照る日曇る日第208回
鎌倉時代の農民とは一線を画して、海賊をも業とする海民、殺生をも業とする山民の世界があった。
11世紀半ばに「鬼の子孫」と自称し、都の人々からもそう呼ばれていた京の都の郊外の里に住む八瀬童子は、代々刀自に率いられた集団であったが、山門の青蓮院門跡に属し天皇の賀輿丁もつとめた彼らは、炭を焼き、薪を売るなどの山仕事を業とする山の民だった。
大原の里に住む人々もこれと同様な集団で、当時の大原女は鈴鹿山の女盗賊と同じように荒くれだった炭売り商人であり、現在の鄙びた花売り娘とはまるで違う逞しい存在だった。
桂、大井、宇治など山城を中心に流れる河川のすべてを漁場として天皇から認められていた鵜飼の女性たちは、大原女と同様に頭に白い布をまき、鮎などの魚を売り歩く商売女であった。
宝冶2年1248年、漁場の争いに激昂した桂女たちは院の御所に集団で押しかけちょうど退出してきた摂政近衛兼経の背に向かって声高に罵ったという。
その桂女は室町時代から特徴あるかぶりものをかぶる遊女の一種とみなされ、そのたおやかな優艶さで知られるようになっていくが、これを女性の存在の仕方の時代的進化と呼ぶのか退化と呼ぶのかは微妙なところである。
♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーこそは闘士なりけり 茫洋
♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーのごとき裁定者欲し 茫洋
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