♪ある晴れた日に その30
つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2
白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな
去年の今日は蛍舞いたり今年の蛍はどうしているかな
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり
ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな
イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ
老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは
どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターのろのろ動く
崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう
じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった
親というはげに因果なるものよ25にもなりし息子の所業をわがことと詫ぶ
栗の花にダイミョウセセリがとまる日よ女子大生泣き蛍地に墜つ
丸の内線の四谷三丁目こそうれしけり地獄より出て3丁目に着く
ホラ泣くぞホレ泣けよとばかりズームアップするカメラマンの下種な心
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか
白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ
お前もっと大局を見ろなどと上司から言われ素直に頷きし日もありしが呵呵
毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた
太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな
岩煙草煙草忘れし星の使者
いずみ橋蛍1匹拾いけり
♪くたびれてしなびてよどみてゆきなやみくちはてそうなわたしのじんせい 茫洋
Sunday, June 29, 2008
Saturday, June 28, 2008
きのう見た夢
♪遥かな昔、遠い所で第73回
昨日久しぶりに見たのは白い大きな蛇の夢だった。
私が例によって異境の地で途方に暮れて彷徨っていると、(いつも見る夢だ。いつも出てくる場所だ)路地の奥まった小さなアゴラの右側に、土蔵を改造した商店とも半分壊れた土蔵とも見える一種の祝祭的空間があった。
腰にひらひらだけまとったアラビア風の土民が笛を吹いている。聴いたこともないわびしく哀しくどこか懐かしい旋律を奏している。
私が「いかなる神ならむ、いかなる祭祀ならむ」といぶかしみながら祭壇の前に立ち、目を挙げると、その眼の少し上の位置にオオサンショウウオに似た面妖な貌をした真っ白な大蛇が横たわっていて、うろんな眼つきで私を睨んだ。
美白の外貌なのに眼だけは黒々と、また爛々と輝いている。こいつが大蛇であるとはすぐに見当がついたが、胴体や尻尾は奥のほうにとぐろを巻いていてどれくらいの大きさなのかはまったくわからない。
しかし薄暗い空間の奥にじっと眼を凝らせば、蒼白の大蛇のとぐろの上に横たわっているのは、灰色と薄緑が混じった色をした4羽の白鳥であった。
かつては白鳥と呼ばれたであろうその大型の鳥は、いまや死せる黒鳥となってその4本の長い首と風呂敷のようにぺっちゃんこになった紫色の胴体を、冷たい血管が透き通るような大蛇の皮膚の上に静かに横たえているのだった。
思わず身震いした私が、なおもその異様な光景に見入っていると、そのオオサンショウウオに似た白い大蛇が美白の分厚い唇をぶよぶよと動かしながら、なにやら呟いたようだったが、何を言うておるのか聞き取れなかった。
そこで私が「えっ」と聞き返すと、そいつは、もういちど確かにこう言うたのだった。
「眼は、動くまなこなり。」
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり 茫洋
昨日久しぶりに見たのは白い大きな蛇の夢だった。
私が例によって異境の地で途方に暮れて彷徨っていると、(いつも見る夢だ。いつも出てくる場所だ)路地の奥まった小さなアゴラの右側に、土蔵を改造した商店とも半分壊れた土蔵とも見える一種の祝祭的空間があった。
腰にひらひらだけまとったアラビア風の土民が笛を吹いている。聴いたこともないわびしく哀しくどこか懐かしい旋律を奏している。
私が「いかなる神ならむ、いかなる祭祀ならむ」といぶかしみながら祭壇の前に立ち、目を挙げると、その眼の少し上の位置にオオサンショウウオに似た面妖な貌をした真っ白な大蛇が横たわっていて、うろんな眼つきで私を睨んだ。
美白の外貌なのに眼だけは黒々と、また爛々と輝いている。こいつが大蛇であるとはすぐに見当がついたが、胴体や尻尾は奥のほうにとぐろを巻いていてどれくらいの大きさなのかはまったくわからない。
しかし薄暗い空間の奥にじっと眼を凝らせば、蒼白の大蛇のとぐろの上に横たわっているのは、灰色と薄緑が混じった色をした4羽の白鳥であった。
かつては白鳥と呼ばれたであろうその大型の鳥は、いまや死せる黒鳥となってその4本の長い首と風呂敷のようにぺっちゃんこになった紫色の胴体を、冷たい血管が透き通るような大蛇の皮膚の上に静かに横たえているのだった。
思わず身震いした私が、なおもその異様な光景に見入っていると、そのオオサンショウウオに似た白い大蛇が美白の分厚い唇をぶよぶよと動かしながら、なにやら呟いたようだったが、何を言うておるのか聞き取れなかった。
そこで私が「えっ」と聞き返すと、そいつは、もういちど確かにこう言うたのだった。
「眼は、動くまなこなり。」
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり 茫洋
Thursday, June 26, 2008
小国寡民
小国寡民
照る日曇る日第134回&♪バガテルop64
萩原延壽著「精神の共和国」によれば、1946年に敗戦による栄養失調で死んだ河上肇の絶筆は、
「冬暖かにして夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に、無名の一良民として、晩年書斎の傍らに一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。私は日本国民が之を機会に、老子の所謂小国寡民の意義の極めて深きを悟るに至れば、今後の「日本人は従前に比べ却って遥かに仕合せになるものと信じている」
というものであった。
小国寡民は、老子の「小国寡民、その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相望みて、鶏犬の声聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず」に由来するそうだが、萩原氏とともに私は、敗戦後のわが国から、この老子と河上の後世への遺言がいつの間にか虹の彼方にはかなく消えうせたことを悲しむ。
全世界を敵に回して絶望的な戦いを戦い、すべての資源と武器を失って敗れた大日本帝国の臣民がたどるべき道は、極東のこの小さな島国にひっそり閑と閉塞し、グリムの童話の誇大妄想にとりつかれたかの蛙のごとく破裂した夜郎自大な愚かさを何世紀にもまたがって反省し、世界人民に迷惑を掛けず、いついつまでもおのれを殺して逼塞隠遁し、かの美空ひばりの歌のやうに穏やかに、謙虚に生きていくことであったろう。かつて7つの海を制覇した栄光の大英帝国が、誇りを失うことなく胸に手を当てながら悠々と黄昏ていったように。
さうして、吾等が理想の小国寡民にとって最強の武器とは、皮肉なことに戦勝国が吾等に呉れたパンドラの箱たる憲法第9条であったのだが……。
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか 茫洋
照る日曇る日第134回&♪バガテルop64
萩原延壽著「精神の共和国」によれば、1946年に敗戦による栄養失調で死んだ河上肇の絶筆は、
「冬暖かにして夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に、無名の一良民として、晩年書斎の傍らに一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。私は日本国民が之を機会に、老子の所謂小国寡民の意義の極めて深きを悟るに至れば、今後の「日本人は従前に比べ却って遥かに仕合せになるものと信じている」
というものであった。
小国寡民は、老子の「小国寡民、その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相望みて、鶏犬の声聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず」に由来するそうだが、萩原氏とともに私は、敗戦後のわが国から、この老子と河上の後世への遺言がいつの間にか虹の彼方にはかなく消えうせたことを悲しむ。
全世界を敵に回して絶望的な戦いを戦い、すべての資源と武器を失って敗れた大日本帝国の臣民がたどるべき道は、極東のこの小さな島国にひっそり閑と閉塞し、グリムの童話の誇大妄想にとりつかれたかの蛙のごとく破裂した夜郎自大な愚かさを何世紀にもまたがって反省し、世界人民に迷惑を掛けず、いついつまでもおのれを殺して逼塞隠遁し、かの美空ひばりの歌のやうに穏やかに、謙虚に生きていくことであったろう。かつて7つの海を制覇した栄光の大英帝国が、誇りを失うことなく胸に手を当てながら悠々と黄昏ていったように。
さうして、吾等が理想の小国寡民にとって最強の武器とは、皮肉なことに戦勝国が吾等に呉れたパンドラの箱たる憲法第9条であったのだが……。
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか 茫洋
Wednesday, June 25, 2008
Tuesday, June 24, 2008
♪ある晴れた日に その29
♪ある晴れた日に その29
短い午睡から醒めるともはや無用の人間になったような気がした。
白いポロシャツを着て、朝比奈の滝まで行ったが、誰にも会わなかった。
ハンミョウたちは、道案内ができないので退屈そうだった。
今日は大雨のあとなので、滝からは白い水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ湧いて出た。
いつまでもいつまでも湧いて出た。
藻屑蟹を呼んだが、1匹も出てこなかった。
初夏だというのに、コナラの樹上には1羽のゼフィルスも飛んでいない。
そのかわりにとでもいうように、
尾羽打ち枯らしたルリタテハが私の右肩にひょいと止まってしばらく遊んで
やがて青い青い空の高みに飛び去った。
♪白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ 茫洋
短い午睡から醒めるともはや無用の人間になったような気がした。
白いポロシャツを着て、朝比奈の滝まで行ったが、誰にも会わなかった。
ハンミョウたちは、道案内ができないので退屈そうだった。
今日は大雨のあとなので、滝からは白い水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ湧いて出た。
いつまでもいつまでも湧いて出た。
藻屑蟹を呼んだが、1匹も出てこなかった。
初夏だというのに、コナラの樹上には1羽のゼフィルスも飛んでいない。
そのかわりにとでもいうように、
尾羽打ち枯らしたルリタテハが私の右肩にひょいと止まってしばらく遊んで
やがて青い青い空の高みに飛び去った。
♪白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ 茫洋
Monday, June 23, 2008
萩原延壽著「精神の共和国」をわが田に引く
照る日曇る日第133回
「頼むところは天下の輿論、目指す讐は暴虐政府」と遺言して、亡命の地フィラデルフィアで若い命を散らしたのは、わが敬愛する孤高の自由思想家、馬場辰猪だった。
その馬場を「我が党の士」と呼んだのが福沢諭吉で、福沢は彼が身につけていた「気品」をなによりも愛惜したのであった。
「君は天下の人才にしてその期するところ大なりといえどもわが君におきて忘るることあたわざるところのものは、その気風品格の高尚なるにあり。君の気品は忘れんとして忘るるあたわざるところにして、百年の後なお他の亀鑑なり」(追弔詞)と福沢が称えた馬場の気品とは、「知識や思想に命をかよわす強靭な精神のちから」であった。
福沢が西南戦争を率いた西郷南州の行動にみた国民抵抗の精神、明治政府に出仕することを潔しとしない旧幕の遺臣栗本鋤雲の進退に感じた「痩せ我慢の精神」は、いずれも彼がいう「気品」にかかわっている。
気品とは「学問のすすめ」以来、慶応義塾を創立した福沢がもっとも頻繁に口にした「精神の独立」の別名でもある。
馬場、福沢死して1世紀、軽々に「品格」を口走る平成人輩の胸中に、そもいくばくの「気品」ありや?
穏健な保守の論客にして心の奥底で真の革新を夢見ていた、なんだか懐かしく不可思議なインテリゲンチャのことを、私は大仏次郎の「天皇の世紀」が未完で終わったあと、朝日新聞で長期連載された「遠い崖」を読んで、はじめて知ったのだった。
そしていつまでも続いて欲しいと願っていたあの素晴らしいアーネスト・サトウの物語がついに終わってしまったときはがっかりしたものだった。
さてこれで荻原延壽氏の全著作を読んでしまったことになるが、本当にもうこれでおしまいなのだろうか。なんだか名残惜しいことだ。
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターがのろのろと動く 茫洋
「頼むところは天下の輿論、目指す讐は暴虐政府」と遺言して、亡命の地フィラデルフィアで若い命を散らしたのは、わが敬愛する孤高の自由思想家、馬場辰猪だった。
その馬場を「我が党の士」と呼んだのが福沢諭吉で、福沢は彼が身につけていた「気品」をなによりも愛惜したのであった。
「君は天下の人才にしてその期するところ大なりといえどもわが君におきて忘るることあたわざるところのものは、その気風品格の高尚なるにあり。君の気品は忘れんとして忘るるあたわざるところにして、百年の後なお他の亀鑑なり」(追弔詞)と福沢が称えた馬場の気品とは、「知識や思想に命をかよわす強靭な精神のちから」であった。
福沢が西南戦争を率いた西郷南州の行動にみた国民抵抗の精神、明治政府に出仕することを潔しとしない旧幕の遺臣栗本鋤雲の進退に感じた「痩せ我慢の精神」は、いずれも彼がいう「気品」にかかわっている。
気品とは「学問のすすめ」以来、慶応義塾を創立した福沢がもっとも頻繁に口にした「精神の独立」の別名でもある。
馬場、福沢死して1世紀、軽々に「品格」を口走る平成人輩の胸中に、そもいくばくの「気品」ありや?
穏健な保守の論客にして心の奥底で真の革新を夢見ていた、なんだか懐かしく不可思議なインテリゲンチャのことを、私は大仏次郎の「天皇の世紀」が未完で終わったあと、朝日新聞で長期連載された「遠い崖」を読んで、はじめて知ったのだった。
そしていつまでも続いて欲しいと願っていたあの素晴らしいアーネスト・サトウの物語がついに終わってしまったときはがっかりしたものだった。
さてこれで荻原延壽氏の全著作を読んでしまったことになるが、本当にもうこれでおしまいなのだろうか。なんだか名残惜しいことだ。
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターがのろのろと動く 茫洋
Saturday, June 21, 2008
万歳! ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年
♪音楽千夜一夜第37回
ワーグナー・バイロイトコレクションはデッカレーベルから発売されていて、旧ドイツグラムフォンやフィリプスで出たものも一括しているが、なんといっても1枚当たり300円以下の低価格がうれしい。
ところがそれを大幅に下回る?バジェットプライスが目の前にならんでいた。ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年記念50枚組み消費税込み5790円の超廉価版である。私はすばやく電卓を取り出しメガネをかけて計算してみた。なんと@115円80銭ではないか!
これを買わずにいらりょうかとばかり、掌にずしりと重い1パックをむんずとわしづかみにしてレジに向かった私は、その日の午後のしがない賃労働を終えてから家に帰ってさっそくパンドラの箱を開いてみた。
するてえと、出てくるは出てくるは、バロックやら古楽の名曲名演奏の数々が。
アストルガのスターバト・マーテルからはじまって、ペルゴレージ、デユランテのマグニフィカト、ヴィヴエのレクイエム、リュリ、ラモー、ゼレンカ、ペレストリーナ、パーセル、ラスス、モンテヴェルディ、マショー、ヴィバルディ、バッハ、ヘンデルのいつか聴きたいと思っていたあれやこれやがじゃんじゃん飛び出してきたではないか。
たたいまカメラータ・ケルンのバッハのオーボエコンチエルトを聴いたばかりだが、うっとおしい梅雨の暗雲を吹き飛ばすような胸のすく演奏でした。
クイケン・トリオの音楽の慰め、レオンハルトのゴルドベルグ、鈴木秀美のチエロソナタ全曲も楽しみ。それに大好きなゼレンカのミサ曲やスカルラッティのカンタータ、ヨハネ受難曲なんて秘曲?も入っている。
演奏者はアルフレッド・デラーやターフェルムジーク、ホグウッド、プチット・バンド、ビルスマなどは知っているが、そのほかは初めての団体や演奏家ばかりだが、もうなんだっていいや。なんせ50枚だもんね、115円だもんね。
♪岩煙草煙草忘れし星の使者 茫洋
ワーグナー・バイロイトコレクションはデッカレーベルから発売されていて、旧ドイツグラムフォンやフィリプスで出たものも一括しているが、なんといっても1枚当たり300円以下の低価格がうれしい。
ところがそれを大幅に下回る?バジェットプライスが目の前にならんでいた。ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年記念50枚組み消費税込み5790円の超廉価版である。私はすばやく電卓を取り出しメガネをかけて計算してみた。なんと@115円80銭ではないか!
これを買わずにいらりょうかとばかり、掌にずしりと重い1パックをむんずとわしづかみにしてレジに向かった私は、その日の午後のしがない賃労働を終えてから家に帰ってさっそくパンドラの箱を開いてみた。
するてえと、出てくるは出てくるは、バロックやら古楽の名曲名演奏の数々が。
アストルガのスターバト・マーテルからはじまって、ペルゴレージ、デユランテのマグニフィカト、ヴィヴエのレクイエム、リュリ、ラモー、ゼレンカ、ペレストリーナ、パーセル、ラスス、モンテヴェルディ、マショー、ヴィバルディ、バッハ、ヘンデルのいつか聴きたいと思っていたあれやこれやがじゃんじゃん飛び出してきたではないか。
たたいまカメラータ・ケルンのバッハのオーボエコンチエルトを聴いたばかりだが、うっとおしい梅雨の暗雲を吹き飛ばすような胸のすく演奏でした。
クイケン・トリオの音楽の慰め、レオンハルトのゴルドベルグ、鈴木秀美のチエロソナタ全曲も楽しみ。それに大好きなゼレンカのミサ曲やスカルラッティのカンタータ、ヨハネ受難曲なんて秘曲?も入っている。
演奏者はアルフレッド・デラーやターフェルムジーク、ホグウッド、プチット・バンド、ビルスマなどは知っているが、そのほかは初めての団体や演奏家ばかりだが、もうなんだっていいや。なんせ50枚だもんね、115円だもんね。
♪岩煙草煙草忘れし星の使者 茫洋
Friday, June 20, 2008
ワーグナーとアーネスト・サトウ
♪音楽千夜一夜第36回
先般タワーレコードで購入したバイロイト音楽祭におけるワーグナーの楽劇、オペラライブシリーズ33枚は名曲、名演奏の一大コンピレーションで、とりわけベームの「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」のそれは聴き応えがあった。しかし諸事多端にとりまぎれ、まだ「ニーベルングの指輪」の残りと「パルシファル」はまだ聴きそびれている。聴き終わるのが待ち遠しいような、聴いてしまいたくないような複雑な気持ちだ。
いま読んでいる荻原延寿氏の本にアーネスト・サトウの音楽マニアぶりの話が出ているが、明治12年7月16日にサトウは同じ駐日英国大使館員のチエンバレンとベートーヴェンのハ短調交響曲の最初の2楽章を連弾して楽しんだりしている。場所は泉岳寺の向かいの下宿であるからあの運命のダダダダーンを耳にした人たちは驚いたことだろう。
そのサトウが生まれて初めてワーグナーの音楽に接したのは、彼が1883年にロンドンに帰国していたときである。ちょうどワーグナーの弟子のハンス・リヒターが英国におけるワ氏音楽の普及とバイロイトの資金集めのためにやってきて、前半に「ファウスト序曲」、「トリスタンの死」、「ジークフリートの死」、「同葬送行進曲」、後半にベ氏のその「ハ短調交響曲」を演奏した。
サトウは大いに感動したようで、「桁外れなほど壮大で神秘的ななにか、じつに意表をつく効果の数々、このワ氏の音楽に比べるとあの素晴らしい旋律と活気にあふれたベ氏の音楽さえ色あせてくる。まるで自分の神々がより強大な権力によって突然玉座から放り出されたような感じを受けた」(荻原延寿「精神の共和国」)と書いている。
永井荷風と同様、聴くべきところは精確に聴いているようだ。
しかしそれほど強力な印象を受けたにもかかわらず、サトウはついにバイロイト音楽祭には行かなかった。
彼の朋友チエンバレンの弟でワ氏の娘エヴァと結婚したヒューストン・チエンバレンが熱烈なワグネリアンだったから、当然何度も招待されたはずなのにとうとう祝祭劇場詣でをしなかったのは、そのヒューストンが狂信的な反ユダヤ主義者でありナチ賛美者であったからだと伝えられる。
♪どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット 茫洋
先般タワーレコードで購入したバイロイト音楽祭におけるワーグナーの楽劇、オペラライブシリーズ33枚は名曲、名演奏の一大コンピレーションで、とりわけベームの「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」のそれは聴き応えがあった。しかし諸事多端にとりまぎれ、まだ「ニーベルングの指輪」の残りと「パルシファル」はまだ聴きそびれている。聴き終わるのが待ち遠しいような、聴いてしまいたくないような複雑な気持ちだ。
いま読んでいる荻原延寿氏の本にアーネスト・サトウの音楽マニアぶりの話が出ているが、明治12年7月16日にサトウは同じ駐日英国大使館員のチエンバレンとベートーヴェンのハ短調交響曲の最初の2楽章を連弾して楽しんだりしている。場所は泉岳寺の向かいの下宿であるからあの運命のダダダダーンを耳にした人たちは驚いたことだろう。
そのサトウが生まれて初めてワーグナーの音楽に接したのは、彼が1883年にロンドンに帰国していたときである。ちょうどワーグナーの弟子のハンス・リヒターが英国におけるワ氏音楽の普及とバイロイトの資金集めのためにやってきて、前半に「ファウスト序曲」、「トリスタンの死」、「ジークフリートの死」、「同葬送行進曲」、後半にベ氏のその「ハ短調交響曲」を演奏した。
サトウは大いに感動したようで、「桁外れなほど壮大で神秘的ななにか、じつに意表をつく効果の数々、このワ氏の音楽に比べるとあの素晴らしい旋律と活気にあふれたベ氏の音楽さえ色あせてくる。まるで自分の神々がより強大な権力によって突然玉座から放り出されたような感じを受けた」(荻原延寿「精神の共和国」)と書いている。
永井荷風と同様、聴くべきところは精確に聴いているようだ。
しかしそれほど強力な印象を受けたにもかかわらず、サトウはついにバイロイト音楽祭には行かなかった。
彼の朋友チエンバレンの弟でワ氏の娘エヴァと結婚したヒューストン・チエンバレンが熱烈なワグネリアンだったから、当然何度も招待されたはずなのにとうとう祝祭劇場詣でをしなかったのは、そのヒューストンが狂信的な反ユダヤ主義者でありナチ賛美者であったからだと伝えられる。
♪どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット 茫洋
Thursday, June 19, 2008
篠田節子著「ホーラ 死都」を読む
照る日曇る日第132回
エーゲ海の孤島パナリア島に眠る死と亡霊の都ホーラを舞台にした「カルチャー×ホラー×ラブストーリー」である。
基本は壮年建築家と閨秀バイオリニストの許されざる恋の物語であるが、そこに観光名所やらギリシャやヴェネツイアやオスマントルコの歴史やらキリスト教との宗教&文化衝突やら沈没船から引き上げられた悪魔のヴァイオリン銘器だのその呪いだのがてんこ盛りに盛り込まれたサービス精神満点の娯楽読み物である。
料理にたとえると松花堂弁当か具の多いラーメンライスのようなものだろうか。すぐに腹いっぱいになるが食べた瞬間にどんな味だったか忘れてしまいそう。
しかし知性も教養も向学心も品格もある女流作家の作品だけに、最近の痴呆的ヤン・グーどものあほばか日本語とは2らんく上の読ませる文体と文章で磨き上げてあるのがなによりである。
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは 茫洋
エーゲ海の孤島パナリア島に眠る死と亡霊の都ホーラを舞台にした「カルチャー×ホラー×ラブストーリー」である。
基本は壮年建築家と閨秀バイオリニストの許されざる恋の物語であるが、そこに観光名所やらギリシャやヴェネツイアやオスマントルコの歴史やらキリスト教との宗教&文化衝突やら沈没船から引き上げられた悪魔のヴァイオリン銘器だのその呪いだのがてんこ盛りに盛り込まれたサービス精神満点の娯楽読み物である。
料理にたとえると松花堂弁当か具の多いラーメンライスのようなものだろうか。すぐに腹いっぱいになるが食べた瞬間にどんな味だったか忘れてしまいそう。
しかし知性も教養も向学心も品格もある女流作家の作品だけに、最近の痴呆的ヤン・グーどものあほばか日本語とは2らんく上の読ませる文体と文章で磨き上げてあるのがなによりである。
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは 茫洋
Tuesday, June 17, 2008
よしもとばなな著「サウスポイント」を読む
照る日曇る日第131回
今晩は蛍が4箇所に8匹いた。そのうち3匹がもつれ合いながら谷間の蒼穹に消えていく姿はまことに美しかった。それで私はなんとなく宮崎と坂口という死刑囚のことを思った。
鳩山という法相は大量の蝶類を殺戮してきたので、人類もわりあい抵抗なく死に追いやることができる人ではないかと私は確信している。ともかく蛮勇の持ち主である。たいしたもんだ。
さて本書である。
昔この人は吉本ばななであったのに、いつからひらかなに変えたのだろうか。高島流かそれとも新宿の母だか銀座の母に占ってもらったんだろうか。いずれにしても、私は姓名判断に頼る奴はきらいだし、にやまひろし、とかかまやつひろし、とか、なだいなだとか姓名をぜんぶひらくやつはきらいだ。きらいだきらいだ、全部きらいだ。
どうしてきらいなのか我ながら理由が分からないので、あとでゆっくり考えてみようと思うが、たぶん考えても分からないだろうし、それにその「たぶんあとで」、はないだろうな。人生ってそういうものだ。いまこそそれを考えるべきとき、実行するべきとき、と思っていたって結局はずるずるずるずる一日のばし、二日のばししているうちに10年、20年が過ぎていってしまう。人生ってそういうもんだ。
ばななはハワイが好きらしい。とりわけオアフ島ではなく、ハワイ島の南端のサウスポイントの黄昏に魅惑されているらしい。そこには人々を父母未生以前の原初の状態に還元してくれる精霊が宿っていて、現代の苦難に生きる人々の心身を洗濯し、解放してくれるらしい。
ばななは多少スピリチュアルな世界に影響を受けているようで、そこのところは気に喰わないが、たとえば村上龍のような大きな小説から遠く離れて、小さな小説の小さなよろこびと小さな悲しみをきりきりと生き、切々と抱きしめるところが樋口一葉のようで涙ぐましい。
>私はあの日、サウスポイントではっきりとそれを見た。
海と空、天界とこの世、風と潮、いろいろなものが美しく混じり合って溶けていたあの地点で、私はこの世を支配している力がもたらす、また別の裂け目を見たのだ。ふたつの世界の巨大な力が混じるところを。この世には別の世界をかいまみせるたくさんの裂け目があり、それに感応する魂を抱いている限りは、まだこうしていろいろなものをただ見ていたい、愛する人たちを助けていたい、そう思った。きっとこの場所は、たまに人間にそんな不思議な力を見るのを許してくれる、とっても稀で、厳しくして優しいところなのだろう。(p233)
この前段がいささか紋切り型のばなな流であるけれど、後段の「そう思った」とぬけぬけとためらいもなく言い放つところが、ばななの真骨頂である。そこにはこの魂の単純明快さと強さときよらかさが息づいており、世界と未来への天真爛漫な信頼が輝いている。
前作の「まぼろしハワイ」と違って今回はプロットの構成や時間軸の構築の仕方に技術的な難があるけれど、その破綻を覚悟してあえて突き進んでいるところにこの小説家の勇気と良心が認められる。
♪崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも 茫洋
今晩は蛍が4箇所に8匹いた。そのうち3匹がもつれ合いながら谷間の蒼穹に消えていく姿はまことに美しかった。それで私はなんとなく宮崎と坂口という死刑囚のことを思った。
鳩山という法相は大量の蝶類を殺戮してきたので、人類もわりあい抵抗なく死に追いやることができる人ではないかと私は確信している。ともかく蛮勇の持ち主である。たいしたもんだ。
さて本書である。
昔この人は吉本ばななであったのに、いつからひらかなに変えたのだろうか。高島流かそれとも新宿の母だか銀座の母に占ってもらったんだろうか。いずれにしても、私は姓名判断に頼る奴はきらいだし、にやまひろし、とかかまやつひろし、とか、なだいなだとか姓名をぜんぶひらくやつはきらいだ。きらいだきらいだ、全部きらいだ。
どうしてきらいなのか我ながら理由が分からないので、あとでゆっくり考えてみようと思うが、たぶん考えても分からないだろうし、それにその「たぶんあとで」、はないだろうな。人生ってそういうものだ。いまこそそれを考えるべきとき、実行するべきとき、と思っていたって結局はずるずるずるずる一日のばし、二日のばししているうちに10年、20年が過ぎていってしまう。人生ってそういうもんだ。
ばななはハワイが好きらしい。とりわけオアフ島ではなく、ハワイ島の南端のサウスポイントの黄昏に魅惑されているらしい。そこには人々を父母未生以前の原初の状態に還元してくれる精霊が宿っていて、現代の苦難に生きる人々の心身を洗濯し、解放してくれるらしい。
ばななは多少スピリチュアルな世界に影響を受けているようで、そこのところは気に喰わないが、たとえば村上龍のような大きな小説から遠く離れて、小さな小説の小さなよろこびと小さな悲しみをきりきりと生き、切々と抱きしめるところが樋口一葉のようで涙ぐましい。
>私はあの日、サウスポイントではっきりとそれを見た。
海と空、天界とこの世、風と潮、いろいろなものが美しく混じり合って溶けていたあの地点で、私はこの世を支配している力がもたらす、また別の裂け目を見たのだ。ふたつの世界の巨大な力が混じるところを。この世には別の世界をかいまみせるたくさんの裂け目があり、それに感応する魂を抱いている限りは、まだこうしていろいろなものをただ見ていたい、愛する人たちを助けていたい、そう思った。きっとこの場所は、たまに人間にそんな不思議な力を見るのを許してくれる、とっても稀で、厳しくして優しいところなのだろう。(p233)
この前段がいささか紋切り型のばなな流であるけれど、後段の「そう思った」とぬけぬけとためらいもなく言い放つところが、ばななの真骨頂である。そこにはこの魂の単純明快さと強さときよらかさが息づいており、世界と未来への天真爛漫な信頼が輝いている。
前作の「まぼろしハワイ」と違って今回はプロットの構成や時間軸の構築の仕方に技術的な難があるけれど、その破綻を覚悟してあえて突き進んでいるところにこの小説家の勇気と良心が認められる。
♪崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも 茫洋
Monday, June 16, 2008
平成蛍日記
平成蛍日記
♪バガテルop61&鎌倉ちょっと不思議な物語133回
ここ数日私は毎日毎晩ほたるがりに熱中していた。
「かり」ったって狩るのではない。遠くからそおおっと平家蛍の点滅を見守っているのである。
蛍という昆虫はかなり行動半径は広いのだが、不思議なことに毎晩同じ場所に宿る。
♪蛍の宿は川端柳、とはよく歌ったものだ。
川端柳の同じ葉っぱにおよそ1週間から10日滞在してうまくいったら交接してこの世に別れを告げるのである。
昨夜は雌雄2匹が楽しみながら前後左右に移動しながらゆっくり交接するのをうっとりと眺めていた。
1週間前はたくさん飛翔していたが、ここ数日は2匹か4匹になってきた。あと数日で当地の蛍の季節は終わりを告げることだろう。
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう 茫洋
♪バガテルop61&鎌倉ちょっと不思議な物語133回
ここ数日私は毎日毎晩ほたるがりに熱中していた。
「かり」ったって狩るのではない。遠くからそおおっと平家蛍の点滅を見守っているのである。
蛍という昆虫はかなり行動半径は広いのだが、不思議なことに毎晩同じ場所に宿る。
♪蛍の宿は川端柳、とはよく歌ったものだ。
川端柳の同じ葉っぱにおよそ1週間から10日滞在してうまくいったら交接してこの世に別れを告げるのである。
昨夜は雌雄2匹が楽しみながら前後左右に移動しながらゆっくり交接するのをうっとりと眺めていた。
1週間前はたくさん飛翔していたが、ここ数日は2匹か4匹になってきた。あと数日で当地の蛍の季節は終わりを告げることだろう。
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう 茫洋
Friday, June 13, 2008
松浦理英子著「犬身」を読む
松浦理英子著「犬身」を読む
照る日曇る日第131回
私は犬が好きだ。かつて息子が天園のハイキングコースの茶屋近辺をねぐらにしていた野良犬を拾ってきたときも一目見るなり大いに気に入って、もっとも新しい家族の席を占めたのだった。
いらい二十年近く生活を共にしたが、日々新鮮な驚きがあり、愛犬ムクのおかげで我が家は無上の幸せを味わうことができたのであった。最晩年の老犬は両目の視力を失い、体力も臭覚も衰え、餌が目当てで同棲したドラネコに食物を奪われ、大好きな散歩に外出しても歩くのがやっとというていたらくで、飼い主の息子が帰宅するのを待っていたように一声上げて絶命したわけだが、その最後の瞬間もムクは私たちの心と共にあったと確信している。
そんな犬とのうるわしき交歓を堪能した私も、松浦理英子さんの犬に寄せる熱烈な思いと強烈な想像力には遥かに及ばないと知った。
本書の女主人公は、愛する女性の愛犬になる夢を抱き、あれよあれよという間にその途方もない夢を実現してしまう。いったいどのような魔法を使ってそれが可能になったのかは、この本を手にとって読んでいただきたいが、ともかく人間が犬に変身したり、女主人に忠誠を誓うその犬が人間語を解したり、ヒロインの数奇な運命に巻き込まれて異常な体験をしたりする非現実的で不条理極まりない物語を、いかにも真に迫って本当の話のように描いてしまう作者の強烈な想像力と驚くべきは筆力には脱帽せざるを得ない。
私だってこのムクが人間だったら、ムクが言葉を話せたら、と思ったことは何度もあったが、この私が犬になってムクと会話したり愛し合ったりしようとは夢にも思わなかった。松浦理英子さんはこの境界をいともたやすく飛び越えて、人畜同体世界に侵入し、人畜運命共同体という前人未踏の交信領域を開拓することに成功したのであーる。
♪じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった 茫洋
照る日曇る日第131回
私は犬が好きだ。かつて息子が天園のハイキングコースの茶屋近辺をねぐらにしていた野良犬を拾ってきたときも一目見るなり大いに気に入って、もっとも新しい家族の席を占めたのだった。
いらい二十年近く生活を共にしたが、日々新鮮な驚きがあり、愛犬ムクのおかげで我が家は無上の幸せを味わうことができたのであった。最晩年の老犬は両目の視力を失い、体力も臭覚も衰え、餌が目当てで同棲したドラネコに食物を奪われ、大好きな散歩に外出しても歩くのがやっとというていたらくで、飼い主の息子が帰宅するのを待っていたように一声上げて絶命したわけだが、その最後の瞬間もムクは私たちの心と共にあったと確信している。
そんな犬とのうるわしき交歓を堪能した私も、松浦理英子さんの犬に寄せる熱烈な思いと強烈な想像力には遥かに及ばないと知った。
本書の女主人公は、愛する女性の愛犬になる夢を抱き、あれよあれよという間にその途方もない夢を実現してしまう。いったいどのような魔法を使ってそれが可能になったのかは、この本を手にとって読んでいただきたいが、ともかく人間が犬に変身したり、女主人に忠誠を誓うその犬が人間語を解したり、ヒロインの数奇な運命に巻き込まれて異常な体験をしたりする非現実的で不条理極まりない物語を、いかにも真に迫って本当の話のように描いてしまう作者の強烈な想像力と驚くべきは筆力には脱帽せざるを得ない。
私だってこのムクが人間だったら、ムクが言葉を話せたら、と思ったことは何度もあったが、この私が犬になってムクと会話したり愛し合ったりしようとは夢にも思わなかった。松浦理英子さんはこの境界をいともたやすく飛び越えて、人畜同体世界に侵入し、人畜運命共同体という前人未踏の交信領域を開拓することに成功したのであーる。
♪じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった 茫洋
Wednesday, June 11, 2008
Tuesday, June 10, 2008
岡田暁生著「恋愛哲学者モーツァルト」を読む
照る日曇る日第130回
―18世紀がどれほどはちゃめちゃで、ぶっ壊れていて大胆でエッチで絶望的で、でも優美で比類ないバランス感覚と人間愛にあふれていて、少し哀しげだけど微笑みを忘れず、しかし途方もなくラディカルで、人間観察においてぞっとするほど冷酷かつ徹底的でそしてどれだけ現代的であるか、つまりモーツアルトの音楽そのものであるか。
という著者の言葉を、著者がゲーテやスタンダールやカントやヘーゲルやラディゲやキルケゴールやアドルノなどの文学者・哲学者の思想を自在に引用しながら、「後宮からの脱走」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」という5つのオペラの登場人物たちの愛の試練の分析を通じて明らかにしていく、なかなかに興味深い音楽哲学書である。
「後宮からの脱走」におけるフィナーレで高貴な太守はひっそりと身を引き、その結果2組の恋人たちは船に乗ってトルコを去っていく。これはいちおうの愛の勝利ではあるが、けっして完璧ではなく、ある和解の不在をそれとなく示唆している、と著者はいう。
「フィガロの結婚」のあまりにも神々しいフィナーレはまるで夢の中の花火のようにあっけなく過ぎ去ってしまう。かつてあれほど愛し合った伯爵夫妻の愛は、おそらくもはや復活しないだろうし、フィガロとスザンナの若い愛もどうなることやら誰にも保証できない。けれど、とりあえず狂乱の一日を終わらせてやろうじゃないかと、モーツアルトは一気につじつま合わせの第4幕の終曲に突入するのである。
「ドン・ジョヴァンニ」は騎士長の死からはじまり主人公の英雄的な地獄落ちに終わる死のドラマであり、ドン・ジョヴァンニという永遠のドンファンによっておおいに活性化された貴族や農民たちの恋愛は、彼の死と共に死んでしまう。
つまり愛の共同体という視点から見たとき、「後宮からの脱走」はとりあえずその建設であり、「フィガロの結婚」はその再建であったが、「ドン・ジョヴァンニ」はそれらすべてを破壊してしまった、と著者はいうのである。地獄落ちととってつけたようなフィナーレの間には、橋の架け様もない深い断絶が生じているのである。
その結果、「コシ・ファン・トゥッテ」の世界では、恋人たちはもはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければならない。何が起きようがもう絶対悪のせいにはできず、頼れる庇護者・後見人・王様も悪魔もいない世界において、カントのいうように「未成年状態から脱して大人として自立すること」が恋人たちに課せられた課題になる。
女も、男も、世の中も、所詮はこんなもの。アドルノのいう「絶対主義と自由主義の間の一種逆説的な均衡状態」こそが「コシ・ファン・トゥッテ」を特徴付ける礼節の世界、英国流のゼントルマンの世界であると著者はいうのである。
モーツアルトは最後の作品「魔笛」では、一転して清く正しく美しい愛の世界を描き出す。散文化されたオペラの世界は、ふたたび一つの宇宙として神話化され、フィナーレではありとあらゆる音楽形式がめまぐるしく呼び戻され、最後はまるでベートーヴェンの第9のフィナーレを先取りするようなオラトリオ的な交響が世界にこだまする。
しかしベートーヴェンやワグナーと違って、モーツアルトはロマン派や恋人たちが大好きな感動フィナーレを冷徹に排除する。「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に互いに仲良く暮らしていける日が来るかもしれない」という希望がほんの一瞬つかの間にきらめいて、フィナーレはあっという間に終わってしまうのである。
♪太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな 茫洋
―18世紀がどれほどはちゃめちゃで、ぶっ壊れていて大胆でエッチで絶望的で、でも優美で比類ないバランス感覚と人間愛にあふれていて、少し哀しげだけど微笑みを忘れず、しかし途方もなくラディカルで、人間観察においてぞっとするほど冷酷かつ徹底的でそしてどれだけ現代的であるか、つまりモーツアルトの音楽そのものであるか。
という著者の言葉を、著者がゲーテやスタンダールやカントやヘーゲルやラディゲやキルケゴールやアドルノなどの文学者・哲学者の思想を自在に引用しながら、「後宮からの脱走」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」という5つのオペラの登場人物たちの愛の試練の分析を通じて明らかにしていく、なかなかに興味深い音楽哲学書である。
「後宮からの脱走」におけるフィナーレで高貴な太守はひっそりと身を引き、その結果2組の恋人たちは船に乗ってトルコを去っていく。これはいちおうの愛の勝利ではあるが、けっして完璧ではなく、ある和解の不在をそれとなく示唆している、と著者はいう。
「フィガロの結婚」のあまりにも神々しいフィナーレはまるで夢の中の花火のようにあっけなく過ぎ去ってしまう。かつてあれほど愛し合った伯爵夫妻の愛は、おそらくもはや復活しないだろうし、フィガロとスザンナの若い愛もどうなることやら誰にも保証できない。けれど、とりあえず狂乱の一日を終わらせてやろうじゃないかと、モーツアルトは一気につじつま合わせの第4幕の終曲に突入するのである。
「ドン・ジョヴァンニ」は騎士長の死からはじまり主人公の英雄的な地獄落ちに終わる死のドラマであり、ドン・ジョヴァンニという永遠のドンファンによっておおいに活性化された貴族や農民たちの恋愛は、彼の死と共に死んでしまう。
つまり愛の共同体という視点から見たとき、「後宮からの脱走」はとりあえずその建設であり、「フィガロの結婚」はその再建であったが、「ドン・ジョヴァンニ」はそれらすべてを破壊してしまった、と著者はいうのである。地獄落ちととってつけたようなフィナーレの間には、橋の架け様もない深い断絶が生じているのである。
その結果、「コシ・ファン・トゥッテ」の世界では、恋人たちはもはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければならない。何が起きようがもう絶対悪のせいにはできず、頼れる庇護者・後見人・王様も悪魔もいない世界において、カントのいうように「未成年状態から脱して大人として自立すること」が恋人たちに課せられた課題になる。
女も、男も、世の中も、所詮はこんなもの。アドルノのいう「絶対主義と自由主義の間の一種逆説的な均衡状態」こそが「コシ・ファン・トゥッテ」を特徴付ける礼節の世界、英国流のゼントルマンの世界であると著者はいうのである。
モーツアルトは最後の作品「魔笛」では、一転して清く正しく美しい愛の世界を描き出す。散文化されたオペラの世界は、ふたたび一つの宇宙として神話化され、フィナーレではありとあらゆる音楽形式がめまぐるしく呼び戻され、最後はまるでベートーヴェンの第9のフィナーレを先取りするようなオラトリオ的な交響が世界にこだまする。
しかしベートーヴェンやワグナーと違って、モーツアルトはロマン派や恋人たちが大好きな感動フィナーレを冷徹に排除する。「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に互いに仲良く暮らしていける日が来るかもしれない」という希望がほんの一瞬つかの間にきらめいて、フィナーレはあっという間に終わってしまうのである。
♪太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな 茫洋
Monday, June 09, 2008
五味文彦著「躍動する中世」を読んで その2
照る日曇る日第129回
昨日酷評した「躍動する中世」であるが、細部の記述はとても勉強になる。
以下は本書の落ち穂拾いである。
京の祇園社は外部からやってきて祟りをなす天竺の神牛頭天王、婆梨采女を祭った。
中世人はことのほか童、子供を大切にした。
宇佐八幡宮の八幡神が東大寺や春日社、神護寺、石清水寺に祭られるとともに、神仏習合が深化していった。由比若宮は源氏の基礎を築いた源頼義が由比ガ浜に石清水八幡宮を勧請したことにはじまる。同じ八幡神でも若宮であった。本地は十一面観音である。
頼朝はまず由比ガ浜の鶴岡若宮を祖宗を崇めるために小林卿に移し、毎年元旦に参詣したがこれが本邦の初詣のはじまりである。頼朝は1187年に鶴岡八幡宮で放生会を行なったがこれが山野河海にいくる自由民の支配と殺生を業とする武士の支配に直結したのである。
白拍子の起源は信西入道で、彼がいくつかの舞の手を創作し、磯禅師に伝え、これが娘で義経の妾である「天下の名仁」静に伝承された。静が頼朝夫妻の前で舞ったのは文治2年1186年4月8日であった。
鎌倉の和賀江島を築いたのは勧進上人の往阿弥陀仏と長谷大仏をつくった浄光の二人である。建長4年1252年8月に完成したと伝えられる大仏は当初は木造の釈迦如来と記されているが、現存するのは金銅の阿弥陀仏である。
1214年二日酔いに苦しむ実朝に良薬として抹茶を勧めたのが栄西であった。茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。本邦の喫茶はここにはじまる。
一遍の踊念仏である踊躍歓喜は身体と宗教の一致である。当時の放下の禅師にはササラ太郎、夢次郎、電光、朝露などがいた。
宝治合戦1247年の際に頼朝の法華堂に立て籠もった三浦一族は浄土宗に帰依する武士の行なう法事讃にもとづいて念仏を唱えつつ全員自害を遂げた。三浦泰村を滅ぼし名門足利氏を失脚させ幕府官僚制を確立し、建長寺を設立して禅門を擁護した。北条一門と得宗の外戚、得宗に仕える御内人から構成される秘密の会議、寄合も時頼の創設で、北条一門の出世コースは引付衆→評定衆→寄合衆であった。
武士の伸長は、11世紀後半に白川天皇が源義家と平正盛を院殿上人として登用したことにはじまる。平正盛の子忠盛は貴族にも取り立てられ平家興隆の基礎を築いた。
中世都市の3つの典型は中央政治都市の京、境界港湾都市の博多、宗教異界都市の奈良であり、それぞれ人・物・精神がその基軸をなしていた。
鎌倉将軍は関東武士団連合に擁された王であり、実朝のように善政・徳政にもとづく新政策を打ちだし親裁権を行使して連合を疎外しようとすれば退けられたのである。幕府政治の本質は談合であり、これがいまなお現代に続いている。
♪ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな 茫洋
昨日酷評した「躍動する中世」であるが、細部の記述はとても勉強になる。
以下は本書の落ち穂拾いである。
京の祇園社は外部からやってきて祟りをなす天竺の神牛頭天王、婆梨采女を祭った。
中世人はことのほか童、子供を大切にした。
宇佐八幡宮の八幡神が東大寺や春日社、神護寺、石清水寺に祭られるとともに、神仏習合が深化していった。由比若宮は源氏の基礎を築いた源頼義が由比ガ浜に石清水八幡宮を勧請したことにはじまる。同じ八幡神でも若宮であった。本地は十一面観音である。
頼朝はまず由比ガ浜の鶴岡若宮を祖宗を崇めるために小林卿に移し、毎年元旦に参詣したがこれが本邦の初詣のはじまりである。頼朝は1187年に鶴岡八幡宮で放生会を行なったがこれが山野河海にいくる自由民の支配と殺生を業とする武士の支配に直結したのである。
白拍子の起源は信西入道で、彼がいくつかの舞の手を創作し、磯禅師に伝え、これが娘で義経の妾である「天下の名仁」静に伝承された。静が頼朝夫妻の前で舞ったのは文治2年1186年4月8日であった。
鎌倉の和賀江島を築いたのは勧進上人の往阿弥陀仏と長谷大仏をつくった浄光の二人である。建長4年1252年8月に完成したと伝えられる大仏は当初は木造の釈迦如来と記されているが、現存するのは金銅の阿弥陀仏である。
1214年二日酔いに苦しむ実朝に良薬として抹茶を勧めたのが栄西であった。茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。本邦の喫茶はここにはじまる。
一遍の踊念仏である踊躍歓喜は身体と宗教の一致である。当時の放下の禅師にはササラ太郎、夢次郎、電光、朝露などがいた。
宝治合戦1247年の際に頼朝の法華堂に立て籠もった三浦一族は浄土宗に帰依する武士の行なう法事讃にもとづいて念仏を唱えつつ全員自害を遂げた。三浦泰村を滅ぼし名門足利氏を失脚させ幕府官僚制を確立し、建長寺を設立して禅門を擁護した。北条一門と得宗の外戚、得宗に仕える御内人から構成される秘密の会議、寄合も時頼の創設で、北条一門の出世コースは引付衆→評定衆→寄合衆であった。
武士の伸長は、11世紀後半に白川天皇が源義家と平正盛を院殿上人として登用したことにはじまる。平正盛の子忠盛は貴族にも取り立てられ平家興隆の基礎を築いた。
中世都市の3つの典型は中央政治都市の京、境界港湾都市の博多、宗教異界都市の奈良であり、それぞれ人・物・精神がその基軸をなしていた。
鎌倉将軍は関東武士団連合に擁された王であり、実朝のように善政・徳政にもとづく新政策を打ちだし親裁権を行使して連合を疎外しようとすれば退けられたのである。幕府政治の本質は談合であり、これがいまなお現代に続いている。
♪ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな 茫洋
Sunday, June 08, 2008
五味文彦著「躍動する中世」を読んで その1
照る日曇る日第128回
小学館の「日本の歴史」の第5巻、新視点中世史「躍動する中世」である。
著者によれば中世社会の特徴は次の5つであるという。
1) 疾病や飢饉が襲い来るなか、ひたすら神仏にすがり、これが中世人の政治・経済・文化・社会に大きな影響を与えたこと。例白川、鳥羽、後鳥羽院の熊野詣、平清盛の厳島神社詣、頼朝の鶴岡八幡宮詣と彼らの神託政治。応仁の乱にはじまる国際的な政治変動、長禄・寛正の疾病や飢饉などは15世紀の寒冷期(小氷期)の影響が大である。
2) 当時の内外情勢によって国内の地域社会の原型がつくられた。
3) 貴族・武士・庶民などさまざまな身分の諸階層にイエが形成され、主従関係を柱にしながらも、ウジではなく、イエを媒介とする多様な人間・社会関係が醸成された。
4) 古代律令国家における権力が弛緩し、分権化した。中央では寺社・権門が、地方では開発領主など自立した地域権力が形成されて多重権力状態になり、内乱も起こった。
5) 中世人は権力に頼らず、自力による救済を求め、各地で強訴や一揆、訴訟が起こったために中央権力はその対応に追われ自滅の道をたどったが、やがて応仁の乱を経て分権的社会から集権的社会へと変遷していく。
以上、身も蓋もない総括であるが、中身は充実していて、ことに前半の章は力作であるが、後半の最後のほうは雑多な情報を脱兎のごとく書き飛ばしてある。締め切りに追われて描き飛ばしたのだろう。
全体の構成も中途半端であり(特に最後の時代設定の項)、同じ著者による前著「王の記憶」に比較すると完成度はさほど高くない。時折加えられる網野善彦への上っ面の小出しの批判というより悪口も不愉快だ。批評するなら故人の存命中に本人の目の前で徹底的にやってほしかった。
♪毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた 茫洋
小学館の「日本の歴史」の第5巻、新視点中世史「躍動する中世」である。
著者によれば中世社会の特徴は次の5つであるという。
1) 疾病や飢饉が襲い来るなか、ひたすら神仏にすがり、これが中世人の政治・経済・文化・社会に大きな影響を与えたこと。例白川、鳥羽、後鳥羽院の熊野詣、平清盛の厳島神社詣、頼朝の鶴岡八幡宮詣と彼らの神託政治。応仁の乱にはじまる国際的な政治変動、長禄・寛正の疾病や飢饉などは15世紀の寒冷期(小氷期)の影響が大である。
2) 当時の内外情勢によって国内の地域社会の原型がつくられた。
3) 貴族・武士・庶民などさまざまな身分の諸階層にイエが形成され、主従関係を柱にしながらも、ウジではなく、イエを媒介とする多様な人間・社会関係が醸成された。
4) 古代律令国家における権力が弛緩し、分権化した。中央では寺社・権門が、地方では開発領主など自立した地域権力が形成されて多重権力状態になり、内乱も起こった。
5) 中世人は権力に頼らず、自力による救済を求め、各地で強訴や一揆、訴訟が起こったために中央権力はその対応に追われ自滅の道をたどったが、やがて応仁の乱を経て分権的社会から集権的社会へと変遷していく。
以上、身も蓋もない総括であるが、中身は充実していて、ことに前半の章は力作であるが、後半の最後のほうは雑多な情報を脱兎のごとく書き飛ばしてある。締め切りに追われて描き飛ばしたのだろう。
全体の構成も中途半端であり(特に最後の時代設定の項)、同じ著者による前著「王の記憶」に比較すると完成度はさほど高くない。時折加えられる網野善彦への上っ面の小出しの批判というより悪口も不愉快だ。批評するなら故人の存命中に本人の目の前で徹底的にやってほしかった。
♪毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた 茫洋
Saturday, June 07, 2008
オタマよ 元気で!
♪バガテルop60&鎌倉ちょっと不思議な物語132回
2月に誕生したオタマを自宅に持ち帰り大事に育てていましたが、今日もとの住処に放してやりました。
万が一そこのオタマが全滅したときに備えて毎年十数匹持ち帰っているのですが、結局共食いをして2匹だけになりました。そのかわりとても敏捷で強靭な生命力をもっています。既に小さな手足も生えています。
ややれやれこれで半年近いオタマの親役の仕事が終わりました。あと2週間、どうか鳥や蛇や悪いやつらに襲われずに元気なカエルになっとくれ。
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私 茫洋
2月に誕生したオタマを自宅に持ち帰り大事に育てていましたが、今日もとの住処に放してやりました。
万が一そこのオタマが全滅したときに備えて毎年十数匹持ち帰っているのですが、結局共食いをして2匹だけになりました。そのかわりとても敏捷で強靭な生命力をもっています。既に小さな手足も生えています。
ややれやれこれで半年近いオタマの親役の仕事が終わりました。あと2週間、どうか鳥や蛇や悪いやつらに襲われずに元気なカエルになっとくれ。
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私 茫洋
Thursday, June 05, 2008
網野善彦著作集第7巻「中世の非農業民と天皇」を読む
照る日曇る日第128回
宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。
もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも
と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。
往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。
しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。
律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。
鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。
やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。
しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。
かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。
♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋
宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。
もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも
と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。
往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。
しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。
律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。
鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。
やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。
しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。
かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。
♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋
蛍の光
蛍の光
鎌倉ちょっと不思議な物語131回
昨日の夜、ことし初めてのヘイケボタルの輪舞を目撃した。
去年は6月4日に4匹、おととしは6月3日におよそ10匹出現しているから、もしやと思ってバスから降りて走っていくと、少なくとも7匹の蛍たちが雨上がりの滑川を高く、低くゆらゆら揺れながら飛翔していた。
それにしてもこの劣悪で過酷な自然環境のなかで、養殖ですらない天然自然のヘイケボタルが、毎年毎年数はまちまちであっても、決まったように同じ時期に姿を現すことは、それ自体ほとんど奇跡のように思われてならない。
蛍は普通は晴れた無風の日の夕方7時過ぎに飛び始め、およそ1時間で樹木の葉に止まってその日の求愛活動を終えるのだが、きのうは午後9時近くになっていたにもかかわらず、かなりダイナミックに飛び回っていた。
滑川に架かる小さな橋の下にいる雌雄の2匹は後になり先になって30センチくらいの光の輪を残しながらさかんに求愛の輪舞を繰り返すさまを、私は欄干によりかかりながらうっとりとして見飽きることなくいつまでも眺めていた。
きっと誰にも分かってもらえないと思うけれど、あまり面白くもなかった人生を泣いたり笑ったりしながら長らく続けてきて、結局こういう昆虫の無心の踊りを眺めているときが、私のもっとも幸福な瞬間なのである。そして私は、これ以上のよろこびと、こういってよければ快楽を、人生と世の中に対してもはや求めようとはけっして思わないのである。
すると、無限に続くかと思われる輪舞を踊っていたうちの1匹が、あきらかに私をめがけてまっすぐ飛んできた。
かつてこの橋のたもとにはウクレレショップがあって、そのオーナーと私はたった一度だけこの橋に出没する蛍の話をしたことがあった。それは既に蛍には遅すぎる7月のことで、結局彼は毎晩自分のアパートから滑川を眺めていたにもかかわらず、その翌年の冬に急な病を得て亡くなってしまった。
あれからもう5年くらいは経つのだが、こうして再びこの橋の上に立ち、年々歳々精霊の再来のように漆黒の空から降臨してくれるケイケボタルを見るたびに、私は鎌倉長谷生まれと言っていたあのドンガバチョに似たウクレレ製作者のことを思い出す。
♪ひいふうみい 七つも踊っていたよ ことしのほたる 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語131回
昨日の夜、ことし初めてのヘイケボタルの輪舞を目撃した。
去年は6月4日に4匹、おととしは6月3日におよそ10匹出現しているから、もしやと思ってバスから降りて走っていくと、少なくとも7匹の蛍たちが雨上がりの滑川を高く、低くゆらゆら揺れながら飛翔していた。
それにしてもこの劣悪で過酷な自然環境のなかで、養殖ですらない天然自然のヘイケボタルが、毎年毎年数はまちまちであっても、決まったように同じ時期に姿を現すことは、それ自体ほとんど奇跡のように思われてならない。
蛍は普通は晴れた無風の日の夕方7時過ぎに飛び始め、およそ1時間で樹木の葉に止まってその日の求愛活動を終えるのだが、きのうは午後9時近くになっていたにもかかわらず、かなりダイナミックに飛び回っていた。
滑川に架かる小さな橋の下にいる雌雄の2匹は後になり先になって30センチくらいの光の輪を残しながらさかんに求愛の輪舞を繰り返すさまを、私は欄干によりかかりながらうっとりとして見飽きることなくいつまでも眺めていた。
きっと誰にも分かってもらえないと思うけれど、あまり面白くもなかった人生を泣いたり笑ったりしながら長らく続けてきて、結局こういう昆虫の無心の踊りを眺めているときが、私のもっとも幸福な瞬間なのである。そして私は、これ以上のよろこびと、こういってよければ快楽を、人生と世の中に対してもはや求めようとはけっして思わないのである。
すると、無限に続くかと思われる輪舞を踊っていたうちの1匹が、あきらかに私をめがけてまっすぐ飛んできた。
かつてこの橋のたもとにはウクレレショップがあって、そのオーナーと私はたった一度だけこの橋に出没する蛍の話をしたことがあった。それは既に蛍には遅すぎる7月のことで、結局彼は毎晩自分のアパートから滑川を眺めていたにもかかわらず、その翌年の冬に急な病を得て亡くなってしまった。
あれからもう5年くらいは経つのだが、こうして再びこの橋の上に立ち、年々歳々精霊の再来のように漆黒の空から降臨してくれるケイケボタルを見るたびに、私は鎌倉長谷生まれと言っていたあのドンガバチョに似たウクレレ製作者のことを思い出す。
♪ひいふうみい 七つも踊っていたよ ことしのほたる 茫洋
Wednesday, June 04, 2008
丸山健二著「日と月と刀」を読む
照る日曇る日第127回
きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく
というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、
碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく
というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁になんなんとする長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。
引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。
陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。
本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。
全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。
さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。
♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく
というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、
碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく
というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁になんなんとする長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。
引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。
陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。
本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。
全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。
さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。
♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
Tuesday, June 03, 2008
イヴ・サンローランとフランス革命
ふあっちょん幻論第21回
イヴ・サンローランが脳腫瘍で死んだ。まだ71歳とは知らなかった。若すぎる死といってもいいだろう。
20代でディオールの後継者となったサンローランは、1966年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを設立して「マリンルック」や官能的な夜のパンツ「スモーキング」を発表した。
サファリスーツやモンドリアンルックやプレタポルテブームを先導した功績も大であるが、私がみるところ、もっとも偉大な業績は「シティパンツ」の創造であろう。
サンローランが、女性が街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」を発表したのは1967年であった。これはウールジャージー素材によるチュニック丈ジャケットとパンツの組み合わせで、史上初めて“働く女のスーツ”を作ったシャネルが「サンローランこそは私の後継者」と呼んだ逸話にふさわしい革命的なルックスであった。
シャネルのスカートをサンローランはパンツに取替え、それまで男性が独占していたパンツを史上初めて女性のものにしたのである。
顧みれば、1789年のフランス革命が、貴族・ブルジョワ階級が常用した乗馬用の半ズボン、キュロットパンツを廃絶し、市民階級(サン・キュロット)の普段着である長ズボン(パンタロン)を革命のシンボルとして華々しく歴史の舞台に登場させた。そうしてイヴ・サンローランが火を点じた「リヴ・ゴーシュ(左岸)革命」では、200年間にわたって男性が独占していたそのパンタロンを、はじめて女性に解放したのである。
イヴ・サンローランという人は、天才ディオールとシャネルの後継者であっただけでなく、じつにフランス革命の輝かしい後継者でもあった。
♪白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな 茫洋
イヴ・サンローランが脳腫瘍で死んだ。まだ71歳とは知らなかった。若すぎる死といってもいいだろう。
20代でディオールの後継者となったサンローランは、1966年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを設立して「マリンルック」や官能的な夜のパンツ「スモーキング」を発表した。
サファリスーツやモンドリアンルックやプレタポルテブームを先導した功績も大であるが、私がみるところ、もっとも偉大な業績は「シティパンツ」の創造であろう。
サンローランが、女性が街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」を発表したのは1967年であった。これはウールジャージー素材によるチュニック丈ジャケットとパンツの組み合わせで、史上初めて“働く女のスーツ”を作ったシャネルが「サンローランこそは私の後継者」と呼んだ逸話にふさわしい革命的なルックスであった。
シャネルのスカートをサンローランはパンツに取替え、それまで男性が独占していたパンツを史上初めて女性のものにしたのである。
顧みれば、1789年のフランス革命が、貴族・ブルジョワ階級が常用した乗馬用の半ズボン、キュロットパンツを廃絶し、市民階級(サン・キュロット)の普段着である長ズボン(パンタロン)を革命のシンボルとして華々しく歴史の舞台に登場させた。そうしてイヴ・サンローランが火を点じた「リヴ・ゴーシュ(左岸)革命」では、200年間にわたって男性が独占していたそのパンタロンを、はじめて女性に解放したのである。
イヴ・サンローランという人は、天才ディオールとシャネルの後継者であっただけでなく、じつにフランス革命の輝かしい後継者でもあった。
♪白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな 茫洋
Monday, June 02, 2008
海に浮かぶか博物館
勝手に建築観光30回
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
Sunday, June 01, 2008
細江英公人間写真展 胡蝶の夢 舞踏家・大野一男
照る日曇る日第127回
残念ながら大野一男の舞踏を生で見たことはないが、テレビやこうした写真でその芸術の一端をうかがい知ることができる。
1960年代に都会の路上で繰り広げたパフォーマンス、瀕死の作家埴谷雄高の吉祥寺南町の自宅を囲繞する呪術的な祈り、江戸時代の奇想の芸術家に憑依した70年代のスタジオでの踊り、90年代に無人の釧路湿原を漂流する異形の蠢き、そして2005年99歳に達した眠れる舞踏家の曾孫との入眠幻想まで、細江英公のモノクロームはこの偉大な芸術家の壮絶な軌跡をあますところなく伝えている。
中野坂上の東京工芸大学のSHADAI GALLERYで今月8日まで開催中。
♪つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか 茫洋
残念ながら大野一男の舞踏を生で見たことはないが、テレビやこうした写真でその芸術の一端をうかがい知ることができる。
1960年代に都会の路上で繰り広げたパフォーマンス、瀕死の作家埴谷雄高の吉祥寺南町の自宅を囲繞する呪術的な祈り、江戸時代の奇想の芸術家に憑依した70年代のスタジオでの踊り、90年代に無人の釧路湿原を漂流する異形の蠢き、そして2005年99歳に達した眠れる舞踏家の曾孫との入眠幻想まで、細江英公のモノクロームはこの偉大な芸術家の壮絶な軌跡をあますところなく伝えている。
中野坂上の東京工芸大学のSHADAI GALLERYで今月8日まで開催中。
♪つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか 茫洋
Saturday, May 31, 2008
2008年皐月茫洋詩歌集
2008年皐月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その28
そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたび叫ぶたびにぷつんと切れる世界とのつながり
自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい
まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい
講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月
俳句は諦観とリリシズム短歌は小さな私小説であるよ
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常
しつこく上空を旋回しているセスナ機を撃墜したくなる金曜の朝
大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻
心血を注いで描きし作品を二束三文で叩き売るかな
基次郎に触発されし檸檬の絵ドイツ人コレクター安く買いたり
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな
売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり
道端のすべての塵を拾いあげ、ひとつずつ河に捨てているのはうちの耕君
道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし
「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる
「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と
妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ
わがブログに死ねと書き込む人がいてその黒き心我をも黒くす
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがまだその時にあらず
おやおやさかさに振ってももう一滴も歌が出てこないぞ
漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり
おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む
日本人に体臭無ければそとくにの強き香水身にまとうなかれ
10歳若き知り合いが社長になった人の才知は見抜けぬものよ
かつて愚鈍と思いし後輩が大会社の社長になる人の才知は見抜けぬものよ
妻はバタ私はヒラですれ違う横浜栄のプールの真ん中
母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり
黒揚羽五月一日生まれなり
われに来てしばし物言ふ黒揚羽
今朝もまた鶯の歌で目覚めたり
いざともに交尾致さむ揚羽蝶
翡翠の午睡を破る川下り
逆さに振っても歌湧いてこず
耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で
桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花
流れよ みこし どんぶらこ
山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
♪ある晴れた日に その28
そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたび叫ぶたびにぷつんと切れる世界とのつながり
自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい
まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい
講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月
俳句は諦観とリリシズム短歌は小さな私小説であるよ
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常
しつこく上空を旋回しているセスナ機を撃墜したくなる金曜の朝
大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻
心血を注いで描きし作品を二束三文で叩き売るかな
基次郎に触発されし檸檬の絵ドイツ人コレクター安く買いたり
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな
売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり
道端のすべての塵を拾いあげ、ひとつずつ河に捨てているのはうちの耕君
道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし
「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる
「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と
妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ
わがブログに死ねと書き込む人がいてその黒き心我をも黒くす
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがまだその時にあらず
おやおやさかさに振ってももう一滴も歌が出てこないぞ
漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり
おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む
日本人に体臭無ければそとくにの強き香水身にまとうなかれ
10歳若き知り合いが社長になった人の才知は見抜けぬものよ
かつて愚鈍と思いし後輩が大会社の社長になる人の才知は見抜けぬものよ
妻はバタ私はヒラですれ違う横浜栄のプールの真ん中
母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり
黒揚羽五月一日生まれなり
われに来てしばし物言ふ黒揚羽
今朝もまた鶯の歌で目覚めたり
いざともに交尾致さむ揚羽蝶
翡翠の午睡を破る川下り
逆さに振っても歌湧いてこず
耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で
桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花
流れよ みこし どんぶらこ
山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
Thursday, May 29, 2008
1945年8月の鎌倉文士
鎌倉ちょっと不思議な物語130回
先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。
長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。
なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治、田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治と中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。
中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。
1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫は田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。
中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。
♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋
先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。
長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。
なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治、田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治と中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。
中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。
1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫は田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。
中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。
♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋
Wednesday, May 28, 2008
滑川に落ちた愛犬ムク
♪バガテルop59&鎌倉ちょっと不思議な物語129回
きのう滑川を歩いていて、思い出したことがあります。
今を去る10年ほど前、愛犬を散歩させていた私は、ふと油断した隙に、年老いて既にそこひを病んで盲目になっていたムクを、あろうことか足元の滑川に墜落させてしまったのです。
ドさっと鈍い物音が聞こえ、あわてて下を見ると薄茶色の綿毛が浮いた人間に換算するとおよそ80歳になんなんとするその老犬は、固い岩盤の上に座り込んでおろおろとうろたえています。
「おい、ムク、大丈夫か」と声をかけましたが、ムクはワンとも答えず、がたがたと震えておりました。もしかするとどこかに大怪我をしてしまったのではないか? 突然の衝撃で、このまま死んでしまうのではないだろうか?
すまなさと自責の念に駆られた私は、きっと青ざめていたと思います。しかしこうしてはいられない。すぐに自宅にとって返して真鍮の梯子を持ってきましたが、短すぎて川底まで届きません。
仕方がない。えいやっと飛び降り、恐怖と不安で震えている盲目のムクを抱きかかえ、急いで手足を調べてみましたが、幸いなことにどこも怪我などをしていない様子。やれやれこれで命だけは取り留めた、と私は思わず天に感謝したことでした。
そうこうするうちに頭上が急ににぎやかになってきました。近所の住人たちが妙な場所にいる私たちを案じてのぞきこみながら、
「あら、まあ、ムクちゃんじゃないの。いったいどうしたの」
などと口々に声をかけてくれます。
事情を察した“しまわん”さんが、すばやく家にとってかえして、大きくて長い木の梯子を道端から川底まで降ろしてくれたので、私はムクをしっかり胸に抱えながら一段一段そろそろと上にのぼりました。長い間お風呂に入らないムクの体は思いのほか重く、獣のにおいがぷんとしました。
やっとの思いでガードレールを乗り越えると、私はムクと一緒にどうと道路に転がり落ちましたが、ムクはなんとか無事に生還したのでありました。メデタシ、メデタシ。
しかしその後、私が飼い主の健君と家内にひどくおこられたことは申すまでもありません。
その後ようやく元気を取り戻したムクは、どこからともなく現れた三毛猫子と同棲しておりましたが、それから数年経った2002年の2月に天寿を全うし、WANNG!と一声発して地上の星となったのでありました。
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな 茫洋
きのう滑川を歩いていて、思い出したことがあります。
今を去る10年ほど前、愛犬を散歩させていた私は、ふと油断した隙に、年老いて既にそこひを病んで盲目になっていたムクを、あろうことか足元の滑川に墜落させてしまったのです。
ドさっと鈍い物音が聞こえ、あわてて下を見ると薄茶色の綿毛が浮いた人間に換算するとおよそ80歳になんなんとするその老犬は、固い岩盤の上に座り込んでおろおろとうろたえています。
「おい、ムク、大丈夫か」と声をかけましたが、ムクはワンとも答えず、がたがたと震えておりました。もしかするとどこかに大怪我をしてしまったのではないか? 突然の衝撃で、このまま死んでしまうのではないだろうか?
すまなさと自責の念に駆られた私は、きっと青ざめていたと思います。しかしこうしてはいられない。すぐに自宅にとって返して真鍮の梯子を持ってきましたが、短すぎて川底まで届きません。
仕方がない。えいやっと飛び降り、恐怖と不安で震えている盲目のムクを抱きかかえ、急いで手足を調べてみましたが、幸いなことにどこも怪我などをしていない様子。やれやれこれで命だけは取り留めた、と私は思わず天に感謝したことでした。
そうこうするうちに頭上が急ににぎやかになってきました。近所の住人たちが妙な場所にいる私たちを案じてのぞきこみながら、
「あら、まあ、ムクちゃんじゃないの。いったいどうしたの」
などと口々に声をかけてくれます。
事情を察した“しまわん”さんが、すばやく家にとってかえして、大きくて長い木の梯子を道端から川底まで降ろしてくれたので、私はムクをしっかり胸に抱えながら一段一段そろそろと上にのぼりました。長い間お風呂に入らないムクの体は思いのほか重く、獣のにおいがぷんとしました。
やっとの思いでガードレールを乗り越えると、私はムクと一緒にどうと道路に転がり落ちましたが、ムクはなんとか無事に生還したのでありました。メデタシ、メデタシ。
しかしその後、私が飼い主の健君と家内にひどくおこられたことは申すまでもありません。
その後ようやく元気を取り戻したムクは、どこからともなく現れた三毛猫子と同棲しておりましたが、それから数年経った2002年の2月に天寿を全うし、WANNG!と一声発して地上の星となったのでありました。
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな 茫洋
Tuesday, May 27, 2008
滑川を歩く
♪バガテルop58&鎌倉ちょっと不思議な物語128回
昨日の続きで極楽寺界隈の話を書かなければいけないのですが、今日の午後、滑川(なめりかわと呼びます)にハヤの群れが気持ちよさそうに泳いでいたので、それをデジカメで撮影しようと身を乗り出した途端に、ポロシャツの胸ポケットに入れておいた携帯が5メートル下の川岸に落ちてしまいました。
幸い水中には落下しなかったので、飛び降りようとしましたが、足を折らずに着地したとしても這い上がるすべがなさそうです。やむをえずずっと上流の私の家の前の橋から降りて、うねうねと回流している川をおよそ500m下流に向かって歩くことにしました。あの十二所神社のおみこしを流したといわれている滑川を、です。
原稿の締め切りが迫っているし、草取りの後片付けもあるし、ははの家の電気工事の立会いもあったのですが、背に腹は変えられません。家からハシゴや長い布切れを持ち出し、ゴム長に履き替えて橋桁からえいやっと滑川に飛び降りました。
川幅は1mから3mくらいの狭さですが先日の増水で川の流れが速く、深さは浅いところで5cm、深いところで30cmくらいですが、ところどころに暗渠や小さな滝もあって歩きやすいとはお世辞にもいえません。道路の上では細君も心配そうに見守っていますが、こうなれば前に進むしかありません。意を決した私はどんどん川の中を歩き始めました。
お日様が上空からかっと照りつけてはいますが、初夏の爽やかな風が全身を包んでくれるので意外に快適です。ゴム長でじゃぶじゃぶ前進していくと、驚いたハヤや藻屑蟹たちが急いで岩陰に姿を隠します。目の覚めるような群青色に輝く翡翠も敏捷な身のこなしを見せながら下流に逃げていきます。
私はだんだん愉快な気分になって大股に初夏の滑川を移動して行きました。
じつは私がもっとも恐れていたのはこの川に生息している蛇と蜂でした。アオダイショウやヤマカガシなどは、手にした木の枝で簡単に追い払うことができますが、産卵期のマムシはきわめて獰猛で、下手に向かっていくとまるで空を飛ぶように牙を剥きながら襲い掛かってくるので気をつけなければいけません。
またスズメバチも鬼門です。なぜなら既に2回彼らに刺されているハチ毒超敏感症候群の私は、3度目には生命の保証はできないと医師に警告され、エピペン注射液を処方されているからです。
しかさいわいにも1匹の蛇さんややスズメバチさんに遭遇することなく、目的地までたどり着き、携帯を拾って無事に元の地点まで戻ることができました。めでたし、めでたし。
最後に、いつもこのようなドジをやらかす私に対してホトホト呆れ返りながらも、仕方なく協力してくれるわが細君に衷心より感謝申し上げる次第です。
♪翡翠の午睡を破る川下り 茫洋
昨日の続きで極楽寺界隈の話を書かなければいけないのですが、今日の午後、滑川(なめりかわと呼びます)にハヤの群れが気持ちよさそうに泳いでいたので、それをデジカメで撮影しようと身を乗り出した途端に、ポロシャツの胸ポケットに入れておいた携帯が5メートル下の川岸に落ちてしまいました。
幸い水中には落下しなかったので、飛び降りようとしましたが、足を折らずに着地したとしても這い上がるすべがなさそうです。やむをえずずっと上流の私の家の前の橋から降りて、うねうねと回流している川をおよそ500m下流に向かって歩くことにしました。あの十二所神社のおみこしを流したといわれている滑川を、です。
原稿の締め切りが迫っているし、草取りの後片付けもあるし、ははの家の電気工事の立会いもあったのですが、背に腹は変えられません。家からハシゴや長い布切れを持ち出し、ゴム長に履き替えて橋桁からえいやっと滑川に飛び降りました。
川幅は1mから3mくらいの狭さですが先日の増水で川の流れが速く、深さは浅いところで5cm、深いところで30cmくらいですが、ところどころに暗渠や小さな滝もあって歩きやすいとはお世辞にもいえません。道路の上では細君も心配そうに見守っていますが、こうなれば前に進むしかありません。意を決した私はどんどん川の中を歩き始めました。
お日様が上空からかっと照りつけてはいますが、初夏の爽やかな風が全身を包んでくれるので意外に快適です。ゴム長でじゃぶじゃぶ前進していくと、驚いたハヤや藻屑蟹たちが急いで岩陰に姿を隠します。目の覚めるような群青色に輝く翡翠も敏捷な身のこなしを見せながら下流に逃げていきます。
私はだんだん愉快な気分になって大股に初夏の滑川を移動して行きました。
じつは私がもっとも恐れていたのはこの川に生息している蛇と蜂でした。アオダイショウやヤマカガシなどは、手にした木の枝で簡単に追い払うことができますが、産卵期のマムシはきわめて獰猛で、下手に向かっていくとまるで空を飛ぶように牙を剥きながら襲い掛かってくるので気をつけなければいけません。
またスズメバチも鬼門です。なぜなら既に2回彼らに刺されているハチ毒超敏感症候群の私は、3度目には生命の保証はできないと医師に警告され、エピペン注射液を処方されているからです。
しかさいわいにも1匹の蛇さんややスズメバチさんに遭遇することなく、目的地までたどり着き、携帯を拾って無事に元の地点まで戻ることができました。めでたし、めでたし。
最後に、いつもこのようなドジをやらかす私に対してホトホト呆れ返りながらも、仕方なく協力してくれるわが細君に衷心より感謝申し上げる次第です。
♪翡翠の午睡を破る川下り 茫洋
Monday, May 26, 2008
極楽寺を訪ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語127回
極楽寺は真言宗の名刹である。正嘉年間1257-59にひとりの老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置して極楽寺と称していた。老僧亡き後正元元年1259年に北条義時の三男重時がそれを現在地に移したといわれている。
弘長元年1261年にその重時の子長時(六代執権)と業時兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山した。忍性はここで施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済するための福祉事業に取り組んだ。人間だけでなく、病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てるなど、ボタンティアの先駆者ともいえる徳の高い僧侶で、人々からは医王如来と崇められていたそうだ。さらに橋を架けるなどのト公共土木工事にも力を入れていたことはあまりにも有名である。
極楽寺は完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭を誇る大寺院だったが、いくたの自然災害や火事に見舞われ、現在残っているのは文久3年に建てられた本堂のみであるが、境内に残る製薬鉢や千服茶臼は鎌倉時代の遺物であり、往時をありありと想起させる。
以上お馴染みの「鎌倉の寺小事典」より引用しましたが、今から30年前に私が一目ぼれをした好個の木造家屋がこの近所にあり、諸般の事情で購入には至りませんでしたが、もしかするとこの近辺に住んでいたかもしれないと思うだに極楽寺は懐かしいお寺なのです。
山門を仰げば「芝棟」が。これは昔の日本の農家にあった茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせるという植物と建築の一体化の手法ですが、これが極楽寺にもあったとは思いがけない発見でした。
本堂に向かう参道の右側には、薪をうずたかく積みあげた民家があり、電気に頼らずこれで暖房する心意気を感じさせてくれます。境内は狭いながらもどこか風雅で格調の高い古拙の趣きがそこここに感じられ、じつに心が休まるよいお寺です。境内が撮影禁止なのもわが意を得たりであります。
♪売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり 茫洋
極楽寺は真言宗の名刹である。正嘉年間1257-59にひとりの老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置して極楽寺と称していた。老僧亡き後正元元年1259年に北条義時の三男重時がそれを現在地に移したといわれている。
弘長元年1261年にその重時の子長時(六代執権)と業時兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山した。忍性はここで施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済するための福祉事業に取り組んだ。人間だけでなく、病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てるなど、ボタンティアの先駆者ともいえる徳の高い僧侶で、人々からは医王如来と崇められていたそうだ。さらに橋を架けるなどのト公共土木工事にも力を入れていたことはあまりにも有名である。
極楽寺は完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭を誇る大寺院だったが、いくたの自然災害や火事に見舞われ、現在残っているのは文久3年に建てられた本堂のみであるが、境内に残る製薬鉢や千服茶臼は鎌倉時代の遺物であり、往時をありありと想起させる。
以上お馴染みの「鎌倉の寺小事典」より引用しましたが、今から30年前に私が一目ぼれをした好個の木造家屋がこの近所にあり、諸般の事情で購入には至りませんでしたが、もしかするとこの近辺に住んでいたかもしれないと思うだに極楽寺は懐かしいお寺なのです。
山門を仰げば「芝棟」が。これは昔の日本の農家にあった茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせるという植物と建築の一体化の手法ですが、これが極楽寺にもあったとは思いがけない発見でした。
本堂に向かう参道の右側には、薪をうずたかく積みあげた民家があり、電気に頼らずこれで暖房する心意気を感じさせてくれます。境内は狭いながらもどこか風雅で格調の高い古拙の趣きがそこここに感じられ、じつに心が休まるよいお寺です。境内が撮影禁止なのもわが意を得たりであります。
♪売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり 茫洋
Sunday, May 25, 2008
萩原延壽著「自由のかたち」を読んで
照る日曇る日第125回
60年代のわが国にはまだ革新勢力が存在し、時折保守勢力を脅かすに足る活動を行なっていた。そしてここには、もしも彼らがもう少し政治家として有能で国民の心をつかむ技術を備えていたら、その後わが国は今日とは180度異なる道を歩んでいたかもしれないことを思わせる「古き良き時代」におけるいくつかのエッセイが並んでいる。
70年安保を実体験することなく英国の留学から帰国した著者は、英国労働党首のゲイツケルの政治哲学に感銘を受け、わが国の社会主義運動に対してもほのかな期待を寄せていたが、革新政党を名乗る彼らが、むしろ保守政党に比べても言葉の本質において革新的(ラジカル)ではないことを痛感して絶望し、次第に遠ざかっていくのだが、筋金入りの孤独な自由主義者が歩み去るその後姿は妙に寂しい。
当時著者は「中立主義」についても論じていた。著者によれば、中立主義とは敵と味方の間に存在する硬直した壁を取り払い、その空間に「妥協」という政治的果実を結晶させようとする不断の努力をいうのだが、この前途多難な中立主義こそが当時の革新政党ないし革新日本が目指すべき理想主義的な進路であったと振り返るのである。
爾来40有余年、日米同盟の鉄鎖で自らを縛りつけ、いまなおじぶん自身を定位させえず、ために他者他国からの自由と自立を獲得できないまま、いたずらにナショナリズムの炎を胸に熱く燃やし始めたこの国にとって、萩原流中立主義など夢のまた夢というべきだろうか。
私はこの頃の日本がますます嫌な國になってきたように感じられてならない。著者がいうように、わが日本国憲法の第22条には、国籍離脱の自由がうたわれている。私たちのほとんど大部分は、日本人であることを自覚的に選択したわけではない。出生という偶然によって日本人であることを余儀なくされているケースが大半ではないだろうか。
そこでこの際私たちの未来には、3つの自由の地平が広がっていると考えてもいいだろう。ひとつはいろいろあっても、なんとかやりくり我慢して改めてこの国に留まることである。二つ目は、かつて幕末の志士が藩という小国を飛び出したように断固国外のどこかへ出て行くことである。そして最後に、国内亡命という第三の道もあるのではないだろうか。
いずれにせよ、改めて日本を選びなおしてみたいと思う今日この頃である。
♪大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻 茫洋
60年代のわが国にはまだ革新勢力が存在し、時折保守勢力を脅かすに足る活動を行なっていた。そしてここには、もしも彼らがもう少し政治家として有能で国民の心をつかむ技術を備えていたら、その後わが国は今日とは180度異なる道を歩んでいたかもしれないことを思わせる「古き良き時代」におけるいくつかのエッセイが並んでいる。
70年安保を実体験することなく英国の留学から帰国した著者は、英国労働党首のゲイツケルの政治哲学に感銘を受け、わが国の社会主義運動に対してもほのかな期待を寄せていたが、革新政党を名乗る彼らが、むしろ保守政党に比べても言葉の本質において革新的(ラジカル)ではないことを痛感して絶望し、次第に遠ざかっていくのだが、筋金入りの孤独な自由主義者が歩み去るその後姿は妙に寂しい。
当時著者は「中立主義」についても論じていた。著者によれば、中立主義とは敵と味方の間に存在する硬直した壁を取り払い、その空間に「妥協」という政治的果実を結晶させようとする不断の努力をいうのだが、この前途多難な中立主義こそが当時の革新政党ないし革新日本が目指すべき理想主義的な進路であったと振り返るのである。
爾来40有余年、日米同盟の鉄鎖で自らを縛りつけ、いまなおじぶん自身を定位させえず、ために他者他国からの自由と自立を獲得できないまま、いたずらにナショナリズムの炎を胸に熱く燃やし始めたこの国にとって、萩原流中立主義など夢のまた夢というべきだろうか。
私はこの頃の日本がますます嫌な國になってきたように感じられてならない。著者がいうように、わが日本国憲法の第22条には、国籍離脱の自由がうたわれている。私たちのほとんど大部分は、日本人であることを自覚的に選択したわけではない。出生という偶然によって日本人であることを余儀なくされているケースが大半ではないだろうか。
そこでこの際私たちの未来には、3つの自由の地平が広がっていると考えてもいいだろう。ひとつはいろいろあっても、なんとかやりくり我慢して改めてこの国に留まることである。二つ目は、かつて幕末の志士が藩という小国を飛び出したように断固国外のどこかへ出て行くことである。そして最後に、国内亡命という第三の道もあるのではないだろうか。
いずれにせよ、改めて日本を選びなおしてみたいと思う今日この頃である。
♪大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻 茫洋
Saturday, May 24, 2008
めまぐるしい所有権者の変遷
鎌倉ちょっと不思議な物語126回 十二所物語その3
徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。
再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。
嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。
十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。
さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。
♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊
徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。
再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。
嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。
十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。
さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。
♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊
Friday, May 23, 2008
ミハイル・ブルガーコフ著水野忠夫訳「巨匠とマルガリータ」を読む
照る日曇る日第125回
面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。
捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。
ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。
ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。
最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。
♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋
面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。
捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。
ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。
ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。
最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。
♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋
Thursday, May 22, 2008
タベルナで食べた
♪バガテルop57&鎌倉ちょっと不思議な物語124回
今日も「イタリアン」の続きです。
海からの薫風に吹かれて極楽寺から稲村ガ崎まで歩いたあとで、タベルナ ロンディーノ(TAVERNA RONDINO)というイタリア料理屋さんで妻とランチをしました。TAVERNAというのは食べるなではなく、イタリア語で「大衆食堂」「田舎風の小洒落たレストラン」という意味です。RONDINOはたしかツバメではなかったでしょうか。ご存知の方は教えてくださいな。
ここはなんでも裏駅の江ノ電改札口の隣、御成商店街のたもとにあるCafe RONDINO のオーナーが1980年に国道134号線沿いに開いたお店だそうで、亡くなった詩人の田村隆一氏がかつてこの近所に住んでいて、よく食事に来たと聞いたので、散歩がてら足を伸ばしたのです。Cafe RONDINOは私がサラリーマン時代の最後の最後にニッポン放送の営業担当氏(彼も鎌倉在住でした)と打ち合わせをした思い出の場所なんです。
さてタベルナのお味ですが、私は人一倍味覚が鈍くて、なにを食べてもおいしく頂く人間なのですが、肉も魚もシラスパスタもリゾットもとても美味でした。今度は青池さんや健君も誘って訪れたいと思います。
十三秒間隔の光り 田村隆一
新しい家はきらいである
古い家で生まれて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年前のことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィーを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に 『新年の手紙』より
♪「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と 茫洋
今日も「イタリアン」の続きです。
海からの薫風に吹かれて極楽寺から稲村ガ崎まで歩いたあとで、タベルナ ロンディーノ(TAVERNA RONDINO)というイタリア料理屋さんで妻とランチをしました。TAVERNAというのは食べるなではなく、イタリア語で「大衆食堂」「田舎風の小洒落たレストラン」という意味です。RONDINOはたしかツバメではなかったでしょうか。ご存知の方は教えてくださいな。
ここはなんでも裏駅の江ノ電改札口の隣、御成商店街のたもとにあるCafe RONDINO のオーナーが1980年に国道134号線沿いに開いたお店だそうで、亡くなった詩人の田村隆一氏がかつてこの近所に住んでいて、よく食事に来たと聞いたので、散歩がてら足を伸ばしたのです。Cafe RONDINOは私がサラリーマン時代の最後の最後にニッポン放送の営業担当氏(彼も鎌倉在住でした)と打ち合わせをした思い出の場所なんです。
さてタベルナのお味ですが、私は人一倍味覚が鈍くて、なにを食べてもおいしく頂く人間なのですが、肉も魚もシラスパスタもリゾットもとても美味でした。今度は青池さんや健君も誘って訪れたいと思います。
十三秒間隔の光り 田村隆一
新しい家はきらいである
古い家で生まれて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年前のことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィーを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に 『新年の手紙』より
♪「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と 茫洋
Wednesday, May 21, 2008
ドナ、ドナ、どーなの
ドナ、ドナ、どーなの
♪バガテルop56
昼前に中野坂上の学校に行く。駅前のドナという名前のパスタ屋に入って790円のパスタセットを食べていたら、隣の客が煙草を呑みだした。あわてて店長に禁煙席はどこだと聞いたら、「んなものありません」とかなんとか小さい声でむにゃむにゃ言いつつ蟹のように横歩きしながら消えていく。
そのうちに反対隣の客まで煙草を吸い始めたので、息を止めながらサラダとパスタとコーヒーを一気飲み喰いしてレジに直行、「もう君の店には二度と来ない」と告げて近所の公園に逃走した。
久しぶりの快晴である。やれやれと深呼吸したら、またしても煙草の煙を吸い込んでしまった。あたりを見回すとまたしても喫煙者が……。
私は学校めがけて一目散に走り出した。
ロンドンのパブも、サンフランシスコのレストランも、パリのカフェですら禁煙になったのは、喫煙が立派な病気であり、ニコチン中毒を経て多くの人の健康を損ない、死に追いやる災厄であるばかりか、その被害が周囲の非喫煙者をもまきこんでしまうからだ。
喫煙者は緩慢な自殺を実行しているわけだが、それは本人の自由だとしても、他人を巻き添えにすることだけはやめてほしい。それは緩慢な他殺行為であるからだ。そうした事情を知りつつ禁煙席すら設けないでいるとしたら、ドナは殺人に加担しているといえなくもない。
♪「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている 茫洋
♪バガテルop56
昼前に中野坂上の学校に行く。駅前のドナという名前のパスタ屋に入って790円のパスタセットを食べていたら、隣の客が煙草を呑みだした。あわてて店長に禁煙席はどこだと聞いたら、「んなものありません」とかなんとか小さい声でむにゃむにゃ言いつつ蟹のように横歩きしながら消えていく。
そのうちに反対隣の客まで煙草を吸い始めたので、息を止めながらサラダとパスタとコーヒーを一気飲み喰いしてレジに直行、「もう君の店には二度と来ない」と告げて近所の公園に逃走した。
久しぶりの快晴である。やれやれと深呼吸したら、またしても煙草の煙を吸い込んでしまった。あたりを見回すとまたしても喫煙者が……。
私は学校めがけて一目散に走り出した。
ロンドンのパブも、サンフランシスコのレストランも、パリのカフェですら禁煙になったのは、喫煙が立派な病気であり、ニコチン中毒を経て多くの人の健康を損ない、死に追いやる災厄であるばかりか、その被害が周囲の非喫煙者をもまきこんでしまうからだ。
喫煙者は緩慢な自殺を実行しているわけだが、それは本人の自由だとしても、他人を巻き添えにすることだけはやめてほしい。それは緩慢な他殺行為であるからだ。そうした事情を知りつつ禁煙席すら設けないでいるとしたら、ドナは殺人に加担しているといえなくもない。
♪「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている 茫洋
Tuesday, May 20, 2008
哀悼 ニコルの松田さん
ふあっちょん幻論第20回&遥かな昔、遠い所で第71回
ビルマではサイクロン、中国では四川大地震で多数の死傷者が出ている。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表すとともに、なんとか一人でも多くの人命が救われるようにと祈っている。そして狭量で独善的な政治権力が、自己保身のために国際的な救助の手を拒否して自国民を人身御供にすることだけはやめてほしいと願わずにはいられない。
地震や災害がなくとも人間はどんどん死んでいく。そして人の死は生きているものになにがしかの思いを形見のように届けながら冥界の彼方へと没していく。
昨日の夕刊にニコルのデザイナーの松田光弘さんが肝細胞ガンで亡くなられたという訃報が出ていたのを目にして、私ははしなくも松田さんの謦咳にただ一度だけ接したことがあったのを思いだした。
もう数十年も昔のこと、私が原宿にあった会社で広報活動を担当していたとき、突然「ミセス」という雑誌の編集長のHさんから電話がかかってきた。「今から5分後に松田さんからあなたに電話が入るからよく話を聞いてください」というので「分かりました」と答えて待っていると、すぐにニコルの松田さんから電話がかかってきた。やわらかくソフトなバリトンだった。
用件というのはちょっと風変わりで、当時私の大嫌いな読売巨人軍(だいたいスポーツ団体に軍隊の名前をつける人間の脳髄自体が狂っている)を解雇されたばかりのクロマティという三振ばかりしてぶんぶん黒丸みたいなアメリカ人の巨砲選手が、どういうわけだかファッションビジネスに関心があり、近くクロマティ・ブランド?を立ち上げるので、その相談に乗り、できたら協力してあげてほしい」というのであった。
そういうことなら専門家であるあなたの方がよほど適任であろうといいたかったが、これにはなにか事情もあるのだろうと思った私は、とりあえず松田さんの要望に応えてクロマティ氏に会うことになった。何を隠そう、当時の私はニコルのメンズのスーツが好きだったのである。
「ありがとう。じゃあ、よろしく」というすっかり肩の荷を降ろした氏の声を電話越しに耳にしたのが、それこそ一期一会、今生の別れとなったのだから、面白うてやがて哀しきは人生の常であろうか。
翌日ジェーン・マンスフィールド似の美人秘書を従え、アルマーニの高級スーツに身を包み意気揚々とわがプレスルームに乗り込んできたクロマティは想像以上の巨漢であったが、この国においてクロマティ・プレミアムブランドを成功させるのは至難の業であることを1時間半に渡って縷々私が説くと、黒い大男は額から玉のごとき大粒の汗を流し、時折諾諾と肯いつつ、最後には鄭重な謝辞と共に去っていった。
爾来幾星霜、ジェーンとクロマティの行方は、杳として知られない。
♪おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む 茫洋
ビルマではサイクロン、中国では四川大地震で多数の死傷者が出ている。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表すとともに、なんとか一人でも多くの人命が救われるようにと祈っている。そして狭量で独善的な政治権力が、自己保身のために国際的な救助の手を拒否して自国民を人身御供にすることだけはやめてほしいと願わずにはいられない。
地震や災害がなくとも人間はどんどん死んでいく。そして人の死は生きているものになにがしかの思いを形見のように届けながら冥界の彼方へと没していく。
昨日の夕刊にニコルのデザイナーの松田光弘さんが肝細胞ガンで亡くなられたという訃報が出ていたのを目にして、私ははしなくも松田さんの謦咳にただ一度だけ接したことがあったのを思いだした。
もう数十年も昔のこと、私が原宿にあった会社で広報活動を担当していたとき、突然「ミセス」という雑誌の編集長のHさんから電話がかかってきた。「今から5分後に松田さんからあなたに電話が入るからよく話を聞いてください」というので「分かりました」と答えて待っていると、すぐにニコルの松田さんから電話がかかってきた。やわらかくソフトなバリトンだった。
用件というのはちょっと風変わりで、当時私の大嫌いな読売巨人軍(だいたいスポーツ団体に軍隊の名前をつける人間の脳髄自体が狂っている)を解雇されたばかりのクロマティという三振ばかりしてぶんぶん黒丸みたいなアメリカ人の巨砲選手が、どういうわけだかファッションビジネスに関心があり、近くクロマティ・ブランド?を立ち上げるので、その相談に乗り、できたら協力してあげてほしい」というのであった。
そういうことなら専門家であるあなたの方がよほど適任であろうといいたかったが、これにはなにか事情もあるのだろうと思った私は、とりあえず松田さんの要望に応えてクロマティ氏に会うことになった。何を隠そう、当時の私はニコルのメンズのスーツが好きだったのである。
「ありがとう。じゃあ、よろしく」というすっかり肩の荷を降ろした氏の声を電話越しに耳にしたのが、それこそ一期一会、今生の別れとなったのだから、面白うてやがて哀しきは人生の常であろうか。
翌日ジェーン・マンスフィールド似の美人秘書を従え、アルマーニの高級スーツに身を包み意気揚々とわがプレスルームに乗り込んできたクロマティは想像以上の巨漢であったが、この国においてクロマティ・プレミアムブランドを成功させるのは至難の業であることを1時間半に渡って縷々私が説くと、黒い大男は額から玉のごとき大粒の汗を流し、時折諾諾と肯いつつ、最後には鄭重な謝辞と共に去っていった。
爾来幾星霜、ジェーンとクロマティの行方は、杳として知られない。
♪おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む 茫洋
Monday, May 19, 2008
鎌倉の1000年
鎌倉ちょっと不思議な物語123回 十二所物語その2
十二所の上古の事蹟ははっきりしないが、奈良時代の聖武天皇の御世に藤原鎌足の子孫染谷太郎太夫時定がここ鎌倉に居住し、のちに平貞盛の孫上総介直方がここに住み、源頼義が相模守となってこの地に住した。その子の直方が女を娶って道家を産み、その後子孫がこの地に代々住むようになり、鎌倉は源家相伝の地となったのである。
下って平治元年1159年に源義朝が相模守となり、治承4年1180年に頼朝が大蔵に幕府を開いたが、元弘3年1333年には新田義貞の手で瓦解して朝廷に返上、建武2年1335年には足利尊氏がこの地を占拠して、正平6年1351年に足利基氏の領地となるのだが、彼の幕府は浄明寺と十二所の中間地点にあった。自宅から歩いて数分の距離である。
その後数世紀にわたって関東方の領地となった鎌倉は、後には山の内上杉氏に属し、さらには三浦義同の治下となり、義同が小田原の北条早雲に滅ぼされてからは北条氏(後北条)の支配下に置かれることとなった。
天正18年1590年、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされてからは徳川家康の領地になったことは関東地方と同断である。
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる 茫洋
十二所の上古の事蹟ははっきりしないが、奈良時代の聖武天皇の御世に藤原鎌足の子孫染谷太郎太夫時定がここ鎌倉に居住し、のちに平貞盛の孫上総介直方がここに住み、源頼義が相模守となってこの地に住した。その子の直方が女を娶って道家を産み、その後子孫がこの地に代々住むようになり、鎌倉は源家相伝の地となったのである。
下って平治元年1159年に源義朝が相模守となり、治承4年1180年に頼朝が大蔵に幕府を開いたが、元弘3年1333年には新田義貞の手で瓦解して朝廷に返上、建武2年1335年には足利尊氏がこの地を占拠して、正平6年1351年に足利基氏の領地となるのだが、彼の幕府は浄明寺と十二所の中間地点にあった。自宅から歩いて数分の距離である。
その後数世紀にわたって関東方の領地となった鎌倉は、後には山の内上杉氏に属し、さらには三浦義同の治下となり、義同が小田原の北条早雲に滅ぼされてからは北条氏(後北条)の支配下に置かれることとなった。
天正18年1590年、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされてからは徳川家康の領地になったことは関東地方と同断である。
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる 茫洋
Sunday, May 18, 2008
どくだみの花
♪バガテルop55&遥かな昔、遠い所で第70回
日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。
氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。
幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ
どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり
乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき
乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと
どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。
そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。
ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。
思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。
おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。
♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋
日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。
氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。
幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ
どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり
乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき
乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと
どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。
そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。
ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。
思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。
おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。
♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋
Saturday, May 17, 2008
期間限定ワグナーセット
♪音楽千夜一夜第35回
たまにはコンサートに行きたいと思うのだが、「音楽の友」などを眺めていてもろくなものがないし、あってもべらぼうな値段であるからしてルンペンプロレタリアートの私にはとうてい懐にそんな余裕がないし、よしんば無理に出かけて行っても右隣の男性の体臭や鼻息やら(一息ごとにフガアア、ムガアアと破裂音をあたりに発してやまぬ煙草臭いオヤジの首を絞めてやりたいとこれまで何度思ったことだろう)、左隣の若い女性の醜からぬ容貌やら立ち昇る香水の匂い(ちなみに体臭の薄いか皆無に近い日本人に油くさい西欧人のワキガ消し用に開発された濃厚な香水なぞサントリーホールでも電車でもはたまたフランスベッドでもまったく無用の長物、臭覚に敏感な男性は必死で吐き気とめまいをこらえているのだよ)やら、時折演奏中になり始める携帯の呼び出し音などが絶対に気になるし、期待して行っても大半のコンサートは感銘率1%以下であることがあらかじめ統計的に分かっているし(小沢とN響はゼロ%)、どうせあとで録音や放送やDⅤDになるだろうし、そんなことなら近所で一生懸命に歌う鶯のさえずりを聞いたり、朝比奈峠でようやく成熟のときを迎えたオタマジャクシと遊んだり、太刀洗の渓流でたわむれるモンキアゲハの飛翔に見入っていたほうがよほど清涼されるに決まっているので結局は出不精を決め込んでいる私だが、たまたま新宿のタワーを覗いてみたら、偉大なるワグナーの代表作品を33枚に収めたデッカのCDコンピレーションセットを9000円で売っていたので,愛用の赤くて小さな手帳を取り出してちびた鉛筆をなめなめ割り算してみたら、なんと@272円と判明したのですぐさま懐中の全財産をはたいて買って家に帰って開いてみたら、これみなバイロイトフェスティバルのライブ録音ばかりで、ベーム翁の指輪やトリスタンとイゾルデを目玉に、レバインのパルシファル、サバリッシュのオランダ人、ローエングリン、タンホイザー、バァルビゾのマイスタージンガーのいずれもが全曲録音で揃っていたので、クラーバーを凌ぐ名演奏・名録音のトリスタンだけは手持ちとダブリになってしまったが、それもよくあること、モーツアルトほどではないにせよ私が愛してやまないリヒヤルトの傑作をこれから1枚1枚なめるように聴いてやろうと思っただけでもうれしくなって、窓を開ければまたしても鶯が「ホーホケキョ」とうれしそうに鳴いたのであった。
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私 茫洋
たまにはコンサートに行きたいと思うのだが、「音楽の友」などを眺めていてもろくなものがないし、あってもべらぼうな値段であるからしてルンペンプロレタリアートの私にはとうてい懐にそんな余裕がないし、よしんば無理に出かけて行っても右隣の男性の体臭や鼻息やら(一息ごとにフガアア、ムガアアと破裂音をあたりに発してやまぬ煙草臭いオヤジの首を絞めてやりたいとこれまで何度思ったことだろう)、左隣の若い女性の醜からぬ容貌やら立ち昇る香水の匂い(ちなみに体臭の薄いか皆無に近い日本人に油くさい西欧人のワキガ消し用に開発された濃厚な香水なぞサントリーホールでも電車でもはたまたフランスベッドでもまったく無用の長物、臭覚に敏感な男性は必死で吐き気とめまいをこらえているのだよ)やら、時折演奏中になり始める携帯の呼び出し音などが絶対に気になるし、期待して行っても大半のコンサートは感銘率1%以下であることがあらかじめ統計的に分かっているし(小沢とN響はゼロ%)、どうせあとで録音や放送やDⅤDになるだろうし、そんなことなら近所で一生懸命に歌う鶯のさえずりを聞いたり、朝比奈峠でようやく成熟のときを迎えたオタマジャクシと遊んだり、太刀洗の渓流でたわむれるモンキアゲハの飛翔に見入っていたほうがよほど清涼されるに決まっているので結局は出不精を決め込んでいる私だが、たまたま新宿のタワーを覗いてみたら、偉大なるワグナーの代表作品を33枚に収めたデッカのCDコンピレーションセットを9000円で売っていたので,愛用の赤くて小さな手帳を取り出してちびた鉛筆をなめなめ割り算してみたら、なんと@272円と判明したのですぐさま懐中の全財産をはたいて買って家に帰って開いてみたら、これみなバイロイトフェスティバルのライブ録音ばかりで、ベーム翁の指輪やトリスタンとイゾルデを目玉に、レバインのパルシファル、サバリッシュのオランダ人、ローエングリン、タンホイザー、バァルビゾのマイスタージンガーのいずれもが全曲録音で揃っていたので、クラーバーを凌ぐ名演奏・名録音のトリスタンだけは手持ちとダブリになってしまったが、それもよくあること、モーツアルトほどではないにせよ私が愛してやまないリヒヤルトの傑作をこれから1枚1枚なめるように聴いてやろうと思っただけでもうれしくなって、窓を開ければまたしても鶯が「ホーホケキョ」とうれしそうに鳴いたのであった。
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私 茫洋
Friday, May 16, 2008
レーモンド・カーヴァー著「英雄を謳うまい」を読んで
照る日曇る日第125回
村上春樹氏が翻訳するレーモンド・カーヴァー作品は、いずれも面白く読ませてもらったが、その最終巻であるこの本は、初期の短編や詩、挫折した長編の断片や書評やエッセイやスピーチ原稿などのいわば壮大な寄せ集めで、であるがゆえの面白さももちろんあったけれど、やはりいささか物足りなかった。
格別の感想はないが、以下印象に残ったくだりだけをメモしておこう。
カーヴァーのみならずエリオットやウイリアムズやへミングウエイやイエーツの文学上の師であったエズラ・パウンドは、「叙述の根本的な正確さ、それこそが文章における唯一無二の道義である」と述べたそうだが、なんとなく分かるような気がする。
その正確さの水準器を作家が持ち合わせていれば、の話だが。
聖テレサという373年前に生きていた傑出した女性は、こう語ったそうだ。
「言葉とは行為を導くものです。言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです。(Words lead to deeds----they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.)」
♪講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月 茫洋
村上春樹氏が翻訳するレーモンド・カーヴァー作品は、いずれも面白く読ませてもらったが、その最終巻であるこの本は、初期の短編や詩、挫折した長編の断片や書評やエッセイやスピーチ原稿などのいわば壮大な寄せ集めで、であるがゆえの面白さももちろんあったけれど、やはりいささか物足りなかった。
格別の感想はないが、以下印象に残ったくだりだけをメモしておこう。
カーヴァーのみならずエリオットやウイリアムズやへミングウエイやイエーツの文学上の師であったエズラ・パウンドは、「叙述の根本的な正確さ、それこそが文章における唯一無二の道義である」と述べたそうだが、なんとなく分かるような気がする。
その正確さの水準器を作家が持ち合わせていれば、の話だが。
聖テレサという373年前に生きていた傑出した女性は、こう語ったそうだ。
「言葉とは行為を導くものです。言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです。(Words lead to deeds----they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.)」
♪講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月 茫洋
Thursday, May 15, 2008
♪山から海へドドシシドッド
鎌倉ちょっと不思議な物語122回 十二所神社物語その7
十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある。
右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである。村人たちは疱瘡にかかることを恐れていた。
その左にある比較的新しい一祠は神社のこの土地を寄進した大木市衛門、すなわち地主神を祀った。
私が現在住んでいる場所も、昔はこの大木一族の土地であり、元は鎌倉石を切り出した跡を田圃にしていたところに小さな家を建てたのであるが、整地をしている大工は、岩場の穴からうじゃうじゃ現れる無数のヤマカガシを取り除くのに大童だった。
さしものヤマカガシも、最近はようやく姿を消してしまったが、新築当初は私たちがネンネグーしている枕元にも現われ、私の好きなエルガーの「愛の挨拶」を歌ったのであった。
ヤマカガシたちは愛犬ムクの遊び相手になったり、健君のマフラーになったり、大木一族の跡取りの格好のおもちゃになったりしてから、家の前を流れる太刀洗川にドボンドボンと捨てられ、下流の滑川にぷかぷか浮かびながら由比ガ浜の河口までゆるやかに南下して、次々に相模湾に流れ入り、ついには広大な太平洋へ乗り入れたのだった。
そうして十二所村の悪がきたちは、ノドチンコもあらわに声をそろえて歌ったものだ。
♪山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
あれら無数の蛇たちの霊よ、安かれ!
♪いざともに交尾致さむ揚羽蝶 茫洋
十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある。
右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである。村人たちは疱瘡にかかることを恐れていた。
その左にある比較的新しい一祠は神社のこの土地を寄進した大木市衛門、すなわち地主神を祀った。
私が現在住んでいる場所も、昔はこの大木一族の土地であり、元は鎌倉石を切り出した跡を田圃にしていたところに小さな家を建てたのであるが、整地をしている大工は、岩場の穴からうじゃうじゃ現れる無数のヤマカガシを取り除くのに大童だった。
さしものヤマカガシも、最近はようやく姿を消してしまったが、新築当初は私たちがネンネグーしている枕元にも現われ、私の好きなエルガーの「愛の挨拶」を歌ったのであった。
ヤマカガシたちは愛犬ムクの遊び相手になったり、健君のマフラーになったり、大木一族の跡取りの格好のおもちゃになったりしてから、家の前を流れる太刀洗川にドボンドボンと捨てられ、下流の滑川にぷかぷか浮かびながら由比ガ浜の河口までゆるやかに南下して、次々に相模湾に流れ入り、ついには広大な太平洋へ乗り入れたのだった。
そうして十二所村の悪がきたちは、ノドチンコもあらわに声をそろえて歌ったものだ。
♪山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
あれら無数の蛇たちの霊よ、安かれ!
♪いざともに交尾致さむ揚羽蝶 茫洋
Wednesday, May 14, 2008
神社と力士
鎌倉ちょっと不思議な物語121回 十二所神社物語その6
「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。
そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。
その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。
地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。
♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊
「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。
そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。
その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。
地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。
♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊
Tuesday, May 13, 2008
♪流れよ みこし どんぶらこ
♪流れよ みこし どんぶらこ
鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5
神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?
しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。
きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。
いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。
先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。
それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。
去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?
猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。
と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。
10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5
神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?
しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。
きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。
いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。
先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。
それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。
去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?
猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。
と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。
10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋
Monday, May 12, 2008
兎とバラモン
鎌倉ちょっと不思議な物語119回 十二所神社物語その4
神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。
インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。
兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。
ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。
さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。
帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。
月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。
「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋
神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。
インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。
兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。
ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。
さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。
帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。
月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。
「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋
Sunday, May 11, 2008
川尻秋生著「揺れ動く貴族社会」を読む
照る日曇る日第124回
17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。
9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。
藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。
著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。
その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。
御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、
などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。
♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋
17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。
9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。
藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。
著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。
その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。
御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、
などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。
♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋
Saturday, May 10, 2008
十二所神社物語その2
鎌倉ちょっと不思議な物語118回
さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。
鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。
もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。
さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。
往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。
神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。
しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。
♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋
さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。
鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。
もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。
さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。
往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。
神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。
しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。
♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋
Thursday, May 08, 2008
祭礼の夜
鎌倉ちょっと不思議な物語117回
十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。
例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。
夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。
敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。
祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。
私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。
しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。
祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。
♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。
例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。
夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。
敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。
祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。
私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。
しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。
祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。
♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
Wednesday, May 07, 2008
十二所神社物語その1
鎌倉ちょっと不思議な物語116回
十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。
紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。
ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。
♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋
十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。
紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。
ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。
♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋
Tuesday, May 06, 2008
十二所物語
鎌倉ちょっと不思議な物語115回
私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。
この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。
下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。
十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋
私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。
この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。
下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。
十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋
Monday, May 05, 2008
鎌倉ちょっと不思議な物語114回
十二所の「大江稲荷社」拝観
これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。
大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。
灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。
稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。
♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋
これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。
大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。
灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。
稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。
♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋
Sunday, May 04, 2008
サガン著「悲しみよ こんにちは」を読んで
照る日曇る日第123回
ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。
父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。
そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。
あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。
だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。
この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。
♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋
ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。
父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。
そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。
あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。
だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。
この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。
♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋
Saturday, May 03, 2008
デュラス著「愛人 ラマン」を読んで
照る日曇る日第122回
「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。
ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。
17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。
この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。
やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。
少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋
「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。
ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。
17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。
この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。
やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。
少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋
Friday, May 02, 2008
デュラス著「太平洋の防波堤」を読んで
照る日曇る日第121回
どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。
老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。
ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。
荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。
♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋
どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。
老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。
ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。
荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。
♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋
Thursday, May 01, 2008
Wednesday, April 30, 2008
2008年卯月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その26
春の宵近江の牛を食べにけり
蟷螂の斧振りかざす春の宵
修道女の瞑想破る太刀嵐
桜花一輪拾いて水に浸す
桜咲く今朝の女の薄化粧
これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
ト短調で歌うなハ長調で歌え
景時の行方はいずこ鯨殿
こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
新築減り仕事なくなりし甥っ子の心配す
君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね
流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである
ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川
ヘルメットに棍棒握って武装せしわが手が握りし黄色な檸檬
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり
わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人とおるかな
嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らしはうちの健ちゃん
しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 与黒田某
新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる
紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし
一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり
空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり
近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり
柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな
シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館
寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする
♪俳句は断想であり短歌は私小説である 茫洋
春の宵近江の牛を食べにけり
蟷螂の斧振りかざす春の宵
修道女の瞑想破る太刀嵐
桜花一輪拾いて水に浸す
桜咲く今朝の女の薄化粧
これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
ト短調で歌うなハ長調で歌え
景時の行方はいずこ鯨殿
こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
新築減り仕事なくなりし甥っ子の心配す
君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね
流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである
ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川
ヘルメットに棍棒握って武装せしわが手が握りし黄色な檸檬
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり
わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人とおるかな
嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らしはうちの健ちゃん
しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 与黒田某
新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる
紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし
一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり
空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり
近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり
柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな
シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館
寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする
♪俳句は断想であり短歌は私小説である 茫洋
Tuesday, April 29, 2008
吉田秀和著「永遠の故郷 夜」を読む
照る日曇る日第120回&♪音楽千夜一夜第34回
朝の授業のために湘南新宿ラインに乗りながら、この本を読んでいた。
小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆である。
鼓膜の中いっぱいに楽の音が満ち溢れ、泣きたくなるような感動が押し寄せてきたのは、「4つの最後の歌」という短編を読んでいるときだった。
1954年、著者はミュンヘンでこの曲の初演をなんとゲルハルト・ヒッシュと中山悌一に挟まれてリサ・デラ・カーサの独唱、ヨーゼフ・カイルベルトが指揮するミュンヘン・フィルの演奏で聴いたという。ああ、なんという夢のような組み合わせだろう!
「4つの最後の歌」はご存知のようにリヒアルト・シュトラウスの文字通り最後の作品であり、歌曲は世に数々あれど、この本で吉田さんが紹介しているヒューゴー・ヴォルフやブラームスよりも私が愛惜措くあたわざる古今の絶唱である。
著者が評しているように、意識の明確さと幻想の深さ、驚くばかりの輝きと闇が、そして生と死が絡み合う比類のない高みに達した崇高な芸術作品である。
その日そのときの演奏が、時空を超越して吉田さんの心の奥底から突如として沸き起こってくる。そうして私たちはもはや最後の日も遠くないことを自覚している著者とともに、天才作曲家の文字通り最後の4つの挽歌をひとつひとつ聴いていくのである。
第1曲は「春」、第2曲は「9月」、第3曲は「眠りにつくに当たって」はいずれもシュトラウスを憎んでいたヘルマンヘッセの作詞であるが、ナチスに肩入れしていた疑惑の作曲家は、善悪を超越した此岸から彼岸にかかる渡り橋の真ん中で、現世への最後の一瞥をくれたのである。ヘッセもって瞑すべし、ということでもあらうか。
吉田さんは第4曲「夕映えの中で」のアイヘンドルフの原詩を翻訳して示す。
おお、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
そして変ホ長調、アンダンテ、4分の4拍子で生まれ、最後の15小節で再び変ホ長調に戻って永遠に終息した死と美が共存するこの美しい音楽のスコアを、自らの手で書き写しながら、吉田さんはリルケの詩を思い出すのである。
何故ならば、美は私たちの耐えられる限りでの
恐ろしいものの始まりにほかならないのだから (『ドゥイーノの悲歌』
吉田さんは、なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくあるうるのか? 美しくなければならないか? と自問し、次のように答えている。
―なぜならば、これが音楽であるからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。美はその過程の中で生まれてきたあるものでしかない。(中略)セザンヌ最晩年の農夫の肖像を見るがいい。彼を囲んで黄と緑と深い青と濃い茶の光と闇とが入り混じり、音もなく燃えている。セザンヌは何を描いたのか?「もしかしたら、これが死?」
というところで、吉田さんの筆は突然書くことをやめ、それから私の心の中であの懐かしいIm Abendrotの演奏が鳴り響いたのだった。
おかげで私の講義は無残なものだった。しかし、音楽について語る数ページが、その音楽そのものを、無上のよろこびと無限のかなしみとを2つながらに伴いながら、オケと歌手と指揮者もなしに、私の魂の中でいきいきと立ち上がらせるとは、なんという書き手であることか!
「あとがき」のなかで吉田さんは、「歌曲とは心の歌にほかならない」とハイネの言葉を訳しているが、「永遠の故郷 夜」というこの本自体も、隅から隅まで吉田さんの「心の歌」にほかならないのである。
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川 亡羊
朝の授業のために湘南新宿ラインに乗りながら、この本を読んでいた。
小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆である。
鼓膜の中いっぱいに楽の音が満ち溢れ、泣きたくなるような感動が押し寄せてきたのは、「4つの最後の歌」という短編を読んでいるときだった。
1954年、著者はミュンヘンでこの曲の初演をなんとゲルハルト・ヒッシュと中山悌一に挟まれてリサ・デラ・カーサの独唱、ヨーゼフ・カイルベルトが指揮するミュンヘン・フィルの演奏で聴いたという。ああ、なんという夢のような組み合わせだろう!
「4つの最後の歌」はご存知のようにリヒアルト・シュトラウスの文字通り最後の作品であり、歌曲は世に数々あれど、この本で吉田さんが紹介しているヒューゴー・ヴォルフやブラームスよりも私が愛惜措くあたわざる古今の絶唱である。
著者が評しているように、意識の明確さと幻想の深さ、驚くばかりの輝きと闇が、そして生と死が絡み合う比類のない高みに達した崇高な芸術作品である。
その日そのときの演奏が、時空を超越して吉田さんの心の奥底から突如として沸き起こってくる。そうして私たちはもはや最後の日も遠くないことを自覚している著者とともに、天才作曲家の文字通り最後の4つの挽歌をひとつひとつ聴いていくのである。
第1曲は「春」、第2曲は「9月」、第3曲は「眠りにつくに当たって」はいずれもシュトラウスを憎んでいたヘルマンヘッセの作詞であるが、ナチスに肩入れしていた疑惑の作曲家は、善悪を超越した此岸から彼岸にかかる渡り橋の真ん中で、現世への最後の一瞥をくれたのである。ヘッセもって瞑すべし、ということでもあらうか。
吉田さんは第4曲「夕映えの中で」のアイヘンドルフの原詩を翻訳して示す。
おお、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
そして変ホ長調、アンダンテ、4分の4拍子で生まれ、最後の15小節で再び変ホ長調に戻って永遠に終息した死と美が共存するこの美しい音楽のスコアを、自らの手で書き写しながら、吉田さんはリルケの詩を思い出すのである。
何故ならば、美は私たちの耐えられる限りでの
恐ろしいものの始まりにほかならないのだから (『ドゥイーノの悲歌』
吉田さんは、なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくあるうるのか? 美しくなければならないか? と自問し、次のように答えている。
―なぜならば、これが音楽であるからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。美はその過程の中で生まれてきたあるものでしかない。(中略)セザンヌ最晩年の農夫の肖像を見るがいい。彼を囲んで黄と緑と深い青と濃い茶の光と闇とが入り混じり、音もなく燃えている。セザンヌは何を描いたのか?「もしかしたら、これが死?」
というところで、吉田さんの筆は突然書くことをやめ、それから私の心の中であの懐かしいIm Abendrotの演奏が鳴り響いたのだった。
おかげで私の講義は無残なものだった。しかし、音楽について語る数ページが、その音楽そのものを、無上のよろこびと無限のかなしみとを2つながらに伴いながら、オケと歌手と指揮者もなしに、私の魂の中でいきいきと立ち上がらせるとは、なんという書き手であることか!
「あとがき」のなかで吉田さんは、「歌曲とは心の歌にほかならない」とハイネの言葉を訳しているが、「永遠の故郷 夜」というこの本自体も、隅から隅まで吉田さんの「心の歌」にほかならないのである。
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川 亡羊
Monday, April 28, 2008
トルーマン・カポーティ著「ティファニーで朝食を」読む
照る日曇る日第119回
イカの次はなぜか宝石である。
私はいまのところオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」という映画がいちばん好きで、グレゴリーペックとの別れのシーンを見るたびに嗚咽せざるを得ない人なのだが、そんな素敵な映画に主演したヘプバーンが出ているというのでついでに「ティファニーで朝食を」という映画を見たら、それは「ローマの休日」には及びもつかない奇妙な映画で、まあ失敗作といってもいいのだろうが、ゆいいつアパートの窓辺でヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」をギターで弾き語りする小鹿のバンビのようなオードリーの可憐な声と姿だけが記憶に留められた。
「ティファニーで朝食を」の原作がトルーマン・カポーティというアメリカの人気作家の小説であるということは知っていたが、最近私はいまごろになって村上春樹の翻訳で初めてこれを読んだ。するとこれが思いのほかに面白かった。じつにうまく書かれた小説であった。
マンハッタン中の男どもの魂をわしづかみにしたこの小説の女主人公ホリー・ゴライトリーの天衣無縫の魅力は、当たり前の話だが原作のなかでは光彩陸離と輝き渡っている。しかし映画のなかでは、小鹿バンビオードリーがそれなりにファニーであるだけで、それ以外にはなにもない映画といってもけっして過言ではない。
原作のなかでのカポーティは、なぜかフィッツジェラルドやへミングウエイにも似ている。手を伸ばせば届きそうなところにある宝石を心の奥底で追い求めながらもついに手中に収めることのできない男の悲しみの物語が切ないまでにリアルに描き出されている。
それでうれしくなって「ティファニーで朝食を」と一緒に収められている「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」という3本の短編も読んでみたら、これが「ティファニーで朝食を」よりもよく出来た小説だったのでまた驚いた。
この調子なら昔途中で投げ出したこの人の「冷血」とか「遠い声、遠い部屋」も読みとおせるかもしれない。
もっとも「ティファニーで朝食を」とるというフレーズは、小説のなかではなにがなくほんの1小節しか演奏されていないのに、それをタイトルにしたのは不可解である。ティファニーからタイアップ料金をもらっていたからではないかとさえかんぐられるが、この題名であればこその大ヒットであったのかもしれない。
♪寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする 亡羊
イカの次はなぜか宝石である。
私はいまのところオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」という映画がいちばん好きで、グレゴリーペックとの別れのシーンを見るたびに嗚咽せざるを得ない人なのだが、そんな素敵な映画に主演したヘプバーンが出ているというのでついでに「ティファニーで朝食を」という映画を見たら、それは「ローマの休日」には及びもつかない奇妙な映画で、まあ失敗作といってもいいのだろうが、ゆいいつアパートの窓辺でヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」をギターで弾き語りする小鹿のバンビのようなオードリーの可憐な声と姿だけが記憶に留められた。
「ティファニーで朝食を」の原作がトルーマン・カポーティというアメリカの人気作家の小説であるということは知っていたが、最近私はいまごろになって村上春樹の翻訳で初めてこれを読んだ。するとこれが思いのほかに面白かった。じつにうまく書かれた小説であった。
マンハッタン中の男どもの魂をわしづかみにしたこの小説の女主人公ホリー・ゴライトリーの天衣無縫の魅力は、当たり前の話だが原作のなかでは光彩陸離と輝き渡っている。しかし映画のなかでは、小鹿バンビオードリーがそれなりにファニーであるだけで、それ以外にはなにもない映画といってもけっして過言ではない。
原作のなかでのカポーティは、なぜかフィッツジェラルドやへミングウエイにも似ている。手を伸ばせば届きそうなところにある宝石を心の奥底で追い求めながらもついに手中に収めることのできない男の悲しみの物語が切ないまでにリアルに描き出されている。
それでうれしくなって「ティファニーで朝食を」と一緒に収められている「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」という3本の短編も読んでみたら、これが「ティファニーで朝食を」よりもよく出来た小説だったのでまた驚いた。
この調子なら昔途中で投げ出したこの人の「冷血」とか「遠い声、遠い部屋」も読みとおせるかもしれない。
もっとも「ティファニーで朝食を」とるというフレーズは、小説のなかではなにがなくほんの1小節しか演奏されていないのに、それをタイトルにしたのは不可解である。ティファニーからタイアップ料金をもらっていたからではないかとさえかんぐられるが、この題名であればこその大ヒットであったのかもしれない。
♪寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする 亡羊
Saturday, April 26, 2008
中沢新一・波多野一郎著「イカの哲学」を読む
照る日曇る日第119回
チョウの続きは、イカの話である。
「ある丹波の老人の物語」の主人公がその生涯で最も大きな影響を受けた偉大な実業家にして宗教家、それが郡是を創業したクリスチャンの波多野鶴吉であったが、本書はその翁の孫である波多野一郎氏の遺著「イカの哲学」を再発見した中沢新一による絶対平和論への試みの書である。
特攻隊の生き残りで戦後ソ連の炭鉱で4年間の強制労働に従事した波多野氏は、米国スタンフォード大学でプラグマティズムを学んだ在野の哲学者であった。そして氏は大学の夏休みにカリフォルニアの風光明媚なモントレーの海(私の懐かしき曾遊の地、あんな土地に住んでみたいものだ)で取れたイカの冷凍加工アルバイトをしながら彼独自の生命哲学を体得するのであるが、著者は彼の「イカの哲学」の中に人間のみならずイカやさまざまな動植物の生命価値をヒトと同等に尊重する絶対平等絶対平和の思想を見出し、それが21世紀の人類と地球の運命を変える可能性を秘めていると説くのである。
せんじつめれば、人間中心主義による通常の平和論では人間の遺伝子に内蔵された戦争を発現せざるを得ないが、「イカ中心主義」に立脚し、知性と生命あるものすべてが、生ある森羅万象の生命の実存のかけがえのなさを体得すれば、戦争を不可能にする契機を見出すこともあながち不可能ではない、というのが波多野哲学のいちばん大切なポイントではないかと私は思った。
基本的には金子みすゞの「大漁」や宮沢賢治の「ヨダカの星」「銀河鉄道の夜」の世界に通底する大悲・大慈の思想ではないだろうか。
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう
この金子みすゞの視点である。
油の乗り切った当代一流の思想家が、ジョルジュ・バタイユのエロチシズム論を引用したり、生物学の知見やら卓抜な比喩や飛躍など次々にお得意の知的な装置を繰り出して、波多野氏の簡潔な著作を重層的に深読みしていく手際はあざやかだ。
けれども、中沢ファンとして人後におちないと自負するわたしではあったが、あまりにも性急かつ激烈で我田引水が過ぎるように感じられる彼の熱弁に耳を傾けているうちに、重い主題をわざと軽やかに取り扱い、絶妙なユーモアとウイットのセンスを生かした原著者の熟した心根がどこかでおいてけぼりにされているような気持にさえなってしまったのは自分でも思いがけないことだった。
♪しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな 亡羊
チョウの続きは、イカの話である。
「ある丹波の老人の物語」の主人公がその生涯で最も大きな影響を受けた偉大な実業家にして宗教家、それが郡是を創業したクリスチャンの波多野鶴吉であったが、本書はその翁の孫である波多野一郎氏の遺著「イカの哲学」を再発見した中沢新一による絶対平和論への試みの書である。
特攻隊の生き残りで戦後ソ連の炭鉱で4年間の強制労働に従事した波多野氏は、米国スタンフォード大学でプラグマティズムを学んだ在野の哲学者であった。そして氏は大学の夏休みにカリフォルニアの風光明媚なモントレーの海(私の懐かしき曾遊の地、あんな土地に住んでみたいものだ)で取れたイカの冷凍加工アルバイトをしながら彼独自の生命哲学を体得するのであるが、著者は彼の「イカの哲学」の中に人間のみならずイカやさまざまな動植物の生命価値をヒトと同等に尊重する絶対平等絶対平和の思想を見出し、それが21世紀の人類と地球の運命を変える可能性を秘めていると説くのである。
せんじつめれば、人間中心主義による通常の平和論では人間の遺伝子に内蔵された戦争を発現せざるを得ないが、「イカ中心主義」に立脚し、知性と生命あるものすべてが、生ある森羅万象の生命の実存のかけがえのなさを体得すれば、戦争を不可能にする契機を見出すこともあながち不可能ではない、というのが波多野哲学のいちばん大切なポイントではないかと私は思った。
基本的には金子みすゞの「大漁」や宮沢賢治の「ヨダカの星」「銀河鉄道の夜」の世界に通底する大悲・大慈の思想ではないだろうか。
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう
この金子みすゞの視点である。
油の乗り切った当代一流の思想家が、ジョルジュ・バタイユのエロチシズム論を引用したり、生物学の知見やら卓抜な比喩や飛躍など次々にお得意の知的な装置を繰り出して、波多野氏の簡潔な著作を重層的に深読みしていく手際はあざやかだ。
けれども、中沢ファンとして人後におちないと自負するわたしではあったが、あまりにも性急かつ激烈で我田引水が過ぎるように感じられる彼の熱弁に耳を傾けているうちに、重い主題をわざと軽やかに取り扱い、絶妙なユーモアとウイットのセンスを生かした原著者の熟した心根がどこかでおいてけぼりにされているような気持にさえなってしまったのは自分でも思いがけないことだった。
♪しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな 亡羊
Friday, April 25, 2008
日高敏隆著「チョウはなぜ飛ぶか」を読む
照る日曇る日第118回
私は昔からチョウが好きだった。私自身やあまたの人間どもよりもずっとずっと好きだったし、その思いは近年ますます強まってくるばかりだ。
そしてたまたまこの本を手にとってみると、普段自分がいかに自分自身にとってどうでもいい種類の書物に惰性で目を晒し続けて貴重な生の時間を無駄にし続けているのかが痛感される。
さて本書である。奇妙なことには表題の「なぜ飛ぶか」という問いに対する答えはまったく書かれていないが、チョウがなぜ一定の道、「チョウ道」を飛ぶのかという問題への相次ぐまっすぐな問いかけとその問いに対する実験と考察、その動物行動学の試行錯誤が元昆虫少年のつぶらな瞳で一瀉千里に書かれていて気持ちがいい。
私は「チョウ道」はすべてのチョウにあると思っていたが、実際はキアゲハを除くアゲハ類にだけそれがあると著者は言う。ヨーロッパの代表的なアゲハはキアゲハなので、かの地にはチョウ道が存在しないというのも初耳だった。(しかしいま私がもっとも関心を懐いているタテハチョウのそれについてまったく触れていないのは残念至極である)
チョウの雌雄の見分け方についても驚くべき報告がなされている。
モンシロチョウのオスは、人間には識別不可能な黄色と紫外線の混ざった色でメスを直ちに見分けるのであるが、アゲハチョウのオスはメスの黄色と黒のストライプがめじるしになり、それを目にするや否やオスは突進を開始し、(その軌跡が「アゲハのチョウ道」となるのであるが)いざ接近してもそれが目指すメスであるかはたまたライバルのオスであるかはまだ分からないので、まずは触手でさわってみる。黙って触ればぴたりと雌雄が分かる、というところまでは分かったというのである。
ゴキブリなども触手でにおいがわかるので、アゲハもにおいで雌雄を弁別しているのであろうということになる。
ところが、最後にアゲハチョウのメスの産卵のめじるしの実験で、それまで成功裏に着実に積み重ねられてきた研究成果がすべてご破算となり、著者自らが途方に暮れてしまうところで唐突に記述が終わってしまう。
仮説を次々に立ててそれを実験によって証明し、また新たな仮説→実験→証明へと破竹の前進を遂げてきた「チョウ道」学であったが、いくつかの実験結果が矛盾していたために「なにがなんだかわからなくなってしまった」と著者は正直にいうのである。
そして「成功ばかりではなく失敗のプロセスをすべて公開するのも科学の道である」と述べているが、そのことが書物として、生きた科学の記述として、あるいは人生の蹉跌の象徴としても、まことにいさぎよく感動的な本である。
♪一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れておった 亡羊
私は昔からチョウが好きだった。私自身やあまたの人間どもよりもずっとずっと好きだったし、その思いは近年ますます強まってくるばかりだ。
そしてたまたまこの本を手にとってみると、普段自分がいかに自分自身にとってどうでもいい種類の書物に惰性で目を晒し続けて貴重な生の時間を無駄にし続けているのかが痛感される。
さて本書である。奇妙なことには表題の「なぜ飛ぶか」という問いに対する答えはまったく書かれていないが、チョウがなぜ一定の道、「チョウ道」を飛ぶのかという問題への相次ぐまっすぐな問いかけとその問いに対する実験と考察、その動物行動学の試行錯誤が元昆虫少年のつぶらな瞳で一瀉千里に書かれていて気持ちがいい。
私は「チョウ道」はすべてのチョウにあると思っていたが、実際はキアゲハを除くアゲハ類にだけそれがあると著者は言う。ヨーロッパの代表的なアゲハはキアゲハなので、かの地にはチョウ道が存在しないというのも初耳だった。(しかしいま私がもっとも関心を懐いているタテハチョウのそれについてまったく触れていないのは残念至極である)
チョウの雌雄の見分け方についても驚くべき報告がなされている。
モンシロチョウのオスは、人間には識別不可能な黄色と紫外線の混ざった色でメスを直ちに見分けるのであるが、アゲハチョウのオスはメスの黄色と黒のストライプがめじるしになり、それを目にするや否やオスは突進を開始し、(その軌跡が「アゲハのチョウ道」となるのであるが)いざ接近してもそれが目指すメスであるかはたまたライバルのオスであるかはまだ分からないので、まずは触手でさわってみる。黙って触ればぴたりと雌雄が分かる、というところまでは分かったというのである。
ゴキブリなども触手でにおいがわかるので、アゲハもにおいで雌雄を弁別しているのであろうということになる。
ところが、最後にアゲハチョウのメスの産卵のめじるしの実験で、それまで成功裏に着実に積み重ねられてきた研究成果がすべてご破算となり、著者自らが途方に暮れてしまうところで唐突に記述が終わってしまう。
仮説を次々に立ててそれを実験によって証明し、また新たな仮説→実験→証明へと破竹の前進を遂げてきた「チョウ道」学であったが、いくつかの実験結果が矛盾していたために「なにがなんだかわからなくなってしまった」と著者は正直にいうのである。
そして「成功ばかりではなく失敗のプロセスをすべて公開するのも科学の道である」と述べているが、そのことが書物として、生きた科学の記述として、あるいは人生の蹉跌の象徴としても、まことにいさぎよく感動的な本である。
♪一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れておった 亡羊
Thursday, April 24, 2008
日本と中国の今昔 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
照る日曇る日第117回
前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。
全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。
遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。
天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。
また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。
しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。
♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊
前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。
全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。
遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。
天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。
また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。
しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。
♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊
Wednesday, April 23, 2008
Sunday, April 20, 2008
倭から日本へ 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
照る日曇る日第116回&ふあっちょん幻論第19回
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
Saturday, April 19, 2008
職人気質
♪バガテルop54
しばらく前にキッチンを修理し、去年は自宅の北側の壁が腐りかけていたのでトイレと一緒に修理し、やれやれこれで終わりかと乏しくなった財布の底をながめてため息をつきながらもほっとしていたら、今度は便所の隣の浴室のねだが腐っていることが判明したので、善は急げ?とばかりにほとんどやけくそになって今年の冬にリフォームした。
おかげで最新式の浴槽が導入され、洗面所の採光も改善され、それなりに平成モダンライフ?の快適さをエンジョイすることができると一安心したんのもつかの間、またしても2階二回の天井裏に葡萄状連鎖状球菌ならぬ白色腐朽菌というのが繁殖していることが判明、いずれは屋根のてっぺえんを切開して修理する必要が生じた。
まったくいつまで続くぬかるみぞ、といったところだが、それはともかくとして私が再認識したのはわが国の大工さんやペンキ屋さんや経師屋さんや電気屋さんやその他もろもろの職人さんの腕の冴え、技術の素晴らしさである。
古くて狭くて具合の悪いところをいとこたやすくすいすいと直してしまう。もちろんそれがプロの職人芸と言ってしまえば実も蓋もないが、それはおそらくわが国の昔からの良き伝統であり、民族の身体性に付与された特性であり、諸外国の職人さんと比べても抜群の器用さであるに違いない。
彼らは朝から働き、10時に小休止し、正午に昼食をとって車の中などで午睡し、1時から3時まで働いてまた一休みして夕方まで働き続けるのだが、傍から見ているとこれが一日の労働に最も適した時間割であるということが良く分かる。
単調で過酷な労働であるからおやつに甘いものを出すと喜んでみな食べてくれる。しかし「トイレをどうぞ自由に使ってください」と勧めても、固辞してほとんど用を足さない職人が多いのは、古来そういうしつけをされてきたからであろうか。
いずれにしても非常に不器用でなにひとつ修理できない私にとっては、日本のホモ・ファーベルのありがたさ、素晴らしさを見せつけられたあほばかホモ・ルーデンスの2週間だった。
♪新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり 亡羊
しばらく前にキッチンを修理し、去年は自宅の北側の壁が腐りかけていたのでトイレと一緒に修理し、やれやれこれで終わりかと乏しくなった財布の底をながめてため息をつきながらもほっとしていたら、今度は便所の隣の浴室のねだが腐っていることが判明したので、善は急げ?とばかりにほとんどやけくそになって今年の冬にリフォームした。
おかげで最新式の浴槽が導入され、洗面所の採光も改善され、それなりに平成モダンライフ?の快適さをエンジョイすることができると一安心したんのもつかの間、またしても2階二回の天井裏に葡萄状連鎖状球菌ならぬ白色腐朽菌というのが繁殖していることが判明、いずれは屋根のてっぺえんを切開して修理する必要が生じた。
まったくいつまで続くぬかるみぞ、といったところだが、それはともかくとして私が再認識したのはわが国の大工さんやペンキ屋さんや経師屋さんや電気屋さんやその他もろもろの職人さんの腕の冴え、技術の素晴らしさである。
古くて狭くて具合の悪いところをいとこたやすくすいすいと直してしまう。もちろんそれがプロの職人芸と言ってしまえば実も蓋もないが、それはおそらくわが国の昔からの良き伝統であり、民族の身体性に付与された特性であり、諸外国の職人さんと比べても抜群の器用さであるに違いない。
彼らは朝から働き、10時に小休止し、正午に昼食をとって車の中などで午睡し、1時から3時まで働いてまた一休みして夕方まで働き続けるのだが、傍から見ているとこれが一日の労働に最も適した時間割であるということが良く分かる。
単調で過酷な労働であるからおやつに甘いものを出すと喜んでみな食べてくれる。しかし「トイレをどうぞ自由に使ってください」と勧めても、固辞してほとんど用を足さない職人が多いのは、古来そういうしつけをされてきたからであろうか。
いずれにしても非常に不器用でなにひとつ修理できない私にとっては、日本のホモ・ファーベルのありがたさ、素晴らしさを見せつけられたあほばかホモ・ルーデンスの2週間だった。
♪新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり 亡羊
Friday, April 18, 2008
続「大江広元の墓」の謎
鎌倉ちょっと不思議な物語114回
「十二所地誌新稿」にまたまたいう。
明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。
山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。
その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。
さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」
と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。
♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊
「十二所地誌新稿」にまたまたいう。
明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。
山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。
その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。
さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」
と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。
♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊
Thursday, April 17, 2008
荒岱介著「新左翼とは何だったのか」を読んで
照る日曇る日第115回
60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。
私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。
しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。
1967年10月8日の昼前のこと、
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。
「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。
と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。
本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。
私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。
なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。
ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬
60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。
私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。
しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。
1967年10月8日の昼前のこと、
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。
「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。
と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。
本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。
私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。
なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。
ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬
Wednesday, April 16, 2008
ガルシア・マルケス著・旦敬介訳「十二の遍歴の物語」を読む
照る日曇る日第114回
「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。
本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。
「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」
その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。
「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」
この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊
「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。
本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。
「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」
その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。
「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」
この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊
Tuesday, April 15, 2008
ガルシア・マルケス著「予告された殺人の記録」を読む
照る日曇る日第113回
「愛の狩人は鷹に似て高きより獲物を狙う」というジル・ヴィセンテのエピグラムを巻頭に掲げたマルケスは、天空はるかなる視点から、おのれを神に擬し、1951年1月22日に彼と彼の家族が実際に身近に体験したこの殺人事件をメタ・ドキュメンタリーな神話として語りなおそうとした。
言ってみれば、新婚の床から追放された妹の汚名を雪ごうと、その双子の兄弟が、彼女を処女ではなくした張本人であると称される男を肉きり包丁で刺し殺すギリシア悲劇さながらの敵討ち噺なのだが、その新聞種に類した悲劇を、ただ無数の事実の羅列によって叙述しようとする。
それならば単なるドキュメンタリー小説で終わったであろうこの小説は、数多くの登場人物の多様な視点、現在から既往、既往からまた現在、そして未来へとせわしなく移動する多彩な時間軸の運動を映画のクロースアップとパンのように交互に繰り返すことによって、とある殺人事件の複合的・重層的な局面に隠されているいくつもの真実をつぎつぎに暴き出す。
すると最初は起こるべくして起こったはずの事件、そのあらかじめ決定されていたはずの事件の確定的要因が次第に溶解して、陰影定かならざる曖昧模糊とした諸要素に還元されていく。
事実と歴史が彩度と輪郭を失い、真実は虚構へ、現実は夢想へ、そして最後には人間界のすべての事象が、偶然と運命の所業へと召還されてゆくのであった。
♪君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね。亡羊
「愛の狩人は鷹に似て高きより獲物を狙う」というジル・ヴィセンテのエピグラムを巻頭に掲げたマルケスは、天空はるかなる視点から、おのれを神に擬し、1951年1月22日に彼と彼の家族が実際に身近に体験したこの殺人事件をメタ・ドキュメンタリーな神話として語りなおそうとした。
言ってみれば、新婚の床から追放された妹の汚名を雪ごうと、その双子の兄弟が、彼女を処女ではなくした張本人であると称される男を肉きり包丁で刺し殺すギリシア悲劇さながらの敵討ち噺なのだが、その新聞種に類した悲劇を、ただ無数の事実の羅列によって叙述しようとする。
それならば単なるドキュメンタリー小説で終わったであろうこの小説は、数多くの登場人物の多様な視点、現在から既往、既往からまた現在、そして未来へとせわしなく移動する多彩な時間軸の運動を映画のクロースアップとパンのように交互に繰り返すことによって、とある殺人事件の複合的・重層的な局面に隠されているいくつもの真実をつぎつぎに暴き出す。
すると最初は起こるべくして起こったはずの事件、そのあらかじめ決定されていたはずの事件の確定的要因が次第に溶解して、陰影定かならざる曖昧模糊とした諸要素に還元されていく。
事実と歴史が彩度と輪郭を失い、真実は虚構へ、現実は夢想へ、そして最後には人間界のすべての事象が、偶然と運命の所業へと召還されてゆくのであった。
♪君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね。亡羊
Monday, April 14, 2008
春風の丘に立つ
車も化粧品もアパレルも、世界市場の使命を制するのはBRICsわけてもアジアのマーケットである。
昨日は2つの学校で私の今季のヒジョーキン生活が始まったが、韓国、中国、香港、台湾の学生の元気な表情が印象的だった。
日本人に元気がないとはいわない。日本がアジアの一員でないともいわない。しかし背後に自分自身の未来とくわえて国の将来を背負った彼らの勉学への精進を親しく見聞していると、なにかが微妙に違っていると感じないわけにはいかない。
彼らは外国語としての日本語を驚くほど速やかにマスターしてしまう。なかにはわが維新の時代の壮士を思わせる気概の持ち主もいる。成長期の世界と円熟期の世界とでは商品・サービスのみならず人材が輩出されるための土壌・環境がまるで違っているのであろう。
かつて毛沢東は、「青年は午前10時の太陽である」と言った。若いこと、無名であること、貧乏であること。これが革命者の条件である、とも言った。毛の誤謬や革命の功罪はさておき、前途有望な若者への激励の辞としてはまだ有効であろう。
それにしても若いということはいいことだ。どんな失敗もまだ許される。願わくは破綻や蹉跌を恐れず己の信ずる路をひたすらつき進んでいってほしいものだ。
午前10時ならぬ午後5時の残照に孤影漂うわたくしであるが、明日からは3つ目の学校へのお勤めも始まる。見えない未来に向かって疾走する人々にいささかの後押しをいたしたいものである。
最後に全国の学友諸君に対し、正岡子規の高弟であり、夏目漱石に「猫」を書かせて作家デビューを後押しした俳人の普段の写実の姿勢をかなぐり捨てた激句を捧げ、よってもって連帯の挨拶に代えたい。
春風や 闘志いだきて 丘に立つ 高浜虚子
♪鳶一羽われに愛する力あり 亡羊
昨日は2つの学校で私の今季のヒジョーキン生活が始まったが、韓国、中国、香港、台湾の学生の元気な表情が印象的だった。
日本人に元気がないとはいわない。日本がアジアの一員でないともいわない。しかし背後に自分自身の未来とくわえて国の将来を背負った彼らの勉学への精進を親しく見聞していると、なにかが微妙に違っていると感じないわけにはいかない。
彼らは外国語としての日本語を驚くほど速やかにマスターしてしまう。なかにはわが維新の時代の壮士を思わせる気概の持ち主もいる。成長期の世界と円熟期の世界とでは商品・サービスのみならず人材が輩出されるための土壌・環境がまるで違っているのであろう。
かつて毛沢東は、「青年は午前10時の太陽である」と言った。若いこと、無名であること、貧乏であること。これが革命者の条件である、とも言った。毛の誤謬や革命の功罪はさておき、前途有望な若者への激励の辞としてはまだ有効であろう。
それにしても若いということはいいことだ。どんな失敗もまだ許される。願わくは破綻や蹉跌を恐れず己の信ずる路をひたすらつき進んでいってほしいものだ。
午前10時ならぬ午後5時の残照に孤影漂うわたくしであるが、明日からは3つ目の学校へのお勤めも始まる。見えない未来に向かって疾走する人々にいささかの後押しをいたしたいものである。
最後に全国の学友諸君に対し、正岡子規の高弟であり、夏目漱石に「猫」を書かせて作家デビューを後押しした俳人の普段の写実の姿勢をかなぐり捨てた激句を捧げ、よってもって連帯の挨拶に代えたい。
春風や 闘志いだきて 丘に立つ 高浜虚子
♪鳶一羽われに愛する力あり 亡羊
Sunday, April 13, 2008
「大江広元の墓」の謎
鎌倉ちょっと不思議な物語113回
「十二所地誌新稿」にまたいう。
扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。
しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。
一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。
島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!
♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊
「十二所地誌新稿」にまたいう。
扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。
しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。
一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。
島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!
♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊
Saturday, April 12, 2008
大江広元邸旧蹟再論
鎌倉ちょっと不思議な物語112回
以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。
屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。
江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。
最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。
「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。
♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。
屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。
江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。
最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。
「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。
♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
Friday, April 11, 2008
長楽寺再訪
鎌倉ちょっと不思議な物語112回&鎌倉廃寺巡礼その8
長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。
「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。
鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊
長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。
「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。
鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊
Thursday, April 10, 2008
続・荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読んで
照る日曇る日第112回
東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。
では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。
彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。
東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。
東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。
東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。
♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊
東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。
では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。
彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。
東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。
東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。
東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。
♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊
Wednesday, April 09, 2008
荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読む
照る日曇る日第111回
東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。
苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。
東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。
外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。
駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。
かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。
♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊
東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。
苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。
東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。
外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。
駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。
かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。
♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊
Tuesday, April 08, 2008
大江広元の屋敷と墓
鎌倉ちょっと不思議な物語111回
大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。
次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。
さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。
どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。
それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)
千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)
ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう?
それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。
ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。
お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。
♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊
大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。
次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。
さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。
どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。
それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)
千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)
ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう?
それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。
ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。
お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。
♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊
Monday, April 07, 2008
続・春宵源語
照る日曇る日第110回
無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。
三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。
しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。
登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。
例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?
原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。
同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。
しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。
♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊
無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。
三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。
しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。
登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。
例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?
原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。
同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。
しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。
♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊
Sunday, April 06, 2008
春宵源語
照る日曇る日第109回
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
Saturday, April 05, 2008
常楽寺はどこだ?
鎌倉ちょっと不思議な物語111回&鎌倉廃寺巡礼その8
常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。
ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。
写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。
♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊
常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。
ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。
写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。
♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊
Friday, April 04, 2008
昌楽寺発見
鎌倉ちょっと不思議な物語110回&鎌倉廃寺巡礼その7
鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、
「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」
と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。
一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。
この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。
5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。
山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。
なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、
「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」
と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。
一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。
この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。
5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。
山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。
なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
Thursday, April 03, 2008
能満寺を尋ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語109回&鎌倉廃寺巡礼その6
能満寺については「風土記稿」は「小名川の上にあり」と伝えるだけでいっこうにわからない。
「十二所地誌新稿」には、「川の上の裏山、学園の辺にあって「上の寺」と称した。今その付近に石塔などが多少ある」と書かれているが、「五大堂事蹟考」には「梶原谷に入り口に能満寺の寺号いまに田畑に残る」とあるのでおそらく梶原屋敷の入り口あたりではないだろうか。
早速梶原屋敷へ行ってみる。
ここは梶原ヵ谷にあった平三景時の屋敷跡である。(写真)
「石橋山の合戦」で一敗地にまみれた頼朝を洞窟の奥で救った景時は、当然頼朝に重用され、また平広常や義経を死に追いやった小賢しい御家人であるが、正治元年1199年に小山朝光を頼家に讒言したために諸将の怒りを買い、駿河の孤峰で吉幡小治郎に殺された。
幕府はその年の12月にこの邸宅を破却して二階堂永福寺の僧坊に寄付したのだが、その跡が畑となり、入り口の跡の抜け穴と梶原井戸が残っている。
その井戸には明王院の鐘が入っていたが後になって拾い出したといわれている。(写真)。なおこの谷戸の山腹には一門の墓らしい数基の五輪塔があるらしいのでいつか探検してみよう。
能満寺は、この梶原屋敷の手前のテニス倶楽部から少し入った以前ご紹介した「鯨屋敷」(写真)付近にそびえ立っていたと想像するのだが、さてどうだろう。
あの巨大な鯨にでも聞いてみるとするか。
♪景時の行方はいずこ鯨殿 亡羊
能満寺については「風土記稿」は「小名川の上にあり」と伝えるだけでいっこうにわからない。
「十二所地誌新稿」には、「川の上の裏山、学園の辺にあって「上の寺」と称した。今その付近に石塔などが多少ある」と書かれているが、「五大堂事蹟考」には「梶原谷に入り口に能満寺の寺号いまに田畑に残る」とあるのでおそらく梶原屋敷の入り口あたりではないだろうか。
早速梶原屋敷へ行ってみる。
ここは梶原ヵ谷にあった平三景時の屋敷跡である。(写真)
「石橋山の合戦」で一敗地にまみれた頼朝を洞窟の奥で救った景時は、当然頼朝に重用され、また平広常や義経を死に追いやった小賢しい御家人であるが、正治元年1199年に小山朝光を頼家に讒言したために諸将の怒りを買い、駿河の孤峰で吉幡小治郎に殺された。
幕府はその年の12月にこの邸宅を破却して二階堂永福寺の僧坊に寄付したのだが、その跡が畑となり、入り口の跡の抜け穴と梶原井戸が残っている。
その井戸には明王院の鐘が入っていたが後になって拾い出したといわれている。(写真)。なおこの谷戸の山腹には一門の墓らしい数基の五輪塔があるらしいのでいつか探検してみよう。
能満寺は、この梶原屋敷の手前のテニス倶楽部から少し入った以前ご紹介した「鯨屋敷」(写真)付近にそびえ立っていたと想像するのだが、さてどうだろう。
あの巨大な鯨にでも聞いてみるとするか。
♪景時の行方はいずこ鯨殿 亡羊
Wednesday, April 02, 2008
一心院跡の春
鎌倉ちょっと不思議な物語108回&鎌倉廃寺巡礼その5
ここはわが十二所の明石ヵ谷である。
すぐ近くにはいま値下げ問題で話題のガソロンスタンドがあり、右に曲がればハイランド、直進すれば鎌倉霊園という交差点を霊園方向に10m進んだ左側にこの古刹があった。
鎌倉時代から江戸時代まで、石山を切り開き四坪ばかりの平地があり、鐘楼堂または鐘つき堂があったと言い伝えられた箇所であるが、いまではその痕跡はどこにもない。
そのかわりに私のははの家がある。もしかすると彼女の家が一心院跡かもしれない。
「鎌倉廃寺事典」によれば、元弘3年1333年9月4日、覚伊僧正が一心院明石本坊に住して沙汰したとある。文和2年1353年5月22日には明石谷法印修法始行とあり、明石ヵ谷より桜を壷に移している。ちなみにこの近所にはいまも桜並木がある。当時はソメイヨシノはなかったが、さぞ見事な桜だったのだろう。
さらに応永13年1406年7月18日の火事では、一心院の大工が上手に消火したと「鎌倉志」に記されている。一心院に住持は鎌倉御所の足利成氏の護寺僧になっていたというが、成氏の御所は近距離にあり、これもうなずける話である。
♪桜花一輪拾いて水に浸す 亡羊
ここはわが十二所の明石ヵ谷である。
すぐ近くにはいま値下げ問題で話題のガソロンスタンドがあり、右に曲がればハイランド、直進すれば鎌倉霊園という交差点を霊園方向に10m進んだ左側にこの古刹があった。
鎌倉時代から江戸時代まで、石山を切り開き四坪ばかりの平地があり、鐘楼堂または鐘つき堂があったと言い伝えられた箇所であるが、いまではその痕跡はどこにもない。
そのかわりに私のははの家がある。もしかすると彼女の家が一心院跡かもしれない。
「鎌倉廃寺事典」によれば、元弘3年1333年9月4日、覚伊僧正が一心院明石本坊に住して沙汰したとある。文和2年1353年5月22日には明石谷法印修法始行とあり、明石ヵ谷より桜を壷に移している。ちなみにこの近所にはいまも桜並木がある。当時はソメイヨシノはなかったが、さぞ見事な桜だったのだろう。
さらに応永13年1406年7月18日の火事では、一心院の大工が上手に消火したと「鎌倉志」に記されている。一心院に住持は鎌倉御所の足利成氏の護寺僧になっていたというが、成氏の御所は近距離にあり、これもうなずける話である。
♪桜花一輪拾いて水に浸す 亡羊
Tuesday, April 01, 2008
網野善彦著作集第9巻「中世の生業と流通」を読む
照る日曇る日第108回
この本は、古代から中世、近世までの製塩、漁労、桑と養蚕、紙、鉄器などの「主要非農業生産物」の生産と流通にかんする歴史を概括している。
注目すべきことは、古代から現代まで女性が糸、絹、綿、繭を商人に販売していたことである。彼女たちは養蚕にかんしては弥生時代から一貫してそれら繊維製品の生産部門を双肩に担い、さらにその生産物を自らの裁量で市庭で売却し、交易する商業活動に従事していたのである。
のみならず魚貝などの海産品、炭、薪などの山産品や精進物、野菜の商人も女性が中心であった。古来大多数の農産物、食品の売買も女性が担当し、たやすくは亭主や男性にその収入を手渡したとは考えられない。
またこのような歴史的経路が、「女工哀史」の悲劇はありつつも今日のアパレルデザインや生産・販売への女性優位の参画をもたらしているのだろう。
14世紀以降、女性が田畑などの土地財産についてはその権利を次第に失っていくのは事実であるが、貨幣、動産についての権利をたやすく喪失したわけではない、と著者は断じる。
ルイス・フロイスが日本史で書いたように、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けている」というのが桃山時代までの日本だったのである。
このように、中世までの「日本商業史」をめざして書かれたこの前人未踏の試みは、その後継者もほとんどなく、冬枯れの草むらの中に消えた一本の小道のように再び辿る人を待っている。
♪ト短調で歌うなハ長調で歌え
♪これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
この本は、古代から中世、近世までの製塩、漁労、桑と養蚕、紙、鉄器などの「主要非農業生産物」の生産と流通にかんする歴史を概括している。
注目すべきことは、古代から現代まで女性が糸、絹、綿、繭を商人に販売していたことである。彼女たちは養蚕にかんしては弥生時代から一貫してそれら繊維製品の生産部門を双肩に担い、さらにその生産物を自らの裁量で市庭で売却し、交易する商業活動に従事していたのである。
のみならず魚貝などの海産品、炭、薪などの山産品や精進物、野菜の商人も女性が中心であった。古来大多数の農産物、食品の売買も女性が担当し、たやすくは亭主や男性にその収入を手渡したとは考えられない。
またこのような歴史的経路が、「女工哀史」の悲劇はありつつも今日のアパレルデザインや生産・販売への女性優位の参画をもたらしているのだろう。
14世紀以降、女性が田畑などの土地財産についてはその権利を次第に失っていくのは事実であるが、貨幣、動産についての権利をたやすく喪失したわけではない、と著者は断じる。
ルイス・フロイスが日本史で書いたように、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けている」というのが桃山時代までの日本だったのである。
このように、中世までの「日本商業史」をめざして書かれたこの前人未踏の試みは、その後継者もほとんどなく、冬枯れの草むらの中に消えた一本の小道のように再び辿る人を待っている。
♪ト短調で歌うなハ長調で歌え
♪これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
Monday, March 31, 2008
ジャパンちゃちゃちゃ
ふあっちょん幻論第18回 20世紀の10大トレンドその10「ジャパニーズデザイン」
20世紀のアパレル・デザインに対して日本人のデザイナーたちは大きく貢献するとともに
世界のファッションの中心軸を、アジアのほうへ拡散させた。
60年代 森英恵 NY進出
70年 高田賢三 パリデビュー 70年代はじめ 一生、カンサイ
デコントラクテ/ジャポニズム
74年 一生 「一枚の布」 <間> レイヤード、オーバーサイズ
82年 川久保玲 山本耀司のパリコレデビュー。
東洋アジア主義の服、無装飾 ぼろルックの衝撃
85年 ジャパニーズパワー 全盛
80年末 一生 プリーツ
97年 川久保玲「ボディ・ミーツ・ドレス」
99年 一生A-POC 「世界服の創造」東洋西洋の域を超えて中心の拡散に挑戦
00年代 数多くの新人デザイナーたち
「一生のプリーツは伝統建築工芸である」、と太鼓奏者の林英哲は語る。
石垣、石畳、石段、なまこ壁、瓦屋根、垂木、格子戸。布の襞が繰り返す反復の造型は古い町並みの静けさや詩情、流れる水や風を感じさせる。
糸が織り成す反復造型で布地を織る作業には、ビートや時間が含まれる。それが畳まれてプリーツになり、身にまとって衣服になる。
「だが単なる衣服を越え、建築のように時間や空間や思想をも内在させた独立した造型になっている」「持ち運びのできる建築」「身に纏う思索」それが三宅一生の本質である。
というのはいささか褒めすぎの感もあるが、一生以降革新的な日本人デザイナーが登場していないことも事実であろう。
21世紀は、このような過去のビッグネームに依存したり期待せずに、「ジャパン・クール」などの切り口で日本の独自性を編集したり、東京ガールズコレクションのようなカジュアルセンスを海外に発信すること、あるいはまた創造性の枯渇にあえぐ「日本」自体をいっそ見切ってBRICs、韓国、ベトナムなどの新興勢力とともに新しいビジネスモデルを構築する方向性をめざすべきであろう。
*なお本シリーズは「深井晃子氏&京都服飾文化研究財団レポート」を参考にさせていただきました。
♪一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり 亡羊
20世紀のアパレル・デザインに対して日本人のデザイナーたちは大きく貢献するとともに
世界のファッションの中心軸を、アジアのほうへ拡散させた。
60年代 森英恵 NY進出
70年 高田賢三 パリデビュー 70年代はじめ 一生、カンサイ
デコントラクテ/ジャポニズム
74年 一生 「一枚の布」 <間> レイヤード、オーバーサイズ
82年 川久保玲 山本耀司のパリコレデビュー。
東洋アジア主義の服、無装飾 ぼろルックの衝撃
85年 ジャパニーズパワー 全盛
80年末 一生 プリーツ
97年 川久保玲「ボディ・ミーツ・ドレス」
99年 一生A-POC 「世界服の創造」東洋西洋の域を超えて中心の拡散に挑戦
00年代 数多くの新人デザイナーたち
「一生のプリーツは伝統建築工芸である」、と太鼓奏者の林英哲は語る。
石垣、石畳、石段、なまこ壁、瓦屋根、垂木、格子戸。布の襞が繰り返す反復の造型は古い町並みの静けさや詩情、流れる水や風を感じさせる。
糸が織り成す反復造型で布地を織る作業には、ビートや時間が含まれる。それが畳まれてプリーツになり、身にまとって衣服になる。
「だが単なる衣服を越え、建築のように時間や空間や思想をも内在させた独立した造型になっている」「持ち運びのできる建築」「身に纏う思索」それが三宅一生の本質である。
というのはいささか褒めすぎの感もあるが、一生以降革新的な日本人デザイナーが登場していないことも事実であろう。
21世紀は、このような過去のビッグネームに依存したり期待せずに、「ジャパン・クール」などの切り口で日本の独自性を編集したり、東京ガールズコレクションのようなカジュアルセンスを海外に発信すること、あるいはまた創造性の枯渇にあえぐ「日本」自体をいっそ見切ってBRICs、韓国、ベトナムなどの新興勢力とともに新しいビジネスモデルを構築する方向性をめざすべきであろう。
*なお本シリーズは「深井晃子氏&京都服飾文化研究財団レポート」を参考にさせていただきました。
♪一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり 亡羊
Sunday, March 30, 2008
2008年亡羊弥生詩歌集
♪ある晴れた日に その24
ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で身くねらすなり ―夢の中にて
懇々とわれは少女を諭したり何故に鴨に石を投ずるは不可なるかと
なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
市当局の整備工事より守りたる泥沼に生まれしオタマジャクシよ
当局の暴挙を防ぎし小池なり春遅き地にオタマ生まれる
新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか
今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ
同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日
長大なアリアを見事歌いきりほっと息つく谷戸の鶯
いざ行かん鯨の家にまたがりてあの青空の彼方まで
悪党の背にはらはらと梅の花
弥生三月春の力をわれに与えよ
啓蟄の虫仰ぎ見る空の青
啓蟄の虫が見ている空の雲
ふきのとう揚げる人あり描く人あり
ふきのとう描く人あり喰らう人あり
アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ
始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ
ここもまた大寺ありけり冬の谷戸
鳶一羽空に舞いたり廃寺跡
春風や幻の寺日輪月輪ここにあり
梅が香やいにしえの大寺ここにあり
春浅し一味神水の村を過ぐ
悪党共一味神水の村を過ぐ
椿落ち自由狼藉の世界かな
百花落ち自由狼藉春の朝
春浅し落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花流水朝比奈峠
悪党共落花流水の村を過ぐ
地に落ちて憾みはなきや冬柏
女房の茶碗を割りし悲しさよ
男は女に女は男になりたがり
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう
昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る
この頃の男は貧相な顔になったと言ってから己の顔を見る
生きている人のことはすぐ忘れるが 死んだ人のことはしょっちゅう思い出す
この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕えしはうちの健ちゃん
ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で身くねらすなり ―夢の中にて
懇々とわれは少女を諭したり何故に鴨に石を投ずるは不可なるかと
なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
市当局の整備工事より守りたる泥沼に生まれしオタマジャクシよ
当局の暴挙を防ぎし小池なり春遅き地にオタマ生まれる
新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか
今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ
同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日
長大なアリアを見事歌いきりほっと息つく谷戸の鶯
いざ行かん鯨の家にまたがりてあの青空の彼方まで
悪党の背にはらはらと梅の花
弥生三月春の力をわれに与えよ
啓蟄の虫仰ぎ見る空の青
啓蟄の虫が見ている空の雲
ふきのとう揚げる人あり描く人あり
ふきのとう描く人あり喰らう人あり
アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ
始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ
ここもまた大寺ありけり冬の谷戸
鳶一羽空に舞いたり廃寺跡
春風や幻の寺日輪月輪ここにあり
梅が香やいにしえの大寺ここにあり
春浅し一味神水の村を過ぐ
悪党共一味神水の村を過ぐ
椿落ち自由狼藉の世界かな
百花落ち自由狼藉春の朝
春浅し落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花流水朝比奈峠
悪党共落花流水の村を過ぐ
地に落ちて憾みはなきや冬柏
女房の茶碗を割りし悲しさよ
男は女に女は男になりたがり
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう
昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る
この頃の男は貧相な顔になったと言ってから己の顔を見る
生きている人のことはすぐ忘れるが 死んだ人のことはしょっちゅう思い出す
この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕えしはうちの健ちゃん
Saturday, March 29, 2008
桜咲く今朝の女の薄化粧
ふあっちょん幻論第17回 20世紀の10大トレンドその9「化粧/ファッションドボディ」
「全身化粧」の時代
20世紀は「服を脱ぐ」時代→身体自体への直接装飾加工
その端緒は1916年 英ヴォーグ誌 21年 仏ヴォーグ誌に見られる。ここでは
服をおいてけぼりにして 肌、ヒフそのものを「服」としている。
1964年ルディ・ガーンライヒ「モノキニ」 トップレス水着
ヒフ芸術の全面展開
三宅一生1989年の入れ墨ボディタイツ、ゴルチエ1996年の入れ墨ドレス
00年代アンダーカバー高橋盾のアンサンブル(ジャケット+セーター+スカート+パンツ+スカーフ+ベルト+バック+手袋+タイツ+ウィッグ)赤青白チェック 生身肌にもペイント
タトウ、ピアス、茶パツ……身体の境界を消し去るFashioned Body
耳に平気でピアスできる人と、親にもらった大切な体をピアスやタトウで傷つけたくない人とのモラル&美意識の葛藤を乗り越え、なんでもありの全身化粧の新世紀へ!
♪にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らえしうちの健ちゃん
「全身化粧」の時代
20世紀は「服を脱ぐ」時代→身体自体への直接装飾加工
その端緒は1916年 英ヴォーグ誌 21年 仏ヴォーグ誌に見られる。ここでは
服をおいてけぼりにして 肌、ヒフそのものを「服」としている。
1964年ルディ・ガーンライヒ「モノキニ」 トップレス水着
ヒフ芸術の全面展開
三宅一生1989年の入れ墨ボディタイツ、ゴルチエ1996年の入れ墨ドレス
00年代アンダーカバー高橋盾のアンサンブル(ジャケット+セーター+スカート+パンツ+スカーフ+ベルト+バック+手袋+タイツ+ウィッグ)赤青白チェック 生身肌にもペイント
タトウ、ピアス、茶パツ……身体の境界を消し去るFashioned Body
耳に平気でピアスできる人と、親にもらった大切な体をピアスやタトウで傷つけたくない人とのモラル&美意識の葛藤を乗り越え、なんでもありの全身化粧の新世紀へ!
♪にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らえしうちの健ちゃん
Friday, March 28, 2008
ブラは春風に乗って
ふあっちょん幻論第16回 20世紀の10大トレンドその8「ブラジャー/下着革命」
18世紀末 テルミドールの反乱の後「ギリシャ風」がテーマとなり薄絹、モスリンの肌着が流行。
19世紀末トレンドとしての薄着、下着ファッシヨン。
20世紀初頭の1906年にポール・ポワレが女性をコルセットから解放。コルセットなしのハイウェストドレスが登場し、反拘束による肉体の軽装化、薄着化、露出化突出。
自由の20世紀へ!
第一次大戦後 人類は完全にコルセットを捨てた。視点がウエストから「肩」へと変わり、
時代とともに身体の合理性、機能性、日常性を強調、重視するようになった。
続いてブラ、スリップ、スリップ、テディが続々登場し、体の自然な美しさを強調するようになる。
*女性の美意識の変遷
初期 1922年ヴィクトール・マルグリットの小説。胸のふくらみを抑える「少年のような娘」=ギャルソンヌへのあこがれ→これが川久保玲のコムデギャルソンに影響。
中期 50年代 ディオール/ニュールック 豊かな胸を演出
60年代 ノーブラ byルディ・ガーンライヒ
65年にボライ・コンシャス登場。
後期 80年代 フィットネスとパワーウーマン 鍛え上げられた肉体美(リサ・ライオン)
JPゴルチエ、ヴィヴィアン・ウェストウッドなどが下着→表着へ
21世紀に入って「下着の外着化」が進行しすぎて「皮膚が下着化」→エロスゾーンの後退。
♪長大なアリアを見事歌い切りほっと息つく谷戸の鶯 亡羊
18世紀末 テルミドールの反乱の後「ギリシャ風」がテーマとなり薄絹、モスリンの肌着が流行。
19世紀末トレンドとしての薄着、下着ファッシヨン。
20世紀初頭の1906年にポール・ポワレが女性をコルセットから解放。コルセットなしのハイウェストドレスが登場し、反拘束による肉体の軽装化、薄着化、露出化突出。
自由の20世紀へ!
第一次大戦後 人類は完全にコルセットを捨てた。視点がウエストから「肩」へと変わり、
時代とともに身体の合理性、機能性、日常性を強調、重視するようになった。
続いてブラ、スリップ、スリップ、テディが続々登場し、体の自然な美しさを強調するようになる。
*女性の美意識の変遷
初期 1922年ヴィクトール・マルグリットの小説。胸のふくらみを抑える「少年のような娘」=ギャルソンヌへのあこがれ→これが川久保玲のコムデギャルソンに影響。
中期 50年代 ディオール/ニュールック 豊かな胸を演出
60年代 ノーブラ byルディ・ガーンライヒ
65年にボライ・コンシャス登場。
後期 80年代 フィットネスとパワーウーマン 鍛え上げられた肉体美(リサ・ライオン)
JPゴルチエ、ヴィヴィアン・ウェストウッドなどが下着→表着へ
21世紀に入って「下着の外着化」が進行しすぎて「皮膚が下着化」→エロスゾーンの後退。
♪長大なアリアを見事歌い切りほっと息つく谷戸の鶯 亡羊
Thursday, March 27, 2008
平成東京革命音頭
♪バガテルop53
かねて私が高く評価するフランス文化を侮辱し、女性や老人やアジアの隣国を軽蔑し、唯一の取り柄といえばかつてその身内にナイスガイ俳優がいたことに過ぎない現東京都知事の石原慎太郎氏が、昨日の都議会委で新銀行東京への400億円追加出資を勝ち取られた。誠に慶賀に耐えない。
斬った張った誰でもいいから殺したかった、という世も末暗黒事件が連日相次ぐなかで、近来これほどの朗報があるだろうか。私はかつてあれほど軽蔑し、蛇蝎のごとく看做して弊履のごとく顧みなかったこの右顧左眄しょぼしょぼ目つきの三流文学者を、はじめて見直し、尊崇の眼で帝都の西北に仰ぎ見たのであった。
かくも長きにわたってこの満州王朝功労者の末裔であらせられるこの高貴なお方を保守反動、極右排外主義者の老旗手と想定し続けたことは、わが想定外の生涯の禍根、大いなる錯誤であった。
見よ、神もご照覧あれ! げにこの人こそは誤謬なきレーニン、毛沢東、チェ・ゲバラの衣鉢を継ぐ古今東西稀に見る真の社会主義者であった。ただし1周遅れ、否300周遅れの憾みはあるとしても…。
とにもかくにも、このせちがらい平成の御世にあって、いかなる困難、誹謗と中傷にもめげず、これからも倒産寸前の中小企業の経営者に対して、未審査、無担保、無制限でじやんじゃん貸付を青天井で続行してくれるというのだ。ウラア! これを前代未聞の貧民救済宮廷革命、格差社会粉砕の暴挙的快挙と呼ばずになんと言うのだ!
すでに投下された1000億円に加えた今回の400億円投入は、すべて石原氏を圧倒的に支持した教養と知性漲る都民士人各位からかすめとったほんのはした金であり、累計では都民一世当たり23000円の負担になるそうだが、ちいさい、ちいさい。こんな小銭の寄せ集めで、かの博愛の人、石原慎太郎の遠大な社会革命、人民正義の偉業、はたまた東京都民の見果てぬ夢が実現されるはずがない。
このうえは、もっと大胆に、より大胆に、さらに大胆に、前進あるのみ。
かの超富裕なる東京プレミアムスノッブウルトラスーパーブルジョワジーからもっともっとテッテ的に搾取して、中小プチブル企業経営者のみならず、小泉流グラバル新自由主義者の陰謀の犠牲者となってこのたび最底辺下層階級に転落した汝人民ルンペンプロレタリアート、西口人民広場に屯する社会的弱者たちや国の重税にあえぐわれら障碍者や老人にも救済の寛大なる網目を幾何級数的にどんどん広げてほしいものである。
万国の貧民労働者は平成革命的東京知事石原慎太郎の紅の翼の元に団結せよ!
我らが太陽帝国の首領石原慎太郎の天地に咆える社会革命を断固支持せよ!
新銀行東京を一点突破しイスラム銀行と連帯して全世界金融革命の狂った果実を手中に収めよ!
♪なんでもかんでもとにかく慎太郎ちゃん万歳!
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃 亡羊
かねて私が高く評価するフランス文化を侮辱し、女性や老人やアジアの隣国を軽蔑し、唯一の取り柄といえばかつてその身内にナイスガイ俳優がいたことに過ぎない現東京都知事の石原慎太郎氏が、昨日の都議会委で新銀行東京への400億円追加出資を勝ち取られた。誠に慶賀に耐えない。
斬った張った誰でもいいから殺したかった、という世も末暗黒事件が連日相次ぐなかで、近来これほどの朗報があるだろうか。私はかつてあれほど軽蔑し、蛇蝎のごとく看做して弊履のごとく顧みなかったこの右顧左眄しょぼしょぼ目つきの三流文学者を、はじめて見直し、尊崇の眼で帝都の西北に仰ぎ見たのであった。
かくも長きにわたってこの満州王朝功労者の末裔であらせられるこの高貴なお方を保守反動、極右排外主義者の老旗手と想定し続けたことは、わが想定外の生涯の禍根、大いなる錯誤であった。
見よ、神もご照覧あれ! げにこの人こそは誤謬なきレーニン、毛沢東、チェ・ゲバラの衣鉢を継ぐ古今東西稀に見る真の社会主義者であった。ただし1周遅れ、否300周遅れの憾みはあるとしても…。
とにもかくにも、このせちがらい平成の御世にあって、いかなる困難、誹謗と中傷にもめげず、これからも倒産寸前の中小企業の経営者に対して、未審査、無担保、無制限でじやんじゃん貸付を青天井で続行してくれるというのだ。ウラア! これを前代未聞の貧民救済宮廷革命、格差社会粉砕の暴挙的快挙と呼ばずになんと言うのだ!
すでに投下された1000億円に加えた今回の400億円投入は、すべて石原氏を圧倒的に支持した教養と知性漲る都民士人各位からかすめとったほんのはした金であり、累計では都民一世当たり23000円の負担になるそうだが、ちいさい、ちいさい。こんな小銭の寄せ集めで、かの博愛の人、石原慎太郎の遠大な社会革命、人民正義の偉業、はたまた東京都民の見果てぬ夢が実現されるはずがない。
このうえは、もっと大胆に、より大胆に、さらに大胆に、前進あるのみ。
かの超富裕なる東京プレミアムスノッブウルトラスーパーブルジョワジーからもっともっとテッテ的に搾取して、中小プチブル企業経営者のみならず、小泉流グラバル新自由主義者の陰謀の犠牲者となってこのたび最底辺下層階級に転落した汝人民ルンペンプロレタリアート、西口人民広場に屯する社会的弱者たちや国の重税にあえぐわれら障碍者や老人にも救済の寛大なる網目を幾何級数的にどんどん広げてほしいものである。
万国の貧民労働者は平成革命的東京知事石原慎太郎の紅の翼の元に団結せよ!
我らが太陽帝国の首領石原慎太郎の天地に咆える社会革命を断固支持せよ!
新銀行東京を一点突破しイスラム銀行と連帯して全世界金融革命の狂った果実を手中に収めよ!
♪なんでもかんでもとにかく慎太郎ちゃん万歳!
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃 亡羊
Wednesday, March 26, 2008
イヴ・サンローランの「シティパンツ」あるいは越境するジェンダー
ふあっちょん幻論第15回 20世紀の10大トレンドその7「シティパンツ」
1851年 米女性解放運動家、ブルーマー夫人のブルーマー登場、19世紀末のサイクリングウェアに。その頃サンローランはディオール店に入り、その後独立し反体制クリエーターとなる。
1966年 サンオーラン・リヴ・ゴーシュの「マリンルック」発表。官能的な夜のパンツ「スモーキング」発表
1967年 街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」(チュニック丈ジャケット&パンツ、ウールジャージー)「サファリスーツ」もデザイン。彼の“働く女のスーツ”を見たシャネルが、「私の後継者」と呼ぶ.
1968年 5月革命勃発、ウーマンリブ、ユニセックス、ストリート・ファッション
「シースルー」発表、あらゆる既成概念を打ち砕く。アルマーニ、カルバン・クラインが80年代に踏襲する。
70年代は“若さ”がキーワード。70年発刊の雑誌ananと若者をターゲットにした既製服の時代。すでに「9号神話の時代」が始まっている。
80年代はティエリー・ミュグレー、ゴルチエ、アライアなどのボディコンの時代。男勝りのこびないパワースーツ。いわゆるひとつのキャリアウーマンの時代。
80年代後半は肩肘はらない自然でソフトなシルエット。身体を露出する「ミニマリズム」と呼ばれるセクシーな服も誕生。ナオミ・キャンベルのような黒人トップモデルへの関心。88年パリコレデビューのマルジェラが切り裂き服など大胆な提案。
90年代はグローバル&多様化の時代。スポーツ意識の服、ゴルチエの倒錯的ホモセクシャル服。新たなる混迷。
00年からは戦争と平和の時代。万人が万人に対して武装し、疲労困憊し、その反面ではつかの間の癒しとやらを求めて己が繭の中に入り込むコクーンニングの時代。
♪ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で踊るなり 亡羊
1851年 米女性解放運動家、ブルーマー夫人のブルーマー登場、19世紀末のサイクリングウェアに。その頃サンローランはディオール店に入り、その後独立し反体制クリエーターとなる。
1966年 サンオーラン・リヴ・ゴーシュの「マリンルック」発表。官能的な夜のパンツ「スモーキング」発表
1967年 街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」(チュニック丈ジャケット&パンツ、ウールジャージー)「サファリスーツ」もデザイン。彼の“働く女のスーツ”を見たシャネルが、「私の後継者」と呼ぶ.
1968年 5月革命勃発、ウーマンリブ、ユニセックス、ストリート・ファッション
「シースルー」発表、あらゆる既成概念を打ち砕く。アルマーニ、カルバン・クラインが80年代に踏襲する。
70年代は“若さ”がキーワード。70年発刊の雑誌ananと若者をターゲットにした既製服の時代。すでに「9号神話の時代」が始まっている。
80年代はティエリー・ミュグレー、ゴルチエ、アライアなどのボディコンの時代。男勝りのこびないパワースーツ。いわゆるひとつのキャリアウーマンの時代。
80年代後半は肩肘はらない自然でソフトなシルエット。身体を露出する「ミニマリズム」と呼ばれるセクシーな服も誕生。ナオミ・キャンベルのような黒人トップモデルへの関心。88年パリコレデビューのマルジェラが切り裂き服など大胆な提案。
90年代はグローバル&多様化の時代。スポーツ意識の服、ゴルチエの倒錯的ホモセクシャル服。新たなる混迷。
00年からは戦争と平和の時代。万人が万人に対して武装し、疲労困憊し、その反面ではつかの間の癒しとやらを求めて己が繭の中に入り込むコクーンニングの時代。
♪ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で踊るなり 亡羊
Tuesday, March 25, 2008
「世界服」としてのジーンズ
ふあっちょん幻論第14回 20世紀の10大トレンドその6「ジーンズ」
ジーンズは19世紀の半ば アメリカの田舎で金鉱採掘用作業服として誕生した。
1853年 ババリアからの移民リーバイ・ストラウスが、作業用パンツを丈夫な帆布用の綾織布で作った。当時イタリアのジェノバからアメリカへ輸出されていたインディゴで染めた安くて丈夫な帆布を使用した。仏語のLe Jean→英語のJeanとなる。
同じジーンズでも、厚地綾織り綿のフランスのニーム産もあった。この「ニームのサージ」Serge de Nimes )がデニムの語源となった。
黒船の到来がわが国の明治維新をうながしたが、ペルリ提督が切実に求めていたのは、ほかでもない米国の捕鯨船の寄港と石炭、薪の補給だった。当時の米国は1851年メルヴィル著「モビーディック」のエイハブ船長みたいな輩が世界中の鯨をとりまくっていた。しかも肉は捨てていた。もったいない!
リーバイ・ストラウス社第1号ジーンズは1873年製。同社製の1880~1885年世界最古のジーンズがネバダ州の元鉱山街で発見され、リーバイ・ストラウス社が560万円で落札。腰ポケットが右側だけ。ウオッチバンドもなく、ウエストバンドつきのバックヨークもついていない。01年11月、その復刻版がヴィンテージラインとしてたった500本だけ$400で世界主要都市で発売された。
「リーバイス501」は布の重なり部分にリベットを打つというジェイコブ・ディヴァイスのアイデアを生かし、これがヒットした。
1929年の世界恐慌後、豊かになったアメリカ東部人が西部の牧場で休暇をすごしたおみやげがジーンズだった。これが「都会の街着」になり、30年代の衣服のカジュアル化を後押しした。
二つの大戦を通じて、アメリカのGIがジーンズを「世界服」にした。しかしそのイニシアチブをGIとプレスリーから奪って「反逆する青春」のイメージを作ったのはジェームス・ディーンだった。
1968年 仏5月革命.69年安田講堂.学生反乱氾濫、反戦フォーク、ヒッピー反体制運動の高揚はつねにジーンズとともにあった。「権力と戦わぬ者は、けっしてジーンズをはいてはならない」とは、当時のあまでうす氏の言葉。
ケンゾー、マリテ&フランソワ・ジルボーらがジーンズをフアッションアイテム化した段階で、ジーンズは反体制のシンボルであることをやめた。
1969年から国産ジーンズの普及と大衆化、その後20年にわたる成熟と陳腐化。
00年から海外製高級ジーンズブーム始まる。
ジーンズこそ、ストリートフアッション、トランスジェンダー、コスモポリタン、カジュアルなど、20世紀のファッション・キーワードの要件をほぼ満たす代表的なアイテムであった。
♪新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか 亡羊
ジーンズは19世紀の半ば アメリカの田舎で金鉱採掘用作業服として誕生した。
1853年 ババリアからの移民リーバイ・ストラウスが、作業用パンツを丈夫な帆布用の綾織布で作った。当時イタリアのジェノバからアメリカへ輸出されていたインディゴで染めた安くて丈夫な帆布を使用した。仏語のLe Jean→英語のJeanとなる。
同じジーンズでも、厚地綾織り綿のフランスのニーム産もあった。この「ニームのサージ」Serge de Nimes )がデニムの語源となった。
黒船の到来がわが国の明治維新をうながしたが、ペルリ提督が切実に求めていたのは、ほかでもない米国の捕鯨船の寄港と石炭、薪の補給だった。当時の米国は1851年メルヴィル著「モビーディック」のエイハブ船長みたいな輩が世界中の鯨をとりまくっていた。しかも肉は捨てていた。もったいない!
リーバイ・ストラウス社第1号ジーンズは1873年製。同社製の1880~1885年世界最古のジーンズがネバダ州の元鉱山街で発見され、リーバイ・ストラウス社が560万円で落札。腰ポケットが右側だけ。ウオッチバンドもなく、ウエストバンドつきのバックヨークもついていない。01年11月、その復刻版がヴィンテージラインとしてたった500本だけ$400で世界主要都市で発売された。
「リーバイス501」は布の重なり部分にリベットを打つというジェイコブ・ディヴァイスのアイデアを生かし、これがヒットした。
1929年の世界恐慌後、豊かになったアメリカ東部人が西部の牧場で休暇をすごしたおみやげがジーンズだった。これが「都会の街着」になり、30年代の衣服のカジュアル化を後押しした。
二つの大戦を通じて、アメリカのGIがジーンズを「世界服」にした。しかしそのイニシアチブをGIとプレスリーから奪って「反逆する青春」のイメージを作ったのはジェームス・ディーンだった。
1968年 仏5月革命.69年安田講堂.学生反乱氾濫、反戦フォーク、ヒッピー反体制運動の高揚はつねにジーンズとともにあった。「権力と戦わぬ者は、けっしてジーンズをはいてはならない」とは、当時のあまでうす氏の言葉。
ケンゾー、マリテ&フランソワ・ジルボーらがジーンズをフアッションアイテム化した段階で、ジーンズは反体制のシンボルであることをやめた。
1969年から国産ジーンズの普及と大衆化、その後20年にわたる成熟と陳腐化。
00年から海外製高級ジーンズブーム始まる。
ジーンズこそ、ストリートフアッション、トランスジェンダー、コスモポリタン、カジュアルなど、20世紀のファッション・キーワードの要件をほぼ満たす代表的なアイテムであった。
♪新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか 亡羊
Monday, March 24, 2008
五味文彦・本郷和人編「吾妻鏡2」平氏滅亡を読んで
照る日曇る日第107回
「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。
例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。
文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。
後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。
当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。
彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。
しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。
頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。
義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。
このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。
そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊
「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。
例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。
文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。
後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。
当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。
彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。
しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。
頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。
義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。
このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。
そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊
Sunday, March 23, 2008
春風とミニ 20世紀の10大トレンドその5「ミニ/ボディコンシャス」
ふあっちょん幻論第13回
1950年代 サントロペのリゾートでカジュアルウエアブーム。戦後のベビーブーマー時代が主導する大量生産・大衆消費時代がはじまる。
1960年代 ロンドンのマリー・クワント、パリのアンドレ・クレージュが全世界にBODY CONCIOUSという意識を植えつけた。64年ミニ・パンツも。
1980年代 アズディン・アライア、クリスティアン・ラクロワ再浮上
その後00年代も、基本底流にミニが流れている。それはマーシャル・マクルーハンの「衣服はヒフの拡張である」という考え方の実践である。
その頂点は1994年製作のロバート・アルトマンの映画「プレタポルテ」における全裸モデルのパリコレシーンであった。
あらゆる「衣装という意匠」を突き抜けて、「裸自体が最高の衣装」であるとするアルトマンの衣装哲学が高らかに闡明されたのである。
タトウ、ピアス、整形手術、などによってこの「究極の衣装、至高の衣装」そのものをさらに先鋭的に構造変革し、人格のアバター化、複合化、重層化、無人格化、非人間化を図ろうとする私たちの潜在的な欲望が、今日もふぁっちょんの最先端を揺るがせている。
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
1950年代 サントロペのリゾートでカジュアルウエアブーム。戦後のベビーブーマー時代が主導する大量生産・大衆消費時代がはじまる。
1960年代 ロンドンのマリー・クワント、パリのアンドレ・クレージュが全世界にBODY CONCIOUSという意識を植えつけた。64年ミニ・パンツも。
1980年代 アズディン・アライア、クリスティアン・ラクロワ再浮上
その後00年代も、基本底流にミニが流れている。それはマーシャル・マクルーハンの「衣服はヒフの拡張である」という考え方の実践である。
その頂点は1994年製作のロバート・アルトマンの映画「プレタポルテ」における全裸モデルのパリコレシーンであった。
あらゆる「衣装という意匠」を突き抜けて、「裸自体が最高の衣装」であるとするアルトマンの衣装哲学が高らかに闡明されたのである。
タトウ、ピアス、整形手術、などによってこの「究極の衣装、至高の衣装」そのものをさらに先鋭的に構造変革し、人格のアバター化、複合化、重層化、無人格化、非人間化を図ろうとする私たちの潜在的な欲望が、今日もふぁっちょんの最先端を揺るがせている。
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
Saturday, March 22, 2008
母六回忌
天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり
日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音
教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり
陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり
千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき
白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず
そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ
うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな
我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う
母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり
日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音
教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり
陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり
千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき
白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず
そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ
うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな
我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う
母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
Friday, March 21, 2008
春風スタディ 20世紀の10大トレンドその4「化学繊維/テクノロジー」
ふあっちょん幻論第12回
1935年 ナイロン
人類初の化学繊維 米デュポン社のW・カロザース発明。石炭、水、空気で作る合成繊維
「くもの糸より細く優美で鉄鋼より強い」→パラシュート用を民生に転用
1940年 ストッキング大流行
60年代 宇宙開発と宇宙服と化学繊維
1964年 アンドレ・クレージュ ミニスカート発表→パンスト
66年 金属板や鎖やプラスチック片という硬質の無機質素材を用いた甲冑風ドレスで一世風靡したパコ・ラバンヌが、プラスチックドレス発表 布と糸で作られる服という概念を破る
身頃を円形にくり貫いた宇宙服風ドレスとヘルメットで「スペースエイジ」を表現したカルダン、ビニール素材と幾何学的なラインで宇宙時代のイメージを提案したアンドレ・クレージュ 宇宙、未来イメージ、不織布→懐かしく温かなレトロ・フーチャーが03春夏のルイ・ヴィトン、フセイン・チャラヤン、ドルチェ&ガッパーナ、プラダ、フェンディで再現された。
*ハイテク新素材開発史
ナイロン→ポリエステル→スパンテックス→フッソ繊維へと新展開。それ以降ハイテク日本繊維「新合繊」の時代
80年代 シンセレート素材、ポリエステル合せん中空糸→湿度を熱に変える
三宅一生、ヘルムート・ラング
90年代 ミニマル服→体温と光に色が変化する素材
2000年 渡辺淳弥 撥水性のマイクロファイバー
01春夏高橋盾スーパーフラット(9種マテリアル混合)などなど。
21世紀に入ってからは米デュポンがトウモロコシ原料のポリマー3GTやプラスチック原料のバイオ糸を生産、2010年までに同社は商品の25%をバイオ化する。
わが国では東レ、東洋紡のバイオテクノロジーをはじめ最新IT技術を援用したハイテク素材の開発が急速に進み、水着、スポーツウエアのみならずスーツやカジュアルウエアなどの新製品にもシーズンごとに取り入れられてあたらしい需要を喚起している。
新規マテリアル技術こそ、わが国の未来派ファッションの原動力であろう。
ただしNASAの宇宙服や08年に米陸軍が配備した「近未来型戦闘服」のように手放しで賛美できないハイテク技術もある。
例えば後者ではヘルメットには現在地を司令部へ伝達するGPS、夜間の戦場を透視できる赤外線カメラ、敵味方識別の発信機、生物化学兵器の探知機、ガスマスクなどを装着。血圧、体温測定器付きでそのデータは司令部や部隊の衛生兵に送られ全体的にロボコップのデザインに似ている。ハイテク戦争ウエアもファションメーカーの重要なビジネスなのである。
♪なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり 亡羊
1935年 ナイロン
人類初の化学繊維 米デュポン社のW・カロザース発明。石炭、水、空気で作る合成繊維
「くもの糸より細く優美で鉄鋼より強い」→パラシュート用を民生に転用
1940年 ストッキング大流行
60年代 宇宙開発と宇宙服と化学繊維
1964年 アンドレ・クレージュ ミニスカート発表→パンスト
66年 金属板や鎖やプラスチック片という硬質の無機質素材を用いた甲冑風ドレスで一世風靡したパコ・ラバンヌが、プラスチックドレス発表 布と糸で作られる服という概念を破る
身頃を円形にくり貫いた宇宙服風ドレスとヘルメットで「スペースエイジ」を表現したカルダン、ビニール素材と幾何学的なラインで宇宙時代のイメージを提案したアンドレ・クレージュ 宇宙、未来イメージ、不織布→懐かしく温かなレトロ・フーチャーが03春夏のルイ・ヴィトン、フセイン・チャラヤン、ドルチェ&ガッパーナ、プラダ、フェンディで再現された。
*ハイテク新素材開発史
ナイロン→ポリエステル→スパンテックス→フッソ繊維へと新展開。それ以降ハイテク日本繊維「新合繊」の時代
80年代 シンセレート素材、ポリエステル合せん中空糸→湿度を熱に変える
三宅一生、ヘルムート・ラング
90年代 ミニマル服→体温と光に色が変化する素材
2000年 渡辺淳弥 撥水性のマイクロファイバー
01春夏高橋盾スーパーフラット(9種マテリアル混合)などなど。
21世紀に入ってからは米デュポンがトウモロコシ原料のポリマー3GTやプラスチック原料のバイオ糸を生産、2010年までに同社は商品の25%をバイオ化する。
わが国では東レ、東洋紡のバイオテクノロジーをはじめ最新IT技術を援用したハイテク素材の開発が急速に進み、水着、スポーツウエアのみならずスーツやカジュアルウエアなどの新製品にもシーズンごとに取り入れられてあたらしい需要を喚起している。
新規マテリアル技術こそ、わが国の未来派ファッションの原動力であろう。
ただしNASAの宇宙服や08年に米陸軍が配備した「近未来型戦闘服」のように手放しで賛美できないハイテク技術もある。
例えば後者ではヘルメットには現在地を司令部へ伝達するGPS、夜間の戦場を透視できる赤外線カメラ、敵味方識別の発信機、生物化学兵器の探知機、ガスマスクなどを装着。血圧、体温測定器付きでそのデータは司令部や部隊の衛生兵に送られ全体的にロボコップのデザインに似ている。ハイテク戦争ウエアもファションメーカーの重要なビジネスなのである。
♪なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり 亡羊
Thursday, March 20, 2008
ふあっちょん幻論第10回
春のにわか勉強 20世紀の10大トレンドその3
第3トレンド
クリスチャン・ディオールの「ニュールック」/エレガンスの再構築
19世紀頃からファッション界には身体快適機能性への大反動が起こった。せっかくそれまで人間の身体の機能性に優しく対応してきたナチュラリズム志向を、当時ファッション界の盟主であったディオールが自己否定したのである。
1947年2月11日、「心が軽やかなら、布地の重さなど苦痛にならない」という有名な格言とともに、パリのモンテーニュ街のアトリエで誕生したのは、細いウエスト、美しくシェイプした豊かな胸、たっぷりしたロングスカートのドレスであった。
これこそは19世紀の古典的エレガンスの20世紀における復活であった。当時の「ハーパース・バザー」の編集長キャメル・スノウ、ディオールのこの新作を「本当に新しいルック」と評したのでこの名前が一世を風靡したのである。
ディオールの功績
軍服ルックを駆逐 エビータ、マーガレット王女、ヘプバーンの衣装etc
54年 Hライン 55年 Yラインを発表
「平和時代のぜいたく」の象徴 リヨンの高級絹
シャネル以降アメリカに移動したファッションのヨーロッパへの復権
50年代はディオールに続きピエール・バルマン、バレンシアガなどがパリ・オートクチュールの黄金期を作った。しかしこれは一時的現象で、57年秋には紡錘型のフュゾーラインのルーズフィットのシュミーズドレスが発表され、着やすい服の時代が再来する。
このフォーマルとカジュアルの2極への重心の移動と動・反動こそは世界のファッション史の大きな機制のひとつである。我々は、一定の周期で移動する惑星の軌道を想像することもできよう。
60年代はTシャツ&ジーンズに象徴されるカジュアルなユニセックスが登場した。
マリー・クワント、ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、サンローランなどのミニ旋風が巻き起こり、体を美しく露出する美意識・価値観が登場する。
米国では50年代半ばのビートニック世代が史上初めてストリートファッションを提示し、この流れが66年のヒッピー文化に継承される。
64年ガーンライヒのトップレス水着、パリコレでは66年サンローランのシティパンツが登場。エレガントで機能的なスタイルは67年に日本のイエイエで最後の花を咲かせた。
女房の茶碗を割りし悲しさよ 亡羊
第3トレンド
クリスチャン・ディオールの「ニュールック」/エレガンスの再構築
19世紀頃からファッション界には身体快適機能性への大反動が起こった。せっかくそれまで人間の身体の機能性に優しく対応してきたナチュラリズム志向を、当時ファッション界の盟主であったディオールが自己否定したのである。
1947年2月11日、「心が軽やかなら、布地の重さなど苦痛にならない」という有名な格言とともに、パリのモンテーニュ街のアトリエで誕生したのは、細いウエスト、美しくシェイプした豊かな胸、たっぷりしたロングスカートのドレスであった。
これこそは19世紀の古典的エレガンスの20世紀における復活であった。当時の「ハーパース・バザー」の編集長キャメル・スノウ、ディオールのこの新作を「本当に新しいルック」と評したのでこの名前が一世を風靡したのである。
ディオールの功績
軍服ルックを駆逐 エビータ、マーガレット王女、ヘプバーンの衣装etc
54年 Hライン 55年 Yラインを発表
「平和時代のぜいたく」の象徴 リヨンの高級絹
シャネル以降アメリカに移動したファッションのヨーロッパへの復権
50年代はディオールに続きピエール・バルマン、バレンシアガなどがパリ・オートクチュールの黄金期を作った。しかしこれは一時的現象で、57年秋には紡錘型のフュゾーラインのルーズフィットのシュミーズドレスが発表され、着やすい服の時代が再来する。
このフォーマルとカジュアルの2極への重心の移動と動・反動こそは世界のファッション史の大きな機制のひとつである。我々は、一定の周期で移動する惑星の軌道を想像することもできよう。
60年代はTシャツ&ジーンズに象徴されるカジュアルなユニセックスが登場した。
マリー・クワント、ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、サンローランなどのミニ旋風が巻き起こり、体を美しく露出する美意識・価値観が登場する。
米国では50年代半ばのビートニック世代が史上初めてストリートファッションを提示し、この流れが66年のヒッピー文化に継承される。
64年ガーンライヒのトップレス水着、パリコレでは66年サンローランのシティパンツが登場。エレガントで機能的なスタイルは67年に日本のイエイエで最後の花を咲かせた。
女房の茶碗を割りし悲しさよ 亡羊
Wednesday, March 19, 2008
歌人たちの鎌倉
鎌倉ちょっと不思議な物語107回
春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。
万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。
実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。
家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ
どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。
さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。
しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。
鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。
地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊
与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。
晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。
鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし
この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ
死者のこともう忘れよとダリア咲く
という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。
♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊
春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。
万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。
実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。
家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ
どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。
さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。
しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。
鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。
地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊
与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。
晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。
鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし
この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ
死者のこともう忘れよとダリア咲く
という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。
♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊
Tuesday, March 18, 2008
網野善彦著作集第1巻「中世荘園の様相」を読む
照る日曇る日第106回
岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。
いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さな部落にスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。
長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。
すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。
当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。
もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。
広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。
しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。
おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊
岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。
いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さな部落にスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。
長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。
すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。
当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。
もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。
広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。
しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。
おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊
Monday, March 17, 2008
春の復習 20世紀の10大トレンドその2
ふあっちょん幻論第10回
第2トレンド マドレーヌ・ヴィオネのバイアス・カット=服の再構成とその日本における後継者
1917-39年まで活躍したマドレーヌ・ヴィオネは、立体裁断(ドレーピング)によるバイアス・カットやサーキュラーカットなどの革新的なアイデアを連発した。
「カットは身体とのフイット性や運動性と結びつかねばならぬ」という彼女の考えは、クリストバル・バレンシアガ、三宅一生にも共通する姿勢である。
彼女はモスリンを使い60cm大の木製マネキン人形上でドレーピングし、シームの位置も自由にきめ、あとでそのパターンを実物大に拡大したのである。(紙上の平面パターンを否定)
ヴィオネの功績
1929年代前半 チューブドレス~アナトミカル(解剖学的)カットの発明
30年代 サーキュラーカット→これは50年代のクリストバル・バレンシアガによって継承され、バレンシアガは、驚異の裁断と最高級技術で「オートクチュールの巨匠」と呼ばれた。
またヴィオネによるチュニックドレス、オフ・ネック、サックドレスは、のちの既製服の基本となった。
ヴィオネの後継者としての三宅一生
70年代の「一枚の布」、80年代からの「プリーツ」、99年にはコンピューターで着る人の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
A-POCとはa peace of clothの略で、蚕が繭を紡ぐように糸から繊維がチューブ状に織り出されていく。98年春夏のジャスト・ビフォーという筒状のニットが出発点。藤原大氏コンピューター製作のジャージー編機から出てきた、ひとつながりのニットをカットするだけで、縫製もせずに着る事ができる。
高校時代にイサムノグチ設計の平和大橋に感銘を受けてデザイナーを志した彼は、つねに身体と服の原点を見つめてきた。過去の類型にない独自の新しいフオルムと素材が有機的に融合している。一枚の布に無数のフォルムが内臓されているのである。
2000年4月都現代美術館展におけるISSEY・MIYAKE MAKING THINGSはその集大成であった。そこでは以下の作品が提示された。
「バケット」~どこでカットしてもほつれるニット
「モビール」~人間の格好をしたクッション.どこでも寝られ生分解性でリサイクル。
「A-POCクイーン」~CP制御でチューブ状ニットが編み出される。ロール1人分で帽子、ドレス、手袋、靴下、財布、大小バック、ブラトップ、ショーツ、ベルトなど一式が内蔵されている。半そで、長そで、ロング、ショートの選択可能
A-POCの今後の応用としては、衣服以外、医療用品、建築などが考えられる。
A-POCからA-POS a peace of strings 糸や繊維をもっと自由にあやつる
A-POM オリジナル機械に向かって好みの色やデザインを入力するとポンと衣服が出る
A-POE 社会的教育
三宅一生の本質は、ポエジーである。彼はハイテクノロジーを制御できるイマジネーション+ポエジーが21世紀のデザインをつくると考え、六本木ミッドタウンに21_21 DESIGN SIGHTを設立した。
♪春浅し落花狼藉朝比奈峠 亡羊
第2トレンド マドレーヌ・ヴィオネのバイアス・カット=服の再構成とその日本における後継者
1917-39年まで活躍したマドレーヌ・ヴィオネは、立体裁断(ドレーピング)によるバイアス・カットやサーキュラーカットなどの革新的なアイデアを連発した。
「カットは身体とのフイット性や運動性と結びつかねばならぬ」という彼女の考えは、クリストバル・バレンシアガ、三宅一生にも共通する姿勢である。
彼女はモスリンを使い60cm大の木製マネキン人形上でドレーピングし、シームの位置も自由にきめ、あとでそのパターンを実物大に拡大したのである。(紙上の平面パターンを否定)
ヴィオネの功績
1929年代前半 チューブドレス~アナトミカル(解剖学的)カットの発明
30年代 サーキュラーカット→これは50年代のクリストバル・バレンシアガによって継承され、バレンシアガは、驚異の裁断と最高級技術で「オートクチュールの巨匠」と呼ばれた。
またヴィオネによるチュニックドレス、オフ・ネック、サックドレスは、のちの既製服の基本となった。
ヴィオネの後継者としての三宅一生
70年代の「一枚の布」、80年代からの「プリーツ」、99年にはコンピューターで着る人の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
A-POCとはa peace of clothの略で、蚕が繭を紡ぐように糸から繊維がチューブ状に織り出されていく。98年春夏のジャスト・ビフォーという筒状のニットが出発点。藤原大氏コンピューター製作のジャージー編機から出てきた、ひとつながりのニットをカットするだけで、縫製もせずに着る事ができる。
高校時代にイサムノグチ設計の平和大橋に感銘を受けてデザイナーを志した彼は、つねに身体と服の原点を見つめてきた。過去の類型にない独自の新しいフオルムと素材が有機的に融合している。一枚の布に無数のフォルムが内臓されているのである。
2000年4月都現代美術館展におけるISSEY・MIYAKE MAKING THINGSはその集大成であった。そこでは以下の作品が提示された。
「バケット」~どこでカットしてもほつれるニット
「モビール」~人間の格好をしたクッション.どこでも寝られ生分解性でリサイクル。
「A-POCクイーン」~CP制御でチューブ状ニットが編み出される。ロール1人分で帽子、ドレス、手袋、靴下、財布、大小バック、ブラトップ、ショーツ、ベルトなど一式が内蔵されている。半そで、長そで、ロング、ショートの選択可能
A-POCの今後の応用としては、衣服以外、医療用品、建築などが考えられる。
A-POCからA-POS a peace of strings 糸や繊維をもっと自由にあやつる
A-POM オリジナル機械に向かって好みの色やデザインを入力するとポンと衣服が出る
A-POE 社会的教育
三宅一生の本質は、ポエジーである。彼はハイテクノロジーを制御できるイマジネーション+ポエジーが21世紀のデザインをつくると考え、六本木ミッドタウンに21_21 DESIGN SIGHTを設立した。
♪春浅し落花狼藉朝比奈峠 亡羊
Sunday, March 16, 2008
春の復習 20世紀の10大トレンドその1
ふあっちょん幻論第9回
18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。
第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。
第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)
彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。
仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。
シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。
♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく
18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。
第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。
第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)
彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。
仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。
シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。
♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく
Saturday, March 15, 2008
帰ってきたカエルたち
♪バガテルop52&鎌倉ちょっと不思議な物語106回
1ヶ月以上にわたって続いていた朝比奈峠の工事がいちおう終わってふたたび自由に往来できるようになった。
危険な倒木を未然に防いだり、歩行者が歩きやすくするということで一部の箇所に橋を掛けたり、補強したりしたそうだ。
700年前の古道の表面は舗装したかのようにつるつるになり、峠道の前後左右に群がり生えていた植物はきれいさっぱり刈り取られてしまったために以前の鬱蒼とした中世の風情は失われてしまったが、まあこれもやむをえないか。
私はかねてより心に掛けていた峠道の途中の湿地に天然自然に誕生するオタマジャクシのことが気が気でなかったので、市の工事担当者にかねてから当該区画の環境保全の依頼をしていたが、幸い無傷のままで工事が終わった。
しかし例年ならば2月に行なわれるはずのカエルの産卵がいっこうに見られず、工事のせいで土中に隠れていた親ガエルが全滅したのではないかとやきもきしていたのだが、3日前に産み付けられた卵を発見し、ようやく胸をなでおろしているところだ。
このあたりには昔は少なくとも3種類のカエルが繁殖し、特に啓蟄の頃数多くの大きなヒキガエルの雌雄が泥沼のいたるところで交尾する姿をよく見かけて興奮したものだが、去年あたりからそういう感動的な光景は跡を絶った。
その代わりに昨日浮かんでいたのは小さな2匹のアカガエルであった。おそらく彼ら夫婦が、私が冬の間に落ち葉を掻き分けてせっせと掘った3つの水溜りの2つに産卵してくれたのであろう。できたらもう一箇所にも意気のいい生卵を生んでくれ!と私は声援を送ったが、彼らは知らん顔をしてそっぽを向いていた。
産卵は2月から3月まで何度かにわたって行なわれ、それが4月にオタマジャクシにかえり、初夏の頃にようやく小さなカエルになるのだが、それまでに水溜りが枯渇したり、無法者がオートバイで乗り入れてきてひき殺したり、いたずら者が自宅に持ちかえったりしてほとんど消滅するので、私は全体の卵のおよそ2割を自宅とおばあちゃんチの水がめで養殖し、大きくなってから再びこの池に放して“ういきゃつら”の生育を側面援助している。
年々少なくなるカエルの聖地を断固死守することはたやすくはないが、それは私のささやかな生きがいでもある。ゲロゲロ。
♪痩せガエル逃げるなも一度愛し合え 産めよ増やせよ日本のたから 亡羊
1ヶ月以上にわたって続いていた朝比奈峠の工事がいちおう終わってふたたび自由に往来できるようになった。
危険な倒木を未然に防いだり、歩行者が歩きやすくするということで一部の箇所に橋を掛けたり、補強したりしたそうだ。
700年前の古道の表面は舗装したかのようにつるつるになり、峠道の前後左右に群がり生えていた植物はきれいさっぱり刈り取られてしまったために以前の鬱蒼とした中世の風情は失われてしまったが、まあこれもやむをえないか。
私はかねてより心に掛けていた峠道の途中の湿地に天然自然に誕生するオタマジャクシのことが気が気でなかったので、市の工事担当者にかねてから当該区画の環境保全の依頼をしていたが、幸い無傷のままで工事が終わった。
しかし例年ならば2月に行なわれるはずのカエルの産卵がいっこうに見られず、工事のせいで土中に隠れていた親ガエルが全滅したのではないかとやきもきしていたのだが、3日前に産み付けられた卵を発見し、ようやく胸をなでおろしているところだ。
このあたりには昔は少なくとも3種類のカエルが繁殖し、特に啓蟄の頃数多くの大きなヒキガエルの雌雄が泥沼のいたるところで交尾する姿をよく見かけて興奮したものだが、去年あたりからそういう感動的な光景は跡を絶った。
その代わりに昨日浮かんでいたのは小さな2匹のアカガエルであった。おそらく彼ら夫婦が、私が冬の間に落ち葉を掻き分けてせっせと掘った3つの水溜りの2つに産卵してくれたのであろう。できたらもう一箇所にも意気のいい生卵を生んでくれ!と私は声援を送ったが、彼らは知らん顔をしてそっぽを向いていた。
産卵は2月から3月まで何度かにわたって行なわれ、それが4月にオタマジャクシにかえり、初夏の頃にようやく小さなカエルになるのだが、それまでに水溜りが枯渇したり、無法者がオートバイで乗り入れてきてひき殺したり、いたずら者が自宅に持ちかえったりしてほとんど消滅するので、私は全体の卵のおよそ2割を自宅とおばあちゃんチの水がめで養殖し、大きくなってから再びこの池に放して“ういきゃつら”の生育を側面援助している。
年々少なくなるカエルの聖地を断固死守することはたやすくはないが、それは私のささやかな生きがいでもある。ゲロゲロ。
♪痩せガエル逃げるなも一度愛し合え 産めよ増やせよ日本のたから 亡羊
Friday, March 14, 2008
この家を見よ! 「FUJIMORI藤森照信建築」を読む
照る日曇る日第105回&勝手に建築観光29回
藤森照信はいま私が最も興味を懐き、共感をもってみつめている建築家の一人である。
20世紀建築の4人の巨匠はグロピウス、ル・コルビュジエ、ライト、ミースであるが、藤森が原廣司と共に高く評価するのはミースである。線と面だけで作られた抽象的で均質な表現こそが20世紀建築の最大の特徴であり、それをもっともよく体現しているのがミースであるというのだ。
ミースの表現の元になっているのはデ・ステイル派であり、その源泉をたどるとデカルトにいたる。デカルトこそが近代哲学のみならず近代建築の祖であった。
いっぽうでは20世紀は科学技術の時代であり、科学技術を支えるのは数学的世界観であり、建築に添って解釈するならば、面と線による抽象的、幾何学的造形こそそれに該当するはずだが、この点をもっと突き詰めた建築家はミースよりもグロピウスであったと藤森はいう。
グロピウスが20世紀建築の座礁軸のゼロ点であると考えると、ル・コルビュジエはヨーロッパ建築文化の主流を成す海と光と大理石の地中海方面へ、アールトは白夜と針葉樹の北欧へ、ガウディはペレネー山脈の彼方のイスラム色の残るスペインへ、ライトは西部開拓のアメリカへ、それぞれの方向に引かれた線上に位置する。この伝でいけば、わが国の巨匠丹下健三は木に由来する柱梁構造の日本へ引いた線の先端に位置づけられるというわけである。
結局グロピウスの建築は20世紀世界にとっての数学や科学技術のようなインターナショナルな意味を持った。彼以外はル・コルビュジエもガウディもライトも無色透明なインターナショナルになにがしかの文化的・地域的要素を加えて成立していると藤森は説くのであるが、では丹下の弟子である藤森自身の建築はいかなるものであるかをこれから眺めてみよう。
そもそもこの人は鈴木博之と同様、一介の建築史家であってほんらいは現場の人ではなかったのだが、ある日突然依頼を受け、1991年2月、生まれ故郷の茅野市に神長官守矢史料館という建物を建てた。
吉阪隆正の影響を受けた藤森は、「孫悟空の飛んでいるような大地に立つひとくれの土の塊」の如き、「あらゆる建築の始原であり、どこの国のどの土地の風土も文化も感じさせない超無国籍の民家」と評されるきわめて個性的な建物を作ってしまったのである。私が見るところ、これに匹敵する建築物は伊勢市御塩殿の天地根元造しかないだろう。
本来ならばそのすぐそばに実家がある伊東豊雄がやるべき仕事であったが、やむを得ぬ事情でピンチヒッターに立ったところ、これがトンでもない初打席場外ホーマーとなり、ここから藤森の破竹の快進撃が始まった。
2作目に作った自宅が、かの有名な「タンポポハウス」である。昔の日本の農家には茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせる「芝棟」という植物と建築の一体化の手法があったが、これを平成の御世に甦らせたのが藤森だった。
もっともこれはわが国の東北地方だけでなく仏ノルマンディやヴェルサイユ宮殿のアモーの農家のルッカノグィニージの塔などにも植物がそびえているそうだ。その後この手法を藤森は盟友赤瀬川原平宅の「ニラハウス」、屋根のてっぺんに松がすっくと聳え立つ「一本松ハウス」や「ラムネ温泉館」、伊豆大島の「ツバキ城」、イチハツとキキョウが箱根連山を吹く風になびく「養老昆虫館」でも採用している。
樹木を頂上におったてるのは、当世風に言えば、人工物を自然で覆う環境主義的な発想であろうが、藤森は屋根のてっぺんだけでなく家の内外のいたるところに屋根を突き破って自然のままの樹木のぶっとい柱曲がりくねった枝を空高く貫通させる。
この「お山の大将我一人」的な腕白ターザン少年の素晴らしい建築冒険の源泉を、赤瀬川は諏訪大社の「御柱祭」の御柱に見出している。御柱というのは神の依代で人間の信仰の原型である。太古天の神霊にお出ましを願うための媒体こそが、藤森にとっての家作りの原点ではないか、と憶測をたくましくするのである。
まるでナガサキアゲハの巨大な五齢の幼虫か古代鯨が大空に向かって飛び出さんばかりに無類の生命的な存在感をたたえて大地に鎮座している「ねむの木こども美術館」や「焼杉ハウス」の勇姿、さらには満開の桜の木に取り囲まれ、たった一本の巨大な樹木に支えられて宙空にそびえている「茶室 徹」など、藤森のすべての建築群に共通するのは、青白き腐れインテリ思想や難解なヒポコンデリー建築思想から完全に解き放たれた原&現縄文人のあまりにも健全なエラン・ヴィタール、かの偉大なる剽窃家の安藤やら貧血症の磯崎やら突然死んじまった黒川やら才能てんでなき隈研吾やらかの醜悪かつ反吐の出るような江戸東京博物館をつくりし菊竹清訓等々の有象無象、
ともかくゲーリー・フランクと荒川修作以外の既存のいっさいの建築を“すでに死に絶えたるたるもの”とさえ思い込ませる無限の自由奔放さと精神の自由、自然に根ざしつつなおも天空の太陽と星の彼方へとあくがれるかの永遠のロマンチシズムであらう。
♪藤森の鯨の家にまたがりていざや空の彼方まで 亡羊
藤森照信はいま私が最も興味を懐き、共感をもってみつめている建築家の一人である。
20世紀建築の4人の巨匠はグロピウス、ル・コルビュジエ、ライト、ミースであるが、藤森が原廣司と共に高く評価するのはミースである。線と面だけで作られた抽象的で均質な表現こそが20世紀建築の最大の特徴であり、それをもっともよく体現しているのがミースであるというのだ。
ミースの表現の元になっているのはデ・ステイル派であり、その源泉をたどるとデカルトにいたる。デカルトこそが近代哲学のみならず近代建築の祖であった。
いっぽうでは20世紀は科学技術の時代であり、科学技術を支えるのは数学的世界観であり、建築に添って解釈するならば、面と線による抽象的、幾何学的造形こそそれに該当するはずだが、この点をもっと突き詰めた建築家はミースよりもグロピウスであったと藤森はいう。
グロピウスが20世紀建築の座礁軸のゼロ点であると考えると、ル・コルビュジエはヨーロッパ建築文化の主流を成す海と光と大理石の地中海方面へ、アールトは白夜と針葉樹の北欧へ、ガウディはペレネー山脈の彼方のイスラム色の残るスペインへ、ライトは西部開拓のアメリカへ、それぞれの方向に引かれた線上に位置する。この伝でいけば、わが国の巨匠丹下健三は木に由来する柱梁構造の日本へ引いた線の先端に位置づけられるというわけである。
結局グロピウスの建築は20世紀世界にとっての数学や科学技術のようなインターナショナルな意味を持った。彼以外はル・コルビュジエもガウディもライトも無色透明なインターナショナルになにがしかの文化的・地域的要素を加えて成立していると藤森は説くのであるが、では丹下の弟子である藤森自身の建築はいかなるものであるかをこれから眺めてみよう。
そもそもこの人は鈴木博之と同様、一介の建築史家であってほんらいは現場の人ではなかったのだが、ある日突然依頼を受け、1991年2月、生まれ故郷の茅野市に神長官守矢史料館という建物を建てた。
吉阪隆正の影響を受けた藤森は、「孫悟空の飛んでいるような大地に立つひとくれの土の塊」の如き、「あらゆる建築の始原であり、どこの国のどの土地の風土も文化も感じさせない超無国籍の民家」と評されるきわめて個性的な建物を作ってしまったのである。私が見るところ、これに匹敵する建築物は伊勢市御塩殿の天地根元造しかないだろう。
本来ならばそのすぐそばに実家がある伊東豊雄がやるべき仕事であったが、やむを得ぬ事情でピンチヒッターに立ったところ、これがトンでもない初打席場外ホーマーとなり、ここから藤森の破竹の快進撃が始まった。
2作目に作った自宅が、かの有名な「タンポポハウス」である。昔の日本の農家には茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせる「芝棟」という植物と建築の一体化の手法があったが、これを平成の御世に甦らせたのが藤森だった。
もっともこれはわが国の東北地方だけでなく仏ノルマンディやヴェルサイユ宮殿のアモーの農家のルッカノグィニージの塔などにも植物がそびえているそうだ。その後この手法を藤森は盟友赤瀬川原平宅の「ニラハウス」、屋根のてっぺんに松がすっくと聳え立つ「一本松ハウス」や「ラムネ温泉館」、伊豆大島の「ツバキ城」、イチハツとキキョウが箱根連山を吹く風になびく「養老昆虫館」でも採用している。
樹木を頂上におったてるのは、当世風に言えば、人工物を自然で覆う環境主義的な発想であろうが、藤森は屋根のてっぺんだけでなく家の内外のいたるところに屋根を突き破って自然のままの樹木のぶっとい柱曲がりくねった枝を空高く貫通させる。
この「お山の大将我一人」的な腕白ターザン少年の素晴らしい建築冒険の源泉を、赤瀬川は諏訪大社の「御柱祭」の御柱に見出している。御柱というのは神の依代で人間の信仰の原型である。太古天の神霊にお出ましを願うための媒体こそが、藤森にとっての家作りの原点ではないか、と憶測をたくましくするのである。
まるでナガサキアゲハの巨大な五齢の幼虫か古代鯨が大空に向かって飛び出さんばかりに無類の生命的な存在感をたたえて大地に鎮座している「ねむの木こども美術館」や「焼杉ハウス」の勇姿、さらには満開の桜の木に取り囲まれ、たった一本の巨大な樹木に支えられて宙空にそびえている「茶室 徹」など、藤森のすべての建築群に共通するのは、青白き腐れインテリ思想や難解なヒポコンデリー建築思想から完全に解き放たれた原&現縄文人のあまりにも健全なエラン・ヴィタール、かの偉大なる剽窃家の安藤やら貧血症の磯崎やら突然死んじまった黒川やら才能てんでなき隈研吾やらかの醜悪かつ反吐の出るような江戸東京博物館をつくりし菊竹清訓等々の有象無象、
ともかくゲーリー・フランクと荒川修作以外の既存のいっさいの建築を“すでに死に絶えたるたるもの”とさえ思い込ませる無限の自由奔放さと精神の自由、自然に根ざしつつなおも天空の太陽と星の彼方へとあくがれるかの永遠のロマンチシズムであらう。
♪藤森の鯨の家にまたがりていざや空の彼方まで 亡羊
Thursday, March 13, 2008
日輪寺再説
鎌倉ちょっと不思議な物語105回&鎌倉廃寺巡礼その4
先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。
高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)
日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)
その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。
吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。
悪党の背にはらはらと梅の花
春風や幻の寺ここにあり
先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。
高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)
日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)
その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。
吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。
悪党の背にはらはらと梅の花
春風や幻の寺ここにあり
Wednesday, March 12, 2008
中世の鎌倉
鎌倉ちょっと不思議な物語101回
古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。
8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。
中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。
鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊
古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。
8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。
中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。
鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊
Tuesday, March 11, 2008
バルガス・リョサ著「楽園への道」を読む
照る日曇る日第104回
「楽園への道」といえば私にとってはエルガーの名曲だが、ペルーの作家バルガス・リョサの同名の交響的長編小説も、英国の音楽家と同じような感動を私に与えてくれた。
本書は二つの物語が交互に奏される対位法叙述形式をとっていて、最初はどこの誰の話かと戸惑うが、それが19世紀中葉の社会主義とフェミニズムの立役者である女性と、その孫である画家ゴーギャンの2人を主人公とする欧州と南米、南太平洋をまたぐ規模雄大な物語であると知れば読者の関心もいやがうえにも高まるというものだ。
前者の主人公フローラは、ジョルジュ・サンドやリスト、ビクトール・ユゴーと同時代の人物であるが、妻の離婚を許さず、その遺産を狙い、あまつさえ娘を犯す色魔でもある強欲な夫のために終生迫害され、ついには銃で命を狙われながらも、サンシモン、フーリエ、オーエンなどの影響を受けて初期社会主義、労働組合運動の確立に挺身する。
後続のマルクス、エンゲルスに対して決定的な影響を及ぼした美貌の思想家、実践家であるが、マルクスなどの進歩派からも「女だてらに労働運動に首をつっこみやがって」と白眼視されていたことがよくわかる。
そしてそんな時代にありながら自恃と尊厳を貫いて無残に散ったフローラの遺伝子と生き方を受け継いだのがかのゴーギャンであった。
かつてサマセット・モームが「月と6ペンス」で描いた個性的な印象派画家の劇的な生涯を、著者はモームとは異なる視点、熱い共感と燃えるような想像力であざやかに再現している。
「マナオ・トゥパパウ」、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」など、彼の代表作がいかなる状況にあって、いかにして描かれたか? 狂ったオランダ人、ゴッホとの共同生活がいかにして破綻したのか? いかにしてエリート株式仲買人が芸術の魑魅魍魎の世界に取り込まれ、世界の果てまで逃亡せざるを得なかったのか? いかにして死せる西欧世界の古典的秩序を大きく逸脱し、魔術と原始的生命の復活再生に一命を捧げるに至ったのか?
性病に皮膚、内臓、脳髄を次々に侵され、ついに絶海の孤島でくたばった天涯孤独の創造者の生涯の顛末を、バルガス・リョサはあますところなく描きつくした。
暴力的な異性愛に傷つき、優しい同性愛に癒されながらも、社会正義の大義名分のためにいっさいのエロスを封印した祖母、荒くれマッチョであったはずの己の内部に小さくうずくまっていた一人の女性を発見して驚愕する孫……、ライフスタイルに共通点がある2人の主人公を見事なフーガの技法で巧みに踊らせながら、人間の生の深奥に潜む性の暗闇を容赦なくあばきたてる著者の視線はあくまでも鋭利に研ぎ澄まされている。
これだけ書けば、もういいだろう、リョサ?
♪昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る 亡羊
「楽園への道」といえば私にとってはエルガーの名曲だが、ペルーの作家バルガス・リョサの同名の交響的長編小説も、英国の音楽家と同じような感動を私に与えてくれた。
本書は二つの物語が交互に奏される対位法叙述形式をとっていて、最初はどこの誰の話かと戸惑うが、それが19世紀中葉の社会主義とフェミニズムの立役者である女性と、その孫である画家ゴーギャンの2人を主人公とする欧州と南米、南太平洋をまたぐ規模雄大な物語であると知れば読者の関心もいやがうえにも高まるというものだ。
前者の主人公フローラは、ジョルジュ・サンドやリスト、ビクトール・ユゴーと同時代の人物であるが、妻の離婚を許さず、その遺産を狙い、あまつさえ娘を犯す色魔でもある強欲な夫のために終生迫害され、ついには銃で命を狙われながらも、サンシモン、フーリエ、オーエンなどの影響を受けて初期社会主義、労働組合運動の確立に挺身する。
後続のマルクス、エンゲルスに対して決定的な影響を及ぼした美貌の思想家、実践家であるが、マルクスなどの進歩派からも「女だてらに労働運動に首をつっこみやがって」と白眼視されていたことがよくわかる。
そしてそんな時代にありながら自恃と尊厳を貫いて無残に散ったフローラの遺伝子と生き方を受け継いだのがかのゴーギャンであった。
かつてサマセット・モームが「月と6ペンス」で描いた個性的な印象派画家の劇的な生涯を、著者はモームとは異なる視点、熱い共感と燃えるような想像力であざやかに再現している。
「マナオ・トゥパパウ」、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」など、彼の代表作がいかなる状況にあって、いかにして描かれたか? 狂ったオランダ人、ゴッホとの共同生活がいかにして破綻したのか? いかにしてエリート株式仲買人が芸術の魑魅魍魎の世界に取り込まれ、世界の果てまで逃亡せざるを得なかったのか? いかにして死せる西欧世界の古典的秩序を大きく逸脱し、魔術と原始的生命の復活再生に一命を捧げるに至ったのか?
性病に皮膚、内臓、脳髄を次々に侵され、ついに絶海の孤島でくたばった天涯孤独の創造者の生涯の顛末を、バルガス・リョサはあますところなく描きつくした。
暴力的な異性愛に傷つき、優しい同性愛に癒されながらも、社会正義の大義名分のためにいっさいのエロスを封印した祖母、荒くれマッチョであったはずの己の内部に小さくうずくまっていた一人の女性を発見して驚愕する孫……、ライフスタイルに共通点がある2人の主人公を見事なフーガの技法で巧みに踊らせながら、人間の生の深奥に潜む性の暗闇を容赦なくあばきたてる著者の視線はあくまでも鋭利に研ぎ澄まされている。
これだけ書けば、もういいだろう、リョサ?
♪昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る 亡羊
Monday, March 10, 2008
月輪寺を求めて
鎌倉ちょっと不思議な物語104回&鎌倉廃寺巡礼その3
月輪寺は「がちりんじ」とひらがな表記して「がつりんじ」と発音する。「鎌倉志」に「光触寺の北、霧沢のうちに好見というにあり。ゆえに好見の月輪寺という」とあるが好見がどこであるか不明である。
しかし「十二所地誌」には「かつて光触寺所有の明石山の中腹にあり。その面積400坪、その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴がある。本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏」とあり、さる考古学者が尋ねてきたが仔細はいっこうに分からず、遺物なぞはひとつも発見されなかったという。
さらに同書には「御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である」と記されている。
それなら定めしこの地であろうという閑静な一画を私はいつもの散歩コースにたやすく見出した。手前の家は私の次男の同級生の家でご両親はクリーニング業を営まれているが、その突き当たりに杉並木に囲まれた高台があり、この近所には多数の五輪塔ややぐら跡が発見されている。
「社務職次第」「供僧次第」「「若狭国志」にもこの古刹の名が出ており、「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる。
♪鳶一羽空に舞いたり廃寺跡 亡羊
月輪寺は「がちりんじ」とひらがな表記して「がつりんじ」と発音する。「鎌倉志」に「光触寺の北、霧沢のうちに好見というにあり。ゆえに好見の月輪寺という」とあるが好見がどこであるか不明である。
しかし「十二所地誌」には「かつて光触寺所有の明石山の中腹にあり。その面積400坪、その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴がある。本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏」とあり、さる考古学者が尋ねてきたが仔細はいっこうに分からず、遺物なぞはひとつも発見されなかったという。
さらに同書には「御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である」と記されている。
それなら定めしこの地であろうという閑静な一画を私はいつもの散歩コースにたやすく見出した。手前の家は私の次男の同級生の家でご両親はクリーニング業を営まれているが、その突き当たりに杉並木に囲まれた高台があり、この近所には多数の五輪塔ややぐら跡が発見されている。
「社務職次第」「供僧次第」「「若狭国志」にもこの古刹の名が出ており、「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる。
♪鳶一羽空に舞いたり廃寺跡 亡羊
Sunday, March 09, 2008
幻の廃寺、日輪寺ここに在り
鎌倉ちょっと不思議な物語103回
「十二所地誌」によれば日輪寺跡はタタラが谷に所在、とある。タタラが谷については私が去年の夏に発見して確かこの日記にも報告した地点だから我が家から3分だ。よしあの近くを探そう。
ここでちょっと復習すると、「タタラ」というのはフイゴの古語でタタラ場、鍛冶屋、すなわち鉄製品を造るところであり、1回の作業は3昼夜であったという。タタラ師は「金屋子神」を信仰し、旧暦の11月4日にはタタラ祭りが行なわれというが、作業中は女性の接近を忌むという。
鎌倉時代の刀剣は京大和から運ばれてきたという学者もいるがとんでもない。鎌倉時代の東国の武士たちは自前の武器を自分たちの領地のあちこちで生産していたのである。だから十二所に限らずこの「タタラが谷」という地名は、そこで古代から中世にかけて製鉄、加工が行なわれていた場所である確率が高い。
しかもこの十二所のタタラが谷、太刀洗一帯には鎌倉幕府の「中世国立葬儀センター」があり、その周辺は高級墓地であったから、近くには当然大きな寺院もあったはずだ。
「十二所地誌」には果樹園の山腹に窟があって五輪が散乱している辺りか」としているが、果樹園はタタラが谷から相当離れているからこの説は却下だ。
私が“ここが日輪寺跡”、と特定する地域は、太刀洗川をはさんで5,6年前に発掘されたその国立葬儀センターの真向かいにある台地だ。
太刀洗に通じる朝比奈古道に沿ってわずかに勾配のある右側の小道を登っていくと、タタラが谷の麓に千坪くらいのこぢんまりとした平地がある。山腹の頂上から中腹にかけて群生する無数の竹に囲まれた静かな谷戸こそが往時の日輪寺だ、と私は確信する。
実際現在ここに住んでいる瓦斯屋のおじさんは、「ここに家を建てたときに無数の五輪等や仏像の瓦の断片をみな太刀洗川に捨てた」と罰当たりな証言をしている。けれどもその時至り、発掘してみれば私の予想は必ず的中するだろう。
♪ここもまた大寺ありけり冬の谷戸 亡羊
「十二所地誌」によれば日輪寺跡はタタラが谷に所在、とある。タタラが谷については私が去年の夏に発見して確かこの日記にも報告した地点だから我が家から3分だ。よしあの近くを探そう。
ここでちょっと復習すると、「タタラ」というのはフイゴの古語でタタラ場、鍛冶屋、すなわち鉄製品を造るところであり、1回の作業は3昼夜であったという。タタラ師は「金屋子神」を信仰し、旧暦の11月4日にはタタラ祭りが行なわれというが、作業中は女性の接近を忌むという。
鎌倉時代の刀剣は京大和から運ばれてきたという学者もいるがとんでもない。鎌倉時代の東国の武士たちは自前の武器を自分たちの領地のあちこちで生産していたのである。だから十二所に限らずこの「タタラが谷」という地名は、そこで古代から中世にかけて製鉄、加工が行なわれていた場所である確率が高い。
しかもこの十二所のタタラが谷、太刀洗一帯には鎌倉幕府の「中世国立葬儀センター」があり、その周辺は高級墓地であったから、近くには当然大きな寺院もあったはずだ。
「十二所地誌」には果樹園の山腹に窟があって五輪が散乱している辺りか」としているが、果樹園はタタラが谷から相当離れているからこの説は却下だ。
私が“ここが日輪寺跡”、と特定する地域は、太刀洗川をはさんで5,6年前に発掘されたその国立葬儀センターの真向かいにある台地だ。
太刀洗に通じる朝比奈古道に沿ってわずかに勾配のある右側の小道を登っていくと、タタラが谷の麓に千坪くらいのこぢんまりとした平地がある。山腹の頂上から中腹にかけて群生する無数の竹に囲まれた静かな谷戸こそが往時の日輪寺だ、と私は確信する。
実際現在ここに住んでいる瓦斯屋のおじさんは、「ここに家を建てたときに無数の五輪等や仏像の瓦の断片をみな太刀洗川に捨てた」と罰当たりな証言をしている。けれどもその時至り、発掘してみれば私の予想は必ず的中するだろう。
♪ここもまた大寺ありけり冬の谷戸 亡羊
Saturday, March 08, 2008
鎌倉廃寺巡礼
鎌倉ちょっと不思議な物語102回
鎌倉は寺も多いが、廃寺も多い。多くの人々は地上にそびえる美麗な寺社仏閣を仰ぎ見て嘆声を発するが、私が関心を持っているのはかつては大いに栄え、今はもはやこの世にない死せる寺々である。
現存しない寺院、堂宇、塔頭は私の地元の狭い狭い十二所だけでもなんと19箇所もある。(鎌倉廃寺事典)さらに浄明寺で19、二階堂で13、江藤淳が自死した西御門で14、雪ノ下で22という按配だから、寺霊たちはそれこそ無尽蔵にこの死都鎌倉の土の下に眠っているのである。
霊と死者たちを起こす非道をおかすつもりは毛頭ないが、弥生のそよ風に誘われていざ廃寺探訪に出かけようではないか。
まずは日輪、月輪の両寺を探索しよう。この二つの寺院はほとんどの歴史書に現われない幻の廃寺である。しかし鎌倉時代にはいずれもここ十二所の地にあって、おそらくは対になって要地を占めていたのではなかろうか。
♪同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日 亡羊
鎌倉は寺も多いが、廃寺も多い。多くの人々は地上にそびえる美麗な寺社仏閣を仰ぎ見て嘆声を発するが、私が関心を持っているのはかつては大いに栄え、今はもはやこの世にない死せる寺々である。
現存しない寺院、堂宇、塔頭は私の地元の狭い狭い十二所だけでもなんと19箇所もある。(鎌倉廃寺事典)さらに浄明寺で19、二階堂で13、江藤淳が自死した西御門で14、雪ノ下で22という按配だから、寺霊たちはそれこそ無尽蔵にこの死都鎌倉の土の下に眠っているのである。
霊と死者たちを起こす非道をおかすつもりは毛頭ないが、弥生のそよ風に誘われていざ廃寺探訪に出かけようではないか。
まずは日輪、月輪の両寺を探索しよう。この二つの寺院はほとんどの歴史書に現われない幻の廃寺である。しかし鎌倉時代にはいずれもここ十二所の地にあって、おそらくは対になって要地を占めていたのではなかろうか。
♪同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日 亡羊
Friday, March 07, 2008
平川南著「日本の原像」を読む その2
照る日曇る日第104回&ふあっちょん幻論第8回
座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。
日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。
またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。
「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。
繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。
♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊
座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。
日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。
またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。
「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。
繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。
♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊
Thursday, March 06, 2008
平川南著「日本の原像」を読む その1
照る日曇る日第103回
天皇と日本のはじまり
倭国王が東アジア世界に秩序づけられた「王」「大王」に代わり独立した最高位の称号をのぞみ、道教思想において宇宙の最高神を示す「天皇」という名称を日本国王として用いた。そしてこの天皇は則天武后時代では明らかに「皇帝」より下位に位置づけられていたために中国からも是認された。これがわが国の天皇号のはじまりである。
仏典の「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたわが国は7世紀後半に新たな国号を日本と定めたが、これも古代中国の世界像における東夷の世界、東の果ての地として「日の土台」という意味で採択された。
一方これは古代朝鮮に対して「西蕃」vs「貴国」という世界関係を成立させることをのぞみ、みずから東にある「貴き国」のイメージを求め、それを「日本」と呼んだ。もしかすると現在に至る中国-朝鮮-日本の三角関係の基本構造は、今から17000年前にセットされたということができるかもしれない。
国名のはじまり
わが国の東西の境界線は古代から東海道では遠江と三河、東山道では信濃と美濃の国境にあった。そして東国の国名はヤマト朝廷によってある時期にいっせいに命名された。
近江国は琵琶湖を「近つ淡海」と称したことに由来し、遠江国は浜名湖を「遠つ淡海」と称したことに由来するがこれらはいずれもヤマトからの距離を基準にしている。
美濃国はもと三野(各務野、青野、加茂野)があることから命名され、三河は男川、豊川、矢作川があることから名づけられた。
近江から不破の関を越え、美濃、信濃、上野、下野と行く東山道、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模と行く東海道の山道と海道で南北の地の国名が「野」と「河」という対になっていることに注目しよう。
♪アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 亡羊
天皇と日本のはじまり
倭国王が東アジア世界に秩序づけられた「王」「大王」に代わり独立した最高位の称号をのぞみ、道教思想において宇宙の最高神を示す「天皇」という名称を日本国王として用いた。そしてこの天皇は則天武后時代では明らかに「皇帝」より下位に位置づけられていたために中国からも是認された。これがわが国の天皇号のはじまりである。
仏典の「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたわが国は7世紀後半に新たな国号を日本と定めたが、これも古代中国の世界像における東夷の世界、東の果ての地として「日の土台」という意味で採択された。
一方これは古代朝鮮に対して「西蕃」vs「貴国」という世界関係を成立させることをのぞみ、みずから東にある「貴き国」のイメージを求め、それを「日本」と呼んだ。もしかすると現在に至る中国-朝鮮-日本の三角関係の基本構造は、今から17000年前にセットされたということができるかもしれない。
国名のはじまり
わが国の東西の境界線は古代から東海道では遠江と三河、東山道では信濃と美濃の国境にあった。そして東国の国名はヤマト朝廷によってある時期にいっせいに命名された。
近江国は琵琶湖を「近つ淡海」と称したことに由来し、遠江国は浜名湖を「遠つ淡海」と称したことに由来するがこれらはいずれもヤマトからの距離を基準にしている。
美濃国はもと三野(各務野、青野、加茂野)があることから命名され、三河は男川、豊川、矢作川があることから名づけられた。
近江から不破の関を越え、美濃、信濃、上野、下野と行く東山道、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模と行く東海道の山道と海道で南北の地の国名が「野」と「河」という対になっていることに注目しよう。
♪アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 亡羊
Wednesday, March 05, 2008
自閉症の人のヘルプポイント
♪バガテルop51
では自閉症の人に手助けするには具体的にどうすればいいのでしょうか。
自閉症の人に手助けするには次のようにしましょう。
手助けその1 コミュニケーションのやり方は?
自閉症の人は話だけを聞いてその内容を理解することが苦手ですが、目で見て理解することが得意なので、何かを伝えるときは口で説明するだけでなく、実物を見せたり、絵や写真を見せたり、文字を書いて伝える方法を考えましょう。
しかしその人によって得手不得手はあるので、どの方法が伝わりやすいかを工夫する必要があります。また自閉症の人が周囲に伝える方法もさまざまです。
手助けその2 前もって伝えよう
自閉症の人は予定が分からないことに大変な苦痛と不安を感じます。その日その時間に何をするのかが分かるととても安心するのです。そこでスケジュール表に予定を書き込むようにするとよいでしょう。
予定を知らせるときは文字が読める人には文字で、読めない人には絵や写真で、実物でなくては分からない人にはたとえば食事の時間は「はし」などの実物を使うなどの方法をつかいます。
手助けその3 集中できる環境をつくる
自閉症の人はいろいろな物音や声が聞こえてくると気が散ってしまうことが多いので、これを防ぐ工夫をしましょう。たとえば窓にカーテンをしたり、周りをついたてで囲う方法もあります。
手助けその4 話しかけるときはおだやかに
自閉症の人に注意したりなにかを教えるときには命令ではなく簡単な言葉でやさしく、しかしはっきりとその人がどうしたらいいか分かるように伝えます
大声で話しかけたり、「○○したらだめ!」と怒鳴ったりすると、自閉症の人はその人から怒られたとしか感じなくなり、もはやなにも受け入れようとはしなくなります。
名前を呼んでできるだけおだやかに話しかけてください。自閉症の人は記憶力が良い人が多く、一度だけ経験したことでも怖かったり、嫌だったりしたことはずっと覚えているのでこの点はくれぐれも留意してくださいね。
以上簡単に自閉症についての解説をしてきましたが、これらの記述は内山登起夫さんが監修され、私の長男がお世話になっている社会福祉法人県央福祉会県央療育センターの諏訪利明さん、安倍陽子さんがお書きになった「発達と障害を考える本」①「ふしぎだね!? 自閉症のおともだち」(ミネルヴァ書房)を参考にしました。
自閉症についてもっと詳しいことを知りたい人は、日本自閉症協会http:autism.or.jp/までどうぞ。
♪もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう 亡羊
では自閉症の人に手助けするには具体的にどうすればいいのでしょうか。
自閉症の人に手助けするには次のようにしましょう。
手助けその1 コミュニケーションのやり方は?
自閉症の人は話だけを聞いてその内容を理解することが苦手ですが、目で見て理解することが得意なので、何かを伝えるときは口で説明するだけでなく、実物を見せたり、絵や写真を見せたり、文字を書いて伝える方法を考えましょう。
しかしその人によって得手不得手はあるので、どの方法が伝わりやすいかを工夫する必要があります。また自閉症の人が周囲に伝える方法もさまざまです。
手助けその2 前もって伝えよう
自閉症の人は予定が分からないことに大変な苦痛と不安を感じます。その日その時間に何をするのかが分かるととても安心するのです。そこでスケジュール表に予定を書き込むようにするとよいでしょう。
予定を知らせるときは文字が読める人には文字で、読めない人には絵や写真で、実物でなくては分からない人にはたとえば食事の時間は「はし」などの実物を使うなどの方法をつかいます。
手助けその3 集中できる環境をつくる
自閉症の人はいろいろな物音や声が聞こえてくると気が散ってしまうことが多いので、これを防ぐ工夫をしましょう。たとえば窓にカーテンをしたり、周りをついたてで囲う方法もあります。
手助けその4 話しかけるときはおだやかに
自閉症の人に注意したりなにかを教えるときには命令ではなく簡単な言葉でやさしく、しかしはっきりとその人がどうしたらいいか分かるように伝えます
大声で話しかけたり、「○○したらだめ!」と怒鳴ったりすると、自閉症の人はその人から怒られたとしか感じなくなり、もはやなにも受け入れようとはしなくなります。
名前を呼んでできるだけおだやかに話しかけてください。自閉症の人は記憶力が良い人が多く、一度だけ経験したことでも怖かったり、嫌だったりしたことはずっと覚えているのでこの点はくれぐれも留意してくださいね。
以上簡単に自閉症についての解説をしてきましたが、これらの記述は内山登起夫さんが監修され、私の長男がお世話になっている社会福祉法人県央福祉会県央療育センターの諏訪利明さん、安倍陽子さんがお書きになった「発達と障害を考える本」①「ふしぎだね!? 自閉症のおともだち」(ミネルヴァ書房)を参考にしました。
自閉症についてもっと詳しいことを知りたい人は、日本自閉症協会http:autism.or.jp/までどうぞ。
♪もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう 亡羊
Tuesday, March 04, 2008
どうすれば自閉症の人をヘルプできるんだろう?
♪バガテルop50
自閉症の特徴は幼稚園や小学校などの集団に入ると目立つことが多いようです。
言われたことが理解できない。思ったことが伝えられない。その場で何をしたらいいのかが分からない、などが原因でストレスがたまってパニックになり、ときには自分で自分を傷つけることもあります。またそういう不安が顔に出ることも多いのです。
自閉症の人がパニくるには必ず原因があります。ですからその原因を理解しようとしないままその行為をやめさせようとすると、かえってその人を追い詰めてしまうことになりがちです。
そして自閉症の人の言うことやすることがおかしくてもみんなではやしたてたり、笑ったりしないことが大切です。
さて、私の在仏マイミクのミズリンさんによれば、現在フランスの有名な映画俳優サンドリーヌ・ボネールさんの初監督作品『Elle s'appelle Sabine』(彼女の名前はサビーヌ)がパリの映画館で公開中とのこと。実は彼女の妹さんが自閉症で、この映画は自閉症の妹についてのドキュメンタリーだそうで、ボネールさんは、「自身のスターとしての名声を利用して、自閉症への理解を世間に強く訴えている」そうです。
またミズリンさん情報によればこの話題の映画を日本のどこかの会社が買い付けたそうなので私も公開のあかつきにはぜひ鑑賞してみたいと思っています。
なおこの映画の詳細については下記をクリックしてみてくださいな。
http://www.ilyfunet.com/ovni/2008/625/cinema.php
♪始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ 亡羊
自閉症の特徴は幼稚園や小学校などの集団に入ると目立つことが多いようです。
言われたことが理解できない。思ったことが伝えられない。その場で何をしたらいいのかが分からない、などが原因でストレスがたまってパニックになり、ときには自分で自分を傷つけることもあります。またそういう不安が顔に出ることも多いのです。
自閉症の人がパニくるには必ず原因があります。ですからその原因を理解しようとしないままその行為をやめさせようとすると、かえってその人を追い詰めてしまうことになりがちです。
そして自閉症の人の言うことやすることがおかしくてもみんなではやしたてたり、笑ったりしないことが大切です。
さて、私の在仏マイミクのミズリンさんによれば、現在フランスの有名な映画俳優サンドリーヌ・ボネールさんの初監督作品『Elle s'appelle Sabine』(彼女の名前はサビーヌ)がパリの映画館で公開中とのこと。実は彼女の妹さんが自閉症で、この映画は自閉症の妹についてのドキュメンタリーだそうで、ボネールさんは、「自身のスターとしての名声を利用して、自閉症への理解を世間に強く訴えている」そうです。
またミズリンさん情報によればこの話題の映画を日本のどこかの会社が買い付けたそうなので私も公開のあかつきにはぜひ鑑賞してみたいと思っています。
なおこの映画の詳細については下記をクリックしてみてくださいな。
http://www.ilyfunet.com/ovni/2008/625/cinema.php
♪始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ 亡羊
Monday, March 03, 2008
知的障碍と自閉症の違いは?
♪バガテルop49
先日私の大嫌いな「阿呆の泉」という番組で、私がとても軽蔑している着物姿のいかがわしい男が、「障碍は個性」という最近巷にあふれかえっている陳腐な発言をしていました。
確かに自閉症を含めて障碍者にはさまざまな障碍があり、その姿かたちを「個性的」と表現することはできますが、障碍の本質は「重篤な障碍そのもの」であり、けっして「多彩な個性そのもの」ではありません。ことの本質を無視して、「障碍=個性」などと分かったようなレッテルを貼り深刻な事態を安易に図式化しようとするかの霊感業者たちは、それらの障碍に真摯に向き合うことから怪人20面相のように軽快に身をひるがえしているとしか思えません。もっともその方が「霊感的に楽ちん」でいいだろうしね。
さて閑話休題。知的な遅れもその内容は人によってさまざまですが、一般的には人懐っこかったり、いっしょに遊びたがったりします。
しかし自閉症児者の多くは他人との交流が苦手で、想像力に乏しくてこだわりも多いケースが多いので、交流するときに体に触れたり手をつなごうとするとパニックになることもあります。
また思ってもいない出来事が突然起こると、たとえそれが自分の誕生日を祝ってくれるものであっても強い不安でパニックになることもあります。
多くの自閉症児者は人々がざわざわとしている状態に出会うと不安になりストレスを感じることがあります。動物や赤ちゃんや元気な子供などの特定の人がとても気になったり、それらが引き起こす鳴き声や泣き声、叫び声や物音が苦手になり、耳をふさいでしまうこともあります。
♪今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ 亡羊
先日私の大嫌いな「阿呆の泉」という番組で、私がとても軽蔑している着物姿のいかがわしい男が、「障碍は個性」という最近巷にあふれかえっている陳腐な発言をしていました。
確かに自閉症を含めて障碍者にはさまざまな障碍があり、その姿かたちを「個性的」と表現することはできますが、障碍の本質は「重篤な障碍そのもの」であり、けっして「多彩な個性そのもの」ではありません。ことの本質を無視して、「障碍=個性」などと分かったようなレッテルを貼り深刻な事態を安易に図式化しようとするかの霊感業者たちは、それらの障碍に真摯に向き合うことから怪人20面相のように軽快に身をひるがえしているとしか思えません。もっともその方が「霊感的に楽ちん」でいいだろうしね。
さて閑話休題。知的な遅れもその内容は人によってさまざまですが、一般的には人懐っこかったり、いっしょに遊びたがったりします。
しかし自閉症児者の多くは他人との交流が苦手で、想像力に乏しくてこだわりも多いケースが多いので、交流するときに体に触れたり手をつなごうとするとパニックになることもあります。
また思ってもいない出来事が突然起こると、たとえそれが自分の誕生日を祝ってくれるものであっても強い不安でパニックになることもあります。
多くの自閉症児者は人々がざわざわとしている状態に出会うと不安になりストレスを感じることがあります。動物や赤ちゃんや元気な子供などの特定の人がとても気になったり、それらが引き起こす鳴き声や泣き声、叫び声や物音が苦手になり、耳をふさいでしまうこともあります。
♪今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ 亡羊
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