Wednesday, December 17, 2008

堀江敏幸著「未見坂」を読んで

照る日曇る日第204回


一天にわかにかき曇るとものすごい強風が吹き募り、大粒のにわか雨が降りはじめたある夕べ、突然家がつぶれるのではないかと思うほどの衝撃があった。

慌てて家族全員が店の表に飛び出してみると、てらこ履物店の傍らに立っている木造の大きな電信柱がぽっきりと折れ、見たこともない1台の自動車が巨大な褐色のカブトムシのように木の根元に停まっていた。

米軍のジープだった。ジープのそばには3名の兵士がヘルメットから雨しぶきを滴らせながら呆然とたちすくんでいたが、やがて真ん中の真黒な顔をしたいちばん背の低い兵隊が、やはり真黒な瞳を持つ大きな目玉をおずおずと動かしながら、懸命に彼らが犯したあやまちを詫びようとおそらくはアイアム・ソリーとでもいうような外国語を何度も何度も分厚い唇から発した。

それが私がうまれてはじめて耳にした英語であり、はじめて目にした黒人だった。

これは私が本書に触発されて書いた例文であるが、例えばそのような、ある任意の時代の、ある任意の街の、ある住人たちの身の上に起こるささやかな、しかしなかなかに忘れ難い事件や経験を、作者は慌てず急がずに言葉を選び、その言葉を舌の上で何度も転がせるように吟味しながら、真っ白な原稿用紙の上にきれいに並べて見せ、あるいは幼年時代の自分の過去を心ゆくまで再現しようと決めた少年のように、もはや書くことを忘れて屋根の上の白い雲の去来に呆然と見入っている。

フィリツプ・ソレルスの忘れ難い「神秘のモーツアルト」の訳者でもある著者は、本書を皮切りにフォークナーの、かの“ヨクナパトーファ・サーガ”の平成版を目指しているに違いない。

 ♪ハイランドの坂をあえぎながら登りゆきし3台のトラックの名は信望愛 茫洋

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