Wednesday, December 31, 2008

謹賀新年

♪ある晴れた日に 第49回

ブルーベリー、苺無花果林檎ジャム数々あれど柚子が大好き

何事のおわしますかは知らねども胸に満ち来る光一筋

若水をこころに浴びて命かな

立ったまま朽ちてゆかなむ0九年 


本年もよろしくお願いいたします。

Tuesday, December 30, 2008

西暦2008年茫洋師走歌日記

♪ある晴れた日に 第48回


身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーのごとき裁定者欲し 

ブルックリンのドラッグストアの四つ角でプカリ浮かんだジタンの煙よ

ハイランドの坂をあえぎながら登りゆきし3台のトラックの名は信望愛

ねえニザン20歳がもっとも醜いときだなんて誰もが知ってるさ

おやびんのためなら滅私奉公 お国も王も喜んで裏切りますぜ

奏者全員死者のミサ曲聴けば冥界より手招きさるる心地して

硝煙燻ぶるバリケードに仁王立ち最後の1発を放ちし老革命家に乾杯

遥かなるエルドラドの輝きは幻かわれら冷え行く鉄の時代に生きる者

俯いて地面に何を書いていたのか己に罪なしと信ずる者より石を打てといいいし人は

意味のある言葉を吐きたくない朝もある

平安の御代の源氏も式部も紫も雅な京都弁を喋っていた

楽しみは亡き母ゆかりの谷根千をひとり静かにさすらうとき

文を読めば音楽が聞こえてくるような文を書きたし
 
文を書けば己の血がでるそのような文も書きたし
 
時代も世紀も煎じ詰めればこの一瞬のわれらの行状に尽きる
 
フルベン王は死せり後は洪水垂れ流すのみとカラヤン嗤う
 
夕焼けの公孫樹の下に眠りたり雑司ヶ谷なる大塚夫妻
  
さらばベネチア沈みゆく関東ローム層で弔鐘を鳴らすのは誰

ぐららがあぐ おんぎゃあどれんちゃ ぶおばぶば ぐちゃわんべるる ううれえんぱあ
 
またひとりパパゲーノ見つけたり広大なるロシアの森に

障害者を障がい者とひらくこころの優しさよ

降っても照っても元気に行くよ俺たち陽気な3馬鹿大将

バーキンが別れに呉れし☆リース部屋に飾りてクリスマス迎う

サラリマンは哀しきものよアホ馬鹿の咎を背負いて血肉であがなう

異邦人を愛したことのない人は永遠に彼らを差別するだろう

われもすべてをなげうちおどりくるうてだいくわんきのうちにしにたし

困った時には神風が吹く安んじて死地に赴け汝陛下の赤子共



☆俸給生活者はつらいよ

俸給生活者は達成不可能なノルマもなんとか達成しなければならぬ
俸給生活者は他社より劣った製品をそれと知りつつ売り込まねばならぬ
俸給生活者は40度の高熱を押して出社せねばならぬ

俸給生活者は哀しいよ

俸給生活者は理不尽な人事の憂き目を見なければならぬ
俸給生活者は嫌な上司も好きにならねばらぬ
俸給生活者は最低の部下も愛さねばならぬ

俸給生活者はえらいよ

俸給生活者はアホ馬鹿消費者のわがままを否定しない
俸給生活者はクレーマーの唾を浴びながら謝罪する
俸給生活者はアホ馬鹿社長に代わって土下座までする


俸給生活者は楽しいよ

俸給生活者はともかく毎月給料をもらえる
俸給生活者は会社の金を使える
俸給生活者は会社をだしにして己の欲望をかなえることができる

俸給生活者はすごいよ

俸給生活者は家庭や家族を忘却することができる
俸給生活者は会社の金で豪遊できる
俸給生活者は棚牡丹餅ボーナスを年に2回ももらえる

俸給生活者はサイコーだよ

俸給生活者は仕事ができなくても出世できる
俸給生活者はなんだか分からぬ権力を手中に収める
俸給生活者は何の根拠もなく己を偉い者だと思ったりする


しかし俸給生活者は、ある日突然リストラされる


柚子四ツ浮かべたる風呂の楽しさよ

雪でも降れだんだん東京が厭になる

吉田家でプーランク聴こえる小町かな

ルビコンを渡らぬ人のいとおしき

国も人も三割縮む年の暮

オオフロイデ、蛍の光で年は暮れ



では皆様、よいお年を!

Monday, December 29, 2008

西暦2008年茫洋読書回想録

照る日曇る日第212回

 歳末につき、08年に私が読んだ本の中からベスト数冊を挙げておきましょう。

まずはわが敬愛する歴史家網野善彦の著作集(岩波書店)から「第5巻蒙古襲来」と「第11巻芸能・身分・女性」の2冊。いずれも日本中世の深奥に血路を切り開く知の冒険は身震いするほど感動的です。ただ情報や資料を客観的に分析して要素還元式レポートを書いていればそれで良しとする学者と違って、彼には彼独自の不逞な志があり、それが私を魅了するのだと思います。   

 「日本人は思想したか」(新潮文庫)は梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書です。今から10年以上前の対談ですが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値があると思います。

吉田秀和「永遠の故郷-夜」(集英社)は、音楽ファン以外の人にもお薦めの1冊。小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆です。

 今年は小島信夫の本をかなり読んだのですが、いずれも深い感銘を受けました。
菅野満子の手紙」(集英社)では、作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとしています。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことはしょせんは絶望的に不可能なのですが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かけるのです。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのですが、そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくるのでした。

 森見登美彦著「有頂天家族」(幻冬舎)のエネルギッシュなエンターテインメントには脱帽しました。
かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていくのです。血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって珍しいのではないでしょうか。

次は川上弘美の「風花」(集英社)です。そんじょそこいらのどこにでもいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置してしまう。これこそ当代一流の文学者の凄腕でしょう。

続いては、私の尊敬するマイミクさんでもある新進気鋭の思想家、雑賀恵子さんの新著「エコ・ロゴス」(人文書院)に瞠目しました。「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら、私たちを未踏の領域に導いていきます。

さて、今年はずいぶん遠ざかっていたドストエフスキーを久しぶりに手に取りました。話題の光文社版ではありません。手垢のついた米川版です。昔から雑誌は改造、文庫は岩波、浪曲は廣澤虎造、小唄は赤坂小梅、沙翁は逍遙、トルストイは中村白葉、ドストは米川正夫と相場が決まっているのです。  「カラマーゾフの兄弟」(昭和29年河出書房版)の最後の最後のエピローグで、多くの子供たちに囲まれてアリョーシャが別れの言葉を述べるくだりは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の末尾の合唱を思わずにはいられません。それは愛と許しと世界の平和を願う音楽です。同じ作曲家による「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナの歌や少年天使の歌、近くはパブロ・カザルスの「鳥の歌」と同じ主題をドストエフスキーは臆面もなく奏でているような気がしました。

私にとって、本を読むということは、毎日ご飯やパンを食べるようなものです。食べるはしから排泄していって昨日の朝は何を食べたのかすら忘れてしまう。これではあまりに健忘症ではないかということで06年の7月から読書覚書をつけるようになりましたが、さきほど今年読んだ本を数えてみたらわずか90冊。年々気力体力視力が衰えてくるので消化する本の数も落ち込んでいくのです。

しかし読むべき本の数は年々積み上がります。晩年の中原中也がいうたように、量より質、1冊1冊を一期一会、最後の晩餐とみなして精読し、壊れゆく脳内の記憶を死守していきたいと願っている次第です。


♪国も人も三割縮む年の暮 茫洋

Sunday, December 28, 2008

網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その4

照る日曇る日第211回

いわゆる元寇は、第1回が文永11年1274年、第2回目が弘安4年1281年であるが、来襲したモンゴル、高麗、漢、(弘安の役は江南軍も)の大軍勢はいずれも台風の被害に遭っている。

しかし「文永の役」でそれがあったかなかったかについてはまだいろいろな議論があるようであるが、「弘安の役」における暴風雨の来襲は確実で、戦死・溺死する者元軍10万、高麗軍7千、総敬14万の大軍はそのおよそ4分の3を失った。

著者は、元軍壊滅の原因は台風ももちろんであるが、モンゴル、高麗、漢、江南軍の4つの混成寄せ集め部隊の内部対立が主因であり、宿敵同士の指揮官の行動には終始統一と団結が欠けていた。さらに専制的な強制によって建造された軍船はモンゴルによって滅ぼされた中国の船大工が手抜きしたといわれるほど脆弱な造りであったことなどを指摘している。

しかし日本軍の防衛体制も脆弱そのもので挙国一致などとはお世辞にもいえず、まことに薄氷の勝利であったと言わざるをえない。世評とは裏腹に無能の将軍北条時宗は鎌倉八幡宮に異国降伏の祈祷をするくらいのことしかしていないが、そこは腐っても鯛、執権政治の最盛期であったために竹崎季長、河野通有などの勇猛な御家人の敢闘の前に、元軍の侵攻は「失敗すべくして失敗」したのである。

ところが戦後油然としてわき起こったのは元軍敗北は神風の仕業であり、寺社仏閣の神威であるという愚かな見解であった。以前からあった、日本は神国であり神明の加護する特別な国であるというあほらしい考え方はさらに強まり、仏は神が姿を変えて現れたとする反本地垂迹説や伊勢神宮外宮の神官度会氏の唱える伊勢神道はこのような愛国的空気のなかで形成され、その663年後、このアトモスフェアをKYした狂気の軍人どもによって「神風」特攻隊の悲劇が起こったことを私たちは忘れるわけにはいかない。


  ♪困った時には神風が吹く安んじて死地に赴け汝陛下の赤子共 茫洋

Saturday, December 27, 2008

網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その3

照る日曇る日第210回


ちょうどその頃、一遍は京の五条烏丸東の因幡堂の縁の下で乞食と共に眠っていたが、弘安2年1279年の8月、信濃の善光寺に向かった一遍は食器の鉢をたたき、念仏を唱えながら踊り出した。一遍が踊ると乞食も癩の者も頭をふり、足をあげ、高声で念仏を唱えて踊りはじめた。

はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの
のりのみちをば しる人ぞしる
ともはねよ かくてもをどれ こころこま
みだのみのりと きくぞうれしき

踊りと念仏のなかで、人々は歓喜に導かれていった。このようにして
おのずから動く手足を動かし、心のままに躍り声をあげることによって自然な野生のよろこびを一遍は抑圧された民衆の心にわきたたせていったのである。

一遍は遍歴・漂泊する人々と共に歩み、遊行した。弘安7年1284年、京の桂を発って丹波の篠村に着いた一遍の周囲にいたのは「異類異形にしてよのつねにあらず」、利のために狩猟、漁労などの殺生を業とする人たちであった。彼らが頭を振り、肩をゆすり、一糸まとわぬ姿になって踊っていると頭上から花々が降り注ぎ、紫雲がたなびいたという。

正応2年1289年、摂津国兵庫島の和田岬で一遍は静かな往生を遂げたが、「葬礼の儀式をととのうべからず。野にすててけだものにほどこすべし」という遺言は守られず、彼の遺体は岬の観音堂に埋められた。彼の死に接し入水自殺を遂げた7人の僧と非人の成仏する姿は「一遍聖絵」で今日もつぶさに見ることができる。

以上は、本書からの自由な引用でした。


♪われもすべてをなげうちおどりくるうてだいくわんきのうちにしにたし 茫洋

Friday, December 26, 2008

網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その2

照る日曇る日第209回

「立正安国論」を書いて国難に臨む執権時宗に意見具申をはかった日蓮は「念仏は無間地獄、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説なり」という「四箇の格言」を掲げ、モンゴルを退けうるのは日本第一の法華経の行者われをおいてほかになしと小町の門々で絶叫したために、文永8年9月12日、得宗御内人の代表的人物平頼綱によって逮捕され、いままさに瀧口寺で処刑されようとした。

伝説では「一天にわかにかき曇り大なる雷鳴なりひびき刀は宙に舞いにけり」ということになってはいるが、実際には平頼綱の最大のライバル筆頭御家人の安達泰盛の時宗への進言の結果である、と著者はいう。蒙古襲来の前夜、鎌倉幕府の御家人と得宗との対立はぬきさしならぬ様相を呈していた。

九死に一生を得た日蓮であるが、その説教はますます火を吐くように過激になり、その攻撃の矛先は鎌倉極楽寺の勧進上人、忍性に向けられた。
日蓮は、「生身の如来」と仰がれながらじつは布絹財宝を貯え、利銭借請を業としている生臭坊主の貧民への施しは偽善でしかない、と弾劾し、この年の大旱魃に当たって祈雨の法験を争おう、と忍性に挑んだのである。

北条一門と癒着する宗教者のみならず北条政権そのものに対してもまっこうから批判を加え始めた日蓮は、はげしい弾圧に身をさらしつつ、この弾圧それ自体のなかに法華経の真理のあかしを読み取り、その確信のなかから「われはセンダラ(賎民)が子、片海の海人が子」という発言が生まれた。権力の課した過酷な弾圧は、ここに一個の不屈の思想家を誕生せしめたのである。(P139)

しかしながら日蓮は、「モンゴル来襲の非常時に忍性ごときを信じている輩は殺され、女は他国へ連れ去られるだろう。白癩・黒癩・諸悪重病の人々、多かるへし」と差別的妄言を吐いている。かれども、その癩病の患者を背負ってこれを救おうとした人こそ、ほかならぬ忍性であった。


♪異邦人を愛したことのない人は永遠に彼らを差別するだろう 茫洋

Thursday, December 25, 2008

サラリマン音頭

♪ある晴れた日に 第47回


俸給生活者はつらいよ

俸給生活者は達成不可能なノルマもなんとか達成しなければならぬ
俸給生活者は他社より劣った製品をそれと知りつつ売り込まねばならぬ
俸給生活者は40度の高熱を押して出社せねばならぬ

俸給生活者は哀しいよ

俸給生活者は理不尽な人事の憂き目を見なければならぬ
俸給生活者は嫌な上司も好きにならねばらぬ
俸給生活者は最低の部下も愛さねばならぬ

俸給生活者はえらいよ

俸給生活者はアホ馬鹿消費者のわがままを否定しない
俸給生活者はクレーマーの唾を浴びながら謝罪する
俸給生活者はアホ馬鹿社長に代わって土下座までする


俸給生活者は楽しいよ

俸給生活者はともかく毎月給料をもらえる
俸給生活者は会社の金を使える
俸給生活者は会社をだしにして己の欲望をかなえることができる

俸給生活者はすごいよ

俸給生活者は家庭や家族を忘却することができる
俸給生活者は会社の金で豪遊できる
俸給生活者は棚牡丹餅ボーナスを年に2回ももらえる

俸給生活者はサイコーだよ

俸給生活者は仕事ができなくても出世できる
俸給生活者はなんだか分からぬ権力を手中に収める
俸給生活者は何の根拠もなく己を偉い者だと思ったりする


しかし俸給生活者は、ある日突然リストラされる


♪サラリマンは哀しきものよアホ馬鹿の咎を背負いて血肉であがなう 茫洋

Wednesday, December 24, 2008

網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで

照る日曇る日第208回

鎌倉時代の農民とは一線を画して、海賊をも業とする海民、殺生をも業とする山民の世界があった。

11世紀半ばに「鬼の子孫」と自称し、都の人々からもそう呼ばれていた京の都の郊外の里に住む八瀬童子は、代々刀自に率いられた集団であったが、山門の青蓮院門跡に属し天皇の賀輿丁もつとめた彼らは、炭を焼き、薪を売るなどの山仕事を業とする山の民だった。

大原の里に住む人々もこれと同様な集団で、当時の大原女は鈴鹿山の女盗賊と同じように荒くれだった炭売り商人であり、現在の鄙びた花売り娘とはまるで違う逞しい存在だった。
桂、大井、宇治など山城を中心に流れる河川のすべてを漁場として天皇から認められていた鵜飼の女性たちは、大原女と同様に頭に白い布をまき、鮎などの魚を売り歩く商売女であった。

宝冶2年1248年、漁場の争いに激昂した桂女たちは院の御所に集団で押しかけちょうど退出してきた摂政近衛兼経の背に向かって声高に罵ったという。
その桂女は室町時代から特徴あるかぶりものをかぶる遊女の一種とみなされ、そのたおやかな優艶さで知られるようになっていくが、これを女性の存在の仕方の時代的進化と呼ぶのか退化と呼ぶのかは微妙なところである。

♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーこそは闘士なりけり 茫洋

♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーのごとき裁定者欲し 茫洋

Tuesday, December 23, 2008

こんな夢を見た

バガテルop78

昨夜衛星放送で黒澤の「夢」という映画をやっていた。前にも見たことがあるのだが、随所に素晴らしい情景が出てくる名画なのでじっと眼を凝らしていたのだが、そのうちに猛烈な睡魔に襲われてしまった。仕事の疲れがどっと出たらしい。仕方なく幻の兵隊が回れ右して暗闇のトンネルにザックザックと姿を消したあたりで寝室に引き揚げて眠ってしまった。

「夢は第2の人生である」という名文句を吐いたのは仏蘭西の偉大な詩人ジェラール・ド・ネルヴァルだが、そんな因果の関係からなにかひとつくらいささやかな夢を見るかと思っていたのだが、ひとかけらすら見なかった。

そこで、というのも妙な話だが、2002年10月3日に私が見た夢を備忘録として記しておこう。

昨夜見た夢の中で昔死んだ近藤さんを見かけた。近藤さんの顔は茶色の斑点入りのヴェールのようなもので覆われていたためにちらとしか見えなかったが、たしかにそれは近藤さんだった。彼女が腰をおろしていた丸いテーブルの反対側にはでっぷり太った広瀬さんが座っていた。でもどうしてガンで死んだ女性が生きているのか。もしかして男性の広瀬さんももう死んでしまっているのではあるまいか、と怪しみながら、僕が丸いテーブルの方へ近づいたとき、突然マガジンハウスの雑誌編集者のI君がその部屋に滑り込んできた。そして背中に背負ったリュックサックをどさりと投げ出すと、そこから2枚のLPのアルバムを取り出して部屋の片隅の壁のたもとに丁寧に並べた。僕がI君に近づくと、彼は僕の顔をみるなり少し顔を赤らめてリュックをつかむとさっと走り去った。そこで僕は好奇心に駆られてアルバムを手にとった。その1枚はカール・リヒター指揮、ミュンヘンバッハ演奏のバッハのブランデンブルグ協奏曲全曲のレコードだった。1枚のジャケットに2枚のレコードが入っていた。


♪バーキンが別れに呉れし☆リース部屋に飾りてクリスマス迎う 茫洋

天才とは?

バガテルop77

いまを去る遠い昔の某月某日、

天才とはどんな人であるかと聞かれた建築家のフランク・ロイド・ライトが、

天才とは、自然を見る目を持つ人のこと。
天才とは、自然を感じる心を持つ人のこと。
天才とは、自然に従う勇気をもつ人のこと。

と答えたそうであるが、なかなかよい答えではないだろうか。

なんでも「マビノギオン」という古代ウエールズの三題詩からに引用らしいが、私は
そういう天才なら、身近にいる多くの知的障碍者なら、みんな立派にこの3馬鹿大将に該当するなあ、と思ったことであった。


♪降っても照っても元気に行くよ俺たち陽気な3馬鹿大将 茫洋

Monday, December 22, 2008

ちゃんと就職したいと願っている君に

バガテルop76

あっという間の就職氷河期の到来である。なかには内定が決まっていたのに門前払いを食わす不届きな企業もあるときく。法律違反だから断固闘えと檄を飛ばす厚生労働省の某大臣もいたようだが、かといっての臨時職員に雇ってあげようというでもない。

この突然の世界不況の元凶はひとえにアメリカ帝国を中心とした金融資本主義者および同国の金に目がくらんだ亡者どもの常軌を逸した欲望の狂乱にあるのであり、わが国をはじめとした世界各国のいっぱんピープルにはまったく無関係に一〇〇年に一度の大波乱が起こった。あのサブプライムローン問題さえなければ、このような悲劇は起こらなかったのである。

したがって今次の世界不況の影響を被ったすべての国家と組織と個人は、ただちに彼らに対して抗議するとともにアメリカ大使館に波状デモをかけ、その被害の多いさに応じて損害賠償の大衆訴訟を起こすべきである。それなのにあほばか大国の愚挙の尻拭いをどうして国内のメーカーや自治体が行う必要があるのか理解に苦しむ。これほど明々白々たる因果は、いまこそ正確に応報しなければならない。

それはさておき、来年卒業する予定の大学生や専門学校生の諸君の不安はいかばかりであろう。微力な私にできるコト。それは彼らに対して、「それほど悪くはない就職口」をたったひとつだけ、しかし自信をもって紹介することだろう。
いまとても困っている学友諸君は、つぎのホームページにアクセスされたい。

http://tomoni.or.jp/saiyou/saiyou.html


♪柚子四つ浮かべる風呂の楽しさよ 茫洋

Sunday, December 21, 2008

ポール・オースター著「幻影の書」を読む

照る日曇る日第207回

この人の本は「偶然の音楽」以来2冊目になる。前作も良かったが、こちらのほうが一段と読み応えがあった。

何といっても映画「スモーク」の原作者・脚本家だけに、ストーリー自体が抜群に面白い。映画的だ。

愛する妻子の突然の事故死からはじまって、無声映画の最後の巨匠との思いもかけない邂逅、そこで明かされる巨匠の生涯の秘密、そして主人公の前に現れた運命の女性アルマとのたった8日間の凝縮された愛、そしてなおも巨匠の最後の作品と死をめぐって最後まで残された黒い疑惑、シャトーブリアンの膨大な回想録からの気の利いた引用、(「人間はひとつの生を生きるのではない。多くの、端から端まで置かれた生を生きるのであり、それこそが人間の悲惨なのだ」)、本編に挿入されて実際に映画化された「マーチン・フロストの内なる生」のシナリオの素晴らしさ等々、これは第1級の娯楽読物であり、優れた人生の書でもある。

とりわけ喜劇俳優や若い女性、ポルノ女優、小人、大学教授などのインテリゲンチャなどそれぞれの人物像の水際立った造形とディテールの精密な押さえ方は見事なもので、この1947年ニューアーク生まれの若い作家の才能は底知れない、というべきだろう。

ニューヨークの街角のドラッグストアを舞台にハーヴェー・カイテルとウイリアム・ハートが主演したウエイン・ワン監督の「スモーク」もいかにも都会的で洒落た映画だった。ラストでゆっくりと立ち上る煙草のけむりのはかなくも美しかったこと。確か共同プロデューサーには独文の堀越君が参加していたっけ。ああいうユーモアとエスプリがきらりと光る映画を目にしなくなってひさしい。さびしいことだ。

♪ブルックリンのドラッグストアの四つ角でプカリ浮かんだジタンの煙よ 茫洋

Saturday, December 20, 2008

ニザン著「アデン、アラビア」を読んで

照る日曇る日第206回

ポール・ニザンは1905年トゥールに生まれ、独ソ不可侵条約に衝撃を受けて共産党を脱党した39年に召集され、翌40年にダンケルクから撤退の途中、不幸にも敵弾に当たって戦死した。享年35歳は奇しくもモーツアルト、正岡子規と同年である。

ニザンはサルトルと同様超エリート校、高等師範学校に進学したが、1926年、パリの腐敗堕落したブルジョワ生活に絶望して(あのアルチュール・ランボオも訪れた)イエメンの不毛の地アデンに逃走し、およそ1年間の滞在の後に本書を書きあげた。
出発の前年の20歳の時にはファシスズム運動に参加していたのに、アデンから帰還するとフランス共産党に入党するのだから、その間の思想的な振幅はかなり大きかったに違いない。

 「僕は20歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」
という冒頭の一句は昔から人口に膾炙する名文句として知られ、(私には「けっ、なんてキザであほなやつ!」としか思えなかったが)、なかにはそのロマネスクとリリシズムに感動してアデン、アラビアならぬアジア、アメリカ、ヨーロッパに旅して故国に帰らぬ若者までいたようだ。

しかしそれに続く文章はそれほど華麗なものではなく、むしろ苦渋に満ちたものだ。内容も若々しく真摯ではあっても独創的な思藻はほとんどなく、知識人によくある青春の悩みという程度の代物にすぎない。
しかし当時極度に消耗し、思想的大混乱のさなかで自己崩壊寸前に立ち至った著者が、旧世界の中で居場所を失なった己を立て直すために、思い切って遠いはるかな地平に投げ入れることを決意し、その空間移動と異郷体験によって己の心身がこうむった変化について沈着冷静に観察、報告していることだけは高く評価できよう。

遠い旅から帰還した若者の感想は、次のようなものだった。
「結局、僕のヨーロッパに対する考え方は出発前とちがうものになっていた。ヨーロッパは死んでなどいない。ベンガルボダイジュのようにあちこちに副次的な根を伸ばしているのだ。まずはこの株を攻撃しよう。この木の葉陰で、誰もが死ぬ」

 ♪ねえニザン20歳がもっとも醜いときだなんて誰でも知ってるさ 茫洋

Thursday, December 18, 2008

倉地克直著「徳川社会のゆらぎ」を読む

照る日曇る日第205回

小学館の「日本の歴史」シリーズはいずれも近来の力作ぞろいだが、とうとう11巻まできた。今号で徳川幕府が揺らいだら、まもなく明治維新がやってくるのだろう。

本書によれば、江戸時代には多くの穢多非人が存在した。

非人は穢多と違って平民身分に戻ることができたが穢多はできなかった。元和・寛永ごろに非人の組織化が行われ、江戸では非人頭、大坂では長吏が統率したが、その江戸の非人頭は穢多頭によって統率されていたので、穢多は非人よりも偉かった?ことになる。


彼らの組織には「乞食の法度」と称される独自の規律があった。4か所で集団生活していた江戸の非人小屋には、ボスの非人頭の下に非人手下(「てか」と呼ぶ。やくざ映画などのテカはここから来たのだろう)がおり、さらにそのまわりには野非人からくりこまれたばかりの非人小屋居候がいた。

その非人居候には、元浪人や僧侶、職人、芸能者やライ病者、障碍者、さまざまな犯罪者たちがいた。17世紀にはキリシタンが流入し、文化11年1814年には岡山乞食(当地の非人組織名)の中から禁教の日蓮宗不受不施派の信者が多数摘発されている。

このような縦型の身分制度は、ひとり穢多非人集団のみならず、政党、官僚、私企業、町内会、軍隊、教職、宗教団体、監獄からホームレス集団にまで時代を超えて散見される。


♪おやびんのためなら滅私奉公 お国も王も喜んで裏切りますぜ 茫洋

Wednesday, December 17, 2008

堀江敏幸著「未見坂」を読んで

照る日曇る日第204回


一天にわかにかき曇るとものすごい強風が吹き募り、大粒のにわか雨が降りはじめたある夕べ、突然家がつぶれるのではないかと思うほどの衝撃があった。

慌てて家族全員が店の表に飛び出してみると、てらこ履物店の傍らに立っている木造の大きな電信柱がぽっきりと折れ、見たこともない1台の自動車が巨大な褐色のカブトムシのように木の根元に停まっていた。

米軍のジープだった。ジープのそばには3名の兵士がヘルメットから雨しぶきを滴らせながら呆然とたちすくんでいたが、やがて真ん中の真黒な顔をしたいちばん背の低い兵隊が、やはり真黒な瞳を持つ大きな目玉をおずおずと動かしながら、懸命に彼らが犯したあやまちを詫びようとおそらくはアイアム・ソリーとでもいうような外国語を何度も何度も分厚い唇から発した。

それが私がうまれてはじめて耳にした英語であり、はじめて目にした黒人だった。

これは私が本書に触発されて書いた例文であるが、例えばそのような、ある任意の時代の、ある任意の街の、ある住人たちの身の上に起こるささやかな、しかしなかなかに忘れ難い事件や経験を、作者は慌てず急がずに言葉を選び、その言葉を舌の上で何度も転がせるように吟味しながら、真っ白な原稿用紙の上にきれいに並べて見せ、あるいは幼年時代の自分の過去を心ゆくまで再現しようと決めた少年のように、もはや書くことを忘れて屋根の上の白い雲の去来に呆然と見入っている。

フィリツプ・ソレルスの忘れ難い「神秘のモーツアルト」の訳者でもある著者は、本書を皮切りにフォークナーの、かの“ヨクナパトーファ・サーガ”の平成版を目指しているに違いない。

 ♪ハイランドの坂をあえぎながら登りゆきし3台のトラックの名は信望愛 茫洋

Tuesday, December 16, 2008

歳末クラシックCD談義 後篇

♪音楽千夜一夜第54回

シフのバッハ12枚組は最高で、後期シューベルトもとても良かったのです。昔聴いたケンプのシューベルトも後期のピアノソナタも素晴らしかったので、この際全曲を聴こうと思って7枚組全集4590円を買ったついでに、ブレンデルの7枚組をなんの期待もせずに3789円で買いましたら、これが定評あるケンプよりもはるかに素晴らしかったのは意外でした。

最近引退したばかりのこの人のモーツアルトは、ヴォックス録音以来(最近独ブリリアントから超安価で全集が出た)さんざん聴いて満足していたのですが、シューベルトはヴェートーベンよりず抜けて良かった。こんなことなら内田光子の問題作も併せて買って聴き比べておけばよかったと後悔しています。あれは確か8枚組で5500円だったっけ。

タワーで仏united archivesが廃盤になるというのでさよならバーゲンしていたので、ブダペストSQの50年代ライブ録音によるヴェートーベンSQ全集8枚組を2690円、モーツアルトの最後のプロシア王SQ2枚組を1590円で衝動買い。ヴェートーベンは米コロンビアの40年代録音を持っているが、そちらの演奏の方がやや充実しているような気がします。プロシア王は未聴。

バーンスタインのヴェートーベン交響曲全集とモーツアルトの後期交響曲&レクイエム&ミサ曲集6枚組が(当然のことながら)とても良かったので、最晩年のニューヨーク・フィルとのチャイコフスキー後期交響曲集4枚組2590円を聴いたら、これまた6番の「悲愴」が血わき肉おどる名演で満足。くたばれカルタゴ&小澤&カラヤン。

名門ニューヨーク・フィルといえば、アンドロメダ盤から出たブルーノ・ワルター指揮のモーツアルトの後期交響曲集が秀逸。選ぶならステレオのコロンビア盤よりもむしろこちらか。しかしモーツアルトの交響曲全集なら、墺ならぬ豪州出身のさすらいの棒振り男チャールズ・マッケラス卿がプラハ室内響と入れたテラーク盤10枚組の高い完成度には及ばない。かのバルリン&ベーム翁も追い越して、数ある演奏のなかで現在の私のベストです。

♪奏者全員死者のミサ曲聴けば冥界より手招きさるる心地して 茫洋

Monday, December 15, 2008

歳末クラシックCD談義 前篇

♪音楽千夜一夜第53回

今日も相変わらずクラシックを聴いています。
年々仕事が減り、世界同時不況が到来するずっと前から不景気なので、CDの購入は基本的に1枚1000円以下、中心価格は200~500円までと定め、暗い世相をせせら笑いながら東京のバスガイドの浜美枝さんのように、都電荒川線の車掌の倍賞千恵子さんのように♪明るく明るく歌いながら、乗り切って参りました。

さて先々月はパドゥラ・スコダのシューマンのピアノ独奏曲全集2500円也という廉価版を「ふんスコダか、グルダに比べてお前はなんて凡庸なんだ」、と軽蔑しながらも買ってきて13枚続けて聴いたら、ポリーニやアルゲリッチよりいい演奏だったのですっかり脱帽。

先月はジョージ・セル、クリーブランド響が51年から69年までフィリップスとデッカに入れた(ソニー以外の)全録音5枚組と、ピエール。モントゥーが56年から64年までに同じくその2つのレーベルに入れた7枚組の録音を聴いたが、これも素晴らしく珠玉の名盤とはこのような演奏をいうのだろうと思いました。ちなみにモントゥー老のロンドン響「ベト4第1楽章冒頭」と中島みゆきの「ファイト」が私の人生の応援歌です。

わずか1000円で4枚組という廉価版での思いがけない掘り出し物は、独クアドロマニアのプッチーニの「マノンレスコー」と、「蝶々夫人」のそれぞれ1930年スカラ座、49年メットの知らない指揮者の全曲演奏。録音がひどいので途中でやめようかと思いましたが我慢して聞いているうちにオペラ的感興がわき出てくる名演。後者では私の好きなエレノア・スチューバーが好演しています。

気をよくして同じレーベルの「ラ・ボエーム」と「トスカ」を買ってきたら、いずれも1938年の録音ですがベンジャミン・ジーリとカラスの黄金コンビがスカラ座とローマ歌劇場でちょうちょうはっしの白熱のクライマックス。オペラだけは昔の歌手と昔の演奏で聴くべきだとしみじみ思ったことでした。

そういうわけで、ただいま同じクアドロ盤のクナパーツブッシュの「パルシファル」(1951年バイロイト音楽祭ライブ)をかけていますが聖金曜日の音楽がすさまじい迫力。これはもしかするとフィリップスのステレオを超えた演奏ではないでしょうか。

1000円盤といえば、アルトゥスから出たアンドレクリュイタンス&パリ管の生前唯一無二の東京文化会館におけるベルリオーズの「幻想交響曲」のライブがあまりにも素晴らしかったので、1986年10月15日東京文化会館における神様チエリビダッケ指揮ミュンヘンフィルの「ブラームス4番」&「死と変容」の超絶的名演、同じく1991年11月2日サントリーホールにおけるクーベリック&チエコフィルの「我が祖国」を、フルトヴェングラーの51年7月29日バイロイトのオルフェオ盤「合唱付き」といっしょに買ってきました。

もったいないので、すぐには聴かないでいましばらく机の上であたためているところ。私だけのささやかな楽しみです。

♪吉田家でプーランク聴こえる小町かな 茫洋

Sunday, December 14, 2008

エリック・ロメール監督の「グレースと公爵」を見る

照る日曇る日第203回

革命と反革命とではいずれかの2者択一であり、人間は敵か味方かのいずれかであり、あらゆる選択肢について第3の道なぞ考えたことすらなかった。

もとよりフランス革命も絶対的な善であり、その不滅の歴史的、社会的、政治的、思想的意義を認めようとしない輩なぞは、人間の屑とみなして平気だった。テーヌやらマチエやらルフェーブルの革命史を読んではやたら興奮しておった。

ラファイエットやダントンやジョゼフ・フーシェなどは人民の敵で、過激なマラー、ロベスピエールのほうがよっぽどかっこいいのであった。あなおそろしや。まだ私も青くさく若かったのである。

なんやかんやでつねに心の中は革命の炎が燃え盛っていたので、苛烈に弾圧され人民の敵というレッテルを貼られて断頭台の露と消える当時の王党派の貴族たちについては、かくも長きあいだにわたって、てんで想像すら及ばなかったのである。

しかし正義と自由と平等という錦の御旗を振りかざし、ラ・マルセイエーズの軍歌に乗って迫りくる暴徒たちにおびえながら、彼らはいったいどのような毎日を送っていたのだろう。どんな思いで日々を支え、どんな愛憎をはぐくみながら朝を迎えていたのだろう。

そういう素朴な質問に対するうってつけの回答がこの映画の半面の相貌であるが、名匠エリック・ロメールは、史上未曽有、驚天動地の時代を誠実に生きた男女に焦点を当て、その不滅の愛を淡々と描く。

女は英国人でありながらルイ16世に忠誠を誓うグレース・エリオット、そして男は、王の従兄でありながらフランス革命の理念を奉じ、王の死に1票を投じながらもロベスピエールの策謀によってギロチンの刃の下に斃れた悲劇の公爵オルレアン。時代の悲劇を超えて、運命のふたりがどのように深く愛し合ったか、とくとごろうじろ。


♪硝煙燻ぶるバリケードに仁王立ち最後の1発を放ちし老革命家に乾杯 茫洋

Saturday, December 13, 2008

クッツェー著「鉄の時代」を読む

照る日曇る日第202回

南アフリカのケープタウンに住む元ラテン語教師の70歳の女性がアメリカに住む娘に宛てた長い遺書である。彼女はガンに冒されていて余命いくばくもないが、アパルトヘイトのただなかにあるこの極南の地にあって、いっけん自由な、そして孤独な生活を強いられている。

トランジットしては通過して行く者たちのように彼女の家を訪れるこれも孤独で心を固く閉ざした男や通りすがりの女、そして彼女の子供たちがいる。
誘蛾灯にさそわれて飛んできた蛾のようにいつの間にか老女の周りに集まってくる見知らぬ赤の他人たち。その醜悪で悪臭を放つ気味の悪い連中を、われらが老いたるヒロインはあたたかく迎え入れ、非道な国家権力や警察の暴力によって日常生活の平安を徹底的に脅かされながらも、容易に他人の善意を信じようとしない彼らと誠実に向かい合う。

残された日が短い彼女にとって、この世におけるゆいいつの救いとは、たまさかに彼女の懐に落ち込んだ任意の男、限りなく胡散臭く、薄情で誠実さのかけらもない1人の中年男をひたすら信じきること、その1点に賭けることなのだ。

彼女にとってこの悲惨で絶望的な争闘の「鉄の時代」のあとに来るべきは、人類が友愛でゆるやかに結ばれるはずの「青銅の時代」であり、それに続く「銀と金の時代」なのである。おお、なんと勇気凛々の超楽天主義者であることよ!

それゆえ、小説の掉尾をあえかに彩る2人の抱擁は、少しく感動的ですらある。


♪遥かなるエルドラドの輝きは幻かわれら冷え行く鉄の時代に生きる者 茫洋

Friday, December 12, 2008

網野善彦著作集第11巻「芸能・身分・女性」を読む

照る日曇る日第201回&ふあっちょん幻論第24回 

婆娑羅(バサラ)と呼ばれる異類異形の風体の輩の源流は、平安後期の「江談抄」に「放免が分不相応の美服を着るのは非人のゆえ禁忌を憚らざるなり」とあるをもって嚆矢とする。金銀錦紅の打衣、鏡鈴のごとき風流、派手な模様の狩衣を着て異様な棒(鉾)を担ぎ、大きなひげをはやした放免(検非違使の部下)は、非人であるがゆえに俗世界のタブーには触れないとされた。

しかしこのバサラは頻々たる禁制にもかかわらず博戯、双六、飛礫の流行とあいまって悪党の進出とともに急速に浸透し、その悪党どもがついに後醍醐天皇と結託して都を制圧したのが建武新政であった。彼らの圧倒的なエネルギーは公家・武家の政治を根底から揺り動かし、バサラな非人の綾羅錦繍の装束、金銀珠玉のファッションは、小舎人童、大童子、牛飼童子、猿楽田楽法師、供奉人までも虜にしたのである。

またバサラも着用した「柿の衣」は主に中世後期の無縁の非人、とりわけ癩の病人々の衣装として定着していった。癩の病といえばいまでいうハンセン氏病のことだが、これに犯された兄弟子の養叟に対する弟弟子一休の驚くべき罵倒の言葉を忘れるわけにはいかない。ここには後年にいたって顕在化する障碍者への卑賎視がうかがえる。


一揆の衣装には世界的に赤と白が使われてきた。「一遍上人絵詞伝」に登場する乞食非人の指導者は、白い覆面・頭巾をつけて六尺棒を持ち、赤ならぬ柿色の僧衣を身にまとっているし、明応5年近江の馬借一揆の柿帷衆は、全員ふだん彼らが身につけていない柿色の帷を着て近江から侵入した斉藤妙純の軍勢と戦った。

江戸時代の百姓一揆では困窮した百姓たちは蓑・笠をつけ俵を背負い、非人の姿をし、妻子には地頭所の前で乞食をさせて都の強訴に旅立った。差別された最下層の身分に自らをおくことをためらわない不退転の決意をそこに示したのである。

柿色の衣は山伏の衣装でもあり、鎌倉時代の義経も、南北朝の護良親王も日野資朝も山伏姿で各地を逃亡した。山伏は山の霊力を身に備えた聖なる存在であり、聖なる非人でもあった。彼らがまとった非人性を象徴する柿色の衣は平安、鎌倉、室町、江戸時代にも連綿と伝わり、歌舞伎の江戸三座に引き幕の中央にはつねに柿色が据えられ、遊女屋の暖簾も柿色であった。

しかしその反面、江戸時代の奉行の足軽たちは柿色の羽織を着て街を見回ったので、「柿羽織」と呼ばれており、彼らが腰にさす鼻捻という棒は江戸の非人頭も持っていたそうだ。柿色の象徴的機能の別の面を物語るといえよう。

聖にして非なる柿色ファッションカラーは現代にも流れており、歌舞伎一八番の「暫」の鎌倉権五郎景政の衣装は、柿色地に三升大紋であり、その権五郎役をお家芸とする市川団十郎家は柿色を先祖代々の家の色と定めている。云々。

飛礫、博打、旅する女性、非人を真正面から論じた本巻は、疑いもなくここまで読み進んできた網野善彦著作集の白眉である。

♪俯いて地面に何を書いていたのか己に罪なしと信ずる者より石を打てといいいし人は 茫洋

Thursday, December 11, 2008

鎌倉市の「障がい者計画」への要望

バガテルop75&鎌倉ちょっと不思議な物語第160回


1「障がい者自立支援法」と合わせて市の障害福祉計画の見直しを!

「障がい者自立支援法」は、障がい者を無理やり自立させようとして施設から追い出そうとしたり、収入のない障がい者に従来よりも経費負担を強いて自活困難に追い込むなど、数多くの問題点をかかえており、現在各政党でも白紙撤回や改定を検討中です。
従ってこの法律をもとにした障がい福祉計画の実施は、新法の成立までいったん中止し、それから再検討するべきではないでしょうか。

2障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を!

市の障がい福祉計画の福祉施設から地域生活への移行の「数値目標」にあまりにも力点がおかれすぎています。
施設からどうしても移行できない障がい者も数多く存在しているのに、そうした個人個人の実態とは無関係に年度別の数字で減少計画を立てることは無謀であり、「非人間的」です。数値計画自体を撤廃し、もっと障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を充実させるべきではないでしょうか。

3親亡きあとの障がい者のケアを!

障がい者の親にとって最大の関心事は、親亡きあとの障がい者のケアであります。そのために物心両面の支援を手厚くしてほしいのです。
現在鎌倉市にはかなりの数の通所施設や地域作業所が存在していますが、入所施設は1か所しかありません。今後その需要は急速に高まると予想されるので、その増設を希望するとともに、既存の施設に対する格別の配慮をつよく希望します。

4「障害者」から「障碍者」へ

現在逗子市など全国の多くの市町村、あるいは一般企業の求人広告においても、いわゆる障害者のことを「障碍者」と表記するようになっています。「障害」という表記がなにか悪いもの、世間に悪をなすもの、という印象をともなうところから、あえてニュートラルな「障碍」あるいは「障がい」という用語を使うように変化しているのです。
そこで本市でも遅まきながらこの表現法を採用されてはいかがでしょうか。それは単なる言葉狩りというレベルの問題ではなく、恵まれない弱者に対してどのように接するかという人間としての態度の問題です。わたしたちは、害虫ではないのですから。

5 追記
最近幼女の殺人容疑で知的障碍の男性が逮捕されたが、彼が本当に健常者とおなじ認識と行動でそれを実行したのかは軽々に即断することはできないと思います。
もし彼が結果的に殺人を犯した場合でも、明確な殺意の元で自覚的にそれを行なったのかどうか、専門家の参画のもとでよく調べていただきたいのです。なんとなれば、私が知る限りの知的遅滞者は、殺人を考えたり、実行を計画したり、直接手を下すことなぞ絶対に不可能な人たちだから。

♪障害者を障がい者とひらくこころの優しさよ 茫洋

Wednesday, December 10, 2008

黒澤明の「デルス・ウザーラ」を見て

照る日曇る日第200回

黒澤がほとんど単身でロシアならぬソビエトに乗り込んで1年有半の格闘を経て命懸けで撮った映画は、驚くべきことには彼の最上の美質が発揮された名品だった。

そこには自然の恐ろしさとすばらしさをふたつながらに受け入れる愛すべき冒険者である狩人がおり、原初的な人間と獣との対決と友愛がある。雄大で神秘的な大自然への畏敬の念と、その豊かな恵みへの感謝があるかと思えば、密林の奥まで侵入する開拓の毒牙があり、都市の論理の前になすすべもなく敗退して自滅するイノセントな魂への万斛の哀歌がある。

黒澤は、そうした人と動植物が語らいあっていた黄金の神話時代から銀の時代、青銅の時代から英雄の時代までをほとんどのびやかに描く。ほんらいの自分に立ち返ったように軽く深呼吸しながら……。ああ、なんという幸福な映画であることか!

ヘシオドスが記録した時代の流れは、さらに鉄の時代を経て艱難と労苦に満ち満ちた現代にまで及ぶが、黒沢の映画的時間は懸命にもそこに到達することを避ける。ショスタコービッチが歌わざるを得なかった「森の歌」を歌うことを拒否して、あざやかに日本に帰還するのである。

この映画には、黒沢の映画でなければけっして私たちに贈り届けられなかったような人類史上の不滅の一瞬、映画ならではの特権的な瞬間が70ミリシネマスコープのフィルムの上にくっきりと刻印されており、私たちは人と自然と映画とがひとつに溶け合った奇跡を目の当たりにすることが許される。

映画に対して、誰がそれ以上のものを望むことができるだろうか。


♪またひとりパパゲーノ見つけたり広大なるロシアの森に 茫洋

Tuesday, December 09, 2008

黄昏の渋谷で「アンドリュー・ワイエス展」を見る

照る日曇る日第199回

遅まきながらはじめて副都心線に乗って、見慣れぬ駅にたどり着き、渋谷東急文化村まで死ぬほど歩いたあとで、アンドリュー・ワイエスの素描、水彩、テンペラを見ました。1917年にアメリカペンシルヴェニア州に生まれた画家はことし91歳、現在もなお元気に描き続けているそうです。

荒涼とした草原にたたずむいかにも頑固そうな農夫、丘の上の孤独な家、鳥や鹿や樹木。とある古い農家の一角に差し込む午後の光線、砂のようにザラザラした感触の若い女の素肌、突然降ってくる粉雪……、彼は本国と同様わが国でも人気が高いそうですが、いかにも現代人に受けそうな画題とタッチをしています。極北に生きる禅僧のような異端者の孤独な魂は、わたしたち現代人の心にかくもたやすく触れ合うのでしょうか。

が、じっと眺めているうちに、画相といい表現といいあまりにも表面的な感じがしてだんだん肌寒い気分に襲われてきました。こういってはいけないかもしれないが、あまりにも通俗的で感傷的な作風ではないだろうか。こんなもん、もしかしてお金儲けのためにかきなぐっているのではないだろうか。もしかしてフェイクではないだろうか、という疑いです。

もとより私などに偽物とまで断言する勇気はありませんが、(新設された地下鉄副都心線といい安藤忠雄設計とやらの渋谷駅といい、道玄坂の汚らしさといい)残念ながら最近の展覧会のなかではいちばん共感できなかったシロモノでした。

♪雪でも降れだんだん東京が厭になる 茫洋

Monday, December 08, 2008

ブライアン・ヘルゲランド監督「ペイバック」を見る

照る日曇る日第198回

メル・ギブソンが主演する1999年製作のアメリカ映画「ペイバック」を見た。どうにも面白くなく、やりきれない気分にふさわしいじつにくだらないギャング映画であった。そういう意味ではとてもマッチグーであった。

粋がっているチンピラのギブソンがちょいと悪事に手を染め、やっと手に入れた七万ドルを親友とおのれの妻に奪われてしまい、それを死んだ気になって巨大な悪の組織と全面的に対決しながら取り返すまでの波乱万丈、支離滅裂のハードボイルド大アクション映画であった。

なんでも大ベストセラーの映画化らしいが、こういうあほばかシナリオを愚直に演じさせたらメル・ギブソンにかなうものはない。ルーシー・リュウー演じる強烈な暴力サディストの演技も見ものだった。


♪ぐららがあぐ おんぎゃあどれんちゃ ぶおばぶば ぐちゃわんべるる ううれえんぱあ 茫洋

横須賀交響楽団の「第9」を聴く

♪音楽千夜一夜第52回

この素晴らしいオケのコントラバス奏者であり、私のマイミクさんでもある笑み里さんのご招待で、年末恒例のヴェートーフェンの「合唱付き」を楽しませていただきました。

日曜午後のマチネーです。須賀線の横須賀駅を降りて寒風吹きすさぶ港を見ると大きな潜水艦がちょうど岸壁に接岸されるところでした。嬌声を挙げてデジカメで撮ろうとする見物客を制するがごとく、反戦平和を唱える小柄な尼僧が「南無妙法蓮華経!南無妙法蓮華経!!」と手に持った小太鼓を連打しながら通り過ぎる。いつもながらのヨコスカ・ハーバーです。

演奏は同じヴェトちゃんの「合唱幻想曲」から始まりました。構成に大きな破綻があるものの、いかにもヴェトちゃんらしい荒削りな作品を、象のように巨大な体躯を揺さぶりながらピアノの久保千尋が力奏しました。

休憩のあとはお待ちかねの「第9」です。はじめの3つの楽章が破綻こそないものの、あまりにも優等生的な安全運転で、今日はどうなることかと案じましたが心配無用。最後の楽章でオケも指揮者も合唱も大爆発。世界の恒久平和を祈念する歌と旋律を、腕も折れよ、喉も裂けよ、バチも折れよ、とばかりに超満員で立ち見まで出ている巨大なホールにぶちかまし、折からの寒波で心まで冷え切っていた聴衆の胸のなかを灼熱の嵐に巻き込みました。

指揮者は最近絶好調の神奈川フィルを牽引する若き棒振り現田茂夫。おそらくは徹底的なリハーサルでオケをしごいたのでしょう。アマチュアオケ屈指の実力を誇る横須賀交響楽団から思い通りの音色とバランスと色彩と力感を生み出し、この至高の難曲を見事にドライブしました。私はこれほど最終楽章にピークを設定した演奏を聴いたのははじめてで、オケもさることながらコーラスのすさまじい威力に圧倒されました。今日の主役はまぎれもなく横須賀芸術劇場合唱団でしょう。

安定した弦、とりわけヴェトちゃんには必須の低音部をゴンゴン築くコントラバス軍、活気ある打と管、とりわけリズム感抜群のパカッションが素晴らしく、管弦楽と管楽器の美しいハーモニーは聴きごたえがありましたが、ピッコロの音程と強度、トライアングルの鳴らし方、それから前にも触れたようにこの指揮者の曲の解釈については私には強い異論があり、正直に告白すれば3つの楽章の演奏には失望を禁じえませんでした。若きマエストロの今後の自覚と精進に期待したいと思います。

「第9」を打ち上げたあと、驚いたことには「蛍の光」のアンコールがあり、それにしてもヴェトちゃんを上回る?なんという天下の名曲かなと一掬の涙がきらりと漏れたことでした。ロンドンの「プロムス」のように場内大合唱になるともっと盛り上がるのですがね。

♪オオフロイデ、蛍の光で年は暮れ 茫洋

Saturday, December 06, 2008

アーサー・ウェイリー&佐復秀樹訳「源氏物語1」を読む

照る日曇る日第197回

1925年刊行のアーサー・ウェイリー訳の源氏は、与謝野晶子の小説的翻訳のあとをおうようにして英国の日本語(そして中国語も)独学者の熱い心と冷たい手によって大戦前の全世界に向かって公刊された。

ドナルド・キーンによれば、ウェイリーの翻訳は、まず原文を繰り返し熟読玩味し、しかるのちにそれを脳髄から放擲し、今度は英語として噛み砕いた文を「振り返らずに」書き下ろし、あとで原文と照らし合わせて趣旨が同じなら多少の欠落や付加があろうともそれでよしとする、という手合いのものであったらしく、そのことがあまたの翻訳にない独特の魅力を形作っている。

正宗白鳥が評したように、「原文は簡潔とはいえ頭をちょん切って胴体ばかりがふらふらしているような文章で読むに歯痒いのであるが、訳文はサクリサクリと歯切れがいい。糸のもつれのほぐされる快さがある。翻訳が死せるが如き原作を活き返らせることもあるものだ」と感じさせてくれるのである。

そのようにウェイリーの訳文は、原文→英語という変則クッションを介在させているにもかかわらず、物語の主人公である紫式部の主人公性を強調し、原文には想定されていない「主語」を樹木の幹のように樹立するとともに、述語と形容句、副詞の補助的な機能を英文脈の論理に準じて華麗な枝葉のように巧みにアレンジしたために、まるで海鼠のように目鼻すら区別できない膨大なやまと言葉のかたまりが、ジェーイン・オウスチンやマルセル・プルーストに匹敵する格調高い西洋小説に変身してしまったのである。

佐復秀樹の翻訳は、そのようなウェイリーの訳文をさらに現代的な日本語に置き換えようとしたもので、これをあの有名な紫式部の名作などと過剰に身構えなくても素直に楽しめる物語、面白くて本格的な大河小説として換骨奪胎することに成功している。
これまで私の源氏翻訳ランキングは1位窯変橋本、2位谷崎、3位与謝野であったが、ウェイリー・佐復組の仕事はそれらのいずれよりも光源氏とその恋人たちのキャラクターを生き生きと光彩陸離に再現しているように思われる。

ただ明石の巻で入道につかえる下人たちが「時にはかなりの時化になるんやが、たいていはずっと前にわかるもんや」などと関西弁(明石弁?)でしゃべらせているのだが、それなら源氏や紫や葵上も京都弁にするべきだし、そうすると野卑な?明石弁と雅な都ことばとの差別化をはかる必要も生じるんとちゃうやろか?


  ♪平安の御代の源氏も紫も雅な京都弁を喋っていた 茫洋

Friday, December 05, 2008

森まゆみ著「旧浅草區まちの記憶」を読む

照る日曇る日第196回

森まゆみの本や文章は「矢根千」の時から好きで、なんでも好んで読んで後悔しない。私にとってはいまどき希少な作家である。

彼女の案内で旧15区(麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川)のうち旧浅草區を歩こうというのが本書の企画である。すでに神田を歩いているそうだが、未読。いずれそのうちに。

こういう年寄りじみた好企画を連発していた毎日新聞社の「アミューズ」もいつの間にやら休刊になってしまったようだ。勢いがあるのは右翼系のファシズム雑誌ばかりとは情けないやら腹立たしいやら。そのうち防衛庁のアホ馬鹿軍人どもがクーデターに打って出て政権を奪取し、日清日露戦争でもおっぱじめて新満州国設立にでも乗り出すのだろう。

おっといけねえ、ついまた愚痴が。そんなきな臭いことより江戸探しでござった。
誰かが過去は新しく、未来は懐かしい、とか口走っていたようだが、私はもう新しいことには皆目金輪際興味がない。そして最近どんどん死んでいく懐かしい人や失われた時代に無性に惹かれる。私はてって的な保守主義者であり、反改革主義者であり、現代に棲息する絶滅寸前の縄文人であるからして、過去の沈湎とした記憶や思い出、退嬰的なノスタルジーに心ゆくまで浸りながら急性アルツハイマーになって夢見るようにねんねぐーしながら安らかに死んでいきたいのである。

話が脱線したので万やむを得ずもうこの本の紹介ははしょってしまおう。読みたい人は読めば大いなる心の慰安を得るであろう。最後に、私がときたま東京を訪れるときの最大の楽しみは文人墨客の掃苔であることを告白してご挨拶にかえたいと存じます。ご静聴ありがとう。

♪楽しみは亡き母ゆかりの谷根千をひとり静かにさすらうとき 茫洋

Thursday, December 04, 2008

池田清彦・養老孟司著「正義で地球は救えない」を読んで

照る日曇る日第195回


地球における二酸化炭素の急増と温暖化の相関関係に疑問を投げかけることからはじまって、環境問題の本質は、食糧とエネルギー問題にあると喝破し、もろもろの「地球にやさしい」環境運動の虚偽と虚妄を鋭くえぐる問題提起の書である。環境原理主義者に対する反環境原理主義者の弾劾の書でもある。

例えばここ2年間くらいの企業の広告活動をみると、その中心的なテーマは環境問題であって、その一極集中ぶりは異常なものがある。環境さえPRしておけばそれで良し、とする体制順応型の対消費者コミュニケーション活動そのものが、この国の産業活動の疲弊と腐敗と堕落を物語っているようだ。

それでは企業や消費者にとってそれほど環境問題、とりわけ地球温暖化問題がどれほど切実な課題として認識されているのかといえば、それらは極めて表層的なものにすぎない。

たとえば先の洞爺湖サミットで我が国はじめ世界各国は「50年までに排出量半減」することを認めたが、具体的な行動計画については誰もなにも言わなかった。しかし養老氏が説くように、二酸化炭素排出の最大の要因は石油の使用なので、本気で温暖化を抑えたければ、石油生産を抑止するのがもっとも効果的だ。

これを年々計画的に抑制すれば多少経済活動は弱まるが「50年までに排出量半減」など簡単に実行できてしまう。ところがそれがわかっているくせに手もつけず、同じサミットで逆に産油国に対して石油増産を要請するというのは矛盾そのものである。
つまりはおそらく(日本国をのぞいて)世界中の国々が本当に本気で二酸化炭素の削減に取り組んでいるわきゃあない。ここは思案のしどころだよと著者たちは警告するのである。

 確かに気象変動の要因は複雑怪奇だから、二酸化炭素の増減だけで地球温暖化を説明することはできないだろう。もしもあるパラメーターを恣意的に導入することによって過去100年間の気候変動を上手に説明することができたとしても、一歩先の未来について確信の持てる予測をすることは困難だろう。

 
肝心要の二酸化炭素の増減や地球温暖化の因果関係についても最終的にはまだ学問的な決着はついていない。にもかかわらずそれを己の金もうけや政治的野心の道具として利用しようとする輩が陸続と登場し、科学的真実の探求そっちのけでわれがちに世界崩壊だの人類絶滅の未曾有の危機だの目の色変えて叫んでいるようだ。科学と論理に弱い(どうでもよい?)私には、いずれが正かいずれが邪か今やそれすら見分けがつかなくなってきたので、この問題からはしばらく降りて様子を見ることにしよう。いまわあわあ叫んでいる連中がみんな死んじまったころにはおのずと結着がつくだろう。

しかしだからといって池田が言うように、京都議定書に始まる世界各国の取り組みがまったくナンセンスであり、こんな愚かな活動に全国民を巻き込むのは愚の骨頂であるばかりか税の無駄遣いであり、アメリカ帝国主義の大陰謀である、と偉そうに説くのはいかがなものであろうか。(日本だけが損をする)排出量取引が排出量低下自体につながらないことはいうまでもないが、それでもあの漫画的なクールビズだのエコバッグだのエコカーだって、印税稼ぎの駄弁を弄するだけで何もやらないよりは多少はましではないのではなかろうか。

しかし事の重大さからすれば、著者たちが力説するとおり、石油の産出が終了する前に代替エネルギーを開発して全世界の持続を可能にするとともに、極力世界人口を低減させていくことは、ツバルやベネチアやオランダの陥没やホッキョクグマの絶滅を心配することよりもはるかに重要な「地球人の使命」であろう。


♪さらばベネチア沈みゆく関東ローム層で弔鐘を鳴らすのは誰 茫洋

Wednesday, December 03, 2008

鎌倉文学館で「吉田秀和展」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語第159回&♪音楽千夜一夜第52回

よい小春日和になったので、久しぶりに自転車を飛ばして長谷の文学館まで行って企画展吉田秀和「音楽を言葉に」を覘いてきました。

入口の紅葉が見事でみんな写真を撮っていましたが、それは見事なものでした。
しかし肝心の展示会場には中原中也の時と違って格別印象に残るものはなく、ただ秀和さんの来歴データや日本ハし日本橋で生まれたご幼少のみぎりから現在までのご真影や、生原稿や、著作が1階と2階の2つの会場にパラパラ並べてあるだけなので、ちょっとがっかり。考えてみれば、じゃあそのほかに何を展示すればいいのか私にも分からないが、イのいちばんの展示物が文化勲章というのはご本人にも失礼だし恥ずかしくはないのかい?

と、やや辛口のコメントを並べているのは、先月の15日に行われた「吉田秀和氏と音楽をたのしむ」という文学館の特別講演の抽選に外れてしまったからなんで。要するにひがんでいるのさ。しかし限定20名なんて確率が低すぎる。あんな狭い部屋なんかやめて広い庭園でやったらどうなのさ。海も太陽も紅葉も見えるし。

なんてぼやきながらもグールドのゴルトベルクが流れる旧前田伯爵邸を茫洋が茫洋と歩いていると、小林秀雄と大岡昇平が秀和さんに宛てた葉書を見つけました。いずれも昭和30年代前半の発信です。
秀雄さんのは2通あって、いずれも秀和さんが送ったレコードへの礼状。1枚はデ・ヴィトーのヴァイオリン曲で、「やはりヴィトーは男性とは違う女らしさがある」と評し、もう1枚のグールドのそれに対しては、「極めて新鮮!」と大書してその驚きを率直に言い表しています。短にして要を尽くした達筆です。

これに対して昇平さんのは、まるでみみずがのたくったような筆跡で、「あなたは音楽界の中原です」と褒めそやしています。これはちょうどそのころ、秀和さんが雑誌にはじめて掲載した中原中也の思い出話を読んだ昇平さんが、自分のそれまでの中也論も裸足で真っ青になって逃げ出すくらいの卓論名文であると絶賛しているのです。
蛇足ながら、この中原という言葉は、中原中也の中也と野原(ここでは音楽界)の中心とを掛けているのですね。

しかし音楽について一家言のあった昇平さんは、ただ秀和さんを褒めるだけでなく、自分が最近書いたハイドン論に自信があったらしく。それをぜひ読んでくれ、と頼んでもいます。
 そういえば大岡昇平は「モオツアルト」はもう小林秀雄教祖にまかせて、生涯をつうじてハイドンやバルトークに血道をあげ、現代音楽も聴きあさっていたことをはしなくも思いだした私は、いずれ昇平さんの音楽論もまとめて読んでみたいと思ったことでした。

♪文を読めば音が聞こえてくるそのような文を書きたし 茫洋

♪文を書けば己の血がでるそのような文も書きたし 茫洋

Tuesday, December 02, 2008

ビルギット・ニルソン著「ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯」を読む

♪音楽千夜一夜第50回&照る日曇る日第194回


ビルギット・ニルソンといえば、なんといっても20世紀を代表するワーグナー歌手ということになるであろう。

ただちに思い浮かぶのは、名物プロデューサー、カールショー、ゲオルグ・ショルティ、ウィーンフィルと組んだデッカの「指輪」全曲録音、1966年7~8月のカール・ベーム指揮バイロイト祝祭soによる素晴らしい「指輪」の全曲ライブ演奏、同じメンバー+相棒ヴィントガッセンとがっぷり4つに組んだ「トリスタンとイゾルデ」の空前絶後の名唱、翌年の春、死ぬ直前のヴィーランド・ワグナーの厳命でピエール・ブーレーズと大阪にやってきてアホ馬鹿N響相手にぶっつけ本番で歌ったトリイゾなどであるが、とりわけ私の心に突き刺さったのは1983年1月ニューヨークのメトロポリタン歌劇場創立100周年記念ガラコンサートに登場した彼女が、いきなり「ワルキューレ」第2幕の有名な「ホヨトホ!」の叫び声を上げた瞬間、超満員の聴衆が満腔の歓呼の声を挙げた光景だった。

ただひと声で満場を歓喜の坩堝と化すことができるのは、世界に名歌手多しといえども「オテロ」のデル・モナコとビルギット・ニルソンだけであろう。

この本はそのスウェーデン生まれのソプラノ歌手ビルギット・ニルソン(1918-2005)の自伝である。

田舎の牧場の娘がふとしたことから音楽の道に入り、ストックホルムのオペラハウスを振り出しにウイーン、スカラ座、メット、バイロイト、テアトル・コロンなど世界の有名オペラハウスや音楽祭に出演するようになり、ワーグナー作品をはじめ、トスカ、トゥーランドット、アイーダ、仮面舞踏会、マクベス、サロメ、エレクトラなど大作の主役を演じるようになり、エリッヒ・クライバー、フリッツ・ブッシュ、クナパーツブッシュ、カイルベルト、ベーム、カラヤン、ショルティ、クレンペラー、ラインスドルフ、クロブチャールなどの棒で歌うようになる。(余談ながらカイルベルトとクロブチャールの指揮に対する彼女の高い評価にいたく共感)

彼女の徹底したカラヤン嫌いの理由、クレンペラーからいきなり「独身?」と口説かれる話など、世界の一流指揮者の実力と人柄に生身で接したリアルな月旦評も抜群の面白さだ。

その間彼女が共演したビョルディング、フランコ・コレッリ、ホッター、カラス、テバルディ、レオンタイン・プライス、シオミナート、ディ・ステファノなどの名歌手たちの逸話、彼女を生涯にわたって追いかけたマリリンモンロー似のストーカー悲話も興味深いものがある。

例えば、彼女とフランコ・コレッリがメットの「トゥーランドット」で繰り広げたハイC競争は壮絶なものであったらしい。
そのほとんどはコレッリが勝ったらしいが、たった一度だけニルソンが勝利した時のこと、コレッリが姿を消したので支配人のルドルフ・ビングが捜したところ、コレッリは怒り狂って拳骨でテーブルを力任せに叩いて血だらけになり、コレッリ夫人が救急車を呼ぼうとしていた。しかしまだもう1幕残っていたので、ビングが「次の幕でトゥーランドットに口づけするときに噛みついて復讐しろ」とささやいて彼を舞台に立たせ、自分は逃げ出したという。
指揮者のレオポルド・ストコフスキーはそんなことがあったとはなにも知らなかったそうだが、あとで演出家からピングの悪知恵を聞いた彼女は、支配人に宛てて次のような電報を打ったそうだ。
「噛まれて負傷したために、次回公演はキャンセルします―ビルギット」


クラシックのアーチストの評伝はどれも当たり外れがないが、この本は著者の誠実さ、温かな人間性と巧まざるユーモア、そしてなによりも音楽への愛と献身が際だっていて、読む者がたとえ耳に一丁♪なき音痴であったとしても、そのささくれだった心の裡をほのぼのとした気持ちに変えてくれるに違いない。

♪時代も世紀も煎じ詰めればこの一瞬のわれらの行状に尽きる 茫洋

Monday, December 01, 2008

川口マーン恵美著「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」を読む

♪音楽千夜一夜第50回&照る日曇る日第193回

そのように性急に二者択一を迫られると困ってしまう。

私の答えはもちろんフルトヴェングラーに決まっているのだが、だからといってカラヤンの演奏も特にオペラには素晴らしいものが目白押しである。クラシックの演奏家のリストからこの才人を抜かせばそのあとはかなりさびしい姿になるに違いない。特にかつて吉田秀和氏が推薦していたカ氏の晩年のモーツアルトのセレナードの演奏は老鶴万骨枯れたしみじみとした、当世はやりの言葉でいうと泣かせる演奏だった。

この本の面白さは、ベルリンを五回訪れた著者がまだかろうじて存命中の延べ一一人のベルリンフィルの演奏家たちに数度のインタビューを敢行し、かつての統領の人柄や力量について遠慮なく尋ね歩き、予想外の率直な回答を引き出したことにある。クラシックファンにとって面白くないわけがない好企画である。

インタビュー直後に急死した名物ティンパニー奏者のテーリヒンは有名なカラヤン嫌いであるが、カラヤン好みの正確無比の太鼓叩きフォーグラーの登場によって一九七九年六月以降の全ライブと録音から外された彼が怒り狂ったのは当然だとしても、その背景には情動の一撃か精巧の打刻かというこの世界最高のオーケストラに君臨した双頭の鷹の演奏哲学の違いが生んだ不可避の悲劇ではなかっただろうか。

しかし、栄華を誇った英雄の晩年はいずれも孤独で悲しい。

フルベンはその晩年に聴力を失うという現実に直面して完全に生きる気力をなくし、そのあとの衰弱は極めて急速で、死ぬ前に夫人に「死ぬことがこんなに簡単とは知らなかったよ」といいながらまるで自殺のように息を引き取ったらしい。

またカラヤンは一九八四年の大阪公演では、曲を振り間違え、スカラ座ではアンコールをバッハの「アリア」に決めていたのにマスカーニの「友人フリッツ」のつもりで振り始め、一九八八年の最期の日本公演における「展覧会の絵」は誰の耳にも無残な演奏であった。その極めつけはザビーネ・マイヤー事件にはじまる手兵ベルリンフィルとの対立と永訣であったが、それは誰あろう帝王カラヤン自身が招いた悲劇であった。(第一三章フィンケ氏との対話)


慨嘆しつつこの本を読み終わった私は、気を取り直して元楽員の多くが激賞しているフルベンのシューマンの四番とラベルを聴きなおしてみたいと思ったことだった。


♪フルベン王は死せり後は洪水垂れ流すのみとカラヤン嗤う 茫洋

秋日掃苔

バガテルop74

秋晴れの午後、池袋のフジフィルムにデジカメの修理に行ったら、1時間もかかると言われた。およそ半年おきにCCDにゴミが溜まるのである。そのたびにはるばる池袋くんだりまでやってきてゴミ掃除をしてもらうのだが、これって欠陥商品ではなかろうか?

いままでのカメラではこんなことはなかったのに、また鳥取砂丘に旅行したわけでもないのに、いったいどうしたわけだろう。まったくやれやれである。

その代わりにといっては何だが、この近所に私の大好きな往来座という古本屋さんがある。海外文学は扱わない代わりに本邦の文学や映画、美術関連が充実しており、いつ行ってもヴィクターの古いけれどもよい音を出すスピーカーSX3からボブディランの音楽が流れている渋いお店であるが、若くて清潔な感じがする店主に道を訪ねて久しぶりに雑司ヶ谷霊園まで足を運んで私の唯一の趣味である掃苔を楽しんだ。

1-1区画にはわが敬愛する荷風散人、漱石が「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」と一代の絶唱を詠んだ大塚楠緒子、小泉八雲、泉鏡花などが長い眠りに就いている。私は彼らの墓石の上に降り積んだ銀杏の葉を両の掌で払い落して霊前に額ずくことができた。

永井荷風は三ノ輪の浄閑寺に葬られることをのぞんだのだが、幸か不幸か窮屈な一角に眠っている。ハーンの墓もとってつけたように狭い。楠緒子さんは法学博士の夫と仲良く並んでいる。

秋の日はつるべ落しにぐんぐん沈んでいく。私はこの近所にある小栗上野介、岩瀬忠震、成島柳北、中村是公と漱石、森田草平とケーベル博士の墓前には欠礼して黄昏の霊園を後にしたのであった。


夕焼けの公孫樹の下に眠りたり雑司ヶ谷なる大塚夫妻  茫洋

 

Saturday, November 29, 2008

西暦2008年茫洋霜月歌日記

♪ある晴れた日に 第46回


ありがたやムラサキシジミの深き青

残し柿ひとつ残さず喰いにけり

亡き人の胸に塞がる菊の花

朝比奈の峠に斃れし土竜かな

生温し地震来るやうな風が吹く

きゃわゆいきゃわゆいとあほばか腐女子絶叫す

われかつて龍宝という名の上司に仕えたり

世を呪い人を恨みて満福寺

城破れ敗れ咲き遅れたる山椿 

七曲り曲輪より射るおおかぶら

大船や大きな船がいま沈む

残金は3万円と息子いう

人生はうれしやかなしやどですかで

人の世はさはさりながら愛ありて



さわに生りし
蒼き柚子の実
もぎ取れば
強かにわが指刺せり
その処女の実

屋根の上
アンテナ立て終えたる
2人連れ
風に吹かれて
煙草のみおる

降る雨の中
五人の職人が
家を
直している

夢の中で
眠りながら
星のやうに美しい歌を
うたっていた

窓を開ければ
くわんのんさまが見える
そんな部屋にて死にたい
と願いし老人

玉縄の
河の畔に巨樹茂り
猛き武将の
勲しとどめむ

今日TBSは死にました
と言いながら
TBSに出続けし人
死す

新橋の
ヘラルド映画の試写室で
よく顔合わせし人
昨日死にけり

熊野神社の参道で
ひたひたひたと
私をつけてくる
者がおる

労働に
捧げられたる献身を
さも尊しと
見做しおる我

いい歳したあほばか腐女子が
大口開けて
きゃわゆいきゃわゆい
と叫ぶなり

さあ働け、
働けば天国の門は開かれる

誰かがささやいている

いま聴きし
グラン・フィナーレが高鳴るよ 
鎌響定期
マーラー5番

マーラーの
アダージェエット聞けば
われは蝶 
海の彼方に
一人旅立つ

黄色い顔に白き嘴
ピラカンサ啄ばみて
ピーと鳴きし
細身の鳥の名をば知りたし

ジャンプ一番
ようやく掴みし烏瓜
ひとつはつまに
ひとつは吾子に

授業せねばならん
本読まねばならん
あほ原稿書かにゃならん
病院いかにゃならん
いったいどうせえちゅうんじゃ

我が庵に
いつしか住みける
矢守ありて
雨戸を閉めれば
キュウと泣きけり

井守と家守を
間違えし
五歳の吾子が
なつかしきかな

だって
いつだってあえるじゃない
といいながら
死んじまった

市ヶ谷の
タヌキ屋敷を訪ぬれば
帝国軍人
健在なりき

枚方の
厚物咲きの菊人形
曽我兄弟が祐経討てり
 
丹波なる
綾部の街の由良川の
ほとりに咲きし
大輪の菊

ト短調
モーツアルトが
泣きながら
歌っている

Friday, November 28, 2008

大船フラワーセンターを訪ねる

鎌倉ちょっと不思議な物語第158回

大船には神奈川県立の大きな植物園、大船フラワーセンターがある。ここは観賞植物の生産振興と花卉園芸の普及を目的として、昭和37年に神奈川県農業試験場の跡地に開設されたが、大正時代からこの地で改良・育成された170種の芍薬、200の花菖蒲や360の薔薇、50の石楠花や躑躅、100の牡丹、300の洋蘭、200の椿、40の桜などを中心として四季折々におよそ5千余種の植物が公開されている。
この節はやたらと背が高くて大きな青い花が咲くテイオウダリアが人気だそうだ。

私が訪れた11月の下旬は恒例の菊花の展示会が開かれていたが、一口に菊というても、これほど多種多彩な菊の仲間があるとは夢にも思わなかった。多年にわたる品種改良の賜物なのであろう。

私はロティのお菊さんやベネディクトの「菊と刀」、漱石の三四郎の団子坂の菊人形見物の浪漫的なくだりを思い出しながら、コンテストに当選した華麗なchrysanthemumの数々を眺めていると、いつのまにかその強烈な芳香に頭が次第にのぼせていくのを覚えた。

菊は見た目も典雅であるが、その匂いがまた格別香ばしい。少年時代にたった一度だけ見た枚方の大規模な菊人形の圧倒的な展示を前にして、生まれて初めて花に酔った記憶が突如よみがえったことだった。

枚方の厚物咲きの菊人形曽我兄弟が祐経討てり 茫洋

丹波なる綾部の街の由良川のほとりに咲きし大輪の菊 茫洋

特報! 横浜アート&ホームコレクションを見る

照る日曇る日第192回

今日と明日の2日間限定で横浜桜木町・みなとみらいの住宅展示場で面白い展覧会が開かれている。積水、住友林業、三菱地所、ダイワハウスなど全部で17の展示棟のなかで、小山登美夫ギャラリー、児玉画廊、東京画廊、南天子画廊など東京の代表的なギャラリーがそれぞれの傘下の作家の作品を展示・即売しているのである。

伝統的なタイプからスエーデンハウスなどの2×4などモデルハウスの内装やしつらえも種々様々なのだが、それらのインテリアにうまく調和させた個性的な油彩、アクリル、水彩、オブジェ、ビデオ・インスタレーションなどの作品群が、リビングやキッチンやバスルームなどの思いがけないコーナーに展示してあるので、家つくりを研究しているひとも、ビジネスマンや学生の現代美術ファンも思い思いに楽しめる新機軸のイベントである。

私も半日かけてすべてのハウスと作品をじっくり眺めて、今帰宅したところだ。奈良美智や東芋など著名作家の作品も出品されていたが、私のお眼鏡に叶ったのは、三菱地所ホームに展示されていた佐々木健のランプやアンプやブルドッグのアクリル画で、それらがたった5万から15万で買えるとはいくら絵画バブルがはじけた直後とはいえあまりにも安すぎるのではないかと思ったことだった。

明日29日土曜日の午後2時と4時からは2つのトークセッションも予定されているようだ。


→横浜アート&ホームコレクションhttp://www.yaf.or.jp/yahc/#wrapper

Thursday, November 27, 2008

玉縄城に登る

鎌倉ちょっと不思議な物語第157回

玉縄城は天然の要害の地である丘陵に空堀や土塁、曲輪などの防衛施設を備えた山城であった。

本丸址は現在の清泉女学院の校舎、校庭の位置にあたるが、昔日の面影はない。ただ清らかな婦女子の嬌声が秋空にこだましているばかり。かろうじて中世鎌倉の雰囲気を漂わせているのは広大な「七曲り」の谷戸、樹木に覆われた「ふわん坂」、高地にある陣地の「諏訪壇」のみである。

「七曲り」は、急坂でいくつにも折れ曲がっているのでこの名がある。玉縄城に上り詰めた両側は土塁となり、土塁の内側の平場(曲輪)で下から攻め上がる敵を攻撃し、城を防御できるようにしていたが、これは同時期の朝比奈峠でも同様である。

「ふわん坂」は急斜面の坂で、かつてはその両側に曲輪があり、登ってくる敵を弓で迎え撃った。

「諏訪壇」はかつて本丸の東側にあった長方形の土塁で、玉縄城の最高地にあって見張りの役を果たしてゐた。ここは城主の最後の避難場所でもあり、現在市役所のちかくに移転した諏訪神社が守護神として祭られていた。

♪七曲り曲輪より射るおおかぶら 茫洋

Wednesday, November 26, 2008

玉縄城址

鎌倉ちょっと不思議な物語第156回

玉縄城は戦国時代の典型的な山城で、「当国無双の名城」として知られていたが、現在は学校や住宅の造成で昔日の面影はほとんど失われている。

 この城の築城と戦歴は以下のごとし。

1512年永正9年 北条早雲(伊勢新九郎)が三浦道寸攻略のために築城。

1526年大永6年 安房の里見氏が鎌倉に乱入し、初代城主氏時が戸部川(現柏尾川)のほとりで防戦。(前前回の玉縄首塚周辺参照)

1561年永禄4年 上杉景虎(謙信)が小田原を攻めあぐみ鶴岡八幡宮へ参拝し、管領になった報告をしようと鎌倉に引き返したとき、2代城主綱成の玉縄城を攻略しようとしてまたも果たせず越後へ引き返した。

1569年永禄12年 小田原攻めのとき、甲州勢は玉縄城北方を素通りし、藤沢の大谷氏の砦を落とす。

1590年天正18年 豊臣秀吉の小田原攻めのとき、4代城主氏勝は山中城に援軍したが落城したことを恥じ玉縄城に籠城。このとき秀吉の命で徳川家康は氏勝の叔父にあたる大応寺(前回登場の龍宝寺)の住職良達を通して降伏を説得し、開城となった。玉縄城はその後水野正忠に預けられたが1619年元和5年廃城。


♪城破れ敗れ咲き遅れたる山椿 茫洋

Tuesday, November 25, 2008

龍宝寺にて

鎌倉ちょっと不思議な物語第155回

鎌倉氏の資料によれば、この曹洞宗のお寺は玉縄城第2代の城主北条綱成が建てた瑞光院がはじまりであったが、1575年天正3年に4代城主氏勝が3代城主の氏繁を弔うためにこの地に移し、氏繁の戒名によって龍宝寺として建立したそうである。

創建以来玉縄北条氏の菩提寺で、綱成、氏繁、氏勝の位牌もここに祀られている。境内には江戸時代の典型的な建築物である旧石井家住宅が移築されており、さらにこの近所に住んでいた新井白石の碑もあった。

古拙の趣がある典雅なお寺で、境内には多くの花や樹木が植えられていた。山門の後ろにはかつての玉縄城の諏訪壇を望むことができる。

♪われかつて龍宝という名の上司に仕えたり 茫洋

Monday, November 24, 2008

玉縄首塚周辺

鎌倉ちょっと不思議な物語第154回


さて大船観音の高台を降りた私は、これからこの地域を支配した武将たちの拠点である玉縄城をめざすのだが、その途中の路地に昭和初期の瀟洒な建物を発見した。日本で初めて駅弁をつくった「大船軒」の社員寮である。その入口には、アールデコ風の飾りがあった。

この「大船軒」のオーナーは有名な鎌倉ハムの製造者富岡氏で、その立派な邸宅もその近所にあった。ちなみに我が国のハム製造技術は、明治7年に英国人ウイリアム・カーチスがもたらしたという。

大船軒と鎌倉ハムゆかりの地のすぐそばにあるのが、玉縄首塚である。

鎌倉市の資料によれば、一五二六年に安房の武将里見氏が鎌倉に攻め込んだとき、玉縄城主であった北条氏時は、渡内の福原氏やここ大船の甘粕氏とともに防戦したという。激しい戦闘が数度行われ、彼らは里見の軍勢をようやく追い払ったのだが、甘粕氏などおよそ三五名がここで斃れ、彼らの首を祀ったのがこの場所だった。

毎年八月一九日の玉縄史跡まつりには、塚の供養やこの傍らを流れる柏尾川で慰霊の灯篭流しが行われるという。

    ♪玉縄の河の畔に巨樹茂り猛き武将の勲しとどめむ 茫洋

Sunday, November 23, 2008

「大船」考

鎌倉ちょっと不思議な物語第153回

ところで「おおふな」という地名は、どこから来ているのだろうか?

縄文時代の大船はもちろんその大半が海没していたが、ほんのわずかな高地だけが現在の相模湾の岬を形成しており、そこには縄文人が棲んで魚介を収集して生活していた。

彼らは我々の想像を超えた偉大な航海者でもあり、当時としては非常に進んだ造船技術を駆使して縄文船を製造し、列島各地を海上交通していたが、ある日のこと現在の大船観音あたりに立って南の海上を遠望していた縄文人たちが一艘の丸木舟を発見し、「嗚呼船!」(oo fune!)と叫んだのだが、この感嘆符がなまって現在の「大船」という地名になったと言われている。

しかし私自身は、それよりも鎌倉の三代将軍実朝が宋に渡ろうとして由比ガ浜の海に造らせた巨大な渡宋船からその名が来ていると考えたくて仕方がないのである。


♪大船や大きな船がいま沈む 茫洋

Saturday, November 22, 2008

大船観音詣

鎌倉ちょっと不思議な物語第152回

大船駅の上に聳えている白亜の巨像がこの“くわんのんさま”です。

市の資料によれば、1929年昭和4年に永遠平和のために地元有志がその建立に着手し、1934年昭和9年に像の輪郭ができあがたそうです。私のおぼろな記憶では、その基本デッサン作業には彫刻家の朝倉文夫さんも加わっておられたようです。

その後戦争などにより未完のままになっていたのを、戦後曹洞宗永平寺管長の高階禅師らが中心となり大船観音協会が設立され、1960年昭和35年に完成し、1981年昭和56年からは曹洞宗の大船観音寺になった、そうです。

それはどうでもいのですが、ここ大船周辺には曹洞宗、北鎌倉から鎌倉には建長寺、円覚寺など臨済宗のお寺が多く、同じ禅宗とはいえ鎌倉時代からお互いの教線がするどく対峙していたことがうかがえます。

大船観音に実際に上って見ると、かなりの急坂で、少し息が上がりましたが、すぐに頂上に達し、そこからは駅や電車やビルや山々をのぞむことができます。
改めて“くわんのんさま”のお顔を拝しますと、さすがに慈愛に満ちたかんばせです。けれど、なにやらいまひとつ物足りない。できたら今は亡き岡本太郎先生に登場していただきたかったと思わないでもありませんでした。

晴れ上がった秋の空に伏し目がちに慈愛の眼差しを注いでいる“くわんのんさま”を眺めているうちに、こんなことを思い出しました。
私は25年ほど前に、鎌倉で住まいを捜していましたが、ある時地元の不動産屋さんが「どこでもいい。“くわんのんさま”のお姿が拝める部屋に住みたいと願っているお年寄りがいるんです。変わった人ですな」と嘲笑っていたのです。そのときこの私までもが破廉恥にもえへらえへらと憫笑してしまったことが今になって悔やまれます。

あれほど親切に、あれほど多くの物件を一緒に探してくれたのに、私は結局その不動産屋さんの世話にはならずに別の業者の紹介で現在の家を手に入れたのですが、彼の自慢の美人の奥さんも数年前に亡くなり、近所にある彼の家は障子の紙は破れ放題になって秋風に震えています。歳月を経て老人の心のありようについていささか思い知らされた私たちですから、いまなら彼も黙ってそのような条件の部屋を熱心に捜してやったことでしょうに。

あのとき話題になった老人は、どこかこの近くのアパートでも見つけることができたのだろうか。そしていまなお健在なのだろうか、と私はトンビが“くわんのんさま”の頭上をくるりくるりと飛び回る高台で考えたことでした。


♪窓を開ければくわんのんさまが見えるそんな部屋にてわれも死にたし 茫洋

Friday, November 21, 2008

黒澤明の「どですかでん」を見る

照る日曇る日第191回

黒澤の「どですかでん」は昔一度見たきりで、あまり良い印象を受けなかったが、今回は随所に映画を見る楽しみが転がっていた。

この映画では、冒頭で頭師選手演ずる障碍少年が登場してドデスカデン、ドデスカデンと架空の電車を走らせるのだが、実際はその前に法華経の熱烈な信者である母親の菅井きんとの奇妙なやりとりがある。

母親は息子の知的障碍を苦に病んで、彼がこの障碍から回復してくれることだけを日蓮上人に祈願して♪南無妙法蓮華経を絶叫しているのだが、そんな訳があるとは露思わない六ちゃんは、訳もわからずに♪南無妙法蓮華経を絶叫するクレージーな母親の病の治癒を心から願っており、結局は親子二人で♪南無妙法蓮華経を絶叫するというナンセンスに着地するのだが、最初見た時、私にはそのナンセンスが下手くそでただのつまらぬナンセンスであるとしか思えなかった。

実際にはこの映画は、キャメラがそこからパンしていくと私の好きな武満徹による私の嫌いなギターが奏でる哀愁に満ちた主題歌が流れてこの映画のプロローグを形作り、およそ二時間後の同じ趣向によるエピローグと対をなしてこの山本周五郎原作の長屋物語の幕を閉じる。

その間に伴淳三郎による涙なしでは見られない夫婦愛の異常な発露、芥川比呂志と奈良岡朋子による新派風ホラー悲劇であるとか、幻想の建築ゲームに酔いしれて子を犠牲にしてしまう乞食とか、暴れん坊ジェリー藤尾の乱暴を見事におさめる長屋の長老渡辺篤などの怪演技が次々に我々を楽しませてくれるのだが、当時の私はもはやそのような本編の多彩なエピソードに魅入られることはなかった。

この映画が製作されたのは一九七〇年であるが、ここに登場する六ちゃんやら乞食の三谷昇によって死に至らしめられる少年の悲しみをほんとうに理解するためには、この映画を見てから何年も経って私と家族が六ちゃんのお仲間となってそういう身の上の切実さを身をもって知ることができてからのことだった。

♪人生はうれしやかなしやどですかでん 茫洋

小動神社と太宰治

鎌倉ちょっと不思議な物語第151回


私は、まだ腰越界隈を漂流しているのだった。

気がつけば、ここは源氏の武将佐々木盛綱ゆかりの小動神社である。私の実家と同じ御紋が甍の上に燦然と輝いている。「鎌倉志」によれば、古来この神社の山の端には海辺へ突き出た松の木があり、風もないのに常に幽かに動いているので「こゆるぎの松」と称したという。

私は本殿のたもとに今もそびえている松の木の葉をじっと見つめた。確かに松の木は枝は枝として、葉は葉としても小刻みに揺れ動いているやに見える。しかし神社の周囲は幸か不幸か秋風が立っているために、この微動が物理の現象なのかそれとも神事であるのかはついに見定めることができなかったのである。

神社の境内が尽きるとそこはもう腰越の海だった。思いっきり首を伸ばして切り立った断崖の真下を覗き込むと岩礁が荒波に打たれている。小動岬だ。
昭和5年1930年、帝大生太宰治が銀座のカフェーの女給田部シメ子とカルモチン自殺を図ったのがちょうどこの黒く光る岩の上だった。
その体験が「道化の華」を生んだが、事実は小説とは違って2人は荒れ狂う波間に飛び込んだのではない。大量のブロバリン(カルモチン)を服用し、若い男は生き残ったが、女は死んだ。

幾度も自殺を試みたこの作家は、昭和23年1948年山崎富枝に縛せられて玉川上水の露と消えたが、惜しみても惜しみてもなお余りある非業の死であった。当時の太宰が作家として絶好調にあり、みじんも自殺する意思がなかったことは、彼の遺作「グッド・バイ」の最終回を読めば歴然としている。彼は彼の弱さによって馬鹿な女に殺されたのである。

太宰がどれほどの天才であったかは、死の前年に締め切りに迫られて、新小動潮社の野原一雄の目の前でビールを飲みながら口述筆記させた短編「フオスフオレセンス」を読めば2002年の2月に死んだ我が家の愛犬ムクにだって分かるだろう。この荒技ができるのは、太宰のほかにはスチーブンソンだけだろう。生れながらの小説家とはこういう人のことを言うのだ。

では諸君、読んで見給え。短いから2分で読めます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/310_20192.html


「なんて花でしょう。」 と彼にたずねられて、私はすらすらと答えた。
「Phosphorescence」

ところがこの花が永遠の謎の花であるところがまた素晴らしい!




♪さわに生りし蒼き柚子の実もぎ取れば強かにわが指刺せりその処女の実 茫洋

Wednesday, November 19, 2008

雑賀恵子著「エコ・ロゴス」を読む

照る日曇る日第190回


「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら私たちを未踏の領域に導いていく。

「最初の食欲」では食べるということの本質が解き明かされ、「遥か故郷を離れて」ではカインとアベル以来私たちが殺してきたものを見つめ、「草の上の昼食」、「パニス・アンジェリクス」では大戦中の兵士や船長が直面した殺人と食人の現場における「倫理」のありかについて光を与え、「ふるさとに似た場所」では、私たちの生の本質は「骰子一擲」であり、その不断の歩みに回帰すべき場所はないこと、「嘔吐」では私たちが他者、他の存在とかかわる劇場の中で生きていること、「舌の戦き」では舌が他者との交通の歓びを味わい、その快楽の記憶を呼び起こす器官であること、「骸骨たちの食卓」では、私たちがたとえ檻の中に捕われたカフカの「断食芸人」であろうとも観客の眼差しとは無関係に愚鈍に生きるべきこと、「ざわめきの静寂」では私たちは瞬間毎に新たに立ち現れる存在であること、が叙事詩のように力強く、抒情詩のように美しく語られる。

そして著者が終章において、まるでサッフォーのように、あるいはまた「星の海に魂の帆をかけた女」のように次のように語るとき、私たちはこの誠実で真摯な探究のひとまずの結論を、大いなる共感とともに受け止めないわけにはいかないだろう。

「言語を持ったわれわれは、歴史を持つ―すなわち過去を振り返り、傷みを感じつつ検証することが出来るということでもある。わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれるものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は、絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むものなのだ。」

「生きるとは、ともに在ることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。…言葉でもって、生きる場所の論理を語ること。確かに、それは、どれほどの試みを積み重ねても、失敗し続けるだろう。だが、言語によって、われわれは歴史をもったとともに、未来というものをわれわれの思考の中に導き入れたのだ、未来、希望というものを。」

この本は、著者の存在を賭した精神の大旅行記というべきだろう。


♪屋根の上アンテナ立て終えたる2人連れ風に吹かれて煙草のみおる 茫洋

満福寺徘徊

鎌倉ちょっと不思議な物語第150回

江ノ電の線路をまたいで松の茂った急な階段を見上げると、そこは義経の腰越状で名高い満福寺であった

元暦2年1185年、平家を壇ノ浦に滅ぼし鎌倉へ凱旋してきた義経は、この寺に滞在して兄の怒りを解くべく一通の書状をしたため、これを大江広元に託した。しかし梶原景時の讒言によってついに兄頼朝との再会がかなわず、ここ腰越から泣く泣く京へ引き返したのである。

義経はそれからご存じのように奥州藤原氏に匿われたが、文治5年1189年6月の中旬、藤原泰衡によって衣川で討たれ、その首は百三十里をゆるゆると四十三日かけて鎌倉に送り届けられ、その首実験はところも同じここ満福寺において梶原景時と和田義盛によって行われた。

この両名はいずれも数年後には北条氏の陰謀によって撃滅窮死せられる御家人であったが、おりしも八月初旬の暑い盛りの節だったから、いくら義経の首が酒にとっぷり浸されていたとはいえ、その形状は原形をとどめず、その発する腐臭は耐え難いものだったろう。

ゆえに後世ここから偽首ではないかという嫌疑が生じ、さらに大きく逸脱して義経ジンギスカン説などの浪漫伝説を生むことにもなったいわくつきの寺であるが、いまなお境内も本堂もどことなく怪しくいかがわしい空気がみなぎっている。

本堂の甍にはなんと源家の文様の瓦が載せてあるし、弁慶が書いたと伝えられる腰越状の下書きにしても醜い褐色にたらしこまれ、真贋いずれとも判別できない。しかし念の入ったことには弁慶の筆をうるおした硯の水を汲んだ池まで現存しており、数匹の緋鯉まで泳いでいるとあっては、もはや何をかいわんや、であった。

池の突き当りは広大な墓地になっており、墓地の上の小高いところには義経旅館と料亭まで兼備されているのでお暇の方はぜひ訪れられよ。


♪世を呪い人を恨みて満福寺 茫洋

Tuesday, November 18, 2008

腰越界隈

鎌倉ちょっと不思議な物語149


腰越は鎌倉の空虚なにぎわいからきっぱりと遠ざかり、山と川と海のすぐそばにへばりついた漁村であるが、時折潮風に吹かれて江ノ電が通りの真ん中を勢いよく走るとき、なにやら嬉しそうな表情を浮かべるのである。

ここには昭和の初期に昔肺浸潤を患った山本周五郎が療養を兼ねて住んでいて、商店街のまんなかへんにある「いずみや」という西洋料理屋でハムエッグやらハンバーグだのを生まれてはじめて口にしたそうだ。

私たちは「いずみや」の旧跡あたりで生イワシを15匹500円で買い、その近くの一〇銭飯屋でとれたての生シラスの丼を頂いてその日の午餐としたのであった。

♪ありがたやムラサキシジミの深き青 茫洋

Monday, November 17, 2008

川上弘美著「風花」を読む

照る日曇る日第189回

そんじょそこいらのどこにでいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置する。これこそ当代一流の文学者の凄腕だろう。

その平成恋愛小説史上最高といわばいえるような、壮絶にして超クールなめくるめくラストシーンを引用するかわりに、ここでは小説のプロットとはあまり関係のないこまかな描写をいくつか書いておこう。

―「なに見てるの」卓哉が突然聞いた。
え、とのゆりは聞き返す。
「魚みたいな目をしてる」
さかな。のゆりはよく訳が分からないまま、卓哉の言葉を繰り返す。(中略)
さかなは、かわいいよ。夜中のしんとした部屋の中で、のゆりは声に出して言う。それから、頭をぶるっと振る。

―のゆりが取ったキスの天ぷらは、天つゆにつけたとたんに、しなりとのびひろがった。


―のゆりはその無言電話がかかる一瞬前に、電話がかかってくることを予見できる。音はまだ鳴っていないのに、空気が揺れたりするわけでもないのに、なんとなく電話全体がふくらむような感じに、なるのだ。

―「おいしそうだね」
のゆりが声をかけると、男の子は恥ずかしそうにうつむいた。それからすっと顔を上げ、「おいしいねん」と、はきはき答えた。

―ホテルに着いたのは午後遅くだった。(中略)部屋はシングルで、メネラルウオーターの瓶が一本、テレビの横に置いてあった。

―わん、という音がして、向かいのホームの前を下りの新幹線が通り過ぎた。一瞬、空気が大きくたわむ。


神は細部に宿り、作家はその細部を、神の降臨を待ち望みつつ永遠に紡ぎ続けるのである。


♪夢の中で眠りながら星のやうに美しい歌をうたっていた 茫洋

Sunday, November 16, 2008

マーク・ストランド著・村上春樹訳「犬の人生」を読んで

照る日曇る日第188回

著者は一九三四年、カナダのプリンス・エドワード島生まれ。アメリカ現代詩界の代表的存在だそうであるが、彼の初の短編小説集が本書である。

当たり前のことであるが、短編はともかく短いから長編と違ってすぐに読めてしまうのがよい。この本に集められた作品の多くは短編というよりは掌編というべき短さなのですらすらと読めてしまうのだが、プロットも文体も普通の小説家のものとは相当違っているので大いに面喰う。

例えば表題作では「ヴラヴァー・バーレットと妻のトレイシーは、キングサイズ・ベッドに横になっていた」という素敵な書き出しから始まり、「彼がそのとき口にしたことは、もう二度とふたりのあいだで持ち出されることはないだろう。それは慎み深さ故でなく、あるいはまた相手を思いやってのことでもない。そのような弱さの露呈は、そのような抒情的なつまずきは、あらゆる人生において避けがたいことであるからだ」というところで終わるのだが、その間わずか新書版サイズの本で五ページにも満たない短さである。

しかし、この最短距離で慌てず騒がずゆったりと語られる西洋版「父母未生以前」の物語のなんと神秘的でなんと喚起的で、なんとシリアスなことよ。目が眩むような幻想と氷のような冷鉄の相反する世界を男女の背中越しに魔術的に貼り合わせている。

もちろんそのほかの作品もとても興味深いものがあるのだが、ここまで書いてきて分かったことがある。それは彼の作品が他の短編作家と違うのは、最後の一行、最後の一句で完結しない、ということだ。いかにも詩人が書いた小説である。


♪残金は3万円と息子いう 茫洋

Saturday, November 15, 2008

吾妻鏡第4巻「奥州合戦」を読んで

照る日曇る日第187回


我が国に初めて武家政権を樹ち立てた二品頼朝に対する評価は高いようだが、吾妻鏡を読み進むとこの武士の人間性がだんだん厭になるような気がするのは、後に源家を簒奪した悪辣非道な北条氏がこの歴史書を編纂したからだろう。

しかし平家追討、殲滅に多大の貢献をした弟の伊予守義経や、それほどの武勲はなかったが義理の兄の代理として西国を連戦した範頼への冷酷極まりない処遇には、冷徹非情な政治家の決断を褒めそやす以前に、大いなる違和を覚える。

所詮この男は老獪な北条時政や梶原景時などの側近に目を眩まされ、己の真の敵と味方とを弁別できず、己の内部に異端や外様や取り込んで清濁併せ呑むことができなかった悲劇の将軍ではなかっただろうか。

とりわけ平家掃討戦に軍の矢面に立たなかったくせに、伊予守の殺戮を命じてやむを得ず実行した藤原泰衡の追討には中央軍の陣頭指揮を取っており、なにもそこまでしなくとも、という気がするのである。

藤原氏征討直後の文治五年一一月一七日、二品は藤沢市の大庭御厨の近くで一匹の狐に遭遇する。数十騎で取り囲み、頼朝が弓矢を番えてヒョウと射たところ、彼の矢は当たらず、傍から射た弓矢の名人篠山丹三の矢が狐の腰に当たった。頼朝はそのことを知りながら、「命中した!」と声を発した。

すると丹三は忽ち馬より降りるや頼朝の矢を己の矢と入れ替えて狐に立て、これを掲げて二品に奉った。翌日御所に帰還した頼朝は、丹三を召し出して側近く使えるように命じたというのであるが、これほど嫌な話もない。

頼朝という人のほんとうは、結局この程度の者であったと思わないわけにはいかない。


♪亡き人の胸に塞がる菊の花 茫洋

Friday, November 14, 2008

雑賀恵子著「空腹について」を読む

照る日曇る日第186回

新進気鋭の科学者にして社会思想家による構想雄大、真率にして繊細、知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセーである。

「あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。
たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いた時の心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守番電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。
そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている」

という文章に接した人は、もうどうあってもこのあまりにも魅力的な詩文ファンタジーの世界の扉を押さないわけにはいかないだろう。

まず「なぜお腹が空くのか?」と考え始めた著者の夢想と空想は、次いで「なにが美味しいのか?」という考察に向かい、ここで突如「残飯をめぐる歴史的研究」に転身し、最低辺の貧民や女工がどのように悲惨な食生活を強いられていたかを一瞥し、さらに軍隊における軍用食の問題に潜入すると、ついに脚気と食物の因果関係を認めようとしなかった頑迷な陸軍軍医鴎外森林太郎が日露戦争で多くの脚気羅病者を出してしまったこと、「戦争をするために軍隊があるのではなく、膨れ上がり自国内部でもてあました空腹が他者を食いつぶすために戦争がある」と喝破するに至る。

 餓島ガダルカナルにおける悲惨な戦闘と絶望的捕食に触れた著者は、さらに「食人」の問題に言及進み、我が国で古来幾多の大飢饉に際して食人が珍しくなかったにもかかわらず、わたしたちの現在の社会で食人が起こるとは想定されず、それを禁じる法律すらないという異常さを指摘する。そして「現在の地球人口と資源および生産形態から見れば、いずれ人体を食料資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出てくる」とカッサンドラのように不吉な予言をするのである。

 かつて学生時代のある時期に、動物実験で毎日のようにマウスやラットを数匹以上殺していたという著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と自問する。

 最後に、飢餓をはじめとする「世界の貧困」について、その歴史的政治経済的分析を終えたあとで、著者は次のように述べる。

「慎ましくも必要とされるのは、道徳ではなく、倫理である。正義の軸を設定し神殿に納め、それに礼拝跪して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身をひきはがし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理から想像を他者に投げかけること。そうしたエロスの投げる網によって他者の苦痛を新しく見出す営みを持続させること。それが知るということである。他者を理解することはできない。しかし他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである」

 このようにおぞましさと嘔吐と矛盾と困難と悲喜劇にみちあふれた、この毎日が世紀末の人の世を、著者は「生命体としてのわたし、身体をもつわたしに根ざしたこの倫理」をひしと抱きかかえ、冷酷非情の法-規範、道徳との狭間に立ちすくみながらも、「いま何をなすべきか?」とレーニンやハムレットのように胸に問いつつ、愛描綱吉と共に今日もけなげに前進しているのである。


♪人の世はさはさりながら愛ありて 茫洋

Wednesday, November 12, 2008

佐々木健“Score”展を見る

照る日曇る日第185回

曇天を冒して2つの展覧会を見た。ひとつは東京新宿区西落合の「ギャラリー・カウンタック」で今月15日土曜日まで開催されている佐々木健“Score”展である。

スコアというからすべて音楽や音符にちなんだコレクションかと思ったのだが、さにあらず。芽吹いたジャガイモやらカラフルな毛糸のセーターを着せられた可愛いブルドックなどもそこここに配置され、作者のたくまざるヒューモアをさりげなく体感させてくれる。

もちろんドラムス、ベース、アンプなどの楽器やドライバーなどの道具や機材もたくさん描かれていて、それらはほんらいは無機的な物たちなのだが、じっと見つめているとあたかも生命あるもののごとく陰微におののきはじめるような気がしてくるから不思議であり、やや不気味でもある。

私たちの日常にありふれたモノを凝視する作者のまなざしがそのモノをくしざしにするとき、モノはモノならざるものに変容し、なにやらなつかしい言葉を発しているようにも思える。作者はかつて無機を有機と化そうとしたアール・ヌーボーをば、この平成の御代に再来させようと試みたのであろうか。

http://gallery-countach.com/contents/exhibition/exhibition_frame.htm

なお今回の作品の一部は11月28(金)、29(土)日の2日間横浜市西区のみなとみらいで開催される「横浜アート&ホームコレクション」の三菱地所ホーム×Gallery Countachのコーナーでも見ることができる。

http://www.yaf.or.jp/yahc/#wrapper

もうひとつは閉幕間際の「大琳派展」。琳派関連は最近ものすごく増えたので、あまり期待しないで行ったのだが、質量とも最大規模の素晴らしいコレクション。光悦、宗達、光琳、乾山、抱一、其一ときて、やはり図抜けて、神がかって、偉大なのは俵屋宗達。その作品をこんなにどっさり見せてくれるなんて、ありがたや、ありがたや。これで死に土産ができました。

「風神雷神図屏風」もさることながら「源氏物語図」、「伊勢物語図」、そしてきわめつけは若冲をはるかに凌駕するシュールな「白象図・唐獅子図杉戸」(京都・養源院蔵)。神韻縹渺とはこの人のためにある言葉だろう。

Monday, November 10, 2008

龍口寺に向かう

鎌倉ちょっと不思議な物語148


江の島には行かずに、今日は龍口寺に向かう。ここは鎌倉時代に日蓮が蒙古来襲の折に北条政権に逆らったために平頼綱(1285年の霜月騒動で御家人筆頭の安達泰盛一族を皆殺しにし、1293年に自害した筆頭御内人)によって斬首されようとした場所である。

ところが一天にわかにかき曇り、天地がぱっと夏の白昼のように明るくなり、介錯の男がよろけて刀を取り落としてしまった。江ノ島の上空に闇を裂いて巨大な光ものが出現したためである。時に文永八年九月一二日夕刻、世に日蓮「瀧ノ口の法難」と称せられる。

一大宗教者の処刑を救うため天が奇跡を起こされたのであろうか。日蓮宗の創始者はからくも一命を取り留めたのであった。

本堂にはこのとき日蓮が敷いていた敷き皮が、境内には当時日蓮が幽閉されていた御霊屈が現存している。

龍口寺の創建は鎌倉時代ではない。1337年になって日蓮の弟子日法が粗末なお堂を作ったが、今日のような完成をみたのは江戸時代の初期に入ってからだから、比較的新しい建築だ。


♪鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大聖人 子規

新橋のヘラルド映画の試写室でよく顔合わせし人昨日死にけり 茫洋

今日TBSは死にましたと言いながらTBSに出続けし人死す 茫洋

Sunday, November 09, 2008

江ノ島遠望

鎌倉ちょっと不思議な物語147

江の島は、片瀬との間をつながれたり海で切断されたりして長い歳月を送ってきた。

明治時代の江の島は、小泉八雲が「日本瞥見記」で記したように、夢のようにのどかな浅葱色の海だった。

「江の島の、ちょうど対岸にあたる片瀬という小さな部落で、われわれは人力車を乗り捨てて、そこから徒歩で出かける。村と浜のあいだに小路は、砂が深くて、くるまを引くことができないのだ。われわれよりも一足先に来ている参詣者の人力車も、幾台か村の狭い往来で待ち合わしていた。もっとも、この日、弁天の社に参詣した西洋人は、わたくしひとりだそうだ」

同時代の正岡子規は、あの短かすぎた悲壮な生涯で、2度も江ノ島を訪れているが、最初はたしか文科大学の一年生の頃で、当時落語と漢詩に打ち込んでいた漱石と一緒だったと記憶している。彼らは暴風雨を冒して八幡宮、大塔宮この景勝の地に渡ったのであった。

だから次ののどかな短歌は、その時ではなく二回目に病床にあった鎌倉の友人を見舞った折の歌に違いない。

   江の島へ通ふ海原路絶えてみちくる春の汐の上の雨

寄せては返す波のうねりに乗って繰り広げられる美しく古式豊かな日本の歌の調べは、
中原中也が口ずさんだチャイコフスキーの「四季」の舟歌のメロディを思い出させる。

そしてその細やかで抒情的な音律は、3代将軍実朝による好一対の春秋の歌

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に浪のよるみゆ

にもどこか遠いところで通底しているようだ。

*資料提供は鎌倉文学館


♪生温し地震来るやうな風が吹く 茫洋

Thursday, November 06, 2008

保坂和志著「小説、世界の奏でる音楽」を読んで

照る日曇る日第184回

とりあえずは大仰なタイトルといかにもな表紙の写真に辟易させられるが、本編に入るとこの人独特の小説とも評論ともつかぬ小説に対する思索やら随想がまるで牛の反芻のようにしつこく繰り返され、牛の唾液のように夥しく垂れ流される。

それらはところどころ抜群に面白く、確かに一定の意味があり、新たな発見もあり、私たちが小説や思想や哲学や絵画や音楽や、さらには人の世や人生などについてそれほどきちんと理解していないことをだんだん解き明かしてくれるのだが、それにしても先月号の「ソトコト」で田中選手だったか浅田選手だったかが、そのどっちがそう発言していたのかはもう忘れてしまったが、この本の著者が暇にあかしてどうでもいいことどもを日がな一日微分積分してよろこんでいる、だったかな、それともうつつを抜かしている、だったかな、ともかくそういう風にバッサリと斬って捨てていたけれど、まただからといってこのおふた方による気宇壮大な天下国家憂国談義の空論が、この本の著者によるいわば深く静かで音楽的かつミニマリズム的洞察よりもいちだんと高尚でハイセンスだというつもりなぞ毛頭ないのだけれど、いくら連載の締め切りが迫っているからと言って己の頭の奥底に仕舞っておいて発酵するのをじっくりと待っていたほうがモアベターな思藻の断片を無理やり記事にすることもないのではと思わないわけにはゆかなかった。

けれども、そのなかでもやはり著者が突如というべきか、それとも予定調和的にというべきか、死んだ小島信夫に成り替わって、というか憑依して、いかにもありそうであらぬことどもを「小説霊」にしゃべらせているくだり、それから次に紹介する長嶋茂雄がスランプに陥った掛布を電話で激励する逸話などは出色の出来栄えだった。

 「掛布くーん、いまちょっとスランプみたいですねー。ちょっと素振りしてみてくれる?」
「え?いまですか?」
「そうですよー。いまです」
で、掛布が受話器を置いて何回か素振りをして電話に戻ると、長嶋は
「3回目のがよかったねー。もう一度思い出してやってみてくれる?」
 と言ったという。

 著者は、「私はこの話を信じるし、長嶋茂雄という人はそれくらいの人であったと思いたい。その夜を境に掛布がスランプを脱出したのは言うまでもない(きっと)」と書いているが、どうして掛布もなかなかの者ではないか。

朝比奈の峠に斃れし土竜かな 茫洋

Wednesday, November 05, 2008

バガテルop73

バガテルop73


オバマがマケインを下したというので、抱き合って涙を流している民主党支持者の熱狂を眺めていると、それがそんなにうれしいことなのかよ、と興ざめするとともに大いなる違和感を覚える。

かつて手前勝手な自国の利害だけで世界中を振り回し、パックス・アマリカーナを謳歌していた唯我独尊帝国は、政治的にはイスラム教国や無手勝流北朝鮮との闘争、経済的には中国、ロシアなどBRICsやEU諸国との闘争に一負地にまみれ、あまつさえサブプライム・ローンに端を発する世界金融危機の元凶として聖金曜日にクンドリから致命傷を負ってしまったために、もはや長期的には歴史の花舞台から徐々に退場するほかはないだろう。

いつも陽気なヤンキーたちは、あのように何ヶ月間も「チエンジ!チエンジ!」と馬鹿のひとつ覚えのやうに絶叫していたわけだが、現在のブッシュにできなかったことが、オバマやマケインやヒラリー・クリントンにできるとはとうてい思えないのである。
帝国の沈没はもはや時間の問題となった。

しかしそれではわが最愛のヤマトンチュウ帝国はどうであろうかと一瞥すれば、口先のひんまがった炭焼き炭坑節男が、長らくのお待ちどう。近々ようやっと解散総選挙に打って出るそうな。
それというのも聖なる日蓮上人の非嫡子の末裔たちの悪知恵で、一人あたり二万円也の公金ばらまき作戦を思いついたから。しかも飴玉くれてやる代わりに、三年後にショウヒゼイ取るぜ、とどすの利いただみ声でおしきせがましく駄目を押す。これって脅迫じゃあないの。

おいおいそこの出目金、その金は誰の金だと思っているのだ。国民の血税をエサにして奇跡の衆院逆転勝利返り咲き、返す刀で恐怖の増税たあ、コムロテツヤも真っ青な悪辣詐欺よ。そんな幼稚な手練手管でわれら陛下の忠良なる臣民が騙されると思ったら大間違いだぜ。

(いや、ころっとだまされちゃうのかな?)

おまけに今頃になって旧帝国軍人の生き残りが、フィリピンならぬ市ヶ谷界隈から黒タヌキのように飛び出して、悪いのは米帝だった、日帝はちいとも悪くない。あんときゃ鬼畜米英に強いられて、いやいやアジアに鷹狩りに行ったのだ。南京、上海、満州、韓国、台湾のお友達に無上の幸せを運んでやったのだ。五族協和、亜細亜解放ツアーにちょっくら行ってきただけよ。それがあんまり嬉しくて楽しくて、お礼の花束までもらったので、近いうちにまた行きたいな、などとぬかしやがるのだ。

タヌキ親爺は百叩きのうえ市中引き回しのうえ縛り首の刑も受けず、なんと退職金をたんまりもらって浅草の奥山辺りに逃げ込んだそうだが、もしかして市ヶ谷村にはこんなタヌキ親爺がほかにもワンサと棲息しているのではあるまいなあ。



♪市ヶ谷のタヌキ屋敷を訪ぬれば帝国軍人健在なりき 茫洋

Sunday, November 02, 2008

2つのコント

バガテルop72

その1 父子の2人で朝比奈峠を登りながら…

私 ではここで問題です。あなたがいちばん好きな人は、つぎの3つのうち、何番でしょう?
1番 お父さん
2番 お母さん
3番 弟のKクン

息子 (しばらく考えてから)両方ですお。


その2 3人で食事をしながら…

息子 お父さん、自閉症って何?

私 (一瞬ギョッとしながらも冷静に)つまり君のことだよ。自分のことなんだから、自分が一番わかるでしょ。

息子 (しばらく考えてから)わかんないお。

ちなみに、自分で自分が自閉症だとわかっている人が高度自閉症、わかんないひとが普通の自閉症。どっちも脳障碍者なのに、いかにも前者が賢そうに思えるのはあほばかネーミングのせいだろうか。

ややこしい人間が目の前に現れると、「発達障害」などという安易なレッテルをペタペタ貼って、なにかがわかったような気になっている学者や専門家もとんでもない食わせ者だ。


♪黄色い顔に白き嘴ピラカンサ啄ばみてピーと鳴きし細身の鳥の名をば知りたし 茫洋

水本邦彦著「徳川の国家デザイン」を読んで

照る日曇る日第183回&ふあっちょん幻論第23回 

徳川時代の日本は、中国などの海外から生糸、絹織物、砂糖などを輸入し、その見返りとして銀、銅、俵物などを輸出していた。「俵物」とは初めて聞く言葉だが、岩波の広辞苑を引くと、なんと煎り海鼠、乾し鮑の2品のことで、のちに鱶鰭が加わった、とある。

いずれも海産物であるから、これらを本邦の海民たちが俵に包んで港から搬出したのだろうが、当時の代表的な輸出商品が珍奇な海の幸であったことに意外の感を受けた。ナマコもアワビもフカヒレも日本というよりは中国、東南アジアの特産物かと思っていたが、当時はそれらの国では収穫する海人や技術がなかったのであろうか。

かのマルコ・ポーロが「黄金の島」と紹介した我が国では、黄金はともかく大量の銀、そして銀の産出が尽きてからは銅を海外に放出していたようだ。本書によれば、17世紀の全世界の銀産出量年間60万キログラムのうち日本銀は最盛期にはその3割から4割を輸出していたというからあきれてしまう。きっと明治の不平等条約のひな型のようにポルトガル、オランダ、中国などの諸外国から大いにぼられていたに違いない。

しかし石見銀山などからの貴金属大出血放出の見返りとして我が国にもたらされたものは、膨大な中国製生糸であった。16世紀後半の生糸輸入量は、年間六万から十五万キロ、1930年代には18万から24万に達し、我が国のアパレル業者たちはこれらすべてを原料にして、せっせせっせとおよそ13万から18万着の絢爛豪華な絹織物に変身させたのだという。(同書第6章P287~289)

15世紀末ごろから栽培が始まった木綿が、麻布に代わって庶民の日常着の主役に変わり、今度は最高級の絹の着物が陸続と登場すると、ホップ、ステップ、ジャンプ、男も女も少女も娘も、50歳を越した人妻も狂ったように絹の薄衣を身にまとったのだった。ああ、なんと贅沢の素敵なことよ!

絢爛豪華な桃山文化も、後水尾院を中心に花開いた寛永文化も、地中奥深くから最貧労働者共が血まみれになって掘り出した貴重な鉱物資源と引き換えにもたらされた、と著者は言いたげである。その後歴史は何度となく繰り返されたが、織豊政権の昔から、わが国の得意技はバブリーな蕩尽だったのである。


♪さあ働け、働けば天国の門は開かれると誰かがささやいている 茫洋

Saturday, November 01, 2008

鎌倉交響楽団の「マーラー5番」を聴く

♪音楽千夜一夜第49回&鎌倉ちょっと不思議な物語146回


秋晴れの土曜日のマチネーで第92回の定期演奏会が開かれ、鎌響がマーラーの嬰ハ短調の交響曲を取り上げました。全5楽章、演奏時間およそ80分の大曲です。

こんな難曲をつつがなく終えられるのかと案じていた私でしたが、第1楽章のはじまりのトランペットの正確で、厳格な、荘重なファンファーレの吹奏を耳にして、今日の演奏の成功を確信しました。

この曲では金管楽器がその能力の極限まで試されますが、鎌響の各パートは見事にその試練に耐え、とりわけホルンの美しい音色は満場の観客を完全に魅了したのでした。

第二、そして第三楽章のブラスの咆哮とパーカッションの雷電、それらを下支えする弦の重層低音は、指揮者の横島勝人の知と情を兼ね備えた情熱的な棒さばきによって透明に溶解し、マーラーの精神分裂症気味の錯綜したスコアの尽きせぬ魅力を、まるで手に取るように、隈なく白日の下に暴きだしました。

 音を割った金管の舞踏がようやく終わると、それは弦楽器とハープによって奏でられるまことに甘美なアダージェエットの総奏です。きわめてゆっくりと13挺ヴィオラから開始された夢見るような旋律は、9挺のチエロと、おなじく9挺のコントラバス、それからおよそ30挺の第1、第2ヴァイオリンに受け渡され、まるで初夏の相模湾の青い海を渡るアサビマダラのように高く、低く飛翔してゆきます。これほど美しいため息の出るような音楽を聴いたのは久しぶりのことでした。

 曲はそのままアレグロのロンド・フィナーレに突入し、またふたたびの管と弦の狂想的輪舞が開始されましたが、よほど練習を重ねたのでしょう、われらが手だれの鎌響の演奏はますます熱と光と輝きを増し、とうとう歓喜あふれる大団円になだれこんだのでした。

 これほど素晴らしいマーラーの演奏を地方の一ローカルオーケストラがやってのけるとは! 音楽のよろこびに満たされ、このささやかな幸せを抱きしめながら夕べの家路をたどる私の胸には、マーラーの5番がまたしても高らかに鳴り響くのでした。

♪いま聴きしグラン・フィナーレが高鳴るよ 鎌響定期のマーラー5番 茫洋

♪マーラーのアダージェエット聞けばわれは蝶 海の彼方に一人旅立つ 茫洋

Wednesday, October 29, 2008

西暦2008年茫洋神無月歌日記

♪ある晴れた日に 第45回


小学生の女の子が
降りしきる雨の中を
らあらあと大声で歌いながら
遠ざかって行った

雌に食われし
蟷螂の雄
やれ嬉しや
やれ悲しや

戦艦長門の
停泊したる
軍港にて聴けり
シエラザード

嫋々と
艶なる歌を歌うなり
ミストレス独奏の
シエラザード第3楽章

上野国権田村にて
薩長の田舎侍に斬られたり
気骨ある武士
小栗上野介

健常者も
障碍者も年寄りも
自己責任で生きていけという
倒れずに歩いていかねば

漆黒の
闇に住みける深海魚
いや増す闇に
人知れず消ゆ

五年前の
アリバイ求められて
たじろぐわれは
小市民かな

このぶんでは
村上春樹ももらうだろう
08年秋の
ノーベル賞大バーゲン

薄の
白く輝く穂先に
美を認めぬか
人よ

ピチャピチャと
真夜中に水など飲んでいた
我が家の
ムクを思い出すかな

幸せは
わが枕辺に妻子居て
安けき寝息を
耳にするとき

帝国と
己を癒着させ
強き日本を
呼号する人

強き日本!
明るき日本!
と獅子吠せり
国権病に罹りし男

世界人民に
ただ一言の謝罪なし
金融危機を
招きし強国

己が泥沼に
世界人民を
道連れにしたり
かの米帝は

歯医者への途次
道端に斃れし獣一匹
さも
余の死骸に似たり

授業せねばならん
本読まねばならん
あほ原稿書かにゃならん
病院いかにゃならん
いったいどうせえちゅんじゃ

Tuesday, October 28, 2008

車谷長吉著「四国八十八ヵ所感情巡礼」を読む

照る日曇る日第182回

車谷長吉氏が伴侶の順子さんと同行二人で出かけた、はじめは読んで面白く、ときおり笑ってしまって、最後は悲しくなってしまう一大お遍路日記である。夫婦二人だけの句会が泣かせる。

車谷長吉はエグイ人だ。どんくさい人だ。毎日なんども野糞を垂れている。

強迫神経症の薬を飲むと便秘になるのであわせて下剤を飲むから、朝宿屋でうんこをたんとしておいてもしておいても突然うんこが出てくると書いているが、少年時代から突然ウンチが出たとも書いているので、やはり六〇年以上人目をはばからことなくうんこをしていたに違いない。

一日五回もうんこをしたと書いている日もあった。全編これ雲古だらけの日記なり。素晴らしい。

車谷長吉は、正直な人だ。志賀直哉と武者小路実篤の現代における真の後継者である。
四国を順子さんとお遍路しながらたった一回だけ「お乳とお尻をなでなでした」と書いてある。書くほうも書くほうだが、書かれるほうはたまったもんじゃないだろうが、どうしても書いてしまう。書かざるをえない性なのだ。

徳島県はゴミだらけという文句も、車で遍路する奴は地獄落ちという託宣もよってくだんの如しで、普通の人なら筆を控えそうなことに限って彼は覚悟の上で書いてしまう。
並みの私小説作家とはそこが違う。周りを傷つけながら自分も全身血だらけになっている。肉を斬らせて骨を斬るってやつだ。下手に近づくとヤバイぞ。


「人間ほど不幸な生き物はない。他の生物は将来自分が死ぬことを知らない。だから鶯はあれほど美しい声で鳴けるのだ。私は作家などになってしまったが、もう二度と人間には生まれて来たくはない」

同感です。


だっていつだってあえるじゃないといいながら死んでしまった 茫洋

Sunday, October 26, 2008

網野善彦著作集第16巻「日本社会の歴史」を読む

照る日曇る日第180回

本書は「日本社会の歴史」という題名になっているが、「日本国の歴史」の本ではない。「日本」とは期間限定の国制であるから、西暦7世紀後半というはじめと終りがあることを私たちは著者によってはじめて知らされた。

日本が日本になったのは、天武天皇の死後大后持統が689年に施行した浄御原令にはじめて日本という国号が登場してからのことであり、それまでこの国は倭国などと呼ばれ名乗っていた。
だからそもそも「縄文時代の日本」などという表現自体が意味をなさないことを私たちは改めて確認しなければなるまい。アイヌや琉球王国に居住するまつろわぬ異民族を、ヤマト民族が主導する他民族国家日本が強引に併呑したのはつい昨日のことだった。

また著者は本書を通じて日本という社会の歴史を、農本主義と重商主義という2つの基軸の対立と相克の歩みとして大きくつかみとろうとしている。古代律令国家は「農は天下の本」という儒教の農本主義にもとづく政策をとっていたが、鎌倉時代の中期以降、農業よりも商工業や海民ネットワークを重視する重商主義的な政策が台頭し、激しい闘争を開始した。

陸の源氏と海の平家の対立などは比較的わかりやすいほうだが、鎌倉時代に有力御家人の安達泰盛を抹殺した御内人平綱頼や悪党とつるんだ後醍醐天皇や足利尊氏の執事高師直が重商主義者で尊氏の弟直義が農本主義派であったという分類は意表をつく。

そして開明的な重商主義者、織田信長の挫折ののちに最終的に日本国を農本主義路線に定着させたのは太閤秀吉であったが、その後徳川政権になったあとも盤石の体制に落ち着いたとはいえず、折にふれて田沼意次などの重商主義者があらわれて反体制的改革が繰り返されたのであった。


♪小学生の女の子が降りしきる雨の中をらあらあと大声で歌いながら遠ざかって行った 茫洋

Friday, October 24, 2008

黒澤明の「天国と地獄」を視聴する

照る日曇る日第180回

「悪い奴ほどよく眠る」の3年後、黒澤はまたしても悪の問題を取り上げた。「天国と地獄」である。

丘の上の天国には、成功した資産家がたのしげに暮しており、日の当たらないその麓では、貧民たちの地獄が横たわっている。日常をあくせくと生きるだけの庶民の中には、豊かな富を持つ資産家に強い憧れを懐くと同時に、激しい嫉妬を覚える者もいる。

「ちくしょう、あいつらだけがどうしてあんなに安気にやっているんだ。おらっちは豚のように生きるしかすべがないのに」
隣の芝生は輝くばかりの緑に見える。その住人の心の輝きは芝生の色とは無関係であるにもかかわらず。

けれども、自他の貧富の差という一面的な物差しを、自他の存在価値すべてにまで拡大して解釈するという妄想にとらえられ、あまつさえその天秤の均衡を自分に優位な水準にまで実力で奪還しようする衝動につき動かされる人たちは、いまもむかしも雨後の筍のごとく繁殖している。

どうしても幸福になれないと知った者は、幸福な者をねたむだけでは我慢できず、自分と同じ不幸の仲間に引きずり降ろしてともに泥沼に這いずりまわることをこいねがう。この映画の誘拐犯人もそういう種類の人物なのだろう。悪知恵を巡らせ、悩み多き三船取締役をたいそう苦しめるが、もっと知恵のある正義の人たちが大活躍して、「やはり正義は悪に勝たないわけにはいかない」てなところを黒澤流に見せつける。前作の「悪い奴ほどよく眠る」の落とし前をつけた格好になっている。

そんな具合でこの犯罪の輪郭は頭の中では理解できる。また、かっこいい山崎努犯人がシューベルトの鱒の旋律とともに登場するシーンや、疾走する新幹線、鎌倉の腰越港、江ノ電鎌倉高校付近、横浜黄金町の魔窟などのロケシーンも迫力があるし、全編白黒なのにたった1か所だけのカラー場面、そして鮮烈な光と影の対比などなど、見どころは数多いし第1級のサスペンスドラマであることも否定できない。

大詰めのドン・ジョバンニの地獄落ちを思わせる三船山崎対決シーンも大迫力だ。にもかかわらず、この長い大捕物を見終わったあとも、いったどうしてこの憎悪に満ちた白哲のインターン青年が少年を誘拐し、3000万を強奪せずにはいられなかったのかはてんでわからない。犯行動機の必然性がまるで描かれていないからである。黒澤観念論映画にありがちな欠陥だろう。



♪頭から雌に食らわる幸せかな 茫洋

Thursday, October 23, 2008

黒澤明の「悪い奴ほどよく眠る」を見て

照る日曇る日第179回


江戸時代の法律の適用は厳格なものだったが、仇討ちを是認するおおらかさもあった。公的権力による裁判と処刑に依存せず、決闘、私闘による最終決着を許すヒュウマニズム的な領分を残していたのである。

得体のしれない裁判官やはやりの裁判員どもによってではなく、憎っくき親の敵を当事者である個人が追い求め、存分に討ち果たすことができたなら、子は大いに満足するだろう。自己責任で返り討ちのリスクを受け入れつつも、私たちは罪に対する罰を自主的に定めることができるのだから。故なく妻子を虐殺された父親が、国家権力の意向を無視して生まれて初めて武器を取って極悪非道の犯人に復讐する権利を、いったい誰が禁ずる事ができようか。

と、ついついあらぬところに話が逸れたが、悪人に対してどこまで酷薄になり、限りなく憎悪の炎を燃やし続け、どこまで復讐できるかというのが、この映画のテーマではないかと思ったのである。

食慾にせよ性欲にせよ物欲にせよ所有慾にせよあらゆる欲望にはその生理的、人間生物個体的限界があって、その境界線や容量を超えてさらに追求することは物理的に不可能になる、と私は考えているのだが、黒沢はどうか。

悪人どもの悪巧みによって父を自殺に追い込まれた三船は、周到な計画と準備をこらして正義の戦いを遂行し、敵の本拠に乗り込んで巨悪の陰謀をあばき、いよいよ徹底的な復讐を始めようとするのだが、幸か不幸か張本人の娘への愛が仇となって未然に挫折し、悲惨な最期を遂げることになる。

正義の志士は斃れ、悪人どもはやっぱり生き残る。悪い奴ほどよく眠る、というわけなのだが、もし香川京子との愛情に目が眩まなければ、三船敏郎は行くところまでいったんだろうか? 日本資本主義の中枢部を爆砕し、権力悪の根源を根絶やしにし、畏れながら黒沢天皇の返す刀で象徴天皇制の偽りの玉座を転覆したてまつったのだろうか? 

娯楽映画の範疇を勝手にはみ出して、想像を逞しうしたいところである。

♪芝栗をひとつ拾いし夕べかな 茫洋

Wednesday, October 22, 2008

鎌倉国宝館で「鎌倉の精華」展を見る

照る日曇る日第178回&鎌倉ちょっと不思議な物語145回


私がいっとう好きな美術館が、神奈川県立近代美術館鎌倉と「ここ」です。八幡様の境内のなかの木立ちのなかにひっそりとたたずむ校倉造の小さな建物。いつ行っても人影がまばらで心ゆくまで仏像や掛け軸と対面できるのです。
 
その鎌倉国宝館鎌倉国宝館が、今日は珍しくなにやらおめかしして国宝10件、重文65件の絢爛豪華な品ぞろえでお出迎え。開館80周年を記念して、開設当時のコレクションがずらりと並んでいました。

八幡様が所有する漆塗りの弓矢も国宝なんですってね。見た目は瀟洒ですが、さきっちょの矢じりは当然鋭い金属製で、こいつを那須の与一が射れば百発百中で武者どもを射殺したに違いありません。当時は精巧無比な殺人兵器だった。

♪京の五条の糸屋の娘
姉が十六、妹が十四
諸国大名は弓矢で殺すが
糸屋の娘は目で殺す

という私の大好きな頼山陽先生特製の都々逸を思い出しました。


丈六の大仏というのもよく出てきますが、その現物がいきなり出てきたのには驚いた。迫力があります。これと同じ大きさのやつが私の家の近くの光触寺の本堂に安置してありますが、これはもとは実朝が建てた大慈寺の本尊でした。真黒だけどよくも戦火に耐えたものです。

あとは頼朝が奥州平泉を模倣して建てた二階堂の永福寺の向かいの山頂に埋められていた経筒。中には水晶の数珠とお経が入っていた。それを山の中に入って発掘したのは市の文化財担当の若い女性でした。きっと政子の霊が彼女をこの場所に連れて行ったのでしょう。奇跡の大発見としかいえません。見終えて明るい戸外に出るとちょうど結婚式の花嫁さんが若宮に向かうところでした。いい御日和でなによりです。

♪うらうらとひかりのどけきあきのあさぶんきんしまだのはなよめうつむく ぼうよう

Tuesday, October 21, 2008

神奈川県立近代美術館鎌倉で「岡村桂三郎展」を見る

照る日曇る日第177回&鎌倉ちょっと不思議な物語144回

 重い木材を衝立のように並べ、その表面を岩絵具で塗りたくり、よく見ると象や魚や鳥や獅子や怪獣やらをおどろおどろしく描いたものが警備のガイド嬢のほかは無人の会場に次々現れるので驚いてしまった。これでは彼女たちは恐怖と不安のあまり発狂してしまうのではないだろうか。

日本画家と聞いていたが、これはむしろ巨大壁画であり岩窟画のかたまりだ。かのラスコーの洞窟に描かれたおそろしく原初的な動物の姿に似ていなくもない。しかしラスコーの絵の軽妙さは微塵もない。重厚長大、前途茫洋、暗黒無類な図像がただ延々と続くのである。ああ、外は気持ちのよい秋晴れだというのに、ここは地獄の何丁目だろう。私はダンテの煉獄編やマーラーの「大地の歌」を思い出した。

生も暗く、死もまた暗い。

しかし闇を透かして魂の暗黒を象徴するようなこの図像、異様な存在感を溶出するこれらの物体を前にしていると、われらの生にも、われらの世界の前途にもなんの希望も懐けはしないけれど、その絶望を見据えることによるある種の安らぎと覚悟のごときものが空虚な胸のうちに生まれてくるような気がしたのだった。

なお2階の第1展示室の突き当りにある「獅子08-1」が、日経新聞が認定する本年の日本画の最高作に選ばれたそうだ。


♪雄獅子咆哮すれば雌獅子瞑想す 茫洋

Monday, October 20, 2008

「BAROQUE  MASTERPIECES」を聴く

♪音楽千夜一夜第49回

これまでおよそ1か月にわたってちびちび舐めるように聴き続けてきたソニーBGMグループより限定発売の「BAROQUE MASTERPIECES全60枚」が昨夜でようとう終ってしまった。

最後に残った61枚目は曲目リストで、バッハからヴィヴァルディ、ブクステフーデ、コレルリ、クープラン、ヘンデル、リュリ、シャルパンチエ、ペルゴレージ、パーセル、ラモー、スカルラティ、シュッツ、テレマン、パッヘルベルなどの代表的な作品の数々が、プチットバンドやレオンハルトや、クイケンやマルゴワールや、ムジカケルンやあら懐かしやコレギウム・アウレウムなどの多種多彩な演奏で収録されていたことをはじめて知った。なにせタワーレコードで締めて5800円、1枚当たり97円という超お買い得の廉価盤。しかも演奏がみな優れている。これを買わずになにを買うというのだ。クラッシックファンなら絶対に後悔しないだろう。


全部を聴き終えた今改めて振り返って思うのは、バッハの偉大さとヘンデルの単調な饒舌の剛毅さ、パーセルのやっぱりなつまらなさ、ヴィヴァルディの底知れぬ才能の深さを思い知らされた。また単品アラカルトで忘れ難いのは、当たり前とは言えレオンハルト指揮のバッハ「ブランデンブルグ協奏曲全」と「ゴルトベルグ変奏曲」。チエンバロによる独奏だが、ある意味ではグールドよりもすごいのではないかと思ったりしたことでした。


♪上野国権田村にて薩長の田舎侍に斬られたり気骨ある武士小栗上野介 茫洋

横須賀交響楽団の「シエラザード」を聴く




♪音楽千夜一夜第48回

落ち目の米帝原子力空母によってしかと鎮護されている軍港横須賀を訪ね、まるでカーネギーホールを思わせる素晴らしい音響を誇る「よこすか芸術劇場」にて、はじめて横須賀交響楽団の演奏を聴きました。

最初のチャイコフスキーの「スラブ行進曲」では金管楽器に多少の乱れが生じたり、指揮者のまるでブラバン乗りの単調な演奏方法に少しとまどいましたが、次の「くるみ割り人形」の組曲では、安定した弦のベースに乗ったフルートの素敵な独奏も飛び出し、各パートが徐々に実力を発揮しはじめ、休憩後のメーンの「シエラザード」にいたって、このオーケストラの真面目が炸裂しました。

リムスキー・コルサコフの大傑作であるこの管弦楽曲は、イスラム的なロマンチシズムとスラブ的な哀愁、独創的で忘れ難いメロディと様々な楽器によって次々に繰り広げられる多彩なソロ演奏がとても魅力ですが、私はある時はミストレスによるヴァイオリンが、またある時はオーボエが、ホルンが、ハープが、コントラバスが、トライアングルが、そしてシンバルのとどめの強打が、一針ごとに千夜一夜の幻想的で華麗な音のタピストリーをあでやかに織り上げていくありさまを、人影も少ない5階席のてっぺんで、まざまざとこの目で見ながら堪能することができました。

これを音楽の饗宴といわずになんと呼べばいいのでしょうか。ああ、素晴らしきかなコルサコフ! 素晴らしきかな横須賀交響楽団! そしてくたばれ何回聞いても感動無きルーチン小澤と最初の一音で眠くなるダルなN響!

これだからアマチュア・ローカルオケ通いはやめられません。

♪嫋々と艶なる歌を歌うなりミストレス独奏のシエラザード第3楽章 茫洋

Saturday, October 18, 2008

「グールドの思い出」by朝比奈隆 その3

♪音楽千夜一夜第47回

正しく8分休止のあと、スタインウエイが軽やかに鳴り、次のトゥッティまで12小節の短いソロ楽句が、樋を伝う水のようにさらりと流れた。

それはまことに息をのむような瞬間であった。思わず座り直したヴァイオリンもあれば、オーボエのトマシーニ教授は2番奏者と鋭い視線をかわした。長大な、時には冗長であるとさえいわれる第1楽章が、カデンツアをも含めて、張りつめた絹糸のように、しかし羽毛のように軽やかに走る。フォルテも強くは響かない。しかし弱奏も強奏も、ことにこの楽章に多い左右の16分音符の走句が、完全に形の揃った真珠の糸が無限に手繰られるように、繊細に、明瞭に、しかも微妙なニュアンスの変化をもって走り、流れた。

それは時間の静止した一瞬のようでもあった。二つの強奏主和音が響くのと、すさまじい「イタリアのブラウォ」の叫びとは殆んど同時だった。彼は困ったような笑いをかくして「手がつめたくてどうも」とまたオーバーの内へ両手を差し込むのだった。

その夜の演奏会の聴衆も、翌朝の各新聞の批評も、驚嘆と賞賛をかくそうとはしなかった。私にとっても、オーケストラにとっても、快い緊張と、音楽的満足の三〇分だった。その前後、今日までに欧州各地で協演したチエルカスキー、フォルデスまたはニキタ・マガロフのような高名な大ピアニストたちとはまったく異質の、別の世界に住むこの若い独奏者の印象は、私にとってもまことに強烈だった。 
 終

♪すさまじきイタリアのブラウォ鳴り響くグールド刻む真珠の音に 茫洋

Friday, October 17, 2008

「グールドの思い出」by朝比奈隆 その2

♪音楽千夜一夜第46回


さて翌11月19日、イタリアの空は青く澄み、ローマの秋は明るい日差しの中に快く暖かい。午前10時、聖天使城の舞台にはピアノが据えられ、配置の楽員が席につき、私は指揮台に上がって、オーケストラの立礼を受けたが、独奏者の姿は見えない。

ソリストを見なかったかと尋ねても誰もが知らないという。いささか中腹になって来た私は、「ミスター、グールド」と大きな声で呼んでみた。すると「イエス・サー」と小さな声がして、コントラバスの間から厚いオーバーの上から毛糸のマフラーをぐるぐる巻きにした、青白い顔をした小柄な青年が出てきた。

オーケストラに軽いざわめきが起こる。その青年はゆっくり弱々しい微笑を浮かべながら、一言「グールド」といって、右手を差し出した。「お早よう、気分はいいですか」と答えて振ったその手は、幼い少女のそれのようにほっそりとしなやかで、濡れたようにつめたかった。

その手を引きもせず、昨日は一日中ほとんど食事もとれなかったし、夜も眠れなかった。寒くて仕方がないから、オーバーを着たまま弾くことを許してもらいたい、ゴムの湯たんぽを2つも持って来たがまだ寒いなどと、つぶやくような小声である。

上衣を脱いでシャツの袖まであげている者も居るオーケストラと顔を見合わせつつ練習は始められた。私は意識して少し早めのテンポをとって提示部のアレグロを進めた。名にし負うサンタチェチリアの弦が快く響く。見ると彼はオーバーの襟を立て、背をまるくしてポケットに両手を差し込んで深くうつむいたままである。

一抹不安の視線が集中する。やがてオーケストラは結尾のフォルティッシモに入り、力強く変ロの和音で終止した。(続く)


♪ラシャを着たる猫背の男手を延べてスタインウエイをいまかき鳴らす 茫洋

Thursday, October 16, 2008

朝比奈隆氏の「グールドの思い出」より引用

♪音楽千夜一夜第45回

私の敬愛するミク友である「ぽんぽこ」さんが、吉田秀和氏やグレン・グールドについて書かれていたので、はしなくも思い出したことがある。

それは偉大なる指揮者朝比奈隆氏が1974年にグールドの「ヴェートーヴェン・ピアノ協奏曲全集」の4枚組LPのために書かれたライナーノートである。幸か不幸か話の種が尽きかかっていたところなので、これから数日間はこの稀代の名文にお付き合いいただきましょう。作文のお手本になりまする。版権は朝比奈氏のご遺族と当時のCBSソニーにあるのだろうが無許可転載を許されよ。


今から15年以上も前、ベルリンのフィルハーモニー演奏会に現れたカナダ生まれのピアニスト、グレン・グールドは、たちまち楽界の注目を集めた。彼の演奏にはいささかも名手的華麗さはなく、豪壮なダイナミズムもなかった。レパートリーは小さい範囲に限られ、バッハ、スカルラッティ、モーツアルトからヴェ-トーヴェンの初期まで。しかしこの青白いひ弱な青年の奏でるピアノの異常な魅力は、滲み通るように人々の心を捉えた。

私が初めて彼を知ったのは、その頃1958年11月、ローマのサンタチェチリア・オーケストラの定期演奏だった。彼が希望した曲目は、ヴェートーヴェンの第2協奏曲だった。この変ロ長調の協奏曲は、通常オーケストラの音楽家にとっても、指揮者にとっても、また独奏者自身にとっても、色々な意味であまり好まれる作品とはいえない。即ち、他の4つの協奏曲に見られる壮大さもなく、技巧的な聞かせどころというようなものもない。オーケストラの総譜は比較的平板で、効果的ともいえない。しかも演奏そのものは決して容易ではないからである。

果たしてサンタチェチリアの楽員たちも、なぜ他のものを選ばなかったかとか、弦の人数をもっと減らそうかと、あまり気乗りのしない態度は明らかだった。しかも、協奏曲のために予定されていた前日の午後の練習の定刻になっても、独奏者のグールドは一向に姿を見せない。気の短いイタリア人気質で、どうしたとか、電話をかけてみろとか、騒然としているところへ、事務局から体の加減が悪いので今日は出かけられないとマネージャーのカムス夫人から電話があったと連絡してきた。

私はただちに練習を中止、翌朝の総練習の初めに通し稽古だけをすることに決定、音楽家たちは損をしたような得をしたような表情で、肩をすくめながら帰っていった。



♪最初の一音でそれとわかるピアニストそれは紅蓮グールド 茫洋

Wednesday, October 15, 2008

中原昌也著「中原昌也作業日誌2004-2007」を読む

照る日曇る日第176回

昔は純文学と大衆文学の区別だとか芥川賞と直木賞とではどちらがえらいかとか徹夜で議論したものだが、最近はそのどちらも大幅な平価切り下げが断行されて、我々一般大衆から見れば、いまや八百屋のキャベツかジャガイモ程度の値打ちしかない代物になり下がった。

文学や芸術の一般的な価値は、時代とともに長期にわたって低落しているのではないだろうか。ひところは大江健三郎や古井由吉などが日本文学界の最高峰で、ずっと麓のほうで「さようなら、ギャングたち」などと訳のわからないことを叫んでいる高橋源一郎などが三流のポップ鼻たれ小僧などと呼ばれたものだが、いまやこれまた異端児だった島田雅彦などとともに文壇の主流を形成するようになったのだから、これも一種の成り上がりであろう。

それからさらに20年が経って、文学界のカジュアル化とポップ化は一段と急速に進行し、文学租界トライアングルの最下層には、広範な不可触選民によるライトノベルや携帯小説が喋喋ともてはやされるようになった。このような文学のガジェット化の最先端を疾走する現代文学の旗手こそは中原昌也である。

そこには鴎外、漱石、龍之介流の輝かしき帝国古典文学の薫り高きコンテンツはほんのひとかけらもありはしない。味噌も糞もすべてがいっしょくたに吐き出されて、まるで醜悪な塵芥のようにそこにドサリと投げ出されている。 

2004年6月28日
起きたらもう2時過ぎで驚く。
今日は新潮クラブから退出する日。タクシーで文春へ移動。誰か知り合い、死なないかなーと思いながら、ヨダレが口からダラリと落ちる。何もかも、どうでもいい。どいつもこいつも首でもつって死んじまえ。

同年7月8日
いきなり朝から理由もなく、いやな気分に。どうしようもなく生きるのが辛いが、自殺する気などまったくないのがまた辛い。もうどうにもならない。本当に悲惨なのは、無駄に生き続けることだと悟る。

自分の大嫌いな文筆業から逃げたいのに、それが許されず、吐き気をこらえて不眠症とたたかいながら懸命に書いても、それがはした金にしかならず、いつも金欠病で水道も電気もガスも止められてしまう。しかもそのはした金をタワーレコードやHMVでのCDやDVD買いであっという間に蕩尽してしまう。こういう自分にも世の中にも絶望した自堕落な感慨が延々とつづられていくのである。

自分自身でまるで地獄の生活だと告白しているから、多少は同情するが、世の中にはもっと苦しんでいる人もいるだろうに、著者にはそこいらがあまり見えていないようだ。

以前読んだ著者の「KKKベストセラー」も恐ろしく無内容で支離滅裂な内容、文体だったが、本書もまるでゴミ溜めと糞溜めと痰壺をひっくり返したような記述が満載されている。くそったれ、これのいったいどこが文学なんだ。お前なんかくたばってしまえ。と怒鳴りながらこの本を投げつけようとしたとき、判然と私の脳裏に閃くものがあった。

そうか、この無内容な己を尻の毛羽まであますところなくさらし続ける史上最低の文学根性こそが、いまや現代文学の極北なんだ。ガジェットこそがぶんがくなんだあ!

糞っ。


♪君の尻の毛羽と僕の尻の毛羽 どっちが汚いか見せっこしませう 茫洋


◎この秋のおすすめ展覧会→佐々木健「SCORE」 会場Gallery Countach 会期08年10月18日~11月15日 http://gallery-countach.com/contents/exhibition/exhibition_frame.htm

Tuesday, October 14, 2008

チン・シウトン監督「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」を見る

照る日曇る日第175回

中国の怪奇小説集「聊斎志異」を原作とする幻想的な幽霊映画である。青年が死んだはずの美しい女性の幽霊に恋をしたり、幽霊の大王と戦ったりする荒唐無稽なホラームービーであるが、洋の東西を問わず数多くの幽霊映画が製作されるのは、私たちが幽霊の存在を前向きに受け入れているからに違いない。

しかし幽霊なんて本当に実在するのだろうか?

昔から「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とかいうて、幽霊現象の大半はそれこそ「非科学的なもの」なのであろう。しかし青山某だの美輪某だのはいざ知らず、私が信頼してやまないある家族などは、「あ、いま誰かが肩の後ろのほうに来ている」などと突然つぶやいたりするので、その誰かが誰であるかはともかく、一種の霊的存在が存在している可能性もおおいにあるのだろう。

我が国の天台本覚思想では「山川草木悉皆成仏」などと唱えて、森羅万象のすべてに仏性が宿ると考えた。漱石の「仏性は白き桔梗にこそあらめ」もこの境地を俳句にしたものだろう。私たちの周囲には祖霊をはじめ無数の霊が取り巻き、私たちはこれらの死者や動植物鉱物少なくとも私はそのことを頭から否定しようとは思わない。

というのも、もしもこの世とあの世からいっさいの精霊が根絶されたならば、私たちの宇宙はどれほど寂しく無味乾燥なものになることだろう。賢明で良識のある人たちが心の底でひそかに信じているように、おそらく霊魂や神は実在しないのだろう。しかし心弱き私たちは、彼らの非在に耐えられない。そこでかつてヴォルテールがいみじくもいうたように、「もしも神がこの世に存在しなかったならば、我々はそれを新たに創り出したに違いない」のである。

健常者も障碍者も年寄りも自己責任で生きていけという倒れずに歩いていかねば 茫洋



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Monday, October 13, 2008

角田光代著「三月の招待状」を読んで

照る日曇る日第174回

誰にしても学生時代の交友関係は、相当あとを引くようだ。

その当時の仲間と時を経ながらも浅く、深く付き合い、時に憎み合い、たまさか愛し合い、稀に結婚したり、時折は別れたりもする。そうして終生貴重な友情を保ちながら、歳月とともに変貌を遂げ、次第に老いてゆく一種の共同性もあるのだ。

この本で著者が執拗に描いているのも、そのような青春の紐帯としての学生仲間の相関関係である。

そこには当然亭主にも自分にも飽き足らなくなった主婦や、売れなくなったコラム作家や将来を期待されながら輝きを失って陋巷に沈湎するかつての天才小説家などが登場してそぞろ身につまされる仕掛けだが、そうした一人一人の登場人物の苦悩を、著者は愛情を持って掬いあげ、丁寧に叙述している。

離婚式から始まって結婚式で終わる構成もしゃれているが、私には全編を覆い尽くす暗いトーンと行き場のない不安、そして読む者を真綿で締めるような重苦しさが気になった。途中で何度も読むのをやめようと思ったほどだが、著者と同世代の上空のいたるところに広がっている薄墨色の憂鬱と絶望が、もしかすると次代の希望の糧なのであろうか。

♪暗黒の闇に住みける深海魚いや増す闇に人知れず消ゆ 茫洋


◎この秋のおすすめ展覧会→佐々木健 「SCORE」 会場Gallery Countach/ 会期08年10月18日~11月15日 http://gallery-countach.com/contents/exhibition/exhibition_frame.htm

Sunday, October 12, 2008

椿事

椿事

♪バガテルop71

先日突然刑事がやってきた。若い体育会系の男性なので、大嫌いな読売新聞の勧誘員かと思ってドアを閉めようとすると、K県警の警察手帳と名刺を出したので、仕方なく玄関口に入れた。

聞けば振り込め詐欺の捜査をしているという。話せば長くなるので簡単にすると、犯行が行われたATMの近所の交差点に監視カメラが取り付けてあり、いまから5年前!の某月月某日撮影のそのビデオに、私の名義になっている自動車(とナンバー)が映っていたという。それで尋ね訪ねて私の家を探り当てたというのである。

そして、「つきましては、まことに失礼ですが、その日あなたはもしやこの辺を走行されていませんでしたか?」と尋ねるのである。つまり彼は間接的な証拠を元に、私に振込み詐欺の犯人の嫌疑をかけたというわけだ。

やがて肝心の免許証を持って運転しているのが私ではなくわたしの細君であることを知るに及んで、刑事の追及は私から妻に転じた。仕方なく私と違って超多忙の細君と連絡を取ると、彼女も大いに驚いていたが、「昔から手帳に日記をつけているので、その日の記述を調べてみたら」という。さっそく取り出してぺージを繰ると幸いにも当日近隣のお寺に墓参りに行った」と書いてあったので、これを彼につきつけると大いに納得して「大変失礼を致しました」と引き揚げていった。

ようやくにしていわれなき振り込め詐欺犯の濡れ衣を払拭できたわけだが、世の中には日記をつけている人間などそう多くはないだろうし、あったとしてもこうも都合よく身の証を立てる記録をメモしている人間などいないだろう。今回は幸い貴重な証拠?があったからよかったものの、なければ彼奴はどういう態度に出たのかと思うと不穏な胸騒ぎがした。

さらに気になったのは、彼らの捜査方法のきわめて迂遠にして胡乱なことである。今頃になって5年前のビデオ記録を基にしてきわめて確率の低い聞き込み捜査を行っている。こんなことでは到底犯人など捕まらないのではないだろうか。映っていた数十台の車のうち1/3くらいの所在を突き止めたとか言っていたが、まことに前途遼遠、隔靴掻痒の感は否めない。

かてて加えて最近は捜査員のレベルが三国連太郎を追う伴淳三郎よりも劣化したと仄聞する。しかもこの種の犯行は連日のように多発している。もとより限られた捜査員を駆使して優先順位をつけ、もっとも効率のよい捜査体制を敷いているのだろうが、これでは世田谷一家惨殺事件など迷宮入りになるのもむべなるかなと思わずにはいられなかった。


♪五年前のアリバイ求められてたじろぐわれは小市民かな 茫洋

Saturday, October 11, 2008

イジー・メンツェル監督「英国王 給仕人に乾杯!」を見る

照る日曇る日第173回

2007年のベルリン国際映画祭やチェコ金獅子賞を獲得したイジー・メンツェル監督の最新作「英国王 給仕人に乾杯!」を試写会で見ました。原作はミラン・クンデラと並ぶチェコ現代文学の巨匠ボフミル・フラバルだそうですが、私はまだ読んだことはありません。

お話は、タイトル通りコックとして戦前戦後を生き抜いたチェコ人ヤンの生涯を悠揚迫らぬ大戦前の欧州映画のテンポで今年70歳になるプラハ生まれの老監督がたどります。

監督の腕の見せ所は、食欲と性欲と金銭欲、すなわち生命欲へのおらかな肯定。人生の終焉に近づいた大富豪たちの酒池肉林の描写のなんと官能的なこと! 美しく若い女性の輝くような肌を舌なめずりしながら舐めるキャメラのため息の出るような素晴らしさ!
ここには古き良き過ぎし時代への手放しの讃歌があります。

そしてヒトラーによるチェコ占領時代がはじまるとともに、主人公の人生が暗転。併呑されたズデーデン地方出身のドイツ女性を愛したヤンは国内の反ナチ多数派とは異なる悩み多き人生を歩むことになるのですが、くわしくは12月シャンテシネのロードショウーでご覧ください。


♪輝くように若く美しい女を俎上に載せいざやナイフとフォークで召しませ 茫洋

Friday, October 10, 2008

上野都美術館で「フェルメール展」を見る

照る日曇る日第172回


濃い金木犀の匂いに誘われるように上野公園を歩いて「フェルメール展」をのぞいてきました。会期ももうすぐ終わりそうだし、なんと本物を7点もまとめて見られるそうだし、連日のように新聞が特集しているので、急いで駆けつけてはみたものの、残念ながら先日の「ピカソ展」のような深甚な感動とは無縁のさめた出会いであったと言わざるをえません。

 フェルメールは同時代の同傾向の画家に比べるとはるかに技巧にたけ、現代人の感性に訴えかけるようなモダンな表現ができた才人でした。それは外部からの光線の取り入れ方や光と影の鮮やかなコントラスト、劇的で謎めいた人物の配置、濡れたように輝く色彩(たとえば「手紙を書く婦人と召使」の朱色のスカート)の熟達した取り扱い方に顕著にあらわれています。

また彼は、映画のストップモーションの手法のように、近世オランダの市民たちを主人公とした長い長い映画のある場面を突然停止させ、その一瞬をまるで一枚の写真のように忠実に再現しようと試みました。

その結果、タブローはまるで「永遠の相の下」に引きずり出された一瞬の静謐と緊迫感、それゆえのするどい美しさを湛えるようになったのです。宗教画に似たある種の祈りと敬虔な感情がそこからもたらされます。世界中の人から愛される秘密はそこにあるのではないでしょうか。

しかし、絵画に生き生きした生命感と、あわよくば魔的な時空への陶酔をもとめてやまない私にとっては、そんなフェルメールの天下の名作も、シュトルムウントドランクなきただの「お絵かき」にすぎません。美術史にとって多少の意味があるとしても、私たちの生きた芸術にとってはなんの価値もない、とっくの昔に死んだ絵なのです。まこと猫に小判とはこのことでしょう。
金曜の遅い午後のこととて人影もそれほど多くはない会場を、私はわずか一〇分で足早に立ち去ったことでした。


♪フェルメールよりも美しきはフェルメール展の上空のあかね雲 茫洋

Thursday, October 09, 2008

善の研究

♪バガテルop70

新約聖書のコリント書だかヨハネ伝に「信と望と愛のうちもっとも大いなるものは愛である」と書いてあったように記憶している。どうして覚えているかというと、私の郷里の墓地の標識の古い石に、祖父の字で「信望愛」と書かれているからだ。

しかし信仰と希望と愛情のうちでもっとも重要なものは何かと改めて考えてみると、どれも大切で貴重な価値を内蔵していて、どれがどれに勝るとか劣るとかいちがいに言えないように思われる。
そもそもそういう設問自体がナンセンスなのかもしれないが、かの聖人が最後の愛を選んだのは、前の二つの価値がいかにも抹香(耶蘇教)臭いからではないだろうか。

宗教人特有の親しさを突き放し、より一般人にも広く受け入れやすいアイテムをあえて選び推奨したのではないか、と宗教に無縁の私は下種の勘ぐりをしてみたのだがどうだろう。

キリスト教ではないがギリシア時代からの格率で、「真・善・美」という3つの価値も存在しているが、このうちでもっとも大いなるものは善ではないだろうか。

善とは何か? 

それは悪意と陰険さに満ち満ちたこの末世と腐敗し堕落しきった人間たちが跋扈するこの現実を「無化」する底抜けの善良さである。
善とは、あまりにも弱弱しく儚げに見える無垢な善良さである。大雨が降っているのに、チューリップにせっせと水をやっている知恵遅れの大バカ者だけが持っている善良さである。

最近は大半の人々が真と美を目指してなにやら不穏な動きを示しているようだが、最後に真価を示して全世界を救うものは善であるほかはない。私たちはわれらの内なる善をもっと大切にしたいものだ。

♪このぶんでは村上春樹ももらうだろう08年秋のノーベル賞大バーゲン 茫洋

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む

照る日曇る日第170回

久しぶりにドストエフスキーを手に取った。話題の光文社版ではない。手垢のついた米川版である。昔から雑誌は改造、文庫は岩波、浪曲は廣澤虎造、小唄は赤坂小梅、沙翁は逍遙、トルストイは中村白葉、ドストは米川正夫と相場が決まっているのだ。

それはさておき、「カラマーゾフの兄弟」の最後の最後のエピローグで、多くの子供たちに囲まれてアリョーシャが別れの言葉を述べるくだりは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の末尾の合唱を思わずにはいられない。愛と許しと世界の平和を願う音楽だ。同じ作曲家による「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナの歌や少年天使の歌、近くはパブロ・カザルスの「鳥の歌」と同じ主題をドストエフスキーは臆面もなく奏でるのである。

それまでの数千ページを費やして、天上と地上、神と悪魔、男と女、貴族と農民、先進国と発展途上国、大人と子供、健常者と障碍者などの間に横たわる過去・現在・未来にまたがるいくつもの深淵を天空遥かなる高みから蛸壺の奥底まで観察し、人の世のどうしようもない存在様式と対立のありようを血と涙と愛をもって追体験し、それらを逐一なめるように描写してきたこのロシアの文豪が、謎の殺人事件による行き場のないカタストロフを無理無体に突破して地表に舞い降りた地点で、この天国の小鳩の歌が高らかに歌われるのだが、その調べはいつしか長調から短調に転じ、作家とアリョーシャの未来に不吉な影を投射したのだった。

事実まもなくドストエフスキーは書斎の書架の下に転がり込んだペンをとろうと無理な姿勢をとったのが原因で肺を傷つけ、あえなく急死し、作品のなかで何度も言及していたカラマーゾフ兄弟の続編はついに書かれないまま永久に未完で終わってしまった。

多くの人々が予想するように、その後のアリョーシャは汚辱にまみれたロシア社会の最底辺を行脚するうちに階級意識にめざめ、過激な社会主義者を経由してツアーリを暴力で打倒する一人一殺のテロリストになるに違いない。ドストエフスキーが亡くなった部屋の隣には、アレクサンドル2世の襲撃犯が潜んでいたのは周知の事実だ。

作家はアリョーシャに仮託して早すぎるレーニンの伝記を書こうとしていたのだろう。作家の脳髄の内部だけで成立していた「神なき世ではすべてが許されている」という仮説が、続編では“現実のもの”になるはずだった。

カラマーゾフの兄弟の長兄ドミートリー(ミーチャ)は無実の罪を逃れてファム・ファタール、グルーシェンカと新大陸アメリカに脱出するが、そこでいかなる運命が待ち構えているんだろう。想像するだにわくわくしてくるし、下男であり父フョードルの私生児でもあるスメルジャコフをシ指嗾して父を死に至らしめた次兄イワンと、恋人カテリーナの2人にはどのような未来がもたらされるのか。これまた興味深いものがある。

偉大なる文学者に突然降りかかったこの不慮の事故さえなければ、私たちはおそらく現在の3倍から5倍の長さの波乱万丈の大長編、悲劇も喜劇も併呑した驚異的な総合芸術をゆくりなく楽しむことができたであろう。太宰治の「グッドバイ」の未完と並んで、これを残念無念と言わずにおらりょうか。

♪100万匹の水母を裂きし博士かな 茫洋

Tuesday, October 07, 2008

映画「ベン・ハー」を鑑賞する

照る日曇る日第169回

「ベン・ハー」はこの作品だけだと思っていたが、1907年と1925年の2回にわたって映画化されており、ウイリアム・ワイラー監督による1959年製作の本作が3回目だというので驚いた。

とにもかくにもあの血わき肉踊る戦車競走の一大スペクタクルのせいだろう。スピルバーグがスターウオーズで引用したのもこの有名な活劇シーンだった。

しかし副題の「キリストの物語」が示すとおり、この映画はイエス・キリストが本当の主人公で、ベン・ハーやローマの提督や権力闘争やらガレー船による海上決戦やら恋愛はほんの添え物と言わなければならない。敬虔なキリスト教徒による正統派の宗教映画である。

しかし古代や現代や将来の異教徒や無神論者がこの映画を見れば、いったいどうしてユダヤ生まれの一ローカル宗教に、全世界が帰依しなければならないのかと不可解な気持ちになるだろう。映画産業の威力を借り、奇妙な権威を振りかざして無知で無関係な一般大衆に後生大事な唯一神への信仰を押し付けるのは、いかなる大宗教であろうとやめてもらいたいものである。

後年に比較するとワイラーの演出は冴えない。おそらくものすごい経費とエキストラを投じた活劇シーンの処理に忙殺され演出どころではなかったのだろう。ほんらいは主人公はゴルゴダの丘を十字架を背負って登るキリストにかわって背負わなければならないはずだ。

♪東方の博士に落ちたる三つ星 茫洋

Monday, October 06, 2008

「巨匠ピカソ展」を見る

照る日曇る日第167回


雨上がりの月曜日の午後、心ゆくまでピカソの2つのピカソ展を堪能しました。

いつどこで鑑賞しても私の目と心を楽しませてくれるピカソですが、今回の国立新美術館&サントリー美術館あわせて200点以上の大回顧展は、1901年から1972年に至るまでの数多くの作品を制作年代順に配列してあったために、私なりの発見がありました。

それは当り前のことなのでしょうが、彼の芸術が歳月とともに成熟し、ついに最晩年に至って心と技、人格と芸術とが見事に融合し、自由奔放に独自の表現世界を切り開いたということです。

とりわけ1970年から72年にかけて制作された「家族」、「母と子」「風景」(新国)、そして画家が91歳で亡くなる前年に描かれた「若い画家」(サントリー)という題名の自画像は、この恋と冒険と波乱と試行錯誤に満ちた偉大なる芸術家の集大成ともいうべき虚心坦懐にして融通無碍な至高の芸域を私たちにあざやかに示しています。

それまでのピカソは、たとえ抽象画を描く際にも、「女の頭部」とか「マンドリンを持つ男」とかのタイトル(名辞)の意味に最後までとらわれていたようですが、晩年にいたってゲルニカに代表されるそれらのきまじめな名辞の世界との自問自答や自縄自縛からも最終的に解き放たれたように、私には感じられます。

「家族」や「母子」などという題名こそつけられていますが、もはやそれらはどうでもよくなって、対象との直截的な対偶関係を無視し、名辞以前の真に自由な世界に晴々と飛躍していったのではないでしょうか。

いつまでもこれらのキャンバスを眺めていたいと思わずにはいられない、この明るく、楽しく、軽やかで透明な境地にたどりつくまでに、おそらくは彼の初期の青の時代や、キュビズムの冒険や、新古典主義の迷走や、ミノタウロスへの肉薄、シュルレアリスムへの逸脱があったのでしょう。

とりわけ最後の最期の作品は、まるで芭蕉の俳諧のわび、さびの境地に通じるような枯淡と諦念と幻化、さらには一種の悟りさえ想起させる東洋的な作風が印象的で、これを1901年に描かれた有名なセザンヌ風の自画像(サントリー)と対比させて眺めると、ある偉大なる芸術家の生涯の最初と最後の足跡を同時に見せつけられたようで、凡人の一人としても複雑な感慨がわき起こってきます。

それから絶対に言い忘れてはいけないのは、彼の素晴らしい色使いです。初期の青の時代の青などはまだまだ素人の若気の至りであったと痛感させるような深々とした青、緑、そして紫などの色彩の取り合わせのなんと美しいこと。ゴッホのような狂気、をはらんだ濃さはなく、マチスの華麗さ、デユフィの浮遊性はありませんが、色彩本来のありかを正しくわきまえたものの見事な色使いに酔わされます。

しかし、それらの大型の油彩の超大作にも増して私が気に入ったのは、メリメの「カルメン」の挿絵の小さなリトグラフでした。余白をたっぷりとってまるで水彩画のような軽みと遊び心でひといきに描き上げられた闘牛士や闘牛や観衆の描線のなんと生き生きしていることでしょう。私は思わず良寛のひらがなの優美さや、北斎漫画の線の律動を思い浮かべたことでした。今回の作品でただ1点を選べと言われたら、私はこのあまりにも洒脱な筆のすさび(新国作品番号60)をあげるでしょう。


♪有名な青の時代の青よりもなお青き青をわれピカソに見き 茫洋

ョン・ウー監督「男たちの挽歌」を呆然と眺める

照る日曇る日第167回

平成万年失業者じゃによって今月も仕事にあぶれているものだから、BSで放送されていた「男たちの挽歌」という香港映画を3本も見てしまった。

チョウ・ユンファを一躍スターダムに押し上げたホンコン製フィルム・ノワールだそうだが、あらすじもシナリオも演出もあらばこそ、善玉悪玉、素人ギャング警察男女が近親組織国籍入り乱れて弾丸銃弾手榴弾戦車まで登場して弾丸火の球血しぶき雨あられ、やたら人を殺すので辟易しました。

第1作ではやくもかっこいいチョウ・ユンファが殺されてしまうので、2作目では急遽彼そっくりの兄弟がニューヨークから香港に帰還して大活躍するいいかげんさには驚いたが、ベトナム戦争最後の日を舞台にした3作目には、ヒロインの元恋人役の組織のカンボジア人のボス役に時任三郎が登場して中国語をしゃべるのでまたまた驚く。

実は片親が日本人だとあとで種明かしがあるが、中国復帰前の香港を舞台に動乱のアジアのあらぶれた雰囲気を随所にまき散らしたのが歴史的なお手柄だろうか。

欧米そして日本など先進国の映画が精力を喪失していちはやくげいじゅつ的反抗の狼煙を上げたのがこの香港、そして台湾、中国西安、グルジアなどだったが、あれから数十年、世界映画の根拠地は最終的に消滅し、全世界が終焉化じゃなくて周縁化されたような気がする。いやさ、映画はとっくの昔に終わっていたのかも知れないと、この暗澹たる映画の底なしの闇、退嬰と滅亡の断末魔を垣間見ながらひそかに思ったことであった。


♪ピチャピチャと真夜中に水など飲んでいた我が家のムクを思い出すかな 茫洋

Saturday, October 04, 2008

山田洋次の「学校」を見る

照る日曇る日第167回

93年の第1作は東京の夜間中学に通う国籍、年齢、性別もさまざまな生徒と熱血教師(西田敏行、竹下景子)が繰り広げる教育愛の物語。田中邦衛演じるイノさんの話が中心だが、中国からやってきた若者の就職口に悩む竹下の演技や突然出てくる渥美清、不良の裕木奈江、不登校の中江有里など多彩なキャスティングが楽しい。山田洋次は「真の教育」は夜間中学にあると知っていた。

96年の第2作は、北海道の高等養護学校を舞台に、西田敏行、いしだあゆみ、永瀬正敏の3教師が活躍。永瀬を泣かせ、教室中をパニックに陥れていた障碍の重い生徒を、それに比較すると重くはない生徒(吉岡秀隆)が一喝してまるで魔法のようにおとなしくさせるシーンは、全教師の夢のまた夢だろう。吉岡が、「自分が馬鹿であることを知っている僕は、それを知らずに済んでいるより重度な弟分より不幸だ」と泣くシーンに心打たれる。また3年間の課程を終えて卒業し、荒い世間に乗り出す生徒たちに「ずっとこの学校においてやりたい」と泣く西田にも。
重いテーマだが、アムロのコンサートと、北の大地の雄大な自然を背景にした熱気球をドラマ転換にうまく使った。山田は才人である。

98年の第3作は、東京江東区の職業訓練学校が舞台。自閉症の息子を持つシングルマザー大竹しのぶが見事な演技を見せる。黒田勇機の自閉症児も上手に演じているが、できれば我が家の本物を起用してほしかった。(冗談、冗談)。それにしても山田はこの難しい障碍についてよく勉強しているのには驚いた。ボイラー士をめざすリストラされたリーマン小林捻侍が好演。ラストも情感がこもる。

2000年に製作された第4作は15歳の不登校児のビルドングスロマンにして長大なロードムービー。主演の金井勇太が長距離ドラーバーの赤井英和、麻実れい、シベリア帰りの不良老人丹波哲郎に巡り合いながら世間と己にめざめていくプロセスを感動的に描く。よくは知らないが、この作品は松竹大船撮影所と丹波の遺作ではないだろうか。

あんな歴史のある撮影所を京浜女子大などにたたき売って、その代わりに別の場所にまた撮影所を作って、当時の松竹はいったい何を考えていたんだろう。

シリーズといっても現在までに4本しかないが、普通のシリーズものと違ってだんだん内容が良くなってきているのが山田洋次のすごいところ。この人と井上ひさしは代々木の頭で脚本を書いても、手と足(撮影と演出現場)がそこから大いに逸脱して噴出するところが素晴らしい。芸術がその本性を発揮してかたくななイデオロギーを乗り越えるのである。

♪幸せはわが枕辺に妻子居て安けき寝息を耳にするとき 茫洋

Friday, October 03, 2008

ムーティ指揮ヴェルディ「仮面舞踏会」を観る

♪音楽千夜一夜第44回

2001年5月にミラノ・スカラ座で行われた公演。伯爵のリチートラと女占い師が立派に歌っている。クレギナのアメリアは最初は不調だが、徐々に乗ってくる。

演出は上流映画監督のリリアナ・カヴァーナだが特にどうということはない。強いて言えば3幕の墓場の装置がシンプルで良いのと、2場の舞踏会の群衆シーンの処理くらいか。ポネルやゼフィレッリに比べるとなんと凡庸な演出であるかと思うが、最近のあほバカ演出家どもと違って英国から独立して間がない米国という歴史的現実を踏まえた舞台なので安心して見ていられる。

ムーティの指揮は例によって立派だが、いささか退屈である。

最後に昨今のクラシック界についてひとこと。
のだめだかくそだめだか知らないが、猫も杓子もクラシックにまたたびのように寄り付いてうっとりするのはいい加減にやめてほしい。昔は非国民しかこの種の音楽を聴かなかったものだ。モーツアルトの音楽であなたの息子の頭が突然良くなったり、ねむの木の葉っぱがぐっすり眠ったりするわけがないのだ。それからモーツアルトを歯医者やデパートでBGMで気安く流すな。あれは癒しどころか死霊の音楽である。うかつに耳にすると祟られて霊魂を彼岸に持っていかれるぞよ。

それから中欧の聞いたこともない寄せ集めオペラや世にも怪しい管弦楽集団の来日金稼ぎ公演にいくら金持ちだからというてみだりに大枚をはたくな。この外国かぶれの耳なし芳一め。そんなに朝青龍を見たいか。もっと価値のある国内公演がどっさりあるぞ。特に各地のアマチュアオケの演奏は腐敗堕落したNHK皇居楽団の何層倍も心を撃つぞ。ニャロメ。


帝国と己を癒着させ強き日本を呼号する人 茫洋

Thursday, October 02, 2008

ダニエル・ハーディング指揮「イドメネオ」を見る

♪音楽千夜一夜第43回

05年12月5日、ミラノ・スカラ座におけるモーツアルトのオペラ「イドメネオ」の公演記録である。指揮はこれもたまたまダニエル・ハーディング。古楽の奏法を要所要所で世界一のオーケストラに強いて、いわゆるひとつの現代風の演奏に仕立てているが、かつて老ベームがライプチッヒ・シュターツカペレとウイーンと入れた同曲のLPの演奏に比べれば大人と子供、月とスッポンというも愚かなりである。

私はオペラの演出はもとより、最近の指揮も演奏も退化の一途を辿っているとしか思えない。もっともトルコの恐るべきピアニスト、ファジル・サイなどが突如出現して腐れ耳の年寄衆を驚倒させる事件もときおり起こるから、端倪すべからざる再現芸術界とはいえばいえそうだが。

さて「イドメネオ」だが、曲は後年のダポンテ3部作に比べるともちろん見劣りするが、いずれのアリアも合唱もさすがモーツアルトならではの劇性と抒情に充ち溢れ、われらの耳目を釘づけにする。

面白いのは、表題役イドメネオの息子イダマンテに恋するヒロイン、イリアが歌う「手紙の歌」。趣向と曲想が「フィガロ」の伯爵夫人とスザンナの有名な手紙のシーンを先取りしているようだ。

歌手はまずまずの出来だが、ゆいいつ良いのは敵役エレクトラを歌ったエンマ・ベル嬢か。リュック・ボンディの演出は凡庸そのもの。もすこし真面目に仕事をせよ。結局さすがと思わされたのはスカラ座の管弦楽と合唱のみだった。


♪強き日本!明るき日本!と獅子吠せり国権病に罹りし男 茫洋

Wednesday, October 01, 2008

ダニエル・ハーディング指揮「ドン・ジョバンニ」を見る

♪音楽千夜一夜第42回

2002年のモーツアルト・イヤーに南仏エクサン・プロバンスの大司教館の中庭で行われたライブ公演である。
若き俊才ダニエル・ハーディングが古楽演奏のマーラー室内管弦楽団を勢いこんで振るのだが、ティンパニーの強打も夏の夜空に吸い込まれ、音も演奏も歌唱もすべてが散漫で薄っぺらに聞こえてしまう。こんなライブをよくも収録したものだ。

しかしさすがに見るべきはピーター・ブルックの演出で、シンプルな装置と色鮮やかな照明とシックな衣装を駆使して、あざやかに舞台を転換し、まるで現代演劇のように軽快に登場人物を操ってみせるが、地獄落ちの迫力は皆無である。

最後の六重唱を地獄に落ちたはずのドン・ジョバンニと、落としたはずの騎士の石像が脇に並んで聞いているというのは、いったいどういう意味なのだろう? 

歌手は中堅どころの実力派だが、いずれも可もなく不可もないまずまずの出来栄え。ということは、この名作の演奏史に付け加えるべきなにものもないということだ。ああ、往年の大指揮者の音楽と大歌手の歌声がげに懐かしい。

米帝の手前勝手な金融危機ただ一言も世界人民に謝罪せず 茫洋

Tuesday, September 30, 2008

若林宣編「戦う広告」を読んで




照る日曇る日第166回

大東亜戦争当時の日本は、国も国民も異常だったが、広告も異常だった。

「撃ちてし止まん」、だの「欲しがりません勝つまでは」、だの「七生報国」などという大政翼賛会のおかかえコピーライターが書いた見事な?檄文に産業界は一斉に飛びついた。

「億兆一心非常時突」「堅忍持久は最後の勝利だ」「土守る心が護る瑞穂国」(いずれも朝日新聞)、「健康翼賛」(わかもと本舗)、「鉛筆も兵器だ」「着剣した鉛筆」(トンボ鉛筆)、「スパイのご用心」(三菱鉛筆)、「机上挺身隊」(地球鉛筆)、「進め一億火の玉だ」(東芝)、「進め進め突撃だ、驕鬼米英撃滅の日まで」(塩野義製薬)、「一億挺身、報復増産」(住友化学工業)、「送れ飛行機、貯め抜け戦費」(住友銀行)、「みたみわれ大君にすべてを捧げささげたてまつらん」(三和銀行)みたみわれ力のかぎり働く抜かん(日本紅茶)、「皇国再起」(三和銀行)「国民総特攻」(住友通信工業)


などという現在も名前こそ一部変わってもしぶとく存続している大企業の戦争中の広告を眺めていると、つねに「新体制」に追随して権力と大衆に媚びるこの隠微な接客業の下卑た奴隷根性が、なまじ私自身にも見おぼえがあるだけに、見る者の心胆をそぞろ寒からしめるのである。

そして時と所、対象敵こそ異なるものの、今日も広告代理店や制作会社の片隅で、「屠れ米英我らの敵だ」、「感謝貯蓄は投資報国で」、「見敵必殺この戦果」、「富国徴兵堅忍持久」、「諸君の友達を射殺したアメリカの飛行機をたたき落とすために」などと同工異曲の大衆俗耳詩歌を作詞作曲する数多くの広告戦士たちが、60年前とまったく同一の精神構造とリテラシー機能を駆使して華やかに活躍している。

一言にして尽くせば、恐るべき破壊兵器が、純粋無垢な中立的科学者の脳髄から生まれてきたように、戦争と平和のイデオロギーは、まったく無思想な純粋言語技術専門家のお筆先きから今も昔も誕生するのである。


道端に斃れし獣一匹さも余の死骸に似たり 茫洋

Monday, September 29, 2008

西暦2008年茫洋長月歌日記

♪ある晴れた日に その40


逝く夏やあまたの栗を拾いけり 


紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ

名月や五人揃いし美人かな

道端に魚の尻尾が落ちていた

水に漬け叩きつけたるわがパソコン

おんどりゃ誰じゃあ正体明かせ

オラオラ、オンドリャガアア~

片脚を置いてどこかへ消えた人

一ヵ月発注がない怖さかな

彼岸花刈られず残りし力かな

月下美人誰一人見ず散りにけり 

紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ
 
この場所で死んだ人を覚えている


暮れなずむ夕陽か
はたまた朝焼けか
わが心なる行き合いの空 

生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む 

輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた 

道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った 

卒中の後遺癒えざるも
理髪師は
巧みにわれを切りたり

紺碧の翡翠
故地を
魔境に変える

佐渡の空
発信カードつけて飛び立ちぬ
100%中国産のニッポニア・ニッポン

ご丁寧に発信筒をつけられて
佐渡の空に放たれしは
中国産ニッポニア・ニッポン

結局は
他人がやっていることには興味がない
ということになるんだな

ドミンゴもフレーニもゼフィレッリもみな若かった
クラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜

スカラ座の罵倒にめげず
オテロ振る
カルロス・クライバーの雄々しき姿

われのみが
段ボールを捨てるらし
雨音しげき火曜日の朝

この場所で
確かに人は死んだのだ 
世界は死に塗れている

誰もが知っている
小さなことを
ひそやかに語りたい

「「満洲国」とは何だったのか」を読んで

照る日曇る日第165回

いわゆる満州国について私たちの父祖たちが行った行為について、私たちはあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか。
おりから珍しくも日本と中国の歴史家たちが共同で「満州国」について研究した成果を集大成した本書が刊行されたのは意義深いことだった。

日本から見ても中国から見ても、政治経済生活文化面から見ても、民族自決の観点から眺めても、日本帝国主義の軍事的侵略と植民統治の奇怪なアマルガムであるこの偽国家の威勢の良いでっち上げとその最後の土壇場の目も当てられない無様な崩壊は、日本人の本性をあますところなく全世界に見せつけるむごたらしくも口悔しい事例となった。

そしてその源流を垣間見るためには、「韓満ところどころ」で無邪気に一等国の優越感に浸って二等国民を見下していた漱石子規の時代、いな本当は日清日露以前の征韓論の時代までさかのぼらなければならないが、だがしかし、もしも一九三一年九月一八日の柳条湖事件なかりせばと思ってみるのも阿呆なことか。

とにもかくにも、頼まれもしないのに自分の勝手な都合だけでよその国に武装して乗り込んでいって、気に入らないやつを皆殺しにしたり、自分で鉄道を爆破しておいてそれを他人のせいにして罪をなすりつけたり、反対する者を投獄したり、拷問したり、「丸太」と称して生きたままでマウス代わりに細菌実験の検体にしたり、土地や財産を取り上げたり、異国の太陽神や王を拝ませたり、生産物や収穫の大半を取り上げて異国に送らせたり、それらの行為をけっして悪事とは認識せず、八紘一宇だの王道楽土だの五族協和のために行った素晴らしく善いことだ、もしもどこか悪い点があったとすれば、それはその悪事を余儀なくしたもっと悪い奴らのせいだと世界に向かって公言した。

侵略と植民地支配の被害の実体的質量は、加害者から見ても被害者から見ても共通して等価であるはずだが、その認識は、加害者には霞のようにおぼろで、時と共にすみやかに忘れ去られ、対して被害者側には子子孫孫にまで痛々しく伝承される。
私はこの本で今まで知らなかった多くの事実を知らされて、日本人の普段は柔和な心性の深奥部には秘められた爬虫類の暗黒領域が根強く横たわり、そこには武と暴への陶酔が現在もなおめらめらと隠微な炎を消さずにいるのではないだろうか?という疑いを懐いた。あるいはそれは万国に共通するフロイドが説いた「エス」に起因するのかもしれないが。

満州には自分で望まずに渡った人やかの地で生まれた人も数多くいたが、志願して渡満した人もいた。漱石の「それから」に登場する平岡は、三部作の最後の「門」では安井と名前を変えるが、彼は日本ではうまく行かず、満州へ行って一旗揚げようとたくらむ。

帝大を出たインテリの安井には満州が日本の正当な領土であるという確信などあるわけがない。しかし、うさんくさい新天地ではあるが、もしかするとそこは己の胡散臭さにふさわしい新世界かもしれない。すでに先が見えたこの本国にはないものが満州にはあるかもしれない。その海のものとも山のものともつかない新天地で新しい自己実現を果たそうと見果てぬ夢を見るのであるが、まさにそのときこそ一個人が自覚的に侵略に乗り出した瞬間ではなかっただろうか。

のちになって日本帝国は余剰国民男女を国策で強制的に満州へ移民させるが、当時の日本には左翼崩れをはじめそういう了見の人物がごまんといたのである。

♪一ヵ月発注がない怖さかな 茫洋

Saturday, September 27, 2008

残雪の「暗夜」を読んで

照る日曇る日第164回

そういえば私も時々夢を見る。いつものように見る夢だ。会社でリーマンをやっていたときの話だ。

わが親しきリーマン・ブラザーズが続々と登場して、中間管理職の私に対してある種の決断を迫るのだ。

会社はバベルの塔のような高い高い塔の上に聳えていて、いつも雲や霧で覆われている。

塔の下は荒涼たる海原だ。世界の中心からきびしく隔離されているので訪れる人もまばらだ。私たちリーマンは外来者に期待せず、またわずらわされることもなく、ここ数カ月来のテーマである、「父母未生以前の真面目とは何か」に真摯に取り組んでいた。

部下Aが「それは天然の旅情というものではないでしょうか」というので、私は少し考えてみたのだが、どうもその答えは問いに対して正しく答えているとは思えない。しかしその答えのどの点が正しくないのかさっぱりわからなかったので、仕方なく、「天然の旅情から父母未生以前の真面目が誕生しないとは言えないけれど、この問いが期待している答えとは、そのような情緒的なものではないでしょう。もそっと実証的なもの、もそっと科学的なものではないだろうか」と答えた。すると部下Bが、「では課長、そのもそっと実証的なもの、もそっと科学的なものとはいったいどういうものなのですか」と迫ってきた。

困った私が思い余って波が立ち風が荒れ狂う眼下の海を眺めやると、おりよく巨大な一羽の鳳がやってきた。

鳳はその優美な形態に似合わない不気味な声でひとこえ鳴いたが、その鳴き声がなにを意味するのかは私にはさっぱりわからなかった。部下Aにも理解できないようだ。

そこで部下Bが鳳に「Never more?」と大声で尋ねると、鳳は目玉をぎょろりと半回転させて、しかし何も答えず、胸壁で見張りに立つ私たちリーマンの帽子を灰色のくちばしで順番にたたき落してから、小雪が舞い落ちる暗黒の空高く舞い上がったのであった。
♪彼岸花刈られず残りし力かな 茫洋

Friday, September 26, 2008

続 ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読んで

照る日曇る日第163回

秀吉、家康を経て我が国は鎖国に突入したというこれまでの学説を全面的に否定したのがロナルド・トビさんの本書である。幕府は一方ではキリスト教を禁じ、日本人の海外渡航と帰国の制限、ポルトガルの追放を行ないつつも長崎、対馬、薩摩、松前の「4つの口」を絶えず開放して琉球、朝鮮、中国、ロシア、オランダなどの異世界との交易と情報交流を継続しながら幕末に至ったと説く。それはそうかもしれないが鎖国体制が存在しなかったとまでは強弁できないのではないだろうか。

それはさておき、この本の面白さは朝鮮通信使など絵画に描かれた異国人の解説である。異国人をどのように描くかは、日本人がどのように異国人を認識しているかということでもある。南蛮人と出会う前の日本人にとって世界は、「本邦」と「唐」、「天竺」の3つの世界しかなかった。「三国人」から多国籍「万国人」への視点の広がりに対応して、我が国の画家たちはそれまで類型的であった「毛唐人」の顔や体形や衣服や装束を琉球人と朝鮮人と中国人の実態に合わせて写実的に描き分ける様になるが、それは正確な国境の測量と地図の完成に比例している。

著者が次々に取り出してくる絵画や地図が興味深いのは、そこに当時の日本人たちの世界観と彼らの自己同一性の位相がはしなくも表現されているからである。

江戸時代の初期まで我が国の成人男子はひげを蓄えるのがマッチョとされて一般的だったが、幕府が安定してくると後水尾天皇の頃からはそりおとすようになる。黒澤明の「七人の侍」では不精な有髭だった武士たちが、ゴリゴリの法治国家となった近世では無髭を強制され、「月代・髷・ひげなし」の三点セットが日本の「国風」をあらわす身体的な特徴になった。とトビさんは説くが、なにあと二〇年もすればこの国も、もっとゴリゴリの超国家主義体制が一世風靡して、新しいメンズファシズム三点セットが汝忠良なる臣民に強要されるようになるだろう。

それはともかく、第三章「東アジア経済圏のなかの日本」、第五章の「朝鮮通信使行列を読む」や第六章「富士山と異国人の対話」などは通史の枠をはみ出して生き生きと叙述され、これは小学館版「日本の歴史」の白眉と言うてもあながち愚かではないだらう。

♪ご丁寧に発信筒をつけられて佐渡の空に放たれしは中国産ニッポニア・ニッポン 茫洋

Thursday, September 25, 2008

ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読む

照る日曇る日第162回

 663年の天智天皇の「白村江の戦」は同盟国の救援という大義名分があったとしても、豊臣秀吉による文禄・慶長の役は明々白々な海外侵略であった。

この狂気の戦によって日本軍は多数の敵兵を殺しただけでなく老若男女の民間人を貴賤の別なく殺戮し、その耳や鼻を大量に切り取り、塩漬けにして秀吉のもとに搬送したのみならず、島津、藤堂、伊達、毛利、加藤、小西などの諸将は数万人を下らない朝鮮人捕虜を一種の戦利品として国内に拉致し、陶工を有田、唐津、萩、薩摩苗代川などに監禁して陶磁器の生産に従事せしめ、あまつさえ少なからに人数を東南アジアやヨーロッパに奴隷として売りとばした。

 私たちは北朝鮮による日本人の拉致を金正日の専売特許のように非難するが、それに先駆けてそれと同じような行為を私たちの英雄と称えられるご先祖たちが大手を振って敢行していたこと、またこれらの蛮行はすぐる大戦においても帝国軍人によって各地で繰り返されたことを忘れてはいけないだろう。

秀吉のみならず隆盛、利通などの明治の元勲たち、そして昭和の軍人の一部はとかく中国、朝鮮、台湾、琉球などの異邦の人々を己よりも下位に見てもっぱら軽侮、差別し、軽々に植民地支配を企図し、実践したが、本書では三代将軍家光が明朝の再興をめざす鄭芝龍一派に加担して対清遠征軍派遣計画を立てていたという驚くべき史実が明らかにされている。(137p)

私たちの黄色い肌の下には、何世紀経っても侵略戦争大好きのDNPが潜流しているのであらうか。


♪結局は他人がやっていることには興味がないということになるんだな 茫洋

Wednesday, September 24, 2008

さらばプロムス2008




♪音楽千夜一夜第41回 

この夏8週間にわたって英国各地で繰り広げられたプロムス2008が9月13日のラストプロムスをもって終了した。

私のパソコントラブルのために多くのプログラムが聞けなかったのは残念だ。諏訪内選手の鋭いヴァイオリンは聞けたが、ポリーニやブレンデルやウチダミツコを耳にすることができなかったのも残念無念。毒にも薬にもならないサイモン・ラトルとベルリン・フィルのただうるさいだけの演奏にはほとほとうんざりしたが、晩年の輝きに静かに燃えるベルナルド・ハイティンク指揮のシカゴ響が素晴らしいマーラーを聴かせてくれた。

若くしてロイヤルコンセルトヘボーのシェフとなってフィリップスに数多の凡庸な録音を残したこの大根指揮者が、よくぞここまで円熟の境地に達したものである。どうかベルリン・フィルと果たせなかったマーラーの交響曲の全曲録音をシカゴと入れてほしいものだ。

ここ数年は私も疲れ、英国も、世界も、さだめしあなたも疲れ、古典音楽じたいぐったりと疲れているせいだかなんだかよくわからんが、ともかく最終日のあの熱と感動が失せていくのはいかんともしがたいところである。往年のマルコム・サージェント、コリン・デービス、アンドルー・デイビスの熱っぽい演奏といかにも英国人らしいスピーチが懐かしい限りだ。あの英国ナショナリズムはちょっとグローバル・ナショナリズム的なところがあり、「なるほどこれがかつて7つの海を制覇した大英帝国の歌の根っこなのか」と判然とするところが、すこしくありますね。

去年はチエコの凡才ビエロ・フラーベックだったが今年のトリはロジャー・ノリントン爺。例のノン・ビブラート奏法でワグナーやらベートーヴェンのなんと合唱幻想曲を狼少女エルモーのピアノで格調高く演奏したが、エルガーの「希望と栄光の国」をノンビブラートで演奏する暴挙に出たニリントンはただの馬鹿野郎か。テンポもリズムもめちゃめちゃで英国国歌につづく恒例の「蛍の光」のア・カペラの大合唱も聴衆のノリはいまいちだった。結局ターフェルの巨大な一吠えにシカない小手先だけの演奏だ。

来年はどうあってもアンドルー・デイビスをアメリカのピッツバークから呼び戻してBBC響を♪ヒップ、♪ヒップ、♪ヒップさせてほしい。


♪ドミンゴもフレーにもゼフィレッリもみな若かったクラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜 

♪スカラ座の罵倒にめげずオテロ振るカルロス・クライバーの雄々しき姿 

Tuesday, September 23, 2008

息子の言葉『父の遺したもの』第2回

ある丹波の家族の物語 その10&♪遥かな昔、遠い所で第83回

オルコット作「若草物語」を読んでの父の感想は、次のようなものでした。
「何でも買うことのできる金持ちは不幸です。」

また父は、特殊学級の先達者、杉野春男氏(小倉市、四七年モスクワ空港で没)の「花に水やりを教えられた精薄児が、雨の中、傘をさして水をやる姿に感動す。」という言葉をメモしていますが、私は、障碍児を孫に持った父なりの関心と苦悩がこれを書かせたのだろうと想像しています。

キリスト者としての父については、実は私はよく知らないのです。けれども信仰が父の生きる糧であり、絶えず聖書の言葉を胸に刻みつつ生活していたのは、熱意と集中力をもって書き遺された聖句のメモがおのずとそれを物語っています。とりわけ私が驚かされたのは「ヘブル書一一章」と「使徒行伝七章」。この二つの章は旧約聖書を凝結したものである」との断定でした。

さらにまた五九年四月二二日、イースター昇天祈祷会における中島牧師の言葉、「イエスの復活は信仰の出発点である。」も、父の心にしっかりと触れたのでしょう。

父はおそらくこうしたメモを下駄の商いを営んだと同じ、暗くて狭い仕事場で書きつけ、折にふれて思考を反芻し、一人の信仰者として、一人の市民として、一介の商人としての在るべき道を必死で摸索し続けたのでしょう。

私は息子として、そのことにいささかの感銘を覚えたものですから、父の許しも得ずに、つい長々と駄文を連ねてしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、いま何者かに一生懸命に次のように祈りたいと思います。「死せる父よ、死んでも私たちと共に在って、私たちを見守ってください」と。

一九八五年九月一三日


♪丹波竜わたしの実家を闊歩して 茫洋

Monday, September 22, 2008

息子の言葉『父の遺したもの』第1回

ある丹波の家族の物語 その9&♪遥かな昔、遠い所で第82回


父が私たちの前から、それこそ忽然として姿を消してから早や1年を迎えようとしています。

最近の日本人の平均寿命からいえば、短すぎた生涯ではありましたが、その最後の瞬間が、隣人への奉仕に捧げられていた事実に象徴されるように、その71年の生は父なりに充実し、終始一貫していた一生であったように思います。

百年余の歴史を持つ地方の商家をつつがなく経営し、3人の子供を大学にまで入れてやり、信仰を培い、傍目もうらやむ夫婦愛を晩年に至るまで守り育てた男、それが父でした。
当たり前といえば当たり前、世間でよくある話じゃないかといわれればそれまでですが、その平凡な人生を、普通の人として淡々とやり遂げた父と、その父を傍らで力いっぱい支え続けた母に対して、私は大きな拍手を贈ってあげたいと思います。

父は死後2冊の小さな覚書を残しました。粗末なメモ用紙に父らしい几帳面な筆致で晩年の日々に書き残されたこれらの文章の多くは、やはり父自身の言葉ではなく、古今東西の作家、思想家の言や、聖句からの引用であります。

内村鑑三、椎名麟三、夏目漱石、キェルケゴール、ドストエフスキー、森有正、遠藤周作、亀井勝一郎、マリア・テレサといった有名人の言葉に交じって、次のような書き抜きがありました。

「五七年一月一三日、ワシントン・ポトマック川に航空機墜落の時、一人の紳士ヘリコプターの命綱を二回も人にゆずり、自らは河の中に沈んだ。」

おそらく父は、もし自分がこの紳士の立場にあったらどう振る舞えただろうと何度も自問したに違いありません。


♪一歩くたびにポケットの中で鳴くんだよニイニイゼミが 茫洋

孫の言葉『おじいちゃん』第3回

ある丹波の家族の物語 その8&♪遥かな昔、遠い所で第81回


八月九日 ねんど

きのうねんどで遊びました。

はじめハンバーグを作って、クッキーも作りました。クッキーは、ABCDEFGHIの形にしました。

おいじちゃんに「おひとつ、どうぞ。」と言ったら、「お、上手にしたなあ。」と言いました。

ボールも作りました。そのボールで、おじいちゃんとキャッチボールをしました。

ねんどは重いので、ちょっと手がいたかったです。


八月十日 おはかまいり

今日の朝、早起きをして、おじいちゃんとお母さんとおはかまいりに行きました。

じょうろで、花立てのところに水を入れて、持ってきたトレニアとしゅうかいどうをさしました。

そして、おまいりをしました。

「○○の、おなかに赤ちゃんができました。どうか、元気な子が生まれるように守ってやってください。」とおじいちゃんが言いました。○○とは、お母さんの名前です。

そして帰りました。


♪誰も知っている小さなことをささやかに語りたい 茫洋

Saturday, September 20, 2008

孫の言葉『おじいちゃん』第2回

ある丹波の家族の物語 その7 ♪遥かな昔、遠い所で第80回


一二月二九日 おてつだい

 おじいちゃんは、はき物店をしていて、毎日げたをすげていました。

わたしが「げたのうしろのシールをはる。」と言って、シールのカンをとって中のシールを出しました。

シールには「てらこ」と書いてあります。お店の名前が「てらこはき物店」だからです。

できあがったげたへどんどんはっていきました。

はりおわって、たいへんな仕事やなと思いました。


小学四年生、夏休みの日記から
八月三日 ほたるがり

きのうの夜、おじいちゃんとほたるがりに行きました。

川の近くに一ぴきいました。

「ほら、あれがほたるだよ。」とおじいちゃんが言いました。

わたしは生れてはじめてみました。

「本当、きれいね。星みたい。」
わたしは空の星とほたるを見くらべました。

おじいちゃんが、「つかまえられないから帰ろうか。」

「うん。」と言って帰ろうとしたら、もう一ぴきいました。


♪耕君はいま昼食を喰らいつつ今晩のメニューを尋ねる大谷崎に似たり我が家の長男 茫洋

Friday, September 19, 2008

孫の言葉『おじいちゃん』第一回





ある丹波の家族の物語 その6 ♪遥かな昔、遠い所で第79回


―小学三年生、冬休みの日記から
きょうはおじいちゃんと、なわとびをもっておはかまで、さんぽしました。

おはかについて、さかをのぼっていくと「○○家」とかいたおはかがありました。○○とは、おじいちゃんのみょうじです。

中に入ってみると、おはかが五つありました。手をあわせておいのりをしてから、おはかのまえでなわとびをしました。

あとでおじいちゃんが「じゅうじかのところまでいってタッチして、またもどってくるからとけいではかっといて。」と言いました。わたしは、ちょうどデジタルどけいをもっていたので、「いいよ。」と言いました。

「よーい――どん」と言ったとたんにおじいちゃんがはしりました。じゅうじかにタッチしてもどってきました。そしたら、なんと五四秒でした。


♪紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ 茫洋

Wednesday, September 17, 2008

父の言葉『思い出の記』第四回

ある丹波の家族の物語 その5 ♪遥かな昔、遠い所で第78回


「おそらくキリスト教より立派な宗教があるかもしれない。それだのに、そんな宗教をさがさないのは、キリスト教が私の求めるものに対して必要にしてかつ十分な保証を与えてくれているので、他の宗教を探す気になりません。」

干天で乾ききった土に慈雨が降ったように私の胸にしみとおりました。この文を目にしたことを心から感謝します。

神よ、常にこの迷える者にみ手をさしのべてください。1980年五月『丹陽』第三号より

―テモテヘの第二の手紙
「私が世を去るべき時はきた。私は戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠が私を待っているばかりである。


♪紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ 茫洋

父の言葉『思い出の記』第三回

ある丹波の家族の物語 その4&♪遥かな昔、遠い所で第77回



さて、誠にたよりない足取りで信仰の道をたどりはじめましたが、聖書に記されている数々の奇跡を、如何様に頭でなく心で受け入れる信仰をもつことができるかと、迷い続けました。

この世の常識を越えたい岩のようなこの難関を突破しなければと、立ち向かうたびにハジキ返される思いをしました。そして、私ごとき者は、とてもみ救いにあずかる信仰は持つことはできないのではないかと思っていました。―私の拙い筆ではこのあたりを上手に表現できないのです。―

 水に浮かぶ根なし草のようなこの信仰を力づけ、励ましてくれたのはクリスチャン作家椎名麟三氏―戦争中筋金入りの共産党員として検挙され、長い間東京の警察署をグルグルとタライ回しされている間に、神の存在を知り転向した人―の「生と死に就いて」の中で書かれた次の文章でした。

「一体信じられないことは信仰の浅さや罪の深さの証明でせうか。端的に申し上げれば、キリスト教には信じるか信じないかのようなせっぱつまった自刃のやいばは持っていないのであります。キリスト教においては不思議なことと思われませうが、信じられないということもそのまま充分に生きていけるようにされています。」

この場所で確かに人は死んだのだ 世界は死に溢れている 茫洋

Tuesday, September 16, 2008

父の言葉『思い出の記』第二回

ある丹波の家族の物語 その3 ♪遥かな昔、遠い所で第76回

 私は、子供のころから今日まで、内向的で人見知りする性で、しばしば自己嫌悪におちいることがあります。そして早くから罪ということを意識していました。

 どの兄も私を無理に教会に連れて行くことをしませんでした。私自身、このような罪ある者は教会に行く資格なしと、愚かにも敬して遠ざかっていました。

 旧制商業高校を出ると兄の商売を手伝って、ますます礼拝出席がおろそかになりました。その間にあって、今に至るまで頭に焼きつき忘れ得ないのは、「汝らのうち罪なき者まづ石を投げうて」のみことばです。

このみことばに就いて評論家、亀井勝一郎氏は「私は感動なくしてこの一節を読むことはできません。その背後にある大沈黙が私を感動させるのです。深い叡智と偉大な愛情のごとき沈黙に感動します。」と書いておられますが、私はわが意を得たり、とうれしく思いました。

が、次の文章で「キリスト信者の最大の嫌みはその罪悪感であります。彼らは自分はこのような苦しみを経験した。このような罪を犯したと罪の意識を忘れぬようにし、懺悔こそ神に愛される道であると安心して、罪の意識の深さを誇るのは傲慢である。」とあります。

これには衝撃を受けました。氏の説が全部正しいとは思いませんが、大いに反省させられました。

♪水に漬け叩きつけたるわがパソコン 茫洋

Monday, September 15, 2008

ある丹波の家族の物語 その2

♪遥かな昔、遠い所で第75回

父の言葉『思い出の記』第一回

私は大正二年、岡山県倉敷市に生まれました。父は、私が九歳の時に亡くなりましたが、姉一人、兄六人、妹二人という賑やかな家庭でした。

倉敷教会は、田崎健作先生の精力的な伝道で発展し、県内でも指折りの教会になっていました。

 母と長兄夫婦は弘法大師を拝んでいましたが、五人の兄は大学在学中に洗礼を受けました。私のすぐ上の兄、豊は母に内緒で同志社大学神学部を受験、合格しました。母はとても立腹しましたが、田崎先生の説得に折れて入学を許しました。

 同級に東方信吉先生がおられました。この兄が在学中夏期伝道のため、ひと夏綾部に来て、当時小学生だった家内らと共に楽しく過ごされたそうです。

 また後年、東方先生が丹陽教会を牧されたことをお聞きしてその巡りあわせに驚きました。


われのみが段ボールを捨てるらし雨音しげき火曜日の朝 茫洋

Sunday, September 14, 2008

ある丹波の家族の物語 その1

♪遥かな昔、遠い所で第74回

 ―心は、すすがれて良心のとがめを去り、体は、清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。『へブル人への手紙10-22』

 ―霊魂のない体が死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。『ヤコブへの手紙』


母の言葉

 今年も昨年のような暑い夏がやってきました。
 しかし、朝露にぬれた、野あざみを、野菊、河原なでしこ、そして、つりがね人参など、私の好きな野の花々を、朝のジョギングの帰りの折々に摘んでくれた夫は、もう帰ってきません。
 私の朝は七時の露台の草花の水やりから始まります。今朝も、お水をやりながら田町の坂を下りてくる夫のズックの足音を、口笛を、心待ちに待つのです。
 思ってもみない日、突然、夫が帰って来ない人になってから、早や一年が経ちました。
 一年経っても、まだ心のどこかに、夫の帰りを待っている自分に驚きます。
 子供たちが四〇歳になるのですから、結婚して、それだけの歳月はたしかに経っているはずなのに、その長さが嘘のような気がします。
 何か夫の記念になるものをと思いましたが、思いつかぬままに、先年丹陽教会発行の『丹陽』に書かせていただいた文章をお目にかけることにしました。
目立つことの嫌いな、自己主張をしない人でしたので、他にはメモはあっても自分のものとしては、書き残している唯一のものです。
 その文章の中にやさしい故人を偲んでやっていただければ幸いに存じます。


                             一九八五年八月


暮れなずむ夕陽かはたまた朝焼けかわが心なる行き合いの空 茫洋

Saturday, September 13, 2008

「七人の侍」再見

照る日曇る日第161回

このあいだBSでやっていたのでまた見たが、さすが黒澤の名作、なかなか面白かった。

以前見たとき宮口精二演じる久蔵が野武士の棟梁から種子島で撃たれて死ぬ。そのとき倒れながら投げつけた刀が刺さって頭目は絶命した。と長い間思っていたのだが、実際にはそんなシーンはなかったのでガッカリした。あれは私の幻影だったのだろうか。しかし、しかとこの目で見たはずだ。黒澤の演出よりも、私の幻案のほうがずっと優れていると思うのだがどうだろう。

村娘津島恵子に惚れて初体験した木村功は、ラストで大いに迷う。武士を捨てて村に残るか、娘を捨てて武士にとどまるか。その去就を描かずに映画を終わらせたところがオシャレである。また二人のラブシーンはスタッフが手植えした花々で美しく彩られており、豪雨の大決戦と見事なコントラストをなしている。

しかし欲をいうなら、七人の侍のうち最初に死ぬ千秋実と二番目に死ぬ稲葉義男の容貌がなんだか似ているのは良くない。もう少し別の顔を用意してほしかった。

味方は七人、敵の野武士は四〇人。七人はその四〇人を全滅させたが志村喬、加東大介、木村功を除いて四人とも火縄銃で撃たれて死んだ。敵が所有していた銃は全部で三丁。うち一丁は宮口が、もう一丁は三船敏郎の菊千代が敵から奪っているので、残りのたった一丁が三名の味方の命を奪ったことになる。

宮口が単身森の敵中に忍び込んで銃を奪ってきたときには賞賛されたのに、三船がもう1丁を奪って帰還したときには、軍律違反だと志村から非難され、持ち帰った火縄銃はその場で打ち捨てられて顧みられなかった。もっと敵の飛び道具にきちんと対処しておけば愛すべき主人公たちをむざむざ殺されることにはならなかったはずなのである。もっとも一九五四年度のヴェネチア映画祭で銀獅子賞はもらえなかっただろうけど。

しかし私は、ここに七人の侍のみならず武田勝頼、そして後年の日本の軍隊にも見られた「飛び道具(近代兵器)の軽視と蔑視」という懐かしい土着のにおいをかぐ。ノモンハンの悲劇や万歳突撃、戦艦大和の悲壮な最期につながるあの前近代的な鍋釜土着思想の残滓を。


♪たった一個生りたる西瓜食べにけり今日から短期入所する息子と共に 茫洋

パソコン音痴の嘆き

♪バガテルop71

この夏楽しかったことはなんといっても利尻礼文島への旅行だった。そしてその反対は、わがパソコンのスパイウエア感染である。おかげで8月18日からおよそ1カ月近くこの日記の書き込みはおろか原稿書きすらできないという悲惨な状況に陥ってしまった。

結局電機屋さんに修理に出して悪性ウイルスを駆除し、ついでにこの際だからというので、メモリー、HDDを増設し、オフィスを2007に入れ替えて4,5年前に買ったパソコンの再活性化を図ったのだが、ここでまたしても別の問題が起こった。画面の文字が以前よりぼやけるのである。

PCとモニターの両方の設定をいろいろ変えて試してみたのだが、いまなお改善されない。今回の事故の間に急いで購入したOSがヴィスタで同じオフィス2007のPCは文字も画像もきわめて鮮明なのに、と腹立たしい限りだ。ちなみに事故ったPCはウンドウズのⅩPで「アウトルック・エクスプレス」、新しいやつは「アウトルック2007」なのでもしかするとその互換性の問題があるのかもしれない。

さらにもうひとつどうにも不可解なのは、メールである。私は便宜上2つのPCとも同一のメールアドレスを使用していた。事故の後も同じように設定したはずなのに、「PCその1」から「PCその2」にメールを送っても相手に届かない。その逆もだめ。外部からのメールは2つのPCにちゃんと入っているのに、これはいったいどうしてだろう?

さらにさらに、不要パソコンのファイルを破棄するためにPCの蓋を開いて内部の部品に触っても感電死しないだろうか? 説明書には「危険につき分解するな」と書いてあるのだが……。

♪名月や五人揃いし美人かな 茫洋

Thursday, September 11, 2008

西暦二〇〇八年茫洋葉月歌日記 続編

♪ある晴れた日に その39


今宵一夜の想い出にと
エーデルワイスを歌いしは
礼文船泊のホテルの女

小巻貝に
食われし冷た貝の成れの果て
船泊の浜にうずたかし

利尻富士は富士よりうるわし
利尻山より落つる水
うまし

走れども走れども一台の車なし
車なき礼文の人の
喜びと悲しみ

八つ手の葉っぱの上で
何度も羽を開いたり閉じたりしている
ヒメジャノメよ

耕君のため
巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた木さんに感謝す
ありがとう

2月に母親が行方不明になった家
夏空に
洗濯物が揺れている 

たった1個なりたる西瓜
食べにけり
今日から短期入所する息子と共に 

毎日毎日
三浦スイカを喰らう限り
わが夏は終わらざるべし

西暦二〇〇八年茫洋葉月歌日記 正編

♪ある晴れた日に その38


脳天を震撼させてアブラ鳴く

一日に二匹の蝉を拾いけり

幼虫をトイレに捨てたる息子かな

先祖累代油蝉は鳴き続けてきた

世界一速き男の脇見かな

観衆を見物しつつゴールせり

敗者にもわれが授けむ月桂樹

利尻島一軒の魚屋もない豊かさよ

全村の踊りは長し利尻町


新宿の西口地下の中華屋でフィリピン女性が運びしラーメンを食う

健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり 

生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ 

道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉


電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り利尻礼文の海山に着きたり

利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉ひがなジジッと鳴きおり

いつまでも村人たちは踊りたり余りに短き利尻の夏に

漆黒の闇を揺るがす大太鼓 利尻の民はみな踊りたり

大太鼓利尻の夜を揺るがせて老若男女みな踊りたり

選挙迫り地元議員は浴衣着て山車に跨り太鼓叩くも

沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか

ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし

利尻にはただ一軒の魚屋なし魚屋なしに魚喰う人の幸

わが国の最北端の岬にて営業す民宿スコトンはとことん商人

樺太を追われて来たるアザラシはサハリン1、2の犠牲者なるかな

リーダーは頭を一旋加速せりいずこへ急ぐや樺太アザラシ

きのうオホーツクより南下せるアザラシの群れ日本海目指す

利尻富士に聖なる神が居ますゆえ蛇は棲まぬと親爺説きけり

荒き波荒き風より生まれたり荒磯に咲けるあら波の華

福岡や沖縄生まれの人もいて人口5千の最果ての島

バスガイドはなんと沖縄生まれなり人口5千の最果ての島

桃太郎が空に向かって投げつけし強大な岩を桃岩というにや

にやうにやうと哀しき声にて鳴きにけり最果ての空にウミネコどもは

ウミネコはかうかうとも鳴いていた最北の地の最果ての空

ノコギリソウツリガネニンジンウスユキソウエゾカワラナデシコなど咲いておりたり

朝五時にサイレン鳴りて島民はこぞって昆布漁を支援するなり

昆布干しは過酷な仕事よ村人はいくたびも葉を浜に並べて

「冷た貝」に食べられてしまった「小巻貝」礼文の浜に静かに眠る

さいはての冷たき海に沈みけり真っ赤に燃えし礼文の夕陽は

立秋の宗谷の海が尽きるところ水平線に樺太現る

最北の宗谷岬の突端で遥かなる島樺太見たり

樺太はわが指呼の間に横たわる海と空とが接するところに

サハリンと呼ばず樺太と言うバスガイド国家主義者ならねど好ましと見る

台湾人は怒鳴るがごとく会話せり礼文稚内のフェリーの中で

稚内の青物市場で買った富良野メロン余す所なく食べにけり

稚内の生鮮市場で買うた蟹一匹残らずわれ食いにけり

遠ざかる利尻礼文の海と山わたしの夏がゆるゆる暮れて