照る日曇る日第206回
ポール・ニザンは1905年トゥールに生まれ、独ソ不可侵条約に衝撃を受けて共産党を脱党した39年に召集され、翌40年にダンケルクから撤退の途中、不幸にも敵弾に当たって戦死した。享年35歳は奇しくもモーツアルト、正岡子規と同年である。
ニザンはサルトルと同様超エリート校、高等師範学校に進学したが、1926年、パリの腐敗堕落したブルジョワ生活に絶望して(あのアルチュール・ランボオも訪れた)イエメンの不毛の地アデンに逃走し、およそ1年間の滞在の後に本書を書きあげた。
出発の前年の20歳の時にはファシスズム運動に参加していたのに、アデンから帰還するとフランス共産党に入党するのだから、その間の思想的な振幅はかなり大きかったに違いない。
「僕は20歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」
という冒頭の一句は昔から人口に膾炙する名文句として知られ、(私には「けっ、なんてキザであほなやつ!」としか思えなかったが)、なかにはそのロマネスクとリリシズムに感動してアデン、アラビアならぬアジア、アメリカ、ヨーロッパに旅して故国に帰らぬ若者までいたようだ。
しかしそれに続く文章はそれほど華麗なものではなく、むしろ苦渋に満ちたものだ。内容も若々しく真摯ではあっても独創的な思藻はほとんどなく、知識人によくある青春の悩みという程度の代物にすぎない。
しかし当時極度に消耗し、思想的大混乱のさなかで自己崩壊寸前に立ち至った著者が、旧世界の中で居場所を失なった己を立て直すために、思い切って遠いはるかな地平に投げ入れることを決意し、その空間移動と異郷体験によって己の心身がこうむった変化について沈着冷静に観察、報告していることだけは高く評価できよう。
遠い旅から帰還した若者の感想は、次のようなものだった。
「結局、僕のヨーロッパに対する考え方は出発前とちがうものになっていた。ヨーロッパは死んでなどいない。ベンガルボダイジュのようにあちこちに副次的な根を伸ばしているのだ。まずはこの株を攻撃しよう。この木の葉陰で、誰もが死ぬ」
♪ねえニザン20歳がもっとも醜いときだなんて誰でも知ってるさ 茫洋
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