Monday, May 21, 2007

レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳「ロング・グッドバイ」を読む

降っても照っても第15回


チャンドラーが65歳でものした代表作の村上春樹ヴァージョンである。

かつての清水俊二氏の「長いお別れ」と比べてずいぶん部厚いな思っていあたら、なんと清水訳は抄訳だったらしい。ずいぶんデタラメなことをするものだ。そんな話は初めて聞いたぞ。

しかし完全訳だろうが抄訳だろうが、本書の構造じたいはまったく変わらない。

探偵のフィリップ・マーロウは相変わらずタフだし、事件の全貌は相変わらず曖昧模糊にして五里霧中。いちおうの犯罪のプロットはあり、暦とした犯罪事件は起こり、残虐な死体の1つや2つはごろごろ転がり、チャンドラー好みの政財界の大物からマフィアから謎の医師や弁護士や出版プロデューサー、ヤクザにチンピラにボディガード、謎のブロンド女やマーロウの運命のファムファタールまで陸続と面妖な人物が登場する。

だが、それがどうした。その犯罪の本質ははじめから終わりまで杳として最後の最後まで読者に知らされることは無い。

確かに犯罪者は登場し、犯罪は起こる。しかしその犯罪の動機や必然性は明確に描かれることはない。それなのに犯罪を構成する人物のデテールだけが異様に精確に描かれている。

人物が登場するたびに、チャンドラーは舌なめずりしながら彼らの姿かたちを鮮やかに描写する。彼らはドラクロアの登場人物のように強烈な光線を浴びてくっきりとして輪郭をしている。

しかしそれは犯罪の全体構造とは内的な関連をもたない。つまり事件は小説の舞台フレームとして仮に設定されているに過ぎない。

とみるまに、またしても絶世の美女が暗い部屋の片隅で全裸になり、マーロウを誘うと、我らが探偵は「まるで牡馬のように」なっちまうのであるが、このマーロウやアイリーン・ウエードの内面性はどのように描かれているのだろうかと調べてみると、ようわからんのである。

いったいマーロウが何を考えているのか、彼らの人生の喜びや悲しみや価値観は奈辺にあるかがてんでわからないのである。

つまりチャンドラーはプロットなどはどうでもよく、その瞬間ごとの人物たちのリアルな外形だけに関心があった。

マーロウやアイリーン・ウエードやテリー・レノックスたちはすべて能面冠者であり、彼らの内面は戯作者であるチャンドラー自身の内面に格納されている。かくして全体は最高に虚妄でありながら、部分部分は最高におもしろいという世にも不思議な物語が完成したのであった。

チャンドラーは「生命を有している文章はだいたいは“みぞおち”で書かれています」)村上春樹訳)と語り、生涯そのとおりに実行した作家だった。

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