♪音楽千夜一夜第10回
モーツアルトの生前の最後の作品は、1791年11月15日に書きあげられた「フリーメーソン小カンタータ」である。
いま私はそのK623をCDで聴きながら、これを書き飛ばしてる。
オロナミンCのような元気ではつらつとした音楽で「楽器たちの陽気な音が」とテノールが歌い始める。とても3週間後に死ぬ人の音楽とは思えない。
モーツアルトの妻コンスタンツエによれば、モーツアルトの健康状態は最晩年のこの時期にほぼ完全に回復し、このカンタータの初演を指揮するためにフリーメーソンの分団「新たに冠されし希望」の集会所へ足を運ぶほどだったという。
ではまるで全盛期のように活力を取り戻して「コジ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」、「皇帝テイートの慈悲」「クラリネット協奏曲」などの傑作を書き上げたモーツアルトに、いったい何が起こったのか?
ソレルスは、モーツアルトは万全の体調で魔笛を書いていたときに、「傷んだ豚のロース」にかじりつき、それが原因で死んだと書いている。突然の病気はレクイエムの作曲に取り掛かった10月の中旬に始まり、11月の小康状態を経て、12月5日の早すぎた死に直結したわけだ。
それにしてもモーツアルトは、まるでランボーのようにおそろしく生命力の強い男だった。食欲も性欲も人並み優れたものがあり、妻コンスタンツエへの晩年の手紙には「お前の○○を思っておいらの××は机の上で猛り狂っている。どうにも我慢ができないよおお!!!」と書かれているから、それほど妻を肉体的に愛していた。妻以外の女性も含めて…。
その証拠にモーツアルトが死んだ翌々日、彼と同じフリーメーソンの会員であるホーフデーメルが、モーツアルトの子を宿した妻を殺そうとして自殺している。
一方のコンスタンツエは29歳でモーツアルトと死に別れ、その後デンマークの外交官ニッセンと再婚し、1842年に80歳で他界した。ニッセンとともにモーツアルト復興に貢献したとはいえ、他の男と浮名を流したり無駄遣いをしたりしてモーツアルトの晩年に幸福と不幸を二つながらに与えた功罪をもつ。
まあ、どっちもどっちでもいい。いろんな意味で、似合いのカップルだったのだ。
フィガロとスザンナ、タミーノとパミーノ、いやパパゲーノとパパゲーナのように…。
体調を崩してベルリンで療養していたコンスタンツエは、夫の死に立ち会えなかった。代わりに死の床でモーツアルトを看取ったのはコンスタンツエの義妹、ソフィーだった。
死の前夜、モーツアルトは「魔笛」有名な、「おいらは鳥刺し」の歌をほとんど聞こえないくらいのかすかな声で口ずさんだ。
そしてソフィーは空前にして絶後の天才の死を、こう語っている。
「湿布があまりにつよい衝撃を与えたために、モーツアルトの意識はもう息を引き取るまで戻りませんでした。彼の最後の吐息は、まるで自分の「レクイエム」のティンパニーを口で真似ようとしているかのようでした」
(引用と主な参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」、写真はAFP時事提供。1840年10月ドイツ南部アルトエッテイングのスイスの作曲家マックスの自宅前で撮影されたコンスタンツエ(前列左端)の生涯ただ1枚の歴史的な写真です)
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