♪音楽千夜一夜第22回
去年の大晦日にベルリンで行われたシルベスターコンサートのヴィデオを今頃になってようやく見た。
ベルリンフィルのシェフがアバドの頃は年に一度のこの演奏をテレビで見るのを楽しみにしていたが、ラトルになってからは初めてである。アバドについて悪口を言う人も多いが、私が嫌いな小澤よりは遥かに優れた指揮者だし、少なくともサイモン坊やに比べたらよほどまともな棒振りである。大患後の最近のルツエルンでの活躍がそれを証明している。
06年12月31日夜の演奏曲目はシュトラウスの「ドンファン」とモーツアルトのピアノ協奏曲20番と同じシュトラウスの「薔薇の騎士」最終幕の大詰めの抜粋(もちろん演奏会形式による)である。
ドンファンは思った以上に凡庸な演奏だし、薔薇の騎士もカラヤンやクライバーの足元にも及ばぬ、味の薄い、とってつけたような演奏だったが、圧巻は内田光子のモーツアルトの演奏だった。彼女がジェフリーテートの指揮でピアノコンチエルトの主要曲を録音したのは聞いていたが、このライブは素晴らしいききものであった。
当夜の内田光子は、見た目も、その内面も、おどろおどろしい女夜叉そのものであった。
序奏が開始されるやいなやピアノのうえで激しく身をよじりながらリズムを刻み、自分のテンポを取る。そしてその激烈なパッションと異様な光を放つ目の輝きと豹のようなすばやい身のこなしでベルリンフィルの面々の耳目をひきつけ、管弦楽の伴奏のイニシアチブをあっという間にラトル坊やから奪ってしまった。
そうしてそのあとは、さながらモーツアルトの再来、音楽の卑弥呼女王と化した光子女帝の生きるか死ぬか、獅子奮迅の真剣勝負のバトルが繰り広げられたのである。
とりわけ第2楽章のはじまりは、満員の聴衆が息をのむような繊細さで、録画録音とはいえ思わず涙腺が緩むのを覚えるほどの素晴らしさであった。
美しくもまた恐ろしい夜叉は、ラトルの頭越しにオーボエ奏者を召還し、甘美な愛の対話を繰り返しながらあほばかラトルが無神経に鳴らそうとする弦を、その女神アテナイの如き黄金の光る目で射すくめ、最弱音に押さえつけるのだった。
このようにしてモーツアルト・イヤー掉尾を飾る劇性を秘めた小さなオペラの演奏が終ったが、私は当代最高のモーツアルト弾きの演奏の切れ味の鋭さに圧倒されながらも、かのクララ・ハスキルの優美なモーツアルト演奏を懐かしく思い出していたことだった。
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