照る日曇る日第209回
「立正安国論」を書いて国難に臨む執権時宗に意見具申をはかった日蓮は「念仏は無間地獄、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説なり」という「四箇の格言」を掲げ、モンゴルを退けうるのは日本第一の法華経の行者われをおいてほかになしと小町の門々で絶叫したために、文永8年9月12日、得宗御内人の代表的人物平頼綱によって逮捕され、いままさに瀧口寺で処刑されようとした。
伝説では「一天にわかにかき曇り大なる雷鳴なりひびき刀は宙に舞いにけり」ということになってはいるが、実際には平頼綱の最大のライバル筆頭御家人の安達泰盛の時宗への進言の結果である、と著者はいう。蒙古襲来の前夜、鎌倉幕府の御家人と得宗との対立はぬきさしならぬ様相を呈していた。
九死に一生を得た日蓮であるが、その説教はますます火を吐くように過激になり、その攻撃の矛先は鎌倉極楽寺の勧進上人、忍性に向けられた。
日蓮は、「生身の如来」と仰がれながらじつは布絹財宝を貯え、利銭借請を業としている生臭坊主の貧民への施しは偽善でしかない、と弾劾し、この年の大旱魃に当たって祈雨の法験を争おう、と忍性に挑んだのである。
北条一門と癒着する宗教者のみならず北条政権そのものに対してもまっこうから批判を加え始めた日蓮は、はげしい弾圧に身をさらしつつ、この弾圧それ自体のなかに法華経の真理のあかしを読み取り、その確信のなかから「われはセンダラ(賎民)が子、片海の海人が子」という発言が生まれた。権力の課した過酷な弾圧は、ここに一個の不屈の思想家を誕生せしめたのである。(P139)
しかしながら日蓮は、「モンゴル来襲の非常時に忍性ごときを信じている輩は殺され、女は他国へ連れ去られるだろう。白癩・黒癩・諸悪重病の人々、多かるへし」と差別的妄言を吐いている。かれども、その癩病の患者を背負ってこれを救おうとした人こそ、ほかならぬ忍性であった。
♪異邦人を愛したことのない人は永遠に彼らを差別するだろう 茫洋
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