坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア
遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回
私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。
この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。
正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。
中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。
また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。
その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。
最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。
ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。
さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。
例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)
1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。
ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。
Tuesday, July 31, 2007
Monday, July 30, 2007
小澤征爾音楽塾の「カルメン」を聴く
♪音楽千夜一夜第23回
小田実の死と自公を葬送する嵐のような1日が終わろうとする夜、私は鎌倉芸術館へ行ってビゼーの「カルメン」を抜粋で聴いた。小澤征爾音楽塾オーケストラ&合唱団の演奏である。
はじめはひさしぶりに小澤の指揮に接することができると思っていたのだが、なんのことはない彼が指導する若手のスタッフによる演奏会であった。その代わりといってはなんだが、病気の癒えた御大が演奏の前後に元気にステージにあがって挨拶をするというサービス振りに満員の聴衆は熱狂していた。
小澤といえば今からおよそ20年前、ふぁっちょんビジネスとチンドン屋稼業に飽いた私が、再び中学生時代に好きだったクラシック音楽に夢中になっているのを知ったキャニオンレコードのクラシック担当のNさんが、畑違いの私を同社に引き抜うこうと画策されたことがあった。
説得されてだんだんその気になっていたとき、彼女が担当している小澤とキャスリーン・バトルの芸術家特有のわがまま?についてため息をつきながら語るのを耳にした私は、「こりゃ駄目だ。とてもついていけない」と痛感して転職を断念したのであった。周囲を攪拌し牽引する小澤の猛烈なエネルギーはいまも変わっていないだろうし、黒人であるコンプレックッスを裏返しにしたバトルの放恣な自己主張は彼女のメットからの永久追放という結果を生んだ。
さて昨夜の演奏の指揮者は鬼原良尚という87年生まれの若手であったが、まるで若き日の小澤そっくりのモンキースタイルで、前進するブルドーザー、戦うボクサーのように前奏曲に取り組む。
テンポが異様に速く、熱気であおられたオーケストラは、まるでブラバンのように咆哮する。こんなにうるさくてやかましい暴音はむかしモスクワのオケとロジェストベンスキーで聴いて以来だ。はるか遠くの3階席にいた私は、耳をふさぎながら思わず「おいおいオペラはスポーツではないよ」と言いたくなった。
「恋は野の鳥」、「闘牛士の歌」などの名アリアが続々登場するが、鬼原の指揮は師匠の小澤の悪しきエピゴーネンと化し、まるでヴェートーヴェンの7番を指揮するように、カルメンを指揮するのである。
しかし音楽のタテの線は常に正確無比に守られ、いかなる局面においてもいっさい破綻をしめさない。音楽の外面的な形式の平仄は終始合っているが、カルメンのドラマや内面性はどこにも感じられない。
だからあのフルートとハープで始まる第三幕への前奏曲のそっけないこと。これほど心に沁みないこの曲を私は生まれてはじめて聴いた。ビゼーが聴いたら「俺はこんな無味乾燥な音楽なんか書かなかったぞ」とさぞや嘆いたことだろう。
ビゼーの音楽とは無関係に怒涛のように流れていくおびただしい音符たち……、それは小澤の指揮するサイトウキネンなどと同じ性質のものだ。魔法使いの弟子はあくまで魔法使いと同じメロディを奏でることを知らされた私は、思わず慄然とした。
そして最後は皆様お待ちかね、カルメン(手嶋真佐子)とドンホセ(志田雄啓)の愛の破局である。猛烈にドライブされる最強音の頂点で花火のようにはじけ散ると、案の定超満員の聴衆は口をあんぐりと開き、滂沱の涙と涎を垂らしつつ爆発的な拍手を贈ったのであった。
どうにもこうにもこの発熱についていけない駄目な私を除いて……。
小澤の恩師である斉藤秀雄は「型より入れ。型より出よ」と小澤に教えた。
そこで私は鬼原にいいたい。「小澤より入れ。しかし一日も早く小澤より出よ」と。
小田実の死と自公を葬送する嵐のような1日が終わろうとする夜、私は鎌倉芸術館へ行ってビゼーの「カルメン」を抜粋で聴いた。小澤征爾音楽塾オーケストラ&合唱団の演奏である。
はじめはひさしぶりに小澤の指揮に接することができると思っていたのだが、なんのことはない彼が指導する若手のスタッフによる演奏会であった。その代わりといってはなんだが、病気の癒えた御大が演奏の前後に元気にステージにあがって挨拶をするというサービス振りに満員の聴衆は熱狂していた。
小澤といえば今からおよそ20年前、ふぁっちょんビジネスとチンドン屋稼業に飽いた私が、再び中学生時代に好きだったクラシック音楽に夢中になっているのを知ったキャニオンレコードのクラシック担当のNさんが、畑違いの私を同社に引き抜うこうと画策されたことがあった。
説得されてだんだんその気になっていたとき、彼女が担当している小澤とキャスリーン・バトルの芸術家特有のわがまま?についてため息をつきながら語るのを耳にした私は、「こりゃ駄目だ。とてもついていけない」と痛感して転職を断念したのであった。周囲を攪拌し牽引する小澤の猛烈なエネルギーはいまも変わっていないだろうし、黒人であるコンプレックッスを裏返しにしたバトルの放恣な自己主張は彼女のメットからの永久追放という結果を生んだ。
さて昨夜の演奏の指揮者は鬼原良尚という87年生まれの若手であったが、まるで若き日の小澤そっくりのモンキースタイルで、前進するブルドーザー、戦うボクサーのように前奏曲に取り組む。
テンポが異様に速く、熱気であおられたオーケストラは、まるでブラバンのように咆哮する。こんなにうるさくてやかましい暴音はむかしモスクワのオケとロジェストベンスキーで聴いて以来だ。はるか遠くの3階席にいた私は、耳をふさぎながら思わず「おいおいオペラはスポーツではないよ」と言いたくなった。
「恋は野の鳥」、「闘牛士の歌」などの名アリアが続々登場するが、鬼原の指揮は師匠の小澤の悪しきエピゴーネンと化し、まるでヴェートーヴェンの7番を指揮するように、カルメンを指揮するのである。
しかし音楽のタテの線は常に正確無比に守られ、いかなる局面においてもいっさい破綻をしめさない。音楽の外面的な形式の平仄は終始合っているが、カルメンのドラマや内面性はどこにも感じられない。
だからあのフルートとハープで始まる第三幕への前奏曲のそっけないこと。これほど心に沁みないこの曲を私は生まれてはじめて聴いた。ビゼーが聴いたら「俺はこんな無味乾燥な音楽なんか書かなかったぞ」とさぞや嘆いたことだろう。
ビゼーの音楽とは無関係に怒涛のように流れていくおびただしい音符たち……、それは小澤の指揮するサイトウキネンなどと同じ性質のものだ。魔法使いの弟子はあくまで魔法使いと同じメロディを奏でることを知らされた私は、思わず慄然とした。
そして最後は皆様お待ちかね、カルメン(手嶋真佐子)とドンホセ(志田雄啓)の愛の破局である。猛烈にドライブされる最強音の頂点で花火のようにはじけ散ると、案の定超満員の聴衆は口をあんぐりと開き、滂沱の涙と涎を垂らしつつ爆発的な拍手を贈ったのであった。
どうにもこうにもこの発熱についていけない駄目な私を除いて……。
小澤の恩師である斉藤秀雄は「型より入れ。型より出よ」と小澤に教えた。
そこで私は鬼原にいいたい。「小澤より入れ。しかし一日も早く小澤より出よ」と。
Sunday, July 29, 2007
會津八一記念博物館にて
遥かな昔、遠い所で第15回&勝手に建築観光22回
昨夜は醜い國を代表する醜い男の連立政権に対し良識あるひとびとの鉄槌が下され、久しぶりにいい気持ちだった。
さて思いは現世を遠く離れてまたしても遠い昔をさまようのである。
たしかここら辺が早稲田大学の図書館だったとうろうろ探しているといつのまにやら會津八一記念博物館に変身していた。
ここはあの根津美術館で知られる今井兼次の設計である。1925年に竣工した大閲覧室部分は、自然光がさしこんでなにやら厳粛な雰囲気が漂っていたが、私は閉架式のこの図書館をほとんど利用したことがないが入ってみると統一のない雑多なコレクションが館内を埋めていた。そのすべてが會津八一の収集物ではないらしい。
會津八一は新潟市古町生まれ。長くこの大学の美術の教授をつとめ1956年75歳で死んだ。歌人としても知られている。
都辺をのがれ来たればねもごろに潮うち寄するふるさとの浜 八艸道人
なんでもこの大学は今年が創立125周年だそうで、それを記念して吉村某氏のエジプト展をこの博物館で堂々開催するらしいが、私はそういういかにも客寄せパンダ風の企画商売第一で考え出すこの学校がますます嫌いになる。
昨夜は醜い國を代表する醜い男の連立政権に対し良識あるひとびとの鉄槌が下され、久しぶりにいい気持ちだった。
さて思いは現世を遠く離れてまたしても遠い昔をさまようのである。
たしかここら辺が早稲田大学の図書館だったとうろうろ探しているといつのまにやら會津八一記念博物館に変身していた。
ここはあの根津美術館で知られる今井兼次の設計である。1925年に竣工した大閲覧室部分は、自然光がさしこんでなにやら厳粛な雰囲気が漂っていたが、私は閉架式のこの図書館をほとんど利用したことがないが入ってみると統一のない雑多なコレクションが館内を埋めていた。そのすべてが會津八一の収集物ではないらしい。
會津八一は新潟市古町生まれ。長くこの大学の美術の教授をつとめ1956年75歳で死んだ。歌人としても知られている。
都辺をのがれ来たればねもごろに潮うち寄するふるさとの浜 八艸道人
なんでもこの大学は今年が創立125周年だそうで、それを記念して吉村某氏のエジプト展をこの博物館で堂々開催するらしいが、私はそういういかにも客寄せパンダ風の企画商売第一で考え出すこの学校がますます嫌いになる。
Saturday, July 28, 2007
秋山祐徳太子著「ブリキ男」を読む
降っても照っても第40回
今年72歳になった天才的アーチストの自伝である。最初の60年安保闘争時代のハチャメチャな回顧も面白く、二回の都知事選挙の話や新宿青線地帯の乱痴気騒ぎも抜群に面白く、終わりごろの「放尿論」なども抱腹絶倒ものである。(余談ながら作家の風人さんの名前が突然出てきてびっくりさせられる)
つまりどこを取り出して読んでも破格の面白さが満載の自叙伝であり、しかも著者がまったく受けを狙って書いてところが素晴らしい。この人こそ生まれながらのアーチストではないかと思われる。
美大の卒業制作で最高賞に輝いた著者の彫刻「ブリキの飛蝗」は、後世に燦然と輝く不滅の名作であり、これが彼の芸術家としての出発点になった。
次はかの有名な「グリコのハプニング」である。これは著者がたまたま横須賀線に乗っていたとき、蒲田附近で大きなグリコの看板を見た瞬間に着想をえたという。
「看板に描かれた少年の格好で銀座通りを突っ走ったらどうだろう。グリコのおまけが街を走る…、これこそ私がいままでやって来たハプニングのなかでも代表作になるかもしれない」
そして事実その通りになる。
翌日ランニングシャツとパンツ1枚で両手を挙げながら銀座4丁目の角をまがり数寄屋橋公園を通り過ぎる著者の勇姿を見た大日本愛国党総裁赤尾敏氏は、その演説を中断し、「いま日の丸を背負った青年がここを通って行った。まだまだ日本にはいい青年がいる」と言ったそうだ。
赤尾敏氏と著者の出会いはさらに続き、東京都知事選でともに立候補し、ともに落選するのだが、候補者説明会のあとで著者が赤尾敏氏に銀座の不二家に拉致され、なんとチョコレートパフェをおごられるシーンも忘れがたい。
ちなみに今は亡き赤尾敏氏の兄上は長らく鎌倉御成で耳鼻科を開業しておられ、私のははも家内も何度か治療してもらったそうだが、(あまり腕前は上手ではなかったそうだ)入り口に数本の松が茂ったその昭和初期の古風な洋風住宅が先日無残にも取り壊され、今日も道行く人の涙をさそっている。
それはともかく、本書の終わりに近いところに突然「放尿論」というのが出てくる。このなかで著者は、
「温泉でビールを飲んで尿意を催した私は大浴場の浴槽のなかでで突如尿意を催した。そこで突端を湯面から少し突き出して思い切り放尿すると、尿は噴水のように高く上がり、私は一人歓声を上げた」
と楽しげに書いているが、この楽しさに心から共感できる人だけが著者の友であり、本書の熱烈な愛読者であるといえよう。
今年72歳になった天才的アーチストの自伝である。最初の60年安保闘争時代のハチャメチャな回顧も面白く、二回の都知事選挙の話や新宿青線地帯の乱痴気騒ぎも抜群に面白く、終わりごろの「放尿論」なども抱腹絶倒ものである。(余談ながら作家の風人さんの名前が突然出てきてびっくりさせられる)
つまりどこを取り出して読んでも破格の面白さが満載の自叙伝であり、しかも著者がまったく受けを狙って書いてところが素晴らしい。この人こそ生まれながらのアーチストではないかと思われる。
美大の卒業制作で最高賞に輝いた著者の彫刻「ブリキの飛蝗」は、後世に燦然と輝く不滅の名作であり、これが彼の芸術家としての出発点になった。
次はかの有名な「グリコのハプニング」である。これは著者がたまたま横須賀線に乗っていたとき、蒲田附近で大きなグリコの看板を見た瞬間に着想をえたという。
「看板に描かれた少年の格好で銀座通りを突っ走ったらどうだろう。グリコのおまけが街を走る…、これこそ私がいままでやって来たハプニングのなかでも代表作になるかもしれない」
そして事実その通りになる。
翌日ランニングシャツとパンツ1枚で両手を挙げながら銀座4丁目の角をまがり数寄屋橋公園を通り過ぎる著者の勇姿を見た大日本愛国党総裁赤尾敏氏は、その演説を中断し、「いま日の丸を背負った青年がここを通って行った。まだまだ日本にはいい青年がいる」と言ったそうだ。
赤尾敏氏と著者の出会いはさらに続き、東京都知事選でともに立候補し、ともに落選するのだが、候補者説明会のあとで著者が赤尾敏氏に銀座の不二家に拉致され、なんとチョコレートパフェをおごられるシーンも忘れがたい。
ちなみに今は亡き赤尾敏氏の兄上は長らく鎌倉御成で耳鼻科を開業しておられ、私のははも家内も何度か治療してもらったそうだが、(あまり腕前は上手ではなかったそうだ)入り口に数本の松が茂ったその昭和初期の古風な洋風住宅が先日無残にも取り壊され、今日も道行く人の涙をさそっている。
それはともかく、本書の終わりに近いところに突然「放尿論」というのが出てくる。このなかで著者は、
「温泉でビールを飲んで尿意を催した私は大浴場の浴槽のなかでで突如尿意を催した。そこで突端を湯面から少し突き出して思い切り放尿すると、尿は噴水のように高く上がり、私は一人歓声を上げた」
と楽しげに書いているが、この楽しさに心から共感できる人だけが著者の友であり、本書の熱烈な愛読者であるといえよう。
Friday, July 27, 2007
気色の悪い日本語
♪バガテルop23
とかく最近の日本語は、私のような世捨て人には格別に不可解である。
その1 立ち位置
『ミラノの3Gと称されたジャンフランコ・フェレが亡くなったが、彼の「立ち位置」はジョルジュ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチとは少し違っていた…』
などと思わせぶりに使われるのだが、活字の見た目も、発音もはなはだ気持ち悪い。
いっそ「立ちションの立ち位置」なら許せそうな気もしますが、それにしても昔から「立場」という立派な日本語があるでしょうに。
その2 読み解く
この奇妙なエセインテリ?言葉は、そもそも出版社の新刊書の腰巻惹句から始まり、つい最近まで乱用されていたが、さすがに少し下火になってきたようでほっとしている。
例えば、
『安いウナギ今年が最後か? マリアナ海溝に潜む生物の謎を本書が読み解く』
『あのアユが、森理世が、ほんとにほんとの日本の美女? 激変する美意識の真相を読み解く』
のように安直に使用されるので、私はこれを「腰巻汚染」とはらり読み解いている。
その3 回収される
回収されるのはペットボトルだけかと思っていたら、ツエムリンスキーまで回収されることになっていたとはついぞ知らなんた。とうとう
『当夜の公演を聴いて改めて感じたのは、ツエムリンスキーを「絶賛批評」的なレトリックへ回収する難しさである。』
などと、したり顔で書く音楽学者が登場したのである。(7月27日朝日夕刊文化欄岡田暁生氏関西フィル演奏会批評記事より引用)
ひとあじ違う言い回しにひきつけられた私は、岡ちゃんのこの気持ちの悪い文章を仕舞いまで丁寧に読んだが、結局どこのどいつがツエムちゃんを絶賛批評的なレトリックから回収することに成功したのか、脳力に超弱い私にはついぞ分からなかった。
岡ちゃんが自力で開発した言葉なのか、それともどこから盗用したのか知らないが、岡ちゃんはきっとこの最新流行の言葉をどこかで1回使ってみて、それから回収してみたくて仕方がなかったのだろう。 どーだ、やったぞ、決まったぞ! ばんざーい!
てなもんだろう。極貧にあえぐ三流ライターとはいえ、私だって筆1本で渡世を渡る文筆業者だ。岡ちゃんのそのうれし恥ずかしい気持ちは分からないでもない。
されどこんなちょいと気の利いた当節風の言葉は、あと三年もすれば誰も見向きもしなくなっていると、どうして批評家ともあろう岡ちゃんは気づかないのだろうか?
もしかして岡ちゃんは、今を去る20年前に「おしゃれなこと」を「ナウイ」とか「イマイ」とか言い、つい先ごろまで「おされな」などと言い換えてマンネリに陥るまいとあがいていた人々を先取りじゃなくて、後追いする人ではないだろうか?
その4 指摘か主張か
作家の柴田翔氏が、最近若者よりも大人の言葉が劣化している証左として、ある新聞が「談合に天の声、検察指摘」と書いたのがけしからんと怒っている。(日経7/24夕刊)
もし新聞が中立不偏の立場なら、検察と新聞の立場を同一視してはならず、(その意見には賛成)、その見出しは「談合に天の声、検察主張」でなければならない、というのである。
されど、もとより後者のほうが分かりやすいと私も思うが、前者の表現が新聞が検察に肩入れした証拠になるのかどうか。別に指摘と書いたってそれほどの大事とは思えない。
しかしなんといっても言葉の専門家がおっしゃることだ。きっと私も、さうしてくだんの新聞記者も、左脳が超超劣化しているのだらう。
とかく最近の日本語は、私のような世捨て人には格別に不可解である。
その1 立ち位置
『ミラノの3Gと称されたジャンフランコ・フェレが亡くなったが、彼の「立ち位置」はジョルジュ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチとは少し違っていた…』
などと思わせぶりに使われるのだが、活字の見た目も、発音もはなはだ気持ち悪い。
いっそ「立ちションの立ち位置」なら許せそうな気もしますが、それにしても昔から「立場」という立派な日本語があるでしょうに。
その2 読み解く
この奇妙なエセインテリ?言葉は、そもそも出版社の新刊書の腰巻惹句から始まり、つい最近まで乱用されていたが、さすがに少し下火になってきたようでほっとしている。
例えば、
『安いウナギ今年が最後か? マリアナ海溝に潜む生物の謎を本書が読み解く』
『あのアユが、森理世が、ほんとにほんとの日本の美女? 激変する美意識の真相を読み解く』
のように安直に使用されるので、私はこれを「腰巻汚染」とはらり読み解いている。
その3 回収される
回収されるのはペットボトルだけかと思っていたら、ツエムリンスキーまで回収されることになっていたとはついぞ知らなんた。とうとう
『当夜の公演を聴いて改めて感じたのは、ツエムリンスキーを「絶賛批評」的なレトリックへ回収する難しさである。』
などと、したり顔で書く音楽学者が登場したのである。(7月27日朝日夕刊文化欄岡田暁生氏関西フィル演奏会批評記事より引用)
ひとあじ違う言い回しにひきつけられた私は、岡ちゃんのこの気持ちの悪い文章を仕舞いまで丁寧に読んだが、結局どこのどいつがツエムちゃんを絶賛批評的なレトリックから回収することに成功したのか、脳力に超弱い私にはついぞ分からなかった。
岡ちゃんが自力で開発した言葉なのか、それともどこから盗用したのか知らないが、岡ちゃんはきっとこの最新流行の言葉をどこかで1回使ってみて、それから回収してみたくて仕方がなかったのだろう。 どーだ、やったぞ、決まったぞ! ばんざーい!
てなもんだろう。極貧にあえぐ三流ライターとはいえ、私だって筆1本で渡世を渡る文筆業者だ。岡ちゃんのそのうれし恥ずかしい気持ちは分からないでもない。
されどこんなちょいと気の利いた当節風の言葉は、あと三年もすれば誰も見向きもしなくなっていると、どうして批評家ともあろう岡ちゃんは気づかないのだろうか?
もしかして岡ちゃんは、今を去る20年前に「おしゃれなこと」を「ナウイ」とか「イマイ」とか言い、つい先ごろまで「おされな」などと言い換えてマンネリに陥るまいとあがいていた人々を先取りじゃなくて、後追いする人ではないだろうか?
その4 指摘か主張か
作家の柴田翔氏が、最近若者よりも大人の言葉が劣化している証左として、ある新聞が「談合に天の声、検察指摘」と書いたのがけしからんと怒っている。(日経7/24夕刊)
もし新聞が中立不偏の立場なら、検察と新聞の立場を同一視してはならず、(その意見には賛成)、その見出しは「談合に天の声、検察主張」でなければならない、というのである。
されど、もとより後者のほうが分かりやすいと私も思うが、前者の表現が新聞が検察に肩入れした証拠になるのかどうか。別に指摘と書いたってそれほどの大事とは思えない。
しかしなんといっても言葉の専門家がおっしゃることだ。きっと私も、さうしてくだんの新聞記者も、左脳が超超劣化しているのだらう。
Thursday, July 26, 2007
レイモンド・カーヴァー著「ファイアズ(炎)」を読む
降っても照っても第39回
原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。
ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?
それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。
ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!?
諸賢の所見をお伺いしたいものである。
強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。
なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。
原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。
ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?
それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。
ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!?
諸賢の所見をお伺いしたいものである。
強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。
なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。
Wednesday, July 25, 2007
五木寛之著「21世紀仏教への旅・中国編」を読む
降っても照っても第38回
紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。
やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。
その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。
「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。
達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。
しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。
その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。
しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。
このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。
紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。
やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。
その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。
「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。
達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。
しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。
その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。
しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。
このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。
Tuesday, July 24, 2007
小さな勇気と大きな偶然
鎌倉ちょっと不思議な物語68回
パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。
私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。
八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。
名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。
余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」
と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか!
これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。
当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。
私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?
かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。
パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。
私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。
八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。
名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。
余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」
と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか!
これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。
当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。
私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?
かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。
Monday, July 23, 2007
出てきた携帯
♪バガテルop22
これで通算4回目か、それとも5回目になるのだろうか? 先週工芸大からの帰途、たぶん新宿から戸塚間の電車内で携帯を落とした私に、およそ一週間経ってなんと小田原警察から拾得の通知があった。正確には小田原警察からの通知を受けたauから私宛に小田原警察へ出頭せよとの通知書が配送されてきたのである。
確か前回は新橋で落としたやつが三鷹で出てきて真夏の街道筋を汗だくでトボトボ歩いてはじめて三鷹警察まで行ったのだった。なんでも親切な若い女性が届けてくださってというので、その女性にひとめお会いしてお礼を言いたいと申し出ると、三鷹署員は私に不純の動機があると思ったのか、急に疑いの眼を向けて、「それは不可です」と冷たく拒んだことをはしなくも思いだした…。
ともあれ出てきたことは慶賀に耐えない。(なんでも2割の人が携帯を落とした経験があり、8割が本人に無事返っているそうだ)
それで昨日は新宿の文化の夏休み前の最後の授業が終るや否や湘南新宿ラインの小田原行きに飛び乗って小田原警察くんだりまで行って、平成十三年製造の苔むした携帯を受け取ってきたのである。
しかし、サラリーマンであった日の私ならばともかく、最近の私には携帯なんて無用の長物である。電車の中で携帯メールやゲームやワンセグにうつつを抜かす連中はほんとうにバカな亡国の民だと思っているので私は絶対にやらないし、電話だって妻以外にはほとんど誰からもかかってこないし、ましてこちらから掛けることもない。
ただ1)時計がなくても時間が分かる。2)以前母親が急死した折に役立ったことがあった。3)たった1度だけこの携帯に小学館から仕事の依頼があった 4)授業日に電車が事故に遭った場合、教務に連絡するには便利だろうと漠然と思っている…の4つの理由からなかなか捨てられなかった。
それで今回の紛失事件をきっかけに、百害あって一利しかないこの文明の利器を断固廃棄処分にしてもう携帯とは縁を切ろうと思っていたのだが、出てきたとなればまあ仕方ない。いちおうまた落っことすまでは可愛がってやろうと思った次第です。
でもよく考えてみれば今でもケイタイなどなくても構わないし、なかった時代のほうがはるかに良い時代だった。私はこんなくだらない玩具を発明して商売の具にした人を軽蔑こそすれけっして尊敬できない。私はケイタイ・ラダイストに賛同する。
これで通算4回目か、それとも5回目になるのだろうか? 先週工芸大からの帰途、たぶん新宿から戸塚間の電車内で携帯を落とした私に、およそ一週間経ってなんと小田原警察から拾得の通知があった。正確には小田原警察からの通知を受けたauから私宛に小田原警察へ出頭せよとの通知書が配送されてきたのである。
確か前回は新橋で落としたやつが三鷹で出てきて真夏の街道筋を汗だくでトボトボ歩いてはじめて三鷹警察まで行ったのだった。なんでも親切な若い女性が届けてくださってというので、その女性にひとめお会いしてお礼を言いたいと申し出ると、三鷹署員は私に不純の動機があると思ったのか、急に疑いの眼を向けて、「それは不可です」と冷たく拒んだことをはしなくも思いだした…。
ともあれ出てきたことは慶賀に耐えない。(なんでも2割の人が携帯を落とした経験があり、8割が本人に無事返っているそうだ)
それで昨日は新宿の文化の夏休み前の最後の授業が終るや否や湘南新宿ラインの小田原行きに飛び乗って小田原警察くんだりまで行って、平成十三年製造の苔むした携帯を受け取ってきたのである。
しかし、サラリーマンであった日の私ならばともかく、最近の私には携帯なんて無用の長物である。電車の中で携帯メールやゲームやワンセグにうつつを抜かす連中はほんとうにバカな亡国の民だと思っているので私は絶対にやらないし、電話だって妻以外にはほとんど誰からもかかってこないし、ましてこちらから掛けることもない。
ただ1)時計がなくても時間が分かる。2)以前母親が急死した折に役立ったことがあった。3)たった1度だけこの携帯に小学館から仕事の依頼があった 4)授業日に電車が事故に遭った場合、教務に連絡するには便利だろうと漠然と思っている…の4つの理由からなかなか捨てられなかった。
それで今回の紛失事件をきっかけに、百害あって一利しかないこの文明の利器を断固廃棄処分にしてもう携帯とは縁を切ろうと思っていたのだが、出てきたとなればまあ仕方ない。いちおうまた落っことすまでは可愛がってやろうと思った次第です。
でもよく考えてみれば今でもケイタイなどなくても構わないし、なかった時代のほうがはるかに良い時代だった。私はこんなくだらない玩具を発明して商売の具にした人を軽蔑こそすれけっして尊敬できない。私はケイタイ・ラダイストに賛同する。
Sunday, July 22, 2007
鎌倉ちょっと不思議な物語67回
前回紹介した鎌倉の農協連即売所のすぐ傍に、米国のアウトドアアパレルメーカーのパタゴニア社の日本法人がある。
この会社は世界で初めてすべてのコットン製品をオーガニック(有機栽培)に切り替えたり、他社に先駆けてペットボトルからの再生フリースを販売するなど品質と環境を重視する経営で知られるが、“勤務中好きな時間に社員をサーフィンに行かせる”会社としても有名だ。
1938年生まれの創業者イヴォン・シュイナード氏は、登山、サーフィン、フライフィッシング、ダイビングなどを楽しむために1年の半分は世界中を渡り歩いているが、その独特な経営理念はなかなか興味深いものがある。海とスポーツと湘南とファッションを愛する人にはお薦めしたい会社である。(詳しくは話題のフリーマガジン「オルタナ」のインタビュー記事などを参照のこと)
私の近所にもサーフィン大好き人間が住んでいて、台風が来ると水曜日でもないのに朝から海岸に出かけてビッグウエーブを楽しんでいるようだ。仕事なんか忘れて海と戯れる快楽の日々……とは超うらやましい話だ。
この会社は世界で初めてすべてのコットン製品をオーガニック(有機栽培)に切り替えたり、他社に先駆けてペットボトルからの再生フリースを販売するなど品質と環境を重視する経営で知られるが、“勤務中好きな時間に社員をサーフィンに行かせる”会社としても有名だ。
1938年生まれの創業者イヴォン・シュイナード氏は、登山、サーフィン、フライフィッシング、ダイビングなどを楽しむために1年の半分は世界中を渡り歩いているが、その独特な経営理念はなかなか興味深いものがある。海とスポーツと湘南とファッションを愛する人にはお薦めしたい会社である。(詳しくは話題のフリーマガジン「オルタナ」のインタビュー記事などを参照のこと)
私の近所にもサーフィン大好き人間が住んでいて、台風が来ると水曜日でもないのに朝から海岸に出かけてビッグウエーブを楽しんでいるようだ。仕事なんか忘れて海と戯れる快楽の日々……とは超うらやましい話だ。
Saturday, July 21, 2007
瀬戸内寂聴著「秘花」を読む
降っても照っても第37回
世阿彌によれば、推古天皇の御世に、聖徳太子が渡来人の秦河勝に命じて天下保全と諸人快楽のために66番の遊宴を行わせ、これを申樂と称したのが能のはじまりとしている。
申樂はその後河勝の遠孫が相伝して春日・日吉神社の神職となり、和州・江州の輩が両社の神事に従うに連れて盛んになったと、当の世阿彌が「風姿花伝」に書いている。
当初は申樂よりも農事から発した田楽のほうが優勢であった。けれども足利義満公から肉体的・精神的な寵愛を受けた世阿彌は、父観阿弥のあとを継いでわが国の能芸術を大成し、あまたのライバルと闘って申樂と自家観世流の優位を確立したのであった。
しかし栄光の頂点にあった世阿彌は、72歳のとき、突如あの残虐非道の将軍義教によってなんの罪咎もなく都から佐渡に流された。ちなみに世阿彌同様の悲運を被った人々には、菅原道真、源高明、小野篁、在原行平、業平、光源氏(物語人物)、京極為兼、日野資朝、後鳥羽院、順徳院、崇徳院などがある。
後世の検証によって、世阿彌は翌73歳までは同地で生存していたと認められるが、その後の生涯は杳として知れない。この大きな謎に挑んだ著者が、この偉大な芸能感人の最晩年の足跡を「幻視」したのが、この小説である。
著者は資料や先学の研究・論文、現地調査に学びつつも、豊富な恋の遍歴と僧侶としての人生経験、そして作家特有の自由な空想のはばたきによって、「そうあったかもしれない能楽者の最後の軌跡」を、老成した筆致で、あたかも自作の謡をうたい、即興の舞いを舞うように、自在に書き連ねている。
またそのもっとも大きな創作の工夫は、老いたる能楽者に奉仕する若き女人を配したことであろう。彼女は一休に仕えた森女の如く落日の世阿彌の生と性をほのかに彩るのである。
世阿彌によれば、推古天皇の御世に、聖徳太子が渡来人の秦河勝に命じて天下保全と諸人快楽のために66番の遊宴を行わせ、これを申樂と称したのが能のはじまりとしている。
申樂はその後河勝の遠孫が相伝して春日・日吉神社の神職となり、和州・江州の輩が両社の神事に従うに連れて盛んになったと、当の世阿彌が「風姿花伝」に書いている。
当初は申樂よりも農事から発した田楽のほうが優勢であった。けれども足利義満公から肉体的・精神的な寵愛を受けた世阿彌は、父観阿弥のあとを継いでわが国の能芸術を大成し、あまたのライバルと闘って申樂と自家観世流の優位を確立したのであった。
しかし栄光の頂点にあった世阿彌は、72歳のとき、突如あの残虐非道の将軍義教によってなんの罪咎もなく都から佐渡に流された。ちなみに世阿彌同様の悲運を被った人々には、菅原道真、源高明、小野篁、在原行平、業平、光源氏(物語人物)、京極為兼、日野資朝、後鳥羽院、順徳院、崇徳院などがある。
後世の検証によって、世阿彌は翌73歳までは同地で生存していたと認められるが、その後の生涯は杳として知れない。この大きな謎に挑んだ著者が、この偉大な芸能感人の最晩年の足跡を「幻視」したのが、この小説である。
著者は資料や先学の研究・論文、現地調査に学びつつも、豊富な恋の遍歴と僧侶としての人生経験、そして作家特有の自由な空想のはばたきによって、「そうあったかもしれない能楽者の最後の軌跡」を、老成した筆致で、あたかも自作の謡をうたい、即興の舞いを舞うように、自在に書き連ねている。
またそのもっとも大きな創作の工夫は、老いたる能楽者に奉仕する若き女人を配したことであろう。彼女は一休に仕えた森女の如く落日の世阿彌の生と性をほのかに彩るのである。
Friday, July 20, 2007
鎌倉市農協連即売所にて
鎌倉ちょっと不思議な物語66回
ここは昭和三年、あの中原中也が亡くなった翌年に開設された鎌倉市農協連即売所である。
なんでも当時鎌倉にいた牧師から、欧州では農家の直接小売制度があると聞いた農家の人たちの有志がこの地で即売所をつくったらしい。もしかするとわが国で最初の地産地消システムかもしれない。
現在は平塚など鎌倉以外の農家も参加しているらしいが、四つのグループが四日毎に出店して正月の四日まで以外は連日8時から日没まで営業している。
終業時間が午後5時とか6時とかでなく「日没まで」というのが泣かせる。
天井には親ツバメが自分は絶対にえさを食べず、せっせと子供たちに運んでいた。これも当節の人間の親なぞが忘却してしまった真っ当な所業だと感涙を催す。
なお、よく東京のあほばかテレビがここを取り上げているようだが、すべての商品が他の八百屋より安くて品がいいとはいえないので要注意。
ここは昭和三年、あの中原中也が亡くなった翌年に開設された鎌倉市農協連即売所である。
なんでも当時鎌倉にいた牧師から、欧州では農家の直接小売制度があると聞いた農家の人たちの有志がこの地で即売所をつくったらしい。もしかするとわが国で最初の地産地消システムかもしれない。
現在は平塚など鎌倉以外の農家も参加しているらしいが、四つのグループが四日毎に出店して正月の四日まで以外は連日8時から日没まで営業している。
終業時間が午後5時とか6時とかでなく「日没まで」というのが泣かせる。
天井には親ツバメが自分は絶対にえさを食べず、せっせと子供たちに運んでいた。これも当節の人間の親なぞが忘却してしまった真っ当な所業だと感涙を催す。
なお、よく東京のあほばかテレビがここを取り上げているようだが、すべての商品が他の八百屋より安くて品がいいとはいえないので要注意。
Thursday, July 19, 2007
モーリス・バレス著「精霊の息吹く丘」を読む
降っても照っても第36回&勝手に建築観光22回
1862年フランスのローレーヌ地方で生まれ、1894年のドレフェス事件ではゾラに反対し、1905年にはカトリック教徒と共に政教分離に反対し、20世紀初頭の青年層にアナトールフランスと人気を分かち合い、フランソワ・モーリヤックからポールニザンにまで大きな影響を与え、代表作「自我礼拝」で知られるナショナリスト作家モーリス・バレスの「聖なる丘」(1913年)が翻訳された。
バレスによればフランスには我々凡俗の民の魂を無気力から引き出す精霊の息吹く地がいくつかあるそうだ。
それらは、あの奇跡の地ルールド、サント・マリーの浜辺、ダンテやセザンヌが描いたサント・ヴィクトワールの山、ブルゴーニュのヴェズレイ、ピュイ・ド・ダーム、エージーの洞窟、カルナックの荒地、ブロセリアンドの森、アリーズ・サント・レーヌとモン・オーソワの岬、あの有名な教会があるモン・サン・ミッシェル、アルデンヌの黒い森、ドンレミーの丘にあるシュニューの森、三つの泉、ベルモンの礼拝堂、そして教会の傍のジャンヌ・ダルクの家などだが、この小説の舞台であるローレーヌ地方のシオン・ヴォデモンの丘も霊感がみなぎる精霊の地であるらしい。
そして本書では、ノートルダム修道会に所属する熱烈な孤高のカトリック三兄弟の不退転の宗教的闘争が描かれているのだが、それは読者が読まれてからのお楽しみとしておこう。ただ惜しむらく篠沢秀夫氏の逐語訳翻訳は、現代日本語としてまったく消化されていない。
この本でモーリス・バレスは言う。「どこからこれらの地の力は来るのか? その効力はこれらの地の栄光に先立ってあったし、その栄光が消えても生き残るであろう。ある森のほとり、ある山頂、ある泉、ある牧場…、あたかも誰もまだその偉大さに気づいていない隠された魂があるように、このような精霊の地は世界中に無限にある。それらは我らに思考を停止させて心の最深部に耳を傾けるように命じる」と。
そしてこれこそは古くからガリアの地、ケルトに伝わる地霊“ゲニウス・ロキ”の働きではないだろうか?
『東京の地霊』の著者鈴木博之氏によれば、ゲニウスはラテン語で「産む人」、ロキはロコ、ロクスが元の言葉で、場所・土地の意であり、ひいてはその土地の守護霊を指すラテン語であるという。従って“ゲニウス・ロキ”とは「人を守護する精霊もしくは精気、人や事物に付随する守護の霊」ということになり、ある土地から引出される霊感やその土地に結びついた連想性・可能性を意味する。
この“ゲニウス・ロキ”という考え方が初めて文学に登場したのは、英国の詩人アレグザンダー・ポープの1731年の詩作品で、地霊は「土地を読み解くすべての鍵」とされ、それ以後英国18世紀の美意識に大きな影響を与えたそうだが、それが大陸に上陸してケルト=ガリア=フランス=ローレーヌ地方の愛国的カトリシズムと20世紀の初頭に合体したものがモーリス・バレスのこの作品ではないだろうか?
そして私は建築に携わる行政やメガデベロッパーは、今こそポープ=モーリス・バレス=鈴木博之流の“ゲニウス・ロキ”という考え方を取り入れ、当節流行のいんちきスピリチュアル流とは一線を画した“聖なる土地の霊の声”に謙虚に耳を傾けるべきではないかと思う。
都市の歴史は都市計画や建築ヴィジョンの歴史ではない。その土地の固有の歴史である。土地をひとつのテキストとして、その土地の歴史的・文化的・社会的な背景と性格を読み解くことこそが21世紀建築の使命ではないだろうか?
1862年フランスのローレーヌ地方で生まれ、1894年のドレフェス事件ではゾラに反対し、1905年にはカトリック教徒と共に政教分離に反対し、20世紀初頭の青年層にアナトールフランスと人気を分かち合い、フランソワ・モーリヤックからポールニザンにまで大きな影響を与え、代表作「自我礼拝」で知られるナショナリスト作家モーリス・バレスの「聖なる丘」(1913年)が翻訳された。
バレスによればフランスには我々凡俗の民の魂を無気力から引き出す精霊の息吹く地がいくつかあるそうだ。
それらは、あの奇跡の地ルールド、サント・マリーの浜辺、ダンテやセザンヌが描いたサント・ヴィクトワールの山、ブルゴーニュのヴェズレイ、ピュイ・ド・ダーム、エージーの洞窟、カルナックの荒地、ブロセリアンドの森、アリーズ・サント・レーヌとモン・オーソワの岬、あの有名な教会があるモン・サン・ミッシェル、アルデンヌの黒い森、ドンレミーの丘にあるシュニューの森、三つの泉、ベルモンの礼拝堂、そして教会の傍のジャンヌ・ダルクの家などだが、この小説の舞台であるローレーヌ地方のシオン・ヴォデモンの丘も霊感がみなぎる精霊の地であるらしい。
そして本書では、ノートルダム修道会に所属する熱烈な孤高のカトリック三兄弟の不退転の宗教的闘争が描かれているのだが、それは読者が読まれてからのお楽しみとしておこう。ただ惜しむらく篠沢秀夫氏の逐語訳翻訳は、現代日本語としてまったく消化されていない。
この本でモーリス・バレスは言う。「どこからこれらの地の力は来るのか? その効力はこれらの地の栄光に先立ってあったし、その栄光が消えても生き残るであろう。ある森のほとり、ある山頂、ある泉、ある牧場…、あたかも誰もまだその偉大さに気づいていない隠された魂があるように、このような精霊の地は世界中に無限にある。それらは我らに思考を停止させて心の最深部に耳を傾けるように命じる」と。
そしてこれこそは古くからガリアの地、ケルトに伝わる地霊“ゲニウス・ロキ”の働きではないだろうか?
『東京の地霊』の著者鈴木博之氏によれば、ゲニウスはラテン語で「産む人」、ロキはロコ、ロクスが元の言葉で、場所・土地の意であり、ひいてはその土地の守護霊を指すラテン語であるという。従って“ゲニウス・ロキ”とは「人を守護する精霊もしくは精気、人や事物に付随する守護の霊」ということになり、ある土地から引出される霊感やその土地に結びついた連想性・可能性を意味する。
この“ゲニウス・ロキ”という考え方が初めて文学に登場したのは、英国の詩人アレグザンダー・ポープの1731年の詩作品で、地霊は「土地を読み解くすべての鍵」とされ、それ以後英国18世紀の美意識に大きな影響を与えたそうだが、それが大陸に上陸してケルト=ガリア=フランス=ローレーヌ地方の愛国的カトリシズムと20世紀の初頭に合体したものがモーリス・バレスのこの作品ではないだろうか?
そして私は建築に携わる行政やメガデベロッパーは、今こそポープ=モーリス・バレス=鈴木博之流の“ゲニウス・ロキ”という考え方を取り入れ、当節流行のいんちきスピリチュアル流とは一線を画した“聖なる土地の霊の声”に謙虚に耳を傾けるべきではないかと思う。
都市の歴史は都市計画や建築ヴィジョンの歴史ではない。その土地の固有の歴史である。土地をひとつのテキストとして、その土地の歴史的・文化的・社会的な背景と性格を読み解くことこそが21世紀建築の使命ではないだろうか?
Wednesday, July 18, 2007
江國香織著「がらくた」を読む
降っても照っても第35回
45歳の美術史専門の翻訳家の女性とテレビ番組を制作する50過ぎの夫や18歳の少女と建築家の父親と祖母などが登場し、海外のリゾートやビーチのパラソルやヴィラや透明なグラッパやアマレットやオマール海老や、サワークリームを添えたキャビアやミラベルというジャムにすると美味しい果物やボブ・マーリーやセルジオ・メンデスや、伊勢丹で買ったタイツや逗子葉山のサーフィン屋や車のヴォルヴォ!や、現代絵画や、動く彫刻やらも続々登場し、その合間を縫って、己の欲望や快楽をとてもとても大事にしている主人公たちが、たとえ彼らが夫婦であっても、そしてお互いに深く愛し合っていても、突如どこかで魅力的な男や女と遭遇すると、たとえそれが昼であっても夜であっても、たとえそれが海や浜辺や陸地であっても、それがマンションや浴室やキッチンであっても、迷うことなくめいめいの性的欲望を満たし、それでもって恬として恥じず、それをもってますます己は美しい桜であるとうにぼれ、それでもって気だるい寂しさとか悲しみとかを覚え、そんでもってとうとうこの小説の主人公のひとりである大人びた美少女までが、何故だか今まで好きだった同世代の少年を突然捨てて、テレビ番組を制作する50過ぎの魅力的な中年のおじさまに恋をしてしまい、どうした親の因果がこの子に報いたのかは分からないが、「ホテルとか、自動車のなかとか、裸になれる場所に行って性交をしてみたい。どうしてもこの男の人とそれをしたい」とはっきり思うようになり、それが嵩じて「不届きな真似をしてほしいの」とその男の耳元でささやくにまでに至り、そんな露骨なことを言う(言わせる?)ほうも言う(言わせる?)ほうだし、「よおし分かった」とばかりに大喜びする男も男だと思うのだが、♪アカシアの雨に打たれて♪夜霧の西麻布シテイホテルに連れて行かれてご希望通り初体験し、最後に「これがそれか。そう思うと、私はなんだかしみじみした。自分の身体が2時間前までとはべつの物になった気がして、はじめてのそれを、原さんとできてよかったと思った」とつぶやくという、わが国にも半世紀遅れでやって来たフランソワーズ・サガン風女史による夢見るシャンソン人形のような、金平糖のような、スイーツのような、触るとポロポロ崩れてしまうパフェのような、益体もないももんがあのような、著者が自称するとおりの三文がらくた小説である。
45歳の美術史専門の翻訳家の女性とテレビ番組を制作する50過ぎの夫や18歳の少女と建築家の父親と祖母などが登場し、海外のリゾートやビーチのパラソルやヴィラや透明なグラッパやアマレットやオマール海老や、サワークリームを添えたキャビアやミラベルというジャムにすると美味しい果物やボブ・マーリーやセルジオ・メンデスや、伊勢丹で買ったタイツや逗子葉山のサーフィン屋や車のヴォルヴォ!や、現代絵画や、動く彫刻やらも続々登場し、その合間を縫って、己の欲望や快楽をとてもとても大事にしている主人公たちが、たとえ彼らが夫婦であっても、そしてお互いに深く愛し合っていても、突如どこかで魅力的な男や女と遭遇すると、たとえそれが昼であっても夜であっても、たとえそれが海や浜辺や陸地であっても、それがマンションや浴室やキッチンであっても、迷うことなくめいめいの性的欲望を満たし、それでもって恬として恥じず、それをもってますます己は美しい桜であるとうにぼれ、それでもって気だるい寂しさとか悲しみとかを覚え、そんでもってとうとうこの小説の主人公のひとりである大人びた美少女までが、何故だか今まで好きだった同世代の少年を突然捨てて、テレビ番組を制作する50過ぎの魅力的な中年のおじさまに恋をしてしまい、どうした親の因果がこの子に報いたのかは分からないが、「ホテルとか、自動車のなかとか、裸になれる場所に行って性交をしてみたい。どうしてもこの男の人とそれをしたい」とはっきり思うようになり、それが嵩じて「不届きな真似をしてほしいの」とその男の耳元でささやくにまでに至り、そんな露骨なことを言う(言わせる?)ほうも言う(言わせる?)ほうだし、「よおし分かった」とばかりに大喜びする男も男だと思うのだが、♪アカシアの雨に打たれて♪夜霧の西麻布シテイホテルに連れて行かれてご希望通り初体験し、最後に「これがそれか。そう思うと、私はなんだかしみじみした。自分の身体が2時間前までとはべつの物になった気がして、はじめてのそれを、原さんとできてよかったと思った」とつぶやくという、わが国にも半世紀遅れでやって来たフランソワーズ・サガン風女史による夢見るシャンソン人形のような、金平糖のような、スイーツのような、触るとポロポロ崩れてしまうパフェのような、益体もないももんがあのような、著者が自称するとおりの三文がらくた小説である。
Tuesday, July 17, 2007
ある丹波の老人の話(37)
「第6話弟の更正 第5回」
弟はそれから大阪へ戻り、親戚を頼って今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったんで手馴れたメリヤス雑貨に変わりました。
ここで嫁をもらったんで、ようやく今度はかたぎになるかと思ったら、またまた性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃくちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ良くないこともやったとみえて、警察から私のうちへ弟のことを尋ねてくるようになり、ずいぶん心配させられたもんでした。
ちょうどその時、父の病が篤く、電報で知らせたけれどなかなか帰ってこない。ようやく帰ってきて臨終には間にあったけれど、これがまた隠岐から帰ってきたときの父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿でした。
あとで聞くと帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内のほうまで行って友達に帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということでした。
葬式のときは幸い私が夏と冬のモーニングをつくっていたので、夏の分を弟に着せ、ちょうど4月の花見時分やったのでどうにかカッコウがついたんでした。
弟はそれから大阪へ戻り、親戚を頼って今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったんで手馴れたメリヤス雑貨に変わりました。
ここで嫁をもらったんで、ようやく今度はかたぎになるかと思ったら、またまた性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃくちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ良くないこともやったとみえて、警察から私のうちへ弟のことを尋ねてくるようになり、ずいぶん心配させられたもんでした。
ちょうどその時、父の病が篤く、電報で知らせたけれどなかなか帰ってこない。ようやく帰ってきて臨終には間にあったけれど、これがまた隠岐から帰ってきたときの父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿でした。
あとで聞くと帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内のほうまで行って友達に帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということでした。
葬式のときは幸い私が夏と冬のモーニングをつくっていたので、夏の分を弟に着せ、ちょうど4月の花見時分やったのでどうにかカッコウがついたんでした。
Monday, July 16, 2007
ある丹波の老人の話(36)
「第6話弟の更正 第4回」
明治44年の退営後、私の弟は福知山の長町に家を買い嫁ももらって、なかなか盛大にメリヤス雑貨の卸売問屋をやっておりました。しかし、その資金をどうしたもんかは私にもようわかりまへん。
その頃の私の家は相変わらず貧乏だったはずなのに、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまたもうけて盛り返し、七転び八起きしたもんですから、あるいは調子のよいときに弟に相当の資金を与えたのかもしれまへん。
ところが弟は女房運が悪く、はじめの嫁は離縁し、二度目のの嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという分不相応のお大尽遊びなどをやってとうとう福知山で食いつぶしてしまいました。
それから京都へ出て、西陣の松尾という大きなメリヤス雑貨問屋の番頭に住み込み、そこで成績を上げて主家に信頼され、間もなく自立しておなじ商売の店を持ち、なかなかいいところまでやっておったんですが、またもや酒色に身を持ち崩し、手形の不渡りなどでたびたび窮地に陥り、再三私のところへ無心にきよりました。
この弟には私には内緒で妻がだいぶ貢いだもんどした。結局京都の店は持ちきれずに東京へ逃げた弟は、ここでもひところはいちおう成功しておったようですが、あの大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったそうです。
明治44年の退営後、私の弟は福知山の長町に家を買い嫁ももらって、なかなか盛大にメリヤス雑貨の卸売問屋をやっておりました。しかし、その資金をどうしたもんかは私にもようわかりまへん。
その頃の私の家は相変わらず貧乏だったはずなのに、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまたもうけて盛り返し、七転び八起きしたもんですから、あるいは調子のよいときに弟に相当の資金を与えたのかもしれまへん。
ところが弟は女房運が悪く、はじめの嫁は離縁し、二度目のの嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという分不相応のお大尽遊びなどをやってとうとう福知山で食いつぶしてしまいました。
それから京都へ出て、西陣の松尾という大きなメリヤス雑貨問屋の番頭に住み込み、そこで成績を上げて主家に信頼され、間もなく自立しておなじ商売の店を持ち、なかなかいいところまでやっておったんですが、またもや酒色に身を持ち崩し、手形の不渡りなどでたびたび窮地に陥り、再三私のところへ無心にきよりました。
この弟には私には内緒で妻がだいぶ貢いだもんどした。結局京都の店は持ちきれずに東京へ逃げた弟は、ここでもひところはいちおう成功しておったようですが、あの大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったそうです。
Sunday, July 15, 2007
五木寛之著「21世紀仏教への旅・朝鮮半島編」を読む
降っても照っても第34回
インドと同様、いま韓国では仏教が熱いそうだ。
韓国の仏教はその9割以上が新羅の護国仏教であった華厳宗の流れを汲む曹渓宗だそうだが、奈良の東大寺がわが国の華厳宗総本山であることを思うと、改めてこの二つの国、地域の切断されえない「えにし」について認識を新たにせざるをえない。
ちなみに、かのスパルタに似た新羅の若衆宿花郎制度は、弥勒信仰で結ばれた熱烈な青年宗教教育軍事システムであり、そのストイックなライフスタイルは京都広隆寺の半跏思惟像のたたずまいや聖徳太子の倫理観にもつながっている。
しかし儒教、国家と一体になった韓国の仏教は、わが国の仏教やカトリックによくみられる“上からの規範に準拠する下々の信仰”とは形態を異にしていて、その大半が“民衆の主体的意思にもとづく信仰”である、と著者は指摘している。
幼年期を日本の植民地朝鮮で過ごした著者は、敗戦直後の平壌で母を喪い、ソ連軍による略奪、暴行、強姦の地獄をつぶさに体験する。
「ソ連軍が官舎に乗りこんできても虚脱状態に陥った父は両手を上げたままほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのを聞いてもそうだった」
そしてその父も、引き揚げ後の日本でうしなう。ここから「私たちはすべて一定、地獄の住人ではないだろうか」という著者の諦念にみちた人生観が生まれる。
「戦争中のみならず、私たちはいまも確かに地獄に生きている。しかしその一方でその地獄に差してくるかすまな光があることを信じる。現実に生きるとはそのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」
という著者の言葉に、私は共感を覚えた。
インドと同様、いま韓国では仏教が熱いそうだ。
韓国の仏教はその9割以上が新羅の護国仏教であった華厳宗の流れを汲む曹渓宗だそうだが、奈良の東大寺がわが国の華厳宗総本山であることを思うと、改めてこの二つの国、地域の切断されえない「えにし」について認識を新たにせざるをえない。
ちなみに、かのスパルタに似た新羅の若衆宿花郎制度は、弥勒信仰で結ばれた熱烈な青年宗教教育軍事システムであり、そのストイックなライフスタイルは京都広隆寺の半跏思惟像のたたずまいや聖徳太子の倫理観にもつながっている。
しかし儒教、国家と一体になった韓国の仏教は、わが国の仏教やカトリックによくみられる“上からの規範に準拠する下々の信仰”とは形態を異にしていて、その大半が“民衆の主体的意思にもとづく信仰”である、と著者は指摘している。
幼年期を日本の植民地朝鮮で過ごした著者は、敗戦直後の平壌で母を喪い、ソ連軍による略奪、暴行、強姦の地獄をつぶさに体験する。
「ソ連軍が官舎に乗りこんできても虚脱状態に陥った父は両手を上げたままほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのを聞いてもそうだった」
そしてその父も、引き揚げ後の日本でうしなう。ここから「私たちはすべて一定、地獄の住人ではないだろうか」という著者の諦念にみちた人生観が生まれる。
「戦争中のみならず、私たちはいまも確かに地獄に生きている。しかしその一方でその地獄に差してくるかすまな光があることを信じる。現実に生きるとはそのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」
という著者の言葉に、私は共感を覚えた。
Saturday, July 14, 2007
梅原猛の「京都発見第9巻」を読む
降っても照っても第33回
読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。
比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。
私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。
またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。
それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。
最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。
延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。
そこで著者は訴える。
すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。
著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。
さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。
金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。
これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。
読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。
比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。
私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。
またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。
それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。
最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。
延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。
そこで著者は訴える。
すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。
著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。
さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。
金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。
これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。
Friday, July 13, 2007
♪バガテルop22
先日の新聞報道によれば、東京都足立区の区立小学校が学力テストの集計から障碍者を除外して、健常者のみの成績を教育委員会に報告していたそうだ。
同区は学校選択制を取り入れており、成績上位校には入学希望者が殺到する。この学校では「学力実態」を知るためにそういうことをやったらしいが、「優秀な生徒」だけを集めようとこういうかさ上げ措置を行ったのではないのだろうか?
まったくもって言語同断である。成績優秀者もそうでない者も、男も女も、そのいずれでもない者も、そのいずれでもある者も、日本人も外国人も、障碍のある者もない者も、宇宙人もネコも杓子もぎょうさんおって、それらを全部足して人数で割っての平均値であろう。
ところが足立区の教育委員会では、保護者に説明して了解を取れば校長判断で集計から除外することを認めているというが、これもおかしい。
この件に関して保護者に聞く必要などまったくない。それ以前の話だ。
実際にクラスのなかに存在している人間の能力を、その優秀さと無能さを含めて、ありのままに対象化すること。それが人間と教育の基本だからである。
障碍者を幻視しながら「なき者にして」でっち上げられた数値は、いくら高くともあのアウシュビッツでユダヤ人を「亡き者にしよう」と企てた「ナチ立純ゲルマン小学校」の通知表のウルトラスーパー偏差値にどこか通じるものがありはしないだろうか?
同区は学校選択制を取り入れており、成績上位校には入学希望者が殺到する。この学校では「学力実態」を知るためにそういうことをやったらしいが、「優秀な生徒」だけを集めようとこういうかさ上げ措置を行ったのではないのだろうか?
まったくもって言語同断である。成績優秀者もそうでない者も、男も女も、そのいずれでもない者も、そのいずれでもある者も、日本人も外国人も、障碍のある者もない者も、宇宙人もネコも杓子もぎょうさんおって、それらを全部足して人数で割っての平均値であろう。
ところが足立区の教育委員会では、保護者に説明して了解を取れば校長判断で集計から除外することを認めているというが、これもおかしい。
この件に関して保護者に聞く必要などまったくない。それ以前の話だ。
実際にクラスのなかに存在している人間の能力を、その優秀さと無能さを含めて、ありのままに対象化すること。それが人間と教育の基本だからである。
障碍者を幻視しながら「なき者にして」でっち上げられた数値は、いくら高くともあのアウシュビッツでユダヤ人を「亡き者にしよう」と企てた「ナチ立純ゲルマン小学校」の通知表のウルトラスーパー偏差値にどこか通じるものがありはしないだろうか?
Thursday, July 12, 2007
河野多恵子の「臍の緒は妙薬」を読む
降っても照っても第32回
クラシック音楽の指揮も、純文学も、老境に入って死期が迫れば迫るほどその芸術表現に凄みと滋味が出るようだ。
河野多恵子による本作も、まさしくその典型である。全体的に著者は耄碌しかかっているが、それが武者小路実篤とはひとあじも二味も違った絶妙のボケ加減になっていて、賛嘆おくあたわざる風韻を醸し出している。
例えばデアル体とデスマス体の平気な混在については学ぶところ大であった。
最初の「月光の曲」では、国定の国語読本の引用で楽聖ヴェートーヴェンが登場して、盲目の少女のために即興でその曲を弾き始めるところが素晴らしくて、(かの千の風なんかを読み聞きしてもなんの感銘も受けなかったこのニルアドミラルの私が)思わず涙腺が緩むのを覚えた。
余談ながら、戦前の教科書は誰が書いたかかなりの名文で、われら帝国の小国民はここから国民文学精神を体得したのだった。
例えば人口に膾炙した
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
コイ コイ シロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
この文章はなかなか素敵な日本語だ。見事に韻を踏んでいる。知的に過ぎる谷川俊太郎には書けない無意識の民族詩だ。
「星辰」は占いの話であるが、最後の1行が圧倒的な読後感を生み、またはじめに戻って読み直す仕儀に立ち至る。これぞ短編小説の極意である。
3作目の「魔」から相当不気味なん世界に突入する。コンスターチで生まれざりし子の彫刻を作るとは!
そうして最後の表題作では、著者の尋常ならざるへその緒への執着!があきらかにされる。
最後の文章はこうである。
「そして……。だんだん怖い女になりつつある」
自分でもどうしようもない怖い人間に、河野多恵子はどんどんなって行く、らしいのである。
クラシック音楽の指揮も、純文学も、老境に入って死期が迫れば迫るほどその芸術表現に凄みと滋味が出るようだ。
河野多恵子による本作も、まさしくその典型である。全体的に著者は耄碌しかかっているが、それが武者小路実篤とはひとあじも二味も違った絶妙のボケ加減になっていて、賛嘆おくあたわざる風韻を醸し出している。
例えばデアル体とデスマス体の平気な混在については学ぶところ大であった。
最初の「月光の曲」では、国定の国語読本の引用で楽聖ヴェートーヴェンが登場して、盲目の少女のために即興でその曲を弾き始めるところが素晴らしくて、(かの千の風なんかを読み聞きしてもなんの感銘も受けなかったこのニルアドミラルの私が)思わず涙腺が緩むのを覚えた。
余談ながら、戦前の教科書は誰が書いたかかなりの名文で、われら帝国の小国民はここから国民文学精神を体得したのだった。
例えば人口に膾炙した
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
コイ コイ シロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
この文章はなかなか素敵な日本語だ。見事に韻を踏んでいる。知的に過ぎる谷川俊太郎には書けない無意識の民族詩だ。
「星辰」は占いの話であるが、最後の1行が圧倒的な読後感を生み、またはじめに戻って読み直す仕儀に立ち至る。これぞ短編小説の極意である。
3作目の「魔」から相当不気味なん世界に突入する。コンスターチで生まれざりし子の彫刻を作るとは!
そうして最後の表題作では、著者の尋常ならざるへその緒への執着!があきらかにされる。
最後の文章はこうである。
「そして……。だんだん怖い女になりつつある」
自分でもどうしようもない怖い人間に、河野多恵子はどんどんなって行く、らしいのである。
Wednesday, July 11, 2007
金原ひとみの「ハイドラ」を読む
降っても照っても第31回
題名のHydraは9つの首を持つ海蛇であるが、この小説の主人公は二つの首しか持たず、しかもその2つがお互いにぐるぐる巻きになってしまって、どちらを主人公にしていいのか自分でもわからなくなってしまう「双頭の蛇女」である。
拒食症に悩む読者モデルやヘアメイク、ホモセクシャル、人気ロックミュジシヤンなどが続々登場するので、これはおしゃれな風俗小説かと思ってすいすい読んでいったが、なんととっても古めかしい三文読みきり小説でした。
しかもテーマが、古い言葉で恐縮だが、理想と現実、もしくは新しく危険な未来と勝手知ったる手馴れた日常、との対立、相克ときたもんだ。
さらにこの双頭の蛇女ときたら、なんだかんだがありながら後者の道を選びなおすというのだから、まるで話が面白くない。たかが小説でしょ。そんなに簡単に元のさやに戻らず、せめて新しい男との波乱万丈の共同生活の成り行きをしっかり描写してから、本書の筆をおいてほしかった。
題名のHydraは9つの首を持つ海蛇であるが、この小説の主人公は二つの首しか持たず、しかもその2つがお互いにぐるぐる巻きになってしまって、どちらを主人公にしていいのか自分でもわからなくなってしまう「双頭の蛇女」である。
拒食症に悩む読者モデルやヘアメイク、ホモセクシャル、人気ロックミュジシヤンなどが続々登場するので、これはおしゃれな風俗小説かと思ってすいすい読んでいったが、なんととっても古めかしい三文読みきり小説でした。
しかもテーマが、古い言葉で恐縮だが、理想と現実、もしくは新しく危険な未来と勝手知ったる手馴れた日常、との対立、相克ときたもんだ。
さらにこの双頭の蛇女ときたら、なんだかんだがありながら後者の道を選びなおすというのだから、まるで話が面白くない。たかが小説でしょ。そんなに簡単に元のさやに戻らず、せめて新しい男との波乱万丈の共同生活の成り行きをしっかり描写してから、本書の筆をおいてほしかった。
Tuesday, July 10, 2007
ガルシア・マルケスの「族長の秋」を読む
降っても照っても第30回
言葉、言葉、言葉…。
大きく逸脱し乱反射する豊饒なビジョンを、酔っ払った大脳前頭葉が猛烈な勢いで追走し、追いついた時点で次々に自由奔放な言葉に置き換えられる…。それが「族長の秋」でマルケスが発明した書き方だ。
ここで100年を超えてしたたかに生き延びる現代のミノタウロスに成り変ったマルケスが見せ付けるのは、腐敗堕落した政治権力の、いや老醜無残な人間の生き方の末路そのものではないだろうか?
最新流行のHOWについて喋喋せずに、太古から現代の人間史、宇宙史の根幹を貫くWHATについて滔々と語りつくす著者の力業にしばし心うたれる。
言葉、言葉、言葉…。
大きく逸脱し乱反射する豊饒なビジョンを、酔っ払った大脳前頭葉が猛烈な勢いで追走し、追いついた時点で次々に自由奔放な言葉に置き換えられる…。それが「族長の秋」でマルケスが発明した書き方だ。
ここで100年を超えてしたたかに生き延びる現代のミノタウロスに成り変ったマルケスが見せ付けるのは、腐敗堕落した政治権力の、いや老醜無残な人間の生き方の末路そのものではないだろうか?
最新流行のHOWについて喋喋せずに、太古から現代の人間史、宇宙史の根幹を貫くWHATについて滔々と語りつくす著者の力業にしばし心うたれる。
Monday, July 09, 2007
モーツアルトの1音符
♪音楽千夜一夜第22回
先日音楽評論家の吉田秀和氏がNHKの教育テレビに出演してインタビューに答えていた。
そのなかで小林秀雄のモオツアルト論の衝撃について語りつつ、しかし小林は音楽の専門家ではないこと。また小林は直感と文体に優れてはいるが、彼の論理には前進がなく、周辺をうろうろ低回しながらその発展がなくてけっきょく元の木阿弥に戻ってしまう、という種類のことを自宅の緑陰のロッキングチエアに身をゆだねつつ語っていたのだが、それを聞いて私は「ああ、それはほんとうにそうだな」と思った。
もっとも頭の悪い私には小林の「本居宣長」などいくら読んでもなんのことやら、何をいいたいのだか、全然分からなかったから、余計にそう思ったのかもしれないが。
モーツアルトは生存中から音符が多すぎると非難されたが、吉田氏は彼のはじめての著書の「主題と変奏」のなかで、その数多い音符のなかの些細なたった1音符が他の凡庸な作曲家と鋭い一線を画していることを、実際に譜面を示しながら説いている。
しかし悲しいかな音符がまったく読めない私には、その真意が全然理解できなかった。
ところが幸いにもこの番組では作曲家の池辺晋一郎氏が登場して、モーツアルトのK505のピアノソナタのその個所を演奏しながら、その♯の1音のあるなしの意味について語ってくれたので、私は改めて批評家吉田秀和の批評の具体性に感動し、「ああそうなんだ」と心から得心したのだった。
もうひとつは吉田氏が日本にその真価をはじめて紹介したグレングールドについて、「彼はバッハを新しい叙情性でもって演奏した」と一言で要約したことだ。
私はこのときまたしても、「ああそうなんだ。グールドって新しい叙情的なバッハを弾いたんだ」と思って、心から得心した。
私にとって吉田秀和という人は、誰も何も言わなかったことに対して、「ああそうなんだ」と心から思わせてくれる世にも貴重な存在なのである。
先日音楽評論家の吉田秀和氏がNHKの教育テレビに出演してインタビューに答えていた。
そのなかで小林秀雄のモオツアルト論の衝撃について語りつつ、しかし小林は音楽の専門家ではないこと。また小林は直感と文体に優れてはいるが、彼の論理には前進がなく、周辺をうろうろ低回しながらその発展がなくてけっきょく元の木阿弥に戻ってしまう、という種類のことを自宅の緑陰のロッキングチエアに身をゆだねつつ語っていたのだが、それを聞いて私は「ああ、それはほんとうにそうだな」と思った。
もっとも頭の悪い私には小林の「本居宣長」などいくら読んでもなんのことやら、何をいいたいのだか、全然分からなかったから、余計にそう思ったのかもしれないが。
モーツアルトは生存中から音符が多すぎると非難されたが、吉田氏は彼のはじめての著書の「主題と変奏」のなかで、その数多い音符のなかの些細なたった1音符が他の凡庸な作曲家と鋭い一線を画していることを、実際に譜面を示しながら説いている。
しかし悲しいかな音符がまったく読めない私には、その真意が全然理解できなかった。
ところが幸いにもこの番組では作曲家の池辺晋一郎氏が登場して、モーツアルトのK505のピアノソナタのその個所を演奏しながら、その♯の1音のあるなしの意味について語ってくれたので、私は改めて批評家吉田秀和の批評の具体性に感動し、「ああそうなんだ」と心から得心したのだった。
もうひとつは吉田氏が日本にその真価をはじめて紹介したグレングールドについて、「彼はバッハを新しい叙情性でもって演奏した」と一言で要約したことだ。
私はこのときまたしても、「ああそうなんだ。グールドって新しい叙情的なバッハを弾いたんだ」と思って、心から得心した。
私にとって吉田秀和という人は、誰も何も言わなかったことに対して、「ああそうなんだ」と心から思わせてくれる世にも貴重な存在なのである。
Saturday, July 07, 2007
大隈講堂を仰ぐ
遥かな昔、遠い所で第13回&勝手に建築観光20回&♪ある晴れた日に12回
私らの頃からここには大隈講堂が建っていた。昔はもっとうす汚れていたと思うのだが、お色直しでもしたのだろうか? キャンパスを歩くといたるところで普請中であるが、この大学はずいぶん金があるのだろう。
1927年に完成した大隈講堂は1999年に東京都の歴史的建造物に指定されたゴシック様式の優美な7階建ての建物である。
内藤多仲(1956年に大阪通天閣、58年に東京タワー3を設計)、佐藤功一らが設計し、大隈重信の「人生125歳」説にちなんで高さ123尺(約37.8m)になっているそうだ。
全体の外壁のタイルは信楽焼でその滑らかな質感が高雅な情緒を醸し出している。
塔上には時計台がある。その時計台の4つの鐘が、英国のウエストミンスター宮殿と同じメロディで一日5回鳴るそうだが、私は一度も聴いたことがない。きっとそれどころではなかったのだろう。
内部の天井には宇宙を表現した楕円形の採光窓があるが、私はたしかこの天井の下で「劇団こだま」の公演に参加したことがある。友人がチエロを弾いていた大学オケを聴いたこともある。
私のささやかな音楽体験によると、いかなるプロのオーケストラよりも、たとえそれがベルリンやヴィーンのそれであっても、世界中のアマチュアオケ、とりわけわが国の大学や中小都市の群小オケのひたむきな演奏のほうに大いにぶがある。
技術的には数等劣る、吹けば飛ぶようなアマチュアオケの、たった1小節の演奏にも、いきなり人の心をわしづかみにし、不意の涙がちょちょぎれる一期一会の感動があり、それは例えば、かの足助名時が指揮する哀れ超凡庸なN響などに1000回足を運んでも、絶対に、絶対に得られないていのものなのですよ。
しかし頭の下に耳が、耳の真ん中に鼓膜がなくて銘柄にくるい、心に正義と太陽がないオタマジャク愛好者どもには、こんなみやすい道理が、こんな聴きやすい子守唄が、たとい7度生まれ変わろうとまったく見えども見えず、聴けども聴けないのだ。にゃろめ。
そして昔からバカダ、バカダと呼ばれ、なんのとりえもないこの大学にも、たったひとつ、世界に誇る素晴らしい学生オケがあるのである。
♪反歌
時おりは腐乱死体にて漂えり明大前の夜の鯉かな
明大前の最終電車は発車せり池の縁にてなおかがまれる一人
中秋の名月ひとり輝けり五分の叙情をわれに許す
私らの頃からここには大隈講堂が建っていた。昔はもっとうす汚れていたと思うのだが、お色直しでもしたのだろうか? キャンパスを歩くといたるところで普請中であるが、この大学はずいぶん金があるのだろう。
1927年に完成した大隈講堂は1999年に東京都の歴史的建造物に指定されたゴシック様式の優美な7階建ての建物である。
内藤多仲(1956年に大阪通天閣、58年に東京タワー3を設計)、佐藤功一らが設計し、大隈重信の「人生125歳」説にちなんで高さ123尺(約37.8m)になっているそうだ。
全体の外壁のタイルは信楽焼でその滑らかな質感が高雅な情緒を醸し出している。
塔上には時計台がある。その時計台の4つの鐘が、英国のウエストミンスター宮殿と同じメロディで一日5回鳴るそうだが、私は一度も聴いたことがない。きっとそれどころではなかったのだろう。
内部の天井には宇宙を表現した楕円形の採光窓があるが、私はたしかこの天井の下で「劇団こだま」の公演に参加したことがある。友人がチエロを弾いていた大学オケを聴いたこともある。
私のささやかな音楽体験によると、いかなるプロのオーケストラよりも、たとえそれがベルリンやヴィーンのそれであっても、世界中のアマチュアオケ、とりわけわが国の大学や中小都市の群小オケのひたむきな演奏のほうに大いにぶがある。
技術的には数等劣る、吹けば飛ぶようなアマチュアオケの、たった1小節の演奏にも、いきなり人の心をわしづかみにし、不意の涙がちょちょぎれる一期一会の感動があり、それは例えば、かの足助名時が指揮する哀れ超凡庸なN響などに1000回足を運んでも、絶対に、絶対に得られないていのものなのですよ。
しかし頭の下に耳が、耳の真ん中に鼓膜がなくて銘柄にくるい、心に正義と太陽がないオタマジャク愛好者どもには、こんなみやすい道理が、こんな聴きやすい子守唄が、たとい7度生まれ変わろうとまったく見えども見えず、聴けども聴けないのだ。にゃろめ。
そして昔からバカダ、バカダと呼ばれ、なんのとりえもないこの大学にも、たったひとつ、世界に誇る素晴らしい学生オケがあるのである。
♪反歌
時おりは腐乱死体にて漂えり明大前の夜の鯉かな
明大前の最終電車は発車せり池の縁にてなおかがまれる一人
中秋の名月ひとり輝けり五分の叙情をわれに許す
Friday, July 06, 2007
カフェー・オー・ジャルダン
遥かな昔、遠い所で第12回&勝手に建築観光19回&♪ある晴れた日に11回
馬場下にあった「カフェー・オー・ジャルダン」という奥に庭園があったガラス張りの喫茶店はすでにこぼたれ、まさしくその位置に天丼屋の「てんや」が建っていたのはいっそ小気味よくもあった。
ここには幾多の思い出があるが、それには触れず静かに立ち去ろう。夏でも肌寒くなるほどガンガン冷房する奇妙な店であった。
竜泉院を下って大学本部に向かう。
余はかつてこの小道を、りゅうとした着流し姿の風人先生が、雪駄を地面にこすり合わせ、ハラハラと扇子を使いながら、教育学部前を悠揚迫らず闊歩された日の驚きを余は忘れることができないのである。
されど今やその教育学部は建て替えられ、小路に田舎食堂「おふくろ」なく、重心に低い「茶房」すでになく、高橋義夫先生が愛用されたおんぼろ学生会館も見当たらない。そのかわりにかつて我々がその建設に反対したかの第二学生会館が大隈講堂と向かい合うようにして轟然と聳えていた。
こいつは当節のバカダ大学を象徴するように下品で愚劣な建物である。どこから眺めても風流や文化というものが微塵も感じられない。やはりぶっつぶしておくべきろくでもないビルジングであった。
♪反歌
身丈に余る絹の三色旗うちふるいドラクロアのごとかくめい目指せり
日米の佐藤談判阻止せむと死地に乗り入る我ら七人
屈強な右翼学生殴りこみし朝のピケットラインわが不在を許さず
馬場下にあった「カフェー・オー・ジャルダン」という奥に庭園があったガラス張りの喫茶店はすでにこぼたれ、まさしくその位置に天丼屋の「てんや」が建っていたのはいっそ小気味よくもあった。
ここには幾多の思い出があるが、それには触れず静かに立ち去ろう。夏でも肌寒くなるほどガンガン冷房する奇妙な店であった。
竜泉院を下って大学本部に向かう。
余はかつてこの小道を、りゅうとした着流し姿の風人先生が、雪駄を地面にこすり合わせ、ハラハラと扇子を使いながら、教育学部前を悠揚迫らず闊歩された日の驚きを余は忘れることができないのである。
されど今やその教育学部は建て替えられ、小路に田舎食堂「おふくろ」なく、重心に低い「茶房」すでになく、高橋義夫先生が愛用されたおんぼろ学生会館も見当たらない。そのかわりにかつて我々がその建設に反対したかの第二学生会館が大隈講堂と向かい合うようにして轟然と聳えていた。
こいつは当節のバカダ大学を象徴するように下品で愚劣な建物である。どこから眺めても風流や文化というものが微塵も感じられない。やはりぶっつぶしておくべきろくでもないビルジングであった。
♪反歌
身丈に余る絹の三色旗うちふるいドラクロアのごとかくめい目指せり
日米の佐藤談判阻止せむと死地に乗り入る我ら七人
屈強な右翼学生殴りこみし朝のピケットラインわが不在を許さず
Thursday, July 05, 2007
文学部スロープ下にて想える
遥かな昔、遠い所で第11回&勝手に建築観光18回&♪ある晴れた日に10
穴八幡の丘を下れば文学部である。ところがいつの間にか文学部はもっと右側に移転したらしくここは大学院の看板がかかっていた。
かつてこのスロープの上に私たちが張り巡らしたバリケードがあり、バリケードの向こうに教室や生協や革マルが支配する自治会があり、このスロープの下には私たちの小さな部室があった。
部室はその大半が反革マル勢力の巣窟であったが、ミュージカル研究会などの寄り合いもあった。今から思えば噴飯モノであるが、私はこんな軽佻浮薄なプチブルジョワ的な輩はすべからく物理的に粉砕しなければならぬと半分本気で思っていたのである。
私はいつのまにか「03」という部室に出入りするようになり、遅まきながらマルエンだのレーニンだのを読んだ。気分はさながらダントンだった。
「大胆に、大胆に、なおも大胆に!」であった。
そうして無為で怠惰な日常を自らの手で断ち切り、あわよくば全世界を獲得せんと荒唐無稽の夢を白昼に見ながら、疾風度怒涛の日々に陶酔することになったのであるよ。
そんな次第で学校の授業には出なかった。
いや一度くらいは出たことがあった。それはHという教師のフランス語視聴覚の第1回の授業であった。
米国の大統領にも、当時流行っていた漫画の「イヤミ」にも似た顔をした新帰朝者のこの小男は、私たち新入生に向かって開口一番
「ここは日本ではありましぇーん。ここはTOKIOではありましぇーん。ここはフランスのパリなんざんす」
と言ったので、私はそれこそ「マジかよ」、と驚き呆れて以後授業放棄したのであった。
そうして、それ以来彼の言動は、文字通り私にとっての反面教師となった。
あれほどの美女をたちまち洗脳すされど革マルは醜女製造機なりき
松井照井高木天羽が書ける立て看の赤は彼らが血潮の滴り
鶴巻の安アパートの六畳間シーツを撃ちしわたしの精液
穴八幡の丘を下れば文学部である。ところがいつの間にか文学部はもっと右側に移転したらしくここは大学院の看板がかかっていた。
かつてこのスロープの上に私たちが張り巡らしたバリケードがあり、バリケードの向こうに教室や生協や革マルが支配する自治会があり、このスロープの下には私たちの小さな部室があった。
部室はその大半が反革マル勢力の巣窟であったが、ミュージカル研究会などの寄り合いもあった。今から思えば噴飯モノであるが、私はこんな軽佻浮薄なプチブルジョワ的な輩はすべからく物理的に粉砕しなければならぬと半分本気で思っていたのである。
私はいつのまにか「03」という部室に出入りするようになり、遅まきながらマルエンだのレーニンだのを読んだ。気分はさながらダントンだった。
「大胆に、大胆に、なおも大胆に!」であった。
そうして無為で怠惰な日常を自らの手で断ち切り、あわよくば全世界を獲得せんと荒唐無稽の夢を白昼に見ながら、疾風度怒涛の日々に陶酔することになったのであるよ。
そんな次第で学校の授業には出なかった。
いや一度くらいは出たことがあった。それはHという教師のフランス語視聴覚の第1回の授業であった。
米国の大統領にも、当時流行っていた漫画の「イヤミ」にも似た顔をした新帰朝者のこの小男は、私たち新入生に向かって開口一番
「ここは日本ではありましぇーん。ここはTOKIOではありましぇーん。ここはフランスのパリなんざんす」
と言ったので、私はそれこそ「マジかよ」、と驚き呆れて以後授業放棄したのであった。
そうして、それ以来彼の言動は、文字通り私にとっての反面教師となった。
あれほどの美女をたちまち洗脳すされど革マルは醜女製造機なりき
松井照井高木天羽が書ける立て看の赤は彼らが血潮の滴り
鶴巻の安アパートの六畳間シーツを撃ちしわたしの精液
Wednesday, July 04, 2007
中央図書館にて
鎌倉ちょっと不思議な物語65回
鎌倉市は税金は高いが、そしていろいろ不満もあるが、市の図書館はとても充実している。
以前に比べると予算が減ったために他の図書館の本が回ってくることが増えたけれど、いまなお大量の新刊リクエストに応じてくれている。感謝感激である。
この図書官の司書サービスは充実しており、私は不慣れなアイテムの調べものではいつもたいへんお世話になっている。
そして写真のように、「利用者に対するカラスの襲撃」に対しても集団防衛権を気軽に発動してくれる親切な施設なのである。
鎌倉市は税金は高いが、そしていろいろ不満もあるが、市の図書館はとても充実している。
以前に比べると予算が減ったために他の図書館の本が回ってくることが増えたけれど、いまなお大量の新刊リクエストに応じてくれている。感謝感激である。
この図書官の司書サービスは充実しており、私は不慣れなアイテムの調べものではいつもたいへんお世話になっている。
そして写真のように、「利用者に対するカラスの襲撃」に対しても集団防衛権を気軽に発動してくれる親切な施設なのである。
由比ガ浜のお昼
鎌倉ちょっと不思議な物語64回
やっと賃労働が一段落したので、梅雨の晴間を縫って由比ガ浜の回転寿司「ととやみち」に行く。昔と違っていつも混んでいるようだ。
ここは1皿100円から200円、350円までで様々な魚貝を楽しめる。
近くの腰越港などから、獲れたての新鮮なシラシやアジやカツオなどをどんどんベツトコンベアで流しているが、私はいちいち板前さんに直接発注すると握りたてのを持ってきてくれる。
海老や魚のアラや野菜を入れた美味しくて栄養満点のアラ汁は無料で何杯でもお代わりできる。
私たち夫婦とははの3人がお腹一杯食べて〆て2621円であった。
やっと賃労働が一段落したので、梅雨の晴間を縫って由比ガ浜の回転寿司「ととやみち」に行く。昔と違っていつも混んでいるようだ。
ここは1皿100円から200円、350円までで様々な魚貝を楽しめる。
近くの腰越港などから、獲れたての新鮮なシラシやアジやカツオなどをどんどんベツトコンベアで流しているが、私はいちいち板前さんに直接発注すると握りたてのを持ってきてくれる。
海老や魚のアラや野菜を入れた美味しくて栄養満点のアラ汁は無料で何杯でもお代わりできる。
私たち夫婦とははの3人がお腹一杯食べて〆て2621円であった。
Monday, July 02, 2007
穴八幡をのぞく
遥かな昔、遠い所で第10回&勝手に建築観光17回
戸塚を過ぎて早稲田に入る。かつて全線座があった向かいの丘に登れば穴八幡神社である。
ここは岩清水八幡宮から幕府が勧請した北の鎮護で、かつては能が舞われ、流鏑馬が走り、堀部安兵衛が有名な敵討ちをしたところである。
毎年冬至には一陽来復のお札が配られて善男善女が殺到するそうだが、そんなことはどうでもよい。おそらくこの地は縄文人の快適な根拠地だったに違いない。
貧相な私が憂鬱な心でこの無人の丘を登ると、いつも遠くの本殿の賢所の奥で1本の灯明が風に吹かれてゆるゆる光っていたものだった。
ところが今日は違った。もはや幽遠の趣など皆無であり、驚いたことに神寂びた神殿もなにやらカラフルに改造されていたので興ざめである。
隣の放生寺も工事中だった。
そのかみにいまして、私は学友諸君としばしばこの丘に集い、学費が上がって後輩が可哀相だからけしからん、とか、授業料が高い割には教師が旧弊かつ低能だから講義をボイコットしようとか、ともかく毎日が退屈で退屈でだからたまには平時に乱を起そうよ、とか、スカッと爽やかコカコーラ、てんでかっこよくやりたいな、などと三々五々語り合い、共同謀議をこらしてとうとうストライキにもちこみ、まるで毎日がお祭りのやうに楽しい日々を過ごしたことをはしなくも思い出した。
そういえば私らは徒党を組んでこの穴八幡の麓の馬場下派出所を襲撃し、たった一人の臆病な警官をおびえさせたこともあった。
戸塚を過ぎて早稲田に入る。かつて全線座があった向かいの丘に登れば穴八幡神社である。
ここは岩清水八幡宮から幕府が勧請した北の鎮護で、かつては能が舞われ、流鏑馬が走り、堀部安兵衛が有名な敵討ちをしたところである。
毎年冬至には一陽来復のお札が配られて善男善女が殺到するそうだが、そんなことはどうでもよい。おそらくこの地は縄文人の快適な根拠地だったに違いない。
貧相な私が憂鬱な心でこの無人の丘を登ると、いつも遠くの本殿の賢所の奥で1本の灯明が風に吹かれてゆるゆる光っていたものだった。
ところが今日は違った。もはや幽遠の趣など皆無であり、驚いたことに神寂びた神殿もなにやらカラフルに改造されていたので興ざめである。
隣の放生寺も工事中だった。
そのかみにいまして、私は学友諸君としばしばこの丘に集い、学費が上がって後輩が可哀相だからけしからん、とか、授業料が高い割には教師が旧弊かつ低能だから講義をボイコットしようとか、ともかく毎日が退屈で退屈でだからたまには平時に乱を起そうよ、とか、スカッと爽やかコカコーラ、てんでかっこよくやりたいな、などと三々五々語り合い、共同謀議をこらしてとうとうストライキにもちこみ、まるで毎日がお祭りのやうに楽しい日々を過ごしたことをはしなくも思い出した。
そういえば私らは徒党を組んでこの穴八幡の麓の馬場下派出所を襲撃し、たった一人の臆病な警官をおびえさせたこともあった。
Sunday, July 01, 2007
なおも戸塚近辺をうろつく
遥かな昔、遠い所で第9回
ここいらあたりは昔は戸塚1丁目と2丁目であったはずなのに、地名表示を見ると西早稲田に変わっている。いつ誰が勝手に変えたか知らないが迷惑な話だ。
東京の地名はすべからく戦前の呼称に復古してもらいたい。私はそーゆー構造改革には断固として反対する者である。
戸塚町源兵衛ゆかりの名前を看板にした名物の焼き鳥屋はまだ頼りなげに残っていた。昔ながらのクリーニング屋やしもた屋も、数は少ないけれどもまだ残っておった。
一瞬うずたかく積み重ねた書籍の谷間から、文献堂の主人が額をテカらせたような気がして、私は、とある古本屋に入ったが、そこにはかの精悍な小男の顔は見当たらなかった。
私はこのささやかな、しかし豪奢な知の王国で、吉本隆明の「試行」を毎号買っていた。
ゴリゴリの古典派マルキシストと噂された主人は、おそらく店舗もろとも西方浄土に遷化してしまったのであらう。
しかしながらいくつかの古本屋はまだ健在であった。ある本屋では柳田國男全集が9800円であった。会津八一全集がべらぼうな値段であった。
私は早稲田の古本屋でアナトールフランスの全集やヴァレリーの翻訳などを買い揃えてはせっせと神田の古本屋で転売し、その金をすべて雀荘で浪費していたことを思い出した。
げに、言うも愚かで、貧しく、不分明な日々であった。
ここいらあたりは昔は戸塚1丁目と2丁目であったはずなのに、地名表示を見ると西早稲田に変わっている。いつ誰が勝手に変えたか知らないが迷惑な話だ。
東京の地名はすべからく戦前の呼称に復古してもらいたい。私はそーゆー構造改革には断固として反対する者である。
戸塚町源兵衛ゆかりの名前を看板にした名物の焼き鳥屋はまだ頼りなげに残っていた。昔ながらのクリーニング屋やしもた屋も、数は少ないけれどもまだ残っておった。
一瞬うずたかく積み重ねた書籍の谷間から、文献堂の主人が額をテカらせたような気がして、私は、とある古本屋に入ったが、そこにはかの精悍な小男の顔は見当たらなかった。
私はこのささやかな、しかし豪奢な知の王国で、吉本隆明の「試行」を毎号買っていた。
ゴリゴリの古典派マルキシストと噂された主人は、おそらく店舗もろとも西方浄土に遷化してしまったのであらう。
しかしながらいくつかの古本屋はまだ健在であった。ある本屋では柳田國男全集が9800円であった。会津八一全集がべらぼうな値段であった。
私は早稲田の古本屋でアナトールフランスの全集やヴァレリーの翻訳などを買い揃えてはせっせと神田の古本屋で転売し、その金をすべて雀荘で浪費していたことを思い出した。
げに、言うも愚かで、貧しく、不分明な日々であった。
Saturday, June 30, 2007
戸塚近辺をうろつく
遥かな昔、遠い所で第8回&勝手に建築観光16回
高田馬場駅前から戸塚に向かって歩いていくと思いがけず古色蒼然としたレンガ造りの小さな建物が見つかった。喫茶店のランブルである。
RUMBLEは英語で車などがガタガタ音を立てて進むという意味である。私は思いがけずこの名を目にしたとき、大通りをけたたましい響きを立てながら突っ走る都電の勇姿を思った。そうしてその頭の中の響きが、けっしてこの節の不愉快な騒音ではなく、いにしえの大都市東京に欠かせない懐かしい風物であるように感じられたのである。
今ではまるで幽霊の棲む洋館と化したこの店では、かつてクラシックの名曲レコードを客の希望に応じてかけていた。
私は学校に行かずにこの「ランブル」や野村胡堂ゆかりの「あらえびす」に入り浸って、かの出目金爺カール・ベームが指揮するヴィーンフィルのモーツアルトのト短調の交響曲やレクイエムなどを次々にリクエストしては、日がな一日サルトルやニザンなどを読んで、結局はいわゆるひとつの青春を浪費することが多かった。
ランブルのコーヒーはいたずらに濃くてまずくて苦く、私は飲むと必ず下痢をしたが、それでも通い続けた。
ランブルよりはあらえびすのほうがレコードコレクションが豊富で格調高く、黒と白の制服の処女もシックであると思はれた。それゆえ私はこの近くにあったはずのその店を探したがその所在は杳として知れなかった。
たぶんだいぶ以前に取り壊されてしまったのであらう。その代わりといっては変だが懐かしの早稲田松竹はいまなお健在だった。
高田馬場駅前から戸塚に向かって歩いていくと思いがけず古色蒼然としたレンガ造りの小さな建物が見つかった。喫茶店のランブルである。
RUMBLEは英語で車などがガタガタ音を立てて進むという意味である。私は思いがけずこの名を目にしたとき、大通りをけたたましい響きを立てながら突っ走る都電の勇姿を思った。そうしてその頭の中の響きが、けっしてこの節の不愉快な騒音ではなく、いにしえの大都市東京に欠かせない懐かしい風物であるように感じられたのである。
今ではまるで幽霊の棲む洋館と化したこの店では、かつてクラシックの名曲レコードを客の希望に応じてかけていた。
私は学校に行かずにこの「ランブル」や野村胡堂ゆかりの「あらえびす」に入り浸って、かの出目金爺カール・ベームが指揮するヴィーンフィルのモーツアルトのト短調の交響曲やレクイエムなどを次々にリクエストしては、日がな一日サルトルやニザンなどを読んで、結局はいわゆるひとつの青春を浪費することが多かった。
ランブルのコーヒーはいたずらに濃くてまずくて苦く、私は飲むと必ず下痢をしたが、それでも通い続けた。
ランブルよりはあらえびすのほうがレコードコレクションが豊富で格調高く、黒と白の制服の処女もシックであると思はれた。それゆえ私はこの近くにあったはずのその店を探したがその所在は杳として知れなかった。
たぶんだいぶ以前に取り壊されてしまったのであらう。その代わりといっては変だが懐かしの早稲田松竹はいまなお健在だった。
Friday, June 29, 2007
宮城谷昌光著「風は山河より」第3巻を読む
降っても照っても第29回
若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。
義元の懐刀雪斎禅師は信秀の弟信広を安祥寺に攻めて降伏させ、捕虜にした信広の生命と引き換えに竹千代(家康)を織田家から奪い返すのである。落胆した信秀は嫡子信長に織田家の裁量を委ねることになる。
政治と法界と風雅の達人である雪斎は天文21年に義元と武田晴信(信玄)、北条氏康を説いて三国同盟「善得寺の会盟」を成立させたあと同24年に60歳で遷化した。そしてそれが義元の最大の不幸を招くのである。
徳川家康の祖父、松平清康も父広忠も凶手にかかって若くして暗殺されたが、その犯人を二人ながらに討ったのは植村新八郎という同じ人物であり、また二人の凶手が用いた刀は妖刀村正であった。
主君広忠を殺された天野孫次郎は暗殺を指唆した佐久間全孝に仕え、全孝が眠っている真夜中に(広忠が暗殺されたときとまったく同じ状況で)切りつけたが、どういうわけか殺害できずあわてふためいて逃げ帰ったという。
平将門の叔父五郎良文の子孫から三浦氏、上総の千葉氏、秩父の畠山氏、和田氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏が生じた。
長尾景虎が上杉謙信を名乗るのは永禄四年に鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で山内上杉の憲政から上杉家を継ぐことを許されたからである。
などを私は著者から学んだ。
最後に、著者は司馬遼太郎の遺風を継ぐ名文家であり、その漢語を生かした格調高い名文は歴史小説にふさわしいと思う。
若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。
義元の懐刀雪斎禅師は信秀の弟信広を安祥寺に攻めて降伏させ、捕虜にした信広の生命と引き換えに竹千代(家康)を織田家から奪い返すのである。落胆した信秀は嫡子信長に織田家の裁量を委ねることになる。
政治と法界と風雅の達人である雪斎は天文21年に義元と武田晴信(信玄)、北条氏康を説いて三国同盟「善得寺の会盟」を成立させたあと同24年に60歳で遷化した。そしてそれが義元の最大の不幸を招くのである。
徳川家康の祖父、松平清康も父広忠も凶手にかかって若くして暗殺されたが、その犯人を二人ながらに討ったのは植村新八郎という同じ人物であり、また二人の凶手が用いた刀は妖刀村正であった。
主君広忠を殺された天野孫次郎は暗殺を指唆した佐久間全孝に仕え、全孝が眠っている真夜中に(広忠が暗殺されたときとまったく同じ状況で)切りつけたが、どういうわけか殺害できずあわてふためいて逃げ帰ったという。
平将門の叔父五郎良文の子孫から三浦氏、上総の千葉氏、秩父の畠山氏、和田氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏が生じた。
長尾景虎が上杉謙信を名乗るのは永禄四年に鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で山内上杉の憲政から上杉家を継ぐことを許されたからである。
などを私は著者から学んだ。
最後に、著者は司馬遼太郎の遺風を継ぐ名文家であり、その漢語を生かした格調高い名文は歴史小説にふさわしいと思う。
Thursday, June 28, 2007
高田馬場駅前にて
遥かな昔、遠い所で 第7回
何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。
地方から東京に出てきた私は、ご他聞に洩れずアルバイトで生活していた。
毎朝この駅の売店(いまではキオスクとか呼んでいるようだが)でパンと牛乳を買って急いで腹に収め、当時内幸町にあったNHKで昼飯抜きで大道具の手伝いをしてから名物のチャーシュー麺をかきこみ(当時死んだ猫のエキスをダシにしているという根強い噂があったが非常にうまかった)、それから日比谷公園の傍らで徹夜の突貫工事を行っていた東京地裁の701号法廷などの地下増築工事現場に行って朝の5時まで働き、地下鉄で高田馬場までもどってまたアンパンと牛乳を飲んで下宿にもどって死んだように眠ったものだ。
地裁のアリバイとは階下でたっぷり水分を吸って固まったセメント袋を地下2階から地上まで運びあげる仕事で体力のない脆弱な私だけは肩に担いだ重荷もろとも転落してよく現場監督に怒られたものだった。
高田馬場の駅前に出ると昔と変わらず大学に行くバスが止まっていた。
私は学生時代にこの都バスの料金が交通局によって値上げされることになり、それがけしからんというので「徒党を組んで」このバスに乗ろうとする人間を「実力で阻止」していたことをはしなくも思い出した。
今考えると相当論理にも行動にも飛躍があるが、よくも多くの学生たちがバスに乗らずに素直に歩いてくれたものだ。今の私には到底こんな行動に出る勇気も気力も体力もないが、それでももし再びやらなければならないときには、けっして徒党は組まないだろうと思う。
何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。
地方から東京に出てきた私は、ご他聞に洩れずアルバイトで生活していた。
毎朝この駅の売店(いまではキオスクとか呼んでいるようだが)でパンと牛乳を買って急いで腹に収め、当時内幸町にあったNHKで昼飯抜きで大道具の手伝いをしてから名物のチャーシュー麺をかきこみ(当時死んだ猫のエキスをダシにしているという根強い噂があったが非常にうまかった)、それから日比谷公園の傍らで徹夜の突貫工事を行っていた東京地裁の701号法廷などの地下増築工事現場に行って朝の5時まで働き、地下鉄で高田馬場までもどってまたアンパンと牛乳を飲んで下宿にもどって死んだように眠ったものだ。
地裁のアリバイとは階下でたっぷり水分を吸って固まったセメント袋を地下2階から地上まで運びあげる仕事で体力のない脆弱な私だけは肩に担いだ重荷もろとも転落してよく現場監督に怒られたものだった。
高田馬場の駅前に出ると昔と変わらず大学に行くバスが止まっていた。
私は学生時代にこの都バスの料金が交通局によって値上げされることになり、それがけしからんというので「徒党を組んで」このバスに乗ろうとする人間を「実力で阻止」していたことをはしなくも思い出した。
今考えると相当論理にも行動にも飛躍があるが、よくも多くの学生たちがバスに乗らずに素直に歩いてくれたものだ。今の私には到底こんな行動に出る勇気も気力も体力もないが、それでももし再びやらなければならないときには、けっして徒党は組まないだろうと思う。
Wednesday, June 27, 2007
加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む
加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む
降っても照っても第28回
この新人老作家の「信長の棺」は「信長公記」の作者太田牛一が本能寺の変の謎に果敢に挑んで大いに面白かった。
その次の「秀吉の枷」も本能寺と南蛮寺を結ぶ抜け道で信長が蒸し焼きになるように秀吉がたくらみ死に追いやったという、「嘘か眞か死人に口なし」という論証ヌキのはちゃめちゃな破天荒さでエラン・ヴィタールしており、かなり面白かった。
そこで大いに期待してシリーズ第3作の「明智左馬助の恋」を読んだのだが、これがどうにもこうにもいっこうに面白くなかった。残念じゃあ。
それというのもこれは光秀の義理の息子が知らず秀吉の大謀略に振り回されてあたら生涯の大望を棒に振るというお話で、前の2冊、いや3冊ですでにネタがばれているものだから、おおいに盛り上がりにかける。
著者も最後は観念したのか機械的に年代を追うのみ。
それでもさすがにラストの坂本城の夫婦愛と壮絶な切腹は力が入ったが、遅きに失した。げに「はじめは脱兎のごとく終わりは処女のごとし」とはこれをいうのであろう。
結局馬鹿を見たのはクソ真面目なキンカン頭の光秀だけという、世にも哀れな物語であったが、大器晩成型の著者の次作を期して待とう。
降っても照っても第28回
この新人老作家の「信長の棺」は「信長公記」の作者太田牛一が本能寺の変の謎に果敢に挑んで大いに面白かった。
その次の「秀吉の枷」も本能寺と南蛮寺を結ぶ抜け道で信長が蒸し焼きになるように秀吉がたくらみ死に追いやったという、「嘘か眞か死人に口なし」という論証ヌキのはちゃめちゃな破天荒さでエラン・ヴィタールしており、かなり面白かった。
そこで大いに期待してシリーズ第3作の「明智左馬助の恋」を読んだのだが、これがどうにもこうにもいっこうに面白くなかった。残念じゃあ。
それというのもこれは光秀の義理の息子が知らず秀吉の大謀略に振り回されてあたら生涯の大望を棒に振るというお話で、前の2冊、いや3冊ですでにネタがばれているものだから、おおいに盛り上がりにかける。
著者も最後は観念したのか機械的に年代を追うのみ。
それでもさすがにラストの坂本城の夫婦愛と壮絶な切腹は力が入ったが、遅きに失した。げに「はじめは脱兎のごとく終わりは処女のごとし」とはこれをいうのであろう。
結局馬鹿を見たのはクソ真面目なキンカン頭の光秀だけという、世にも哀れな物語であったが、大器晩成型の著者の次作を期して待とう。
Tuesday, June 26, 2007
初夏の光明寺を歩く
鎌倉ちょっと不思議な物語63回
材木座に近い光明寺は鎌倉では珍しい浄土宗の大寺で、寛元元年1243年に法然から数えて3代目の良忠上人が開いた。
光明寺には幼少時代の武者小路実篤が家族と共に夏を過ごしていたが、そんなことより毎年10月に行われる「お十夜」が有名である。
が、もっと有名なのは戦後間もなく昭和21年にこの寺の本堂と庫裏で「鎌倉アカデミア」が開設されたことだろう。(当初は鎌倉大学校といったが23年に光明寺に移転し今年創立60年の式典が開催された)
二代目の校長に就任したのが、マルクス主義哲学者として有名な三枝博音であるが、この人は不幸なことに国鉄の鶴見事故で亡くなった。
このとき確かかの有名な「競合脱線」という原因説が唱えられたが、その後いかに検証されたのだろうと、横須賀線で鶴見辺りを通過するたびに隣の東海道線をおそるおそる見守るわたしは、げにまったき過去の人なのであらう。
「鎌倉アカデミア」の教授陣は服部之総、西郷信綱、千田是也、宇野重吉、吉野秀雄、高見順、中村光夫、林達夫などの錚々たる面々。学科は、文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成だったが、一度でいいから聴講したかった。
しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、哀れわずか4年半しか存続できなかったという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
この手弁当の市民大学からは、鈴木清順、山口瞳、前田武彦、いずみたく、左幸子などが巣立っている。
どうでもいいけれど「トリスを飲んでハワイへ行こう」はサントリー宣伝部時代に山口瞳が作った名コピーである。
ちなみにアカデミアの授業料は当時の早稲田、慶応などより高かったが、大半の学生が未払いだったそうだ。
材木座に近い光明寺は鎌倉では珍しい浄土宗の大寺で、寛元元年1243年に法然から数えて3代目の良忠上人が開いた。
光明寺には幼少時代の武者小路実篤が家族と共に夏を過ごしていたが、そんなことより毎年10月に行われる「お十夜」が有名である。
が、もっと有名なのは戦後間もなく昭和21年にこの寺の本堂と庫裏で「鎌倉アカデミア」が開設されたことだろう。(当初は鎌倉大学校といったが23年に光明寺に移転し今年創立60年の式典が開催された)
二代目の校長に就任したのが、マルクス主義哲学者として有名な三枝博音であるが、この人は不幸なことに国鉄の鶴見事故で亡くなった。
このとき確かかの有名な「競合脱線」という原因説が唱えられたが、その後いかに検証されたのだろうと、横須賀線で鶴見辺りを通過するたびに隣の東海道線をおそるおそる見守るわたしは、げにまったき過去の人なのであらう。
「鎌倉アカデミア」の教授陣は服部之総、西郷信綱、千田是也、宇野重吉、吉野秀雄、高見順、中村光夫、林達夫などの錚々たる面々。学科は、文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成だったが、一度でいいから聴講したかった。
しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、哀れわずか4年半しか存続できなかったという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
この手弁当の市民大学からは、鈴木清順、山口瞳、前田武彦、いずみたく、左幸子などが巣立っている。
どうでもいいけれど「トリスを飲んでハワイへ行こう」はサントリー宣伝部時代に山口瞳が作った名コピーである。
ちなみにアカデミアの授業料は当時の早稲田、慶応などより高かったが、大半の学生が未払いだったそうだ。
Monday, June 25, 2007
ある丹波の老人の話(35)
「第6話弟の更正 第3回」
昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添えて出してくれました。
私はそれを食べ、最後の二銭をお礼において一文無しになって晩方に川合の大原に着きました。大原には貧しからぬ父の生家がありました。
そこで出してもらったお節句の菱餅を囲炉裏で焼く間ももどかしくまるで狐憑きのように貪り食らいそのまま炉辺で寝込んでしまいました。
弟はこの縮緬問屋へ三、四年くらいいたと思います。「アメリカへ行きたい」というて英語の独習などをやっていたがついに主家に暇をもらい神戸に行って奉公し、渡米の機会を狙っていたらしいのです。
それから朝鮮の仁川へ行ったのは神戸から密航を企てて発見され、仁川に降ろされたとかいうことでした。仁川では日本人の店につとめてなかなか重用されておったようです。
弟はそれから徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営しました。
昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添えて出してくれました。
私はそれを食べ、最後の二銭をお礼において一文無しになって晩方に川合の大原に着きました。大原には貧しからぬ父の生家がありました。
そこで出してもらったお節句の菱餅を囲炉裏で焼く間ももどかしくまるで狐憑きのように貪り食らいそのまま炉辺で寝込んでしまいました。
弟はこの縮緬問屋へ三、四年くらいいたと思います。「アメリカへ行きたい」というて英語の独習などをやっていたがついに主家に暇をもらい神戸に行って奉公し、渡米の機会を狙っていたらしいのです。
それから朝鮮の仁川へ行ったのは神戸から密航を企てて発見され、仁川に降ろされたとかいうことでした。仁川では日本人の店につとめてなかなか重用されておったようです。
弟はそれから徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営しました。
Sunday, June 24, 2007
ある丹波の老人の話(34)
弟はメジロ捕りが上手でメジロを売って儲けた十幾銭かの金を、後生大事にこのとき京都に持っていったもんでした。
でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布には十二銭しかありまへんでした。
これでは昼飯をくうたら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのままとうとう園部に辿り着いて来る時にも泊まったかいち屋という宿屋に泊まりました。
しゃあけんど十二銭ではまともな泊まり方はできまへん。
「私は胃病やから晩御飯は食べへん」というてすぐに床に入って寝ました。
しかし裏を流れている川の瀬音が昼飯も晩飯も食べないすきっ腹にひびいて、なかなか寝付かれませんでした。私はその夜の情けなさはいまも忘れることができません。
朝は宿屋がおかゆをつくって梅干を添えて出してくれました。
私はそれを残らず食べて宿銭一〇銭を払うとあとは二銭しかありません。旅館が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と断ってはだしで出て、みちみち落ちわらじを拾ってそれをはいては歩き続けたんでした。
「第6話弟の更正 第2回」
でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布には十二銭しかありまへんでした。
これでは昼飯をくうたら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのままとうとう園部に辿り着いて来る時にも泊まったかいち屋という宿屋に泊まりました。
しゃあけんど十二銭ではまともな泊まり方はできまへん。
「私は胃病やから晩御飯は食べへん」というてすぐに床に入って寝ました。
しかし裏を流れている川の瀬音が昼飯も晩飯も食べないすきっ腹にひびいて、なかなか寝付かれませんでした。私はその夜の情けなさはいまも忘れることができません。
朝は宿屋がおかゆをつくって梅干を添えて出してくれました。
私はそれを残らず食べて宿銭一〇銭を払うとあとは二銭しかありません。旅館が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と断ってはだしで出て、みちみち落ちわらじを拾ってそれをはいては歩き続けたんでした。
「第6話弟の更正 第2回」
Saturday, June 23, 2007
ある丹波の老人の話(33)
「第6話 弟の更正 第1回」
私には金三郎というたった一人の弟がありました。
この弟が十三、私が十七のとき、忘れられん思い出があります。
そのとき私は蚕業講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中でしたが、家は貧乏市までして貧窮のどん底まで落ちてしまっていたので、弟は学校をやめさせて京都に奉公にだすことにし、私が京に連れて行きました。
京都に着くと丹波宿の十二屋に落ち着き、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れて行き、私はその夜十二屋へ泊まり、朝発って帰ろうとすると弟が帰って来ていて、
「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部に帰る」
というのです。私はそれをいろいろとなだめすかして主家である下村に連れて行き、家の人にもよう頼んで逃げるようにしていったん十二屋へ戻り、なんだか弟がまたあとを追ってくるような気がするんでそれをかわすつもりで知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、たいへんな人ごみの中へまぎれこんでしまいました。
それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいやったんです。私はそこいらで少しブラブラして道を尋ねてから桂に出、丹波街道を園部へ向かって歩いたんでした。
私には金三郎というたった一人の弟がありました。
この弟が十三、私が十七のとき、忘れられん思い出があります。
そのとき私は蚕業講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中でしたが、家は貧乏市までして貧窮のどん底まで落ちてしまっていたので、弟は学校をやめさせて京都に奉公にだすことにし、私が京に連れて行きました。
京都に着くと丹波宿の十二屋に落ち着き、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れて行き、私はその夜十二屋へ泊まり、朝発って帰ろうとすると弟が帰って来ていて、
「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部に帰る」
というのです。私はそれをいろいろとなだめすかして主家である下村に連れて行き、家の人にもよう頼んで逃げるようにしていったん十二屋へ戻り、なんだか弟がまたあとを追ってくるような気がするんでそれをかわすつもりで知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、たいへんな人ごみの中へまぎれこんでしまいました。
それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいやったんです。私はそこいらで少しブラブラして道を尋ねてから桂に出、丹波街道を園部へ向かって歩いたんでした。
Friday, June 22, 2007
ある丹波の老人の話(32)
妻はどこまでも父に親切でした。
独りでは寂しかろうと福知山の実家に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室をあたえて寝起きさせたんでしたが、二年ほどすると女が病死してしまいました。
すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部をはろうて所帯をもたせてやったんでした。
その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しいときには、ずいぶんよく手伝いもしてくれました。
ところが、父と同居しておった未亡人が息子の朝鮮移住についていってしまいよりました。そのとき父はすでに七十を過ぎておったので私の家に引き取りました。
それからは父は孫娘の守などをしてよいおじいさんになりきり、昭和四年四月に七十五歳で亡くなったんでした。
最後の二年ほどは盲目になったんで楽しみにない父を慰めようと私はいち早くラジオを買い求めました。当時綾部にも福知山にもまだラジオは珍しく、大阪からやってきた技術者が五晩泊りで私の家に取り付けてくれました。
郷里の町では郡是、三つ丸百貨店に続く3番目でした。そして父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に岡崎牧師から洗礼を受けたんでした。
今から思えば、それはどうすることもできん宿命的なものではありましたが、私はあまりにも父を憎み、父に冷たかった。
落ちぶれ果てて隠岐から帰ってきたとき、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかも知れない。
「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せないかんことがぎょうさんあります。なかでも私が冷酷であった父に対して私の分まで孝養を尽くしてくれて私に不孝のそしりをまぬかれ、不幸の悔いを残さなんだことに対しては、妻に最大の感謝をささげたいと心から思う次第であります。 (第五話「父帰る」終)
独りでは寂しかろうと福知山の実家に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室をあたえて寝起きさせたんでしたが、二年ほどすると女が病死してしまいました。
すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部をはろうて所帯をもたせてやったんでした。
その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しいときには、ずいぶんよく手伝いもしてくれました。
ところが、父と同居しておった未亡人が息子の朝鮮移住についていってしまいよりました。そのとき父はすでに七十を過ぎておったので私の家に引き取りました。
それからは父は孫娘の守などをしてよいおじいさんになりきり、昭和四年四月に七十五歳で亡くなったんでした。
最後の二年ほどは盲目になったんで楽しみにない父を慰めようと私はいち早くラジオを買い求めました。当時綾部にも福知山にもまだラジオは珍しく、大阪からやってきた技術者が五晩泊りで私の家に取り付けてくれました。
郷里の町では郡是、三つ丸百貨店に続く3番目でした。そして父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に岡崎牧師から洗礼を受けたんでした。
今から思えば、それはどうすることもできん宿命的なものではありましたが、私はあまりにも父を憎み、父に冷たかった。
落ちぶれ果てて隠岐から帰ってきたとき、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかも知れない。
「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せないかんことがぎょうさんあります。なかでも私が冷酷であった父に対して私の分まで孝養を尽くしてくれて私に不孝のそしりをまぬかれ、不幸の悔いを残さなんだことに対しては、妻に最大の感謝をささげたいと心から思う次第であります。 (第五話「父帰る」終)
Thursday, June 21, 2007
ある丹波の老人の話(31)
この冷たい私に対して私の妻菊枝は父に対してやさしかった。
食事を与え、着替えをさせ、暖かい寝床に横たわらせ、心から父をいたわりました。
そしてその後もけっして悪い顔などせずに機嫌よく明け暮れの世話をし、私に内緒で小遣い銭なども渡し、いつもきちんとした身なりをさせて大切にしたんでした。
ところが妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。
「そんなにまでせんでええ」と口に出して叱ったりもしましたが、ひたすら父を哀れむ妻の純情にほだされて、さしもかたくなだった私の心も少しずつほぐれていったんでした。
父は隠岐にいた間のことをあまり話しませんでしたが、やはり腕に覚えのある桐の木買いをやりこれを加工して下駄の素材を作っていたらしいのです。
ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れて来た芸者にも逃げられ、よるべはなし、万策尽きてようやく松江に渡り、そこで歯医者をしていた吉美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、郷里まで帰ってきたらしいのです。
しばらくは乞食同様の見過ぎをしていたものとみえて体一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの衣類は垢だらけシラミだらけで、これを退治するのに妻は往生したそうです。
(第五話父帰る第3回)
食事を与え、着替えをさせ、暖かい寝床に横たわらせ、心から父をいたわりました。
そしてその後もけっして悪い顔などせずに機嫌よく明け暮れの世話をし、私に内緒で小遣い銭なども渡し、いつもきちんとした身なりをさせて大切にしたんでした。
ところが妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。
「そんなにまでせんでええ」と口に出して叱ったりもしましたが、ひたすら父を哀れむ妻の純情にほだされて、さしもかたくなだった私の心も少しずつほぐれていったんでした。
父は隠岐にいた間のことをあまり話しませんでしたが、やはり腕に覚えのある桐の木買いをやりこれを加工して下駄の素材を作っていたらしいのです。
ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れて来た芸者にも逃げられ、よるべはなし、万策尽きてようやく松江に渡り、そこで歯医者をしていた吉美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、郷里まで帰ってきたらしいのです。
しばらくは乞食同様の見過ぎをしていたものとみえて体一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの衣類は垢だらけシラミだらけで、これを退治するのに妻は往生したそうです。
(第五話父帰る第3回)
Wednesday, June 20, 2007
父帰る
ある丹波の老人の話(29)
大正五年の師走も近い冬の夜、丹波の小さな街には人声も絶え通りを吹きぬける寒い木枯らしがときおりガタガタと障子を震わせておりました。
真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトと叩く音がしました。静かに、あたりを憚るように…。
「どなた?」と尋ねても返事はありません。
うっかり戸を開けて泥棒だと困ると思いましたが、そういう感じでもない。そこで思い切って妻と一緒に開けると、そこに立っていたのはなんと父でした。
父帰る!
この寒夜に上に羽織るものもなく、四年みぬまに六十の坂を過ぎ、汚れた筒袖姿のみすぼらしい父が、しょんぼりと戸の外に立っておりました。
父はおずおずと敷居をまたいで中に入るなり、土間に身を投げ、くどくどと前非を悔いて詫び入るのですが、私の目には涙も浮かばず、私の口からはやさしいいたわりの言葉ひとつもれ出てこないのでした。
(第五話父帰る第2回)
大正五年の師走も近い冬の夜、丹波の小さな街には人声も絶え通りを吹きぬける寒い木枯らしがときおりガタガタと障子を震わせておりました。
真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトと叩く音がしました。静かに、あたりを憚るように…。
「どなた?」と尋ねても返事はありません。
うっかり戸を開けて泥棒だと困ると思いましたが、そういう感じでもない。そこで思い切って妻と一緒に開けると、そこに立っていたのはなんと父でした。
父帰る!
この寒夜に上に羽織るものもなく、四年みぬまに六十の坂を過ぎ、汚れた筒袖姿のみすぼらしい父が、しょんぼりと戸の外に立っておりました。
父はおずおずと敷居をまたいで中に入るなり、土間に身を投げ、くどくどと前非を悔いて詫び入るのですが、私の目には涙も浮かばず、私の口からはやさしいいたわりの言葉ひとつもれ出てこないのでした。
(第五話父帰る第2回)
Tuesday, June 19, 2007
福島泰樹著「中原中也帝都慕情」を読む
降っても照っても第27回
大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。
中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地林方」である。
1999年3月に同所を訪れた著者は、「一帯はゆるやかに神田川に傾斜していく鬱蒼とした田園地帯で、その面影はいまでも所々に残っている。あたりをゆっくり歩いてみたらよい」
と書いている。
その言葉にそそのかされた私は、突然その気になって、真夏日の早稲田3丁目を本書を片手にほっつき歩いてみた。
長谷川泰子はその著書『ゆきてかえらぬ』で「中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、8畳くらいの広さでした」
と語っているが、その下宿跡を、30分以上の悪戦苦闘の末に、私もようやく探し当てた。
けれども福島氏が「鬱蒼とした田園地帯」と表現しているその一画は、白いお化粧をして取り澄ましたモダン住宅と無機的な高層マンションによって埋め尽くされており、99年にこの地を訪れた著者が撮影した古い真鍋家の姿もいまや跡形も無い。
午後2時の太陽光線が私の頭上からぎらぎらと照りつけ、住民の人影もまばらだ。
ほんの申し訳程度に残されている庭や樹影を除けば、もはや詩人とその運命の女の痕跡はどこにも求めることはできなかった。
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる 中原中也「木陰」『山羊の歌』より
突然視野に珍しいものが飛び込んできた。
高田の馬場から神田川べりの面影橋まで下る六叉路である。大正14年の春、中也と泰子が何度も上り下りしたであろう長い坂道である。
その六叉路のひとつを少し入ったところに若い二人の愛の巣があったはずだ。当時彼らの頭上を覆っていたはずの大樹の切り株だけがまるで詩人の夢のかけらのように取り残されてあった。
旧居を下れば神田川はすぐだ。そのとき面影橋を早稲田に向かって走る都電荒川線の車輪が、青空の下でおおきな軋み声をあげた。
夏は青い空に、白い雲を浮かばせ、
わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。
わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂げよ。
―記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや
「夏は青い空に…」『山羊の歌』より
大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。
中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地林方」である。
1999年3月に同所を訪れた著者は、「一帯はゆるやかに神田川に傾斜していく鬱蒼とした田園地帯で、その面影はいまでも所々に残っている。あたりをゆっくり歩いてみたらよい」
と書いている。
その言葉にそそのかされた私は、突然その気になって、真夏日の早稲田3丁目を本書を片手にほっつき歩いてみた。
長谷川泰子はその著書『ゆきてかえらぬ』で「中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、8畳くらいの広さでした」
と語っているが、その下宿跡を、30分以上の悪戦苦闘の末に、私もようやく探し当てた。
けれども福島氏が「鬱蒼とした田園地帯」と表現しているその一画は、白いお化粧をして取り澄ましたモダン住宅と無機的な高層マンションによって埋め尽くされており、99年にこの地を訪れた著者が撮影した古い真鍋家の姿もいまや跡形も無い。
午後2時の太陽光線が私の頭上からぎらぎらと照りつけ、住民の人影もまばらだ。
ほんの申し訳程度に残されている庭や樹影を除けば、もはや詩人とその運命の女の痕跡はどこにも求めることはできなかった。
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる 中原中也「木陰」『山羊の歌』より
突然視野に珍しいものが飛び込んできた。
高田の馬場から神田川べりの面影橋まで下る六叉路である。大正14年の春、中也と泰子が何度も上り下りしたであろう長い坂道である。
その六叉路のひとつを少し入ったところに若い二人の愛の巣があったはずだ。当時彼らの頭上を覆っていたはずの大樹の切り株だけがまるで詩人の夢のかけらのように取り残されてあった。
旧居を下れば神田川はすぐだ。そのとき面影橋を早稲田に向かって走る都電荒川線の車輪が、青空の下でおおきな軋み声をあげた。
夏は青い空に、白い雲を浮かばせ、
わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。
わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂げよ。
―記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや
「夏は青い空に…」『山羊の歌』より
Monday, June 18, 2007
大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む
大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む
降っても照っても第26回
柳田國男が「遠野物語」の佐々木喜善、「蒲団」の田山花袋、同じ自然主義作家の水野葉舟との交友を通じていかにして柳田流の「自然主義」を追求し、国家社会や文芸と向き合いながら、花袋が私小説を創造したように、学としての「民俗学」を創成していったかを微視的に考察する労作である。
この本によれば明治40年代は空前の「怪談」の時代であり、例えば小泉八雲の「日本瞥見記」や徳田秋声の「あらくれ」、夏目漱石の「夢十夜」のような夢物語が異常なまでに持て囃された。
そのような怪談の時代にあって、柳田ひとりが政治的な植民地論と自然主義運動の双方の関心を抱きながら私的怪談から「山人論」を立ち上げていく。
柳田は「遠野物語」から「山の生活」そして昭和6年の「明治大正史世相篇」を発表するなかで、自らの疑わしい来歴を日本の名も無き普通の人々の歴史と同化させ、そのことを通じて民衆史の新しい書き直しに成功するのである。
大町にジャカランタ咲き和泉葉橋に最後のホタル舞い鎌倉の夏がはじまる
降っても照っても第26回
柳田國男が「遠野物語」の佐々木喜善、「蒲団」の田山花袋、同じ自然主義作家の水野葉舟との交友を通じていかにして柳田流の「自然主義」を追求し、国家社会や文芸と向き合いながら、花袋が私小説を創造したように、学としての「民俗学」を創成していったかを微視的に考察する労作である。
この本によれば明治40年代は空前の「怪談」の時代であり、例えば小泉八雲の「日本瞥見記」や徳田秋声の「あらくれ」、夏目漱石の「夢十夜」のような夢物語が異常なまでに持て囃された。
そのような怪談の時代にあって、柳田ひとりが政治的な植民地論と自然主義運動の双方の関心を抱きながら私的怪談から「山人論」を立ち上げていく。
柳田は「遠野物語」から「山の生活」そして昭和6年の「明治大正史世相篇」を発表するなかで、自らの疑わしい来歴を日本の名も無き普通の人々の歴史と同化させ、そのことを通じて民衆史の新しい書き直しに成功するのである。
大町にジャカランタ咲き和泉葉橋に最後のホタル舞い鎌倉の夏がはじまる
ある丹波の老人の話(29)
前にも述べたとおり、私の父は酒好き、遊び好きで、飲む打つ買うの三拍子をいずれ劣らず達者にやった人でした。ところがそれがいつまで経っても目が覚めず、四十過ぎても、五十子越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさです。
父はもともと商売上手と人にも言われ、世間の評判もよく、金も相当もうけてきたんでしたが、なにぶんお人よしで勝負事をしても人に取られるばかりでした。
勝負事といってもおもに花札などで本バクチには手を出してはいませんでしたが、そのくせ大きなことが好きで、米や株の相場に手を出して、またしても大穴をあけ、金のかかる女出入りも絶え間がありまへんでした。
こんな始末ですからよい目の出ようはずもなく、母が真面目に守っている履物屋商売もだんだんさびれ、借金は増える一方で家計は一日一日窮地に追い込まれていったんでした。そうして明治四十三年その火の車の中で、私の母は四十九才で病気で死んでしもうたんでした。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしく思えば思うほど、私は父への憎しみが深くなるのをそうすることもできませんでした。
「母のかたき!」と私の父を見る目は日増しに険しくなっていきました。
母の死後ますますやけになった父は、もはや我が家にも郷里の町にもいたたまれなくなって、前にも述べたように大正元年に五十八のよい歳をして世間には内緒で若い芸者を連れて隠岐の島へ逃げて行きました。
私は父を舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむ気持ちなどさらさらありまへんでしたし、それは父も同様でした。
前に触れたように、父を送って帰ってきた夜から、早くも債鬼は我が家に迫り、私を借金地獄に追い込んで私は貧乏暮らしのどん底で這いずり回ることになったんでした。
しかし幸いにも私はこの危機を辛うじて潜り抜けて借金もすべて返済することができました。私は家業に忠実な妻と共に下駄屋の商売も従来以上に回復させ、生活も安定させ、郡是株の強行買いが当たってだんだん好い目が見えてきたんでした。
その間私は自分のことにかまけ、父のことなぞすっかり忘れておりました。もとより父からは一度も便りはなく、人の噂にも聞かず、その消息もいっさい分からず、思い出す隙もなかったんでした。
ところがその父がひよっこり帰って来ようとは! 夢にも思わぬことでした。
(第五話父帰る第1回)
父はもともと商売上手と人にも言われ、世間の評判もよく、金も相当もうけてきたんでしたが、なにぶんお人よしで勝負事をしても人に取られるばかりでした。
勝負事といってもおもに花札などで本バクチには手を出してはいませんでしたが、そのくせ大きなことが好きで、米や株の相場に手を出して、またしても大穴をあけ、金のかかる女出入りも絶え間がありまへんでした。
こんな始末ですからよい目の出ようはずもなく、母が真面目に守っている履物屋商売もだんだんさびれ、借金は増える一方で家計は一日一日窮地に追い込まれていったんでした。そうして明治四十三年その火の車の中で、私の母は四十九才で病気で死んでしもうたんでした。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしく思えば思うほど、私は父への憎しみが深くなるのをそうすることもできませんでした。
「母のかたき!」と私の父を見る目は日増しに険しくなっていきました。
母の死後ますますやけになった父は、もはや我が家にも郷里の町にもいたたまれなくなって、前にも述べたように大正元年に五十八のよい歳をして世間には内緒で若い芸者を連れて隠岐の島へ逃げて行きました。
私は父を舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむ気持ちなどさらさらありまへんでしたし、それは父も同様でした。
前に触れたように、父を送って帰ってきた夜から、早くも債鬼は我が家に迫り、私を借金地獄に追い込んで私は貧乏暮らしのどん底で這いずり回ることになったんでした。
しかし幸いにも私はこの危機を辛うじて潜り抜けて借金もすべて返済することができました。私は家業に忠実な妻と共に下駄屋の商売も従来以上に回復させ、生活も安定させ、郡是株の強行買いが当たってだんだん好い目が見えてきたんでした。
その間私は自分のことにかまけ、父のことなぞすっかり忘れておりました。もとより父からは一度も便りはなく、人の噂にも聞かず、その消息もいっさい分からず、思い出す隙もなかったんでした。
ところがその父がひよっこり帰って来ようとは! 夢にも思わぬことでした。
(第五話父帰る第1回)
Saturday, June 16, 2007
避暑地鎌倉
鎌倉ちょっと不思議な物語62回
大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。
鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治天皇の夏季御用邸が建てられた。それが現在の御成小学校だが、いつか書いたように大々的な発掘が行われ、中世の巨大行政センター跡地であることが初めて分かった。
当時の中西市長は当初御成小学校を鉄筋コンクリートに建て替えようとしていたのだが、市民の反対に遭ってしぶしぶ低層木造校舎に変更したが、それは大正解だった。
日本には超高層鉄筋コンクリートは似合わない。いずれ大震災が立て続けにやってくれば、私の不吉な大予言がおのおのがたの骨身にしみて理解されるだろう。
それはさておき、御成というのは、だから明治天皇の御成り通りなのである。
御成の次には、より海に近い材木座にリゾートが進出した。写真の左が正田家の別荘であったが、広大な緑の敷地は東京の本宅と同様跡形も無く取り壊されて、現在はご覧のとおり何の変哲も無い新興住宅群になった。
それから写真の真ん中の坂道を登った左手辺りに、夏目漱石一家の夏の借家があったそうだ。
夫を薬で毒殺しようとしていた(江藤淳「漱石とその時代」最終巻を参照のこと)悪妻鏡子の「漱石の思ひ出」によれば、
「小さいほんの2間かそこいらに台所のくっついている家を借りることにしました。一夏一二〇円ばかりだったと覚えております」
とあるが、当時ここいらの住民は1ヶ月二十円ほどの借家に住みながら、それをちゃっかり無知な帝都の成金貴紳たちに何層倍もの値段でふっかけて又貸しして、大もうけをしていたのである。
そんなこととは知らない漱石は、足の踏み場も無い狭い借家で雑魚寝しながら
「ここでこうやって修養しておれば、いついくら貧乏しても驚かない」などと言って、「子供たちといっしょになって海に入って泳いでいた」そうだ。
もひとつおまけの写真の日本家屋は、あの「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄氏邸である。
ここに立って初夏の青い空を見上げていると、「アアヤッパリジブンハカエルワケニハイカナイ」と叫んだ水島上等兵のオウムのしゃがれ声がどこかから聞こえてくるようだ。
孤高のドイツ文学者は昭和59年に亡くなったが、彼が愛したいかにも鎌倉らしい瀟洒な木造住宅は、こうやってまだ残っている。
人はすぐ死ぬが、物とその気配は、死んだ人の周辺でしばらくは残っているのだろう。
大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。
鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治天皇の夏季御用邸が建てられた。それが現在の御成小学校だが、いつか書いたように大々的な発掘が行われ、中世の巨大行政センター跡地であることが初めて分かった。
当時の中西市長は当初御成小学校を鉄筋コンクリートに建て替えようとしていたのだが、市民の反対に遭ってしぶしぶ低層木造校舎に変更したが、それは大正解だった。
日本には超高層鉄筋コンクリートは似合わない。いずれ大震災が立て続けにやってくれば、私の不吉な大予言がおのおのがたの骨身にしみて理解されるだろう。
それはさておき、御成というのは、だから明治天皇の御成り通りなのである。
御成の次には、より海に近い材木座にリゾートが進出した。写真の左が正田家の別荘であったが、広大な緑の敷地は東京の本宅と同様跡形も無く取り壊されて、現在はご覧のとおり何の変哲も無い新興住宅群になった。
それから写真の真ん中の坂道を登った左手辺りに、夏目漱石一家の夏の借家があったそうだ。
夫を薬で毒殺しようとしていた(江藤淳「漱石とその時代」最終巻を参照のこと)悪妻鏡子の「漱石の思ひ出」によれば、
「小さいほんの2間かそこいらに台所のくっついている家を借りることにしました。一夏一二〇円ばかりだったと覚えております」
とあるが、当時ここいらの住民は1ヶ月二十円ほどの借家に住みながら、それをちゃっかり無知な帝都の成金貴紳たちに何層倍もの値段でふっかけて又貸しして、大もうけをしていたのである。
そんなこととは知らない漱石は、足の踏み場も無い狭い借家で雑魚寝しながら
「ここでこうやって修養しておれば、いついくら貧乏しても驚かない」などと言って、「子供たちといっしょになって海に入って泳いでいた」そうだ。
もひとつおまけの写真の日本家屋は、あの「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄氏邸である。
ここに立って初夏の青い空を見上げていると、「アアヤッパリジブンハカエルワケニハイカナイ」と叫んだ水島上等兵のオウムのしゃがれ声がどこかから聞こえてくるようだ。
孤高のドイツ文学者は昭和59年に亡くなったが、彼が愛したいかにも鎌倉らしい瀟洒な木造住宅は、こうやってまだ残っている。
人はすぐ死ぬが、物とその気配は、死んだ人の周辺でしばらくは残っているのだろう。
Friday, June 15, 2007
ある丹波の老人の話(28)
しかし思わぬ副産物もありました。
このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。
当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。
次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。
かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。
私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。
ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。
思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。
そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!
これこそは神の摂理でした。
私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。 (第四話 株が当たった話 終)
このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。
当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。
次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。
かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。
私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。
ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。
思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。
そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!
これこそは神の摂理でした。
私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。 (第四話 株が当たった話 終)
Thursday, June 14, 2007
ある丹波の老人の話(27)
振り返れば、私の貧乏は父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年がもっとも酷かったんですが、三年を境目に下駄屋の商売がだんだん順調に行きだして、だいぶん楽になってきよりました。
ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。
父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。
この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。
最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。
私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。
まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。
私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。
あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。
こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。
ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。
父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。
この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。
最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。
私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。
まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。
私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。
あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。
こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。
Wednesday, June 13, 2007
「私が独裁者?モーツァルトこそ!」チェリビダッケ音楽語録を読む
降っても照っても第25回
「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」
「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」
「フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ納得できた唯一の指揮者である」
「音楽史全体の中で、垂直に記された楽譜を、つまり同時的に生ずる音響現象の総体を、水平の流れやテンポに置き換えるそのやり方を理解していた唯一の指揮者がフルトヴェングラーである」
「カラヤンは大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカコーラもしかり」
「ロリン・マゼール、カントを読む2歳の子供だ」
「トスカニーニは純粋な音符工場だった」
「さてと、ムターさん、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏から学んだことをすべて忘れなさい」
「ジェシー・ノーマンは凄い声だが教養の香りがない。ポエジーの感覚がない。どこか別の惑星のような声だ。Rシュトラウスの「4つの最後の歌」はまるでゴビ砂漠の春のようだった」
「ベートーベンの5番は最低クラスのアマチュアの作品だ。終楽章はまったくひどい。間違った転調に満ち満ちている。エロイカの終楽章もひどいジョークというほかはない。また第9の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。だがそんなサラダというものはある。それがドイツ的で、ドイツ的にひびくなら我慢することが出来る」
「マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。彼は格好良く始めるがそうしたらもうやめられない男だ。いつも嘘ばかりついてきた無性格な男、つまりは人非人にすぎない。彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したと主張するものはほら吹きで詐欺師というほかはない。マーラーなんかいなくってもまったく気にならないね」
「ストラビンスキーはディレタントの天才にすぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。彼はこの欠陥をいつも新しい形式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」
「チャイコフスキーは真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である。ブラームスは交響曲第1番の終楽章の冒頭のコラールでトロンボーンを用いたが、これは素人くさいやり方だ。チャイコフスキーならそれをどんなすばらしいやり方で聴かせたことか!」
「ブルックナーが存在したという事実は、わたしにとって神のもっとも大きな贈り物である。彼はあらゆる時代のもっとも偉大な交響曲作曲家である。ひびきを互いに結びつけあいながら、それを宇宙にまで形成できたものはブルックナー以外にいない」
「普通の人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だがブルックナーの時間は終ったあとにはじまる。彼のフィナーレは全て神々しい。それは別の世界への希望、救済の希望、もういちど光をたっぷり浴びるよろこび、それは彼の音楽以外のどこにもない!」
「この男は死ぬまでとても孤独だった。彼があれほど多くの美しいものを生み出したのは自分の死を超えているということの答えだ」
「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすばらしい。アメリカ流の打てば響くヴィルトーゾ風のオーケストラだ。しかしフルトヴェングラーの厚みのある響き、あの純ドイツ風の響きはどこへ行ったのか?」
「ウイーンフィルは凡庸だ。音楽の生き生きとした流れというもの、主題の展開や織り成し、また構造というものをまるで理解していない。ひどいごった煮ですべてはメゾフォルテだ。たんなる砂糖漬けの果物だ」
「わたしを不幸にするものは他人の不幸である」
「楽の音は美を真実に導く。音楽とは自由の体験以外の何者でもない」
―セルジュ・チェリビダッケは1996年8月14日に死去した。彼の墓はパリ郊外のラ・ヌーヴィル・シュール・エソンンヌにある。
「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」
「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」
「フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ納得できた唯一の指揮者である」
「音楽史全体の中で、垂直に記された楽譜を、つまり同時的に生ずる音響現象の総体を、水平の流れやテンポに置き換えるそのやり方を理解していた唯一の指揮者がフルトヴェングラーである」
「カラヤンは大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカコーラもしかり」
「ロリン・マゼール、カントを読む2歳の子供だ」
「トスカニーニは純粋な音符工場だった」
「さてと、ムターさん、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏から学んだことをすべて忘れなさい」
「ジェシー・ノーマンは凄い声だが教養の香りがない。ポエジーの感覚がない。どこか別の惑星のような声だ。Rシュトラウスの「4つの最後の歌」はまるでゴビ砂漠の春のようだった」
「ベートーベンの5番は最低クラスのアマチュアの作品だ。終楽章はまったくひどい。間違った転調に満ち満ちている。エロイカの終楽章もひどいジョークというほかはない。また第9の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。だがそんなサラダというものはある。それがドイツ的で、ドイツ的にひびくなら我慢することが出来る」
「マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。彼は格好良く始めるがそうしたらもうやめられない男だ。いつも嘘ばかりついてきた無性格な男、つまりは人非人にすぎない。彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したと主張するものはほら吹きで詐欺師というほかはない。マーラーなんかいなくってもまったく気にならないね」
「ストラビンスキーはディレタントの天才にすぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。彼はこの欠陥をいつも新しい形式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」
「チャイコフスキーは真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である。ブラームスは交響曲第1番の終楽章の冒頭のコラールでトロンボーンを用いたが、これは素人くさいやり方だ。チャイコフスキーならそれをどんなすばらしいやり方で聴かせたことか!」
「ブルックナーが存在したという事実は、わたしにとって神のもっとも大きな贈り物である。彼はあらゆる時代のもっとも偉大な交響曲作曲家である。ひびきを互いに結びつけあいながら、それを宇宙にまで形成できたものはブルックナー以外にいない」
「普通の人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だがブルックナーの時間は終ったあとにはじまる。彼のフィナーレは全て神々しい。それは別の世界への希望、救済の希望、もういちど光をたっぷり浴びるよろこび、それは彼の音楽以外のどこにもない!」
「この男は死ぬまでとても孤独だった。彼があれほど多くの美しいものを生み出したのは自分の死を超えているということの答えだ」
「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすばらしい。アメリカ流の打てば響くヴィルトーゾ風のオーケストラだ。しかしフルトヴェングラーの厚みのある響き、あの純ドイツ風の響きはどこへ行ったのか?」
「ウイーンフィルは凡庸だ。音楽の生き生きとした流れというもの、主題の展開や織り成し、また構造というものをまるで理解していない。ひどいごった煮ですべてはメゾフォルテだ。たんなる砂糖漬けの果物だ」
「わたしを不幸にするものは他人の不幸である」
「楽の音は美を真実に導く。音楽とは自由の体験以外の何者でもない」
―セルジュ・チェリビダッケは1996年8月14日に死去した。彼の墓はパリ郊外のラ・ヌーヴィル・シュール・エソンンヌにある。
Tuesday, June 12, 2007
ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読む
降っても照っても第24回
渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。
特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」と共にわが国の絵画史の記念碑的な作品として高く評価されている。
彼はモデルを熟視し、その実際の顔容に酷使する「写真」を絵画の本質と考え、その考えを実作に反映した。平安時代以来崋山までは、わが国の肖像画には結局のところ“厳格なリアリズム”は存在しなかったのである。
これらの傑作の前に立つとき、我々は一人の武士の生き生きとした裸形の存在に直面し息を呑むような思いがする。
けれども意外なことに崋山は数多くの春画も描いていたし、「私は美しい女としか寝ない」と語る享楽の人でもあった。一日に数時間しか睡眠をとらず、朝から晩まで政務と画作、そして儒教の忠孝の教えの実践に勤めていた崋山の人物像は、思いもかけず多面的な広がりをもって私たちを魅了する。
ドナルド・キーンはそんな優れた画家崋山の悩み多き、悲劇的な生涯をたどりながら、三河田原藩の家老、儒家そして蘭学者でもあった崋山の思想の歩みについて鋭い分析と的確な評価を行っている。
崋山は貧しかった。終生多額の借金があった。大切な母をはじめ妻子や兄弟の生計を支えるために、崋山は無数の絵を描き、それを売ってはわずかな給金を補い、それは彼が行政のトップに近い立場にあったときにも変わらなかった。
そうしてこの不幸なアルバイトが藩主の不名誉になると妄想した彼を、最終的には自刃にまでおいやるのである。
そして無実の崋山をそこまで追いつめたのは、人格劣悪で性陰険な鳥居耀蔵であった。
いつの時代にもこういう卑劣な男がいるものだが、耀蔵は当時蘭学者仲間の間で高い声望を誇っていた開明派の崋山の存在をねたみ、崋山が海外渡航を企てたとか、大塩平八郎に同情したとか、高野長英が書いた「夢物語」の著者であるとか、幕府を誹謗中傷したとか、あらぬ言いがかりをつけて蛮社の獄に投じる。
恩師松崎慊堂の決死のとりなしによって斬首をまぬかれたものの、崋山は田原の在所蟄居に処せられ、ここで彼の芸が身をほろぼす因果な結果をうむのである。
一夜にして幕府の仇敵とみなされた崋山の元を多くの友人知己が離れていった。
伊豆韮山に隠棲した江川太郎左衛門の沈黙は許せるとしても、赤井東海、佐藤一斎、とりわけ滝沢馬琴の卑劣な裏切りは、どんなときにも逆上しない著者の物静かな声音によってきびしく弾劾されている。
悪辣非道な鳥居耀蔵とその取り巻きによって突然名誉を汚され、地位を奪われ、収入の道を途絶された崋山はみすぎよすぎの絵を描き、これらを売らなければ生活できなかった。
しかしそのことが余りにも余りにも倫理的な彼をさらに追いつめ、ついには三界に身の置き所をなくすのである。松崎慊堂の語るとおり、「崋山は杞憂を以って罪に罹り、また杞憂を以って死」んだのである。
崋山が老母の監視の目を盗んで納屋に入り、独り腹を切り、激痛を堪えながら飛び出した腸を腹に入れてから衣装を改め、さらに短刀で首を刺して自栽して果てたのが御一新までわずか二十七年の天保十二年一〇月十一日、崋山四十九歳の男盛りであった。
「不忠不幸渡邊登」と自らが大書した墓標の下でいまも眠っているこの男を、せめて幕末の大動乱まで生き延びさせたかったと思うのは、著者だけではないだろう。
渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。
特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」と共にわが国の絵画史の記念碑的な作品として高く評価されている。
彼はモデルを熟視し、その実際の顔容に酷使する「写真」を絵画の本質と考え、その考えを実作に反映した。平安時代以来崋山までは、わが国の肖像画には結局のところ“厳格なリアリズム”は存在しなかったのである。
これらの傑作の前に立つとき、我々は一人の武士の生き生きとした裸形の存在に直面し息を呑むような思いがする。
けれども意外なことに崋山は数多くの春画も描いていたし、「私は美しい女としか寝ない」と語る享楽の人でもあった。一日に数時間しか睡眠をとらず、朝から晩まで政務と画作、そして儒教の忠孝の教えの実践に勤めていた崋山の人物像は、思いもかけず多面的な広がりをもって私たちを魅了する。
ドナルド・キーンはそんな優れた画家崋山の悩み多き、悲劇的な生涯をたどりながら、三河田原藩の家老、儒家そして蘭学者でもあった崋山の思想の歩みについて鋭い分析と的確な評価を行っている。
崋山は貧しかった。終生多額の借金があった。大切な母をはじめ妻子や兄弟の生計を支えるために、崋山は無数の絵を描き、それを売ってはわずかな給金を補い、それは彼が行政のトップに近い立場にあったときにも変わらなかった。
そうしてこの不幸なアルバイトが藩主の不名誉になると妄想した彼を、最終的には自刃にまでおいやるのである。
そして無実の崋山をそこまで追いつめたのは、人格劣悪で性陰険な鳥居耀蔵であった。
いつの時代にもこういう卑劣な男がいるものだが、耀蔵は当時蘭学者仲間の間で高い声望を誇っていた開明派の崋山の存在をねたみ、崋山が海外渡航を企てたとか、大塩平八郎に同情したとか、高野長英が書いた「夢物語」の著者であるとか、幕府を誹謗中傷したとか、あらぬ言いがかりをつけて蛮社の獄に投じる。
恩師松崎慊堂の決死のとりなしによって斬首をまぬかれたものの、崋山は田原の在所蟄居に処せられ、ここで彼の芸が身をほろぼす因果な結果をうむのである。
一夜にして幕府の仇敵とみなされた崋山の元を多くの友人知己が離れていった。
伊豆韮山に隠棲した江川太郎左衛門の沈黙は許せるとしても、赤井東海、佐藤一斎、とりわけ滝沢馬琴の卑劣な裏切りは、どんなときにも逆上しない著者の物静かな声音によってきびしく弾劾されている。
悪辣非道な鳥居耀蔵とその取り巻きによって突然名誉を汚され、地位を奪われ、収入の道を途絶された崋山はみすぎよすぎの絵を描き、これらを売らなければ生活できなかった。
しかしそのことが余りにも余りにも倫理的な彼をさらに追いつめ、ついには三界に身の置き所をなくすのである。松崎慊堂の語るとおり、「崋山は杞憂を以って罪に罹り、また杞憂を以って死」んだのである。
崋山が老母の監視の目を盗んで納屋に入り、独り腹を切り、激痛を堪えながら飛び出した腸を腹に入れてから衣装を改め、さらに短刀で首を刺して自栽して果てたのが御一新までわずか二十七年の天保十二年一〇月十一日、崋山四十九歳の男盛りであった。
「不忠不幸渡邊登」と自らが大書した墓標の下でいまも眠っているこの男を、せめて幕末の大動乱まで生き延びさせたかったと思うのは、著者だけではないだろう。
Monday, June 11, 2007
乱橋から妙長寺へ
鎌倉ちょっと不思議な物語61回
「乱橋」は鎌倉十橋のひとつである。道路の端にあるのでほとんどの人が見逃すほんの小さな短い橋だが、ときおり「吾妻鏡」に登場する。
この近所には横溝正史や大仏次郎が住み夏目漱石も家族と共に訪れている。
すぐ傍にある妙長寺はすっくと夏の空に聳える日蓮像のたもとに控えている。
数年前に建て替えたために、実につまらない近代的な外観になったが、昔は鄙びた味の寺であった。北鎌倉の長寿寺と同様、今も昔も観光客には公開されていないのは立派だ。すべからく寺は全部そうあるべきだと私は思う。
ところでこのお寺は、私の大好きな天才尾崎紅葉の弟子であって、その紅葉ほど私が好きではない泉鏡花が明治24年の夏に滞在していた。
鏡花の「星明り」には鏡花が外出した間に締め出されたときの思い出が書いてある。
「さまで大きくない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。松葉牡丹、鬼百合、夏菊雑植えの繁った中に向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。門の左側に井戸が一個(現存せず)。飲み水ではないので極めて塩辛いが、底は浅い。屈んでざぶざぶ、さるぼうで汲み得らる。石畳で掘り下ろした合目には、此のあたりに産する何とかいう蟹、甲羅が黄色で、足の赤い、小さなのが数限りなく群がって動いている。」
この蟹については確か漱石も書いていた。そこいらをきょろきょろ探して見たが、残念ながらいなかった。恐らく近代化の波におぼれて絶滅してしまったのだろう。
いや待てよ。これが淡水産の蟹ではないとすれば、もしかすると材木座の海岸をくまなく探せば一匹くらいいるかもしれないな。
私の住んでいる山地にも昔は大量の蟹がいたが、最近はほとんどいなくなってしまった。しかしモクズ蟹とウナギはまだ生存している。でもどこにいるかはもう教えたくない。
というのも、先日棒を振り回して高い崖に咲くイワタバコを盗んでいる男を見たからだ。私がこいつを大声で怒鳴りつけると、この馬鹿男は恥ずかしそうにどこかへ行ってしまった。
ということでせっかくお寺の話を始めたのに、最後は血の気の多い話で終ってしまった。
「乱橋」は鎌倉十橋のひとつである。道路の端にあるのでほとんどの人が見逃すほんの小さな短い橋だが、ときおり「吾妻鏡」に登場する。
この近所には横溝正史や大仏次郎が住み夏目漱石も家族と共に訪れている。
すぐ傍にある妙長寺はすっくと夏の空に聳える日蓮像のたもとに控えている。
数年前に建て替えたために、実につまらない近代的な外観になったが、昔は鄙びた味の寺であった。北鎌倉の長寿寺と同様、今も昔も観光客には公開されていないのは立派だ。すべからく寺は全部そうあるべきだと私は思う。
ところでこのお寺は、私の大好きな天才尾崎紅葉の弟子であって、その紅葉ほど私が好きではない泉鏡花が明治24年の夏に滞在していた。
鏡花の「星明り」には鏡花が外出した間に締め出されたときの思い出が書いてある。
「さまで大きくない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。松葉牡丹、鬼百合、夏菊雑植えの繁った中に向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。門の左側に井戸が一個(現存せず)。飲み水ではないので極めて塩辛いが、底は浅い。屈んでざぶざぶ、さるぼうで汲み得らる。石畳で掘り下ろした合目には、此のあたりに産する何とかいう蟹、甲羅が黄色で、足の赤い、小さなのが数限りなく群がって動いている。」
この蟹については確か漱石も書いていた。そこいらをきょろきょろ探して見たが、残念ながらいなかった。恐らく近代化の波におぼれて絶滅してしまったのだろう。
いや待てよ。これが淡水産の蟹ではないとすれば、もしかすると材木座の海岸をくまなく探せば一匹くらいいるかもしれないな。
私の住んでいる山地にも昔は大量の蟹がいたが、最近はほとんどいなくなってしまった。しかしモクズ蟹とウナギはまだ生存している。でもどこにいるかはもう教えたくない。
というのも、先日棒を振り回して高い崖に咲くイワタバコを盗んでいる男を見たからだ。私がこいつを大声で怒鳴りつけると、この馬鹿男は恥ずかしそうにどこかへ行ってしまった。
ということでせっかくお寺の話を始めたのに、最後は血の気の多い話で終ってしまった。
材木座海岸から和賀江島を見る
鎌倉ちょっと不思議な物語60回
昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。
そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認められた。時の執権(武州と称される)は北条泰時であった。
「吾妻鏡」の同年7月12日の条には、「今日、勧進上人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩なからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまう。諸人また助成すと云々。」とある。
また同月15日条には、「今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」
さらに8月9日条には、「9日丁巳 晴る。和賀江嶋その功を終う。よって尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。」と書かれているとおり、泰時はじめ諸人の協力によって工事はわずか1ヶ月足らずで終了した。
和賀江島は江戸時代に入っても修復を行いながら活用されていたが、明治時代になって現在のように潮の干満によってほぼ水没したりかろうじて姿を現すような状態になった。
しかし国の史跡であるこの小さな人工島が日本で唯一の鎌倉時代の港であることは間違いない。(左の建物は川端康成が自殺した逗子マリーナ)
波のまにまに露頭する岩をじっと眺めていると、これが天と地、過去と現在をかりそめに繋げている夢の浮橋のような気がしてくる。
昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。
そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認められた。時の執権(武州と称される)は北条泰時であった。
「吾妻鏡」の同年7月12日の条には、「今日、勧進上人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩なからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまう。諸人また助成すと云々。」とある。
また同月15日条には、「今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」
さらに8月9日条には、「9日丁巳 晴る。和賀江嶋その功を終う。よって尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。」と書かれているとおり、泰時はじめ諸人の協力によって工事はわずか1ヶ月足らずで終了した。
和賀江島は江戸時代に入っても修復を行いながら活用されていたが、明治時代になって現在のように潮の干満によってほぼ水没したりかろうじて姿を現すような状態になった。
しかし国の史跡であるこの小さな人工島が日本で唯一の鎌倉時代の港であることは間違いない。(左の建物は川端康成が自殺した逗子マリーナ)
波のまにまに露頭する岩をじっと眺めていると、これが天と地、過去と現在をかりそめに繋げている夢の浮橋のような気がしてくる。
Sunday, June 10, 2007
鎌倉の海岸を歩く
鎌倉ちょっと不思議な物語59回
鎌倉には幸いにも海がある。
鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師が
「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と書いている。
昔は下々の者も馬鹿にして食べなかったのに最近は高貴な方たちが競って口にしている。ああ世も末じゃと嘆いているのである。
これが12世紀の話だから800年後の今日ますます世も末現象が進み、カツオはマグロやアジと同様庶民の口からますます遠ざかりつつある。そのうち高級も大衆もつきまぜてあらゆる魚が世界の上ざまの人々の食卓で独占されるようになるだろう。
そんな世も末の鎌倉の海辺を歩いてみた。海の向こうに船が見えた。
鎌倉幕府の3代将軍実朝が渡宋を計画し、南宋の陳和卿に船を造ることを命じたのは建保4年1216年の11月だった。
陳和卿は12世紀の末に来日し勧進上人の重源と共に焼失した東大寺の再建に貢献した当代一流の総合技術者だったが鎌倉に下って実朝に信頼され、彼に政争相次ぐ日本を離れて大陸に逃走することをすすめた。
しかし巨費を投じて建造した巨船はあまりにも重くつくりすぎたのか数百人の人夫を水中で引かせてもいっかな動こうとせず、とうとう遠浅の海底にどっかりと座礁したままいたずらに朽ち果ててしまった。
この様子を描いた文芸作品には、太宰治の名作「右大臣実朝」や澁澤龍彦の「ダイダロス」(この2人は鎌倉に浅からぬ因縁を有している。太宰はたっぷりと腰越の海水を飲んだ)、それに吉本隆明の名著「源実朝」がある。
吉本がこの著作を書いているときに、突然思いついて夕方の鎌倉にやって来て頼朝の墓を捜し求める。けれども結果的に「一山ほど間違えて」黄昏の中で途方に暮れる個所は印象的だ。
似たようなことをしたことが私にもある。遠く若き日の直情径行振りはひたすら懐かしく、思い出の中で小さくまたたいているようだ。
鎌倉には幸いにも海がある。
鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師が
「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と書いている。
昔は下々の者も馬鹿にして食べなかったのに最近は高貴な方たちが競って口にしている。ああ世も末じゃと嘆いているのである。
これが12世紀の話だから800年後の今日ますます世も末現象が進み、カツオはマグロやアジと同様庶民の口からますます遠ざかりつつある。そのうち高級も大衆もつきまぜてあらゆる魚が世界の上ざまの人々の食卓で独占されるようになるだろう。
そんな世も末の鎌倉の海辺を歩いてみた。海の向こうに船が見えた。
鎌倉幕府の3代将軍実朝が渡宋を計画し、南宋の陳和卿に船を造ることを命じたのは建保4年1216年の11月だった。
陳和卿は12世紀の末に来日し勧進上人の重源と共に焼失した東大寺の再建に貢献した当代一流の総合技術者だったが鎌倉に下って実朝に信頼され、彼に政争相次ぐ日本を離れて大陸に逃走することをすすめた。
しかし巨費を投じて建造した巨船はあまりにも重くつくりすぎたのか数百人の人夫を水中で引かせてもいっかな動こうとせず、とうとう遠浅の海底にどっかりと座礁したままいたずらに朽ち果ててしまった。
この様子を描いた文芸作品には、太宰治の名作「右大臣実朝」や澁澤龍彦の「ダイダロス」(この2人は鎌倉に浅からぬ因縁を有している。太宰はたっぷりと腰越の海水を飲んだ)、それに吉本隆明の名著「源実朝」がある。
吉本がこの著作を書いているときに、突然思いついて夕方の鎌倉にやって来て頼朝の墓を捜し求める。けれども結果的に「一山ほど間違えて」黄昏の中で途方に暮れる個所は印象的だ。
似たようなことをしたことが私にもある。遠く若き日の直情径行振りはひたすら懐かしく、思い出の中で小さくまたたいているようだ。
Friday, June 08, 2007
富岡多恵子著「湖の南」を読む
降っても照っても第23回
明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。
本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡する。
そこでは維新後の明治が回想され、西南戦争で名誉の負傷をした津田のトラウマが指摘され、日露開戦前の両国の関係についてもあれやこれやの記述がだらだらと書き連ねられる。
これは大津事件の犯人の犯行の真相を追究するドキュメンタリーかと思ったら、突然著者につきまとう怪しい男からの手紙が紹介される。なんのことやらさっぱりわからぬ。
ドキュメンタリーだけでは読者が退屈しそうだから、私小説風の味付けをしてエンターテインしてもらおうという著者のサービス精神のあらわれであろうか?
著者は最近大津に引っ越したそうだ。買い物に行ったついでに「此附近露国皇太子遭難乃地」なる記念碑を見つけてこの散文を書きはじめたそうだ。かねがね大津事件と津田に関心があったというのだが、ほんとうだろうか?
もしこのテーマに関心があり、その本質に本気で切り込むつもりなら、絶対にこのような軟弱な文体といきあたりばったりな論法でこのテーマを扱うはずが無いと私は思う。
巻末には津田の書簡集やら大津事件日誌やら篠田鉱造の明治百話だの多くの参考文献が羅列されているから、著者が相当の時間と労力をかけてこれを完成?させたのだろうと推察し敬意は払うが、ほとんど見るべき成果があがっていない。
そもそもこの人は詩人ではないのか。私の考えでは詩人は最高位の文学者だから、軽々に散文に手を染めてはいけない。武士はくわねど高楊枝、で純乎たる詩藻が内部生命から湧き起こるまで静かに待機していなければならない。
いくら編集者が薦めたからといって、またいくら生活に困窮したからといって、こんなくだらない小説だか歴史物だかミステリーだかご当地ルポルタージュだか訳が分からぬ駄文書きに手を出すのは、卑しくも詩人ならけっして許されることではない。これはある種のぶんがくてきな腐敗と堕落のサンプルであろう。
私だってそれなりに忙しい。こんな無内容な作文を読まされるならエルガーの交響曲をバルビローリの演奏で聴いていたほうがよほど心身が清涼されたのに、ああもったいないことをした。
もう君には、ぶんがく関係は頼まない。私もそおゆう内的必然性がないのに、いきなり下着を脱いだり、文章を書いたりしないように注意しよう。
明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。
本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡する。
そこでは維新後の明治が回想され、西南戦争で名誉の負傷をした津田のトラウマが指摘され、日露開戦前の両国の関係についてもあれやこれやの記述がだらだらと書き連ねられる。
これは大津事件の犯人の犯行の真相を追究するドキュメンタリーかと思ったら、突然著者につきまとう怪しい男からの手紙が紹介される。なんのことやらさっぱりわからぬ。
ドキュメンタリーだけでは読者が退屈しそうだから、私小説風の味付けをしてエンターテインしてもらおうという著者のサービス精神のあらわれであろうか?
著者は最近大津に引っ越したそうだ。買い物に行ったついでに「此附近露国皇太子遭難乃地」なる記念碑を見つけてこの散文を書きはじめたそうだ。かねがね大津事件と津田に関心があったというのだが、ほんとうだろうか?
もしこのテーマに関心があり、その本質に本気で切り込むつもりなら、絶対にこのような軟弱な文体といきあたりばったりな論法でこのテーマを扱うはずが無いと私は思う。
巻末には津田の書簡集やら大津事件日誌やら篠田鉱造の明治百話だの多くの参考文献が羅列されているから、著者が相当の時間と労力をかけてこれを完成?させたのだろうと推察し敬意は払うが、ほとんど見るべき成果があがっていない。
そもそもこの人は詩人ではないのか。私の考えでは詩人は最高位の文学者だから、軽々に散文に手を染めてはいけない。武士はくわねど高楊枝、で純乎たる詩藻が内部生命から湧き起こるまで静かに待機していなければならない。
いくら編集者が薦めたからといって、またいくら生活に困窮したからといって、こんなくだらない小説だか歴史物だかミステリーだかご当地ルポルタージュだか訳が分からぬ駄文書きに手を出すのは、卑しくも詩人ならけっして許されることではない。これはある種のぶんがくてきな腐敗と堕落のサンプルであろう。
私だってそれなりに忙しい。こんな無内容な作文を読まされるならエルガーの交響曲をバルビローリの演奏で聴いていたほうがよほど心身が清涼されたのに、ああもったいないことをした。
もう君には、ぶんがく関係は頼まない。私もそおゆう内的必然性がないのに、いきなり下着を脱いだり、文章を書いたりしないように注意しよう。
Thursday, June 07, 2007
ある丹波の老人の話(26)
数奇な運命にもてあそばれ、しばしば逆境にさいなまれておった私ですが、いつもすくんでおったわけでもなく、たまには青年らしく私なりに熱い血を燃やして立ち上がったこともありました。
私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だんだん世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられるようになりました。
その頃選挙の取締りが過酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙されたとき、私は義憤に燃えて急先鋒となり、年長者で声望のある医師の吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らしたもんでした。
間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のような名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもんでした。
そのことが優先株の引き受けを容易にして郡是の危機を救うことになったのは思いがけない副産物でした。これが二日会の発端となり、この集まりはいまも続いて市民の健全かつ有力なる世論の基礎を作っておるわけです。
私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だんだん世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられるようになりました。
その頃選挙の取締りが過酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙されたとき、私は義憤に燃えて急先鋒となり、年長者で声望のある医師の吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らしたもんでした。
間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のような名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもんでした。
そのことが優先株の引き受けを容易にして郡是の危機を救うことになったのは思いがけない副産物でした。これが二日会の発端となり、この集まりはいまも続いて市民の健全かつ有力なる世論の基礎を作っておるわけです。
Wednesday, June 06, 2007
♪蟻地獄の歌
♪ある晴れた日に その9
何をする気もなくなって神社に行くと強い風が吹いていた。『風が立ち、波が騒ぎ、無限の前で腕を振る』というやつだ。
階段を上って神社の入り口の右側に直径1尺くらいの玉石がごろんと転がっていた。
こいつは文久二年に寺田屋騒動が起こったり、生麦で薩摩の武士が刀でイギリス人を切り殺したり、長州の高杉晋作が品川の英国公使館を襲撃したりしているときにも、やっぱりここでごろんと転がって青空を流れる白い雲を眺めていたのだ。無為にして化しておったのだ。
そうして年に一度の祭礼の宵には村の力持ちが。こやつを「えいやっ」と頭上高く捧げ持っては、「やんや、やんや」の喝采を浴びたりしていたのである。
私は今日は無慈悲な無神論者なので、家内安全、商売繁盛を願って神殿の前で二礼二拍一礼などする気は毛頭ない。
死んだら墓石の下にも潜らず、まして千の風にもなるつもりもない。その風に吹き飛ばされる灰塵になるつもりで神殿の縁の下をのぞいたら、あらめずらしや砂の漏斗を仕掛けた蟻地獄がひっそりとアリさんたちの到来を待ち構えていた。
私は昔幼い子供たちと一緒に、日がな一日哀れな蟻たちを凶悪無慈悲な蟻地獄の餌にくれてやったことがある。幾百のアリさんたちは、もううんともすんとも言わず、泣き声ひとつ立てずに、サソリそっくり形をした蟻地獄の餌食になって逆様の円錐の頂点めがけてズルズルと落下していくのだった。
これだから私なぞは今更どうあがいても天国には行けないだろうな。
またしてもすべてに退屈しはじめた私は、ひんやりした風が吹きぬける蟻地獄の谷に別れを告げ、神社の背後の崖にへばりつくようにしてひっそり咲きはじめた岩煙草のあえかな薄紫の花をしばらく眺めていた。
崖の上に高く聳える椎の若葉の上で、鮮やかな緋色の羽根を翻しながら2羽のゼフィルスが戯れていた。
蟻さんは左2番目の足から地獄落ち 芒洋
何をする気もなくなって神社に行くと強い風が吹いていた。『風が立ち、波が騒ぎ、無限の前で腕を振る』というやつだ。
階段を上って神社の入り口の右側に直径1尺くらいの玉石がごろんと転がっていた。
こいつは文久二年に寺田屋騒動が起こったり、生麦で薩摩の武士が刀でイギリス人を切り殺したり、長州の高杉晋作が品川の英国公使館を襲撃したりしているときにも、やっぱりここでごろんと転がって青空を流れる白い雲を眺めていたのだ。無為にして化しておったのだ。
そうして年に一度の祭礼の宵には村の力持ちが。こやつを「えいやっ」と頭上高く捧げ持っては、「やんや、やんや」の喝采を浴びたりしていたのである。
私は今日は無慈悲な無神論者なので、家内安全、商売繁盛を願って神殿の前で二礼二拍一礼などする気は毛頭ない。
死んだら墓石の下にも潜らず、まして千の風にもなるつもりもない。その風に吹き飛ばされる灰塵になるつもりで神殿の縁の下をのぞいたら、あらめずらしや砂の漏斗を仕掛けた蟻地獄がひっそりとアリさんたちの到来を待ち構えていた。
私は昔幼い子供たちと一緒に、日がな一日哀れな蟻たちを凶悪無慈悲な蟻地獄の餌にくれてやったことがある。幾百のアリさんたちは、もううんともすんとも言わず、泣き声ひとつ立てずに、サソリそっくり形をした蟻地獄の餌食になって逆様の円錐の頂点めがけてズルズルと落下していくのだった。
これだから私なぞは今更どうあがいても天国には行けないだろうな。
またしてもすべてに退屈しはじめた私は、ひんやりした風が吹きぬける蟻地獄の谷に別れを告げ、神社の背後の崖にへばりつくようにしてひっそり咲きはじめた岩煙草のあえかな薄紫の花をしばらく眺めていた。
崖の上に高く聳える椎の若葉の上で、鮮やかな緋色の羽根を翻しながら2羽のゼフィルスが戯れていた。
蟻さんは左2番目の足から地獄落ち 芒洋
Tuesday, June 05, 2007
レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「大聖堂」を読む
降っても照っても第22回
アルコール依存症を辛うじて脱し、好伴侶テス・ギャラガーを得て創作に勤しむカーヴァーが書き上げた短編小説の傑作の森が本作である。
いずれもいわゆる珠玉のような完成度を誇るが村上氏が評価しているように「ささやかだけど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂」の出来栄えは見事である。
「大聖堂」は妻の友人である盲人に対してはじめは冷淡だった主人公が手に手を取って大聖堂の絵を描きあげるなかで障碍者の実体を文字通り体験する感動の物語だが、導入部の冷淡さと結末の高揚の対比が少しあざといのが瑕瑾といえば瑕瑾か。
「ささやかだけど、役に立つこと」においても、最後のパン屋の告白が唐突に過ぎるように感じられる。
それに比べると「ぼくが電話をかけている場所」はJPの語りが素晴らしい。
この語りの中で私は「荒野の呼び声」のジャック・ロンドンがこの小説の舞台となった療養所に近い谷間の土地でアル中で窮死したことを知った。
どうもアル中はアル中を呼ぶらしい。
アルコール依存症を辛うじて脱し、好伴侶テス・ギャラガーを得て創作に勤しむカーヴァーが書き上げた短編小説の傑作の森が本作である。
いずれもいわゆる珠玉のような完成度を誇るが村上氏が評価しているように「ささやかだけど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂」の出来栄えは見事である。
「大聖堂」は妻の友人である盲人に対してはじめは冷淡だった主人公が手に手を取って大聖堂の絵を描きあげるなかで障碍者の実体を文字通り体験する感動の物語だが、導入部の冷淡さと結末の高揚の対比が少しあざといのが瑕瑾といえば瑕瑾か。
「ささやかだけど、役に立つこと」においても、最後のパン屋の告白が唐突に過ぎるように感じられる。
それに比べると「ぼくが電話をかけている場所」はJPの語りが素晴らしい。
この語りの中で私は「荒野の呼び声」のジャック・ロンドンがこの小説の舞台となった療養所に近い谷間の土地でアル中で窮死したことを知った。
どうもアル中はアル中を呼ぶらしい。
Monday, June 04, 2007
小さな橋の上で
♪バガテルop21
こんばんは。
こんばんは、今夜はどうですか?
ほら、いま飛んでるでしょ、水のうえを。
ほんとだ。木の上にも別の奴がいますね。
ほんと、さっきから見てるんだけど今日は少ないわね。7、8匹でる時もあるのよ。
ここら辺のホタルは6月初旬から中旬にかけての約2週間がピークで、晴れた日の午後7半から8時過ぎくらいしか見ることはできません。しかもそんなゴールデンタイムでも風があるとあまり出ないんです。ホタルってとってもデリケートな生き物なんです。今日は温かいけどちょっと風があるからまあこんなもんでしょう。
あっちの桜並木のほうはどうなの?
いやあ、あそこはもうだめ。先月県の土木事務所がブルドーザで川床を浚ったから
ホタルの幼虫のカワニナが全滅してしまいました。
まあ、かわいそうに。なんてことするのかしら。ちっとも知らなかったわ。
あいつらはてんで情緒を解さず、土木のことしか考えてないんです。たまたま年次予算が余っていたから滑川の川浚いでもするべえ、ってんでブルを発動させたんですね。あわてて止めたんだけどもう遅かった。あの桜並木の辺では、数年前の最盛期にはものすごい数で乱舞していたんですけどねえ。お役所は勝手に大掃除するし、町内会はやれ痴漢が出るの、防犯対策だのといって巨大な照明塔を設置したもんだから、ホタルがびびっちゃってもう二度とでてきやしませんよ。やつらには風雅の心ってもんが分かってないんだ。パチパチネオンサインをぶっこわして全員谷崎の陰影礼賛を読むべきなんだ。
あのう、そんなことより、光ってるのはオスなんですか?
いやメスも光ります。ただ雌雄それぞれの光る間隔が違うのでそれでお互いに相手を認知してコミュニーションを取り合ってるんです。ほーら、あっちのオスがこっちのメスを追っかけてるでしょ。
あーら、ほんとだ。いやらしい。あなたホタルに詳しいようだけど昆虫研究家? それともセックス方面の専門家なの? 確か昨夜もお見受けしましたよね。
いやいや、ただの通りすがりのもんです。奥さんこそ毎晩ご精勤じゃないですか?
あら、ずいぶんね。私のことをそんな風に思ってらっしゃるの?
とかなんとか、ホラル飛ぶ橋の上の夏の夜はけふも楽しく更けていくのでした。
ホタル二つ四つに砕け水の上 芒洋
こんばんは。
こんばんは、今夜はどうですか?
ほら、いま飛んでるでしょ、水のうえを。
ほんとだ。木の上にも別の奴がいますね。
ほんと、さっきから見てるんだけど今日は少ないわね。7、8匹でる時もあるのよ。
ここら辺のホタルは6月初旬から中旬にかけての約2週間がピークで、晴れた日の午後7半から8時過ぎくらいしか見ることはできません。しかもそんなゴールデンタイムでも風があるとあまり出ないんです。ホタルってとってもデリケートな生き物なんです。今日は温かいけどちょっと風があるからまあこんなもんでしょう。
あっちの桜並木のほうはどうなの?
いやあ、あそこはもうだめ。先月県の土木事務所がブルドーザで川床を浚ったから
ホタルの幼虫のカワニナが全滅してしまいました。
まあ、かわいそうに。なんてことするのかしら。ちっとも知らなかったわ。
あいつらはてんで情緒を解さず、土木のことしか考えてないんです。たまたま年次予算が余っていたから滑川の川浚いでもするべえ、ってんでブルを発動させたんですね。あわてて止めたんだけどもう遅かった。あの桜並木の辺では、数年前の最盛期にはものすごい数で乱舞していたんですけどねえ。お役所は勝手に大掃除するし、町内会はやれ痴漢が出るの、防犯対策だのといって巨大な照明塔を設置したもんだから、ホタルがびびっちゃってもう二度とでてきやしませんよ。やつらには風雅の心ってもんが分かってないんだ。パチパチネオンサインをぶっこわして全員谷崎の陰影礼賛を読むべきなんだ。
あのう、そんなことより、光ってるのはオスなんですか?
いやメスも光ります。ただ雌雄それぞれの光る間隔が違うのでそれでお互いに相手を認知してコミュニーションを取り合ってるんです。ほーら、あっちのオスがこっちのメスを追っかけてるでしょ。
あーら、ほんとだ。いやらしい。あなたホタルに詳しいようだけど昆虫研究家? それともセックス方面の専門家なの? 確か昨夜もお見受けしましたよね。
いやいや、ただの通りすがりのもんです。奥さんこそ毎晩ご精勤じゃないですか?
あら、ずいぶんね。私のことをそんな風に思ってらっしゃるの?
とかなんとか、ホラル飛ぶ橋の上の夏の夜はけふも楽しく更けていくのでした。
ホタル二つ四つに砕け水の上 芒洋
ある丹波の老人の話(25)
それから波多野翁は、若い私に向かって、“積極と消極”ということについて語られました。当時この用語はまだ一般世間では珍しかったんですが、翁はこの当時流行の新語にことよせて私に処世の要諦を説かれました。
翁は“積極”については、自分に確信があったら冒険と思われるようなことでも勇気を奮ってドンドンやれ、とおっしゃいました。
この時私が持っておった78株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が混じっていた程度だったんですが、私には「郡是はつぶれない。きっと良くなる」という確信と、財力にも多少の余裕が生まれておった関係から、翁のその言葉に励まされ、引き続き優先株買いに狂奔することができました。
そのためにはずいぶん剣の刃を渡るような冒険もやったもんでした。
思えば津山の武蔵野旅館に泊まったときも、最初は100円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えのときに旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のどてらにコロコリしたちりめんの兵児帯、そこへさらに私が脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯でした。
それを女中がていねいにたたんで衣装箱に納めるときには思わず冷や汗が出ました。
そんなことから偽装札束のトリックがばれやせんかと毎日気が気ではありまへん。時々金庫から偽装札束を出してもらって、その見た目を大きくしたり小さくしたりして、また預け入れたもんでした。
実際に金のやり繰りには格別苦心をしたもんで店で使っていた二,三人の若者を津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他の金策を機敏にやらせたものですから、“丹波紀文”はついに化けの皮を現さずに最後の最後までやりおおせて、まずは存分にもうけたもんでした。
それもこれも若さのさせたことでしたが、一は私の波多野びいき、郡是びいきのなせる業でした。それにしても波多野翁の積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこのときも何かが私に乗り移っておったような気がいたします。
翁は“積極”については、自分に確信があったら冒険と思われるようなことでも勇気を奮ってドンドンやれ、とおっしゃいました。
この時私が持っておった78株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が混じっていた程度だったんですが、私には「郡是はつぶれない。きっと良くなる」という確信と、財力にも多少の余裕が生まれておった関係から、翁のその言葉に励まされ、引き続き優先株買いに狂奔することができました。
そのためにはずいぶん剣の刃を渡るような冒険もやったもんでした。
思えば津山の武蔵野旅館に泊まったときも、最初は100円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えのときに旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のどてらにコロコリしたちりめんの兵児帯、そこへさらに私が脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯でした。
それを女中がていねいにたたんで衣装箱に納めるときには思わず冷や汗が出ました。
そんなことから偽装札束のトリックがばれやせんかと毎日気が気ではありまへん。時々金庫から偽装札束を出してもらって、その見た目を大きくしたり小さくしたりして、また預け入れたもんでした。
実際に金のやり繰りには格別苦心をしたもんで店で使っていた二,三人の若者を津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他の金策を機敏にやらせたものですから、“丹波紀文”はついに化けの皮を現さずに最後の最後までやりおおせて、まずは存分にもうけたもんでした。
それもこれも若さのさせたことでしたが、一は私の波多野びいき、郡是びいきのなせる業でした。それにしても波多野翁の積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこのときも何かが私に乗り移っておったような気がいたします。
Saturday, June 02, 2007
レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「愛について語るときに我々の語ること」を読む
降っても照っても第20回
男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。
本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。
とりわけ表題作は生を串刺しにするような痛々しい鋭さが印象的だ。
二組の夫婦、四人の男女の愛の形が次第に浮き彫りにされ、それぞれが現在問題なく享受しているはずの愛の居場所がじつは虚構のものであることにいやおう無く気付かされていく。
しかし私がいちばん好きなのは、加洲クレセント・シティの散髪屋での些細な出来事を描いた「静けさ」という1篇である。
ここには泣きたくなるような人生への哀切な手触りが確かに存在している。
それにしてもレイモンド・カーヴァーの小説にはどうしてこれほど多くの飲酒のシーンが出てくるのであろう。
彼は酒を浴びるほど飲むそのわずかな合間に小説を書いていたに違いない。
しかし全編アルコールまみれ、全身アルコールまみれのやけっぱちの苦界からカーヴァーは奇跡的に帰還した。そして珠玉の名品を我々に残してくれた。
アルコールといえば、私は04年の5月、神戸の北野坂でたった1口のビールを干した途端に意識を失った。あのとき確かに私も全身に毒が回っていたのだ。
人間はいつ死ぬものか知れたものではない。兼好法師が語るようにそれは突然背後から襲い掛かるのである。
あれから3年が経った。けふも窓際でうるさいほど鳴く鶯の声を耳にし、昨夜は闇に飛ぶヘイケボタルの小さな輝きを今年初めて目にすることができたこの喜びを、改めて天に感謝せずにはいられない。
男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。
本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。
とりわけ表題作は生を串刺しにするような痛々しい鋭さが印象的だ。
二組の夫婦、四人の男女の愛の形が次第に浮き彫りにされ、それぞれが現在問題なく享受しているはずの愛の居場所がじつは虚構のものであることにいやおう無く気付かされていく。
しかし私がいちばん好きなのは、加洲クレセント・シティの散髪屋での些細な出来事を描いた「静けさ」という1篇である。
ここには泣きたくなるような人生への哀切な手触りが確かに存在している。
それにしてもレイモンド・カーヴァーの小説にはどうしてこれほど多くの飲酒のシーンが出てくるのであろう。
彼は酒を浴びるほど飲むそのわずかな合間に小説を書いていたに違いない。
しかし全編アルコールまみれ、全身アルコールまみれのやけっぱちの苦界からカーヴァーは奇跡的に帰還した。そして珠玉の名品を我々に残してくれた。
アルコールといえば、私は04年の5月、神戸の北野坂でたった1口のビールを干した途端に意識を失った。あのとき確かに私も全身に毒が回っていたのだ。
人間はいつ死ぬものか知れたものではない。兼好法師が語るようにそれは突然背後から襲い掛かるのである。
あれから3年が経った。けふも窓際でうるさいほど鳴く鶯の声を耳にし、昨夜は闇に飛ぶヘイケボタルの小さな輝きを今年初めて目にすることができたこの喜びを、改めて天に感謝せずにはいられない。
Friday, June 01, 2007
小西さんと吉本さん
降っても照っても第19回
小西甚一さんが91歳で逝去された。91年に刊行された彼の「日本文藝史」はドナルド・キーンの大著「日本文学史(のちに改訂新版「日本文学の歴史」)に対抗して書かれた規模雄大な大著だが、細部はキーンのがほうがおもしろい。されど私は文学史は小西甚一の「日本文藝史」、文学論は漱石の「文学論」、この2冊があればあとは要りません。
さようなら小西さん、あなたから受けた学恩に感謝します。
もうひとり昔からお世話になってきた吉本隆明さんの「真贋」を読んだ。行き悩んだおりおりにいちばん聞きたい声のひとつが常に彼であったが、いまやその声音のなんと力弱く曖昧模糊としたものになったことよ。
子供は乳幼児期から前思春期までの母親との関係が絶対的に重要で、母と引き離されたから三島由紀夫の不幸は運命付けられていたという話や、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になりがちだという指摘、「業縁」があれば一人も殺せないと思っている人でも千人殺すこともある。「だから悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違いだ」という話などは、なるほどと思った。
また「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが俺だけにしか分からないと読者に思わせる作品です」というのも、素直にうなずける指摘である。
しかし「戦争に良いも悪いもなく、すべての戦争が悪である」と彼が断言しても、その戦争を無くすための具体的な提言は聞かれない。さらには「まずはどうでもよさそうなことから考えてみる」というのだが、それはどういう意味なのだろうか。「これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない」などと頼りないことを言われると、こっちも不安に駆られる。
氏は例によって例のごとく、「天皇は神主の親玉であり、神社に露天が並び、我々が神社のお祭りで金魚すくいをしにゆく気持ちがある限りは天皇制はなくならない」などというが、起源を見ればものの本質が分かるというお得意の逆説的で一面的な言説を、あたかも最終結論のように語っていいのだろうか。
思えば彼は昔からマルクスや小林秀雄張りのそういう“本質還元的な詔”をさしたる根拠も証明もなく渙発し、それで複雑怪奇な現象が解決できなくなると重層的非決定?などという屁理屈を発明して遁辞してきたのではなかっただろうか?
彼にあっては、欧米が先進的で我々がアジア型農本主義的であるから、そのうち我ら貧民もいずれの日にか成熟するだろう、というような維新以来の脱亜入欧風のアプリオリな論理が、このごに及んでもまだ鉈や斧のように振り回されている。
そして最後の言葉は以下のごとし。
「もしかすると人類はだめになる危険があります。よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。ひとつはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは確かなのです。人間というのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれません。いま行き着くところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要があるのではないかと思うのです」
私たちはもう既に十分すぎるほど十分に善も悪もやり尽くしてきたと思うのだが、この人はいったい何を寝言を言っているのだろう? これでは武者小路実篤ではないのか? 彼はかの明敏な前著「詩学叙説」を書いた人と同一人物なのだろうか?
でも私はこの“思想界の巨人”に対して「主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価」につながるような態度を示したいわけではない。
ただ、かつては空高く仰ぎ見た孤峰が、今では近所の里山のように映るこの私の目が、我ながら信じられないだけの話である。
小西甚一さんが91歳で逝去された。91年に刊行された彼の「日本文藝史」はドナルド・キーンの大著「日本文学史(のちに改訂新版「日本文学の歴史」)に対抗して書かれた規模雄大な大著だが、細部はキーンのがほうがおもしろい。されど私は文学史は小西甚一の「日本文藝史」、文学論は漱石の「文学論」、この2冊があればあとは要りません。
さようなら小西さん、あなたから受けた学恩に感謝します。
もうひとり昔からお世話になってきた吉本隆明さんの「真贋」を読んだ。行き悩んだおりおりにいちばん聞きたい声のひとつが常に彼であったが、いまやその声音のなんと力弱く曖昧模糊としたものになったことよ。
子供は乳幼児期から前思春期までの母親との関係が絶対的に重要で、母と引き離されたから三島由紀夫の不幸は運命付けられていたという話や、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になりがちだという指摘、「業縁」があれば一人も殺せないと思っている人でも千人殺すこともある。「だから悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違いだ」という話などは、なるほどと思った。
また「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが俺だけにしか分からないと読者に思わせる作品です」というのも、素直にうなずける指摘である。
しかし「戦争に良いも悪いもなく、すべての戦争が悪である」と彼が断言しても、その戦争を無くすための具体的な提言は聞かれない。さらには「まずはどうでもよさそうなことから考えてみる」というのだが、それはどういう意味なのだろうか。「これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない」などと頼りないことを言われると、こっちも不安に駆られる。
氏は例によって例のごとく、「天皇は神主の親玉であり、神社に露天が並び、我々が神社のお祭りで金魚すくいをしにゆく気持ちがある限りは天皇制はなくならない」などというが、起源を見ればものの本質が分かるというお得意の逆説的で一面的な言説を、あたかも最終結論のように語っていいのだろうか。
思えば彼は昔からマルクスや小林秀雄張りのそういう“本質還元的な詔”をさしたる根拠も証明もなく渙発し、それで複雑怪奇な現象が解決できなくなると重層的非決定?などという屁理屈を発明して遁辞してきたのではなかっただろうか?
彼にあっては、欧米が先進的で我々がアジア型農本主義的であるから、そのうち我ら貧民もいずれの日にか成熟するだろう、というような維新以来の脱亜入欧風のアプリオリな論理が、このごに及んでもまだ鉈や斧のように振り回されている。
そして最後の言葉は以下のごとし。
「もしかすると人類はだめになる危険があります。よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。ひとつはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは確かなのです。人間というのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれません。いま行き着くところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要があるのではないかと思うのです」
私たちはもう既に十分すぎるほど十分に善も悪もやり尽くしてきたと思うのだが、この人はいったい何を寝言を言っているのだろう? これでは武者小路実篤ではないのか? 彼はかの明敏な前著「詩学叙説」を書いた人と同一人物なのだろうか?
でも私はこの“思想界の巨人”に対して「主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価」につながるような態度を示したいわけではない。
ただ、かつては空高く仰ぎ見た孤峰が、今では近所の里山のように映るこの私の目が、我ながら信じられないだけの話である。
Thursday, May 31, 2007
宮城谷昌光著「風は山河より第5巻」を読む
降っても照っても第19回
信長が激賞し、家康に恃まれ、信玄が欲しがった防守の名将菅沼新八郎の戦いを描く一大歴史小説がこれにて終った。
知られざる三河の戦国期をはじめて教えてくれた著者には感謝するが、これこそ竜頭蛇尾小説の典型だろう。
所詮この主人公は歴史小説の脇役に過ぎず、贔屓の引き倒しの感あり。
叙述は展開部の快速調はどこへやら、最終巻にいたって気息奄奄、失速墜落炎上の巻。
おもしろうてやがてかなしき声色屋
信長が激賞し、家康に恃まれ、信玄が欲しがった防守の名将菅沼新八郎の戦いを描く一大歴史小説がこれにて終った。
知られざる三河の戦国期をはじめて教えてくれた著者には感謝するが、これこそ竜頭蛇尾小説の典型だろう。
所詮この主人公は歴史小説の脇役に過ぎず、贔屓の引き倒しの感あり。
叙述は展開部の快速調はどこへやら、最終巻にいたって気息奄奄、失速墜落炎上の巻。
おもしろうてやがてかなしき声色屋
Wednesday, May 30, 2007
続 心に残った言葉
♪バガテル op20
乙羽さんとは「愛妻物語」で出会い、「原爆の子」で同志となり、男女の関係を結んだ。
この時わたしには妻子があり、乙羽さんは一生日陰の人でいいから、と全身を投げ出してきた。わたしは善良な妻を裏切ることに苦しみながら、これをうけた。乙羽さんが最初の妻、久慈孝子にそっくりだったからだ。
乙羽信子とは27年間男女の関係を続け、妻と離婚して、4年後その妻が亡くなり、その翌年結婚した。結婚生活は17年続いた。
去年、乙羽信子の13回忌を行った。
ここに乙羽さんがいるはずはないが、墓の前に佇むと、センセイ、と呼びかけてきそうな気がするのだ。
わたしは宗教を信仰していない。したがって霊というものも信じていない。しかし何処からか、センセイ、と呼ばれそうな気がするのが、わたしの宗教かもしれない。
乙羽信子の骨は、半分を墓の中に入れて、半分は「裸の島」の舞台となった宿祢島の海に撒いた。
乙羽信子の作品はどれもこれも忘れられないが、とくに「裸の島」は深く心の中にある。
肥桶を担いでください、と言うと何の躊躇もなく乙羽信子は「はい」と言った。
その担げもしない重い物を、乙羽信子は担いで坂道を上がって行ったのだ。
人は死んでしまうが、死なない人もいるのだ。
新藤兼人「私の履歴書」日本経済新聞
乙羽さんとは「愛妻物語」で出会い、「原爆の子」で同志となり、男女の関係を結んだ。
この時わたしには妻子があり、乙羽さんは一生日陰の人でいいから、と全身を投げ出してきた。わたしは善良な妻を裏切ることに苦しみながら、これをうけた。乙羽さんが最初の妻、久慈孝子にそっくりだったからだ。
乙羽信子とは27年間男女の関係を続け、妻と離婚して、4年後その妻が亡くなり、その翌年結婚した。結婚生活は17年続いた。
去年、乙羽信子の13回忌を行った。
ここに乙羽さんがいるはずはないが、墓の前に佇むと、センセイ、と呼びかけてきそうな気がするのだ。
わたしは宗教を信仰していない。したがって霊というものも信じていない。しかし何処からか、センセイ、と呼ばれそうな気がするのが、わたしの宗教かもしれない。
乙羽信子の骨は、半分を墓の中に入れて、半分は「裸の島」の舞台となった宿祢島の海に撒いた。
乙羽信子の作品はどれもこれも忘れられないが、とくに「裸の島」は深く心の中にある。
肥桶を担いでください、と言うと何の躊躇もなく乙羽信子は「はい」と言った。
その担げもしない重い物を、乙羽信子は担いで坂道を上がって行ったのだ。
人は死んでしまうが、死なない人もいるのだ。
新藤兼人「私の履歴書」日本経済新聞
Tuesday, May 29, 2007
心に残った言葉
♪バガテル op19
宿祢島へ登る稲妻型の道は百五十メートルもあった。
この坂道を乙羽信子と殿山泰司は水をいっぱいに入れた肥桶を担いで毎日登ったのである。乙羽さんの肩は三度皮が剥けた。
乾いた土へ水を注ぐ。たちまち土は水を吸い込む。果てしなく水を注ぐ。
乾いた土とはわたしたちの心である。心に水をかけるのだ。水はわたしたちの心の水である。
モスクワ出発前にこの映画(裸の島)を岡本太郎に見せたところ、ラストに「しかも彼等は生きて行く」という字幕があるのを見て、こんなものを入れてはただのリアリズムだと言われ、即座にこのタイトルを取り除いた。
「裸の島」はただのリアリズムではないのだ。
新藤兼人「私の履歴書」日本経済新聞
小説は、何をどのように書いてもよい、ただ美しくなければいけない、というのが大庭(みな子)さんのよく口にする言葉だった。
その、美しい、という語に独特の強い響きがあった。
大庭さんの生は美しかった、とお別れの言葉をおくりたい。
黒井 千次 日本経済新聞
宿祢島へ登る稲妻型の道は百五十メートルもあった。
この坂道を乙羽信子と殿山泰司は水をいっぱいに入れた肥桶を担いで毎日登ったのである。乙羽さんの肩は三度皮が剥けた。
乾いた土へ水を注ぐ。たちまち土は水を吸い込む。果てしなく水を注ぐ。
乾いた土とはわたしたちの心である。心に水をかけるのだ。水はわたしたちの心の水である。
モスクワ出発前にこの映画(裸の島)を岡本太郎に見せたところ、ラストに「しかも彼等は生きて行く」という字幕があるのを見て、こんなものを入れてはただのリアリズムだと言われ、即座にこのタイトルを取り除いた。
「裸の島」はただのリアリズムではないのだ。
新藤兼人「私の履歴書」日本経済新聞
小説は、何をどのように書いてもよい、ただ美しくなければいけない、というのが大庭(みな子)さんのよく口にする言葉だった。
その、美しい、という語に独特の強い響きがあった。
大庭さんの生は美しかった、とお別れの言葉をおくりたい。
黒井 千次 日本経済新聞
Monday, May 28, 2007
ある丹波の老人の話(24)
第四話 株が当たった話その5
郡是は翌大正5年には100万円近い大もうけをして一挙に頽勢を挽回し、5月には優先株を抹消して資本金が200万円となり、将来の大飛躍が約束されて株価はグングン上がりました。
これはまったく波多野さんの手腕と徳望のしからしむるところ、私の予想はぴたり的中したわけです。
大正5年3月の郡是株主名簿を見ると、3千余の株主中私は第25位の大株主になっておりました。
といっても私の持ち株はわずか78でしたが、このときの郡是はまだ何鹿郡以外には進出していない時期でして、私以上の24人の株主といえば、波多野さんをはじめ羽室家一党の人々、地方の素封家ぞろいです。
私などとは提灯と吊り鐘、月とスッポンの違いでした。
昨日まで借金取りに悩まされて日本一の貧乏人と思っておった身で、いったいこんなことでよいのだろうか? と私は迷いに迷い、波多野さんのところにお礼かたがた相談に行ったんでした。
すると波多野翁は、ありあわせの紙に「宥座の器」の絵をお描きになりました。
「宥座の器」というのは荀子の「宥座篇」に出ておりますが、魯の国の恒公の廟にあるもので、孔子がこれについて教えを垂れております。しかし波多野翁はおそらくその愛読書の「二宮翁夜話」に出ている記事からこの教えを述べられたんではないかと思っとります。
波多野さんは、私にこうおっしゃいました。
、
「この器は平生は傾いておる。水を注いで半ばに達すれば正しくまっすぐになる。しかしあおも注いで一杯にすれば覆ってしまう。君も自分の財産との釣り合いを考えてほどほどに株をもっとればよろしい。私などはしょうことなしに今度はぎょうさんの株をもたされて払い込みの準備などあるわけでなく、まったくこまっておる。君もいつ払い込みがあっても構わぬ程度の株をもっとるのでなくてはいけない」
郡是は翌大正5年には100万円近い大もうけをして一挙に頽勢を挽回し、5月には優先株を抹消して資本金が200万円となり、将来の大飛躍が約束されて株価はグングン上がりました。
これはまったく波多野さんの手腕と徳望のしからしむるところ、私の予想はぴたり的中したわけです。
大正5年3月の郡是株主名簿を見ると、3千余の株主中私は第25位の大株主になっておりました。
といっても私の持ち株はわずか78でしたが、このときの郡是はまだ何鹿郡以外には進出していない時期でして、私以上の24人の株主といえば、波多野さんをはじめ羽室家一党の人々、地方の素封家ぞろいです。
私などとは提灯と吊り鐘、月とスッポンの違いでした。
昨日まで借金取りに悩まされて日本一の貧乏人と思っておった身で、いったいこんなことでよいのだろうか? と私は迷いに迷い、波多野さんのところにお礼かたがた相談に行ったんでした。
すると波多野翁は、ありあわせの紙に「宥座の器」の絵をお描きになりました。
「宥座の器」というのは荀子の「宥座篇」に出ておりますが、魯の国の恒公の廟にあるもので、孔子がこれについて教えを垂れております。しかし波多野翁はおそらくその愛読書の「二宮翁夜話」に出ている記事からこの教えを述べられたんではないかと思っとります。
波多野さんは、私にこうおっしゃいました。
、
「この器は平生は傾いておる。水を注いで半ばに達すれば正しくまっすぐになる。しかしあおも注いで一杯にすれば覆ってしまう。君も自分の財産との釣り合いを考えてほどほどに株をもっとればよろしい。私などはしょうことなしに今度はぎょうさんの株をもたされて払い込みの準備などあるわけでなく、まったくこまっておる。君もいつ払い込みがあっても構わぬ程度の株をもっとるのでなくてはいけない」
Sunday, May 27, 2007
宮城谷昌光著「風は山河より第4巻」を読む
降っても照っても第18回
織田信長は桶狭間の奇襲で今川義元を屠った。
しかし義元の後を継いだ氏真の手で愛妻を惨殺された菅沼新八郎は暗愚残虐な今川を見限って源氏新田家の末裔である「得川」家康の陣につく。
掛川城に籠った氏真を東からは家康が、北からは武田信玄が衝くがそのとき武田を北条氏が圧迫したため信玄は身動きできなくなる。
その間に家康は行政手段を駆使して氏真と和議を結び、その結果小田原に退いた今川家はここに亡ぶことになるのである。
宮城谷版三河、遠江、尾張三国志はいよいよ最終巻へ。じゃんじゃあん!
織田信長は桶狭間の奇襲で今川義元を屠った。
しかし義元の後を継いだ氏真の手で愛妻を惨殺された菅沼新八郎は暗愚残虐な今川を見限って源氏新田家の末裔である「得川」家康の陣につく。
掛川城に籠った氏真を東からは家康が、北からは武田信玄が衝くがそのとき武田を北条氏が圧迫したため信玄は身動きできなくなる。
その間に家康は行政手段を駆使して氏真と和議を結び、その結果小田原に退いた今川家はここに亡ぶことになるのである。
宮城谷版三河、遠江、尾張三国志はいよいよ最終巻へ。じゃんじゃあん!
Saturday, May 26, 2007
♪内田光子のモーツアルトの20番
♪音楽千夜一夜第22回
去年の大晦日にベルリンで行われたシルベスターコンサートのヴィデオを今頃になってようやく見た。
ベルリンフィルのシェフがアバドの頃は年に一度のこの演奏をテレビで見るのを楽しみにしていたが、ラトルになってからは初めてである。アバドについて悪口を言う人も多いが、私が嫌いな小澤よりは遥かに優れた指揮者だし、少なくともサイモン坊やに比べたらよほどまともな棒振りである。大患後の最近のルツエルンでの活躍がそれを証明している。
06年12月31日夜の演奏曲目はシュトラウスの「ドンファン」とモーツアルトのピアノ協奏曲20番と同じシュトラウスの「薔薇の騎士」最終幕の大詰めの抜粋(もちろん演奏会形式による)である。
ドンファンは思った以上に凡庸な演奏だし、薔薇の騎士もカラヤンやクライバーの足元にも及ばぬ、味の薄い、とってつけたような演奏だったが、圧巻は内田光子のモーツアルトの演奏だった。彼女がジェフリーテートの指揮でピアノコンチエルトの主要曲を録音したのは聞いていたが、このライブは素晴らしいききものであった。
当夜の内田光子は、見た目も、その内面も、おどろおどろしい女夜叉そのものであった。
序奏が開始されるやいなやピアノのうえで激しく身をよじりながらリズムを刻み、自分のテンポを取る。そしてその激烈なパッションと異様な光を放つ目の輝きと豹のようなすばやい身のこなしでベルリンフィルの面々の耳目をひきつけ、管弦楽の伴奏のイニシアチブをあっという間にラトル坊やから奪ってしまった。
そうしてそのあとは、さながらモーツアルトの再来、音楽の卑弥呼女王と化した光子女帝の生きるか死ぬか、獅子奮迅の真剣勝負のバトルが繰り広げられたのである。
とりわけ第2楽章のはじまりは、満員の聴衆が息をのむような繊細さで、録画録音とはいえ思わず涙腺が緩むのを覚えるほどの素晴らしさであった。
美しくもまた恐ろしい夜叉は、ラトルの頭越しにオーボエ奏者を召還し、甘美な愛の対話を繰り返しながらあほばかラトルが無神経に鳴らそうとする弦を、その女神アテナイの如き黄金の光る目で射すくめ、最弱音に押さえつけるのだった。
このようにしてモーツアルト・イヤー掉尾を飾る劇性を秘めた小さなオペラの演奏が終ったが、私は当代最高のモーツアルト弾きの演奏の切れ味の鋭さに圧倒されながらも、かのクララ・ハスキルの優美なモーツアルト演奏を懐かしく思い出していたことだった。
去年の大晦日にベルリンで行われたシルベスターコンサートのヴィデオを今頃になってようやく見た。
ベルリンフィルのシェフがアバドの頃は年に一度のこの演奏をテレビで見るのを楽しみにしていたが、ラトルになってからは初めてである。アバドについて悪口を言う人も多いが、私が嫌いな小澤よりは遥かに優れた指揮者だし、少なくともサイモン坊やに比べたらよほどまともな棒振りである。大患後の最近のルツエルンでの活躍がそれを証明している。
06年12月31日夜の演奏曲目はシュトラウスの「ドンファン」とモーツアルトのピアノ協奏曲20番と同じシュトラウスの「薔薇の騎士」最終幕の大詰めの抜粋(もちろん演奏会形式による)である。
ドンファンは思った以上に凡庸な演奏だし、薔薇の騎士もカラヤンやクライバーの足元にも及ばぬ、味の薄い、とってつけたような演奏だったが、圧巻は内田光子のモーツアルトの演奏だった。彼女がジェフリーテートの指揮でピアノコンチエルトの主要曲を録音したのは聞いていたが、このライブは素晴らしいききものであった。
当夜の内田光子は、見た目も、その内面も、おどろおどろしい女夜叉そのものであった。
序奏が開始されるやいなやピアノのうえで激しく身をよじりながらリズムを刻み、自分のテンポを取る。そしてその激烈なパッションと異様な光を放つ目の輝きと豹のようなすばやい身のこなしでベルリンフィルの面々の耳目をひきつけ、管弦楽の伴奏のイニシアチブをあっという間にラトル坊やから奪ってしまった。
そうしてそのあとは、さながらモーツアルトの再来、音楽の卑弥呼女王と化した光子女帝の生きるか死ぬか、獅子奮迅の真剣勝負のバトルが繰り広げられたのである。
とりわけ第2楽章のはじまりは、満員の聴衆が息をのむような繊細さで、録画録音とはいえ思わず涙腺が緩むのを覚えるほどの素晴らしさであった。
美しくもまた恐ろしい夜叉は、ラトルの頭越しにオーボエ奏者を召還し、甘美な愛の対話を繰り返しながらあほばかラトルが無神経に鳴らそうとする弦を、その女神アテナイの如き黄金の光る目で射すくめ、最弱音に押さえつけるのだった。
このようにしてモーツアルト・イヤー掉尾を飾る劇性を秘めた小さなオペラの演奏が終ったが、私は当代最高のモーツアルト弾きの演奏の切れ味の鋭さに圧倒されながらも、かのクララ・ハスキルの優美なモーツアルト演奏を懐かしく思い出していたことだった。
Friday, May 25, 2007
銀座和光本館よ、永遠なれ
勝手に建築観光・第15回
銀座の代表的建築といえば文句なしに服部時計店の時計台だろう。明治28年建設の初代時計台を1932年(昭和7年)に立て直したものが現在の銀座和光本館であろう。
テラコッタではなく自然石を使用したその堂々たるたたずまいは、銀座のランドマークにふさわしい。お向かいの三越と一線を画して、壁面に醜悪な屋外広告を垂らさない見識もこの由緒ある街にふさわしい。
もし銀座からこの素晴らしい建築がなくなったならと考えただけでぞっとする。
ところが、その歴史的名建築が75年ぶりに全面改修されるそうだ。
発表では、「外観は維持しつつ耐震性を強化し、内装を一新す」のだそうだが、04年の10月に三井不動産がめちゃめちゃにした福沢諭吉ゆかりの日本最初の社交クラブであった銀座交詢社のようなひどいことにならないかと心配だ。
余談ながら、私は交詢社の1階の広いフロアの右奥から差し込む日差しを浴びながら、遅い昼食をとるのが楽しみだった。
さて、歴史建造物を一部保存活用する手法は、交詢社や表参道ヒルズなど各地で多用されているが、それは結局は気休めであり、デベロッパーの乱開発の免罪符に過ぎないことを私たちは肝に銘じておくべきだ。
それにしても松坂屋と組んだかの悪名高き森ビルが、銀座中央通に百数十mの超高層ビルを建設しようとするアホバカ計画が、銀座百店会などの反対で挫折したことは、銀座と我が国の建築文化にとって格別に慶賀すべきことだった。
銀座の代表的建築といえば文句なしに服部時計店の時計台だろう。明治28年建設の初代時計台を1932年(昭和7年)に立て直したものが現在の銀座和光本館であろう。
テラコッタではなく自然石を使用したその堂々たるたたずまいは、銀座のランドマークにふさわしい。お向かいの三越と一線を画して、壁面に醜悪な屋外広告を垂らさない見識もこの由緒ある街にふさわしい。
もし銀座からこの素晴らしい建築がなくなったならと考えただけでぞっとする。
ところが、その歴史的名建築が75年ぶりに全面改修されるそうだ。
発表では、「外観は維持しつつ耐震性を強化し、内装を一新す」のだそうだが、04年の10月に三井不動産がめちゃめちゃにした福沢諭吉ゆかりの日本最初の社交クラブであった銀座交詢社のようなひどいことにならないかと心配だ。
余談ながら、私は交詢社の1階の広いフロアの右奥から差し込む日差しを浴びながら、遅い昼食をとるのが楽しみだった。
さて、歴史建造物を一部保存活用する手法は、交詢社や表参道ヒルズなど各地で多用されているが、それは結局は気休めであり、デベロッパーの乱開発の免罪符に過ぎないことを私たちは肝に銘じておくべきだ。
それにしても松坂屋と組んだかの悪名高き森ビルが、銀座中央通に百数十mの超高層ビルを建設しようとするアホバカ計画が、銀座百店会などの反対で挫折したことは、銀座と我が国の建築文化にとって格別に慶賀すべきことだった。
Thursday, May 24, 2007
拝復 神奈川県知事 松沢成文殿
先日は小生が神奈川県の「わたしの提案」に投書した民間社会福祉施設運営費補助金の問題について、さっそく懇切なるご回答を頂戴し誠にありがとうございました。
回答の文書を再読しましたが、どうもその趣旨がよく分かりません。再度お尋ねいたしますのでなにとぞよろしくお願いいたしまします。
『今後の施設は、重度・重複障害者等にとっての住まいの場としての機能に加え、レスパイトをはじめとする地域社会へのサービス提供機能など、地域で暮らす障害者への支援機能が求められています』
という県と知事の考え方は理解できますが、
『そのため県の支援についても、施設内での障害福祉サービスだけではなく、施設が持っている障害者支援のノウハウや施設機能を活用し、多様なニーズに沿ったサービスを提供することを目的に、「障害者地域生活サポート事業」を従来の「民間社会福祉施設運営費補助金」の一部を転換するかたちで平成19年度より実施することとしています。』
というのは具体的にはどういう意味でしょうか? 要するに補助金は継続されるのですか? それとも補助金はカットして他の用途に振り向けるということなのですか?
恐れ入りますが、その点を明確にしてその理由とあわせてご回答いただけたら幸甚です。
私は、今般の障害者自立支援法によるサービスの再編、精神障害を含めた三障害の一元化への対応を図るため、施設の機能の転換が求められ、障害者福祉サービス全体の変革が進むとしても、県が今後とも時代の変化に対応した施設機能への支援を継続していきたいとお考えになる以上は、少なくとも現在の民間社会福祉施設運営費補助金は削減すべきではないと考えます。
松沢知事は、障害者自立支援法施行後の県の社会福祉施設を実際にあなた自身の目で観察されたことがおありですか?
障害者自立支援法は名前だけは立派でも、社会的な競争に耐えられない障碍者や障碍施設に対して強者や健常者との競合・競争を強いる法律です。
重度の障碍者に対しても街頭に出よ、生まれながらの障碍などはなかったことにして、「自分で自立して、健常者に伍して自活せよ」と命じる法律です。
金儲けなどにはとんと不向きで、ひたすら障碍者の介護と真の自立支援に献身してきた多くの勇気ある慈悲深い社会福祉スタッフの方々の働く意欲を減退させ、賃金を切り下げ、待遇を悪化させ、更なる労働強化に駆り立て、あまつさえ社会福祉とは無縁の副業に向かわせて肝心の福祉施設の本業をおろそかにさせてしまう素敵な法律です。
実際に私の息子が通っている大和市の通所施設では、障害者自立支援法の適用によって施設の収入を増加させて経営基盤を強化?する必要に迫られた施設長がとつぜん豆腐屋を始めると言い出しました。商売の素人が1個250円もする豆腐を売り出して誰が買うというのでしょうか。スーパーや生協ではその半額で売られているというのに…。
障害者自立支援法のお陰で、いま全国の施設では、豆腐屋のみならずスポーツやダンスやカルチャー教室など武士の商法ならぬ福祉のにわか商法が大流行です。
うまく行ったらお慰みですが、その大半が無残な失敗に終り、儲かるのは経営コンサルタントだけという無残な結果に終るのは目に見えています。
知事もよくご存知のように、社会福祉施設は社会の弱者をケアするのが本業です。金儲けを目的とする私企業ではありません。
それなのに国や県は施設への補助金をどんどんカットしておいて、職員の給料を増やしたいならもっと福祉の商売を上手にやりなさいと冷たく突き放しています。
そこで商売など生まれてから一度もやったことのない施設長が畑違いの副業に乗り出し、介護のプロや社会福祉士たちに慣れない豆腐作りを命じ、不毛な労働が強化されて心ある優秀な職員が絶望して施設を去り、そのために肝心のケアやサービスがいっそう低下し、施設も人も疲弊するという悪循環が繰り返されているのです。
改めて松沢知事にお尋ねしたいのですが、このような前代未聞の窮状に追い込まれ、危急存亡のときを迎えつつある県下の社会福祉施設の補助金をどうしてカットされるのですか?
ご多用中とは存じますが、諸事情ご賢察のうえ再度ご回答いただきますよう謹んでお願い申し上げる次第です。 再拝
回答の文書を再読しましたが、どうもその趣旨がよく分かりません。再度お尋ねいたしますのでなにとぞよろしくお願いいたしまします。
『今後の施設は、重度・重複障害者等にとっての住まいの場としての機能に加え、レスパイトをはじめとする地域社会へのサービス提供機能など、地域で暮らす障害者への支援機能が求められています』
という県と知事の考え方は理解できますが、
『そのため県の支援についても、施設内での障害福祉サービスだけではなく、施設が持っている障害者支援のノウハウや施設機能を活用し、多様なニーズに沿ったサービスを提供することを目的に、「障害者地域生活サポート事業」を従来の「民間社会福祉施設運営費補助金」の一部を転換するかたちで平成19年度より実施することとしています。』
というのは具体的にはどういう意味でしょうか? 要するに補助金は継続されるのですか? それとも補助金はカットして他の用途に振り向けるということなのですか?
恐れ入りますが、その点を明確にしてその理由とあわせてご回答いただけたら幸甚です。
私は、今般の障害者自立支援法によるサービスの再編、精神障害を含めた三障害の一元化への対応を図るため、施設の機能の転換が求められ、障害者福祉サービス全体の変革が進むとしても、県が今後とも時代の変化に対応した施設機能への支援を継続していきたいとお考えになる以上は、少なくとも現在の民間社会福祉施設運営費補助金は削減すべきではないと考えます。
松沢知事は、障害者自立支援法施行後の県の社会福祉施設を実際にあなた自身の目で観察されたことがおありですか?
障害者自立支援法は名前だけは立派でも、社会的な競争に耐えられない障碍者や障碍施設に対して強者や健常者との競合・競争を強いる法律です。
重度の障碍者に対しても街頭に出よ、生まれながらの障碍などはなかったことにして、「自分で自立して、健常者に伍して自活せよ」と命じる法律です。
金儲けなどにはとんと不向きで、ひたすら障碍者の介護と真の自立支援に献身してきた多くの勇気ある慈悲深い社会福祉スタッフの方々の働く意欲を減退させ、賃金を切り下げ、待遇を悪化させ、更なる労働強化に駆り立て、あまつさえ社会福祉とは無縁の副業に向かわせて肝心の福祉施設の本業をおろそかにさせてしまう素敵な法律です。
実際に私の息子が通っている大和市の通所施設では、障害者自立支援法の適用によって施設の収入を増加させて経営基盤を強化?する必要に迫られた施設長がとつぜん豆腐屋を始めると言い出しました。商売の素人が1個250円もする豆腐を売り出して誰が買うというのでしょうか。スーパーや生協ではその半額で売られているというのに…。
障害者自立支援法のお陰で、いま全国の施設では、豆腐屋のみならずスポーツやダンスやカルチャー教室など武士の商法ならぬ福祉のにわか商法が大流行です。
うまく行ったらお慰みですが、その大半が無残な失敗に終り、儲かるのは経営コンサルタントだけという無残な結果に終るのは目に見えています。
知事もよくご存知のように、社会福祉施設は社会の弱者をケアするのが本業です。金儲けを目的とする私企業ではありません。
それなのに国や県は施設への補助金をどんどんカットしておいて、職員の給料を増やしたいならもっと福祉の商売を上手にやりなさいと冷たく突き放しています。
そこで商売など生まれてから一度もやったことのない施設長が畑違いの副業に乗り出し、介護のプロや社会福祉士たちに慣れない豆腐作りを命じ、不毛な労働が強化されて心ある優秀な職員が絶望して施設を去り、そのために肝心のケアやサービスがいっそう低下し、施設も人も疲弊するという悪循環が繰り返されているのです。
改めて松沢知事にお尋ねしたいのですが、このような前代未聞の窮状に追い込まれ、危急存亡のときを迎えつつある県下の社会福祉施設の補助金をどうしてカットされるのですか?
ご多用中とは存じますが、諸事情ご賢察のうえ再度ご回答いただきますよう謹んでお願い申し上げる次第です。 再拝
Wednesday, May 23, 2007
川本三郎著「名作写真と歩く昭和の東京」を読む
降っても照っても第17回
昭和の名建築がどんどん姿を消しているなかで、著者は名カメラマンが遺した名場面をダシにしながら、昭和の懐かしい記憶を思い出の玉手箱の中から一つひとつ取り出してきてはいとおしむように語る。
新宿副都心に一変した淀橋浄水場も忘れがたいが、1969年1月19日の東大安田講堂前の写真、わけても同年10月21日の国際反戦デーの夜、東大全共闘の隊列の中にいた現マガジンハウスの編集者平沢豊氏が、新宿伊勢丹会館の前でシャッターを切ったブレブレの1枚が鋭くわが心を深くえぐる。
著者が語るように、30年前の若者は、己を否定するなかから新しい道を探そうとしたが、いまの若者は、己を肯定するなかから前進を模索しようとしているようにも見える。
さうして、いずれもおんなじ馬鹿者なのであらう。
昭和の名建築がどんどん姿を消しているなかで、著者は名カメラマンが遺した名場面をダシにしながら、昭和の懐かしい記憶を思い出の玉手箱の中から一つひとつ取り出してきてはいとおしむように語る。
新宿副都心に一変した淀橋浄水場も忘れがたいが、1969年1月19日の東大安田講堂前の写真、わけても同年10月21日の国際反戦デーの夜、東大全共闘の隊列の中にいた現マガジンハウスの編集者平沢豊氏が、新宿伊勢丹会館の前でシャッターを切ったブレブレの1枚が鋭くわが心を深くえぐる。
著者が語るように、30年前の若者は、己を否定するなかから新しい道を探そうとしたが、いまの若者は、己を肯定するなかから前進を模索しようとしているようにも見える。
さうして、いずれもおんなじ馬鹿者なのであらう。
Tuesday, May 22, 2007
五木寛之「林住期」を読む
降っても照っても第16回
古代インドでは人生を、「学生期」(青春)「家住期」(朱夏)そして「林住期」(白秋)「遊行期」(玄冬)の四期に分けていたという。
著者によれば、「林住期」とは50歳から75歳までの社会的なつとめを終えた人の自由時間、人生の真の収穫期であるという。ほんまかいな?
もっともそんなことは昔からブッダが唱えていたことではあるが、屁異性の語り部かつ平成の憑依であらしゃいます五木寛之先生が、行く川の流れのごとくとうとうと語り尽くされたありがたきお言葉どもであるぞよ。
まあどうってことはない軽い本ですが、終わりのほうに粛然と衿を正して聞き入るほかない言葉があった。
ソ連兵が進駐してきた敗戦直後のピヨンヤンでは、日本帝国軍隊に取り残された日本人たちがソ連の兵隊の要求に応じて女性の慰安婦を「人身御供として」差し出していた。
そこで著者がいう。
『皆がそんな話をあまりしないのは、自分たちが人身御供を差し出して生き延びて帰ってきたうしろめたさからだろうか。戦場の悲惨は小説にも書けるが、こういうことを物語にするのは許せない気持ちが自分にはある。特攻隊の物語は感動的だが、たとえ強制されたものだったにせよ、銃を持って死んだものは兵士として戦死したのだ。それはどんなに悲惨であっても名誉ある死とみなされる。映画になったり、神社に祭られたりもする。しかし、本当の戦争の悲惨さは、銃を持たなかった人間、一般人たちの体験だと思う。それを潜り抜けたものたちがみな口をとざして語ることができないような出来事こそ戦争の本質なのではあるまいか。
そんなことがかさなるうちに、やがて「世の中は思うようにならない」という信念のようなものが、いつのまにか根を下ろして私の中に定着してしまった。』
この苛烈な戦争体験が、どこから眺めても軽佻浮薄にしか見えないこの作家の根っこに鬱病のように巣くっているのである。
古代インドでは人生を、「学生期」(青春)「家住期」(朱夏)そして「林住期」(白秋)「遊行期」(玄冬)の四期に分けていたという。
著者によれば、「林住期」とは50歳から75歳までの社会的なつとめを終えた人の自由時間、人生の真の収穫期であるという。ほんまかいな?
もっともそんなことは昔からブッダが唱えていたことではあるが、屁異性の語り部かつ平成の憑依であらしゃいます五木寛之先生が、行く川の流れのごとくとうとうと語り尽くされたありがたきお言葉どもであるぞよ。
まあどうってことはない軽い本ですが、終わりのほうに粛然と衿を正して聞き入るほかない言葉があった。
ソ連兵が進駐してきた敗戦直後のピヨンヤンでは、日本帝国軍隊に取り残された日本人たちがソ連の兵隊の要求に応じて女性の慰安婦を「人身御供として」差し出していた。
そこで著者がいう。
『皆がそんな話をあまりしないのは、自分たちが人身御供を差し出して生き延びて帰ってきたうしろめたさからだろうか。戦場の悲惨は小説にも書けるが、こういうことを物語にするのは許せない気持ちが自分にはある。特攻隊の物語は感動的だが、たとえ強制されたものだったにせよ、銃を持って死んだものは兵士として戦死したのだ。それはどんなに悲惨であっても名誉ある死とみなされる。映画になったり、神社に祭られたりもする。しかし、本当の戦争の悲惨さは、銃を持たなかった人間、一般人たちの体験だと思う。それを潜り抜けたものたちがみな口をとざして語ることができないような出来事こそ戦争の本質なのではあるまいか。
そんなことがかさなるうちに、やがて「世の中は思うようにならない」という信念のようなものが、いつのまにか根を下ろして私の中に定着してしまった。』
この苛烈な戦争体験が、どこから眺めても軽佻浮薄にしか見えないこの作家の根っこに鬱病のように巣くっているのである。
Monday, May 21, 2007
レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳「ロング・グッドバイ」を読む
降っても照っても第15回
チャンドラーが65歳でものした代表作の村上春樹ヴァージョンである。
かつての清水俊二氏の「長いお別れ」と比べてずいぶん部厚いな思っていあたら、なんと清水訳は抄訳だったらしい。ずいぶんデタラメなことをするものだ。そんな話は初めて聞いたぞ。
しかし完全訳だろうが抄訳だろうが、本書の構造じたいはまったく変わらない。
探偵のフィリップ・マーロウは相変わらずタフだし、事件の全貌は相変わらず曖昧模糊にして五里霧中。いちおうの犯罪のプロットはあり、暦とした犯罪事件は起こり、残虐な死体の1つや2つはごろごろ転がり、チャンドラー好みの政財界の大物からマフィアから謎の医師や弁護士や出版プロデューサー、ヤクザにチンピラにボディガード、謎のブロンド女やマーロウの運命のファムファタールまで陸続と面妖な人物が登場する。
だが、それがどうした。その犯罪の本質ははじめから終わりまで杳として最後の最後まで読者に知らされることは無い。
確かに犯罪者は登場し、犯罪は起こる。しかしその犯罪の動機や必然性は明確に描かれることはない。それなのに犯罪を構成する人物のデテールだけが異様に精確に描かれている。
人物が登場するたびに、チャンドラーは舌なめずりしながら彼らの姿かたちを鮮やかに描写する。彼らはドラクロアの登場人物のように強烈な光線を浴びてくっきりとして輪郭をしている。
しかしそれは犯罪の全体構造とは内的な関連をもたない。つまり事件は小説の舞台フレームとして仮に設定されているに過ぎない。
とみるまに、またしても絶世の美女が暗い部屋の片隅で全裸になり、マーロウを誘うと、我らが探偵は「まるで牡馬のように」なっちまうのであるが、このマーロウやアイリーン・ウエードの内面性はどのように描かれているのだろうかと調べてみると、ようわからんのである。
いったいマーロウが何を考えているのか、彼らの人生の喜びや悲しみや価値観は奈辺にあるかがてんでわからないのである。
つまりチャンドラーはプロットなどはどうでもよく、その瞬間ごとの人物たちのリアルな外形だけに関心があった。
マーロウやアイリーン・ウエードやテリー・レノックスたちはすべて能面冠者であり、彼らの内面は戯作者であるチャンドラー自身の内面に格納されている。かくして全体は最高に虚妄でありながら、部分部分は最高におもしろいという世にも不思議な物語が完成したのであった。
チャンドラーは「生命を有している文章はだいたいは“みぞおち”で書かれています」)村上春樹訳)と語り、生涯そのとおりに実行した作家だった。
チャンドラーが65歳でものした代表作の村上春樹ヴァージョンである。
かつての清水俊二氏の「長いお別れ」と比べてずいぶん部厚いな思っていあたら、なんと清水訳は抄訳だったらしい。ずいぶんデタラメなことをするものだ。そんな話は初めて聞いたぞ。
しかし完全訳だろうが抄訳だろうが、本書の構造じたいはまったく変わらない。
探偵のフィリップ・マーロウは相変わらずタフだし、事件の全貌は相変わらず曖昧模糊にして五里霧中。いちおうの犯罪のプロットはあり、暦とした犯罪事件は起こり、残虐な死体の1つや2つはごろごろ転がり、チャンドラー好みの政財界の大物からマフィアから謎の医師や弁護士や出版プロデューサー、ヤクザにチンピラにボディガード、謎のブロンド女やマーロウの運命のファムファタールまで陸続と面妖な人物が登場する。
だが、それがどうした。その犯罪の本質ははじめから終わりまで杳として最後の最後まで読者に知らされることは無い。
確かに犯罪者は登場し、犯罪は起こる。しかしその犯罪の動機や必然性は明確に描かれることはない。それなのに犯罪を構成する人物のデテールだけが異様に精確に描かれている。
人物が登場するたびに、チャンドラーは舌なめずりしながら彼らの姿かたちを鮮やかに描写する。彼らはドラクロアの登場人物のように強烈な光線を浴びてくっきりとして輪郭をしている。
しかしそれは犯罪の全体構造とは内的な関連をもたない。つまり事件は小説の舞台フレームとして仮に設定されているに過ぎない。
とみるまに、またしても絶世の美女が暗い部屋の片隅で全裸になり、マーロウを誘うと、我らが探偵は「まるで牡馬のように」なっちまうのであるが、このマーロウやアイリーン・ウエードの内面性はどのように描かれているのだろうかと調べてみると、ようわからんのである。
いったいマーロウが何を考えているのか、彼らの人生の喜びや悲しみや価値観は奈辺にあるかがてんでわからないのである。
つまりチャンドラーはプロットなどはどうでもよく、その瞬間ごとの人物たちのリアルな外形だけに関心があった。
マーロウやアイリーン・ウエードやテリー・レノックスたちはすべて能面冠者であり、彼らの内面は戯作者であるチャンドラー自身の内面に格納されている。かくして全体は最高に虚妄でありながら、部分部分は最高におもしろいという世にも不思議な物語が完成したのであった。
チャンドラーは「生命を有している文章はだいたいは“みぞおち”で書かれています」)村上春樹訳)と語り、生涯そのとおりに実行した作家だった。
Sunday, May 20, 2007
ある丹波の老人の話(23)
第四話 株が当たった話その4
郡是は翌大正5年には100万円近い大もうけをして一挙に頽勢を挽回し、5月には優先株を抹消して資本金が200万円となり、将来の大飛躍が約束されて株価はグングン上がりました。
これはまったく波多野さんの手腕と徳望のしからしむるところ、私の予想はぴたり的中したわけです。
大正5年3月の郡是株主名簿を見ると、3千余の株主中私は第25位の大株主になっておりました。
といっても私の持ち株はわずか78でしたが、このときの郡是はまだ何鹿郡以外には進出していない時期でして、私以上の24人の株主といえば、波多野さんをはじめ羽室家一党の人々、地方の素封家ぞろいです。
私などとは提灯と吊り鐘、月とスッポンの違いでした。
昨日まで借金取りに悩まされて日本一の貧乏人と思っておった身で、いったいこんなことでよいのだろうか? と私は迷いに迷い、波多野さんのところにお礼かたがた相談に行ったんでした。
郡是は翌大正5年には100万円近い大もうけをして一挙に頽勢を挽回し、5月には優先株を抹消して資本金が200万円となり、将来の大飛躍が約束されて株価はグングン上がりました。
これはまったく波多野さんの手腕と徳望のしからしむるところ、私の予想はぴたり的中したわけです。
大正5年3月の郡是株主名簿を見ると、3千余の株主中私は第25位の大株主になっておりました。
といっても私の持ち株はわずか78でしたが、このときの郡是はまだ何鹿郡以外には進出していない時期でして、私以上の24人の株主といえば、波多野さんをはじめ羽室家一党の人々、地方の素封家ぞろいです。
私などとは提灯と吊り鐘、月とスッポンの違いでした。
昨日まで借金取りに悩まされて日本一の貧乏人と思っておった身で、いったいこんなことでよいのだろうか? と私は迷いに迷い、波多野さんのところにお礼かたがた相談に行ったんでした。
Saturday, May 19, 2007
ある丹波の老人の話(22)
第四話 株が当たった話その3
郡是の新株式を買うために、私は津山へ飛んだんでした。
津山では武蔵野という一流旅館を本陣として、いきなり女中に100円のチップを渡し紀の国屋文左衛門の故智に倣って実は新聞紙が中身の札束包みを主人に預けました。
その主人の紹介で津山製紙会社の重役をしている田中、倉見という地方では信用のある人物に頼みこんで、ここいらの株主が売りたがっている優先株を、当時地方値は払い込み以下でしたが、すべて払い込み額12円50銭で買うて買うて買いまくりました。
一方蚕具の方も専門技術者には好評を博し、郡是から町村長への紹介状をもろうてきて売って回ったもんですから、こちらもよく売れました。
第1次大戦の戦局が進むに連れて、世界の金が米国に集まり、米国の好景気を反映して郡是株もぐんぐん上がっってゆきよりました。
津山ではまだ12円50銭で楽に買えるのに、綾部ではもう20円もするようになり、毎日綾部から電報で相場をいうてくるんで、「今日は1万円もうかった」と思うた日が3日も4日もありました。
しかし蚕具のほうは後に大成館が会計の不始末で破産同様になってしもうて、私は旅費は出してもろうておったのですが、売上げからもらうはずの割り前は1文ももらえませんでした。
しゃあけんど、そんなことは何でものうて、片手間の仕事の株買いのほうで大もうけしてしもうたもんやから、昨日の貧乏から一転して小型ながらも「株成金」と地元の人から言われるようになりました。
郡是の新株式を買うために、私は津山へ飛んだんでした。
津山では武蔵野という一流旅館を本陣として、いきなり女中に100円のチップを渡し紀の国屋文左衛門の故智に倣って実は新聞紙が中身の札束包みを主人に預けました。
その主人の紹介で津山製紙会社の重役をしている田中、倉見という地方では信用のある人物に頼みこんで、ここいらの株主が売りたがっている優先株を、当時地方値は払い込み以下でしたが、すべて払い込み額12円50銭で買うて買うて買いまくりました。
一方蚕具の方も専門技術者には好評を博し、郡是から町村長への紹介状をもろうてきて売って回ったもんですから、こちらもよく売れました。
第1次大戦の戦局が進むに連れて、世界の金が米国に集まり、米国の好景気を反映して郡是株もぐんぐん上がっってゆきよりました。
津山ではまだ12円50銭で楽に買えるのに、綾部ではもう20円もするようになり、毎日綾部から電報で相場をいうてくるんで、「今日は1万円もうかった」と思うた日が3日も4日もありました。
しかし蚕具のほうは後に大成館が会計の不始末で破産同様になってしもうて、私は旅費は出してもろうておったのですが、売上げからもらうはずの割り前は1文ももらえませんでした。
しゃあけんど、そんなことは何でものうて、片手間の仕事の株買いのほうで大もうけしてしもうたもんやから、昨日の貧乏から一転して小型ながらも「株成金」と地元の人から言われるようになりました。
Friday, May 18, 2007
♪コジュケイの歌
♪ある晴れた日に その8
鎌倉の滝のほとりに竹生いて 四方竹とぞ村人は呼ぶ
世の中の乱がわしきこと絶えずして 四角四面になりにけるかも
したり顔のファシスト共は跳梁す 闇に消えたるテレヴィの奥で
自分が嫌じゃ、他人が嫌じゃ、日本が嫌じゃ、世界中が嫌じゃ
こっち来いこっち来い コジュケイの不意の呼び出しに我は慄く
森行けばこっち来いこっち来い 黄泉の国よりコジュケイは招く
一挺のチェロ一挺のカラシニコフを携えて ロストロポービッチは黄泉に行きたり
一瞬に我と世界を打ち砕く ただ一挺の拳銃を求めて
森の奥闇はますます深くして テロリストのパラソルついに開かず
「ありがとう」といいながら京急バスを降りていく小学生が私は好きだ
鎌倉の滝のほとりに竹生いて 四方竹とぞ村人は呼ぶ
世の中の乱がわしきこと絶えずして 四角四面になりにけるかも
したり顔のファシスト共は跳梁す 闇に消えたるテレヴィの奥で
自分が嫌じゃ、他人が嫌じゃ、日本が嫌じゃ、世界中が嫌じゃ
こっち来いこっち来い コジュケイの不意の呼び出しに我は慄く
森行けばこっち来いこっち来い 黄泉の国よりコジュケイは招く
一挺のチェロ一挺のカラシニコフを携えて ロストロポービッチは黄泉に行きたり
一瞬に我と世界を打ち砕く ただ一挺の拳銃を求めて
森の奥闇はますます深くして テロリストのパラソルついに開かず
「ありがとう」といいながら京急バスを降りていく小学生が私は好きだ
Thursday, May 17, 2007
♪続タイヤの歌
ある晴れた日に その7
ダリア咲き タイはおさしみ ダイア笑う 関東平野にタイヤころがる
ぐわーっぎゃーっつ Bang !Bomb!Gang! いまに見てろ タイヤだいばくはつ
おっぺると来たタイヤって君か やに威張ってるな 隅っこのほうでころがってな
おおタイヤ! たいやーさむざむ ごろごろん わいらあひとり ころがるんば
じゅすいタイヤ ぶぜっとタイヤどんぶりこ あろんざんふぁん ごろごろりんこ
んぎゅーD’DAN! どしーんぐららあがあ 恐竜がタイヤをPUNKさせてく
どがDANCEでっさん DANCE!DANCE! どどんぱ! 虚空は蒼白のタイヤに満ち!
ダンスはすんだので 母は死に 海と空は乾いたので タイヤは一人で泣いていた
くっそお ねむらんとしてもねられず 黒タイヤ赤タイヤ青タイヤ ぐるんぱびゅるんぱまわるまわる
めをつむってもつぶしても どたまのなかで タイヤ走ってるまわってる追ってくる
風が立ち 波が騒ぎ 無限の前でわれ知りぬ 友情に篤いのはダイヤじゃなくてタイヤだった
死ぬまでに セネガルに行きたし グアテマラに行きたし 軽きタイヤにまたがって
ぬかみその ふにゃらちんぽに はがみする いんぽてんつの ちゅうねんタイヤ
あきかぜの みにしみてうらがなし ざいもくざかいがんに タイヤがひとつ
海ゆかば お前はダリア われはタイヤ とわに水漬く花飾りかな
ダリア咲き タイはおさしみ ダイア笑う 関東平野にタイヤころがる
ぐわーっぎゃーっつ Bang !Bomb!Gang! いまに見てろ タイヤだいばくはつ
おっぺると来たタイヤって君か やに威張ってるな 隅っこのほうでころがってな
おおタイヤ! たいやーさむざむ ごろごろん わいらあひとり ころがるんば
じゅすいタイヤ ぶぜっとタイヤどんぶりこ あろんざんふぁん ごろごろりんこ
んぎゅーD’DAN! どしーんぐららあがあ 恐竜がタイヤをPUNKさせてく
どがDANCEでっさん DANCE!DANCE! どどんぱ! 虚空は蒼白のタイヤに満ち!
ダンスはすんだので 母は死に 海と空は乾いたので タイヤは一人で泣いていた
くっそお ねむらんとしてもねられず 黒タイヤ赤タイヤ青タイヤ ぐるんぱびゅるんぱまわるまわる
めをつむってもつぶしても どたまのなかで タイヤ走ってるまわってる追ってくる
風が立ち 波が騒ぎ 無限の前でわれ知りぬ 友情に篤いのはダイヤじゃなくてタイヤだった
死ぬまでに セネガルに行きたし グアテマラに行きたし 軽きタイヤにまたがって
ぬかみその ふにゃらちんぽに はがみする いんぽてんつの ちゅうねんタイヤ
あきかぜの みにしみてうらがなし ざいもくざかいがんに タイヤがひとつ
海ゆかば お前はダリア われはタイヤ とわに水漬く花飾りかな
Wednesday, May 16, 2007
♪タイヤの歌
ある晴れた日に その6
灼熱のアスファルトを朱に染め タイヤにひれ伏す黒猫トム
黒猫トムの 背骨を輪切る横浜タイヤ 霊園前は 真っ赤なキャンバス
地下足袋をタイヤに換えた石橋さん 功成り名遂げて『近代美』寄贈す
おおブレネリ わたしはここだ 大平原 アルプスからタイヤ一輪直滑降
ううぅぴゅー 山から谷 河から村へどどししどっど タイヤが街へやってきた
どないなっとんのや ひゃくせんまん じゅうまんひゃくまん せんまんのタイヤがやってくる
いるそんタイヤ おうじゅるでゅい ぬっそんたいやき きむいるそん
でたらめだあ もうやめてけれ もうくるな だんたいそんがひきまくりタイヤ
灼熱のアスファルトを朱に染め タイヤにひれ伏す黒猫トム
黒猫トムの 背骨を輪切る横浜タイヤ 霊園前は 真っ赤なキャンバス
地下足袋をタイヤに換えた石橋さん 功成り名遂げて『近代美』寄贈す
おおブレネリ わたしはここだ 大平原 アルプスからタイヤ一輪直滑降
ううぅぴゅー 山から谷 河から村へどどししどっど タイヤが街へやってきた
どないなっとんのや ひゃくせんまん じゅうまんひゃくまん せんまんのタイヤがやってくる
いるそんタイヤ おうじゅるでゅい ぬっそんたいやき きむいるそん
でたらめだあ もうやめてけれ もうくるな だんたいそんがひきまくりタイヤ
Tuesday, May 15, 2007
秋山駿著「私小説という人生」を読む
降っても照っても第14回
「自分のことをもう一度行き直してみよう」という年齢に達した著者が、眦をけっして向き合った日本文学の名作再読記であるが、その熱と意欲の高さに大きな刺激を受けた。
扱われているのは、田山花袋、岩野泡鳴、二葉亭四迷、樋口一葉、島崎藤村、正宗白鳥の6名で、彼らの代表作を肴にして作者は縦横無尽の独断と偏見を繰り広げている。
著者の力点は従来とかく軽視されてきた田山花袋の「蒲団」など自然主義作家たちの作品の再評価に置かれているようだ。
「人間の真実を剔出し、人生の真相を視る。それが日本の自然主義文学の独特さである」と著者は結論づけるのだが、しかしそういう定義なら、漱石も鴎外も荷風も谷崎も三島も両村上もなにもかもが同じ自然派の範疇に入ってしまうのではないだろうか?
また著者が私小説を愛好する評論家であるにしても「私小説という人生」というタイトルは現代の日本語としては少しく奇異ではないだろうか?
もちろん本書は文学論考ではない。
しかし著者は小林秀雄の文章に影響を受けた人らしく、例えば高橋源一郎や保坂和志などが文学を論じる際の繊細な手つきにくらべると論理の組み立てがいささか粗雑で時代がかっているように思われる。
そして独特の啖呵が、懐かしくも古めかしく感じられる。
もっともこれは私の頭が粗雑であるから、著者の立論についていけないのかもしれないが、何度読んでも「要するに何を言いたいのか」が理解できない個所があった。恐らく人間としての修行がまだまだ足らないのであろう。
通読してもっとも心に残ったのは、島崎藤村の項である。私は著者によって初めて藤村の随筆集の素晴らしさを知ることができた。藤村は本邦始まって以来のドビュッシーの愛好家であった。
「自分のことをもう一度行き直してみよう」という年齢に達した著者が、眦をけっして向き合った日本文学の名作再読記であるが、その熱と意欲の高さに大きな刺激を受けた。
扱われているのは、田山花袋、岩野泡鳴、二葉亭四迷、樋口一葉、島崎藤村、正宗白鳥の6名で、彼らの代表作を肴にして作者は縦横無尽の独断と偏見を繰り広げている。
著者の力点は従来とかく軽視されてきた田山花袋の「蒲団」など自然主義作家たちの作品の再評価に置かれているようだ。
「人間の真実を剔出し、人生の真相を視る。それが日本の自然主義文学の独特さである」と著者は結論づけるのだが、しかしそういう定義なら、漱石も鴎外も荷風も谷崎も三島も両村上もなにもかもが同じ自然派の範疇に入ってしまうのではないだろうか?
また著者が私小説を愛好する評論家であるにしても「私小説という人生」というタイトルは現代の日本語としては少しく奇異ではないだろうか?
もちろん本書は文学論考ではない。
しかし著者は小林秀雄の文章に影響を受けた人らしく、例えば高橋源一郎や保坂和志などが文学を論じる際の繊細な手つきにくらべると論理の組み立てがいささか粗雑で時代がかっているように思われる。
そして独特の啖呵が、懐かしくも古めかしく感じられる。
もっともこれは私の頭が粗雑であるから、著者の立論についていけないのかもしれないが、何度読んでも「要するに何を言いたいのか」が理解できない個所があった。恐らく人間としての修行がまだまだ足らないのであろう。
通読してもっとも心に残ったのは、島崎藤村の項である。私は著者によって初めて藤村の随筆集の素晴らしさを知ることができた。藤村は本邦始まって以来のドビュッシーの愛好家であった。
Monday, May 14, 2007
最愛のCD
♪音楽千夜一夜第21回
先日私がこれまででもっとも感銘を受けたクラシックの生演奏について非常に興奮した記事を書いてしまったが、あほうついでにそれではCDのベストは何かといえば、そのひとつはバーンスタインの「ROMANTIC FAVORITES FOR STRINGS」といういわゆるアダージョ物の寄せ集めである。
このCDは確か国内版もCBSソニーから発売されていたように記憶するが、私が持っているのは輸入版で、若きバーンスタインがニューヨークフィルハーモニックを指揮した60年代の演奏である。
曲目はまず1910年生まれのアメリカの作曲家サミュエル・バーバーの代表作「弦楽のためのアダージョ」。
この曲は1986年に公開されたオリバーストーンのベトナム戦争映画の主題歌に使われて有名になった。ともかく弦が歌いに歌って悲壮の極みに至る。バーンスタインも、初演したトスカニーニ張りの名演で泣かせる。
次が英国の国民的作曲家ヴォーン・ウイリアムズが1570年後半に英国で流行した民謡をテーマにした「グリンスリーブズの主題による幻想曲」と同じ作曲家による「トーマス・タリスのテーマによる幻想曲」。トマース・タリスも16世紀の英国の教会音楽の作曲家であるが、ヴォーン・ウイリアムズが発掘した哀愁に満ちた懐かしい古雅な旋律を、バーンスタインは思いをこめてしみじみと歌い上げている。
それからロシアの文豪トルストイが感動したというチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番第二楽章の「アンダンテ・カンタービレ」、最後に19世紀末のウイーンで活躍した作曲家グスタフ・マーラーの交響曲第5番第四楽章の有名な「アダージエット」が演奏されてこの愛すべきコンピレーションが終る。
最後の作品はイタリアの名匠ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」のテーマ音楽で使われ、文字通り一世を風靡したがこれほどロマンチックな叙情歌も少ないだろう。
バーンスタインの演奏は後年のウイーンフィルとの演奏よりもこっちのほうが透明な悲しさが漂っている。ちなみにヴィスコンティは、わざとイタリアのローカルオケの演奏を使った。その鄙びた味わいがよい。
「アダージョ物」はカラヤンのが世界的なベストセラーになったが、バーンスタインはカラヤンや自らの後年の濃厚な味付けをいっさい廃して、恋に恋する純な若者の限りなきロマンと憧憬を、無窮の、そして無人の、海と空に向かってたった独りでひたすら奏でている。
♪ 友がみな吾より偉く見ゆる日よ 花を買いきて妻としたしむ
という石川啄木の歌があるが、このCDはそんな日に繰り返し聴くのに適している。
我が生涯の最愛の音盤である。
先日私がこれまででもっとも感銘を受けたクラシックの生演奏について非常に興奮した記事を書いてしまったが、あほうついでにそれではCDのベストは何かといえば、そのひとつはバーンスタインの「ROMANTIC FAVORITES FOR STRINGS」といういわゆるアダージョ物の寄せ集めである。
このCDは確か国内版もCBSソニーから発売されていたように記憶するが、私が持っているのは輸入版で、若きバーンスタインがニューヨークフィルハーモニックを指揮した60年代の演奏である。
曲目はまず1910年生まれのアメリカの作曲家サミュエル・バーバーの代表作「弦楽のためのアダージョ」。
この曲は1986年に公開されたオリバーストーンのベトナム戦争映画の主題歌に使われて有名になった。ともかく弦が歌いに歌って悲壮の極みに至る。バーンスタインも、初演したトスカニーニ張りの名演で泣かせる。
次が英国の国民的作曲家ヴォーン・ウイリアムズが1570年後半に英国で流行した民謡をテーマにした「グリンスリーブズの主題による幻想曲」と同じ作曲家による「トーマス・タリスのテーマによる幻想曲」。トマース・タリスも16世紀の英国の教会音楽の作曲家であるが、ヴォーン・ウイリアムズが発掘した哀愁に満ちた懐かしい古雅な旋律を、バーンスタインは思いをこめてしみじみと歌い上げている。
それからロシアの文豪トルストイが感動したというチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番第二楽章の「アンダンテ・カンタービレ」、最後に19世紀末のウイーンで活躍した作曲家グスタフ・マーラーの交響曲第5番第四楽章の有名な「アダージエット」が演奏されてこの愛すべきコンピレーションが終る。
最後の作品はイタリアの名匠ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」のテーマ音楽で使われ、文字通り一世を風靡したがこれほどロマンチックな叙情歌も少ないだろう。
バーンスタインの演奏は後年のウイーンフィルとの演奏よりもこっちのほうが透明な悲しさが漂っている。ちなみにヴィスコンティは、わざとイタリアのローカルオケの演奏を使った。その鄙びた味わいがよい。
「アダージョ物」はカラヤンのが世界的なベストセラーになったが、バーンスタインはカラヤンや自らの後年の濃厚な味付けをいっさい廃して、恋に恋する純な若者の限りなきロマンと憧憬を、無窮の、そして無人の、海と空に向かってたった独りでひたすら奏でている。
♪ 友がみな吾より偉く見ゆる日よ 花を買いきて妻としたしむ
という石川啄木の歌があるが、このCDはそんな日に繰り返し聴くのに適している。
我が生涯の最愛の音盤である。
Sunday, May 13, 2007
鶯の歌
♪ある晴れた日に その5
長男と共に熊野神社に詣で、家に帰ってクレンペラー指揮フィルハーモニア管が伴奏するヴェートーヴェンの第三協奏曲をバレンボイムのピアノで聴いていた私は、突然そのCDのフォルテッシモをぶち破るような「ホー、ホケキョ!」という耳元の大きなさえずりにビックリ仰天してしまった。
見れば庭の柑橘樹の新緑の葉の間から渋い薄茶色の鶯が、パソコンのモニターに向かう余を見つめながら、またしても「ホー、ホケキョ!」と高らかに初夏の歌をうたうではないか。
このとき判然として余は悟った。
これやこの優美なる鶯こそは、過ぐる2002年の3月に忽然と身罷りし母上の生まれ変わりであることを……。
鶯よも一度聴かせよ母上に似たその声をもう一度
死に近き麝香揚羽よ食草をもはや選ばず産卵しおり
長男と共に熊野神社に詣で、家に帰ってクレンペラー指揮フィルハーモニア管が伴奏するヴェートーヴェンの第三協奏曲をバレンボイムのピアノで聴いていた私は、突然そのCDのフォルテッシモをぶち破るような「ホー、ホケキョ!」という耳元の大きなさえずりにビックリ仰天してしまった。
見れば庭の柑橘樹の新緑の葉の間から渋い薄茶色の鶯が、パソコンのモニターに向かう余を見つめながら、またしても「ホー、ホケキョ!」と高らかに初夏の歌をうたうではないか。
このとき判然として余は悟った。
これやこの優美なる鶯こそは、過ぐる2002年の3月に忽然と身罷りし母上の生まれ変わりであることを……。
鶯よも一度聴かせよ母上に似たその声をもう一度
死に近き麝香揚羽よ食草をもはや選ばず産卵しおり
Saturday, May 12, 2007
母の日の歌
♪ある晴れた日に その4
一輪のカーネーションを携えて 遠き町より息子は帰宅す
息子よりカーネーションを手渡され 我を振り返る妻のその顔
いたつきに疲れ果てたる妻の眉 たちまち開く一輪の花
一輪のカーネーションを母に捧ぐ 良き息子なり天も嘉せよ
天使よりカーネーションを献じられし 妻は村の聖母となりたり
紅のカーネーションを献じたる 息子はただちに遠きに去れり
息子去り瓶に残りし紅き花 枯るることなくいつまでも咲け
一輪の花の命は果てるとも 我らの胸の花は散るまじ
窓際の瓶に挿したる紅き花 風のまにまに揺れて恥らう
我ら死に子等も死にたるある夕べ カーネーションは甦りの花
一輪のカーネーションを携えて 遠き町より息子は帰宅す
息子よりカーネーションを手渡され 我を振り返る妻のその顔
いたつきに疲れ果てたる妻の眉 たちまち開く一輪の花
一輪のカーネーションを母に捧ぐ 良き息子なり天も嘉せよ
天使よりカーネーションを献じられし 妻は村の聖母となりたり
紅のカーネーションを献じたる 息子はただちに遠きに去れり
息子去り瓶に残りし紅き花 枯るることなくいつまでも咲け
一輪の花の命は果てるとも 我らの胸の花は散るまじ
窓際の瓶に挿したる紅き花 風のまにまに揺れて恥らう
我ら死に子等も死にたるある夕べ カーネーションは甦りの花
Friday, May 11, 2007
孤高の天才、チェリビダッケに寄す
♪音楽千夜一夜第20回
私が生涯で聴いた最高の名演奏は、1977年に初来日した彼が、ミュンヘンフィルではなく、わが三流オーケストラの読響を率いてのブラームスの4番だった。
全曲を通じてもっとも印象的であったのは、異様なほどの緊張を強いる最弱音の多用でとりわけ終楽章でフルートが息も絶え絶えに心臓破りの峠を上る個所では、聴衆もかたずを呑んでこの未聞の演奏の行く末を見守ったのであった。
そうして私は、かつていかなる指揮者も連れて行こうとはしなかった、とおいところに連れていかれ、そこで突然ほうりだされたことを知って驚き、呆然とした。
私は拍手をすることすら忘れて、この交響曲の知られざる真価を思い知らされたのだった。77年10月29日の夜の東京文化会館の読響は、哀れな凡才小澤の指揮するウイーンフィルよりも千層倍も素晴らしかった!
ところが、その翌年3月17日の横浜県民ホールのチェリビダッケと読響はもっともっと凄かったのである。
レスピーギの「ローマの松」の「アッピア街道の松」のクライマックスのところで、突然眼と頭の中が真っ赤に染まっってしまったわたしが、もうどうしようもなく興奮して、というよりも、県民ホールの舞台から2階席まで直射される凄まじい音楽の光と影のようなもの、音楽の精髄そのものに直撃され、いたたまれず、止むに止まれず、座席から立ち上がってしまった。と思いねえ。
すると驚いたことには、私の周囲の興奮しきった大勢の聴衆が次々に立ち上がって、声のない歓声をチェリと読響に向かって送り続けているのだった。
ああ、あの友川カズキや甲本ヒロトのような演奏を、もう一度でいいから死ぬまでに聴きたいものだ。
思えば、来る日も来る日も国内と外来のプロとアマのオケをさんざん聴きまくった5年間の大半が、それこそくずのくその演奏で、あれこそがたった一度のほんとうの音楽体験だったのだ。
いやよそう。魂の奥の奥までえぐる音楽の恐ろしさと美しさ、その戦慄のきわまりの果ての姿かたちを、たった一度でも経験できた、私はほんとうに幸せだった。
ありがとう、チェリビダッケ! そしてもうあれ以来訳の分からんところへ行ってしまった読響!
私が生涯で聴いた最高の名演奏は、1977年に初来日した彼が、ミュンヘンフィルではなく、わが三流オーケストラの読響を率いてのブラームスの4番だった。
全曲を通じてもっとも印象的であったのは、異様なほどの緊張を強いる最弱音の多用でとりわけ終楽章でフルートが息も絶え絶えに心臓破りの峠を上る個所では、聴衆もかたずを呑んでこの未聞の演奏の行く末を見守ったのであった。
そうして私は、かつていかなる指揮者も連れて行こうとはしなかった、とおいところに連れていかれ、そこで突然ほうりだされたことを知って驚き、呆然とした。
私は拍手をすることすら忘れて、この交響曲の知られざる真価を思い知らされたのだった。77年10月29日の夜の東京文化会館の読響は、哀れな凡才小澤の指揮するウイーンフィルよりも千層倍も素晴らしかった!
ところが、その翌年3月17日の横浜県民ホールのチェリビダッケと読響はもっともっと凄かったのである。
レスピーギの「ローマの松」の「アッピア街道の松」のクライマックスのところで、突然眼と頭の中が真っ赤に染まっってしまったわたしが、もうどうしようもなく興奮して、というよりも、県民ホールの舞台から2階席まで直射される凄まじい音楽の光と影のようなもの、音楽の精髄そのものに直撃され、いたたまれず、止むに止まれず、座席から立ち上がってしまった。と思いねえ。
すると驚いたことには、私の周囲の興奮しきった大勢の聴衆が次々に立ち上がって、声のない歓声をチェリと読響に向かって送り続けているのだった。
ああ、あの友川カズキや甲本ヒロトのような演奏を、もう一度でいいから死ぬまでに聴きたいものだ。
思えば、来る日も来る日も国内と外来のプロとアマのオケをさんざん聴きまくった5年間の大半が、それこそくずのくその演奏で、あれこそがたった一度のほんとうの音楽体験だったのだ。
いやよそう。魂の奥の奥までえぐる音楽の恐ろしさと美しさ、その戦慄のきわまりの果ての姿かたちを、たった一度でも経験できた、私はほんとうに幸せだった。
ありがとう、チェリビダッケ! そしてもうあれ以来訳の分からんところへ行ってしまった読響!
Thursday, May 10, 2007
中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」を読む
降っても照っても第13回& ♪音楽千夜一夜第19回
カラヤン対フルトヴェングラー。私はやはり前者の音楽よりは後者のそれを好むが、これほど詳しく2人の巨人の対決の様相を教えてくれた本は初めてだ。
音楽の世界に荒々しく侵入する政治と嫉妬と闘争。人間である限りは死ぬまでのがれられないその葛藤が時系列を追ってこれでもか、これでもかと描かれる本書は、クラシック評伝の白眉といえよう。
とりわけ全盛期にあって病魔と聴覚の異常に襲われ、自殺同様に死んでいくフルトヴェングラーの晩年の描写は鬼気迫るものがある。
でももう一年だけ生き延びてステレオによるワグナーの「指輪」の全曲録音を入れて欲しかったなあ。
51年夏に再開されたバイロイト音楽祭の初日に振ったフルベンの第9は、レコード史上空前にして恐らくは絶後の名演と謳われているが、この演奏の直後にかの偉大なるレコードプロデユーサー、ウオルター・レッグが終演後の楽屋を訪れてその演奏を酷評したという。
そのためにフルベンは2日間立ち直れなかったそうだが、これはレッグのほうが正しいかもしれない。あのどの奏者もついていけない気狂いじみた最終楽章は、普通のスタジオレコーデイングなら正規録音として採用されない体のものであろう。
それにしてもカラヤンとフルトヴェングラー以上に私が高く評価する天才セルゲイ・チエェリビダッケの失墜は、ほんとうに残念である。
10年間に400回以上のコンサートを指揮してベルリンの聴衆から圧倒的に喝采されたが、ベルリンフィルの団員からは圧倒的に不人気であったチェリと、戦前から数えてもたった10回しか公演していない如才の無いカラヤン。
チェリがもう少し人間的に成熟していれば、狡猾なカラヤンに代わって当然彼がこの世界最高のオーケストラの正式指揮者に任命されていたはずだ。
ああ、可哀相で限りなくあほだったチェリビダッケ。
カラヤン対フルトヴェングラー。私はやはり前者の音楽よりは後者のそれを好むが、これほど詳しく2人の巨人の対決の様相を教えてくれた本は初めてだ。
音楽の世界に荒々しく侵入する政治と嫉妬と闘争。人間である限りは死ぬまでのがれられないその葛藤が時系列を追ってこれでもか、これでもかと描かれる本書は、クラシック評伝の白眉といえよう。
とりわけ全盛期にあって病魔と聴覚の異常に襲われ、自殺同様に死んでいくフルトヴェングラーの晩年の描写は鬼気迫るものがある。
でももう一年だけ生き延びてステレオによるワグナーの「指輪」の全曲録音を入れて欲しかったなあ。
51年夏に再開されたバイロイト音楽祭の初日に振ったフルベンの第9は、レコード史上空前にして恐らくは絶後の名演と謳われているが、この演奏の直後にかの偉大なるレコードプロデユーサー、ウオルター・レッグが終演後の楽屋を訪れてその演奏を酷評したという。
そのためにフルベンは2日間立ち直れなかったそうだが、これはレッグのほうが正しいかもしれない。あのどの奏者もついていけない気狂いじみた最終楽章は、普通のスタジオレコーデイングなら正規録音として採用されない体のものであろう。
それにしてもカラヤンとフルトヴェングラー以上に私が高く評価する天才セルゲイ・チエェリビダッケの失墜は、ほんとうに残念である。
10年間に400回以上のコンサートを指揮してベルリンの聴衆から圧倒的に喝采されたが、ベルリンフィルの団員からは圧倒的に不人気であったチェリと、戦前から数えてもたった10回しか公演していない如才の無いカラヤン。
チェリがもう少し人間的に成熟していれば、狡猾なカラヤンに代わって当然彼がこの世界最高のオーケストラの正式指揮者に任命されていたはずだ。
ああ、可哀相で限りなくあほだったチェリビダッケ。
Wednesday, May 09, 2007
大石芳野「無告の民-カンボジアの証言」展を見る
降っても照っても第12回
中野坂上の写大ギャラリーで大石芳野氏の「無告の民-カンボジアの証言」展を見る。
氏は80年から81年にかけて現地に入り、ポルポト派によって圧殺されたカンボジアの民衆の受難をモノクロームの静謐な画面に克明に定着した。
危険をものともせずに淡々と撮りあげた誠実なドキュメントである。
ポルポト派は73年から79年までおよそ300万人の無辜の民を拷問し、焼き尽くし、虐殺し尽くした。
そのためにカンボジアの医師、教師、インテリゲンチャはほとんど全滅したといわれている。
拷問で流された血潮、晒されたシャレコウベ、大量虐殺され穴に埋められたその現場…。
悲劇的な大惨事の後を尋ねて、カメラウーマンは万感を押し殺してワンカットずつシャッターを切る。
シャッターを押そうか、押すまいか、というためらいが見るものに伝わってくるようだ。
(6月3日まで、10時から8時まで。無料無休)
中野坂上の写大ギャラリーで大石芳野氏の「無告の民-カンボジアの証言」展を見る。
氏は80年から81年にかけて現地に入り、ポルポト派によって圧殺されたカンボジアの民衆の受難をモノクロームの静謐な画面に克明に定着した。
危険をものともせずに淡々と撮りあげた誠実なドキュメントである。
ポルポト派は73年から79年までおよそ300万人の無辜の民を拷問し、焼き尽くし、虐殺し尽くした。
そのためにカンボジアの医師、教師、インテリゲンチャはほとんど全滅したといわれている。
拷問で流された血潮、晒されたシャレコウベ、大量虐殺され穴に埋められたその現場…。
悲劇的な大惨事の後を尋ねて、カメラウーマンは万感を押し殺してワンカットずつシャッターを切る。
シャッターを押そうか、押すまいか、というためらいが見るものに伝わってくるようだ。
(6月3日まで、10時から8時まで。無料無休)
大船田園都市構想をもう一度
鎌倉ちょっと不思議な物語58回&勝手に建築観光・第14回
鎌倉市では現在大船駅東口市街地再開発事業を推進している。
駅周辺を再開発して商業、居住、交流機能を促進しようというものだが、そのなかで24階建て高さ90mの高層ビルを建てようとして市議会の多数派の反対にあい、予算案が否決されたので大慌て。
私のところにも市の拠点整備部再開発課というところからアンケート用紙が送られてきた。改めて市民の皆様のご意見を伺って再出発したいということなのだろう。
この街の市長は石渡徳一という人であるが、彼は最近建築業者のおおっぴらな違法行為にたいして認可の取り消しをしなかったというので住民や市議たちの反発にあい、その開発業者寄りの姿勢が、今回の予算案否決の原因になったといわれている。
元サントリー社員の彼は、私のオタマジャクシ保全や朝比奈周辺の環境汚染や産廃問題などへの回答では表向きは環境問題に理解があるように見えたが、実際はそうでもなかったようなのだ。
それはともかく、鎌倉の玄関口にあたる大船駅前の高層ビルは大変好ましくない。
京都や奈良や銀座でも高等観光地の最大の敵は高層ビルである。これあるために眺望がさえぎられ、景観が破壊される。
そのことは六本木や汐留だけでなく、全国の市街地、商業地で国民の皆さんがよくご存知のはずだ。
大船地区が鎌倉の一員であるかぎりは、鎌倉本体と同様の環境規制に従うべきだ。90メートルなんて論外である。
それにこの大船地区は、大正時代にあの有名な都市計画、大船田園都市が構想され実践された由緒ある場所なのである。
大正10年、東京渡辺銀行の渡辺六郎は、当時イギリスで生れていた田園都市構想に倣って、一面の田んぼと湿地の大船の地に、大船田園都市株式会社を興し、新鎌倉として分譲を開始した。
大船駅東口からかつて松竹大船撮影所があった駅東口一帯の土地はあの田園調布と同様にレンガ敷きの碁盤目の道路、上下水道、病院、公園などが整備されるという当時としては先進的な構想の町づくりであったが、残念ながら関東大震災や昭和初期の不景気などでこの素晴らしい都市計画は頓挫してしまった。
石渡市長は、どうしてこの緑と平和な市民生活の共存という先進的な構想を、現代の、現地において生かそうとしないのか?
鎌倉全市をユネスコの世界遺産に指定をめざし、歴史遺産を大切にし、その教訓に学ぼうと宣言している市長なら、まずは大正・昭和初期の先人の智恵に深く思いを致してほしいものである。
ちなみに同地区には大船田園都市株式会社が開発・分譲した小池邸と隣家の対馬邸の2軒だけが現存している。
山小屋(シャレ)風の玄関ポーチを中心とした北側正面と、複雑に重なり合うフランス瓦葺きの屋根は、大谷石の門柱や垣の石柱、前庭の樹木とともに大変魅力的な景観を形成している。(写真)
鎌倉市では現在大船駅東口市街地再開発事業を推進している。
駅周辺を再開発して商業、居住、交流機能を促進しようというものだが、そのなかで24階建て高さ90mの高層ビルを建てようとして市議会の多数派の反対にあい、予算案が否決されたので大慌て。
私のところにも市の拠点整備部再開発課というところからアンケート用紙が送られてきた。改めて市民の皆様のご意見を伺って再出発したいということなのだろう。
この街の市長は石渡徳一という人であるが、彼は最近建築業者のおおっぴらな違法行為にたいして認可の取り消しをしなかったというので住民や市議たちの反発にあい、その開発業者寄りの姿勢が、今回の予算案否決の原因になったといわれている。
元サントリー社員の彼は、私のオタマジャクシ保全や朝比奈周辺の環境汚染や産廃問題などへの回答では表向きは環境問題に理解があるように見えたが、実際はそうでもなかったようなのだ。
それはともかく、鎌倉の玄関口にあたる大船駅前の高層ビルは大変好ましくない。
京都や奈良や銀座でも高等観光地の最大の敵は高層ビルである。これあるために眺望がさえぎられ、景観が破壊される。
そのことは六本木や汐留だけでなく、全国の市街地、商業地で国民の皆さんがよくご存知のはずだ。
大船地区が鎌倉の一員であるかぎりは、鎌倉本体と同様の環境規制に従うべきだ。90メートルなんて論外である。
それにこの大船地区は、大正時代にあの有名な都市計画、大船田園都市が構想され実践された由緒ある場所なのである。
大正10年、東京渡辺銀行の渡辺六郎は、当時イギリスで生れていた田園都市構想に倣って、一面の田んぼと湿地の大船の地に、大船田園都市株式会社を興し、新鎌倉として分譲を開始した。
大船駅東口からかつて松竹大船撮影所があった駅東口一帯の土地はあの田園調布と同様にレンガ敷きの碁盤目の道路、上下水道、病院、公園などが整備されるという当時としては先進的な構想の町づくりであったが、残念ながら関東大震災や昭和初期の不景気などでこの素晴らしい都市計画は頓挫してしまった。
石渡市長は、どうしてこの緑と平和な市民生活の共存という先進的な構想を、現代の、現地において生かそうとしないのか?
鎌倉全市をユネスコの世界遺産に指定をめざし、歴史遺産を大切にし、その教訓に学ぼうと宣言している市長なら、まずは大正・昭和初期の先人の智恵に深く思いを致してほしいものである。
ちなみに同地区には大船田園都市株式会社が開発・分譲した小池邸と隣家の対馬邸の2軒だけが現存している。
山小屋(シャレ)風の玄関ポーチを中心とした北側正面と、複雑に重なり合うフランス瓦葺きの屋根は、大谷石の門柱や垣の石柱、前庭の樹木とともに大変魅力的な景観を形成している。(写真)
Monday, May 07, 2007
ある丹波の老人の話(21)
この天から降ったような金で、私はどん底まで下がりきって捨て値になっておった郡是の株を買いあさりました。
百姓たちは株が嫌になってしもうてタダにならんうちにと誰もかもが売り急いでおりました。私は綾部付近から和木、下原のほうへ行って買いまくりました。
買った株はすぐ抵当に入れて金を借り、その金でまた郡是株を買い続けたんでした。このときは高木銀行がよう便宜を図ってくれました。
やがて大正4年になると、郡是は窮余の策として60億円に増資し、優先株を発行しました。
その優先株が非常に有利な条件がついておったにもかかわらず、すっかり嫌われて払い込みの12円50銭ならなんぼでも買えました。
その頃私は蚕具の催青器を発明し、続いてオタフク暖炉を発明して実用新案をとり、波多野さんに推奨されて大成館(蚕種製造会社で郡是の別働隊)から発売され、私はその宣伝のために各地を回りました。
そのついでに私は三丹地方ばかりでなく、その頃分工場や乾繭場が新設されて郡是の新株式の特に多い津山、木津などへ行って優先株を買いあさったんでした。(第四話 株が当たった話その2)
百姓たちは株が嫌になってしもうてタダにならんうちにと誰もかもが売り急いでおりました。私は綾部付近から和木、下原のほうへ行って買いまくりました。
買った株はすぐ抵当に入れて金を借り、その金でまた郡是株を買い続けたんでした。このときは高木銀行がよう便宜を図ってくれました。
やがて大正4年になると、郡是は窮余の策として60億円に増資し、優先株を発行しました。
その優先株が非常に有利な条件がついておったにもかかわらず、すっかり嫌われて払い込みの12円50銭ならなんぼでも買えました。
その頃私は蚕具の催青器を発明し、続いてオタフク暖炉を発明して実用新案をとり、波多野さんに推奨されて大成館(蚕種製造会社で郡是の別働隊)から発売され、私はその宣伝のために各地を回りました。
そのついでに私は三丹地方ばかりでなく、その頃分工場や乾繭場が新設されて郡是の新株式の特に多い津山、木津などへ行って優先株を買いあさったんでした。(第四話 株が当たった話その2)
見城徹著「編集者という病い」を読む
降っても照っても第10回
1972年、イスラエルのテルアビブ郊外の空港で自動小銃を乱射しながら手投げ爆弾を投げ、自らを肉片と化して死んでいった奥平剛士。
その存在が、著者の不眠不休、獅子奮迅の出版活動を支えている、らしい。
連合赤軍の決死的闘争、というよりはイデオロギーを超越した自己滅却の蛮勇に衝撃を受け、いわば死の影で、死をバネにして、死からの跳躍を試みようとしているかのようである。
そうでなければあれほどの仕事ができるわけが無いと、妙に納得できる。
日本文芸史上樗陰以来最高最大の編集者が初めて書いた自伝である。といっても序文以外はすべてどこかに書いたものの寄せ集めであるのが残念だ。
ある夜、著者は私に「それでは今度一度お茶でも飲みましょう」と語ったが、お茶はついに飲まれずにおよそ20年の歳月が流れたのであった。
1972年、イスラエルのテルアビブ郊外の空港で自動小銃を乱射しながら手投げ爆弾を投げ、自らを肉片と化して死んでいった奥平剛士。
その存在が、著者の不眠不休、獅子奮迅の出版活動を支えている、らしい。
連合赤軍の決死的闘争、というよりはイデオロギーを超越した自己滅却の蛮勇に衝撃を受け、いわば死の影で、死をバネにして、死からの跳躍を試みようとしているかのようである。
そうでなければあれほどの仕事ができるわけが無いと、妙に納得できる。
日本文芸史上樗陰以来最高最大の編集者が初めて書いた自伝である。といっても序文以外はすべてどこかに書いたものの寄せ集めであるのが残念だ。
ある夜、著者は私に「それでは今度一度お茶でも飲みましょう」と語ったが、お茶はついに飲まれずにおよそ20年の歳月が流れたのであった。
Saturday, May 05, 2007
神奈川県立近代美術館を歩く
鎌倉ちょっと不思議な物語57回&勝手に建築観光・第13回
子どもの日は八幡様は雑踏でごったがえしていたが、一歩木立の中に入ると閑静だった。
名匠坂倉準三が設計した東急文化会館はすでに消失したが、ここ鎌倉の神奈川県立近代美術館は降り積もる歳月の底でどっしりと、そして軽やかに持ちこたえている。
最近東京のど真ん中にできた3つの美術館なぞ、犬に食われてしまっても構わないけれど、この小さな美術館だけは、どうかいつまでもこの源平池のほとりの美しい景観の中で独り静に佇んでいてほしいものだ。
ここは美術館がすでにして生きた美術でも、ある数少ない文化遺産なのである。
家族揃って開催中の「近代絵画の名品展―高橋由一から昭和初期まで」を見る。
すでに何度も見たことのある懐かしい作品たちを、明るい緑の光が差し込む部屋から部屋へとぽつりぽつりと散歩しながら見てゆくこの喜びは無上のものである。
高橋由一の「江ノ島図」、黒田清輝の「逗子五景」、青木繁の「真善美」、高村光太郎の、萬鉄五郎の、岸田劉生のひとつひとつがしみじみと胸の奥に染み込んでいく。
そうしてやはり私が好きな松本竣介の油絵が4点出ていた。「建物」、「立ち話」、「R夫人像」、「自画像」であるが、そのうち死の7年前に描かれた自画像が特に素晴らしかった。
36歳で死んだ竣介は、その聞こえない耳を澄ませて、いつまでも何者かの声に耳を傾けているのだった。
子どもの日は八幡様は雑踏でごったがえしていたが、一歩木立の中に入ると閑静だった。
名匠坂倉準三が設計した東急文化会館はすでに消失したが、ここ鎌倉の神奈川県立近代美術館は降り積もる歳月の底でどっしりと、そして軽やかに持ちこたえている。
最近東京のど真ん中にできた3つの美術館なぞ、犬に食われてしまっても構わないけれど、この小さな美術館だけは、どうかいつまでもこの源平池のほとりの美しい景観の中で独り静に佇んでいてほしいものだ。
ここは美術館がすでにして生きた美術でも、ある数少ない文化遺産なのである。
家族揃って開催中の「近代絵画の名品展―高橋由一から昭和初期まで」を見る。
すでに何度も見たことのある懐かしい作品たちを、明るい緑の光が差し込む部屋から部屋へとぽつりぽつりと散歩しながら見てゆくこの喜びは無上のものである。
高橋由一の「江ノ島図」、黒田清輝の「逗子五景」、青木繁の「真善美」、高村光太郎の、萬鉄五郎の、岸田劉生のひとつひとつがしみじみと胸の奥に染み込んでいく。
そうしてやはり私が好きな松本竣介の油絵が4点出ていた。「建物」、「立ち話」、「R夫人像」、「自画像」であるが、そのうち死の7年前に描かれた自画像が特に素晴らしかった。
36歳で死んだ竣介は、その聞こえない耳を澄ませて、いつまでも何者かの声に耳を傾けているのだった。
Friday, May 04, 2007
夢のような話
ある丹波の老人の話(20)
大正三年に、あの欧州大戦が勃発しました。
糸価が大暴落したので、波多野鶴吉翁の郡是製糸会社は払込資本金十四億余円に対して、三十余億円の大損をしてしまいました。
当時「これで郡是はつぶれる」という噂が高まり、二十円株がわずか四、五円の安値に落ちてしまったのです。
波多野翁に満腔の崇敬と信頼を表し、大の郡是びいきだった私は、情けなくてたまりませんでした。
波多野さんほどの人のやる仕事がつぶれるような気遣いはない。いま悪くともきっと立ち直ると確信していた私は、金があればあの際限もなく下がっていく株を片っ端から買って、郡是を救いたい。波多野さんを助けたいと思ったんやけど、まだ借金地獄にあえいでいる私に、株を買うような金なんて一文だってありはしまへんどした。
その頃、蚕業講習所拡張のため、傍にある私の所有地三畝歩あまりの桑園を売ってくれと教師の西村太洲君から話がありました。
そのとき私はようやく差し押さえを解いてもらうだけの返金はしていたとはいえ、まだ残りの借金が山ほどあって、この桑園も二重三重の抵当に入っとりましたから、売るにしてもその分を払ってからでないと不可能やったんです。
それに「そんなことをしたところで、私の手に入る金よりは債権者に渡す金が多いに違いないから、余裕のない私にはとてもできない」と断ると、西村君は、「そこはうまくやるつもりだから僕に任してくれ」というんでした。
ところが、それからしばらくすると西村君がやってきて、
「万事うまく行った。これだけ余った」と言って、五十四円という当時では少なからぬ金を私に呉れたんです。
これはそれこそまるで夢のような話で、私はなんだかタダからお釣りをもろうたような気がしたもんでした。 (第四話 株が当たった話その1)
大正三年に、あの欧州大戦が勃発しました。
糸価が大暴落したので、波多野鶴吉翁の郡是製糸会社は払込資本金十四億余円に対して、三十余億円の大損をしてしまいました。
当時「これで郡是はつぶれる」という噂が高まり、二十円株がわずか四、五円の安値に落ちてしまったのです。
波多野翁に満腔の崇敬と信頼を表し、大の郡是びいきだった私は、情けなくてたまりませんでした。
波多野さんほどの人のやる仕事がつぶれるような気遣いはない。いま悪くともきっと立ち直ると確信していた私は、金があればあの際限もなく下がっていく株を片っ端から買って、郡是を救いたい。波多野さんを助けたいと思ったんやけど、まだ借金地獄にあえいでいる私に、株を買うような金なんて一文だってありはしまへんどした。
その頃、蚕業講習所拡張のため、傍にある私の所有地三畝歩あまりの桑園を売ってくれと教師の西村太洲君から話がありました。
そのとき私はようやく差し押さえを解いてもらうだけの返金はしていたとはいえ、まだ残りの借金が山ほどあって、この桑園も二重三重の抵当に入っとりましたから、売るにしてもその分を払ってからでないと不可能やったんです。
それに「そんなことをしたところで、私の手に入る金よりは債権者に渡す金が多いに違いないから、余裕のない私にはとてもできない」と断ると、西村君は、「そこはうまくやるつもりだから僕に任してくれ」というんでした。
ところが、それからしばらくすると西村君がやってきて、
「万事うまく行った。これだけ余った」と言って、五十四円という当時では少なからぬ金を私に呉れたんです。
これはそれこそまるで夢のような話で、私はなんだかタダからお釣りをもろうたような気がしたもんでした。 (第四話 株が当たった話その1)
Thursday, May 03, 2007
こんな夢を見た
子供たちは運動会のような、いや北朝鮮のマスゲームのようなものを、何者かに強制されて行っていた。
彼らは、梯子を伝って窓から大きな家の2階の部分にはいりこみ、そこから屋根に上り、指導者の合図で一斉に1階に向かって飛び降りるのだった。
1階といっても仕切りは無く、下には別のグループの子供たちが築地の市場に並べられたマグロのように無数に横たわっている。だから下の子供たちは、上の子供たちが飛び降りてくるまでに退去しないといけない。もしも速やかに退去しなければ現場は大混乱に陥り、怪我をする子も現れるだろう。
そう思いながら手に汗を握って見つめている私の目の前で、案の定事故が起こった。
たった一人落下する集団から逃げ遅れた子どもが、苦痛に顔をゆがめながら泣き出した。顔と、そして眼から血が流れている。それは知的障碍のある私の子どもだった。
私は全速力でその場に駆けつけたが、子どもは既にぐったりとしている。たぶんもう息はないだろう。
私は子どもの担任でこのマスゲームの責任者でもある体育の教師に詰め寄って、無我夢中で彼奴の首を絞めた。
教師は減点パパにそっくりの顔つきだった。自分の責任であることが分かっていたのだろう、青白い顔をしていたが、私が全力で首を絞め続けたのでどんどん血の気が引いてゆき、とうとう紙のようになった。私は「紙のようになる」という白さの比喩のほんとうの意味を始めて知った、と思った。
しかし私は、けっして減点パパを許しはしなかった。私は死んだ息子の仇を討たねばならなかった。
突然背後でフラッシュが光った。誰かがこの光景を撮影しているらしい。
振り返ると、どこかの広告で見覚えのある長身の外国人が、三脚の上でカメラを構えていた。
その男は最近東京湾岸の移動テントでいかがわしい写真展を開いていて、芸術の何たるかを理解しない無知な人々をまるでディズニーランドか木下サーカスのように引き寄せているあやしい男だった。
ひざまずいた巨大なインド象の前で、小さな少年が読書をしている。そんな見え透いた大衆受けを狙った写真ばかりを撮っているフォニーなクリエーターだ。
私は、減点パパの首からこわばった両手をやっと振り放すと、ゆっくりその長身のカメラマンに向かっていた。血まみれの両の手をタラバガニのように動かしながら……。
彼らは、梯子を伝って窓から大きな家の2階の部分にはいりこみ、そこから屋根に上り、指導者の合図で一斉に1階に向かって飛び降りるのだった。
1階といっても仕切りは無く、下には別のグループの子供たちが築地の市場に並べられたマグロのように無数に横たわっている。だから下の子供たちは、上の子供たちが飛び降りてくるまでに退去しないといけない。もしも速やかに退去しなければ現場は大混乱に陥り、怪我をする子も現れるだろう。
そう思いながら手に汗を握って見つめている私の目の前で、案の定事故が起こった。
たった一人落下する集団から逃げ遅れた子どもが、苦痛に顔をゆがめながら泣き出した。顔と、そして眼から血が流れている。それは知的障碍のある私の子どもだった。
私は全速力でその場に駆けつけたが、子どもは既にぐったりとしている。たぶんもう息はないだろう。
私は子どもの担任でこのマスゲームの責任者でもある体育の教師に詰め寄って、無我夢中で彼奴の首を絞めた。
教師は減点パパにそっくりの顔つきだった。自分の責任であることが分かっていたのだろう、青白い顔をしていたが、私が全力で首を絞め続けたのでどんどん血の気が引いてゆき、とうとう紙のようになった。私は「紙のようになる」という白さの比喩のほんとうの意味を始めて知った、と思った。
しかし私は、けっして減点パパを許しはしなかった。私は死んだ息子の仇を討たねばならなかった。
突然背後でフラッシュが光った。誰かがこの光景を撮影しているらしい。
振り返ると、どこかの広告で見覚えのある長身の外国人が、三脚の上でカメラを構えていた。
その男は最近東京湾岸の移動テントでいかがわしい写真展を開いていて、芸術の何たるかを理解しない無知な人々をまるでディズニーランドか木下サーカスのように引き寄せているあやしい男だった。
ひざまずいた巨大なインド象の前で、小さな少年が読書をしている。そんな見え透いた大衆受けを狙った写真ばかりを撮っているフォニーなクリエーターだ。
私は、減点パパの首からこわばった両手をやっと振り放すと、ゆっくりその長身のカメラマンに向かっていた。血まみれの両の手をタラバガニのように動かしながら……。
Wednesday, May 02, 2007
降っても照っても 第9回
緑陰消閑
@高橋源一郎「ニッポンの小説」
「文学とは遠くにある異なったものを結びつけるあるやり方です」と、語りながら始まる高橋教授の終わりなき大文学論。その真摯な思索に脱帽す。
とうとう中原昌也、猫田通子の「うわさのベーコン」を産出するにいたったニッポンの小説。文学は、インディヴユジアルを個人ではなく、一個人民、一身ノ身持、人民各個と訳していた時代にもう一度帰らなければなるまい。
はじめは処女のごとく、終わりは脱兎の如し。著者が最後に荒川洋治の「文芸時評という感想」を読み解きながら現代日本の小説を分析するくだりは迫力がある。
@中原昌也著「KKKベストセラー」
小説家業は売春婦稼業だ。なにもアイデアなぞないのに、はした金のために身を粉にして売文を書くのが苦痛で仕方がない。卑劣な島田雅彦のような自分はハンサムなのに中原のような他人の醜い容貌を揶揄する卑劣な人権無視の小説家は大嫌いだ。ああ、嫌だ、嫌だ。早くこんな業界から足を洗いたい…。
と同封のCDでも世を呪い、己を呪う著者。
そんなに嫌なら書くのを止めろ。こんな無内容な駄文を江湖の読者に供する朝日新聞社も何を考えているのか。実に下らない。世も末だ。
@G・ガルシア・マルケス「落葉」他12編
高橋源一郎は、ニッポンの小説は100年間にわたって死について直接描こうとしなかったと説くが、これやこのマルケスこそは源ちゃんが力説する「死」を描いた小説ではないだろうか? 中篇の「落葉」は全編に死の予感、いや死そのものが主人公としてあらゆる時間と空間を占拠し、ラテンアメリカ風諸行無常の仏教観がむなしく吹き抜ける。
@高橋源一郎「ニッポンの小説」
「文学とは遠くにある異なったものを結びつけるあるやり方です」と、語りながら始まる高橋教授の終わりなき大文学論。その真摯な思索に脱帽す。
とうとう中原昌也、猫田通子の「うわさのベーコン」を産出するにいたったニッポンの小説。文学は、インディヴユジアルを個人ではなく、一個人民、一身ノ身持、人民各個と訳していた時代にもう一度帰らなければなるまい。
はじめは処女のごとく、終わりは脱兎の如し。著者が最後に荒川洋治の「文芸時評という感想」を読み解きながら現代日本の小説を分析するくだりは迫力がある。
@中原昌也著「KKKベストセラー」
小説家業は売春婦稼業だ。なにもアイデアなぞないのに、はした金のために身を粉にして売文を書くのが苦痛で仕方がない。卑劣な島田雅彦のような自分はハンサムなのに中原のような他人の醜い容貌を揶揄する卑劣な人権無視の小説家は大嫌いだ。ああ、嫌だ、嫌だ。早くこんな業界から足を洗いたい…。
と同封のCDでも世を呪い、己を呪う著者。
そんなに嫌なら書くのを止めろ。こんな無内容な駄文を江湖の読者に供する朝日新聞社も何を考えているのか。実に下らない。世も末だ。
@G・ガルシア・マルケス「落葉」他12編
高橋源一郎は、ニッポンの小説は100年間にわたって死について直接描こうとしなかったと説くが、これやこのマルケスこそは源ちゃんが力説する「死」を描いた小説ではないだろうか? 中篇の「落葉」は全編に死の予感、いや死そのものが主人公としてあらゆる時間と空間を占拠し、ラテンアメリカ風諸行無常の仏教観がむなしく吹き抜ける。
Tuesday, May 01, 2007
右か、左か、真ん中か
♪バガテル op18
昨日中野坂上の学校で、広告代理店を受けるという大学生から就職相談を受けたときのこと。
彼女が、「自己PRの、“どんな新聞を購読しているか”という欄に、朝日新聞と書いてもいいでしょうか?」と尋ねるので「君が実際に購読しているのなら正直にそう書けばいいじゃないか」と言うと、「読売ならともかく、朝日は左翼的な新聞だから、私落とされるのではないでしょうか?」と余計な心配をしているのでこれにはちょっと驚いた。
あのブル新(死語?)の代表選手である朝日のどこが左翼的なのか、私などは理解に苦しむが、ともかく朝日新聞が「左翼的」になってしまったこの20年について改めて感慨を新たにしたことだった。
しかしもしも朝日が左翼なら、他の新聞はどうなるのだろう?
毎日も左翼偏向で、まあまあニュウトラルの日経を挟んで読売は右翼。部数凋落につき関西では夕刊を廃止したサンケイはさしずめ超右翼であろう。
しかし私が便宜上勝手に右翼に編入した読売が、日本帝国主義の戦争責任についてしぶとく追及し、悪名高きナベツネ主筆が、意外にも?靖国神社参拝問題で朝日と同じ見解であることが判明するなど、私のこの安直な左右のレッテル張りには、多少の不安定要因もある。ただし前首相の靖国神社参拝に関して賛成しているのは、大手?新聞社中ではサンケイのみである。
新聞に続いて同じ伝で出版社にレッテルを貼ると、朝日は相変わらず左翼で、講談社は左翼偏向、ニュウトラルはよくわからないけど集英社と光文社。そして読売資本に入った中公新社はまあ右翼で、新潮、文春、小学館はみな右翼偏向ないし一部超右翼であろう。
同様にしてテレビ局においても同一資本関係での共通項は認められるが、意外と左翼的?なのはNHKであろう。しかし大半の局が娯楽番組に血道をあげ報道関係はお茶をにごす程度なので判定不能だ。
このように、もはや民放テレビ局はあらゆる意味で“社会の木鐸”(古すぎ?)やオピニオンリーダーではない。従ってテレビ画面での言説においては誰かが誰かに殺されることはないが、雑誌や新聞での意見の開陳においてはそれが頻繁に繰り返されている。(20年前の朝日新聞阪神支局の小尻知博記者)
言論の自由に命をかけるジャーナリストは新聞と雑誌メデイアだけにわずかに偏在し、弛緩しきった痴呆番組を垂れ流すあれらの局アナやキャスターたちの憂い無き笑顔の中には間違っても存在しないのである。
安倍政権による憲法改定の策動が露骨になるなかで、わが帝国におけるジャーナリズムの右翼的再編とファシズム勢力のあくことなき伸張、それにともなう白色テロルの横行はますます跳梁をきわめることだろう。
昨日中野坂上の学校で、広告代理店を受けるという大学生から就職相談を受けたときのこと。
彼女が、「自己PRの、“どんな新聞を購読しているか”という欄に、朝日新聞と書いてもいいでしょうか?」と尋ねるので「君が実際に購読しているのなら正直にそう書けばいいじゃないか」と言うと、「読売ならともかく、朝日は左翼的な新聞だから、私落とされるのではないでしょうか?」と余計な心配をしているのでこれにはちょっと驚いた。
あのブル新(死語?)の代表選手である朝日のどこが左翼的なのか、私などは理解に苦しむが、ともかく朝日新聞が「左翼的」になってしまったこの20年について改めて感慨を新たにしたことだった。
しかしもしも朝日が左翼なら、他の新聞はどうなるのだろう?
毎日も左翼偏向で、まあまあニュウトラルの日経を挟んで読売は右翼。部数凋落につき関西では夕刊を廃止したサンケイはさしずめ超右翼であろう。
しかし私が便宜上勝手に右翼に編入した読売が、日本帝国主義の戦争責任についてしぶとく追及し、悪名高きナベツネ主筆が、意外にも?靖国神社参拝問題で朝日と同じ見解であることが判明するなど、私のこの安直な左右のレッテル張りには、多少の不安定要因もある。ただし前首相の靖国神社参拝に関して賛成しているのは、大手?新聞社中ではサンケイのみである。
新聞に続いて同じ伝で出版社にレッテルを貼ると、朝日は相変わらず左翼で、講談社は左翼偏向、ニュウトラルはよくわからないけど集英社と光文社。そして読売資本に入った中公新社はまあ右翼で、新潮、文春、小学館はみな右翼偏向ないし一部超右翼であろう。
同様にしてテレビ局においても同一資本関係での共通項は認められるが、意外と左翼的?なのはNHKであろう。しかし大半の局が娯楽番組に血道をあげ報道関係はお茶をにごす程度なので判定不能だ。
このように、もはや民放テレビ局はあらゆる意味で“社会の木鐸”(古すぎ?)やオピニオンリーダーではない。従ってテレビ画面での言説においては誰かが誰かに殺されることはないが、雑誌や新聞での意見の開陳においてはそれが頻繁に繰り返されている。(20年前の朝日新聞阪神支局の小尻知博記者)
言論の自由に命をかけるジャーナリストは新聞と雑誌メデイアだけにわずかに偏在し、弛緩しきった痴呆番組を垂れ流すあれらの局アナやキャスターたちの憂い無き笑顔の中には間違っても存在しないのである。
安倍政権による憲法改定の策動が露骨になるなかで、わが帝国におけるジャーナリズムの右翼的再編とファシズム勢力のあくことなき伸張、それにともなう白色テロルの横行はますます跳梁をきわめることだろう。
Monday, April 30, 2007
少年よ、偉くなるな!
少年よ、偉くなるな!
♪バガテル op17
財団法人「日本青少年研究所」の調査では、「偉くなりたい」と思っているわが国の高校生の割合は、米中韓国の3分の1程度の8%だという。
ちなみに中国が34%、韓国23%、米国22%だそうだが、この結果はたいへん結構だと私は思う。
さらに結構なのは、「のんびりと暮らしていきたい」高校生は、わが国が43%と最高。「多少退屈でも平穏な生涯を送りたい」でも最高ポイントの21%、「大きな組織の中で自分の力を発揮したい」では諸国中最低の29%というので、私は実に実に久しぶりにうれしくなった。
他人や他国の人々よりも「己を偉くせよ」、などという、わかったような、しかしまるで訳の分からない無内容な前進教育を、かの聖徳太子の御世から受け続けた結果が、天地天皇と豊臣秀吉による朝鮮侵略であり、飛んでイスタンブール、じゃなかった日清、日露の大戦であり、その結果がすぐる2度の世界大戦である。
黄色い猿のような顔をした(漱石)アジアの孤島の田舎者が、夜郎事大に極東の解放者、などと思い上がり、あまつさえ西欧世界に覇を唱えようとイソップの蛙よろしく愛国的に力みかえる。
いつか来た道をまたぞろ我ら陛下の臣民、屁にこそ死なめと一億3500万こぞりて辿らんとする今日この頃、「偉くなりたくない」「のんびりと暮らしていきたい」若者たちの登場こそは、げに神国ニッポンの未来を照らす唯一の光明である。
万歳!
♪バガテル op17
財団法人「日本青少年研究所」の調査では、「偉くなりたい」と思っているわが国の高校生の割合は、米中韓国の3分の1程度の8%だという。
ちなみに中国が34%、韓国23%、米国22%だそうだが、この結果はたいへん結構だと私は思う。
さらに結構なのは、「のんびりと暮らしていきたい」高校生は、わが国が43%と最高。「多少退屈でも平穏な生涯を送りたい」でも最高ポイントの21%、「大きな組織の中で自分の力を発揮したい」では諸国中最低の29%というので、私は実に実に久しぶりにうれしくなった。
他人や他国の人々よりも「己を偉くせよ」、などという、わかったような、しかしまるで訳の分からない無内容な前進教育を、かの聖徳太子の御世から受け続けた結果が、天地天皇と豊臣秀吉による朝鮮侵略であり、飛んでイスタンブール、じゃなかった日清、日露の大戦であり、その結果がすぐる2度の世界大戦である。
黄色い猿のような顔をした(漱石)アジアの孤島の田舎者が、夜郎事大に極東の解放者、などと思い上がり、あまつさえ西欧世界に覇を唱えようとイソップの蛙よろしく愛国的に力みかえる。
いつか来た道をまたぞろ我ら陛下の臣民、屁にこそ死なめと一億3500万こぞりて辿らんとする今日この頃、「偉くなりたくない」「のんびりと暮らしていきたい」若者たちの登場こそは、げに神国ニッポンの未来を照らす唯一の光明である。
万歳!
Sunday, April 29, 2007
追悼 ロストロポーヴィッチ
♪音楽千夜一夜 第18回
風薫る5月を目前にしてエリツィン前大統領の後を追うように、ロシア、というよりは旧ソ連のチェリスト&指揮者ロストロポーヴィッチがガンで80歳で亡くなった。
チェロ奏者としてのロストロの代表作は、やはり晩年のバッハの無伴奏組曲ということになるのであろう。
しかしそれはヨーヨーマの演奏よりはましとはいえ、残念ながら私にはつまらなかった。むしろ往年リヒテルとフィリップスに入れたベートーヴェンのチェロソナタの燃え滾る劇演が忘れがたい。
世間では、指揮者としてのロストロについてはまるで評価していないようだが、ワシントンナショナル響を率いて入れたショスタコーヴィッチの交響曲全集や20世紀最高のオペラのひとつ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の名演は、いつまでも私たちの胸を焦がすだろう。
しかし音楽の仕事もさることながら、ロストロ氏は、旧ソ連の社会ファシズム体制にあって人権と芸術表現の権利を守るために命懸けで戦った自由の戦士として後世に名を留めるであろう。
あのソルジェニーツィンを身を挺して自宅に匿い、頑迷な共産主義者と戦うためにエリツィン前大統領と共に内務省に立てこもった戦う老インテリゲンチャの姿は、中国天安門事件の民主化運動で戦車の前に立ちふさがった少年の姿に重なるようにしてときおりは私たちの脳裏に甦ることだろう。
風薫る5月を目前にしてエリツィン前大統領の後を追うように、ロシア、というよりは旧ソ連のチェリスト&指揮者ロストロポーヴィッチがガンで80歳で亡くなった。
チェロ奏者としてのロストロの代表作は、やはり晩年のバッハの無伴奏組曲ということになるのであろう。
しかしそれはヨーヨーマの演奏よりはましとはいえ、残念ながら私にはつまらなかった。むしろ往年リヒテルとフィリップスに入れたベートーヴェンのチェロソナタの燃え滾る劇演が忘れがたい。
世間では、指揮者としてのロストロについてはまるで評価していないようだが、ワシントンナショナル響を率いて入れたショスタコーヴィッチの交響曲全集や20世紀最高のオペラのひとつ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の名演は、いつまでも私たちの胸を焦がすだろう。
しかし音楽の仕事もさることながら、ロストロ氏は、旧ソ連の社会ファシズム体制にあって人権と芸術表現の権利を守るために命懸けで戦った自由の戦士として後世に名を留めるであろう。
あのソルジェニーツィンを身を挺して自宅に匿い、頑迷な共産主義者と戦うためにエリツィン前大統領と共に内務省に立てこもった戦う老インテリゲンチャの姿は、中国天安門事件の民主化運動で戦車の前に立ちふさがった少年の姿に重なるようにしてときおりは私たちの脳裏に甦ることだろう。
Saturday, April 28, 2007
暴かれた秘境
勝手に東京建築観光・第12回
ある年の夏の夕べ、私は千代田線の乃木坂を降りてS山紀信氏のアトリエを訪れた。
仕事の打ち合わせを終えた私が、アトリエの前の小路をぶらぶらと歩いていると、S昌夫という歌手が経営しているスタジオがあった。
そこを過ぎてさらに進むと、瀟洒な煉瓦色の低層住宅が静まり返っていた。
鬱蒼とした森に囲まれたその一画は、楠や椎の頭上からセミの鳴き声が響き渡り、舗装されない地面には木漏れ陽がゆらゆらと揺れ、群青色の夏の空には白い大きな雲が浮かんでいた。
静かだった。そして、誰もいなかった。
住宅群の入り口にはI倉建築事務所と書かれた門札があり、無人のエントランスを直進すると、同じ建築仲間のビッグネームI氏の名前が記されていた。
現代思想家としても知られるこの孤高の天才は、誰もがうらやむような東京に残された最後の秘境に住んでいたのだった。
それから十数年が経った。
ある日突然、クレーン車がうなりを上げてこの緑の館の隣接地に突入し、昼夜をわかたぬ突貫工事が始まった。当世流行の商業施設の建設が開始されたのである。
しかし秘境に住む二人の建築家は、このプロジェクトには招聘されなかった。
けれども彼らの最大のライバルが指名され、彼らの最愛の地からわずか数十メートルの地点に奇怪な両翼の鉄板長屋をこしらえるにおよんで、さすがに温和な紳士も内心の憤りを隠すことはできなかっただろう。
『この建築意匠は、そもそもは私の発想ではないか。それなのにどうして君が指名されるのだ? 私ならもっと素晴らしい建築を創造できたはずだ。君の東京案よりも私の福岡案が幾層倍も優れていたように……。いや、そんなことなどもはやどうでもよい。私の終の住処を、君たちはどうして白日の下に曝け出し、暴きだすのか? おお、建築家よ、呪われてあれ! かくも因果な職業がこの世にあるだろうか?』
東京ミッドタウンの「21-21デザインサイト」の前に立つと、私にはI氏のこんなうめき声が聞こえてくるような気がするのだ。
ある年の夏の夕べ、私は千代田線の乃木坂を降りてS山紀信氏のアトリエを訪れた。
仕事の打ち合わせを終えた私が、アトリエの前の小路をぶらぶらと歩いていると、S昌夫という歌手が経営しているスタジオがあった。
そこを過ぎてさらに進むと、瀟洒な煉瓦色の低層住宅が静まり返っていた。
鬱蒼とした森に囲まれたその一画は、楠や椎の頭上からセミの鳴き声が響き渡り、舗装されない地面には木漏れ陽がゆらゆらと揺れ、群青色の夏の空には白い大きな雲が浮かんでいた。
静かだった。そして、誰もいなかった。
住宅群の入り口にはI倉建築事務所と書かれた門札があり、無人のエントランスを直進すると、同じ建築仲間のビッグネームI氏の名前が記されていた。
現代思想家としても知られるこの孤高の天才は、誰もがうらやむような東京に残された最後の秘境に住んでいたのだった。
それから十数年が経った。
ある日突然、クレーン車がうなりを上げてこの緑の館の隣接地に突入し、昼夜をわかたぬ突貫工事が始まった。当世流行の商業施設の建設が開始されたのである。
しかし秘境に住む二人の建築家は、このプロジェクトには招聘されなかった。
けれども彼らの最大のライバルが指名され、彼らの最愛の地からわずか数十メートルの地点に奇怪な両翼の鉄板長屋をこしらえるにおよんで、さすがに温和な紳士も内心の憤りを隠すことはできなかっただろう。
『この建築意匠は、そもそもは私の発想ではないか。それなのにどうして君が指名されるのだ? 私ならもっと素晴らしい建築を創造できたはずだ。君の東京案よりも私の福岡案が幾層倍も優れていたように……。いや、そんなことなどもはやどうでもよい。私の終の住処を、君たちはどうして白日の下に曝け出し、暴きだすのか? おお、建築家よ、呪われてあれ! かくも因果な職業がこの世にあるだろうか?』
東京ミッドタウンの「21-21デザインサイト」の前に立つと、私にはI氏のこんなうめき声が聞こえてくるような気がするのだ。
Friday, April 27, 2007
東京ミッドタウンのガーデンを眺めながら
勝手に東京建築観光・第11回
歴史的風土を切り捨て、市場原理だけを優先して商業施設を乱開発する人たち。その土地固有の植生を無視して自分勝手な好き嫌いや趣味や流行で公共の場の園芸プランをわたくしする人たち。見た目や手入れや費用だけで街路樹を選定するおぞましい人たち……。
彼らはその土地に古くから棲む精霊の御業によって成仏できず、われら現代人の永遠の憧れである、あのワンダフルな靖国神社に小泉前首相や石原都知事とともに合祀されることも許されず、未来永劫にわたって神国不敬罪の罰を受けることだろう。
東京ミッドタウンのアトリウムや庭園に植えられている植物は、ほんらいは長州藩毛利家下屋敷の植生を想起すべきだと私は考えるのだが、実際に植えられているのは地霊になんの敬意も払わない“任意の素敵な植物群”である。
この庭にはナミアゲハやアオスジアゲハやモンシロチョウやエノキチョウが飛来することはあっても、その産卵と孵化が行われることはない。
土壌の設計の段階で、動植物の再生と再生産という視点が見失われ、生態系の循環が切り捨てられているのだ。
この土地の真の主人公である地下の微生物の「生産」を捨象し、この土地に定住しない人間たちの「消費」しか想定しない庭園では、時間と共に推移する生命に満ちた豊穣な自然は本質的には存在していない。
だからこの庭園は晴れやかではあっても、無個性であり、太宰のいう「ホロビニイタルアカルサ」に包まれた“カルチャーなき仇花”なのである。
そのガーデンは、東京のど真ん中で、生命の流通と交換を絶たれたまま、中空に停止している。根無し草として串刺しになり、すでに仮死の状態にある。
私はこれと同様な光景を、数年前の神宮外苑の「第1回ガーデニング大会」で見たような気がする。
そこには「我が懐かしき庭の記憶」というタイトルで、昭和初期の木造住宅と小さな庭が設営され、物干しに干された洗濯物が翻っていた。
驚いたことには、会場のいたるところに人工林が作られ、白樺林の間を縫って清らかな小川までがさらさらと流れているのであった。
それは確かに懐かしい光景ではあったが、あくまでも大量の資金と大量の植物や水や土土砂をどこかの自然を破壊してこの人工舞台に持ち込んだ“まがいもの”であった。
このイベントが終った後、誰がその白樺や桜や無数の草花を元の生育地に返還するのだろうか?
それなのに人々はその“贅沢なまがいもの”を、心の底から賛美しているのであった。
おお、なんと退廃した大宮人たちよ。そなたの鋭敏な感性と知性こそ呪われてあれ!
うるおいのない都市生活に自然を取り戻そうとするガーデニングに人気が集まり、その手法や技術が洗練されるのは文化の進歩である。
しかしこれは自然の復権ではなく、その反対の暴挙ではないだろうか。
そこには、長年に渡って田舎のゲンジボタルを乱獲し、観光ホテルの庭園に放って観光客を誘致していた都会人の傲慢と共通するような無知と傲慢が流れていた。
ゲンジボタル1匹と共生できなくて、なんの己がにんげんか!
いずれにしても、これからの建築は本体と同様、あるいはそれ以上に庭園や植樹のあり方に高邁な思想の差配が必要である、
と、私は砂上の楼閣に似た白痴的ガーデンの虚栄の美を見るともなく眺めながら考えたことであった。
歴史的風土を切り捨て、市場原理だけを優先して商業施設を乱開発する人たち。その土地固有の植生を無視して自分勝手な好き嫌いや趣味や流行で公共の場の園芸プランをわたくしする人たち。見た目や手入れや費用だけで街路樹を選定するおぞましい人たち……。
彼らはその土地に古くから棲む精霊の御業によって成仏できず、われら現代人の永遠の憧れである、あのワンダフルな靖国神社に小泉前首相や石原都知事とともに合祀されることも許されず、未来永劫にわたって神国不敬罪の罰を受けることだろう。
東京ミッドタウンのアトリウムや庭園に植えられている植物は、ほんらいは長州藩毛利家下屋敷の植生を想起すべきだと私は考えるのだが、実際に植えられているのは地霊になんの敬意も払わない“任意の素敵な植物群”である。
この庭にはナミアゲハやアオスジアゲハやモンシロチョウやエノキチョウが飛来することはあっても、その産卵と孵化が行われることはない。
土壌の設計の段階で、動植物の再生と再生産という視点が見失われ、生態系の循環が切り捨てられているのだ。
この土地の真の主人公である地下の微生物の「生産」を捨象し、この土地に定住しない人間たちの「消費」しか想定しない庭園では、時間と共に推移する生命に満ちた豊穣な自然は本質的には存在していない。
だからこの庭園は晴れやかではあっても、無個性であり、太宰のいう「ホロビニイタルアカルサ」に包まれた“カルチャーなき仇花”なのである。
そのガーデンは、東京のど真ん中で、生命の流通と交換を絶たれたまま、中空に停止している。根無し草として串刺しになり、すでに仮死の状態にある。
私はこれと同様な光景を、数年前の神宮外苑の「第1回ガーデニング大会」で見たような気がする。
そこには「我が懐かしき庭の記憶」というタイトルで、昭和初期の木造住宅と小さな庭が設営され、物干しに干された洗濯物が翻っていた。
驚いたことには、会場のいたるところに人工林が作られ、白樺林の間を縫って清らかな小川までがさらさらと流れているのであった。
それは確かに懐かしい光景ではあったが、あくまでも大量の資金と大量の植物や水や土土砂をどこかの自然を破壊してこの人工舞台に持ち込んだ“まがいもの”であった。
このイベントが終った後、誰がその白樺や桜や無数の草花を元の生育地に返還するのだろうか?
それなのに人々はその“贅沢なまがいもの”を、心の底から賛美しているのであった。
おお、なんと退廃した大宮人たちよ。そなたの鋭敏な感性と知性こそ呪われてあれ!
うるおいのない都市生活に自然を取り戻そうとするガーデニングに人気が集まり、その手法や技術が洗練されるのは文化の進歩である。
しかしこれは自然の復権ではなく、その反対の暴挙ではないだろうか。
そこには、長年に渡って田舎のゲンジボタルを乱獲し、観光ホテルの庭園に放って観光客を誘致していた都会人の傲慢と共通するような無知と傲慢が流れていた。
ゲンジボタル1匹と共生できなくて、なんの己がにんげんか!
いずれにしても、これからの建築は本体と同様、あるいはそれ以上に庭園や植樹のあり方に高邁な思想の差配が必要である、
と、私は砂上の楼閣に似た白痴的ガーデンの虚栄の美を見るともなく眺めながら考えたことであった。
Thursday, April 26, 2007
安藤忠雄と21-21デザインサイト
勝手に東京建築観光・第10回
東京ミッドタウンの乃木坂寄りには庭園があり、その奥には三宅一生氏などが立ち上げたデザイン開発の拠点「21-21デザインサイト」が低くかがまっていた。
設計はおなじみの安藤忠雄であるが、ここのコンセプトが三宅一生の“1枚の布”から生まれたものであるという安藤の主張はきわめていかがわしいものと思えた。
まあ一種のこじつけであろう。しかしながら、この「低く地面にかがまっている姿勢」は、その右側にまるで権力の象徴のように高く聳えるパワータワー(オント! オント!日建設計)よりも少しく謙虚であり、いくぶん知的であり、しかも、驚いたことにはそれらの虚塔より目立ってもいるのである!
超高層よりも低層平屋建てのほうが、豊かで人間らしい建築物であることは、すでに70年代から磯崎新などが唱えていたし、実際に磯崎が新宿副都心都庁案で師丹下健三のノートルダム案と敗北覚悟で張り合った提案でもあった。
だから安藤の「地上すれすれ案」とか「地下沈没案」などは磯崎案の周回遅れのアイデアかもしれないのである。
安藤は素朴な創案家だが、建築の先達のコンセプトを臆面もなく剽窃するし(「光の教会」など)、やれ環境だの、緑だの、花だの、人間性だのと、そのつど派生する流行のトレンドにはきわめて敏感な人だ。そうしていつものことながら細部の仕上げは見事な手際である。
しかしそのやり口を岡目八目よろしく眺めていると、彼特有の骨太コンセプトの適用がかなり大ザッパで、実際は環境問題の本質などには肉薄していないことが分かる。
例えば安藤は震災後の神戸にうるおいを取り戻すため、町のいたるところにハナミズキを植樹することを提案し、行政側に受け容れられた。
その結果、ほんらい神戸の植生とはまるで無関係な米国産のこの白い花は次第に神戸の市内に氾濫し、街は遠からずハナミズキだらけになるだろう。
それは新しい神戸らしさの植え付けには寄与するだろうが、海を渡ってやって来た古代の神々が戸をたたいたと伝えられるこの小さな漁港の来歴と風土と動植物にふさわしい贈り物であるか否かは、はなはだ疑問である。
またこれは安藤が手がけた淡路島の淡路夢舞台と直接関係はないと思うが、この島では様々な花を植えて全島で島起しをはかっているそうだ。
しかしながら、淡路島伝来の植物を夜郎自大に外部から持ち込むことは、他の動植物の外来種侵入と同様、生態系の維持にとって好ましくないのではないだろうか。
東京ミッドタウンの乃木坂寄りには庭園があり、その奥には三宅一生氏などが立ち上げたデザイン開発の拠点「21-21デザインサイト」が低くかがまっていた。
設計はおなじみの安藤忠雄であるが、ここのコンセプトが三宅一生の“1枚の布”から生まれたものであるという安藤の主張はきわめていかがわしいものと思えた。
まあ一種のこじつけであろう。しかしながら、この「低く地面にかがまっている姿勢」は、その右側にまるで権力の象徴のように高く聳えるパワータワー(オント! オント!日建設計)よりも少しく謙虚であり、いくぶん知的であり、しかも、驚いたことにはそれらの虚塔より目立ってもいるのである!
超高層よりも低層平屋建てのほうが、豊かで人間らしい建築物であることは、すでに70年代から磯崎新などが唱えていたし、実際に磯崎が新宿副都心都庁案で師丹下健三のノートルダム案と敗北覚悟で張り合った提案でもあった。
だから安藤の「地上すれすれ案」とか「地下沈没案」などは磯崎案の周回遅れのアイデアかもしれないのである。
安藤は素朴な創案家だが、建築の先達のコンセプトを臆面もなく剽窃するし(「光の教会」など)、やれ環境だの、緑だの、花だの、人間性だのと、そのつど派生する流行のトレンドにはきわめて敏感な人だ。そうしていつものことながら細部の仕上げは見事な手際である。
しかしそのやり口を岡目八目よろしく眺めていると、彼特有の骨太コンセプトの適用がかなり大ザッパで、実際は環境問題の本質などには肉薄していないことが分かる。
例えば安藤は震災後の神戸にうるおいを取り戻すため、町のいたるところにハナミズキを植樹することを提案し、行政側に受け容れられた。
その結果、ほんらい神戸の植生とはまるで無関係な米国産のこの白い花は次第に神戸の市内に氾濫し、街は遠からずハナミズキだらけになるだろう。
それは新しい神戸らしさの植え付けには寄与するだろうが、海を渡ってやって来た古代の神々が戸をたたいたと伝えられるこの小さな漁港の来歴と風土と動植物にふさわしい贈り物であるか否かは、はなはだ疑問である。
またこれは安藤が手がけた淡路島の淡路夢舞台と直接関係はないと思うが、この島では様々な花を植えて全島で島起しをはかっているそうだ。
しかしながら、淡路島伝来の植物を夜郎自大に外部から持ち込むことは、他の動植物の外来種侵入と同様、生態系の維持にとって好ましくないのではないだろうか。
Wednesday, April 25, 2007
東京ミッドタウン見物
東京ミッドタウン見物
勝手に東京建築観光・第9回
六本木の自衛隊跡地に三井不動産が開発した東京ミッドタウンを見物した。
ここは、江戸時代は長州藩毛利家の下屋敷、明治以降は陸軍歩兵第1連隊が置かれた場所である。
戦後米軍の接収を経て防衛庁が置かれたが、2000年5月に市ヶ谷へ移転したあとは自衛隊が使用していた。
当時は自衛隊といってもあまり殺伐とした雰囲気はなかった。低層平屋の建物があちこちに散在するなかを制服姿の隊員たちが談笑したり、のんびり敬礼などしている姿を見かけたものである。
ところで都民の迷惑を顧みず、天下の大東京を前後左右上下に開発する4つの巨大デベロッパーといえば東京都と三井、三菱、森グループだが、まずこの3番目の不動産屋が、かの六本木ヒルズを天空高くでっちあげた。
するてえと、名門?三井不動産も負けるものかと勇み立ち、おっとり刀で東京どまん中まで駆けつけ、最高級ホテルザ・リッツ・カールトン東京が入居する高層タワーやら、東西2個のビジネス棟やら、サントリー美術館やら、流行の商業施設やらをてんこもりにした複合施設東京ミッドタウンなるものをでっちあげたのであるんである。
開店してからそうとう日にちが経つというのに、そこらはおばはんの団体やら視察ビジネスマンやら上流社会を華麗に生きるあほばかセレブリティの母娘などなど、大勢の善男善女たちがうろうろしていた。
しかし私はといえば、彼らと私には何の精神的物質的紐帯がないことだけが残念であった。
私が知るこの一帯は、浪費と虚飾に少し倦み疲れた六本木のすがれた風情がかつては垂れ込めていて、その点だけは悪くなかったのだが、きょうびはいかなる風情も人情も皆無の無味乾燥無機地帯と化していた。まるで白痴の土地とはあいなった。
そのかわりに、ここは汐留であるといってもよく、品川と称してもよく、なんなら香港でも桑港でもロスでもNYというても代入可能な、大量の鉄とコンクリとガラスの大群が勝手にそそりたって、我ら人民を睥睨しておったのである。
「富士フィルムの人よ、君たちはほんとにこんなオフィスで働きたいのか?どっちかいうと夕張のほうがまし環境だと思うけど」と私はつぶやいたが、インフメーションの案内嬢は聞こえなかった振りをした。
もしかして大ガラスの1羽も飛んでいまかいか、と私はいまにも雨の降りそうな曇り空を見上げたが、幻影のそれさえ近づいてはこない。
しかたなくこの東京中央町ビルジングをもういちど凝視すると、驚いたことには、それは既にして21世紀の廃墟そのものなのであった。
「創建されるや否や既にして廃墟なのに、それがお前の眼には見えぬのか? 汝臣民、何故にあっけらかんと空虚なアトリウムをさすらうのじゃ? このかわいい阿呆どもよ」
と、私はひとりごちた。
ちなみに東京ミッドタウンの大半は、日本人好みの最大公約数メーカー日建設計が手がけ、サントリー美術館などの一部を隈研吾氏が担当したそうだ。
その隈氏は、相変わらず和風の木や紙にこだわっているというのだが、現地ではそれらは建築物総体のほんの一部を構成しているのみで、例えば青山の梅窓院やONE表参道と同様ほとんど存在感はない。
彼は「負ける建築」などとかっこいいことを言っているが、実際には「資本に負けた建築」、「世間に対するおためごかしの建築」ばかり作っているのではないだろうか?
勝手に東京建築観光・第9回
六本木の自衛隊跡地に三井不動産が開発した東京ミッドタウンを見物した。
ここは、江戸時代は長州藩毛利家の下屋敷、明治以降は陸軍歩兵第1連隊が置かれた場所である。
戦後米軍の接収を経て防衛庁が置かれたが、2000年5月に市ヶ谷へ移転したあとは自衛隊が使用していた。
当時は自衛隊といってもあまり殺伐とした雰囲気はなかった。低層平屋の建物があちこちに散在するなかを制服姿の隊員たちが談笑したり、のんびり敬礼などしている姿を見かけたものである。
ところで都民の迷惑を顧みず、天下の大東京を前後左右上下に開発する4つの巨大デベロッパーといえば東京都と三井、三菱、森グループだが、まずこの3番目の不動産屋が、かの六本木ヒルズを天空高くでっちあげた。
するてえと、名門?三井不動産も負けるものかと勇み立ち、おっとり刀で東京どまん中まで駆けつけ、最高級ホテルザ・リッツ・カールトン東京が入居する高層タワーやら、東西2個のビジネス棟やら、サントリー美術館やら、流行の商業施設やらをてんこもりにした複合施設東京ミッドタウンなるものをでっちあげたのであるんである。
開店してからそうとう日にちが経つというのに、そこらはおばはんの団体やら視察ビジネスマンやら上流社会を華麗に生きるあほばかセレブリティの母娘などなど、大勢の善男善女たちがうろうろしていた。
しかし私はといえば、彼らと私には何の精神的物質的紐帯がないことだけが残念であった。
私が知るこの一帯は、浪費と虚飾に少し倦み疲れた六本木のすがれた風情がかつては垂れ込めていて、その点だけは悪くなかったのだが、きょうびはいかなる風情も人情も皆無の無味乾燥無機地帯と化していた。まるで白痴の土地とはあいなった。
そのかわりに、ここは汐留であるといってもよく、品川と称してもよく、なんなら香港でも桑港でもロスでもNYというても代入可能な、大量の鉄とコンクリとガラスの大群が勝手にそそりたって、我ら人民を睥睨しておったのである。
「富士フィルムの人よ、君たちはほんとにこんなオフィスで働きたいのか?どっちかいうと夕張のほうがまし環境だと思うけど」と私はつぶやいたが、インフメーションの案内嬢は聞こえなかった振りをした。
もしかして大ガラスの1羽も飛んでいまかいか、と私はいまにも雨の降りそうな曇り空を見上げたが、幻影のそれさえ近づいてはこない。
しかたなくこの東京中央町ビルジングをもういちど凝視すると、驚いたことには、それは既にして21世紀の廃墟そのものなのであった。
「創建されるや否や既にして廃墟なのに、それがお前の眼には見えぬのか? 汝臣民、何故にあっけらかんと空虚なアトリウムをさすらうのじゃ? このかわいい阿呆どもよ」
と、私はひとりごちた。
ちなみに東京ミッドタウンの大半は、日本人好みの最大公約数メーカー日建設計が手がけ、サントリー美術館などの一部を隈研吾氏が担当したそうだ。
その隈氏は、相変わらず和風の木や紙にこだわっているというのだが、現地ではそれらは建築物総体のほんの一部を構成しているのみで、例えば青山の梅窓院やONE表参道と同様ほとんど存在感はない。
彼は「負ける建築」などとかっこいいことを言っているが、実際には「資本に負けた建築」、「世間に対するおためごかしの建築」ばかり作っているのではないだろうか?
Tuesday, April 24, 2007
モネ展を見る
降っても照っても 第8回
さて肝心の展覧会だが、私は印象派もモネも好きだが、このモネ展はあまり感心しなかった。
確かにあの睡蓮や英国の国会議事堂やビッグベンやウオータールー橋やルーアンの大聖堂などの名作は並んでいた。しかしなんだか世界各地から準主力作品の寄せ集めという希薄な印象はまぬかれない。
パリのオルセー美術館からやって来た「日傘の女性」(本展のポスターになっている)も、あそこにどっさり並べてある連作のうちの、比較的印象の薄い1点のみで、どうも隔靴掻痒の感がぬぐえない。
最近の東京はまたまたいやらしいバブルの時代に突入したとみえて、やたら美術館と演奏会場と展覧会とコンサートが増えてきた。
そうしてそのぶんどの展示も中身が薄くなってきているから、このモネ展もどうせそんなもんだろうと予想していたら、案の定そうだった。別に驚きもしなかったが、久しぶりの美術巡りなのでちと寂しくもあった。
さて世界から寄せ集めた全97点中、私のベスト2は、なぜかアサヒビール所蔵の「睡蓮」と「日本風太鼓橋」。
特に後者はお持ち帰りしたかった。でもサントリーならともかく、どうして営利第一のこんなビール会社がモネを持っているのだろう?
もしかしてトップに隠れた目利きがいるのかな。謎だ。
さて肝心の展覧会だが、私は印象派もモネも好きだが、このモネ展はあまり感心しなかった。
確かにあの睡蓮や英国の国会議事堂やビッグベンやウオータールー橋やルーアンの大聖堂などの名作は並んでいた。しかしなんだか世界各地から準主力作品の寄せ集めという希薄な印象はまぬかれない。
パリのオルセー美術館からやって来た「日傘の女性」(本展のポスターになっている)も、あそこにどっさり並べてある連作のうちの、比較的印象の薄い1点のみで、どうも隔靴掻痒の感がぬぐえない。
最近の東京はまたまたいやらしいバブルの時代に突入したとみえて、やたら美術館と演奏会場と展覧会とコンサートが増えてきた。
そうしてそのぶんどの展示も中身が薄くなってきているから、このモネ展もどうせそんなもんだろうと予想していたら、案の定そうだった。別に驚きもしなかったが、久しぶりの美術巡りなのでちと寂しくもあった。
さて世界から寄せ集めた全97点中、私のベスト2は、なぜかアサヒビール所蔵の「睡蓮」と「日本風太鼓橋」。
特に後者はお持ち帰りしたかった。でもサントリーならともかく、どうして営利第一のこんなビール会社がモネを持っているのだろう?
もしかしてトップに隠れた目利きがいるのかな。謎だ。
Monday, April 23, 2007
国立新美術館を見る
国立新美術館を見る
勝手に東京建築観光・第8回
黒川紀章が設計した新しい国立美術館を訪れ、ついでにモネ展を見物してきた。
まず美術館だが、さすが人騒がせな黒川らしくダイナミックな外装である。ガラスが丸みを帯びて大きく波打っていた。
鉄とコンクリとガラスという冷徹な素材に、なんとかやりくり算段して温和性、運動性、そしていくばくかのヒューマニティを盛り込もうとする黒川の意図はよく分かる。
内部に作られた逆キノコ状の漏斗も無機的な内装に一定程度の植物性をもたらす効果を上げている。
が、褒められるのはここまで。それなりに工夫されたスケルトンが内包するリフィルには、いたずらに空虚な大空間が広がるのみだ。
しかも区画整理があまりにも機械的で、入場者の入退場の便などいっさい考慮されていない。とくにエントランスやトイレやクロークの狭さは言語道断。国内最大規模の貸ホールなのに、これで3階の全ホールが使用された暁には(そんなことは絶対にないだろうが)会場内は大混乱するであろう。
展示会場に入ると、その導線と照明が良くない。モネ展など入場したその次の空間の処理が悪いから、客の流れが混雑を起こしている。中学や高校の文化祭以下のレイアウトである。
モネの「睡蓮」の大作の表面がガラスで覆われており、そこに普通のライトを当てているから、客が画面を覗き込もうとすると自分の顔が見える。
きっとありきたりの印象派の展覧会だとつまらないので、最近復活してきた「モノ派アヴァンギャルド展」風に演出したのであろう!?
それやこれやでともかく国内最低の美術館のひとつであることは間違いがない。
しかしたったひとつだけこの美術館に見所があった。それは本館左側の別館の前に安置された旧陸軍歩兵第三連隊のレンガの入り口の一部である。
思えばあの昭和11年の2.26事件の首謀者のひとり安藤輝三第6中隊長は、兵を率いてこの場所で決起し、他の2名の士官とともに反乱罪で死刑に処せられたのであった。
驚いたことに、既成秩序に反逆した者たちの「遺物」としてのレンガの断片は、黒川のうそすそとしたガラス細工の虚構の幻影をすべてをぶちのめす、異様なまでの存在感に満ちていた。(写真)
勝手に東京建築観光・第8回
黒川紀章が設計した新しい国立美術館を訪れ、ついでにモネ展を見物してきた。
まず美術館だが、さすが人騒がせな黒川らしくダイナミックな外装である。ガラスが丸みを帯びて大きく波打っていた。
鉄とコンクリとガラスという冷徹な素材に、なんとかやりくり算段して温和性、運動性、そしていくばくかのヒューマニティを盛り込もうとする黒川の意図はよく分かる。
内部に作られた逆キノコ状の漏斗も無機的な内装に一定程度の植物性をもたらす効果を上げている。
が、褒められるのはここまで。それなりに工夫されたスケルトンが内包するリフィルには、いたずらに空虚な大空間が広がるのみだ。
しかも区画整理があまりにも機械的で、入場者の入退場の便などいっさい考慮されていない。とくにエントランスやトイレやクロークの狭さは言語道断。国内最大規模の貸ホールなのに、これで3階の全ホールが使用された暁には(そんなことは絶対にないだろうが)会場内は大混乱するであろう。
展示会場に入ると、その導線と照明が良くない。モネ展など入場したその次の空間の処理が悪いから、客の流れが混雑を起こしている。中学や高校の文化祭以下のレイアウトである。
モネの「睡蓮」の大作の表面がガラスで覆われており、そこに普通のライトを当てているから、客が画面を覗き込もうとすると自分の顔が見える。
きっとありきたりの印象派の展覧会だとつまらないので、最近復活してきた「モノ派アヴァンギャルド展」風に演出したのであろう!?
それやこれやでともかく国内最低の美術館のひとつであることは間違いがない。
しかしたったひとつだけこの美術館に見所があった。それは本館左側の別館の前に安置された旧陸軍歩兵第三連隊のレンガの入り口の一部である。
思えばあの昭和11年の2.26事件の首謀者のひとり安藤輝三第6中隊長は、兵を率いてこの場所で決起し、他の2名の士官とともに反乱罪で死刑に処せられたのであった。
驚いたことに、既成秩序に反逆した者たちの「遺物」としてのレンガの断片は、黒川のうそすそとしたガラス細工の虚構の幻影をすべてをぶちのめす、異様なまでの存在感に満ちていた。(写真)
Sunday, April 22, 2007
ある丹波の老人の話(19)
私の家には、“北向きのえびす様”という小さいえびす大黒の像がありました。
小さい板が12枚あって、願い事を叶えてもらうたんびに板を一枚ずつ供えることになっとりました。
父母が信仰しておりましたから、私も商売をやるようになってからは毎晩お灯明をあげて一生懸命に商売繁盛を祈り、それがうまくいったもんですから12枚の板を積み上げては下げ、また積み上げては下げ、それを何度も何度も繰り返したもんでした。
差し押さえの封印を解いてもらう話し合いでも、ちいともいじけずにテキパキやってそれが全部予想以上に成功したのも、この福の神さんが私に度胸をつけてくださったお陰やと思って、お礼の板を重ね重ねしたもんどした。
あの大阪の座摩神社にしても、あれほど入ろうにも入れなかった問屋の店へ3度目には勇敢に飛び込んで無理な取引を快く承知してもろうたんも、けっして私の力だけではなく、座摩神社やお稲荷様があんとき私に乗り移っておったとしか思えなかったんでした。
もともと私は下駄屋なんかやる気はなかったんですが、あんがい調子よく行ったので、すっかりおもしろくなり、松山落ちなどはとっくの昔に断念して一生懸命下駄屋をやりました。
そして養蚕期になると店を妻に任せて教師に行き、この頃は中上林の睦合や物部に勤め、その給料はふたたび大幅に家計の上に物を言ってきました。
そのうちに高木銀行支店が、五百円程度の融資はいつでもしてくれるようになり、下駄屋もだんだん充実してきました。
私が後年キリスト教に入り、聖書の
『それ有てる人はなほ興えられ、有てぬ人は有てるものをも取らるべし』(マルコ伝第四章二十四節)
を読むたびに、浮き沈みの多かった私の青年時代を回顧し、有たざりし時の締め木にかけられるような苦しみ、有つようになってからのトントン拍子などと思い合わせて万感無量なるもんがあります。
(第三話 貧乏物語終わり)
小さい板が12枚あって、願い事を叶えてもらうたんびに板を一枚ずつ供えることになっとりました。
父母が信仰しておりましたから、私も商売をやるようになってからは毎晩お灯明をあげて一生懸命に商売繁盛を祈り、それがうまくいったもんですから12枚の板を積み上げては下げ、また積み上げては下げ、それを何度も何度も繰り返したもんでした。
差し押さえの封印を解いてもらう話し合いでも、ちいともいじけずにテキパキやってそれが全部予想以上に成功したのも、この福の神さんが私に度胸をつけてくださったお陰やと思って、お礼の板を重ね重ねしたもんどした。
あの大阪の座摩神社にしても、あれほど入ろうにも入れなかった問屋の店へ3度目には勇敢に飛び込んで無理な取引を快く承知してもろうたんも、けっして私の力だけではなく、座摩神社やお稲荷様があんとき私に乗り移っておったとしか思えなかったんでした。
もともと私は下駄屋なんかやる気はなかったんですが、あんがい調子よく行ったので、すっかりおもしろくなり、松山落ちなどはとっくの昔に断念して一生懸命下駄屋をやりました。
そして養蚕期になると店を妻に任せて教師に行き、この頃は中上林の睦合や物部に勤め、その給料はふたたび大幅に家計の上に物を言ってきました。
そのうちに高木銀行支店が、五百円程度の融資はいつでもしてくれるようになり、下駄屋もだんだん充実してきました。
私が後年キリスト教に入り、聖書の
『それ有てる人はなほ興えられ、有てぬ人は有てるものをも取らるべし』(マルコ伝第四章二十四節)
を読むたびに、浮き沈みの多かった私の青年時代を回顧し、有たざりし時の締め木にかけられるような苦しみ、有つようになってからのトントン拍子などと思い合わせて万感無量なるもんがあります。
(第三話 貧乏物語終わり)
Saturday, April 21, 2007
ミニHALから遠くのがれて
ミニHALから遠くのがれて
♪バガテル op16
新宿のタワーレコードの9階まで昇るエレベーターのなかには右上方の一角に監視カメラが取り付けてある。
そいつは映画『2001年宇宙の旅』の主人公であるコンピューターターHAL(ご存知の通りIBMのひとつ手前のアルファベット)のように不気味な顔で乗客を睨んでいる。
それはもちろんタワーだけではない。街頭でも商業施設でも集合住宅でもわが国の都市のいたるところにミニHALが配置され、潜在犯罪者としてのわれわれを押し黙って監視し続けているのである。
私がはじめてキューブリクのこの映画を観たり、P.K.ディックの作品を読んでおもしろがっていた頃は、こんなけったくその悪い監視機械が、こんな極東の孤島に登場しようとは、夢にも思わなかったものである。
われわれは、まずそのアブノーマルさに対してもっと驚く必要があるのではないだろうか?
わが国でいくら凶悪な犯罪が増加し、その結果、私やあなたが新宿のタワーレコードの四角い空間でよしや暴行傷害に被害に遭い、虐殺されようとも、私は公共空間をあらかじめ犯罪準備空間とみなす施設の管理者が私の顔や身体や不用意に露出しているかもしれない局部を勝手に撮影したり、録画したり、彼ら管理者や当局の視線にさらされることに対して断固反対する。
それは肖像権の侵害であり、市民の自由な活動に対する規制であり、誰によっても合法化されえないスパイ活動そのものである。
もしもわれわれがこのような認識に立つことができたなら、われわれはタワーレコードや由比ガ浜駐車場のシンドラー社製のエレベーターに入るや否や、すかさず目出し帽をかぶったり、尊顔にイスラム風のヴェールを掛けたり、あっかんべーをしてそっぽを向くべきではないだろうか?
ところで、このように本邦のみならず全世界で猛威をふるっているミニHALに対して、朝日新聞のロンドン特派員がまったく素敵なお知らせをもたらしてくれた。
交差点や商店街、駅構内など英国中の街角に設置されているCCTV犯罪監視カメラは420万台以上にのぼり、それらは地区の管理センターで24時間モニターされているそうだが、最近登場した最新型では係員が映像を見ながら、
「あなたの行為は犯罪です。直ちにやめなさい」「ゴミを捨ててはいけません」「この付近は飲酒禁止です」
などと突然の音声で警告を流すのだそうだ。
英国北部のミドルズブラ市で今年初めからこいつを導入したところ「反社会的行為」が昨対70%減少し、世論調査でも88%の市民が設置に肯定的!だという。
この結果に気をよくしたリード内相は、今後首都ロンドンはじめ全英20地区で取り付けるのだと意気込んでいるそうだが、誇り高い大英帝国の臣民がそこまで唯々諾々と公権力の介入を許すとはじつに不可解。黄昏の、あるいは断末魔のロンドンにふさわしい“そうとう不気味な”(中原中也)話ではないだろうか?
遠からずわが国でも、かの治安大好き都知事などが、あの下品な顔でうれしそうに舌なめずりしながら、このエキサイティングなホラーサスペンスの世界に身を乗り出してくるのだろう。
乱世にありて災厄に遭いてはまさに遭うべく、死するときにはむざと死すべし。
♪バガテル op16
新宿のタワーレコードの9階まで昇るエレベーターのなかには右上方の一角に監視カメラが取り付けてある。
そいつは映画『2001年宇宙の旅』の主人公であるコンピューターターHAL(ご存知の通りIBMのひとつ手前のアルファベット)のように不気味な顔で乗客を睨んでいる。
それはもちろんタワーだけではない。街頭でも商業施設でも集合住宅でもわが国の都市のいたるところにミニHALが配置され、潜在犯罪者としてのわれわれを押し黙って監視し続けているのである。
私がはじめてキューブリクのこの映画を観たり、P.K.ディックの作品を読んでおもしろがっていた頃は、こんなけったくその悪い監視機械が、こんな極東の孤島に登場しようとは、夢にも思わなかったものである。
われわれは、まずそのアブノーマルさに対してもっと驚く必要があるのではないだろうか?
わが国でいくら凶悪な犯罪が増加し、その結果、私やあなたが新宿のタワーレコードの四角い空間でよしや暴行傷害に被害に遭い、虐殺されようとも、私は公共空間をあらかじめ犯罪準備空間とみなす施設の管理者が私の顔や身体や不用意に露出しているかもしれない局部を勝手に撮影したり、録画したり、彼ら管理者や当局の視線にさらされることに対して断固反対する。
それは肖像権の侵害であり、市民の自由な活動に対する規制であり、誰によっても合法化されえないスパイ活動そのものである。
もしもわれわれがこのような認識に立つことができたなら、われわれはタワーレコードや由比ガ浜駐車場のシンドラー社製のエレベーターに入るや否や、すかさず目出し帽をかぶったり、尊顔にイスラム風のヴェールを掛けたり、あっかんべーをしてそっぽを向くべきではないだろうか?
ところで、このように本邦のみならず全世界で猛威をふるっているミニHALに対して、朝日新聞のロンドン特派員がまったく素敵なお知らせをもたらしてくれた。
交差点や商店街、駅構内など英国中の街角に設置されているCCTV犯罪監視カメラは420万台以上にのぼり、それらは地区の管理センターで24時間モニターされているそうだが、最近登場した最新型では係員が映像を見ながら、
「あなたの行為は犯罪です。直ちにやめなさい」「ゴミを捨ててはいけません」「この付近は飲酒禁止です」
などと突然の音声で警告を流すのだそうだ。
英国北部のミドルズブラ市で今年初めからこいつを導入したところ「反社会的行為」が昨対70%減少し、世論調査でも88%の市民が設置に肯定的!だという。
この結果に気をよくしたリード内相は、今後首都ロンドンはじめ全英20地区で取り付けるのだと意気込んでいるそうだが、誇り高い大英帝国の臣民がそこまで唯々諾々と公権力の介入を許すとはじつに不可解。黄昏の、あるいは断末魔のロンドンにふさわしい“そうとう不気味な”(中原中也)話ではないだろうか?
遠からずわが国でも、かの治安大好き都知事などが、あの下品な顔でうれしそうに舌なめずりしながら、このエキサイティングなホラーサスペンスの世界に身を乗り出してくるのだろう。
乱世にありて災厄に遭いてはまさに遭うべく、死するときにはむざと死すべし。
Friday, April 20, 2007
ロックする人、しない人
降っても照っても 第7回
2つの人種がある。ひとつはロックする人であり、もうひとつはロックしない人である。
これらの人々が小説を書くと、前者からは高橋源一郎のごときロック小説が生まれ、後者からは渡辺淳一や石原慎太郎の如き非ロック小説が生まれる。音楽もまたコレに準ず。
ところがこのロックする人のなかにあって、稀に町田康のやうにパンクする人がいる。
町田康の「真実真性日記」は、まあ、そのおう、いわゆるひとつのパンク小説である。
内面に煮えたぎるカオスはたえず外界にあふれようとし、作者は四分五裂する己をかろうじて抑制しようとするところに、これらギタギタの妄文が生まれる。
それはパンクな音響を湛えた乱反射文学である。ロックはローリングストーンズのように古典化したり老成化したりできるが、パンクにはそれが許されないのである。
さうして町田康は、いずれ平成の不如帰となって逗子の海岸に真紅の血を吐くだろう。
さういえば近頃世間では、パンキーなやくざどもがピストルやマシンガンやバーズカ砲で市長や市民をバンバン撃ち殺しているやうだが、いったい「にゃろめの警官」はなにをしているのだ。
亡霊と化した青島や植木といっしょに国会や都庁に乱入して、一刻もはやく山口組をはじめとする超右翼体育会系暴力団を徹底的に退治せよ。にゃろめ!
2つの人種がある。ひとつはロックする人であり、もうひとつはロックしない人である。
これらの人々が小説を書くと、前者からは高橋源一郎のごときロック小説が生まれ、後者からは渡辺淳一や石原慎太郎の如き非ロック小説が生まれる。音楽もまたコレに準ず。
ところがこのロックする人のなかにあって、稀に町田康のやうにパンクする人がいる。
町田康の「真実真性日記」は、まあ、そのおう、いわゆるひとつのパンク小説である。
内面に煮えたぎるカオスはたえず外界にあふれようとし、作者は四分五裂する己をかろうじて抑制しようとするところに、これらギタギタの妄文が生まれる。
それはパンクな音響を湛えた乱反射文学である。ロックはローリングストーンズのように古典化したり老成化したりできるが、パンクにはそれが許されないのである。
さうして町田康は、いずれ平成の不如帰となって逗子の海岸に真紅の血を吐くだろう。
さういえば近頃世間では、パンキーなやくざどもがピストルやマシンガンやバーズカ砲で市長や市民をバンバン撃ち殺しているやうだが、いったい「にゃろめの警官」はなにをしているのだ。
亡霊と化した青島や植木といっしょに国会や都庁に乱入して、一刻もはやく山口組をはじめとする超右翼体育会系暴力団を徹底的に退治せよ。にゃろめ!
Thursday, April 19, 2007
吉田秀和と中原中也
鎌倉ちょっと不思議な物語56回
吉田邸は敷地は広いが、家は年代物のまことに粗末な平屋であるがまだ存在しているのに、数寄を凝らした小林邸は跡形もない。(小林の家と庭の無残な崩壊のてんまつについては吉田秀和全集23巻「小径の今」を参照のこと)
ここからわずか10数メートルの距離に大仏次郎茶亭がよく保存されているのを見るにつけ、まことに残念なことだったと思う。
吉田氏によれば、中原にとって音楽は生きるうえで必要不可欠なもので、彼の音楽論はすばらしく面白かったそうだ。
吉田氏と中也はよく一緒にモーツアルトやバッハを聴いたそうだが、あるとき「陽気な音楽にはもう飽きたよ」と言い出した。長谷川泰子との失恋はそれほどの衝撃を中也に与えた。「中也はあの失恋だけで一生を過ごしたようなものだ」と吉田氏は語っている。
可哀相だた、中也のことよ。
しかし、レコードが中原の手に入ると、いつも行方不明になったという。
大岡昇平が阿部六郎に持ってきたシューベルトの『死と乙女』の3枚組みは、たちどころに消えて中原に呑まれてしまった。
呑むためには金が必要で、中原は金のある奴に払わせてせっせと質屋に運んでいく。それを恩師の阿部は笑って許していたそうだ。ここらへんは辰野隆と小林秀雄の関係にちょっと似ている。
音楽、そしてフランス語の師匠であった中原を負かしてやろうと思って、吉田氏は奥さんのために買ったピアノで、毎日ヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いていた。
その吉田氏の傍に来て阿部夫人は、ハーッとため息をついていたそうだが、こういう話をきくと阿部六郎夫妻の偉大さはますます光り輝いて見える。
ちなみに阿部六郎は独文学者でかれが翻訳した角川文庫の『ツアラストラかく語りき』は私の愛読書でした。
それから、「吉田秀和全集第23巻」には、吉田氏が中也と麻布二の橋の青山二郎の家に泊まったときのエピソードが書かれていて、なかなかおもしろい。
当時青山は舞踊家の武原はん(もちろん先代の)と同棲していたが、吉田氏は彼女の素足の美しさに惹かれる。
そしてその翌日、二階の雨戸の隙間から朝の光が入ってきて、天井に光の条が何本かちらちらするのを見て、それが中也の「朝の歌」とまったく同じ光景であることに驚いたそうだ。
吉田邸は敷地は広いが、家は年代物のまことに粗末な平屋であるがまだ存在しているのに、数寄を凝らした小林邸は跡形もない。(小林の家と庭の無残な崩壊のてんまつについては吉田秀和全集23巻「小径の今」を参照のこと)
ここからわずか10数メートルの距離に大仏次郎茶亭がよく保存されているのを見るにつけ、まことに残念なことだったと思う。
吉田氏によれば、中原にとって音楽は生きるうえで必要不可欠なもので、彼の音楽論はすばらしく面白かったそうだ。
吉田氏と中也はよく一緒にモーツアルトやバッハを聴いたそうだが、あるとき「陽気な音楽にはもう飽きたよ」と言い出した。長谷川泰子との失恋はそれほどの衝撃を中也に与えた。「中也はあの失恋だけで一生を過ごしたようなものだ」と吉田氏は語っている。
可哀相だた、中也のことよ。
しかし、レコードが中原の手に入ると、いつも行方不明になったという。
大岡昇平が阿部六郎に持ってきたシューベルトの『死と乙女』の3枚組みは、たちどころに消えて中原に呑まれてしまった。
呑むためには金が必要で、中原は金のある奴に払わせてせっせと質屋に運んでいく。それを恩師の阿部は笑って許していたそうだ。ここらへんは辰野隆と小林秀雄の関係にちょっと似ている。
音楽、そしてフランス語の師匠であった中原を負かしてやろうと思って、吉田氏は奥さんのために買ったピアノで、毎日ヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いていた。
その吉田氏の傍に来て阿部夫人は、ハーッとため息をついていたそうだが、こういう話をきくと阿部六郎夫妻の偉大さはますます光り輝いて見える。
ちなみに阿部六郎は独文学者でかれが翻訳した角川文庫の『ツアラストラかく語りき』は私の愛読書でした。
それから、「吉田秀和全集第23巻」には、吉田氏が中也と麻布二の橋の青山二郎の家に泊まったときのエピソードが書かれていて、なかなかおもしろい。
当時青山は舞踊家の武原はん(もちろん先代の)と同棲していたが、吉田氏は彼女の素足の美しさに惹かれる。
そしてその翌日、二階の雨戸の隙間から朝の光が入ってきて、天井に光の条が何本かちらちらするのを見て、それが中也の「朝の歌」とまったく同じ光景であることに驚いたそうだ。
Wednesday, April 18, 2007
吉田秀和と小林秀雄
鎌倉ちょっと不思議な物語55回
音楽評論家にして最後の文人作家、吉田秀和氏は、2003年に愛するバルバラ夫人を亡くされ失望落胆の日々を送られていたが、最近ようやく再起されたようである。
朝日新聞、「レコード芸術」、「すばる」などに健筆を振るわれているのはご同慶の至りである。
その吉田氏が「中原中也のこと」というエッセイで彼の思い出を語っている。
『中也がもっとも好んだのは百人一首にある、♪ひさかたのひかりのどけきはるのひに しづこころなくはなのちるらん の1首だった。これを中原はチャイコフスキーのピアノ組曲『四季』の中の6月にあたる「舟歌」にあわせて歌うのだった。彼は枕詞の「ひさかたの」はレチタティーヴォでやって「光のどけき春の日に」から歌にするのだったが、そこはまたあのト短調の旋律に申し分なくぴったり合うのだった。私は彼にかつて何をせがんだこともないつもりだが、もしこういうことが許されるのだったら、彼にもう一度この歌を歌ってもらいたい。』
中也にフランス語を教えたのが小林秀雄で、吉田氏にフランス語を教えたのが中也だから、小林は吉田氏の大先生ということになるが、小林は晩年、現在の吉田邸の向かいに住んでいた。ちょうどその頃、私は由比ガ浜に向かって背筋をピンと伸ばして歩いていく小柄な男に下馬四つ角でぱったり出くわしたことがあるが、それが私が小林を見た最後の姿だった。
小林秀雄はグレン・グールドが死んだ翌83年に死んだ。小林は英国のピアニスト、ソロモンの弾くヴェートーヴェンが好きだった。
音楽評論家にして最後の文人作家、吉田秀和氏は、2003年に愛するバルバラ夫人を亡くされ失望落胆の日々を送られていたが、最近ようやく再起されたようである。
朝日新聞、「レコード芸術」、「すばる」などに健筆を振るわれているのはご同慶の至りである。
その吉田氏が「中原中也のこと」というエッセイで彼の思い出を語っている。
『中也がもっとも好んだのは百人一首にある、♪ひさかたのひかりのどけきはるのひに しづこころなくはなのちるらん の1首だった。これを中原はチャイコフスキーのピアノ組曲『四季』の中の6月にあたる「舟歌」にあわせて歌うのだった。彼は枕詞の「ひさかたの」はレチタティーヴォでやって「光のどけき春の日に」から歌にするのだったが、そこはまたあのト短調の旋律に申し分なくぴったり合うのだった。私は彼にかつて何をせがんだこともないつもりだが、もしこういうことが許されるのだったら、彼にもう一度この歌を歌ってもらいたい。』
中也にフランス語を教えたのが小林秀雄で、吉田氏にフランス語を教えたのが中也だから、小林は吉田氏の大先生ということになるが、小林は晩年、現在の吉田邸の向かいに住んでいた。ちょうどその頃、私は由比ガ浜に向かって背筋をピンと伸ばして歩いていく小柄な男に下馬四つ角でぱったり出くわしたことがあるが、それが私が小林を見た最後の姿だった。
小林秀雄はグレン・グールドが死んだ翌83年に死んだ。小林は英国のピアニスト、ソロモンの弾くヴェートーヴェンが好きだった。
Tuesday, April 17, 2007
吉田秀和とバルバラ
鎌倉ちょっと不思議な物語54回
私は評論家吉田秀和夫妻が手に手をとって、中原中也が死んだ清川病院の傍をゆるゆると歩いている姿を見かけたものだ。
平成15年10月、吉田秀和の妻、バルバラは半年間に及ぶ入院生活ののち、骨盤内腫瘍悪化のため76歳8ヶ月の生涯を鎌倉雪ノ下で閉じた。
ベルリン生まれのバルバラは、自分の故郷は変わってしまったので、死んだら吉田の先祖の眠る墓に埋めて欲しい、といって、和歌山県那智勝浦の町外れにある吉田家先祖代々の墓に葬られたという。
バルバラは、死の直前まで永井荷風の「断腸亭日乗」のドイツ語訳に心血を注ぎ、昭和12年の1月分までをようやく完成し、痛みをこらえながらベッドで腹ばいになって校正し、訳者の序文、あとがきを書き終え、装丁も自分の好みのものを指定してから亡くなった。
バルバラは「源氏物語」をはじめ平安期以降の日本女性の文学の素晴らしさに気付き、宇野千代、円地文子ら現代作家の短編集を欧州に紹介し、田山花袋、谷崎純一郎、川端康成などに関心を持ち、永井荷風の「墨東奇譚」を全訳し、漢学の素養を生かして「断腸亭日乗」の全訳に取り組んだのだった。
バルバラを失った吉田は、翌平成16年秋、「二人でいたときが一番幸せだった。オルフェオとエウリディーチエの神話のように黄泉の国に行って妻を連れ戻したい、とほんとうに思う」と語ったという。
(以上、07年2月2日号「鎌倉朝日」掲載の清田昌弘「かまくら今昔抄」より抜粋。写真はイタリア北部のマントバ近郊で発掘されたおよそ6千年前の新石器時代の抱き合う男女の遺骨)
私は評論家吉田秀和夫妻が手に手をとって、中原中也が死んだ清川病院の傍をゆるゆると歩いている姿を見かけたものだ。
平成15年10月、吉田秀和の妻、バルバラは半年間に及ぶ入院生活ののち、骨盤内腫瘍悪化のため76歳8ヶ月の生涯を鎌倉雪ノ下で閉じた。
ベルリン生まれのバルバラは、自分の故郷は変わってしまったので、死んだら吉田の先祖の眠る墓に埋めて欲しい、といって、和歌山県那智勝浦の町外れにある吉田家先祖代々の墓に葬られたという。
バルバラは、死の直前まで永井荷風の「断腸亭日乗」のドイツ語訳に心血を注ぎ、昭和12年の1月分までをようやく完成し、痛みをこらえながらベッドで腹ばいになって校正し、訳者の序文、あとがきを書き終え、装丁も自分の好みのものを指定してから亡くなった。
バルバラは「源氏物語」をはじめ平安期以降の日本女性の文学の素晴らしさに気付き、宇野千代、円地文子ら現代作家の短編集を欧州に紹介し、田山花袋、谷崎純一郎、川端康成などに関心を持ち、永井荷風の「墨東奇譚」を全訳し、漢学の素養を生かして「断腸亭日乗」の全訳に取り組んだのだった。
バルバラを失った吉田は、翌平成16年秋、「二人でいたときが一番幸せだった。オルフェオとエウリディーチエの神話のように黄泉の国に行って妻を連れ戻したい、とほんとうに思う」と語ったという。
(以上、07年2月2日号「鎌倉朝日」掲載の清田昌弘「かまくら今昔抄」より抜粋。写真はイタリア北部のマントバ近郊で発掘されたおよそ6千年前の新石器時代の抱き合う男女の遺骨)
Monday, April 16, 2007
大仏次郎茶亭にて
鎌倉ちょっと不思議な物語53回
年に2回の公開日ということなので、大仏次郎茶亭に行ってみた。
世間では「鞍馬天狗」で知られるこの作家の本宅はこの茶亭の斜め前にあったが、いまは別人が当時とは別の建物に住んでいる。
広い庭の真ん中に今では少なくなった茅葺の日本家屋の平屋がちんまりと控えている。
庭にはきれいどころが抹茶を接待し、縁側にはこの作家の代表作である「天皇の世紀」の冒頭ページと作家の死によって未完の絶筆となった最終ページが並べてあった。
それは長岡藩家老の河井継之助が最期を迎えるシーンである。
大仏は長期にわたって朝日新聞に連載したこの作品を、どうしても完成させたかった。
戊辰戦争が終結し、御一新が成就し、明治天皇が即位するところまでを、なにがなんでも書きたかったのである。
横浜の大仏次郎記念館に行くと、築地のがんセンターの病室に寝たまま執筆できるように木でつくった特製の執筆板を見ることができるが、それはまさに鬼気迫る遺品である。
彼の明晰な頭脳の裡ですでに構想は固まり、おびただしい資料は書庫にうずたかく積まれ、モンブランの太字が原稿用紙に走り始めるのを待ちかねていた。
しかし作家のからだを蝕んだがん細胞が、その続きの執筆をはばんだ。
花曇の空の下で、その悔しさ、無念さ、恨めしさがブルーブラックのインキに深くにじんでいた。
茶亭の別室の縁側には、「われは小さき杯より持たねど、それにてわが真心を汲み出すなり」という小デュマの言葉が、作家の自筆の色紙に毛筆で記されていた。
ちなみに、アレクサンドル・デュマ・フィスDumas fils(1824-95)は、「三銃士」「モンテクリスト伯」などを書いた父アレクサンドル・デュマの私生児で、ヴェルディのオペラ「椿姫」の原作を書いたことで知られる。
年に2回の公開日ということなので、大仏次郎茶亭に行ってみた。
世間では「鞍馬天狗」で知られるこの作家の本宅はこの茶亭の斜め前にあったが、いまは別人が当時とは別の建物に住んでいる。
広い庭の真ん中に今では少なくなった茅葺の日本家屋の平屋がちんまりと控えている。
庭にはきれいどころが抹茶を接待し、縁側にはこの作家の代表作である「天皇の世紀」の冒頭ページと作家の死によって未完の絶筆となった最終ページが並べてあった。
それは長岡藩家老の河井継之助が最期を迎えるシーンである。
大仏は長期にわたって朝日新聞に連載したこの作品を、どうしても完成させたかった。
戊辰戦争が終結し、御一新が成就し、明治天皇が即位するところまでを、なにがなんでも書きたかったのである。
横浜の大仏次郎記念館に行くと、築地のがんセンターの病室に寝たまま執筆できるように木でつくった特製の執筆板を見ることができるが、それはまさに鬼気迫る遺品である。
彼の明晰な頭脳の裡ですでに構想は固まり、おびただしい資料は書庫にうずたかく積まれ、モンブランの太字が原稿用紙に走り始めるのを待ちかねていた。
しかし作家のからだを蝕んだがん細胞が、その続きの執筆をはばんだ。
花曇の空の下で、その悔しさ、無念さ、恨めしさがブルーブラックのインキに深くにじんでいた。
茶亭の別室の縁側には、「われは小さき杯より持たねど、それにてわが真心を汲み出すなり」という小デュマの言葉が、作家の自筆の色紙に毛筆で記されていた。
ちなみに、アレクサンドル・デュマ・フィスDumas fils(1824-95)は、「三銃士」「モンテクリスト伯」などを書いた父アレクサンドル・デュマの私生児で、ヴェルディのオペラ「椿姫」の原作を書いたことで知られる。
Sunday, April 15, 2007
前略 神奈川県知事 松沢成文殿
前略 神奈川県知事 松沢成文殿
長洲知事時代の神奈川県は、飛鳥田市制の横浜市と並んで全国の障碍福祉対策のトップを走っていました。
ところが近年貴殿が知事になってからは、私たち障碍者関係者にとってろくなことはほとんどありません。
その原因は靖国神社が大好きだった前首相が成立させた、悪名高い「障害者自立法」にあります。
この法律は名前だけは立派ですが、障碍者に対しては過酷なまでの自己責任と社会復帰を、福祉施設に対しては過酷なまでの経営効率第1主義、成果主義を強引苛酷に押し付けようとするものです。
そのため、ほんらい労働という概念すら理解できず、実作業にもまったくなじまない知的!?障碍者である私の息子なども、いやおうなく効率労働に駆り立てられざるを得ず、慈愛に満ちた心優しき施設スタッフたちも、過酷なノルマと管理主義の哀れな奴隷となりつつあるのです。
いままでの社会福祉施設は、心身の最弱者を優しく保護しようというものでした。
しかしこれからは、純情可憐なナイチンゲールにアメリカ直伝の経営学を叩き込み、「生き残り&金儲けのための福祉工場」に大変身させよう。社会的弱者にも、福祉施設にも、一般世間と同様の競争原理の荒波にさらし、勝ち組と負け組みの格差をつけ、敗北者はこの世から退場していただこう、というのが小泉前首相以降の現政権担当者のシナリオなのです。
このような障碍者と障碍施設殺しの悪法の施行にあわせ、いま神奈川県は、施設に対する運営費補助を全廃する暴挙をくわだて、平成19年度予算では昨年比4分の1、金額にして3億6700万円のカットを実施しようとしています。
その結果、私の家族などが通っている福祉施設では、
1)重度の障碍者の受け入れがとても難しくなり、
2)同性介護など利用者の人権を守るための支援ができにくくなり、
3)さまざまな地域生活支援事業が展開できなくなり、
4)職員の雇用にさらに支障をきたし、労働環境がさらにさらに悪化しようとしています。
貴殿を支持する民主党などでは「格差社会はけしからん」と騒いでいますが、私に言わせれば、それは健常者のわがままで、生まれながらに“あらかじめ格差をつけられている”のは障碍者(児)たちです。
ハンディキャップのある人たちの生活を守るために、どうか民間社会福祉施設運営費補助金を存続してください。
また、障碍者(児)たちの生活を支えるために、同補助金の水準を現状維持し、これ以上ビタ一文削減しないでください。
以上、緊急に要請します殿
長洲知事時代の神奈川県は、飛鳥田市制の横浜市と並んで全国の障碍福祉対策のトップを走っていました。
ところが近年貴殿が知事になってからは、私たち障碍者関係者にとってろくなことはほとんどありません。
その原因は靖国神社が大好きだった前首相が成立させた、悪名高い「障害者自立法」にあります。
この法律は名前だけは立派ですが、障碍者に対しては過酷なまでの自己責任と社会復帰を、福祉施設に対しては過酷なまでの経営効率第1主義、成果主義を強引苛酷に押し付けようとするものです。
そのため、ほんらい労働という概念すら理解できず、実作業にもまったくなじまない知的!?障碍者である私の息子なども、いやおうなく効率労働に駆り立てられざるを得ず、慈愛に満ちた心優しき施設スタッフたちも、過酷なノルマと管理主義の哀れな奴隷となりつつあるのです。
いままでの社会福祉施設は、心身の最弱者を優しく保護しようというものでした。
しかしこれからは、純情可憐なナイチンゲールにアメリカ直伝の経営学を叩き込み、「生き残り&金儲けのための福祉工場」に大変身させよう。社会的弱者にも、福祉施設にも、一般世間と同様の競争原理の荒波にさらし、勝ち組と負け組みの格差をつけ、敗北者はこの世から退場していただこう、というのが小泉前首相以降の現政権担当者のシナリオなのです。
このような障碍者と障碍施設殺しの悪法の施行にあわせ、いま神奈川県は、施設に対する運営費補助を全廃する暴挙をくわだて、平成19年度予算では昨年比4分の1、金額にして3億6700万円のカットを実施しようとしています。
その結果、私の家族などが通っている福祉施設では、
1)重度の障碍者の受け入れがとても難しくなり、
2)同性介護など利用者の人権を守るための支援ができにくくなり、
3)さまざまな地域生活支援事業が展開できなくなり、
4)職員の雇用にさらに支障をきたし、労働環境がさらにさらに悪化しようとしています。
貴殿を支持する民主党などでは「格差社会はけしからん」と騒いでいますが、私に言わせれば、それは健常者のわがままで、生まれながらに“あらかじめ格差をつけられている”のは障碍者(児)たちです。
ハンディキャップのある人たちの生活を守るために、どうか民間社会福祉施設運営費補助金を存続してください。
また、障碍者(児)たちの生活を支えるために、同補助金の水準を現状維持し、これ以上ビタ一文削減しないでください。
以上、緊急に要請します殿
流鏑馬を見る
鎌倉ちょっと不思議な物語52回
今日は鎌倉まつりの最終日で八幡様で流鏑馬神事がとり行われていたので、自転車に乗って見に行った。
流鏑馬は久しぶりだが、いつもながらの大迫力である。
武具に勇ましく身を固めた武者が、美しい優駿にまたがり、八幡様の数百メートルの間道を、東の端から西の端まで全力で疾走し、その間に三つの的を射る。
走りながら身をひねって矢をつがえ、的を狙い、ひょうと的を射るのである。
素人では到底できない神業であるが、今日は全的的中の名技が相次ぎ、つめかけた観衆からやんやの喝采を浴びていた。
流鏑馬は観光客めあての曲芸のように思われがちだが、実際は鎌倉時代の武士の遺風をいまに伝える豪壮な殺戮の荒業である。
往時百メートルの距離から弓を引いて百発百中、と伝えられる鎌倉武士の実力が、けっして嘘偽りのものではなかったことを、それこそ我々は目の当たりに実感するのである。
弓術の最後に到達すべき境地、それは弓も矢もなしに射当てることである。(オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」)
ひょうと射て はらりと散るか八重桜 芒羊
今日は鎌倉まつりの最終日で八幡様で流鏑馬神事がとり行われていたので、自転車に乗って見に行った。
流鏑馬は久しぶりだが、いつもながらの大迫力である。
武具に勇ましく身を固めた武者が、美しい優駿にまたがり、八幡様の数百メートルの間道を、東の端から西の端まで全力で疾走し、その間に三つの的を射る。
走りながら身をひねって矢をつがえ、的を狙い、ひょうと的を射るのである。
素人では到底できない神業であるが、今日は全的的中の名技が相次ぎ、つめかけた観衆からやんやの喝采を浴びていた。
流鏑馬は観光客めあての曲芸のように思われがちだが、実際は鎌倉時代の武士の遺風をいまに伝える豪壮な殺戮の荒業である。
往時百メートルの距離から弓を引いて百発百中、と伝えられる鎌倉武士の実力が、けっして嘘偽りのものではなかったことを、それこそ我々は目の当たりに実感するのである。
弓術の最後に到達すべき境地、それは弓も矢もなしに射当てることである。(オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」)
ひょうと射て はらりと散るか八重桜 芒羊
Friday, April 13, 2007
降っても照っても 第6回
降っても照っても 第6回
*G・ガルシア=マルケス著「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読む。
翻訳は原作とはまったく違うものである。両者は似て非なるもの、である。
それなのに私たちは翻訳を読めば原作を読んだと錯覚してしまう。これはじつに奇妙な話だ。そのことは原文を読み、いくつかの翻訳を読み比べてみると分かる。日本語でも源氏物語の原文と谷崎や与謝野の現代語訳の遠い遠い距離を思えばそれが理解できるだろう。
だからこのG・ガルシア=マルケスの本もこの木村榮一氏の翻訳で読む限りは「わが悲しき娼婦たちの思い出」をほんとうに読んだことにはならない。
それはともかく、川端康成の「眠れる美女」の主題によるマルケス版変奏曲が本書である。
川端が、「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」とラールゴで演奏を開始したのに対して、
マルケスは、「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」とアンダンテ・ポコ・モッソで第1主題を歌い始める。
ここに両者の、あるいは日本文学とラテン文学の違いがあざやかに示されている。
おなじノーベル賞を頂戴しながら、逗子マリーナで芥川譲りの「漠然とした不安」におののいて自死を遂げる作家と、老いてなお馬並みの巨大な逸物で少女を貫こうとする不滅の老人の生の躍動! そのあざやかな対比を見よ!
*山田詠美著「無銭優雅」も読む
これは吉祥寺を舞台にした、熟女と中年男の恋愛譚でなかなか読ませます。
エルメスよりユザワヤがおしゃれ、という視点は大賛成です。
軽薄現代カジュアル文体が不愉快だったが我慢して読んでいると次第に引き込まれました。
章間の縦横無人の引用が隠された第二の小・小説であり、それらが次第にクレッシェンドして絶妙な効果を発揮し、最後の最後にとんでもないところまで連れて行かれてしまいました。
しかしこの結末はいったいなんなんだ?
*G・ガルシア=マルケス著「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読む。
翻訳は原作とはまったく違うものである。両者は似て非なるもの、である。
それなのに私たちは翻訳を読めば原作を読んだと錯覚してしまう。これはじつに奇妙な話だ。そのことは原文を読み、いくつかの翻訳を読み比べてみると分かる。日本語でも源氏物語の原文と谷崎や与謝野の現代語訳の遠い遠い距離を思えばそれが理解できるだろう。
だからこのG・ガルシア=マルケスの本もこの木村榮一氏の翻訳で読む限りは「わが悲しき娼婦たちの思い出」をほんとうに読んだことにはならない。
それはともかく、川端康成の「眠れる美女」の主題によるマルケス版変奏曲が本書である。
川端が、「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」とラールゴで演奏を開始したのに対して、
マルケスは、「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」とアンダンテ・ポコ・モッソで第1主題を歌い始める。
ここに両者の、あるいは日本文学とラテン文学の違いがあざやかに示されている。
おなじノーベル賞を頂戴しながら、逗子マリーナで芥川譲りの「漠然とした不安」におののいて自死を遂げる作家と、老いてなお馬並みの巨大な逸物で少女を貫こうとする不滅の老人の生の躍動! そのあざやかな対比を見よ!
*山田詠美著「無銭優雅」も読む
これは吉祥寺を舞台にした、熟女と中年男の恋愛譚でなかなか読ませます。
エルメスよりユザワヤがおしゃれ、という視点は大賛成です。
軽薄現代カジュアル文体が不愉快だったが我慢して読んでいると次第に引き込まれました。
章間の縦横無人の引用が隠された第二の小・小説であり、それらが次第にクレッシェンドして絶妙な効果を発揮し、最後の最後にとんでもないところまで連れて行かれてしまいました。
しかしこの結末はいったいなんなんだ?
Thursday, April 12, 2007
降っても照っても 第5回
「吉田秀和全集第24巻ディスク再説」を読む
キャンバスを前にして、人物や風景を描こうとするときには目と頭が必要だが、ドガのように線で描くか、セザンヌのように色で描くか2つの方法があるのではないだろうか。
前者は対象を知的・分析的にとらえ、後者は直観的・直感的にとらえる。
「デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である」と語ったドガは、「橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす」とも語った。
しかしセザンヌは、「君たちのいう有名な線はどこにあるのか? 私には自然の中には色しか見えない」というドラクロアの思想をさらに徹底的に延長し、「色彩が充実豊富になればなるほど表現は精密的確になる」と考えた。
それもさまざまな色彩を使い分けたり、複合的に組み合わせたりしながら個々の物体、あるいはいくつもの物体の集合を描くだけではなく、そういった物体だけの存在する空間そのものを画面に掬い取り、現出させることを目的とするようになった。
自然の世界に見出される「あれやこれやの個々の物体」でなくて、描くことによってはじめて生まれてくる空間、つまり絵画的空間を作り出すこと。これがセザンヌの仕事が終局的に到達すべき地点だった。
セザンヌはまず水平と垂直の軸を定め、そこにこれから現出させようと望む空間の枠、いや正確には骨組みを設定する。
「水平に平行の線は広がりを、その水平に対し垂直の線は奥行きを表す。そうして人間にとっては自然は横の広がりよりも縦の奥行き、深さを通じてかかわってくるのである」
セザンヌはそうやって設定された骨組みを絵画的空間として「実現する」段階にどんどん深入りする。それが「線でなく色で描く」彼ほんらいの作業である。
キャンバスを前にして、人物や風景を描こうとするときには目と頭が必要だが、ドガのように線で描くか、セザンヌのように色で描くか2つの方法があるのではないだろうか。
前者は対象を知的・分析的にとらえ、後者は直観的・直感的にとらえる。
「デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である」と語ったドガは、「橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす」とも語った。
しかしセザンヌは、「君たちのいう有名な線はどこにあるのか? 私には自然の中には色しか見えない」というドラクロアの思想をさらに徹底的に延長し、「色彩が充実豊富になればなるほど表現は精密的確になる」と考えた。
それもさまざまな色彩を使い分けたり、複合的に組み合わせたりしながら個々の物体、あるいはいくつもの物体の集合を描くだけではなく、そういった物体だけの存在する空間そのものを画面に掬い取り、現出させることを目的とするようになった。
自然の世界に見出される「あれやこれやの個々の物体」でなくて、描くことによってはじめて生まれてくる空間、つまり絵画的空間を作り出すこと。これがセザンヌの仕事が終局的に到達すべき地点だった。
セザンヌはまず水平と垂直の軸を定め、そこにこれから現出させようと望む空間の枠、いや正確には骨組みを設定する。
「水平に平行の線は広がりを、その水平に対し垂直の線は奥行きを表す。そうして人間にとっては自然は横の広がりよりも縦の奥行き、深さを通じてかかわってくるのである」
セザンヌはそうやって設定された骨組みを絵画的空間として「実現する」段階にどんどん深入りする。それが「線でなく色で描く」彼ほんらいの作業である。
ある丹波の老人の話(18)
第三話 貧乏物語その5
続いて翌年の正月の大売出しも千客万来で、他の店からうらやまれ、「なかなかやるもんじゃ。さすがは春助の子じゃ。と人からも褒められるようになりました。父は道楽で身を誤まったんでししたが、商売は上手やったんです。
このように私の店がはやるのを見て、あれほど詰め掛けた借金取りもバッタリ来なくなりました。
差し押さえの口にはわたしはが直接行って話し合い、だいぶまけてはもらいましたがともかく皆済し、正月には封印の取れた畳の上でめでたく雑煮が祝えたんどした。
まだ借金は残っとりましたけど、誰も取立てを催促する者はなく、それどころかまだ大口三百円も残っている債権者から、「また入ったらいつでもつかっておくんなはれよ」と言われるほど、昨日の鬼も仏になって、急に融通も効きはじめたんでした。
今までは元値を切って売っていたもんですから、全然儲けにはなっとらへんのですが、とにかく商品がよく捌けて相当額の金が不自由なく融通がききだし、店の名前があちこちで話題になり、お得意先が増えたことは商人にとって絶対の強みでした。
問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたんで、信用は満点で先行きは明るく、まだ借金が残っていることも格別気にはなりまへんでした。
続いて翌年の正月の大売出しも千客万来で、他の店からうらやまれ、「なかなかやるもんじゃ。さすがは春助の子じゃ。と人からも褒められるようになりました。父は道楽で身を誤まったんでししたが、商売は上手やったんです。
このように私の店がはやるのを見て、あれほど詰め掛けた借金取りもバッタリ来なくなりました。
差し押さえの口にはわたしはが直接行って話し合い、だいぶまけてはもらいましたがともかく皆済し、正月には封印の取れた畳の上でめでたく雑煮が祝えたんどした。
まだ借金は残っとりましたけど、誰も取立てを催促する者はなく、それどころかまだ大口三百円も残っている債権者から、「また入ったらいつでもつかっておくんなはれよ」と言われるほど、昨日の鬼も仏になって、急に融通も効きはじめたんでした。
今までは元値を切って売っていたもんですから、全然儲けにはなっとらへんのですが、とにかく商品がよく捌けて相当額の金が不自由なく融通がききだし、店の名前があちこちで話題になり、お得意先が増えたことは商人にとって絶対の強みでした。
問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたんで、信用は満点で先行きは明るく、まだ借金が残っていることも格別気にはなりまへんでした。
Tuesday, April 10, 2007
第三話 貧乏物語その4
ある丹波の老人の話(17)
私は「今は金がないが、けっして不義理はしないから、これだけでできるだけ多くの商品を卸してください」と十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して五十円ほどの下駄と下駄の緒を送る約束をしてくれました。
この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円ずつ金を渡して商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送屋に出荷されるところまで見届けて郷里に戻ったんでした。
それから秋祭りももう終っており、時期はずれではありましたが、私は赤提灯を五つ六つ店の軒にぶらさげて下駄の大安売りを開始し、元値を切っての大バーゲンを敢行したんでした。
案の定安い、安いと飛ぶように売れたので、私はその金を持って再び大阪に行き、前の残金をきれいに払い、今度は前金なしに前より遥かに多く三つの店から商品を卸してもらいました。
それがちょうど年に一度のエビス市に間に合い、私はまたもや元値を切ってジャンジャン下駄を売りまくりました。
毎日毎晩お客がアリのように群がり、おもしろいほどよく売れました。
そして「この町は下駄がめっぽう安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴からも買い手がやって来るようになり、私の店ははやりにはやりました。
私は「今は金がないが、けっして不義理はしないから、これだけでできるだけ多くの商品を卸してください」と十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して五十円ほどの下駄と下駄の緒を送る約束をしてくれました。
この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円ずつ金を渡して商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送屋に出荷されるところまで見届けて郷里に戻ったんでした。
それから秋祭りももう終っており、時期はずれではありましたが、私は赤提灯を五つ六つ店の軒にぶらさげて下駄の大安売りを開始し、元値を切っての大バーゲンを敢行したんでした。
案の定安い、安いと飛ぶように売れたので、私はその金を持って再び大阪に行き、前の残金をきれいに払い、今度は前金なしに前より遥かに多く三つの店から商品を卸してもらいました。
それがちょうど年に一度のエビス市に間に合い、私はまたもや元値を切ってジャンジャン下駄を売りまくりました。
毎日毎晩お客がアリのように群がり、おもしろいほどよく売れました。
そして「この町は下駄がめっぽう安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴からも買い手がやって来るようになり、私の店ははやりにはやりました。
Monday, April 09, 2007
ある丹波の老人の話(16)
第三話 貧乏物語その3
これまでの概略→ 丹波の国のある老人の物語。青年時代に養蚕教師をしていた主人公は父親の借金の返済に追われてとうとう夫婦で愛媛県に夜逃げする羽目になってしまった。
私は差し押さえ残りの手回り品と売れ残りの下駄を信玄袋三つに詰め込み、駅の近くの知人の家に預けました。手元には必死で工面したお金がようやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかありまへん。それがほんまに心細かったんですわ。
それから舞鶴に嫁いでおる妹のことや福知山の二〇連隊に入隊しておった弟のことを思い、弟が満期退営しても帰る家がなかったらえろう困るやろ、などと思いだすと、ますます心配になって、夜逃げの決心もだんだん鈍ってきよりました。
思い余って頭のうしろに両手を組み、ゴロンと寝転んで考え込んでいたとき、ちぎれた新聞紙が枕元にあったので、何気なく目を通すと三文小説が載っていました。
そこには不思議なことに、私のように借金取りにいじめられている男のことが書かれていて、
「今はなんといわれても金は一文もねえ。ただし俺も男だ。キンタマだけは一人前のを持っているから、これでよかったら持って行け!」
と、タンカを切るところがありました。
これを読んだ私は、メソメソしている自分をふがいないと思いました。そしてこの小説の男のように、もっと図太くやらんとあかんと思ったのです。
そうだ、夜逃げなんか止めにして城を枕に討ち死にの覚悟でここに踏みとどまろう。そしてなんとかして少しでもまとまった金を手に入れよう。逃げるにしてもそれからだ、と思い直したんですわ。
そこで私は、虎の子の二十円あまりを持って大阪へ鼻緒などの仕入れに行きました。
しかし今まで取引しておった問屋へは借りがあるから顔出しができまへん。
そこで御堂筋の方へ行って別の問屋を探しました。すぐに二、三軒見つかりましたがなにしろ二十円足らずのはした金を持って虫の良い無理を言おうというんでっからどうも敷居が高うて店の中へ入れまへん。
行ったり戻ったりしていると、近くに座摩神社ちゅう立派なお宮があったので、そこへお参りしていきなり鈴をメチャクチャに鳴らして祈りました。
「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」とね。
それから、ヨーシと勢いをつけて店の前まで戻たんですが、どうにも敷居がまたげない。
仕方なくまた神社に引き返して、今度は傍にあるお稲荷さんにも祈ったんですが、やはり入れない。
また引き返して三度目を拝んでいったら、今度は入れました。
これまでの概略→ 丹波の国のある老人の物語。青年時代に養蚕教師をしていた主人公は父親の借金の返済に追われてとうとう夫婦で愛媛県に夜逃げする羽目になってしまった。
私は差し押さえ残りの手回り品と売れ残りの下駄を信玄袋三つに詰め込み、駅の近くの知人の家に預けました。手元には必死で工面したお金がようやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかありまへん。それがほんまに心細かったんですわ。
それから舞鶴に嫁いでおる妹のことや福知山の二〇連隊に入隊しておった弟のことを思い、弟が満期退営しても帰る家がなかったらえろう困るやろ、などと思いだすと、ますます心配になって、夜逃げの決心もだんだん鈍ってきよりました。
思い余って頭のうしろに両手を組み、ゴロンと寝転んで考え込んでいたとき、ちぎれた新聞紙が枕元にあったので、何気なく目を通すと三文小説が載っていました。
そこには不思議なことに、私のように借金取りにいじめられている男のことが書かれていて、
「今はなんといわれても金は一文もねえ。ただし俺も男だ。キンタマだけは一人前のを持っているから、これでよかったら持って行け!」
と、タンカを切るところがありました。
これを読んだ私は、メソメソしている自分をふがいないと思いました。そしてこの小説の男のように、もっと図太くやらんとあかんと思ったのです。
そうだ、夜逃げなんか止めにして城を枕に討ち死にの覚悟でここに踏みとどまろう。そしてなんとかして少しでもまとまった金を手に入れよう。逃げるにしてもそれからだ、と思い直したんですわ。
そこで私は、虎の子の二十円あまりを持って大阪へ鼻緒などの仕入れに行きました。
しかし今まで取引しておった問屋へは借りがあるから顔出しができまへん。
そこで御堂筋の方へ行って別の問屋を探しました。すぐに二、三軒見つかりましたがなにしろ二十円足らずのはした金を持って虫の良い無理を言おうというんでっからどうも敷居が高うて店の中へ入れまへん。
行ったり戻ったりしていると、近くに座摩神社ちゅう立派なお宮があったので、そこへお参りしていきなり鈴をメチャクチャに鳴らして祈りました。
「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」とね。
それから、ヨーシと勢いをつけて店の前まで戻たんですが、どうにも敷居がまたげない。
仕方なくまた神社に引き返して、今度は傍にあるお稲荷さんにも祈ったんですが、やはり入れない。
また引き返して三度目を拝んでいったら、今度は入れました。
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