Wednesday, October 15, 2008

中原昌也著「中原昌也作業日誌2004-2007」を読む

照る日曇る日第176回

昔は純文学と大衆文学の区別だとか芥川賞と直木賞とではどちらがえらいかとか徹夜で議論したものだが、最近はそのどちらも大幅な平価切り下げが断行されて、我々一般大衆から見れば、いまや八百屋のキャベツかジャガイモ程度の値打ちしかない代物になり下がった。

文学や芸術の一般的な価値は、時代とともに長期にわたって低落しているのではないだろうか。ひところは大江健三郎や古井由吉などが日本文学界の最高峰で、ずっと麓のほうで「さようなら、ギャングたち」などと訳のわからないことを叫んでいる高橋源一郎などが三流のポップ鼻たれ小僧などと呼ばれたものだが、いまやこれまた異端児だった島田雅彦などとともに文壇の主流を形成するようになったのだから、これも一種の成り上がりであろう。

それからさらに20年が経って、文学界のカジュアル化とポップ化は一段と急速に進行し、文学租界トライアングルの最下層には、広範な不可触選民によるライトノベルや携帯小説が喋喋ともてはやされるようになった。このような文学のガジェット化の最先端を疾走する現代文学の旗手こそは中原昌也である。

そこには鴎外、漱石、龍之介流の輝かしき帝国古典文学の薫り高きコンテンツはほんのひとかけらもありはしない。味噌も糞もすべてがいっしょくたに吐き出されて、まるで醜悪な塵芥のようにそこにドサリと投げ出されている。 

2004年6月28日
起きたらもう2時過ぎで驚く。
今日は新潮クラブから退出する日。タクシーで文春へ移動。誰か知り合い、死なないかなーと思いながら、ヨダレが口からダラリと落ちる。何もかも、どうでもいい。どいつもこいつも首でもつって死んじまえ。

同年7月8日
いきなり朝から理由もなく、いやな気分に。どうしようもなく生きるのが辛いが、自殺する気などまったくないのがまた辛い。もうどうにもならない。本当に悲惨なのは、無駄に生き続けることだと悟る。

自分の大嫌いな文筆業から逃げたいのに、それが許されず、吐き気をこらえて不眠症とたたかいながら懸命に書いても、それがはした金にしかならず、いつも金欠病で水道も電気もガスも止められてしまう。しかもそのはした金をタワーレコードやHMVでのCDやDVD買いであっという間に蕩尽してしまう。こういう自分にも世の中にも絶望した自堕落な感慨が延々とつづられていくのである。

自分自身でまるで地獄の生活だと告白しているから、多少は同情するが、世の中にはもっと苦しんでいる人もいるだろうに、著者にはそこいらがあまり見えていないようだ。

以前読んだ著者の「KKKベストセラー」も恐ろしく無内容で支離滅裂な内容、文体だったが、本書もまるでゴミ溜めと糞溜めと痰壺をひっくり返したような記述が満載されている。くそったれ、これのいったいどこが文学なんだ。お前なんかくたばってしまえ。と怒鳴りながらこの本を投げつけようとしたとき、判然と私の脳裏に閃くものがあった。

そうか、この無内容な己を尻の毛羽まであますところなくさらし続ける史上最低の文学根性こそが、いまや現代文学の極北なんだ。ガジェットこそがぶんがくなんだあ!

糞っ。


♪君の尻の毛羽と僕の尻の毛羽 どっちが汚いか見せっこしませう 茫洋


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