茫洋
「ガープの世界」、「ホテル・ニューハンプシャー」の作家ジョン・アーヴィング26歳のデビュー作を読む。
ビンテージ・オートバイを無軌道にぶっ飛ばしてあっけなく事故死する青年、第二次大戦のどさくさまぎれに爆死させたはずの不倶戴天の敵によって捕らえられ、小便壷にさかさまに首を突っ込まれて殺されてしまう青年、ひとつオートバイに跨り、ひとつテントで性交する若い男女、ヒーツィング動物園のアジア・クロクマをウイーンの街に脱走させる青年、友がノートに書き付けた箴言を座右の銘として中央ヨーロッパのど真ん中をさすらう主人公―どこをとっても後年のアーヴィングを彷彿させるわくわく大冒険といきあたりばったり人生という2つの主題がほとんど変奏なしに(そこが後年の作と違う)ライブで奏でられる。
訳者の村上春樹は、アーヴィングはバルザックの再来であると規定しているが、それをいうなら主観性100%で自己中バルザックのよみがえりであろう。
アーヴィングにとって、文学とは時空を超えためくるめく物語の奔流であり、主人公の死さえもいともたやすく呑み込んでしまうおびただしい生の蕩尽なのである。
それにしても、オーソン・ウエルズまたはヴィクトリオ・デ・シーカの祖父、ヘルムートバーガーが悲運のヒーロー、ジークフリート・ヤヴォトニク、アル・パチーノのハネス・グラフ、アーヴィン・カシュナー監督による「熊を放つ」を、コロンビア映画が映画化しなかったことがまことにくやまれる。
♪こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻 茫洋
Wednesday, July 09, 2008
大館次郎の最期
鎌倉ちょっと不思議な物語137回
極楽寺から中村光夫旧居跡を過ぎて稲村ガ崎に向かって歩いていくと、もう少しで海に出る左手の窪みに史跡「十一人塚」がある。
ここは1333年わずか133騎で鎌倉幕府打倒に立ち上がった新田義貞と幕府軍の激戦場である。同年5月19日、藤澤から進軍した義貞の一族の部将大館次郎は極楽寺坂から攻め上ったが、鎌倉幕府方の守將・大佛陸奥守貞直の軍勢と一進一退を繰り返すうちに貞直の家來本間山城左衞門の部隊によって10名の部下と共に壮絶な討ち死にを遂げた現場である。
大佛貞直の軍勢は、いまは廃寺となった霊山寺の大門に大挙して篭っていたのである。
お墓にはたくさんの花が供えられていたが、その大館次郎の遺族の方が近くに住んでおられ、朝晩のお参りを欠かされないという。そう聞けば、今からちょうど675年前のその日の惨事が、まるで昨日のことのように感じられるのであった。
ところが、北鎌倉に住んだ澁澤龍彦の小説「髑髏盃」の登場人物は、「この十一人塚に眠っているのはおそらく無名の兵の亡骸で、大館次郎の墓はかならずや極楽寺の裏山にある。その証拠には極楽寺には大館次郎が討ち死にしたみぎりに所持していた鞍や鐙などの遺品が残っている」と自信満々主張している。
いずれが真実かにわかには断定できないが、こんど極楽寺を尋ねたら、住職に伺ってみることにしよう。
♪こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち 茫洋
極楽寺から中村光夫旧居跡を過ぎて稲村ガ崎に向かって歩いていくと、もう少しで海に出る左手の窪みに史跡「十一人塚」がある。
ここは1333年わずか133騎で鎌倉幕府打倒に立ち上がった新田義貞と幕府軍の激戦場である。同年5月19日、藤澤から進軍した義貞の一族の部将大館次郎は極楽寺坂から攻め上ったが、鎌倉幕府方の守將・大佛陸奥守貞直の軍勢と一進一退を繰り返すうちに貞直の家來本間山城左衞門の部隊によって10名の部下と共に壮絶な討ち死にを遂げた現場である。
大佛貞直の軍勢は、いまは廃寺となった霊山寺の大門に大挙して篭っていたのである。
お墓にはたくさんの花が供えられていたが、その大館次郎の遺族の方が近くに住んでおられ、朝晩のお参りを欠かされないという。そう聞けば、今からちょうど675年前のその日の惨事が、まるで昨日のことのように感じられるのであった。
ところが、北鎌倉に住んだ澁澤龍彦の小説「髑髏盃」の登場人物は、「この十一人塚に眠っているのはおそらく無名の兵の亡骸で、大館次郎の墓はかならずや極楽寺の裏山にある。その証拠には極楽寺には大館次郎が討ち死にしたみぎりに所持していた鞍や鐙などの遺品が残っている」と自信満々主張している。
いずれが真実かにわかには断定できないが、こんど極楽寺を尋ねたら、住職に伺ってみることにしよう。
♪こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち 茫洋
Tuesday, July 08, 2008
阿仏尼の母性愛
鎌倉ちょっと不思議な物語136回
三好達治が住んでいた家を過ぎて、江ノ電の踏切を渡ったところに阿仏尼の旧居跡がある。
鎌倉時代の歌人阿仏尼は、藤原定家の子為家の側室となったが、息子冷泉為相への資産相続を鎌倉幕府に訴えるために京を下り、極楽寺に程近いその名も雅な月影が谷に住み、その旅行記と当地での暮らしぶりを「十六夜日記」に記した。
京を発ったのは神無月の十六夜だったのでその名がつけられたのである。
彼女は、「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」と綴り、都からのおとずれがいつしかおぼつかなくなってしまった、と訴えている。
いまもあまり人影のない一角であるから、700年前の昔はさぞや寂しい谷戸だったろう。ここで彼女が山寺と書いているのは、たぶん極楽寺の七堂伽藍のひとつであろうが、すでに亡失した霊山寺の可能性もわずかだが、ある。
鎌倉時代は御家人のみならず女性を含めた民衆の訴訟が急増した時代だった。正妻を退け、愛する息子の権利を勝ち取った阿仏尼の墓は、鎌倉に現存する唯一の尼寺英勝寺にある。
ゆくりなくあくがれ出でし十六夜の月やおくれぬ形見なるべき 阿仏尼
♪品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く 茫洋
三好達治が住んでいた家を過ぎて、江ノ電の踏切を渡ったところに阿仏尼の旧居跡がある。
鎌倉時代の歌人阿仏尼は、藤原定家の子為家の側室となったが、息子冷泉為相への資産相続を鎌倉幕府に訴えるために京を下り、極楽寺に程近いその名も雅な月影が谷に住み、その旅行記と当地での暮らしぶりを「十六夜日記」に記した。
京を発ったのは神無月の十六夜だったのでその名がつけられたのである。
彼女は、「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」と綴り、都からのおとずれがいつしかおぼつかなくなってしまった、と訴えている。
いまもあまり人影のない一角であるから、700年前の昔はさぞや寂しい谷戸だったろう。ここで彼女が山寺と書いているのは、たぶん極楽寺の七堂伽藍のひとつであろうが、すでに亡失した霊山寺の可能性もわずかだが、ある。
鎌倉時代は御家人のみならず女性を含めた民衆の訴訟が急増した時代だった。正妻を退け、愛する息子の権利を勝ち取った阿仏尼の墓は、鎌倉に現存する唯一の尼寺英勝寺にある。
ゆくりなくあくがれ出でし十六夜の月やおくれぬ形見なるべき 阿仏尼
♪品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く 茫洋
Monday, July 07, 2008
三好達治と極楽寺界隈
鎌倉ちょっと不思議な物語135回
鎌倉も完全に市場経済とメディア戦略の格好のターゲットと化しており、昨日までは寂れて道行く犬猫すら見向きもしなかった支那蕎麦屋があほばかテレビ局の番組にたった一度取り上げられただけで千客万来の賑わいを呈しているのにはあきれるほかはない。
それまで閑古鳥が鳴いていたときにはたった1人のお客にも最敬礼して迎えていた店の主が、「うちの営業は11時半から。入口にちゃんと書いてあるでしょ」などと偉そうに早くから来訪したお客を追っ払っている浅ましい姿を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。
極楽寺の近くに成就院というお寺があって、それまではろくにお客が来なかったので、般若心経の文字の数だけアジサイを植えたところ全国から観光客が殺到するようになったという。
その数はいくらかと聞くと、たった262字というからたいしたものではない。「262本のアジサイのある寺」、ではなく「般若心経の文字の数だけアジサイを植えた寺」と企画・宣伝するところに電通的な知能犯の智謀を感じて不愉快だが、極楽寺だけは間違ってもアジサイ寺的マーケティングのとりこにならずに時代と共に静かに滅んでいくような気がする。
さてその昔、極楽寺界隈には詩人の三好達治が住んでいた。彼の「半日閑歩」には極楽寺の前に桶屋があると書いてある。桶屋と客がこんな会話をしていたと三好は書いている。
―あなたはお風呂もなほしますか。
―ええ、風呂桶の修繕もいたしますよ、どちらさまです。
―姥ヶ谷の停留所の前の山の上だがね。
―存じてゐます、箱風呂ですね、四角な。
―へへん。
―この前一度直しに上がったことがあります。
この桶屋はもうとっくの昔になくなったと思っていたが、現地を歩いてみると、じつはシステムバス屋さんに姿を変えて現存していることがわかった。
♪中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏 茫洋
鎌倉も完全に市場経済とメディア戦略の格好のターゲットと化しており、昨日までは寂れて道行く犬猫すら見向きもしなかった支那蕎麦屋があほばかテレビ局の番組にたった一度取り上げられただけで千客万来の賑わいを呈しているのにはあきれるほかはない。
それまで閑古鳥が鳴いていたときにはたった1人のお客にも最敬礼して迎えていた店の主が、「うちの営業は11時半から。入口にちゃんと書いてあるでしょ」などと偉そうに早くから来訪したお客を追っ払っている浅ましい姿を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。
極楽寺の近くに成就院というお寺があって、それまではろくにお客が来なかったので、般若心経の文字の数だけアジサイを植えたところ全国から観光客が殺到するようになったという。
その数はいくらかと聞くと、たった262字というからたいしたものではない。「262本のアジサイのある寺」、ではなく「般若心経の文字の数だけアジサイを植えた寺」と企画・宣伝するところに電通的な知能犯の智謀を感じて不愉快だが、極楽寺だけは間違ってもアジサイ寺的マーケティングのとりこにならずに時代と共に静かに滅んでいくような気がする。
さてその昔、極楽寺界隈には詩人の三好達治が住んでいた。彼の「半日閑歩」には極楽寺の前に桶屋があると書いてある。桶屋と客がこんな会話をしていたと三好は書いている。
―あなたはお風呂もなほしますか。
―ええ、風呂桶の修繕もいたしますよ、どちらさまです。
―姥ヶ谷の停留所の前の山の上だがね。
―存じてゐます、箱風呂ですね、四角な。
―へへん。
―この前一度直しに上がったことがあります。
この桶屋はもうとっくの昔になくなったと思っていたが、現地を歩いてみると、じつはシステムバス屋さんに姿を変えて現存していることがわかった。
♪中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏 茫洋
Sunday, July 06, 2008
続1945年の鎌倉文士
鎌倉ちょっと不思議な物語134回
1945年昭和20年2月、横光利一の弟子、清水基吉はその作品「雁立」で芥川賞を受賞した。
当時清水が転居した亀ヶ谷切通し下には小林秀雄と島木健作が住んでいた。
あるとき小林から正宗白鳥を訪問するので酒を工面できないかと頼まれ、雨中首尾よく手に入れた1升瓶をかかえて帰る途中、小林の家のそばの暗渠に落ちて台無しにしてしまい面目丸つぶれであった。清水は「モオツアルト」の原稿に呻吟していた小林を頻繁に訪ねて孤高の評論家を苛立たせたので、とうとう出入り禁止となった。
病床で長編を書いていた島木は敗戦直後に入院先で亡くなった。
翌46年9月、川端康成の推挽で出版された「雁立」を風呂敷に包んで極楽寺に住む同じ横光門下の第7回芥川賞受賞作家中山義秀宅を訪問した清水は、中山から祝盃を受けたが、そのうちに酔っぱらってきた義秀は、やにわに押入れから日本刀を取り出すと、「なんだこんなもの!」と言うなり鞘を払って献本20冊が入った風呂敷包みを一刀両断にした。
1948年清水は海蔵寺の本堂で祝言を挙げた。披露宴は亀ヶ谷の自宅で行なわれたが、主客ことごとく泥酔し、狂乱の限りを尽くし、反吐を吐くもの、縁側から転げ落ちるもの、庭土の上に寝込むものなどで眼も当てられぬ騒ぎであったという。
昭和60年、長谷の旧前田侯爵邸が鎌倉市に寄付されると鎌倉文学館が誕生したが、初代館長永井龍男の没後2代目館長に就任したのが最後の鎌倉文士清水基吉だった。
以上、「鎌倉朝日」に清田昌弘氏が連載している「かまくら今昔抄」6月1日号からまるまる引用しました。
♪かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり ぼうよう
1945年昭和20年2月、横光利一の弟子、清水基吉はその作品「雁立」で芥川賞を受賞した。
当時清水が転居した亀ヶ谷切通し下には小林秀雄と島木健作が住んでいた。
あるとき小林から正宗白鳥を訪問するので酒を工面できないかと頼まれ、雨中首尾よく手に入れた1升瓶をかかえて帰る途中、小林の家のそばの暗渠に落ちて台無しにしてしまい面目丸つぶれであった。清水は「モオツアルト」の原稿に呻吟していた小林を頻繁に訪ねて孤高の評論家を苛立たせたので、とうとう出入り禁止となった。
病床で長編を書いていた島木は敗戦直後に入院先で亡くなった。
翌46年9月、川端康成の推挽で出版された「雁立」を風呂敷に包んで極楽寺に住む同じ横光門下の第7回芥川賞受賞作家中山義秀宅を訪問した清水は、中山から祝盃を受けたが、そのうちに酔っぱらってきた義秀は、やにわに押入れから日本刀を取り出すと、「なんだこんなもの!」と言うなり鞘を払って献本20冊が入った風呂敷包みを一刀両断にした。
1948年清水は海蔵寺の本堂で祝言を挙げた。披露宴は亀ヶ谷の自宅で行なわれたが、主客ことごとく泥酔し、狂乱の限りを尽くし、反吐を吐くもの、縁側から転げ落ちるもの、庭土の上に寝込むものなどで眼も当てられぬ騒ぎであったという。
昭和60年、長谷の旧前田侯爵邸が鎌倉市に寄付されると鎌倉文学館が誕生したが、初代館長永井龍男の没後2代目館長に就任したのが最後の鎌倉文士清水基吉だった。
以上、「鎌倉朝日」に清田昌弘氏が連載している「かまくら今昔抄」6月1日号からまるまる引用しました。
♪かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり ぼうよう
Saturday, July 05, 2008
E.M.フォスター著「ハワーズ・エンド」を読む
照る日曇る日第135回
若干31歳にしてこのような傑作を書いたE.M.フォスターは栄光の大英帝国が今まさに黄昏ようとする瞬間に立ち会った旧世紀の文人だった。
「インドへの道」と並ぶ彼の代表作「ハワーズ・エンド」は、フォスターが巻頭に掲げた有名な序辞only connectが象徴しているように、絶望的なまでに相反する異質なものを「ただ繋ごう」とする架橋の意思と熱情の物語である。
開明的な女主人公マーガレットと保守的な夫のヘンリー・ウイルコックス、ヴィクトリア王朝と社会主義、貴族と平民、富める者と貧しき者、知識人と民衆、都市と郊外、島国と大陸、不遜と謙虚、鉱物と植物、自動車と馬車、天国と地獄、精神愛と肉欲、親と子、神秘と卑俗、国家と個人、商業と農業、金融資本主義と人文主義、教養と無秩序、科学と文芸、詩的精神と散文的リアリズムなどがいたるところで対立し、お互いがお互いを攻撃し、それぞれがそれぞれを防御しようと試みる。
その結果、旧世界の階級秩序は随所で引き裂かれ、いくたの悲鳴があがり、勝者は驕り、敗者は絶望の淵に沈み、男と女の戦いははてしなく繰り広げられていく。
けれども神を捨て、神に見捨てられた産業革命時代の人間たちの悲喜劇を終始静かに見守っていたのはロンドン郊外の「古くて小さくてなんとも感じがいい赤煉瓦の家」、ハワーズ・エンドであり、ヘンリーの亡き妻ウイルコックス夫人であった。
ハワーズ・エンドには美しい牧場と屋敷と一本の楡の巨木があり、その巨樹の下にケルトとの精霊が棲んでいる。地霊はウイルコックス夫人の魂の故郷であり、彼女の偉大な魂は物語の女主人公マーガレットに相伝されている。
そうしてこの聖なる地と精霊と魂とが三位一体となってばらばらになって空中分解していた異質な人々をおごそかに結びつける。骨肉相食む近親相克や男と女の嵐のような騒乱を鎮めがとつぜん終わりを告げ、物語の登場人物はすべてこの聖別された場所に集い、そして別れて行くラストシーンは感動的ですらある。
「オンリー・コネクト。ものみな手と手を取り合いて繋がるべし。」
これこそが1970年90歳で死んだE.M.フォスターの私たちへの遺言であった。
吉田健一の訳はたぶん名訳なのだろうが、惜しむらくは彼が翻訳家としてではなく、作家として翻訳しているために語義の解釈が曖昧であり、小林秀雄のフランス語ほどでたらめではないが、ところどころ意味不明の迷訳がある。
おそらく2人とも安酒を喰らいながらのアルバイトのやっつけ仕事だったのだろう。できうべくんばたとえば村上春樹のような若手による、もっと正確で、誠実な翻訳で読みたかった。
♪Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター 茫洋
若干31歳にしてこのような傑作を書いたE.M.フォスターは栄光の大英帝国が今まさに黄昏ようとする瞬間に立ち会った旧世紀の文人だった。
「インドへの道」と並ぶ彼の代表作「ハワーズ・エンド」は、フォスターが巻頭に掲げた有名な序辞only connectが象徴しているように、絶望的なまでに相反する異質なものを「ただ繋ごう」とする架橋の意思と熱情の物語である。
開明的な女主人公マーガレットと保守的な夫のヘンリー・ウイルコックス、ヴィクトリア王朝と社会主義、貴族と平民、富める者と貧しき者、知識人と民衆、都市と郊外、島国と大陸、不遜と謙虚、鉱物と植物、自動車と馬車、天国と地獄、精神愛と肉欲、親と子、神秘と卑俗、国家と個人、商業と農業、金融資本主義と人文主義、教養と無秩序、科学と文芸、詩的精神と散文的リアリズムなどがいたるところで対立し、お互いがお互いを攻撃し、それぞれがそれぞれを防御しようと試みる。
その結果、旧世界の階級秩序は随所で引き裂かれ、いくたの悲鳴があがり、勝者は驕り、敗者は絶望の淵に沈み、男と女の戦いははてしなく繰り広げられていく。
けれども神を捨て、神に見捨てられた産業革命時代の人間たちの悲喜劇を終始静かに見守っていたのはロンドン郊外の「古くて小さくてなんとも感じがいい赤煉瓦の家」、ハワーズ・エンドであり、ヘンリーの亡き妻ウイルコックス夫人であった。
ハワーズ・エンドには美しい牧場と屋敷と一本の楡の巨木があり、その巨樹の下にケルトとの精霊が棲んでいる。地霊はウイルコックス夫人の魂の故郷であり、彼女の偉大な魂は物語の女主人公マーガレットに相伝されている。
そうしてこの聖なる地と精霊と魂とが三位一体となってばらばらになって空中分解していた異質な人々をおごそかに結びつける。骨肉相食む近親相克や男と女の嵐のような騒乱を鎮めがとつぜん終わりを告げ、物語の登場人物はすべてこの聖別された場所に集い、そして別れて行くラストシーンは感動的ですらある。
「オンリー・コネクト。ものみな手と手を取り合いて繋がるべし。」
これこそが1970年90歳で死んだE.M.フォスターの私たちへの遺言であった。
吉田健一の訳はたぶん名訳なのだろうが、惜しむらくは彼が翻訳家としてではなく、作家として翻訳しているために語義の解釈が曖昧であり、小林秀雄のフランス語ほどでたらめではないが、ところどころ意味不明の迷訳がある。
おそらく2人とも安酒を喰らいながらのアルバイトのやっつけ仕事だったのだろう。できうべくんばたとえば村上春樹のような若手による、もっと正確で、誠実な翻訳で読みたかった。
♪Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター 茫洋
Friday, July 04, 2008
ある家庭の光景
ある家庭の光景
♪バガテルop66
「雨だ雷だ」と大騒ぎするアホ馬鹿天気予報官のおかげで長男は施設に行くのをやめてしまいました。
彼は施設が好きだし、普段は朝早くから起きだして行くのを楽しみにしています。いたって勤勉な彼ですが、彼は雷が大きらいなのです。
放送局のお兄さん、お姉さん、お願いですからガセ雷警報だけは止めてください。彼が一日休むと、それだけ施設の収入が減るのですよ。
その日の晩御飯のあとでどういうわけだかお汁粉が出てきました。ふだんはあまり手を出さない彼ですが、両親がチンした熱い奴をフウフウ吹きながらおいしそうに飲んでいるのをみたからでしょう、「僕も食べます」と珍しくリクエストしました。
「熱いから気をつけるんだよ。まずフウフウしてから、スプーンで上下に混ぜるんだよ。そうするとさめるからね」とお父さんがアドバイスしますと、彼は父親から言われたとおりに、銀の匙を熱い液体の中にそおっと差し入れ、ゆっくりゆっくり上下に動かしています。いつまでもいつまでも動かしています。
中学の理科の実験で、フラスコの中に入ったナトリューム溶液を、透明なガラス棒で撹拌するように、細心の注意を払いながらかきまぜているその姿は、まるで瞑想する僧侶のようでした。
両親は、思わずお汁粉を飲むのをやめてその姿に見入っていましたが、突然母親が「まあほんとうに、なんて無垢な子なんでしょう」と感に堪えたように呟きました。
父親も「うん、そのとおりだね。僕もいまそう思った」と応じましたら、母親は、「それなのにあなたって人は、そんな良い子を怒鳴りつけたりして……」と恨めしそうに夫をにらんだので、その父親は「そうだ、こうしてはいられない。仕事、仕事、締め切り、締め切り」とモグモグ言いながら、蟹の横這いのように書斎に逃げ込みました。
♪わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ 茫洋
♪バガテルop66
「雨だ雷だ」と大騒ぎするアホ馬鹿天気予報官のおかげで長男は施設に行くのをやめてしまいました。
彼は施設が好きだし、普段は朝早くから起きだして行くのを楽しみにしています。いたって勤勉な彼ですが、彼は雷が大きらいなのです。
放送局のお兄さん、お姉さん、お願いですからガセ雷警報だけは止めてください。彼が一日休むと、それだけ施設の収入が減るのですよ。
その日の晩御飯のあとでどういうわけだかお汁粉が出てきました。ふだんはあまり手を出さない彼ですが、両親がチンした熱い奴をフウフウ吹きながらおいしそうに飲んでいるのをみたからでしょう、「僕も食べます」と珍しくリクエストしました。
「熱いから気をつけるんだよ。まずフウフウしてから、スプーンで上下に混ぜるんだよ。そうするとさめるからね」とお父さんがアドバイスしますと、彼は父親から言われたとおりに、銀の匙を熱い液体の中にそおっと差し入れ、ゆっくりゆっくり上下に動かしています。いつまでもいつまでも動かしています。
中学の理科の実験で、フラスコの中に入ったナトリューム溶液を、透明なガラス棒で撹拌するように、細心の注意を払いながらかきまぜているその姿は、まるで瞑想する僧侶のようでした。
両親は、思わずお汁粉を飲むのをやめてその姿に見入っていましたが、突然母親が「まあほんとうに、なんて無垢な子なんでしょう」と感に堪えたように呟きました。
父親も「うん、そのとおりだね。僕もいまそう思った」と応じましたら、母親は、「それなのにあなたって人は、そんな良い子を怒鳴りつけたりして……」と恨めしそうに夫をにらんだので、その父親は「そうだ、こうしてはいられない。仕事、仕事、締め切り、締め切り」とモグモグ言いながら、蟹の横這いのように書斎に逃げ込みました。
♪わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ 茫洋
Tuesday, July 01, 2008
あるカミキリムシの死
あるカミキリムシの死
♪バガテルop65
昼間榎の葉っぱにとまっていたいまでは希少種となったゴマダラカミキリが、午後道路で車に轢かれて死んでいた。私はその美虫薄命、諸行無常に哀れを感じ、終日心身が深い憂愁に閉ざされるのを覚えた。
とつくにのいにしえの死より、向こう三軒両隣の死にたての死、見知らぬ人間よりは最愛の虫や花や獣の横死に対して、激しく胸を引き裂かれるのは私だけだろうか。
すぐる大戦の膨大な死者に対してはかろうじて一掬の涙を注ぎ、平成の御世のちっぽけな駄犬や昆虫の死にかくも夥しい涙を流すとは、まことに不条理な話であるが、そこが神ならぬ身の至らなさ、情けなさ、往々にしてそういうけしからぬ事態が出来するのである。
もっと不思議でけしからぬのは、私が実在の人間や動植物の死に対するよりも、映画やドラマや小説の中に出てきた仮想人物に対して激しく喜怒哀楽することである。
ブランコを漕ぎながら♪命短し恋せよ乙女などと下手な歌を歌っている志村喬の虚構の死に対してあれほど激しく慟哭できるならば、なぜアウシュビッツや真珠湾や広島長崎や、戦艦大和やらガダルカナルの密林に消えた無数の人々の死に対して、もっと激しく嗚咽し、もっともっと大量の涙を流さないのか? それが物事の真実と釣り合った人間らしい感情の適切な発露であるはずだ。
にもかかわらず、私は歴史上の巨大な悲劇に対してはいちじるしく涙を惜しみ、空想上の、ある意味では笑うべき瑣末な悲劇に対しては、惜しみなく浪漫的な感情を放出してやまない。なんという情念の鈍感さ。 なんという理性と感覚のアンバランスであることよ。
いずれにせよ、私(たち)はみずからの動物脳から発する喜怒哀楽の感情、とりわけ涙という塩辛い水分を信用したり、過大な意義を与えてはならない。
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや 茫洋
♪バガテルop65
昼間榎の葉っぱにとまっていたいまでは希少種となったゴマダラカミキリが、午後道路で車に轢かれて死んでいた。私はその美虫薄命、諸行無常に哀れを感じ、終日心身が深い憂愁に閉ざされるのを覚えた。
とつくにのいにしえの死より、向こう三軒両隣の死にたての死、見知らぬ人間よりは最愛の虫や花や獣の横死に対して、激しく胸を引き裂かれるのは私だけだろうか。
すぐる大戦の膨大な死者に対してはかろうじて一掬の涙を注ぎ、平成の御世のちっぽけな駄犬や昆虫の死にかくも夥しい涙を流すとは、まことに不条理な話であるが、そこが神ならぬ身の至らなさ、情けなさ、往々にしてそういうけしからぬ事態が出来するのである。
もっと不思議でけしからぬのは、私が実在の人間や動植物の死に対するよりも、映画やドラマや小説の中に出てきた仮想人物に対して激しく喜怒哀楽することである。
ブランコを漕ぎながら♪命短し恋せよ乙女などと下手な歌を歌っている志村喬の虚構の死に対してあれほど激しく慟哭できるならば、なぜアウシュビッツや真珠湾や広島長崎や、戦艦大和やらガダルカナルの密林に消えた無数の人々の死に対して、もっと激しく嗚咽し、もっともっと大量の涙を流さないのか? それが物事の真実と釣り合った人間らしい感情の適切な発露であるはずだ。
にもかかわらず、私は歴史上の巨大な悲劇に対してはいちじるしく涙を惜しみ、空想上の、ある意味では笑うべき瑣末な悲劇に対しては、惜しみなく浪漫的な感情を放出してやまない。なんという情念の鈍感さ。 なんという理性と感覚のアンバランスであることよ。
いずれにせよ、私(たち)はみずからの動物脳から発する喜怒哀楽の感情、とりわけ涙という塩辛い水分を信用したり、過大な意義を与えてはならない。
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや 茫洋
Sunday, June 29, 2008
2008年水無月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その30
つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2
白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな
去年の今日は蛍舞いたり今年の蛍はどうしているかな
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり
ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな
イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ
老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは
どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターのろのろ動く
崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう
じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった
親というはげに因果なるものよ25にもなりし息子の所業をわがことと詫ぶ
栗の花にダイミョウセセリがとまる日よ女子大生泣き蛍地に墜つ
丸の内線の四谷三丁目こそうれしけり地獄より出て3丁目に着く
ホラ泣くぞホレ泣けよとばかりズームアップするカメラマンの下種な心
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか
白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ
お前もっと大局を見ろなどと上司から言われ素直に頷きし日もありしが呵呵
毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた
太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな
岩煙草煙草忘れし星の使者
いずみ橋蛍1匹拾いけり
♪くたびれてしなびてよどみてゆきなやみくちはてそうなわたしのじんせい 茫洋
つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2
白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな
去年の今日は蛍舞いたり今年の蛍はどうしているかな
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり
ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな
イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ
老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは
どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターのろのろ動く
崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう
じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった
親というはげに因果なるものよ25にもなりし息子の所業をわがことと詫ぶ
栗の花にダイミョウセセリがとまる日よ女子大生泣き蛍地に墜つ
丸の内線の四谷三丁目こそうれしけり地獄より出て3丁目に着く
ホラ泣くぞホレ泣けよとばかりズームアップするカメラマンの下種な心
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか
白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ
お前もっと大局を見ろなどと上司から言われ素直に頷きし日もありしが呵呵
毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた
太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな
岩煙草煙草忘れし星の使者
いずみ橋蛍1匹拾いけり
♪くたびれてしなびてよどみてゆきなやみくちはてそうなわたしのじんせい 茫洋
Saturday, June 28, 2008
きのう見た夢
♪遥かな昔、遠い所で第73回
昨日久しぶりに見たのは白い大きな蛇の夢だった。
私が例によって異境の地で途方に暮れて彷徨っていると、(いつも見る夢だ。いつも出てくる場所だ)路地の奥まった小さなアゴラの右側に、土蔵を改造した商店とも半分壊れた土蔵とも見える一種の祝祭的空間があった。
腰にひらひらだけまとったアラビア風の土民が笛を吹いている。聴いたこともないわびしく哀しくどこか懐かしい旋律を奏している。
私が「いかなる神ならむ、いかなる祭祀ならむ」といぶかしみながら祭壇の前に立ち、目を挙げると、その眼の少し上の位置にオオサンショウウオに似た面妖な貌をした真っ白な大蛇が横たわっていて、うろんな眼つきで私を睨んだ。
美白の外貌なのに眼だけは黒々と、また爛々と輝いている。こいつが大蛇であるとはすぐに見当がついたが、胴体や尻尾は奥のほうにとぐろを巻いていてどれくらいの大きさなのかはまったくわからない。
しかし薄暗い空間の奥にじっと眼を凝らせば、蒼白の大蛇のとぐろの上に横たわっているのは、灰色と薄緑が混じった色をした4羽の白鳥であった。
かつては白鳥と呼ばれたであろうその大型の鳥は、いまや死せる黒鳥となってその4本の長い首と風呂敷のようにぺっちゃんこになった紫色の胴体を、冷たい血管が透き通るような大蛇の皮膚の上に静かに横たえているのだった。
思わず身震いした私が、なおもその異様な光景に見入っていると、そのオオサンショウウオに似た白い大蛇が美白の分厚い唇をぶよぶよと動かしながら、なにやら呟いたようだったが、何を言うておるのか聞き取れなかった。
そこで私が「えっ」と聞き返すと、そいつは、もういちど確かにこう言うたのだった。
「眼は、動くまなこなり。」
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり 茫洋
昨日久しぶりに見たのは白い大きな蛇の夢だった。
私が例によって異境の地で途方に暮れて彷徨っていると、(いつも見る夢だ。いつも出てくる場所だ)路地の奥まった小さなアゴラの右側に、土蔵を改造した商店とも半分壊れた土蔵とも見える一種の祝祭的空間があった。
腰にひらひらだけまとったアラビア風の土民が笛を吹いている。聴いたこともないわびしく哀しくどこか懐かしい旋律を奏している。
私が「いかなる神ならむ、いかなる祭祀ならむ」といぶかしみながら祭壇の前に立ち、目を挙げると、その眼の少し上の位置にオオサンショウウオに似た面妖な貌をした真っ白な大蛇が横たわっていて、うろんな眼つきで私を睨んだ。
美白の外貌なのに眼だけは黒々と、また爛々と輝いている。こいつが大蛇であるとはすぐに見当がついたが、胴体や尻尾は奥のほうにとぐろを巻いていてどれくらいの大きさなのかはまったくわからない。
しかし薄暗い空間の奥にじっと眼を凝らせば、蒼白の大蛇のとぐろの上に横たわっているのは、灰色と薄緑が混じった色をした4羽の白鳥であった。
かつては白鳥と呼ばれたであろうその大型の鳥は、いまや死せる黒鳥となってその4本の長い首と風呂敷のようにぺっちゃんこになった紫色の胴体を、冷たい血管が透き通るような大蛇の皮膚の上に静かに横たえているのだった。
思わず身震いした私が、なおもその異様な光景に見入っていると、そのオオサンショウウオに似た白い大蛇が美白の分厚い唇をぶよぶよと動かしながら、なにやら呟いたようだったが、何を言うておるのか聞き取れなかった。
そこで私が「えっ」と聞き返すと、そいつは、もういちど確かにこう言うたのだった。
「眼は、動くまなこなり。」
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり 茫洋
Thursday, June 26, 2008
小国寡民
小国寡民
照る日曇る日第134回&♪バガテルop64
萩原延壽著「精神の共和国」によれば、1946年に敗戦による栄養失調で死んだ河上肇の絶筆は、
「冬暖かにして夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に、無名の一良民として、晩年書斎の傍らに一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。私は日本国民が之を機会に、老子の所謂小国寡民の意義の極めて深きを悟るに至れば、今後の「日本人は従前に比べ却って遥かに仕合せになるものと信じている」
というものであった。
小国寡民は、老子の「小国寡民、その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相望みて、鶏犬の声聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず」に由来するそうだが、萩原氏とともに私は、敗戦後のわが国から、この老子と河上の後世への遺言がいつの間にか虹の彼方にはかなく消えうせたことを悲しむ。
全世界を敵に回して絶望的な戦いを戦い、すべての資源と武器を失って敗れた大日本帝国の臣民がたどるべき道は、極東のこの小さな島国にひっそり閑と閉塞し、グリムの童話の誇大妄想にとりつかれたかの蛙のごとく破裂した夜郎自大な愚かさを何世紀にもまたがって反省し、世界人民に迷惑を掛けず、いついつまでもおのれを殺して逼塞隠遁し、かの美空ひばりの歌のやうに穏やかに、謙虚に生きていくことであったろう。かつて7つの海を制覇した栄光の大英帝国が、誇りを失うことなく胸に手を当てながら悠々と黄昏ていったように。
さうして、吾等が理想の小国寡民にとって最強の武器とは、皮肉なことに戦勝国が吾等に呉れたパンドラの箱たる憲法第9条であったのだが……。
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか 茫洋
照る日曇る日第134回&♪バガテルop64
萩原延壽著「精神の共和国」によれば、1946年に敗戦による栄養失調で死んだ河上肇の絶筆は、
「冬暖かにして夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に、無名の一良民として、晩年書斎の傍らに一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。私は日本国民が之を機会に、老子の所謂小国寡民の意義の極めて深きを悟るに至れば、今後の「日本人は従前に比べ却って遥かに仕合せになるものと信じている」
というものであった。
小国寡民は、老子の「小国寡民、その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相望みて、鶏犬の声聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず」に由来するそうだが、萩原氏とともに私は、敗戦後のわが国から、この老子と河上の後世への遺言がいつの間にか虹の彼方にはかなく消えうせたことを悲しむ。
全世界を敵に回して絶望的な戦いを戦い、すべての資源と武器を失って敗れた大日本帝国の臣民がたどるべき道は、極東のこの小さな島国にひっそり閑と閉塞し、グリムの童話の誇大妄想にとりつかれたかの蛙のごとく破裂した夜郎自大な愚かさを何世紀にもまたがって反省し、世界人民に迷惑を掛けず、いついつまでもおのれを殺して逼塞隠遁し、かの美空ひばりの歌のやうに穏やかに、謙虚に生きていくことであったろう。かつて7つの海を制覇した栄光の大英帝国が、誇りを失うことなく胸に手を当てながら悠々と黄昏ていったように。
さうして、吾等が理想の小国寡民にとって最強の武器とは、皮肉なことに戦勝国が吾等に呉れたパンドラの箱たる憲法第9条であったのだが……。
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか 茫洋
Wednesday, June 25, 2008
Tuesday, June 24, 2008
♪ある晴れた日に その29
♪ある晴れた日に その29
短い午睡から醒めるともはや無用の人間になったような気がした。
白いポロシャツを着て、朝比奈の滝まで行ったが、誰にも会わなかった。
ハンミョウたちは、道案内ができないので退屈そうだった。
今日は大雨のあとなので、滝からは白い水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ湧いて出た。
いつまでもいつまでも湧いて出た。
藻屑蟹を呼んだが、1匹も出てこなかった。
初夏だというのに、コナラの樹上には1羽のゼフィルスも飛んでいない。
そのかわりにとでもいうように、
尾羽打ち枯らしたルリタテハが私の右肩にひょいと止まってしばらく遊んで
やがて青い青い空の高みに飛び去った。
♪白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ 茫洋
短い午睡から醒めるともはや無用の人間になったような気がした。
白いポロシャツを着て、朝比奈の滝まで行ったが、誰にも会わなかった。
ハンミョウたちは、道案内ができないので退屈そうだった。
今日は大雨のあとなので、滝からは白い水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ湧いて出た。
いつまでもいつまでも湧いて出た。
藻屑蟹を呼んだが、1匹も出てこなかった。
初夏だというのに、コナラの樹上には1羽のゼフィルスも飛んでいない。
そのかわりにとでもいうように、
尾羽打ち枯らしたルリタテハが私の右肩にひょいと止まってしばらく遊んで
やがて青い青い空の高みに飛び去った。
♪白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ 茫洋
Monday, June 23, 2008
萩原延壽著「精神の共和国」をわが田に引く
照る日曇る日第133回
「頼むところは天下の輿論、目指す讐は暴虐政府」と遺言して、亡命の地フィラデルフィアで若い命を散らしたのは、わが敬愛する孤高の自由思想家、馬場辰猪だった。
その馬場を「我が党の士」と呼んだのが福沢諭吉で、福沢は彼が身につけていた「気品」をなによりも愛惜したのであった。
「君は天下の人才にしてその期するところ大なりといえどもわが君におきて忘るることあたわざるところのものは、その気風品格の高尚なるにあり。君の気品は忘れんとして忘るるあたわざるところにして、百年の後なお他の亀鑑なり」(追弔詞)と福沢が称えた馬場の気品とは、「知識や思想に命をかよわす強靭な精神のちから」であった。
福沢が西南戦争を率いた西郷南州の行動にみた国民抵抗の精神、明治政府に出仕することを潔しとしない旧幕の遺臣栗本鋤雲の進退に感じた「痩せ我慢の精神」は、いずれも彼がいう「気品」にかかわっている。
気品とは「学問のすすめ」以来、慶応義塾を創立した福沢がもっとも頻繁に口にした「精神の独立」の別名でもある。
馬場、福沢死して1世紀、軽々に「品格」を口走る平成人輩の胸中に、そもいくばくの「気品」ありや?
穏健な保守の論客にして心の奥底で真の革新を夢見ていた、なんだか懐かしく不可思議なインテリゲンチャのことを、私は大仏次郎の「天皇の世紀」が未完で終わったあと、朝日新聞で長期連載された「遠い崖」を読んで、はじめて知ったのだった。
そしていつまでも続いて欲しいと願っていたあの素晴らしいアーネスト・サトウの物語がついに終わってしまったときはがっかりしたものだった。
さてこれで荻原延壽氏の全著作を読んでしまったことになるが、本当にもうこれでおしまいなのだろうか。なんだか名残惜しいことだ。
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターがのろのろと動く 茫洋
「頼むところは天下の輿論、目指す讐は暴虐政府」と遺言して、亡命の地フィラデルフィアで若い命を散らしたのは、わが敬愛する孤高の自由思想家、馬場辰猪だった。
その馬場を「我が党の士」と呼んだのが福沢諭吉で、福沢は彼が身につけていた「気品」をなによりも愛惜したのであった。
「君は天下の人才にしてその期するところ大なりといえどもわが君におきて忘るることあたわざるところのものは、その気風品格の高尚なるにあり。君の気品は忘れんとして忘るるあたわざるところにして、百年の後なお他の亀鑑なり」(追弔詞)と福沢が称えた馬場の気品とは、「知識や思想に命をかよわす強靭な精神のちから」であった。
福沢が西南戦争を率いた西郷南州の行動にみた国民抵抗の精神、明治政府に出仕することを潔しとしない旧幕の遺臣栗本鋤雲の進退に感じた「痩せ我慢の精神」は、いずれも彼がいう「気品」にかかわっている。
気品とは「学問のすすめ」以来、慶応義塾を創立した福沢がもっとも頻繁に口にした「精神の独立」の別名でもある。
馬場、福沢死して1世紀、軽々に「品格」を口走る平成人輩の胸中に、そもいくばくの「気品」ありや?
穏健な保守の論客にして心の奥底で真の革新を夢見ていた、なんだか懐かしく不可思議なインテリゲンチャのことを、私は大仏次郎の「天皇の世紀」が未完で終わったあと、朝日新聞で長期連載された「遠い崖」を読んで、はじめて知ったのだった。
そしていつまでも続いて欲しいと願っていたあの素晴らしいアーネスト・サトウの物語がついに終わってしまったときはがっかりしたものだった。
さてこれで荻原延壽氏の全著作を読んでしまったことになるが、本当にもうこれでおしまいなのだろうか。なんだか名残惜しいことだ。
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターがのろのろと動く 茫洋
Saturday, June 21, 2008
万歳! ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年
♪音楽千夜一夜第37回
ワーグナー・バイロイトコレクションはデッカレーベルから発売されていて、旧ドイツグラムフォンやフィリプスで出たものも一括しているが、なんといっても1枚当たり300円以下の低価格がうれしい。
ところがそれを大幅に下回る?バジェットプライスが目の前にならんでいた。ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年記念50枚組み消費税込み5790円の超廉価版である。私はすばやく電卓を取り出しメガネをかけて計算してみた。なんと@115円80銭ではないか!
これを買わずにいらりょうかとばかり、掌にずしりと重い1パックをむんずとわしづかみにしてレジに向かった私は、その日の午後のしがない賃労働を終えてから家に帰ってさっそくパンドラの箱を開いてみた。
するてえと、出てくるは出てくるは、バロックやら古楽の名曲名演奏の数々が。
アストルガのスターバト・マーテルからはじまって、ペルゴレージ、デユランテのマグニフィカト、ヴィヴエのレクイエム、リュリ、ラモー、ゼレンカ、ペレストリーナ、パーセル、ラスス、モンテヴェルディ、マショー、ヴィバルディ、バッハ、ヘンデルのいつか聴きたいと思っていたあれやこれやがじゃんじゃん飛び出してきたではないか。
たたいまカメラータ・ケルンのバッハのオーボエコンチエルトを聴いたばかりだが、うっとおしい梅雨の暗雲を吹き飛ばすような胸のすく演奏でした。
クイケン・トリオの音楽の慰め、レオンハルトのゴルドベルグ、鈴木秀美のチエロソナタ全曲も楽しみ。それに大好きなゼレンカのミサ曲やスカルラッティのカンタータ、ヨハネ受難曲なんて秘曲?も入っている。
演奏者はアルフレッド・デラーやターフェルムジーク、ホグウッド、プチット・バンド、ビルスマなどは知っているが、そのほかは初めての団体や演奏家ばかりだが、もうなんだっていいや。なんせ50枚だもんね、115円だもんね。
♪岩煙草煙草忘れし星の使者 茫洋
ワーグナー・バイロイトコレクションはデッカレーベルから発売されていて、旧ドイツグラムフォンやフィリプスで出たものも一括しているが、なんといっても1枚当たり300円以下の低価格がうれしい。
ところがそれを大幅に下回る?バジェットプライスが目の前にならんでいた。ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年記念50枚組み消費税込み5790円の超廉価版である。私はすばやく電卓を取り出しメガネをかけて計算してみた。なんと@115円80銭ではないか!
これを買わずにいらりょうかとばかり、掌にずしりと重い1パックをむんずとわしづかみにしてレジに向かった私は、その日の午後のしがない賃労働を終えてから家に帰ってさっそくパンドラの箱を開いてみた。
するてえと、出てくるは出てくるは、バロックやら古楽の名曲名演奏の数々が。
アストルガのスターバト・マーテルからはじまって、ペルゴレージ、デユランテのマグニフィカト、ヴィヴエのレクイエム、リュリ、ラモー、ゼレンカ、ペレストリーナ、パーセル、ラスス、モンテヴェルディ、マショー、ヴィバルディ、バッハ、ヘンデルのいつか聴きたいと思っていたあれやこれやがじゃんじゃん飛び出してきたではないか。
たたいまカメラータ・ケルンのバッハのオーボエコンチエルトを聴いたばかりだが、うっとおしい梅雨の暗雲を吹き飛ばすような胸のすく演奏でした。
クイケン・トリオの音楽の慰め、レオンハルトのゴルドベルグ、鈴木秀美のチエロソナタ全曲も楽しみ。それに大好きなゼレンカのミサ曲やスカルラッティのカンタータ、ヨハネ受難曲なんて秘曲?も入っている。
演奏者はアルフレッド・デラーやターフェルムジーク、ホグウッド、プチット・バンド、ビルスマなどは知っているが、そのほかは初めての団体や演奏家ばかりだが、もうなんだっていいや。なんせ50枚だもんね、115円だもんね。
♪岩煙草煙草忘れし星の使者 茫洋
Friday, June 20, 2008
ワーグナーとアーネスト・サトウ
♪音楽千夜一夜第36回
先般タワーレコードで購入したバイロイト音楽祭におけるワーグナーの楽劇、オペラライブシリーズ33枚は名曲、名演奏の一大コンピレーションで、とりわけベームの「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」のそれは聴き応えがあった。しかし諸事多端にとりまぎれ、まだ「ニーベルングの指輪」の残りと「パルシファル」はまだ聴きそびれている。聴き終わるのが待ち遠しいような、聴いてしまいたくないような複雑な気持ちだ。
いま読んでいる荻原延寿氏の本にアーネスト・サトウの音楽マニアぶりの話が出ているが、明治12年7月16日にサトウは同じ駐日英国大使館員のチエンバレンとベートーヴェンのハ短調交響曲の最初の2楽章を連弾して楽しんだりしている。場所は泉岳寺の向かいの下宿であるからあの運命のダダダダーンを耳にした人たちは驚いたことだろう。
そのサトウが生まれて初めてワーグナーの音楽に接したのは、彼が1883年にロンドンに帰国していたときである。ちょうどワーグナーの弟子のハンス・リヒターが英国におけるワ氏音楽の普及とバイロイトの資金集めのためにやってきて、前半に「ファウスト序曲」、「トリスタンの死」、「ジークフリートの死」、「同葬送行進曲」、後半にベ氏のその「ハ短調交響曲」を演奏した。
サトウは大いに感動したようで、「桁外れなほど壮大で神秘的ななにか、じつに意表をつく効果の数々、このワ氏の音楽に比べるとあの素晴らしい旋律と活気にあふれたベ氏の音楽さえ色あせてくる。まるで自分の神々がより強大な権力によって突然玉座から放り出されたような感じを受けた」(荻原延寿「精神の共和国」)と書いている。
永井荷風と同様、聴くべきところは精確に聴いているようだ。
しかしそれほど強力な印象を受けたにもかかわらず、サトウはついにバイロイト音楽祭には行かなかった。
彼の朋友チエンバレンの弟でワ氏の娘エヴァと結婚したヒューストン・チエンバレンが熱烈なワグネリアンだったから、当然何度も招待されたはずなのにとうとう祝祭劇場詣でをしなかったのは、そのヒューストンが狂信的な反ユダヤ主義者でありナチ賛美者であったからだと伝えられる。
♪どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット 茫洋
先般タワーレコードで購入したバイロイト音楽祭におけるワーグナーの楽劇、オペラライブシリーズ33枚は名曲、名演奏の一大コンピレーションで、とりわけベームの「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」のそれは聴き応えがあった。しかし諸事多端にとりまぎれ、まだ「ニーベルングの指輪」の残りと「パルシファル」はまだ聴きそびれている。聴き終わるのが待ち遠しいような、聴いてしまいたくないような複雑な気持ちだ。
いま読んでいる荻原延寿氏の本にアーネスト・サトウの音楽マニアぶりの話が出ているが、明治12年7月16日にサトウは同じ駐日英国大使館員のチエンバレンとベートーヴェンのハ短調交響曲の最初の2楽章を連弾して楽しんだりしている。場所は泉岳寺の向かいの下宿であるからあの運命のダダダダーンを耳にした人たちは驚いたことだろう。
そのサトウが生まれて初めてワーグナーの音楽に接したのは、彼が1883年にロンドンに帰国していたときである。ちょうどワーグナーの弟子のハンス・リヒターが英国におけるワ氏音楽の普及とバイロイトの資金集めのためにやってきて、前半に「ファウスト序曲」、「トリスタンの死」、「ジークフリートの死」、「同葬送行進曲」、後半にベ氏のその「ハ短調交響曲」を演奏した。
サトウは大いに感動したようで、「桁外れなほど壮大で神秘的ななにか、じつに意表をつく効果の数々、このワ氏の音楽に比べるとあの素晴らしい旋律と活気にあふれたベ氏の音楽さえ色あせてくる。まるで自分の神々がより強大な権力によって突然玉座から放り出されたような感じを受けた」(荻原延寿「精神の共和国」)と書いている。
永井荷風と同様、聴くべきところは精確に聴いているようだ。
しかしそれほど強力な印象を受けたにもかかわらず、サトウはついにバイロイト音楽祭には行かなかった。
彼の朋友チエンバレンの弟でワ氏の娘エヴァと結婚したヒューストン・チエンバレンが熱烈なワグネリアンだったから、当然何度も招待されたはずなのにとうとう祝祭劇場詣でをしなかったのは、そのヒューストンが狂信的な反ユダヤ主義者でありナチ賛美者であったからだと伝えられる。
♪どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット 茫洋
Thursday, June 19, 2008
篠田節子著「ホーラ 死都」を読む
照る日曇る日第132回
エーゲ海の孤島パナリア島に眠る死と亡霊の都ホーラを舞台にした「カルチャー×ホラー×ラブストーリー」である。
基本は壮年建築家と閨秀バイオリニストの許されざる恋の物語であるが、そこに観光名所やらギリシャやヴェネツイアやオスマントルコの歴史やらキリスト教との宗教&文化衝突やら沈没船から引き上げられた悪魔のヴァイオリン銘器だのその呪いだのがてんこ盛りに盛り込まれたサービス精神満点の娯楽読み物である。
料理にたとえると松花堂弁当か具の多いラーメンライスのようなものだろうか。すぐに腹いっぱいになるが食べた瞬間にどんな味だったか忘れてしまいそう。
しかし知性も教養も向学心も品格もある女流作家の作品だけに、最近の痴呆的ヤン・グーどものあほばか日本語とは2らんく上の読ませる文体と文章で磨き上げてあるのがなによりである。
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは 茫洋
エーゲ海の孤島パナリア島に眠る死と亡霊の都ホーラを舞台にした「カルチャー×ホラー×ラブストーリー」である。
基本は壮年建築家と閨秀バイオリニストの許されざる恋の物語であるが、そこに観光名所やらギリシャやヴェネツイアやオスマントルコの歴史やらキリスト教との宗教&文化衝突やら沈没船から引き上げられた悪魔のヴァイオリン銘器だのその呪いだのがてんこ盛りに盛り込まれたサービス精神満点の娯楽読み物である。
料理にたとえると松花堂弁当か具の多いラーメンライスのようなものだろうか。すぐに腹いっぱいになるが食べた瞬間にどんな味だったか忘れてしまいそう。
しかし知性も教養も向学心も品格もある女流作家の作品だけに、最近の痴呆的ヤン・グーどものあほばか日本語とは2らんく上の読ませる文体と文章で磨き上げてあるのがなによりである。
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは 茫洋
Tuesday, June 17, 2008
よしもとばなな著「サウスポイント」を読む
照る日曇る日第131回
今晩は蛍が4箇所に8匹いた。そのうち3匹がもつれ合いながら谷間の蒼穹に消えていく姿はまことに美しかった。それで私はなんとなく宮崎と坂口という死刑囚のことを思った。
鳩山という法相は大量の蝶類を殺戮してきたので、人類もわりあい抵抗なく死に追いやることができる人ではないかと私は確信している。ともかく蛮勇の持ち主である。たいしたもんだ。
さて本書である。
昔この人は吉本ばななであったのに、いつからひらかなに変えたのだろうか。高島流かそれとも新宿の母だか銀座の母に占ってもらったんだろうか。いずれにしても、私は姓名判断に頼る奴はきらいだし、にやまひろし、とかかまやつひろし、とか、なだいなだとか姓名をぜんぶひらくやつはきらいだ。きらいだきらいだ、全部きらいだ。
どうしてきらいなのか我ながら理由が分からないので、あとでゆっくり考えてみようと思うが、たぶん考えても分からないだろうし、それにその「たぶんあとで」、はないだろうな。人生ってそういうものだ。いまこそそれを考えるべきとき、実行するべきとき、と思っていたって結局はずるずるずるずる一日のばし、二日のばししているうちに10年、20年が過ぎていってしまう。人生ってそういうもんだ。
ばななはハワイが好きらしい。とりわけオアフ島ではなく、ハワイ島の南端のサウスポイントの黄昏に魅惑されているらしい。そこには人々を父母未生以前の原初の状態に還元してくれる精霊が宿っていて、現代の苦難に生きる人々の心身を洗濯し、解放してくれるらしい。
ばななは多少スピリチュアルな世界に影響を受けているようで、そこのところは気に喰わないが、たとえば村上龍のような大きな小説から遠く離れて、小さな小説の小さなよろこびと小さな悲しみをきりきりと生き、切々と抱きしめるところが樋口一葉のようで涙ぐましい。
>私はあの日、サウスポイントではっきりとそれを見た。
海と空、天界とこの世、風と潮、いろいろなものが美しく混じり合って溶けていたあの地点で、私はこの世を支配している力がもたらす、また別の裂け目を見たのだ。ふたつの世界の巨大な力が混じるところを。この世には別の世界をかいまみせるたくさんの裂け目があり、それに感応する魂を抱いている限りは、まだこうしていろいろなものをただ見ていたい、愛する人たちを助けていたい、そう思った。きっとこの場所は、たまに人間にそんな不思議な力を見るのを許してくれる、とっても稀で、厳しくして優しいところなのだろう。(p233)
この前段がいささか紋切り型のばなな流であるけれど、後段の「そう思った」とぬけぬけとためらいもなく言い放つところが、ばななの真骨頂である。そこにはこの魂の単純明快さと強さときよらかさが息づいており、世界と未来への天真爛漫な信頼が輝いている。
前作の「まぼろしハワイ」と違って今回はプロットの構成や時間軸の構築の仕方に技術的な難があるけれど、その破綻を覚悟してあえて突き進んでいるところにこの小説家の勇気と良心が認められる。
♪崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも 茫洋
今晩は蛍が4箇所に8匹いた。そのうち3匹がもつれ合いながら谷間の蒼穹に消えていく姿はまことに美しかった。それで私はなんとなく宮崎と坂口という死刑囚のことを思った。
鳩山という法相は大量の蝶類を殺戮してきたので、人類もわりあい抵抗なく死に追いやることができる人ではないかと私は確信している。ともかく蛮勇の持ち主である。たいしたもんだ。
さて本書である。
昔この人は吉本ばななであったのに、いつからひらかなに変えたのだろうか。高島流かそれとも新宿の母だか銀座の母に占ってもらったんだろうか。いずれにしても、私は姓名判断に頼る奴はきらいだし、にやまひろし、とかかまやつひろし、とか、なだいなだとか姓名をぜんぶひらくやつはきらいだ。きらいだきらいだ、全部きらいだ。
どうしてきらいなのか我ながら理由が分からないので、あとでゆっくり考えてみようと思うが、たぶん考えても分からないだろうし、それにその「たぶんあとで」、はないだろうな。人生ってそういうものだ。いまこそそれを考えるべきとき、実行するべきとき、と思っていたって結局はずるずるずるずる一日のばし、二日のばししているうちに10年、20年が過ぎていってしまう。人生ってそういうもんだ。
ばななはハワイが好きらしい。とりわけオアフ島ではなく、ハワイ島の南端のサウスポイントの黄昏に魅惑されているらしい。そこには人々を父母未生以前の原初の状態に還元してくれる精霊が宿っていて、現代の苦難に生きる人々の心身を洗濯し、解放してくれるらしい。
ばななは多少スピリチュアルな世界に影響を受けているようで、そこのところは気に喰わないが、たとえば村上龍のような大きな小説から遠く離れて、小さな小説の小さなよろこびと小さな悲しみをきりきりと生き、切々と抱きしめるところが樋口一葉のようで涙ぐましい。
>私はあの日、サウスポイントではっきりとそれを見た。
海と空、天界とこの世、風と潮、いろいろなものが美しく混じり合って溶けていたあの地点で、私はこの世を支配している力がもたらす、また別の裂け目を見たのだ。ふたつの世界の巨大な力が混じるところを。この世には別の世界をかいまみせるたくさんの裂け目があり、それに感応する魂を抱いている限りは、まだこうしていろいろなものをただ見ていたい、愛する人たちを助けていたい、そう思った。きっとこの場所は、たまに人間にそんな不思議な力を見るのを許してくれる、とっても稀で、厳しくして優しいところなのだろう。(p233)
この前段がいささか紋切り型のばなな流であるけれど、後段の「そう思った」とぬけぬけとためらいもなく言い放つところが、ばななの真骨頂である。そこにはこの魂の単純明快さと強さときよらかさが息づいており、世界と未来への天真爛漫な信頼が輝いている。
前作の「まぼろしハワイ」と違って今回はプロットの構成や時間軸の構築の仕方に技術的な難があるけれど、その破綻を覚悟してあえて突き進んでいるところにこの小説家の勇気と良心が認められる。
♪崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも 茫洋
Monday, June 16, 2008
平成蛍日記
平成蛍日記
♪バガテルop61&鎌倉ちょっと不思議な物語133回
ここ数日私は毎日毎晩ほたるがりに熱中していた。
「かり」ったって狩るのではない。遠くからそおおっと平家蛍の点滅を見守っているのである。
蛍という昆虫はかなり行動半径は広いのだが、不思議なことに毎晩同じ場所に宿る。
♪蛍の宿は川端柳、とはよく歌ったものだ。
川端柳の同じ葉っぱにおよそ1週間から10日滞在してうまくいったら交接してこの世に別れを告げるのである。
昨夜は雌雄2匹が楽しみながら前後左右に移動しながらゆっくり交接するのをうっとりと眺めていた。
1週間前はたくさん飛翔していたが、ここ数日は2匹か4匹になってきた。あと数日で当地の蛍の季節は終わりを告げることだろう。
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう 茫洋
♪バガテルop61&鎌倉ちょっと不思議な物語133回
ここ数日私は毎日毎晩ほたるがりに熱中していた。
「かり」ったって狩るのではない。遠くからそおおっと平家蛍の点滅を見守っているのである。
蛍という昆虫はかなり行動半径は広いのだが、不思議なことに毎晩同じ場所に宿る。
♪蛍の宿は川端柳、とはよく歌ったものだ。
川端柳の同じ葉っぱにおよそ1週間から10日滞在してうまくいったら交接してこの世に別れを告げるのである。
昨夜は雌雄2匹が楽しみながら前後左右に移動しながらゆっくり交接するのをうっとりと眺めていた。
1週間前はたくさん飛翔していたが、ここ数日は2匹か4匹になってきた。あと数日で当地の蛍の季節は終わりを告げることだろう。
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう 茫洋
Friday, June 13, 2008
松浦理英子著「犬身」を読む
松浦理英子著「犬身」を読む
照る日曇る日第131回
私は犬が好きだ。かつて息子が天園のハイキングコースの茶屋近辺をねぐらにしていた野良犬を拾ってきたときも一目見るなり大いに気に入って、もっとも新しい家族の席を占めたのだった。
いらい二十年近く生活を共にしたが、日々新鮮な驚きがあり、愛犬ムクのおかげで我が家は無上の幸せを味わうことができたのであった。最晩年の老犬は両目の視力を失い、体力も臭覚も衰え、餌が目当てで同棲したドラネコに食物を奪われ、大好きな散歩に外出しても歩くのがやっとというていたらくで、飼い主の息子が帰宅するのを待っていたように一声上げて絶命したわけだが、その最後の瞬間もムクは私たちの心と共にあったと確信している。
そんな犬とのうるわしき交歓を堪能した私も、松浦理英子さんの犬に寄せる熱烈な思いと強烈な想像力には遥かに及ばないと知った。
本書の女主人公は、愛する女性の愛犬になる夢を抱き、あれよあれよという間にその途方もない夢を実現してしまう。いったいどのような魔法を使ってそれが可能になったのかは、この本を手にとって読んでいただきたいが、ともかく人間が犬に変身したり、女主人に忠誠を誓うその犬が人間語を解したり、ヒロインの数奇な運命に巻き込まれて異常な体験をしたりする非現実的で不条理極まりない物語を、いかにも真に迫って本当の話のように描いてしまう作者の強烈な想像力と驚くべきは筆力には脱帽せざるを得ない。
私だってこのムクが人間だったら、ムクが言葉を話せたら、と思ったことは何度もあったが、この私が犬になってムクと会話したり愛し合ったりしようとは夢にも思わなかった。松浦理英子さんはこの境界をいともたやすく飛び越えて、人畜同体世界に侵入し、人畜運命共同体という前人未踏の交信領域を開拓することに成功したのであーる。
♪じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった 茫洋
照る日曇る日第131回
私は犬が好きだ。かつて息子が天園のハイキングコースの茶屋近辺をねぐらにしていた野良犬を拾ってきたときも一目見るなり大いに気に入って、もっとも新しい家族の席を占めたのだった。
いらい二十年近く生活を共にしたが、日々新鮮な驚きがあり、愛犬ムクのおかげで我が家は無上の幸せを味わうことができたのであった。最晩年の老犬は両目の視力を失い、体力も臭覚も衰え、餌が目当てで同棲したドラネコに食物を奪われ、大好きな散歩に外出しても歩くのがやっとというていたらくで、飼い主の息子が帰宅するのを待っていたように一声上げて絶命したわけだが、その最後の瞬間もムクは私たちの心と共にあったと確信している。
そんな犬とのうるわしき交歓を堪能した私も、松浦理英子さんの犬に寄せる熱烈な思いと強烈な想像力には遥かに及ばないと知った。
本書の女主人公は、愛する女性の愛犬になる夢を抱き、あれよあれよという間にその途方もない夢を実現してしまう。いったいどのような魔法を使ってそれが可能になったのかは、この本を手にとって読んでいただきたいが、ともかく人間が犬に変身したり、女主人に忠誠を誓うその犬が人間語を解したり、ヒロインの数奇な運命に巻き込まれて異常な体験をしたりする非現実的で不条理極まりない物語を、いかにも真に迫って本当の話のように描いてしまう作者の強烈な想像力と驚くべきは筆力には脱帽せざるを得ない。
私だってこのムクが人間だったら、ムクが言葉を話せたら、と思ったことは何度もあったが、この私が犬になってムクと会話したり愛し合ったりしようとは夢にも思わなかった。松浦理英子さんはこの境界をいともたやすく飛び越えて、人畜同体世界に侵入し、人畜運命共同体という前人未踏の交信領域を開拓することに成功したのであーる。
♪じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった 茫洋
Wednesday, June 11, 2008
Tuesday, June 10, 2008
岡田暁生著「恋愛哲学者モーツァルト」を読む
照る日曇る日第130回
―18世紀がどれほどはちゃめちゃで、ぶっ壊れていて大胆でエッチで絶望的で、でも優美で比類ないバランス感覚と人間愛にあふれていて、少し哀しげだけど微笑みを忘れず、しかし途方もなくラディカルで、人間観察においてぞっとするほど冷酷かつ徹底的でそしてどれだけ現代的であるか、つまりモーツアルトの音楽そのものであるか。
という著者の言葉を、著者がゲーテやスタンダールやカントやヘーゲルやラディゲやキルケゴールやアドルノなどの文学者・哲学者の思想を自在に引用しながら、「後宮からの脱走」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」という5つのオペラの登場人物たちの愛の試練の分析を通じて明らかにしていく、なかなかに興味深い音楽哲学書である。
「後宮からの脱走」におけるフィナーレで高貴な太守はひっそりと身を引き、その結果2組の恋人たちは船に乗ってトルコを去っていく。これはいちおうの愛の勝利ではあるが、けっして完璧ではなく、ある和解の不在をそれとなく示唆している、と著者はいう。
「フィガロの結婚」のあまりにも神々しいフィナーレはまるで夢の中の花火のようにあっけなく過ぎ去ってしまう。かつてあれほど愛し合った伯爵夫妻の愛は、おそらくもはや復活しないだろうし、フィガロとスザンナの若い愛もどうなることやら誰にも保証できない。けれど、とりあえず狂乱の一日を終わらせてやろうじゃないかと、モーツアルトは一気につじつま合わせの第4幕の終曲に突入するのである。
「ドン・ジョヴァンニ」は騎士長の死からはじまり主人公の英雄的な地獄落ちに終わる死のドラマであり、ドン・ジョヴァンニという永遠のドンファンによっておおいに活性化された貴族や農民たちの恋愛は、彼の死と共に死んでしまう。
つまり愛の共同体という視点から見たとき、「後宮からの脱走」はとりあえずその建設であり、「フィガロの結婚」はその再建であったが、「ドン・ジョヴァンニ」はそれらすべてを破壊してしまった、と著者はいうのである。地獄落ちととってつけたようなフィナーレの間には、橋の架け様もない深い断絶が生じているのである。
その結果、「コシ・ファン・トゥッテ」の世界では、恋人たちはもはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければならない。何が起きようがもう絶対悪のせいにはできず、頼れる庇護者・後見人・王様も悪魔もいない世界において、カントのいうように「未成年状態から脱して大人として自立すること」が恋人たちに課せられた課題になる。
女も、男も、世の中も、所詮はこんなもの。アドルノのいう「絶対主義と自由主義の間の一種逆説的な均衡状態」こそが「コシ・ファン・トゥッテ」を特徴付ける礼節の世界、英国流のゼントルマンの世界であると著者はいうのである。
モーツアルトは最後の作品「魔笛」では、一転して清く正しく美しい愛の世界を描き出す。散文化されたオペラの世界は、ふたたび一つの宇宙として神話化され、フィナーレではありとあらゆる音楽形式がめまぐるしく呼び戻され、最後はまるでベートーヴェンの第9のフィナーレを先取りするようなオラトリオ的な交響が世界にこだまする。
しかしベートーヴェンやワグナーと違って、モーツアルトはロマン派や恋人たちが大好きな感動フィナーレを冷徹に排除する。「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に互いに仲良く暮らしていける日が来るかもしれない」という希望がほんの一瞬つかの間にきらめいて、フィナーレはあっという間に終わってしまうのである。
♪太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな 茫洋
―18世紀がどれほどはちゃめちゃで、ぶっ壊れていて大胆でエッチで絶望的で、でも優美で比類ないバランス感覚と人間愛にあふれていて、少し哀しげだけど微笑みを忘れず、しかし途方もなくラディカルで、人間観察においてぞっとするほど冷酷かつ徹底的でそしてどれだけ現代的であるか、つまりモーツアルトの音楽そのものであるか。
という著者の言葉を、著者がゲーテやスタンダールやカントやヘーゲルやラディゲやキルケゴールやアドルノなどの文学者・哲学者の思想を自在に引用しながら、「後宮からの脱走」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」という5つのオペラの登場人物たちの愛の試練の分析を通じて明らかにしていく、なかなかに興味深い音楽哲学書である。
「後宮からの脱走」におけるフィナーレで高貴な太守はひっそりと身を引き、その結果2組の恋人たちは船に乗ってトルコを去っていく。これはいちおうの愛の勝利ではあるが、けっして完璧ではなく、ある和解の不在をそれとなく示唆している、と著者はいう。
「フィガロの結婚」のあまりにも神々しいフィナーレはまるで夢の中の花火のようにあっけなく過ぎ去ってしまう。かつてあれほど愛し合った伯爵夫妻の愛は、おそらくもはや復活しないだろうし、フィガロとスザンナの若い愛もどうなることやら誰にも保証できない。けれど、とりあえず狂乱の一日を終わらせてやろうじゃないかと、モーツアルトは一気につじつま合わせの第4幕の終曲に突入するのである。
「ドン・ジョヴァンニ」は騎士長の死からはじまり主人公の英雄的な地獄落ちに終わる死のドラマであり、ドン・ジョヴァンニという永遠のドンファンによっておおいに活性化された貴族や農民たちの恋愛は、彼の死と共に死んでしまう。
つまり愛の共同体という視点から見たとき、「後宮からの脱走」はとりあえずその建設であり、「フィガロの結婚」はその再建であったが、「ドン・ジョヴァンニ」はそれらすべてを破壊してしまった、と著者はいうのである。地獄落ちととってつけたようなフィナーレの間には、橋の架け様もない深い断絶が生じているのである。
その結果、「コシ・ファン・トゥッテ」の世界では、恋人たちはもはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければならない。何が起きようがもう絶対悪のせいにはできず、頼れる庇護者・後見人・王様も悪魔もいない世界において、カントのいうように「未成年状態から脱して大人として自立すること」が恋人たちに課せられた課題になる。
女も、男も、世の中も、所詮はこんなもの。アドルノのいう「絶対主義と自由主義の間の一種逆説的な均衡状態」こそが「コシ・ファン・トゥッテ」を特徴付ける礼節の世界、英国流のゼントルマンの世界であると著者はいうのである。
モーツアルトは最後の作品「魔笛」では、一転して清く正しく美しい愛の世界を描き出す。散文化されたオペラの世界は、ふたたび一つの宇宙として神話化され、フィナーレではありとあらゆる音楽形式がめまぐるしく呼び戻され、最後はまるでベートーヴェンの第9のフィナーレを先取りするようなオラトリオ的な交響が世界にこだまする。
しかしベートーヴェンやワグナーと違って、モーツアルトはロマン派や恋人たちが大好きな感動フィナーレを冷徹に排除する。「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に互いに仲良く暮らしていける日が来るかもしれない」という希望がほんの一瞬つかの間にきらめいて、フィナーレはあっという間に終わってしまうのである。
♪太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな 茫洋
Monday, June 09, 2008
五味文彦著「躍動する中世」を読んで その2
照る日曇る日第129回
昨日酷評した「躍動する中世」であるが、細部の記述はとても勉強になる。
以下は本書の落ち穂拾いである。
京の祇園社は外部からやってきて祟りをなす天竺の神牛頭天王、婆梨采女を祭った。
中世人はことのほか童、子供を大切にした。
宇佐八幡宮の八幡神が東大寺や春日社、神護寺、石清水寺に祭られるとともに、神仏習合が深化していった。由比若宮は源氏の基礎を築いた源頼義が由比ガ浜に石清水八幡宮を勧請したことにはじまる。同じ八幡神でも若宮であった。本地は十一面観音である。
頼朝はまず由比ガ浜の鶴岡若宮を祖宗を崇めるために小林卿に移し、毎年元旦に参詣したがこれが本邦の初詣のはじまりである。頼朝は1187年に鶴岡八幡宮で放生会を行なったがこれが山野河海にいくる自由民の支配と殺生を業とする武士の支配に直結したのである。
白拍子の起源は信西入道で、彼がいくつかの舞の手を創作し、磯禅師に伝え、これが娘で義経の妾である「天下の名仁」静に伝承された。静が頼朝夫妻の前で舞ったのは文治2年1186年4月8日であった。
鎌倉の和賀江島を築いたのは勧進上人の往阿弥陀仏と長谷大仏をつくった浄光の二人である。建長4年1252年8月に完成したと伝えられる大仏は当初は木造の釈迦如来と記されているが、現存するのは金銅の阿弥陀仏である。
1214年二日酔いに苦しむ実朝に良薬として抹茶を勧めたのが栄西であった。茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。本邦の喫茶はここにはじまる。
一遍の踊念仏である踊躍歓喜は身体と宗教の一致である。当時の放下の禅師にはササラ太郎、夢次郎、電光、朝露などがいた。
宝治合戦1247年の際に頼朝の法華堂に立て籠もった三浦一族は浄土宗に帰依する武士の行なう法事讃にもとづいて念仏を唱えつつ全員自害を遂げた。三浦泰村を滅ぼし名門足利氏を失脚させ幕府官僚制を確立し、建長寺を設立して禅門を擁護した。北条一門と得宗の外戚、得宗に仕える御内人から構成される秘密の会議、寄合も時頼の創設で、北条一門の出世コースは引付衆→評定衆→寄合衆であった。
武士の伸長は、11世紀後半に白川天皇が源義家と平正盛を院殿上人として登用したことにはじまる。平正盛の子忠盛は貴族にも取り立てられ平家興隆の基礎を築いた。
中世都市の3つの典型は中央政治都市の京、境界港湾都市の博多、宗教異界都市の奈良であり、それぞれ人・物・精神がその基軸をなしていた。
鎌倉将軍は関東武士団連合に擁された王であり、実朝のように善政・徳政にもとづく新政策を打ちだし親裁権を行使して連合を疎外しようとすれば退けられたのである。幕府政治の本質は談合であり、これがいまなお現代に続いている。
♪ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな 茫洋
昨日酷評した「躍動する中世」であるが、細部の記述はとても勉強になる。
以下は本書の落ち穂拾いである。
京の祇園社は外部からやってきて祟りをなす天竺の神牛頭天王、婆梨采女を祭った。
中世人はことのほか童、子供を大切にした。
宇佐八幡宮の八幡神が東大寺や春日社、神護寺、石清水寺に祭られるとともに、神仏習合が深化していった。由比若宮は源氏の基礎を築いた源頼義が由比ガ浜に石清水八幡宮を勧請したことにはじまる。同じ八幡神でも若宮であった。本地は十一面観音である。
頼朝はまず由比ガ浜の鶴岡若宮を祖宗を崇めるために小林卿に移し、毎年元旦に参詣したがこれが本邦の初詣のはじまりである。頼朝は1187年に鶴岡八幡宮で放生会を行なったがこれが山野河海にいくる自由民の支配と殺生を業とする武士の支配に直結したのである。
白拍子の起源は信西入道で、彼がいくつかの舞の手を創作し、磯禅師に伝え、これが娘で義経の妾である「天下の名仁」静に伝承された。静が頼朝夫妻の前で舞ったのは文治2年1186年4月8日であった。
鎌倉の和賀江島を築いたのは勧進上人の往阿弥陀仏と長谷大仏をつくった浄光の二人である。建長4年1252年8月に完成したと伝えられる大仏は当初は木造の釈迦如来と記されているが、現存するのは金銅の阿弥陀仏である。
1214年二日酔いに苦しむ実朝に良薬として抹茶を勧めたのが栄西であった。茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。本邦の喫茶はここにはじまる。
一遍の踊念仏である踊躍歓喜は身体と宗教の一致である。当時の放下の禅師にはササラ太郎、夢次郎、電光、朝露などがいた。
宝治合戦1247年の際に頼朝の法華堂に立て籠もった三浦一族は浄土宗に帰依する武士の行なう法事讃にもとづいて念仏を唱えつつ全員自害を遂げた。三浦泰村を滅ぼし名門足利氏を失脚させ幕府官僚制を確立し、建長寺を設立して禅門を擁護した。北条一門と得宗の外戚、得宗に仕える御内人から構成される秘密の会議、寄合も時頼の創設で、北条一門の出世コースは引付衆→評定衆→寄合衆であった。
武士の伸長は、11世紀後半に白川天皇が源義家と平正盛を院殿上人として登用したことにはじまる。平正盛の子忠盛は貴族にも取り立てられ平家興隆の基礎を築いた。
中世都市の3つの典型は中央政治都市の京、境界港湾都市の博多、宗教異界都市の奈良であり、それぞれ人・物・精神がその基軸をなしていた。
鎌倉将軍は関東武士団連合に擁された王であり、実朝のように善政・徳政にもとづく新政策を打ちだし親裁権を行使して連合を疎外しようとすれば退けられたのである。幕府政治の本質は談合であり、これがいまなお現代に続いている。
♪ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな 茫洋
Sunday, June 08, 2008
五味文彦著「躍動する中世」を読んで その1
照る日曇る日第128回
小学館の「日本の歴史」の第5巻、新視点中世史「躍動する中世」である。
著者によれば中世社会の特徴は次の5つであるという。
1) 疾病や飢饉が襲い来るなか、ひたすら神仏にすがり、これが中世人の政治・経済・文化・社会に大きな影響を与えたこと。例白川、鳥羽、後鳥羽院の熊野詣、平清盛の厳島神社詣、頼朝の鶴岡八幡宮詣と彼らの神託政治。応仁の乱にはじまる国際的な政治変動、長禄・寛正の疾病や飢饉などは15世紀の寒冷期(小氷期)の影響が大である。
2) 当時の内外情勢によって国内の地域社会の原型がつくられた。
3) 貴族・武士・庶民などさまざまな身分の諸階層にイエが形成され、主従関係を柱にしながらも、ウジではなく、イエを媒介とする多様な人間・社会関係が醸成された。
4) 古代律令国家における権力が弛緩し、分権化した。中央では寺社・権門が、地方では開発領主など自立した地域権力が形成されて多重権力状態になり、内乱も起こった。
5) 中世人は権力に頼らず、自力による救済を求め、各地で強訴や一揆、訴訟が起こったために中央権力はその対応に追われ自滅の道をたどったが、やがて応仁の乱を経て分権的社会から集権的社会へと変遷していく。
以上、身も蓋もない総括であるが、中身は充実していて、ことに前半の章は力作であるが、後半の最後のほうは雑多な情報を脱兎のごとく書き飛ばしてある。締め切りに追われて描き飛ばしたのだろう。
全体の構成も中途半端であり(特に最後の時代設定の項)、同じ著者による前著「王の記憶」に比較すると完成度はさほど高くない。時折加えられる網野善彦への上っ面の小出しの批判というより悪口も不愉快だ。批評するなら故人の存命中に本人の目の前で徹底的にやってほしかった。
♪毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた 茫洋
小学館の「日本の歴史」の第5巻、新視点中世史「躍動する中世」である。
著者によれば中世社会の特徴は次の5つであるという。
1) 疾病や飢饉が襲い来るなか、ひたすら神仏にすがり、これが中世人の政治・経済・文化・社会に大きな影響を与えたこと。例白川、鳥羽、後鳥羽院の熊野詣、平清盛の厳島神社詣、頼朝の鶴岡八幡宮詣と彼らの神託政治。応仁の乱にはじまる国際的な政治変動、長禄・寛正の疾病や飢饉などは15世紀の寒冷期(小氷期)の影響が大である。
2) 当時の内外情勢によって国内の地域社会の原型がつくられた。
3) 貴族・武士・庶民などさまざまな身分の諸階層にイエが形成され、主従関係を柱にしながらも、ウジではなく、イエを媒介とする多様な人間・社会関係が醸成された。
4) 古代律令国家における権力が弛緩し、分権化した。中央では寺社・権門が、地方では開発領主など自立した地域権力が形成されて多重権力状態になり、内乱も起こった。
5) 中世人は権力に頼らず、自力による救済を求め、各地で強訴や一揆、訴訟が起こったために中央権力はその対応に追われ自滅の道をたどったが、やがて応仁の乱を経て分権的社会から集権的社会へと変遷していく。
以上、身も蓋もない総括であるが、中身は充実していて、ことに前半の章は力作であるが、後半の最後のほうは雑多な情報を脱兎のごとく書き飛ばしてある。締め切りに追われて描き飛ばしたのだろう。
全体の構成も中途半端であり(特に最後の時代設定の項)、同じ著者による前著「王の記憶」に比較すると完成度はさほど高くない。時折加えられる網野善彦への上っ面の小出しの批判というより悪口も不愉快だ。批評するなら故人の存命中に本人の目の前で徹底的にやってほしかった。
♪毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた 茫洋
Saturday, June 07, 2008
オタマよ 元気で!
♪バガテルop60&鎌倉ちょっと不思議な物語132回
2月に誕生したオタマを自宅に持ち帰り大事に育てていましたが、今日もとの住処に放してやりました。
万が一そこのオタマが全滅したときに備えて毎年十数匹持ち帰っているのですが、結局共食いをして2匹だけになりました。そのかわりとても敏捷で強靭な生命力をもっています。既に小さな手足も生えています。
ややれやれこれで半年近いオタマの親役の仕事が終わりました。あと2週間、どうか鳥や蛇や悪いやつらに襲われずに元気なカエルになっとくれ。
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私 茫洋
2月に誕生したオタマを自宅に持ち帰り大事に育てていましたが、今日もとの住処に放してやりました。
万が一そこのオタマが全滅したときに備えて毎年十数匹持ち帰っているのですが、結局共食いをして2匹だけになりました。そのかわりとても敏捷で強靭な生命力をもっています。既に小さな手足も生えています。
ややれやれこれで半年近いオタマの親役の仕事が終わりました。あと2週間、どうか鳥や蛇や悪いやつらに襲われずに元気なカエルになっとくれ。
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私 茫洋
Thursday, June 05, 2008
網野善彦著作集第7巻「中世の非農業民と天皇」を読む
照る日曇る日第128回
宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。
もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも
と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。
往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。
しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。
律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。
鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。
やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。
しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。
かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。
♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋
宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。
もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも
と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。
往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。
しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。
律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。
鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。
やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。
しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。
かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。
♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋
蛍の光
蛍の光
鎌倉ちょっと不思議な物語131回
昨日の夜、ことし初めてのヘイケボタルの輪舞を目撃した。
去年は6月4日に4匹、おととしは6月3日におよそ10匹出現しているから、もしやと思ってバスから降りて走っていくと、少なくとも7匹の蛍たちが雨上がりの滑川を高く、低くゆらゆら揺れながら飛翔していた。
それにしてもこの劣悪で過酷な自然環境のなかで、養殖ですらない天然自然のヘイケボタルが、毎年毎年数はまちまちであっても、決まったように同じ時期に姿を現すことは、それ自体ほとんど奇跡のように思われてならない。
蛍は普通は晴れた無風の日の夕方7時過ぎに飛び始め、およそ1時間で樹木の葉に止まってその日の求愛活動を終えるのだが、きのうは午後9時近くになっていたにもかかわらず、かなりダイナミックに飛び回っていた。
滑川に架かる小さな橋の下にいる雌雄の2匹は後になり先になって30センチくらいの光の輪を残しながらさかんに求愛の輪舞を繰り返すさまを、私は欄干によりかかりながらうっとりとして見飽きることなくいつまでも眺めていた。
きっと誰にも分かってもらえないと思うけれど、あまり面白くもなかった人生を泣いたり笑ったりしながら長らく続けてきて、結局こういう昆虫の無心の踊りを眺めているときが、私のもっとも幸福な瞬間なのである。そして私は、これ以上のよろこびと、こういってよければ快楽を、人生と世の中に対してもはや求めようとはけっして思わないのである。
すると、無限に続くかと思われる輪舞を踊っていたうちの1匹が、あきらかに私をめがけてまっすぐ飛んできた。
かつてこの橋のたもとにはウクレレショップがあって、そのオーナーと私はたった一度だけこの橋に出没する蛍の話をしたことがあった。それは既に蛍には遅すぎる7月のことで、結局彼は毎晩自分のアパートから滑川を眺めていたにもかかわらず、その翌年の冬に急な病を得て亡くなってしまった。
あれからもう5年くらいは経つのだが、こうして再びこの橋の上に立ち、年々歳々精霊の再来のように漆黒の空から降臨してくれるケイケボタルを見るたびに、私は鎌倉長谷生まれと言っていたあのドンガバチョに似たウクレレ製作者のことを思い出す。
♪ひいふうみい 七つも踊っていたよ ことしのほたる 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語131回
昨日の夜、ことし初めてのヘイケボタルの輪舞を目撃した。
去年は6月4日に4匹、おととしは6月3日におよそ10匹出現しているから、もしやと思ってバスから降りて走っていくと、少なくとも7匹の蛍たちが雨上がりの滑川を高く、低くゆらゆら揺れながら飛翔していた。
それにしてもこの劣悪で過酷な自然環境のなかで、養殖ですらない天然自然のヘイケボタルが、毎年毎年数はまちまちであっても、決まったように同じ時期に姿を現すことは、それ自体ほとんど奇跡のように思われてならない。
蛍は普通は晴れた無風の日の夕方7時過ぎに飛び始め、およそ1時間で樹木の葉に止まってその日の求愛活動を終えるのだが、きのうは午後9時近くになっていたにもかかわらず、かなりダイナミックに飛び回っていた。
滑川に架かる小さな橋の下にいる雌雄の2匹は後になり先になって30センチくらいの光の輪を残しながらさかんに求愛の輪舞を繰り返すさまを、私は欄干によりかかりながらうっとりとして見飽きることなくいつまでも眺めていた。
きっと誰にも分かってもらえないと思うけれど、あまり面白くもなかった人生を泣いたり笑ったりしながら長らく続けてきて、結局こういう昆虫の無心の踊りを眺めているときが、私のもっとも幸福な瞬間なのである。そして私は、これ以上のよろこびと、こういってよければ快楽を、人生と世の中に対してもはや求めようとはけっして思わないのである。
すると、無限に続くかと思われる輪舞を踊っていたうちの1匹が、あきらかに私をめがけてまっすぐ飛んできた。
かつてこの橋のたもとにはウクレレショップがあって、そのオーナーと私はたった一度だけこの橋に出没する蛍の話をしたことがあった。それは既に蛍には遅すぎる7月のことで、結局彼は毎晩自分のアパートから滑川を眺めていたにもかかわらず、その翌年の冬に急な病を得て亡くなってしまった。
あれからもう5年くらいは経つのだが、こうして再びこの橋の上に立ち、年々歳々精霊の再来のように漆黒の空から降臨してくれるケイケボタルを見るたびに、私は鎌倉長谷生まれと言っていたあのドンガバチョに似たウクレレ製作者のことを思い出す。
♪ひいふうみい 七つも踊っていたよ ことしのほたる 茫洋
Wednesday, June 04, 2008
丸山健二著「日と月と刀」を読む
照る日曇る日第127回
きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく
というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、
碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく
というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁になんなんとする長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。
引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。
陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。
本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。
全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。
さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。
♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく
というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、
碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく
というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁になんなんとする長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。
引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。
陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。
本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。
全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。
さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。
♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
Tuesday, June 03, 2008
イヴ・サンローランとフランス革命
ふあっちょん幻論第21回
イヴ・サンローランが脳腫瘍で死んだ。まだ71歳とは知らなかった。若すぎる死といってもいいだろう。
20代でディオールの後継者となったサンローランは、1966年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを設立して「マリンルック」や官能的な夜のパンツ「スモーキング」を発表した。
サファリスーツやモンドリアンルックやプレタポルテブームを先導した功績も大であるが、私がみるところ、もっとも偉大な業績は「シティパンツ」の創造であろう。
サンローランが、女性が街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」を発表したのは1967年であった。これはウールジャージー素材によるチュニック丈ジャケットとパンツの組み合わせで、史上初めて“働く女のスーツ”を作ったシャネルが「サンローランこそは私の後継者」と呼んだ逸話にふさわしい革命的なルックスであった。
シャネルのスカートをサンローランはパンツに取替え、それまで男性が独占していたパンツを史上初めて女性のものにしたのである。
顧みれば、1789年のフランス革命が、貴族・ブルジョワ階級が常用した乗馬用の半ズボン、キュロットパンツを廃絶し、市民階級(サン・キュロット)の普段着である長ズボン(パンタロン)を革命のシンボルとして華々しく歴史の舞台に登場させた。そうしてイヴ・サンローランが火を点じた「リヴ・ゴーシュ(左岸)革命」では、200年間にわたって男性が独占していたそのパンタロンを、はじめて女性に解放したのである。
イヴ・サンローランという人は、天才ディオールとシャネルの後継者であっただけでなく、じつにフランス革命の輝かしい後継者でもあった。
♪白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな 茫洋
イヴ・サンローランが脳腫瘍で死んだ。まだ71歳とは知らなかった。若すぎる死といってもいいだろう。
20代でディオールの後継者となったサンローランは、1966年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを設立して「マリンルック」や官能的な夜のパンツ「スモーキング」を発表した。
サファリスーツやモンドリアンルックやプレタポルテブームを先導した功績も大であるが、私がみるところ、もっとも偉大な業績は「シティパンツ」の創造であろう。
サンローランが、女性が街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」を発表したのは1967年であった。これはウールジャージー素材によるチュニック丈ジャケットとパンツの組み合わせで、史上初めて“働く女のスーツ”を作ったシャネルが「サンローランこそは私の後継者」と呼んだ逸話にふさわしい革命的なルックスであった。
シャネルのスカートをサンローランはパンツに取替え、それまで男性が独占していたパンツを史上初めて女性のものにしたのである。
顧みれば、1789年のフランス革命が、貴族・ブルジョワ階級が常用した乗馬用の半ズボン、キュロットパンツを廃絶し、市民階級(サン・キュロット)の普段着である長ズボン(パンタロン)を革命のシンボルとして華々しく歴史の舞台に登場させた。そうしてイヴ・サンローランが火を点じた「リヴ・ゴーシュ(左岸)革命」では、200年間にわたって男性が独占していたそのパンタロンを、はじめて女性に解放したのである。
イヴ・サンローランという人は、天才ディオールとシャネルの後継者であっただけでなく、じつにフランス革命の輝かしい後継者でもあった。
♪白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな 茫洋
Monday, June 02, 2008
海に浮かぶか博物館
勝手に建築観光30回
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
Sunday, June 01, 2008
細江英公人間写真展 胡蝶の夢 舞踏家・大野一男
照る日曇る日第127回
残念ながら大野一男の舞踏を生で見たことはないが、テレビやこうした写真でその芸術の一端をうかがい知ることができる。
1960年代に都会の路上で繰り広げたパフォーマンス、瀕死の作家埴谷雄高の吉祥寺南町の自宅を囲繞する呪術的な祈り、江戸時代の奇想の芸術家に憑依した70年代のスタジオでの踊り、90年代に無人の釧路湿原を漂流する異形の蠢き、そして2005年99歳に達した眠れる舞踏家の曾孫との入眠幻想まで、細江英公のモノクロームはこの偉大な芸術家の壮絶な軌跡をあますところなく伝えている。
中野坂上の東京工芸大学のSHADAI GALLERYで今月8日まで開催中。
♪つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか 茫洋
残念ながら大野一男の舞踏を生で見たことはないが、テレビやこうした写真でその芸術の一端をうかがい知ることができる。
1960年代に都会の路上で繰り広げたパフォーマンス、瀕死の作家埴谷雄高の吉祥寺南町の自宅を囲繞する呪術的な祈り、江戸時代の奇想の芸術家に憑依した70年代のスタジオでの踊り、90年代に無人の釧路湿原を漂流する異形の蠢き、そして2005年99歳に達した眠れる舞踏家の曾孫との入眠幻想まで、細江英公のモノクロームはこの偉大な芸術家の壮絶な軌跡をあますところなく伝えている。
中野坂上の東京工芸大学のSHADAI GALLERYで今月8日まで開催中。
♪つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか 茫洋
Saturday, May 31, 2008
2008年皐月茫洋詩歌集
2008年皐月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その28
そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたび叫ぶたびにぷつんと切れる世界とのつながり
自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい
まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい
講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月
俳句は諦観とリリシズム短歌は小さな私小説であるよ
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常
しつこく上空を旋回しているセスナ機を撃墜したくなる金曜の朝
大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻
心血を注いで描きし作品を二束三文で叩き売るかな
基次郎に触発されし檸檬の絵ドイツ人コレクター安く買いたり
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな
売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり
道端のすべての塵を拾いあげ、ひとつずつ河に捨てているのはうちの耕君
道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし
「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる
「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と
妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ
わがブログに死ねと書き込む人がいてその黒き心我をも黒くす
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがまだその時にあらず
おやおやさかさに振ってももう一滴も歌が出てこないぞ
漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり
おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む
日本人に体臭無ければそとくにの強き香水身にまとうなかれ
10歳若き知り合いが社長になった人の才知は見抜けぬものよ
かつて愚鈍と思いし後輩が大会社の社長になる人の才知は見抜けぬものよ
妻はバタ私はヒラですれ違う横浜栄のプールの真ん中
母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり
黒揚羽五月一日生まれなり
われに来てしばし物言ふ黒揚羽
今朝もまた鶯の歌で目覚めたり
いざともに交尾致さむ揚羽蝶
翡翠の午睡を破る川下り
逆さに振っても歌湧いてこず
耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で
桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花
流れよ みこし どんぶらこ
山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
♪ある晴れた日に その28
そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたび叫ぶたびにぷつんと切れる世界とのつながり
自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい
まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい
講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月
俳句は諦観とリリシズム短歌は小さな私小説であるよ
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常
しつこく上空を旋回しているセスナ機を撃墜したくなる金曜の朝
大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻
心血を注いで描きし作品を二束三文で叩き売るかな
基次郎に触発されし檸檬の絵ドイツ人コレクター安く買いたり
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな
売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり
道端のすべての塵を拾いあげ、ひとつずつ河に捨てているのはうちの耕君
道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし
「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる
「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と
妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ
わがブログに死ねと書き込む人がいてその黒き心我をも黒くす
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがまだその時にあらず
おやおやさかさに振ってももう一滴も歌が出てこないぞ
漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり
おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む
日本人に体臭無ければそとくにの強き香水身にまとうなかれ
10歳若き知り合いが社長になった人の才知は見抜けぬものよ
かつて愚鈍と思いし後輩が大会社の社長になる人の才知は見抜けぬものよ
妻はバタ私はヒラですれ違う横浜栄のプールの真ん中
母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり
黒揚羽五月一日生まれなり
われに来てしばし物言ふ黒揚羽
今朝もまた鶯の歌で目覚めたり
いざともに交尾致さむ揚羽蝶
翡翠の午睡を破る川下り
逆さに振っても歌湧いてこず
耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で
桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花
流れよ みこし どんぶらこ
山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
Thursday, May 29, 2008
1945年8月の鎌倉文士
鎌倉ちょっと不思議な物語130回
先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。
長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。
なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治、田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治と中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。
中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。
1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫は田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。
中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。
♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋
先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。
長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。
なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治、田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治と中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。
中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。
1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫は田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。
中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。
♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋
Wednesday, May 28, 2008
滑川に落ちた愛犬ムク
♪バガテルop59&鎌倉ちょっと不思議な物語129回
きのう滑川を歩いていて、思い出したことがあります。
今を去る10年ほど前、愛犬を散歩させていた私は、ふと油断した隙に、年老いて既にそこひを病んで盲目になっていたムクを、あろうことか足元の滑川に墜落させてしまったのです。
ドさっと鈍い物音が聞こえ、あわてて下を見ると薄茶色の綿毛が浮いた人間に換算するとおよそ80歳になんなんとするその老犬は、固い岩盤の上に座り込んでおろおろとうろたえています。
「おい、ムク、大丈夫か」と声をかけましたが、ムクはワンとも答えず、がたがたと震えておりました。もしかするとどこかに大怪我をしてしまったのではないか? 突然の衝撃で、このまま死んでしまうのではないだろうか?
すまなさと自責の念に駆られた私は、きっと青ざめていたと思います。しかしこうしてはいられない。すぐに自宅にとって返して真鍮の梯子を持ってきましたが、短すぎて川底まで届きません。
仕方がない。えいやっと飛び降り、恐怖と不安で震えている盲目のムクを抱きかかえ、急いで手足を調べてみましたが、幸いなことにどこも怪我などをしていない様子。やれやれこれで命だけは取り留めた、と私は思わず天に感謝したことでした。
そうこうするうちに頭上が急ににぎやかになってきました。近所の住人たちが妙な場所にいる私たちを案じてのぞきこみながら、
「あら、まあ、ムクちゃんじゃないの。いったいどうしたの」
などと口々に声をかけてくれます。
事情を察した“しまわん”さんが、すばやく家にとってかえして、大きくて長い木の梯子を道端から川底まで降ろしてくれたので、私はムクをしっかり胸に抱えながら一段一段そろそろと上にのぼりました。長い間お風呂に入らないムクの体は思いのほか重く、獣のにおいがぷんとしました。
やっとの思いでガードレールを乗り越えると、私はムクと一緒にどうと道路に転がり落ちましたが、ムクはなんとか無事に生還したのでありました。メデタシ、メデタシ。
しかしその後、私が飼い主の健君と家内にひどくおこられたことは申すまでもありません。
その後ようやく元気を取り戻したムクは、どこからともなく現れた三毛猫子と同棲しておりましたが、それから数年経った2002年の2月に天寿を全うし、WANNG!と一声発して地上の星となったのでありました。
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな 茫洋
きのう滑川を歩いていて、思い出したことがあります。
今を去る10年ほど前、愛犬を散歩させていた私は、ふと油断した隙に、年老いて既にそこひを病んで盲目になっていたムクを、あろうことか足元の滑川に墜落させてしまったのです。
ドさっと鈍い物音が聞こえ、あわてて下を見ると薄茶色の綿毛が浮いた人間に換算するとおよそ80歳になんなんとするその老犬は、固い岩盤の上に座り込んでおろおろとうろたえています。
「おい、ムク、大丈夫か」と声をかけましたが、ムクはワンとも答えず、がたがたと震えておりました。もしかするとどこかに大怪我をしてしまったのではないか? 突然の衝撃で、このまま死んでしまうのではないだろうか?
すまなさと自責の念に駆られた私は、きっと青ざめていたと思います。しかしこうしてはいられない。すぐに自宅にとって返して真鍮の梯子を持ってきましたが、短すぎて川底まで届きません。
仕方がない。えいやっと飛び降り、恐怖と不安で震えている盲目のムクを抱きかかえ、急いで手足を調べてみましたが、幸いなことにどこも怪我などをしていない様子。やれやれこれで命だけは取り留めた、と私は思わず天に感謝したことでした。
そうこうするうちに頭上が急ににぎやかになってきました。近所の住人たちが妙な場所にいる私たちを案じてのぞきこみながら、
「あら、まあ、ムクちゃんじゃないの。いったいどうしたの」
などと口々に声をかけてくれます。
事情を察した“しまわん”さんが、すばやく家にとってかえして、大きくて長い木の梯子を道端から川底まで降ろしてくれたので、私はムクをしっかり胸に抱えながら一段一段そろそろと上にのぼりました。長い間お風呂に入らないムクの体は思いのほか重く、獣のにおいがぷんとしました。
やっとの思いでガードレールを乗り越えると、私はムクと一緒にどうと道路に転がり落ちましたが、ムクはなんとか無事に生還したのでありました。メデタシ、メデタシ。
しかしその後、私が飼い主の健君と家内にひどくおこられたことは申すまでもありません。
その後ようやく元気を取り戻したムクは、どこからともなく現れた三毛猫子と同棲しておりましたが、それから数年経った2002年の2月に天寿を全うし、WANNG!と一声発して地上の星となったのでありました。
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな 茫洋
Tuesday, May 27, 2008
滑川を歩く
♪バガテルop58&鎌倉ちょっと不思議な物語128回
昨日の続きで極楽寺界隈の話を書かなければいけないのですが、今日の午後、滑川(なめりかわと呼びます)にハヤの群れが気持ちよさそうに泳いでいたので、それをデジカメで撮影しようと身を乗り出した途端に、ポロシャツの胸ポケットに入れておいた携帯が5メートル下の川岸に落ちてしまいました。
幸い水中には落下しなかったので、飛び降りようとしましたが、足を折らずに着地したとしても這い上がるすべがなさそうです。やむをえずずっと上流の私の家の前の橋から降りて、うねうねと回流している川をおよそ500m下流に向かって歩くことにしました。あの十二所神社のおみこしを流したといわれている滑川を、です。
原稿の締め切りが迫っているし、草取りの後片付けもあるし、ははの家の電気工事の立会いもあったのですが、背に腹は変えられません。家からハシゴや長い布切れを持ち出し、ゴム長に履き替えて橋桁からえいやっと滑川に飛び降りました。
川幅は1mから3mくらいの狭さですが先日の増水で川の流れが速く、深さは浅いところで5cm、深いところで30cmくらいですが、ところどころに暗渠や小さな滝もあって歩きやすいとはお世辞にもいえません。道路の上では細君も心配そうに見守っていますが、こうなれば前に進むしかありません。意を決した私はどんどん川の中を歩き始めました。
お日様が上空からかっと照りつけてはいますが、初夏の爽やかな風が全身を包んでくれるので意外に快適です。ゴム長でじゃぶじゃぶ前進していくと、驚いたハヤや藻屑蟹たちが急いで岩陰に姿を隠します。目の覚めるような群青色に輝く翡翠も敏捷な身のこなしを見せながら下流に逃げていきます。
私はだんだん愉快な気分になって大股に初夏の滑川を移動して行きました。
じつは私がもっとも恐れていたのはこの川に生息している蛇と蜂でした。アオダイショウやヤマカガシなどは、手にした木の枝で簡単に追い払うことができますが、産卵期のマムシはきわめて獰猛で、下手に向かっていくとまるで空を飛ぶように牙を剥きながら襲い掛かってくるので気をつけなければいけません。
またスズメバチも鬼門です。なぜなら既に2回彼らに刺されているハチ毒超敏感症候群の私は、3度目には生命の保証はできないと医師に警告され、エピペン注射液を処方されているからです。
しかさいわいにも1匹の蛇さんややスズメバチさんに遭遇することなく、目的地までたどり着き、携帯を拾って無事に元の地点まで戻ることができました。めでたし、めでたし。
最後に、いつもこのようなドジをやらかす私に対してホトホト呆れ返りながらも、仕方なく協力してくれるわが細君に衷心より感謝申し上げる次第です。
♪翡翠の午睡を破る川下り 茫洋
昨日の続きで極楽寺界隈の話を書かなければいけないのですが、今日の午後、滑川(なめりかわと呼びます)にハヤの群れが気持ちよさそうに泳いでいたので、それをデジカメで撮影しようと身を乗り出した途端に、ポロシャツの胸ポケットに入れておいた携帯が5メートル下の川岸に落ちてしまいました。
幸い水中には落下しなかったので、飛び降りようとしましたが、足を折らずに着地したとしても這い上がるすべがなさそうです。やむをえずずっと上流の私の家の前の橋から降りて、うねうねと回流している川をおよそ500m下流に向かって歩くことにしました。あの十二所神社のおみこしを流したといわれている滑川を、です。
原稿の締め切りが迫っているし、草取りの後片付けもあるし、ははの家の電気工事の立会いもあったのですが、背に腹は変えられません。家からハシゴや長い布切れを持ち出し、ゴム長に履き替えて橋桁からえいやっと滑川に飛び降りました。
川幅は1mから3mくらいの狭さですが先日の増水で川の流れが速く、深さは浅いところで5cm、深いところで30cmくらいですが、ところどころに暗渠や小さな滝もあって歩きやすいとはお世辞にもいえません。道路の上では細君も心配そうに見守っていますが、こうなれば前に進むしかありません。意を決した私はどんどん川の中を歩き始めました。
お日様が上空からかっと照りつけてはいますが、初夏の爽やかな風が全身を包んでくれるので意外に快適です。ゴム長でじゃぶじゃぶ前進していくと、驚いたハヤや藻屑蟹たちが急いで岩陰に姿を隠します。目の覚めるような群青色に輝く翡翠も敏捷な身のこなしを見せながら下流に逃げていきます。
私はだんだん愉快な気分になって大股に初夏の滑川を移動して行きました。
じつは私がもっとも恐れていたのはこの川に生息している蛇と蜂でした。アオダイショウやヤマカガシなどは、手にした木の枝で簡単に追い払うことができますが、産卵期のマムシはきわめて獰猛で、下手に向かっていくとまるで空を飛ぶように牙を剥きながら襲い掛かってくるので気をつけなければいけません。
またスズメバチも鬼門です。なぜなら既に2回彼らに刺されているハチ毒超敏感症候群の私は、3度目には生命の保証はできないと医師に警告され、エピペン注射液を処方されているからです。
しかさいわいにも1匹の蛇さんややスズメバチさんに遭遇することなく、目的地までたどり着き、携帯を拾って無事に元の地点まで戻ることができました。めでたし、めでたし。
最後に、いつもこのようなドジをやらかす私に対してホトホト呆れ返りながらも、仕方なく協力してくれるわが細君に衷心より感謝申し上げる次第です。
♪翡翠の午睡を破る川下り 茫洋
Monday, May 26, 2008
極楽寺を訪ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語127回
極楽寺は真言宗の名刹である。正嘉年間1257-59にひとりの老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置して極楽寺と称していた。老僧亡き後正元元年1259年に北条義時の三男重時がそれを現在地に移したといわれている。
弘長元年1261年にその重時の子長時(六代執権)と業時兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山した。忍性はここで施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済するための福祉事業に取り組んだ。人間だけでなく、病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てるなど、ボタンティアの先駆者ともいえる徳の高い僧侶で、人々からは医王如来と崇められていたそうだ。さらに橋を架けるなどのト公共土木工事にも力を入れていたことはあまりにも有名である。
極楽寺は完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭を誇る大寺院だったが、いくたの自然災害や火事に見舞われ、現在残っているのは文久3年に建てられた本堂のみであるが、境内に残る製薬鉢や千服茶臼は鎌倉時代の遺物であり、往時をありありと想起させる。
以上お馴染みの「鎌倉の寺小事典」より引用しましたが、今から30年前に私が一目ぼれをした好個の木造家屋がこの近所にあり、諸般の事情で購入には至りませんでしたが、もしかするとこの近辺に住んでいたかもしれないと思うだに極楽寺は懐かしいお寺なのです。
山門を仰げば「芝棟」が。これは昔の日本の農家にあった茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせるという植物と建築の一体化の手法ですが、これが極楽寺にもあったとは思いがけない発見でした。
本堂に向かう参道の右側には、薪をうずたかく積みあげた民家があり、電気に頼らずこれで暖房する心意気を感じさせてくれます。境内は狭いながらもどこか風雅で格調の高い古拙の趣きがそこここに感じられ、じつに心が休まるよいお寺です。境内が撮影禁止なのもわが意を得たりであります。
♪売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり 茫洋
極楽寺は真言宗の名刹である。正嘉年間1257-59にひとりの老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置して極楽寺と称していた。老僧亡き後正元元年1259年に北条義時の三男重時がそれを現在地に移したといわれている。
弘長元年1261年にその重時の子長時(六代執権)と業時兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山した。忍性はここで施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済するための福祉事業に取り組んだ。人間だけでなく、病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てるなど、ボタンティアの先駆者ともいえる徳の高い僧侶で、人々からは医王如来と崇められていたそうだ。さらに橋を架けるなどのト公共土木工事にも力を入れていたことはあまりにも有名である。
極楽寺は完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭を誇る大寺院だったが、いくたの自然災害や火事に見舞われ、現在残っているのは文久3年に建てられた本堂のみであるが、境内に残る製薬鉢や千服茶臼は鎌倉時代の遺物であり、往時をありありと想起させる。
以上お馴染みの「鎌倉の寺小事典」より引用しましたが、今から30年前に私が一目ぼれをした好個の木造家屋がこの近所にあり、諸般の事情で購入には至りませんでしたが、もしかするとこの近辺に住んでいたかもしれないと思うだに極楽寺は懐かしいお寺なのです。
山門を仰げば「芝棟」が。これは昔の日本の農家にあった茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせるという植物と建築の一体化の手法ですが、これが極楽寺にもあったとは思いがけない発見でした。
本堂に向かう参道の右側には、薪をうずたかく積みあげた民家があり、電気に頼らずこれで暖房する心意気を感じさせてくれます。境内は狭いながらもどこか風雅で格調の高い古拙の趣きがそこここに感じられ、じつに心が休まるよいお寺です。境内が撮影禁止なのもわが意を得たりであります。
♪売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり 茫洋
Sunday, May 25, 2008
萩原延壽著「自由のかたち」を読んで
照る日曇る日第125回
60年代のわが国にはまだ革新勢力が存在し、時折保守勢力を脅かすに足る活動を行なっていた。そしてここには、もしも彼らがもう少し政治家として有能で国民の心をつかむ技術を備えていたら、その後わが国は今日とは180度異なる道を歩んでいたかもしれないことを思わせる「古き良き時代」におけるいくつかのエッセイが並んでいる。
70年安保を実体験することなく英国の留学から帰国した著者は、英国労働党首のゲイツケルの政治哲学に感銘を受け、わが国の社会主義運動に対してもほのかな期待を寄せていたが、革新政党を名乗る彼らが、むしろ保守政党に比べても言葉の本質において革新的(ラジカル)ではないことを痛感して絶望し、次第に遠ざかっていくのだが、筋金入りの孤独な自由主義者が歩み去るその後姿は妙に寂しい。
当時著者は「中立主義」についても論じていた。著者によれば、中立主義とは敵と味方の間に存在する硬直した壁を取り払い、その空間に「妥協」という政治的果実を結晶させようとする不断の努力をいうのだが、この前途多難な中立主義こそが当時の革新政党ないし革新日本が目指すべき理想主義的な進路であったと振り返るのである。
爾来40有余年、日米同盟の鉄鎖で自らを縛りつけ、いまなおじぶん自身を定位させえず、ために他者他国からの自由と自立を獲得できないまま、いたずらにナショナリズムの炎を胸に熱く燃やし始めたこの国にとって、萩原流中立主義など夢のまた夢というべきだろうか。
私はこの頃の日本がますます嫌な國になってきたように感じられてならない。著者がいうように、わが日本国憲法の第22条には、国籍離脱の自由がうたわれている。私たちのほとんど大部分は、日本人であることを自覚的に選択したわけではない。出生という偶然によって日本人であることを余儀なくされているケースが大半ではないだろうか。
そこでこの際私たちの未来には、3つの自由の地平が広がっていると考えてもいいだろう。ひとつはいろいろあっても、なんとかやりくり我慢して改めてこの国に留まることである。二つ目は、かつて幕末の志士が藩という小国を飛び出したように断固国外のどこかへ出て行くことである。そして最後に、国内亡命という第三の道もあるのではないだろうか。
いずれにせよ、改めて日本を選びなおしてみたいと思う今日この頃である。
♪大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻 茫洋
60年代のわが国にはまだ革新勢力が存在し、時折保守勢力を脅かすに足る活動を行なっていた。そしてここには、もしも彼らがもう少し政治家として有能で国民の心をつかむ技術を備えていたら、その後わが国は今日とは180度異なる道を歩んでいたかもしれないことを思わせる「古き良き時代」におけるいくつかのエッセイが並んでいる。
70年安保を実体験することなく英国の留学から帰国した著者は、英国労働党首のゲイツケルの政治哲学に感銘を受け、わが国の社会主義運動に対してもほのかな期待を寄せていたが、革新政党を名乗る彼らが、むしろ保守政党に比べても言葉の本質において革新的(ラジカル)ではないことを痛感して絶望し、次第に遠ざかっていくのだが、筋金入りの孤独な自由主義者が歩み去るその後姿は妙に寂しい。
当時著者は「中立主義」についても論じていた。著者によれば、中立主義とは敵と味方の間に存在する硬直した壁を取り払い、その空間に「妥協」という政治的果実を結晶させようとする不断の努力をいうのだが、この前途多難な中立主義こそが当時の革新政党ないし革新日本が目指すべき理想主義的な進路であったと振り返るのである。
爾来40有余年、日米同盟の鉄鎖で自らを縛りつけ、いまなおじぶん自身を定位させえず、ために他者他国からの自由と自立を獲得できないまま、いたずらにナショナリズムの炎を胸に熱く燃やし始めたこの国にとって、萩原流中立主義など夢のまた夢というべきだろうか。
私はこの頃の日本がますます嫌な國になってきたように感じられてならない。著者がいうように、わが日本国憲法の第22条には、国籍離脱の自由がうたわれている。私たちのほとんど大部分は、日本人であることを自覚的に選択したわけではない。出生という偶然によって日本人であることを余儀なくされているケースが大半ではないだろうか。
そこでこの際私たちの未来には、3つの自由の地平が広がっていると考えてもいいだろう。ひとつはいろいろあっても、なんとかやりくり我慢して改めてこの国に留まることである。二つ目は、かつて幕末の志士が藩という小国を飛び出したように断固国外のどこかへ出て行くことである。そして最後に、国内亡命という第三の道もあるのではないだろうか。
いずれにせよ、改めて日本を選びなおしてみたいと思う今日この頃である。
♪大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻 茫洋
Saturday, May 24, 2008
めまぐるしい所有権者の変遷
鎌倉ちょっと不思議な物語126回 十二所物語その3
徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。
再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。
嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。
十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。
さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。
♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊
徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。
再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。
嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。
十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。
さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。
♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊
Friday, May 23, 2008
ミハイル・ブルガーコフ著水野忠夫訳「巨匠とマルガリータ」を読む
照る日曇る日第125回
面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。
捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。
ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。
ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。
最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。
♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋
面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。
捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。
ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。
ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。
最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。
♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋
Thursday, May 22, 2008
タベルナで食べた
♪バガテルop57&鎌倉ちょっと不思議な物語124回
今日も「イタリアン」の続きです。
海からの薫風に吹かれて極楽寺から稲村ガ崎まで歩いたあとで、タベルナ ロンディーノ(TAVERNA RONDINO)というイタリア料理屋さんで妻とランチをしました。TAVERNAというのは食べるなではなく、イタリア語で「大衆食堂」「田舎風の小洒落たレストラン」という意味です。RONDINOはたしかツバメではなかったでしょうか。ご存知の方は教えてくださいな。
ここはなんでも裏駅の江ノ電改札口の隣、御成商店街のたもとにあるCafe RONDINO のオーナーが1980年に国道134号線沿いに開いたお店だそうで、亡くなった詩人の田村隆一氏がかつてこの近所に住んでいて、よく食事に来たと聞いたので、散歩がてら足を伸ばしたのです。Cafe RONDINOは私がサラリーマン時代の最後の最後にニッポン放送の営業担当氏(彼も鎌倉在住でした)と打ち合わせをした思い出の場所なんです。
さてタベルナのお味ですが、私は人一倍味覚が鈍くて、なにを食べてもおいしく頂く人間なのですが、肉も魚もシラスパスタもリゾットもとても美味でした。今度は青池さんや健君も誘って訪れたいと思います。
十三秒間隔の光り 田村隆一
新しい家はきらいである
古い家で生まれて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年前のことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィーを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に 『新年の手紙』より
♪「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と 茫洋
今日も「イタリアン」の続きです。
海からの薫風に吹かれて極楽寺から稲村ガ崎まで歩いたあとで、タベルナ ロンディーノ(TAVERNA RONDINO)というイタリア料理屋さんで妻とランチをしました。TAVERNAというのは食べるなではなく、イタリア語で「大衆食堂」「田舎風の小洒落たレストラン」という意味です。RONDINOはたしかツバメではなかったでしょうか。ご存知の方は教えてくださいな。
ここはなんでも裏駅の江ノ電改札口の隣、御成商店街のたもとにあるCafe RONDINO のオーナーが1980年に国道134号線沿いに開いたお店だそうで、亡くなった詩人の田村隆一氏がかつてこの近所に住んでいて、よく食事に来たと聞いたので、散歩がてら足を伸ばしたのです。Cafe RONDINOは私がサラリーマン時代の最後の最後にニッポン放送の営業担当氏(彼も鎌倉在住でした)と打ち合わせをした思い出の場所なんです。
さてタベルナのお味ですが、私は人一倍味覚が鈍くて、なにを食べてもおいしく頂く人間なのですが、肉も魚もシラスパスタもリゾットもとても美味でした。今度は青池さんや健君も誘って訪れたいと思います。
十三秒間隔の光り 田村隆一
新しい家はきらいである
古い家で生まれて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年前のことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィーを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に 『新年の手紙』より
♪「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と 茫洋
Wednesday, May 21, 2008
ドナ、ドナ、どーなの
ドナ、ドナ、どーなの
♪バガテルop56
昼前に中野坂上の学校に行く。駅前のドナという名前のパスタ屋に入って790円のパスタセットを食べていたら、隣の客が煙草を呑みだした。あわてて店長に禁煙席はどこだと聞いたら、「んなものありません」とかなんとか小さい声でむにゃむにゃ言いつつ蟹のように横歩きしながら消えていく。
そのうちに反対隣の客まで煙草を吸い始めたので、息を止めながらサラダとパスタとコーヒーを一気飲み喰いしてレジに直行、「もう君の店には二度と来ない」と告げて近所の公園に逃走した。
久しぶりの快晴である。やれやれと深呼吸したら、またしても煙草の煙を吸い込んでしまった。あたりを見回すとまたしても喫煙者が……。
私は学校めがけて一目散に走り出した。
ロンドンのパブも、サンフランシスコのレストランも、パリのカフェですら禁煙になったのは、喫煙が立派な病気であり、ニコチン中毒を経て多くの人の健康を損ない、死に追いやる災厄であるばかりか、その被害が周囲の非喫煙者をもまきこんでしまうからだ。
喫煙者は緩慢な自殺を実行しているわけだが、それは本人の自由だとしても、他人を巻き添えにすることだけはやめてほしい。それは緩慢な他殺行為であるからだ。そうした事情を知りつつ禁煙席すら設けないでいるとしたら、ドナは殺人に加担しているといえなくもない。
♪「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている 茫洋
♪バガテルop56
昼前に中野坂上の学校に行く。駅前のドナという名前のパスタ屋に入って790円のパスタセットを食べていたら、隣の客が煙草を呑みだした。あわてて店長に禁煙席はどこだと聞いたら、「んなものありません」とかなんとか小さい声でむにゃむにゃ言いつつ蟹のように横歩きしながら消えていく。
そのうちに反対隣の客まで煙草を吸い始めたので、息を止めながらサラダとパスタとコーヒーを一気飲み喰いしてレジに直行、「もう君の店には二度と来ない」と告げて近所の公園に逃走した。
久しぶりの快晴である。やれやれと深呼吸したら、またしても煙草の煙を吸い込んでしまった。あたりを見回すとまたしても喫煙者が……。
私は学校めがけて一目散に走り出した。
ロンドンのパブも、サンフランシスコのレストランも、パリのカフェですら禁煙になったのは、喫煙が立派な病気であり、ニコチン中毒を経て多くの人の健康を損ない、死に追いやる災厄であるばかりか、その被害が周囲の非喫煙者をもまきこんでしまうからだ。
喫煙者は緩慢な自殺を実行しているわけだが、それは本人の自由だとしても、他人を巻き添えにすることだけはやめてほしい。それは緩慢な他殺行為であるからだ。そうした事情を知りつつ禁煙席すら設けないでいるとしたら、ドナは殺人に加担しているといえなくもない。
♪「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている 茫洋
Tuesday, May 20, 2008
哀悼 ニコルの松田さん
ふあっちょん幻論第20回&遥かな昔、遠い所で第71回
ビルマではサイクロン、中国では四川大地震で多数の死傷者が出ている。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表すとともに、なんとか一人でも多くの人命が救われるようにと祈っている。そして狭量で独善的な政治権力が、自己保身のために国際的な救助の手を拒否して自国民を人身御供にすることだけはやめてほしいと願わずにはいられない。
地震や災害がなくとも人間はどんどん死んでいく。そして人の死は生きているものになにがしかの思いを形見のように届けながら冥界の彼方へと没していく。
昨日の夕刊にニコルのデザイナーの松田光弘さんが肝細胞ガンで亡くなられたという訃報が出ていたのを目にして、私ははしなくも松田さんの謦咳にただ一度だけ接したことがあったのを思いだした。
もう数十年も昔のこと、私が原宿にあった会社で広報活動を担当していたとき、突然「ミセス」という雑誌の編集長のHさんから電話がかかってきた。「今から5分後に松田さんからあなたに電話が入るからよく話を聞いてください」というので「分かりました」と答えて待っていると、すぐにニコルの松田さんから電話がかかってきた。やわらかくソフトなバリトンだった。
用件というのはちょっと風変わりで、当時私の大嫌いな読売巨人軍(だいたいスポーツ団体に軍隊の名前をつける人間の脳髄自体が狂っている)を解雇されたばかりのクロマティという三振ばかりしてぶんぶん黒丸みたいなアメリカ人の巨砲選手が、どういうわけだかファッションビジネスに関心があり、近くクロマティ・ブランド?を立ち上げるので、その相談に乗り、できたら協力してあげてほしい」というのであった。
そういうことなら専門家であるあなたの方がよほど適任であろうといいたかったが、これにはなにか事情もあるのだろうと思った私は、とりあえず松田さんの要望に応えてクロマティ氏に会うことになった。何を隠そう、当時の私はニコルのメンズのスーツが好きだったのである。
「ありがとう。じゃあ、よろしく」というすっかり肩の荷を降ろした氏の声を電話越しに耳にしたのが、それこそ一期一会、今生の別れとなったのだから、面白うてやがて哀しきは人生の常であろうか。
翌日ジェーン・マンスフィールド似の美人秘書を従え、アルマーニの高級スーツに身を包み意気揚々とわがプレスルームに乗り込んできたクロマティは想像以上の巨漢であったが、この国においてクロマティ・プレミアムブランドを成功させるのは至難の業であることを1時間半に渡って縷々私が説くと、黒い大男は額から玉のごとき大粒の汗を流し、時折諾諾と肯いつつ、最後には鄭重な謝辞と共に去っていった。
爾来幾星霜、ジェーンとクロマティの行方は、杳として知られない。
♪おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む 茫洋
ビルマではサイクロン、中国では四川大地震で多数の死傷者が出ている。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表すとともに、なんとか一人でも多くの人命が救われるようにと祈っている。そして狭量で独善的な政治権力が、自己保身のために国際的な救助の手を拒否して自国民を人身御供にすることだけはやめてほしいと願わずにはいられない。
地震や災害がなくとも人間はどんどん死んでいく。そして人の死は生きているものになにがしかの思いを形見のように届けながら冥界の彼方へと没していく。
昨日の夕刊にニコルのデザイナーの松田光弘さんが肝細胞ガンで亡くなられたという訃報が出ていたのを目にして、私ははしなくも松田さんの謦咳にただ一度だけ接したことがあったのを思いだした。
もう数十年も昔のこと、私が原宿にあった会社で広報活動を担当していたとき、突然「ミセス」という雑誌の編集長のHさんから電話がかかってきた。「今から5分後に松田さんからあなたに電話が入るからよく話を聞いてください」というので「分かりました」と答えて待っていると、すぐにニコルの松田さんから電話がかかってきた。やわらかくソフトなバリトンだった。
用件というのはちょっと風変わりで、当時私の大嫌いな読売巨人軍(だいたいスポーツ団体に軍隊の名前をつける人間の脳髄自体が狂っている)を解雇されたばかりのクロマティという三振ばかりしてぶんぶん黒丸みたいなアメリカ人の巨砲選手が、どういうわけだかファッションビジネスに関心があり、近くクロマティ・ブランド?を立ち上げるので、その相談に乗り、できたら協力してあげてほしい」というのであった。
そういうことなら専門家であるあなたの方がよほど適任であろうといいたかったが、これにはなにか事情もあるのだろうと思った私は、とりあえず松田さんの要望に応えてクロマティ氏に会うことになった。何を隠そう、当時の私はニコルのメンズのスーツが好きだったのである。
「ありがとう。じゃあ、よろしく」というすっかり肩の荷を降ろした氏の声を電話越しに耳にしたのが、それこそ一期一会、今生の別れとなったのだから、面白うてやがて哀しきは人生の常であろうか。
翌日ジェーン・マンスフィールド似の美人秘書を従え、アルマーニの高級スーツに身を包み意気揚々とわがプレスルームに乗り込んできたクロマティは想像以上の巨漢であったが、この国においてクロマティ・プレミアムブランドを成功させるのは至難の業であることを1時間半に渡って縷々私が説くと、黒い大男は額から玉のごとき大粒の汗を流し、時折諾諾と肯いつつ、最後には鄭重な謝辞と共に去っていった。
爾来幾星霜、ジェーンとクロマティの行方は、杳として知られない。
♪おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む 茫洋
Monday, May 19, 2008
鎌倉の1000年
鎌倉ちょっと不思議な物語123回 十二所物語その2
十二所の上古の事蹟ははっきりしないが、奈良時代の聖武天皇の御世に藤原鎌足の子孫染谷太郎太夫時定がここ鎌倉に居住し、のちに平貞盛の孫上総介直方がここに住み、源頼義が相模守となってこの地に住した。その子の直方が女を娶って道家を産み、その後子孫がこの地に代々住むようになり、鎌倉は源家相伝の地となったのである。
下って平治元年1159年に源義朝が相模守となり、治承4年1180年に頼朝が大蔵に幕府を開いたが、元弘3年1333年には新田義貞の手で瓦解して朝廷に返上、建武2年1335年には足利尊氏がこの地を占拠して、正平6年1351年に足利基氏の領地となるのだが、彼の幕府は浄明寺と十二所の中間地点にあった。自宅から歩いて数分の距離である。
その後数世紀にわたって関東方の領地となった鎌倉は、後には山の内上杉氏に属し、さらには三浦義同の治下となり、義同が小田原の北条早雲に滅ぼされてからは北条氏(後北条)の支配下に置かれることとなった。
天正18年1590年、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされてからは徳川家康の領地になったことは関東地方と同断である。
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる 茫洋
十二所の上古の事蹟ははっきりしないが、奈良時代の聖武天皇の御世に藤原鎌足の子孫染谷太郎太夫時定がここ鎌倉に居住し、のちに平貞盛の孫上総介直方がここに住み、源頼義が相模守となってこの地に住した。その子の直方が女を娶って道家を産み、その後子孫がこの地に代々住むようになり、鎌倉は源家相伝の地となったのである。
下って平治元年1159年に源義朝が相模守となり、治承4年1180年に頼朝が大蔵に幕府を開いたが、元弘3年1333年には新田義貞の手で瓦解して朝廷に返上、建武2年1335年には足利尊氏がこの地を占拠して、正平6年1351年に足利基氏の領地となるのだが、彼の幕府は浄明寺と十二所の中間地点にあった。自宅から歩いて数分の距離である。
その後数世紀にわたって関東方の領地となった鎌倉は、後には山の内上杉氏に属し、さらには三浦義同の治下となり、義同が小田原の北条早雲に滅ぼされてからは北条氏(後北条)の支配下に置かれることとなった。
天正18年1590年、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされてからは徳川家康の領地になったことは関東地方と同断である。
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる 茫洋
Sunday, May 18, 2008
どくだみの花
♪バガテルop55&遥かな昔、遠い所で第70回
日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。
氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。
幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ
どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり
乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき
乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと
どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。
そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。
ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。
思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。
おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。
♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋
日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。
氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。
幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ
どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり
乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき
乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと
どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。
そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。
ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。
思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。
おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。
♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋
Saturday, May 17, 2008
期間限定ワグナーセット
♪音楽千夜一夜第35回
たまにはコンサートに行きたいと思うのだが、「音楽の友」などを眺めていてもろくなものがないし、あってもべらぼうな値段であるからしてルンペンプロレタリアートの私にはとうてい懐にそんな余裕がないし、よしんば無理に出かけて行っても右隣の男性の体臭や鼻息やら(一息ごとにフガアア、ムガアアと破裂音をあたりに発してやまぬ煙草臭いオヤジの首を絞めてやりたいとこれまで何度思ったことだろう)、左隣の若い女性の醜からぬ容貌やら立ち昇る香水の匂い(ちなみに体臭の薄いか皆無に近い日本人に油くさい西欧人のワキガ消し用に開発された濃厚な香水なぞサントリーホールでも電車でもはたまたフランスベッドでもまったく無用の長物、臭覚に敏感な男性は必死で吐き気とめまいをこらえているのだよ)やら、時折演奏中になり始める携帯の呼び出し音などが絶対に気になるし、期待して行っても大半のコンサートは感銘率1%以下であることがあらかじめ統計的に分かっているし(小沢とN響はゼロ%)、どうせあとで録音や放送やDⅤDになるだろうし、そんなことなら近所で一生懸命に歌う鶯のさえずりを聞いたり、朝比奈峠でようやく成熟のときを迎えたオタマジャクシと遊んだり、太刀洗の渓流でたわむれるモンキアゲハの飛翔に見入っていたほうがよほど清涼されるに決まっているので結局は出不精を決め込んでいる私だが、たまたま新宿のタワーを覗いてみたら、偉大なるワグナーの代表作品を33枚に収めたデッカのCDコンピレーションセットを9000円で売っていたので,愛用の赤くて小さな手帳を取り出してちびた鉛筆をなめなめ割り算してみたら、なんと@272円と判明したのですぐさま懐中の全財産をはたいて買って家に帰って開いてみたら、これみなバイロイトフェスティバルのライブ録音ばかりで、ベーム翁の指輪やトリスタンとイゾルデを目玉に、レバインのパルシファル、サバリッシュのオランダ人、ローエングリン、タンホイザー、バァルビゾのマイスタージンガーのいずれもが全曲録音で揃っていたので、クラーバーを凌ぐ名演奏・名録音のトリスタンだけは手持ちとダブリになってしまったが、それもよくあること、モーツアルトほどではないにせよ私が愛してやまないリヒヤルトの傑作をこれから1枚1枚なめるように聴いてやろうと思っただけでもうれしくなって、窓を開ければまたしても鶯が「ホーホケキョ」とうれしそうに鳴いたのであった。
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私 茫洋
たまにはコンサートに行きたいと思うのだが、「音楽の友」などを眺めていてもろくなものがないし、あってもべらぼうな値段であるからしてルンペンプロレタリアートの私にはとうてい懐にそんな余裕がないし、よしんば無理に出かけて行っても右隣の男性の体臭や鼻息やら(一息ごとにフガアア、ムガアアと破裂音をあたりに発してやまぬ煙草臭いオヤジの首を絞めてやりたいとこれまで何度思ったことだろう)、左隣の若い女性の醜からぬ容貌やら立ち昇る香水の匂い(ちなみに体臭の薄いか皆無に近い日本人に油くさい西欧人のワキガ消し用に開発された濃厚な香水なぞサントリーホールでも電車でもはたまたフランスベッドでもまったく無用の長物、臭覚に敏感な男性は必死で吐き気とめまいをこらえているのだよ)やら、時折演奏中になり始める携帯の呼び出し音などが絶対に気になるし、期待して行っても大半のコンサートは感銘率1%以下であることがあらかじめ統計的に分かっているし(小沢とN響はゼロ%)、どうせあとで録音や放送やDⅤDになるだろうし、そんなことなら近所で一生懸命に歌う鶯のさえずりを聞いたり、朝比奈峠でようやく成熟のときを迎えたオタマジャクシと遊んだり、太刀洗の渓流でたわむれるモンキアゲハの飛翔に見入っていたほうがよほど清涼されるに決まっているので結局は出不精を決め込んでいる私だが、たまたま新宿のタワーを覗いてみたら、偉大なるワグナーの代表作品を33枚に収めたデッカのCDコンピレーションセットを9000円で売っていたので,愛用の赤くて小さな手帳を取り出してちびた鉛筆をなめなめ割り算してみたら、なんと@272円と判明したのですぐさま懐中の全財産をはたいて買って家に帰って開いてみたら、これみなバイロイトフェスティバルのライブ録音ばかりで、ベーム翁の指輪やトリスタンとイゾルデを目玉に、レバインのパルシファル、サバリッシュのオランダ人、ローエングリン、タンホイザー、バァルビゾのマイスタージンガーのいずれもが全曲録音で揃っていたので、クラーバーを凌ぐ名演奏・名録音のトリスタンだけは手持ちとダブリになってしまったが、それもよくあること、モーツアルトほどではないにせよ私が愛してやまないリヒヤルトの傑作をこれから1枚1枚なめるように聴いてやろうと思っただけでもうれしくなって、窓を開ければまたしても鶯が「ホーホケキョ」とうれしそうに鳴いたのであった。
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私 茫洋
Friday, May 16, 2008
レーモンド・カーヴァー著「英雄を謳うまい」を読んで
照る日曇る日第125回
村上春樹氏が翻訳するレーモンド・カーヴァー作品は、いずれも面白く読ませてもらったが、その最終巻であるこの本は、初期の短編や詩、挫折した長編の断片や書評やエッセイやスピーチ原稿などのいわば壮大な寄せ集めで、であるがゆえの面白さももちろんあったけれど、やはりいささか物足りなかった。
格別の感想はないが、以下印象に残ったくだりだけをメモしておこう。
カーヴァーのみならずエリオットやウイリアムズやへミングウエイやイエーツの文学上の師であったエズラ・パウンドは、「叙述の根本的な正確さ、それこそが文章における唯一無二の道義である」と述べたそうだが、なんとなく分かるような気がする。
その正確さの水準器を作家が持ち合わせていれば、の話だが。
聖テレサという373年前に生きていた傑出した女性は、こう語ったそうだ。
「言葉とは行為を導くものです。言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです。(Words lead to deeds----they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.)」
♪講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月 茫洋
村上春樹氏が翻訳するレーモンド・カーヴァー作品は、いずれも面白く読ませてもらったが、その最終巻であるこの本は、初期の短編や詩、挫折した長編の断片や書評やエッセイやスピーチ原稿などのいわば壮大な寄せ集めで、であるがゆえの面白さももちろんあったけれど、やはりいささか物足りなかった。
格別の感想はないが、以下印象に残ったくだりだけをメモしておこう。
カーヴァーのみならずエリオットやウイリアムズやへミングウエイやイエーツの文学上の師であったエズラ・パウンドは、「叙述の根本的な正確さ、それこそが文章における唯一無二の道義である」と述べたそうだが、なんとなく分かるような気がする。
その正確さの水準器を作家が持ち合わせていれば、の話だが。
聖テレサという373年前に生きていた傑出した女性は、こう語ったそうだ。
「言葉とは行為を導くものです。言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです。(Words lead to deeds----they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.)」
♪講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月 茫洋
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