Thursday, April 19, 2007

吉田秀和と中原中也

鎌倉ちょっと不思議な物語56回

吉田邸は敷地は広いが、家は年代物のまことに粗末な平屋であるがまだ存在しているのに、数寄を凝らした小林邸は跡形もない。(小林の家と庭の無残な崩壊のてんまつについては吉田秀和全集23巻「小径の今」を参照のこと)

ここからわずか10数メートルの距離に大仏次郎茶亭がよく保存されているのを見るにつけ、まことに残念なことだったと思う。

吉田氏によれば、中原にとって音楽は生きるうえで必要不可欠なもので、彼の音楽論はすばらしく面白かったそうだ。

吉田氏と中也はよく一緒にモーツアルトやバッハを聴いたそうだが、あるとき「陽気な音楽にはもう飽きたよ」と言い出した。長谷川泰子との失恋はそれほどの衝撃を中也に与えた。「中也はあの失恋だけで一生を過ごしたようなものだ」と吉田氏は語っている。

可哀相だた、中也のことよ。

しかし、レコードが中原の手に入ると、いつも行方不明になったという。

大岡昇平が阿部六郎に持ってきたシューベルトの『死と乙女』の3枚組みは、たちどころに消えて中原に呑まれてしまった。

呑むためには金が必要で、中原は金のある奴に払わせてせっせと質屋に運んでいく。それを恩師の阿部は笑って許していたそうだ。ここらへんは辰野隆と小林秀雄の関係にちょっと似ている。

音楽、そしてフランス語の師匠であった中原を負かしてやろうと思って、吉田氏は奥さんのために買ったピアノで、毎日ヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いていた。

その吉田氏の傍に来て阿部夫人は、ハーッとため息をついていたそうだが、こういう話をきくと阿部六郎夫妻の偉大さはますます光り輝いて見える。
ちなみに阿部六郎は独文学者でかれが翻訳した角川文庫の『ツアラストラかく語りき』は私の愛読書でした。

それから、「吉田秀和全集第23巻」には、吉田氏が中也と麻布二の橋の青山二郎の家に泊まったときのエピソードが書かれていて、なかなかおもしろい。

当時青山は舞踊家の武原はん(もちろん先代の)と同棲していたが、吉田氏は彼女の素足の美しさに惹かれる。

そしてその翌日、二階の雨戸の隙間から朝の光が入ってきて、天井に光の条が何本かちらちらするのを見て、それが中也の「朝の歌」とまったく同じ光景であることに驚いたそうだ。

Wednesday, April 18, 2007

吉田秀和と小林秀雄

鎌倉ちょっと不思議な物語55回


音楽評論家にして最後の文人作家、吉田秀和氏は、2003年に愛するバルバラ夫人を亡くされ失望落胆の日々を送られていたが、最近ようやく再起されたようである。

朝日新聞、「レコード芸術」、「すばる」などに健筆を振るわれているのはご同慶の至りである。

その吉田氏が「中原中也のこと」というエッセイで彼の思い出を語っている。

『中也がもっとも好んだのは百人一首にある、♪ひさかたのひかりのどけきはるのひに しづこころなくはなのちるらん の1首だった。これを中原はチャイコフスキーのピアノ組曲『四季』の中の6月にあたる「舟歌」にあわせて歌うのだった。彼は枕詞の「ひさかたの」はレチタティーヴォでやって「光のどけき春の日に」から歌にするのだったが、そこはまたあのト短調の旋律に申し分なくぴったり合うのだった。私は彼にかつて何をせがんだこともないつもりだが、もしこういうことが許されるのだったら、彼にもう一度この歌を歌ってもらいたい。』

中也にフランス語を教えたのが小林秀雄で、吉田氏にフランス語を教えたのが中也だから、小林は吉田氏の大先生ということになるが、小林は晩年、現在の吉田邸の向かいに住んでいた。ちょうどその頃、私は由比ガ浜に向かって背筋をピンと伸ばして歩いていく小柄な男に下馬四つ角でぱったり出くわしたことがあるが、それが私が小林を見た最後の姿だった。

小林秀雄はグレン・グールドが死んだ翌83年に死んだ。小林は英国のピアニスト、ソロモンの弾くヴェートーヴェンが好きだった。

Tuesday, April 17, 2007

吉田秀和とバルバラ

鎌倉ちょっと不思議な物語54回

 私は評論家吉田秀和夫妻が手に手をとって、中原中也が死んだ清川病院の傍をゆるゆると歩いている姿を見かけたものだ。

平成15年10月、吉田秀和の妻、バルバラは半年間に及ぶ入院生活ののち、骨盤内腫瘍悪化のため76歳8ヶ月の生涯を鎌倉雪ノ下で閉じた。

ベルリン生まれのバルバラは、自分の故郷は変わってしまったので、死んだら吉田の先祖の眠る墓に埋めて欲しい、といって、和歌山県那智勝浦の町外れにある吉田家先祖代々の墓に葬られたという。

バルバラは、死の直前まで永井荷風の「断腸亭日乗」のドイツ語訳に心血を注ぎ、昭和12年の1月分までをようやく完成し、痛みをこらえながらベッドで腹ばいになって校正し、訳者の序文、あとがきを書き終え、装丁も自分の好みのものを指定してから亡くなった。

バルバラは「源氏物語」をはじめ平安期以降の日本女性の文学の素晴らしさに気付き、宇野千代、円地文子ら現代作家の短編集を欧州に紹介し、田山花袋、谷崎純一郎、川端康成などに関心を持ち、永井荷風の「墨東奇譚」を全訳し、漢学の素養を生かして「断腸亭日乗」の全訳に取り組んだのだった。

バルバラを失った吉田は、翌平成16年秋、「二人でいたときが一番幸せだった。オルフェオとエウリディーチエの神話のように黄泉の国に行って妻を連れ戻したい、とほんとうに思う」と語ったという。


(以上、07年2月2日号「鎌倉朝日」掲載の清田昌弘「かまくら今昔抄」より抜粋。写真はイタリア北部のマントバ近郊で発掘されたおよそ6千年前の新石器時代の抱き合う男女の遺骨)

Monday, April 16, 2007

大仏次郎茶亭にて

鎌倉ちょっと不思議な物語53回

年に2回の公開日ということなので、大仏次郎茶亭に行ってみた。

世間では「鞍馬天狗」で知られるこの作家の本宅はこの茶亭の斜め前にあったが、いまは別人が当時とは別の建物に住んでいる。

広い庭の真ん中に今では少なくなった茅葺の日本家屋の平屋がちんまりと控えている。

庭にはきれいどころが抹茶を接待し、縁側にはこの作家の代表作である「天皇の世紀」の冒頭ページと作家の死によって未完の絶筆となった最終ページが並べてあった。

それは長岡藩家老の河井継之助が最期を迎えるシーンである。

大仏は長期にわたって朝日新聞に連載したこの作品を、どうしても完成させたかった。

戊辰戦争が終結し、御一新が成就し、明治天皇が即位するところまでを、なにがなんでも書きたかったのである。

横浜の大仏次郎記念館に行くと、築地のがんセンターの病室に寝たまま執筆できるように木でつくった特製の執筆板を見ることができるが、それはまさに鬼気迫る遺品である。

彼の明晰な頭脳の裡ですでに構想は固まり、おびただしい資料は書庫にうずたかく積まれ、モンブランの太字が原稿用紙に走り始めるのを待ちかねていた。

しかし作家のからだを蝕んだがん細胞が、その続きの執筆をはばんだ。

花曇の空の下で、その悔しさ、無念さ、恨めしさがブルーブラックのインキに深くにじんでいた。

茶亭の別室の縁側には、「われは小さき杯より持たねど、それにてわが真心を汲み出すなり」という小デュマの言葉が、作家の自筆の色紙に毛筆で記されていた。

ちなみに、アレクサンドル・デュマ・フィスDumas fils(1824-95)は、「三銃士」「モンテクリスト伯」などを書いた父アレクサンドル・デュマの私生児で、ヴェルディのオペラ「椿姫」の原作を書いたことで知られる。

Sunday, April 15, 2007

前略 神奈川県知事 松沢成文殿

前略 神奈川県知事 松沢成文殿

長洲知事時代の神奈川県は、飛鳥田市制の横浜市と並んで全国の障碍福祉対策のトップを走っていました。

ところが近年貴殿が知事になってからは、私たち障碍者関係者にとってろくなことはほとんどありません。

その原因は靖国神社が大好きだった前首相が成立させた、悪名高い「障害者自立法」にあります。

この法律は名前だけは立派ですが、障碍者に対しては過酷なまでの自己責任と社会復帰を、福祉施設に対しては過酷なまでの経営効率第1主義、成果主義を強引苛酷に押し付けようとするものです。

そのため、ほんらい労働という概念すら理解できず、実作業にもまったくなじまない知的!?障碍者である私の息子なども、いやおうなく効率労働に駆り立てられざるを得ず、慈愛に満ちた心優しき施設スタッフたちも、過酷なノルマと管理主義の哀れな奴隷となりつつあるのです。

いままでの社会福祉施設は、心身の最弱者を優しく保護しようというものでした。

しかしこれからは、純情可憐なナイチンゲールにアメリカ直伝の経営学を叩き込み、「生き残り&金儲けのための福祉工場」に大変身させよう。社会的弱者にも、福祉施設にも、一般世間と同様の競争原理の荒波にさらし、勝ち組と負け組みの格差をつけ、敗北者はこの世から退場していただこう、というのが小泉前首相以降の現政権担当者のシナリオなのです。

このような障碍者と障碍施設殺しの悪法の施行にあわせ、いま神奈川県は、施設に対する運営費補助を全廃する暴挙をくわだて、平成19年度予算では昨年比4分の1、金額にして3億6700万円のカットを実施しようとしています。

その結果、私の家族などが通っている福祉施設では、

1)重度の障碍者の受け入れがとても難しくなり、

2)同性介護など利用者の人権を守るための支援ができにくくなり、

3)さまざまな地域生活支援事業が展開できなくなり、

4)職員の雇用にさらに支障をきたし、労働環境がさらにさらに悪化しようとしています。

貴殿を支持する民主党などでは「格差社会はけしからん」と騒いでいますが、私に言わせれば、それは健常者のわがままで、生まれながらに“あらかじめ格差をつけられている”のは障碍者(児)たちです。

ハンディキャップのある人たちの生活を守るために、どうか民間社会福祉施設運営費補助金を存続してください。 

また、障碍者(児)たちの生活を支えるために、同補助金の水準を現状維持し、これ以上ビタ一文削減しないでください。

以上、緊急に要請します殿

流鏑馬を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語52回

今日は鎌倉まつりの最終日で八幡様で流鏑馬神事がとり行われていたので、自転車に乗って見に行った。

流鏑馬は久しぶりだが、いつもながらの大迫力である。

武具に勇ましく身を固めた武者が、美しい優駿にまたがり、八幡様の数百メートルの間道を、東の端から西の端まで全力で疾走し、その間に三つの的を射る。

走りながら身をひねって矢をつがえ、的を狙い、ひょうと的を射るのである。

素人では到底できない神業であるが、今日は全的的中の名技が相次ぎ、つめかけた観衆からやんやの喝采を浴びていた。

流鏑馬は観光客めあての曲芸のように思われがちだが、実際は鎌倉時代の武士の遺風をいまに伝える豪壮な殺戮の荒業である。

往時百メートルの距離から弓を引いて百発百中、と伝えられる鎌倉武士の実力が、けっして嘘偽りのものではなかったことを、それこそ我々は目の当たりに実感するのである。

弓術の最後に到達すべき境地、それは弓も矢もなしに射当てることである。(オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」)

ひょうと射て はらりと散るか八重桜  芒羊

Friday, April 13, 2007

降っても照っても 第6回 

降っても照っても 第6回 

*G・ガルシア=マルケス著「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読む。

翻訳は原作とはまったく違うものである。両者は似て非なるもの、である。

それなのに私たちは翻訳を読めば原作を読んだと錯覚してしまう。これはじつに奇妙な話だ。そのことは原文を読み、いくつかの翻訳を読み比べてみると分かる。日本語でも源氏物語の原文と谷崎や与謝野の現代語訳の遠い遠い距離を思えばそれが理解できるだろう。

だからこのG・ガルシア=マルケスの本もこの木村榮一氏の翻訳で読む限りは「わが悲しき娼婦たちの思い出」をほんとうに読んだことにはならない。

それはともかく、川端康成の「眠れる美女」の主題によるマルケス版変奏曲が本書である。

川端が、「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」とラールゴで演奏を開始したのに対して、

マルケスは、「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」とアンダンテ・ポコ・モッソで第1主題を歌い始める。

ここに両者の、あるいは日本文学とラテン文学の違いがあざやかに示されている。

おなじノーベル賞を頂戴しながら、逗子マリーナで芥川譲りの「漠然とした不安」におののいて自死を遂げる作家と、老いてなお馬並みの巨大な逸物で少女を貫こうとする不滅の老人の生の躍動! そのあざやかな対比を見よ!

*山田詠美著「無銭優雅」も読む

これは吉祥寺を舞台にした、熟女と中年男の恋愛譚でなかなか読ませます。

エルメスよりユザワヤがおしゃれ、という視点は大賛成です。

軽薄現代カジュアル文体が不愉快だったが我慢して読んでいると次第に引き込まれました。

章間の縦横無人の引用が隠された第二の小・小説であり、それらが次第にクレッシェンドして絶妙な効果を発揮し、最後の最後にとんでもないところまで連れて行かれてしまいました。

しかしこの結末はいったいなんなんだ? 

Thursday, April 12, 2007

降っても照っても 第5回 

「吉田秀和全集第24巻ディスク再説」を読む

キャンバスを前にして、人物や風景を描こうとするときには目と頭が必要だが、ドガのように線で描くか、セザンヌのように色で描くか2つの方法があるのではないだろうか。

前者は対象を知的・分析的にとらえ、後者は直観的・直感的にとらえる。

「デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である」と語ったドガは、「橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす」とも語った。

しかしセザンヌは、「君たちのいう有名な線はどこにあるのか? 私には自然の中には色しか見えない」というドラクロアの思想をさらに徹底的に延長し、「色彩が充実豊富になればなるほど表現は精密的確になる」と考えた。

それもさまざまな色彩を使い分けたり、複合的に組み合わせたりしながら個々の物体、あるいはいくつもの物体の集合を描くだけではなく、そういった物体だけの存在する空間そのものを画面に掬い取り、現出させることを目的とするようになった。

自然の世界に見出される「あれやこれやの個々の物体」でなくて、描くことによってはじめて生まれてくる空間、つまり絵画的空間を作り出すこと。これがセザンヌの仕事が終局的に到達すべき地点だった。

セザンヌはまず水平と垂直の軸を定め、そこにこれから現出させようと望む空間の枠、いや正確には骨組みを設定する。

「水平に平行の線は広がりを、その水平に対し垂直の線は奥行きを表す。そうして人間にとっては自然は横の広がりよりも縦の奥行き、深さを通じてかかわってくるのである」

セザンヌはそうやって設定された骨組みを絵画的空間として「実現する」段階にどんどん深入りする。それが「線でなく色で描く」彼ほんらいの作業である。

ある丹波の老人の話(18)

第三話 貧乏物語その5

続いて翌年の正月の大売出しも千客万来で、他の店からうらやまれ、「なかなかやるもんじゃ。さすがは春助の子じゃ。と人からも褒められるようになりました。父は道楽で身を誤まったんでししたが、商売は上手やったんです。

このように私の店がはやるのを見て、あれほど詰め掛けた借金取りもバッタリ来なくなりました。

差し押さえの口にはわたしはが直接行って話し合い、だいぶまけてはもらいましたがともかく皆済し、正月には封印の取れた畳の上でめでたく雑煮が祝えたんどした。

まだ借金は残っとりましたけど、誰も取立てを催促する者はなく、それどころかまだ大口三百円も残っている債権者から、「また入ったらいつでもつかっておくんなはれよ」と言われるほど、昨日の鬼も仏になって、急に融通も効きはじめたんでした。

今までは元値を切って売っていたもんですから、全然儲けにはなっとらへんのですが、とにかく商品がよく捌けて相当額の金が不自由なく融通がききだし、店の名前があちこちで話題になり、お得意先が増えたことは商人にとって絶対の強みでした。

問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたんで、信用は満点で先行きは明るく、まだ借金が残っていることも格別気にはなりまへんでした。

Tuesday, April 10, 2007

第三話 貧乏物語その4

ある丹波の老人の話(17)

私は「今は金がないが、けっして不義理はしないから、これだけでできるだけ多くの商品を卸してください」と十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して五十円ほどの下駄と下駄の緒を送る約束をしてくれました。

この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円ずつ金を渡して商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送屋に出荷されるところまで見届けて郷里に戻ったんでした。

それから秋祭りももう終っており、時期はずれではありましたが、私は赤提灯を五つ六つ店の軒にぶらさげて下駄の大安売りを開始し、元値を切っての大バーゲンを敢行したんでした。

案の定安い、安いと飛ぶように売れたので、私はその金を持って再び大阪に行き、前の残金をきれいに払い、今度は前金なしに前より遥かに多く三つの店から商品を卸してもらいました。

それがちょうど年に一度のエビス市に間に合い、私はまたもや元値を切ってジャンジャン下駄を売りまくりました。

毎日毎晩お客がアリのように群がり、おもしろいほどよく売れました。

そして「この町は下駄がめっぽう安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴からも買い手がやって来るようになり、私の店ははやりにはやりました。

Monday, April 09, 2007

ある丹波の老人の話(16)

第三話 貧乏物語その3

これまでの概略→ 丹波の国のある老人の物語。青年時代に養蚕教師をしていた主人公は父親の借金の返済に追われてとうとう夫婦で愛媛県に夜逃げする羽目になってしまった。


私は差し押さえ残りの手回り品と売れ残りの下駄を信玄袋三つに詰め込み、駅の近くの知人の家に預けました。手元には必死で工面したお金がようやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかありまへん。それがほんまに心細かったんですわ。

それから舞鶴に嫁いでおる妹のことや福知山の二〇連隊に入隊しておった弟のことを思い、弟が満期退営しても帰る家がなかったらえろう困るやろ、などと思いだすと、ますます心配になって、夜逃げの決心もだんだん鈍ってきよりました。

思い余って頭のうしろに両手を組み、ゴロンと寝転んで考え込んでいたとき、ちぎれた新聞紙が枕元にあったので、何気なく目を通すと三文小説が載っていました。

そこには不思議なことに、私のように借金取りにいじめられている男のことが書かれていて、
「今はなんといわれても金は一文もねえ。ただし俺も男だ。キンタマだけは一人前のを持っているから、これでよかったら持って行け!」
と、タンカを切るところがありました。

これを読んだ私は、メソメソしている自分をふがいないと思いました。そしてこの小説の男のように、もっと図太くやらんとあかんと思ったのです。

そうだ、夜逃げなんか止めにして城を枕に討ち死にの覚悟でここに踏みとどまろう。そしてなんとかして少しでもまとまった金を手に入れよう。逃げるにしてもそれからだ、と思い直したんですわ。
そこで私は、虎の子の二十円あまりを持って大阪へ鼻緒などの仕入れに行きました。

しかし今まで取引しておった問屋へは借りがあるから顔出しができまへん。

そこで御堂筋の方へ行って別の問屋を探しました。すぐに二、三軒見つかりましたがなにしろ二十円足らずのはした金を持って虫の良い無理を言おうというんでっからどうも敷居が高うて店の中へ入れまへん。

行ったり戻ったりしていると、近くに座摩神社ちゅう立派なお宮があったので、そこへお参りしていきなり鈴をメチャクチャに鳴らして祈りました。
「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」とね。

それから、ヨーシと勢いをつけて店の前まで戻たんですが、どうにも敷居がまたげない。

仕方なくまた神社に引き返して、今度は傍にあるお稲荷さんにも祈ったんですが、やはり入れない。

また引き返して三度目を拝んでいったら、今度は入れました。

Sunday, April 08, 2007

畏るべし、友川カズキ

♪音楽千夜一夜 第18回

土曜日の夜に、NHK-BSの「フォークの達人」で友川カズキという物凄い歌手のうたを聴いた。

友川は1950年に秋田で生まれ、70年代から活躍していた詩人で、画家で、博打打で、歌手でもあるという。眉目秀麗な大酒呑み、だそうだが、一聴一見、とにもかくにも圧倒された。

ありふれた言い方だが、このように己の全存在を1曲に賭け、ギターを叩き付け、殴りつけ、己のはらわたをギターで掴んでは投げ捨て、捨て身の歌唱に生き様を晒すような歌い手が、この平成の御世にも残存していようとは、ああ不覚にも知らなんだ。

もっとも、彼を知らないのは私だけかもしれない。

が、遅すぎたにもせよ、このような魂を直撃する芸能者にようやく巡り合えた感動と喜びを伝えないわけにはいかない。

冒頭の「生きてるって言ってみろ」でショックを受けた私は、アンコールで歌われた中原中也の詩による「坊や」までの全17曲、1時間半の吉祥寺ライブを、ただただ口をあんぐり開き、よだれを垂らし、呆然自失して聴き惚れておりました。

こいつの前では吉田拓郎、三上寛、友部正人、高田渡も到底敵ではない。まさに縄文人の魂の絶唱、絶叫であります。

生の跳躍が、そのまま、息も絶え絶えのうたになる。

歌うも命懸け、聴くも命懸けとは、げにこの人の音楽道であろう。

とても生半可に聞き流せない音楽を、この人はする。大量の焼酎を呷りながらシャウトする。飲まずには生きられぬ、飲まずにはうたえないという一見破滅型ながら東北人特有の図太く粘り強い冷静さも合わせ持っていて、その二重性もまた魅力的である。

「サーカス」、「また来ん春」、「坊や」など中也原作の詩に作曲したものもいいが、自作自演はもっとすごくて、素晴らしい。

「似合った青春」、「夢のラップもういっちょう」「おじっちゃ」の激情、「訳のわからん気持」「乱れドンパン節」のアナーキズム、「ダンス」「ワルツ」の退廃の美……
これを至高の芸術と呼ばずしてなんというのだ! 

石塚俊明、永畑雅人、松井亜由美、金井太郎など、元頭脳警察のメンバーを交えたバックの演奏がまたすごくて、素晴らしい!

NHKさん、またしてもいい死土産を見せていただきました。この放送はおそらく再放送されるだろう。また今すぐならYOUTUBEでもこれらの名曲の一部を視聴することができます。

友川カズキ、断じて逸すべからず!

Saturday, April 07, 2007

ふあっちょん幻論第6回

1750年まで、中国は生活水準と文明の発展において欧州と肩を並べていた。
いや、繁栄の度合い、政治、芸術のいずれにおいても勝っていたといえよう。

しかし産業革命がすべてを変えた。綿の織物産業における中国の家内制手工業の優位を打ち破ったのは、英国のジェニー紡績機と蒸気エンジン、そして専門家による分業生産システムであった。

中国を打倒し、世界の綿糸需要の半分近くを供給した英国の綿産業は、1930年代に大量生産方式の米国にその優位を奪われ、18世紀後半になると世界最大級の工場はすべてニューイングランドに集中していた。

また米国における綿生産の中心地は次第に南部に移り、その唯一最大の成長エンジンは中国への輸出だった。19世紀末、米国の織物輸出の半分以上を中国が消費し、米国から中国への輸出の半分以上が綿織物だった。その大半を製造したのが例の映画「風と共に去りぬ」に出てくる奴隷制で知られる南部だった。

そこに登場したのが旭日昇天の日本帝国で、1930年代半ばには日本が世界の綿製品輸出のほぼ4割を担うようになるのである。

英国に100年遅れた日本でも、この産業に従事する労働者は半分以上で繊維製品は輸出の3分の2を占めていた。第2次大戦前までの日本にとって世界で通用する唯一の産業が綿織物だったのである。(「ある丹波の老人の話」を参照)

日本の紡績能力は大戦中に9割以上が破壊されるが1950年代にはトップの座を取り戻すことになる。当時の日本は繊維のみならず衣料品貿易においても世界を主導していた。

ところが60年代になると二つの領域における日本の貿易シェアは次第に減り、さらに安くて従順な労働力を持ったアジアの国々が競争をリードするようになる。

そしてついに70年代には香港、韓国、台湾の新興工業国・地域が日本を抜き去り(アジアの奇跡)、70年代半ばに香港が世界最大の衣料輸出国に躍り出る。

しかし、本命はその背後から迫っていた。

1980年以来中国の衣料品輸出は毎年平均して3割以上の成長を続け、1993年には世界最大の衣料品輸出国になり、今日もなお米国が綿の世界市場に君臨するのと同様、その後もずっとその位置を維持している。

2005年に多国間繊維取り決めMFAが廃止され、中国の繊維製品は欧米の港に押し寄せたが、欧米諸国は改めて中国に厳しい輸入制限を課し、自国の繊維産業を懸命に保護したのであった。

先進国と発展途上国の貿易摩擦の対立は、これからますます熾烈なものになるだろう。

(参考 森安 孝夫著「シルクロードと唐帝国」、ピエトロ・リボリ著「あなたのTシャツはどこから来たのか?」)

Friday, April 06, 2007

さようなら中也

さようなら中也

鎌倉ちょっと不思議な物語52回

去る平成10年10月9日から11月23日まで、鎌倉文学館で特別展中原中也-鎌倉の軌跡―が開催された。

この展覧会を見た私の記憶に今なお残っているのは、中也遺愛のコートである。

中也にはアストラカンコートを歌った詩もあるが、中原夫人美枝子氏蔵にかかる一着の黒のウールのコートにはおもわず息を呑んだ。

素材も仕立てもカッテイングも素晴らしいそれは、まるで中也の青春の象徴のようであり、詩人は死んでもその存在をまさに眼前にあるがごとく生き生きと伝えていたのであった。

肉体はたやすく死すとも、物質は遥かに長く地上に残り、孤高の詩人の魂は、父母未生以前の永遠に残るのであろう。

なおこの中也と鎌倉のシリーズでは、このときの特別展のパンフレットの記事を参考にさせてもらった。

では最後に私がいちばん好きな中也の詩を読んでください。BGMはチャイコフスキーの「四季」の舟歌か、ハイドンの中期の交響曲のメヌエットで…。

なお、この詩は中也が代々木上原の友人の下宿に泊まった翌朝に生まれたものです。

天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍樂の憶ひ
手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし

樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

Thursday, April 05, 2007

謎が解けた!

謎が解けた!

♪音楽千夜一夜 第17回
 
あの有名なバッハ・コレギウム・ジャパンの音楽監督で、チェンバロ・オルガン奏者でもある鈴木雅明氏は、高校三年の半ばまでは脳外科医を目指して猛勉強をしていたそうだ。

ところがそんな夏のある日、氏はたまたま作曲家の萩原秀彦氏のレクチャーを聞いたそうな。

萩原氏はバッハの平均律クラヴィーア曲集の第8番を解説して、「この曲に出てくる5度の跳躍、3度の下降、そして3度の上昇は、父とキリストと精霊の三位一体を表わす」と言ったそうだ。

その瞬間、鈴木氏は猛烈な感銘を受け、「やはり音楽はすごい。バッハはすごい!」と痛感し、脳外科医の夢はどこかへすっ飛んで晴れて音楽家になった、という。

この話を聞いてなにやら不可解な疑惑を抱いた私は、グールド、リヒテル、ロザリン・チュレック、シュナーベル、ニコラーエワ、グルダ、アファナシエフ、マーチン、シフ、アスペレンの計10名の演奏で、同曲のプレリュードとフーガを繰り返し、繰り返し聴いた。

そしてそのたびに「5度の跳躍、3度の下降、そして3度の上昇」は何度も何度も登場したのだが、不幸なことにいくら耳を澄ませても、不信心な私にはそれが「父とキリストと精霊の三位一体を表わす」ものとは聴こえなかった。

そして昨日、ついに私はその理由がわかった。

私は高校時代の世界史でニケーアの公会議(325年)について学んだとき、三位一体説を唱えた勝ち組のアタナシウス派よりも、三位一体を否定する負け組のアリウス派に共感を抱き、それがかの名曲迷鑑賞の大いなるさまたげになっていたのだった?!

中原中也の最期

鎌倉ちょっと不思議な物語52回

昭和12年夏、中原中也は詩的再出発を目指し、詩生活に沈潜するために故郷山口の湯田への帰郷を決意する。

中也は疲労困憊した精神と肉体をふるさとで回復して、ふたたび文壇に復帰するつもりだった。

しかし中也の衰弱は激しく旧友安原喜弘を訪ねた翌10月5日に結核性脳膜炎を発病、翌日鎌倉養生院に入院した。それが現在の清川病院である。(写真)

これまた余談ながら、私の行きつけの病院もこの清川病院である。

そして昭和12年10月22日、詩人の中の詩人、中原中也は家族と友人たちに看取られながら永眠した。

おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発する都会の夜々の燈火を後に、
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。(「四行詩」)

これは詩人、中原中也(明治40年~昭和12年)が入院前に書きのこした最後の詩である。


小林秀雄に託された詩集「在りし日の歌」は翌13年に出版された。遺骨は郷里での告別式のあと、吉敷の中原家先祖代々の墓に葬られた。


ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破って、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖。  「骨」

Tuesday, April 03, 2007

ポール・ヴァレリーの「ドガ ダンス デッサン」を読む

ポール・ヴァレリーの「ドガ ダンス デッサン」を読む


降っても照っても 第4回

わが偏愛の思想家による偏愛の書に清水徹氏の新訳が出た。

これは正確という病にとりつかれた孤独な思想家ポール・ヴァレリーが書いた、言葉の厳密な意味でもっともで楽しく、もっとも正統的で保守的で、才気煥発たる美術論考であり、小林秀雄の初期の美学論の源泉がここにある。

 その中からいくつかの言葉を紹介しよう。

 ・デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である。ドガ。
 ・橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす。ドガ。
・航海術の言語あるいは狩猟の言語ほど美しく実証的なものがあろうか? ヴァレリー。
・詩句は言葉でつくられる。マラルメ。
・「人間は自然の敵である」フランシス・べーコン→エミール・ゾラ→ドガの言葉
・私が「大芸術」と呼ぶものは、単純にひとりの人間の全能力がそこで用いられることを要請し、その結果である作品を理解するために、もうひとりの人間の全能力が援用され、関心を向けねばならぬような芸術のことである。(中略)恣意的なものから必然的なものへの移行、これほど驚嘆すべきことがあろうか? これこそは芸術家の至高の行為であり、それ以上に美しいものがあろうか?ヴァレリー。

 私はこのうち最後のヴァレリーの言葉に導かれて、自分がもっとも軽蔑し、もっとも不案内であった領域の職業にあえて従事する決意を固め、その醜い軌跡が私の人生そのものとなった。

私はなんとヴァレリーの言う「完全なる人間」をめざしていたのである。(笑)

中原中也と小林秀雄

鎌倉ちょっと不思議な物語51回


晩春の夕方、中原中也と小林秀雄は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。

花びらは死んだような空気の中をまっすぐに間断なく落ちていた。

花びらの運動は果てしなく、小林は急に嫌な気持ちになってきた。我慢ができなくなってきた。

その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいいよ、帰ろうよ」と言った。

小林ははっとして立ち上がり、「お前は相変わらずの千里眼だよ」と吐き出すように応じた。

中原はいつもする道化たような笑いをしてみせた。

それから二人は八幡宮の茶店でビールを飲んだ。

夕闇の中で柳が煙っていた。

『中原はビールを一口飲んでは「あヽボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何だ」「前途芒洋さ、あヽボーヨー、ボーヨー」と中原は眼を据え、悲しげな節をつけた。詩人を理解するということは、詩ではなく生まれながらの詩人の肉体を理解するということはなんと辛い想いだろう…。』
(小林秀雄「中原中也の思い出」より)


余談ながら、私の俳号である芒羊はこの下りと漱石の三四郎の「ストレイシープ」からとりました。

愛するものが死んだ時には
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも業が深くて
なほもながらふことともなったら

奉仕の気持ちに、なることなんです。
奉仕の気持ちに、なることなんです。       「春日狂想」

Sunday, April 01, 2007

中原中也とキリスト教会

「鎌倉ちょっと不思議な物語」第50回特別記念号

 
中原中也は母の従妹の西川まりゑと一緒によく天主公教会大町教会を訪れ、ジョリー神父の話を聞いた。

この教会は現在も同じ場所にあり、建物は改築されたがカトリック由比ガ浜教会として現存している。

礼拝堂の前にはマリア像、右側には司祭館、奥にも離れがありかなり広大な敷地にさまざまな花が植えられている。長谷の大通りを少し入った驚くほど静謐な環境である。

中也と教会、それはランボオとの交友から足を洗ったヴェルレーヌの改心を思わせる。


老いたる者をして静謐の裡にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵に魂を休むればなり
「老いたる者をして」(空しき秋第12)

中原中也と空気銃

鎌倉ちょっと不思議な物語49回

昭和12年当時の鎌倉には小林秀雄、今日出海、大岡昇平、中村光夫、島木健作、岡田春吉、高原正之助などが住んでいたが、中也は足しげくこれらの友人たちを訪ねた。また街中の散歩にもよく出かけ、映画館や書店や商店や寺社仏閣を訪ね歩いた。

中也は林屋という百貨店で空気銃を買い、以後しばしば鎌倉八幡宮や大塔宮へ雀を撃ちに出かけている。かつての林屋百貨店は現在では林屋材木店になっている。(写真左)

また中也は長谷の「からこや」というおもちゃ屋ではドミノを買った。

今年3月中旬にその「からこや」を久しぶりに訪ねたら、なんとシャッターが下りていた。(写真中)

愛嬌のある三人姉妹がいらっしゃーいと迎えてくれるいい店だった。2月の中旬にさよならバーゲンをして閉店したばかりだという。

同期の桜が散ったようでとても寂しいが、「からこや」のご主人は長谷商店街の会長さんなので閉店後も一人残って町の存続のために頑張ってくれるという。(お向かいの金物屋さん談話)

ドミノも空気銃も買えなかった私は、小町の商店街のたった1軒のおもちゃやで、パチンコと玉をセットで352円で買った。(写真右)

これで鎌倉の山々と動植物を荒らすタイワンリスをビシバシ撃ち殺すつもりだ。

ひねもす空で鳴りますは
あヽ電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あヽ、雲の子だ、雲雀奴だ

碧い 碧い空の中
ぐるぐるぐると 潜り込み
ピーチクチクと啼きますは
あヽ雲の子だ、雲雀奴だ                  「雲雀」

Friday, March 30, 2007

中也の終の住処

鎌倉ちょっと不思議な物語48回

中也最後の居寓となった寿福寺は、頼朝の夫人政子が栄西を開山として建てた鎌倉五山第三位の寺である。

ここは臨済宗ではもっとも早く創建された。境内(国史跡)には総門、石畳の参道、山門、宋風の柏槙、仏殿などがあり、裏山には三代将軍実朝と政子の墓と伝えるやぐらに五輪塔がある。

そして中也の家はこの寿福寺の境内にあった。境内には池があり、その鳴き声が「蛙声」1篇となった。

天は地を蓋ひ、
そして、地には偶々池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
―あれは、何を鳴いているのであらう?

その声は、空より来たり、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声は水面に走る。

私のははの家にも蛙ならぬオタマジャクシが小さな池で泳いでいる。

こうやってほんの1部を別途飼育して万が一の絶滅に備えておき、初夏になったら太刀洗の天然の水溜りに離してやるのだ。

(写真は寿福寺とその境内にある池)

中原中也と鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語47回 

これからしばらく、鎌倉のなかの中原中也の足跡を辿ってみようと思う。

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ  「頑是ない歌」

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる「汚れっちまった悲しみに…」


昭和12年(1937年)は中也最後の年であるが、この年は盧溝橋事件で日中戦争が始まった年でもある。

私はわずか30歳で亡くなった中也の不幸を思うが、彼にとって唯一のさいわいは、これに続く太平洋戦争の災厄を知らずに死んだことであろう。

昭和8年12月に結婚した中也は、四谷の花園アパートに居を構え、翌年長男文也が誕生し年末に「山羊の歌」が刊行された。

昭和10年から11年にかけて中也は当時小林秀雄が編集長を務めていた文学界や暦程、四季、をはじめほとんどの文芸誌、詩誌に数多くの作品を発表する。中也の短い生涯のもっとも輝ける年である。

しかし11年の11月に文也が病没し次男愛雅が誕生すると神経衰弱が昂じ、千葉市の中村古峡療養所に入所する。

翌12年の2月にここを無断で退院した中也は、友人の関口隆克と一緒に鎌倉の家を探す。文也の思い出のある場所に住むことに耐えられず古くからの友人の多いこの町に住もうと思ったのである。

関口の証言によると、中也は月のある夜に窓から空を見ていると、屋根の上に白蛇が横たわっていて、それが子供を殺したというので屋根に出てその蛇を踏み殺そうとしたという。

そして中也は2月27日に鎌倉の寿福寺境内に転居し、その同じ2月に「また来ん春……」を、4月に絶唱「冬の長門峡」、5月に「春日狂想」を発表するのである。

私はこれらの作品を口づさむと、どうしてもモーツアルトの晩年の歌曲「春へのあこがれ」と最後のピアノ協奏曲の、あのうらがなしいメロディーを思わないわけにはいかない。

Wednesday, March 28, 2007

あヽ無情

鎌倉ちょっと不思議な物語46回 

昨日はとても悲しい事件があった。

家内が滑川にブルドーザーが入って川床を掃除しているというので見に行くと、草も土も泥もきれいになくなりコンクリートの上を水がさらさらと流れていた。

泥の中に眠っていたカワニナは小さな魚やヤゴ(トンボの幼虫)やカメやカニなどと一緒に鉄の輪に粉砕されておそらく全滅してしまっただろう。

ここは昨年七月の日記でも書いたように天然自然のヘイケボタルが棲息する鎌倉でも数少ない場所である。

初夏ともなれば私たち夫婦だけでなく大勢の住民が橋のたもとに三々五々集い、橋の下や樹木のこずえを舞いながら点滅する微かな光をあかず鑑賞し、それがほとんど老後の唯一の楽しみであるようなカップルもいた。

昔日の栄光に比べれば微々たる数あるとはいえ、ホタルたちはおそらくここに人間が住む前の時代から棲息していたのだろう。

それがたった数時間の「お掃除」で生命の連続の歴史を絶たれる。なんともはかなく悲しいことではないか? 

河川工事の担当は藤沢にある県の土木事務所に連絡したところ急遽工事を停止してはくれたのだが、時すでに遅しで、ホタルが棲むスイートスポットは跡形もなかった。

土木事務所の担当者に怒りをぶつけたが、ただ謝るのみ。これからは事前に環境調査を行い町内会などの了解を取り付けてから作業をすると言ってはいたが、一度破壊した環境を取り戻すことは半永久的にできないだろう。

ホタルを人工的に飼育することはできるようだが、天然自然のこの場所で復活させるにはどうすればいいのだろう?

そもそも彼らはいったいどうして河川の清掃を開始したのだろう? 恐らくは期末の予算消化のための河川掃除やっつけ仕事であろう。

この川は高い堤防で囲われておりいくら増水しても氾濫の危険はない。いつのまにか土砂が堆積しそこに草や小さな木が茂ることはあってもそれが景観を美化し動植物の生態系に好ましい影響を与えることはあってもその逆はまったくない。

にもかかわらず、ブルで清掃する理由が分からない。

つい最近私は近所のおじさんがいぬふぐりの可憐な花をなんと火炎放射器で丁寧に焼いている姿を見て驚いたが、どうも日本人という奴はヘンなところで潔癖かつ奇麗好きで、雑草(そんなものは存在しないのだが)や落ち葉は邪魔者であり、不要であり、醜いものだから、きれいさっぱり片付けるという奇妙な風習があるようだ。

ちなみにこの土木事務所は、ここ数年狂ったように鎌倉の山すそを削り、強固なコンクリートの防御壁をいたるところで張り巡らせている。

地震などで傾斜地が崩落する危険があるというのだが、そのために物凄い税金を投入し、ここでも貴重な自然環境を破壊している。

環境と安全の調和を図ろうとする姿勢など、これっぽっちも見えないのは残念である。

Tuesday, March 27, 2007

石原慎太郎かく語りき

石原慎太郎かく語りき

あなたと私のアホリズム その15 

慎太郎妄言録

その1
「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア。男は80,90でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」(週刊女性2001年11月6日号) こんなジュラ・白亜紀の遺物のようなアナクロおやじなのに、朝日や共同の調査では石原のほうが女性に浸透しているらしい。ナゼなんだ!! ひょっとして女性たちはこの妄言を忘却しているのではないか。「お年寄り」は弊害ではなく、社会の宝物だ。これを思い出せば、あの櫻井よし子だって石原支持とはよもや言いますまい。
その2
(重度の障害者について)「ああいう人ってのは人格あるのかね。」(朝日新聞朝刊1999年9月18日)

 他ならぬ障碍者を長男に持つ私にとってこれは絶対に許せない発言です。どんな障碍者だって少なくともあなたより優れた人格を所有していると断言できます。

その3
「俺はナマコとオカマは大嫌い」

 おすぎとピーコが聞いたらなんと言って怒ることか。それに第一ナマコに対しても失礼です。やたらまばたきするあなたの尊大顔こそナマコ以下の醜悪さでは?

その4
「前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったのじゃないか?」
32年前の1975年、当時72歳の美濃部都知事にこう言ったご当人はいまなんと74歳。天に唾する者はなんとやら、です。

その5
「東京では不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害が起きた時には、騒じょう事件すら想定される」(毎日新聞」夕刊2000年4月10日)

「第三国人は差別用語なんですか。その訳をきかせてもらいたい。辞書にはっきり出ていますな」(サンケイ新聞朝刊2000年4月13日)
 
 第三国人とは、第二次大戦前および大戦中、日本の統治下にあった諸国の国民のうち、日本国内に居住した人々の俗称で、敗戦後の一時期、主として台湾出身の中国人や、朝鮮人をさしていった言葉であることは事実。しかしこの言葉が、彼らを貶める差別用語であることは、いやしくも言葉の専門家であるベテラン現役作家のあなたならよーくご存知のはず。

その6
「北京五輪は1936年のヒトラーのベルリン五輪同様」

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い? いったいどこが同様なの? あなたの頭の中はどうなってるの?

その7
「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格しているもの、むべなるかなという気がする」(毎日新聞朝刊2004年10月20日)

明確でないものはフランス語ではない。とフランスの知識人は自国の言語を格別誇りに思っている。数字を勘定できないのにガロワはどうしてフランスの天才数学者になれたの?
おふらんすの学者たちは、あなたのことを軽蔑し、激しく怒っておるぞ。
 ああ、どこまで続くか慎太郎妄言録……

まあそんなこんなで、来る3月30日(金)夕刻、新宿西口に怒れる女性たちが総決起して、「ババア発言知事NO! 女性行動」を開催するそうです。

Monday, March 26, 2007

ある丹波の老人の話(15)

第三話 貧乏物語その2

 私はありもしない金をはたいて牛肉をこうて親類の人々に集まってもらって相談に乗ってもらいましたが、叔父の一人は「おじじやおばばいうもんは縁のうすいもんじゃ。きょうだいとか嫁の親元とかで心配してもらいなはれ」などといって、結局構ってくれる者は一人もなく、かえってこんなことをしたのが仇となって督促はますますきびしゅうなり、ついに一部の債権者から財産を差し押さえられ、福知山からなんとかいう執達吏がやってきて、家財道具、畳、建具にいたるまで封印をつけてしまいよりました。

ところがこの執達吏は情け心のある人で「私は職務上やむをえずこんなことをやるが、あんたにはまことにお気の毒なことや」と、父の借金のために苦しんでいる私に思いやりのことばをかけてくれました。

これこそ鬼のおやだまはか、と恐れおののいていた執達吏にやさしく慰められたんは地獄で仏におうたほどうれしかったもんでした。

 しかしこんな惨めな身の上になってしもうた私は、もう到底故郷では生きてはいけんと思いました。

そうや、愛媛県に行こう! あそこでは蚕業界に多少は私の名前も売れているし、青野氏のような有力な知人もある。松山市には渡辺旅館という泊まりつけの宿屋もあるから、私たち夫婦をひと月くらいなら泊めてくれるやろう。その間に養蚕界にでも就職できるかもしれん。たぶんなんとかなるやろう…。

私は妻にもそんな話をして、夫婦で夜逃げをする決心をしました。

Sunday, March 25, 2007

天気のいい音楽

♪音楽千夜一夜 第16回 

音楽評論家の片山杜秀氏が「レコード芸術」2月号に映画監督小津安二郎と斉藤高順の関係について書いている。

斉藤は小津作品のうち「東京物語」「早春」「東京暮色」「彼岸花」「浮草」「秋日和」「秋刀魚の味」の7作の音楽を担当していて、“フェリーニとロータ、ゴジラと伊福部、トリュフォーとドルリュに匹敵する”名コンビであった。

私は長らく小津映画の唯一最大の欠点は、その映像と無関係であまりにも楽天的なジンタ調の映画音楽にある、と考えてきたが、最近いや、かえってそのことがいやがうえにも小津の映像の深さを伝えているのではないかと思うようになったが、片山氏の論考はそのことをもっと掘り下げて考えていた。

また私は、これまで斉藤高順という人を無名に近い音楽家と勝手に想像していたのだが、それはとんでもない間違いであった。

斉藤は「海ゆかば」の信時潔の弟子で海軍軍楽隊に入り昭和47年には航空自衛隊航空音楽隊の隊長に就任、昭和51年には旧陸軍軍楽隊とつながりが深い警視庁音楽隊の隊長を務めるのである。いわばマーチやポルカの権威であった。

ここで映画の話に戻るが、そもそもサイレント映画には無声の画面を活性化するこのにぎやかな音楽が必須の味付けであった。

ところがトーキーが導入されると、同時録音の映像は脚本のドラマ性を表現し、登場人物の感情の起伏を十分に伝えるようになり、音楽は映像の内部に深く入り込んで、そのドラマツルギーをいっそう劇的に強調するようになる。

しかしトーキー時代に入ってもサイレント時代の映画作法、つまり映像だけがドラマツルギーを支え、音楽はそのドラマの枠外で映像を活性化する「劇伴」としてのみ機能することを望んだ小津は、自由で個性的な音楽作りを許さなかった。

片山氏は、そこにマーチやポルカの権威である斉藤の存在理由があったというのである。

私にとって小津映画のもっとも小津的な瞬間、

それは斉藤高順の軽やかな音楽が流れ、主人公の原節子が、専務役の佐野周二または佐分利信または山村聡または笠智衆を訪ねてくる、正午前の穏やかな日差しが当たっている丸の内のビルジングのロングショットに他ならない。

小津が願ったのは「いつも天気のいい音楽」であり、斉藤だけがその粗雑なようでいて深い思想が込められた注文に応えることができたのであった。

光と影

あなたと私のアホリズム その14

3月23日の日経の朝刊に、理化学研究所が人とマウスに共通する自閉症の遺伝子を発見したという記事が出ていた。

理研では対人関係や言語に障碍などを起こす自閉症と関連の深い遺伝子を発見、この遺伝子が欠損するマウスで自閉症に似た症状が現れたという。

これまで「自閉症の人間における遺伝子の発現異常」は3件見つかっていたが、「マウスと人間で共通する自閉症の遺伝子」が見つかったのは今回が初めてだという。

この研究は理研の古市貞一チームリーダーらが担当したもので、彼らは神経の栄養物質「BDNF」の分泌を調節する遺伝子「CADPS2」に着目。この遺伝子を欠損したマウスの行動を調べると体内時計の異常など自閉症の特徴的な症状が現れた。

そこで自閉症者の「CADPS2」を調べたところ異常が発見された。彼らは今後は「CADPS2」や「BDNF」を標的とする治療薬の開発などを検討するというのである。

これは自閉症者の長男を持つ私にとって30年ぶりの朗報であった。

現在でこそ自閉症は脳の器質障害、中枢神経系の機能障害としてひろく認知されるようになったが、一昔前は情緒障碍だとか、根暗の引きこもりだとか、精神病だとか、母親の育児方法の誤り(母源病)だとか、はては砂糖の摂り過ぎだとか、虚説迷妄が入り乱れて収拾がつかなかったものである。

当時、私たち自閉症の親は様々な病院を訪ねてこの難病の治療を捜し求めたのだが、どこへ行っても薬も対策案もなく途方に暮れたものだ。

溝の穴や水道の水やくるくる動くものなどある特定の事物や行為に固執する症児の行動を、矯正するのか(行動療法)、放置するのか(受容療法)についても学会の意見がまっぷたつに分かれ、親たちを戸惑わせた。

特に弊害が大きかった、と私が個人的に思うのは、神奈川県戸塚ドリームランド近辺にあった国立の某子ども自閉症医療センターである。

ここに勤務していた小児自閉症専門の担当医師は、いま振り返ればじつに時代遅れで、現在ではもっとも非科学的な母源病説を声高に唱え、「お母さん、この病気の原因はあなたの育て方が悪かったからです!」などと偉そうに抜かしていた。

あれからおよそ30年、理研の遅々とした、しかし障碍の本質に迫る科学的な研究成果を、あの自称自閉症専門家どもは、いったいどんな顔つきで読んだのだろうか?

私はしたり顔で中世さながらの「魔女狩り」ごっこを演じていたあの医師たちを、いまなおどうしても許せないのである。

Friday, March 23, 2007

♪ある晴れた日に(3)

♪ある晴れた日に(3)

母上を偲ぶ歌 


天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊の櫛かな

Thursday, March 22, 2007

♪いぬふぐりの花

遥かな昔、遠い所で 第8回


本日母五周忌につき母上の詠み給いし歌再録

 
1994年4月
散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花
    
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく
                   
1992年5月
五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線

なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく

直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

1992年7月
くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に

梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり

15,6年前の古いノートより
いずれも京都への山陰線の車中にて

色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに

あかあかと 師走の陽あび 山里の
 小さき柿の 枝に残れる

山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける

谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る

うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く

刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる

PKO法案
あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし

もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ

うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむ

1992年8月娘達帰る
子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人

かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり

万葉植物園にて棉の実を求む
棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

1992年11月
もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく

1992年12月
暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ   「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

1993年1月 病院にて
陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし

由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

1993年2月
大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえずり 聞きてうれしも

次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    「ともし」は面白いの意。
十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
            

1993年9月
弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ

拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに

久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか

秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに

なき人を 惜しむように 秋時雨

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて

病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ

いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして      雅子さんご成婚?

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく

深き朝霧の中、11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ
            
1994年4月
散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり

1994年5月
浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に

級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく

藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて      「深夜便」はNHKラジオ番組

水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ       「水無月祭」は郷里の夏祭り  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ

打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり

衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや         

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ

つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   

七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり

Wednesday, March 21, 2007

黒川紀章の挑戦

勝手に東京建築観光・第7回

建物と緑を切り分ける直線を避け、膨らんだガラス壁が波打つ…。

東京ミッドタウンの国立新美術館を設計した黒川紀章選手が、今度は都知事選に立候補した。

あの安藤忠雄選手とつるんでオリンピック大建築計画を打ち出したあほばか東京都知事、石原慎太郎に一矢報いようとでもいうのであろうか? 

いやあ老いてますますお盛んなことである。

さて建築家、黒川紀章の特質は、時流を見極め、それに乗じることが実に機敏であるということである。

現在安藤忠雄、隈研吾など多くの建築家がエコロジーと建築をにわかに結び付けようとしているが、黒川選手は、とっくの昔に彼のエコシティ構想によって河南省都鄭州市都市計画国際設計コンペで1等になった実績を誇る。

鄭州は北京から南西600kmの黄河流域の150万人古都であるが、山手線内側の倍以上の規模1万5000haを再開発し、旧市街に新都心を造っている。

800hの人口湖「龍湖」など緑と水が都心と融合する。そのコンセプトは、「生態回廊」と称するもので、各地域間に河川を巡らせて水上交通を盛んにし、岸辺には公園を作る。さらに一部の高層ビルを除いて高度15mに制限するなど、自然との共生をめざす大規模都市全体計画にすでに取り組んでいるのである。

表参道ヒルズひとつ作るのに保存と再生、住民と森ビルの合間でノーアイデアに陥ってしばし立ち往生した安藤選手なんか、ちゃんちゃらおかしくって、というところだろうか。

しかし時流に敏な建築家黒川紀章の原点は、やはり1972年に銀座8丁目に完成した集合住宅「中銀カプセルタワー」であろう。(写真)

すべての家具や設備を1つの箱に出来合いのパッケージとしてユニット化し、2本の鉄筋コンクリートのシャフトにボルトで接続したプレハブ住宅は、黒川と私が大嫌いな建築家、菊竹清訓が考案したメタボリズム=新陳代謝主義という思想に基づいて設計されたといわれている。

人間の体は60兆個の細胞でできており、その細胞は1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。この有様をミクロで観察すると、人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。

そこで時々刻々と変化する社会や時代に合わせ、まるで生物のように建築や都市を変化させよう、とするのがメタボリズム的な建築哲学、だそうだ。

しかし現地に立ってつくづくこのマンションを眺めていてもあまりメタボルな感じは沸いてはこない。むしろ黒川選手が本当に影響を受け、参考にしたのは、「現代のレ
オナルドダヴィンチ」といわれたバックミンスターフラー(R.BuckminsterFuller1895-1983)ではなかったろうか?

「最少のもので最大の効果を」、「グローバルに考え、ローカルに行動しよう」と唱え「宇宙船地球号」というコンセプトを創案したこの米国の建築家・数学者は、「最小の資源で最大の容積を確保できるフラードーム」の発明者でもあった。

東京ドームや木下サーカスのテントの下のオートバイ激走鉄球、さらにはフラーレンの構造にも似たそれは球体であったが、実はバックミンスターフラーは50年代からシンプルで機能的な矩形のプレハブワンルームの設計も世界にさきがけて取り組んでいた。

それを黒川選手が器用にパクッて日本流にアレンジしたものが、この中銀マンションではなかったかと、私は勝手に想像しているのだが……。

しかしモダンリビングの1典型として一世を風靡し、かつて私がこよなく愛したカプセルホテルの原器となったこの名建築も、寄る年波には勝てず、上下水の工事や補修にもはや対応できないという理由でまもなく取り壊されるそうだ。

Tuesday, March 20, 2007

勝手に東京建築観光・第6回

木挽町の歌舞伎座のすぐ近所に、改造社の本社ビルを見つけた。

屋上の少建築物を含めると5階建ての鉄筋コンクリート造りで昭和通に面して由緒ありげに立っている。とりわけ窓枠のリリーフの仕上げが美しい。

この近辺は歌舞伎座をはじめ米軍の空襲でほとんど焼失したが、奇跡的に往時の面影を残しているのである。また、ほんらいは右側の菓子屋「銀座日の出」も改造社が使用していたものと思われる。

改造社書店といえば雑誌「改造」で余りにも有名である。以下面倒くさいのでウイキペディアの記述を大幅に引用しよう。

「改造」は社会主義的な評論を多く掲げた大正、昭和にかけての代表的総合誌で1919年(大正8年)に山本実彦の改造社から刊行された。小説なども掲載していたが、労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。

当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、キリスト教社会主義者の賀川豊彦マルクス主義者の河上肇山川均などの論文を掲載して、好評を博した。(ちなみに「死線を越えて」の社会思想実践家、賀川豊彦氏は、私が少年の頃我が家を何回か来訪され、その大宅壮一に似た風貌をいまもありありと思い出すことができる。)

また「改造」は、小説では志賀直哉「暗夜行路」を連載した。先行する総合雑誌として『中央公論』があったが、より急進的な『改造』に押されるほどになったのである。

改造社の山本社長は、1922年にかのアインシュタイン日本に招聘、さらに1926年には『現代日本文学全集』を1冊1円で発売し、いわゆる「円本ブーム」を巻き起こし、1929年、岩波文庫に対抗して改造文庫を発刊するなどまさに昭和出版界の風雲児の名をほしいままにしたのであった。

しかし第二次世界大戦中の1942年、掲載した論文が共産主義的であるとして弾圧を受け(横浜事件)、1944年に廃刊となる。(この横浜事件は現在も最高裁での再審と無実宣言を遺族が請求中)

「改造」は終戦後の1946年に復刊するが、その経営は思わしくなく、労働争議のすえ、ついに1955年に廃刊となった。

しかしその本拠地は、依然として平成の御世に赫赫として現存している。

ただし現在の建物の所有者は山本家とは無関係。いまは単なる書籍販売業を営み、1階は小売、上層部は書籍販売営業に使われているそうだ。

Monday, March 19, 2007

債鬼たち

債鬼たち

ある丹波の老人の話(14)

父を送って舞鶴から帰ってきた夜、入り口の戸を荒々しく叩いて起こす人がおりました。

町の信用組合の幹部が提灯を下げて立っていました。
父が逃げたということを早くも聞きつけたとみえて「信用組合からいっぱい借りておる借金をいったい君はどうするんじゃい!」とかみつくような強談判です。

職務に忠実な幹部の言い分にはまったく文句は言えない立場ですが、ズケズケといじめられるのは骨身にこたえました。

それだけではありません。翌日から毎日毎日我が家の門に迫る債鬼は、それこそひきもきらずです。

なにしろ父は、借りられるだけの人から借りだれるだけの金を借りまくっていたのです。その金額は三、四千円くらいでしたが五円、十円の小口もあって後に私が次々に払って戻ってきた借用証書が大きな支那カバンいっぱい分もあり今も保存しているくらいやから債権者の数は大変なもんでした。

なかには札付きの高利貸もいて、それが入れ替わり立ち代りやってきて、私を締木にかけるんです。

泣くにも泣けない私はただありのままに、「父の借金だからといって踏み倒す考えは毛頭ありません。何とかしてお返しする覚悟ではありますが、今どうするわけにもまいりません。どうかお返しできるときまでご猶予をお願い致します」

と、判で押したような言い訳を何度も何度も畳に額をこすりつけて繰り返すよりほかに手も足も出ませんでした。
(第三話 貧乏物語その2)

Sunday, March 18, 2007

ある丹波の老人の話(12)

ある丹波の老人の話(12)

第三話 貧乏物語

私の母はよい母でした。しかし父は、善人ではありましたが、大ざっぱでだらしがない人でした。

大酒というほどではありませんでしたが、酒好きで、芸者などをあげて派手に飲み、女道楽もなかなかのもんでいつもどっかに隠し女がおったようです。

母は真面目に店を守って商売に精を出しとりましたが、父の金遣いが荒いために、家計はだんだん不如意になり、借金はかさむ一方でした。

私は自分が養蚕教師で得た給料は全部母に渡しておりました。母はありがたがって、いつも押し頂いてよろこんでおりました。それで私もできるだけ倹約して一文でも多く母に渡そうと心掛けておりました。

その頃、菓子といえば金平糖でしたが、私はその金平糖を一度も買ったことはなく、時々中白の砂糖を買ってきて指先につけて少しずつねぶり、ひどくくたびれたときなどは、砂糖湯をして飲むのがたったひとつの贅沢で、半キロほど買うてきては長い間たのしんだもんでした。

けれども私がそんなに頑張って家に入れるお金は、盆仕入れの足しや借金の利払いにつかわれて、はじめのうちは相当家計の助けにもなったようですが、借金がかさむにつれて焼け石に水ほどの効き目しかないようになりました。

私は明治三十七年に妻菊枝(昭和十七年に病死)を迎えましたが、それから五年後には母が亡くなりました。その前年妹を舞鶴に嫁がせるとき、一人娘だというので分に過ぎたこしらえをしてやった無理算段なども家計に響いて、母の死後は家中に火の車が舞ったのでした。

やけになった父の乱行はいっそうつのり、はては芸者を連れて隠岐の島へ逃げるといいだしました。困ったことだと思いましたが、私の言うことなど聞いてくれる父ではなし、止めても仕方がないと思って、いよいよ出立の時には舞鶴まで送っていきました。

その頃は舞鶴から隠岐通いの汽船があったんですが、父はそれに乗りました。父はその時五十八歳でしたが、それまで隠岐には二、三度行ったことがありました。この島は日本海の潮風に吹かれるので目の細かい良質の桐があるんです。

父はそれを買い込んで下駄材ばかりでなく琴材として京都方面に売って儲けたことがありました。ですからまんざら当てもなしに行ったわけでもなく、父としては隠岐の島で一旗上げるつもりやったんですが……

格闘場化するコンサート会場

格闘場化するコンサート会場

♪音楽千夜一夜 第15回 

今日は日曜日。いまNHKのFMでベルニーニの歌劇「清教徒」を放送しています。
今年の1月6日ニューヨークのメトロポリタン・オペラの公演で、指揮はパトリック・サマーズ、主役のエルヴィーラをいま話題のソプラノ、アンナ・ネトレプコが歌っていますがさっぱり面白くない。

指揮はかなり酷い。やはりメトはオペラの乗りを熟知しているジェームズ・レバインが振らないとダメ。それにいくら美貌か知らないがビジュアルの支援なしで聴くネトレプコの歌唱もあまり良くない。これからあの「狂乱の場」があるわけですが、果たしてうまく乗り切れるのか不安です。

ああ、それなのにメトの聴衆は拍手喝采してる。
でもあそこのお客はニューヨークフィルと同様ほとんどが観光客相手だし、NYのクラシック愛好家も耳がアバウト。なんでもかんでもわあわあきゃあきゃあブラボー!ブラボー!だ。 まあ勝手に騒いでろ。

ベルニーニなら、2、3年前に廉価版ブリリアントから出たオペラ10枚組の中の超ベテラン、リチャード・ボニング指揮ベリーニ劇場管弦楽団(イタリアの超ローカルオケ)の演奏のほうが何十倍も素晴らしい。

「ノルマ」こそ入ってないが、「夢遊病の女」「カピュレッティとモンティッチ」など全5作品が入って3600円とお買い得です。同じブリリアントからドニゼッッテイの10枚組みも出ています。

ところでNYはともかくとして、最近東京のクラシックファンが過激化しているらしいですぜ。いきなり他のお客に殴りかかったりするらしい。そんな低級な喧嘩騒ぎがしばしが起こるので、オーケストラは演奏どころじゃないんだって。おおこわ。ここでも世も末でげす。

なんでも隣の客がチラシをめくる物音や体臭などにいらだって暴力行為に及ぶんだそうです。確かに私もその気持ちは分る。演奏中に楽譜をめくるやつ、座席の下にもぐりこんで携帯に出るやつ、舞台の上のオケや指揮者の写真を撮るやつ、一緒に来たおばはん同士でぺちゃくちゃおしゃべりするやつ、安香水の匂いを撒き散らすやつ、お弁当を食べ始めるやつ、鼻でなく口で呼吸するのでフガフガたいそううるさいやつ、もうコンサートホールはあほばか基地外、吉外、気狂い、気違いばかりでござんす。

それが嫌さに私は東京でのコンサート通いをやめて10年以上たちまする。
でもそうか。嫌な奴をいきなりぶん殴り、髪の毛をつかんで引きずり回すという直接行動暴力委員会という手法があったのか。
そんならこれから私も完全武装して、火炎放射器で嫌な聴衆を退治しながら「夢遊病の女」でも聴こうかな。

Saturday, March 17, 2007

レイモンド・カーヴァー著「水と水が出会うところ」を読む

降っても照っても 第3回


僕は小川と、それが奏でる音楽が好きだ。
小川になる前の、湿原や草地を縫って流れる
細い水流が好きだ。

と、開始される表題作の「水と水が出会うところ」という詩は、河が海と合流する広い河口の素晴らしさについて歌われている。

永代橋の近くの会社に勤めていた私は、会社の仕事や人間関係に疲れて屈託が生まれると、よく隅田川のほとりに佇んで、水と水が出会うところを眺めたものだ。

大川の流れは意外に奇麗だった。

汽水の上澄みには人間共の苦労を知らないボラやフグやハゼなどの魚たちが、楽しそうに、踊るようにして泳いでいる姿を、私はあかず眺めた。

そして洲崎を超えて遠く佃、月島方面を見やると、東京湾の上空にほの白い雲が浮かんでいるのだった。

平明でシンプルなスタイルの中にいつも確かな声、人間の肉声が聞こえてくる。それがカーヴァーの詩だと思う。ホイットマンとヘングウエイを足して2で割った感じだ。

例えば「怖い」という詩では、

家の前にパトカーが停まるのを目にするのが怖い。
夜の眠りに落ちるのが怖い。
眠れないのが怖い。
過去が起き上がってくるのが怖い。
現在が飛び去っていくのが怖い…

と、続き、

愛せなくなることが、十分に愛せなくなることが怖い。
私の愛するものが、私の愛する人たちにとってこのさき命取りになることが怖い。
死が怖い。
長く生き過ぎることが怖い。
死が怖い。
これはもう言ったね。
 
で、終る。

何気なく書かれているようだが、ものすごい技巧を尽くした労作だ。(なお、言い忘れたがこれらはすべて村上春樹氏の翻訳である)

この「○○が怖い」というスタイルの発見もなかなかだが、その設定に従って全部で24の怖いを並べ、最後に24番目の答えをリピートして終る。

凄いとしか言いようがない。

しかし余りにも超絶技巧なので、わずかに感銘が薄れるのが唯一の欠点であるとは言えようか。

Thursday, March 15, 2007

ある丹波の老人の話(12)

ある丹波の老人の話(12)

当時の養蚕は、蚕は在来の小石丸で虫も小そうてそう飼いにくいもんではありまへんでした。(注=小石丸は現在でも皇居内で天皇が飼育している希少品種)

ところが私の養蚕教師時代は温暖育が析衷育に進んでかなり改良されてきてはおりましたが、やはり昔ながらの乾燥第一主義で、桑は刻んでおったうえに温度を加えられますから蚕は萎縮して食欲をそそらない。

その結果蚕はいつも腹を減らしておりましたから失敗が多く、定石通りにやっても蚕が腐ってしもうたりする。

それで養蚕教師は逃げ出したり、大失敗して首をくくったりで、なかなか楽な勤めではありまへんでした。

私は自分の勘で温度の調節を測り、これが桑の萎縮をうまく防いでくれたんで、一度も失敗しませんでした。

まあ、私がどうのこうのではのうて、波多野翁に率いられた京都府の養蚕は全国的にも断然頭角を抜いたもんでした。

しかもただ技術的に秀でていたのみならず、人間としての心構えも他の府県の人々とは明らかに違っておったと思います。

私などもいま振り返ると、もし波多野翁とめぐり合っておらなかんだら、きっと人生の大きな回り道をして、果たしてどんな人間になっておったか自分でも分かりまへん。

(第二話養蚕教師 終)

Wednesday, March 14, 2007

森安孝夫著「シルクロードと唐帝国」(興亡の世界史5巻)を読む

降っても照っても 第2回

現在の地球上の人種は、約20万年前にアフリカで原人から進化したただ一人の新人「イヴ」が先祖。その後モンゴロイド、コーカソイド、ニグロイドの3集団に分化するが人種は1つで優劣はない。文字通り、人類は皆兄弟なのである。

人種差別に人類学的根拠はなく、単なる心の問題といえる。また「民族」なる日本語はは明治時代の造語でこれに該当する外国語はない。あえて定義すれば、言語が同じで風俗・習慣や歴史を共有し、同一民族に所属しているという意識を持つ人々の集団である。

人種と言語はまったく無関係である。民族は文化的分類、国民は1つの国家の成員を指す政治的分類であり、「1民族1国家」は大いなる幻想。偉大なアジアの文明から目を逸らし近代欧米文明こそ人類共通の理想であるとする明治以降の西欧中心史観は誤った自虐史観である、と著者は説く。

日本がアジアの一員であるにもかかわらず、アジアに優越感を抱くようになるのが明治時代からであるように、欧州人がアジアに対して優越感を持つようになるのが18世紀の武力進出からである。

17世紀までは圧倒的にアジアに全盛時代であった。その後退期はオスマン帝国が神聖ローマ帝国を脅かす第2次ウイーン包囲に失敗した1683年以後のことである。

1000年史単位で見た世界史では、欧米の覇権などほんの一瞬の夢に過ぎない。むしろ真の文明の繁栄はソグド、匈奴、ウイグル、モンゴル、西域など隣接遊牧諸民族を取り込んで華麗な文化の華を咲かせた多民族国家唐帝国にあった。文明の源泉はソグド人に象徴されえる中央ユーラシアにある。
例えば、ソグド人がもたらしたソグド文字がそのままウイグル文字になり、そのウイグル文字が13世紀にモンゴル文字になり、さらにそれが16世紀末から17世紀はじめに少し改良されて満州文字になった。それゆえ中央ユーラシア国家の清朝にさえソグド文化は受け継がれた。漢民族はあくまで中国人の多数派にすぎない。

また3000年ほど前に中央ユーラシアの大草原に出現した騎馬民族が乗馬と騎射にもっとも便利なように改良した胡服こそがのちの洋服(スーツ)で、これが全世界に広がった。洋服にベルトとブーツがつき物なのもやはり騎馬遊牧民に由来する。

7-9世紀の唐では西域音楽が大流行した。百戯繚乱の唐には儒教の礼楽思想の影響を受けた雅楽、漢代以来の伝統芸術音楽の俗楽、胡楽、散楽、軍楽があった。

胡楽は西域をはじめシルクロード全域から入った外来音楽一般を指し、その中心が西域音楽で管楽器、弦楽器、打楽器のすべてが和フル編成で演奏される声的大管弦楽団であった。一方、当時の欧州では単旋律の教会音楽しか存在しなかった。もってその先進性を想像することができよう。

参考
世界史の8段階
1) 農業革命(第一次)1万1000年前より
2) 4大文明の登場(第2次農業革命)5500年前
3) 鉄器革命(遅れて第3次農業革命)4000年前
4) 遊牧騎馬民族の登場 3000年前
5) 火薬革命と海路によるグローバル化 500年前
6) 産業革命と鉄道(外燃機関)200年前
7) 自動車と航空機(内燃機関)100年前

太陽のごとく生きよう

あなたと私のアホリズム その13

太陽のごとく生きよう! と、高らかに校訓でうたうのは、あの有名な堀越高校である。

これほどアバウトで、能天気で、よく考えると意味不明なスローガンを堂々と掲げる学校は恐らく世界中でこのHORIKOSIだけだろう。

この学校は昔から芸能人に人気があり、越路吹雪、掘ちえみ、松田聖子、松たか子、石田ひかり、サトエリ、石原真理子、深田恭子、加藤あい、SMAPの稲垣吾郎、草彅剛などの人気タレントや俳優をいまも輩出している。

しかしもっとも「太陽ごとく生きよう」の校訓にふさわしい偉大な卒業生は、やはり“分かっちゃいるけどやめられないスーダラ男”の植木等氏であろう。

本日めでたく卒業される皆さんも、ぜひこの天才的無責任男を見習って、太陽のように明るく生きてほしい。

ただしあまり太陽に近づきすぎて、イカルスのように燃え尽きたり、なにか勘違いして、“太陽にほえ”たりしないようにくれぐれも注意してください。 

Monday, March 12, 2007

日本一の養蚕教師!?

ある丹波の老人の話(11)第二話養蚕教師(5)

青野氏は金もあり、羽振りもよく、その庇護の下で仕事をする私はとても楽でした。

村の人たちも私のいうことをよく聞いてくれたんで、すべて思い通りにやることができました。

愛媛県が作ってくれたという稚蚕飼育場での共同飼育も好成績でしたし、それを各家庭に移したあとも、私は昼夜を問わず家々を駆け回って指導したので、最後までうまく行って一軒の落脱もなく、庄内村始まって以来の上出来だったので村の人たちは大喜びでした。

私だけでなく、京都府から行った教師のところはみんな成績がよく、繭の鑑定にかけても愛媛県の技術者よりはるかに優れていたので、あちこち引っ張りまわされ、京都府の蚕業のために大いに気を吐いたもんでした。

繭は入札で売られたが、庄内村の繭はその平均価格が愛媛一の最高値やったそうです。

あとで聞いた話では、青野家の人が、

「今まで入れ替わり立ち代り養蚕の先生がやって来たが、皆相当の年配でヒゲなどはやして威張っていた。人柄が下品で行儀が悪く、蚕飼いもさっぱり下手くそで一度もろくな繭が取れたことはなく、損ばかりさせられた。ところが今度京都から来た先生は子ども上がりの若造で、これがなにをやるか、と頼りなかったが、どうしてどうしてお行儀が良くて熱心で、謡曲も上手だし、お茶の心得もある。蚕飼いも前の先生方とはまったく違って上手にやってもらったから、ウンと儲けさせてもらった」

と言うておったそうです。

それから特に所望されて、あと二年立て続けに、都合三年この村へ通ったんですが、一度も失敗せず、年々非常に感謝され、記念品として沈金塗りの大鯛の立派なものをもろおたり、「○○先生記念桑園」と書いた大きな標柱を立てた桑畑までできました。

その後私は兵庫県の関ノ宮、大谷、船井郡の上和知、大倉、何鹿の奥上林、物部などへそれぞれ二、三年ずつくらい行って、私の養蚕教師生活は大正七年まで続きました。

船井郡に行ったとき、養蚕組合書記の加舎亀太郎君から、「君には日本一の養蚕教師給料を差し上げる」というて渡してもろうたお金が、たしか百八十円やったと記憶しとります。

♪ある晴れた日に(2)

奥上林小学校の暗い廊下の突き当たりでも、崩壊した渚ホテルの半分砂に埋もれた客室の片隅でも、水深4500メートルのウナギの稚魚が遊んでいるグアム海溝でも、私は絶えず誰かに追われていた。

「で、その施設、いつ倒産するの?」と誰かが私に話しかけたが、私は答えられなかった。

「グループホームを救うために、どうしてフラダンス教室を運営しなきゃいけないの?」と、別の誰かが問いかけたが、私には答えられなかった。

逃げていった半島の岬には小さな港があって、ペルリ提督の頃から停泊している高速巡洋艦に怒涛の波が叩きつけていた。

黒い雲が渦巻いている上空には大ガラスが舞い、艦橋には、異様に長い耳と巨大な耳たぶをぶらさげた布袋艦長が、エイハブのように格好をつけて立っていた。

「おい、布袋。清川病院の脳外科医のアルバイトは時給8万だが、お前の障害者自立法案のお陰でおいらの息子は時給40円だ。どうしてくれる!」

と私は叫んだが、布袋艦長はそっぽを向いて、いやいやをしながら腐れ金玉のような耳袋を、ぶらんぶらんと振り回し、

♪腐っても鯛、おいらには誇りがある ♪風に揺られてブーラブラ

というチョウシッパズレの歌を歌い始めたそのとき、

「もう時間がない。人生は無か有か? いますぐ答えよ。有か、それとも、未来永劫悉皆皆無か、いったいどっちだ、どっちなんだ!」

と、かの大カラスが咆哮した。

私は懸命に考えた。

しかし、どうしても私は答えられなかった。

そうしてこいつはいつもの夢だろう。夢に違いないと考えていた……。

Saturday, March 10, 2007

歓待されて

ある丹波の老人の話(10)第二話養蚕教師(4)

私は青野氏の家に泊めてもろうたんですが、私にあてがわれた部屋も、夜具や布団ももったいないほど立派なもんでした。

私はかねて波多野さんから教えられた通りに、枕には自分の手ぬぐい、掛け布団の襟には風呂敷をあてがって寝ました。

青野家には凝った茶室もあって、鐘を打って客を招き入れるような本式の茶室が設けられており、私も来客がある都度招かれました。

さいわい私は妹がお茶の稽古をやっとったときに、いつもお客さんになとったもんやから、茶の飲み方だけは心得ておりました。落ち着き払って形のごとくやったんで恥はかいまへんでした。

また青野氏は謡曲が好きでした。

ところがそれがまったくの「下手の横好き」というやつで、同族の青野浩輔さんと奥座敷で毎晩のようにうなるんですが、どっちも兄たりがたく、弟たりがたく、聞いておっても肩が凝ってくるようなもんでした。

私も少し謡をやると知った青野氏から招かれて、強いられるがままに小謡を一番うたったら、「これはたいしたものだ」ということになって、蚕の先生は承知の上でやっておることですが、とうとう謡の先生に祭り上げられてしまいました。

ところが青野氏は観世流、私は宝生流なんで、観世の謡い本を見ながら宝生をうたうのを、観世の人がせっせと習うというおかしなことになってしまいましたが、それでもなんとかお相手をしてそれなりに楽しいひと時を過ごしたもんでした。

こんなことから私は青野氏一家、一門の人々と親しくなり、信用されるようになりました。

Friday, March 09, 2007

養蚕教師、愛媛へ行く

ある丹波の老人の話(9)第二話養蚕教師(3)

 その頃、よく養蚕集談会というのが開催され、その道の大家連中がやって来て指導を行っておりました。

私は青二才ながら、西原で体験した修正温暖育なる手法を引っさげて、大家の先生方が説かれる定石的飼育法を机上論として排撃し、おめず臆せずやり合って彼らをタジタジとさせたらしく、梅原良之助君や出原新太郎君などの旧友と昔話をすると、「君は若いときから一風変わった鼻息の荒い男やった」とよくいわれたもんでした。

それはともかく、私は明治四十二年にはやはり波多野さんの推薦で愛媛県に行くことになりました。

愛媛県では、古くからの特産品の藍が舶来の化学染料に押されてダメになってしもうたんで、藍畑を桑畑に変えて養蚕を奨励したんですが、それがさっぱりうまく行かず、毎年のように失敗しておった。

同郷出身の養蚕技師の西村弥吉氏がすっかりてこずって、京都府に対して実力のある技術者の派遣を乞うたんで、それに対して波多野さんのお眼鏡で五、六人選ばれたうちの最年少が私でした。

しかも私が行った所は周桑郡庄内村というて村長の青野岩平氏は蚕業熱心家で、県会議員もしているという声望並びなき人でした。

私は西村弥吉氏から、「庄内村の養蚕が毎年失敗続きで、もしも今年ここをうまいことやらんかったら愛媛県の養蚕業の前途も危ういんじゃ」という話をコンコンと聞かされたので、「もうどうでも京都府の養蚕業の名誉にかけて、この絶体絶命の危機を救わんと男が立たん」ちゅうことになってしまいました。

安岡章太郎著「カーライルの家」を読む

降っても照っても 第1回

いつのまにか80歳を超えてしまった第3の新人、安岡章太郎の最新作がこれだ。

前半は小林秀雄にまつわる思い出話の「危うい記憶」、後半はタイトルと同名の「カーライルの家」だが、それぞれにとぼけた味わいを随所にかもし出していて絶品である。

前半の小林秀雄ばなしは面白い。

特に中原中也からぶんどったスリムで「かなり美人」の長谷川泰子と同棲した小林が、彼女の潔癖症に悩まされて突如奈良の志賀直哉の家に転がり込んでいくあたりの細かい描写はじつに興味深い。

眼前に老青二人の文学者の姿形がありありと浮かんでくる。

その文を書いている安岡の語りは、まるで志賀直哉の生き写しのようにも、小林秀雄にも思えるときがあった。

まるで青森のイタコです。霊媒心霊エッセイでげす。

私は昔父と一緒に小林が大本教の1000畳敷きの大本みろく殿で1席やったのを聴いたことがあるが、それも完全に落語であった。

小林が落語名人なら、安岡も新型落語で対抗しようとしている。

安岡が小林と共に旧ソ連に旅行した話も面白い。

ここにはあの有名な「ネヴァ河を見に行く」の裏話が出てきます。漱石も、白鳥も、内村鑑三も、出てきます。

表題作の最後は、志ん朝、小さんか円朝の名人落語のようなオチがついている。

カーライルが書き上げたばかりの「フランス革命史」の生原稿を、ジョン・ステュアート・ミル夫人がぜんぶストーブの火付けにくべたなんていい文学ネタだと思いませんか? 

かくして嘘かほんとか分らないような風流文学譚は、薄明の闇に消ゆる。

Wednesday, March 07, 2007

「人生の歩き方」

「人生の歩き方」

あなたと私のアホリズム その12

本さへあればテレビは要らない。とりわけ民放などなくてもいっこうに構わないと思っている私です。

時々見るのはNHKのニュースと映画とドキュメンタリーくらい。

それでも本当にいいなと思える番組はあまりないのですが、最近始まった「人生の歩き方」というトーク番組はなかなかよいです。

第1回は漫画家・歌手の池田理代子さんを黒田アナが、昨夜から始まった第2回は映画監督新藤兼人さんを小野アナがインタビューしています。

ときおり回顧的な記録映像がインサートされますが基本的には主人公のこれまでの人生の歩みをじっくりと聞く番組です。

池田さんという漫画家についてはあのベルバラの作者というくらいしか知らなかった私ですが、彼女の自由で情熱的な生き方をご本人の口からとくとうかがい、静かな感銘を受けました。

特に中年になってから志したソプラノ歌手の恩師である東さんの壮絶な死に方を語ったくだりは、涙なしには聞けませんでした。

また昨夜の新藤監督が亡き母の思い出をこれまた涙ながらに語ったときには、寅さん大好きの小野アナも一緒に泣いておりましたね。

泣くからいい番組と言っているのではありませんよ。

その人の真実に迫り、その人が人生の真実を真面目に語るから、いまどき珍しくいい番組だといっているのです。

ここでは主人公が自分の人生をどこまで開示するか、は、アナウンサーの知性と勇気にかかっているので、そういう意味でも真剣勝負の番組だと思います。

世の中のテレビ番組の大半が、異常なことを異常に表現しようと狂奔する中で、「人生の歩き方」は、普通のことを普通に表現しようと試みている。

それがこの番組の価値を高めているようです。
(毎週水曜日午後10時25分から50分まで)

戦争に行ったつもりで

ある丹波の老人の話(8)第二話養蚕教師(2)


翌年は、波多野さんの推薦で西原へ行きました。

西原いうとこはどういうものか毎年蚕が不作で、上野源吉という伝習所の先生までした熟練第一の教師の指導も失敗し、おまけになけなしの繭を糸屋にごっそり買い叩かれて弱りきっておりました。

そんなところへ行ってしくじったら波多野さんにも申し訳ないし、西原をいよいよ困窮に陥れてしまう、と私は案じましたが、思いなおして、

「よし! 戦争に行ったつもりで命懸けでやろう」

と心に誓いました。というのもおりしもちょうどそのころ日露戦争の真っ最中やったんです。

そこで毎日城丹講習所へ通って見学し、諸先生方にも尋ねて研究し、ともかく最善を尽くしました。

私は当時温暖育による失敗が多いことを知り、いろいろ考えた挙句、給温のために一つの炉に使う燃料を二分して二つの炉で焚き、廊下にも火鉢を置くようにして温度の調整と均一化をはかりました。

これがよかったとみえて西原での飼育は見事に成功し久しぶりに上作という結果が出たんです。

私はその後も二年続けて西原に行きましたが、三年連続で上作だったので、あれほど疲弊しておった西原も完全に立ち直りました。

西原の農家にはいままで絶えて見ることのなかった清々しい畳み敷きの部屋ができ、柱には文明開化の象徴である柱時計が時を刻んでいるという光景があちこちで見かけられるようになりました。

このように元気に農村で活動を続けておった私でしたが、二十一の徴兵検査で肺浸潤といわれ、父が心配したんで私はそれまで勤めておった「郡是」を辞め、養蚕教師に専念しようと心に決めたんでした。

Monday, March 05, 2007

第二話 養蚕教師

ある丹波の老人の話(7)

私の家は、A町の目抜き通りで履物屋を営み、郊外に桑園を持ち、当時流行の養蚕もやっとりました。

そんな関係から丹波地方の蚕糸業の元締めで「郡是」(現在のグンゼ)の創立者であった波多野鶴吉翁とは懇意でごわして、私も子どものときから目をかけてもらっとりました。

私が小学校を出て十六のとき、波多野さんは自分が所長をしていた京都府高等養蚕伝習所(その後城丹蚕業講習所と改称)へ私を入所させろと父に説き、「年齢が二つ足らんが、それはなんとでもなるから」というてしきりに勧められるので、その熱意に押されてそこに入ることになりました。

生徒は大半がはたちくらい、中には二十六、七の人もいて、私一人がまだ子どもでした。

そこを卒業してから一と春、A町の養蚕巡回教師をしましたが、その後、そろばんが上手になるというのでその頃地租改正で忙しかった税務署につとめ、十八の年にはそのそろばんの腕前を買われて「郡是」に入り、事務所勤めが始まりました。

明治三十四、五年当時のこの地方では、個人が勝手に小額の切手を発行して、それがなんでかしらんけど貨幣同様に流通しておったんです。いまはやりの地域通貨ちゅうやつでしょうかね。

波多野さんの「郡是」でもこれを発行しておったので、私は切手作りで非常に忙しかったことを覚えとります。

春の養蚕期は「郡是」も休みなので、私は在勤中も毎年巡回教師に出ました。

十九のときに佐賀村の小貝に行ったんですが、その年は晩霜でひどい桑不足になり、由良川が真っ白になるほど誰も彼もが蚕を流しました。

しゃあけんど私は蚕を捨てさせず、急いで家に戻って父に説き、金つもりをさせて桑を買わせました。

こんなことにかけたら父はうまいものです。四方を走りまわって上手に桑を買いあさり、荷車に積んでドンドン小貝に運び込み、小貝は1匹も蚕を捨てずに無事に育ったんです。

おまけに上作の繭高とあって養蚕家はホクホク顔で大喜び。

私も思わぬ手柄をたてて、「若いけど、なかなかやるもんじゃ」ということになりました。

Sunday, March 04, 2007

鎌響ファミリーコンサートを聴く

♪音楽千夜一夜 第14回

昨日鎌倉芸術館で開催されたこのコンサートは、1年間のイタリア留学から帰国した古谷誠一が指揮して、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」序曲を皮切りに、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」から5曲の抜粋、休憩を挟んでヨハン・シュトラウス2世の「ヴェネツイアの1夜」序曲、テノールの水船桂太郎を迎えてリゴレットの「女心の歌」、「誰も寝てはならぬ」「帰れソレントへ」など、最後にチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」という分かったような訳が分らないプログラムで開催された。

いちばん良かったのは冒頭のロッシーニ。まるでヴィクトリオ・グイを思わせる名演に、これが日本のオケ、日本人の指揮者かと耳を疑うほどの素晴らしい出来栄えであった。

イタリアには小さな町のも必ず歌劇場とそのオーケストラがあるが、まるでそんなローカルオケのように個性豊かで、しかもノリのよい演奏を楽しむことができた。
この指揮者はイタリア物のオペラのこつを体得しているようだ。

しかしながらプログラムが進むにつれて彼の指揮は精彩と切れ味を欠き、最後のチャイコフスキーなどは選曲の悪さも手伝ってあまり褒めた仕上がりではなかった。

コンサートの多くが、「はじめは処女のごとく、終わりは脱兎の如し」という終わり方をするのに、これはまたとても珍しいパターンであった。

しかし拾い物はテノールの水船。そのどこまでも透明で、明るく、伸びやかな声は素晴らしい。これでもう一匙の個性がスパイスされたら国内有数のテノールに成長するのではあるまいか。

大半の歌手と違って音程がほとんど狂わない点も素晴らしい。
何度でも繰り返すが、音程が狂っても許せる歌手は美空ひばりとマリア・カラスしかいない。しかもひばりはカラスと違って、「わざと音程をはずす」から超凄い。空前絶でげす。

3大テノールなんて威張っていても、音程については、ディ・ステファノほどではないが、パバロッテイもカレーラスも若いときから結構酷かった。

残る一人のドミンゴが推挙して国際舞台に押し出したとかいうソプラノの森麻季ちゃんも、容姿はともかく(おしゃれなドレスの谷間に乳間を強調)音程のみならず歌そのものが良くない。

いったい彼女のどこを聴いて、どこのどいつが「日本が生んだ国際的歌手」などとめちゃくちゃなレッテルを貼っているのだろう? 

もしかしてオペラ音痴の小澤大先生? まさか?

話が鎌響からどんどん離れてしまうが、最近のクラシック業界は完全に狂っている。

ともかく技巧や音楽性は二の次三の次で、「ルックス第1」いな「写真うつり第1」の、まるでタレントかモデルまがいの若い女性の売り出しに血道をあげている。

三流音楽家でも美人ならOK、一流でも不美人ならCDデビューできない。最悪の事態です。

という?ことで、今回もいろいろ楽しめたファミリーコンサートだった。

しかし冒頭でどうしてあの美しい鎌倉市歌の演奏を行わなかったのか? またどうして相変わらずぎゃあぎゃあと泣き喚く乳幼児の入場を許しているのか? まったく不可解である。

そもそも乳幼児というのは、人間ではなく、サルやネコやイノシシと同じ範疇の動物である。規律と自制が不可能で自然に生きている天然動物である。(おお、人生でもっとも自由で美しい時代よ!) 

そんな時空に楽しく生きてる動物を無理矢理何匹も引っ張ってきて、コンサート会場に放し飼いにし、人間だけに鑑賞可能な精妙な音楽を強制的に聞かせる必要があるのだろうか?

あるとすればわが子はモーツアルトだと勝手に錯覚している親馬鹿ちゃんりん茹で小豆のエゴだけでしょう。

どうして鎌響が、動物が人類に変成する小学生以上の入場に限定しないのか、ま、そのお、ひじょーに理解に苦しむものであるわいな。

Saturday, March 03, 2007

ある丹波の老人の話(6)

さて観音さんのお導きで奇跡的に眼病を克服した母でしたが、それから八年ほど経った頃、胆石病で大わずらいをしました。胆石特有の激しい腹痛がたびたび起こって、ひどく苦しみ、からだは見る影もなくやせ衰えてしまいました。

医者の薬も効き目がなく、またしても起こるさしこみに耐える力もありません。気の毒に母はいまや死を待つばかりの有様となってしまったのです。

このときも私は眼病克服を観音さんにお祈りしたんとおんなじように、

「私の命を三年縮めて母を病苦から救い、あと3年の寿命を母に授けてください」

と、今度は母の信仰する生まれ在所の稲荷さんと讃岐の金比羅さんに毎朝頭から三杯の水をかけて祈りに祈りました。

このときの主治医はまだうら若い長沢先生でした。先生は、

「これは手術をして胆のうを切り取ってしまうよりほかに仕方がない。私がやりましょう」

とおっしゃって、おそらくまだ一度も試みたことのない胆のう摘出という大手術を、衰弱し切っている患者に対して敢行し、ものの見事に成功させてしまいました。

こうして母は胆石の病苦をからくも脱して、またしても健康を回復して、四十九歳まで生きることができたんでした。

そしてこの二度の体験、とりわけ12歳の折の体験は、「真心をこめた祈りは必ず神仏に容れられる」という信念を私に植え付けたんでした。

どうやらこれが子供心に強く焼き付けられて後年の信仰の芽生えとなったようです。

私はつねに神仏の存在を認め、これを敬い、これを畏れるようになりました。

のちにキリスト教に入信した私が、はなはだ至らないながら、現在ひたすら神さんを求めて祈りと感謝の明け暮れを送っとれるんは、この少年の日の苦難から萌え出た信仰の小さな芽生えが、雨露の恵みを受けて、枯れたりしぼんだりすることのう育った賜物であります。

旧約聖書ヘブル書第11章1節に「それ信仰は望むところを確信し、見ぬものを真実とするなり」という聖句があります。

古来これこそが信仰の定義といわれておる有名なことばでありますが、私が十二歳のときの体験は、信仰というにはあまりにも幼稚なもんであったとしても、この聖句の一端に触れたもんやと思い、このような機縁を恵んでくださった主と母に深く感謝しております。

(第1話「母の眼病」終)

断腸寝日記

生きていくためには食わねばならず、食うためには働かねばならず、働くためには世間様から仕事を頂戴しなければならない。

仕事を頂くためには普段から己の技能に磨きをかけ、たまにはくらいあんとに腰を低くかがめて、慣れないお世辞のひとつやふたつはかまさなければならぬ。これが当たりきな生活者の基本だろう。

そういう次第で渡世の浮き沈みを楽しんでいる私だが、昨日はちょっぴり失敗してしまいました。

午後から中野坂上のT大でのおつとめが終って、「やれやれこれで懐かしの我が家に帰れるわい」と思いつつ新宿駅のホームでが来るのを待っていた。

そいつがなかなか来ないので、携帯を取り出して1417を押すと、家人からの午後4時の留守録が入っているではないか。

「B社のO氏が自宅に電話してきたので、外出していて8時ごろには戻ると返事したら、また電話しますといっていた。たぶん仕事の依頼だと思うから、折り返し連絡してみたら」という内容であった。

この会社は主に週末の木曜か金曜日に発注することが多い。時計を見るとすでに7時だ。急いでO氏に電話をかける。

「あまでうすさん、どうかしましたか? え、電話? ああそうそう、4時ごろにお電話したんですが、お帰りが8時になるということなので、仕事は別のライターさんに頼んじゃいました。残念でしたね。どもわざわざお電話ありがとうございました。んじゃあ、バイビー」

しまった。やっぱりオイラに発注があったんだ。

家人の電話の直後にO氏にコールバックすれば、即お仕事がいただけたに違いない。おお、なんということだ。これで1か月分の稼ぎが吹っ飛んじまった! 大失敗だ。

しかし、待てよ。私は4時にはT大にいて、携帯もポケットに入っていた。どうしてその時私の着メロのエルガーの「愛の挨拶」が鳴らなかったのであろう? 

まさか、またしてもいつの間にやら伝言メモに切り替わっていたのでは? 顔色を変えながら私が携帯を取り出して調べてみると、やはりそのまさかであった。

この19世紀製の携帯には伝言メモという機能があって、たまさかどこかのボタンに触れると自動的に普通の留守電を停止して、どこか別なところにメッセージを録音してしまうのである。

このあほばか機能のお陰で、私は新潮社のE誌のS編集長をはじめ、各方面に何回迷惑をかけたことだろう。

それなのにまたしてもやってしまった。やはりおらっちのようなアナログ人間は、携帯のようなデジタル機器なんか使うなということだろうな。

と、がっくり落ち込みながら、満員の湘南新宿ラインに揺られ揺られて帰宅した私でありました。
                           
人生、晴れの日もあれば、曇りの日も、雨の日もありますね。 ハイ、おしまい。

Thursday, March 01, 2007

ある丹波の老人の話(5)

前回までのあらすじ
母親の眼病を治すために、京都の病院にやってきた主人公は、病院長主催の回復祈祷会に出席する。そして人の情のありがたさに泣き、「これほど熱意のこもった大勢の祈りは、きっと観音さんに通じてきっとごりやくがいただけるやろう」と、なにやらひどく元気づけられたのだった。


このご祈祷のあとで、郷里の綾部から父が来よりました。

そして、このとき、老院長はんは、父に向かって、「ひとつ一か八かの治療をやってみよ思うんやが」というて父の承諾を求め、その治療が行われましたんや。

その治療ちゅうんは、なんのことない注射器の針を目尻の少し上のあたりに差し込んで、ぎょうさん血を採ったんですわ。どす黒い血いが、ぶっとい注射器にいっぱい採れました。

その翌日のことでした。いつものように私が母を便所に連れて行くとき、病室から明るいところへ出た途端、母は私の肩から手を離して

「これ、畳のフチやないか? これ、障子の桟やないか?」

というて、畳を撫でたり、障子に触ったりし始めました。

「ああ、目が見える! 源や! わしは目が見え出した! うれしいことじゃ! もったいないことや!」

と、まるで気違いのように大きな声を出し、変な身振りで二度も三度も躍り上がるのでした。

それから畳の上に身を投げ出し、手のひらをいそがしゅうこすり合わせて、観音様や院長様にありったけの感謝のことばを並べあげるのでした。

この騒ぎに病院中の人たちが集まってきました。

みんな百万遍の数珠を回してくれた人たちです。母の目が見えるようになったと聞いて、誰も彼も自分のことのようによろこび、言い合わせたように一同その場にひれ伏して観音さんに奉謝の祈りを捧げ、祝福のことばが雨のようにわたしたち母子のうえに降り注いできました。

母の眼は、それからぐんぐんよくなり、おおかた元通りになり、それからの生活に差支えがないくらいの視力を取り戻すことができたんです。

私はこのときにお陰を受けた観音さんや親切にしてもろうた大勢の方々のご恩は、絶対に生涯忘れることはできまへん。

十二坊の病院はいまはもうありまへん。あの辺はもうすっかり変わってしもうて、いまでは相当の繁華街になっとりますが、観音様は少し位置は変わってしまいましたが通りに面していまでも立っておられます。

その後成人してから、私はこの近所にネクタイ工場を建てたりして、いろいろご縁が深い土地なんです。現在はクリスチャンの私ですけど、今でも通りすがりには少しくらい回り道しても観音様にお参りしとります。

馬場冶右エ門さんは舞鶴辺の人と聞いとりましたが、森という所がどうしても分らんかった。

ところが去年ある人から東舞鶴の森ノ宮町が昔は森ゆうとったちゅう話をきいたんで、さっそく行ってみましたら、お宮の出口に馬場という豪家があった。

訪ねてみたら当主の亀吉さんがおられて、「祖父が冶右エ門で、あなたがた母子の話もよお聞かされておりました」とのこと。私は後日改めて手土産を携えて再び馬場家をおとずれ、仏前に手を合わせて旧恩に深く感謝を捧げたことでした。

しゃあけんどただ越前の人とだけ聞いとった川合おえんさんの住所はとうとう分りまへんでした。

Wednesday, February 28, 2007

♪ある晴れた日に 第1回

♪ある晴れた日に 第1回


あ。朝日がのぼる。


ステンレスの上に泥だらけのジャガイモがごろっと転がってる


そんなに咳きばかりするなよ


のどが真っ赤に腫れている
ルゴールを買いにいこう


私の連鎖状球菌よ!


お母さん、ドウシヨウモナイって 何?


1・8リットルたっぷり呑んで ああ満足じゃ 真っ赤なポリバケツ


歯垢は臭い 恥垢も臭い どっちが臭い?


むんずとつかんでぐぐっとしごく


「今日のしりとり」 
あ あんたとこどこさ さる るーむ むくろ ろしあ あんてるなしおなる るどん


夕空晴れた

モーツアルト狂想曲

♪音楽千夜一夜第13回


真率あふるる音楽の言葉、心情の奥の奥の、またその奥にかすかに響く音を、私はTRAZOMに聴く。

いま流れてくるのはハ短調の幻想曲K475、そして続いて同じハ短調のピアノソナタK457、いずれも偉大なクラウデイオ・アラウの演奏で聴いている。

これらの曲はTRAZOMの最良の教え子、マリア・テレージア・トラットナーとの愛のために書かれた聴くものの心をえぐる真の傑作だ。

今度は「フィガロの結婚」をエーリッヒ・クラーバーの演奏で聴こう。

男と女のすさまじい欲望の嵐が吹き荒れる。フィガロとスザンナの熱狂の1日…。

第三幕の四重唱、五重唱、そして圧倒的な六重唱を聴け! 

そして第四幕の庭園に夜が迫り、ブルジョワの世の終わりを告げる伯爵夫人の「私は弱い女ですからすべてを許します」の一言を聴こう。

かくてオペラは終る。しかし、この突然の終結はなぜだろう?

TRAZOM、お前はどこに消えたのだ? 

劇場の人々は無となって宙吊りになり、なにかしら神のように偉大な存在が、無力な我々に降臨する。神に愛されたTRAZOMはきっとその隣にいるのだろう。

けれどもほんとうは神は不在であり、女は男をけっして許しはしなかった。

さあ今度は、ソレルスにならって「ドンジョバンニ」の序曲を聴こう。

わずか数百小節で起こるのは、婦女暴行、殺人、暴行の告白、復讐の決意…、ウイーン社交界を地獄に突き落とす疾風怒涛のオペラの幕開きだ。

初演を聴いた途端、かのカサノバは彼の有名な自叙伝を書くことを決意したそうだ。

そしてあの有名なドンジョバンニの地獄落ち。

それは1600年にローマで火あぶりになったジョルダーノ・ブルーノの最期を思わせると、ソレルスはいう。

「最期の発言で彼は以下のごとく述べた。自分は悔い改めたとは思わない。悔い改める理由がない。悔い改める材料がない。この結果、以下のものが焼き払われた。書物。それらの作者。コルクガシの枝」

ブルーノのように頑固なモーツアルトは、ヨーゼフ2世によって永久に見捨てられた。

ソレルスは語る。

「人生はひとつの音楽である。そして幻想抜きに、同時にまた必要な幻想を抱きながら過ごされるとき、人生はよりいっそう音楽となる。

こうした芸術を「楽しい知識=ゲ・サヴヴォワール」と呼ぼう。

「楽しい知識」は軽やかで悲劇的で、叙情的で、ほてりがあって、単純で複雑で、滑稽である。

精神は絶えざる運動なのだ。自由な様子、自由な愛、自由な創造。極貧状態にあったり、不幸のどん底にあったりすることを含めて…」

と。

(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

Monday, February 26, 2007

フランス革命、万歳!

♪音楽千夜一夜第12回


恐るべきフランス革命は、「魔笛」の夢の世界を徹底的に破壊し、音楽の真の革命家であるモーツアルトの革命的な音楽を破壊しつくした。

19世紀にはもう彼の市民権はなかった。モーツアルトと同様に、あの高雅なハイドン、ヘンデル、ヴィバルディの音楽も道連れにされた。

かの小澤征爾と同様の三流指揮者であるが、その代わりに一流音楽学者であるニコラス・アーノンクールによれば、ポスト・モーツアルトの「現実的な」音楽は、1800年ごろにパリのコンセルバトワールに生まれたという。

複雑で、対話的で、雄弁なモーツアルトのようなデリケートで知的な音楽のかわりに、例えばあの那智黒なワーグナーや男根的ヴェルディや荒川静香的プッチーニのように、アホバカ簡単単純明快音楽が、19世紀から現代までの音楽界を占拠した。

フランス革命は人々を階級社会から解放し、自由と平等の諸権利を確立したかもしれないが、ほんとうの音楽の生命を絶ち、音楽をボナパルティズム化し、いわば「軍事化」してしまったのである。

嗚呼、かのモーツアルトを虐殺したのが、サリエリではなく、あの三流音楽家ジャンジャック・ルソーという名の孤独な散歩家の夢想であったとは!

(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

甦ったモーツアルト

♪音楽千夜一夜第11回

音楽の唯一無二の革命児、TRAZOM。

彼の死後およそ1世紀を経て、さながらダライラマのように欧州の地に生まれ変わったのは、他ならぬアルチュール・ランボーであった。

100年後のTRAZOM、ランボーの言葉を聴こう。

「僕らの欲望には、巧みな音楽が欠けている。」

「彼は愛である。完璧な創りなおされた尺度であり、驚異的な、思いがけない理性であるような愛だ。そして永遠である。」

「より強烈な音楽のなかへのいっさいの苦しみの解消。
耳で築かれた城から、未知の音楽が流れ出る。」

「君の指が太鼓をひとはじきすれば、すべての音が放出され、新しいハーモニーがはじまる。君が1歩を踏み出せば、あたらしい人間たちが決起し、進軍がはじまる。君の頭があちらを向けば、あたらしい愛だ! 君の頭がこちらを向けば、あたらしい愛だ!
つねにやってきて、いたるところに立ち去る君。」

そして極めつけの1句がこれだ。


「僕は素晴らしいオペラになる。」

そして事実そのとおりになった。


(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

Saturday, February 24, 2007

2つの春

鎌倉ちょっと不思議な物語45回

第43回の続編です。

小さな水溜りに2種類のカエルの卵を発見しました。

笑み里さん情報によれば、一番右側がアカガエルの仲間であろう、ということです。

きのうと1昨日に見かけた割合小さい2匹が、おそらくこの卵の産みの親だったのでしょう。(でも今日は見かけませんでした)

で、左側のやつが、たぶんヒキガエルの卵だと思われます。

いずれにしてもこんなわずかな空間によくぞ生まれてくれたものです。

もし私たちが泥と葉っぱを取り除いておかなかったら、いったい彼らはどこに産卵できたのでしょう?

か弱い生物に対する奇特な人間のケアがなければ、もう在来の普通の動物ですら生存できないところにまで時至っているのかもしれませんね。


待ち待ちてついに産みけるカエルの子
ヒキと聞きつつ実はアカなり

モーツアルトの最期

♪音楽千夜一夜第10回

モーツアルトの生前の最後の作品は、1791年11月15日に書きあげられた「フリーメーソン小カンタータ」である。

いま私はそのK623をCDで聴きながら、これを書き飛ばしてる。

オロナミンCのような元気ではつらつとした音楽で「楽器たちの陽気な音が」とテノールが歌い始める。とても3週間後に死ぬ人の音楽とは思えない。

モーツアルトの妻コンスタンツエによれば、モーツアルトの健康状態は最晩年のこの時期にほぼ完全に回復し、このカンタータの初演を指揮するためにフリーメーソンの分団「新たに冠されし希望」の集会所へ足を運ぶほどだったという。

ではまるで全盛期のように活力を取り戻して「コジ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」、「皇帝テイートの慈悲」「クラリネット協奏曲」などの傑作を書き上げたモーツアルトに、いったい何が起こったのか?

ソレルスは、モーツアルトは万全の体調で魔笛を書いていたときに、「傷んだ豚のロース」にかじりつき、それが原因で死んだと書いている。突然の病気はレクイエムの作曲に取り掛かった10月の中旬に始まり、11月の小康状態を経て、12月5日の早すぎた死に直結したわけだ。

それにしてもモーツアルトは、まるでランボーのようにおそろしく生命力の強い男だった。食欲も性欲も人並み優れたものがあり、妻コンスタンツエへの晩年の手紙には「お前の○○を思っておいらの××は机の上で猛り狂っている。どうにも我慢ができないよおお!!!」と書かれているから、それほど妻を肉体的に愛していた。妻以外の女性も含めて…。

その証拠にモーツアルトが死んだ翌々日、彼と同じフリーメーソンの会員であるホーフデーメルが、モーツアルトの子を宿した妻を殺そうとして自殺している。

一方のコンスタンツエは29歳でモーツアルトと死に別れ、その後デンマークの外交官ニッセンと再婚し、1842年に80歳で他界した。ニッセンとともにモーツアルト復興に貢献したとはいえ、他の男と浮名を流したり無駄遣いをしたりしてモーツアルトの晩年に幸福と不幸を二つながらに与えた功罪をもつ。

まあ、どっちもどっちでもいい。いろんな意味で、似合いのカップルだったのだ。
フィガロとスザンナ、タミーノとパミーノ、いやパパゲーノとパパゲーナのように…。
 

体調を崩してベルリンで療養していたコンスタンツエは、夫の死に立ち会えなかった。代わりに死の床でモーツアルトを看取ったのはコンスタンツエの義妹、ソフィーだった。

死の前夜、モーツアルトは「魔笛」有名な、「おいらは鳥刺し」の歌をほとんど聞こえないくらいのかすかな声で口ずさんだ。

そしてソフィーは空前にして絶後の天才の死を、こう語っている。

「湿布があまりにつよい衝撃を与えたために、モーツアルトの意識はもう息を引き取るまで戻りませんでした。彼の最後の吐息は、まるで自分の「レクイエム」のティンパニーを口で真似ようとしているかのようでした」

(引用と主な参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」、写真はAFP時事提供。1840年10月ドイツ南部アルトエッテイングのスイスの作曲家マックスの自宅前で撮影されたコンスタンツエ(前列左端)の生涯ただ1枚の歴史的な写真です)

Friday, February 23, 2007

笑々っていいとも 

鎌倉ちょっと不思議な物語44回

鎌倉でも京都でも、電線はいたるところに張り巡らされ、電柱は勝手にそそりたち、おまけにアホバカ携帯会社がおんなじ地域に3本もU字型のアンテナ塔をおったてても誰も文句をいわない。

さすがの彼らも多少は気がひけるのか、昨日の朝日の夕刊によれば、アンテナを竹に偽装したり、付属機器収納庫を山小屋に変装させているそうだが、笑止千万。
そういう小手先の「偽装」自体が醜悪な発想である。

そういえば鎌倉の東口駅前に「笑々」という、名前からしていやらしい居酒屋がある。

私の目には、その看板とネオンサインがあまりにも下品で毒々しすぎるので、いつも目をつぶって通り過ぎていた。

ところが去年だかおととしだか、たまたまそいつをまともに見た瞬間に吐き気を覚えた。

景観のみならず人間の精神の平安を著しく撹乱するこの標識はもう許せんと思った。

それでとうとう思い余った末に、ネットでHPを検索して本部の広報室長に電話をかけてみた。

「あなたの会社のC.Iデザインは酷すぎる。これでは多くの消費者を敵に回す。倒産するかもしれない。それで私が鎌倉支店用にもっとお上品なデザインとロゴを考えてあげるからこの際差し替えてみないか」

と、抗議兼懇切丁寧な提案までしたのだが、その広報室長らしき人物は

「そういわれても私にはなんともきゃんとも。なにぶんきゃまくら以外にも全国にお店がありますので、全国日銀会議で検討して」

 云々と、のたまわっておったなあ……。

私は絶対に、死んでも、あんな店には入りたくない。

Thursday, February 22, 2007

早すぎた春

鎌倉ちょっと不思議な物語43回


今日は家族と例の産卵場所に行って泥と木の葉をかき出して水溜りを増やしてやった。

で、鎌倉ちょっと不思議な物語42でご紹介したカエルの卵であるが、どうも違うみたい。

ヒキガエルはもっと大きなループ状になっており、ゼラチンが白いのにこいつは黄色がかっていて小さい。

さらに昨日、この卵の場所の近くで写真のような小さなカエルが2匹見つかった。

こいつは断じてヒキガエルではない。

詳しいことは図鑑を見ても分からなかったが、アマガエルかアカガエルの仲間だろう。

では卵は彼らのものだろうか?

でもアカガエルもアマガエルも2月に産卵なんかしない。もっとずっと後だ。

しかしこの超暖冬異変で2月に産んでしまったのかも知れない…。

なーんて、カエルを巡る疑問はますます深まる、余りにも早すぎる春の一日なのであった。

Wednesday, February 21, 2007

♪醜い鎌倉の私

あなたと私のアホリズム その11


おお鎌倉、お前は醜い。

東口駅前は、かなり醜い。

小町通りも、相当醜い。

ああマクドナルド、お前もひどく醜い。

そして「笑々」、おめえは余りにも、余りにも醜い。


しかし我々は、醜いものを直視しない。

そっと眼を逸らして、あらぬところを見る。

あの電線も、電柱も、看板も、横断幕も

すべてなかったことにする。

まるで裸の王様みたいに…


けれど、目に付くほとんどすべてのものが醜いと叫ぶ

この私も、相当に醜い。はずだ。

しかし、醜いものはなんたって醜いのだ!

と、星も見えない夜空に叫ぶと、

泣いていたはずのペコちゃんが、笑った。

Tuesday, February 20, 2007

ちっとも美しくない日本と日本人 

あなたと私のアホリズム その10

中島義道が説くように、日本人はそれほど美しいものを愛好しているわけではない。むしろその逆だ。
我々は、新宿や秋葉原や渋谷センター街の現代的な光景をことのほか愛している。そしてそこは醜悪でグロテスクな街だ。
三茶やシモキタや有楽町のガード下や歌舞伎町や新橋など大中少のきのおけない大衆的な雑踏を愛している。そしてそこは醜悪でグロテスクな街だ。

日本人が桂離宮や銀閣寺や高雅な北山文化を愛していないことはないのだけれど、それはよそ向きの顔であって、日常生活の中ではお気楽で猥雑で無政府的でブッチャケで混沌としたアジア的な無秩序を好むのだ。アジアの片隅の村祭りをこよなく愛しているのだ。

あるいはこうもいえる。
我々は自宅の中では西洋かぶれのおしゃれなデザイン美学を愛好しているが、一歩外に出れば建築や調度や雑貨の美しさなどもうどうでも好いのだ。

「町並みの美学」なぞ、犬にでも食われろだ。

道路も、街路も、電柱も、電線も、駅も、自転車置き場も、ゴミ捨て場同然の醜さであっても、どこかの国のアホバカ首相のように「これが日本だ、美しい祖国だ! ワンワン」と、シッポを振って喜んでいるのである。

Monday, February 19, 2007

ありがとう、ありがとう、ありがとう

遥かな昔、遠い所で 第7回

今日の日経の夕刊に嵐山光三郎の「渡辺和博氏の死」を悼む随筆が掲載されていた。

彼は10年間にわたって週刊朝日に「コンセント抜いたか」というエッセイを連載していたのだが、その相方のイラストレーターの渡辺和博氏がガンで亡くなったのである。

 3年前から肝臓ガンで入退院を繰り返していた渡辺氏は、後頭部まで転移し右目はしびれて見えなくなった目で、最後の作品、「60歳になった白髪のペコチャンの絵」を描いたという。

薄れてゆく意識のなかで、10年間続けてきた仕事を終えた渡辺氏は、亡くなる寸前、子どもみたいな声を出して、「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と奥さんに言ったという。

ここまで読んだ私は、嵐山光三郎の父君の最後の「よろしく」と書かれた言葉を思い出さずにはいられなかった。

げに死者の最後の言葉ほど、生者の胸を鋭くえぐるものはない。

私は、最後まで仕事をする人が好きだ。

私は、自分の妻を愛し、感謝する人が好きだ。

ああ、渡辺さん、遅かれ早かれ私たちも全員があなたと同じ道を辿るのです。


今朝咲きし すべての梅が枝 君に捧げん


黙祷

Saturday, February 17, 2007

四吟歌仙

遥かな昔、遠い所で 第6回


一  (新年)    パソコンを開けば思はぬ賀客かな    杉月

二  (新年)       ネットを揺らす獅子舞踊  あまでうす芒洋

三 (春)     梅林に黒猫一匹横切りて         峯女

四 (春)         主人はひとり春炬燵する    ろく水

五 (春・月)   おぼろ月異郷の家並みにかかりをり    杉月

六  (雑)       太郎は寝たが次郎目覚めつ     芒洋

(初折裏)

七   (雑)     夢が躍る時が過ぎゆくしんしんと   峯女

八   (恋)       かどのご隠居朝帰りして     ろく水

九   (恋)     千早振る神代大夫に恋焦がれ     芒洋

十   (夏)       卯の花匂う垣根飛び越え     峯女

十一  (夏)     白球を「はてネ」と拾ふ夏帽子    ろく水

十二  (雑)       托鉢僧が独り佇む 杉月

十三  (秋・月)   列島をはるかに照らせ秋の月    芒洋

十四  (秋)       鳥島南方台風北上        杉月

十五  (秋)     コンビニの傘無残なり天高し     ろく水

十六  (雑)       幼な児追いし赤い風船      峯女

十七  (春・花)   花曇遠き日の鬱よみがえり      杉月

十八  (春)       風光る原友と進まん       峯女

(名残表)

十九  (春)     春の果て地下六尺に眠る犬      芒洋
  
二十  (雑)       漆黒の夜に連れ笑いして     ろく水 

二十一 (雑)     かがり火に馳せ集ふたり京のもののふ 杉月

二十二 (雑)       コミューンに燃えた七十二日   峯女 
 
二十三 (冬)     血塗られし壁に動かず冬の蝿     芒洋 
 
二十四 (雑)       足滑らせて尻餅をつく      ろく水
 
二十五 (恋)     宙に飛ぶ少女の腓うち震え      芒洋
  
二十六 (恋)       上げたばかりの前髪乱れ     峯女 
 
二十七 (恋)     哀しみに耐えて瞳をそらしをり    杉月 
 
二十八 (雑)       車窓はるかに望む鐘楼      ろく水
 
二十九 (夏・月)   雨上がり静かな村に月涼し      峯女 
 
三十 (夏)       わが掌の平家蛍よ        芒洋 
 
(名残裏)

三十一 (雑)     友臥せり本を命の余命いくばく    杉月 
 
三十二 (雑)       故郷の味する持参の饅頭     ろく水 

三十三 (雑)     踏み切りを渡れば唱歌聞こえ来し    杉月
  
三十四 (雑)       あろんざんふぁんなむあみだぶつ 芒洋 
 
三十五 (春・花)   つかのまの乱舞を誘う花吹雪     峯女 
 
三十六 (春)       若葉翳さす静が舞台       ろく水 

不安な春

鎌倉ちょっと不思議な物語42回


去年は3月6日に発見したヒキガエルのオタマジャクシの卵を、昨日同じ場所で見つけた。

私が知る限りヒキガエルが天然自然に繁殖しているのは、光明寺の深い池と果樹園とここだけだ。

かつては春近い季節のとある日に、突如どこかから現れた何匹もの雌雄が、激しく交尾して我々人間を驚かせ、楽しませてくれたものだ。

そうして恋の勝利者たちは、長い長い輪になった透明な寒天状の袋に入った小さな黒い斑点のような卵を、どうだ、どうだ、と勝ち誇ったように湿地や水溜りのいたるところに産み付けたものだが、ここ数年、そういう心踊る光景にはたえてお目にかかれなくなってしまった。

それにしても、今年はやはり暖冬で地球には絶対に大きな異変が起こっている。

例年なら落ち葉が沈んでかなり大きな水溜りができているはずなのに、今年は渇水のためにほとんど水がない。仕方がないので、私は少し落ち葉をかき出して、小さな池を作ってやった。

このままなんとか育って、七月上旬のニイイニイゼミの初鳴きの頃、無事に孵ってほしいと祈るような思いだ。

しかし油断はできない。

去年は忘れもしない6月28日に、近所のアホバカオートバイ野郎が、この池と草地を蹂躙して大半のオタマが死滅した。

だから、いつも私は何匹かを自宅の瓶で育てて万一に備えているのだが、今年は両生類の絶滅を招きかねないカエル・ツボカビ症が、わが国にも中南米から侵入してきた。

この「カエルのエイズ」に感染すると、カエルやサンショウウオたちは皮膚呼吸ができなくなり食欲不振、オブローモフ現象などを起こし2~5週間で9割が死んでしまう。

現に中米のパナマでは野生のカエルが全滅した地域があるそうだ。クワバラ、クワバラ。

私の大好きなカエルにも、可愛いらしいけど小生意気な木村カエラにも、どうやら明るく楽しい未来はなさそうだ。

Friday, February 16, 2007

遥かな昔、遠い所で 第5回

三歌仙

発句       鎌倉の谷戸に咲きたり岩煙草    あまでうす芒洋
脇         そぼつ五月雨烟るむらさき    ろく水
第三       早乙女の笑顔まぶしき昼下がり   峯女
四句目        誰かさんが眠っているよ小麦畑 芒洋
五句目      名月に栗も団子も間に合わず    ろく水
六句目         可不可を論ずる虫たちの声   峯女
折立        むざむざと捕えられたり秋蛍     芒洋
ニ句目         かこち顔して恋文を打つ     ろく水
三句目       ブラームスお好きかどうかと問い掛けて 峯女
四句目         セーヌ左岸で都々逸を唸る    芒洋
五句目       葡萄酒も時のかなたの偏奇館    ろく水
六句目          踊り子ひとり爪を眺める    峯女
七句目      寒月や朝まで照らせ伊豆の海     芒洋
八句目          群雲たちて風花の舞う     ろく水
九句目       浅きゆめ目に焼きつきし煌めき残す  峯女
十句目          五〇過ぎれば下天も楽し      芒洋
十一句目       北面の武士いざないし桜花      峯女
折端          草の茵の春宵値千金       ろく水
折立        太平の眠り覚ますや猫の恋        芒洋
二句目          敗れて逃げしトタン屋根かな    峯女
三句目        欲望という名の電車に飛び乗りて   ろく水
四句目          ナッシュビルにてブランチしたり  芒洋
五句目       あらまほし喉すべりゆく冷奴      峯女
六句目          今どきの娘は浴衣にサンダル   ろく水
七句目       ざんざ降り下駄の鼻緒は紅染みて   芒洋
八句目          小癪なおきゃん水仙めでる     峯女
九句目        球根のひげ根はびこる水栽培      ろく水
十句目           ワッと驚くキューリー夫人    芒洋
十一句目      ワルシャワの蒼白き月ラボ照らし    峯女
折端            貧乏書生は着重ねが好き    ろく水
折立        暗闇の坂を下れば雁が鳴く        芒洋
二句目           無縁の人になごりを惜しみ    峯女
三句目       良縁も運がいいやら悪いやら      ろく水
四句目           後の祭りは世の習いなり     峯女
五句目     浅草や雷門に花吹雪          芒洋
挙句          盛り塩清し春の夕暮れ       ろく水

Thursday, February 15, 2007

平成風狂散人の傑作を読む 

嵐山光三郎著「よろしく」(集英社)


嵐山光三郎は不当に低く評価されている作家だが、それは間違っている。

彼の作品はすべて読むに値し、読後の深い感銘を残す。特に山田美妙や芭蕉などの文学者を素材に取り扱った際の彼の技量の冴えは鋭く、凡百のヒョーロンカどもの白痴的言説を地上はるかの高みからアハハハアと嘲笑うのである。

特に人生の黄昏を迎えた父母と暮らしながら、その1日1日の断片をいとおしむように綴ったこの作品は、もしかすると彼の最高傑作かもしれない。

この小説には著者の家族や友人、著者が住むK立市の町内に住む有名無名の住人や奇人変人が続々と登場し、殺人事件や恐喝、詐欺、痴情、暴力、警察沙汰などの大小の事件と騒動を繰り広げる。

それらの大半は事実であり、ありのままの現実の描写なのだが、著者の筆にかかるとそれらがそのまま幻想譚であり、壮大なフィクションであり、人間非喜劇と化す。

嘘か眞か、ではなくて嘘も眞も一体となり混在するまか不思議な世界へと読者は導かれる。だから、これこそはほんとうの現代文学なのでR。

彼の文章の特色は、その独特のユーモアと冷徹な無常観の共存にある。彼は面白うていつも哀しき人の世の習いを、草原を一定の速度で黙々と直進するサイのように淡々と叙述する。

その白眉が本書の第八章「月おぼろ」である。これから読まれる方のためにいっさいの情報を封印するが、ともかく黙って読んでみてほしい。285pから312pまでの28pは骨肉に徹する瞠目の大文章である。これこそが文学だ。

この偉大な平成の風狂散人は、内心では炎のような情熱と狂気と無政府主義魂が燃え滾っているのに、それをおくびにもださずに冷徹に生きる。

世間を正確に見据える鴎外のような、荷風のようなその姿勢が好ましい。

Wednesday, February 14, 2007

遥かな昔、遠い所で 第4回

両吟歌仙 「春の膳の巻」  
 

独活に蛸酢味噌よろしき春の膳      ろく水

   そよと吹き込む五弁の桜        楽斎

蝶来る窓辺に本の積まれおり        ろく

   学成り難くごろ寝するなり        同

満月を見つけし宵のうれしさよ        楽

   げにすさまじきゴッホの流星      ろく

     跳ね橋の袂に咲きたる曼珠沙華        楽

       お春恋しや沖の白雲          ろく

     バイカル号いま大桟橋を離れたり       楽

       鞄に潜めしピストル一丁        ろく

     議事堂の坂を一人で駆け上がる        楽

       チョン髷断ちたる代議士もいて     ろく

     大川の左岸は涼し夏の月           楽

       サン・ローランのパンタロン着て    ろく

     老将は死なずただ生き尽くすのみ       楽

       余寒にさする脛の古傷         ろく

     オフェリアの沈みし淵か花筏         同

       春告鳥の語尾は震えて          楽

     羅典語の教師板書で早や四十年       ろく

       ワインに厭きて蕎麦湯を愛す       楽

     碧眼の妻に古備前ねだられて        ろく

       茶髪駆け込む大門の質屋         楽

     夏草をわけて奔るや風の径         ろく

       雲の彼方の少年の夢           楽

     蒼穹の果て見て鳴くか揚げ雲雀       ろく

       虚無僧は行く蒲公英の道         楽

     罪ありて遠流されしや雛流れ        ろく
       
世阿弥をつつく鴉が一羽         楽

     砧打つ音なかぞらに月高し         ろく

       無為を楽しむ今朝の秋かな        楽

     猿沢の池を巡れば鹿が鳴く          同

       煎餅食いたし美形でいたし       ろく

     銀座に消ゆ絽に黒髪の謎のひと        楽

       真砂女に似たる猫あくびして      ろく

     わが庵に万朶の桜降りやまず         楽

       楽の音もまた春の夜の夢        ろく

Tuesday, February 13, 2007

景山民夫氏の思い出

景山民夫氏の思い出

遥かな昔、遠い所で 第3回

昔、といっても80年代の中頃のことだが、マガジンハウスの「ブルータス」という雑誌の名物編集者で、現在は「ソトコト」の編集長である小黒一三さんから景山民夫という作家を紹介された。

景山氏は長身の都会的な青年で、とても端正な顔立ちをしており、いつもおしゃれないでたちをしていた。

彼は1988年に「遠い国から来たクー」で直木賞を受賞したが、その記念パーティで挨拶に立った角川書店の見城徹(現幻冬社社長)が登壇して、そのラストシーンを二人で泣きながら書き上げたと語ったので、“へえ、小説は編集者と泣きながら共作するのか”、と思ったことがある。

その後何度か会う機会があったが、その時の話題はいつも障碍を持つお互いの子どもについてだった。

障碍といってもいろいろあるが、私の考えでは2種類しかない。親が死んでもなんとか自己責任(嫌な言葉だが)で生きていけるタイプAとそれが不可能なタイプBである。

前者の親は安んじて死ねるが後者の親は、死ぬにも死ねないし、厳密にいうとこの地上においては人間として普通の自由と安楽は許されてはいない。己が死する直前に、たとえそれが地獄であっても愛児を道連れにしようとひそかに考えている。

それゆえにこのタイプB同士の弧絶の悩みと交流の深さは、タイプAよりも深くて濃い。
「同病相哀れむ」ではなく、「同病各自滅す」なのである。

いま世間では格差社会がどうのこうのと世間では喧しいが、真の格差とはタイプAとBとの絶対的格差を指し、それ以外の格差は格差ではない。そこにこそ為政者のなすべき仕事があるはずだ。

なーんて話を、原宿のブルーミングバーで遅くまで話し込んでいたあの景山民夫氏が、ある日突然の自宅の失火で亡くなっちまった。そのとき私は彼を悼むより残された妻子の身の上を案じたことだった。

彼には「人生には雨の日もある」というエッセイもあるせいか、雨の日には彼のことをよく思い出したが、今日は雨も降らないのに、中野坂上の青空に浮かんでいる白い雲を見ているうちに、限りなく心優しかった彼を懐かしく思い出し、死後の彼の幸福と苦悩について考えた。

余談ながら最近のこの業界?では、「障害」と書かずに、「障碍」または「障がい」と書くのがおしゃれなトレンド。

その心は、「障がい者」は、言葉のあらゆる意味において、「害的存在ではない」から(笑)。

Sunday, February 11, 2007

くたばれ!マウンティング・バイク

あなたと私のアホリズム その9


最近これはちょっとヤバイと思うのが、山道の奥の奥の杣道を猛烈な勢いで突っ走る無軌道なマウンティング・バイクである。

こっちは都会の喧騒と車が嫌で田舎に引っ込んでいるというのに、最新式の重装備自転車にまたがった奴らが、お誘い合わせの上で団体で鄙に押しかけてくる。

文字通り獣1匹しか歩けない急な小道を、地図を片手に都会からやって来たこいつらが、下に誰が歩いているかなぞまったく無頓着に、「ひよどりごえ」の義経気取りで車もろとも落下してくるのである。
恐ろしいやら、怖いやらで、おちおち山道の散歩などできるものではない。

タイワンリスが環境を破壊しているのは事実だが、こいつらは動物だ。言い聞かせても善悪が分からないから仕方がない面もある。

しかし老人、子ども連れが楽しく歩いている野道やハイキングコースに、猛スピードで自転車を乗り入れてくるのは、一人前の人間である。

お前は自分がやっていることの意味が分かっているのか? 山道は山人が歩くための道なんだ。「走る機械」が、遊びで走る場所じゃないんだ。

いくら都会の道路が危険だからといって、わざわざ人跡稀な僻地までやってくるな。

お前の身勝手な欲望のお陰で、多くの人々が迷惑を被り、怪我をしたり、大きな被害を受けているのだ。

見ろ、お前が知らずに車輪で踏みつぶした冬スミレを。お前のお蔭で人間だけではない、自然も傷ついているんだぞ。

自転車屋も自転車屋だ。環境を破壊する凶器を作るな、売るな、奨めるな!


ということで、久しぶりに“怒りのチビ太”となりました。

勝手に東京建築観光・第6回

夕中野坂上には、かの有名な中野長者の成願寺がある。

昔紀州熊野出身の鈴木九郎という男がいた。先祖はかの源義経の部下で奥州で討ち死にしたそうだが、その後裔である九郎は、いま東京タワーが建っている縄文時代の聖地芝に漂着し、葛飾の馬市で売った馬の代金を浅草の観音様に奉納したことからあれよあれよという間に大金持ちになり、いまも中野坂上に実在する成願寺に住んだので巷では「中野長者」と呼ばれる有名人になった。 有名になっている間にもどんどんお金が儲かるので、九郎はその千両箱をアルバイトに頼んで、近所の東京工芸大の付近に毎晩のように埋めていたが、その秘密の場所を知られると困るので大判小判の運搬を手伝った者たちをひそかに闇に葬っていた。  その悪行のせいだかどうだか分からないが、呪われた九郎の娘は醜い大蛇となり、ある雨の日に鎌倉の十二所ではなく西新宿の十二社の池に身を沈めてしまった。
父親の因果が子に報い、大蛇に変身した美しい娘は、まるでワーグナーの楽劇「指輪」の序夜「ラインの黄金」の冒頭に出てきて「ウララ、ウララ」と全裸で歌って踊る乙女のようだ。  しかし中野長者の金融商業資本を水底深く守護し、遊治郎どもの性的好奇心を惹きつけ、東都一の遊興の地である歌舞伎町や角筈の伊勢丹、紀伊国屋、中村屋などの商業施設を定着させたのは、なんとこの中野乙女だったのである。

以上、中沢新一氏の解説でした。

Saturday, February 10, 2007

落石に注意!

鎌倉ちょっと不思議な物語41回


おなじみの朝比奈峠に最近異変が起こっているらしい。

つい先日も市役所の史跡保存関係者の面々が上空を見上げていた。

この峠のさらに上にはハイキングコースがあって、その根本の石や土砂がいつ崩落してもいい状態にあるらしい。

実際峠には「落石に注意」の立て看板がれいれいしく置かれているし、時たま結構大きな石が落下しているのは事実であるが、では我々通行人はいったいどうやって「注意」したらいいのだろう?

朝比奈切通しの近所の釈迦堂切通しはもうずいぶん昔から崩落の危険があるということで交通禁止になっているが、近く朝比奈峠も同じ命運を辿るのだろうか?

Thursday, February 08, 2007

半藤一利著「其角俳句と江戸の春」を読む

あなたと私のアホリズム その8


鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
鶯の身をさかさまに初音哉
闇の世は吉原ばかり月夜かな
わが雪と思へばかろし笠の上
夕涼みよくぞ男に生まれけり
憎まれてなかれえる人冬の蝿
いなずまやきのふは東けふは西
秋の空尾上の杉を離れたり

などで有名な宝井其角(寛文元年1661~宝永4年1707年)の含蓄ある華麗な代表作を半藤先生が講評する。国漢文に造詣の深い先生の解釈の奥深いこと、また博引傍証の凄まじさにも圧倒される。特に最後の3篇が好い。

本書で改めて学んだこと

墨東に残る江戸時代の建築は三囲神社の本殿、寿老人の白髭神社の本殿、毘沙門天の多聞寺の山門の3つ。

江戸の鐘の音は、日本橋石町、上野の山、浅草観音、芝の切り通し、市谷八幡、本所横川、四谷天龍寺、田町成満寺の9箇所で鳴った。

1日12刻を十二支で表わす。始まりの子の刻は夜の十二時で鐘の音は九つ、次の丑の刻が午前2時で鐘は8つ、以下二時間間隔で寅の刻は7つ、卯の刻6つ、昼の十二時の午の刻になるとまた9つ、午後2時の未の刻が8つ、申の刻が7つ…。お江戸日本橋7つ立ちは午前4時、などなど。

勉強になりましたぞ、なもし。

五木寛之の「仏教の旅」を読む

あなたと私のアホリズム その7


最近NHKがインドの衝撃という番組でその破竹の進撃ぶりを伝えていたが、不思議なことにこの国の最大の問題点であるカースト制度についてまったく触れていなかったのが印象に残った。

インドのカーストとは身分を分ける4つのヴァルナ(階級)のことで、最上級のバラモン(司祭、宗教指導者)にはじまり、クシャトリア(王、武士、貴族)、ヴァイシャ(農民、商人、実業家)、シュードラ(隷属民)の順に続く。

そして以上4つのヴァルナにも入れてもらえないのが不可触選民(アンタッチャブル)である。あの偉大な(マハトマ)ガンジーですら、口では博愛精神を唱えながら、実際にはヒンズー教とカーストを擁護していたが、さすがにお釈迦様は心がひろく、いかなる不可触選民もまったく差別しなかった。
たとえ相手が娼婦であれ、盗賊や殺人犯であれまったく平等にあつかった。

その偉大なブッダの最後の旅を現地を歩きながら五木寛之という作家が、独特の低音で語る。

その低い声音はテナーではなく、野太いバスで歌われる浪曲のようである。水の流れにたとえると春の小川ではなく、滔々と流れる冬のヴォルガの底流のようである。

もうけっして若くないこの作家は、虚飾を拝した散文で、とつとつと己の真情を語る。そのような言葉と精神で書かれた新作がこの本であった。

私は本書の最後に紹介されているインドに帰化した日本人仏教僧、佐々井師の壮烈な生き様に感銘を受けた。

師は不可触選民の出身にしてインド憲法の制定者でヒンズー教から仏教徒に転進したアンベードカル博士と同様に、「自利利他円満」を退け、「利他一利」を主張しているが、やはり本当の仏教は宮沢賢治と同様この境地まで達しないわけにはいかないのである。

Wednesday, February 07, 2007

未来世紀ブラジル

勝手に東京建築観光・第5回


 才人監督テリ―・ギリアムの「未来世紀ブラジル」は大好きな映画だが、ここに出てきた近未来都市さながらの光景が、中野坂上駅前のサンブライト・ツインビルの外装である。

階上に向かうエスカレーターに乗って左上方を見上げれば、おお、凄い凄い、目が眩むような景観が頭上に覆い被さる。

やたらと日本人を殺傷したり閉じ込めたりするシンドラー社製のエレベーター!?が、何本も乱高下する姿はちょっとシュールな見ものである。
 エスカレーターを捨てて広場に出てみよう。進行方向左側に立つ集合住宅ビルの外装もとても洗練されている。

安藤忠雄の表参道ヒルズなんかよりよほど高級な建築物である。

Tuesday, February 06, 2007

ザ・ビッゲスト・スリー

あなたと私のアホリズム その6


世界の三大宗教は3人の偉人の偉大な死によって始まった。

イエス・キリストは西暦28年、32歳のときポンテオ・ピラトの命によってゴルゴダの丘で十字架上で磔になり、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」と叫んで息絶えた。しかも彼は3日後によみがえったと言われている。

これに対してイスラム教の始祖マホメットは、西暦632年、61歳のとき愛妻アイーシャの胸に抱かれながら波乱万丈の生涯を終えた。
コーランの最後の言葉は、「言え、おすがり申す、人間の主に、人間の王者、人間の神に。そっと隠れてささやく者が、ひそひそ声で人の心にささやきかける、妖霊もささやく、人もささやく、そのささやきの悪をのがれて」である。

いっぽうゴータマ・ブッダは、紀元前480年、鍛冶工の子チュンダが献じたきのこ料理が直接の原因となってクシナーラーで80歳で涅槃し、火葬に付され、その骨の一部はわが国の名古屋市覚王山日泰寺に納められ、諸宗交替で輪番する制度になっている。

「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」
が、ブッダの最後の言葉であった。

インドでは古くから人間の一生を学ぶ学生期、家族を支える家住期、晴耕雨読の林住期、死出の旅に出る遊行期に分けるが、ブッダはその生涯を通じて「よく死ぬための旅」を敢行し、ついに旅に死んだのである。

ブッダはクシナーラーではなく、本当はその先にある自分の故郷釈迦族の都カピラヴァストゥへ向かっていた。かつて自分が妻子と国民を捨てて出た故郷へ…。

その故郷はブッダの名声をかさにきて傲慢になり、それが原因で敵国コーサラによって滅ぼされてしまう。それに対して自責の念を感じていたブッダは、最後に自らの母国を目指そうとしていたが途中で力尽きた。

3人の偉大な宗教家のなかでは、私はそんなブッダに生き方と死に方が一番好きだ。

Monday, February 05, 2007

数珠を回して

ある丹波の老人の話(4)


 その日、大広間には大勢の人たちが集まりました。

そして一同は輪になって座ると、まず願主の祈りがあり、続いて会衆は口々に南無阿弥陀仏を唱えつつ、両手で珠を送って数珠をグルグル回すのです。

珠の中には格別大きうて房の垂れたのがあって、それが老院長のところに回ってくると、老院長はうやうやしくこれを押し頂き、「戌の歳三三才女眼病平癒いたしますよう、南無阿弥陀仏の観世音菩薩…」と唱えます。それが終るとまた数珠回しが始まり、限りなく繰りかえされるんです。

 初めのうちは数珠の回りが緩やかやったんですが、だんだんそれが早うなり、念仏の声も高くなり、会衆一同に憑き物でもしたように満場沸き返るような白熱した祈りとなりました。

私は人の情のありがたさに泣き、「これほど熱意のこもった大勢の祈りは、きっと観音さんに通じてきっとごりやくがいただけるやろう」と、なにやらひどく元気づけられたんでした。

そして母も、「きっとお陰が受けられるやろ」と言って、とてもよろこんだのでした。

Saturday, February 03, 2007

百万遍の大祈祷会

ある丹波の老人の話(3)


にわかめくらの母はなにひとつ自分ではできません。

食事の世話は箸の上げ下ろしから、便所通いにはいちいち肩を貸し、私はだいじなだいじな母、好きな好きな母のために、学校を長く休むかなしさも、友達と遊べないさびしさも忘れて、かたときもそばを離れんと介抱しました。

病院には広々とした庭があって、中には観音様のお堂があり、お参りする人が次から次に押しかけ、線香の煙の絶え間がありませんでした。

母の眼を治すために何かに祈りたい気持ちでいっぱいだった私は、「いつか母から話を聞いた柳谷も観音さん、これも同じ観音さんやから、この観音様に母の弦病平癒の願いをこめて一心に祈ってみよう」と決心しました。

毎朝母が眼を覚ますとまず一番に便所に連れて行き、それから食事をはじめ次から次に用事があります。せやからお参りは母がまだ起きないうちに済ませんとあきまへん。私は毎朝薄暗いうちに起き出して観音さんにお参りをしました。

それからお祈りをするんでも、ただ「お母さんの眼を治してください」だけでは自分の真心が観音様に通じないような気がして、いろいろ考えた末に、「私の片目をお母さんに上げますから、お母さんの片目だけでも見えるようにしてください」といいながら祈りました。

それもただ心の中で念じるだけでは通じないような気がして、声に出して祈ったんです。こんなに朝早うから誰も聞いておる人はおらんやろ、と思って、その声はだんだん高うなりました。ところがそんな私の声を聞いておる人がおったんです。

丹後の森というとこから来ていた馬場冶右衛門というおじさんと、越前から来ていた川合おえんさんというおばさんでした。

馬場さんは眼の悪い奥さんに付き添ってきていて、ひまさえあれば老院長の碁のお相手をしている心のやさしいおじさんでした。

おえんさんもやさしい世話好きの良いおばさんでした。この二人が私のことを病院中に言い触らしたので、「かわいそうなことや」「感心な息子や」などとたいへんな同情と評判を呼んでしまいました。

とりわけ老院長がすっかり感動し、おえんさんと馬場さんの奔走の結果、老病院長夫妻が願主となって私の母の回復を観音様に祈願する百万遍の大祈祷会が病院の大広間で開かれることになってしもうたんです。

Friday, February 02, 2007

鎌倉やゴッホの家に人気なし

鎌倉ちょっと不思議な物語41回


十二所の近所には、神社やお寺もあるが、いわゆるゲージュツカも住んでいる。

鷹のように眼光鋭い日本画家の小泉惇作氏は家のすぐ傍だし、和紙のきたみ工房やそのお隣の工芸家さんや岡松和夫さんという温和な顔をした芥川賞受賞作家も住んでいる。

以前に紹介したクジラが遊泳する不思議な美術家の家など最近は小さなギャラリーも増えてきた。

さらに数年前には、崖下にある私の家の上になんと「おみこし作家」なるおじさん夫婦が越してきた。時々のぞいてみると本当にお神輿が飾ってあるのでびっくり、である。

そのうえ十二所には、なんと「ゴッホの家」まで建っているのであった。

Thursday, February 01, 2007

ある丹波の老人の話(2)

  するとそのとき、母は「わたしは柳谷の観音様におこもりして“消えずのお灯明”をあげて一生一度の願を掛けてみよと思うんや。そやからどうぞわたしをそこまで連れて行っておくれやす。あとはどないなってもええさかいに、二人は家に帰っとくれ」というのです。

母はかねてこの観音様の霊験があらたかなことを聞いておりました。“消えずのお灯明”というのんは、手のひらに油を入れてお灯明をともし、一生一度の大願を掛けるんやそうです。

しゃあけんど、そんなところにこの不自由な母を置き去りにして帰れるもんやない。私と父はますます困り果てて悲嘆に暮れ、その場におった二人のカゴかきも一緒に泣いてくれたほどでした。

この愁嘆場を見るに見かねたのでしょう、十二屋の主人が親切に慰めてくれ、さらに「あのなあ、千本通り鞍馬口十二坊いうとこにどんな難病でも治すっちゅうほんまに上手な眼医者はんがおります。これからそこへ行って診てもろうたらどんなもんじゃろかな?」とすすめてくれたんでおました。

その話を聞いた途端、ワラにもすがりたい気持ちの私たちは、京の端から端まですぐにその医者のところへすっ飛んで行きました。

着いてみるとなかなか大きくて立派な病院です。院長は確か益井信という人でしたが、そのお父さんと共に開業してはる眼科の専門病院でした。

早速益井院長に診察してもろうたところ、「いかにも難病は難病やけど、もしかすると治るかも知れまへんなあ」というのです。

九死に一生を得た思いの私たちはすぐに治療と入院をお願いしたんやけど、あいにく病室は満員だというんですわ。

それをなんとか拝み倒して、せめて1週間でもよいからと必死に頼み込んで、とうとう薬瓶などを積んである狭い物置部屋に収容してもらうことに成功しましたんや。

ほいでもって父とカゴ屋はそこで引き上げ、私が独りで母の介護に残りました。
(続く)

Wednesday, January 31, 2007

ある丹波の老人の話(1)

私の家は昔から不思議に男の子が生まれへん家でしてなあ、三代四代と養子を続けておりました。そこへ私が生まれたのでありますが、その私はまことにひ弱な、しなびたみっともない子でしてなあ、母は恥じて人には見せなかったと申します。

 それがどうにか育って青年になりはしたものの、やはり病弱で、徴兵検査には肺浸潤と診断されて兵役免除になり、せっかく勤めていた郡是もやめてしまいました。

父母は弟に面倒を見てもらうつもりで私をあてにせず、親戚の者からもせいぜい安月給取りになるくらいしか仕方がないと思われ、親譲りの下駄屋をやっていくだけの甲斐性もない者として、すっかり見くびられていたのがこの私やったんです。

それが古希に達する現在までなお健在で、これまでなんとかやってこれたことは、じつに見えざる神様のお導きとお守りのお陰であります。ここにこの広大無辺なるご恩寵に感謝し、なおまだ至らざる身に鞭打ちつつ、自らを修めて向上の一途を辿ってまいりたいと願っております。

母の眼病

 私が数えで十二のとき、三十三歳の母は四人目の子を産みました。

ところがこの子は育たず、そのうえに母は産後に眼を病み、眼はだんだん悪くなってとうとう失明してしもうたんです。

にわかめくらの不自由はたとえようもなく、私たち家族はなんとかして治そうと智恵をしぼりました。当時日本一の眼医者として知られた浅山博士が、京都府立医大病院の院長でごわした。

そいで急いで商売の下駄屋をしめ、父と私は弟と妹を親類にあずけて母をカゴに乗せ、二晩泊まりで京都に行ったんでした。東洞院仏光寺上ルの十二屋っちゅう宿屋に泊まり、翌日幸いなことに浅山院長に診てもらうことがでけたんどすが、「これはクロゾコヒといってとても治らぬ眼病です」と宣告されてしもうた。

母はがっかりして「もう死んでしもうたほうがええ」と泣き悲しみます。父も「どうしようか」と思案にあまって親子三人で途方に暮れておりました。(続く)

十二所の神々

鎌倉ちょっと不思議な物語40回


十二所神社の十二所は、「じゅうにそう」、または「じゅうにそ」と読む。「じゅうにしょ」は「敬愛なるベートーベン」ほど酷くはないが、間違った読み方なので念のため。

さてその十二所神社は、かつては時宗の一遍上人が開いた光蝕寺の境内にあって十二所権現と称したが、天保9年(1838年)に大木市左衛門の寄付した現在地に移転した。

一遍は紀州熊野神社本宮にこもって彼の時宗(一遍宗)を開いたので、時宗では本宮を中心とした十二所権現を各地の時宗寺院に勧請して祀ったのである。

その後明治の廃仏毀釈の際に権現を神社に改め天神七代、地神五代をもって祭神とした。

十二所の地名は、この神社に因んでいるという説と、この字の家の数が12であったという説とがある。(「十二所地誌新稿」より)

この神社には力士石があり昔の里人が力比べをした。また鎌倉石のきざはしが2重構造になっているのは珍しく、江戸期の寺社建築と本殿の軒下の木彫りは見事である。


さて20年くらい前に、私たち一家はこの十二所神社のすぐ隣に住んでいた。

秋の祭礼には大小の神輿が繰り出し、大勢の人たちが金魚掬いや綿飴やぼんぼりや出し物をお目当てにやってきた。

出し物の目玉はコロンビアやキングの売れない新人歌手だ。マネージャーに連れられてやってきて下手くそな、しかし哀愁のにじむ演歌を歌ったものである。

去年はたしかトンガかフィジーからやってきたフラダンス?が超目玉であった。

私はフラダンスはパスして、毎回子どもが描いたぼんぼりの絵と、寄進者の氏名と金額が書かれた立て札を眺めにいくことにしている。町内会が祭礼の寄進を求めるので、私は毎年1500円の寄付をしているのだ。

ところが驚いたことに、創価学会の家ではびた一文ださないのに、近所のカトリック修道院がいつも十二所神社に3000円の寄進をしている。世界に冠たる1神教のくせに寛容の精神がある、と感心していたが、さすがに去年はやめたらしい。

この修道院は前にも触れたように三代将軍実朝が創建し、永仁元年1293年の鎌倉大地震で壊滅した大慈寺の跡地に建っている。敷地は立ち入り禁止になっているが、修道女が瞑想しながら歩む裏山の小道にはいくつもの仏像が並んでいることを私は知っている。

今を去る800年前、実朝があの金塊和歌集の素晴らしい古歌を吟じ、蹴鞠に興じたその同じ空間で、グレイの僧衣に身を固めたシスターたちが、祭壇の父と子と精霊に額ずいているとはなんという歴史の皮肉であろうか。

Tuesday, January 30, 2007

贈る言葉

あなたと私のアホリズム その5

昨日は学校の最終講義だった。

まだ来週の試験が残っているが、いちおうこれでおよそ40人近くの学友諸君と訣別したわけだ。ほとんどの生徒とはこのSNSというメディアを除いては二度と会うこともないだろう。

彼らは学校を卒業し、どこかへ旅立っていく。けれども私は相変わらずここにとどまり、おそらくもうどこにも行かないだろう。私は「出発すること、それは少し死ぬことだ」というガストン・バシュラールの有名な言葉を思い出したが、出発しないほうだって多少は死ぬのだ。

年々歳々同じような「学生vs代わり映えしないあほ教師」という相関関係の中ではあっても、また、それが週にただ1度90分間だけの交わりであっても、春夏秋冬と1年間授業を続けていれば、そこには毎回ささやかな波紋が広がり、忘れがたい思い出のいくつかもそこここにちりばめながらお互いの記憶の深層にゆっくりと降りていくのである。

そうしてそれらの記憶は数年、いな数十年の時間を経て懐かしく回顧されたりもする。

私には人を教えることなどできない。いちおうはもっともらしく表層の知識の断片をノートに取らせたり、毎回演習問題をやらせたりしているけれど、そんなものは水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋なねえちゃん立小便、のようなものですぐに忘れられてしまう。

残るのは教師の謦咳だけである。稀に彼が思いがけず発した片言隻句だけが誰かの胸にトゲのように刺さることがあり、それが教育的効果のすべてである。

だから教師はいつでも彼の実存をさらさなければならない。無様で醜悪な生き様を見せなければ反面教師にもなれないのである。

知識ではなく、生に向かって懸命に格闘している姿を90分間ライブでお眼にかけることが教師サービス業の本質であり、それを感得した若者は自分で自分の勉強を始めるのである。

昨日私は、授業の最後に黒板に

春風や 闘志いだきて 丘に立つ
 
という高浜虚子の句を書いて、前途有為な彼らへの別れと励ましの言葉に代えた。

そうして今日の午後、果樹園に散歩に行ったら、突然
「われ山に向かいて眼をあぐ」
という言葉がどこかから湧いて出た。

これは確か太宰治か聖書の文句だったと思うが、じつにいい言葉ではないか。誰もいない広大な果樹園の中、真っ青に澄み切った大空の下で聳える緑の山を見つめながら、ひさしぶりに私自身も「いざ生きめやも」という気持ちになったことであった。

 

Monday, January 29, 2007

インフィル不在の音楽論

インフィル不在の音楽論


♪音楽千夜一夜第9回

稀代の悪文で定評のあった塩野七生氏の「ローマ人の物語」がようやく15巻で完結し、もうこの人の醜い日本語を読む必要がなくなったといささかほっとしているところだ。

ところで全巻をつうじてローマ時代の芸術について触れることの少なかった著者だが、最終巻の104pで珍しく音楽について語っている。

塩野氏によれば、現在のドイツの西部と南部は古代ではローマ帝国に属していたので、ザルツブルグに生まれたモーツアルトも、ボン生まれのベートーヴェンもゲルマン対ローマの図式ではローマ側に入る。

しかしワグナーの生地であるライプチッヒは中世になってから生まれた町で、ローマが征服を断念したゲルマニアの奥深くに位置しているという。

また「ニーベリングの指輪」の登場人物たちはローマ帝国末期に北部から進入を繰り返していたブルグンド族であり、ワグナーの音楽がモーツアルトやベートーヴェンよりもゲルマン的に感じられるのはこの歴史的位置によるのではないか、というのである。

ちなみにバッハ一族はドイツ中部のチューリンゲンだからやはりモーツアルトやベートーヴェンの仲間であり、ワグナー音楽とは一線を画していることになる。

しかしこの伝でいくと英国のエルガーやデーリアスやブリテンは蛮族アングロサクソンの遺風を伝え、セザール・フランクやラベルやドビュッシーは同じ蛮族のフランク族的音楽を作ったことになる。

このように音楽を音楽家の生誕地によって差別化してその特色を論ずることはきわめてずさんな暴論であり、ローマ文化を主に政治、経済、戦争、社会のインフラなどの唯物的スケルトンから再構築する塩野氏ならではの手法ではあろうが、このようなアプローチは芸術と歴史文化の誤まった理解につながるばかりか個々の音楽家の芸術を鑑賞するうえで大きな妨げになる。
 
インフィル不在のローマ論を確立してローマ文化の何たるかを理解したつもりになったように、恐らく塩野氏は古今東西の音楽家のスケルトンだけを聴いて音楽を分かったつもりになっているのだろう。


♪反歌3首

新宿は他人ばかりの街である

鳶1羽我に愛する力あり 

類型を逸脱するは難くして♪桜桜とシャウトする歌手

Sunday, January 28, 2007

ぐあんばれ宮崎緑!

ふあっちょん幻論第5回&鎌倉ちょっと不思議な物語39回

鎌倉には数多くの有名人?が住んでいるようだが、その中の一人に宮崎緑さんという元NHKのキャスターがいる。

去年だったか駅前のケンタッキーフライドチキンの細道をこちらに向かって突進してくる顔のみならず全体が大きくかさばった女性がいた。眼には隈ができ、その青ざめた顔にことさら部厚い白い化粧をしていた。

そのときは誰だかよく分からず、まるで江戸時代の紋付袴姿の侍か、東洲斎写楽描く役者絵の巨大な凧のような印象だけを家に持ち帰ったのだが、数日前、新聞広告に登場した中年女性の写真を見て、その時の写楽が宮崎緑さんであったことを知った。

そして私は現物に出会ったときに受けた一種の異様さの謎がたちまち氷解するのを覚えた。彼女はあのときも、そして写真の中でも、ノーマカマリ風の肩パッド付きのジャケットを平然と羽織っていたのである。

「おお、懐かしや、肩パッドであるぞよ」と思わず私はうなった。

ご存知のようにこの種の肩が天空めがけて逆立った威嚇的なシルエットのジャケットは、疾風怒涛の80年代女性モードの代表選手であった。90年初頭までの「決して失われなかった黄金の10年間」を初代キャリアウーマン服飾史の輝く花形アイテムとして主導したのがこの逸品なのであった。

家人もこれらの肩パッド付きジャケットを何点か所有しており、それらを鏡の前で何度も羽織ながら、「でもやっぱりどこか変だよねえ」といいつつ泣く泣く処分したのが10年ほど前のことだった。

ちなみにこの肩パッドはそれを取り去ってもなおかつ「まだどこか変だよねえ」なのである。

ファッションが時代と共に変化するとき、いつでも誰でもがつぶやくのが、このセリフなのだが、驚いたことに宮崎女史はこの10年この「どこか変だよねえ」に無自覚であっと断じるほかはない。

80年代レディスモードをリードしたビッグシルエットは、90年代に入ると共に絶滅し、90年代の半ばにビッグからスリムへのシルエット転換が終了し、この同じトレンドがメンズに及んだのが00年代。そして去年からユニクロが展開しているスキニー(超細身)キャンペーンがそのファッション革命の総仕上げという流れなのだが、かの宮崎女史はこの時代変革にまったく無知であるか、あるいは知ってはいても微動だにされなかったのである。

ああ、なんと見上げた偉大なる人間国宝的存在であられることよ!

しかし世間を広く見渡せば、このように偉大な80年代的時代精神の持ち主は、彼女だけではない。超右翼の櫻井よしこ、社民党党首の福島みずほ、などといった偉大な論客たちも、イデオロギーの動向には敏感であっても、ことモードの巨大な地盤変動に関しては恐ろしいほど無自覚であることは、彼らのファションを見れば火を見るより明らかであろう。

しかしながらもっと恐ろしい?ことには、あるトレンドウオッチャーの予測によれば、あと数年も経てば、かの恐怖の肩パッドがパリコレで突如復権し、およそ20年ぶりにロイヤル・グラン・シルエット時代が戻ってくるかも知れないという。

そうなれば宮崎女史は、「超時代はずし者」ではなく、最先端のトレンドリーダーとして世界中の喝采を浴びるに違いない。

んで、その日がやってくるまで、そのままぐあんばれ宮崎緑!

Friday, January 26, 2007

♪土曜日の歌

犬ふぐりふぐり開かぬ寒さかな


今日もまた一人死にたり梅の花


佐々木眞少し死にゆく冬の朝


この国やあらゆるニュースはバッドニュース


この花の名前は何ですかと吹き来る風にわれ訊ねたり


不自由な右指伸ばし母がいう冬中咲くから冬知らずなの


中原の中也が死にし病院で定期健診今年も受けたり


吉永の小百合に誘われし夢を見たが固辞せる我に後悔はなし


なにゆえにアドレスすらすら口に出る我をリストラせしその会社の


コジュケイは飛ぶを拒否して足早に遠ざかる道を選びたり

Thursday, January 25, 2007

果樹園にて歌える

鎌倉ちょっと不思議な物語38回


梅一輪開かぬ林に入りけり

我らにも希望はありて梅つぼむ

果樹園の梅持ち帰るうれしさよ

果てしなき評定続くもぐらかな

しばらくはルソーの森に遊びけり

木陰にてキャミソール脱ぐチャタレイ夫人

水仙のごとき香りの君である

少年は今日も果樹園でチャタレイ夫人を待ち伏せしている

銀色の光あまねし相模湾船影はなく鳥影もなし

西は富士東は房総南相模北東京湾すべてを見たり

鎌倉ところどころ

鎌倉ちょっと不思議な物語37回


図書館の本が流れるので、自転車で取りに行った。

図書館の向かいの御成小学校は前にも紹介したように旧明治天皇の夏季別荘として利用されたが、後に葉山の別荘にとって替わられた。そのもっと昔は中世の国衙(行政センター)があった場所で、そのもっと昔は幕府の門注所があった。

御成りから小町の通りに向かって自転車を走らせると、左側に三味線屋さんが、右側に四季書林という古本屋がある。前者は大好きだが、後者は大嫌い。というのは、この本屋は国文学関連の品揃えでは定評があり、1冊1冊をパラフィン紙で包装するなど書物に対する愛情はあるのだが、店主が偏屈でいまどき珍しい「反お客様第1主義」なのである。

いつか私がぶらりと店に入ってあれこれ物色していると、店主が「何かお探しですか?」と尋ねたので、私が「いいえ、なんとなく見ているのです」と答えると、彼奴は「そういう人は出て行ってください」とにべもないご挨拶。実に不愉快きわまりない申しようだ。

私は思わずこいつを殴りつけようと思ったが、まあよそう、こんな客を大事にしない生意気な古本屋なぞすぐに倒産するだろうと思って、「ああ、そうかよ。おめえの店ではもお絶対に買わないからな」と捨て台詞を残して、早々に退去したのであった。

私はかつてこの店で角川文庫の「信長公記」を買ったこともあったのだが、そのときはこの男は不在で、彼の細君が番台にいたのでこんな嫌な気分に陥ることはなかったのであるが、その後考えれば考えるほど腹が立ってきてあれから一度も訪れたことはない。

思うに、この男は鎌倉文士や専門の研究者などにお得意がいるので、私風情の一般大衆なぞに自分が苦労して神保町で仕入れてきた貴重本を売りたくないのかもしれないが、それにしてもいまどき珍しい店である。

アホバカ古本屋にぺっぺと唾を吐いて角を右に曲がって少し行くと、なんと現役の刀鍛冶屋さんの刀剣店がある。それも第24代目の正宗様であるぞよ。

店の後が工房になっていて、私が通ったときもトテカン、トテカンと刀鍛冶が行われていた。もちろん鍛冶装束に身を固めたりりしいいでたちである。鎌倉ちょっと不思議な物語30回で、鎌倉時代のたたら製鉄の現場をご紹介したが、なんと800年後の同じ鎌倉市内のど真ん中でも同じ地場産業が孜々と続けられていたのであった。

正宗の鍛冶屋に別れを告げて須賀線の線路を越えると、驚いたことに、物語32回で紹介したおばけ屋敷が跡形もなく消えうせていた!

桑田変じて海となる、ではないが、木造建築と人間の若さほど速やかに消滅するものはない。かくて私の数枚のスナップ写真はたちまち往時を偲ぶ貴重なドキュメントとなってしまったのであった。

Tuesday, January 23, 2007

楽園への道

鎌倉ちょっと不思議な物語36回&音楽千夜一夜第8回


十二所の名所はなんといってもここ十二所果樹園だ。もともとはわが十二所村の所有であったが、最近市の史跡保存会が購入し、広大な山全体を手入れしている。

私は昔から果樹園やORCHARDという言葉が好きだったので、鎌倉に引っ越してきてこの果樹園が歩いてしばらくのところにあると知ったときには狂喜してよく子どもたちと出かけたものだ。

そして果樹園の門をくぐるたびに、私の耳には英国の作曲家フレデリック・ディーリアスのオペラ「楽園への道」の序曲がゆっくりと鳴るのだった。

果樹園では梅や栗が栽培され、そのほかにも多くの植物と動物が成育し、山全体をぐるりと周回する散歩道は起伏に富んで四季折々の色彩と景観を心ゆくまで楽しむことができた。初夏には梅、秋には栗が採れ、一般にも安価で販売されている。

私は昨日、今日とこの果樹園を久しぶりに訪れ、手入れのために伐採された梅の枝を捜したのだがとき既に遅し、ほとんど残っていなかった。10日ほど前にボランティアの人たちが作業した帰りに持ち帰ったらしい。残念。

しかしそれにしても園内のいたるところを縦横無尽に跋扈する台湾リスの数の多さには驚く。10年前には1匹もいなかったこの外来種はあれほど多かった様々な固有種の鳥たちを絶滅させ、ミカンの実を食べつくし、大樹の幹を剥いで裸にして枯らし、外部から行政が保存しようとしている自然の楽園を、その内部から食い殺そうとしている。これでは梅や栗の果樹の収穫が危ぶまれる。

もうひとつ問題なのは果樹園にいたるまでの道端にひしめく資材置き場だ。この地は本来は国の史跡なので家屋はもちろん耕作、資材置き場、物置などに使用してはいけないのに、市長が保守系に代わった途端に所有者が土建会社や園芸業者などに勝手に貸し出し、大型トラックやブルドーザーなどが出入りしたり、産業廃棄物が放置されたり、太刀洗川への不法ゴミ投棄や無許可開拓や農耕などが野放図に行われるようになった。

今日もまるで中古自動車修理工場のようなバラックのあちこちで焚き火が行われ、大量のダイオキシンが空中に飛散していた。最近は鎌倉駅東口に「友情」というモニュメントを寄付した彫刻家のI氏の巨大なアトリエが果樹園の入り口に完成し、我ら善男善女の立ち入りをえらそうに禁じている。これも立派な不法建築のひとつであろう。

果樹園の果樹食い尽くしてや台湾リス

幻のつつじ

遥かな昔、遠い所で 第2回


郷里の我が家から田町の坂を登って質山峠を越えていくと、どこやらの山の1画が我が家の所有地になっていて、そこでは10年くらい前まで丹波名産のマツタケが採れた。

マツタケははじめのうちはなかなか見つけられない。図鑑などで見た概念だけが視野に見え隠れして実際の現物の発見を邪魔するのだろう。しかしなにかの拍子にそれは目の前に現れる。

「あ、あったぞ。ここにもあった」

大人も子どもも急な斜面を駆け登り、駆け下りながら、赤松の木陰のあちこちから顔を覗かせる大小の香り高いマツタケを競争で採った日のうれしさは格別だった。

マツタケの季節はもちろん秋だが、このマツタケ山に、なぜかきょうだい3人で初夏に登ったことがある。いまは亡き小太郎さんという祖父がわれわれを連れて行ってくれたのであった。

空は青く晴れ上がり、風はまったく吹かず、蒸し暑い日であった。
私はマツタケが採れる斜面とは反対側の山麓で途方もない大きさの見事な枝振りの赤と橙色の中間色をいした山つつじを発見した。

「これを持ってお家に帰ろう。この素晴らしいお化けつつじを小太郎さんと祖母の静子さんにプレゼントしよう」

そう決意した私はずいぶん長い時間をかけ、少年の身に余る超人的な努力をしてとうとうその赤いつつじの樹を根本から引きぬくことに成功した。

そしてそれを山のてっぺんまで懸命に引っ張りあげようとしたのだが、つつじの枝と葉の分量があまりにも多すぎて、途中の松や様々な広葉樹や草の根などのあちこちにひっかかって、とうとうある個所で押しても引いても動かなくなってしまった。

「もう帰るぞお」とみんなを呼び集める小太郎さんの声がする。私はとうとうそのおばけつつじをその場に放棄して、必死で山の尾根まで戻ったのだった。

私に引き抜かれたあのつつじはどうなったのだろう。もちろんそのまま枯れて死んでしまったに違いない。そんなことならそのままにしておけばよかったのに、と後悔したが、もう後の祭りだった。

私は時折、つつじの強烈な芳香にむせ返りながら坂を登る、私のような少年の姿を夢に見るときがある。

Monday, January 22, 2007

♪トラベルセットが当たる

音楽千夜一夜 第7回


「朝は四足、昼は二本足、夕方は3本足のものは何?」というスフィンクスの問いに「それは人間だ」と正答したのは父を殺し母と交わった古代ギリシアの王、オイデップス。

「暗い闇夜に飛び交い、暁とともに消え、人の心に生まれ、日毎に死に、夜毎に生まれるものは何?」というトゥーランドット姫の第1の問いに、「それは希望だ」と答えたのはカラフ王子。

「一日にも四季がある。朝は春、昼は夏、午後は秋、そして夜は冬である」
と語ったのは、ロシアのチェリスト、ロストロポービッチ。

みなさんなかなかうまいことを言うもんですね。

さて、そのロストロも、カザルスも、坂本龍一もバッハの無伴奏チェロ組曲が至高の名曲であるという。

だがロストロの演奏も、カザルスも、ヨーヨーマも、坂本が薦める藤原真理の演奏も、私を限りなく退屈させる。

退屈しなかったのは、かつて資生堂が「♪トラベルセットが当たる」というプレミアムキャンペーンのときに使用した第6番のアレンジを耳にしたときのみ。

同じバッハの平均律クラビールやオルガン曲やカンタータは限りない喜びを与えてくれるというのに、大好きな作曲家であっても、大の苦手の曲があるというのが不思議だ。

Saturday, January 20, 2007

遥かな昔、遠い所で 第1回

私の実家は丹波の田舎だ。そこでは長らく下駄屋をやっていた。
02年に三代目の母が亡くなったあとたたまれた店は、いまも「てらこ」という屋号で町の目抜き通りに残ってはいるが、もはや訪れる客も店の新しい主人もいない。

外見も中身もそんな古式蒼然とした商店であるが、世間の人がまだ和服を愛好していた遠い昔の時代には、大勢の客が「てらこ」の下駄や草履をあらそって買い求めた夢まぼろしのような日々もたしかにあったのである。

年に1度の「えびす祭り」の大売出しの日の賑わいは今も私の眼の奥に残っており、3人きょうだいの幼い私たちが、「いらっしゃい、いらっしゃい」と声をからして店頭を行く通行人の呼び込みをした日のこともかすかに覚えている。

「てらこ」の下駄は品質が上等で、とりわけ父がすげる鼻緒はいつまでも緩まず両足にフィットして履き心地がよい、というので定評があった。母はそんな父をしっかりと支えるようにして一緒にお店で働き、いつも二人で他愛ない世間話に興じていた。

そんなある日のことだった。たまたま父と私が店にいると腰の曲がった80歳くらいのよぼよぼのおじいさんが、見るからにくたびれた格好でやって来た。そうして文字どおり弊履のごとく古く汚れた下駄をニスが塗られた部厚い木製のカウンターの上にどさりと乗せると、こういった。 

「やあてらこはん、どうもこんちは。おたくの下駄はほんま長いことよおもったわ。わいらあなあ、もう何年も何年も履いたんやが、とうとうこんな姿になりおった。ほいでな、今日はこの古いのを新しい奴に取り替えてもらおうおもて、はるばるバスに乗って町までやって来ましたのや」

はじめのうちは私たちは彼が何を言わんとしているのか分からなかった。しかししばらくしてから、彼が大昔にてらこで買った下駄が古びたら、てらこでは無償で新品に取り替えてくれるはずだ、と確信していることを知ってさすがに驚いた。

父は、「この下駄はもう古くて修理できないし、あなたが希望するようにただで新品と交換することもできない」、と汗だくになって言い聞かせるのだが、くだんの老人はいつまで経ってもそのまっとうな商人の言い分を理解したり、納得しようとはせず、まるでサントリーのボスのテレビCMに出てくる宇宙人ジョーンズ氏を眺めるような目つきで、いぶかしそうに父を見るのだった。

さまよえる酩酊船

改めてアルチュール・ランボー(1854-1-91)の言葉に耳を傾けよう。
安政元年に生まれ明治24年、大津事件が起こり、幸田露伴が「五重塔」を書いた年にマルセイユの病院で右足関節腫瘍で37歳で死んだ詩人のマニュフェストだ。

見者であらねばならない、自らを見者たらしめねばならない、と僕は言うのです。詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大掛かりな、そして理にかなった壊乱を通じて「見者」になるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探求し、自らのうちにすべての毒を汲み尽して、その精髄のみを保持します。

それは全き信念を超人的な力のすべてを必要とするほどの言い表しようのない責苦であって、そこで彼はとりわけ偉大な病者、偉大な罪びと、偉大な呪われびととなり、そして至上の学者になるのです。

なぜなら彼は未知なるものに至るからです。というのも彼はもう既に豊かだったその魂を、他の誰にも勝って涵養したのですから。彼は未知なるものに達し、そして彼が狂乱してついに自分の様々なヴィジョンについての知的理解を失ってしまうとき、彼はそれらの視像をたしかに見たのです。

前代未聞の名づけようもない事象を通じた彼のそんな跳躍のただなかで、もし彼の身が破裂してしまうなら、それはそれでよいのです。他の恐るべき労働者たちが後に続いてやって来ることでしょう。彼らは他の者が倒れた地平線から開始するでしょう!

それゆえ詩人とは真に火を盗む者なのです。詩人は人類を担っており、動物たちさえも担っているのです。
彼は自分が案出したものを感じさせ、触れてみせ、耳に聞こえさせねばならないでしょう。もし彼が彼方から持ち帰るものに形態があれば、彼は形態を与えます。もしそれが無形態であれば、無形態を与えるのです。

ひとつの言語を見出すことです。どんな言葉も観念なのですから、ある一つの普遍的な言語活動の時代が来ることでしょう。このような言語は魂から魂へと向かうものでしょうし、一切を、もろもろの匂いも音も、色彩も、すべて要約しており、思考をつかみ、引き寄せるのです。

詩人はその時代に万人の魂のうちで目覚めつつある未知なるものの量を明らかにすることでしょう。彼はより以上のものを、つまる自分の思想を言い表す定式や、進歩へ向かう自らの歩みを書き留めた表記などを越えた、それ以上のものを与えるでしょう。常軌を逸した莫大さがふつうの規範になり、あらゆる人々に吸収されてまさに詩人は進歩を倍増させる乗数になることでしょう! 

そうした未来は、唯物論的でしょう。つねに韻律的な数と調和に満ちており、いくぶんかはギリシア詩であるでしょう。詩人たちは市民なのですから、永遠なる芸術もその様々な機能を持つことでしょう。

詩はもはや行動にリズムをつけるものではないでしょう。詩は先頭に立つものとなるでしょう。そのような詩人たちが存在することになるでしょう。

 
1871年の5月15日、おりしもパリ・コンミューンがペール・ラシェーズ墓地で崩壊する「血の1週間」のさなかに、17歳のランボーがシャルルヴィルで友人ポール・メドニーに書き綴った手紙が、詩人の詩と生涯の真実を正確に鮮明に物語り、その悲劇的な結末さえ見事に予言している。

ランボーは、自らが宣言したとおり、その生涯をつうじてつねに詩の先頭に立った。そして詩の本質を直感し、詩の至純の世界を体得したランボーは、詩の世界にあきたらず、詩そのものを生み出す豊潤で混沌とした現実世界に向かって、彼のさまよえる狂気の酩酊船を船出させ、まるでそれが宿命であったかのように見事に座礁させたのだ。それが彼の足掛け15年に及ぶアフリカでの貿易商売の持つ意味である。

ランボーはエチオピアのハラルを拠点に、象牙、銃、綿、コーヒー、シチュー鍋、馬、ロバ、虎、ライオン、騾馬、麝香等々、ありとあらゆる物資を交易し、アフリカでのビジネスがうまくいかないので、エジプトを経てはるか当方の中国、日本まで遠征しようと考えていた。もし彼が明治20年代のわが国を訪れたならきっと西洋と東洋の新しい出会いがあったに違いない。

けれども砂漠に逃亡した孤独で不運な詩人は、悪賢い商売人たちにうまくしてやられ、結局はさしたる利益を上げることもできなかった。のみならず過酷な気候と不慣れな生活の中で健康をむしばまれたランボーは、野蛮人に囲まれた文化果つる不毛の地で右足を切断され、極度の苦痛と高熱にさいなまれながら、余りにも短すぎた過酷な生を閉じたのである。

ほとんど意識を失い、錯乱しながら「郵船会社支配人」宛てにマルセイユの病室で口述筆記されたランボー最後の手紙(1891年11月9日)は、彼の生涯最後の瞬間における見果てぬ夢の極北の姿を痛切に伝え、彼の有名ないかなる詩篇よりも感動的である。


分け前 牙1本だけ。
分け前 牙2本。
分け前 牙3本。
分け前 牙4本
分け前 牙2本。

支配人殿、
貴殿との勘定に未払い分がないかおたずねします。私は今日、この船便を変更したいと思います。この便は名前すら知りませんが、ともかくアフィナールの便でお願いします。
こうした船便はどれでも、どこにでもあります。それでも私は手足が不自由な不幸な人間であり、何も自分では見つけられないのです。街頭で出会う最初の犬に聞いても、そのとおりだと答えるでしょう。
それゆえスエズまでのアフィナールの便の料金表をお送りください。私は全身不随の身です。したがって早い時刻に乗船したく思います。何時に船上へ運んでもらえばよいかお知らせください……

この手紙が書かれた2日後、詩人という名に値する唯一の詩人ランボーは息を引き取った。

*参考文献「ランボー全集」青土社 平井啓之、湯浅博雄、中地義和、川那部保明訳

Thursday, January 18, 2007

スミレ咲く

鎌倉ちょっと不思議な物語35回


熊野神社ではもう可憐な山スミレが咲いていた。十二所の山際の崖ではたった1輪が薄紫の花弁を風に揺さぶられていた。

今年も暖冬らしい。十二所のガソリンスタンドで尋ねたら1.8リットル当たり1580円だそうだ。ひと頃よりだいぶ安くなってきたようだ。

さて今日は超くだらない話をしよう。(もっともいつもくだらない話なのだが…)

近くのガソリンスタンドには丘の上に住んでいる超多忙の有名人Mモンタ氏が給油にやってくることがある。そうしてこの男は、給油中、まるで歌舞伎の千両役者のようにかっこつけて、文字通りに見得を切っている。

するとその異様なポーズに気づいた近所のおばさんが、「あれ、あの人モンタじゃないの。え、ほんとうの本物?」」などといいながら近づいてくる。

するてーとくだんのモンタ氏は、やっとそのヒトラー&ムッソリーニ時代の男性塑像のような奇妙な姿勢を解除して、突如営業用のスマイルをにゅっと浮かべつつ、「奥さああん、僕にサインしてほしいのおお?」とかなんとか叫ぶのである。

売れっ子はつらいね。それにしても年が明けたというのに、どうしてこっちには仕事が回ってこないんだろ?

Wednesday, January 17, 2007

♪木曜日の歌

ランボオのような眼をした少年だった

子が父を殺めたくなる野の小道

アポロンの信託は知らず寒椿

まむし眠る谷戸に降りつむ椿かな

電光影裏タイワンリスの邪悪な眼よ

世の中はもっともっと悪くなる鴨

陽だまりに愛を乞うる人多く

わたしはたんぽぽの好きな人が好きだ

あけおめと書き来しメールにことよろと返す勇気われにはなくて

米国の猿面冠者が打つ博打こいつは春から凶と出るか

Tuesday, January 16, 2007

追悼

二人の白い巨人が土俵に上った。それぞれがわれこそは世界最強の戦士だ、と喚く。

やがて二人の力士は立ち上がってがっぷり4つに組み合ったがそれっきり微塵も動こうとはしない。

周囲の人々は懸命に声援を送り続けたが、力士はたらたらと汗をながすだけで相変わらず動こうとしない。

そのまま時が過ぎ、やがてあたりはとっぷりと暮れたので観客はみな現場から引き揚げた。やがて真っ暗な野原に月が昇り地面をぼんやり照らし出したがそこには誰もいなかった。

親しい人が突然病気になったり、思いがけない事件に巻き込まれて大勢の人々が亡くなったり、当の本人も目の前が暗くなって急に倒れたりする。

死んだ人のことは忘れようとしても忘れることはできないのだが、それでも朝が来て、太陽が輝くと、いつのまにか未曾有の災厄も次第に忘れられたかのような気がするので、無理矢理すべては何もなかったのだ、などと懸命に思い込んで、虚妄の日常性の中へ逃げ込もうとする。

けれども死ほどの一大事が生にとってあるだろうか? 愚かな私よ、そこでしばらく眼を覚ましていろ。

Monday, January 15, 2007

♪ コインの歌

♪ 1円玉
吹けば飛ぶよな アルミの独楽よ
風に吹かれてくるくる回る ほんにお前は屁のような

♪ 5円玉
餓鬼道、修羅道、畜生道、因果は巡る風車 
ここで会ったが百年目 ご縁があれば涅槃で待つぜ

♪ 10円玉
誰でも気軽に賽銭投げるが 本気であたいを投げられるかい
これで分かった世間の常識 願いの沙汰も10円未満

♪ 50円玉
10円、100円は善良なる市民 おいらはどうせしがない風来坊
遠き島より流れついたるアシの実ひとつ

♪ 100円玉
英語でハンドレッド フランス語でサント
一緒に行こうよ100円ショップ
100円あればなんでも買えるが なぜだか買えない君の愛

歌舞伎座の建て替えに反対する

勝手に東京建築観光・第4回


わが国が世界に誇る最高、最大の芸術は、やはり歌舞伎であろう。

江戸のオペラともいうべきこの歌と踊りとお芝居の総合芸術ほど私の心をかきみだすものはない。
私がもしも大好きなモーツアルトのオペラと歌舞伎のどちらを選ぶか二者択一を迫られたら、やはり後者を選ぶであろう。

舞台に歌舞伎役者なんていなくても下座音楽と浄瑠璃があればいいのだ。いや杵の音がひとつ鳴ればいい。私はもうその瞬間にどこかこの世ならぬ世界、できればもう戻って来たくはない遠い遥かな時空に連れ去られるのである。

その点では98年に惜しくも100歳で亡くなった清元志寿太夫(きよもと・しずたゆう)、01年に桜花とともに散った6代目中村歌右衛門、そして昨年12月に冥界に消えた松竹の偉大なるプロデユーサー永山武臣のお三方は、わが歌舞伎界にとって埋めがたい大きな損失であった。

歌右衛門「桐一葉」の名演はいまでも瞼の裏にありありと残っているし、最晩年の志寿太夫の渋い声音も、まるで平成のファルスタッフのように融通無碍なたたずまいとともに生涯忘れることはあるまい。

ところが私にとってそんな貴重な夢を見せてくれた築地の、いや木挽町の歌舞伎座が、もうじき取り壊して立て直すという。

どうせ高層ビルにしてもっと巨大なエンタメセンターにでもしようというのだろうが、お願いだからやめてくれ。

この2600人を収容する和風建築は中宮寺本堂や大磯の吉田茂邸、大和文華館、わが鎌倉の吉屋信子邸を作った名匠吉田五十八の代表作であるぞ。

1950年に完成したばかりだぞ。しかもその音響の素晴らしさは恐らくこの大空間では日本一、いや世界一かもしれんぞ! 

二度と再現できない奇跡の殿堂なんだじょお! あの歌舞伎座と魚河岸があるから銀座なんだぞお!

Sunday, January 14, 2007

巡り合い

鎌倉ちょっと不思議な物語34回


20002年2月に消えたうちのムク ここにいたのかかわかわのムク

駆け寄りてムクやムクやと呼びかければ 空に向かいてピンと尾をあぐ

Saturday, January 13, 2007

生きるよろこび

鎌倉ちょっと不思議な物語33回&音楽千夜一夜 第7回


例のオオウナギ棲息地の近所に鎮座ましますのは、室町時代中期の仏様である。

この御仏は、それまでは人知れず小さなやぐらの奥で眠っていたのだが、ある日突然Oさんという老ピアニストが突然周囲を開拓し、参道を切り開いてお花を捧げるようになった。

なんでも亡くなった奥様を回向するために、個人的にこの古仏をよみがえらせたそうだが、最近は通りすがりの酔狂なハイカーが賽銭を供えたりしている。

Oさんの専門はジャズだが、クラシックも得意で、私が太刀洗に散歩に行くとリビングルームからショパンや私の好きなリストの超絶技巧練習曲が聴こえてくる。まるでその演奏はラザール・ベルマンかシフラみたいだ。

去年の鎌響の演奏会では宮沢明子がモーツアルトの24番のコンチエルトを弾いたのだが、どういうわけだか第2楽章の途中であの名手の腕が突然乱れて冥界に明快に迷走し、しばらくは元の楽譜に戻れなくなってしまった。(ような気がした。私はオタマジャクシが読めないので正確なことはわかりません)

ピアニストと指揮者は相当うろたえていたようで、私もさあどうなるのかと息を呑んだが、ここで鮮やかな火消し役を務めたのは、頭の禿げたコンサートマスター。いきなり立ち上がって弓を高く掲げて一閃したために混乱は収まり、めでたく事なきを得た。

会場に居合わせたOさんと私は、この珍しいハプニングをことのほかよろこんだ。

だってせっかくのライブで戦前の国定教科書のような演奏を聴かされたってつまらない。

これくらいの逸脱と椿事が起こるから聴衆はくそ面白くもない人生にいささかの興奮を覚えるのである。もとい、生きるよろこびを再確認するのである。

面白きこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり(高杉晋作+野村望(もとに)東尼)

Thursday, January 11, 2007

ある蛇の歌

今年の冬は遅い。

ゆっくり朝寝をしたら、午後からは散歩に出よう。

大気は胸に冷たく透き通り、柔らかな光が君の漠然とした不安をなだめてくれるだろう。

君は緑に包まれた楽園をめざしてどんどん歩いていくだろう。

道はゆっくりと左に曲がり、やがて右に曲がるだろう。

そしてその道が峠の頂に着くまでに、君は1匹の蛇になっているだろう。

たいしたもんだ。君はもう長い長い立派な蛇だ。

だから、君はもうけっして昼寝をしてはならない。

うっかり誰かに輪切りにされないように……


やわらかな光あふれる山道をゆるりとくねるわれもまた蛇

歌うよろこび

音楽千夜一夜 第6回

音楽の本質とは、内部生命が歌うことではないでしょうか?

音楽とは、私の心がなぜか生きる喜びに満たされ、その喜びと幸せが原動力となって無意識に歌いたいという衝動が生まれ、自分でもそれと気づかないうちに「歌のようなもの」が胸から流れてのどまでのぼり、くちびるから外界に向かって自然に放たれるさま、を指すような気がします。

 つまり、「鼻歌をフンフンする」ことこそが「音楽すること」「音楽を生きること」の原点ではないでしょうか?
 
台所でお料理を作っている家内が歌っている下手な歌、あるいは歌のようなものを聴く時ほど私にとって幸福な瞬間はありませんが、恐らく当の本人もきっと小さな幸せの絶頂にいるのでしょう。
 
幸福な人がその幸福を歌うときに感じる幸福。これこそが現初期の音楽の誕生と交流の原点なのでしょう。

しかし翻って現在の演奏家と聴衆の関係を考えるとき、このうるわしい交流がどこまで実現されているのかはなはだ疑わしいものがあります。

例えばクラシックの世界ではN響がプロの頂点であるといわれているようですが、彼らの演奏を聴いても、今も昔も本当に彼らが音楽をする喜びを共有しているのかよく分かりません。なんだか誰かに命令されていやいや楽器を職業的に操作しているような気もします。
だからというわけでもありませんが、大学やアマチュアの人たちの演奏は技術的には下手かもしれませんが、音楽することの楽しさにみちあふれていて、そのエネルギーがまっすぐに聴衆に伝わる。それはとプロ野球がとっくの昔に喪失したスポーツのよろこびが高校野球や小中学生の草野球にはまだ辛うじて残っているのと似ています。

考えてみれば、心が音楽するよろこびにあふれる瞬間なんて数えるくらいしかないのに、それでも毎日毎晩楽しげに演奏するほうが無理がある。歌いたくないカナリアにコンサートを強制するようなものですからね。 

はじめは好きで好きで仕方なかった音楽だけど、それを職業として選び取った途端に、その快楽が苦痛や苦行に似たものに転化する。そういうことかもしれません。

それは音楽だけでなくファッションやデザインや広告やその他ありとあらゆる産業の領域に共通する皮肉かもしれませんが。

まあそんな話はともかく、私は毎日鼻歌を歌いながら生き、鼻歌を歌いながら死にたいなあと夢見ている次第です。

Wednesday, January 10, 2007

さようならお化け屋敷

鎌倉ちょっと不思議な物語32回


市役所に行ってバリウムを飲んで胃検診を受ける。

以前はレントゲンを一枚撮ってからまずいバリウムをコップ一杯飲んだような記憶があるが、今日は最初から有無をいわさず呑まされた。

お棺のような半月形の筒に収納されて、ぐるぐる回転する。「右から回って」と命じられるのだが、頭の悪い私にはどっちが右回りかいつも分からないので、とりあえず回転すると、「そうじゃない。その反対です」などと技師から怒られる。

これでは知恵遅れの人は対応できないだろうに、といちおう健常者のつもりの私が大汗をかいていると、突然「息を止めて」と命じられる。どこで呼吸してどこで息を吐くのか、そのタイミングが難しい。

またしても猫じゃ猫じゃ、とぐるぐる回りさせられていると、途中で逆さまになって頭から落下しそうになるのを懸命にこらえる。

これは危険だ。まるでサーカスだ。ゆあーん、ゆあーん、ゆあ、ゆよーん、状態だ。

これまで70-80歳代のお年寄りが何人も死んでいるのだろう。くわばら、くわばら。

やっと墜落の危険から解放され、自転車で駅の手前の踏み切りにさしかかったら、お化け屋敷の上空にいつも乱れ飛ぶ鳩は今日は一羽もいなくて、代わりに解体業者のトラックがいままさに門の中に突入しているところだった。

ああ、鎌倉名物の幽霊屋敷もこれで一巻の終わりか。なんでも有名な医院だったらしいが、恐らく昭和初期に建てられたのであろう、塔の壁をはじめあちこちに施された粋な装飾が好ましい。ちょっと築地の聖路加病院のデザインに似た要素も感じられる。

私は安藤忠雄や磯崎新が設計した新しい建築にも大いに興味があるが、やはり心惹かれるのは自然に抱かれるようにしてつつましく建っている古くて懐かしい低層木造住宅である。

機能性、実用性、安全性は別にして、私は兼好法師や鴨長明が住んだ庵に住みたいが、積水ハウスやライオンズマンションや大和ハウスが土建したもの、カーサブルータスが特選したかっこいいデザイン住宅などにはできたら住みたくないのです。

もっとはっきりいうと、私は夏目漱石が設計した桃源郷の一軒屋に住みたい。彼は自分が理想とするついの住処を南画や山水画で描いているが、それは禅僧が好んで修業する断崖絶壁の破れ家である。

漱石は本当は英文学者ではなく、建築家になりたかった。(その代わりに私たちはあの素晴らしい「文学論」を得たのだが)

もしも彼が「偉大なる暗闇」の忠告などに惑わされず、その希望を断固として貫いていたら、恐らくコンドル→辰野金吾→丹下健三を主流とする日本近現代建築の歴史は大きく書き換えられることになっただろう。

Tuesday, January 09, 2007

よみがえるモーツアルトの精霊

音楽千夜一夜 第5回


いまパソコンでモーツアルトの「ミサ曲ハ短調K427」の演奏を聴いています。指揮は長老チャールズ・マッケラス、演奏はジ・エージ・オブ・エンライトメント・オーケストラ。
この夏英京ロンドンのアルバートホールで開催された「プロムス2006」でのライブの再放送ですが、これがまた途轍もなく素晴らしい。
  
私が普段聴いているこの曲はフリッチャイ&ベルリンRIAS響のグラムフオン録音ですが、これほど劇性は高くないものの、マッケラスはモーツアルト演奏には絶対に欠かせない“適正なテンポ”をきちんと守り、生気あふれる“モーツアルト魂”の流麗にして暖かなメロディーラインを心ゆくまで歌わせています。
この“モーツアルト魂”をちょっと頭がいいばっかりに考えすぎて圧殺している神経衰弱病のアーノンクールやラトルやマゼールや単細胞突貫小僧の小澤、バレンボイムやムーティ、メータなどが、もう3回生まれなおして指揮者になったとしても到底達成できないだろう芸術の至高の境地、秘密の花園に遊ぶ仙人の演奏です。

マッケラスは日本人にはあまり人気がないようですが、彼がプラハのオーケストラと入れたモーツアルトの交響曲全集(米テラーク)や同じプラハの国立オペラとライブ収録した「ドンジョバンニ」のDVD(タワーで1890円!)などに接すると、その真価の一端が窺えると思います。

Monday, January 08, 2007

苔のむすまで

鎌倉ちょっと不思議な物語31回

以前にもご紹介したように、私の自宅は元は鎌倉石の石切り場であった。

鎌倉石というのは房州石と同様、割合に柔らかで加工しやすい凝灰岩からできていて、寺の五輪塔や石段はおおかたこれで造られている。

また鎌倉石は、昭和の初期に大谷石にとってかわられるまでは、東京の「かまど」の素材として大いに活用されたが、関東地方に「輸出」された鎌倉石の大半が、わが朝比奈峠を経由して金沢文庫の近所の六浦港から船で運ばれたに違いない。

このように地元では鎌倉石は有り余っていたのに、不思議なことに礫岩(玉石)をほとんど産しなかったので、鎌倉時代から近辺の相模川系の川原などから大量に「輸入」していたらしい。
今日の午前11時に私が踏みしめていた朝比奈峠のこの玉石たちも、もちろん外部からの輸入品である。

この峠の改修は、鎌倉時代から江戸時代まで都合3回行われたが、それ以後はまったく人工の手が加わっていないはずなので、この苔むした石は鎌倉時代あるいは下っても江戸時代の石である可能性がある。

実朝や日蓮が歩んだこの峠道を私は今日も歩いている、などというと文学的な比喩として聞こえるかもしれないが、そうではない。文字通りに彼らが歩んだ道そのものが物理的に現存している。

このように考え、感じる人にとって、朝比奈峠とは、その組成自体が800年前のまんま平成の御世に伝えられた奇跡の文化遺産なのである。

Sunday, January 07, 2007

不相応な天からの贈り物

あなたと私のアホリズム その4

日本国憲法の序文と第9条は、たぶんいかれぽんちの米国の理想主義者の脳裏に浮かんだ一瞬の夢だった。

しかしそれはなんと美しい、まるで7色の虹のような夢であったことだろう。

私はこの条文を目にするたびに、かつてベートーヴェンが「歓喜の歌」で歌った人類の恒久平和を希求する高らかな調べを想起する。

アジアの片隅のこの不思議な国は、世界中の誰もが生涯に一度は高らかに歌うことを夢に見、しかしついに楽譜には書かれなかった20世紀の奇跡のアリアをなんと60年間にわたって、たった一人で、アカペラで、歌い続けてきたのだ。

また私は、私はこの条文を目にするたびに、かつて「他者の暴力に対する無抵抗」を説いた父聖徳太子の遺訓に従って、潔く蘇我入鹿に殺された山背大兄皇子とその一族の勇気を想起する。

 「眼には眼を、歯には歯を」が常識の世にあって、自らの非武装と自己犠牲を武器として他者の暴力に倫理的な優位に立とうと試みた真の理想主義者は、仏陀の教えをまともに信じたこの山背大兄皇子とマハトマガンジーだけであり、日本国憲法の第9条はその「捨身飼虎」の思想を受け継いでいる。

だから、日本国憲法は、急にせちがらい現実とやらに目覚めて“普通の国の普通の人”になりたくなった日本人にとっては、お荷物そのもの。所詮は猫に小判、豚に真珠、夢のまた夢、の天から降ってわいた傍迷惑な贈り物であったのである。 

Friday, January 05, 2007

2007年正月の歌

2007年正月の歌

猪は悲しきものよ幾たびも己が額を壁に打ちつく
ついに鎌倉では産院絶ゆうろたえて町をさまよう多くの妊婦たち
耕君をとりあげし針谷産婦人科なんとかマンションに身売りしけり
江ノ電は嬰へ長調、横須賀線はイ短調で踏切が鳴ると教えてくれたうちの耕君
耕ちゃんをいじめるような人は好きになれないわと美枝子つぶやく
正月に思うあの日あの時あの人に告げておくべかりしあのこと
少しずつ死にゆく人の貌をしてわれひとこぞりて小町を歩めり
死者は眠れ生者はめざめよと正月の古都に降りしきる雨
心さえあらばたとえ生きたえしのちもわれらが思い空に響かん
いざや行かん八幡宮より果てしなく続く一本の道

Thursday, January 04, 2007

ここで中世のたたら製鉄が行われていた

鎌倉ちょっと不思議な物語30回


「たたら」とは鉄を製錬するために鉄を吹く「ふいご」のことですが、そのふいごを使う古代の製鉄技術全体をたたらと呼んでいます。


たたら製鉄とは日本古来の独自の製鉄法で、千年以上の歴史を誇っています。

最初は古代の九州や出雲地方から始まったといわれますが、鎌倉時代には他ならぬ太刀洗の「鑪ヶ谷」(たたらがや)という名前の低い丘で、中世を代表する製鉄が行われていました。

当時の人々はこの丘の平地を切り開いて山から下る渓流を利用しながら最高1500度の高熱で砂鉄を木炭で焼き素鋼塊(そこうかい)や銑鉄を生産し、日本刀などの原材料として加工していたのです。

たたら製鉄の高度な技術の原型は鎌倉時代に確立され、江戸時代中期に完成しますが、この国産技術をベースにして佐久間象山や江川太郎左衛門などが南蛮渡来の反射炉をつくり黒船来襲に備える大砲を製造したのでしょう。

現場は「鎌倉ちょっと不思議な物語13回」で紹介した「人面石」を登ったところにあります。

Wednesday, January 03, 2007

霊園のガーデニング

鎌倉ちょっと不思議な物語29回


十二所神社の裏山に登ったついでに鎌倉霊園まで歩いた。

霊園には墓参の人々がちらほら歩いていたが、斎場の傍にガーデニングのサンプルが展示してあった。

お金さえ出せば春夏秋冬季節の様々な花々で墓地を美しく飾ってくれるという。

最近はいたるところでガーデニングがブームだが、まさかここまでやるとはびっくりである。

Tuesday, January 02, 2007

オオウナギが棲む小川

鎌倉ちょっと不思議な物語28回


滑川は鎌倉の動脈だ。

相模湾、東京湾から和賀江嶋を経て鎌倉に陸揚げされた物資は、由比ガ浜から滑川を遡って、この中世都市の中枢部に運ばれた。

そんな交通の要所であった滑川だが、流域にはいまも多くの魚や鳥やカニやホタルなどが生息している。

家の近所のこの地点は、かつて健ちゃんが両手にあまるオオウナギを格闘の末に素手でつかんだ現場だが、いまでもウナギ取り専門の漁師が小町に住んでいるという。

Monday, January 01, 2007

大塔宮の正式参拝

鎌倉ちょっと不思議な物語27回


元旦は家族、親戚一同の皆さんと大塔宮へ正式参拝に行きました。

ここは薪能で全国にその名を知られた神社で、足利尊氏の弟、直義によって非業の死を遂げた後醍醐天皇の皇子、護良親王を慰霊するため、明治になってから建立されました。

家内安全を願う善男善女は、宮司の祝福を受けるとともに、ありがたい一場の説話を拝聴するのですが、ことしのスピーチはまことに酷かった。

教育基本法改定論議云々に始まって司馬遼太郎の本や「葉っぱのフレディ」がいかに素晴らしいかというお話、神社で始めた朝顔市の売り上げ大成功の顛末、さらには神社で販売したお札のお陰で交通事故から助かった奇跡の実例、さらにさらに今後神社で企画されているイベントのお知らせまで、とうとうと宣伝広告パブリシティの乱れ撃ちです。

いくら正式参拝が無料だからといってこんな手前勝手な神社のPRをどうして長々と耳にしなくてはいけないのでしょうか?

年頭の厳粛な気分もふきとんで、正月早々けったくその悪いじつに後味の悪い参拝のひとこまでした。

謹賀新年

本年もよろしく!