Tuesday, May 22, 2007

五木寛之「林住期」を読む

降っても照っても第16回


 古代インドでは人生を、「学生期」(青春)「家住期」(朱夏)そして「林住期」(白秋)「遊行期」(玄冬)の四期に分けていたという。

著者によれば、「林住期」とは50歳から75歳までの社会的なつとめを終えた人の自由時間、人生の真の収穫期であるという。ほんまかいな?

 もっともそんなことは昔からブッダが唱えていたことではあるが、屁異性の語り部かつ平成の憑依であらしゃいます五木寛之先生が、行く川の流れのごとくとうとうと語り尽くされたありがたきお言葉どもであるぞよ。

まあどうってことはない軽い本ですが、終わりのほうに粛然と衿を正して聞き入るほかない言葉があった。

 ソ連兵が進駐してきた敗戦直後のピヨンヤンでは、日本帝国軍隊に取り残された日本人たちがソ連の兵隊の要求に応じて女性の慰安婦を「人身御供として」差し出していた。

そこで著者がいう。

『皆がそんな話をあまりしないのは、自分たちが人身御供を差し出して生き延びて帰ってきたうしろめたさからだろうか。戦場の悲惨は小説にも書けるが、こういうことを物語にするのは許せない気持ちが自分にはある。特攻隊の物語は感動的だが、たとえ強制されたものだったにせよ、銃を持って死んだものは兵士として戦死したのだ。それはどんなに悲惨であっても名誉ある死とみなされる。映画になったり、神社に祭られたりもする。しかし、本当の戦争の悲惨さは、銃を持たなかった人間、一般人たちの体験だと思う。それを潜り抜けたものたちがみな口をとざして語ることができないような出来事こそ戦争の本質なのではあるまいか。
そんなことがかさなるうちに、やがて「世の中は思うようにならない」という信念のようなものが、いつのまにか根を下ろして私の中に定着してしまった。』

この苛烈な戦争体験が、どこから眺めても軽佻浮薄にしか見えないこの作家の根っこに鬱病のように巣くっているのである。

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