鎌倉ちょっと不思議な物語80回
この寺の一帯は北条義時の代に一門の屋敷が築かれ、その後歴代の得宗家が最後の執権十六代守時の代までここで総指揮を執った。三つ鱗は三菱ではなく、北条家の家紋である。
その後、北条氏打倒の命を下した後醍醐天皇が北条一門の怨霊鎮護のために足利尊氏に命じて同じ場所に建てたのがこの宝戒寺である。
その後醍醐天皇を滅ぼした形になった足利尊氏が、亡き天皇の慰霊のために京都に建立したのが天龍寺であるから、思えばこの二つの寺は不思議な縁によって結ばれているともいえる。
本堂には本尊の菩薩像のほかに梵天像、帝釈天像、不動明王などが安置されており、境内右には2世普川国師が鎮護国家を祈念して歓喜天を安置した大歓喜天堂、左には北条氏を供養する宝篋印塔が建てられ、さらに本堂を巡る庭園には、正月の羽子板の羽根の重石に使われるムクロジュなど、四季折々のさまざまな花や植物が植えられている。
Monday, October 01, 2007
Saturday, September 29, 2007
柳美里の「山手線内回り」を読む
降っても照っても第58回
私は、小説というジャンルの内容や形式の新しさなどはもはや出尽くした、と勝手に考えていたが、そうは問屋が卸しはしなかった。まだまだ前人未到の領域が残されていることを著者は見事に証明して見せたのである。
まず「山手線内回り」というタイトルだが、ここには東京の代表的な交通エリアに物語の場所を据え、駅周辺に生活する三人の都会人の最先端の生を描くと共に、その三つの生の最期と一体化された冷酷無残なギロチンとしての電車を終幕に登場させるという趣向なのである。
3つの短編にはそれぞれの主人公がいちおう存在するのだが、物語の真の主人公は、山手線の電車に象徴される現代社会がはらむ無機的な非情さと無関心と敵意と孤独そのものなのである。
第1作の最初のページは、「女は便器に越をおろすと、タイトスカートをへその上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内にこもっているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、そしてなか指をクリトリスに押し付けて左右に強く―、」という卑猥で下品で文章で始まる。
私は著者の人格を思わせるそのあまりの「えぐさ」に不愉快になり、かててくわえてその擬音や雑音や地口や広告やチラシの無秩序な引用やらにムカついて、あやうく本書を文字どおり放り出そうとしたのだが、「しかしこれはセリーヌに比べたらまだひよっこみたいなものだ」と思いつつ、ぐっとこらえているうちに、しだいに著者の術中にはまり込み、「まもなく4番線に上野・池袋方面行きが参ります、危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」という最後の文章を読むころには、あろうことか著者の力量にすっかり脱帽してしまった。
次の「JR高田馬場」、さうして巻末におかれた「JR五反田駅東口」では、著者の実験的手法は(少なからざる失敗と大きな逸脱はあるものの)、着実な成果をあげることに成功し、最後の作品の最後の文章(記号!)を眼にした人は、容易に忘れられない感銘を覚えるにちがいない。
著者は、通常の作家が見落としている非文学的な領域にあえて下降して、もっとも文学的ならざる醜い文体、無意味な記号、漂流するネット情報の断片などを丁寧に拾い上げ、それらの糞のようなガジェットどもを総動員して見事な平成文学を荒々しく紡ぎ上げた。
これは、まさしく泥池に咲いた一輪の美しい蓮の花であり、醜いアコヤ貝に育まれてついに世に出た一粒の真珠であり、さらにいうなら、閉塞する現代文学に対して投じられた起死回生の手榴弾である。
私は、小説というジャンルの内容や形式の新しさなどはもはや出尽くした、と勝手に考えていたが、そうは問屋が卸しはしなかった。まだまだ前人未到の領域が残されていることを著者は見事に証明して見せたのである。
まず「山手線内回り」というタイトルだが、ここには東京の代表的な交通エリアに物語の場所を据え、駅周辺に生活する三人の都会人の最先端の生を描くと共に、その三つの生の最期と一体化された冷酷無残なギロチンとしての電車を終幕に登場させるという趣向なのである。
3つの短編にはそれぞれの主人公がいちおう存在するのだが、物語の真の主人公は、山手線の電車に象徴される現代社会がはらむ無機的な非情さと無関心と敵意と孤独そのものなのである。
第1作の最初のページは、「女は便器に越をおろすと、タイトスカートをへその上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内にこもっているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、そしてなか指をクリトリスに押し付けて左右に強く―、」という卑猥で下品で文章で始まる。
私は著者の人格を思わせるそのあまりの「えぐさ」に不愉快になり、かててくわえてその擬音や雑音や地口や広告やチラシの無秩序な引用やらにムカついて、あやうく本書を文字どおり放り出そうとしたのだが、「しかしこれはセリーヌに比べたらまだひよっこみたいなものだ」と思いつつ、ぐっとこらえているうちに、しだいに著者の術中にはまり込み、「まもなく4番線に上野・池袋方面行きが参ります、危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」という最後の文章を読むころには、あろうことか著者の力量にすっかり脱帽してしまった。
次の「JR高田馬場」、さうして巻末におかれた「JR五反田駅東口」では、著者の実験的手法は(少なからざる失敗と大きな逸脱はあるものの)、着実な成果をあげることに成功し、最後の作品の最後の文章(記号!)を眼にした人は、容易に忘れられない感銘を覚えるにちがいない。
著者は、通常の作家が見落としている非文学的な領域にあえて下降して、もっとも文学的ならざる醜い文体、無意味な記号、漂流するネット情報の断片などを丁寧に拾い上げ、それらの糞のようなガジェットどもを総動員して見事な平成文学を荒々しく紡ぎ上げた。
これは、まさしく泥池に咲いた一輪の美しい蓮の花であり、醜いアコヤ貝に育まれてついに世に出た一粒の真珠であり、さらにいうなら、閉塞する現代文学に対して投じられた起死回生の手榴弾である。
Friday, September 28, 2007
寂しい異端派
♪音楽千夜一夜第27回
いまどきの人は誰も読んでいないだろうが、音楽之友社という出版社から「レコード芸術」というクラシック趣味のマニアックな雑誌が出ている。私は吉田秀和氏のエッセイが連載されているので毎号必ず目を通しているのだが、巻頭の目玉記事は月評ということになっていて、いろいろな音楽評論家が、(読者の大半が馬鹿にしているとは知らないで)手前勝手に新作CDの批評をしている。
昔はここで高く評価されると実際にレコードが売れることもあったのだが、この節ではそのような幸福なめぐり合わせは絶えてないようである。
さてこの月評で面白いのは、交響曲担当者の小石忠雄氏と宇野功芳氏の見解と評価が毎回ほとんど一致しないことで、一方が推薦しているCDを、他方(その大半が宇野氏である)がくそみそにけなしていることだ。
例えば07年9月号では小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるモーツアルトのリンツやプラハの演奏を、小石氏は「小澤のモーツアルト世界が構築されている」と絶賛しているのに対して、宇野氏は「両曲とも平凡で、自分はこういうモーツアルトをやりたいのだ、という意志がなく、とても名曲とは思えない」と一刀両断している。
同じ指揮者の同じ演奏を前にして天地さかさまの評価が出るのは、当たり前といえば当たり前だろうが、もし芸術に鑑賞者の能力や資質や好悪を超え、各人各様の恣意性を超えた客観的かつ絶対的な評価基準があるとすれば、「どちらの意見も正しい」、あるいは「めくら千人、目明き千人」とはけっしていえないはずである。
ちなみに私も宇野氏とまったく同じ評価なのだが、どうやら世間ではあいもかわらず小澤と巨人軍(たかが野球なのにお前は軍隊なのか!)と自民党ファンが主流派らしく、少数異端の私などは、いずれ君たちにも分かる日も来るさ、と寂しくつぶやきながら黙って耐えているしかなさそうである。
いまどきの人は誰も読んでいないだろうが、音楽之友社という出版社から「レコード芸術」というクラシック趣味のマニアックな雑誌が出ている。私は吉田秀和氏のエッセイが連載されているので毎号必ず目を通しているのだが、巻頭の目玉記事は月評ということになっていて、いろいろな音楽評論家が、(読者の大半が馬鹿にしているとは知らないで)手前勝手に新作CDの批評をしている。
昔はここで高く評価されると実際にレコードが売れることもあったのだが、この節ではそのような幸福なめぐり合わせは絶えてないようである。
さてこの月評で面白いのは、交響曲担当者の小石忠雄氏と宇野功芳氏の見解と評価が毎回ほとんど一致しないことで、一方が推薦しているCDを、他方(その大半が宇野氏である)がくそみそにけなしていることだ。
例えば07年9月号では小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるモーツアルトのリンツやプラハの演奏を、小石氏は「小澤のモーツアルト世界が構築されている」と絶賛しているのに対して、宇野氏は「両曲とも平凡で、自分はこういうモーツアルトをやりたいのだ、という意志がなく、とても名曲とは思えない」と一刀両断している。
同じ指揮者の同じ演奏を前にして天地さかさまの評価が出るのは、当たり前といえば当たり前だろうが、もし芸術に鑑賞者の能力や資質や好悪を超え、各人各様の恣意性を超えた客観的かつ絶対的な評価基準があるとすれば、「どちらの意見も正しい」、あるいは「めくら千人、目明き千人」とはけっしていえないはずである。
ちなみに私も宇野氏とまったく同じ評価なのだが、どうやら世間ではあいもかわらず小澤と巨人軍(たかが野球なのにお前は軍隊なのか!)と自民党ファンが主流派らしく、少数異端の私などは、いずれ君たちにも分かる日も来るさ、と寂しくつぶやきながら黙って耐えているしかなさそうである。
Thursday, September 27, 2007
コーリン・デイビス80歳
コーリン・デイビス80歳
♪音楽千夜一夜第26回&遥かな昔、遠い所で第20回
今日もロンドンで放送しているBBC3のライブをポッドキャスティングで聞いている。コーリン・デイビスが80歳になったのでそれを記念したライブやこれまでの演奏を紹介しているのである。白髪のコーリンがフィガロの第二幕とか幻想交響曲と、シベリウスなどのおはこを楽しそうに振っているのが目に見えるようだ。
幕間のインタビューで内田光子が、コーリンのモーツアルトへの愛を例によってとても興奮した口調で喋っていたが、そんなに大げさに褒めることもあるまい。コーリンはいつでも謹厳実直で温和で、しかしここぞというときには激しい精神の火花を散らす音楽家であり、今では数少なくなった古きよき時代の英国の紳士なのである。
私が彼の音楽をはじめて耳にしたのは今から30年以上も昔の東京文化会館で、来日したコーリンがブリテンの「ピーターグライムズ」とベルリオーズの大作「トロイ人」を指揮して、それが私の生まれて初めてのオペラと英仏音楽体験となったのだった。ピーターグライムズを熱演したジョン・ヴィカーズのあの逞しい体躯!
コーリンよ、どうかいつまでも長生きして彼独自の優美なモーツアルトのオペラを聞かせてほしい。
♪音楽千夜一夜第26回&遥かな昔、遠い所で第20回
今日もロンドンで放送しているBBC3のライブをポッドキャスティングで聞いている。コーリン・デイビスが80歳になったのでそれを記念したライブやこれまでの演奏を紹介しているのである。白髪のコーリンがフィガロの第二幕とか幻想交響曲と、シベリウスなどのおはこを楽しそうに振っているのが目に見えるようだ。
幕間のインタビューで内田光子が、コーリンのモーツアルトへの愛を例によってとても興奮した口調で喋っていたが、そんなに大げさに褒めることもあるまい。コーリンはいつでも謹厳実直で温和で、しかしここぞというときには激しい精神の火花を散らす音楽家であり、今では数少なくなった古きよき時代の英国の紳士なのである。
私が彼の音楽をはじめて耳にしたのは今から30年以上も昔の東京文化会館で、来日したコーリンがブリテンの「ピーターグライムズ」とベルリオーズの大作「トロイ人」を指揮して、それが私の生まれて初めてのオペラと英仏音楽体験となったのだった。ピーターグライムズを熱演したジョン・ヴィカーズのあの逞しい体躯!
コーリンよ、どうかいつまでも長生きして彼独自の優美なモーツアルトのオペラを聞かせてほしい。
Wednesday, September 26, 2007
吉本隆明著「自著を語る」を読む
降っても照っても第57回
吉本の人間と思想から決定的な影響を受けて雑誌「ロッキング・オン」を創刊したロック評論家渋谷陽一による吉本へのインタビュー本である。渋谷陽一のロック評に私はかつて一度も裏切られたことがないが、渋谷はここでも著者に対する的を射た的確な問いを発し、著者の誠実な回答を引き出すことに成功している。
吉本は渋谷の手引きによって忌野清志郎や遠藤ミチロウの「スターリン」のライブに出かけたそうだが、吉本とスターリンの取り合わせの妙には笑ってしまった。
それはさておき、本書では、初期の「固有時への対話」「転位のための10篇」から始まって、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」にいたる著作の執筆動機や時間的経過を経ての振り返りが、吉本の難解な表現に辟易した私のような読者にもわかりやすく語られている。
渋谷が断じたように、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」の3部作とは、小林秀雄とは違った形の吉本の「詩」であったのもかもしれない。ちなみに吉本は小林の評論を「無思想な詩」であると総括している。
しかし子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の名句である所以、芸術作品としての価値は必ずや一字一句微分積分できるはずだと、相変わらず頑固に主張するこの数理学者の言語論には首をひねらざるをえない。
もしもその理屈が可能になったとしても、その機能還元主義的分析の極限は子規の人格そのものであり、吉本主義的分析は、俳句創造の精神とはついに無縁なものであるだろう。吉本があこがれる朔太郎や中也は、別に後世に残る名詩を書きたくて詩人になったわけではない。
吉本において、言語美とは自己表出と指示表出の「織物」であるそうだが、So What? いったいそれがどうしたというのだ。私たちの作句の精神作用となにか関係の絶対性でもあるのだろうか? ここには「文学に科学を介在させることが進歩的である」という奇妙な錯覚がある。
吉本の人間と思想から決定的な影響を受けて雑誌「ロッキング・オン」を創刊したロック評論家渋谷陽一による吉本へのインタビュー本である。渋谷陽一のロック評に私はかつて一度も裏切られたことがないが、渋谷はここでも著者に対する的を射た的確な問いを発し、著者の誠実な回答を引き出すことに成功している。
吉本は渋谷の手引きによって忌野清志郎や遠藤ミチロウの「スターリン」のライブに出かけたそうだが、吉本とスターリンの取り合わせの妙には笑ってしまった。
それはさておき、本書では、初期の「固有時への対話」「転位のための10篇」から始まって、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」にいたる著作の執筆動機や時間的経過を経ての振り返りが、吉本の難解な表現に辟易した私のような読者にもわかりやすく語られている。
渋谷が断じたように、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」の3部作とは、小林秀雄とは違った形の吉本の「詩」であったのもかもしれない。ちなみに吉本は小林の評論を「無思想な詩」であると総括している。
しかし子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の名句である所以、芸術作品としての価値は必ずや一字一句微分積分できるはずだと、相変わらず頑固に主張するこの数理学者の言語論には首をひねらざるをえない。
もしもその理屈が可能になったとしても、その機能還元主義的分析の極限は子規の人格そのものであり、吉本主義的分析は、俳句創造の精神とはついに無縁なものであるだろう。吉本があこがれる朔太郎や中也は、別に後世に残る名詩を書きたくて詩人になったわけではない。
吉本において、言語美とは自己表出と指示表出の「織物」であるそうだが、So What? いったいそれがどうしたというのだ。私たちの作句の精神作用となにか関係の絶対性でもあるのだろうか? ここには「文学に科学を介在させることが進歩的である」という奇妙な錯覚がある。
Tuesday, September 25, 2007
小池昌代著「タタド」を読む
降っても照っても第56回
今日の朝日新聞によれば、文芸誌の書き手が既存の専業作家から演劇畑などの異業種に拡大されつつあるそうだが、国会議員にお笑いタレントや格闘技選手が進出しているご時勢なのだからこれは遅きに失した当然の成り行きだろう。
才能の発掘の余地はつねに広く開かれていなければならない。本書の著者も本職は詩人であるが、詩人らしい繊細な感性を生かしてなかなか面白い短編を3本並べてくれている。
表題の「タタド」というのは、意味不明のタイトルで始末に終えないが、要するに海の傍の広い1軒屋に集った2組の熟年カップルが、ふとしたはずみにスワッピングしてしまう話で、ひとつ間違えば低俗ポルノに堕しかねないプロットを、著者はその寸前で見事に持ちこたえて、絶妙なクライマックッスを築くことに成功している。
しかしその文尾は、「寝室から、タマヨのあげる大きく荒々しい声が聞こえてきた」というのだが、詩人にしては少しく下品な日本語ではないだろうか。
「波を待って」もやはり舞台は海であり、この短編の主人公は、終始海から吹き続ける夏の終わりの風である、といってもよいだろう。突然サーフィーンに狂ってしまった夫の帰還をひたすら海辺で待ち続ける妻のモノローグは、どこかヴァージニア・ウルフの「波」の独白を思わせるところがあった。
私の隣人もサーファー夫婦だが、この小説を読んで、若い彼らがいったいなににとりつかれて毎日のように海に行くのか、その一端がおぼろにつかめたような気がした。
最後におかれた「45文字」は物語の設定がやや強引に過ぎると思うが、末尾の二人の登場人物のこれからが気になる。
このように著者の短編は、はじめは処女の如くおずおずと助走を開始し、徐々に加速しながら最終地点で脱兎の如く読者めがけて投じられる長弓のように、むしろ物語が果てた後で、その大きな震動が私たちを揺るがし始めるのである。
今日の朝日新聞によれば、文芸誌の書き手が既存の専業作家から演劇畑などの異業種に拡大されつつあるそうだが、国会議員にお笑いタレントや格闘技選手が進出しているご時勢なのだからこれは遅きに失した当然の成り行きだろう。
才能の発掘の余地はつねに広く開かれていなければならない。本書の著者も本職は詩人であるが、詩人らしい繊細な感性を生かしてなかなか面白い短編を3本並べてくれている。
表題の「タタド」というのは、意味不明のタイトルで始末に終えないが、要するに海の傍の広い1軒屋に集った2組の熟年カップルが、ふとしたはずみにスワッピングしてしまう話で、ひとつ間違えば低俗ポルノに堕しかねないプロットを、著者はその寸前で見事に持ちこたえて、絶妙なクライマックッスを築くことに成功している。
しかしその文尾は、「寝室から、タマヨのあげる大きく荒々しい声が聞こえてきた」というのだが、詩人にしては少しく下品な日本語ではないだろうか。
「波を待って」もやはり舞台は海であり、この短編の主人公は、終始海から吹き続ける夏の終わりの風である、といってもよいだろう。突然サーフィーンに狂ってしまった夫の帰還をひたすら海辺で待ち続ける妻のモノローグは、どこかヴァージニア・ウルフの「波」の独白を思わせるところがあった。
私の隣人もサーファー夫婦だが、この小説を読んで、若い彼らがいったいなににとりつかれて毎日のように海に行くのか、その一端がおぼろにつかめたような気がした。
最後におかれた「45文字」は物語の設定がやや強引に過ぎると思うが、末尾の二人の登場人物のこれからが気になる。
このように著者の短編は、はじめは処女の如くおずおずと助走を開始し、徐々に加速しながら最終地点で脱兎の如く読者めがけて投じられる長弓のように、むしろ物語が果てた後で、その大きな震動が私たちを揺るがし始めるのである。
Monday, September 24, 2007
五木寛之著「21世紀仏教への旅ブータン編」を読む
降っても照っても第55回
2500年前にインドで起こった仏教は、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡り、インドでヒンズー教と習合した後期大乗仏教が、チベットに入って土着のボン教と習合してチベット密教となり、それがブータンに入ってブータン仏教徒となった。
ブータンでもっとも信奉されているのはニンマ派の開祖で「第二の仏」と称されているグル・リンポチエで、グル・リンポチエは時と場合に応じて釈迦、王、僧侶、歓喜仏、王族、修行僧、憤怒尊など8つの姿に変身して出没するという。チベット密教の影響を強く受けたブータンの仏教が、わが国の仏教とまったく相違するのも当然であろう。
ブータンの人々はけっして蝿や蚊を叩いて殺さない。死して49日後には輪廻転生して次の人?生に生まれ変わることを信じているから、位牌を持たず、先祖供養をせず、インドと同様墓を所有しない。
インドでは遺灰はガンジスなどの川に流すが、ブータンでは手のひらほどのピラミッド型の泥細工にされて山陰や仏塔のたもとに供えられ、歳月とともに風化して土に還っていくそうだが、私はこの考え方にとても共感を覚える。
ブータンといえばGNP(国内総生産)という物神思想を廃し、国民総幸福量GNHで人間の幸福を図ろうとする価値観をなんと28年前の1979年に世界に向かって発信したことで知られる。
この國ではいかにして金儲けするかではなく、いかにして幸せに生き、幸せに死ぬか、ということが最大のテーマなのである。
2500年前にインドで起こった仏教は、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡り、インドでヒンズー教と習合した後期大乗仏教が、チベットに入って土着のボン教と習合してチベット密教となり、それがブータンに入ってブータン仏教徒となった。
ブータンでもっとも信奉されているのはニンマ派の開祖で「第二の仏」と称されているグル・リンポチエで、グル・リンポチエは時と場合に応じて釈迦、王、僧侶、歓喜仏、王族、修行僧、憤怒尊など8つの姿に変身して出没するという。チベット密教の影響を強く受けたブータンの仏教が、わが国の仏教とまったく相違するのも当然であろう。
ブータンの人々はけっして蝿や蚊を叩いて殺さない。死して49日後には輪廻転生して次の人?生に生まれ変わることを信じているから、位牌を持たず、先祖供養をせず、インドと同様墓を所有しない。
インドでは遺灰はガンジスなどの川に流すが、ブータンでは手のひらほどのピラミッド型の泥細工にされて山陰や仏塔のたもとに供えられ、歳月とともに風化して土に還っていくそうだが、私はこの考え方にとても共感を覚える。
ブータンといえばGNP(国内総生産)という物神思想を廃し、国民総幸福量GNHで人間の幸福を図ろうとする価値観をなんと28年前の1979年に世界に向かって発信したことで知られる。
この國ではいかにして金儲けするかではなく、いかにして幸せに生き、幸せに死ぬか、ということが最大のテーマなのである。
Sunday, September 23, 2007
村上春樹編著「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読む
降っても照っても第54回
著者が偏愛するスコット・フィッツジェラルドの短編、エッセイ、故地探訪記、そしてスコット・フィッツジェラルドを助けた「エスクアイア」編集者によるアーネスト・ヘミングウエイとスコット・フィッツジェラルドのエッセイを付け加えた興味深いアンソロジー(いずれも村上の書下ろしと翻訳、解題による)である。
私にはわけてもスコットのファム・ファタールであるゼルダの伝記と最後の思い出話が興味深かった。
ゼルダ・セイヤーはスコットが「アラバマ、ジョージア2州に並びなき美女」と絶賛したそうだが、写真に見るその顔はそのような美人ではない。彼は彼女が発する凄まじい生命力の虜になったのだろう。
退屈のあまり消防署に「子供が屋根に上ったまま降りられないから助けて」と電話してから屋根に上り、はしごを外して救援の到着を待つ少女ゼルダ、そして20年代ジャズエイジのフラッパーとなって酒とパーテイとダンスに明け暮れ、酔っ払って断崖絶壁から深夜の海に飛び込む命知らずの女を私は好きになれないが、タデ喰う虫も好きズキ、そんな生命の爆発的な輝きにスコットは限りなく魅せられたのだろう。
しかし自由と自立を求めて、愛する恋人スコットとも戦う中で精神を病んだゼルダの晩年は、1940年、ハリウッドで心臓発作で急死したスコットと同様、目を覆いたくなるように悲惨である。1947年11月、ゼルダはアッシュビルのハイランド病院で火事に遭い他の8人の患者と共に黒焦げになって焼け死んだ。享年48。「彼女を知るものは誰一人としてその人生を短すぎるとは感じなかった」、と村上は記している。
アーノルド・ギングリッチによって書かれた巻末の「スコット、アーネスト、そして誰でもいい誰か」は、スコットとヘミングウエイの二人の共通の友人による交遊録と両者の比較であるが、ギングリッチはその人物、文学的価値のいずれをとってもスコットに軍配を上げている。
「皮肉なことに存命中には大成功しそうに見えたほうが挫折のうちに死に、挫折のうちに死んだ方が見事な成功を手にした。やがてヘミングウエイ再評価がやってくることもあるだろう。ちょうど私がドライサー再評価の到来を信じているように。でもフィッツジェラルドには再評価はもう必要ない。フィッツジェラルドは、将来必要とするであろうものまで既にすっかり手に入れてしまった。そしてヘミングウエイがいまだ辿り着いていない不動の地位をも獲得した。それはまったくのところ、スコットの好みそうな趣向である。しかしそれを鼻にかけたりすることはなかったはずだ。彼はそういうことをけっしてしない人だったから」
この1966年12月に書かれた追悼文を、泉下のスコット・フィッツジェラルドに読ませたかったと思うのは、私だけではないだろう。
著者が偏愛するスコット・フィッツジェラルドの短編、エッセイ、故地探訪記、そしてスコット・フィッツジェラルドを助けた「エスクアイア」編集者によるアーネスト・ヘミングウエイとスコット・フィッツジェラルドのエッセイを付け加えた興味深いアンソロジー(いずれも村上の書下ろしと翻訳、解題による)である。
私にはわけてもスコットのファム・ファタールであるゼルダの伝記と最後の思い出話が興味深かった。
ゼルダ・セイヤーはスコットが「アラバマ、ジョージア2州に並びなき美女」と絶賛したそうだが、写真に見るその顔はそのような美人ではない。彼は彼女が発する凄まじい生命力の虜になったのだろう。
退屈のあまり消防署に「子供が屋根に上ったまま降りられないから助けて」と電話してから屋根に上り、はしごを外して救援の到着を待つ少女ゼルダ、そして20年代ジャズエイジのフラッパーとなって酒とパーテイとダンスに明け暮れ、酔っ払って断崖絶壁から深夜の海に飛び込む命知らずの女を私は好きになれないが、タデ喰う虫も好きズキ、そんな生命の爆発的な輝きにスコットは限りなく魅せられたのだろう。
しかし自由と自立を求めて、愛する恋人スコットとも戦う中で精神を病んだゼルダの晩年は、1940年、ハリウッドで心臓発作で急死したスコットと同様、目を覆いたくなるように悲惨である。1947年11月、ゼルダはアッシュビルのハイランド病院で火事に遭い他の8人の患者と共に黒焦げになって焼け死んだ。享年48。「彼女を知るものは誰一人としてその人生を短すぎるとは感じなかった」、と村上は記している。
アーノルド・ギングリッチによって書かれた巻末の「スコット、アーネスト、そして誰でもいい誰か」は、スコットとヘミングウエイの二人の共通の友人による交遊録と両者の比較であるが、ギングリッチはその人物、文学的価値のいずれをとってもスコットに軍配を上げている。
「皮肉なことに存命中には大成功しそうに見えたほうが挫折のうちに死に、挫折のうちに死んだ方が見事な成功を手にした。やがてヘミングウエイ再評価がやってくることもあるだろう。ちょうど私がドライサー再評価の到来を信じているように。でもフィッツジェラルドには再評価はもう必要ない。フィッツジェラルドは、将来必要とするであろうものまで既にすっかり手に入れてしまった。そしてヘミングウエイがいまだ辿り着いていない不動の地位をも獲得した。それはまったくのところ、スコットの好みそうな趣向である。しかしそれを鼻にかけたりすることはなかったはずだ。彼はそういうことをけっしてしない人だったから」
この1966年12月に書かれた追悼文を、泉下のスコット・フィッツジェラルドに読ませたかったと思うのは、私だけではないだろう。
Saturday, September 22, 2007
G・ガルシア¬¬・マルケス著「悪い時」を読む
降っても照っても第53回
表題作のほかに「大佐に手紙は来ない」「火曜日の昼寝」「最近のある日」「この村に泥棒はいない」などの短編を9本収録した作品集である。
前作の「落葉」は著者の生まれ故郷のアラカルタをモデルにしたマコンドの物語であったが、本作の舞台はコロンビアのとある町に変わっている。
マルケスは50年代に発表の当てもなく「悪い時」をパリで書き始めたが、その途中で「悪い時」の登場人物が、前述の「大佐に手紙は来ない」など、それぞれ自分を主人公にした物語を書くことをマルケスに要求したため、「悪い時」の完成は1962年を待つことになってしまった。
個人を描きながら、全体としての町を描き、些細な事物をきめ細かく叙述しながら、その町を取り囲む政治、経済、社会の動向を刻一刻と記録していくその手法は、ドキュメンタリーとロマンチックなドラマツルギーの双方向的融合であり、著者が目指したのは虚実をあわせ含む現代の総合全体小説といってよいだろう。そしてその試みは後の「百年の孤独」において見事に結実するのである。
それはともかく、この作品集におさめられた「失われた時の海」における海底都市の幻想的な美しさには息を呑む思いであった。
表題作のほかに「大佐に手紙は来ない」「火曜日の昼寝」「最近のある日」「この村に泥棒はいない」などの短編を9本収録した作品集である。
前作の「落葉」は著者の生まれ故郷のアラカルタをモデルにしたマコンドの物語であったが、本作の舞台はコロンビアのとある町に変わっている。
マルケスは50年代に発表の当てもなく「悪い時」をパリで書き始めたが、その途中で「悪い時」の登場人物が、前述の「大佐に手紙は来ない」など、それぞれ自分を主人公にした物語を書くことをマルケスに要求したため、「悪い時」の完成は1962年を待つことになってしまった。
個人を描きながら、全体としての町を描き、些細な事物をきめ細かく叙述しながら、その町を取り囲む政治、経済、社会の動向を刻一刻と記録していくその手法は、ドキュメンタリーとロマンチックなドラマツルギーの双方向的融合であり、著者が目指したのは虚実をあわせ含む現代の総合全体小説といってよいだろう。そしてその試みは後の「百年の孤独」において見事に結実するのである。
それはともかく、この作品集におさめられた「失われた時の海」における海底都市の幻想的な美しさには息を呑む思いであった。
Friday, September 21, 2007
叱られて今日はどこまでゆくのでしょう
♪ある晴れた日にその13&鎌倉ちょっと不思議な物語79回
年々蛇も少なくなる。
ここ太刀洗はヤマカガシがうようよしていて、私が大切にしているオタマジャクシを食べてしまう。「ダメダメ」と追い払っているうちに秋が来るのが常だったが、今年はそんな必要もなさそうだ。
ヤマカガシよ、しっかり生き延びて大きく育ち、ここいらへんにやって来る「杉並歩こう会」のおばはんたちをびっくりさせなさい。
年々蛇も少なくなる。
ここ太刀洗はヤマカガシがうようよしていて、私が大切にしているオタマジャクシを食べてしまう。「ダメダメ」と追い払っているうちに秋が来るのが常だったが、今年はそんな必要もなさそうだ。
ヤマカガシよ、しっかり生き延びて大きく育ち、ここいらへんにやって来る「杉並歩こう会」のおばはんたちをびっくりさせなさい。
Thursday, September 20, 2007
クワガタの指に食い入る痛さかな
♪ある晴れた日に その12
一昨日の朝は私が、そして昨日の朝は家内が、玄関先の同じ場所で小さなクワガタに親指の肉を噛まれた。
仰向けになって必死でもがいているので、可哀相だから起してやろうと掴んだところを、クワガタの両手で深々と挟まれた。しかも私はオスに、家内はメスに噛まれたのである。
世の中には不思議なこともあるものだ。そうして不可思議な似た者夫婦もあるものだ。
一昨日の朝は私が、そして昨日の朝は家内が、玄関先の同じ場所で小さなクワガタに親指の肉を噛まれた。
仰向けになって必死でもがいているので、可哀相だから起してやろうと掴んだところを、クワガタの両手で深々と挟まれた。しかも私はオスに、家内はメスに噛まれたのである。
世の中には不思議なこともあるものだ。そうして不可思議な似た者夫婦もあるものだ。
Wednesday, September 19, 2007
原聖著「ケルトの水脈」を読む
降っても照っても第52回
講談社の「興亡の世界史」第7巻が本書である。80年代に入ってアイルランドのリバーダンスやエンヤの癒し?音楽など、いわゆるケルトブームが世界中で巻き起こったが、そのケルトとは何かをあれこれぐちゃぐちゃ論じている。
しかしケルト人とは何か、と問うても諸説紛々でいまいち定説がなく、基本的にはカエサルが「ガリア戦記」で述べているガリア人と同じであるらしい。ただ確かなことは古代からケルト文化の淵源はアイルランドやスコットランドなどではなく、ガリアの本拠である現在のフランスのブルターニュ地方であり、昨今のアイルランドやスコットランド中心のケルトブームは、先祖探しに狂奔するそれらの國の政治的戦略でもあるらしい。
キリスト教を国教にしたローマは、ギリシアローマ神話のみならずありとあらゆる非キリスト教的なる神話や伝説を皆殺しにしたが、このブルターニュ地方にはかなり長くケルト文化が残り、地下水のように細々と流れながらその遺産を現代に伝えているらしいのである。
その水や泉や巨石や聖なる山、ドルイドと呼ばれたケルトの僧侶が太陽崇拝を行った聖なる火、フレーザーが「金枝篇」で研究したヤドリギなどの木や植物、鬼や魔女や妖精や妖怪、アンクウと呼ばれた死神などは、いずれもケルトを代表するカルチャーであった。
著者によれば、フイニステール県の海岸部では、死者を運ぶ「霊魂の船」が人知れず夜中に航行するが、霊魂の呼びかけがあっても絶対に「アーメン」としか答えてはならない。もしそうしなければ一緒に連れて行かれてしまう。
またブルターニュ地方ではあの世からの帰還を求めて夜に洗濯する女の幻影が古来数多く見られるという。死後の霊は蝶、野うさぎ、ネズミ、小蝿、黒猫、ガチョウなどに姿を変えてこの世に戻ってくるというのだが、これはまったく非キリスト教的な考え方であり、むしろわが国の仏教に似ているのではないだろうか。
そんな次第で、このさい改めて西欧世界の歴史を学びなおし、NYの聖パトリック教会の由来や、アーサー王伝説などについてくわしく知りたい人には手ごろな教材になるだろう。
講談社の「興亡の世界史」第7巻が本書である。80年代に入ってアイルランドのリバーダンスやエンヤの癒し?音楽など、いわゆるケルトブームが世界中で巻き起こったが、そのケルトとは何かをあれこれぐちゃぐちゃ論じている。
しかしケルト人とは何か、と問うても諸説紛々でいまいち定説がなく、基本的にはカエサルが「ガリア戦記」で述べているガリア人と同じであるらしい。ただ確かなことは古代からケルト文化の淵源はアイルランドやスコットランドなどではなく、ガリアの本拠である現在のフランスのブルターニュ地方であり、昨今のアイルランドやスコットランド中心のケルトブームは、先祖探しに狂奔するそれらの國の政治的戦略でもあるらしい。
キリスト教を国教にしたローマは、ギリシアローマ神話のみならずありとあらゆる非キリスト教的なる神話や伝説を皆殺しにしたが、このブルターニュ地方にはかなり長くケルト文化が残り、地下水のように細々と流れながらその遺産を現代に伝えているらしいのである。
その水や泉や巨石や聖なる山、ドルイドと呼ばれたケルトの僧侶が太陽崇拝を行った聖なる火、フレーザーが「金枝篇」で研究したヤドリギなどの木や植物、鬼や魔女や妖精や妖怪、アンクウと呼ばれた死神などは、いずれもケルトを代表するカルチャーであった。
著者によれば、フイニステール県の海岸部では、死者を運ぶ「霊魂の船」が人知れず夜中に航行するが、霊魂の呼びかけがあっても絶対に「アーメン」としか答えてはならない。もしそうしなければ一緒に連れて行かれてしまう。
またブルターニュ地方ではあの世からの帰還を求めて夜に洗濯する女の幻影が古来数多く見られるという。死後の霊は蝶、野うさぎ、ネズミ、小蝿、黒猫、ガチョウなどに姿を変えてこの世に戻ってくるというのだが、これはまったく非キリスト教的な考え方であり、むしろわが国の仏教に似ているのではないだろうか。
そんな次第で、このさい改めて西欧世界の歴史を学びなおし、NYの聖パトリック教会の由来や、アーサー王伝説などについてくわしく知りたい人には手ごろな教材になるだろう。
Tuesday, September 18, 2007
エットレ・スコーラの『星降る夜のリストランテ』を観る
降っても照っても第51回
この映画は『特別な一日』や『ル・バル』や『マカロニ』のエットレ・スコーラ監督の作品だから、少し乱暴だけれども、あら筋がどうだこうだと書くのはいっさいやめよう。108分間、黙ってみていれば十二分に楽しませてくれる。
原題の『ラ・セーナ』は、イタリア語で「晩餐」。前菜やデザートや洒落た会話や悲喜こもごもの人間模様の数々を、監督は美味しく料理してくれる。そして最後に、夜空の星がぼおっと映し出されて、スコーラさんは、このシーンを撮りたかったのだとわかる。モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の溶ろけるようなアンダンテを、リストランテの全員がしんみり聞き惚れるシーンは素敵だ。もういちど人間を、人生を好きになれる映画、かも知れない。
以上で終り、のセンス良し映画なのだが、僕としては、ある女性に再会できて嬉しかった。
ファニー・アルダンである。もう相当の歳なのに、色っぽい。レストランの女主人という役どころ。ベージュの前開きワンピースをゆったりと着こなし、ちょっと胸元をのぞかせ、あの人懐こい笑顔、大きな口を開けて「ヴオナセーラ」とお客様にご挨拶ーー
眼を凝らして、肩紐を何回もチェックしたが、多分ノーブラOR恋するブラであろう。
80年代の前半に、フランスかイタリアの田舎町でアルダンの映画を見た。アルダンが海辺の汚いバーのトイレに行く。ドアを開けたまま、パンストとスカートを一気に下ろして便器にしゃがむ。その時陰毛がくっきり映っているので僕は吃驚した。これ見よがしにシャアシャアと用便するアルダンめがけて、若きジャックニコルソン風労務者が欲情をムキダシにして進んでゆく……。
嘘みたいなシーンだったが、僕はこの眼でしかと見たのだ。しかし、このあと2人がどうなったのかまったく覚えていないのが残念。日本未公開の超B級作品だとおもう。恋人トリュフォーを失ったアルダンの自暴自棄がアナーキーに出ていた。できるだけ下らない映画に出て、自分を痛めつけてみたかったのだろう。
トリュフォーの遺体に取りすがって、アルダンがわんわん泣いたという記事を読んだこともある。その瞬間、僕はなぜか彼女のわんわん泣いている有様が、まるで映画のワンシーンのように脳裏に浮かんできて、大根女優の彼女を、はじめて好きになったのだった。
熟女アルダンのしどけなく、臈(ろう)たけた感じがなかなかいい。死ぬまでノンシャランにやってくれい。
この映画は『特別な一日』や『ル・バル』や『マカロニ』のエットレ・スコーラ監督の作品だから、少し乱暴だけれども、あら筋がどうだこうだと書くのはいっさいやめよう。108分間、黙ってみていれば十二分に楽しませてくれる。
原題の『ラ・セーナ』は、イタリア語で「晩餐」。前菜やデザートや洒落た会話や悲喜こもごもの人間模様の数々を、監督は美味しく料理してくれる。そして最後に、夜空の星がぼおっと映し出されて、スコーラさんは、このシーンを撮りたかったのだとわかる。モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の溶ろけるようなアンダンテを、リストランテの全員がしんみり聞き惚れるシーンは素敵だ。もういちど人間を、人生を好きになれる映画、かも知れない。
以上で終り、のセンス良し映画なのだが、僕としては、ある女性に再会できて嬉しかった。
ファニー・アルダンである。もう相当の歳なのに、色っぽい。レストランの女主人という役どころ。ベージュの前開きワンピースをゆったりと着こなし、ちょっと胸元をのぞかせ、あの人懐こい笑顔、大きな口を開けて「ヴオナセーラ」とお客様にご挨拶ーー
眼を凝らして、肩紐を何回もチェックしたが、多分ノーブラOR恋するブラであろう。
80年代の前半に、フランスかイタリアの田舎町でアルダンの映画を見た。アルダンが海辺の汚いバーのトイレに行く。ドアを開けたまま、パンストとスカートを一気に下ろして便器にしゃがむ。その時陰毛がくっきり映っているので僕は吃驚した。これ見よがしにシャアシャアと用便するアルダンめがけて、若きジャックニコルソン風労務者が欲情をムキダシにして進んでゆく……。
嘘みたいなシーンだったが、僕はこの眼でしかと見たのだ。しかし、このあと2人がどうなったのかまったく覚えていないのが残念。日本未公開の超B級作品だとおもう。恋人トリュフォーを失ったアルダンの自暴自棄がアナーキーに出ていた。できるだけ下らない映画に出て、自分を痛めつけてみたかったのだろう。
トリュフォーの遺体に取りすがって、アルダンがわんわん泣いたという記事を読んだこともある。その瞬間、僕はなぜか彼女のわんわん泣いている有様が、まるで映画のワンシーンのように脳裏に浮かんできて、大根女優の彼女を、はじめて好きになったのだった。
熟女アルダンのしどけなく、臈(ろう)たけた感じがなかなかいい。死ぬまでノンシャランにやってくれい。
Monday, September 17, 2007
映画『こころの湯』を観る
降っても照っても第50回
いっけん平凡で退屈そのものの日常生活の中にも、ある日突然ひとつの「映像」がやって来る。そして、ああ、人生はいいなあ、まだまだ世の中も捨てたものではないなあ。と私たちに切実な印象を残して、その「映像」はいずこかへ飛び立ってゆく。消え去ったのではない。折に触れてそれらの「映像」は、わたしたちの心に、鳥のようにふんわりと降り立ち、再会の歌を静かに歌い、疲労と失意のどん底にある者を励ましてくれるのである。
私にとってその「映像」とは、例えば、天安門広場で両手を広げて戦車の前に立ちふさがったひとりの中国人の若者の姿であり、あるいはマルコス大統領を追放してマラカニアン宮殿にアキノ新大統領を迎えたフィリピンの大衆の歓喜の姿である。
『こころの湯』は、北京の下町の古風な銭湯「清水池」の滅亡の物語だ。チャン・ヤン(Zhang Yang)監督の話では、現在北京には40~50軒の銭湯があるが、昔ながらの銭湯はわずか4,5軒。どんどん姿を消して、日本と同様の健康ランド、総合レジャー的なものに変身しているという。超ハイテク工業化が進行する中国で、前近代的な建築物やコミュニティや人関関係が、古き良き時代の思い出と共にゆっくりと壊れていく姿を、チャン監督は、淡々と描いていく。
夜な夜なコオロギを戦わせたり、鍼灸、囲碁将棋を楽しんだり、幸福な時間を過ごした「清水池」の常連たちは、最後に行き場を失う。ローマや江戸の庶民が、心ゆくまで享受したこの至福の裸体文化も、いつかは終焉の日を迎えるのだろうか。
銭湯の経営者には、かつて日中合作のNHKドラマ『大地の子』で養父役を好演した名優チュウ・シュイ(Zhu Xu)が扮している。そして、老いた父といっしょに暮らしている障害者の次男役は、ジャン・ウー(Jiang Wu)。この姜武さんの風体と演技が、どうも誰かによく似ている。と思ったら、知恵遅れの障害者である僕の息子にそっくりなのであった。従って、これぞ迫真の名演技と断言できる。そうチャン監督に伝えたら、なんと朱旭さんの息子さんも障害者らしい。そんな因縁がある分、朱旭さんの演技にも力が入ったのかも知れない。
この映画の原題は、英語で『SHOWER』となっている。姜武さんが、イエスを洗礼したヨハネのように、ある若者の頭にシャワーを注ぐシーンを見ながら、突然、僕は知的障害者施設の先駆けである近江学園の設立者糸賀一雄氏の逸話を思い出した。
ある知恵遅れの少年が、来る日も来る日も花壇の花に水を遣っていた。そしてある日、糸賀さんは、雨がザンザン降るのに、傘も差さずに如雨露で花に水を注ぐ少年の姿を目にして、なにか大きく深いものを感じ、彼らのために一生を捧げようと決意されたそうだ。
雨の日に花に水を遣る少年―-理由は分からないのだが、いつも涙が出てくるその「映像」を何年ぶりかで脳裏に思い浮かべ、僕は息子のことをちょっぴり考えた。
いっけん平凡で退屈そのものの日常生活の中にも、ある日突然ひとつの「映像」がやって来る。そして、ああ、人生はいいなあ、まだまだ世の中も捨てたものではないなあ。と私たちに切実な印象を残して、その「映像」はいずこかへ飛び立ってゆく。消え去ったのではない。折に触れてそれらの「映像」は、わたしたちの心に、鳥のようにふんわりと降り立ち、再会の歌を静かに歌い、疲労と失意のどん底にある者を励ましてくれるのである。
私にとってその「映像」とは、例えば、天安門広場で両手を広げて戦車の前に立ちふさがったひとりの中国人の若者の姿であり、あるいはマルコス大統領を追放してマラカニアン宮殿にアキノ新大統領を迎えたフィリピンの大衆の歓喜の姿である。
『こころの湯』は、北京の下町の古風な銭湯「清水池」の滅亡の物語だ。チャン・ヤン(Zhang Yang)監督の話では、現在北京には40~50軒の銭湯があるが、昔ながらの銭湯はわずか4,5軒。どんどん姿を消して、日本と同様の健康ランド、総合レジャー的なものに変身しているという。超ハイテク工業化が進行する中国で、前近代的な建築物やコミュニティや人関関係が、古き良き時代の思い出と共にゆっくりと壊れていく姿を、チャン監督は、淡々と描いていく。
夜な夜なコオロギを戦わせたり、鍼灸、囲碁将棋を楽しんだり、幸福な時間を過ごした「清水池」の常連たちは、最後に行き場を失う。ローマや江戸の庶民が、心ゆくまで享受したこの至福の裸体文化も、いつかは終焉の日を迎えるのだろうか。
銭湯の経営者には、かつて日中合作のNHKドラマ『大地の子』で養父役を好演した名優チュウ・シュイ(Zhu Xu)が扮している。そして、老いた父といっしょに暮らしている障害者の次男役は、ジャン・ウー(Jiang Wu)。この姜武さんの風体と演技が、どうも誰かによく似ている。と思ったら、知恵遅れの障害者である僕の息子にそっくりなのであった。従って、これぞ迫真の名演技と断言できる。そうチャン監督に伝えたら、なんと朱旭さんの息子さんも障害者らしい。そんな因縁がある分、朱旭さんの演技にも力が入ったのかも知れない。
この映画の原題は、英語で『SHOWER』となっている。姜武さんが、イエスを洗礼したヨハネのように、ある若者の頭にシャワーを注ぐシーンを見ながら、突然、僕は知的障害者施設の先駆けである近江学園の設立者糸賀一雄氏の逸話を思い出した。
ある知恵遅れの少年が、来る日も来る日も花壇の花に水を遣っていた。そしてある日、糸賀さんは、雨がザンザン降るのに、傘も差さずに如雨露で花に水を注ぐ少年の姿を目にして、なにか大きく深いものを感じ、彼らのために一生を捧げようと決意されたそうだ。
雨の日に花に水を遣る少年―-理由は分からないのだが、いつも涙が出てくるその「映像」を何年ぶりかで脳裏に思い浮かべ、僕は息子のことをちょっぴり考えた。
Sunday, September 16, 2007
御成通りに幻の「滝乃湯」を訪ねる
鎌倉ちょっと不思議な物語77回
00年1月に失職した私は、やむなく売文稼業で身を立てようとマスコミ各社に売り込みをかけ、奮闘努力の結果ようやく名門K社の団塊世代対象の新雑誌の新米ライターとして初めての取材原稿を書くことになった。
私は天にも昇る気持ちで音羽の編集部を訪れ、担当者のSさんから「銭湯特集」の企画の説明を受け、カメラマンとのコンビで千住の「大黒湯」と、大田区仲六郷の「nuland」、そして地元鎌倉の「滝乃湯」を取材することになった。
御成通りの「滝乃湯」の前に立ったのは、忘れもしない01年5月のある晴れた日のことだった。タイル張りの玄関、苔蒸した築地塀、そしてその塀越しに優しく伸びたもみじの枝がことのほか印象に残った。
当時、この鎌倉最古の銭湯「滝乃湯」は存亡の危機にあった。番台に座り続ける経営者の熊坂紀和子さんは71歳。昭和5年築の銭湯と同い年だった。借地の更新料が払いきれずに、01年2月末に廃業通知を張り紙したところ、常連客を中心に存続嘆願書が殺到。1ヶ月近くでなんと3665通に達したという。
多くの住民の熱望、市の努力と地主さんの好意が結実し、70年の歴史に輝く名湯は、02年3月まで存続できることになったばかりだった。
私が「滝乃湯」に中に入ると、浴場も脱衣場も、照明はただ一本の電燈がぶら下がるのみで、まずこの質素さが心に沁みた。浴場に足を踏み入れると、星空がのぞく高い天井と富士山のペンキ絵が鄙びたいい味を出していた。
新米ライターの私は、さっそく熊坂さんへの取材を開始した。
「滝乃湯」は産後の血行回復、神経痛に効く漢方薬湯が名物で観光客にも人気があり、普通の銭湯と違って、毎日お湯も薬も入れ替えているという。
「うちのお湯はね、3度お湯に入って暖まらないと風邪をひくよ」
「私の夢はここを銭湯保育所にしてねえ、子育てに自信のない母親からお子さんを預かってねえ、オジイチャン、オバアチャンたちといっしょに育てることだったの」
「考えてみると、みんなが裸になって、声をかけあったり、気持を通わせる唯一の場所が、この銭湯なの……」
そんな鎌倉最後の楽園が、ここだった。
私が取材したあとも数年間は営業が続いた「滝乃湯」だったが、とうとう昨年、あの長い煙突も、私が一糸まとわぬヌードモデルとなって入浴した浴槽も、脱衣場も、富士山のペンキ絵も、築地塀も、もみじの枝も、それらのすべてが地上から消えうせて、ご覧のようにどこにでもある駐車場になってしまった。
それにしても、古き良きものは何ゆえに滅びやすいのであろうか?
ちなみに、私が執筆したその雑誌も、創刊わずか2年ほどで廃刊になってしまった。
まことに諸行は無常である。
00年1月に失職した私は、やむなく売文稼業で身を立てようとマスコミ各社に売り込みをかけ、奮闘努力の結果ようやく名門K社の団塊世代対象の新雑誌の新米ライターとして初めての取材原稿を書くことになった。
私は天にも昇る気持ちで音羽の編集部を訪れ、担当者のSさんから「銭湯特集」の企画の説明を受け、カメラマンとのコンビで千住の「大黒湯」と、大田区仲六郷の「nuland」、そして地元鎌倉の「滝乃湯」を取材することになった。
御成通りの「滝乃湯」の前に立ったのは、忘れもしない01年5月のある晴れた日のことだった。タイル張りの玄関、苔蒸した築地塀、そしてその塀越しに優しく伸びたもみじの枝がことのほか印象に残った。
当時、この鎌倉最古の銭湯「滝乃湯」は存亡の危機にあった。番台に座り続ける経営者の熊坂紀和子さんは71歳。昭和5年築の銭湯と同い年だった。借地の更新料が払いきれずに、01年2月末に廃業通知を張り紙したところ、常連客を中心に存続嘆願書が殺到。1ヶ月近くでなんと3665通に達したという。
多くの住民の熱望、市の努力と地主さんの好意が結実し、70年の歴史に輝く名湯は、02年3月まで存続できることになったばかりだった。
私が「滝乃湯」に中に入ると、浴場も脱衣場も、照明はただ一本の電燈がぶら下がるのみで、まずこの質素さが心に沁みた。浴場に足を踏み入れると、星空がのぞく高い天井と富士山のペンキ絵が鄙びたいい味を出していた。
新米ライターの私は、さっそく熊坂さんへの取材を開始した。
「滝乃湯」は産後の血行回復、神経痛に効く漢方薬湯が名物で観光客にも人気があり、普通の銭湯と違って、毎日お湯も薬も入れ替えているという。
「うちのお湯はね、3度お湯に入って暖まらないと風邪をひくよ」
「私の夢はここを銭湯保育所にしてねえ、子育てに自信のない母親からお子さんを預かってねえ、オジイチャン、オバアチャンたちといっしょに育てることだったの」
「考えてみると、みんなが裸になって、声をかけあったり、気持を通わせる唯一の場所が、この銭湯なの……」
そんな鎌倉最後の楽園が、ここだった。
私が取材したあとも数年間は営業が続いた「滝乃湯」だったが、とうとう昨年、あの長い煙突も、私が一糸まとわぬヌードモデルとなって入浴した浴槽も、脱衣場も、富士山のペンキ絵も、築地塀も、もみじの枝も、それらのすべてが地上から消えうせて、ご覧のようにどこにでもある駐車場になってしまった。
それにしても、古き良きものは何ゆえに滅びやすいのであろうか?
ちなみに、私が執筆したその雑誌も、創刊わずか2年ほどで廃刊になってしまった。
まことに諸行は無常である。
Saturday, September 15, 2007
御成り通りのおもちゃやさん
Friday, September 14, 2007
ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」を読む
降っても照っても第50回
「日本文学の歴史」全18巻、「明治天皇」、「足利義政」そして「渡辺崋山」。いずれも素晴らしく読み応えのある書物であったが、その著者による自叙伝が本書である。
この人は幼い時に妹が亡くなり、両親が離婚するという悲運に見舞われながらも、いつも古きよき時代のアメリカ人だけが持っていた明朗闊達さを失わず、その文章はまるでモーツアルトのハ長調のような透明な単純明快さがある。
ここらあたりが源氏物語を翻訳したアーサー・ウエイリー、ラッセル、フォスターのみならず、谷崎、川端、三島、吉田、河上、石川、安部、永井、篠田、嶋中など日本の代表的な文学者、書店主に愛された理由であろう。
1945年に生まれて初めて朝日に染まる雪の富士山を見て涙し、飛行機の中で荷風の「すみだ川」を読んで泣き、茂山千之丞に狂言を学んだ初めての外国人キーンは、日本人以上の日本人かもしれない。
50年前の京都や原宿の暮らしに寄せる懐旧の情も胸を打つが、著者が傷だらけになった日本の現在、そして未来に寄せる深い愛情こそ貴重なものに思われる。
1938年、16歳で初めて見たメトのオペラ「オルフェウスとエウリデーチエ」やフラグスタートのワグナー、マリア・カラスの「ノルマ」(このライブ録音のレコード&CDには著者のブラーヴァ!の絶叫が収録されている)するなどオペラ黄金時代の感動的な体験を読むとうらやましい限りである。
しかしもっとも印象的なのは三島由紀夫との交友の思い出である。
三島が70年11月の自栽の前夜に書いた著者への手紙は最近出版された「三島由紀夫全集」の書簡編に収録されているが、本書には最後から2番目の手紙が紹介されている。
『豊饒の海』は月のカラフルな嘘の海を暗示した題で、強いていへば宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません。
私はこの『時は海なり』という言葉のなかに、三島の世界観が要約されていると思った。
「日本文学の歴史」全18巻、「明治天皇」、「足利義政」そして「渡辺崋山」。いずれも素晴らしく読み応えのある書物であったが、その著者による自叙伝が本書である。
この人は幼い時に妹が亡くなり、両親が離婚するという悲運に見舞われながらも、いつも古きよき時代のアメリカ人だけが持っていた明朗闊達さを失わず、その文章はまるでモーツアルトのハ長調のような透明な単純明快さがある。
ここらあたりが源氏物語を翻訳したアーサー・ウエイリー、ラッセル、フォスターのみならず、谷崎、川端、三島、吉田、河上、石川、安部、永井、篠田、嶋中など日本の代表的な文学者、書店主に愛された理由であろう。
1945年に生まれて初めて朝日に染まる雪の富士山を見て涙し、飛行機の中で荷風の「すみだ川」を読んで泣き、茂山千之丞に狂言を学んだ初めての外国人キーンは、日本人以上の日本人かもしれない。
50年前の京都や原宿の暮らしに寄せる懐旧の情も胸を打つが、著者が傷だらけになった日本の現在、そして未来に寄せる深い愛情こそ貴重なものに思われる。
1938年、16歳で初めて見たメトのオペラ「オルフェウスとエウリデーチエ」やフラグスタートのワグナー、マリア・カラスの「ノルマ」(このライブ録音のレコード&CDには著者のブラーヴァ!の絶叫が収録されている)するなどオペラ黄金時代の感動的な体験を読むとうらやましい限りである。
しかしもっとも印象的なのは三島由紀夫との交友の思い出である。
三島が70年11月の自栽の前夜に書いた著者への手紙は最近出版された「三島由紀夫全集」の書簡編に収録されているが、本書には最後から2番目の手紙が紹介されている。
『豊饒の海』は月のカラフルな嘘の海を暗示した題で、強いていへば宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません。
私はこの『時は海なり』という言葉のなかに、三島の世界観が要約されていると思った。
Thursday, September 13, 2007
四方田犬彦著「先生とわたし」を読む
降っても照っても第49回
著者の生涯の師、由良君美への追悼の思いにあふれた1冊である。
由良は知る人ぞ知る博識の英文学者であったが、文芸、哲学、美術などの隣接諸学を広く深く渉猟し、狭いアカデミズムのたこつぼに閉じこもらず、目を古今東西の遠近に放った人であったらしいが、1990年8月に61歳で亡くなった。
若くして知の悦び、学びの楽しさを教えてくれた師であったが、著者が思想的に自立するに従って師弟のギャップと誤解が生じ、それはついに取り返しがつかないものになったまま2人は幽明境を異にするのだが、本書の「先生とわたし」の物語はそこから始まる。
自分が先生から享けたものは何か、先生に還したものは何か、はたまた師弟の本来あるべき姿とは何か、がこの出藍の誉でもあり、不肖の弟子でもある著者によって真摯に問われてゆく。
さうして師の真像に肉薄しようと超人的な追跡を続行する著者の内面の旅は、師の先祖の来歴探しや全生涯の振り返りにまでおよび、さながら師ヴェルギリウスと永遠の恋人ベアトリーチエの幻の影を慕うダンテの天路歴程を想わせるものがある。
このような弟子を持った師の泉下のよろこびはいかばかりであらう。以って瞑すべしとでもいうべきだろうか。
著者の生涯の師、由良君美への追悼の思いにあふれた1冊である。
由良は知る人ぞ知る博識の英文学者であったが、文芸、哲学、美術などの隣接諸学を広く深く渉猟し、狭いアカデミズムのたこつぼに閉じこもらず、目を古今東西の遠近に放った人であったらしいが、1990年8月に61歳で亡くなった。
若くして知の悦び、学びの楽しさを教えてくれた師であったが、著者が思想的に自立するに従って師弟のギャップと誤解が生じ、それはついに取り返しがつかないものになったまま2人は幽明境を異にするのだが、本書の「先生とわたし」の物語はそこから始まる。
自分が先生から享けたものは何か、先生に還したものは何か、はたまた師弟の本来あるべき姿とは何か、がこの出藍の誉でもあり、不肖の弟子でもある著者によって真摯に問われてゆく。
さうして師の真像に肉薄しようと超人的な追跡を続行する著者の内面の旅は、師の先祖の来歴探しや全生涯の振り返りにまでおよび、さながら師ヴェルギリウスと永遠の恋人ベアトリーチエの幻の影を慕うダンテの天路歴程を想わせるものがある。
このような弟子を持った師の泉下のよろこびはいかばかりであらう。以って瞑すべしとでもいうべきだろうか。
Wednesday, September 12, 2007
鎌倉聖ミカエル教会を訪ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語76回
横須賀線が北鎌倉のトンネルを抜けた瞬間に空気が少しひんやりする。しばらくして鎌倉駅のプラットフォームに降り立つと、潮の匂いが微かに鼻腔を衝く。そしてこれが鎌倉という田舎町に住むことの最高の贅沢なのである。
しかし今も昔も東口から出る霊園方面の京急バスの最終は10時15分、ハイランド行きの最終は45分なので、私は混雑するタクシー乗り場を捨てて、たまには夜の小町通を八幡宮に向かって歩いた。
今から30年くらい前の小町通にはお茶屋と信用金庫と2つの喫茶店と玩具屋と駄菓子屋と古本屋と中華料理屋と呑み屋とひき肉屋と牛乳屋とピロシキ屋と薬局と医院と寿司屋とクリーニング屋と氷屋以外はほとんどなにもなかった。
現在のような阿呆な芋アイス屋やスイーツ屋や煎餅屋やブチックや雑貨屋やカフェなどは、ただの1軒もなかった。
ほの暗い街灯の下を私はとぼとぼと歩いた。しもた屋も貧しい民家もかたく門を閉じて寝静まり、狭くて細い道に人影はなく、舗道をうつ私の靴音だけがぴたぴたと音を立てていた。
小町通りの舗装が尽きるあたりに竹製品などを売る生垣屋があり、その左側に聖ミカエル教会が静かに佇んでいた。鎌倉には明治時代から多くの外国人が居住したために市内には22の教会が現存しているそうだ。
四人の大天使のうちの1名の名を冠したこのカトリック教会は、最近“ぴかぴかに醜く”立て直された。木造の聖堂部がかろうじて当時の姿をとどめているだけで往年の面影はない。市の指定景観重要建築物だというが、その価値はなさそうだ。
私は久しぶりにこの教会の前に立ち、この教会が経営する施設に障碍児の息子を入れていただけるかどうか神父様に相談に行った遠い昔の日を思い出した。礼拝堂に入ると格天井などさすがに内部の意匠が歴史を感じさせたが、それより驚いたのは私の亡くなった母と同じ名前の女性が最近神に召されたという知らせに出会ったことだった。
横須賀線が北鎌倉のトンネルを抜けた瞬間に空気が少しひんやりする。しばらくして鎌倉駅のプラットフォームに降り立つと、潮の匂いが微かに鼻腔を衝く。そしてこれが鎌倉という田舎町に住むことの最高の贅沢なのである。
しかし今も昔も東口から出る霊園方面の京急バスの最終は10時15分、ハイランド行きの最終は45分なので、私は混雑するタクシー乗り場を捨てて、たまには夜の小町通を八幡宮に向かって歩いた。
今から30年くらい前の小町通にはお茶屋と信用金庫と2つの喫茶店と玩具屋と駄菓子屋と古本屋と中華料理屋と呑み屋とひき肉屋と牛乳屋とピロシキ屋と薬局と医院と寿司屋とクリーニング屋と氷屋以外はほとんどなにもなかった。
現在のような阿呆な芋アイス屋やスイーツ屋や煎餅屋やブチックや雑貨屋やカフェなどは、ただの1軒もなかった。
ほの暗い街灯の下を私はとぼとぼと歩いた。しもた屋も貧しい民家もかたく門を閉じて寝静まり、狭くて細い道に人影はなく、舗道をうつ私の靴音だけがぴたぴたと音を立てていた。
小町通りの舗装が尽きるあたりに竹製品などを売る生垣屋があり、その左側に聖ミカエル教会が静かに佇んでいた。鎌倉には明治時代から多くの外国人が居住したために市内には22の教会が現存しているそうだ。
四人の大天使のうちの1名の名を冠したこのカトリック教会は、最近“ぴかぴかに醜く”立て直された。木造の聖堂部がかろうじて当時の姿をとどめているだけで往年の面影はない。市の指定景観重要建築物だというが、その価値はなさそうだ。
私は久しぶりにこの教会の前に立ち、この教会が経営する施設に障碍児の息子を入れていただけるかどうか神父様に相談に行った遠い昔の日を思い出した。礼拝堂に入ると格天井などさすがに内部の意匠が歴史を感じさせたが、それより驚いたのは私の亡くなった母と同じ名前の女性が最近神に召されたという知らせに出会ったことだった。
Tuesday, September 11, 2007
アクオス小百合よ ゴッホの話はやめてけれ
♪バガテルop27
「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったように美しい」(ロートレアモン「マルドロールの歌」という言葉は、広告制作の本質を捉えている。
広告の作法とは、無関係なもの同士を同一平面状に並べて、それらが思いがけない異化作用を引き起こし、さながら核融合に似た法外なエネルギーを世間に放出する文字通りアナーキーなたくらみにあるからだ。
さて、この一枚のB倍版のポスターの上で出会ったのは薹の立った女優と液晶テレヴィと孤高の画家の名作のアトランダムな組み合わせ。ほんらいなんの関係もない3つの要素が、金と冗談と機知にまかせて世界中のあちこちから呼び集められ、今夜ここでの一盛り、虚栄の歌を歌おうとしている。
されどアクオスよ、小百合よ、私は断じて君たちからヴァンゴッホのお芸術の話を聞きたくないのだ。
退け、サタンよ! 驕るなかれアドバタイジング!
「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったように美しい」(ロートレアモン「マルドロールの歌」という言葉は、広告制作の本質を捉えている。
広告の作法とは、無関係なもの同士を同一平面状に並べて、それらが思いがけない異化作用を引き起こし、さながら核融合に似た法外なエネルギーを世間に放出する文字通りアナーキーなたくらみにあるからだ。
さて、この一枚のB倍版のポスターの上で出会ったのは薹の立った女優と液晶テレヴィと孤高の画家の名作のアトランダムな組み合わせ。ほんらいなんの関係もない3つの要素が、金と冗談と機知にまかせて世界中のあちこちから呼び集められ、今夜ここでの一盛り、虚栄の歌を歌おうとしている。
されどアクオスよ、小百合よ、私は断じて君たちからヴァンゴッホのお芸術の話を聞きたくないのだ。
退け、サタンよ! 驕るなかれアドバタイジング!
Monday, September 10, 2007
Saturday, September 08, 2007
コリン・マッケーブ著「ゴダール伝」を読む
降っても照っても第49回
映像の天才詩人、ジャン・リュック・ゴダールに関する包括的な評伝が初めて刊行された。私はむかしからヌーヴェルバーグの作家や作品は嫌いではなく、特にゴダールとは1985年にテレビCMを2本作ってもらうために彼がいまも住んでいるスイスの小村ロールに出向き、やあこんにちはと挨拶したこともある(その頃ちょうど「こんにちはマリア」が公開されていた)ので懐かしく手にとった。
著者のコリン・マッケーブは名前からも分かるようにアイルランド系の英文学者兼映画研究家兼映画製作者。文学のみならず歴史や哲学の造詣が深く、英国映画協会の製作部長時代にゴダールに番組制作を依頼したりインタビューしたりしている。
文章が突然「分節化」されたり、精神分析の論文と化したりして無学な私には理解を超える個所もないではないが、この不世出の映像作家の先祖代々の系譜や幼年時代のエピソード、さらにこれまであまり解明されていなかった革命的ジガ・ヴェルトフ時代の活動、さらに生涯の伴侶アンヌ・マリ・ミエヴィルとの愛と創造の共同生活などを、映画史におけるゴダールの好意的評価とともに要領よく紹介している。
本書によれば、ゴダールは昔から盗癖があり、1952年にチューリッヒの刑務所に入るまでの5年間繰り返し盗み、捕まることを繰り返しているが、これは彼のブルジョア的な成育環境とそこで植えつけられたピューリタン的宗教教育への敵意・反発が潜んでいるようだ。
祖父が大事に所有していたヴァレリーの署名入り初版本を盗んで古本屋にたたき売る少年ゴダール。そんな少年の内気な態度や長い沈黙は、彼のパナマ、リマへの長い南米旅行から始まった、とトリュフォーは語っている。
若きゴダールはパリでの大学受験勉強に失敗してスイスに舞いもどり、アルプスの高地にある巨大な大型ダム建設現場で働き、これがプロレタリアートとしての自己確認の原点となった。
しかし渡世人ゴダールの振り出しはクロード・シャブロルから譲られた米フォクス映画の宣伝広報担当への就職で、このポジションはわが国の不世出の映画評論家淀川長治のそれを想起させるものがある。
ゴダールは米国映画帝国主義への敵意と反感をいまでも隠さないが、「勝手にしやがれ」のプレスキャンペーンやマスコミ対応などは不倶戴天の敵国の作法をしたたかに流用しているのである。
ゴダールの出世作「勝手にしやがれ」は、オットープレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て大成功を勝ち取った。サンジェルマン・デ・プレで撮影されたベルモンド、ゴダール、ボールガールの写真はカッコいい。
ゴダールの生涯をきらびやかに彩るファム・ファタール第1号は石鹸の広告モデルをしていた18歳のデンマーク人、ハンネ・カリン・バイヤーである。
彼女が「エル」の撮影をしていたとき、女優になりたいという願いを聞いたココ・シャネルから「そんな名前ではたぶんなんれないわよ」といわれたのが、アンナ・カリーナ誕生の瞬間だった。
カリーナを恋人から奪って始まったこの至上の恋は「女は女である」「女と男のいる舗道」「はなればなれに」「アルファビル」まで持続したが、なんといってもゴダールとの間にできた男児の流産が二人に致命的な打撃を与えたようだ。
ファム・ファタールの第2号は、白系ロシア人貴族の娘にしてかの有名なフランソワ・モーリアックの孫娘であるアンヌ・ヴィアゼムスキーであった。
68年の5月革命を共に駆け抜けたヴィアゼムスキーとゴダールの結婚は当時大きな話題を呼んだという。アンリ・ラングロワのシネマテーク館長解任に反対してドゴールとアンドレ・マルローに抗し、パリの学生・労働者と共に市街戦の指揮を執っていた40歳のゴダールの姿はいまなお輝かしい。
けれども「軽蔑」の主演女優BBのご機嫌を取るために得意の逆立ちをするゴダールや、ポランスキーの妻シャロンテートが惨殺されたニュースを聞いて「いいぞ、あいつは例の作品の権利を僕から盗んだ奴だからな」と暴言を吐き、アポロ13号に搭乗中の三人の宇宙飛行士に対し「地球に戻らず宇宙で死ねばいい」と何度も表明する姿はとても醜い。
全裸の映像をおぞましいポルノグラフィーに転化しないために陰毛が映っているカットが必要であると女優に強制したり、疲労困憊して顔で「パッション」のスタジオ入りをしたハンナ・シーグラに向かって、「一晩中やっていたんだ。顔のしわをみんなに見せてやればいい」と怒号するゴダールの姿もとても醜い。
「人生における最大の価値は、真であり、善であり、美であるからその格率を体現する作品をつくってほしい」という、(クライアントである)私のCM企画意図に賛同し、プレゼン用のビデオ作品を自主的に制作し、見事な作品をつくってくれたゴダールその人だけに許せない思いが強いのである。
けれどもマオイストとなって永久革命の夢からさめることができなかったゴダールのおいさらばえた精神と肉体に愛と休息の場所を与え、1979年製作の「勝手に逃げろ/人生」で奇跡の映画復帰をもたらし、いまなおスイスの小さな隠れ家でにあって世界一孤独で唯一無二の映像革命作家をしっかりと支えているのが、彼の3番目の運命の女性、アンヌ・マリ・ミエヴィルなのだった。
映像の天才詩人、ジャン・リュック・ゴダールに関する包括的な評伝が初めて刊行された。私はむかしからヌーヴェルバーグの作家や作品は嫌いではなく、特にゴダールとは1985年にテレビCMを2本作ってもらうために彼がいまも住んでいるスイスの小村ロールに出向き、やあこんにちはと挨拶したこともある(その頃ちょうど「こんにちはマリア」が公開されていた)ので懐かしく手にとった。
著者のコリン・マッケーブは名前からも分かるようにアイルランド系の英文学者兼映画研究家兼映画製作者。文学のみならず歴史や哲学の造詣が深く、英国映画協会の製作部長時代にゴダールに番組制作を依頼したりインタビューしたりしている。
文章が突然「分節化」されたり、精神分析の論文と化したりして無学な私には理解を超える個所もないではないが、この不世出の映像作家の先祖代々の系譜や幼年時代のエピソード、さらにこれまであまり解明されていなかった革命的ジガ・ヴェルトフ時代の活動、さらに生涯の伴侶アンヌ・マリ・ミエヴィルとの愛と創造の共同生活などを、映画史におけるゴダールの好意的評価とともに要領よく紹介している。
本書によれば、ゴダールは昔から盗癖があり、1952年にチューリッヒの刑務所に入るまでの5年間繰り返し盗み、捕まることを繰り返しているが、これは彼のブルジョア的な成育環境とそこで植えつけられたピューリタン的宗教教育への敵意・反発が潜んでいるようだ。
祖父が大事に所有していたヴァレリーの署名入り初版本を盗んで古本屋にたたき売る少年ゴダール。そんな少年の内気な態度や長い沈黙は、彼のパナマ、リマへの長い南米旅行から始まった、とトリュフォーは語っている。
若きゴダールはパリでの大学受験勉強に失敗してスイスに舞いもどり、アルプスの高地にある巨大な大型ダム建設現場で働き、これがプロレタリアートとしての自己確認の原点となった。
しかし渡世人ゴダールの振り出しはクロード・シャブロルから譲られた米フォクス映画の宣伝広報担当への就職で、このポジションはわが国の不世出の映画評論家淀川長治のそれを想起させるものがある。
ゴダールは米国映画帝国主義への敵意と反感をいまでも隠さないが、「勝手にしやがれ」のプレスキャンペーンやマスコミ対応などは不倶戴天の敵国の作法をしたたかに流用しているのである。
ゴダールの出世作「勝手にしやがれ」は、オットープレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て大成功を勝ち取った。サンジェルマン・デ・プレで撮影されたベルモンド、ゴダール、ボールガールの写真はカッコいい。
ゴダールの生涯をきらびやかに彩るファム・ファタール第1号は石鹸の広告モデルをしていた18歳のデンマーク人、ハンネ・カリン・バイヤーである。
彼女が「エル」の撮影をしていたとき、女優になりたいという願いを聞いたココ・シャネルから「そんな名前ではたぶんなんれないわよ」といわれたのが、アンナ・カリーナ誕生の瞬間だった。
カリーナを恋人から奪って始まったこの至上の恋は「女は女である」「女と男のいる舗道」「はなればなれに」「アルファビル」まで持続したが、なんといってもゴダールとの間にできた男児の流産が二人に致命的な打撃を与えたようだ。
ファム・ファタールの第2号は、白系ロシア人貴族の娘にしてかの有名なフランソワ・モーリアックの孫娘であるアンヌ・ヴィアゼムスキーであった。
68年の5月革命を共に駆け抜けたヴィアゼムスキーとゴダールの結婚は当時大きな話題を呼んだという。アンリ・ラングロワのシネマテーク館長解任に反対してドゴールとアンドレ・マルローに抗し、パリの学生・労働者と共に市街戦の指揮を執っていた40歳のゴダールの姿はいまなお輝かしい。
けれども「軽蔑」の主演女優BBのご機嫌を取るために得意の逆立ちをするゴダールや、ポランスキーの妻シャロンテートが惨殺されたニュースを聞いて「いいぞ、あいつは例の作品の権利を僕から盗んだ奴だからな」と暴言を吐き、アポロ13号に搭乗中の三人の宇宙飛行士に対し「地球に戻らず宇宙で死ねばいい」と何度も表明する姿はとても醜い。
全裸の映像をおぞましいポルノグラフィーに転化しないために陰毛が映っているカットが必要であると女優に強制したり、疲労困憊して顔で「パッション」のスタジオ入りをしたハンナ・シーグラに向かって、「一晩中やっていたんだ。顔のしわをみんなに見せてやればいい」と怒号するゴダールの姿もとても醜い。
「人生における最大の価値は、真であり、善であり、美であるからその格率を体現する作品をつくってほしい」という、(クライアントである)私のCM企画意図に賛同し、プレゼン用のビデオ作品を自主的に制作し、見事な作品をつくってくれたゴダールその人だけに許せない思いが強いのである。
けれどもマオイストとなって永久革命の夢からさめることができなかったゴダールのおいさらばえた精神と肉体に愛と休息の場所を与え、1979年製作の「勝手に逃げろ/人生」で奇跡の映画復帰をもたらし、いまなおスイスの小さな隠れ家でにあって世界一孤独で唯一無二の映像革命作家をしっかりと支えているのが、彼の3番目の運命の女性、アンヌ・マリ・ミエヴィルなのだった。
昔の光、いまもなお。古我邸&庭園を歩く
鎌倉ちょっと不思議な物語75回
鎌倉文学館(旧前田邸)、華頂宮邸(旧宮家)とならぶ鎌倉3大洋館のひとつが、この古我邸&庭園(旧荘清次郎邸・非公開)である。
大正五年、夏目漱石が亡くなった年に、かつて恐らくは智岸寺という廃寺があったと想定される場所に三菱銀行の重役荘清次郎の別荘が建築された。
設計は三菱銀行などの建築を手がけた櫻井小太郎。見るからにイングランド郊外の英国貴族の館を思わせる英国コテージ様式のすばらしい洋館が扇ガ谷近辺の山麓に現存している。
建物は木造2階建てで外壁はこげ茶色の板をウロコ状に張ったシングル張りという珍しいもの。昭和初期には浜口雄幸、近衛文麿などの総理大臣が別荘として使用し、現在は日本人で初めてカーレーサーになった古我信生夫人がご高齢にもかかわらず、まだ実際に居住されている!
当初この一帯は「三菱村」といわれ、岩崎家はじめ三菱財閥の要人が別荘を構えていたという。実際に拝見したが、豊かに緑なす広い前庭と瀟洒な後庭に取り囲まれた重厚な洋館は、いつまでも後世に伝えたい懐かしい風韻を醸し出していた。
(鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料より引用)
鎌倉文学館(旧前田邸)、華頂宮邸(旧宮家)とならぶ鎌倉3大洋館のひとつが、この古我邸&庭園(旧荘清次郎邸・非公開)である。
大正五年、夏目漱石が亡くなった年に、かつて恐らくは智岸寺という廃寺があったと想定される場所に三菱銀行の重役荘清次郎の別荘が建築された。
設計は三菱銀行などの建築を手がけた櫻井小太郎。見るからにイングランド郊外の英国貴族の館を思わせる英国コテージ様式のすばらしい洋館が扇ガ谷近辺の山麓に現存している。
建物は木造2階建てで外壁はこげ茶色の板をウロコ状に張ったシングル張りという珍しいもの。昭和初期には浜口雄幸、近衛文麿などの総理大臣が別荘として使用し、現在は日本人で初めてカーレーサーになった古我信生夫人がご高齢にもかかわらず、まだ実際に居住されている!
当初この一帯は「三菱村」といわれ、岩崎家はじめ三菱財閥の要人が別荘を構えていたという。実際に拝見したが、豊かに緑なす広い前庭と瀟洒な後庭に取り囲まれた重厚な洋館は、いつまでも後世に伝えたい懐かしい風韻を醸し出していた。
(鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料より引用)
Thursday, September 06, 2007
嵐の夜に
鎌倉ちょっと不思議な物語74回&遥かな昔、遠い所で第20回
台風一過、もうミンミンゼミが鳴いている。今から10数年前のこんな嵐の夜に、朝比奈切通しの坂道の途中にあるお地蔵様が鎌倉時代から安置されていた岩の下の台座から転げ落ちてしまった。
翌朝私と家内が峠を登っていくと、そのお地蔵様はお労しや大小3つに砕けて峠の坂道にひっくりかえってござった。夫婦でふうふう言いながら元の台座に戻そうとしたが、あまりの重さにそれは叶わず、仕方なく坂道の端っこに安置した。
翌日市役所に電話したのだが、担当者は砕けた断片をしばらく捜索したのみで、応援を頼んで原状回復さえせず、星霜10年、いや15年になるだろうか、今日に及んでいる。
ときおりこのお地蔵様や峠の頂上にある磨崖仏を大昔からここに在るように書いているブログがあるが、とんでもない。くだんの磨崖仏などは昭和30年代に当時横須賀市在住のおじいさんが腕をふるって刻んだアマチュア現代アートに過ぎない。
余談はさておき、このお地蔵様の砕けた右側に「延宝三年丹波之住人浄誉向入」という銘が刻まれている。「吾妻鏡」によると朝比奈峠は仁治元年1240年北条泰時によって開鑿されたが、その後3回改修工事が行われており、延宝三年1675年の第1回の大改修を勧進したのがほかならぬこの浄誉向入上人だったと思われる。(その後この切通しは安永9年1780年、寛政9年1797年、文化9年1813年の計3回改修工事が行われ、それぞれの改修碑が峠道のあちこちに残されている。)
12世紀の重源の頃から鋳物師や石工などの職人集団と結びついて各地の寺社の修造や池・橋・港湾の修築に当たったのが勧進聖、勧進上人である。
13世紀後半から14世紀にかけては北条時宗の援助を受けて東寺の工事に鋳物師を総動員した願行上人憲静や津・泊などに関を立て、回船人・商人から関料を徴収した禅律僧の恵観など数多くの勧進上人たちが活躍した。
鎌倉の勧進上人忍性などは北条氏などの権力者と結びついて公共工事を行い、その資本を調達するために神仏への初尾寄付の名目で関料を徴収し、その資本で工人、船頭、水主を動かして中国との貿易に乗り出して巨利を得た。彼らは一種の企業家、貿易商人といえるだろう。
わが丹波ゆかりの浄誉向入上人の足跡を辿ると、『新編相模国風土記稿』に「峠坂あり。村中より大切通に達する坂なり。延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す」とあった。
どうやら浄誉向入上人は自ら勧進した切通し大改修に着手、完了したその年にみまかったらしい。
ああ、偉大なるかな丹波の僧よ。大願成就、もって瞑すべし
とでも申すべきであらうか。
台風一過、もうミンミンゼミが鳴いている。今から10数年前のこんな嵐の夜に、朝比奈切通しの坂道の途中にあるお地蔵様が鎌倉時代から安置されていた岩の下の台座から転げ落ちてしまった。
翌朝私と家内が峠を登っていくと、そのお地蔵様はお労しや大小3つに砕けて峠の坂道にひっくりかえってござった。夫婦でふうふう言いながら元の台座に戻そうとしたが、あまりの重さにそれは叶わず、仕方なく坂道の端っこに安置した。
翌日市役所に電話したのだが、担当者は砕けた断片をしばらく捜索したのみで、応援を頼んで原状回復さえせず、星霜10年、いや15年になるだろうか、今日に及んでいる。
ときおりこのお地蔵様や峠の頂上にある磨崖仏を大昔からここに在るように書いているブログがあるが、とんでもない。くだんの磨崖仏などは昭和30年代に当時横須賀市在住のおじいさんが腕をふるって刻んだアマチュア現代アートに過ぎない。
余談はさておき、このお地蔵様の砕けた右側に「延宝三年丹波之住人浄誉向入」という銘が刻まれている。「吾妻鏡」によると朝比奈峠は仁治元年1240年北条泰時によって開鑿されたが、その後3回改修工事が行われており、延宝三年1675年の第1回の大改修を勧進したのがほかならぬこの浄誉向入上人だったと思われる。(その後この切通しは安永9年1780年、寛政9年1797年、文化9年1813年の計3回改修工事が行われ、それぞれの改修碑が峠道のあちこちに残されている。)
12世紀の重源の頃から鋳物師や石工などの職人集団と結びついて各地の寺社の修造や池・橋・港湾の修築に当たったのが勧進聖、勧進上人である。
13世紀後半から14世紀にかけては北条時宗の援助を受けて東寺の工事に鋳物師を総動員した願行上人憲静や津・泊などに関を立て、回船人・商人から関料を徴収した禅律僧の恵観など数多くの勧進上人たちが活躍した。
鎌倉の勧進上人忍性などは北条氏などの権力者と結びついて公共工事を行い、その資本を調達するために神仏への初尾寄付の名目で関料を徴収し、その資本で工人、船頭、水主を動かして中国との貿易に乗り出して巨利を得た。彼らは一種の企業家、貿易商人といえるだろう。
わが丹波ゆかりの浄誉向入上人の足跡を辿ると、『新編相模国風土記稿』に「峠坂あり。村中より大切通に達する坂なり。延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す」とあった。
どうやら浄誉向入上人は自ら勧進した切通し大改修に着手、完了したその年にみまかったらしい。
ああ、偉大なるかな丹波の僧よ。大願成就、もって瞑すべし
とでも申すべきであらうか。
Wednesday, September 05, 2007
犬も歩けば「鎌倉史蹟指導標」
鎌倉ちょっと不思議な物語73回
鎌倉を歩くと市内のあちこちに大きな石造りの案内標が建っている。
こんなに大きく頑丈で立派な表示物は日本全国、いや世界中どこにもないだろう。文化と歴史と時代の風格を漂わせるこの立派な表示は、正式には「史蹟指導標」と称され、全部で80基が現存しているそうだ。
そのうちの77基は、大正6から10年は鎌倉の「青年会」、以後昭和15年までは「青年団」、16年には「壮年団」が三基建立し、戦後は昭和31年に「友青会」が三基追加した。
大正から昭和初期の製作費1基200円也は、現在ならいくらになるだろう? 昔の青年団は偉かった。
鎌倉を歩くと市内のあちこちに大きな石造りの案内標が建っている。
こんなに大きく頑丈で立派な表示物は日本全国、いや世界中どこにもないだろう。文化と歴史と時代の風格を漂わせるこの立派な表示は、正式には「史蹟指導標」と称され、全部で80基が現存しているそうだ。
そのうちの77基は、大正6から10年は鎌倉の「青年会」、以後昭和15年までは「青年団」、16年には「壮年団」が三基建立し、戦後は昭和31年に「友青会」が三基追加した。
大正から昭和初期の製作費1基200円也は、現在ならいくらになるだろう? 昔の青年団は偉かった。
Tuesday, September 04, 2007
海野弘著「20世紀」を読む
降っても照っても第48回
20世紀の100年間を10年ずつのディケイドに分かち、そのディケイドから20くらいの出来事や傾向を選んで自在に物語ることによってその年代の全体的な特徴をつかみだそうとする気宇壮大、骨太の現代史が本書である。
たとえば1900年代は「春のまどろみ」、10年代は「大いなる戦い」、20年代は「ローリング・ジャズエイジ」、30年代は「トラブルの時」、40年代は「引き裂かれた時代」、50年代は「ヒチコック・エイジ」、60年代は「大動揺時代」、70年代は「ナルシス・エイジ」、80年代は「幻想と欲望の時代」、90年代は「20世紀末」と銘打たれ、その各年代ごとに原稿用紙で100枚を費やし、10章で約1000枚、索引と参考文献を含めて総計607ページの大著であるからはなはだ読み応えがある。
10年代で出てくる野口英世の科学史の業績問題(黄熱病の病原菌は菌ではなくウイルスであり、野口はそのことを知らなかった)、第一次大戦の後始末役の米大統領ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルトの「革新主義」と「発展膨張主義」こそが、現代アメリカのグローバリズムの源流であること、米国20年代の「クークラクッスクラン」が古き良きアメリカを守ろうとしたプロテスタント基本主義の原点であり、その頑なな原理主義が現在のブッシュ流米国覇権主義につながっていること、20年代のパリでシャネルは香水のロイヤリテイによる莫大な収入によってはじめてファッションデザインに専念することが可能になり、それが今日のラグジュアリービジネスのスタイルを創始したこと、エンパイアー・ステートビルのエンパイアー・ステートというのは他ならぬニューヨーク州であること等々、どのページを読んでも興味深い記述が端々に転がっているが、図抜けた知の案内人と共に広大な20世紀の海を逍遥する楽しさを味わうことができる。
著者はグローバリゼーションとは世界を縮小していく過程であり、それは最終的には携帯の小さな画面に1枚の平面として集約されるようになったという。20世紀末に世界はどんどんフラットになり、奥行もなく、前後左右もなく、時間も歴史も消え去り、すべてがくまなく見えるものになった。従って20世紀の終わりをフランシス・フクヤマのように「歴史の終わり」と見ることもできよう。
しかし興味深いのは、著者が歴史は繰り返すと信じていることで、調べれば調べるほど20年代と50年代と世紀末にはある共通項が備わっているという。著者は世界の文化はほぼ30年の周期で繰り返しているのではないかという仮説をなかば信じているようだ。
しかしすべてが見える物となり、陽の下になにも新しきものはなくなり、世界がフラットと化して動かなくなれば、私たちはどうなるのだろう?
著者はすでにこの世に表われたもの、経験されたもの、既存のものをあたかもトランプのカードのようにかき混ぜ、再度カットし直してもういちど「21世紀ゲーム」を始めればよいのだと主張する。
そして最後にこう断言するのである。
「私は歴史は繰り返すと思う。もしそうでなければすべての出来事はたった1回だけで過ぎていき、私たちは歴史に学ぶこともなくただ流れていくことになろう。それではただ今だけに生きて終わりということになるだろう。感覚的な快不快はあるかもしれないが、本質的な成功も失敗もないことになるだろう。私たちの人生と世界がそんなことであっていいはずがない。私は歴史は繰り返すと思う。そうでなければ歴史を学ぶ意味などないのだから」
20世紀の100年間を10年ずつのディケイドに分かち、そのディケイドから20くらいの出来事や傾向を選んで自在に物語ることによってその年代の全体的な特徴をつかみだそうとする気宇壮大、骨太の現代史が本書である。
たとえば1900年代は「春のまどろみ」、10年代は「大いなる戦い」、20年代は「ローリング・ジャズエイジ」、30年代は「トラブルの時」、40年代は「引き裂かれた時代」、50年代は「ヒチコック・エイジ」、60年代は「大動揺時代」、70年代は「ナルシス・エイジ」、80年代は「幻想と欲望の時代」、90年代は「20世紀末」と銘打たれ、その各年代ごとに原稿用紙で100枚を費やし、10章で約1000枚、索引と参考文献を含めて総計607ページの大著であるからはなはだ読み応えがある。
10年代で出てくる野口英世の科学史の業績問題(黄熱病の病原菌は菌ではなくウイルスであり、野口はそのことを知らなかった)、第一次大戦の後始末役の米大統領ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルトの「革新主義」と「発展膨張主義」こそが、現代アメリカのグローバリズムの源流であること、米国20年代の「クークラクッスクラン」が古き良きアメリカを守ろうとしたプロテスタント基本主義の原点であり、その頑なな原理主義が現在のブッシュ流米国覇権主義につながっていること、20年代のパリでシャネルは香水のロイヤリテイによる莫大な収入によってはじめてファッションデザインに専念することが可能になり、それが今日のラグジュアリービジネスのスタイルを創始したこと、エンパイアー・ステートビルのエンパイアー・ステートというのは他ならぬニューヨーク州であること等々、どのページを読んでも興味深い記述が端々に転がっているが、図抜けた知の案内人と共に広大な20世紀の海を逍遥する楽しさを味わうことができる。
著者はグローバリゼーションとは世界を縮小していく過程であり、それは最終的には携帯の小さな画面に1枚の平面として集約されるようになったという。20世紀末に世界はどんどんフラットになり、奥行もなく、前後左右もなく、時間も歴史も消え去り、すべてがくまなく見えるものになった。従って20世紀の終わりをフランシス・フクヤマのように「歴史の終わり」と見ることもできよう。
しかし興味深いのは、著者が歴史は繰り返すと信じていることで、調べれば調べるほど20年代と50年代と世紀末にはある共通項が備わっているという。著者は世界の文化はほぼ30年の周期で繰り返しているのではないかという仮説をなかば信じているようだ。
しかしすべてが見える物となり、陽の下になにも新しきものはなくなり、世界がフラットと化して動かなくなれば、私たちはどうなるのだろう?
著者はすでにこの世に表われたもの、経験されたもの、既存のものをあたかもトランプのカードのようにかき混ぜ、再度カットし直してもういちど「21世紀ゲーム」を始めればよいのだと主張する。
そして最後にこう断言するのである。
「私は歴史は繰り返すと思う。もしそうでなければすべての出来事はたった1回だけで過ぎていき、私たちは歴史に学ぶこともなくただ流れていくことになろう。それではただ今だけに生きて終わりということになるだろう。感覚的な快不快はあるかもしれないが、本質的な成功も失敗もないことになるだろう。私たちの人生と世界がそんなことであっていいはずがない。私は歴史は繰り返すと思う。そうでなければ歴史を学ぶ意味などないのだから」
Monday, September 03, 2007
ある丹波の老人の話(50)最終回
ある丹波の老人の話(50)最終回
こうして幌付きの人力車に乗っているうちになんとかなるだろう、と思っておりましたが、そのうちに車夫がこの得体の知れない日本人をもてあまして「降りろ」と要求しはじめました。
私は財布からお金をつまみだして、「コレだけやるからもっと乗せろ」というたんですが、車夫は正直に20銭だけ受け取って、私を引きずり降ろしてしまいよりました。
私は途方に暮れてもう歩く元気もありまへん。しかしそのときやっと気づいて私はその場にたたずんで一生懸命神に救いを求めて祈りました。
するとどうでしょう。「その道をまっすぐ行け」という神のお告げを感じたのです。私はようやく元気を取り戻して歩きはじめました。
しばらく行くと兵隊らしき者に出会いました。兵隊は私の姿を認めるや否や銃を構えて「止まれ!」と大声で叫びました。よく見ると日本の兵隊です。
そこで訳を話すと大いに同情してくれて、電車通りに出る道を教えてもらい、無事にホテルまで辿り着くことができたんでした。
前にお話した難船の場合と同じで、これこそは私は子供のときから持ち続けた「祈れよ、さらば救われん」の実証でした。私はこれまで足掛け70年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを微塵も疑ってはおりまへん。 終
――明治18年2月22日、丹波の小さな盆地に生まれたこの老人は、その晩年はホテルなどに紅い表紙のギデオン協会の聖書を贈呈することに情熱を注いでいたが、昭和37年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」という言葉を最後に倒れ、天に召された。
こうして幌付きの人力車に乗っているうちになんとかなるだろう、と思っておりましたが、そのうちに車夫がこの得体の知れない日本人をもてあまして「降りろ」と要求しはじめました。
私は財布からお金をつまみだして、「コレだけやるからもっと乗せろ」というたんですが、車夫は正直に20銭だけ受け取って、私を引きずり降ろしてしまいよりました。
私は途方に暮れてもう歩く元気もありまへん。しかしそのときやっと気づいて私はその場にたたずんで一生懸命神に救いを求めて祈りました。
するとどうでしょう。「その道をまっすぐ行け」という神のお告げを感じたのです。私はようやく元気を取り戻して歩きはじめました。
しばらく行くと兵隊らしき者に出会いました。兵隊は私の姿を認めるや否や銃を構えて「止まれ!」と大声で叫びました。よく見ると日本の兵隊です。
そこで訳を話すと大いに同情してくれて、電車通りに出る道を教えてもらい、無事にホテルまで辿り着くことができたんでした。
前にお話した難船の場合と同じで、これこそは私は子供のときから持ち続けた「祈れよ、さらば救われん」の実証でした。私はこれまで足掛け70年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを微塵も疑ってはおりまへん。 終
――明治18年2月22日、丹波の小さな盆地に生まれたこの老人は、その晩年はホテルなどに紅い表紙のギデオン協会の聖書を贈呈することに情熱を注いでいたが、昭和37年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」という言葉を最後に倒れ、天に召された。
Sunday, September 02, 2007
網野善彦著作集第10巻「海民の社会」を読む
降っても照っても第47回&鎌倉ちょっと不思議な物語72回
百姓という言葉は農民を意味せず、農民、海民、工人など多種多様な職能に従事する公民をを意味する、というのが著者の創見であったが、本巻ではその海民についての論文がたくさん収められている。
中世の鎌倉は陸では四通八達の鎌倉街道を、そして鎌倉の滑川、金澤の六浦から発して埼玉県三郷や茨城県稲敷、東京都葛飾や神田など全国各所に散在する鎌倉河岸に通じ、霞ヶ浦四十八津などの水上河川、さらには伊豆、房総、西国、中国、九州にいたる広大な太平洋の交通路を開拓することに成功し、すでに11~12世紀には列島全域に廻船の安定したネットワークが完成していた。
私の家の近い金沢六浦は中世の巨大な港湾であるが、鎌倉時代にこの六浦相を治めていたのは上総に拠点を持つ武将和田義盛であった。和田氏はその後北条氏の悪辣な陰謀によって滅ぼされるが、その後を襲った三浦氏や金澤(かなさわ)氏によってその海上の道をますます整備させることになる。
この和田合戦の折に和田義盛の子、朝比奈三郎義秀は500騎を率い、6艘の船に乗って安房の國に行き、そのまま行方不明となった。一説には高麗に渡ったとも言われているが、これまた私の近所にある朝比奈峠は、豪傑三郎が1夜にして切り開いたという言い伝えがある。
いまを去る数十年の昔、私が初めて勤務した会社は神田鎌倉河岸にあり、高速道路の下にひたひたと打ち寄せる黒い水を疲労困憊した昼休みによく眺めていたものだが、本書によって初めて現在私が居住する鎌倉とくだんの鎌倉河岸とが時空を超えて一挙に結合されるのを感じた。
またその鎌倉では、忍性など多くの勧進聖、勧進上人が幕府と結びついて国内のみならず外国との貿易や文化交流を行い、中世社会のインフラを整備したことはよく知られている。極楽寺にいた忍性は、自らの船で貴重な宋本大般若経を鳥羽まで運び、奈良の叡尊に届けていたのである。
3大将軍実朝が由比ガ浜での大船製造に失敗した逸話は有名であるが、唐船建造が失敗して実朝が宋に行けなかったのは、かつて小林秀雄や吉本隆明が説いたようにあの時期の政治的事情と混乱によるものであり、中国人技術者の援助を得て日本で作られた多くの唐船が日本海を渡って交易していたことのほうを重視するべきであろう。
「海は櫓櫂の続くまで」と人口に膾炙したように、中世は海の時代であり、海民社会の誕生なくして日本の中世社会は存在しないのである。
百姓という言葉は農民を意味せず、農民、海民、工人など多種多様な職能に従事する公民をを意味する、というのが著者の創見であったが、本巻ではその海民についての論文がたくさん収められている。
中世の鎌倉は陸では四通八達の鎌倉街道を、そして鎌倉の滑川、金澤の六浦から発して埼玉県三郷や茨城県稲敷、東京都葛飾や神田など全国各所に散在する鎌倉河岸に通じ、霞ヶ浦四十八津などの水上河川、さらには伊豆、房総、西国、中国、九州にいたる広大な太平洋の交通路を開拓することに成功し、すでに11~12世紀には列島全域に廻船の安定したネットワークが完成していた。
私の家の近い金沢六浦は中世の巨大な港湾であるが、鎌倉時代にこの六浦相を治めていたのは上総に拠点を持つ武将和田義盛であった。和田氏はその後北条氏の悪辣な陰謀によって滅ぼされるが、その後を襲った三浦氏や金澤(かなさわ)氏によってその海上の道をますます整備させることになる。
この和田合戦の折に和田義盛の子、朝比奈三郎義秀は500騎を率い、6艘の船に乗って安房の國に行き、そのまま行方不明となった。一説には高麗に渡ったとも言われているが、これまた私の近所にある朝比奈峠は、豪傑三郎が1夜にして切り開いたという言い伝えがある。
いまを去る数十年の昔、私が初めて勤務した会社は神田鎌倉河岸にあり、高速道路の下にひたひたと打ち寄せる黒い水を疲労困憊した昼休みによく眺めていたものだが、本書によって初めて現在私が居住する鎌倉とくだんの鎌倉河岸とが時空を超えて一挙に結合されるのを感じた。
またその鎌倉では、忍性など多くの勧進聖、勧進上人が幕府と結びついて国内のみならず外国との貿易や文化交流を行い、中世社会のインフラを整備したことはよく知られている。極楽寺にいた忍性は、自らの船で貴重な宋本大般若経を鳥羽まで運び、奈良の叡尊に届けていたのである。
3大将軍実朝が由比ガ浜での大船製造に失敗した逸話は有名であるが、唐船建造が失敗して実朝が宋に行けなかったのは、かつて小林秀雄や吉本隆明が説いたようにあの時期の政治的事情と混乱によるものであり、中国人技術者の援助を得て日本で作られた多くの唐船が日本海を渡って交易していたことのほうを重視するべきであろう。
「海は櫓櫂の続くまで」と人口に膾炙したように、中世は海の時代であり、海民社会の誕生なくして日本の中世社会は存在しないのである。
君は“空飛ぶチンポコ”を見たか?
シアターΧ・プロデュース公演 サラ・ケイン作「フェイドラの恋」を観る
降っても照っても第46回
連日連夜の熱帯夜の眠れない夜の明け方に、私は眼裏に右から左に飛翔する面妖なものを見たような気がした。寝ぼけ眼で今度は左から右へと飛び去るそいつをよーく見ると、それはかなりの重量感にあふれた陰茎であった……。
以下は→http://www.wonderlands.jp/
降っても照っても第46回
連日連夜の熱帯夜の眠れない夜の明け方に、私は眼裏に右から左に飛翔する面妖なものを見たような気がした。寝ぼけ眼で今度は左から右へと飛び去るそいつをよーく見ると、それはかなりの重量感にあふれた陰茎であった……。
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Saturday, September 01, 2007
07年8月亡羊歌集
♪ある晴れた日に その10
交わりのその頂きで轢死せるミンミン蝉を蟻共喰らう
麦藁帽脱ぎて初めて挨拶すそっぽ向きおりし住職とわれ
夏空の奥の奥まで舞い上がる雌雄の蝶の行方知らずも
わが下肢の股の隙より洩れ出ずる悪しき臭いよ真夏の午後よ
昼も夜もなめくじのごとくゆるやかに世界の果てまで歩ましめよ
躊躇なくゴキブリ殺せし我が足よではなにゆえにコオロギを踏まぬ
働いたってそんなにいいことなんかないぞでもまあ働くんだな君
満月の逗子の海にてはぜる火よ光は見えず音のみを聴く
ニイニイアブラミンミンカナカナ麦稈真田の夏は過ぎ行く
祈れども息子のことは仕方なし
残尿の朝まで続く残暑かな
ミンミンもカナカナも鳴く午前5時
♪ある晴れた日に その10
交わりのその頂きで轢死せるミンミン蝉を蟻共喰らう
麦藁帽脱ぎて初めて挨拶すそっぽ向きおりし住職とわれ
夏空の奥の奥まで舞い上がる雌雄の蝶の行方知らずも
わが下肢の股の隙より洩れ出ずる悪しき臭いよ真夏の午後よ
昼も夜もなめくじのごとくゆるやかに世界の果てまで歩ましめよ
躊躇なくゴキブリ殺せし我が足よではなにゆえにコオロギを踏まぬ
働いたってそんなにいいことなんかないぞでもまあ働くんだな君
満月の逗子の海にてはぜる火よ光は見えず音のみを聴く
ニイニイアブラミンミンカナカナ麦稈真田の夏は過ぎ行く
祈れども息子のことは仕方なし
残尿の朝まで続く残暑かな
ミンミンもカナカナも鳴く午前5時
Friday, August 31, 2007
ある丹波の老人の話(48)
第8話 思い出話3
それから昭和15年に上海に行ったときのことです。
私はホテルから外出しての帰り道、街の見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車が走っている大通りから外れてとある横道に入っていきました。
ちょうど夕刻で中国人たちはみんな軒下に集まってにぎやかに食事しているのをものめずらしく眺めながら歩いているうちに、どんどん日が暮れかけました。
そのうちに雨が降りはじめたものですから、元の電車道に引き返そうとしたんでしたが、どこをどう迷ったものか見たこともない河にぶつかってしまいました。
地図を見ても皆目見当がつかず、雨はますます激しくなります。中国人が食事をしている軒下は通れないし、ずぶぬれで街をあちこち歩きまわりました。
しゃあけんどどこをどう歩いても大通りにはでまへん。どの道を行っても川に行き当たるばかりです。道を尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもなりまへん。私はますますいちらだち、ますますあわてました。
ふと通り合わせた人力車夫に指を輪にして「お金はいくらでも出すから乗せてくれ」というつもりを身振り手まねで示して乗せてもらいました。幌があるから濡れないだけでも助かります。
それから昭和15年に上海に行ったときのことです。
私はホテルから外出しての帰り道、街の見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車が走っている大通りから外れてとある横道に入っていきました。
ちょうど夕刻で中国人たちはみんな軒下に集まってにぎやかに食事しているのをものめずらしく眺めながら歩いているうちに、どんどん日が暮れかけました。
そのうちに雨が降りはじめたものですから、元の電車道に引き返そうとしたんでしたが、どこをどう迷ったものか見たこともない河にぶつかってしまいました。
地図を見ても皆目見当がつかず、雨はますます激しくなります。中国人が食事をしている軒下は通れないし、ずぶぬれで街をあちこち歩きまわりました。
しゃあけんどどこをどう歩いても大通りにはでまへん。どの道を行っても川に行き当たるばかりです。道を尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもなりまへん。私はますますいちらだち、ますますあわてました。
ふと通り合わせた人力車夫に指を輪にして「お金はいくらでも出すから乗せてくれ」というつもりを身振り手まねで示して乗せてもらいました。幌があるから濡れないだけでも助かります。
Wednesday, August 29, 2007
ある丹波の老人の話(47)
第8話 思い出話2
米国からの帰路、私はシアトルから加賀丸という大きな船で北回りで帰る途中、猛烈な防風に遭いました。
どの船室にも水が浸入して乗客一同生きた心地もなく、食事どころの騒ぎではありまへん。
けれども私はこのときひたすらに神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず体もあまり丈夫ではないのに、ただ一人平気で食事も常と同じように摂ることができたんでした。
はしなくも私は、ガリラヤの海の難船でただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めたときに、「ああ、信仰薄きものよ」と哀れみ、たちどころに波風を鎮め給いし事跡を思い起こしました。
それとこれとを比べることも大それた話ではありますが、やはり私が神を信じたから、あれだけ祈ったからこそ、弱い私があれほどのしたたかさを示すことができたんだ。と、思わずにはおれませんでした。
米国からの帰路、私はシアトルから加賀丸という大きな船で北回りで帰る途中、猛烈な防風に遭いました。
どの船室にも水が浸入して乗客一同生きた心地もなく、食事どころの騒ぎではありまへん。
けれども私はこのときひたすらに神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず体もあまり丈夫ではないのに、ただ一人平気で食事も常と同じように摂ることができたんでした。
はしなくも私は、ガリラヤの海の難船でただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めたときに、「ああ、信仰薄きものよ」と哀れみ、たちどころに波風を鎮め給いし事跡を思い起こしました。
それとこれとを比べることも大それた話ではありますが、やはり私が神を信じたから、あれだけ祈ったからこそ、弱い私があれほどのしたたかさを示すことができたんだ。と、思わずにはおれませんでした。
Sunday, August 26, 2007
ある丹波の老人の話(46)
第8話 思い出話
1928年(昭和三年)、世界日曜学校大会に出席した私は、当時のアメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見物しました。
バークレー市のカリフォルニア大学では電子顕微鏡を見せてもらい、さらにはトーキーも実際に見ることができました。
その頃の日本にはまだトーキーはなく、動く写真、つまり活動写真しかなかったんです。これをつぶさに見物した私は、世の中にはまだ人間の智恵では計り知れない不思議があることを知りました。
そうして今まで聖書にある奇跡というものを信じることができなんだ私ですが、この電子の不可思議を目にしてマリアの懐胎も、5つのパンと2匹の魚とが5千人の空腹を満たしたこと、さらには水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエスなど数々の奇跡も必ずしもありえないことではないと信ずるようになったんでした。
それからウイルソン山上の天文台で世界最大の直径100インチの大望遠鏡で夜の木星を見せてもらった私は、今更ながら宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、いっそう敬虔の念を深くしたことでした。
1928年(昭和三年)、世界日曜学校大会に出席した私は、当時のアメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見物しました。
バークレー市のカリフォルニア大学では電子顕微鏡を見せてもらい、さらにはトーキーも実際に見ることができました。
その頃の日本にはまだトーキーはなく、動く写真、つまり活動写真しかなかったんです。これをつぶさに見物した私は、世の中にはまだ人間の智恵では計り知れない不思議があることを知りました。
そうして今まで聖書にある奇跡というものを信じることができなんだ私ですが、この電子の不可思議を目にしてマリアの懐胎も、5つのパンと2匹の魚とが5千人の空腹を満たしたこと、さらには水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエスなど数々の奇跡も必ずしもありえないことではないと信ずるようになったんでした。
それからウイルソン山上の天文台で世界最大の直径100インチの大望遠鏡で夜の木星を見せてもらった私は、今更ながら宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、いっそう敬虔の念を深くしたことでした。
Saturday, August 25, 2007
「夏の歌」
♪音楽千夜一夜第25回&遥かな昔、遠い所で第19回
毎日ロンドンのロイヤルアルバートホールから生中継されるプロムスを聴いている。
今年7月13日にビエロフラービック指揮BBC響のエルガーとウオルトンに始まった「プロムス07」の終焉は来月の8日。すでに会期の半ばを過ぎ、ようやく秋は近い。
これまで印象に残った演奏は、もラヌクルズの鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ、かつての手兵アムステルダム・コンセルトヘボウを見事にドライヴしたベルナルド・ハイテインクのブルックナーの8番、コーリンデービスとヨーロッパユースシンフォニーの演奏、アバド&ルツエルン祝祭管のマーラー、さらに現在世界でもっとも大きな話題を集めているギュスターボ・デュダメル指揮ベネズエラ・ユース・シンフォニーのショスタコ10番&バーンスタイン曲集などであった。
デュダメルはバレンボイムやムーティやアバドやマゼール、それに我が尊敬する吉田秀和氏などがこぞって褒め称えている新進気鋭の第三世界の音楽家である。その鬼神も避ける疾風怒涛の演奏はまことにエネルギッシュで、全身に爽快さがみなぎる体のものであるが、これは往年の小澤の音楽と同じスタイルであり、当初は斬新かつ革命的に耳朶を聾して先物買いが殺到するだろうが、遠からずして逼塞することでしょう。
先般FMで彼らのベートーヴェンやドボ9などを聴いたが、快速楽章の運転は得意とするものの、緩徐楽章の処理をもてあましていて、それが全体的な演奏効果を大きく妨げているように思われた。
むしろ私には職人肌オペラ指揮者ラニクルズが振ったワグナーの「ラインの黄金」のほうが楽しめた。これからまだゲルギエフなど数多くの実力者が登壇するので総合ランキング評価はまだ早すぎるが、これまでのプロムス全公演でベストの快演であった。
プロムスで思い出すのは英国人のときおり熱狂に傾く自然な愛国心の発露であるが、これがわが国や米国のそれとはひとあじ違った独特の風情があり、BBC響による英国国歌の奏楽と斉唱が終った後、満堂の聴衆が手をつなぎ、肩を組んで、自然発生的に例の「蛍の光」をアカペラで合唱するときのしみじみとした感興、そしてその音程の正しさと見事なアンサンブルにはいつも深い感銘を受ける。日本帝国の「君が代」ではこうはいかないだろう。
ところで、夏のイギリス音楽といえばいつも思い出す1本のテレビ映画がある。
ある夏の終わりにNHKが英国の作曲家フレデリック・ディーリアスの伝記ドラマ「夏の歌」を放映したことがあった。晩年梅毒が元で失明したディーリアスを、彼の妻と弟子のエリック・フェンビーがかいがいしく看護するが、その甲斐もなく孤独で我侭な作曲家は亡くなり、彼の死を悼むBBCの追悼番組が放送されるシーンで、このドラマも終る。
BBCのアナウンサーが、「わが国の20世紀を代表する最大の音楽家の死を悼み、彼の代表作をお届けします」と重々しく告げると、あの懐かしい「夏の歌」の管弦楽の序奏が低く奏され、2人は白いレースのカーテンに閉ざされたリビングルームでよよと泣きくづれるのである。
往時茫茫四十年。この夏のドラマを見た夏の日から長い歳月が徒に流れたが、私が死ぬまでにもう一度観たい唯一の番組が、名匠ケン・ラッセル演出のこの音楽ドラマである。
毎日ロンドンのロイヤルアルバートホールから生中継されるプロムスを聴いている。
今年7月13日にビエロフラービック指揮BBC響のエルガーとウオルトンに始まった「プロムス07」の終焉は来月の8日。すでに会期の半ばを過ぎ、ようやく秋は近い。
これまで印象に残った演奏は、もラヌクルズの鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ、かつての手兵アムステルダム・コンセルトヘボウを見事にドライヴしたベルナルド・ハイテインクのブルックナーの8番、コーリンデービスとヨーロッパユースシンフォニーの演奏、アバド&ルツエルン祝祭管のマーラー、さらに現在世界でもっとも大きな話題を集めているギュスターボ・デュダメル指揮ベネズエラ・ユース・シンフォニーのショスタコ10番&バーンスタイン曲集などであった。
デュダメルはバレンボイムやムーティやアバドやマゼール、それに我が尊敬する吉田秀和氏などがこぞって褒め称えている新進気鋭の第三世界の音楽家である。その鬼神も避ける疾風怒涛の演奏はまことにエネルギッシュで、全身に爽快さがみなぎる体のものであるが、これは往年の小澤の音楽と同じスタイルであり、当初は斬新かつ革命的に耳朶を聾して先物買いが殺到するだろうが、遠からずして逼塞することでしょう。
先般FMで彼らのベートーヴェンやドボ9などを聴いたが、快速楽章の運転は得意とするものの、緩徐楽章の処理をもてあましていて、それが全体的な演奏効果を大きく妨げているように思われた。
むしろ私には職人肌オペラ指揮者ラニクルズが振ったワグナーの「ラインの黄金」のほうが楽しめた。これからまだゲルギエフなど数多くの実力者が登壇するので総合ランキング評価はまだ早すぎるが、これまでのプロムス全公演でベストの快演であった。
プロムスで思い出すのは英国人のときおり熱狂に傾く自然な愛国心の発露であるが、これがわが国や米国のそれとはひとあじ違った独特の風情があり、BBC響による英国国歌の奏楽と斉唱が終った後、満堂の聴衆が手をつなぎ、肩を組んで、自然発生的に例の「蛍の光」をアカペラで合唱するときのしみじみとした感興、そしてその音程の正しさと見事なアンサンブルにはいつも深い感銘を受ける。日本帝国の「君が代」ではこうはいかないだろう。
ところで、夏のイギリス音楽といえばいつも思い出す1本のテレビ映画がある。
ある夏の終わりにNHKが英国の作曲家フレデリック・ディーリアスの伝記ドラマ「夏の歌」を放映したことがあった。晩年梅毒が元で失明したディーリアスを、彼の妻と弟子のエリック・フェンビーがかいがいしく看護するが、その甲斐もなく孤独で我侭な作曲家は亡くなり、彼の死を悼むBBCの追悼番組が放送されるシーンで、このドラマも終る。
BBCのアナウンサーが、「わが国の20世紀を代表する最大の音楽家の死を悼み、彼の代表作をお届けします」と重々しく告げると、あの懐かしい「夏の歌」の管弦楽の序奏が低く奏され、2人は白いレースのカーテンに閉ざされたリビングルームでよよと泣きくづれるのである。
往時茫茫四十年。この夏のドラマを見た夏の日から長い歳月が徒に流れたが、私が死ぬまでにもう一度観たい唯一の番組が、名匠ケン・ラッセル演出のこの音楽ドラマである。
Friday, August 24, 2007
ある丹波の老人の話(45)
第七話 ネクタイ製造最終回
ネクタイの生命は柄にあります。これで他店にヒケを取ってはならん、と私は京都高等工芸出の意匠図案係三人に欧米の流行を参考にするようにと指示して研究させました。
この頃、私は郡是でスンプという機械が発明されたという耳よりな情報に接しました。これは顕微鏡のプレパラートと同じようなものをきわめて簡単に、しかも即座に作れるというのです。
早速動植物の色々な部分を拡大して眺めてみますと、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠をそこから得ることができ、ネクタイの柄、模様、デザインの世界に一大新機軸を開くことができたんでした。
東洋ネクタイ製織所の活動は、戦前のわが国の産業飛躍に小粒ながらも貴重な役割を担ったと自負しておりますが、やがて日支事変となり、それが太平洋戦争に突入する頃には、洋服も廃れて国民服に変わり、ネクタイはぜいたく品としてさっぱり売れなくなってしまいました。
昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしもうたんで、東洋ネクタイ製織所はとうとう解散のやむなきにいたりました。
やがて敗戦となり、私は今度は趣を変えて、家内工業の小工場一〇余個所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、起業当初の原点に還り兄弟二人だけの会社にしました。そして前に述べたように弟の死後は長男がその後を継いで今日におよび、戦前ほどの華やかさはありまへんが、まずもって堅実な経営を続けております。
ネクタイの生命は柄にあります。これで他店にヒケを取ってはならん、と私は京都高等工芸出の意匠図案係三人に欧米の流行を参考にするようにと指示して研究させました。
この頃、私は郡是でスンプという機械が発明されたという耳よりな情報に接しました。これは顕微鏡のプレパラートと同じようなものをきわめて簡単に、しかも即座に作れるというのです。
早速動植物の色々な部分を拡大して眺めてみますと、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠をそこから得ることができ、ネクタイの柄、模様、デザインの世界に一大新機軸を開くことができたんでした。
東洋ネクタイ製織所の活動は、戦前のわが国の産業飛躍に小粒ながらも貴重な役割を担ったと自負しておりますが、やがて日支事変となり、それが太平洋戦争に突入する頃には、洋服も廃れて国民服に変わり、ネクタイはぜいたく品としてさっぱり売れなくなってしまいました。
昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしもうたんで、東洋ネクタイ製織所はとうとう解散のやむなきにいたりました。
やがて敗戦となり、私は今度は趣を変えて、家内工業の小工場一〇余個所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、起業当初の原点に還り兄弟二人だけの会社にしました。そして前に述べたように弟の死後は長男がその後を継いで今日におよび、戦前ほどの華やかさはありまへんが、まずもって堅実な経営を続けております。
Thursday, August 23, 2007
ある丹波の老人の話(44)
第七話 ネクタイ製造その5
まことに小林さんらしい、パリッとしたご挨拶でありました。
それから私の会社と阪急との間にお互い誠意を尽くした取引が始まりました。それは好いのですが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。その3人を私の店の売込み係に採用したいからとゆうて、また小林さんに頼むと、就職難時代ではあるし3人とも大喜びで来てくれました。
2人は慶応、もう1人は神戸商大の出身の優秀な青年で、とてもよく働いてくれました。
まもなく阪急のネクタイは安くて品質がいい、という評判が立つようになり、私の会社の製品は他社の製品を圧倒して飛ぶように売れるようになりますと、早くも大丸が2度目の注文を寄越しました。
それから髙島屋、三越、そごう、丸物に納品し、東京では綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)その他岡山、広島の大きな百貨店とも取引し、多くはその店の株も持たされて相互の親善関係を結びました。
製品はドンドン売れ、店は繁盛しました。そこで私は一歩を進めて輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込みましたが、これは実際は上海で米国製品に化けて売られたもので、あまり名誉なことではありまへんでした。
まことに小林さんらしい、パリッとしたご挨拶でありました。
それから私の会社と阪急との間にお互い誠意を尽くした取引が始まりました。それは好いのですが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。その3人を私の店の売込み係に採用したいからとゆうて、また小林さんに頼むと、就職難時代ではあるし3人とも大喜びで来てくれました。
2人は慶応、もう1人は神戸商大の出身の優秀な青年で、とてもよく働いてくれました。
まもなく阪急のネクタイは安くて品質がいい、という評判が立つようになり、私の会社の製品は他社の製品を圧倒して飛ぶように売れるようになりますと、早くも大丸が2度目の注文を寄越しました。
それから髙島屋、三越、そごう、丸物に納品し、東京では綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)その他岡山、広島の大きな百貨店とも取引し、多くはその店の株も持たされて相互の親善関係を結びました。
製品はドンドン売れ、店は繁盛しました。そこで私は一歩を進めて輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込みましたが、これは実際は上海で米国製品に化けて売られたもので、あまり名誉なことではありまへんでした。
Wednesday, August 22, 2007
網野善彦著作集第15巻「列島社会の多様性」を読む
降っても照っても第45回
本巻収録の論文「境界領域と国家」において、著者は公=パブリックなものを、境界的な場、人、物=「公界」的なものと公家、公方、公儀など国家の公的権力につながるものとに峻別しようとしている。
欧州でも、神仏あるいは聖なる世界(大宇宙)と人間あるいは俗界(小宇宙)との狭間で重要な役割を果たしていた“境界的な人々”が存在していたが、キリスト教の浸透がそのアジールを奪い去った。同様に日本の社会でも室町時代以降、「公界」は「公儀」によって暴力的に吸収されていったわけだが、この2分法は21世紀のいまも有効であると、私には思われる。
本巻の目玉は少し執筆年代は古くなるが、当初予定されていた宮本常一に代わって著者によって書かれた「東と西の語る日本の歴史」であろう。
著者はこの規模雄大で雄渾な論文のなかで旧石器、縄文時代から現代におよぶ長い時間にわたって列島に鋭い亀裂を生じさせてきた列島東西の諸民族と国家(東国と西国政権、アイヌ、琉球、蝦夷、隼人などを含む)の社会的、考古学的、歴史的、地勢的、政治的、経済的断層を個別具体的に検討していく。
考古学的にはすでに3万年前の旧石器時代から東西石器の形状は異なり、民俗学的には宮本常一などが明らかにしたように、東は“家父長的なイエ中心の縦型父性社会”であり、西は個々のイエの婚姻によって結ばれた“ムラ中心の母性系横型社会”である。
また縄文時代の列島の東西は植生が異なり、ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林の広がる豊穣な東日本とシイ・カシを軸とする照葉樹林が広がる貧を代表する通商的・軍事的特性であったことも歴史的な事実である。
このような東西格差と地域の特殊性は、古代から現代まで数多くの政治的対決の淵源となってきた。
蝦夷の跳梁をはじめ9世紀から東西の抗争は激化し、10世紀の中頃には大和政権に反逆する平将門や藤原純友の乱が起こり、これを嚆矢とする「あずまみちのく」の自立を目指す安倍、清原、奥州藤原一族の叛乱へと続き、“西国国家”平家を打倒した源氏は、わが国最初の東国武家政権を鎌倉に確立した。
その後幾多の東西対決を繰り返しながら、最終的に関が原の合戦に勝利した徳川家康が東国政権による全国統一を果たしたが、いまなお列島深奥部には双方の対立要素が潜在し、それは欧州ならば優に複数の民族国家を構成するに足る亀裂であると著者は断言する。
すなわち、旧石器時代から平成の御世まで、“単一民族による単一国家”大日本帝国などほんの一瞬間も存在しなかったのである。
本巻収録の論文「境界領域と国家」において、著者は公=パブリックなものを、境界的な場、人、物=「公界」的なものと公家、公方、公儀など国家の公的権力につながるものとに峻別しようとしている。
欧州でも、神仏あるいは聖なる世界(大宇宙)と人間あるいは俗界(小宇宙)との狭間で重要な役割を果たしていた“境界的な人々”が存在していたが、キリスト教の浸透がそのアジールを奪い去った。同様に日本の社会でも室町時代以降、「公界」は「公儀」によって暴力的に吸収されていったわけだが、この2分法は21世紀のいまも有効であると、私には思われる。
本巻の目玉は少し執筆年代は古くなるが、当初予定されていた宮本常一に代わって著者によって書かれた「東と西の語る日本の歴史」であろう。
著者はこの規模雄大で雄渾な論文のなかで旧石器、縄文時代から現代におよぶ長い時間にわたって列島に鋭い亀裂を生じさせてきた列島東西の諸民族と国家(東国と西国政権、アイヌ、琉球、蝦夷、隼人などを含む)の社会的、考古学的、歴史的、地勢的、政治的、経済的断層を個別具体的に検討していく。
考古学的にはすでに3万年前の旧石器時代から東西石器の形状は異なり、民俗学的には宮本常一などが明らかにしたように、東は“家父長的なイエ中心の縦型父性社会”であり、西は個々のイエの婚姻によって結ばれた“ムラ中心の母性系横型社会”である。
また縄文時代の列島の東西は植生が異なり、ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林の広がる豊穣な東日本とシイ・カシを軸とする照葉樹林が広がる貧を代表する通商的・軍事的特性であったことも歴史的な事実である。
このような東西格差と地域の特殊性は、古代から現代まで数多くの政治的対決の淵源となってきた。
蝦夷の跳梁をはじめ9世紀から東西の抗争は激化し、10世紀の中頃には大和政権に反逆する平将門や藤原純友の乱が起こり、これを嚆矢とする「あずまみちのく」の自立を目指す安倍、清原、奥州藤原一族の叛乱へと続き、“西国国家”平家を打倒した源氏は、わが国最初の東国武家政権を鎌倉に確立した。
その後幾多の東西対決を繰り返しながら、最終的に関が原の合戦に勝利した徳川家康が東国政権による全国統一を果たしたが、いまなお列島深奥部には双方の対立要素が潜在し、それは欧州ならば優に複数の民族国家を構成するに足る亀裂であると著者は断言する。
すなわち、旧石器時代から平成の御世まで、“単一民族による単一国家”大日本帝国などほんの一瞬間も存在しなかったのである。
Tuesday, August 21, 2007
ある丹波の老人の話(43)
第七話 ネクタイ製造その4
小林社長は、商品を担当者にも見せ、一応は商品の優秀性を認めてはくれたんですが、値段があまるにも安いのを不思議がり、しきりに小首を傾けるのです。
そこで私は、それは私の店では他店の如く仕入れ係への高い運動料を含まない分だけ安いのである、ということを社主クリストの精神から説いて大いに小林氏を煙に巻いたんでした。
小林さんは「よく研究して返事する」ということでしたが、私は確かな手ごたえを感じておりました。
果たしてそれから数日経つと小林さんがただひとり、私の豆のような店を探すのに一時間もかかったといいながら自動車で来訪され、
「いかにもあなたの言われるとおり開店間もない私の店の仕入れ係もワイロを取っておった。そこで今後のみせしめのため、その3人の仕入れ係をかわいそうだが解雇しました。それからこれから私の店ではあなたの会社のネクタイを主として販売することにしたから、せいぜい勉強して納入してください」
とおっしゃいました。
小林社長は、商品を担当者にも見せ、一応は商品の優秀性を認めてはくれたんですが、値段があまるにも安いのを不思議がり、しきりに小首を傾けるのです。
そこで私は、それは私の店では他店の如く仕入れ係への高い運動料を含まない分だけ安いのである、ということを社主クリストの精神から説いて大いに小林氏を煙に巻いたんでした。
小林さんは「よく研究して返事する」ということでしたが、私は確かな手ごたえを感じておりました。
果たしてそれから数日経つと小林さんがただひとり、私の豆のような店を探すのに一時間もかかったといいながら自動車で来訪され、
「いかにもあなたの言われるとおり開店間もない私の店の仕入れ係もワイロを取っておった。そこで今後のみせしめのため、その3人の仕入れ係をかわいそうだが解雇しました。それからこれから私の店ではあなたの会社のネクタイを主として販売することにしたから、せいぜい勉強して納入してください」
とおっしゃいました。
Monday, August 20, 2007
ある丹波の老人の話(42)
第七話 ネクタイ製造その3
私が設立した東洋ネクタイ製織所は、波多野鶴吉翁が郡是を経営した精神に学び、次のような願いを定めました。
吾等の念願
1 イエスキリストを当社の社主と奉戴して日々その聖旨に従い、之を忠実に行はんことを期す。
2 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以って凡ての事を為さんことを期す。
3 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙遜を以って修養し自己品性の向上を計る為最善の努力を為さんことを期す。
4 常に考え、常に学び、常に励み而して常に何物かを創造せんと勉むることを期す。
5 目的達成の為信仰を養い終りまで耐え忍ぶ者は救わるべしとの信念を以って前進せんことを期す。
株式会社 東洋ネクタイ製織所
そうして私は、ひとえに神の御旨に叶う工場であることを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けながら、我々のささやかな営みが主の栄光を顕す一端になることを祈りつつ前進したんでした。
私が設立した東洋ネクタイ製織所は、波多野鶴吉翁が郡是を経営した精神に学び、次のような願いを定めました。
吾等の念願
1 イエスキリストを当社の社主と奉戴して日々その聖旨に従い、之を忠実に行はんことを期す。
2 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以って凡ての事を為さんことを期す。
3 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙遜を以って修養し自己品性の向上を計る為最善の努力を為さんことを期す。
4 常に考え、常に学び、常に励み而して常に何物かを創造せんと勉むることを期す。
5 目的達成の為信仰を養い終りまで耐え忍ぶ者は救わるべしとの信念を以って前進せんことを期す。
株式会社 東洋ネクタイ製織所
そうして私は、ひとえに神の御旨に叶う工場であることを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けながら、我々のささやかな営みが主の栄光を顕す一端になることを祈りつつ前進したんでした。
Sunday, August 19, 2007
ある丹波の老人の話(41)
第七話 ネクタイ製造その2
さて米国から帰国して早速熱心に郡是に靴下製造を勧めてみたんですが、遠藤社長、片山専務はあくまでも製糸一本槍を主張し、私のいうことなどにはてんで耳を貸しまへん。
ただしかし、たった一人取締役の平野吉左衛門氏だけは、あの温厚な人柄の氏には珍しく非常な熱意を示して私の主張に耳を傾け、その後も私にたびたび意見を求められました。
そして昭和四年、ついに平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として塚口に設立されたんでした。この会社は一時期試練の苦悩を経験しましたが、現在では親会社の製糸を抜いて全郡是を背負って立とうとする勢いを見せております。
一方ネクタイの方ですが、これは前にお話したように私が米国から帰ると間もなく父が亡くなり、このとき都会の生活に敗れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同でネクタイ製造に取り組むことにしました。
その頃、アメリカでも日本でも編みネクタイが流行しておりました。これはしごく簡単な設備で生産できますから、少額の自己資本だけで大阪都島に小さな工場を設けて創業し、その後2,3の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡大し、しばらくするとだいぶ業容が安定してきたので、昭和10年に資本金20万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を設立しました。
本社は大阪におき、京都西陣にネクタイ織物工場を新築し、加工工場を東京、大阪に設け、原糸の提供を郡是に仰ぎ、染織を京都の一流工場に委託して厳密なる製品検査を行うことにしました。ネクタイ工場は織から縫製までを一貫する当時の最新システムを備えた他社に遜色のない超一流クラスで、鋭意優良製品の生産に努めたもんでした。
さて米国から帰国して早速熱心に郡是に靴下製造を勧めてみたんですが、遠藤社長、片山専務はあくまでも製糸一本槍を主張し、私のいうことなどにはてんで耳を貸しまへん。
ただしかし、たった一人取締役の平野吉左衛門氏だけは、あの温厚な人柄の氏には珍しく非常な熱意を示して私の主張に耳を傾け、その後も私にたびたび意見を求められました。
そして昭和四年、ついに平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として塚口に設立されたんでした。この会社は一時期試練の苦悩を経験しましたが、現在では親会社の製糸を抜いて全郡是を背負って立とうとする勢いを見せております。
一方ネクタイの方ですが、これは前にお話したように私が米国から帰ると間もなく父が亡くなり、このとき都会の生活に敗れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同でネクタイ製造に取り組むことにしました。
その頃、アメリカでも日本でも編みネクタイが流行しておりました。これはしごく簡単な設備で生産できますから、少額の自己資本だけで大阪都島に小さな工場を設けて創業し、その後2,3の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡大し、しばらくするとだいぶ業容が安定してきたので、昭和10年に資本金20万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を設立しました。
本社は大阪におき、京都西陣にネクタイ織物工場を新築し、加工工場を東京、大阪に設け、原糸の提供を郡是に仰ぎ、染織を京都の一流工場に委託して厳密なる製品検査を行うことにしました。ネクタイ工場は織から縫製までを一貫する当時の最新システムを備えた他社に遜色のない超一流クラスで、鋭意優良製品の生産に努めたもんでした。
Saturday, August 18, 2007
ある丹波の老人の話(40)
第七話 ネクタイ製造
昭和3年、世界日曜学校大会が米国ロスアンゼルスで開かれたとき、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表メンバーの中に選ばれて渡米しました。
そのとき私は、日本の主要輸出品である生糸の消費状況に特に注意を払うて視察を行いました。
米国滞在中はしばしば信者の家庭に泊めてもろうたのですが、どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、2,30本のネクタイが掛かっておる。また、婦人の部屋には靴下掛があって10数足の靴下が掛かっているのを知りました。
この米国で需要の多いネクタイと靴下はもちろん米国でも盛んに作られておるが、まだまだ輸入の余地がありそうである。さらにわが国の洋服着用者は年々増加しておりますから、今後自国の需要も増えてくるでしょう。
いま日本は大量の生糸のほとんど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をネクタイ、靴下の製造に振り向け、内外の需要に応じたらどうだろう、
と私は考えたのでした。ネクタイなら小資本でもやれるから、これをひとつ自分でやってみよう。そして靴下は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみよう、と思ったんでした。
昭和3年、世界日曜学校大会が米国ロスアンゼルスで開かれたとき、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表メンバーの中に選ばれて渡米しました。
そのとき私は、日本の主要輸出品である生糸の消費状況に特に注意を払うて視察を行いました。
米国滞在中はしばしば信者の家庭に泊めてもろうたのですが、どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、2,30本のネクタイが掛かっておる。また、婦人の部屋には靴下掛があって10数足の靴下が掛かっているのを知りました。
この米国で需要の多いネクタイと靴下はもちろん米国でも盛んに作られておるが、まだまだ輸入の余地がありそうである。さらにわが国の洋服着用者は年々増加しておりますから、今後自国の需要も増えてくるでしょう。
いま日本は大量の生糸のほとんど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をネクタイ、靴下の製造に振り向け、内外の需要に応じたらどうだろう、
と私は考えたのでした。ネクタイなら小資本でもやれるから、これをひとつ自分でやってみよう。そして靴下は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみよう、と思ったんでした。
Friday, August 17, 2007
弟の死
ある丹波の老人の話(39)
その時弟は、死んだ妻の事を
「実に良い姉さんやった」
と褒め、
「私が酒を止めたあと、この兄さんの家へ来て泊まるとき、姉さんはいつも土瓶の中へお茶とみせかけて酒を入れ、私の枕元に置いて飲ませてくださったもんでした」
と白状しました。
それから弟は、
「私はほんとはキリスト教に入れてもらいたかったんやけど、私のような者はとても入れてもらえんと思って今まで黙っておりました。兄さんはきっと長生きされると思うが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでもキリスト教でしてもらえんやろか」
と言いましたので、私は、
「そのお前の心がすでに神に通じておるんやから、葬式など訳もないことや」
と答えたんでしたが、昭和28年の5月7日に脳溢血で亡くなり、葬式は遺志の通りに京都紫野教会で山崎亨牧師の施式によって執り行われたんでした。
遺児は男二人、女一人でいずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くも父の業を継いでおりました。そうして私の弟は、後顧の憂いなく安らかに眠ったんでした。
神の御恩寵は私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かでした。感謝の至りであります。 (第6話弟の更正 終)
その時弟は、死んだ妻の事を
「実に良い姉さんやった」
と褒め、
「私が酒を止めたあと、この兄さんの家へ来て泊まるとき、姉さんはいつも土瓶の中へお茶とみせかけて酒を入れ、私の枕元に置いて飲ませてくださったもんでした」
と白状しました。
それから弟は、
「私はほんとはキリスト教に入れてもらいたかったんやけど、私のような者はとても入れてもらえんと思って今まで黙っておりました。兄さんはきっと長生きされると思うが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでもキリスト教でしてもらえんやろか」
と言いましたので、私は、
「そのお前の心がすでに神に通じておるんやから、葬式など訳もないことや」
と答えたんでしたが、昭和28年の5月7日に脳溢血で亡くなり、葬式は遺志の通りに京都紫野教会で山崎亨牧師の施式によって執り行われたんでした。
遺児は男二人、女一人でいずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くも父の業を継いでおりました。そうして私の弟は、後顧の憂いなく安らかに眠ったんでした。
神の御恩寵は私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かでした。感謝の至りであります。 (第6話弟の更正 終)
Thursday, August 16, 2007
ある丹波の老人の話(38)
第6話弟の更正 第6回
お互いに心の奥底まで打ち明けて兄弟の溝はすっかり取れました。
私たちは、弟が京都へ奉公に行ったときのことなどを思い出して、神の前に幼子となり、兄弟力を合わせて一仕事やろうと誓い合ったんでした。
そして弟は、私の希望を容れて酒も煙草も断って更生することを誓ったんでした。
薄志弱行、放蕩無頼の弟も永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して私との共同事業に粉骨砕身し、持ち前の商売上手と過去の経験を生かしてよく私を助け、守りたててくれました。
昭和27年の12月、私の家に弟がやって来たとき、私は鯛尽くめのご馳走をつくり、絶対買ったことのない上等の酒を買い求め、私が手ずから温めて、
「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり飲んでいってくれ」
と弟に勧めると、弟は、
「兄さん、私はこんなにうまい酒を飲んだことはない」
といって喜びましたが、血圧が高いからといって皆までは飲みませんでした。
お互いに心の奥底まで打ち明けて兄弟の溝はすっかり取れました。
私たちは、弟が京都へ奉公に行ったときのことなどを思い出して、神の前に幼子となり、兄弟力を合わせて一仕事やろうと誓い合ったんでした。
そして弟は、私の希望を容れて酒も煙草も断って更生することを誓ったんでした。
薄志弱行、放蕩無頼の弟も永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して私との共同事業に粉骨砕身し、持ち前の商売上手と過去の経験を生かしてよく私を助け、守りたててくれました。
昭和27年の12月、私の家に弟がやって来たとき、私は鯛尽くめのご馳走をつくり、絶対買ったことのない上等の酒を買い求め、私が手ずから温めて、
「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり飲んでいってくれ」
と弟に勧めると、弟は、
「兄さん、私はこんなにうまい酒を飲んだことはない」
といって喜びましたが、血圧が高いからといって皆までは飲みませんでした。
Wednesday, August 15, 2007
ある丹波の老人の話(37)
第6話弟の更正 第5回
さて色々と周りに迷惑を掛けてきた私のこの弟でしたが、私はこの際、父の形見という意味で3,4千円の金をやって、好きなところへ行って好きな仕事をさせようと思いました。
本音をいいますと、この道楽者とは後難のないようきっぱり縁を切りたかったんです。ほんでもってこのことを「今日は言おう、明日は言おう」と機会を狙っておった訳でした。
しゃあけんど、基督教入信以来すでに十余年、自分の弟に対してこんな仕打ちをすることは全然肉親の愛情に欠けた神の御旨に背くことでありました。
私はかつて本間俊平氏から聞いた話を卒然として思い出しました。
氏は凶悪な強盗犯で釈放された男を自分が経営する大理石工場の金庫番にして更生させたのです。
私はこの話を思い出し、ただおのれの安きを求めて弟を疎んずることをせず、「すくわるるもほろぶるもいっさい弟とともに」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから改めて弟に
「まことにお前には申し訳ないことだった」
と手を突いて謝りました。
すると弟はオイオイと泣き出して、
「兄さん、なにをいうや。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうかその手を上げてください。みな私が悪かったんです…」
と気狂いのようになって言うのでした。
さて色々と周りに迷惑を掛けてきた私のこの弟でしたが、私はこの際、父の形見という意味で3,4千円の金をやって、好きなところへ行って好きな仕事をさせようと思いました。
本音をいいますと、この道楽者とは後難のないようきっぱり縁を切りたかったんです。ほんでもってこのことを「今日は言おう、明日は言おう」と機会を狙っておった訳でした。
しゃあけんど、基督教入信以来すでに十余年、自分の弟に対してこんな仕打ちをすることは全然肉親の愛情に欠けた神の御旨に背くことでありました。
私はかつて本間俊平氏から聞いた話を卒然として思い出しました。
氏は凶悪な強盗犯で釈放された男を自分が経営する大理石工場の金庫番にして更生させたのです。
私はこの話を思い出し、ただおのれの安きを求めて弟を疎んずることをせず、「すくわるるもほろぶるもいっさい弟とともに」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから改めて弟に
「まことにお前には申し訳ないことだった」
と手を突いて謝りました。
すると弟はオイオイと泣き出して、
「兄さん、なにをいうや。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうかその手を上げてください。みな私が悪かったんです…」
と気狂いのようになって言うのでした。
Tuesday, August 14, 2007
♪バガテルop26
戦後62年。色々な問題が山積しているにもかかわらず、我々が他国との戦争に巻き込まれずにすみ、こうして表面は平和な日常を享受していることは、それ自体が奇跡的であり素晴らしいことである。
それにしても今日は終戦記念日ではなく、敗戦記念日である。
戦争は天変地異や台風ではない。わが臣民は過ぐる大戦に無関心をよそおったのではなく、一億火の玉となって積極的にアンガージュしたのだ。
物事の順序からいえば、中国や欧米諸国がまずわが帝国の領土を侵略したのではなく、われわれ日本人が天皇も官民も一体となって主体的・意図的に自己責任で他国を侵略して大きな惨禍を与えたのである。
わが国が勝手に他国に殴り込みをかけ、植民地をつくり、自国民を送り込み、その安全が危殆に瀕すると、自衛という口実のもとで軍隊を送り込み、さらに戦争を拡大していったのだ。その責任はわが臣民自身がきちんと取るべきであった。
国家の本質は市民の幻想であり、国家よりも大切なのは市民の自由意志なので、国家は市民のコンビニエンスのために奉仕しなければならない。美しい國などは無用の長物で、大論・巨論・虚論を販売しない安直近な小さなコンビニ国家こそが、われら臣民の理想なのである。
天下国家商品を販売することは国家の勝手であるが、それ自体が論理矛盾なので、これは憲法ブランドといえども例外ではない。現に私たちは憲法なぞ読んだこともなく、毎日平気で破っているではないか。
国家が唱える「公」は常に形骸化されている。むしろ今を生きる私たちにとっての「公」の実存(在り様)が大事であろう。
それにしてもわれわれは身の程も知らずに世界を相手に大戦争を戦い、2000万人の存在を与え、300万人の損害を受けた。その畏れ多さを反省するためには62年はまだまだ短すぎる。このまま謙虚な姿勢でなお100年河清を待つべし。
そのうちに世界も、頼みの人間界も滅びるだろう。
それにしても今日は終戦記念日ではなく、敗戦記念日である。
戦争は天変地異や台風ではない。わが臣民は過ぐる大戦に無関心をよそおったのではなく、一億火の玉となって積極的にアンガージュしたのだ。
物事の順序からいえば、中国や欧米諸国がまずわが帝国の領土を侵略したのではなく、われわれ日本人が天皇も官民も一体となって主体的・意図的に自己責任で他国を侵略して大きな惨禍を与えたのである。
わが国が勝手に他国に殴り込みをかけ、植民地をつくり、自国民を送り込み、その安全が危殆に瀕すると、自衛という口実のもとで軍隊を送り込み、さらに戦争を拡大していったのだ。その責任はわが臣民自身がきちんと取るべきであった。
国家の本質は市民の幻想であり、国家よりも大切なのは市民の自由意志なので、国家は市民のコンビニエンスのために奉仕しなければならない。美しい國などは無用の長物で、大論・巨論・虚論を販売しない安直近な小さなコンビニ国家こそが、われら臣民の理想なのである。
天下国家商品を販売することは国家の勝手であるが、それ自体が論理矛盾なので、これは憲法ブランドといえども例外ではない。現に私たちは憲法なぞ読んだこともなく、毎日平気で破っているではないか。
国家が唱える「公」は常に形骸化されている。むしろ今を生きる私たちにとっての「公」の実存(在り様)が大事であろう。
それにしてもわれわれは身の程も知らずに世界を相手に大戦争を戦い、2000万人の存在を与え、300万人の損害を受けた。その畏れ多さを反省するためには62年はまだまだ短すぎる。このまま謙虚な姿勢でなお100年河清を待つべし。
そのうちに世界も、頼みの人間界も滅びるだろう。
Monday, August 13, 2007
アア伝統の松竹映画市川昆監督の「映画俳優」を観る
降っても照っても第44回
午後からはまたしても紺碧海岸に遊泳し、夕べには古式豊かに御霊の迎え火を執り行ったのであるが、夜寝かれぬままに新藤兼人原作、市川昆監督、吉永小百合主演の「映画俳優」という映画を観るともなく見ていて、成程これは名優田中絹代と溝口健二監督を題材にしたお話であるかと分かったけれど、永遠の大根役者である吉永小百合や溝口を演じるガッツ菅原文太や脇役の森光子、石坂浩二、渡辺徹などが陸続と登場して松竹と日本映画の黄金時代のなつかしき思い出を川の流れのようにとうとうと描き流すその手法はさながら蒲田時代を扱った山田洋次の「キネマの天地」を再現するようなクソリアリズムの再現であり、そういえばこの映画にも生真面目な中井貴一が出演しており、一般的に生真面目が悪いというのではないけれど、日本映画の大道がいぜんとして事実を事実としてありのままに描くことであり、映画製作のありようと観衆への感興伝達の手法としてはそれしかないと頭から決め込んでしまうやり口、猫の本質を描くには猫を映し出しさえsればよいとする手法にはは最初から限界があって、そのことは本作で最後に取り上げられている溝口の「西鶴一代女」の感動的なシーンの再現においても変わることがなく、しかしそこはそれさすがに才人市川昆だけにワンカット、ワンカットの緊張に富んだ日本的「間」を演出することに力を尽くし、最後の最後の突然のカットアウトにおいて全編のクソリアリズムが一種の象徴に化すという離れ業を試み、在来の凡庸なる邦画監督とは鋭い一線を画して只者にあらざる片鱗を示したが時既に遅く、田中vs溝口の男と女のドラマツルギーのつばぜり合いの愛欲と争闘の本質にはたったの一指も触れることなく全編は唐突に終了したのであった。
午後からはまたしても紺碧海岸に遊泳し、夕べには古式豊かに御霊の迎え火を執り行ったのであるが、夜寝かれぬままに新藤兼人原作、市川昆監督、吉永小百合主演の「映画俳優」という映画を観るともなく見ていて、成程これは名優田中絹代と溝口健二監督を題材にしたお話であるかと分かったけれど、永遠の大根役者である吉永小百合や溝口を演じるガッツ菅原文太や脇役の森光子、石坂浩二、渡辺徹などが陸続と登場して松竹と日本映画の黄金時代のなつかしき思い出を川の流れのようにとうとうと描き流すその手法はさながら蒲田時代を扱った山田洋次の「キネマの天地」を再現するようなクソリアリズムの再現であり、そういえばこの映画にも生真面目な中井貴一が出演しており、一般的に生真面目が悪いというのではないけれど、日本映画の大道がいぜんとして事実を事実としてありのままに描くことであり、映画製作のありようと観衆への感興伝達の手法としてはそれしかないと頭から決め込んでしまうやり口、猫の本質を描くには猫を映し出しさえsればよいとする手法にはは最初から限界があって、そのことは本作で最後に取り上げられている溝口の「西鶴一代女」の感動的なシーンの再現においても変わることがなく、しかしそこはそれさすがに才人市川昆だけにワンカット、ワンカットの緊張に富んだ日本的「間」を演出することに力を尽くし、最後の最後の突然のカットアウトにおいて全編のクソリアリズムが一種の象徴に化すという離れ業を試み、在来の凡庸なる邦画監督とは鋭い一線を画して只者にあらざる片鱗を示したが時既に遅く、田中vs溝口の男と女のドラマツルギーのつばぜり合いの愛欲と争闘の本質にはたったの一指も触れることなく全編は唐突に終了したのであった。
Sunday, August 12, 2007
カトリック雪ノ下教会
鎌倉ちょっと不思議な物語71回
私の家はキリスト教の新教、いわゆるプロテスタントであった。幼い頃はまじめに日曜学校に通って、ルター以来のピューリタンでストイックな精神に多少の影響を受けたと思う。
そのピューリタンでストイックなところは教会の簡素な造作に現れており、やたら装飾的なカトリックと違って祭壇のしつらえが簡素である点を私なりに評価していた。カトリックの礼拝に出たことはないが、女性がヴェールをかぶったり、キリストの母親を聖母マリアと称してむやみに崇め奉ることに対する抵抗はいまでもある。
生母を聖母と聖別するのは勝手だが、私は処女だのに懐胎した妻に対する自他の疑惑や不審の念にじっと耐え、キリストの生誕を男らしく受け止めた父ヨセフのほうによっぽど共感でしたし、いまもそうである。
などと、結局は無神論者の私が、神をも恐れぬ暴言を吐いてしまったが、このカトリック雪ノ下教会は1958年(昭和33年)に「絶えざるお助けの聖母」を記念して建造された鎌倉最大の教会である。
そして聖堂外側正面の壁画は、この聖母のモザイク画をフューチャーしているのだが、この金色の装飾が私にはなぜかサラセン(イスラム)風に見えてしまうのであった。
この教会の突き当りの左側には、桃山・江戸初期の鎌倉の殉教者を悼む展示がある。いつか紹介する機会があるかもしれないが北鎌倉の光照寺は時宗遊行寺派の寺であるが、山門の欄間には隠れキリシタンゆかりのクルス紋が掲げてある。
おそらくこの光照寺や極楽寺に潜んでいた初期基督者たちが摘発され極刑に処せられたのであろう。
私はこの恐ろしい拷問の図を眺めながら、到底信仰者にはなれないと改めて悟ったのであった。
私の家はキリスト教の新教、いわゆるプロテスタントであった。幼い頃はまじめに日曜学校に通って、ルター以来のピューリタンでストイックな精神に多少の影響を受けたと思う。
そのピューリタンでストイックなところは教会の簡素な造作に現れており、やたら装飾的なカトリックと違って祭壇のしつらえが簡素である点を私なりに評価していた。カトリックの礼拝に出たことはないが、女性がヴェールをかぶったり、キリストの母親を聖母マリアと称してむやみに崇め奉ることに対する抵抗はいまでもある。
生母を聖母と聖別するのは勝手だが、私は処女だのに懐胎した妻に対する自他の疑惑や不審の念にじっと耐え、キリストの生誕を男らしく受け止めた父ヨセフのほうによっぽど共感でしたし、いまもそうである。
などと、結局は無神論者の私が、神をも恐れぬ暴言を吐いてしまったが、このカトリック雪ノ下教会は1958年(昭和33年)に「絶えざるお助けの聖母」を記念して建造された鎌倉最大の教会である。
そして聖堂外側正面の壁画は、この聖母のモザイク画をフューチャーしているのだが、この金色の装飾が私にはなぜかサラセン(イスラム)風に見えてしまうのであった。
この教会の突き当りの左側には、桃山・江戸初期の鎌倉の殉教者を悼む展示がある。いつか紹介する機会があるかもしれないが北鎌倉の光照寺は時宗遊行寺派の寺であるが、山門の欄間には隠れキリシタンゆかりのクルス紋が掲げてある。
おそらくこの光照寺や極楽寺に潜んでいた初期基督者たちが摘発され極刑に処せられたのであろう。
私はこの恐ろしい拷問の図を眺めながら、到底信仰者にはなれないと改めて悟ったのであった。
Saturday, August 11, 2007
旧安保小児科医院
鎌倉ちょっと不思議な物語70回
鎌倉には景観重要建築物が28箇所あるが、そのひとつが平成7年まで小児科病院だったこの建物である。
この病院は夏目漱石が亡くなった翌年の1917年(大正6年)に小町で開業したが、関東大震災で倒壊し、この四つ角の地で再建された。御成通りのシンボル的な存在である。
この建物の特徴は3方に設けられた切妻屋根とハーフテンバー様式の壁である。
建物内部は開業当時の医院の姿がそのまま残っており、特に天井のウサギとニンジン、診察室の鶴の漆喰細工は子供の患者に対する医師の優しい心根をあらわしているようだ。
ちなみに御成町、御成通りという名前は1899年(明治32年)に明治天皇が皇女のために建てたご用邸に由来している。天皇や皇族が御成りになったことから「御成町」の町名がつき、商店街も「御成通り商店街」と呼ばれるようになった。
以上、大半を鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料から引用しました。
鎌倉には景観重要建築物が28箇所あるが、そのひとつが平成7年まで小児科病院だったこの建物である。
この病院は夏目漱石が亡くなった翌年の1917年(大正6年)に小町で開業したが、関東大震災で倒壊し、この四つ角の地で再建された。御成通りのシンボル的な存在である。
この建物の特徴は3方に設けられた切妻屋根とハーフテンバー様式の壁である。
建物内部は開業当時の医院の姿がそのまま残っており、特に天井のウサギとニンジン、診察室の鶴の漆喰細工は子供の患者に対する医師の優しい心根をあらわしているようだ。
ちなみに御成町、御成通りという名前は1899年(明治32年)に明治天皇が皇女のために建てたご用邸に由来している。天皇や皇族が御成りになったことから「御成町」の町名がつき、商店街も「御成通り商店街」と呼ばれるようになった。
以上、大半を鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料から引用しました。
Friday, August 10, 2007
花火と海水浴
花火と海水浴
♪バガテルop25
昨日は恒例の鎌倉花火大会だった。車で駅前まで送ってもらい長男と裁判所前の低い塀に腰掛けてしばらく見物してから豊嶋屋の前の臨時バス停まで歩き、八景行きに乗って帰宅した。今年はあまり観客が多くないのがとても良かった。
一の鳥居と二の鳥居、それに八幡宮前の三の鳥居下が絶好の見物場所である。なぜだか花火はうまく写真写らなかった。
そして今朝は6時半(家人は6時)に起きて、お茶だけ飲んで葉山に行き、7時から芝崎の海にぷかぷか浮かんで9時に駐車場を出発、逗子と材木座と由比ガ浜の海岸沿いに走ってさきほど10時に帰宅した。
つまり海でおむすびを食べにいったわけ。
今日はものすごい干潮で、岩場には魚やカイやウニがたくさんいたが、ここは海洋資源を保護しているのでそれらをみだりに獲ってはいけません。
空青く、海青く、心まできよらかに洗われる楽しい海水浴であった。
♪この夏はウニを獲らずに帰りけり
♪バガテルop25
昨日は恒例の鎌倉花火大会だった。車で駅前まで送ってもらい長男と裁判所前の低い塀に腰掛けてしばらく見物してから豊嶋屋の前の臨時バス停まで歩き、八景行きに乗って帰宅した。今年はあまり観客が多くないのがとても良かった。
一の鳥居と二の鳥居、それに八幡宮前の三の鳥居下が絶好の見物場所である。なぜだか花火はうまく写真写らなかった。
そして今朝は6時半(家人は6時)に起きて、お茶だけ飲んで葉山に行き、7時から芝崎の海にぷかぷか浮かんで9時に駐車場を出発、逗子と材木座と由比ガ浜の海岸沿いに走ってさきほど10時に帰宅した。
つまり海でおむすびを食べにいったわけ。
今日はものすごい干潮で、岩場には魚やカイやウニがたくさんいたが、ここは海洋資源を保護しているのでそれらをみだりに獲ってはいけません。
空青く、海青く、心まできよらかに洗われる楽しい海水浴であった。
♪この夏はウニを獲らずに帰りけり
Thursday, August 09, 2007
網野善彦著作集第13巻「中世都市論」を読む
降っても照っても第43回
毎日暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
私の家は冬は隙間風が入って寒いけれど、夏は極めて快適そのもの。エアコンなど1台もないのに、このおんぼろ木造モルタルには冷風がびゅんびゅん吹き込んで、セミたちがが盛夏のオペラを朗々と歌い上げています。
さて閑話休題。
2004年2月27日に惜しまれつつ76歳で亡くなった偉大な歴史家、網野善彦の著作集が、遂に岩波書店から刊行されはじめた。
氏はどんな短い文章にも深く刻まれているそのおおらかな人柄とゆたかなヴィジョンで私たちを力強く抱擁し、見知らぬ未来に向かって羽ばたく力を与えてくれるけざやかな師表のひとつであった。
ついこの間の石井進もそうであったが、わが歴史学会は才能豊かなエースを立て続けに失ってしまった。されど人は死しても著作は残る。せめて遺された全18巻を心ゆくまで味読したいものである。
さて第1回配本は「中世都市論」であるが、読んでわくわくするような論文がたくさん並んでいる。
二番目に置かれた論文「中世都市論」は1976年の初出であるが、この論考はその後の著者の代表作「無縁・公界・楽」を生み出した淵源をなしている労作で読み応えがある。
「公界」とはもともと中国の禅に由来する言葉で、俗縁を断ち切って修行する場をさしていたらしい。それが戦国期の日本で独特な意味を持つようになり、「無縁」と同様既存の権力によるイエ的、私的支配、保護、扶持等の縁と無関係な場や状態を表すようになった。
例えば能楽者や遍歴する陰陽師たちは「公界衆、公界者」と呼ばれ、河原、大道、道路などは「公界」であるがゆえに耕作、売買してはならなかった。「楽」も公界も同義である。
堺、桑名、大湊などと同様、わたしんチの近所の相模の國の江ノ島は室町時代には「公界所」と呼ばれる一種の「自由都市」「アジール」であったが、著者は「楽津」「楽市」「公界」の3点セットこそ戦国期、日本中世の自治都市のキーワードであると主張する。
また巻末におかれた「都市の起源」は静岡県磐田市における一の谷遺跡(結局破壊された)にかかわる講演であるが、まず律令国家の成立にとって重要な役割を果たした国府の置かれた場所が、太古の原日本人にとって「聖なる土地」に置かれていたことを指摘している。恐らくこの指摘が著者の甥である中沢新一による一連の「地霊考古学論考」を生み出したのではないだろうか。
さらに著者は河原、中洲、浦、浜、山の根、境、峠など、聖なる世界と俗界の境界に都市と墓地が派生したと説く。そういえばわが鎌倉は町全体が墓場である。聖なる地に墓ができるのは当然のことだが、ではその同じ地にどうして市が立つのだろう?
交易するためには物が物として流通する場が必要である。そこでおのずから「市」という場所が必要になってくる。ところが前述したように、当時の人々は河原や中洲は世俗を離れた神仏の支配する聖なる場所と考えていたので、この特別な場に入った人も物も人と人とが濃厚に結びつかないで「さらさらと」ニルアドミラルに交換できる。
交換、交易はそういう物と人とが切れる状態=「無縁」という条件、があってはじめて可能になった、と著者は勝俣鎮夫の見解を紹介しながら説明する。
このようにして神仏と世俗の境界には墓と市が立ち、そこにはさらに津や泊のような港ができ、宿も、関もでき、神社や寺院も建てられる。
そして聖なる市には聖別された人々、たとえば「道々の輩」と呼ばれた芸能民や手工業者、商人、漁労民、廻船など農業以外の生業にかかわる職能民が次々に各地からやってきて徒党を組むようになり、これら無名の民草が、神や天皇に直属し、律令社会の権力者からある程度自立した「神人」や「供御人」となっていわば聖別された特権を与えられるようになったのだが、これこそが中世日本における自治都市の起源であると著者はいう。
実際あの千利休の経済的基盤は、阪和近辺の漁港からの収益であり、その権益があればこそ利休は秀吉の横暴と戦うこともできたのである。(とこれは著者ではなく小生の想像です)
よく知られているように、ヨーロッパの自治都市では(マックス・ウエバーが「プロテスタンチシズムの倫理と資本主義の精神」などで説いたように)、金融・商業・職人制度手工業、さらには初期資本主義の発展をキリスト教が支えた。
わが国の場合にも古くは比叡山延暦寺、時代が下がると鎌倉新仏教がこの自治都市を強力に支援し、真宗、一向宗は寺や道場自体を聖なる都市として囲い込み、世俗の権力者にたいする武装蜂起と下からの革命を実行するに至るのである。
しかしこのようにして列島各地で確立された自由な自治都市郡は、14世紀の南北朝の動乱と織豊政権の成立によって古代の神仏の後ろ盾を喪失し、「道々の輩」たちはその政治的・経済的実権を失っていく。
信長や秀吉や家康は一向宗のみならず禅宗もキリスト教も徹底的に弾圧し、宗教をほとんど絶滅させた段階で江戸幕府が成立した。このように古い神仏の権威が崩壊し、新宗教がすべて殲滅されていく段階で、かつてトレンディな都会人として尊崇されていた非人、河原者、遊女、傀儡をはじめとする「神人」や「寄人」「供御人」に対する社会全体の蔑視が固定化されるようになり、ここに現代の被差別部落の淵源があると著者は指摘するのである。
毎日暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
私の家は冬は隙間風が入って寒いけれど、夏は極めて快適そのもの。エアコンなど1台もないのに、このおんぼろ木造モルタルには冷風がびゅんびゅん吹き込んで、セミたちがが盛夏のオペラを朗々と歌い上げています。
さて閑話休題。
2004年2月27日に惜しまれつつ76歳で亡くなった偉大な歴史家、網野善彦の著作集が、遂に岩波書店から刊行されはじめた。
氏はどんな短い文章にも深く刻まれているそのおおらかな人柄とゆたかなヴィジョンで私たちを力強く抱擁し、見知らぬ未来に向かって羽ばたく力を与えてくれるけざやかな師表のひとつであった。
ついこの間の石井進もそうであったが、わが歴史学会は才能豊かなエースを立て続けに失ってしまった。されど人は死しても著作は残る。せめて遺された全18巻を心ゆくまで味読したいものである。
さて第1回配本は「中世都市論」であるが、読んでわくわくするような論文がたくさん並んでいる。
二番目に置かれた論文「中世都市論」は1976年の初出であるが、この論考はその後の著者の代表作「無縁・公界・楽」を生み出した淵源をなしている労作で読み応えがある。
「公界」とはもともと中国の禅に由来する言葉で、俗縁を断ち切って修行する場をさしていたらしい。それが戦国期の日本で独特な意味を持つようになり、「無縁」と同様既存の権力によるイエ的、私的支配、保護、扶持等の縁と無関係な場や状態を表すようになった。
例えば能楽者や遍歴する陰陽師たちは「公界衆、公界者」と呼ばれ、河原、大道、道路などは「公界」であるがゆえに耕作、売買してはならなかった。「楽」も公界も同義である。
堺、桑名、大湊などと同様、わたしんチの近所の相模の國の江ノ島は室町時代には「公界所」と呼ばれる一種の「自由都市」「アジール」であったが、著者は「楽津」「楽市」「公界」の3点セットこそ戦国期、日本中世の自治都市のキーワードであると主張する。
また巻末におかれた「都市の起源」は静岡県磐田市における一の谷遺跡(結局破壊された)にかかわる講演であるが、まず律令国家の成立にとって重要な役割を果たした国府の置かれた場所が、太古の原日本人にとって「聖なる土地」に置かれていたことを指摘している。恐らくこの指摘が著者の甥である中沢新一による一連の「地霊考古学論考」を生み出したのではないだろうか。
さらに著者は河原、中洲、浦、浜、山の根、境、峠など、聖なる世界と俗界の境界に都市と墓地が派生したと説く。そういえばわが鎌倉は町全体が墓場である。聖なる地に墓ができるのは当然のことだが、ではその同じ地にどうして市が立つのだろう?
交易するためには物が物として流通する場が必要である。そこでおのずから「市」という場所が必要になってくる。ところが前述したように、当時の人々は河原や中洲は世俗を離れた神仏の支配する聖なる場所と考えていたので、この特別な場に入った人も物も人と人とが濃厚に結びつかないで「さらさらと」ニルアドミラルに交換できる。
交換、交易はそういう物と人とが切れる状態=「無縁」という条件、があってはじめて可能になった、と著者は勝俣鎮夫の見解を紹介しながら説明する。
このようにして神仏と世俗の境界には墓と市が立ち、そこにはさらに津や泊のような港ができ、宿も、関もでき、神社や寺院も建てられる。
そして聖なる市には聖別された人々、たとえば「道々の輩」と呼ばれた芸能民や手工業者、商人、漁労民、廻船など農業以外の生業にかかわる職能民が次々に各地からやってきて徒党を組むようになり、これら無名の民草が、神や天皇に直属し、律令社会の権力者からある程度自立した「神人」や「供御人」となっていわば聖別された特権を与えられるようになったのだが、これこそが中世日本における自治都市の起源であると著者はいう。
実際あの千利休の経済的基盤は、阪和近辺の漁港からの収益であり、その権益があればこそ利休は秀吉の横暴と戦うこともできたのである。(とこれは著者ではなく小生の想像です)
よく知られているように、ヨーロッパの自治都市では(マックス・ウエバーが「プロテスタンチシズムの倫理と資本主義の精神」などで説いたように)、金融・商業・職人制度手工業、さらには初期資本主義の発展をキリスト教が支えた。
わが国の場合にも古くは比叡山延暦寺、時代が下がると鎌倉新仏教がこの自治都市を強力に支援し、真宗、一向宗は寺や道場自体を聖なる都市として囲い込み、世俗の権力者にたいする武装蜂起と下からの革命を実行するに至るのである。
しかしこのようにして列島各地で確立された自由な自治都市郡は、14世紀の南北朝の動乱と織豊政権の成立によって古代の神仏の後ろ盾を喪失し、「道々の輩」たちはその政治的・経済的実権を失っていく。
信長や秀吉や家康は一向宗のみならず禅宗もキリスト教も徹底的に弾圧し、宗教をほとんど絶滅させた段階で江戸幕府が成立した。このように古い神仏の権威が崩壊し、新宗教がすべて殲滅されていく段階で、かつてトレンディな都会人として尊崇されていた非人、河原者、遊女、傀儡をはじめとする「神人」や「寄人」「供御人」に対する社会全体の蔑視が固定化されるようになり、ここに現代の被差別部落の淵源があると著者は指摘するのである。
Wednesday, August 08, 2007
四方竹
鎌倉ちょっと不思議な物語69回
ここは朝比奈の切り通しの入り口である。
右側に高台があって最近まで土建屋が不法に占拠し、石材置き場に使用していたが、市民と市の勧告に従って更地に戻した。それがもしかすると私が平成十三年に意を決して行った市長への陳情の成果だとしたらとてもうれしい。
さてここは、梶原景時によって将棋の最中に討たれた平広常の邸宅跡と伝えられる。
広常は頼朝騎下最大の兵力を誇ったが、その幕府帰参の時期が遅れたことと、その傲慢な態度が頼朝周辺の忌諱に触れて景時に暗殺されたのである。
広常の墓は古来2箇所あるといわれてきたが、その1箇所は杳として知れない。私はもうひとつの場所に心当たりがあるが、それも私の死と共に地上から葬られることになるだろう。歴史上の人物の伝承などまことに儚いものである。
写真はその広常を悼む鎌倉名代の四方竹の群生地。その直下に太刀洗の泉水が流れる。
ここは朝比奈の切り通しの入り口である。
右側に高台があって最近まで土建屋が不法に占拠し、石材置き場に使用していたが、市民と市の勧告に従って更地に戻した。それがもしかすると私が平成十三年に意を決して行った市長への陳情の成果だとしたらとてもうれしい。
さてここは、梶原景時によって将棋の最中に討たれた平広常の邸宅跡と伝えられる。
広常は頼朝騎下最大の兵力を誇ったが、その幕府帰参の時期が遅れたことと、その傲慢な態度が頼朝周辺の忌諱に触れて景時に暗殺されたのである。
広常の墓は古来2箇所あるといわれてきたが、その1箇所は杳として知れない。私はもうひとつの場所に心当たりがあるが、それも私の死と共に地上から葬られることになるだろう。歴史上の人物の伝承などまことに儚いものである。
写真はその広常を悼む鎌倉名代の四方竹の群生地。その直下に太刀洗の泉水が流れる。
Tuesday, August 07, 2007
青山真治の「サッド・ヴァケイション」を観る
降っても照っても第42回
30度を超える猛暑の中、私は街頭で死すとも可也の悲壮な決意で東京まで出撃し、青山真治という人の「サッド・ヴァケイション」という映画の最終試写を見た。
この映画は北九州を舞台にした北九州語による北九州映画である。最近奈良での介護をフォーカスした映画がカンヌで栄冠を獲得したように、個別を深くうがつことこそが世界の普遍の地平にいたることを、このクレバーな監督は熟知しているのである。
最近の日本映画が、たとえ地方を主要な舞台としながらも、そのほとんどが本質的に「東京的映画」であることを思えば、このローカルに徹した環境設定が、冒頭に出てくる中国人密入国事件とそれが引き起こす多彩なエピソードを含めて、この映画の独自性を生み出していると思った。
次にキャメラの視点がかなりドキュメンタリー的であることも、この映画の特徴である。とりわけ冒頭の夜の密輸船のざらざらした触感と恣意的なヴィジュアル処理は映画的であるよりはテレビ的で、こういうキャメラで全編を統一していたら、という望蜀の嘆もないではない。
第3に、この映画のプロットは、かなりめちゃめちゃである。未見の観客のためにここで詳しくは書けないが、片腕のない暴力団員が出所後に6人を殺して自殺した男とか、その暴力団員が自殺したからといって、その暴力団員の知的障碍を持つ妹と共に10年間逃走する男(じつはこれが本作品の主人公)とか、バスジャック事件の生き残り家出少女とか、いろいろな訳と陰のある男女が次々に登場し、突然恋をしたり、突然殺人を犯してしまったりする。まるで荒唐無稽である。
しかし作者は(監督、脚本も青山)プロット自体はどうでもよく、そんな荒唐無稽の物語の奥底に流れている現代人の孤独と漂流感覚そのものを慈しみをもってワンカット、ワンカットなめるように描き出そうとしている。
このような手法は、かつてJ.L.ゴダールがもっと徹底的に、もっと即興的に、もっとクールに敢行したものであるが、青山はその道をふたたび歩もうとはしない。その反対に、人生の行き場を失った人たちのために、なんとなんと、新しい家族やアジア的共同体への夢やあこがれを、それがシャボン玉のような幻想であると知りつつ、確信犯的な希望をもって提示するのである。
私は「悲しい休暇」という題名の二時間を超える長大な映画を観ながら、青山真治は武者小路実篤の「新しき村」を、映画で実行しようとしていると思った。
最後に余事を3つ。
その1
この映画は、浅野忠信、石田エリ、宮崎あおい、板谷由香、中村嘉葎雄、オダギリジョーなどの豪華キャストが綺羅星?の如く出演し、それぞれ好演しているが、全員が無名の新人であったほうが原作の趣旨がもっと生きたであろう。
その2
この映画は冒頭のクレジットが、海外受けを狙ったのか日本語でなくなぜか英字の崩した手書きで出るので大変見にくかった。ただしその英語がKINNOSUKE NATUMEではなく、NATUME KINNOSUKEという順番で正しく並べてあったことに感心した。
御一新以来長い歳月が経ったのに、いまなお盲目的に西欧人の真似をして、パスポートに姓と名をさかしまに書いたりして平気な人は、どこかでアジア人としての自分を見失っている。そういう意味ではあの夏目漱石でさえ文明開化に毒されていた。
その3
これは映画とまったく関係がない感想。昨日私(たち)は、12時30分の試写の開始をきっかり5分間待たされた。試写関係者が超大物映画評論家?のOすぎ氏の到着を待っていたためである。こうした例はときどき他の試写会でも起こるが、たとえ5分間とはいえOすぎひとりのために(その理由も知らされずに)じっと我慢して待っていた数十名の小物評論家?の迷惑も考えてほしいものだ。
5分間待ってもらったお陰でOすぎは大いに助かったわけだが、同じ5分間の遅れで次の試写や新幹線に間に合わなくなった人もいたかもしれない。天才と凡人双方の利害を悪平等的に調和させるには、定時に開始するに限るのである。
30度を超える猛暑の中、私は街頭で死すとも可也の悲壮な決意で東京まで出撃し、青山真治という人の「サッド・ヴァケイション」という映画の最終試写を見た。
この映画は北九州を舞台にした北九州語による北九州映画である。最近奈良での介護をフォーカスした映画がカンヌで栄冠を獲得したように、個別を深くうがつことこそが世界の普遍の地平にいたることを、このクレバーな監督は熟知しているのである。
最近の日本映画が、たとえ地方を主要な舞台としながらも、そのほとんどが本質的に「東京的映画」であることを思えば、このローカルに徹した環境設定が、冒頭に出てくる中国人密入国事件とそれが引き起こす多彩なエピソードを含めて、この映画の独自性を生み出していると思った。
次にキャメラの視点がかなりドキュメンタリー的であることも、この映画の特徴である。とりわけ冒頭の夜の密輸船のざらざらした触感と恣意的なヴィジュアル処理は映画的であるよりはテレビ的で、こういうキャメラで全編を統一していたら、という望蜀の嘆もないではない。
第3に、この映画のプロットは、かなりめちゃめちゃである。未見の観客のためにここで詳しくは書けないが、片腕のない暴力団員が出所後に6人を殺して自殺した男とか、その暴力団員が自殺したからといって、その暴力団員の知的障碍を持つ妹と共に10年間逃走する男(じつはこれが本作品の主人公)とか、バスジャック事件の生き残り家出少女とか、いろいろな訳と陰のある男女が次々に登場し、突然恋をしたり、突然殺人を犯してしまったりする。まるで荒唐無稽である。
しかし作者は(監督、脚本も青山)プロット自体はどうでもよく、そんな荒唐無稽の物語の奥底に流れている現代人の孤独と漂流感覚そのものを慈しみをもってワンカット、ワンカットなめるように描き出そうとしている。
このような手法は、かつてJ.L.ゴダールがもっと徹底的に、もっと即興的に、もっとクールに敢行したものであるが、青山はその道をふたたび歩もうとはしない。その反対に、人生の行き場を失った人たちのために、なんとなんと、新しい家族やアジア的共同体への夢やあこがれを、それがシャボン玉のような幻想であると知りつつ、確信犯的な希望をもって提示するのである。
私は「悲しい休暇」という題名の二時間を超える長大な映画を観ながら、青山真治は武者小路実篤の「新しき村」を、映画で実行しようとしていると思った。
最後に余事を3つ。
その1
この映画は、浅野忠信、石田エリ、宮崎あおい、板谷由香、中村嘉葎雄、オダギリジョーなどの豪華キャストが綺羅星?の如く出演し、それぞれ好演しているが、全員が無名の新人であったほうが原作の趣旨がもっと生きたであろう。
その2
この映画は冒頭のクレジットが、海外受けを狙ったのか日本語でなくなぜか英字の崩した手書きで出るので大変見にくかった。ただしその英語がKINNOSUKE NATUMEではなく、NATUME KINNOSUKEという順番で正しく並べてあったことに感心した。
御一新以来長い歳月が経ったのに、いまなお盲目的に西欧人の真似をして、パスポートに姓と名をさかしまに書いたりして平気な人は、どこかでアジア人としての自分を見失っている。そういう意味ではあの夏目漱石でさえ文明開化に毒されていた。
その3
これは映画とまったく関係がない感想。昨日私(たち)は、12時30分の試写の開始をきっかり5分間待たされた。試写関係者が超大物映画評論家?のOすぎ氏の到着を待っていたためである。こうした例はときどき他の試写会でも起こるが、たとえ5分間とはいえOすぎひとりのために(その理由も知らされずに)じっと我慢して待っていた数十名の小物評論家?の迷惑も考えてほしいものだ。
5分間待ってもらったお陰でOすぎは大いに助かったわけだが、同じ5分間の遅れで次の試写や新幹線に間に合わなくなった人もいたかもしれない。天才と凡人双方の利害を悪平等的に調和させるには、定時に開始するに限るのである。
Monday, August 06, 2007
島田雅彦著「カオスの娘」を読む
降っても照っても第41回
島田雅彦はルックスも良いけれど、頭もとても良い作家なのでいろいろ考えた作品を書く。多彩な現代社会を切り取る多彩なアプローチってやつだが、それがうまくいった例はあまりない。
本作ではいま最新流行のスピリチュアル世界に侵入し、オカルト探偵ナルヒトという雅彦ちゃんを思わせる魅力的なキャラを創造することに成功した。
これに対するヒロインはわが鎌倉の女子高生、亜里沙だ。この美人で清楚で無辜の主人公が父親の因果が子に報いるというかたちで国際的な陰謀に巻きこまれ、拉致、監禁、暴行、強姦、陵辱の地獄に突き落とされてゆくあたりのサドマゾポルノチックな描写は、さすがに巧いものである。
オカルト探偵ナルヒトの生い立ちや祖母との魂の交流、そして平成きっての霊能者に育っていくあたりの描写もなかなか面白い。
しかしながらこの宿命の二人を結びつける雅彦似の反体制大学教授サナダが登場し、余命いくばくもない死病に冒されたサナダが若い殺人者亜里沙の敵に復讐し、彼女の未来を救おうと決死的テロルに乗り出すあたりから、この愛と政治の大乱脈物語はまるでおもちゃの人形劇のように漫画的となり、ついには自公連立政権の愚かな紅い絆のようにびりびりに引き裂かれていき、肝心要の物語の土台自体がかのミネアポリスの虚橋のようにがたがたに崩れ落ちていく。
はじめは処女の如く、終わりは狸と狐が沈没するタイタニックの甲板上で狂ったように走り回る、という哀れな結末とはなりにけり。
なお美輪明宏という気色の悪い人が、訳の分からない賛辞を書いているが、著者にはかえって迷惑ではないだろうか。やめてけれ。
されど、好漢島田雅彦選手の大いなる実験的精神には、絶大な拍手を贈ろうではないか。
島田雅彦はルックスも良いけれど、頭もとても良い作家なのでいろいろ考えた作品を書く。多彩な現代社会を切り取る多彩なアプローチってやつだが、それがうまくいった例はあまりない。
本作ではいま最新流行のスピリチュアル世界に侵入し、オカルト探偵ナルヒトという雅彦ちゃんを思わせる魅力的なキャラを創造することに成功した。
これに対するヒロインはわが鎌倉の女子高生、亜里沙だ。この美人で清楚で無辜の主人公が父親の因果が子に報いるというかたちで国際的な陰謀に巻きこまれ、拉致、監禁、暴行、強姦、陵辱の地獄に突き落とされてゆくあたりのサドマゾポルノチックな描写は、さすがに巧いものである。
オカルト探偵ナルヒトの生い立ちや祖母との魂の交流、そして平成きっての霊能者に育っていくあたりの描写もなかなか面白い。
しかしながらこの宿命の二人を結びつける雅彦似の反体制大学教授サナダが登場し、余命いくばくもない死病に冒されたサナダが若い殺人者亜里沙の敵に復讐し、彼女の未来を救おうと決死的テロルに乗り出すあたりから、この愛と政治の大乱脈物語はまるでおもちゃの人形劇のように漫画的となり、ついには自公連立政権の愚かな紅い絆のようにびりびりに引き裂かれていき、肝心要の物語の土台自体がかのミネアポリスの虚橋のようにがたがたに崩れ落ちていく。
はじめは処女の如く、終わりは狸と狐が沈没するタイタニックの甲板上で狂ったように走り回る、という哀れな結末とはなりにけり。
なお美輪明宏という気色の悪い人が、訳の分からない賛辞を書いているが、著者にはかえって迷惑ではないだろうか。やめてけれ。
されど、好漢島田雅彦選手の大いなる実験的精神には、絶大な拍手を贈ろうではないか。
Sunday, August 05, 2007
音楽鑑賞メディアは進化したのか?
♪音楽千夜一夜第24回
世間ではCDが売れなくなり、その代わりにi-tuneなどネットで音楽ソフトを買い、それをi-podなどで聴くというスタイルが主流になったそうでまことに慶賀に耐えない。
しかしmp3などの圧縮法を経由した音楽の音質はかなりひどいもので、私にはまだ昔のウークマンのほうが良い音であったように聞こえる。いまどきの若い人たちは元のソースの情報がかなり薄められた状態の音楽を、なにも弁別できずによろこんで耳にしているのではないだろうか?
げんに私は先日ロンドンで始まった07年PROMSのライブ録音を連日英国BBCのRADIO3で愛聴しているが、ヤマハの三万円のスピーカーを通して聴いてもこれは到底音楽といえるような代物ではない。
たとえば、リヒテルが弾くバッハの「平均律」を聴いてみよう。すると明らかにCDよりはカセット、カセットよりはLPで聴く同一音源の演奏のほうが、音楽的により豊富な情報と情念に満たされているように思える。
そしてもしかすると、そのLPよりも最高級セットで鑑賞するSPレコードのほうがさらに優れた音質かもしれない。
「昔のほうが良かった」というのはかつては年寄りの世迷言であったが、今では年寄り以外の人々もひそかにそう考えており、クラシック音楽の再生音についてもその例外ではないのではなかろうか?
そうしてみると、世の中も、人間も、退化こそすれ、進歩などはないとさえ思えてくる。
世間ではCDが売れなくなり、その代わりにi-tuneなどネットで音楽ソフトを買い、それをi-podなどで聴くというスタイルが主流になったそうでまことに慶賀に耐えない。
しかしmp3などの圧縮法を経由した音楽の音質はかなりひどいもので、私にはまだ昔のウークマンのほうが良い音であったように聞こえる。いまどきの若い人たちは元のソースの情報がかなり薄められた状態の音楽を、なにも弁別できずによろこんで耳にしているのではないだろうか?
げんに私は先日ロンドンで始まった07年PROMSのライブ録音を連日英国BBCのRADIO3で愛聴しているが、ヤマハの三万円のスピーカーを通して聴いてもこれは到底音楽といえるような代物ではない。
たとえば、リヒテルが弾くバッハの「平均律」を聴いてみよう。すると明らかにCDよりはカセット、カセットよりはLPで聴く同一音源の演奏のほうが、音楽的により豊富な情報と情念に満たされているように思える。
そしてもしかすると、そのLPよりも最高級セットで鑑賞するSPレコードのほうがさらに優れた音質かもしれない。
「昔のほうが良かった」というのはかつては年寄りの世迷言であったが、今では年寄り以外の人々もひそかにそう考えており、クラシック音楽の再生音についてもその例外ではないのではなかろうか?
そうしてみると、世の中も、人間も、退化こそすれ、進歩などはないとさえ思えてくる。
Saturday, August 04, 2007
鎌倉ちょっと不思議な物語68回
ハリス記念鎌倉教会
鎌倉駅の東口を出て右折し、海に向かってどんどん歩く。下馬四つ角を過ぎた右側のちょっと凹んだところに、ゴシック調の美しいこの教会が建っている。市の指定景観重要建築物である。
創建は1897年(明治30年)、当初は木造の聖堂であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、現在の聖堂が再建された。
名称の「ハリス」はアメリカのプロテスタント派の宣教師メリマン・ハリス氏の名前にちなんでいるそうで、ハリス氏は隣にある付属幼稚園の設立にも尽力したそうである。
建物の最大の特徴は正面のトレーサリーという装飾を伴った大きな尖塔アーチ窓など初期のゴシック風スタイルにある。
礼拝堂に入ると祭壇上部のステンドグラスが十字架を浮かび上がらせている。家具や調度品のほとんどが創設当時のものだが入口に傍にあるオルガンは比較的最近のものである。(以上鎌倉市シルバーボランティアガイド協会資料による)
鎌倉駅の東口を出て右折し、海に向かってどんどん歩く。下馬四つ角を過ぎた右側のちょっと凹んだところに、ゴシック調の美しいこの教会が建っている。市の指定景観重要建築物である。
創建は1897年(明治30年)、当初は木造の聖堂であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、現在の聖堂が再建された。
名称の「ハリス」はアメリカのプロテスタント派の宣教師メリマン・ハリス氏の名前にちなんでいるそうで、ハリス氏は隣にある付属幼稚園の設立にも尽力したそうである。
建物の最大の特徴は正面のトレーサリーという装飾を伴った大きな尖塔アーチ窓など初期のゴシック風スタイルにある。
礼拝堂に入ると祭壇上部のステンドグラスが十字架を浮かび上がらせている。家具や調度品のほとんどが創設当時のものだが入口に傍にあるオルガンは比較的最近のものである。(以上鎌倉市シルバーボランティアガイド協会資料による)
Friday, August 03, 2007
由比ガ浜にて
♪バガテルop24
今年2度目の海水浴に行ってきました。
少ない海水浴客を呼び込もうと懸命に声を張り上げる海の家のアルバイトさん、小さなボートに三人の子供を乗せて波打ち際で遊ばせるお父さん、強い風から幼い妹を守るために両手で抱いてやるこれも幼い兄……、風を一杯にはらんで猛烈な勢いで沖を快走するウインドサーフアー……今日も由比ガ浜の海はさまざまな夏の情景が繰り広げられています。
しかし台風5号の影響で海は荒れ模様。監視所がオープンする午前9時と同時に遊泳中止になってしまいました。
天候不順な日に鎌倉・逗子近辺で海水浴する場合は、逗子海岸がお薦めです。ここはまるで湖のような内海なので材木座や由比ガ浜などが遊泳禁止でも大丈夫な場合があります。
現に今日も材木座や由比ガ浜が遊泳禁止なにの遊泳注意の黄色い旗が翻っていました。私たち3人は1時間足らず海岸にいて、おむすびを食べ、逗子池田通りのお気に入りの八百屋さん「うらら」でスイカを買って、いま帰宅したところです。
♪ウララ、ウララ、ウラウララア……
今年2度目の海水浴に行ってきました。
少ない海水浴客を呼び込もうと懸命に声を張り上げる海の家のアルバイトさん、小さなボートに三人の子供を乗せて波打ち際で遊ばせるお父さん、強い風から幼い妹を守るために両手で抱いてやるこれも幼い兄……、風を一杯にはらんで猛烈な勢いで沖を快走するウインドサーフアー……今日も由比ガ浜の海はさまざまな夏の情景が繰り広げられています。
しかし台風5号の影響で海は荒れ模様。監視所がオープンする午前9時と同時に遊泳中止になってしまいました。
天候不順な日に鎌倉・逗子近辺で海水浴する場合は、逗子海岸がお薦めです。ここはまるで湖のような内海なので材木座や由比ガ浜などが遊泳禁止でも大丈夫な場合があります。
現に今日も材木座や由比ガ浜が遊泳禁止なにの遊泳注意の黄色い旗が翻っていました。私たち3人は1時間足らず海岸にいて、おむすびを食べ、逗子池田通りのお気に入りの八百屋さん「うらら」でスイカを買って、いま帰宅したところです。
♪ウララ、ウララ、ウラウララア……
Thursday, August 02, 2007
山吹の里
山吹の里
遥かな昔、遠い所で第18回
いづれの御時にか、私は早稲田の裏の裏にある都電に乗って飛鳥山の麓にある滝野川までの存外に長い時間を行き来していた。
その途中には大塚や巣鴨や雑司が谷の墓地などもあったが、帝都の北の滝野川一帯はごちゃごちゃした庶民の町であった。
私が下宿していた家には外語大や東大やその他の学生が地道な学生生活を営んでおり、自堕落に生きているのは私くらいのものだった。この下宿には大家が大事にしているみなこさんという一人娘がいて、私らは毎晩みなこさんの容貌や人となりや彼女の将来の人生行路につい深夜まで大声で語らいあい、一家に迷惑をかけてばかりいた。
いちどそんな真面目と不真面目の学生こぞって近くのバー「黒猫」に行ったことがあるが、それが私の酒席初体験であった。こんな気色の悪い空間にうごめく醜悪な女どもと吐き気のするようなアルコールに、私は大人の世界の饐えた臭いを嗅いだようだが、そこへは二度と足を向けなかった。
週に1度くらいは学校に行ってもみたが格別の事件もなく、私はまたしても持病の原因不明の微熱に悩まされ、退屈きわまりない日常をもてあましていた。その数ヵ月後に熱にうかされたような突然のクー・デタが襲ってくるとは夢にも思わずに、倍賞千恵子の父親が運転するチンチン電車に揺られていたのである。
昨日紹介した亮朝院の北の、神田川にかかる面影橋のあたりは、太田道灌の「山吹の里」の伝説が残されている。
♪みのひとつだになきぞ悲しき、という例の歌だが、太田道灌も世間でちやほやされる割には悲惨な最期をとげたものだ、と思いつつ私は早稲田界隈にながの別れを告げた。
遥かな昔、遠い所で第18回
いづれの御時にか、私は早稲田の裏の裏にある都電に乗って飛鳥山の麓にある滝野川までの存外に長い時間を行き来していた。
その途中には大塚や巣鴨や雑司が谷の墓地などもあったが、帝都の北の滝野川一帯はごちゃごちゃした庶民の町であった。
私が下宿していた家には外語大や東大やその他の学生が地道な学生生活を営んでおり、自堕落に生きているのは私くらいのものだった。この下宿には大家が大事にしているみなこさんという一人娘がいて、私らは毎晩みなこさんの容貌や人となりや彼女の将来の人生行路につい深夜まで大声で語らいあい、一家に迷惑をかけてばかりいた。
いちどそんな真面目と不真面目の学生こぞって近くのバー「黒猫」に行ったことがあるが、それが私の酒席初体験であった。こんな気色の悪い空間にうごめく醜悪な女どもと吐き気のするようなアルコールに、私は大人の世界の饐えた臭いを嗅いだようだが、そこへは二度と足を向けなかった。
週に1度くらいは学校に行ってもみたが格別の事件もなく、私はまたしても持病の原因不明の微熱に悩まされ、退屈きわまりない日常をもてあましていた。その数ヵ月後に熱にうかされたような突然のクー・デタが襲ってくるとは夢にも思わずに、倍賞千恵子の父親が運転するチンチン電車に揺られていたのである。
昨日紹介した亮朝院の北の、神田川にかかる面影橋のあたりは、太田道灌の「山吹の里」の伝説が残されている。
♪みのひとつだになきぞ悲しき、という例の歌だが、太田道灌も世間でちやほやされる割には悲惨な最期をとげたものだ、と思いつつ私は早稲田界隈にながの別れを告げた。
Wednesday, August 01, 2007
亮朝院
遥かな昔、遠い所で第17回&勝手に建築観光24回
私は早稲田界隈から次第に遠ざかりつつある。
ここは最初に訪れた中原中也の愛の巣から遠からぬ距離にある亮朝院である。江戸時代には有名であったが、この節はほとんど知られていない日蓮宗の古刹である。
創建者の日暉上人は、身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山町付近に七面尊像をまつり、明暦元年(1655年)には将軍家の祈祷所となったが、寛文11年(1671年)、境内が尾張家の下屋敷となったため現在地に堂塔を移し、文化文政期には「江戸名所図会」に描かれているような大規模な寺となったという。
正面の七面堂は当時のもので、「高田の七面堂」や門の色から「赤門さん」とも呼ばれている。七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対(区指定文化財)は、宝暦2年(1752年)作の珍しい石造りで迫力がある。中也と泰子も一緒に眺めたかも知れぬ。
私は早稲田界隈から次第に遠ざかりつつある。
ここは最初に訪れた中原中也の愛の巣から遠からぬ距離にある亮朝院である。江戸時代には有名であったが、この節はほとんど知られていない日蓮宗の古刹である。
創建者の日暉上人は、身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山町付近に七面尊像をまつり、明暦元年(1655年)には将軍家の祈祷所となったが、寛文11年(1671年)、境内が尾張家の下屋敷となったため現在地に堂塔を移し、文化文政期には「江戸名所図会」に描かれているような大規模な寺となったという。
正面の七面堂は当時のもので、「高田の七面堂」や門の色から「赤門さん」とも呼ばれている。七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対(区指定文化財)は、宝暦2年(1752年)作の珍しい石造りで迫力がある。中也と泰子も一緒に眺めたかも知れぬ。
Tuesday, July 31, 2007
坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア
坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア
遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回
私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。
この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。
正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。
中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。
また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。
その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。
最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。
ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。
さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。
例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)
1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。
ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。
遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回
私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。
この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。
正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。
中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。
また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。
その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。
最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。
ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。
さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。
例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)
1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。
ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。
Monday, July 30, 2007
小澤征爾音楽塾の「カルメン」を聴く
♪音楽千夜一夜第23回
小田実の死と自公を葬送する嵐のような1日が終わろうとする夜、私は鎌倉芸術館へ行ってビゼーの「カルメン」を抜粋で聴いた。小澤征爾音楽塾オーケストラ&合唱団の演奏である。
はじめはひさしぶりに小澤の指揮に接することができると思っていたのだが、なんのことはない彼が指導する若手のスタッフによる演奏会であった。その代わりといってはなんだが、病気の癒えた御大が演奏の前後に元気にステージにあがって挨拶をするというサービス振りに満員の聴衆は熱狂していた。
小澤といえば今からおよそ20年前、ふぁっちょんビジネスとチンドン屋稼業に飽いた私が、再び中学生時代に好きだったクラシック音楽に夢中になっているのを知ったキャニオンレコードのクラシック担当のNさんが、畑違いの私を同社に引き抜うこうと画策されたことがあった。
説得されてだんだんその気になっていたとき、彼女が担当している小澤とキャスリーン・バトルの芸術家特有のわがまま?についてため息をつきながら語るのを耳にした私は、「こりゃ駄目だ。とてもついていけない」と痛感して転職を断念したのであった。周囲を攪拌し牽引する小澤の猛烈なエネルギーはいまも変わっていないだろうし、黒人であるコンプレックッスを裏返しにしたバトルの放恣な自己主張は彼女のメットからの永久追放という結果を生んだ。
さて昨夜の演奏の指揮者は鬼原良尚という87年生まれの若手であったが、まるで若き日の小澤そっくりのモンキースタイルで、前進するブルドーザー、戦うボクサーのように前奏曲に取り組む。
テンポが異様に速く、熱気であおられたオーケストラは、まるでブラバンのように咆哮する。こんなにうるさくてやかましい暴音はむかしモスクワのオケとロジェストベンスキーで聴いて以来だ。はるか遠くの3階席にいた私は、耳をふさぎながら思わず「おいおいオペラはスポーツではないよ」と言いたくなった。
「恋は野の鳥」、「闘牛士の歌」などの名アリアが続々登場するが、鬼原の指揮は師匠の小澤の悪しきエピゴーネンと化し、まるでヴェートーヴェンの7番を指揮するように、カルメンを指揮するのである。
しかし音楽のタテの線は常に正確無比に守られ、いかなる局面においてもいっさい破綻をしめさない。音楽の外面的な形式の平仄は終始合っているが、カルメンのドラマや内面性はどこにも感じられない。
だからあのフルートとハープで始まる第三幕への前奏曲のそっけないこと。これほど心に沁みないこの曲を私は生まれてはじめて聴いた。ビゼーが聴いたら「俺はこんな無味乾燥な音楽なんか書かなかったぞ」とさぞや嘆いたことだろう。
ビゼーの音楽とは無関係に怒涛のように流れていくおびただしい音符たち……、それは小澤の指揮するサイトウキネンなどと同じ性質のものだ。魔法使いの弟子はあくまで魔法使いと同じメロディを奏でることを知らされた私は、思わず慄然とした。
そして最後は皆様お待ちかね、カルメン(手嶋真佐子)とドンホセ(志田雄啓)の愛の破局である。猛烈にドライブされる最強音の頂点で花火のようにはじけ散ると、案の定超満員の聴衆は口をあんぐりと開き、滂沱の涙と涎を垂らしつつ爆発的な拍手を贈ったのであった。
どうにもこうにもこの発熱についていけない駄目な私を除いて……。
小澤の恩師である斉藤秀雄は「型より入れ。型より出よ」と小澤に教えた。
そこで私は鬼原にいいたい。「小澤より入れ。しかし一日も早く小澤より出よ」と。
小田実の死と自公を葬送する嵐のような1日が終わろうとする夜、私は鎌倉芸術館へ行ってビゼーの「カルメン」を抜粋で聴いた。小澤征爾音楽塾オーケストラ&合唱団の演奏である。
はじめはひさしぶりに小澤の指揮に接することができると思っていたのだが、なんのことはない彼が指導する若手のスタッフによる演奏会であった。その代わりといってはなんだが、病気の癒えた御大が演奏の前後に元気にステージにあがって挨拶をするというサービス振りに満員の聴衆は熱狂していた。
小澤といえば今からおよそ20年前、ふぁっちょんビジネスとチンドン屋稼業に飽いた私が、再び中学生時代に好きだったクラシック音楽に夢中になっているのを知ったキャニオンレコードのクラシック担当のNさんが、畑違いの私を同社に引き抜うこうと画策されたことがあった。
説得されてだんだんその気になっていたとき、彼女が担当している小澤とキャスリーン・バトルの芸術家特有のわがまま?についてため息をつきながら語るのを耳にした私は、「こりゃ駄目だ。とてもついていけない」と痛感して転職を断念したのであった。周囲を攪拌し牽引する小澤の猛烈なエネルギーはいまも変わっていないだろうし、黒人であるコンプレックッスを裏返しにしたバトルの放恣な自己主張は彼女のメットからの永久追放という結果を生んだ。
さて昨夜の演奏の指揮者は鬼原良尚という87年生まれの若手であったが、まるで若き日の小澤そっくりのモンキースタイルで、前進するブルドーザー、戦うボクサーのように前奏曲に取り組む。
テンポが異様に速く、熱気であおられたオーケストラは、まるでブラバンのように咆哮する。こんなにうるさくてやかましい暴音はむかしモスクワのオケとロジェストベンスキーで聴いて以来だ。はるか遠くの3階席にいた私は、耳をふさぎながら思わず「おいおいオペラはスポーツではないよ」と言いたくなった。
「恋は野の鳥」、「闘牛士の歌」などの名アリアが続々登場するが、鬼原の指揮は師匠の小澤の悪しきエピゴーネンと化し、まるでヴェートーヴェンの7番を指揮するように、カルメンを指揮するのである。
しかし音楽のタテの線は常に正確無比に守られ、いかなる局面においてもいっさい破綻をしめさない。音楽の外面的な形式の平仄は終始合っているが、カルメンのドラマや内面性はどこにも感じられない。
だからあのフルートとハープで始まる第三幕への前奏曲のそっけないこと。これほど心に沁みないこの曲を私は生まれてはじめて聴いた。ビゼーが聴いたら「俺はこんな無味乾燥な音楽なんか書かなかったぞ」とさぞや嘆いたことだろう。
ビゼーの音楽とは無関係に怒涛のように流れていくおびただしい音符たち……、それは小澤の指揮するサイトウキネンなどと同じ性質のものだ。魔法使いの弟子はあくまで魔法使いと同じメロディを奏でることを知らされた私は、思わず慄然とした。
そして最後は皆様お待ちかね、カルメン(手嶋真佐子)とドンホセ(志田雄啓)の愛の破局である。猛烈にドライブされる最強音の頂点で花火のようにはじけ散ると、案の定超満員の聴衆は口をあんぐりと開き、滂沱の涙と涎を垂らしつつ爆発的な拍手を贈ったのであった。
どうにもこうにもこの発熱についていけない駄目な私を除いて……。
小澤の恩師である斉藤秀雄は「型より入れ。型より出よ」と小澤に教えた。
そこで私は鬼原にいいたい。「小澤より入れ。しかし一日も早く小澤より出よ」と。
Sunday, July 29, 2007
會津八一記念博物館にて
遥かな昔、遠い所で第15回&勝手に建築観光22回
昨夜は醜い國を代表する醜い男の連立政権に対し良識あるひとびとの鉄槌が下され、久しぶりにいい気持ちだった。
さて思いは現世を遠く離れてまたしても遠い昔をさまようのである。
たしかここら辺が早稲田大学の図書館だったとうろうろ探しているといつのまにやら會津八一記念博物館に変身していた。
ここはあの根津美術館で知られる今井兼次の設計である。1925年に竣工した大閲覧室部分は、自然光がさしこんでなにやら厳粛な雰囲気が漂っていたが、私は閉架式のこの図書館をほとんど利用したことがないが入ってみると統一のない雑多なコレクションが館内を埋めていた。そのすべてが會津八一の収集物ではないらしい。
會津八一は新潟市古町生まれ。長くこの大学の美術の教授をつとめ1956年75歳で死んだ。歌人としても知られている。
都辺をのがれ来たればねもごろに潮うち寄するふるさとの浜 八艸道人
なんでもこの大学は今年が創立125周年だそうで、それを記念して吉村某氏のエジプト展をこの博物館で堂々開催するらしいが、私はそういういかにも客寄せパンダ風の企画商売第一で考え出すこの学校がますます嫌いになる。
昨夜は醜い國を代表する醜い男の連立政権に対し良識あるひとびとの鉄槌が下され、久しぶりにいい気持ちだった。
さて思いは現世を遠く離れてまたしても遠い昔をさまようのである。
たしかここら辺が早稲田大学の図書館だったとうろうろ探しているといつのまにやら會津八一記念博物館に変身していた。
ここはあの根津美術館で知られる今井兼次の設計である。1925年に竣工した大閲覧室部分は、自然光がさしこんでなにやら厳粛な雰囲気が漂っていたが、私は閉架式のこの図書館をほとんど利用したことがないが入ってみると統一のない雑多なコレクションが館内を埋めていた。そのすべてが會津八一の収集物ではないらしい。
會津八一は新潟市古町生まれ。長くこの大学の美術の教授をつとめ1956年75歳で死んだ。歌人としても知られている。
都辺をのがれ来たればねもごろに潮うち寄するふるさとの浜 八艸道人
なんでもこの大学は今年が創立125周年だそうで、それを記念して吉村某氏のエジプト展をこの博物館で堂々開催するらしいが、私はそういういかにも客寄せパンダ風の企画商売第一で考え出すこの学校がますます嫌いになる。
Saturday, July 28, 2007
秋山祐徳太子著「ブリキ男」を読む
降っても照っても第40回
今年72歳になった天才的アーチストの自伝である。最初の60年安保闘争時代のハチャメチャな回顧も面白く、二回の都知事選挙の話や新宿青線地帯の乱痴気騒ぎも抜群に面白く、終わりごろの「放尿論」なども抱腹絶倒ものである。(余談ながら作家の風人さんの名前が突然出てきてびっくりさせられる)
つまりどこを取り出して読んでも破格の面白さが満載の自叙伝であり、しかも著者がまったく受けを狙って書いてところが素晴らしい。この人こそ生まれながらのアーチストではないかと思われる。
美大の卒業制作で最高賞に輝いた著者の彫刻「ブリキの飛蝗」は、後世に燦然と輝く不滅の名作であり、これが彼の芸術家としての出発点になった。
次はかの有名な「グリコのハプニング」である。これは著者がたまたま横須賀線に乗っていたとき、蒲田附近で大きなグリコの看板を見た瞬間に着想をえたという。
「看板に描かれた少年の格好で銀座通りを突っ走ったらどうだろう。グリコのおまけが街を走る…、これこそ私がいままでやって来たハプニングのなかでも代表作になるかもしれない」
そして事実その通りになる。
翌日ランニングシャツとパンツ1枚で両手を挙げながら銀座4丁目の角をまがり数寄屋橋公園を通り過ぎる著者の勇姿を見た大日本愛国党総裁赤尾敏氏は、その演説を中断し、「いま日の丸を背負った青年がここを通って行った。まだまだ日本にはいい青年がいる」と言ったそうだ。
赤尾敏氏と著者の出会いはさらに続き、東京都知事選でともに立候補し、ともに落選するのだが、候補者説明会のあとで著者が赤尾敏氏に銀座の不二家に拉致され、なんとチョコレートパフェをおごられるシーンも忘れがたい。
ちなみに今は亡き赤尾敏氏の兄上は長らく鎌倉御成で耳鼻科を開業しておられ、私のははも家内も何度か治療してもらったそうだが、(あまり腕前は上手ではなかったそうだ)入り口に数本の松が茂ったその昭和初期の古風な洋風住宅が先日無残にも取り壊され、今日も道行く人の涙をさそっている。
それはともかく、本書の終わりに近いところに突然「放尿論」というのが出てくる。このなかで著者は、
「温泉でビールを飲んで尿意を催した私は大浴場の浴槽のなかでで突如尿意を催した。そこで突端を湯面から少し突き出して思い切り放尿すると、尿は噴水のように高く上がり、私は一人歓声を上げた」
と楽しげに書いているが、この楽しさに心から共感できる人だけが著者の友であり、本書の熱烈な愛読者であるといえよう。
今年72歳になった天才的アーチストの自伝である。最初の60年安保闘争時代のハチャメチャな回顧も面白く、二回の都知事選挙の話や新宿青線地帯の乱痴気騒ぎも抜群に面白く、終わりごろの「放尿論」なども抱腹絶倒ものである。(余談ながら作家の風人さんの名前が突然出てきてびっくりさせられる)
つまりどこを取り出して読んでも破格の面白さが満載の自叙伝であり、しかも著者がまったく受けを狙って書いてところが素晴らしい。この人こそ生まれながらのアーチストではないかと思われる。
美大の卒業制作で最高賞に輝いた著者の彫刻「ブリキの飛蝗」は、後世に燦然と輝く不滅の名作であり、これが彼の芸術家としての出発点になった。
次はかの有名な「グリコのハプニング」である。これは著者がたまたま横須賀線に乗っていたとき、蒲田附近で大きなグリコの看板を見た瞬間に着想をえたという。
「看板に描かれた少年の格好で銀座通りを突っ走ったらどうだろう。グリコのおまけが街を走る…、これこそ私がいままでやって来たハプニングのなかでも代表作になるかもしれない」
そして事実その通りになる。
翌日ランニングシャツとパンツ1枚で両手を挙げながら銀座4丁目の角をまがり数寄屋橋公園を通り過ぎる著者の勇姿を見た大日本愛国党総裁赤尾敏氏は、その演説を中断し、「いま日の丸を背負った青年がここを通って行った。まだまだ日本にはいい青年がいる」と言ったそうだ。
赤尾敏氏と著者の出会いはさらに続き、東京都知事選でともに立候補し、ともに落選するのだが、候補者説明会のあとで著者が赤尾敏氏に銀座の不二家に拉致され、なんとチョコレートパフェをおごられるシーンも忘れがたい。
ちなみに今は亡き赤尾敏氏の兄上は長らく鎌倉御成で耳鼻科を開業しておられ、私のははも家内も何度か治療してもらったそうだが、(あまり腕前は上手ではなかったそうだ)入り口に数本の松が茂ったその昭和初期の古風な洋風住宅が先日無残にも取り壊され、今日も道行く人の涙をさそっている。
それはともかく、本書の終わりに近いところに突然「放尿論」というのが出てくる。このなかで著者は、
「温泉でビールを飲んで尿意を催した私は大浴場の浴槽のなかでで突如尿意を催した。そこで突端を湯面から少し突き出して思い切り放尿すると、尿は噴水のように高く上がり、私は一人歓声を上げた」
と楽しげに書いているが、この楽しさに心から共感できる人だけが著者の友であり、本書の熱烈な愛読者であるといえよう。
Friday, July 27, 2007
気色の悪い日本語
♪バガテルop23
とかく最近の日本語は、私のような世捨て人には格別に不可解である。
その1 立ち位置
『ミラノの3Gと称されたジャンフランコ・フェレが亡くなったが、彼の「立ち位置」はジョルジュ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチとは少し違っていた…』
などと思わせぶりに使われるのだが、活字の見た目も、発音もはなはだ気持ち悪い。
いっそ「立ちションの立ち位置」なら許せそうな気もしますが、それにしても昔から「立場」という立派な日本語があるでしょうに。
その2 読み解く
この奇妙なエセインテリ?言葉は、そもそも出版社の新刊書の腰巻惹句から始まり、つい最近まで乱用されていたが、さすがに少し下火になってきたようでほっとしている。
例えば、
『安いウナギ今年が最後か? マリアナ海溝に潜む生物の謎を本書が読み解く』
『あのアユが、森理世が、ほんとにほんとの日本の美女? 激変する美意識の真相を読み解く』
のように安直に使用されるので、私はこれを「腰巻汚染」とはらり読み解いている。
その3 回収される
回収されるのはペットボトルだけかと思っていたら、ツエムリンスキーまで回収されることになっていたとはついぞ知らなんた。とうとう
『当夜の公演を聴いて改めて感じたのは、ツエムリンスキーを「絶賛批評」的なレトリックへ回収する難しさである。』
などと、したり顔で書く音楽学者が登場したのである。(7月27日朝日夕刊文化欄岡田暁生氏関西フィル演奏会批評記事より引用)
ひとあじ違う言い回しにひきつけられた私は、岡ちゃんのこの気持ちの悪い文章を仕舞いまで丁寧に読んだが、結局どこのどいつがツエムちゃんを絶賛批評的なレトリックから回収することに成功したのか、脳力に超弱い私にはついぞ分からなかった。
岡ちゃんが自力で開発した言葉なのか、それともどこから盗用したのか知らないが、岡ちゃんはきっとこの最新流行の言葉をどこかで1回使ってみて、それから回収してみたくて仕方がなかったのだろう。 どーだ、やったぞ、決まったぞ! ばんざーい!
てなもんだろう。極貧にあえぐ三流ライターとはいえ、私だって筆1本で渡世を渡る文筆業者だ。岡ちゃんのそのうれし恥ずかしい気持ちは分からないでもない。
されどこんなちょいと気の利いた当節風の言葉は、あと三年もすれば誰も見向きもしなくなっていると、どうして批評家ともあろう岡ちゃんは気づかないのだろうか?
もしかして岡ちゃんは、今を去る20年前に「おしゃれなこと」を「ナウイ」とか「イマイ」とか言い、つい先ごろまで「おされな」などと言い換えてマンネリに陥るまいとあがいていた人々を先取りじゃなくて、後追いする人ではないだろうか?
その4 指摘か主張か
作家の柴田翔氏が、最近若者よりも大人の言葉が劣化している証左として、ある新聞が「談合に天の声、検察指摘」と書いたのがけしからんと怒っている。(日経7/24夕刊)
もし新聞が中立不偏の立場なら、検察と新聞の立場を同一視してはならず、(その意見には賛成)、その見出しは「談合に天の声、検察主張」でなければならない、というのである。
されど、もとより後者のほうが分かりやすいと私も思うが、前者の表現が新聞が検察に肩入れした証拠になるのかどうか。別に指摘と書いたってそれほどの大事とは思えない。
しかしなんといっても言葉の専門家がおっしゃることだ。きっと私も、さうしてくだんの新聞記者も、左脳が超超劣化しているのだらう。
とかく最近の日本語は、私のような世捨て人には格別に不可解である。
その1 立ち位置
『ミラノの3Gと称されたジャンフランコ・フェレが亡くなったが、彼の「立ち位置」はジョルジュ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチとは少し違っていた…』
などと思わせぶりに使われるのだが、活字の見た目も、発音もはなはだ気持ち悪い。
いっそ「立ちションの立ち位置」なら許せそうな気もしますが、それにしても昔から「立場」という立派な日本語があるでしょうに。
その2 読み解く
この奇妙なエセインテリ?言葉は、そもそも出版社の新刊書の腰巻惹句から始まり、つい最近まで乱用されていたが、さすがに少し下火になってきたようでほっとしている。
例えば、
『安いウナギ今年が最後か? マリアナ海溝に潜む生物の謎を本書が読み解く』
『あのアユが、森理世が、ほんとにほんとの日本の美女? 激変する美意識の真相を読み解く』
のように安直に使用されるので、私はこれを「腰巻汚染」とはらり読み解いている。
その3 回収される
回収されるのはペットボトルだけかと思っていたら、ツエムリンスキーまで回収されることになっていたとはついぞ知らなんた。とうとう
『当夜の公演を聴いて改めて感じたのは、ツエムリンスキーを「絶賛批評」的なレトリックへ回収する難しさである。』
などと、したり顔で書く音楽学者が登場したのである。(7月27日朝日夕刊文化欄岡田暁生氏関西フィル演奏会批評記事より引用)
ひとあじ違う言い回しにひきつけられた私は、岡ちゃんのこの気持ちの悪い文章を仕舞いまで丁寧に読んだが、結局どこのどいつがツエムちゃんを絶賛批評的なレトリックから回収することに成功したのか、脳力に超弱い私にはついぞ分からなかった。
岡ちゃんが自力で開発した言葉なのか、それともどこから盗用したのか知らないが、岡ちゃんはきっとこの最新流行の言葉をどこかで1回使ってみて、それから回収してみたくて仕方がなかったのだろう。 どーだ、やったぞ、決まったぞ! ばんざーい!
てなもんだろう。極貧にあえぐ三流ライターとはいえ、私だって筆1本で渡世を渡る文筆業者だ。岡ちゃんのそのうれし恥ずかしい気持ちは分からないでもない。
されどこんなちょいと気の利いた当節風の言葉は、あと三年もすれば誰も見向きもしなくなっていると、どうして批評家ともあろう岡ちゃんは気づかないのだろうか?
もしかして岡ちゃんは、今を去る20年前に「おしゃれなこと」を「ナウイ」とか「イマイ」とか言い、つい先ごろまで「おされな」などと言い換えてマンネリに陥るまいとあがいていた人々を先取りじゃなくて、後追いする人ではないだろうか?
その4 指摘か主張か
作家の柴田翔氏が、最近若者よりも大人の言葉が劣化している証左として、ある新聞が「談合に天の声、検察指摘」と書いたのがけしからんと怒っている。(日経7/24夕刊)
もし新聞が中立不偏の立場なら、検察と新聞の立場を同一視してはならず、(その意見には賛成)、その見出しは「談合に天の声、検察主張」でなければならない、というのである。
されど、もとより後者のほうが分かりやすいと私も思うが、前者の表現が新聞が検察に肩入れした証拠になるのかどうか。別に指摘と書いたってそれほどの大事とは思えない。
しかしなんといっても言葉の専門家がおっしゃることだ。きっと私も、さうしてくだんの新聞記者も、左脳が超超劣化しているのだらう。
Thursday, July 26, 2007
レイモンド・カーヴァー著「ファイアズ(炎)」を読む
降っても照っても第39回
原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。
ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?
それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。
ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!?
諸賢の所見をお伺いしたいものである。
強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。
なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。
原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。
ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?
それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。
ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!?
諸賢の所見をお伺いしたいものである。
強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。
なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。
Wednesday, July 25, 2007
五木寛之著「21世紀仏教への旅・中国編」を読む
降っても照っても第38回
紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。
やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。
その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。
「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。
達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。
しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。
その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。
しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。
このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。
紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。
やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。
その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。
「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。
達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。
しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。
その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。
しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。
このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。
Tuesday, July 24, 2007
小さな勇気と大きな偶然
鎌倉ちょっと不思議な物語68回
パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。
私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。
八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。
名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。
余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」
と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか!
これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。
当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。
私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?
かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。
パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。
私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。
八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。
名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。
余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」
と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか!
これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。
当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。
私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?
かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。
Monday, July 23, 2007
出てきた携帯
♪バガテルop22
これで通算4回目か、それとも5回目になるのだろうか? 先週工芸大からの帰途、たぶん新宿から戸塚間の電車内で携帯を落とした私に、およそ一週間経ってなんと小田原警察から拾得の通知があった。正確には小田原警察からの通知を受けたauから私宛に小田原警察へ出頭せよとの通知書が配送されてきたのである。
確か前回は新橋で落としたやつが三鷹で出てきて真夏の街道筋を汗だくでトボトボ歩いてはじめて三鷹警察まで行ったのだった。なんでも親切な若い女性が届けてくださってというので、その女性にひとめお会いしてお礼を言いたいと申し出ると、三鷹署員は私に不純の動機があると思ったのか、急に疑いの眼を向けて、「それは不可です」と冷たく拒んだことをはしなくも思いだした…。
ともあれ出てきたことは慶賀に耐えない。(なんでも2割の人が携帯を落とした経験があり、8割が本人に無事返っているそうだ)
それで昨日は新宿の文化の夏休み前の最後の授業が終るや否や湘南新宿ラインの小田原行きに飛び乗って小田原警察くんだりまで行って、平成十三年製造の苔むした携帯を受け取ってきたのである。
しかし、サラリーマンであった日の私ならばともかく、最近の私には携帯なんて無用の長物である。電車の中で携帯メールやゲームやワンセグにうつつを抜かす連中はほんとうにバカな亡国の民だと思っているので私は絶対にやらないし、電話だって妻以外にはほとんど誰からもかかってこないし、ましてこちらから掛けることもない。
ただ1)時計がなくても時間が分かる。2)以前母親が急死した折に役立ったことがあった。3)たった1度だけこの携帯に小学館から仕事の依頼があった 4)授業日に電車が事故に遭った場合、教務に連絡するには便利だろうと漠然と思っている…の4つの理由からなかなか捨てられなかった。
それで今回の紛失事件をきっかけに、百害あって一利しかないこの文明の利器を断固廃棄処分にしてもう携帯とは縁を切ろうと思っていたのだが、出てきたとなればまあ仕方ない。いちおうまた落っことすまでは可愛がってやろうと思った次第です。
でもよく考えてみれば今でもケイタイなどなくても構わないし、なかった時代のほうがはるかに良い時代だった。私はこんなくだらない玩具を発明して商売の具にした人を軽蔑こそすれけっして尊敬できない。私はケイタイ・ラダイストに賛同する。
これで通算4回目か、それとも5回目になるのだろうか? 先週工芸大からの帰途、たぶん新宿から戸塚間の電車内で携帯を落とした私に、およそ一週間経ってなんと小田原警察から拾得の通知があった。正確には小田原警察からの通知を受けたauから私宛に小田原警察へ出頭せよとの通知書が配送されてきたのである。
確か前回は新橋で落としたやつが三鷹で出てきて真夏の街道筋を汗だくでトボトボ歩いてはじめて三鷹警察まで行ったのだった。なんでも親切な若い女性が届けてくださってというので、その女性にひとめお会いしてお礼を言いたいと申し出ると、三鷹署員は私に不純の動機があると思ったのか、急に疑いの眼を向けて、「それは不可です」と冷たく拒んだことをはしなくも思いだした…。
ともあれ出てきたことは慶賀に耐えない。(なんでも2割の人が携帯を落とした経験があり、8割が本人に無事返っているそうだ)
それで昨日は新宿の文化の夏休み前の最後の授業が終るや否や湘南新宿ラインの小田原行きに飛び乗って小田原警察くんだりまで行って、平成十三年製造の苔むした携帯を受け取ってきたのである。
しかし、サラリーマンであった日の私ならばともかく、最近の私には携帯なんて無用の長物である。電車の中で携帯メールやゲームやワンセグにうつつを抜かす連中はほんとうにバカな亡国の民だと思っているので私は絶対にやらないし、電話だって妻以外にはほとんど誰からもかかってこないし、ましてこちらから掛けることもない。
ただ1)時計がなくても時間が分かる。2)以前母親が急死した折に役立ったことがあった。3)たった1度だけこの携帯に小学館から仕事の依頼があった 4)授業日に電車が事故に遭った場合、教務に連絡するには便利だろうと漠然と思っている…の4つの理由からなかなか捨てられなかった。
それで今回の紛失事件をきっかけに、百害あって一利しかないこの文明の利器を断固廃棄処分にしてもう携帯とは縁を切ろうと思っていたのだが、出てきたとなればまあ仕方ない。いちおうまた落っことすまでは可愛がってやろうと思った次第です。
でもよく考えてみれば今でもケイタイなどなくても構わないし、なかった時代のほうがはるかに良い時代だった。私はこんなくだらない玩具を発明して商売の具にした人を軽蔑こそすれけっして尊敬できない。私はケイタイ・ラダイストに賛同する。
Sunday, July 22, 2007
鎌倉ちょっと不思議な物語67回
前回紹介した鎌倉の農協連即売所のすぐ傍に、米国のアウトドアアパレルメーカーのパタゴニア社の日本法人がある。
この会社は世界で初めてすべてのコットン製品をオーガニック(有機栽培)に切り替えたり、他社に先駆けてペットボトルからの再生フリースを販売するなど品質と環境を重視する経営で知られるが、“勤務中好きな時間に社員をサーフィンに行かせる”会社としても有名だ。
1938年生まれの創業者イヴォン・シュイナード氏は、登山、サーフィン、フライフィッシング、ダイビングなどを楽しむために1年の半分は世界中を渡り歩いているが、その独特な経営理念はなかなか興味深いものがある。海とスポーツと湘南とファッションを愛する人にはお薦めしたい会社である。(詳しくは話題のフリーマガジン「オルタナ」のインタビュー記事などを参照のこと)
私の近所にもサーフィン大好き人間が住んでいて、台風が来ると水曜日でもないのに朝から海岸に出かけてビッグウエーブを楽しんでいるようだ。仕事なんか忘れて海と戯れる快楽の日々……とは超うらやましい話だ。
この会社は世界で初めてすべてのコットン製品をオーガニック(有機栽培)に切り替えたり、他社に先駆けてペットボトルからの再生フリースを販売するなど品質と環境を重視する経営で知られるが、“勤務中好きな時間に社員をサーフィンに行かせる”会社としても有名だ。
1938年生まれの創業者イヴォン・シュイナード氏は、登山、サーフィン、フライフィッシング、ダイビングなどを楽しむために1年の半分は世界中を渡り歩いているが、その独特な経営理念はなかなか興味深いものがある。海とスポーツと湘南とファッションを愛する人にはお薦めしたい会社である。(詳しくは話題のフリーマガジン「オルタナ」のインタビュー記事などを参照のこと)
私の近所にもサーフィン大好き人間が住んでいて、台風が来ると水曜日でもないのに朝から海岸に出かけてビッグウエーブを楽しんでいるようだ。仕事なんか忘れて海と戯れる快楽の日々……とは超うらやましい話だ。
Saturday, July 21, 2007
瀬戸内寂聴著「秘花」を読む
降っても照っても第37回
世阿彌によれば、推古天皇の御世に、聖徳太子が渡来人の秦河勝に命じて天下保全と諸人快楽のために66番の遊宴を行わせ、これを申樂と称したのが能のはじまりとしている。
申樂はその後河勝の遠孫が相伝して春日・日吉神社の神職となり、和州・江州の輩が両社の神事に従うに連れて盛んになったと、当の世阿彌が「風姿花伝」に書いている。
当初は申樂よりも農事から発した田楽のほうが優勢であった。けれども足利義満公から肉体的・精神的な寵愛を受けた世阿彌は、父観阿弥のあとを継いでわが国の能芸術を大成し、あまたのライバルと闘って申樂と自家観世流の優位を確立したのであった。
しかし栄光の頂点にあった世阿彌は、72歳のとき、突如あの残虐非道の将軍義教によってなんの罪咎もなく都から佐渡に流された。ちなみに世阿彌同様の悲運を被った人々には、菅原道真、源高明、小野篁、在原行平、業平、光源氏(物語人物)、京極為兼、日野資朝、後鳥羽院、順徳院、崇徳院などがある。
後世の検証によって、世阿彌は翌73歳までは同地で生存していたと認められるが、その後の生涯は杳として知れない。この大きな謎に挑んだ著者が、この偉大な芸能感人の最晩年の足跡を「幻視」したのが、この小説である。
著者は資料や先学の研究・論文、現地調査に学びつつも、豊富な恋の遍歴と僧侶としての人生経験、そして作家特有の自由な空想のはばたきによって、「そうあったかもしれない能楽者の最後の軌跡」を、老成した筆致で、あたかも自作の謡をうたい、即興の舞いを舞うように、自在に書き連ねている。
またそのもっとも大きな創作の工夫は、老いたる能楽者に奉仕する若き女人を配したことであろう。彼女は一休に仕えた森女の如く落日の世阿彌の生と性をほのかに彩るのである。
世阿彌によれば、推古天皇の御世に、聖徳太子が渡来人の秦河勝に命じて天下保全と諸人快楽のために66番の遊宴を行わせ、これを申樂と称したのが能のはじまりとしている。
申樂はその後河勝の遠孫が相伝して春日・日吉神社の神職となり、和州・江州の輩が両社の神事に従うに連れて盛んになったと、当の世阿彌が「風姿花伝」に書いている。
当初は申樂よりも農事から発した田楽のほうが優勢であった。けれども足利義満公から肉体的・精神的な寵愛を受けた世阿彌は、父観阿弥のあとを継いでわが国の能芸術を大成し、あまたのライバルと闘って申樂と自家観世流の優位を確立したのであった。
しかし栄光の頂点にあった世阿彌は、72歳のとき、突如あの残虐非道の将軍義教によってなんの罪咎もなく都から佐渡に流された。ちなみに世阿彌同様の悲運を被った人々には、菅原道真、源高明、小野篁、在原行平、業平、光源氏(物語人物)、京極為兼、日野資朝、後鳥羽院、順徳院、崇徳院などがある。
後世の検証によって、世阿彌は翌73歳までは同地で生存していたと認められるが、その後の生涯は杳として知れない。この大きな謎に挑んだ著者が、この偉大な芸能感人の最晩年の足跡を「幻視」したのが、この小説である。
著者は資料や先学の研究・論文、現地調査に学びつつも、豊富な恋の遍歴と僧侶としての人生経験、そして作家特有の自由な空想のはばたきによって、「そうあったかもしれない能楽者の最後の軌跡」を、老成した筆致で、あたかも自作の謡をうたい、即興の舞いを舞うように、自在に書き連ねている。
またそのもっとも大きな創作の工夫は、老いたる能楽者に奉仕する若き女人を配したことであろう。彼女は一休に仕えた森女の如く落日の世阿彌の生と性をほのかに彩るのである。
Friday, July 20, 2007
鎌倉市農協連即売所にて
鎌倉ちょっと不思議な物語66回
ここは昭和三年、あの中原中也が亡くなった翌年に開設された鎌倉市農協連即売所である。
なんでも当時鎌倉にいた牧師から、欧州では農家の直接小売制度があると聞いた農家の人たちの有志がこの地で即売所をつくったらしい。もしかするとわが国で最初の地産地消システムかもしれない。
現在は平塚など鎌倉以外の農家も参加しているらしいが、四つのグループが四日毎に出店して正月の四日まで以外は連日8時から日没まで営業している。
終業時間が午後5時とか6時とかでなく「日没まで」というのが泣かせる。
天井には親ツバメが自分は絶対にえさを食べず、せっせと子供たちに運んでいた。これも当節の人間の親なぞが忘却してしまった真っ当な所業だと感涙を催す。
なお、よく東京のあほばかテレビがここを取り上げているようだが、すべての商品が他の八百屋より安くて品がいいとはいえないので要注意。
ここは昭和三年、あの中原中也が亡くなった翌年に開設された鎌倉市農協連即売所である。
なんでも当時鎌倉にいた牧師から、欧州では農家の直接小売制度があると聞いた農家の人たちの有志がこの地で即売所をつくったらしい。もしかするとわが国で最初の地産地消システムかもしれない。
現在は平塚など鎌倉以外の農家も参加しているらしいが、四つのグループが四日毎に出店して正月の四日まで以外は連日8時から日没まで営業している。
終業時間が午後5時とか6時とかでなく「日没まで」というのが泣かせる。
天井には親ツバメが自分は絶対にえさを食べず、せっせと子供たちに運んでいた。これも当節の人間の親なぞが忘却してしまった真っ当な所業だと感涙を催す。
なお、よく東京のあほばかテレビがここを取り上げているようだが、すべての商品が他の八百屋より安くて品がいいとはいえないので要注意。
Thursday, July 19, 2007
モーリス・バレス著「精霊の息吹く丘」を読む
降っても照っても第36回&勝手に建築観光22回
1862年フランスのローレーヌ地方で生まれ、1894年のドレフェス事件ではゾラに反対し、1905年にはカトリック教徒と共に政教分離に反対し、20世紀初頭の青年層にアナトールフランスと人気を分かち合い、フランソワ・モーリヤックからポールニザンにまで大きな影響を与え、代表作「自我礼拝」で知られるナショナリスト作家モーリス・バレスの「聖なる丘」(1913年)が翻訳された。
バレスによればフランスには我々凡俗の民の魂を無気力から引き出す精霊の息吹く地がいくつかあるそうだ。
それらは、あの奇跡の地ルールド、サント・マリーの浜辺、ダンテやセザンヌが描いたサント・ヴィクトワールの山、ブルゴーニュのヴェズレイ、ピュイ・ド・ダーム、エージーの洞窟、カルナックの荒地、ブロセリアンドの森、アリーズ・サント・レーヌとモン・オーソワの岬、あの有名な教会があるモン・サン・ミッシェル、アルデンヌの黒い森、ドンレミーの丘にあるシュニューの森、三つの泉、ベルモンの礼拝堂、そして教会の傍のジャンヌ・ダルクの家などだが、この小説の舞台であるローレーヌ地方のシオン・ヴォデモンの丘も霊感がみなぎる精霊の地であるらしい。
そして本書では、ノートルダム修道会に所属する熱烈な孤高のカトリック三兄弟の不退転の宗教的闘争が描かれているのだが、それは読者が読まれてからのお楽しみとしておこう。ただ惜しむらく篠沢秀夫氏の逐語訳翻訳は、現代日本語としてまったく消化されていない。
この本でモーリス・バレスは言う。「どこからこれらの地の力は来るのか? その効力はこれらの地の栄光に先立ってあったし、その栄光が消えても生き残るであろう。ある森のほとり、ある山頂、ある泉、ある牧場…、あたかも誰もまだその偉大さに気づいていない隠された魂があるように、このような精霊の地は世界中に無限にある。それらは我らに思考を停止させて心の最深部に耳を傾けるように命じる」と。
そしてこれこそは古くからガリアの地、ケルトに伝わる地霊“ゲニウス・ロキ”の働きではないだろうか?
『東京の地霊』の著者鈴木博之氏によれば、ゲニウスはラテン語で「産む人」、ロキはロコ、ロクスが元の言葉で、場所・土地の意であり、ひいてはその土地の守護霊を指すラテン語であるという。従って“ゲニウス・ロキ”とは「人を守護する精霊もしくは精気、人や事物に付随する守護の霊」ということになり、ある土地から引出される霊感やその土地に結びついた連想性・可能性を意味する。
この“ゲニウス・ロキ”という考え方が初めて文学に登場したのは、英国の詩人アレグザンダー・ポープの1731年の詩作品で、地霊は「土地を読み解くすべての鍵」とされ、それ以後英国18世紀の美意識に大きな影響を与えたそうだが、それが大陸に上陸してケルト=ガリア=フランス=ローレーヌ地方の愛国的カトリシズムと20世紀の初頭に合体したものがモーリス・バレスのこの作品ではないだろうか?
そして私は建築に携わる行政やメガデベロッパーは、今こそポープ=モーリス・バレス=鈴木博之流の“ゲニウス・ロキ”という考え方を取り入れ、当節流行のいんちきスピリチュアル流とは一線を画した“聖なる土地の霊の声”に謙虚に耳を傾けるべきではないかと思う。
都市の歴史は都市計画や建築ヴィジョンの歴史ではない。その土地の固有の歴史である。土地をひとつのテキストとして、その土地の歴史的・文化的・社会的な背景と性格を読み解くことこそが21世紀建築の使命ではないだろうか?
1862年フランスのローレーヌ地方で生まれ、1894年のドレフェス事件ではゾラに反対し、1905年にはカトリック教徒と共に政教分離に反対し、20世紀初頭の青年層にアナトールフランスと人気を分かち合い、フランソワ・モーリヤックからポールニザンにまで大きな影響を与え、代表作「自我礼拝」で知られるナショナリスト作家モーリス・バレスの「聖なる丘」(1913年)が翻訳された。
バレスによればフランスには我々凡俗の民の魂を無気力から引き出す精霊の息吹く地がいくつかあるそうだ。
それらは、あの奇跡の地ルールド、サント・マリーの浜辺、ダンテやセザンヌが描いたサント・ヴィクトワールの山、ブルゴーニュのヴェズレイ、ピュイ・ド・ダーム、エージーの洞窟、カルナックの荒地、ブロセリアンドの森、アリーズ・サント・レーヌとモン・オーソワの岬、あの有名な教会があるモン・サン・ミッシェル、アルデンヌの黒い森、ドンレミーの丘にあるシュニューの森、三つの泉、ベルモンの礼拝堂、そして教会の傍のジャンヌ・ダルクの家などだが、この小説の舞台であるローレーヌ地方のシオン・ヴォデモンの丘も霊感がみなぎる精霊の地であるらしい。
そして本書では、ノートルダム修道会に所属する熱烈な孤高のカトリック三兄弟の不退転の宗教的闘争が描かれているのだが、それは読者が読まれてからのお楽しみとしておこう。ただ惜しむらく篠沢秀夫氏の逐語訳翻訳は、現代日本語としてまったく消化されていない。
この本でモーリス・バレスは言う。「どこからこれらの地の力は来るのか? その効力はこれらの地の栄光に先立ってあったし、その栄光が消えても生き残るであろう。ある森のほとり、ある山頂、ある泉、ある牧場…、あたかも誰もまだその偉大さに気づいていない隠された魂があるように、このような精霊の地は世界中に無限にある。それらは我らに思考を停止させて心の最深部に耳を傾けるように命じる」と。
そしてこれこそは古くからガリアの地、ケルトに伝わる地霊“ゲニウス・ロキ”の働きではないだろうか?
『東京の地霊』の著者鈴木博之氏によれば、ゲニウスはラテン語で「産む人」、ロキはロコ、ロクスが元の言葉で、場所・土地の意であり、ひいてはその土地の守護霊を指すラテン語であるという。従って“ゲニウス・ロキ”とは「人を守護する精霊もしくは精気、人や事物に付随する守護の霊」ということになり、ある土地から引出される霊感やその土地に結びついた連想性・可能性を意味する。
この“ゲニウス・ロキ”という考え方が初めて文学に登場したのは、英国の詩人アレグザンダー・ポープの1731年の詩作品で、地霊は「土地を読み解くすべての鍵」とされ、それ以後英国18世紀の美意識に大きな影響を与えたそうだが、それが大陸に上陸してケルト=ガリア=フランス=ローレーヌ地方の愛国的カトリシズムと20世紀の初頭に合体したものがモーリス・バレスのこの作品ではないだろうか?
そして私は建築に携わる行政やメガデベロッパーは、今こそポープ=モーリス・バレス=鈴木博之流の“ゲニウス・ロキ”という考え方を取り入れ、当節流行のいんちきスピリチュアル流とは一線を画した“聖なる土地の霊の声”に謙虚に耳を傾けるべきではないかと思う。
都市の歴史は都市計画や建築ヴィジョンの歴史ではない。その土地の固有の歴史である。土地をひとつのテキストとして、その土地の歴史的・文化的・社会的な背景と性格を読み解くことこそが21世紀建築の使命ではないだろうか?
Wednesday, July 18, 2007
江國香織著「がらくた」を読む
降っても照っても第35回
45歳の美術史専門の翻訳家の女性とテレビ番組を制作する50過ぎの夫や18歳の少女と建築家の父親と祖母などが登場し、海外のリゾートやビーチのパラソルやヴィラや透明なグラッパやアマレットやオマール海老や、サワークリームを添えたキャビアやミラベルというジャムにすると美味しい果物やボブ・マーリーやセルジオ・メンデスや、伊勢丹で買ったタイツや逗子葉山のサーフィン屋や車のヴォルヴォ!や、現代絵画や、動く彫刻やらも続々登場し、その合間を縫って、己の欲望や快楽をとてもとても大事にしている主人公たちが、たとえ彼らが夫婦であっても、そしてお互いに深く愛し合っていても、突如どこかで魅力的な男や女と遭遇すると、たとえそれが昼であっても夜であっても、たとえそれが海や浜辺や陸地であっても、それがマンションや浴室やキッチンであっても、迷うことなくめいめいの性的欲望を満たし、それでもって恬として恥じず、それをもってますます己は美しい桜であるとうにぼれ、それでもって気だるい寂しさとか悲しみとかを覚え、そんでもってとうとうこの小説の主人公のひとりである大人びた美少女までが、何故だか今まで好きだった同世代の少年を突然捨てて、テレビ番組を制作する50過ぎの魅力的な中年のおじさまに恋をしてしまい、どうした親の因果がこの子に報いたのかは分からないが、「ホテルとか、自動車のなかとか、裸になれる場所に行って性交をしてみたい。どうしてもこの男の人とそれをしたい」とはっきり思うようになり、それが嵩じて「不届きな真似をしてほしいの」とその男の耳元でささやくにまでに至り、そんな露骨なことを言う(言わせる?)ほうも言う(言わせる?)ほうだし、「よおし分かった」とばかりに大喜びする男も男だと思うのだが、♪アカシアの雨に打たれて♪夜霧の西麻布シテイホテルに連れて行かれてご希望通り初体験し、最後に「これがそれか。そう思うと、私はなんだかしみじみした。自分の身体が2時間前までとはべつの物になった気がして、はじめてのそれを、原さんとできてよかったと思った」とつぶやくという、わが国にも半世紀遅れでやって来たフランソワーズ・サガン風女史による夢見るシャンソン人形のような、金平糖のような、スイーツのような、触るとポロポロ崩れてしまうパフェのような、益体もないももんがあのような、著者が自称するとおりの三文がらくた小説である。
45歳の美術史専門の翻訳家の女性とテレビ番組を制作する50過ぎの夫や18歳の少女と建築家の父親と祖母などが登場し、海外のリゾートやビーチのパラソルやヴィラや透明なグラッパやアマレットやオマール海老や、サワークリームを添えたキャビアやミラベルというジャムにすると美味しい果物やボブ・マーリーやセルジオ・メンデスや、伊勢丹で買ったタイツや逗子葉山のサーフィン屋や車のヴォルヴォ!や、現代絵画や、動く彫刻やらも続々登場し、その合間を縫って、己の欲望や快楽をとてもとても大事にしている主人公たちが、たとえ彼らが夫婦であっても、そしてお互いに深く愛し合っていても、突如どこかで魅力的な男や女と遭遇すると、たとえそれが昼であっても夜であっても、たとえそれが海や浜辺や陸地であっても、それがマンションや浴室やキッチンであっても、迷うことなくめいめいの性的欲望を満たし、それでもって恬として恥じず、それをもってますます己は美しい桜であるとうにぼれ、それでもって気だるい寂しさとか悲しみとかを覚え、そんでもってとうとうこの小説の主人公のひとりである大人びた美少女までが、何故だか今まで好きだった同世代の少年を突然捨てて、テレビ番組を制作する50過ぎの魅力的な中年のおじさまに恋をしてしまい、どうした親の因果がこの子に報いたのかは分からないが、「ホテルとか、自動車のなかとか、裸になれる場所に行って性交をしてみたい。どうしてもこの男の人とそれをしたい」とはっきり思うようになり、それが嵩じて「不届きな真似をしてほしいの」とその男の耳元でささやくにまでに至り、そんな露骨なことを言う(言わせる?)ほうも言う(言わせる?)ほうだし、「よおし分かった」とばかりに大喜びする男も男だと思うのだが、♪アカシアの雨に打たれて♪夜霧の西麻布シテイホテルに連れて行かれてご希望通り初体験し、最後に「これがそれか。そう思うと、私はなんだかしみじみした。自分の身体が2時間前までとはべつの物になった気がして、はじめてのそれを、原さんとできてよかったと思った」とつぶやくという、わが国にも半世紀遅れでやって来たフランソワーズ・サガン風女史による夢見るシャンソン人形のような、金平糖のような、スイーツのような、触るとポロポロ崩れてしまうパフェのような、益体もないももんがあのような、著者が自称するとおりの三文がらくた小説である。
Tuesday, July 17, 2007
ある丹波の老人の話(37)
「第6話弟の更正 第5回」
弟はそれから大阪へ戻り、親戚を頼って今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったんで手馴れたメリヤス雑貨に変わりました。
ここで嫁をもらったんで、ようやく今度はかたぎになるかと思ったら、またまた性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃくちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ良くないこともやったとみえて、警察から私のうちへ弟のことを尋ねてくるようになり、ずいぶん心配させられたもんでした。
ちょうどその時、父の病が篤く、電報で知らせたけれどなかなか帰ってこない。ようやく帰ってきて臨終には間にあったけれど、これがまた隠岐から帰ってきたときの父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿でした。
あとで聞くと帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内のほうまで行って友達に帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということでした。
葬式のときは幸い私が夏と冬のモーニングをつくっていたので、夏の分を弟に着せ、ちょうど4月の花見時分やったのでどうにかカッコウがついたんでした。
弟はそれから大阪へ戻り、親戚を頼って今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったんで手馴れたメリヤス雑貨に変わりました。
ここで嫁をもらったんで、ようやく今度はかたぎになるかと思ったら、またまた性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃくちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ良くないこともやったとみえて、警察から私のうちへ弟のことを尋ねてくるようになり、ずいぶん心配させられたもんでした。
ちょうどその時、父の病が篤く、電報で知らせたけれどなかなか帰ってこない。ようやく帰ってきて臨終には間にあったけれど、これがまた隠岐から帰ってきたときの父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿でした。
あとで聞くと帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内のほうまで行って友達に帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということでした。
葬式のときは幸い私が夏と冬のモーニングをつくっていたので、夏の分を弟に着せ、ちょうど4月の花見時分やったのでどうにかカッコウがついたんでした。
Monday, July 16, 2007
ある丹波の老人の話(36)
「第6話弟の更正 第4回」
明治44年の退営後、私の弟は福知山の長町に家を買い嫁ももらって、なかなか盛大にメリヤス雑貨の卸売問屋をやっておりました。しかし、その資金をどうしたもんかは私にもようわかりまへん。
その頃の私の家は相変わらず貧乏だったはずなのに、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまたもうけて盛り返し、七転び八起きしたもんですから、あるいは調子のよいときに弟に相当の資金を与えたのかもしれまへん。
ところが弟は女房運が悪く、はじめの嫁は離縁し、二度目のの嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという分不相応のお大尽遊びなどをやってとうとう福知山で食いつぶしてしまいました。
それから京都へ出て、西陣の松尾という大きなメリヤス雑貨問屋の番頭に住み込み、そこで成績を上げて主家に信頼され、間もなく自立しておなじ商売の店を持ち、なかなかいいところまでやっておったんですが、またもや酒色に身を持ち崩し、手形の不渡りなどでたびたび窮地に陥り、再三私のところへ無心にきよりました。
この弟には私には内緒で妻がだいぶ貢いだもんどした。結局京都の店は持ちきれずに東京へ逃げた弟は、ここでもひところはいちおう成功しておったようですが、あの大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったそうです。
明治44年の退営後、私の弟は福知山の長町に家を買い嫁ももらって、なかなか盛大にメリヤス雑貨の卸売問屋をやっておりました。しかし、その資金をどうしたもんかは私にもようわかりまへん。
その頃の私の家は相変わらず貧乏だったはずなのに、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまたもうけて盛り返し、七転び八起きしたもんですから、あるいは調子のよいときに弟に相当の資金を与えたのかもしれまへん。
ところが弟は女房運が悪く、はじめの嫁は離縁し、二度目のの嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという分不相応のお大尽遊びなどをやってとうとう福知山で食いつぶしてしまいました。
それから京都へ出て、西陣の松尾という大きなメリヤス雑貨問屋の番頭に住み込み、そこで成績を上げて主家に信頼され、間もなく自立しておなじ商売の店を持ち、なかなかいいところまでやっておったんですが、またもや酒色に身を持ち崩し、手形の不渡りなどでたびたび窮地に陥り、再三私のところへ無心にきよりました。
この弟には私には内緒で妻がだいぶ貢いだもんどした。結局京都の店は持ちきれずに東京へ逃げた弟は、ここでもひところはいちおう成功しておったようですが、あの大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったそうです。
Sunday, July 15, 2007
五木寛之著「21世紀仏教への旅・朝鮮半島編」を読む
降っても照っても第34回
インドと同様、いま韓国では仏教が熱いそうだ。
韓国の仏教はその9割以上が新羅の護国仏教であった華厳宗の流れを汲む曹渓宗だそうだが、奈良の東大寺がわが国の華厳宗総本山であることを思うと、改めてこの二つの国、地域の切断されえない「えにし」について認識を新たにせざるをえない。
ちなみに、かのスパルタに似た新羅の若衆宿花郎制度は、弥勒信仰で結ばれた熱烈な青年宗教教育軍事システムであり、そのストイックなライフスタイルは京都広隆寺の半跏思惟像のたたずまいや聖徳太子の倫理観にもつながっている。
しかし儒教、国家と一体になった韓国の仏教は、わが国の仏教やカトリックによくみられる“上からの規範に準拠する下々の信仰”とは形態を異にしていて、その大半が“民衆の主体的意思にもとづく信仰”である、と著者は指摘している。
幼年期を日本の植民地朝鮮で過ごした著者は、敗戦直後の平壌で母を喪い、ソ連軍による略奪、暴行、強姦の地獄をつぶさに体験する。
「ソ連軍が官舎に乗りこんできても虚脱状態に陥った父は両手を上げたままほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのを聞いてもそうだった」
そしてその父も、引き揚げ後の日本でうしなう。ここから「私たちはすべて一定、地獄の住人ではないだろうか」という著者の諦念にみちた人生観が生まれる。
「戦争中のみならず、私たちはいまも確かに地獄に生きている。しかしその一方でその地獄に差してくるかすまな光があることを信じる。現実に生きるとはそのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」
という著者の言葉に、私は共感を覚えた。
インドと同様、いま韓国では仏教が熱いそうだ。
韓国の仏教はその9割以上が新羅の護国仏教であった華厳宗の流れを汲む曹渓宗だそうだが、奈良の東大寺がわが国の華厳宗総本山であることを思うと、改めてこの二つの国、地域の切断されえない「えにし」について認識を新たにせざるをえない。
ちなみに、かのスパルタに似た新羅の若衆宿花郎制度は、弥勒信仰で結ばれた熱烈な青年宗教教育軍事システムであり、そのストイックなライフスタイルは京都広隆寺の半跏思惟像のたたずまいや聖徳太子の倫理観にもつながっている。
しかし儒教、国家と一体になった韓国の仏教は、わが国の仏教やカトリックによくみられる“上からの規範に準拠する下々の信仰”とは形態を異にしていて、その大半が“民衆の主体的意思にもとづく信仰”である、と著者は指摘している。
幼年期を日本の植民地朝鮮で過ごした著者は、敗戦直後の平壌で母を喪い、ソ連軍による略奪、暴行、強姦の地獄をつぶさに体験する。
「ソ連軍が官舎に乗りこんできても虚脱状態に陥った父は両手を上げたままほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのを聞いてもそうだった」
そしてその父も、引き揚げ後の日本でうしなう。ここから「私たちはすべて一定、地獄の住人ではないだろうか」という著者の諦念にみちた人生観が生まれる。
「戦争中のみならず、私たちはいまも確かに地獄に生きている。しかしその一方でその地獄に差してくるかすまな光があることを信じる。現実に生きるとはそのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」
という著者の言葉に、私は共感を覚えた。
Saturday, July 14, 2007
梅原猛の「京都発見第9巻」を読む
降っても照っても第33回
読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。
比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。
私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。
またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。
それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。
最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。
延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。
そこで著者は訴える。
すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。
著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。
さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。
金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。
これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。
読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。
比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。
私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。
またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。
それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。
最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。
延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。
そこで著者は訴える。
すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。
著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。
さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。
金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。
これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。
Friday, July 13, 2007
♪バガテルop22
先日の新聞報道によれば、東京都足立区の区立小学校が学力テストの集計から障碍者を除外して、健常者のみの成績を教育委員会に報告していたそうだ。
同区は学校選択制を取り入れており、成績上位校には入学希望者が殺到する。この学校では「学力実態」を知るためにそういうことをやったらしいが、「優秀な生徒」だけを集めようとこういうかさ上げ措置を行ったのではないのだろうか?
まったくもって言語同断である。成績優秀者もそうでない者も、男も女も、そのいずれでもない者も、そのいずれでもある者も、日本人も外国人も、障碍のある者もない者も、宇宙人もネコも杓子もぎょうさんおって、それらを全部足して人数で割っての平均値であろう。
ところが足立区の教育委員会では、保護者に説明して了解を取れば校長判断で集計から除外することを認めているというが、これもおかしい。
この件に関して保護者に聞く必要などまったくない。それ以前の話だ。
実際にクラスのなかに存在している人間の能力を、その優秀さと無能さを含めて、ありのままに対象化すること。それが人間と教育の基本だからである。
障碍者を幻視しながら「なき者にして」でっち上げられた数値は、いくら高くともあのアウシュビッツでユダヤ人を「亡き者にしよう」と企てた「ナチ立純ゲルマン小学校」の通知表のウルトラスーパー偏差値にどこか通じるものがありはしないだろうか?
同区は学校選択制を取り入れており、成績上位校には入学希望者が殺到する。この学校では「学力実態」を知るためにそういうことをやったらしいが、「優秀な生徒」だけを集めようとこういうかさ上げ措置を行ったのではないのだろうか?
まったくもって言語同断である。成績優秀者もそうでない者も、男も女も、そのいずれでもない者も、そのいずれでもある者も、日本人も外国人も、障碍のある者もない者も、宇宙人もネコも杓子もぎょうさんおって、それらを全部足して人数で割っての平均値であろう。
ところが足立区の教育委員会では、保護者に説明して了解を取れば校長判断で集計から除外することを認めているというが、これもおかしい。
この件に関して保護者に聞く必要などまったくない。それ以前の話だ。
実際にクラスのなかに存在している人間の能力を、その優秀さと無能さを含めて、ありのままに対象化すること。それが人間と教育の基本だからである。
障碍者を幻視しながら「なき者にして」でっち上げられた数値は、いくら高くともあのアウシュビッツでユダヤ人を「亡き者にしよう」と企てた「ナチ立純ゲルマン小学校」の通知表のウルトラスーパー偏差値にどこか通じるものがありはしないだろうか?
Thursday, July 12, 2007
河野多恵子の「臍の緒は妙薬」を読む
降っても照っても第32回
クラシック音楽の指揮も、純文学も、老境に入って死期が迫れば迫るほどその芸術表現に凄みと滋味が出るようだ。
河野多恵子による本作も、まさしくその典型である。全体的に著者は耄碌しかかっているが、それが武者小路実篤とはひとあじも二味も違った絶妙のボケ加減になっていて、賛嘆おくあたわざる風韻を醸し出している。
例えばデアル体とデスマス体の平気な混在については学ぶところ大であった。
最初の「月光の曲」では、国定の国語読本の引用で楽聖ヴェートーヴェンが登場して、盲目の少女のために即興でその曲を弾き始めるところが素晴らしくて、(かの千の風なんかを読み聞きしてもなんの感銘も受けなかったこのニルアドミラルの私が)思わず涙腺が緩むのを覚えた。
余談ながら、戦前の教科書は誰が書いたかかなりの名文で、われら帝国の小国民はここから国民文学精神を体得したのだった。
例えば人口に膾炙した
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
コイ コイ シロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
この文章はなかなか素敵な日本語だ。見事に韻を踏んでいる。知的に過ぎる谷川俊太郎には書けない無意識の民族詩だ。
「星辰」は占いの話であるが、最後の1行が圧倒的な読後感を生み、またはじめに戻って読み直す仕儀に立ち至る。これぞ短編小説の極意である。
3作目の「魔」から相当不気味なん世界に突入する。コンスターチで生まれざりし子の彫刻を作るとは!
そうして最後の表題作では、著者の尋常ならざるへその緒への執着!があきらかにされる。
最後の文章はこうである。
「そして……。だんだん怖い女になりつつある」
自分でもどうしようもない怖い人間に、河野多恵子はどんどんなって行く、らしいのである。
クラシック音楽の指揮も、純文学も、老境に入って死期が迫れば迫るほどその芸術表現に凄みと滋味が出るようだ。
河野多恵子による本作も、まさしくその典型である。全体的に著者は耄碌しかかっているが、それが武者小路実篤とはひとあじも二味も違った絶妙のボケ加減になっていて、賛嘆おくあたわざる風韻を醸し出している。
例えばデアル体とデスマス体の平気な混在については学ぶところ大であった。
最初の「月光の曲」では、国定の国語読本の引用で楽聖ヴェートーヴェンが登場して、盲目の少女のために即興でその曲を弾き始めるところが素晴らしくて、(かの千の風なんかを読み聞きしてもなんの感銘も受けなかったこのニルアドミラルの私が)思わず涙腺が緩むのを覚えた。
余談ながら、戦前の教科書は誰が書いたかかなりの名文で、われら帝国の小国民はここから国民文学精神を体得したのだった。
例えば人口に膾炙した
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
コイ コイ シロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
この文章はなかなか素敵な日本語だ。見事に韻を踏んでいる。知的に過ぎる谷川俊太郎には書けない無意識の民族詩だ。
「星辰」は占いの話であるが、最後の1行が圧倒的な読後感を生み、またはじめに戻って読み直す仕儀に立ち至る。これぞ短編小説の極意である。
3作目の「魔」から相当不気味なん世界に突入する。コンスターチで生まれざりし子の彫刻を作るとは!
そうして最後の表題作では、著者の尋常ならざるへその緒への執着!があきらかにされる。
最後の文章はこうである。
「そして……。だんだん怖い女になりつつある」
自分でもどうしようもない怖い人間に、河野多恵子はどんどんなって行く、らしいのである。
Wednesday, July 11, 2007
金原ひとみの「ハイドラ」を読む
降っても照っても第31回
題名のHydraは9つの首を持つ海蛇であるが、この小説の主人公は二つの首しか持たず、しかもその2つがお互いにぐるぐる巻きになってしまって、どちらを主人公にしていいのか自分でもわからなくなってしまう「双頭の蛇女」である。
拒食症に悩む読者モデルやヘアメイク、ホモセクシャル、人気ロックミュジシヤンなどが続々登場するので、これはおしゃれな風俗小説かと思ってすいすい読んでいったが、なんととっても古めかしい三文読みきり小説でした。
しかもテーマが、古い言葉で恐縮だが、理想と現実、もしくは新しく危険な未来と勝手知ったる手馴れた日常、との対立、相克ときたもんだ。
さらにこの双頭の蛇女ときたら、なんだかんだがありながら後者の道を選びなおすというのだから、まるで話が面白くない。たかが小説でしょ。そんなに簡単に元のさやに戻らず、せめて新しい男との波乱万丈の共同生活の成り行きをしっかり描写してから、本書の筆をおいてほしかった。
題名のHydraは9つの首を持つ海蛇であるが、この小説の主人公は二つの首しか持たず、しかもその2つがお互いにぐるぐる巻きになってしまって、どちらを主人公にしていいのか自分でもわからなくなってしまう「双頭の蛇女」である。
拒食症に悩む読者モデルやヘアメイク、ホモセクシャル、人気ロックミュジシヤンなどが続々登場するので、これはおしゃれな風俗小説かと思ってすいすい読んでいったが、なんととっても古めかしい三文読みきり小説でした。
しかもテーマが、古い言葉で恐縮だが、理想と現実、もしくは新しく危険な未来と勝手知ったる手馴れた日常、との対立、相克ときたもんだ。
さらにこの双頭の蛇女ときたら、なんだかんだがありながら後者の道を選びなおすというのだから、まるで話が面白くない。たかが小説でしょ。そんなに簡単に元のさやに戻らず、せめて新しい男との波乱万丈の共同生活の成り行きをしっかり描写してから、本書の筆をおいてほしかった。
Tuesday, July 10, 2007
ガルシア・マルケスの「族長の秋」を読む
降っても照っても第30回
言葉、言葉、言葉…。
大きく逸脱し乱反射する豊饒なビジョンを、酔っ払った大脳前頭葉が猛烈な勢いで追走し、追いついた時点で次々に自由奔放な言葉に置き換えられる…。それが「族長の秋」でマルケスが発明した書き方だ。
ここで100年を超えてしたたかに生き延びる現代のミノタウロスに成り変ったマルケスが見せ付けるのは、腐敗堕落した政治権力の、いや老醜無残な人間の生き方の末路そのものではないだろうか?
最新流行のHOWについて喋喋せずに、太古から現代の人間史、宇宙史の根幹を貫くWHATについて滔々と語りつくす著者の力業にしばし心うたれる。
言葉、言葉、言葉…。
大きく逸脱し乱反射する豊饒なビジョンを、酔っ払った大脳前頭葉が猛烈な勢いで追走し、追いついた時点で次々に自由奔放な言葉に置き換えられる…。それが「族長の秋」でマルケスが発明した書き方だ。
ここで100年を超えてしたたかに生き延びる現代のミノタウロスに成り変ったマルケスが見せ付けるのは、腐敗堕落した政治権力の、いや老醜無残な人間の生き方の末路そのものではないだろうか?
最新流行のHOWについて喋喋せずに、太古から現代の人間史、宇宙史の根幹を貫くWHATについて滔々と語りつくす著者の力業にしばし心うたれる。
Monday, July 09, 2007
モーツアルトの1音符
♪音楽千夜一夜第22回
先日音楽評論家の吉田秀和氏がNHKの教育テレビに出演してインタビューに答えていた。
そのなかで小林秀雄のモオツアルト論の衝撃について語りつつ、しかし小林は音楽の専門家ではないこと。また小林は直感と文体に優れてはいるが、彼の論理には前進がなく、周辺をうろうろ低回しながらその発展がなくてけっきょく元の木阿弥に戻ってしまう、という種類のことを自宅の緑陰のロッキングチエアに身をゆだねつつ語っていたのだが、それを聞いて私は「ああ、それはほんとうにそうだな」と思った。
もっとも頭の悪い私には小林の「本居宣長」などいくら読んでもなんのことやら、何をいいたいのだか、全然分からなかったから、余計にそう思ったのかもしれないが。
モーツアルトは生存中から音符が多すぎると非難されたが、吉田氏は彼のはじめての著書の「主題と変奏」のなかで、その数多い音符のなかの些細なたった1音符が他の凡庸な作曲家と鋭い一線を画していることを、実際に譜面を示しながら説いている。
しかし悲しいかな音符がまったく読めない私には、その真意が全然理解できなかった。
ところが幸いにもこの番組では作曲家の池辺晋一郎氏が登場して、モーツアルトのK505のピアノソナタのその個所を演奏しながら、その♯の1音のあるなしの意味について語ってくれたので、私は改めて批評家吉田秀和の批評の具体性に感動し、「ああそうなんだ」と心から得心したのだった。
もうひとつは吉田氏が日本にその真価をはじめて紹介したグレングールドについて、「彼はバッハを新しい叙情性でもって演奏した」と一言で要約したことだ。
私はこのときまたしても、「ああそうなんだ。グールドって新しい叙情的なバッハを弾いたんだ」と思って、心から得心した。
私にとって吉田秀和という人は、誰も何も言わなかったことに対して、「ああそうなんだ」と心から思わせてくれる世にも貴重な存在なのである。
先日音楽評論家の吉田秀和氏がNHKの教育テレビに出演してインタビューに答えていた。
そのなかで小林秀雄のモオツアルト論の衝撃について語りつつ、しかし小林は音楽の専門家ではないこと。また小林は直感と文体に優れてはいるが、彼の論理には前進がなく、周辺をうろうろ低回しながらその発展がなくてけっきょく元の木阿弥に戻ってしまう、という種類のことを自宅の緑陰のロッキングチエアに身をゆだねつつ語っていたのだが、それを聞いて私は「ああ、それはほんとうにそうだな」と思った。
もっとも頭の悪い私には小林の「本居宣長」などいくら読んでもなんのことやら、何をいいたいのだか、全然分からなかったから、余計にそう思ったのかもしれないが。
モーツアルトは生存中から音符が多すぎると非難されたが、吉田氏は彼のはじめての著書の「主題と変奏」のなかで、その数多い音符のなかの些細なたった1音符が他の凡庸な作曲家と鋭い一線を画していることを、実際に譜面を示しながら説いている。
しかし悲しいかな音符がまったく読めない私には、その真意が全然理解できなかった。
ところが幸いにもこの番組では作曲家の池辺晋一郎氏が登場して、モーツアルトのK505のピアノソナタのその個所を演奏しながら、その♯の1音のあるなしの意味について語ってくれたので、私は改めて批評家吉田秀和の批評の具体性に感動し、「ああそうなんだ」と心から得心したのだった。
もうひとつは吉田氏が日本にその真価をはじめて紹介したグレングールドについて、「彼はバッハを新しい叙情性でもって演奏した」と一言で要約したことだ。
私はこのときまたしても、「ああそうなんだ。グールドって新しい叙情的なバッハを弾いたんだ」と思って、心から得心した。
私にとって吉田秀和という人は、誰も何も言わなかったことに対して、「ああそうなんだ」と心から思わせてくれる世にも貴重な存在なのである。
Saturday, July 07, 2007
大隈講堂を仰ぐ
遥かな昔、遠い所で第13回&勝手に建築観光20回&♪ある晴れた日に12回
私らの頃からここには大隈講堂が建っていた。昔はもっとうす汚れていたと思うのだが、お色直しでもしたのだろうか? キャンパスを歩くといたるところで普請中であるが、この大学はずいぶん金があるのだろう。
1927年に完成した大隈講堂は1999年に東京都の歴史的建造物に指定されたゴシック様式の優美な7階建ての建物である。
内藤多仲(1956年に大阪通天閣、58年に東京タワー3を設計)、佐藤功一らが設計し、大隈重信の「人生125歳」説にちなんで高さ123尺(約37.8m)になっているそうだ。
全体の外壁のタイルは信楽焼でその滑らかな質感が高雅な情緒を醸し出している。
塔上には時計台がある。その時計台の4つの鐘が、英国のウエストミンスター宮殿と同じメロディで一日5回鳴るそうだが、私は一度も聴いたことがない。きっとそれどころではなかったのだろう。
内部の天井には宇宙を表現した楕円形の採光窓があるが、私はたしかこの天井の下で「劇団こだま」の公演に参加したことがある。友人がチエロを弾いていた大学オケを聴いたこともある。
私のささやかな音楽体験によると、いかなるプロのオーケストラよりも、たとえそれがベルリンやヴィーンのそれであっても、世界中のアマチュアオケ、とりわけわが国の大学や中小都市の群小オケのひたむきな演奏のほうに大いにぶがある。
技術的には数等劣る、吹けば飛ぶようなアマチュアオケの、たった1小節の演奏にも、いきなり人の心をわしづかみにし、不意の涙がちょちょぎれる一期一会の感動があり、それは例えば、かの足助名時が指揮する哀れ超凡庸なN響などに1000回足を運んでも、絶対に、絶対に得られないていのものなのですよ。
しかし頭の下に耳が、耳の真ん中に鼓膜がなくて銘柄にくるい、心に正義と太陽がないオタマジャク愛好者どもには、こんなみやすい道理が、こんな聴きやすい子守唄が、たとい7度生まれ変わろうとまったく見えども見えず、聴けども聴けないのだ。にゃろめ。
そして昔からバカダ、バカダと呼ばれ、なんのとりえもないこの大学にも、たったひとつ、世界に誇る素晴らしい学生オケがあるのである。
♪反歌
時おりは腐乱死体にて漂えり明大前の夜の鯉かな
明大前の最終電車は発車せり池の縁にてなおかがまれる一人
中秋の名月ひとり輝けり五分の叙情をわれに許す
私らの頃からここには大隈講堂が建っていた。昔はもっとうす汚れていたと思うのだが、お色直しでもしたのだろうか? キャンパスを歩くといたるところで普請中であるが、この大学はずいぶん金があるのだろう。
1927年に完成した大隈講堂は1999年に東京都の歴史的建造物に指定されたゴシック様式の優美な7階建ての建物である。
内藤多仲(1956年に大阪通天閣、58年に東京タワー3を設計)、佐藤功一らが設計し、大隈重信の「人生125歳」説にちなんで高さ123尺(約37.8m)になっているそうだ。
全体の外壁のタイルは信楽焼でその滑らかな質感が高雅な情緒を醸し出している。
塔上には時計台がある。その時計台の4つの鐘が、英国のウエストミンスター宮殿と同じメロディで一日5回鳴るそうだが、私は一度も聴いたことがない。きっとそれどころではなかったのだろう。
内部の天井には宇宙を表現した楕円形の採光窓があるが、私はたしかこの天井の下で「劇団こだま」の公演に参加したことがある。友人がチエロを弾いていた大学オケを聴いたこともある。
私のささやかな音楽体験によると、いかなるプロのオーケストラよりも、たとえそれがベルリンやヴィーンのそれであっても、世界中のアマチュアオケ、とりわけわが国の大学や中小都市の群小オケのひたむきな演奏のほうに大いにぶがある。
技術的には数等劣る、吹けば飛ぶようなアマチュアオケの、たった1小節の演奏にも、いきなり人の心をわしづかみにし、不意の涙がちょちょぎれる一期一会の感動があり、それは例えば、かの足助名時が指揮する哀れ超凡庸なN響などに1000回足を運んでも、絶対に、絶対に得られないていのものなのですよ。
しかし頭の下に耳が、耳の真ん中に鼓膜がなくて銘柄にくるい、心に正義と太陽がないオタマジャク愛好者どもには、こんなみやすい道理が、こんな聴きやすい子守唄が、たとい7度生まれ変わろうとまったく見えども見えず、聴けども聴けないのだ。にゃろめ。
そして昔からバカダ、バカダと呼ばれ、なんのとりえもないこの大学にも、たったひとつ、世界に誇る素晴らしい学生オケがあるのである。
♪反歌
時おりは腐乱死体にて漂えり明大前の夜の鯉かな
明大前の最終電車は発車せり池の縁にてなおかがまれる一人
中秋の名月ひとり輝けり五分の叙情をわれに許す
Friday, July 06, 2007
カフェー・オー・ジャルダン
遥かな昔、遠い所で第12回&勝手に建築観光19回&♪ある晴れた日に11回
馬場下にあった「カフェー・オー・ジャルダン」という奥に庭園があったガラス張りの喫茶店はすでにこぼたれ、まさしくその位置に天丼屋の「てんや」が建っていたのはいっそ小気味よくもあった。
ここには幾多の思い出があるが、それには触れず静かに立ち去ろう。夏でも肌寒くなるほどガンガン冷房する奇妙な店であった。
竜泉院を下って大学本部に向かう。
余はかつてこの小道を、りゅうとした着流し姿の風人先生が、雪駄を地面にこすり合わせ、ハラハラと扇子を使いながら、教育学部前を悠揚迫らず闊歩された日の驚きを余は忘れることができないのである。
されど今やその教育学部は建て替えられ、小路に田舎食堂「おふくろ」なく、重心に低い「茶房」すでになく、高橋義夫先生が愛用されたおんぼろ学生会館も見当たらない。そのかわりにかつて我々がその建設に反対したかの第二学生会館が大隈講堂と向かい合うようにして轟然と聳えていた。
こいつは当節のバカダ大学を象徴するように下品で愚劣な建物である。どこから眺めても風流や文化というものが微塵も感じられない。やはりぶっつぶしておくべきろくでもないビルジングであった。
♪反歌
身丈に余る絹の三色旗うちふるいドラクロアのごとかくめい目指せり
日米の佐藤談判阻止せむと死地に乗り入る我ら七人
屈強な右翼学生殴りこみし朝のピケットラインわが不在を許さず
馬場下にあった「カフェー・オー・ジャルダン」という奥に庭園があったガラス張りの喫茶店はすでにこぼたれ、まさしくその位置に天丼屋の「てんや」が建っていたのはいっそ小気味よくもあった。
ここには幾多の思い出があるが、それには触れず静かに立ち去ろう。夏でも肌寒くなるほどガンガン冷房する奇妙な店であった。
竜泉院を下って大学本部に向かう。
余はかつてこの小道を、りゅうとした着流し姿の風人先生が、雪駄を地面にこすり合わせ、ハラハラと扇子を使いながら、教育学部前を悠揚迫らず闊歩された日の驚きを余は忘れることができないのである。
されど今やその教育学部は建て替えられ、小路に田舎食堂「おふくろ」なく、重心に低い「茶房」すでになく、高橋義夫先生が愛用されたおんぼろ学生会館も見当たらない。そのかわりにかつて我々がその建設に反対したかの第二学生会館が大隈講堂と向かい合うようにして轟然と聳えていた。
こいつは当節のバカダ大学を象徴するように下品で愚劣な建物である。どこから眺めても風流や文化というものが微塵も感じられない。やはりぶっつぶしておくべきろくでもないビルジングであった。
♪反歌
身丈に余る絹の三色旗うちふるいドラクロアのごとかくめい目指せり
日米の佐藤談判阻止せむと死地に乗り入る我ら七人
屈強な右翼学生殴りこみし朝のピケットラインわが不在を許さず
Thursday, July 05, 2007
文学部スロープ下にて想える
遥かな昔、遠い所で第11回&勝手に建築観光18回&♪ある晴れた日に10
穴八幡の丘を下れば文学部である。ところがいつの間にか文学部はもっと右側に移転したらしくここは大学院の看板がかかっていた。
かつてこのスロープの上に私たちが張り巡らしたバリケードがあり、バリケードの向こうに教室や生協や革マルが支配する自治会があり、このスロープの下には私たちの小さな部室があった。
部室はその大半が反革マル勢力の巣窟であったが、ミュージカル研究会などの寄り合いもあった。今から思えば噴飯モノであるが、私はこんな軽佻浮薄なプチブルジョワ的な輩はすべからく物理的に粉砕しなければならぬと半分本気で思っていたのである。
私はいつのまにか「03」という部室に出入りするようになり、遅まきながらマルエンだのレーニンだのを読んだ。気分はさながらダントンだった。
「大胆に、大胆に、なおも大胆に!」であった。
そうして無為で怠惰な日常を自らの手で断ち切り、あわよくば全世界を獲得せんと荒唐無稽の夢を白昼に見ながら、疾風度怒涛の日々に陶酔することになったのであるよ。
そんな次第で学校の授業には出なかった。
いや一度くらいは出たことがあった。それはHという教師のフランス語視聴覚の第1回の授業であった。
米国の大統領にも、当時流行っていた漫画の「イヤミ」にも似た顔をした新帰朝者のこの小男は、私たち新入生に向かって開口一番
「ここは日本ではありましぇーん。ここはTOKIOではありましぇーん。ここはフランスのパリなんざんす」
と言ったので、私はそれこそ「マジかよ」、と驚き呆れて以後授業放棄したのであった。
そうして、それ以来彼の言動は、文字通り私にとっての反面教師となった。
あれほどの美女をたちまち洗脳すされど革マルは醜女製造機なりき
松井照井高木天羽が書ける立て看の赤は彼らが血潮の滴り
鶴巻の安アパートの六畳間シーツを撃ちしわたしの精液
穴八幡の丘を下れば文学部である。ところがいつの間にか文学部はもっと右側に移転したらしくここは大学院の看板がかかっていた。
かつてこのスロープの上に私たちが張り巡らしたバリケードがあり、バリケードの向こうに教室や生協や革マルが支配する自治会があり、このスロープの下には私たちの小さな部室があった。
部室はその大半が反革マル勢力の巣窟であったが、ミュージカル研究会などの寄り合いもあった。今から思えば噴飯モノであるが、私はこんな軽佻浮薄なプチブルジョワ的な輩はすべからく物理的に粉砕しなければならぬと半分本気で思っていたのである。
私はいつのまにか「03」という部室に出入りするようになり、遅まきながらマルエンだのレーニンだのを読んだ。気分はさながらダントンだった。
「大胆に、大胆に、なおも大胆に!」であった。
そうして無為で怠惰な日常を自らの手で断ち切り、あわよくば全世界を獲得せんと荒唐無稽の夢を白昼に見ながら、疾風度怒涛の日々に陶酔することになったのであるよ。
そんな次第で学校の授業には出なかった。
いや一度くらいは出たことがあった。それはHという教師のフランス語視聴覚の第1回の授業であった。
米国の大統領にも、当時流行っていた漫画の「イヤミ」にも似た顔をした新帰朝者のこの小男は、私たち新入生に向かって開口一番
「ここは日本ではありましぇーん。ここはTOKIOではありましぇーん。ここはフランスのパリなんざんす」
と言ったので、私はそれこそ「マジかよ」、と驚き呆れて以後授業放棄したのであった。
そうして、それ以来彼の言動は、文字通り私にとっての反面教師となった。
あれほどの美女をたちまち洗脳すされど革マルは醜女製造機なりき
松井照井高木天羽が書ける立て看の赤は彼らが血潮の滴り
鶴巻の安アパートの六畳間シーツを撃ちしわたしの精液
Wednesday, July 04, 2007
中央図書館にて
鎌倉ちょっと不思議な物語65回
鎌倉市は税金は高いが、そしていろいろ不満もあるが、市の図書館はとても充実している。
以前に比べると予算が減ったために他の図書館の本が回ってくることが増えたけれど、いまなお大量の新刊リクエストに応じてくれている。感謝感激である。
この図書官の司書サービスは充実しており、私は不慣れなアイテムの調べものではいつもたいへんお世話になっている。
そして写真のように、「利用者に対するカラスの襲撃」に対しても集団防衛権を気軽に発動してくれる親切な施設なのである。
鎌倉市は税金は高いが、そしていろいろ不満もあるが、市の図書館はとても充実している。
以前に比べると予算が減ったために他の図書館の本が回ってくることが増えたけれど、いまなお大量の新刊リクエストに応じてくれている。感謝感激である。
この図書官の司書サービスは充実しており、私は不慣れなアイテムの調べものではいつもたいへんお世話になっている。
そして写真のように、「利用者に対するカラスの襲撃」に対しても集団防衛権を気軽に発動してくれる親切な施設なのである。
由比ガ浜のお昼
鎌倉ちょっと不思議な物語64回
やっと賃労働が一段落したので、梅雨の晴間を縫って由比ガ浜の回転寿司「ととやみち」に行く。昔と違っていつも混んでいるようだ。
ここは1皿100円から200円、350円までで様々な魚貝を楽しめる。
近くの腰越港などから、獲れたての新鮮なシラシやアジやカツオなどをどんどんベツトコンベアで流しているが、私はいちいち板前さんに直接発注すると握りたてのを持ってきてくれる。
海老や魚のアラや野菜を入れた美味しくて栄養満点のアラ汁は無料で何杯でもお代わりできる。
私たち夫婦とははの3人がお腹一杯食べて〆て2621円であった。
やっと賃労働が一段落したので、梅雨の晴間を縫って由比ガ浜の回転寿司「ととやみち」に行く。昔と違っていつも混んでいるようだ。
ここは1皿100円から200円、350円までで様々な魚貝を楽しめる。
近くの腰越港などから、獲れたての新鮮なシラシやアジやカツオなどをどんどんベツトコンベアで流しているが、私はいちいち板前さんに直接発注すると握りたてのを持ってきてくれる。
海老や魚のアラや野菜を入れた美味しくて栄養満点のアラ汁は無料で何杯でもお代わりできる。
私たち夫婦とははの3人がお腹一杯食べて〆て2621円であった。
Monday, July 02, 2007
穴八幡をのぞく
遥かな昔、遠い所で第10回&勝手に建築観光17回
戸塚を過ぎて早稲田に入る。かつて全線座があった向かいの丘に登れば穴八幡神社である。
ここは岩清水八幡宮から幕府が勧請した北の鎮護で、かつては能が舞われ、流鏑馬が走り、堀部安兵衛が有名な敵討ちをしたところである。
毎年冬至には一陽来復のお札が配られて善男善女が殺到するそうだが、そんなことはどうでもよい。おそらくこの地は縄文人の快適な根拠地だったに違いない。
貧相な私が憂鬱な心でこの無人の丘を登ると、いつも遠くの本殿の賢所の奥で1本の灯明が風に吹かれてゆるゆる光っていたものだった。
ところが今日は違った。もはや幽遠の趣など皆無であり、驚いたことに神寂びた神殿もなにやらカラフルに改造されていたので興ざめである。
隣の放生寺も工事中だった。
そのかみにいまして、私は学友諸君としばしばこの丘に集い、学費が上がって後輩が可哀相だからけしからん、とか、授業料が高い割には教師が旧弊かつ低能だから講義をボイコットしようとか、ともかく毎日が退屈で退屈でだからたまには平時に乱を起そうよ、とか、スカッと爽やかコカコーラ、てんでかっこよくやりたいな、などと三々五々語り合い、共同謀議をこらしてとうとうストライキにもちこみ、まるで毎日がお祭りのやうに楽しい日々を過ごしたことをはしなくも思い出した。
そういえば私らは徒党を組んでこの穴八幡の麓の馬場下派出所を襲撃し、たった一人の臆病な警官をおびえさせたこともあった。
戸塚を過ぎて早稲田に入る。かつて全線座があった向かいの丘に登れば穴八幡神社である。
ここは岩清水八幡宮から幕府が勧請した北の鎮護で、かつては能が舞われ、流鏑馬が走り、堀部安兵衛が有名な敵討ちをしたところである。
毎年冬至には一陽来復のお札が配られて善男善女が殺到するそうだが、そんなことはどうでもよい。おそらくこの地は縄文人の快適な根拠地だったに違いない。
貧相な私が憂鬱な心でこの無人の丘を登ると、いつも遠くの本殿の賢所の奥で1本の灯明が風に吹かれてゆるゆる光っていたものだった。
ところが今日は違った。もはや幽遠の趣など皆無であり、驚いたことに神寂びた神殿もなにやらカラフルに改造されていたので興ざめである。
隣の放生寺も工事中だった。
そのかみにいまして、私は学友諸君としばしばこの丘に集い、学費が上がって後輩が可哀相だからけしからん、とか、授業料が高い割には教師が旧弊かつ低能だから講義をボイコットしようとか、ともかく毎日が退屈で退屈でだからたまには平時に乱を起そうよ、とか、スカッと爽やかコカコーラ、てんでかっこよくやりたいな、などと三々五々語り合い、共同謀議をこらしてとうとうストライキにもちこみ、まるで毎日がお祭りのやうに楽しい日々を過ごしたことをはしなくも思い出した。
そういえば私らは徒党を組んでこの穴八幡の麓の馬場下派出所を襲撃し、たった一人の臆病な警官をおびえさせたこともあった。
Sunday, July 01, 2007
なおも戸塚近辺をうろつく
遥かな昔、遠い所で第9回
ここいらあたりは昔は戸塚1丁目と2丁目であったはずなのに、地名表示を見ると西早稲田に変わっている。いつ誰が勝手に変えたか知らないが迷惑な話だ。
東京の地名はすべからく戦前の呼称に復古してもらいたい。私はそーゆー構造改革には断固として反対する者である。
戸塚町源兵衛ゆかりの名前を看板にした名物の焼き鳥屋はまだ頼りなげに残っていた。昔ながらのクリーニング屋やしもた屋も、数は少ないけれどもまだ残っておった。
一瞬うずたかく積み重ねた書籍の谷間から、文献堂の主人が額をテカらせたような気がして、私は、とある古本屋に入ったが、そこにはかの精悍な小男の顔は見当たらなかった。
私はこのささやかな、しかし豪奢な知の王国で、吉本隆明の「試行」を毎号買っていた。
ゴリゴリの古典派マルキシストと噂された主人は、おそらく店舗もろとも西方浄土に遷化してしまったのであらう。
しかしながらいくつかの古本屋はまだ健在であった。ある本屋では柳田國男全集が9800円であった。会津八一全集がべらぼうな値段であった。
私は早稲田の古本屋でアナトールフランスの全集やヴァレリーの翻訳などを買い揃えてはせっせと神田の古本屋で転売し、その金をすべて雀荘で浪費していたことを思い出した。
げに、言うも愚かで、貧しく、不分明な日々であった。
ここいらあたりは昔は戸塚1丁目と2丁目であったはずなのに、地名表示を見ると西早稲田に変わっている。いつ誰が勝手に変えたか知らないが迷惑な話だ。
東京の地名はすべからく戦前の呼称に復古してもらいたい。私はそーゆー構造改革には断固として反対する者である。
戸塚町源兵衛ゆかりの名前を看板にした名物の焼き鳥屋はまだ頼りなげに残っていた。昔ながらのクリーニング屋やしもた屋も、数は少ないけれどもまだ残っておった。
一瞬うずたかく積み重ねた書籍の谷間から、文献堂の主人が額をテカらせたような気がして、私は、とある古本屋に入ったが、そこにはかの精悍な小男の顔は見当たらなかった。
私はこのささやかな、しかし豪奢な知の王国で、吉本隆明の「試行」を毎号買っていた。
ゴリゴリの古典派マルキシストと噂された主人は、おそらく店舗もろとも西方浄土に遷化してしまったのであらう。
しかしながらいくつかの古本屋はまだ健在であった。ある本屋では柳田國男全集が9800円であった。会津八一全集がべらぼうな値段であった。
私は早稲田の古本屋でアナトールフランスの全集やヴァレリーの翻訳などを買い揃えてはせっせと神田の古本屋で転売し、その金をすべて雀荘で浪費していたことを思い出した。
げに、言うも愚かで、貧しく、不分明な日々であった。
Saturday, June 30, 2007
戸塚近辺をうろつく
遥かな昔、遠い所で第8回&勝手に建築観光16回
高田馬場駅前から戸塚に向かって歩いていくと思いがけず古色蒼然としたレンガ造りの小さな建物が見つかった。喫茶店のランブルである。
RUMBLEは英語で車などがガタガタ音を立てて進むという意味である。私は思いがけずこの名を目にしたとき、大通りをけたたましい響きを立てながら突っ走る都電の勇姿を思った。そうしてその頭の中の響きが、けっしてこの節の不愉快な騒音ではなく、いにしえの大都市東京に欠かせない懐かしい風物であるように感じられたのである。
今ではまるで幽霊の棲む洋館と化したこの店では、かつてクラシックの名曲レコードを客の希望に応じてかけていた。
私は学校に行かずにこの「ランブル」や野村胡堂ゆかりの「あらえびす」に入り浸って、かの出目金爺カール・ベームが指揮するヴィーンフィルのモーツアルトのト短調の交響曲やレクイエムなどを次々にリクエストしては、日がな一日サルトルやニザンなどを読んで、結局はいわゆるひとつの青春を浪費することが多かった。
ランブルのコーヒーはいたずらに濃くてまずくて苦く、私は飲むと必ず下痢をしたが、それでも通い続けた。
ランブルよりはあらえびすのほうがレコードコレクションが豊富で格調高く、黒と白の制服の処女もシックであると思はれた。それゆえ私はこの近くにあったはずのその店を探したがその所在は杳として知れなかった。
たぶんだいぶ以前に取り壊されてしまったのであらう。その代わりといっては変だが懐かしの早稲田松竹はいまなお健在だった。
高田馬場駅前から戸塚に向かって歩いていくと思いがけず古色蒼然としたレンガ造りの小さな建物が見つかった。喫茶店のランブルである。
RUMBLEは英語で車などがガタガタ音を立てて進むという意味である。私は思いがけずこの名を目にしたとき、大通りをけたたましい響きを立てながら突っ走る都電の勇姿を思った。そうしてその頭の中の響きが、けっしてこの節の不愉快な騒音ではなく、いにしえの大都市東京に欠かせない懐かしい風物であるように感じられたのである。
今ではまるで幽霊の棲む洋館と化したこの店では、かつてクラシックの名曲レコードを客の希望に応じてかけていた。
私は学校に行かずにこの「ランブル」や野村胡堂ゆかりの「あらえびす」に入り浸って、かの出目金爺カール・ベームが指揮するヴィーンフィルのモーツアルトのト短調の交響曲やレクイエムなどを次々にリクエストしては、日がな一日サルトルやニザンなどを読んで、結局はいわゆるひとつの青春を浪費することが多かった。
ランブルのコーヒーはいたずらに濃くてまずくて苦く、私は飲むと必ず下痢をしたが、それでも通い続けた。
ランブルよりはあらえびすのほうがレコードコレクションが豊富で格調高く、黒と白の制服の処女もシックであると思はれた。それゆえ私はこの近くにあったはずのその店を探したがその所在は杳として知れなかった。
たぶんだいぶ以前に取り壊されてしまったのであらう。その代わりといっては変だが懐かしの早稲田松竹はいまなお健在だった。
Friday, June 29, 2007
宮城谷昌光著「風は山河より」第3巻を読む
降っても照っても第29回
若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。
義元の懐刀雪斎禅師は信秀の弟信広を安祥寺に攻めて降伏させ、捕虜にした信広の生命と引き換えに竹千代(家康)を織田家から奪い返すのである。落胆した信秀は嫡子信長に織田家の裁量を委ねることになる。
政治と法界と風雅の達人である雪斎は天文21年に義元と武田晴信(信玄)、北条氏康を説いて三国同盟「善得寺の会盟」を成立させたあと同24年に60歳で遷化した。そしてそれが義元の最大の不幸を招くのである。
徳川家康の祖父、松平清康も父広忠も凶手にかかって若くして暗殺されたが、その犯人を二人ながらに討ったのは植村新八郎という同じ人物であり、また二人の凶手が用いた刀は妖刀村正であった。
主君広忠を殺された天野孫次郎は暗殺を指唆した佐久間全孝に仕え、全孝が眠っている真夜中に(広忠が暗殺されたときとまったく同じ状況で)切りつけたが、どういうわけか殺害できずあわてふためいて逃げ帰ったという。
平将門の叔父五郎良文の子孫から三浦氏、上総の千葉氏、秩父の畠山氏、和田氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏が生じた。
長尾景虎が上杉謙信を名乗るのは永禄四年に鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で山内上杉の憲政から上杉家を継ぐことを許されたからである。
などを私は著者から学んだ。
最後に、著者は司馬遼太郎の遺風を継ぐ名文家であり、その漢語を生かした格調高い名文は歴史小説にふさわしいと思う。
若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。
義元の懐刀雪斎禅師は信秀の弟信広を安祥寺に攻めて降伏させ、捕虜にした信広の生命と引き換えに竹千代(家康)を織田家から奪い返すのである。落胆した信秀は嫡子信長に織田家の裁量を委ねることになる。
政治と法界と風雅の達人である雪斎は天文21年に義元と武田晴信(信玄)、北条氏康を説いて三国同盟「善得寺の会盟」を成立させたあと同24年に60歳で遷化した。そしてそれが義元の最大の不幸を招くのである。
徳川家康の祖父、松平清康も父広忠も凶手にかかって若くして暗殺されたが、その犯人を二人ながらに討ったのは植村新八郎という同じ人物であり、また二人の凶手が用いた刀は妖刀村正であった。
主君広忠を殺された天野孫次郎は暗殺を指唆した佐久間全孝に仕え、全孝が眠っている真夜中に(広忠が暗殺されたときとまったく同じ状況で)切りつけたが、どういうわけか殺害できずあわてふためいて逃げ帰ったという。
平将門の叔父五郎良文の子孫から三浦氏、上総の千葉氏、秩父の畠山氏、和田氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏が生じた。
長尾景虎が上杉謙信を名乗るのは永禄四年に鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で山内上杉の憲政から上杉家を継ぐことを許されたからである。
などを私は著者から学んだ。
最後に、著者は司馬遼太郎の遺風を継ぐ名文家であり、その漢語を生かした格調高い名文は歴史小説にふさわしいと思う。
Thursday, June 28, 2007
高田馬場駅前にて
遥かな昔、遠い所で 第7回
何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。
地方から東京に出てきた私は、ご他聞に洩れずアルバイトで生活していた。
毎朝この駅の売店(いまではキオスクとか呼んでいるようだが)でパンと牛乳を買って急いで腹に収め、当時内幸町にあったNHKで昼飯抜きで大道具の手伝いをしてから名物のチャーシュー麺をかきこみ(当時死んだ猫のエキスをダシにしているという根強い噂があったが非常にうまかった)、それから日比谷公園の傍らで徹夜の突貫工事を行っていた東京地裁の701号法廷などの地下増築工事現場に行って朝の5時まで働き、地下鉄で高田馬場までもどってまたアンパンと牛乳を飲んで下宿にもどって死んだように眠ったものだ。
地裁のアリバイとは階下でたっぷり水分を吸って固まったセメント袋を地下2階から地上まで運びあげる仕事で体力のない脆弱な私だけは肩に担いだ重荷もろとも転落してよく現場監督に怒られたものだった。
高田馬場の駅前に出ると昔と変わらず大学に行くバスが止まっていた。
私は学生時代にこの都バスの料金が交通局によって値上げされることになり、それがけしからんというので「徒党を組んで」このバスに乗ろうとする人間を「実力で阻止」していたことをはしなくも思い出した。
今考えると相当論理にも行動にも飛躍があるが、よくも多くの学生たちがバスに乗らずに素直に歩いてくれたものだ。今の私には到底こんな行動に出る勇気も気力も体力もないが、それでももし再びやらなければならないときには、けっして徒党は組まないだろうと思う。
何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。
地方から東京に出てきた私は、ご他聞に洩れずアルバイトで生活していた。
毎朝この駅の売店(いまではキオスクとか呼んでいるようだが)でパンと牛乳を買って急いで腹に収め、当時内幸町にあったNHKで昼飯抜きで大道具の手伝いをしてから名物のチャーシュー麺をかきこみ(当時死んだ猫のエキスをダシにしているという根強い噂があったが非常にうまかった)、それから日比谷公園の傍らで徹夜の突貫工事を行っていた東京地裁の701号法廷などの地下増築工事現場に行って朝の5時まで働き、地下鉄で高田馬場までもどってまたアンパンと牛乳を飲んで下宿にもどって死んだように眠ったものだ。
地裁のアリバイとは階下でたっぷり水分を吸って固まったセメント袋を地下2階から地上まで運びあげる仕事で体力のない脆弱な私だけは肩に担いだ重荷もろとも転落してよく現場監督に怒られたものだった。
高田馬場の駅前に出ると昔と変わらず大学に行くバスが止まっていた。
私は学生時代にこの都バスの料金が交通局によって値上げされることになり、それがけしからんというので「徒党を組んで」このバスに乗ろうとする人間を「実力で阻止」していたことをはしなくも思い出した。
今考えると相当論理にも行動にも飛躍があるが、よくも多くの学生たちがバスに乗らずに素直に歩いてくれたものだ。今の私には到底こんな行動に出る勇気も気力も体力もないが、それでももし再びやらなければならないときには、けっして徒党は組まないだろうと思う。
Wednesday, June 27, 2007
加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む
加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む
降っても照っても第28回
この新人老作家の「信長の棺」は「信長公記」の作者太田牛一が本能寺の変の謎に果敢に挑んで大いに面白かった。
その次の「秀吉の枷」も本能寺と南蛮寺を結ぶ抜け道で信長が蒸し焼きになるように秀吉がたくらみ死に追いやったという、「嘘か眞か死人に口なし」という論証ヌキのはちゃめちゃな破天荒さでエラン・ヴィタールしており、かなり面白かった。
そこで大いに期待してシリーズ第3作の「明智左馬助の恋」を読んだのだが、これがどうにもこうにもいっこうに面白くなかった。残念じゃあ。
それというのもこれは光秀の義理の息子が知らず秀吉の大謀略に振り回されてあたら生涯の大望を棒に振るというお話で、前の2冊、いや3冊ですでにネタがばれているものだから、おおいに盛り上がりにかける。
著者も最後は観念したのか機械的に年代を追うのみ。
それでもさすがにラストの坂本城の夫婦愛と壮絶な切腹は力が入ったが、遅きに失した。げに「はじめは脱兎のごとく終わりは処女のごとし」とはこれをいうのであろう。
結局馬鹿を見たのはクソ真面目なキンカン頭の光秀だけという、世にも哀れな物語であったが、大器晩成型の著者の次作を期して待とう。
降っても照っても第28回
この新人老作家の「信長の棺」は「信長公記」の作者太田牛一が本能寺の変の謎に果敢に挑んで大いに面白かった。
その次の「秀吉の枷」も本能寺と南蛮寺を結ぶ抜け道で信長が蒸し焼きになるように秀吉がたくらみ死に追いやったという、「嘘か眞か死人に口なし」という論証ヌキのはちゃめちゃな破天荒さでエラン・ヴィタールしており、かなり面白かった。
そこで大いに期待してシリーズ第3作の「明智左馬助の恋」を読んだのだが、これがどうにもこうにもいっこうに面白くなかった。残念じゃあ。
それというのもこれは光秀の義理の息子が知らず秀吉の大謀略に振り回されてあたら生涯の大望を棒に振るというお話で、前の2冊、いや3冊ですでにネタがばれているものだから、おおいに盛り上がりにかける。
著者も最後は観念したのか機械的に年代を追うのみ。
それでもさすがにラストの坂本城の夫婦愛と壮絶な切腹は力が入ったが、遅きに失した。げに「はじめは脱兎のごとく終わりは処女のごとし」とはこれをいうのであろう。
結局馬鹿を見たのはクソ真面目なキンカン頭の光秀だけという、世にも哀れな物語であったが、大器晩成型の著者の次作を期して待とう。
Tuesday, June 26, 2007
初夏の光明寺を歩く
鎌倉ちょっと不思議な物語63回
材木座に近い光明寺は鎌倉では珍しい浄土宗の大寺で、寛元元年1243年に法然から数えて3代目の良忠上人が開いた。
光明寺には幼少時代の武者小路実篤が家族と共に夏を過ごしていたが、そんなことより毎年10月に行われる「お十夜」が有名である。
が、もっと有名なのは戦後間もなく昭和21年にこの寺の本堂と庫裏で「鎌倉アカデミア」が開設されたことだろう。(当初は鎌倉大学校といったが23年に光明寺に移転し今年創立60年の式典が開催された)
二代目の校長に就任したのが、マルクス主義哲学者として有名な三枝博音であるが、この人は不幸なことに国鉄の鶴見事故で亡くなった。
このとき確かかの有名な「競合脱線」という原因説が唱えられたが、その後いかに検証されたのだろうと、横須賀線で鶴見辺りを通過するたびに隣の東海道線をおそるおそる見守るわたしは、げにまったき過去の人なのであらう。
「鎌倉アカデミア」の教授陣は服部之総、西郷信綱、千田是也、宇野重吉、吉野秀雄、高見順、中村光夫、林達夫などの錚々たる面々。学科は、文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成だったが、一度でいいから聴講したかった。
しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、哀れわずか4年半しか存続できなかったという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
この手弁当の市民大学からは、鈴木清順、山口瞳、前田武彦、いずみたく、左幸子などが巣立っている。
どうでもいいけれど「トリスを飲んでハワイへ行こう」はサントリー宣伝部時代に山口瞳が作った名コピーである。
ちなみにアカデミアの授業料は当時の早稲田、慶応などより高かったが、大半の学生が未払いだったそうだ。
材木座に近い光明寺は鎌倉では珍しい浄土宗の大寺で、寛元元年1243年に法然から数えて3代目の良忠上人が開いた。
光明寺には幼少時代の武者小路実篤が家族と共に夏を過ごしていたが、そんなことより毎年10月に行われる「お十夜」が有名である。
が、もっと有名なのは戦後間もなく昭和21年にこの寺の本堂と庫裏で「鎌倉アカデミア」が開設されたことだろう。(当初は鎌倉大学校といったが23年に光明寺に移転し今年創立60年の式典が開催された)
二代目の校長に就任したのが、マルクス主義哲学者として有名な三枝博音であるが、この人は不幸なことに国鉄の鶴見事故で亡くなった。
このとき確かかの有名な「競合脱線」という原因説が唱えられたが、その後いかに検証されたのだろうと、横須賀線で鶴見辺りを通過するたびに隣の東海道線をおそるおそる見守るわたしは、げにまったき過去の人なのであらう。
「鎌倉アカデミア」の教授陣は服部之総、西郷信綱、千田是也、宇野重吉、吉野秀雄、高見順、中村光夫、林達夫などの錚々たる面々。学科は、文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成だったが、一度でいいから聴講したかった。
しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、哀れわずか4年半しか存続できなかったという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
この手弁当の市民大学からは、鈴木清順、山口瞳、前田武彦、いずみたく、左幸子などが巣立っている。
どうでもいいけれど「トリスを飲んでハワイへ行こう」はサントリー宣伝部時代に山口瞳が作った名コピーである。
ちなみにアカデミアの授業料は当時の早稲田、慶応などより高かったが、大半の学生が未払いだったそうだ。
Monday, June 25, 2007
ある丹波の老人の話(35)
「第6話弟の更正 第3回」
昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添えて出してくれました。
私はそれを食べ、最後の二銭をお礼において一文無しになって晩方に川合の大原に着きました。大原には貧しからぬ父の生家がありました。
そこで出してもらったお節句の菱餅を囲炉裏で焼く間ももどかしくまるで狐憑きのように貪り食らいそのまま炉辺で寝込んでしまいました。
弟はこの縮緬問屋へ三、四年くらいいたと思います。「アメリカへ行きたい」というて英語の独習などをやっていたがついに主家に暇をもらい神戸に行って奉公し、渡米の機会を狙っていたらしいのです。
それから朝鮮の仁川へ行ったのは神戸から密航を企てて発見され、仁川に降ろされたとかいうことでした。仁川では日本人の店につとめてなかなか重用されておったようです。
弟はそれから徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営しました。
昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添えて出してくれました。
私はそれを食べ、最後の二銭をお礼において一文無しになって晩方に川合の大原に着きました。大原には貧しからぬ父の生家がありました。
そこで出してもらったお節句の菱餅を囲炉裏で焼く間ももどかしくまるで狐憑きのように貪り食らいそのまま炉辺で寝込んでしまいました。
弟はこの縮緬問屋へ三、四年くらいいたと思います。「アメリカへ行きたい」というて英語の独習などをやっていたがついに主家に暇をもらい神戸に行って奉公し、渡米の機会を狙っていたらしいのです。
それから朝鮮の仁川へ行ったのは神戸から密航を企てて発見され、仁川に降ろされたとかいうことでした。仁川では日本人の店につとめてなかなか重用されておったようです。
弟はそれから徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営しました。
Sunday, June 24, 2007
ある丹波の老人の話(34)
弟はメジロ捕りが上手でメジロを売って儲けた十幾銭かの金を、後生大事にこのとき京都に持っていったもんでした。
でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布には十二銭しかありまへんでした。
これでは昼飯をくうたら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのままとうとう園部に辿り着いて来る時にも泊まったかいち屋という宿屋に泊まりました。
しゃあけんど十二銭ではまともな泊まり方はできまへん。
「私は胃病やから晩御飯は食べへん」というてすぐに床に入って寝ました。
しかし裏を流れている川の瀬音が昼飯も晩飯も食べないすきっ腹にひびいて、なかなか寝付かれませんでした。私はその夜の情けなさはいまも忘れることができません。
朝は宿屋がおかゆをつくって梅干を添えて出してくれました。
私はそれを残らず食べて宿銭一〇銭を払うとあとは二銭しかありません。旅館が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と断ってはだしで出て、みちみち落ちわらじを拾ってそれをはいては歩き続けたんでした。
「第6話弟の更正 第2回」
でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布には十二銭しかありまへんでした。
これでは昼飯をくうたら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのままとうとう園部に辿り着いて来る時にも泊まったかいち屋という宿屋に泊まりました。
しゃあけんど十二銭ではまともな泊まり方はできまへん。
「私は胃病やから晩御飯は食べへん」というてすぐに床に入って寝ました。
しかし裏を流れている川の瀬音が昼飯も晩飯も食べないすきっ腹にひびいて、なかなか寝付かれませんでした。私はその夜の情けなさはいまも忘れることができません。
朝は宿屋がおかゆをつくって梅干を添えて出してくれました。
私はそれを残らず食べて宿銭一〇銭を払うとあとは二銭しかありません。旅館が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と断ってはだしで出て、みちみち落ちわらじを拾ってそれをはいては歩き続けたんでした。
「第6話弟の更正 第2回」
Saturday, June 23, 2007
ある丹波の老人の話(33)
「第6話 弟の更正 第1回」
私には金三郎というたった一人の弟がありました。
この弟が十三、私が十七のとき、忘れられん思い出があります。
そのとき私は蚕業講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中でしたが、家は貧乏市までして貧窮のどん底まで落ちてしまっていたので、弟は学校をやめさせて京都に奉公にだすことにし、私が京に連れて行きました。
京都に着くと丹波宿の十二屋に落ち着き、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れて行き、私はその夜十二屋へ泊まり、朝発って帰ろうとすると弟が帰って来ていて、
「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部に帰る」
というのです。私はそれをいろいろとなだめすかして主家である下村に連れて行き、家の人にもよう頼んで逃げるようにしていったん十二屋へ戻り、なんだか弟がまたあとを追ってくるような気がするんでそれをかわすつもりで知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、たいへんな人ごみの中へまぎれこんでしまいました。
それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいやったんです。私はそこいらで少しブラブラして道を尋ねてから桂に出、丹波街道を園部へ向かって歩いたんでした。
私には金三郎というたった一人の弟がありました。
この弟が十三、私が十七のとき、忘れられん思い出があります。
そのとき私は蚕業講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中でしたが、家は貧乏市までして貧窮のどん底まで落ちてしまっていたので、弟は学校をやめさせて京都に奉公にだすことにし、私が京に連れて行きました。
京都に着くと丹波宿の十二屋に落ち着き、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れて行き、私はその夜十二屋へ泊まり、朝発って帰ろうとすると弟が帰って来ていて、
「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部に帰る」
というのです。私はそれをいろいろとなだめすかして主家である下村に連れて行き、家の人にもよう頼んで逃げるようにしていったん十二屋へ戻り、なんだか弟がまたあとを追ってくるような気がするんでそれをかわすつもりで知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、たいへんな人ごみの中へまぎれこんでしまいました。
それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいやったんです。私はそこいらで少しブラブラして道を尋ねてから桂に出、丹波街道を園部へ向かって歩いたんでした。
Friday, June 22, 2007
ある丹波の老人の話(32)
妻はどこまでも父に親切でした。
独りでは寂しかろうと福知山の実家に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室をあたえて寝起きさせたんでしたが、二年ほどすると女が病死してしまいました。
すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部をはろうて所帯をもたせてやったんでした。
その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しいときには、ずいぶんよく手伝いもしてくれました。
ところが、父と同居しておった未亡人が息子の朝鮮移住についていってしまいよりました。そのとき父はすでに七十を過ぎておったので私の家に引き取りました。
それからは父は孫娘の守などをしてよいおじいさんになりきり、昭和四年四月に七十五歳で亡くなったんでした。
最後の二年ほどは盲目になったんで楽しみにない父を慰めようと私はいち早くラジオを買い求めました。当時綾部にも福知山にもまだラジオは珍しく、大阪からやってきた技術者が五晩泊りで私の家に取り付けてくれました。
郷里の町では郡是、三つ丸百貨店に続く3番目でした。そして父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に岡崎牧師から洗礼を受けたんでした。
今から思えば、それはどうすることもできん宿命的なものではありましたが、私はあまりにも父を憎み、父に冷たかった。
落ちぶれ果てて隠岐から帰ってきたとき、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかも知れない。
「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せないかんことがぎょうさんあります。なかでも私が冷酷であった父に対して私の分まで孝養を尽くしてくれて私に不孝のそしりをまぬかれ、不幸の悔いを残さなんだことに対しては、妻に最大の感謝をささげたいと心から思う次第であります。 (第五話「父帰る」終)
独りでは寂しかろうと福知山の実家に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室をあたえて寝起きさせたんでしたが、二年ほどすると女が病死してしまいました。
すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部をはろうて所帯をもたせてやったんでした。
その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しいときには、ずいぶんよく手伝いもしてくれました。
ところが、父と同居しておった未亡人が息子の朝鮮移住についていってしまいよりました。そのとき父はすでに七十を過ぎておったので私の家に引き取りました。
それからは父は孫娘の守などをしてよいおじいさんになりきり、昭和四年四月に七十五歳で亡くなったんでした。
最後の二年ほどは盲目になったんで楽しみにない父を慰めようと私はいち早くラジオを買い求めました。当時綾部にも福知山にもまだラジオは珍しく、大阪からやってきた技術者が五晩泊りで私の家に取り付けてくれました。
郷里の町では郡是、三つ丸百貨店に続く3番目でした。そして父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に岡崎牧師から洗礼を受けたんでした。
今から思えば、それはどうすることもできん宿命的なものではありましたが、私はあまりにも父を憎み、父に冷たかった。
落ちぶれ果てて隠岐から帰ってきたとき、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかも知れない。
「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せないかんことがぎょうさんあります。なかでも私が冷酷であった父に対して私の分まで孝養を尽くしてくれて私に不孝のそしりをまぬかれ、不幸の悔いを残さなんだことに対しては、妻に最大の感謝をささげたいと心から思う次第であります。 (第五話「父帰る」終)
Thursday, June 21, 2007
ある丹波の老人の話(31)
この冷たい私に対して私の妻菊枝は父に対してやさしかった。
食事を与え、着替えをさせ、暖かい寝床に横たわらせ、心から父をいたわりました。
そしてその後もけっして悪い顔などせずに機嫌よく明け暮れの世話をし、私に内緒で小遣い銭なども渡し、いつもきちんとした身なりをさせて大切にしたんでした。
ところが妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。
「そんなにまでせんでええ」と口に出して叱ったりもしましたが、ひたすら父を哀れむ妻の純情にほだされて、さしもかたくなだった私の心も少しずつほぐれていったんでした。
父は隠岐にいた間のことをあまり話しませんでしたが、やはり腕に覚えのある桐の木買いをやりこれを加工して下駄の素材を作っていたらしいのです。
ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れて来た芸者にも逃げられ、よるべはなし、万策尽きてようやく松江に渡り、そこで歯医者をしていた吉美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、郷里まで帰ってきたらしいのです。
しばらくは乞食同様の見過ぎをしていたものとみえて体一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの衣類は垢だらけシラミだらけで、これを退治するのに妻は往生したそうです。
(第五話父帰る第3回)
食事を与え、着替えをさせ、暖かい寝床に横たわらせ、心から父をいたわりました。
そしてその後もけっして悪い顔などせずに機嫌よく明け暮れの世話をし、私に内緒で小遣い銭なども渡し、いつもきちんとした身なりをさせて大切にしたんでした。
ところが妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。
「そんなにまでせんでええ」と口に出して叱ったりもしましたが、ひたすら父を哀れむ妻の純情にほだされて、さしもかたくなだった私の心も少しずつほぐれていったんでした。
父は隠岐にいた間のことをあまり話しませんでしたが、やはり腕に覚えのある桐の木買いをやりこれを加工して下駄の素材を作っていたらしいのです。
ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れて来た芸者にも逃げられ、よるべはなし、万策尽きてようやく松江に渡り、そこで歯医者をしていた吉美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、郷里まで帰ってきたらしいのです。
しばらくは乞食同様の見過ぎをしていたものとみえて体一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの衣類は垢だらけシラミだらけで、これを退治するのに妻は往生したそうです。
(第五話父帰る第3回)
Wednesday, June 20, 2007
父帰る
ある丹波の老人の話(29)
大正五年の師走も近い冬の夜、丹波の小さな街には人声も絶え通りを吹きぬける寒い木枯らしがときおりガタガタと障子を震わせておりました。
真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトと叩く音がしました。静かに、あたりを憚るように…。
「どなた?」と尋ねても返事はありません。
うっかり戸を開けて泥棒だと困ると思いましたが、そういう感じでもない。そこで思い切って妻と一緒に開けると、そこに立っていたのはなんと父でした。
父帰る!
この寒夜に上に羽織るものもなく、四年みぬまに六十の坂を過ぎ、汚れた筒袖姿のみすぼらしい父が、しょんぼりと戸の外に立っておりました。
父はおずおずと敷居をまたいで中に入るなり、土間に身を投げ、くどくどと前非を悔いて詫び入るのですが、私の目には涙も浮かばず、私の口からはやさしいいたわりの言葉ひとつもれ出てこないのでした。
(第五話父帰る第2回)
大正五年の師走も近い冬の夜、丹波の小さな街には人声も絶え通りを吹きぬける寒い木枯らしがときおりガタガタと障子を震わせておりました。
真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトと叩く音がしました。静かに、あたりを憚るように…。
「どなた?」と尋ねても返事はありません。
うっかり戸を開けて泥棒だと困ると思いましたが、そういう感じでもない。そこで思い切って妻と一緒に開けると、そこに立っていたのはなんと父でした。
父帰る!
この寒夜に上に羽織るものもなく、四年みぬまに六十の坂を過ぎ、汚れた筒袖姿のみすぼらしい父が、しょんぼりと戸の外に立っておりました。
父はおずおずと敷居をまたいで中に入るなり、土間に身を投げ、くどくどと前非を悔いて詫び入るのですが、私の目には涙も浮かばず、私の口からはやさしいいたわりの言葉ひとつもれ出てこないのでした。
(第五話父帰る第2回)
Tuesday, June 19, 2007
福島泰樹著「中原中也帝都慕情」を読む
降っても照っても第27回
大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。
中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地林方」である。
1999年3月に同所を訪れた著者は、「一帯はゆるやかに神田川に傾斜していく鬱蒼とした田園地帯で、その面影はいまでも所々に残っている。あたりをゆっくり歩いてみたらよい」
と書いている。
その言葉にそそのかされた私は、突然その気になって、真夏日の早稲田3丁目を本書を片手にほっつき歩いてみた。
長谷川泰子はその著書『ゆきてかえらぬ』で「中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、8畳くらいの広さでした」
と語っているが、その下宿跡を、30分以上の悪戦苦闘の末に、私もようやく探し当てた。
けれども福島氏が「鬱蒼とした田園地帯」と表現しているその一画は、白いお化粧をして取り澄ましたモダン住宅と無機的な高層マンションによって埋め尽くされており、99年にこの地を訪れた著者が撮影した古い真鍋家の姿もいまや跡形も無い。
午後2時の太陽光線が私の頭上からぎらぎらと照りつけ、住民の人影もまばらだ。
ほんの申し訳程度に残されている庭や樹影を除けば、もはや詩人とその運命の女の痕跡はどこにも求めることはできなかった。
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる 中原中也「木陰」『山羊の歌』より
突然視野に珍しいものが飛び込んできた。
高田の馬場から神田川べりの面影橋まで下る六叉路である。大正14年の春、中也と泰子が何度も上り下りしたであろう長い坂道である。
その六叉路のひとつを少し入ったところに若い二人の愛の巣があったはずだ。当時彼らの頭上を覆っていたはずの大樹の切り株だけがまるで詩人の夢のかけらのように取り残されてあった。
旧居を下れば神田川はすぐだ。そのとき面影橋を早稲田に向かって走る都電荒川線の車輪が、青空の下でおおきな軋み声をあげた。
夏は青い空に、白い雲を浮かばせ、
わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。
わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂げよ。
―記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや
「夏は青い空に…」『山羊の歌』より
大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。
中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地林方」である。
1999年3月に同所を訪れた著者は、「一帯はゆるやかに神田川に傾斜していく鬱蒼とした田園地帯で、その面影はいまでも所々に残っている。あたりをゆっくり歩いてみたらよい」
と書いている。
その言葉にそそのかされた私は、突然その気になって、真夏日の早稲田3丁目を本書を片手にほっつき歩いてみた。
長谷川泰子はその著書『ゆきてかえらぬ』で「中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、8畳くらいの広さでした」
と語っているが、その下宿跡を、30分以上の悪戦苦闘の末に、私もようやく探し当てた。
けれども福島氏が「鬱蒼とした田園地帯」と表現しているその一画は、白いお化粧をして取り澄ましたモダン住宅と無機的な高層マンションによって埋め尽くされており、99年にこの地を訪れた著者が撮影した古い真鍋家の姿もいまや跡形も無い。
午後2時の太陽光線が私の頭上からぎらぎらと照りつけ、住民の人影もまばらだ。
ほんの申し訳程度に残されている庭や樹影を除けば、もはや詩人とその運命の女の痕跡はどこにも求めることはできなかった。
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる 中原中也「木陰」『山羊の歌』より
突然視野に珍しいものが飛び込んできた。
高田の馬場から神田川べりの面影橋まで下る六叉路である。大正14年の春、中也と泰子が何度も上り下りしたであろう長い坂道である。
その六叉路のひとつを少し入ったところに若い二人の愛の巣があったはずだ。当時彼らの頭上を覆っていたはずの大樹の切り株だけがまるで詩人の夢のかけらのように取り残されてあった。
旧居を下れば神田川はすぐだ。そのとき面影橋を早稲田に向かって走る都電荒川線の車輪が、青空の下でおおきな軋み声をあげた。
夏は青い空に、白い雲を浮かばせ、
わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。
わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂げよ。
―記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや
「夏は青い空に…」『山羊の歌』より
Monday, June 18, 2007
大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む
大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む
降っても照っても第26回
柳田國男が「遠野物語」の佐々木喜善、「蒲団」の田山花袋、同じ自然主義作家の水野葉舟との交友を通じていかにして柳田流の「自然主義」を追求し、国家社会や文芸と向き合いながら、花袋が私小説を創造したように、学としての「民俗学」を創成していったかを微視的に考察する労作である。
この本によれば明治40年代は空前の「怪談」の時代であり、例えば小泉八雲の「日本瞥見記」や徳田秋声の「あらくれ」、夏目漱石の「夢十夜」のような夢物語が異常なまでに持て囃された。
そのような怪談の時代にあって、柳田ひとりが政治的な植民地論と自然主義運動の双方の関心を抱きながら私的怪談から「山人論」を立ち上げていく。
柳田は「遠野物語」から「山の生活」そして昭和6年の「明治大正史世相篇」を発表するなかで、自らの疑わしい来歴を日本の名も無き普通の人々の歴史と同化させ、そのことを通じて民衆史の新しい書き直しに成功するのである。
大町にジャカランタ咲き和泉葉橋に最後のホタル舞い鎌倉の夏がはじまる
降っても照っても第26回
柳田國男が「遠野物語」の佐々木喜善、「蒲団」の田山花袋、同じ自然主義作家の水野葉舟との交友を通じていかにして柳田流の「自然主義」を追求し、国家社会や文芸と向き合いながら、花袋が私小説を創造したように、学としての「民俗学」を創成していったかを微視的に考察する労作である。
この本によれば明治40年代は空前の「怪談」の時代であり、例えば小泉八雲の「日本瞥見記」や徳田秋声の「あらくれ」、夏目漱石の「夢十夜」のような夢物語が異常なまでに持て囃された。
そのような怪談の時代にあって、柳田ひとりが政治的な植民地論と自然主義運動の双方の関心を抱きながら私的怪談から「山人論」を立ち上げていく。
柳田は「遠野物語」から「山の生活」そして昭和6年の「明治大正史世相篇」を発表するなかで、自らの疑わしい来歴を日本の名も無き普通の人々の歴史と同化させ、そのことを通じて民衆史の新しい書き直しに成功するのである。
大町にジャカランタ咲き和泉葉橋に最後のホタル舞い鎌倉の夏がはじまる
ある丹波の老人の話(29)
前にも述べたとおり、私の父は酒好き、遊び好きで、飲む打つ買うの三拍子をいずれ劣らず達者にやった人でした。ところがそれがいつまで経っても目が覚めず、四十過ぎても、五十子越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさです。
父はもともと商売上手と人にも言われ、世間の評判もよく、金も相当もうけてきたんでしたが、なにぶんお人よしで勝負事をしても人に取られるばかりでした。
勝負事といってもおもに花札などで本バクチには手を出してはいませんでしたが、そのくせ大きなことが好きで、米や株の相場に手を出して、またしても大穴をあけ、金のかかる女出入りも絶え間がありまへんでした。
こんな始末ですからよい目の出ようはずもなく、母が真面目に守っている履物屋商売もだんだんさびれ、借金は増える一方で家計は一日一日窮地に追い込まれていったんでした。そうして明治四十三年その火の車の中で、私の母は四十九才で病気で死んでしもうたんでした。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしく思えば思うほど、私は父への憎しみが深くなるのをそうすることもできませんでした。
「母のかたき!」と私の父を見る目は日増しに険しくなっていきました。
母の死後ますますやけになった父は、もはや我が家にも郷里の町にもいたたまれなくなって、前にも述べたように大正元年に五十八のよい歳をして世間には内緒で若い芸者を連れて隠岐の島へ逃げて行きました。
私は父を舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむ気持ちなどさらさらありまへんでしたし、それは父も同様でした。
前に触れたように、父を送って帰ってきた夜から、早くも債鬼は我が家に迫り、私を借金地獄に追い込んで私は貧乏暮らしのどん底で這いずり回ることになったんでした。
しかし幸いにも私はこの危機を辛うじて潜り抜けて借金もすべて返済することができました。私は家業に忠実な妻と共に下駄屋の商売も従来以上に回復させ、生活も安定させ、郡是株の強行買いが当たってだんだん好い目が見えてきたんでした。
その間私は自分のことにかまけ、父のことなぞすっかり忘れておりました。もとより父からは一度も便りはなく、人の噂にも聞かず、その消息もいっさい分からず、思い出す隙もなかったんでした。
ところがその父がひよっこり帰って来ようとは! 夢にも思わぬことでした。
(第五話父帰る第1回)
父はもともと商売上手と人にも言われ、世間の評判もよく、金も相当もうけてきたんでしたが、なにぶんお人よしで勝負事をしても人に取られるばかりでした。
勝負事といってもおもに花札などで本バクチには手を出してはいませんでしたが、そのくせ大きなことが好きで、米や株の相場に手を出して、またしても大穴をあけ、金のかかる女出入りも絶え間がありまへんでした。
こんな始末ですからよい目の出ようはずもなく、母が真面目に守っている履物屋商売もだんだんさびれ、借金は増える一方で家計は一日一日窮地に追い込まれていったんでした。そうして明治四十三年その火の車の中で、私の母は四十九才で病気で死んでしもうたんでした。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしく思えば思うほど、私は父への憎しみが深くなるのをそうすることもできませんでした。
「母のかたき!」と私の父を見る目は日増しに険しくなっていきました。
母の死後ますますやけになった父は、もはや我が家にも郷里の町にもいたたまれなくなって、前にも述べたように大正元年に五十八のよい歳をして世間には内緒で若い芸者を連れて隠岐の島へ逃げて行きました。
私は父を舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむ気持ちなどさらさらありまへんでしたし、それは父も同様でした。
前に触れたように、父を送って帰ってきた夜から、早くも債鬼は我が家に迫り、私を借金地獄に追い込んで私は貧乏暮らしのどん底で這いずり回ることになったんでした。
しかし幸いにも私はこの危機を辛うじて潜り抜けて借金もすべて返済することができました。私は家業に忠実な妻と共に下駄屋の商売も従来以上に回復させ、生活も安定させ、郡是株の強行買いが当たってだんだん好い目が見えてきたんでした。
その間私は自分のことにかまけ、父のことなぞすっかり忘れておりました。もとより父からは一度も便りはなく、人の噂にも聞かず、その消息もいっさい分からず、思い出す隙もなかったんでした。
ところがその父がひよっこり帰って来ようとは! 夢にも思わぬことでした。
(第五話父帰る第1回)
Saturday, June 16, 2007
避暑地鎌倉
鎌倉ちょっと不思議な物語62回
大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。
鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治天皇の夏季御用邸が建てられた。それが現在の御成小学校だが、いつか書いたように大々的な発掘が行われ、中世の巨大行政センター跡地であることが初めて分かった。
当時の中西市長は当初御成小学校を鉄筋コンクリートに建て替えようとしていたのだが、市民の反対に遭ってしぶしぶ低層木造校舎に変更したが、それは大正解だった。
日本には超高層鉄筋コンクリートは似合わない。いずれ大震災が立て続けにやってくれば、私の不吉な大予言がおのおのがたの骨身にしみて理解されるだろう。
それはさておき、御成というのは、だから明治天皇の御成り通りなのである。
御成の次には、より海に近い材木座にリゾートが進出した。写真の左が正田家の別荘であったが、広大な緑の敷地は東京の本宅と同様跡形も無く取り壊されて、現在はご覧のとおり何の変哲も無い新興住宅群になった。
それから写真の真ん中の坂道を登った左手辺りに、夏目漱石一家の夏の借家があったそうだ。
夫を薬で毒殺しようとしていた(江藤淳「漱石とその時代」最終巻を参照のこと)悪妻鏡子の「漱石の思ひ出」によれば、
「小さいほんの2間かそこいらに台所のくっついている家を借りることにしました。一夏一二〇円ばかりだったと覚えております」
とあるが、当時ここいらの住民は1ヶ月二十円ほどの借家に住みながら、それをちゃっかり無知な帝都の成金貴紳たちに何層倍もの値段でふっかけて又貸しして、大もうけをしていたのである。
そんなこととは知らない漱石は、足の踏み場も無い狭い借家で雑魚寝しながら
「ここでこうやって修養しておれば、いついくら貧乏しても驚かない」などと言って、「子供たちといっしょになって海に入って泳いでいた」そうだ。
もひとつおまけの写真の日本家屋は、あの「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄氏邸である。
ここに立って初夏の青い空を見上げていると、「アアヤッパリジブンハカエルワケニハイカナイ」と叫んだ水島上等兵のオウムのしゃがれ声がどこかから聞こえてくるようだ。
孤高のドイツ文学者は昭和59年に亡くなったが、彼が愛したいかにも鎌倉らしい瀟洒な木造住宅は、こうやってまだ残っている。
人はすぐ死ぬが、物とその気配は、死んだ人の周辺でしばらくは残っているのだろう。
大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。
鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治天皇の夏季御用邸が建てられた。それが現在の御成小学校だが、いつか書いたように大々的な発掘が行われ、中世の巨大行政センター跡地であることが初めて分かった。
当時の中西市長は当初御成小学校を鉄筋コンクリートに建て替えようとしていたのだが、市民の反対に遭ってしぶしぶ低層木造校舎に変更したが、それは大正解だった。
日本には超高層鉄筋コンクリートは似合わない。いずれ大震災が立て続けにやってくれば、私の不吉な大予言がおのおのがたの骨身にしみて理解されるだろう。
それはさておき、御成というのは、だから明治天皇の御成り通りなのである。
御成の次には、より海に近い材木座にリゾートが進出した。写真の左が正田家の別荘であったが、広大な緑の敷地は東京の本宅と同様跡形も無く取り壊されて、現在はご覧のとおり何の変哲も無い新興住宅群になった。
それから写真の真ん中の坂道を登った左手辺りに、夏目漱石一家の夏の借家があったそうだ。
夫を薬で毒殺しようとしていた(江藤淳「漱石とその時代」最終巻を参照のこと)悪妻鏡子の「漱石の思ひ出」によれば、
「小さいほんの2間かそこいらに台所のくっついている家を借りることにしました。一夏一二〇円ばかりだったと覚えております」
とあるが、当時ここいらの住民は1ヶ月二十円ほどの借家に住みながら、それをちゃっかり無知な帝都の成金貴紳たちに何層倍もの値段でふっかけて又貸しして、大もうけをしていたのである。
そんなこととは知らない漱石は、足の踏み場も無い狭い借家で雑魚寝しながら
「ここでこうやって修養しておれば、いついくら貧乏しても驚かない」などと言って、「子供たちといっしょになって海に入って泳いでいた」そうだ。
もひとつおまけの写真の日本家屋は、あの「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄氏邸である。
ここに立って初夏の青い空を見上げていると、「アアヤッパリジブンハカエルワケニハイカナイ」と叫んだ水島上等兵のオウムのしゃがれ声がどこかから聞こえてくるようだ。
孤高のドイツ文学者は昭和59年に亡くなったが、彼が愛したいかにも鎌倉らしい瀟洒な木造住宅は、こうやってまだ残っている。
人はすぐ死ぬが、物とその気配は、死んだ人の周辺でしばらくは残っているのだろう。
Friday, June 15, 2007
ある丹波の老人の話(28)
しかし思わぬ副産物もありました。
このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。
当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。
次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。
かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。
私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。
ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。
思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。
そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!
これこそは神の摂理でした。
私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。 (第四話 株が当たった話 終)
このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。
当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。
次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。
かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。
私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。
ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。
思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。
そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!
これこそは神の摂理でした。
私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。 (第四話 株が当たった話 終)
Thursday, June 14, 2007
ある丹波の老人の話(27)
振り返れば、私の貧乏は父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年がもっとも酷かったんですが、三年を境目に下駄屋の商売がだんだん順調に行きだして、だいぶん楽になってきよりました。
ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。
父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。
この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。
最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。
私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。
まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。
私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。
あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。
こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。
ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。
父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。
この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。
最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。
私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。
まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。
私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。
あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。
こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。
Wednesday, June 13, 2007
「私が独裁者?モーツァルトこそ!」チェリビダッケ音楽語録を読む
降っても照っても第25回
「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」
「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」
「フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ納得できた唯一の指揮者である」
「音楽史全体の中で、垂直に記された楽譜を、つまり同時的に生ずる音響現象の総体を、水平の流れやテンポに置き換えるそのやり方を理解していた唯一の指揮者がフルトヴェングラーである」
「カラヤンは大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカコーラもしかり」
「ロリン・マゼール、カントを読む2歳の子供だ」
「トスカニーニは純粋な音符工場だった」
「さてと、ムターさん、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏から学んだことをすべて忘れなさい」
「ジェシー・ノーマンは凄い声だが教養の香りがない。ポエジーの感覚がない。どこか別の惑星のような声だ。Rシュトラウスの「4つの最後の歌」はまるでゴビ砂漠の春のようだった」
「ベートーベンの5番は最低クラスのアマチュアの作品だ。終楽章はまったくひどい。間違った転調に満ち満ちている。エロイカの終楽章もひどいジョークというほかはない。また第9の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。だがそんなサラダというものはある。それがドイツ的で、ドイツ的にひびくなら我慢することが出来る」
「マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。彼は格好良く始めるがそうしたらもうやめられない男だ。いつも嘘ばかりついてきた無性格な男、つまりは人非人にすぎない。彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したと主張するものはほら吹きで詐欺師というほかはない。マーラーなんかいなくってもまったく気にならないね」
「ストラビンスキーはディレタントの天才にすぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。彼はこの欠陥をいつも新しい形式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」
「チャイコフスキーは真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である。ブラームスは交響曲第1番の終楽章の冒頭のコラールでトロンボーンを用いたが、これは素人くさいやり方だ。チャイコフスキーならそれをどんなすばらしいやり方で聴かせたことか!」
「ブルックナーが存在したという事実は、わたしにとって神のもっとも大きな贈り物である。彼はあらゆる時代のもっとも偉大な交響曲作曲家である。ひびきを互いに結びつけあいながら、それを宇宙にまで形成できたものはブルックナー以外にいない」
「普通の人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だがブルックナーの時間は終ったあとにはじまる。彼のフィナーレは全て神々しい。それは別の世界への希望、救済の希望、もういちど光をたっぷり浴びるよろこび、それは彼の音楽以外のどこにもない!」
「この男は死ぬまでとても孤独だった。彼があれほど多くの美しいものを生み出したのは自分の死を超えているということの答えだ」
「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすばらしい。アメリカ流の打てば響くヴィルトーゾ風のオーケストラだ。しかしフルトヴェングラーの厚みのある響き、あの純ドイツ風の響きはどこへ行ったのか?」
「ウイーンフィルは凡庸だ。音楽の生き生きとした流れというもの、主題の展開や織り成し、また構造というものをまるで理解していない。ひどいごった煮ですべてはメゾフォルテだ。たんなる砂糖漬けの果物だ」
「わたしを不幸にするものは他人の不幸である」
「楽の音は美を真実に導く。音楽とは自由の体験以外の何者でもない」
―セルジュ・チェリビダッケは1996年8月14日に死去した。彼の墓はパリ郊外のラ・ヌーヴィル・シュール・エソンンヌにある。
「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」
「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」
「フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ納得できた唯一の指揮者である」
「音楽史全体の中で、垂直に記された楽譜を、つまり同時的に生ずる音響現象の総体を、水平の流れやテンポに置き換えるそのやり方を理解していた唯一の指揮者がフルトヴェングラーである」
「カラヤンは大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカコーラもしかり」
「ロリン・マゼール、カントを読む2歳の子供だ」
「トスカニーニは純粋な音符工場だった」
「さてと、ムターさん、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏から学んだことをすべて忘れなさい」
「ジェシー・ノーマンは凄い声だが教養の香りがない。ポエジーの感覚がない。どこか別の惑星のような声だ。Rシュトラウスの「4つの最後の歌」はまるでゴビ砂漠の春のようだった」
「ベートーベンの5番は最低クラスのアマチュアの作品だ。終楽章はまったくひどい。間違った転調に満ち満ちている。エロイカの終楽章もひどいジョークというほかはない。また第9の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。だがそんなサラダというものはある。それがドイツ的で、ドイツ的にひびくなら我慢することが出来る」
「マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。彼は格好良く始めるがそうしたらもうやめられない男だ。いつも嘘ばかりついてきた無性格な男、つまりは人非人にすぎない。彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したと主張するものはほら吹きで詐欺師というほかはない。マーラーなんかいなくってもまったく気にならないね」
「ストラビンスキーはディレタントの天才にすぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。彼はこの欠陥をいつも新しい形式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」
「チャイコフスキーは真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である。ブラームスは交響曲第1番の終楽章の冒頭のコラールでトロンボーンを用いたが、これは素人くさいやり方だ。チャイコフスキーならそれをどんなすばらしいやり方で聴かせたことか!」
「ブルックナーが存在したという事実は、わたしにとって神のもっとも大きな贈り物である。彼はあらゆる時代のもっとも偉大な交響曲作曲家である。ひびきを互いに結びつけあいながら、それを宇宙にまで形成できたものはブルックナー以外にいない」
「普通の人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だがブルックナーの時間は終ったあとにはじまる。彼のフィナーレは全て神々しい。それは別の世界への希望、救済の希望、もういちど光をたっぷり浴びるよろこび、それは彼の音楽以外のどこにもない!」
「この男は死ぬまでとても孤独だった。彼があれほど多くの美しいものを生み出したのは自分の死を超えているということの答えだ」
「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすばらしい。アメリカ流の打てば響くヴィルトーゾ風のオーケストラだ。しかしフルトヴェングラーの厚みのある響き、あの純ドイツ風の響きはどこへ行ったのか?」
「ウイーンフィルは凡庸だ。音楽の生き生きとした流れというもの、主題の展開や織り成し、また構造というものをまるで理解していない。ひどいごった煮ですべてはメゾフォルテだ。たんなる砂糖漬けの果物だ」
「わたしを不幸にするものは他人の不幸である」
「楽の音は美を真実に導く。音楽とは自由の体験以外の何者でもない」
―セルジュ・チェリビダッケは1996年8月14日に死去した。彼の墓はパリ郊外のラ・ヌーヴィル・シュール・エソンンヌにある。
Tuesday, June 12, 2007
ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読む
降っても照っても第24回
渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。
特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」と共にわが国の絵画史の記念碑的な作品として高く評価されている。
彼はモデルを熟視し、その実際の顔容に酷使する「写真」を絵画の本質と考え、その考えを実作に反映した。平安時代以来崋山までは、わが国の肖像画には結局のところ“厳格なリアリズム”は存在しなかったのである。
これらの傑作の前に立つとき、我々は一人の武士の生き生きとした裸形の存在に直面し息を呑むような思いがする。
けれども意外なことに崋山は数多くの春画も描いていたし、「私は美しい女としか寝ない」と語る享楽の人でもあった。一日に数時間しか睡眠をとらず、朝から晩まで政務と画作、そして儒教の忠孝の教えの実践に勤めていた崋山の人物像は、思いもかけず多面的な広がりをもって私たちを魅了する。
ドナルド・キーンはそんな優れた画家崋山の悩み多き、悲劇的な生涯をたどりながら、三河田原藩の家老、儒家そして蘭学者でもあった崋山の思想の歩みについて鋭い分析と的確な評価を行っている。
崋山は貧しかった。終生多額の借金があった。大切な母をはじめ妻子や兄弟の生計を支えるために、崋山は無数の絵を描き、それを売ってはわずかな給金を補い、それは彼が行政のトップに近い立場にあったときにも変わらなかった。
そうしてこの不幸なアルバイトが藩主の不名誉になると妄想した彼を、最終的には自刃にまでおいやるのである。
そして無実の崋山をそこまで追いつめたのは、人格劣悪で性陰険な鳥居耀蔵であった。
いつの時代にもこういう卑劣な男がいるものだが、耀蔵は当時蘭学者仲間の間で高い声望を誇っていた開明派の崋山の存在をねたみ、崋山が海外渡航を企てたとか、大塩平八郎に同情したとか、高野長英が書いた「夢物語」の著者であるとか、幕府を誹謗中傷したとか、あらぬ言いがかりをつけて蛮社の獄に投じる。
恩師松崎慊堂の決死のとりなしによって斬首をまぬかれたものの、崋山は田原の在所蟄居に処せられ、ここで彼の芸が身をほろぼす因果な結果をうむのである。
一夜にして幕府の仇敵とみなされた崋山の元を多くの友人知己が離れていった。
伊豆韮山に隠棲した江川太郎左衛門の沈黙は許せるとしても、赤井東海、佐藤一斎、とりわけ滝沢馬琴の卑劣な裏切りは、どんなときにも逆上しない著者の物静かな声音によってきびしく弾劾されている。
悪辣非道な鳥居耀蔵とその取り巻きによって突然名誉を汚され、地位を奪われ、収入の道を途絶された崋山はみすぎよすぎの絵を描き、これらを売らなければ生活できなかった。
しかしそのことが余りにも余りにも倫理的な彼をさらに追いつめ、ついには三界に身の置き所をなくすのである。松崎慊堂の語るとおり、「崋山は杞憂を以って罪に罹り、また杞憂を以って死」んだのである。
崋山が老母の監視の目を盗んで納屋に入り、独り腹を切り、激痛を堪えながら飛び出した腸を腹に入れてから衣装を改め、さらに短刀で首を刺して自栽して果てたのが御一新までわずか二十七年の天保十二年一〇月十一日、崋山四十九歳の男盛りであった。
「不忠不幸渡邊登」と自らが大書した墓標の下でいまも眠っているこの男を、せめて幕末の大動乱まで生き延びさせたかったと思うのは、著者だけではないだろう。
渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。
特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」と共にわが国の絵画史の記念碑的な作品として高く評価されている。
彼はモデルを熟視し、その実際の顔容に酷使する「写真」を絵画の本質と考え、その考えを実作に反映した。平安時代以来崋山までは、わが国の肖像画には結局のところ“厳格なリアリズム”は存在しなかったのである。
これらの傑作の前に立つとき、我々は一人の武士の生き生きとした裸形の存在に直面し息を呑むような思いがする。
けれども意外なことに崋山は数多くの春画も描いていたし、「私は美しい女としか寝ない」と語る享楽の人でもあった。一日に数時間しか睡眠をとらず、朝から晩まで政務と画作、そして儒教の忠孝の教えの実践に勤めていた崋山の人物像は、思いもかけず多面的な広がりをもって私たちを魅了する。
ドナルド・キーンはそんな優れた画家崋山の悩み多き、悲劇的な生涯をたどりながら、三河田原藩の家老、儒家そして蘭学者でもあった崋山の思想の歩みについて鋭い分析と的確な評価を行っている。
崋山は貧しかった。終生多額の借金があった。大切な母をはじめ妻子や兄弟の生計を支えるために、崋山は無数の絵を描き、それを売ってはわずかな給金を補い、それは彼が行政のトップに近い立場にあったときにも変わらなかった。
そうしてこの不幸なアルバイトが藩主の不名誉になると妄想した彼を、最終的には自刃にまでおいやるのである。
そして無実の崋山をそこまで追いつめたのは、人格劣悪で性陰険な鳥居耀蔵であった。
いつの時代にもこういう卑劣な男がいるものだが、耀蔵は当時蘭学者仲間の間で高い声望を誇っていた開明派の崋山の存在をねたみ、崋山が海外渡航を企てたとか、大塩平八郎に同情したとか、高野長英が書いた「夢物語」の著者であるとか、幕府を誹謗中傷したとか、あらぬ言いがかりをつけて蛮社の獄に投じる。
恩師松崎慊堂の決死のとりなしによって斬首をまぬかれたものの、崋山は田原の在所蟄居に処せられ、ここで彼の芸が身をほろぼす因果な結果をうむのである。
一夜にして幕府の仇敵とみなされた崋山の元を多くの友人知己が離れていった。
伊豆韮山に隠棲した江川太郎左衛門の沈黙は許せるとしても、赤井東海、佐藤一斎、とりわけ滝沢馬琴の卑劣な裏切りは、どんなときにも逆上しない著者の物静かな声音によってきびしく弾劾されている。
悪辣非道な鳥居耀蔵とその取り巻きによって突然名誉を汚され、地位を奪われ、収入の道を途絶された崋山はみすぎよすぎの絵を描き、これらを売らなければ生活できなかった。
しかしそのことが余りにも余りにも倫理的な彼をさらに追いつめ、ついには三界に身の置き所をなくすのである。松崎慊堂の語るとおり、「崋山は杞憂を以って罪に罹り、また杞憂を以って死」んだのである。
崋山が老母の監視の目を盗んで納屋に入り、独り腹を切り、激痛を堪えながら飛び出した腸を腹に入れてから衣装を改め、さらに短刀で首を刺して自栽して果てたのが御一新までわずか二十七年の天保十二年一〇月十一日、崋山四十九歳の男盛りであった。
「不忠不幸渡邊登」と自らが大書した墓標の下でいまも眠っているこの男を、せめて幕末の大動乱まで生き延びさせたかったと思うのは、著者だけではないだろう。
Monday, June 11, 2007
乱橋から妙長寺へ
鎌倉ちょっと不思議な物語61回
「乱橋」は鎌倉十橋のひとつである。道路の端にあるのでほとんどの人が見逃すほんの小さな短い橋だが、ときおり「吾妻鏡」に登場する。
この近所には横溝正史や大仏次郎が住み夏目漱石も家族と共に訪れている。
すぐ傍にある妙長寺はすっくと夏の空に聳える日蓮像のたもとに控えている。
数年前に建て替えたために、実につまらない近代的な外観になったが、昔は鄙びた味の寺であった。北鎌倉の長寿寺と同様、今も昔も観光客には公開されていないのは立派だ。すべからく寺は全部そうあるべきだと私は思う。
ところでこのお寺は、私の大好きな天才尾崎紅葉の弟子であって、その紅葉ほど私が好きではない泉鏡花が明治24年の夏に滞在していた。
鏡花の「星明り」には鏡花が外出した間に締め出されたときの思い出が書いてある。
「さまで大きくない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。松葉牡丹、鬼百合、夏菊雑植えの繁った中に向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。門の左側に井戸が一個(現存せず)。飲み水ではないので極めて塩辛いが、底は浅い。屈んでざぶざぶ、さるぼうで汲み得らる。石畳で掘り下ろした合目には、此のあたりに産する何とかいう蟹、甲羅が黄色で、足の赤い、小さなのが数限りなく群がって動いている。」
この蟹については確か漱石も書いていた。そこいらをきょろきょろ探して見たが、残念ながらいなかった。恐らく近代化の波におぼれて絶滅してしまったのだろう。
いや待てよ。これが淡水産の蟹ではないとすれば、もしかすると材木座の海岸をくまなく探せば一匹くらいいるかもしれないな。
私の住んでいる山地にも昔は大量の蟹がいたが、最近はほとんどいなくなってしまった。しかしモクズ蟹とウナギはまだ生存している。でもどこにいるかはもう教えたくない。
というのも、先日棒を振り回して高い崖に咲くイワタバコを盗んでいる男を見たからだ。私がこいつを大声で怒鳴りつけると、この馬鹿男は恥ずかしそうにどこかへ行ってしまった。
ということでせっかくお寺の話を始めたのに、最後は血の気の多い話で終ってしまった。
「乱橋」は鎌倉十橋のひとつである。道路の端にあるのでほとんどの人が見逃すほんの小さな短い橋だが、ときおり「吾妻鏡」に登場する。
この近所には横溝正史や大仏次郎が住み夏目漱石も家族と共に訪れている。
すぐ傍にある妙長寺はすっくと夏の空に聳える日蓮像のたもとに控えている。
数年前に建て替えたために、実につまらない近代的な外観になったが、昔は鄙びた味の寺であった。北鎌倉の長寿寺と同様、今も昔も観光客には公開されていないのは立派だ。すべからく寺は全部そうあるべきだと私は思う。
ところでこのお寺は、私の大好きな天才尾崎紅葉の弟子であって、その紅葉ほど私が好きではない泉鏡花が明治24年の夏に滞在していた。
鏡花の「星明り」には鏡花が外出した間に締め出されたときの思い出が書いてある。
「さまで大きくない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。松葉牡丹、鬼百合、夏菊雑植えの繁った中に向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。門の左側に井戸が一個(現存せず)。飲み水ではないので極めて塩辛いが、底は浅い。屈んでざぶざぶ、さるぼうで汲み得らる。石畳で掘り下ろした合目には、此のあたりに産する何とかいう蟹、甲羅が黄色で、足の赤い、小さなのが数限りなく群がって動いている。」
この蟹については確か漱石も書いていた。そこいらをきょろきょろ探して見たが、残念ながらいなかった。恐らく近代化の波におぼれて絶滅してしまったのだろう。
いや待てよ。これが淡水産の蟹ではないとすれば、もしかすると材木座の海岸をくまなく探せば一匹くらいいるかもしれないな。
私の住んでいる山地にも昔は大量の蟹がいたが、最近はほとんどいなくなってしまった。しかしモクズ蟹とウナギはまだ生存している。でもどこにいるかはもう教えたくない。
というのも、先日棒を振り回して高い崖に咲くイワタバコを盗んでいる男を見たからだ。私がこいつを大声で怒鳴りつけると、この馬鹿男は恥ずかしそうにどこかへ行ってしまった。
ということでせっかくお寺の話を始めたのに、最後は血の気の多い話で終ってしまった。
材木座海岸から和賀江島を見る
鎌倉ちょっと不思議な物語60回
昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。
そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認められた。時の執権(武州と称される)は北条泰時であった。
「吾妻鏡」の同年7月12日の条には、「今日、勧進上人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩なからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまう。諸人また助成すと云々。」とある。
また同月15日条には、「今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」
さらに8月9日条には、「9日丁巳 晴る。和賀江嶋その功を終う。よって尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。」と書かれているとおり、泰時はじめ諸人の協力によって工事はわずか1ヶ月足らずで終了した。
和賀江島は江戸時代に入っても修復を行いながら活用されていたが、明治時代になって現在のように潮の干満によってほぼ水没したりかろうじて姿を現すような状態になった。
しかし国の史跡であるこの小さな人工島が日本で唯一の鎌倉時代の港であることは間違いない。(左の建物は川端康成が自殺した逗子マリーナ)
波のまにまに露頭する岩をじっと眺めていると、これが天と地、過去と現在をかりそめに繋げている夢の浮橋のような気がしてくる。
昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。
そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認められた。時の執権(武州と称される)は北条泰時であった。
「吾妻鏡」の同年7月12日の条には、「今日、勧進上人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩なからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまう。諸人また助成すと云々。」とある。
また同月15日条には、「今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」
さらに8月9日条には、「9日丁巳 晴る。和賀江嶋その功を終う。よって尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。」と書かれているとおり、泰時はじめ諸人の協力によって工事はわずか1ヶ月足らずで終了した。
和賀江島は江戸時代に入っても修復を行いながら活用されていたが、明治時代になって現在のように潮の干満によってほぼ水没したりかろうじて姿を現すような状態になった。
しかし国の史跡であるこの小さな人工島が日本で唯一の鎌倉時代の港であることは間違いない。(左の建物は川端康成が自殺した逗子マリーナ)
波のまにまに露頭する岩をじっと眺めていると、これが天と地、過去と現在をかりそめに繋げている夢の浮橋のような気がしてくる。
Sunday, June 10, 2007
鎌倉の海岸を歩く
鎌倉ちょっと不思議な物語59回
鎌倉には幸いにも海がある。
鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師が
「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と書いている。
昔は下々の者も馬鹿にして食べなかったのに最近は高貴な方たちが競って口にしている。ああ世も末じゃと嘆いているのである。
これが12世紀の話だから800年後の今日ますます世も末現象が進み、カツオはマグロやアジと同様庶民の口からますます遠ざかりつつある。そのうち高級も大衆もつきまぜてあらゆる魚が世界の上ざまの人々の食卓で独占されるようになるだろう。
そんな世も末の鎌倉の海辺を歩いてみた。海の向こうに船が見えた。
鎌倉幕府の3代将軍実朝が渡宋を計画し、南宋の陳和卿に船を造ることを命じたのは建保4年1216年の11月だった。
陳和卿は12世紀の末に来日し勧進上人の重源と共に焼失した東大寺の再建に貢献した当代一流の総合技術者だったが鎌倉に下って実朝に信頼され、彼に政争相次ぐ日本を離れて大陸に逃走することをすすめた。
しかし巨費を投じて建造した巨船はあまりにも重くつくりすぎたのか数百人の人夫を水中で引かせてもいっかな動こうとせず、とうとう遠浅の海底にどっかりと座礁したままいたずらに朽ち果ててしまった。
この様子を描いた文芸作品には、太宰治の名作「右大臣実朝」や澁澤龍彦の「ダイダロス」(この2人は鎌倉に浅からぬ因縁を有している。太宰はたっぷりと腰越の海水を飲んだ)、それに吉本隆明の名著「源実朝」がある。
吉本がこの著作を書いているときに、突然思いついて夕方の鎌倉にやって来て頼朝の墓を捜し求める。けれども結果的に「一山ほど間違えて」黄昏の中で途方に暮れる個所は印象的だ。
似たようなことをしたことが私にもある。遠く若き日の直情径行振りはひたすら懐かしく、思い出の中で小さくまたたいているようだ。
鎌倉には幸いにも海がある。
鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師が
「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と書いている。
昔は下々の者も馬鹿にして食べなかったのに最近は高貴な方たちが競って口にしている。ああ世も末じゃと嘆いているのである。
これが12世紀の話だから800年後の今日ますます世も末現象が進み、カツオはマグロやアジと同様庶民の口からますます遠ざかりつつある。そのうち高級も大衆もつきまぜてあらゆる魚が世界の上ざまの人々の食卓で独占されるようになるだろう。
そんな世も末の鎌倉の海辺を歩いてみた。海の向こうに船が見えた。
鎌倉幕府の3代将軍実朝が渡宋を計画し、南宋の陳和卿に船を造ることを命じたのは建保4年1216年の11月だった。
陳和卿は12世紀の末に来日し勧進上人の重源と共に焼失した東大寺の再建に貢献した当代一流の総合技術者だったが鎌倉に下って実朝に信頼され、彼に政争相次ぐ日本を離れて大陸に逃走することをすすめた。
しかし巨費を投じて建造した巨船はあまりにも重くつくりすぎたのか数百人の人夫を水中で引かせてもいっかな動こうとせず、とうとう遠浅の海底にどっかりと座礁したままいたずらに朽ち果ててしまった。
この様子を描いた文芸作品には、太宰治の名作「右大臣実朝」や澁澤龍彦の「ダイダロス」(この2人は鎌倉に浅からぬ因縁を有している。太宰はたっぷりと腰越の海水を飲んだ)、それに吉本隆明の名著「源実朝」がある。
吉本がこの著作を書いているときに、突然思いついて夕方の鎌倉にやって来て頼朝の墓を捜し求める。けれども結果的に「一山ほど間違えて」黄昏の中で途方に暮れる個所は印象的だ。
似たようなことをしたことが私にもある。遠く若き日の直情径行振りはひたすら懐かしく、思い出の中で小さくまたたいているようだ。
Friday, June 08, 2007
富岡多恵子著「湖の南」を読む
降っても照っても第23回
明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。
本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡する。
そこでは維新後の明治が回想され、西南戦争で名誉の負傷をした津田のトラウマが指摘され、日露開戦前の両国の関係についてもあれやこれやの記述がだらだらと書き連ねられる。
これは大津事件の犯人の犯行の真相を追究するドキュメンタリーかと思ったら、突然著者につきまとう怪しい男からの手紙が紹介される。なんのことやらさっぱりわからぬ。
ドキュメンタリーだけでは読者が退屈しそうだから、私小説風の味付けをしてエンターテインしてもらおうという著者のサービス精神のあらわれであろうか?
著者は最近大津に引っ越したそうだ。買い物に行ったついでに「此附近露国皇太子遭難乃地」なる記念碑を見つけてこの散文を書きはじめたそうだ。かねがね大津事件と津田に関心があったというのだが、ほんとうだろうか?
もしこのテーマに関心があり、その本質に本気で切り込むつもりなら、絶対にこのような軟弱な文体といきあたりばったりな論法でこのテーマを扱うはずが無いと私は思う。
巻末には津田の書簡集やら大津事件日誌やら篠田鉱造の明治百話だの多くの参考文献が羅列されているから、著者が相当の時間と労力をかけてこれを完成?させたのだろうと推察し敬意は払うが、ほとんど見るべき成果があがっていない。
そもそもこの人は詩人ではないのか。私の考えでは詩人は最高位の文学者だから、軽々に散文に手を染めてはいけない。武士はくわねど高楊枝、で純乎たる詩藻が内部生命から湧き起こるまで静かに待機していなければならない。
いくら編集者が薦めたからといって、またいくら生活に困窮したからといって、こんなくだらない小説だか歴史物だかミステリーだかご当地ルポルタージュだか訳が分からぬ駄文書きに手を出すのは、卑しくも詩人ならけっして許されることではない。これはある種のぶんがくてきな腐敗と堕落のサンプルであろう。
私だってそれなりに忙しい。こんな無内容な作文を読まされるならエルガーの交響曲をバルビローリの演奏で聴いていたほうがよほど心身が清涼されたのに、ああもったいないことをした。
もう君には、ぶんがく関係は頼まない。私もそおゆう内的必然性がないのに、いきなり下着を脱いだり、文章を書いたりしないように注意しよう。
明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。
本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡する。
そこでは維新後の明治が回想され、西南戦争で名誉の負傷をした津田のトラウマが指摘され、日露開戦前の両国の関係についてもあれやこれやの記述がだらだらと書き連ねられる。
これは大津事件の犯人の犯行の真相を追究するドキュメンタリーかと思ったら、突然著者につきまとう怪しい男からの手紙が紹介される。なんのことやらさっぱりわからぬ。
ドキュメンタリーだけでは読者が退屈しそうだから、私小説風の味付けをしてエンターテインしてもらおうという著者のサービス精神のあらわれであろうか?
著者は最近大津に引っ越したそうだ。買い物に行ったついでに「此附近露国皇太子遭難乃地」なる記念碑を見つけてこの散文を書きはじめたそうだ。かねがね大津事件と津田に関心があったというのだが、ほんとうだろうか?
もしこのテーマに関心があり、その本質に本気で切り込むつもりなら、絶対にこのような軟弱な文体といきあたりばったりな論法でこのテーマを扱うはずが無いと私は思う。
巻末には津田の書簡集やら大津事件日誌やら篠田鉱造の明治百話だの多くの参考文献が羅列されているから、著者が相当の時間と労力をかけてこれを完成?させたのだろうと推察し敬意は払うが、ほとんど見るべき成果があがっていない。
そもそもこの人は詩人ではないのか。私の考えでは詩人は最高位の文学者だから、軽々に散文に手を染めてはいけない。武士はくわねど高楊枝、で純乎たる詩藻が内部生命から湧き起こるまで静かに待機していなければならない。
いくら編集者が薦めたからといって、またいくら生活に困窮したからといって、こんなくだらない小説だか歴史物だかミステリーだかご当地ルポルタージュだか訳が分からぬ駄文書きに手を出すのは、卑しくも詩人ならけっして許されることではない。これはある種のぶんがくてきな腐敗と堕落のサンプルであろう。
私だってそれなりに忙しい。こんな無内容な作文を読まされるならエルガーの交響曲をバルビローリの演奏で聴いていたほうがよほど心身が清涼されたのに、ああもったいないことをした。
もう君には、ぶんがく関係は頼まない。私もそおゆう内的必然性がないのに、いきなり下着を脱いだり、文章を書いたりしないように注意しよう。
Thursday, June 07, 2007
ある丹波の老人の話(26)
数奇な運命にもてあそばれ、しばしば逆境にさいなまれておった私ですが、いつもすくんでおったわけでもなく、たまには青年らしく私なりに熱い血を燃やして立ち上がったこともありました。
私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だんだん世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられるようになりました。
その頃選挙の取締りが過酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙されたとき、私は義憤に燃えて急先鋒となり、年長者で声望のある医師の吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らしたもんでした。
間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のような名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもんでした。
そのことが優先株の引き受けを容易にして郡是の危機を救うことになったのは思いがけない副産物でした。これが二日会の発端となり、この集まりはいまも続いて市民の健全かつ有力なる世論の基礎を作っておるわけです。
私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だんだん世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられるようになりました。
その頃選挙の取締りが過酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙されたとき、私は義憤に燃えて急先鋒となり、年長者で声望のある医師の吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らしたもんでした。
間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のような名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもんでした。
そのことが優先株の引き受けを容易にして郡是の危機を救うことになったのは思いがけない副産物でした。これが二日会の発端となり、この集まりはいまも続いて市民の健全かつ有力なる世論の基礎を作っておるわけです。
Wednesday, June 06, 2007
♪蟻地獄の歌
♪ある晴れた日に その9
何をする気もなくなって神社に行くと強い風が吹いていた。『風が立ち、波が騒ぎ、無限の前で腕を振る』というやつだ。
階段を上って神社の入り口の右側に直径1尺くらいの玉石がごろんと転がっていた。
こいつは文久二年に寺田屋騒動が起こったり、生麦で薩摩の武士が刀でイギリス人を切り殺したり、長州の高杉晋作が品川の英国公使館を襲撃したりしているときにも、やっぱりここでごろんと転がって青空を流れる白い雲を眺めていたのだ。無為にして化しておったのだ。
そうして年に一度の祭礼の宵には村の力持ちが。こやつを「えいやっ」と頭上高く捧げ持っては、「やんや、やんや」の喝采を浴びたりしていたのである。
私は今日は無慈悲な無神論者なので、家内安全、商売繁盛を願って神殿の前で二礼二拍一礼などする気は毛頭ない。
死んだら墓石の下にも潜らず、まして千の風にもなるつもりもない。その風に吹き飛ばされる灰塵になるつもりで神殿の縁の下をのぞいたら、あらめずらしや砂の漏斗を仕掛けた蟻地獄がひっそりとアリさんたちの到来を待ち構えていた。
私は昔幼い子供たちと一緒に、日がな一日哀れな蟻たちを凶悪無慈悲な蟻地獄の餌にくれてやったことがある。幾百のアリさんたちは、もううんともすんとも言わず、泣き声ひとつ立てずに、サソリそっくり形をした蟻地獄の餌食になって逆様の円錐の頂点めがけてズルズルと落下していくのだった。
これだから私なぞは今更どうあがいても天国には行けないだろうな。
またしてもすべてに退屈しはじめた私は、ひんやりした風が吹きぬける蟻地獄の谷に別れを告げ、神社の背後の崖にへばりつくようにしてひっそり咲きはじめた岩煙草のあえかな薄紫の花をしばらく眺めていた。
崖の上に高く聳える椎の若葉の上で、鮮やかな緋色の羽根を翻しながら2羽のゼフィルスが戯れていた。
蟻さんは左2番目の足から地獄落ち 芒洋
何をする気もなくなって神社に行くと強い風が吹いていた。『風が立ち、波が騒ぎ、無限の前で腕を振る』というやつだ。
階段を上って神社の入り口の右側に直径1尺くらいの玉石がごろんと転がっていた。
こいつは文久二年に寺田屋騒動が起こったり、生麦で薩摩の武士が刀でイギリス人を切り殺したり、長州の高杉晋作が品川の英国公使館を襲撃したりしているときにも、やっぱりここでごろんと転がって青空を流れる白い雲を眺めていたのだ。無為にして化しておったのだ。
そうして年に一度の祭礼の宵には村の力持ちが。こやつを「えいやっ」と頭上高く捧げ持っては、「やんや、やんや」の喝采を浴びたりしていたのである。
私は今日は無慈悲な無神論者なので、家内安全、商売繁盛を願って神殿の前で二礼二拍一礼などする気は毛頭ない。
死んだら墓石の下にも潜らず、まして千の風にもなるつもりもない。その風に吹き飛ばされる灰塵になるつもりで神殿の縁の下をのぞいたら、あらめずらしや砂の漏斗を仕掛けた蟻地獄がひっそりとアリさんたちの到来を待ち構えていた。
私は昔幼い子供たちと一緒に、日がな一日哀れな蟻たちを凶悪無慈悲な蟻地獄の餌にくれてやったことがある。幾百のアリさんたちは、もううんともすんとも言わず、泣き声ひとつ立てずに、サソリそっくり形をした蟻地獄の餌食になって逆様の円錐の頂点めがけてズルズルと落下していくのだった。
これだから私なぞは今更どうあがいても天国には行けないだろうな。
またしてもすべてに退屈しはじめた私は、ひんやりした風が吹きぬける蟻地獄の谷に別れを告げ、神社の背後の崖にへばりつくようにしてひっそり咲きはじめた岩煙草のあえかな薄紫の花をしばらく眺めていた。
崖の上に高く聳える椎の若葉の上で、鮮やかな緋色の羽根を翻しながら2羽のゼフィルスが戯れていた。
蟻さんは左2番目の足から地獄落ち 芒洋
Tuesday, June 05, 2007
レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「大聖堂」を読む
降っても照っても第22回
アルコール依存症を辛うじて脱し、好伴侶テス・ギャラガーを得て創作に勤しむカーヴァーが書き上げた短編小説の傑作の森が本作である。
いずれもいわゆる珠玉のような完成度を誇るが村上氏が評価しているように「ささやかだけど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂」の出来栄えは見事である。
「大聖堂」は妻の友人である盲人に対してはじめは冷淡だった主人公が手に手を取って大聖堂の絵を描きあげるなかで障碍者の実体を文字通り体験する感動の物語だが、導入部の冷淡さと結末の高揚の対比が少しあざといのが瑕瑾といえば瑕瑾か。
「ささやかだけど、役に立つこと」においても、最後のパン屋の告白が唐突に過ぎるように感じられる。
それに比べると「ぼくが電話をかけている場所」はJPの語りが素晴らしい。
この語りの中で私は「荒野の呼び声」のジャック・ロンドンがこの小説の舞台となった療養所に近い谷間の土地でアル中で窮死したことを知った。
どうもアル中はアル中を呼ぶらしい。
アルコール依存症を辛うじて脱し、好伴侶テス・ギャラガーを得て創作に勤しむカーヴァーが書き上げた短編小説の傑作の森が本作である。
いずれもいわゆる珠玉のような完成度を誇るが村上氏が評価しているように「ささやかだけど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂」の出来栄えは見事である。
「大聖堂」は妻の友人である盲人に対してはじめは冷淡だった主人公が手に手を取って大聖堂の絵を描きあげるなかで障碍者の実体を文字通り体験する感動の物語だが、導入部の冷淡さと結末の高揚の対比が少しあざといのが瑕瑾といえば瑕瑾か。
「ささやかだけど、役に立つこと」においても、最後のパン屋の告白が唐突に過ぎるように感じられる。
それに比べると「ぼくが電話をかけている場所」はJPの語りが素晴らしい。
この語りの中で私は「荒野の呼び声」のジャック・ロンドンがこの小説の舞台となった療養所に近い谷間の土地でアル中で窮死したことを知った。
どうもアル中はアル中を呼ぶらしい。
Monday, June 04, 2007
小さな橋の上で
♪バガテルop21
こんばんは。
こんばんは、今夜はどうですか?
ほら、いま飛んでるでしょ、水のうえを。
ほんとだ。木の上にも別の奴がいますね。
ほんと、さっきから見てるんだけど今日は少ないわね。7、8匹でる時もあるのよ。
ここら辺のホタルは6月初旬から中旬にかけての約2週間がピークで、晴れた日の午後7半から8時過ぎくらいしか見ることはできません。しかもそんなゴールデンタイムでも風があるとあまり出ないんです。ホタルってとってもデリケートな生き物なんです。今日は温かいけどちょっと風があるからまあこんなもんでしょう。
あっちの桜並木のほうはどうなの?
いやあ、あそこはもうだめ。先月県の土木事務所がブルドーザで川床を浚ったから
ホタルの幼虫のカワニナが全滅してしまいました。
まあ、かわいそうに。なんてことするのかしら。ちっとも知らなかったわ。
あいつらはてんで情緒を解さず、土木のことしか考えてないんです。たまたま年次予算が余っていたから滑川の川浚いでもするべえ、ってんでブルを発動させたんですね。あわてて止めたんだけどもう遅かった。あの桜並木の辺では、数年前の最盛期にはものすごい数で乱舞していたんですけどねえ。お役所は勝手に大掃除するし、町内会はやれ痴漢が出るの、防犯対策だのといって巨大な照明塔を設置したもんだから、ホタルがびびっちゃってもう二度とでてきやしませんよ。やつらには風雅の心ってもんが分かってないんだ。パチパチネオンサインをぶっこわして全員谷崎の陰影礼賛を読むべきなんだ。
あのう、そんなことより、光ってるのはオスなんですか?
いやメスも光ります。ただ雌雄それぞれの光る間隔が違うのでそれでお互いに相手を認知してコミュニーションを取り合ってるんです。ほーら、あっちのオスがこっちのメスを追っかけてるでしょ。
あーら、ほんとだ。いやらしい。あなたホタルに詳しいようだけど昆虫研究家? それともセックス方面の専門家なの? 確か昨夜もお見受けしましたよね。
いやいや、ただの通りすがりのもんです。奥さんこそ毎晩ご精勤じゃないですか?
あら、ずいぶんね。私のことをそんな風に思ってらっしゃるの?
とかなんとか、ホラル飛ぶ橋の上の夏の夜はけふも楽しく更けていくのでした。
ホタル二つ四つに砕け水の上 芒洋
こんばんは。
こんばんは、今夜はどうですか?
ほら、いま飛んでるでしょ、水のうえを。
ほんとだ。木の上にも別の奴がいますね。
ほんと、さっきから見てるんだけど今日は少ないわね。7、8匹でる時もあるのよ。
ここら辺のホタルは6月初旬から中旬にかけての約2週間がピークで、晴れた日の午後7半から8時過ぎくらいしか見ることはできません。しかもそんなゴールデンタイムでも風があるとあまり出ないんです。ホタルってとってもデリケートな生き物なんです。今日は温かいけどちょっと風があるからまあこんなもんでしょう。
あっちの桜並木のほうはどうなの?
いやあ、あそこはもうだめ。先月県の土木事務所がブルドーザで川床を浚ったから
ホタルの幼虫のカワニナが全滅してしまいました。
まあ、かわいそうに。なんてことするのかしら。ちっとも知らなかったわ。
あいつらはてんで情緒を解さず、土木のことしか考えてないんです。たまたま年次予算が余っていたから滑川の川浚いでもするべえ、ってんでブルを発動させたんですね。あわてて止めたんだけどもう遅かった。あの桜並木の辺では、数年前の最盛期にはものすごい数で乱舞していたんですけどねえ。お役所は勝手に大掃除するし、町内会はやれ痴漢が出るの、防犯対策だのといって巨大な照明塔を設置したもんだから、ホタルがびびっちゃってもう二度とでてきやしませんよ。やつらには風雅の心ってもんが分かってないんだ。パチパチネオンサインをぶっこわして全員谷崎の陰影礼賛を読むべきなんだ。
あのう、そんなことより、光ってるのはオスなんですか?
いやメスも光ります。ただ雌雄それぞれの光る間隔が違うのでそれでお互いに相手を認知してコミュニーションを取り合ってるんです。ほーら、あっちのオスがこっちのメスを追っかけてるでしょ。
あーら、ほんとだ。いやらしい。あなたホタルに詳しいようだけど昆虫研究家? それともセックス方面の専門家なの? 確か昨夜もお見受けしましたよね。
いやいや、ただの通りすがりのもんです。奥さんこそ毎晩ご精勤じゃないですか?
あら、ずいぶんね。私のことをそんな風に思ってらっしゃるの?
とかなんとか、ホラル飛ぶ橋の上の夏の夜はけふも楽しく更けていくのでした。
ホタル二つ四つに砕け水の上 芒洋
ある丹波の老人の話(25)
それから波多野翁は、若い私に向かって、“積極と消極”ということについて語られました。当時この用語はまだ一般世間では珍しかったんですが、翁はこの当時流行の新語にことよせて私に処世の要諦を説かれました。
翁は“積極”については、自分に確信があったら冒険と思われるようなことでも勇気を奮ってドンドンやれ、とおっしゃいました。
この時私が持っておった78株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が混じっていた程度だったんですが、私には「郡是はつぶれない。きっと良くなる」という確信と、財力にも多少の余裕が生まれておった関係から、翁のその言葉に励まされ、引き続き優先株買いに狂奔することができました。
そのためにはずいぶん剣の刃を渡るような冒険もやったもんでした。
思えば津山の武蔵野旅館に泊まったときも、最初は100円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えのときに旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のどてらにコロコリしたちりめんの兵児帯、そこへさらに私が脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯でした。
それを女中がていねいにたたんで衣装箱に納めるときには思わず冷や汗が出ました。
そんなことから偽装札束のトリックがばれやせんかと毎日気が気ではありまへん。時々金庫から偽装札束を出してもらって、その見た目を大きくしたり小さくしたりして、また預け入れたもんでした。
実際に金のやり繰りには格別苦心をしたもんで店で使っていた二,三人の若者を津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他の金策を機敏にやらせたものですから、“丹波紀文”はついに化けの皮を現さずに最後の最後までやりおおせて、まずは存分にもうけたもんでした。
それもこれも若さのさせたことでしたが、一は私の波多野びいき、郡是びいきのなせる業でした。それにしても波多野翁の積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこのときも何かが私に乗り移っておったような気がいたします。
翁は“積極”については、自分に確信があったら冒険と思われるようなことでも勇気を奮ってドンドンやれ、とおっしゃいました。
この時私が持っておった78株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が混じっていた程度だったんですが、私には「郡是はつぶれない。きっと良くなる」という確信と、財力にも多少の余裕が生まれておった関係から、翁のその言葉に励まされ、引き続き優先株買いに狂奔することができました。
そのためにはずいぶん剣の刃を渡るような冒険もやったもんでした。
思えば津山の武蔵野旅館に泊まったときも、最初は100円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えのときに旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のどてらにコロコリしたちりめんの兵児帯、そこへさらに私が脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯でした。
それを女中がていねいにたたんで衣装箱に納めるときには思わず冷や汗が出ました。
そんなことから偽装札束のトリックがばれやせんかと毎日気が気ではありまへん。時々金庫から偽装札束を出してもらって、その見た目を大きくしたり小さくしたりして、また預け入れたもんでした。
実際に金のやり繰りには格別苦心をしたもんで店で使っていた二,三人の若者を津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他の金策を機敏にやらせたものですから、“丹波紀文”はついに化けの皮を現さずに最後の最後までやりおおせて、まずは存分にもうけたもんでした。
それもこれも若さのさせたことでしたが、一は私の波多野びいき、郡是びいきのなせる業でした。それにしても波多野翁の積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこのときも何かが私に乗り移っておったような気がいたします。
Saturday, June 02, 2007
レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「愛について語るときに我々の語ること」を読む
降っても照っても第20回
男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。
本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。
とりわけ表題作は生を串刺しにするような痛々しい鋭さが印象的だ。
二組の夫婦、四人の男女の愛の形が次第に浮き彫りにされ、それぞれが現在問題なく享受しているはずの愛の居場所がじつは虚構のものであることにいやおう無く気付かされていく。
しかし私がいちばん好きなのは、加洲クレセント・シティの散髪屋での些細な出来事を描いた「静けさ」という1篇である。
ここには泣きたくなるような人生への哀切な手触りが確かに存在している。
それにしてもレイモンド・カーヴァーの小説にはどうしてこれほど多くの飲酒のシーンが出てくるのであろう。
彼は酒を浴びるほど飲むそのわずかな合間に小説を書いていたに違いない。
しかし全編アルコールまみれ、全身アルコールまみれのやけっぱちの苦界からカーヴァーは奇跡的に帰還した。そして珠玉の名品を我々に残してくれた。
アルコールといえば、私は04年の5月、神戸の北野坂でたった1口のビールを干した途端に意識を失った。あのとき確かに私も全身に毒が回っていたのだ。
人間はいつ死ぬものか知れたものではない。兼好法師が語るようにそれは突然背後から襲い掛かるのである。
あれから3年が経った。けふも窓際でうるさいほど鳴く鶯の声を耳にし、昨夜は闇に飛ぶヘイケボタルの小さな輝きを今年初めて目にすることができたこの喜びを、改めて天に感謝せずにはいられない。
男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。
本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。
とりわけ表題作は生を串刺しにするような痛々しい鋭さが印象的だ。
二組の夫婦、四人の男女の愛の形が次第に浮き彫りにされ、それぞれが現在問題なく享受しているはずの愛の居場所がじつは虚構のものであることにいやおう無く気付かされていく。
しかし私がいちばん好きなのは、加洲クレセント・シティの散髪屋での些細な出来事を描いた「静けさ」という1篇である。
ここには泣きたくなるような人生への哀切な手触りが確かに存在している。
それにしてもレイモンド・カーヴァーの小説にはどうしてこれほど多くの飲酒のシーンが出てくるのであろう。
彼は酒を浴びるほど飲むそのわずかな合間に小説を書いていたに違いない。
しかし全編アルコールまみれ、全身アルコールまみれのやけっぱちの苦界からカーヴァーは奇跡的に帰還した。そして珠玉の名品を我々に残してくれた。
アルコールといえば、私は04年の5月、神戸の北野坂でたった1口のビールを干した途端に意識を失った。あのとき確かに私も全身に毒が回っていたのだ。
人間はいつ死ぬものか知れたものではない。兼好法師が語るようにそれは突然背後から襲い掛かるのである。
あれから3年が経った。けふも窓際でうるさいほど鳴く鶯の声を耳にし、昨夜は闇に飛ぶヘイケボタルの小さな輝きを今年初めて目にすることができたこの喜びを、改めて天に感謝せずにはいられない。
Friday, June 01, 2007
小西さんと吉本さん
降っても照っても第19回
小西甚一さんが91歳で逝去された。91年に刊行された彼の「日本文藝史」はドナルド・キーンの大著「日本文学史(のちに改訂新版「日本文学の歴史」)に対抗して書かれた規模雄大な大著だが、細部はキーンのがほうがおもしろい。されど私は文学史は小西甚一の「日本文藝史」、文学論は漱石の「文学論」、この2冊があればあとは要りません。
さようなら小西さん、あなたから受けた学恩に感謝します。
もうひとり昔からお世話になってきた吉本隆明さんの「真贋」を読んだ。行き悩んだおりおりにいちばん聞きたい声のひとつが常に彼であったが、いまやその声音のなんと力弱く曖昧模糊としたものになったことよ。
子供は乳幼児期から前思春期までの母親との関係が絶対的に重要で、母と引き離されたから三島由紀夫の不幸は運命付けられていたという話や、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になりがちだという指摘、「業縁」があれば一人も殺せないと思っている人でも千人殺すこともある。「だから悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違いだ」という話などは、なるほどと思った。
また「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが俺だけにしか分からないと読者に思わせる作品です」というのも、素直にうなずける指摘である。
しかし「戦争に良いも悪いもなく、すべての戦争が悪である」と彼が断言しても、その戦争を無くすための具体的な提言は聞かれない。さらには「まずはどうでもよさそうなことから考えてみる」というのだが、それはどういう意味なのだろうか。「これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない」などと頼りないことを言われると、こっちも不安に駆られる。
氏は例によって例のごとく、「天皇は神主の親玉であり、神社に露天が並び、我々が神社のお祭りで金魚すくいをしにゆく気持ちがある限りは天皇制はなくならない」などというが、起源を見ればものの本質が分かるというお得意の逆説的で一面的な言説を、あたかも最終結論のように語っていいのだろうか。
思えば彼は昔からマルクスや小林秀雄張りのそういう“本質還元的な詔”をさしたる根拠も証明もなく渙発し、それで複雑怪奇な現象が解決できなくなると重層的非決定?などという屁理屈を発明して遁辞してきたのではなかっただろうか?
彼にあっては、欧米が先進的で我々がアジア型農本主義的であるから、そのうち我ら貧民もいずれの日にか成熟するだろう、というような維新以来の脱亜入欧風のアプリオリな論理が、このごに及んでもまだ鉈や斧のように振り回されている。
そして最後の言葉は以下のごとし。
「もしかすると人類はだめになる危険があります。よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。ひとつはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは確かなのです。人間というのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれません。いま行き着くところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要があるのではないかと思うのです」
私たちはもう既に十分すぎるほど十分に善も悪もやり尽くしてきたと思うのだが、この人はいったい何を寝言を言っているのだろう? これでは武者小路実篤ではないのか? 彼はかの明敏な前著「詩学叙説」を書いた人と同一人物なのだろうか?
でも私はこの“思想界の巨人”に対して「主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価」につながるような態度を示したいわけではない。
ただ、かつては空高く仰ぎ見た孤峰が、今では近所の里山のように映るこの私の目が、我ながら信じられないだけの話である。
小西甚一さんが91歳で逝去された。91年に刊行された彼の「日本文藝史」はドナルド・キーンの大著「日本文学史(のちに改訂新版「日本文学の歴史」)に対抗して書かれた規模雄大な大著だが、細部はキーンのがほうがおもしろい。されど私は文学史は小西甚一の「日本文藝史」、文学論は漱石の「文学論」、この2冊があればあとは要りません。
さようなら小西さん、あなたから受けた学恩に感謝します。
もうひとり昔からお世話になってきた吉本隆明さんの「真贋」を読んだ。行き悩んだおりおりにいちばん聞きたい声のひとつが常に彼であったが、いまやその声音のなんと力弱く曖昧模糊としたものになったことよ。
子供は乳幼児期から前思春期までの母親との関係が絶対的に重要で、母と引き離されたから三島由紀夫の不幸は運命付けられていたという話や、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になりがちだという指摘、「業縁」があれば一人も殺せないと思っている人でも千人殺すこともある。「だから悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違いだ」という話などは、なるほどと思った。
また「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが俺だけにしか分からないと読者に思わせる作品です」というのも、素直にうなずける指摘である。
しかし「戦争に良いも悪いもなく、すべての戦争が悪である」と彼が断言しても、その戦争を無くすための具体的な提言は聞かれない。さらには「まずはどうでもよさそうなことから考えてみる」というのだが、それはどういう意味なのだろうか。「これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない」などと頼りないことを言われると、こっちも不安に駆られる。
氏は例によって例のごとく、「天皇は神主の親玉であり、神社に露天が並び、我々が神社のお祭りで金魚すくいをしにゆく気持ちがある限りは天皇制はなくならない」などというが、起源を見ればものの本質が分かるというお得意の逆説的で一面的な言説を、あたかも最終結論のように語っていいのだろうか。
思えば彼は昔からマルクスや小林秀雄張りのそういう“本質還元的な詔”をさしたる根拠も証明もなく渙発し、それで複雑怪奇な現象が解決できなくなると重層的非決定?などという屁理屈を発明して遁辞してきたのではなかっただろうか?
彼にあっては、欧米が先進的で我々がアジア型農本主義的であるから、そのうち我ら貧民もいずれの日にか成熟するだろう、というような維新以来の脱亜入欧風のアプリオリな論理が、このごに及んでもまだ鉈や斧のように振り回されている。
そして最後の言葉は以下のごとし。
「もしかすると人類はだめになる危険があります。よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。ひとつはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは確かなのです。人間というのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれません。いま行き着くところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要があるのではないかと思うのです」
私たちはもう既に十分すぎるほど十分に善も悪もやり尽くしてきたと思うのだが、この人はいったい何を寝言を言っているのだろう? これでは武者小路実篤ではないのか? 彼はかの明敏な前著「詩学叙説」を書いた人と同一人物なのだろうか?
でも私はこの“思想界の巨人”に対して「主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価」につながるような態度を示したいわけではない。
ただ、かつては空高く仰ぎ見た孤峰が、今では近所の里山のように映るこの私の目が、我ながら信じられないだけの話である。
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