♪バガテルop48
よく知的障碍という言葉を耳にします。てっきり「痴的障碍」と思っていたのに、なんだその言葉のインテリジェントな響きは。この障碍はとても知的でおしゃれでシックなレナウン娘のことかと思っていたのですが、さにあらず、知的な遅れを伴う障碍という意味であると知ってがっくりした人もいるのではないでしょうか。
ところで自閉症の人は、この知的障碍をあわせもっていることが多いのですね。
世の中には知能テストというものがあって、これで知能指数IQを計ります。IQはそれぞれの年齢で平均100になるように設定されていますが、このIQが70以下の場合は知的な遅れ(昔は知恵遅れといったが最近はそりゃ差別?だというので死語にしたらしい)があることも考えられるというわけです。
しかし前にも触れたように、この知的障碍と自閉症とは異なる障碍です。
このような知的な遅れのある自閉症児者は、例えば、
言葉や文章で表現したり
お金を計算したり、
時間をはかったり、
相手の行動を見て自分の身を守る工夫をしたり、
学校の勉強を理解することなど
が苦手だったりします。
さらには「いくつなの?」と話しかけられて、「いくつなの?」とオウム返しをしたり、一度聴いた昔の言葉や駅のアナウンスを何回も繰り返したり、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」の主人公の名前を何度も呼んだりします。
あるいはまた何回も手をぱちぱちとたたき続けたり、飛び跳ねたり、体を前後にゆすったりすることがあります。
その他自閉症は、同じ脳の障碍であるてんかんや、チック症、睡眠障害などを複合するケースもあるので要注意です。
♪ふきのとう描く人あり喰らう人あり 亡羊
Sunday, March 02, 2008
Saturday, March 01, 2008
自閉症大研究 第5回
自閉症大研究 第5回
♪バガテルop47
前にご紹介した三大特徴だけが自閉症ではありません。それ以外にも
1) 目で見たものを写真で撮ったように正確に覚えたり、駅の名前をたちどころに覚えたりするケースもあります。また、
2) 自閉症児者は感覚がとくに鋭かったり、その逆ににぶかったりするので厄介です。例えば私たちが気にしない音や匂いが気になったり、その反対にガラスでひっかく嫌な音が気にならなかったりします。また野菜やくだものなどある特定の食品しか食べない、それも特定のメーカーの製品しか食べない人もいます。
3) 健常者の場合はさまざまな能力が個人差はあっても同じように発達していきますが、自閉症ではそれがばらばらであることが多いようです。
トランポリンは上手に飛べるのにボールがうまく投げられないとか、捕球ができない、はしが上手に使えない、歩き方、走り方がどこかぎことないケースも多いようです。けれども、はしが上手に使えないのにテレビゲームは上手に操作したりすることもあります。
♪弥生三月春の力をわれに与えよ 亡羊
♪バガテルop47
前にご紹介した三大特徴だけが自閉症ではありません。それ以外にも
1) 目で見たものを写真で撮ったように正確に覚えたり、駅の名前をたちどころに覚えたりするケースもあります。また、
2) 自閉症児者は感覚がとくに鋭かったり、その逆ににぶかったりするので厄介です。例えば私たちが気にしない音や匂いが気になったり、その反対にガラスでひっかく嫌な音が気にならなかったりします。また野菜やくだものなどある特定の食品しか食べない、それも特定のメーカーの製品しか食べない人もいます。
3) 健常者の場合はさまざまな能力が個人差はあっても同じように発達していきますが、自閉症ではそれがばらばらであることが多いようです。
トランポリンは上手に飛べるのにボールがうまく投げられないとか、捕球ができない、はしが上手に使えない、歩き方、走り方がどこかぎことないケースも多いようです。けれども、はしが上手に使えないのにテレビゲームは上手に操作したりすることもあります。
♪弥生三月春の力をわれに与えよ 亡羊
Friday, February 29, 2008
小島信夫著「菅野満子の手紙」を読む
照る日曇る日第102回
作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとする。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことは絶望的に不可能なのだが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かける。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのだ。
そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくる。
この作者が誰を登場させ、何を語らせ、どんな奇妙な事件が小説の中で生起しようがいったいそれがどうだというのだ。
菅野満子が作家の由紀しげ子であろうが作家の分身である謙二とその兄の良一が満子とどれくらい激しい恋をしたか否か、それがヘルダーリンやゲーテの恋と遜色があるのかないのか、満子の手紙と遺書の内容が事実であろうが嘘であろうがはたまた作者のでっち上げであろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。
それよりもたったいま作者がこの本のこの箇所に書き付けたこのさりげない1行を目と舌でじっくりと味わおう。作者が奏でるこの一筋の旋律を心行くまで味わおうという気持ちになってくるのである。
そうしてこの600ページになんなんとする大著を読了した人は、最初は三流私小説作家の身辺雑記のように不用意に書き始められた軽い心境小説が、最後にはプルーストの「失われた時を求めて」と遠くかすかに響きあう精妙な世界に遊んだと思うかもしれない。おまけに「失われた時を求めて」と同じように、この本も終わりに近づくに従って猛烈に面白くなるのだ。
あるいはまた、またこの小説はもしかすると小説ではなかったのだ、最初はさりげない主題の提示ではじまりそれが次第にさまざまな変奏と協奏をかなで、最後には信じられない聖なる高みに到達するブルックナーのような大曲をたっぷりと聴かされた、という感慨を懐く人がいるかもしれない。
いずれにしてもこれは作者の文学への気違いじみた情熱と無私な献身に圧倒されるメタ・メタ(めためたであるかもしれない)フイクションの最高傑作である。
♪この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ 亡羊
作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとする。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことは絶望的に不可能なのだが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かける。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのだ。
そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくる。
この作者が誰を登場させ、何を語らせ、どんな奇妙な事件が小説の中で生起しようがいったいそれがどうだというのだ。
菅野満子が作家の由紀しげ子であろうが作家の分身である謙二とその兄の良一が満子とどれくらい激しい恋をしたか否か、それがヘルダーリンやゲーテの恋と遜色があるのかないのか、満子の手紙と遺書の内容が事実であろうが嘘であろうがはたまた作者のでっち上げであろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。
それよりもたったいま作者がこの本のこの箇所に書き付けたこのさりげない1行を目と舌でじっくりと味わおう。作者が奏でるこの一筋の旋律を心行くまで味わおうという気持ちになってくるのである。
そうしてこの600ページになんなんとする大著を読了した人は、最初は三流私小説作家の身辺雑記のように不用意に書き始められた軽い心境小説が、最後にはプルーストの「失われた時を求めて」と遠くかすかに響きあう精妙な世界に遊んだと思うかもしれない。おまけに「失われた時を求めて」と同じように、この本も終わりに近づくに従って猛烈に面白くなるのだ。
あるいはまた、またこの小説はもしかすると小説ではなかったのだ、最初はさりげない主題の提示ではじまりそれが次第にさまざまな変奏と協奏をかなで、最後には信じられない聖なる高みに到達するブルックナーのような大曲をたっぷりと聴かされた、という感慨を懐く人がいるかもしれない。
いずれにしてもこれは作者の文学への気違いじみた情熱と無私な献身に圧倒されるメタ・メタ(めためたであるかもしれない)フイクションの最高傑作である。
♪この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ 亡羊
Thursday, February 28, 2008
2008年亡羊如月詩歌集
♪ある晴れた日に その22
雪深しわれは昭和の子供なり
立春哉窓一面乃銀世界
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう
ぴらかんさ千両の順に食われけり
その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った
生きておっても死んでおっても空の空なり
詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ
如月も十日を過ぎて仕事なし
そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌
またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を
25年お世話になりしステンレスの浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
古いお風呂よさようならお払い箱になるんだねと耕君がいう
30年家族暖めし風呂なればこぼつは惜ししもったいなし
25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
亡くなった父も母もムクも入りしこの湯船
白々と骨が残りしバスルーム美人モデルはスープとなりぬ
青山の3LDKの浴槽にトップモデルは骨だけ残せり
けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気
家族3人で水炊きを食べるほど幸せなことはない
私には何がなんだか分からない確定申告できる人は偉大なり
まぎれもない獣の臭いが好きだった丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
如月も半ばを過ぎて仕事なし
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ
花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ
1000本の時計を持てるちょい悪ジローラモその強欲をひそかに憎む
1000本の時計が自慢のちょい悪ジローラモわれは1本千円を愛す
小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
梅千本ただ一輪が咲いており
全山鳴動梅一輪ひらく
蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
篤姫を見てもフルスイングを見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球
セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄
大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし
できれば目白のように睦みあいたいものじゃ
私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
如月の果ての果てにて舞い降りし鶴の一声受けるうれしさ
雪深しわれは昭和の子供なり
立春哉窓一面乃銀世界
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう
ぴらかんさ千両の順に食われけり
その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った
生きておっても死んでおっても空の空なり
詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ
如月も十日を過ぎて仕事なし
そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌
またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を
25年お世話になりしステンレスの浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
古いお風呂よさようならお払い箱になるんだねと耕君がいう
30年家族暖めし風呂なればこぼつは惜ししもったいなし
25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
亡くなった父も母もムクも入りしこの湯船
白々と骨が残りしバスルーム美人モデルはスープとなりぬ
青山の3LDKの浴槽にトップモデルは骨だけ残せり
けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気
家族3人で水炊きを食べるほど幸せなことはない
私には何がなんだか分からない確定申告できる人は偉大なり
まぎれもない獣の臭いが好きだった丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
如月も半ばを過ぎて仕事なし
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ
花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ
1000本の時計を持てるちょい悪ジローラモその強欲をひそかに憎む
1000本の時計が自慢のちょい悪ジローラモわれは1本千円を愛す
小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
梅千本ただ一輪が咲いており
全山鳴動梅一輪ひらく
蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
篤姫を見てもフルスイングを見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球
セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄
大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし
できれば目白のように睦みあいたいものじゃ
私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
如月の果ての果てにて舞い降りし鶴の一声受けるうれしさ
Wednesday, February 27, 2008
自閉症を知る 第4回
♪バガテルop46
自閉症には3つの大きな特徴があり、その悲しい特徴はだいたい3歳までに現われます。
その3つの特徴とは、
1) 人とうまく付き合えない。
2) 人とうまくコミュニケーションがとれない。
3) 奇妙なものに対してこだわりがある。
に大別されます。
最初1)の例としては、他人と目を合わせて会話すること、喜怒哀楽の感情を素直に表すこと、同じ年齢の人と集団で遊ぶ、自然に決まっているルールに従うことなどが苦手な場合が多いのです。自閉症児者は健常者に比べて想像力に乏しいので他人の気持ちを理解したり、KYことがとても難しいのです。
次のコミュニケーションもこれと似たことですが、言葉を覚えて使うこと、相手の発言を理解すること、適切な返事をすること、たとえ話を理解することなどが困難です。というのも自閉症児の大半は言葉の障碍があるからです。
3番目のこだわりの具体例としては、溝の穴など同じところをじっと見続けたり、決まった道や順序でないと行動できないとか、流れる水や扇風機や車輪などグルグル回るものに気をとられたりするケースが見受けられます
要するにいつもと違うことの出現に対して警戒したりパニくることが多いのです。
♪私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
自閉症には3つの大きな特徴があり、その悲しい特徴はだいたい3歳までに現われます。
その3つの特徴とは、
1) 人とうまく付き合えない。
2) 人とうまくコミュニケーションがとれない。
3) 奇妙なものに対してこだわりがある。
に大別されます。
最初1)の例としては、他人と目を合わせて会話すること、喜怒哀楽の感情を素直に表すこと、同じ年齢の人と集団で遊ぶ、自然に決まっているルールに従うことなどが苦手な場合が多いのです。自閉症児者は健常者に比べて想像力に乏しいので他人の気持ちを理解したり、KYことがとても難しいのです。
次のコミュニケーションもこれと似たことですが、言葉を覚えて使うこと、相手の発言を理解すること、適切な返事をすること、たとえ話を理解することなどが困難です。というのも自閉症児の大半は言葉の障碍があるからです。
3番目のこだわりの具体例としては、溝の穴など同じところをじっと見続けたり、決まった道や順序でないと行動できないとか、流れる水や扇風機や車輪などグルグル回るものに気をとられたりするケースが見受けられます
要するにいつもと違うことの出現に対して警戒したりパニくることが多いのです。
♪私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
Tuesday, February 26, 2008
続々 自閉症とは何だろう
♪バガテルop45
前回述べたように自閉症の人は知恵遅れなど別の障碍をともなうケースも多く、また人によって現われ方が違っていたり、同じ人でも成長していくうちにその症状が変化したりします。
また自閉症のある特徴は顕著でも、別の特徴はあまり発現しない人もいて、同じ自閉症といってもその状態はまるで虹のように色彩が多様であり、色と色との境界線がはっきりしていないのです。
そこでそういった区別や境界をあまり厳密に区別せず幅広く自閉症総体としてとらえようという考え方がうまれ、そのときに「自閉症スペクトラム」というアバウトな概念と用語も生まれたのです。
たとえば知的な遅れが目立たない自閉症を「アスペルガー症候群」と呼んで、おおかたは知恵遅れを伴う本来の、狭義の自閉症と区別する考え方もあります。それというのもけっきょくは自閉症の本質が解明されず、漠然と脳の機能障碍であるとしかいえないところから来ているわけで、今後の研究次第ではいま自閉症とされている障碍がじつは別のものになってしまう可能性もなしとしないのです。
私は個人的には秀才型?自閉症の「アスペルガー症候群」は、お馴染みの古典的な「だめ自閉症」とはぜんぜん別種の違うものであろう、とひそかに考えていますが、これが正解か否かはそれこそ神のみぞ知るであります。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気 亡羊
前回述べたように自閉症の人は知恵遅れなど別の障碍をともなうケースも多く、また人によって現われ方が違っていたり、同じ人でも成長していくうちにその症状が変化したりします。
また自閉症のある特徴は顕著でも、別の特徴はあまり発現しない人もいて、同じ自閉症といってもその状態はまるで虹のように色彩が多様であり、色と色との境界線がはっきりしていないのです。
そこでそういった区別や境界をあまり厳密に区別せず幅広く自閉症総体としてとらえようという考え方がうまれ、そのときに「自閉症スペクトラム」というアバウトな概念と用語も生まれたのです。
たとえば知的な遅れが目立たない自閉症を「アスペルガー症候群」と呼んで、おおかたは知恵遅れを伴う本来の、狭義の自閉症と区別する考え方もあります。それというのもけっきょくは自閉症の本質が解明されず、漠然と脳の機能障碍であるとしかいえないところから来ているわけで、今後の研究次第ではいま自閉症とされている障碍がじつは別のものになってしまう可能性もなしとしないのです。
私は個人的には秀才型?自閉症の「アスペルガー症候群」は、お馴染みの古典的な「だめ自閉症」とはぜんぜん別種の違うものであろう、とひそかに考えていますが、これが正解か否かはそれこそ神のみぞ知るであります。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気 亡羊
Monday, February 25, 2008
続 自閉症とは何だろう
♪バガテルop44
1943年にアメリカのカナーという精神科医が11人の子供の特徴をまとめて世界ではじめてその障碍についての研究成果を発表しました。これが世界で初めての自閉症についての報告です。しかしカナー以降二十年ほどは自閉症は主に「情緒の障碍」「心の病気」として研究されていたので、その原因が母親の愛情不足や育て方の誤りが原因であるなどという俗説がまかりとおることも多かったのです。
前回にも述べたように「自閉」という言葉は統合失調症でも使用されるのでまぎらわしいのですが、この2つはまったく違うのです。またこのいずれもが親の育て方など心理的な要因で起こるわけではありません。研究が進むに連れて自閉症は家庭環境、不安・ストレスに起因する心の病ではなく、生まれながらの脳の機能障碍であることが分かってきたのです。
また日本自閉症協会では、自閉症はおよそ100人に1人くらいの割合で存在しているといっていますが、広い意味での自閉症(これを「自閉症スペクトラム」と呼んでいます。スペクトラムとは英語で連続体という意味です)を入れるとその割合はもっと多いのではないでしょうか。
♪亡くなった父もムクも入りしこの湯船 亡羊
1943年にアメリカのカナーという精神科医が11人の子供の特徴をまとめて世界ではじめてその障碍についての研究成果を発表しました。これが世界で初めての自閉症についての報告です。しかしカナー以降二十年ほどは自閉症は主に「情緒の障碍」「心の病気」として研究されていたので、その原因が母親の愛情不足や育て方の誤りが原因であるなどという俗説がまかりとおることも多かったのです。
前回にも述べたように「自閉」という言葉は統合失調症でも使用されるのでまぎらわしいのですが、この2つはまったく違うのです。またこのいずれもが親の育て方など心理的な要因で起こるわけではありません。研究が進むに連れて自閉症は家庭環境、不安・ストレスに起因する心の病ではなく、生まれながらの脳の機能障碍であることが分かってきたのです。
また日本自閉症協会では、自閉症はおよそ100人に1人くらいの割合で存在しているといっていますが、広い意味での自閉症(これを「自閉症スペクトラム」と呼んでいます。スペクトラムとは英語で連続体という意味です)を入れるとその割合はもっと多いのではないでしょうか。
♪亡くなった父もムクも入りしこの湯船 亡羊
Sunday, February 24, 2008
スピルバーグの「シンドラーのリスト」を観る
照る日曇る日第102回
激突、ジョーズ、未知との遭遇、1941、E.T、トワイライト・ゾーン、カラーパープル、太陽の帝国、インディジョーンズ、ミュンヘンと常に話題作を撮り続けてきた世界の人気監督の93年の作品である。
彼の本領はなんといってもインディジョーンズなどの問答無用の娯楽にあると思う私は、プラーベートベンジャミン、カラーパープル、太陽の帝国など、非常に生真面目であったり、人道的、政治的色彩が濃厚に漂う作品はあまり評価できない。
例えば「太陽の帝国」におけるゼロ戦大好き少年のあこがれのまなざしのいかがわしさを見よ。光り輝く太陽の彼方に権力の栄光を夢見る少年のひとみは、そのままけがれなき永遠の童心少年、スピルバーグのものでもある。
さて本作は第2次大戦中にチェコの実業家シンドラーがナチにうまく取り入ってなんと1100名のユダヤ人の命を救ったという美談を、スピルバーグが映画化したもの。実話だそうだが、じつに感動的な脚本である。
特に素晴らしいのはヤヌス・カミンスキーの白黒の撮影で、これほどの美しさが果たして必要だったのかという気すらする。常連ジョン・ウイリアムズの珍しく抑制した音楽もベテランの味を出している。これをアカデミー賞にしなくてなにがアメリカだ、ハリウッドだ、といわんばかりのああ威風堂々の完成度だ。
しかしそんな立派な偉大な人類愛の物語であり、もちろん感動もするのだが、スピルバーグならではのワクワクドキドキする映画的感興はそこにはない。
あるとすれば、モノクロ画面でゆいいつ赤く着色される少女の姿やシンドラーの愛人の奔放な性交シーンであろうが、主題が主題であるだけにそれ以上の逸脱やいかがわしさの発露が微塵もない。
ユダヤ人であるスピルバーグがどうしても撮りたかった映画であり、その価値と歴史的な意味は十二分に評価してうえでいうのだが、これは凡庸な映画である。ジョーズやジェラシックパークを本領とするスピルバーグのようなエンタの達人に、大真面目に力みかえった偉人伝なぞ似合うわけがない。それは最後の主人公の演説のシーンで「もっと金があればもっともっと人を救えたのに」と泣くシーンを見れば分かるだろう。
スピルバーグといえば最近中国政府がスーダンの大量虐殺に対して誠実に対応していないという理由で北京五輪の芸術アドバイザーを辞任したそうだが、彼もまたシンドラーのような正義の人を目指そうとするのだろうか。
♪25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな 亡羊
激突、ジョーズ、未知との遭遇、1941、E.T、トワイライト・ゾーン、カラーパープル、太陽の帝国、インディジョーンズ、ミュンヘンと常に話題作を撮り続けてきた世界の人気監督の93年の作品である。
彼の本領はなんといってもインディジョーンズなどの問答無用の娯楽にあると思う私は、プラーベートベンジャミン、カラーパープル、太陽の帝国など、非常に生真面目であったり、人道的、政治的色彩が濃厚に漂う作品はあまり評価できない。
例えば「太陽の帝国」におけるゼロ戦大好き少年のあこがれのまなざしのいかがわしさを見よ。光り輝く太陽の彼方に権力の栄光を夢見る少年のひとみは、そのままけがれなき永遠の童心少年、スピルバーグのものでもある。
さて本作は第2次大戦中にチェコの実業家シンドラーがナチにうまく取り入ってなんと1100名のユダヤ人の命を救ったという美談を、スピルバーグが映画化したもの。実話だそうだが、じつに感動的な脚本である。
特に素晴らしいのはヤヌス・カミンスキーの白黒の撮影で、これほどの美しさが果たして必要だったのかという気すらする。常連ジョン・ウイリアムズの珍しく抑制した音楽もベテランの味を出している。これをアカデミー賞にしなくてなにがアメリカだ、ハリウッドだ、といわんばかりのああ威風堂々の完成度だ。
しかしそんな立派な偉大な人類愛の物語であり、もちろん感動もするのだが、スピルバーグならではのワクワクドキドキする映画的感興はそこにはない。
あるとすれば、モノクロ画面でゆいいつ赤く着色される少女の姿やシンドラーの愛人の奔放な性交シーンであろうが、主題が主題であるだけにそれ以上の逸脱やいかがわしさの発露が微塵もない。
ユダヤ人であるスピルバーグがどうしても撮りたかった映画であり、その価値と歴史的な意味は十二分に評価してうえでいうのだが、これは凡庸な映画である。ジョーズやジェラシックパークを本領とするスピルバーグのようなエンタの達人に、大真面目に力みかえった偉人伝なぞ似合うわけがない。それは最後の主人公の演説のシーンで「もっと金があればもっともっと人を救えたのに」と泣くシーンを見れば分かるだろう。
スピルバーグといえば最近中国政府がスーダンの大量虐殺に対して誠実に対応していないという理由で北京五輪の芸術アドバイザーを辞任したそうだが、彼もまたシンドラーのような正義の人を目指そうとするのだろうか。
♪25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな 亡羊
Saturday, February 23, 2008
自閉症とは何だろう
♪バガテルop43
自閉症が「病気」や「性格」ではなく生まれながらの「脳の障害」であることは、近年になって世間から少しずつ理解されてきたようです。30年前の神奈川県立こども医療センターのように、「親の育て方に原因がある「母原病」です!」と私たちの目の前で担当医が決め付けたり、砂糖の摂取に原因がある砂糖病であるなどという馬鹿げた診断をする医者はなくなりましたが、相変わらず「引きこもり」や統合失調症における「自閉」と誤解したりする人はあとを絶ちません。
まず自閉症は生まれついての先天的な障碍で、中枢神経系(つまり脳と脊髄ですね)のどこかの障碍が原因と考えられています。以下の3つが大事なポイントです。
1) 自閉症は内気とか自閉的とか人間嫌いなどの「性格的」なものとは無関係です。
2) 自閉症は病気ではなく、生まれつきの障碍です。
3) 自閉症は人によってその現われ方に違いがあるので厄介です。
自閉症は風邪のように一時的な治療で治る病気ではなく、また親や周囲の愛情が不足してなるような「心の病気」でもありません。これはよくマスコミなども誤解しているようですね。多くの自閉症児者はまったく自閉的ではなく、むしろ外観は元気はつらつとしていることが多いのです。
しかし世間がそういう「根暗の閉じこもり人間」が自閉症であるというレッテルを貼るようになった原因のひとつは、この「自閉症」というネーミング自体にもあったようです。日本自閉症協会の機関紙名は現在は「いとしご」ですが、長い間「心を開く」という誤解を招きがちなタイトルでした。これでは自閉症が脳の障碍ではなくて精神や心の障碍であるとご本尊が宣言しているようなものですからね。
それはともかく自閉症の原因は、「中枢神経系(脳、脊髄)が生まれつきうまくはたらかないことにある」と学者の意見はようやく一致しました。しかしではその根本的な治療法は?というとそんな素晴らしいものはまだ世界中どこにも存在していません。
最近は脳や遺伝子研究が進んでいるので、その伸展に期待するほかなさそうです。
♪花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 亡羊
自閉症が「病気」や「性格」ではなく生まれながらの「脳の障害」であることは、近年になって世間から少しずつ理解されてきたようです。30年前の神奈川県立こども医療センターのように、「親の育て方に原因がある「母原病」です!」と私たちの目の前で担当医が決め付けたり、砂糖の摂取に原因がある砂糖病であるなどという馬鹿げた診断をする医者はなくなりましたが、相変わらず「引きこもり」や統合失調症における「自閉」と誤解したりする人はあとを絶ちません。
まず自閉症は生まれついての先天的な障碍で、中枢神経系(つまり脳と脊髄ですね)のどこかの障碍が原因と考えられています。以下の3つが大事なポイントです。
1) 自閉症は内気とか自閉的とか人間嫌いなどの「性格的」なものとは無関係です。
2) 自閉症は病気ではなく、生まれつきの障碍です。
3) 自閉症は人によってその現われ方に違いがあるので厄介です。
自閉症は風邪のように一時的な治療で治る病気ではなく、また親や周囲の愛情が不足してなるような「心の病気」でもありません。これはよくマスコミなども誤解しているようですね。多くの自閉症児者はまったく自閉的ではなく、むしろ外観は元気はつらつとしていることが多いのです。
しかし世間がそういう「根暗の閉じこもり人間」が自閉症であるというレッテルを貼るようになった原因のひとつは、この「自閉症」というネーミング自体にもあったようです。日本自閉症協会の機関紙名は現在は「いとしご」ですが、長い間「心を開く」という誤解を招きがちなタイトルでした。これでは自閉症が脳の障碍ではなくて精神や心の障碍であるとご本尊が宣言しているようなものですからね。
それはともかく自閉症の原因は、「中枢神経系(脳、脊髄)が生まれつきうまくはたらかないことにある」と学者の意見はようやく一致しました。しかしではその根本的な治療法は?というとそんな素晴らしいものはまだ世界中どこにも存在していません。
最近は脳や遺伝子研究が進んでいるので、その伸展に期待するほかなさそうです。
♪花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 亡羊
Friday, February 22, 2008
古くて暗いモノクロ映画を見る
照る日曇る日第102回
「陽のあたる場所」はセオドア・ドライサーの原作を51年にジョージ・スティブンスが映画化したもの。田舎育ちの青年がふとしたはずみで隣の女と関係し妊娠させるところから悲劇が始まる。そのまま地味な家庭を築けばよかったろうに、偶然ハイソサエティの美女と恋に落ちたことから青年の心と体は真っ二つに引き裂かれ、若い2人は今生の別れをつげることになる。
世間によくある話だが、身につまされる。「生も暗く、死もまた暗い」というマーラーの「大地の歌」のように暗い物語だが、その悲劇の主人公をモンティが悲壮に演じるので観客はいっそう暗い気持ちになってしまう。そうして彼がついに届かなかったA place in the Sunへの想いが胸を打つ。
純情可憐なヒロイン役を演じるエリザベス・テーラーはきれいでかわいい。後年の熟女の面影なんかみじんも感じさせない。しかしものの本によればこの映画はドライサーの「アメリカの悲劇」の皮相なパロディであり、ヒロインは軽薄で鼻持ちならないハイソの馬鹿娘として描かれているらしいが、私は原作を読んだことがないのでなんともいえない。
44年の英国映画「ガス灯」も負けずに暗い。殺人犯のシャルル・ボワイエの魔手に引っかかって結婚してしまったこれまた純情可憐なイングリッド・バーグマンが、悪い夫に徹底的にいじめられ、あわや心身喪失状態で病院送りになる寸前に正義の味方ジョセフ・コットンが登場してお姫様の危機を救ってくれるという典型的な勧善懲悪の1幕であるが、ここでもバーグマンが後年の堂々たる存在感とは無縁の輝かしい若さと官能美を見せる。
♪1000本の時計を持つ男ジローラモその強欲をひそかに憎む 亡羊
「陽のあたる場所」はセオドア・ドライサーの原作を51年にジョージ・スティブンスが映画化したもの。田舎育ちの青年がふとしたはずみで隣の女と関係し妊娠させるところから悲劇が始まる。そのまま地味な家庭を築けばよかったろうに、偶然ハイソサエティの美女と恋に落ちたことから青年の心と体は真っ二つに引き裂かれ、若い2人は今生の別れをつげることになる。
世間によくある話だが、身につまされる。「生も暗く、死もまた暗い」というマーラーの「大地の歌」のように暗い物語だが、その悲劇の主人公をモンティが悲壮に演じるので観客はいっそう暗い気持ちになってしまう。そうして彼がついに届かなかったA place in the Sunへの想いが胸を打つ。
純情可憐なヒロイン役を演じるエリザベス・テーラーはきれいでかわいい。後年の熟女の面影なんかみじんも感じさせない。しかしものの本によればこの映画はドライサーの「アメリカの悲劇」の皮相なパロディであり、ヒロインは軽薄で鼻持ちならないハイソの馬鹿娘として描かれているらしいが、私は原作を読んだことがないのでなんともいえない。
44年の英国映画「ガス灯」も負けずに暗い。殺人犯のシャルル・ボワイエの魔手に引っかかって結婚してしまったこれまた純情可憐なイングリッド・バーグマンが、悪い夫に徹底的にいじめられ、あわや心身喪失状態で病院送りになる寸前に正義の味方ジョセフ・コットンが登場してお姫様の危機を救ってくれるという典型的な勧善懲悪の1幕であるが、ここでもバーグマンが後年の堂々たる存在感とは無縁の輝かしい若さと官能美を見せる。
♪1000本の時計を持つ男ジローラモその強欲をひそかに憎む 亡羊
Thursday, February 21, 2008
萩原延壽著「陸奥宗光下巻」を読む
照る日曇る日第101回
陸奥宗光は明治10年の西南戦争の際土佐立志社系の一部が企てた政府転覆、要人暗殺計画に陰謀に加担したかどで逮捕され、禁獄5年の判決を受けて明治11年9月から15年12月まで山形と仙台で獄中生活を送ったが、その間独学の英語でベンサムの功利主義哲学にめざめ、それが彼の政治思想の転回点となった。
獄から解放された彼は伊藤博文、井上馨、渋沢栄一などの助力で欧米に留学し、英国の議会制民主主義につぶさに接するとともに、ウイーンに赴きオーストリアの公法学者シュタインの元でプロシア流の政治理論を体得し、政府専制と議会責任内閣制の双方について当時の世界最先端の政治思想に通暁する新帰朝者となった。本書はその大半のページをこの間の「思想家陸奥から政治家陸奥への変貌」に焦点を当て、その劇的な精神の転回を精細に追跡している。
余談ながら明治時代には多くの政治家や官僚、学者が欧米に留学している。大日本帝国憲法の制定にあたって伊藤博文に大きな影響を与えたオーストリアの公法学者シュタインのところにも、その伊藤をはじめ陸奥宗光、伊東巳代治、黒田清隆、松方正義、海江田信義など多くのエリートたちが教えを乞いに行っている。
彼らはそれぞれ通訳を連れて2、3週間続けてシュタイン家に日参して個人教授を受け、通訳と自分の2人でノートをとり、そのあとで1つに清書してから、今度はそれをシュタインに送って訂正してもらい、そんな風にして完全なノートが出来上がり、それが彼らの留学土産になったという。
私は萩原氏のその話を聞いてなるほど漱石の文学論もそのような形で中川芳太郎を通じて現在のような姿になったことを思い出した。もっとも漱石はその中川ノートを全面的に改稿したのだったが。
藩閥政府と自由民権派の両極で激しく分裂した陸奥は、その後中央政府の外務大臣として日清戦争を主導するが、日露、第1次大戦、太平洋戦争へと拡大していくわが国の朝鮮半島、中国、台湾への介入・進出はじつに明治27年の日清戦争から出発していることが本書を読めばよくわかる。
陸奥は首相の伊藤博文とコンビを組んで山縣有朋などの武断派を懸命に統御しようと試みるが、本心では大陸不介入派であったと思われる陸奥も、結局は軍部などの強硬派、国内に燎原の火のように燃え盛る愛国主義の嵐(それは漱石、子規をはじめ大多数の文学者、知識人をも飲み込んだ)、英、露、独、仏などの帝国主義列強の圧力に屈して、ついに「朝鮮の独立を保持するための」対清開戦に踏み切った。
幸か不幸かこの日清戦争の勝利が遼東半島の三国干渉を生み、その屈辱が列強の代理戦争としての日露戦争を生み、ひいてはあの大東亜戦争への泥沼の道を用意したのである。いかに当時の国内外情勢の渦中で陸奥が献身的な努力を傾注したとはいえ、(彼の涙ぐましい「蹇蹇録」を読まれよ)当時の陸奥が死生をともにした大日本帝国が、大国の圧力に強いられたという以上に、自らが列強の一員として積極的にアジアに覇を唱えようとしたことはまぎれもない事実である。
陸奥たちが東アジアに刻んだその最初のステップこそが、20世紀という戦争の時代のパンドラの箱を開けた。小さな侵略の成功と既得権の確保が、また次なる利権の獲得とその利権保持のための新たな戦争へと繋がっていく。かつて陸奥たちがつまずき、我々が60年前に破綻したのと同じ過ちを、現在アメリカがそのままイラクで繰り返している哀れな姿を見るにつけ、歴史は何度でも繰り返すという思いを新たにするのである。
萩原延壽の「陸奥宗光」を読むこと。それは私たちがあえて明治、大正、昭和を生き直すことであり、それを教訓として今を生きることでもある。
♪できれば目白の夫婦のように睦みあいたいものじゃ 亡羊
陸奥宗光は明治10年の西南戦争の際土佐立志社系の一部が企てた政府転覆、要人暗殺計画に陰謀に加担したかどで逮捕され、禁獄5年の判決を受けて明治11年9月から15年12月まで山形と仙台で獄中生活を送ったが、その間独学の英語でベンサムの功利主義哲学にめざめ、それが彼の政治思想の転回点となった。
獄から解放された彼は伊藤博文、井上馨、渋沢栄一などの助力で欧米に留学し、英国の議会制民主主義につぶさに接するとともに、ウイーンに赴きオーストリアの公法学者シュタインの元でプロシア流の政治理論を体得し、政府専制と議会責任内閣制の双方について当時の世界最先端の政治思想に通暁する新帰朝者となった。本書はその大半のページをこの間の「思想家陸奥から政治家陸奥への変貌」に焦点を当て、その劇的な精神の転回を精細に追跡している。
余談ながら明治時代には多くの政治家や官僚、学者が欧米に留学している。大日本帝国憲法の制定にあたって伊藤博文に大きな影響を与えたオーストリアの公法学者シュタインのところにも、その伊藤をはじめ陸奥宗光、伊東巳代治、黒田清隆、松方正義、海江田信義など多くのエリートたちが教えを乞いに行っている。
彼らはそれぞれ通訳を連れて2、3週間続けてシュタイン家に日参して個人教授を受け、通訳と自分の2人でノートをとり、そのあとで1つに清書してから、今度はそれをシュタインに送って訂正してもらい、そんな風にして完全なノートが出来上がり、それが彼らの留学土産になったという。
私は萩原氏のその話を聞いてなるほど漱石の文学論もそのような形で中川芳太郎を通じて現在のような姿になったことを思い出した。もっとも漱石はその中川ノートを全面的に改稿したのだったが。
藩閥政府と自由民権派の両極で激しく分裂した陸奥は、その後中央政府の外務大臣として日清戦争を主導するが、日露、第1次大戦、太平洋戦争へと拡大していくわが国の朝鮮半島、中国、台湾への介入・進出はじつに明治27年の日清戦争から出発していることが本書を読めばよくわかる。
陸奥は首相の伊藤博文とコンビを組んで山縣有朋などの武断派を懸命に統御しようと試みるが、本心では大陸不介入派であったと思われる陸奥も、結局は軍部などの強硬派、国内に燎原の火のように燃え盛る愛国主義の嵐(それは漱石、子規をはじめ大多数の文学者、知識人をも飲み込んだ)、英、露、独、仏などの帝国主義列強の圧力に屈して、ついに「朝鮮の独立を保持するための」対清開戦に踏み切った。
幸か不幸かこの日清戦争の勝利が遼東半島の三国干渉を生み、その屈辱が列強の代理戦争としての日露戦争を生み、ひいてはあの大東亜戦争への泥沼の道を用意したのである。いかに当時の国内外情勢の渦中で陸奥が献身的な努力を傾注したとはいえ、(彼の涙ぐましい「蹇蹇録」を読まれよ)当時の陸奥が死生をともにした大日本帝国が、大国の圧力に強いられたという以上に、自らが列強の一員として積極的にアジアに覇を唱えようとしたことはまぎれもない事実である。
陸奥たちが東アジアに刻んだその最初のステップこそが、20世紀という戦争の時代のパンドラの箱を開けた。小さな侵略の成功と既得権の確保が、また次なる利権の獲得とその利権保持のための新たな戦争へと繋がっていく。かつて陸奥たちがつまずき、我々が60年前に破綻したのと同じ過ちを、現在アメリカがそのままイラクで繰り返している哀れな姿を見るにつけ、歴史は何度でも繰り返すという思いを新たにするのである。
萩原延壽の「陸奥宗光」を読むこと。それは私たちがあえて明治、大正、昭和を生き直すことであり、それを教訓として今を生きることでもある。
♪できれば目白の夫婦のように睦みあいたいものじゃ 亡羊
Wednesday, February 20, 2008
愛犬ムク六周忌
♪ある晴れた日に その21
OH!アデュー 人語をはじめて口にして
老犬ムクは いま身罷りぬ
ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す
鎌倉の 山野を駆けし細き脚
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり
ここで跳べ! ザンブと飛び込む滑川
ウオータードッグよ 輝きの夏
大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク
ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす
十七年 一直線に駆け去りぬ
今一度鳴け 野太きWANG!
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり
庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり
崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハの雌雄乱舞す
まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
OH!アデュー 人語をはじめて口にして
老犬ムクは いま身罷りぬ
ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す
鎌倉の 山野を駆けし細き脚
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり
ここで跳べ! ザンブと飛び込む滑川
ウオータードッグよ 輝きの夏
大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク
ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす
十七年 一直線に駆け去りぬ
今一度鳴け 野太きWANG!
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり
庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり
崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハの雌雄乱舞す
まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
Tuesday, February 19, 2008
市川崑追悼の「細雪」を観る
照る日曇る日第100回
先日私の大好きなマイミクのぽんぽこはんが映画「細雪」について書いておられたので私も負けてへんでとぐあんばってDVDで見てみたんや。谷崎はんの原作もそら素晴らしいけど、さすがに市川崑はんの代表作に恥じへん代表的な日本映画どしたえ。
時は昭和13年。迫りくる戦争の足音とつかの間の幸せ。やがてはすべてが崩壊する桜の園の最後の宴、姉妹たちの窓際を流れゆく二度と帰らぬ美しい季節が、市川はんの円熟のメガフォンでその一時いっときを惜しむかのようにゆるやかに流れていくんですからもうたまりまへん。
ラストのへんで岸恵子はんが「今年はもう姉妹4人で京の桜を見れへんのやねえ」と呟かれたときには、さすがに非情で冷酷な鉄の心を持つ私も、我知らずさめざめと細雪のような涙を流しておりましてん。
思えば映画で泣いたんは今を去るおよそ10年前に「ローマの休日」がコンピューター補正された新装版を、確かまだ新橋にあったヘラルドさんの試写で見たとき以来やったなあ。あんときはヘップバーンはんが、記者会見で「イエス、ローマ」と答えられたその瞬間に、あたしゃぐわあと人目をはばからずに号泣してしもうてからに、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてたまらず、失礼ながらラスト・クレジットが終わるのをまたんと現場から新橋駅まで逃走しよりましたんや。しゃあけんど私にいわしてもらえば、あの映画のあのシーンで泣かないやつなんか人間ではあらしまへんで、ほんまの話。
肝心の「細雪」でっけど、女優さんがみなはんよろしおしたなあ。私は吉永はんの演技がいつも気になるんやけど、この映画の雪子はんでは役どころとマッチして彼女の大根ぶりがあんまり外に出ず、ほんまよろしゅうおしたなあ。
衣装も絢爛豪華で眼の保養になりましたが、あれは当時の大阪船場や芦屋のセレブのおべべにしては、なんぼ映画衣装とはいえちと色柄デザインが下卑すぎておりましたな。上方のふぁっちょんかるちゃあは、絶対もっと渋くて底が深いもんや。当節ならいざ知らず、谷崎わーるどの主人公たちが、あんなギンギンギラギラにどぎつい下品な着物を着ておったはずはありまへん。大阪弁だけやなしにコスチュームも谷崎夫人のご指導を仰いだらよかったんとちゃいますか。
それから音楽担当2人もおるくせに、使用音楽は英国ヘンデルはんのラルゴ、おんぶら・まい・ふだけちゅうのは一体どういう了見や。貧相な電子音楽やし、せめてオケの生使うとか、もうひとひねりできんかったんやろか。ともかくあれなら素人でもでけます。
それにしてもラストの箕面の紅葉と女優さんの顔のアップ、きれいどしたなあ。美しい日本の景色と美人はいったいどこに行ってしもたんやろか。5年前にたった一度銀座で見かけたような気がするけど、あれは夢まぼろしやったんやろか。
♪新橋のヘラルドエースの試写室でヘップヘップと悌きしわれかも
先日私の大好きなマイミクのぽんぽこはんが映画「細雪」について書いておられたので私も負けてへんでとぐあんばってDVDで見てみたんや。谷崎はんの原作もそら素晴らしいけど、さすがに市川崑はんの代表作に恥じへん代表的な日本映画どしたえ。
時は昭和13年。迫りくる戦争の足音とつかの間の幸せ。やがてはすべてが崩壊する桜の園の最後の宴、姉妹たちの窓際を流れゆく二度と帰らぬ美しい季節が、市川はんの円熟のメガフォンでその一時いっときを惜しむかのようにゆるやかに流れていくんですからもうたまりまへん。
ラストのへんで岸恵子はんが「今年はもう姉妹4人で京の桜を見れへんのやねえ」と呟かれたときには、さすがに非情で冷酷な鉄の心を持つ私も、我知らずさめざめと細雪のような涙を流しておりましてん。
思えば映画で泣いたんは今を去るおよそ10年前に「ローマの休日」がコンピューター補正された新装版を、確かまだ新橋にあったヘラルドさんの試写で見たとき以来やったなあ。あんときはヘップバーンはんが、記者会見で「イエス、ローマ」と答えられたその瞬間に、あたしゃぐわあと人目をはばからずに号泣してしもうてからに、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてたまらず、失礼ながらラスト・クレジットが終わるのをまたんと現場から新橋駅まで逃走しよりましたんや。しゃあけんど私にいわしてもらえば、あの映画のあのシーンで泣かないやつなんか人間ではあらしまへんで、ほんまの話。
肝心の「細雪」でっけど、女優さんがみなはんよろしおしたなあ。私は吉永はんの演技がいつも気になるんやけど、この映画の雪子はんでは役どころとマッチして彼女の大根ぶりがあんまり外に出ず、ほんまよろしゅうおしたなあ。
衣装も絢爛豪華で眼の保養になりましたが、あれは当時の大阪船場や芦屋のセレブのおべべにしては、なんぼ映画衣装とはいえちと色柄デザインが下卑すぎておりましたな。上方のふぁっちょんかるちゃあは、絶対もっと渋くて底が深いもんや。当節ならいざ知らず、谷崎わーるどの主人公たちが、あんなギンギンギラギラにどぎつい下品な着物を着ておったはずはありまへん。大阪弁だけやなしにコスチュームも谷崎夫人のご指導を仰いだらよかったんとちゃいますか。
それから音楽担当2人もおるくせに、使用音楽は英国ヘンデルはんのラルゴ、おんぶら・まい・ふだけちゅうのは一体どういう了見や。貧相な電子音楽やし、せめてオケの生使うとか、もうひとひねりできんかったんやろか。ともかくあれなら素人でもでけます。
それにしてもラストの箕面の紅葉と女優さんの顔のアップ、きれいどしたなあ。美しい日本の景色と美人はいったいどこに行ってしもたんやろか。5年前にたった一度銀座で見かけたような気がするけど、あれは夢まぼろしやったんやろか。
♪新橋のヘラルドエースの試写室でヘップヘップと悌きしわれかも
Monday, February 18, 2008
見捨てられた墓地
鎌倉ちょっと不思議な物語100回
ここは私が住んでいる十二所のガソリンスタンドがある交差点の、すぐ袂にある小さな墓地です。鎌倉駅から八景方面のバスに乗って、まっすぐ行くと鎌倉霊園、右に曲がると鎌倉逗子ハイランドという交通の要地なのに、誰も見向きもしないで通り過ぎます。
しかしここは鎌倉時代にはすぐそばの大慈寺の境内でありました。大慈寺は八幡宮寺、勝長寿院、永福寺と並ぶ鎌倉四大聖地のひとつで三代将軍実朝が君恩父徳に報謝するために、つまり天皇と頼朝公に感謝するために建暦2年1212年に造営がはじまりました。
十二所のバス停の近くに明王院というこれも鎌倉時代創建の古いお寺がありますが、この明王院の東一帯がすべて大慈寺で、前にも書きましたように現在カトリックの修道院になっている小高い丘陵も往時の七堂伽藍が聳えておりました。
大慈寺の木造の大仏を安置した丈六堂は江戸時代まではこの付近にあり、その仏頭は私が最近住職と和解した光触寺に隠されておりますが、その丈六堂が存続していた頃の面影をかろうじてこの墓地だけが伝えているのです。
ああそれなのに、先日この聖なる地に進入し、1基の仏塔を倒した悪いやつがいるのは許せません。
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ 亡羊
ここは私が住んでいる十二所のガソリンスタンドがある交差点の、すぐ袂にある小さな墓地です。鎌倉駅から八景方面のバスに乗って、まっすぐ行くと鎌倉霊園、右に曲がると鎌倉逗子ハイランドという交通の要地なのに、誰も見向きもしないで通り過ぎます。
しかしここは鎌倉時代にはすぐそばの大慈寺の境内でありました。大慈寺は八幡宮寺、勝長寿院、永福寺と並ぶ鎌倉四大聖地のひとつで三代将軍実朝が君恩父徳に報謝するために、つまり天皇と頼朝公に感謝するために建暦2年1212年に造営がはじまりました。
十二所のバス停の近くに明王院というこれも鎌倉時代創建の古いお寺がありますが、この明王院の東一帯がすべて大慈寺で、前にも書きましたように現在カトリックの修道院になっている小高い丘陵も往時の七堂伽藍が聳えておりました。
大慈寺の木造の大仏を安置した丈六堂は江戸時代まではこの付近にあり、その仏頭は私が最近住職と和解した光触寺に隠されておりますが、その丈六堂が存続していた頃の面影をかろうじてこの墓地だけが伝えているのです。
ああそれなのに、先日この聖なる地に進入し、1基の仏塔を倒した悪いやつがいるのは許せません。
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ 亡羊
Sunday, February 17, 2008
映画「アマデウス」を視聴する。
♪音楽千夜一夜第33回
先日かつて大ヒットした映画「アマデウス」がNHKのBSでデイレクターズ・カット版という長尺版で放送されたので久しぶりに再見したのだが「ドン・ジョバンニ」の序曲の冒頭の和音から始まり、k467のピアノ協奏曲のアンダンテで終わるこの映画の醍醐味はやはりモザールの音楽の素晴らしさを堪能することにあるのであって、サリエリがモザールの神に愛された天才を憎むあまり、刺客を派遣して砒素を盛って暗殺したなどという愚にもつかない伝説や、同じサリエリがモザールの妻コンスタンチエの貞操を奪おうとしたとか、あまつさえみずからが「レクイエム」の作曲を依頼し、モザールの最期の夜に彼の絶筆をアシストしたとなどというモザールにまつわるあれやこれやのホラ話や嘘やインチキや風説のかぎりを吹聴される下世話なたのしさ、面白さなどにけっしてないことは心ある人には自明のことであるにしても、それでもこの映画がモザールの自伝というふれこみであるだけにいまなお一抹の不安が掠めるのであるが、であるにせよ見所聴きどころはいたるところに転がっており、例えば「後宮からの誘拐」のフィナーレのジャン・ピエール・ポネルを偲ばせる見事な演出や「フィガロの結婚」の第4幕の至高のフィナーレで皇帝ヨーゼフ2世が欠伸をすることによって自らの俗流芸術趣味を暴露してしまう箇所、ウイーンで冷遇されたモザールがプラハの民衆から歓呼を受ける光景、死相をあらわにしながら「魔笛」を振るモザールの鬼気迫る指揮ぶり、「ドン・ジョバンニ」の地獄落ちの凄まじさ、光るネビル・マリナーの指揮と音楽構成、セントアカデミー・インザフィールド管の演奏によるk201の交響曲、k450のロ長調ピアノ協奏曲のアレグロの導入、あるいは楽譜初稿に書き損じがないとサリエリが感嘆する瞬間に流れる「フルートとハープのためのコンチエルト」k299の緩徐楽章のフルートの高鳴りなどなど文句なしのお楽しみだが、そうはいっても映画の最後の葬送シーンで未完の「レクイエム」に伴われてウイーンの墓地にしの降る雨はほとんど春雨程度のゆるい降りであり、実際にそうであった12月の暴風雨の荒れ模様などまるで表現されておらず、一体全体どうしてサリエリもコンスタンチエも墓地の入り口で留まって引き返したのか、またいったいモザールともあろう有名人がどうして無人墓地に犬猫のように葬られてしまったのか、あんまり可哀相ではないか、あれでは02年の今月今夜に死んで我が家の庭の奥津城に葬られた愛犬ムクのほうがよほど恵まれていたではないか、と文句のひとつも言いたくなるのである。
♪セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄 亡羊
先日かつて大ヒットした映画「アマデウス」がNHKのBSでデイレクターズ・カット版という長尺版で放送されたので久しぶりに再見したのだが「ドン・ジョバンニ」の序曲の冒頭の和音から始まり、k467のピアノ協奏曲のアンダンテで終わるこの映画の醍醐味はやはりモザールの音楽の素晴らしさを堪能することにあるのであって、サリエリがモザールの神に愛された天才を憎むあまり、刺客を派遣して砒素を盛って暗殺したなどという愚にもつかない伝説や、同じサリエリがモザールの妻コンスタンチエの貞操を奪おうとしたとか、あまつさえみずからが「レクイエム」の作曲を依頼し、モザールの最期の夜に彼の絶筆をアシストしたとなどというモザールにまつわるあれやこれやのホラ話や嘘やインチキや風説のかぎりを吹聴される下世話なたのしさ、面白さなどにけっしてないことは心ある人には自明のことであるにしても、それでもこの映画がモザールの自伝というふれこみであるだけにいまなお一抹の不安が掠めるのであるが、であるにせよ見所聴きどころはいたるところに転がっており、例えば「後宮からの誘拐」のフィナーレのジャン・ピエール・ポネルを偲ばせる見事な演出や「フィガロの結婚」の第4幕の至高のフィナーレで皇帝ヨーゼフ2世が欠伸をすることによって自らの俗流芸術趣味を暴露してしまう箇所、ウイーンで冷遇されたモザールがプラハの民衆から歓呼を受ける光景、死相をあらわにしながら「魔笛」を振るモザールの鬼気迫る指揮ぶり、「ドン・ジョバンニ」の地獄落ちの凄まじさ、光るネビル・マリナーの指揮と音楽構成、セントアカデミー・インザフィールド管の演奏によるk201の交響曲、k450のロ長調ピアノ協奏曲のアレグロの導入、あるいは楽譜初稿に書き損じがないとサリエリが感嘆する瞬間に流れる「フルートとハープのためのコンチエルト」k299の緩徐楽章のフルートの高鳴りなどなど文句なしのお楽しみだが、そうはいっても映画の最後の葬送シーンで未完の「レクイエム」に伴われてウイーンの墓地にしの降る雨はほとんど春雨程度のゆるい降りであり、実際にそうであった12月の暴風雨の荒れ模様などまるで表現されておらず、一体全体どうしてサリエリもコンスタンチエも墓地の入り口で留まって引き返したのか、またいったいモザールともあろう有名人がどうして無人墓地に犬猫のように葬られてしまったのか、あんまり可哀相ではないか、あれでは02年の今月今夜に死んで我が家の庭の奥津城に葬られた愛犬ムクのほうがよほど恵まれていたではないか、と文句のひとつも言いたくなるのである。
♪セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄 亡羊
Saturday, February 16, 2008
蔵で暮らす
勝手に建築観光28回&鎌倉ちょっと不思議な物語99回
鶴岡八幡宮の東側の小道に気になる蔵があります。外壁の周囲は緑の分厚い蔦に覆われ、四季折々の変容を見せくれます。
昔ながらの蔵なのですが、その中に住んでいる人がいるのです。私は駅から家までの帰り道に必ずここを通ります。どんな人がここで暮らしているのだろう。おそらくデザイナーではないだろうか、などと勝手に想像しているのですが、実際に住人の姿を見たことは残念ながら一度もないのです。
寿福寺から少し南に下がったところにもっと大きく立派な蔵がありますが、これは最近どこか地方から移転させてきたものでイベントなどに使っているようですが、誰かが住んでいるわけではありません。
私もたまにはこんな蔵で寝転がって、八幡様の蓮がパン、パパンと開くのを耳にしながら平家物語や徒然草を読んでみたいな。
♪如月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊
鶴岡八幡宮の東側の小道に気になる蔵があります。外壁の周囲は緑の分厚い蔦に覆われ、四季折々の変容を見せくれます。
昔ながらの蔵なのですが、その中に住んでいる人がいるのです。私は駅から家までの帰り道に必ずここを通ります。どんな人がここで暮らしているのだろう。おそらくデザイナーではないだろうか、などと勝手に想像しているのですが、実際に住人の姿を見たことは残念ながら一度もないのです。
寿福寺から少し南に下がったところにもっと大きく立派な蔵がありますが、これは最近どこか地方から移転させてきたものでイベントなどに使っているようですが、誰かが住んでいるわけではありません。
私もたまにはこんな蔵で寝転がって、八幡様の蓮がパン、パパンと開くのを耳にしながら平家物語や徒然草を読んでみたいな。
♪如月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊
Friday, February 15, 2008
萩原延壽著「陸奥宗光上巻」を読む
照る日曇る日第99回
萩原延壽は朝日新聞に連載したアーネスト・サトウの伝記「遠い崖」で知られる歴史家であり、かの大仏次郎に優に比肩する当代一流の評伝作家でもあった。その精緻を極めた資料の渉猟と長期にわたる膨大な調査研究からもたらされた知見に基づく人物月旦は、まことに正統的な客観主義の外観をそなえながら、その外装の奥には主人公に対する秘められた偏愛と熱情のほむらが燃え滾っており、読むものをいつのまにか虜にする魅力を備えている。
大仏が「天皇の世紀」で目指したものが、明治という時代の骨格のあますところなき再現であったのに対して、萩原は、明治を生きた代表的人物をあますところなく対象化することを通じて、明治という時代の血肉をわが手に収めようと試みた。
そして萩原がまず最初に手がけたのが、「頼むところは天下の輿論、目指すかたきは暴虐政府」と叫んでフィラデルフィアに倒れた自由の戦士馬場辰猪であり、続いて「蹇蹇録」で知られる陸奥宗光その人であった。
ちなみに著者によれば、陸奥は明治19年の夏に足尾銅山に視察に行き、中禅寺湖に別荘を持っていたアーネスト・サトウと会ったらしい。(陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養子だった)。サトウの日本人女性に対する観察は足が短いとかなかなか辛らつであったが、ゆいいつ陸奥の後妻で才色兼備の誉れ高い亮子だけは大変な美人と絶賛したそうだ。
陸奥は和歌山藩の上級武士の子であり、海援隊の坂本龍馬の一番弟子であり、御一新の後には藩閥政府の一員であると同時にその敵対者でもあり、木戸、伊藤、後藤に愛され、岩倉、大久保、西郷、島津久光に憎まれ、絶えず権力と理念のはざまに立って動揺常ならぬ混乱と転向を繰り返しながら、わが国にとって大きな里程標となった日清戦争を外務大臣として収拾した、明治を代表する文人政治家である。陸奥は星亨と原敬を育て、結局その系譜が日本の政党政治の主流となるのである。
しかし著者はそういうマキャベリやジョセフ・フーシェを思わせる政治的人間陸奥の行蔵を描くだけではなく、あるときは権力の側に立ち、またあるときはそれを指弾して自由民権運動に加担して獄に投じられる「節操常ならざる分裂した魂」の内部をじっと覗き込む。それによって政治と人間という普遍的な問題がゆるゆるとあぶりだされ、陸奥という人間を鏡としてそこに映じられる同時代の人物たちの生き方、ひいては明治という時代そのものの実像が、おもむろに立ち現れる。ここにこそ本書の魅力がある。
♪大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし 亡羊
萩原延壽は朝日新聞に連載したアーネスト・サトウの伝記「遠い崖」で知られる歴史家であり、かの大仏次郎に優に比肩する当代一流の評伝作家でもあった。その精緻を極めた資料の渉猟と長期にわたる膨大な調査研究からもたらされた知見に基づく人物月旦は、まことに正統的な客観主義の外観をそなえながら、その外装の奥には主人公に対する秘められた偏愛と熱情のほむらが燃え滾っており、読むものをいつのまにか虜にする魅力を備えている。
大仏が「天皇の世紀」で目指したものが、明治という時代の骨格のあますところなき再現であったのに対して、萩原は、明治を生きた代表的人物をあますところなく対象化することを通じて、明治という時代の血肉をわが手に収めようと試みた。
そして萩原がまず最初に手がけたのが、「頼むところは天下の輿論、目指すかたきは暴虐政府」と叫んでフィラデルフィアに倒れた自由の戦士馬場辰猪であり、続いて「蹇蹇録」で知られる陸奥宗光その人であった。
ちなみに著者によれば、陸奥は明治19年の夏に足尾銅山に視察に行き、中禅寺湖に別荘を持っていたアーネスト・サトウと会ったらしい。(陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養子だった)。サトウの日本人女性に対する観察は足が短いとかなかなか辛らつであったが、ゆいいつ陸奥の後妻で才色兼備の誉れ高い亮子だけは大変な美人と絶賛したそうだ。
陸奥は和歌山藩の上級武士の子であり、海援隊の坂本龍馬の一番弟子であり、御一新の後には藩閥政府の一員であると同時にその敵対者でもあり、木戸、伊藤、後藤に愛され、岩倉、大久保、西郷、島津久光に憎まれ、絶えず権力と理念のはざまに立って動揺常ならぬ混乱と転向を繰り返しながら、わが国にとって大きな里程標となった日清戦争を外務大臣として収拾した、明治を代表する文人政治家である。陸奥は星亨と原敬を育て、結局その系譜が日本の政党政治の主流となるのである。
しかし著者はそういうマキャベリやジョセフ・フーシェを思わせる政治的人間陸奥の行蔵を描くだけではなく、あるときは権力の側に立ち、またあるときはそれを指弾して自由民権運動に加担して獄に投じられる「節操常ならざる分裂した魂」の内部をじっと覗き込む。それによって政治と人間という普遍的な問題がゆるゆるとあぶりだされ、陸奥という人間を鏡としてそこに映じられる同時代の人物たちの生き方、ひいては明治という時代そのものの実像が、おもむろに立ち現れる。ここにこそ本書の魅力がある。
♪大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし 亡羊
Thursday, February 14, 2008
蕪村のアイドルをさがせ
♪バガテルop42
俳人にして画家の与謝蕪村は、一休のように65歳になっても若い女たちとうたを詠み交わし、精神と肉体の愛の生活にふけっていた。らしい。
「蕪村七部集」の「花鳥篇」のなかの「花櫻帖」を見ると彼女たちの名前と俳句が載っている。おそらくは芸妓や町人の娘であろうが、初心の素人衆ばかりであるとはいえ、いずれも蕪村好みの天明調の緩さが懐かしく、捨てがたいのどかな趣がある。
それにつけても蕪村の御伽は次の女衆のうちのいずれであらうか。
月のよは花より明てさくら哉 うめ
うつくしき花のさかりやきのふけふ ことの
いろいろの人見る花の山路かな 小いと
老いて猶さくらは花にとはれける 柳女
櫻かりかの木この木の一構 まさ女
雲と咲雪と散けり山ざくら 石松
♪小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 亡羊
俳人にして画家の与謝蕪村は、一休のように65歳になっても若い女たちとうたを詠み交わし、精神と肉体の愛の生活にふけっていた。らしい。
「蕪村七部集」の「花鳥篇」のなかの「花櫻帖」を見ると彼女たちの名前と俳句が載っている。おそらくは芸妓や町人の娘であろうが、初心の素人衆ばかりであるとはいえ、いずれも蕪村好みの天明調の緩さが懐かしく、捨てがたいのどかな趣がある。
それにつけても蕪村の御伽は次の女衆のうちのいずれであらうか。
月のよは花より明てさくら哉 うめ
うつくしき花のさかりやきのふけふ ことの
いろいろの人見る花の山路かな 小いと
老いて猶さくらは花にとはれける 柳女
櫻かりかの木この木の一構 まさ女
雲と咲雪と散けり山ざくら 石松
♪小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 亡羊
Wednesday, February 13, 2008
レイモンド・カーヴァー著「象」を読む
照る日曇る日第98回
これは村上春樹が翻訳したレイモンド・カーヴァー最後の短編集である。
レイの短編の特徴は見事に完成されたばかりのキャンバスをその瞬間にナイフでざっくりと切り裂いたような放埓なラストであろう。表題作の象における稲妻のごとく疾走する大型車、「誰かは知らないが、このベッドで寝ていた人が」において突如引き抜かれる電話線、「親密」で主人公に降りかかるおびただしい木の葉、「ブラックバード・バイ」における愛する人との別れ――読者を突き放すように唐突に断ち切られた物語の終わりが、生きることは死ぬことであり、死ぬこともまた生きることである、という著者のクールな人生観をあざやかに示すのである。
最後にさりげなく置かれた「使い走り」は、死期を宣告された著者がそれこそ死力を奮って書き綴った遺作の短編だが、それはロシアの文学者チェーホフ最期の日を想像力豊かに描くことによって迫りくる自らの死を冷徹にトレースしている。
「バーデンヴァイラーはシュヴァルツヴァルト地方の西にある保養地で、バーゼルからそれほど遠くないとことにある。町のほとんどの場所からヴォージュ山脈が見えた。その当時、空気はまじりけなく綺麗で爽快であった。ロシア人たちは古くからそこを好んで訪れ、熱い鉱泉に身を浸し、通りをそぞろ歩いたものだ。1904年の6月に、チェーホフは死ぬためにそこを訪れた」
という見事なセンテンスを眼にした読者は、そのときマグニチュード8.0の大震災に襲われたとしても、その次から始まる短編の極意とでもいうべきストーリーを読まないわけにはいかないだろう。レイモンド・カーヴァーはこんな素晴らしい短編をこの世の置き土産に、1988年、50歳を一期に肺がんで身罷ったが、そのあまりにも早すぎた死が惜しまれる。
♪ぴらかんさ次いで千両の順に食われけり 亡羊
これは村上春樹が翻訳したレイモンド・カーヴァー最後の短編集である。
レイの短編の特徴は見事に完成されたばかりのキャンバスをその瞬間にナイフでざっくりと切り裂いたような放埓なラストであろう。表題作の象における稲妻のごとく疾走する大型車、「誰かは知らないが、このベッドで寝ていた人が」において突如引き抜かれる電話線、「親密」で主人公に降りかかるおびただしい木の葉、「ブラックバード・バイ」における愛する人との別れ――読者を突き放すように唐突に断ち切られた物語の終わりが、生きることは死ぬことであり、死ぬこともまた生きることである、という著者のクールな人生観をあざやかに示すのである。
最後にさりげなく置かれた「使い走り」は、死期を宣告された著者がそれこそ死力を奮って書き綴った遺作の短編だが、それはロシアの文学者チェーホフ最期の日を想像力豊かに描くことによって迫りくる自らの死を冷徹にトレースしている。
「バーデンヴァイラーはシュヴァルツヴァルト地方の西にある保養地で、バーゼルからそれほど遠くないとことにある。町のほとんどの場所からヴォージュ山脈が見えた。その当時、空気はまじりけなく綺麗で爽快であった。ロシア人たちは古くからそこを好んで訪れ、熱い鉱泉に身を浸し、通りをそぞろ歩いたものだ。1904年の6月に、チェーホフは死ぬためにそこを訪れた」
という見事なセンテンスを眼にした読者は、そのときマグニチュード8.0の大震災に襲われたとしても、その次から始まる短編の極意とでもいうべきストーリーを読まないわけにはいかないだろう。レイモンド・カーヴァーはこんな素晴らしい短編をこの世の置き土産に、1988年、50歳を一期に肺がんで身罷ったが、そのあまりにも早すぎた死が惜しまれる。
♪ぴらかんさ次いで千両の順に食われけり 亡羊
Tuesday, February 12, 2008
続・元コピーライター、かく語りき
♪バガテルop42&照る日曇る日第97回
消費者に商品を売る一介のテクノクラートであり、商品の宣伝の召使であるはずの広告文案作成屋が、なにを勘違いしたのか社長に代わっておのれの個人的な思想や感慨を語りはじめ、天下の公器を私物化し、あまつさえ1行のコピーが時代や世の中を変える、などと錯覚し、ドンキホーテのように奇怪な妄想にうつつを抜かしはじめたのである。彼ら自身は無自覚であったが、「欲しがりません勝つまでは」という名コピーを書いて文字通り一世を風靡した才人をひそかに目指していたのかもしれない。
私自身も含めてコピーライターのみならずほんらい怜悧であるはずの日本資本主義もまたここで大きな勘違いをしてしまった。思えばここがいわゆるコピーライターブームの出発点であり、後続するバブル時代の幕開けだったのではないだろうか。まことに思い出しただけで吐き気がするほど苦しく、また悶絶的に楽しい戯作家の虚業全盛時代でもあった。
それにしてもあるかなきかの微細な商品の独自性、優位性、セールスポイントをむりやり「発見」し、それに対して針小膨大な「付加価値」をでっちあげ、おのれの才覚にまかせて恣意的なお化粧を施し、無理やり消費者の欲望を喚起させるこの仕事は、いかに身過ぎ世過ぎとはいえ本質的には良心に恥じ、人倫に悖る作業であり、内心忸怩たる因業な課業でもある。
この賎業への加担を逃れ、因果の悪連鎖を逃れるためには、広告の現場からとく立ち去って生産現場に駆けつけ、本当に消費者のためになる画期的な製品をみずからの手で生産し、しかるのちに広告宣伝に立ち戻るか、あるいは目の前の劣悪で凡庸な商品に眼をつぶって、消費者にその本質を気づかせないような呪文や幻惑や目潰しをあびせ続けるか、あるいは誰にも評価されず注文が来なくとも、誠実で正直なコピーをほそぼそと書き続けるか、はたまた「自分が幸福ではないのに幸福なコピーは書けない」と遺言して1973年に自死した杉山登志の道を選ぶか、のいずれかしかないだろう。
そしてそのあまりにも美しすぎる呪文のひとつが、昨日挙げた秋山氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」という“感動的な”コピーだったのではないか、と私は今にして振り返るのである。
バブルは無残にはじけ、毎晩銀座のバーを肩で風切って闊歩しながら飲み歩く流行作家気取りのかっこいいコピーライターは1匹残らず絶滅した。時代はコピーライターのものから、スタイリスト、フォトグラファー、そしてプランナー、デザイナー、アートディレクター、マーチャンダイザーの覇権へとめまぐるしく変遷し、グッチやルイ・ヴィトンなど外資系ラグジュアリーブランドの広告では、いっさいの広告コピーを廃し、画像とロゴとURLだけで構成するのがいっそおしゃれであるという流儀が定着して久しい。
茫茫30年。制作費が厳しく削減され、広告宣伝の玄妙な秘法など糞喰らえのクライアントの強権が問答無用で復活し、なんの教養もないど素人コピーライターによって携帯メールで殴り書かかれた風情も工夫も含蓄もない超即物的かつ短絡的なへたくそコピー全盛の現在が、むしろ健全でいっそ小気味よい光景と映るのは果たして私だけだろうか。
♪篤姫を見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球 亡羊
消費者に商品を売る一介のテクノクラートであり、商品の宣伝の召使であるはずの広告文案作成屋が、なにを勘違いしたのか社長に代わっておのれの個人的な思想や感慨を語りはじめ、天下の公器を私物化し、あまつさえ1行のコピーが時代や世の中を変える、などと錯覚し、ドンキホーテのように奇怪な妄想にうつつを抜かしはじめたのである。彼ら自身は無自覚であったが、「欲しがりません勝つまでは」という名コピーを書いて文字通り一世を風靡した才人をひそかに目指していたのかもしれない。
私自身も含めてコピーライターのみならずほんらい怜悧であるはずの日本資本主義もまたここで大きな勘違いをしてしまった。思えばここがいわゆるコピーライターブームの出発点であり、後続するバブル時代の幕開けだったのではないだろうか。まことに思い出しただけで吐き気がするほど苦しく、また悶絶的に楽しい戯作家の虚業全盛時代でもあった。
それにしてもあるかなきかの微細な商品の独自性、優位性、セールスポイントをむりやり「発見」し、それに対して針小膨大な「付加価値」をでっちあげ、おのれの才覚にまかせて恣意的なお化粧を施し、無理やり消費者の欲望を喚起させるこの仕事は、いかに身過ぎ世過ぎとはいえ本質的には良心に恥じ、人倫に悖る作業であり、内心忸怩たる因業な課業でもある。
この賎業への加担を逃れ、因果の悪連鎖を逃れるためには、広告の現場からとく立ち去って生産現場に駆けつけ、本当に消費者のためになる画期的な製品をみずからの手で生産し、しかるのちに広告宣伝に立ち戻るか、あるいは目の前の劣悪で凡庸な商品に眼をつぶって、消費者にその本質を気づかせないような呪文や幻惑や目潰しをあびせ続けるか、あるいは誰にも評価されず注文が来なくとも、誠実で正直なコピーをほそぼそと書き続けるか、はたまた「自分が幸福ではないのに幸福なコピーは書けない」と遺言して1973年に自死した杉山登志の道を選ぶか、のいずれかしかないだろう。
そしてそのあまりにも美しすぎる呪文のひとつが、昨日挙げた秋山氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」という“感動的な”コピーだったのではないか、と私は今にして振り返るのである。
バブルは無残にはじけ、毎晩銀座のバーを肩で風切って闊歩しながら飲み歩く流行作家気取りのかっこいいコピーライターは1匹残らず絶滅した。時代はコピーライターのものから、スタイリスト、フォトグラファー、そしてプランナー、デザイナー、アートディレクター、マーチャンダイザーの覇権へとめまぐるしく変遷し、グッチやルイ・ヴィトンなど外資系ラグジュアリーブランドの広告では、いっさいの広告コピーを廃し、画像とロゴとURLだけで構成するのがいっそおしゃれであるという流儀が定着して久しい。
茫茫30年。制作費が厳しく削減され、広告宣伝の玄妙な秘法など糞喰らえのクライアントの強権が問答無用で復活し、なんの教養もないど素人コピーライターによって携帯メールで殴り書かかれた風情も工夫も含蓄もない超即物的かつ短絡的なへたくそコピー全盛の現在が、むしろ健全でいっそ小気味よい光景と映るのは果たして私だけだろうか。
♪篤姫を見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球 亡羊
Monday, February 11, 2008
元コピーライター、かく語りき
♪バガテルop41&照る日曇る日第96回
宣伝会議という出版社から最近発売された「コピーがひもとく日本の50年」という2095円もする分厚い本を頂いた。私はかつてコピーライターという仕事をしていたことがあり、宣伝会議社が主催するコピーライター講座の講師を数年間やっていたこともあるので昔を思い出して懐かしかった。
当時銀座の松屋の裏にその教室があり、毎週1回のその夕方からの授業が終わると、私は生徒全員を引き連れて安酒場に行って飲みかつ喰らい愉快に談笑するのが常だった。その当時の私はまだ少しなら酒を口にすることができ、後年のようにたったビール一口で急性アルコール中毒で昏倒するような無様なことはなかった。私のクラスから巣立った何人かはその後映画や音楽産業の優れた担い手となり、私は彼らのその後の活躍をわがことのようにうれしく思っている。
さてその分厚い本を繰ってみると、わが国のコピーとコピーライターの歴史をつくった梶裕輔や土屋耕一、秋山晶、仲畑貴志、真木準といった俊才たちの過去半世紀の名作コピー365本が、ご本人たちのコメントとともに紹介されており、なかなか興味深いものがあった。
向秀雄氏の「ミュンヘン、サッポロ、ミルウオーキー」、山口瞳氏の「トリスを飲んでHaWaiiへ行こう」、「なぜ年齢をきくの」とか「こんにちは土曜日くん」「君のひとみは10000ボルト」など伊勢丹の企業広告のコピーを作った土屋耕一氏の作品は時代の記憶の一部となったし、「おしりだって洗ってほしい」(TOTO)、「好きだから、あげる」(丸井)を作った仲畑貴志氏、「ピイカピカの1年生」の杉山恒太郎氏、「でかいどお、北海道」の真木準氏などの作品を眼にすると、私と同時代の制作者である彼らの当時の面影があざやかに甦ってくる。
しかしかつては広告文案作成屋と呼ばれたコピーライティングの流れを大きく変えたのは、1974年のたしか糸井重里氏作の「ケネディは好きだったけれど、ジャクリーヌは嫌いだ」、そして77年に高校野球をテーマにした秋山晶氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」というキャノン販売の広告ではなかっただろうか。
これらの作品ではいずれも主語がクライアントではなく、驚いたことにはコピーライター本人であり、訴求テーマが商品そのものから大きく逸脱してモノからコトへ、商品世界から仮想文学的世界へと大きく飛躍し、幻想の虚空で浮遊している。
♪生きておっても死んでおっても空の空なり 亡羊
宣伝会議という出版社から最近発売された「コピーがひもとく日本の50年」という2095円もする分厚い本を頂いた。私はかつてコピーライターという仕事をしていたことがあり、宣伝会議社が主催するコピーライター講座の講師を数年間やっていたこともあるので昔を思い出して懐かしかった。
当時銀座の松屋の裏にその教室があり、毎週1回のその夕方からの授業が終わると、私は生徒全員を引き連れて安酒場に行って飲みかつ喰らい愉快に談笑するのが常だった。その当時の私はまだ少しなら酒を口にすることができ、後年のようにたったビール一口で急性アルコール中毒で昏倒するような無様なことはなかった。私のクラスから巣立った何人かはその後映画や音楽産業の優れた担い手となり、私は彼らのその後の活躍をわがことのようにうれしく思っている。
さてその分厚い本を繰ってみると、わが国のコピーとコピーライターの歴史をつくった梶裕輔や土屋耕一、秋山晶、仲畑貴志、真木準といった俊才たちの過去半世紀の名作コピー365本が、ご本人たちのコメントとともに紹介されており、なかなか興味深いものがあった。
向秀雄氏の「ミュンヘン、サッポロ、ミルウオーキー」、山口瞳氏の「トリスを飲んでHaWaiiへ行こう」、「なぜ年齢をきくの」とか「こんにちは土曜日くん」「君のひとみは10000ボルト」など伊勢丹の企業広告のコピーを作った土屋耕一氏の作品は時代の記憶の一部となったし、「おしりだって洗ってほしい」(TOTO)、「好きだから、あげる」(丸井)を作った仲畑貴志氏、「ピイカピカの1年生」の杉山恒太郎氏、「でかいどお、北海道」の真木準氏などの作品を眼にすると、私と同時代の制作者である彼らの当時の面影があざやかに甦ってくる。
しかしかつては広告文案作成屋と呼ばれたコピーライティングの流れを大きく変えたのは、1974年のたしか糸井重里氏作の「ケネディは好きだったけれど、ジャクリーヌは嫌いだ」、そして77年に高校野球をテーマにした秋山晶氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」というキャノン販売の広告ではなかっただろうか。
これらの作品ではいずれも主語がクライアントではなく、驚いたことにはコピーライター本人であり、訴求テーマが商品そのものから大きく逸脱してモノからコトへ、商品世界から仮想文学的世界へと大きく飛躍し、幻想の虚空で浮遊している。
♪生きておっても死んでおっても空の空なり 亡羊
Sunday, February 10, 2008
DVDには寿命がある!?
♪バガテルop40
9日の旭日新聞の夕刊トップに「DVDディスク寿命格差」という大見出しで、いま使われているDVDディスクの中には数年で劣化してデータを読み出せなくなるかもしれないと警告する記事が出ていた。DVDディスクなら孫子の代まで大丈夫と思っていたのに1年で映像が消えうせる例も多々あるという。
国内ブランドの一部は半永久的に保存できる優良製品もあるようだが、私が愛用している1枚30円から40円の台湾製は、実験前からエラーが多すぎて寿命の推定が不可能という劣悪品が多いそうだ。そういうこともあるかもしれないと漠然と考えていたが、実験結果をこのように露骨に突きつけられるとはたと頭を抱え込んでしまう。
私は前にもここで書いたように、NHKBSで放映されるすべての映画とクラシック音楽、歌舞伎などの新旧演劇番組を連日DVDディスクに録画してきた。1日にたかだか4番組くらいだが、それが毎日毎日何年にもわたるとおびただしい数量となり、私のような恒産なき流浪のルンペン・プロレタリアートには1枚100円以上もする国内盤はいくら品質が優れているとはいえ経済的に負担がかかりすぎる。
よって超安価な台湾製のあれやこれやをためつすがめつ大量に買い込むことになる。ところが100枚2300円のお買い得を買ったはいいけれど、それがちゃんと録画できないこともよくあり、これまでいくど痛い目に遭ったか分からない。例えばZEROは人気の台湾ブランドでそこそこ品質もよく、値段も安いので愛用していたが、ある時期から工場だか規格が変わったらしく、私のレコーダーがいっさい受け付けなくなってしまった。
やむなくPRO-FEELブランドに転向しそれなりに満足していたら、突然この製品が冷凍餃子のように市中に出回らなくなってしまった。そこでようやく超破格値のFINEブランドに切り替えたところ、この16倍速がそれこそ早い・安い・美味いの3拍子が揃っているのでやれやれと安心していた矢先に旭日新聞の記事である。
もし私にお金があったらもちろん国産を買うだろう。しかし国産といっても三菱のように台湾の工場に委託しているものも多く、純台湾製ほど多くはないがけっこうトラブルも生じるから始末におえない。
コストの問題以上に問題なのは収納スペースだ。私の狭い書斎はすでに無数の書籍群とLPレコード、カセットテープ、ビデオテープの大群に加えてかの「あほばかレーザーディスク」まで捨てるに捨てられない状態で死蔵されている。これに加えて日夜増殖を遂げつつある膨大なDVD! 過大な加重に耐え切れず部屋の土台が崩れ去る日も近い。
それにしても、と私は考える。どんどん膨れ上がるこの膨大なソフトを、果たして私は生きているうちに鑑賞できるのだろうか?
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
9日の旭日新聞の夕刊トップに「DVDディスク寿命格差」という大見出しで、いま使われているDVDディスクの中には数年で劣化してデータを読み出せなくなるかもしれないと警告する記事が出ていた。DVDディスクなら孫子の代まで大丈夫と思っていたのに1年で映像が消えうせる例も多々あるという。
国内ブランドの一部は半永久的に保存できる優良製品もあるようだが、私が愛用している1枚30円から40円の台湾製は、実験前からエラーが多すぎて寿命の推定が不可能という劣悪品が多いそうだ。そういうこともあるかもしれないと漠然と考えていたが、実験結果をこのように露骨に突きつけられるとはたと頭を抱え込んでしまう。
私は前にもここで書いたように、NHKBSで放映されるすべての映画とクラシック音楽、歌舞伎などの新旧演劇番組を連日DVDディスクに録画してきた。1日にたかだか4番組くらいだが、それが毎日毎日何年にもわたるとおびただしい数量となり、私のような恒産なき流浪のルンペン・プロレタリアートには1枚100円以上もする国内盤はいくら品質が優れているとはいえ経済的に負担がかかりすぎる。
よって超安価な台湾製のあれやこれやをためつすがめつ大量に買い込むことになる。ところが100枚2300円のお買い得を買ったはいいけれど、それがちゃんと録画できないこともよくあり、これまでいくど痛い目に遭ったか分からない。例えばZEROは人気の台湾ブランドでそこそこ品質もよく、値段も安いので愛用していたが、ある時期から工場だか規格が変わったらしく、私のレコーダーがいっさい受け付けなくなってしまった。
やむなくPRO-FEELブランドに転向しそれなりに満足していたら、突然この製品が冷凍餃子のように市中に出回らなくなってしまった。そこでようやく超破格値のFINEブランドに切り替えたところ、この16倍速がそれこそ早い・安い・美味いの3拍子が揃っているのでやれやれと安心していた矢先に旭日新聞の記事である。
もし私にお金があったらもちろん国産を買うだろう。しかし国産といっても三菱のように台湾の工場に委託しているものも多く、純台湾製ほど多くはないがけっこうトラブルも生じるから始末におえない。
コストの問題以上に問題なのは収納スペースだ。私の狭い書斎はすでに無数の書籍群とLPレコード、カセットテープ、ビデオテープの大群に加えてかの「あほばかレーザーディスク」まで捨てるに捨てられない状態で死蔵されている。これに加えて日夜増殖を遂げつつある膨大なDVD! 過大な加重に耐え切れず部屋の土台が崩れ去る日も近い。
それにしても、と私は考える。どんどん膨れ上がるこの膨大なソフトを、果たして私は生きているうちに鑑賞できるのだろうか?
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
Saturday, February 09, 2008
小島信夫の「月光」を読む
小島信夫の「月光」を読む
照る日曇る日第95回
依然としてさっぱり仕事が来ない私は、またしても小島信夫の小説を読んで、みずから無聊を慰めることしかできない。
私が思うに、この人はまあ「書く自動機械」に似たようなものであるなあ。小島信夫のなかにもう一人の小島信夫、あるいはコジマ式ロボットが棲息しておって、これが日常茶飯事、森羅万象をすべて書きまくるのじゃ。人の迷惑もプライバシーもなぎ倒してじゃんじゃん書きなぐるのである。
それは書きたいことを書きたいからではなく、普通の人間なら非常に書きづらいこと、あるいは絶対に書いてはいけないこと、を、彼はどうでも書かなければならない、と天によって強くうながされ、みずからもそうしようと決意しているからなのだ。自分がその先に進み、生きるために破らなければならないベールを、彼はどんどん破りながら全身全力で前進するのである。
そしてそのように行動することの総体が、小島信夫の生であり文学なのだ。
書かずにいられないその軌跡を、人は宇宙の果てまで限りなく越境する私小説というが、当のご本人は「私はいまは夢見るように書き綴っていので、相前後し、合体することを許してもらいたい」と澄ましている。
さて本書は1982年4月から翌年8月にかけて「群像」に連載された表題作はじめ「青衣」「蜻蛉」「合掌」「「高砂」「「再生」の6つの短編小説であるが、例によって例のごとくあっちに寄ってはこちらに引っかかりながら、まるで二人羽織のように脳内対話がとめどなく繰り広げられていく。
最後に並べられた「再生」では、甦りの再生ではなく噺家の安藤芳流という人の談話テープを作者が文字起こししてそのユニークな語りを再現するのに驚かされる。
安藤は漱石の弟子の森田草平の思い出を語り、続いて福本日南が書いた「元禄快挙録」を引き合いに出して、大石内蔵助の切腹があまり潔いものではなかったという話をする。彼の切腹を陰からこっそり見ていた細川越中守がそう証言しているというのである。
定めし立派な腹切りであろうと固唾を呑んで期待していたら意外にも「あまり締まりがなかった」。いったいどうしてだろうといぶかしみながら越中守が内蔵助が使っていた手文庫の中を改めてみたら、「見事なる切腹は一人にかぎり候」という書置きが出てきたそうだ。
この秘話を安藤が恩師の森田に語ってきかせたところ、草平は「おいちょっと待て。そこのところは『見事なる切腹は、殿ご一人にかぎり候 内蔵助』とやれ」と安藤に知恵を授けたという。
なるほど、これだと内蔵助が主君の見事な切腹を際立たせるためにあえて無様な切腹を選び取ったということが一遍で分かる。さすが漱石の永遠の弟子の森田草平だけのことはある、ということを言いたいがために、小島信夫はこの40分間の口演テープを汗だくで再現してみせるのである。
♪如月も十日を過ぎて仕事なし 亡羊
照る日曇る日第95回
依然としてさっぱり仕事が来ない私は、またしても小島信夫の小説を読んで、みずから無聊を慰めることしかできない。
私が思うに、この人はまあ「書く自動機械」に似たようなものであるなあ。小島信夫のなかにもう一人の小島信夫、あるいはコジマ式ロボットが棲息しておって、これが日常茶飯事、森羅万象をすべて書きまくるのじゃ。人の迷惑もプライバシーもなぎ倒してじゃんじゃん書きなぐるのである。
それは書きたいことを書きたいからではなく、普通の人間なら非常に書きづらいこと、あるいは絶対に書いてはいけないこと、を、彼はどうでも書かなければならない、と天によって強くうながされ、みずからもそうしようと決意しているからなのだ。自分がその先に進み、生きるために破らなければならないベールを、彼はどんどん破りながら全身全力で前進するのである。
そしてそのように行動することの総体が、小島信夫の生であり文学なのだ。
書かずにいられないその軌跡を、人は宇宙の果てまで限りなく越境する私小説というが、当のご本人は「私はいまは夢見るように書き綴っていので、相前後し、合体することを許してもらいたい」と澄ましている。
さて本書は1982年4月から翌年8月にかけて「群像」に連載された表題作はじめ「青衣」「蜻蛉」「合掌」「「高砂」「「再生」の6つの短編小説であるが、例によって例のごとくあっちに寄ってはこちらに引っかかりながら、まるで二人羽織のように脳内対話がとめどなく繰り広げられていく。
最後に並べられた「再生」では、甦りの再生ではなく噺家の安藤芳流という人の談話テープを作者が文字起こししてそのユニークな語りを再現するのに驚かされる。
安藤は漱石の弟子の森田草平の思い出を語り、続いて福本日南が書いた「元禄快挙録」を引き合いに出して、大石内蔵助の切腹があまり潔いものではなかったという話をする。彼の切腹を陰からこっそり見ていた細川越中守がそう証言しているというのである。
定めし立派な腹切りであろうと固唾を呑んで期待していたら意外にも「あまり締まりがなかった」。いったいどうしてだろうといぶかしみながら越中守が内蔵助が使っていた手文庫の中を改めてみたら、「見事なる切腹は一人にかぎり候」という書置きが出てきたそうだ。
この秘話を安藤が恩師の森田に語ってきかせたところ、草平は「おいちょっと待て。そこのところは『見事なる切腹は、殿ご一人にかぎり候 内蔵助』とやれ」と安藤に知恵を授けたという。
なるほど、これだと内蔵助が主君の見事な切腹を際立たせるためにあえて無様な切腹を選び取ったということが一遍で分かる。さすが漱石の永遠の弟子の森田草平だけのことはある、ということを言いたいがために、小島信夫はこの40分間の口演テープを汗だくで再現してみせるのである。
♪如月も十日を過ぎて仕事なし 亡羊
Friday, February 08, 2008
40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」
40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」
♪音楽千夜一夜第32回
冬来たりなば春遠からじ。私はその春の足音に耳を澄ましながら、もはや過去の遺物と化しつつあるヴィデオテープに収められたクラシック音楽の演奏を少しずつDVDに変換に変換している。
昨日は1967年に初来日したピエール・ブーレーズが大阪のフェスティバルホールでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を振った歴史的演奏を視聴した。イゾルデがビルギット・ニルソン、トリスタンがウオルフガング・ヴィントガッセン、マルケ王をハンス・ホッター、演出はヴィーラント・ワーグナーという、今では考えられない超弩級かつ垂涎の豪華絢爛たる組み合わせである。
オーケストラは大阪祝祭フェスティバル管弦楽団とあるが、おそらくはN響であろう。現在の腐敗堕落した同名のオケとは違ってなかなか見事な演奏を繰り広げ、当時弱冠40歳のブーレーズに巧みにドライブされてバイロイト風の味わいを醸し出している。さはさりながら、現在よりも40年前のほうが優れた演奏をしていた管弦楽団とはなんというおそまつさであろう!
しかしなんといっても素晴らしいのは表題役の2人の名唱、そしてハンス・ホッターの深沈たるマルケ王の絶唱である。ヴィーラントの演出といっても背後に「俊寛」を思わせる書割が出てくる程度でほとんど無作為であるが、その無作為が聴衆に音楽と歌唱への集中を促し、この空前絶後の絶対的な愛と死の物語への陶酔を生み出すのである。
それがすんでからNHKのFMをつけるとメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の目も覚めるように鮮烈な、そしてほんとに私が吐き気を覚えたエッジーな演奏が聞こえてきた。「チョン・ミョンフンかな? いやもっともっと凄いぞ」と思いながら最後まで聞きとおすと、これがなんと若き日の小沢征爾がトロント響と入れた空前絶後の古い古い演奏だったので、私は大昔から今日までどんどん恐竜のように退化していったこの国民的アイドルの音楽的「反進化」の栄光と悲惨を思わないわけにはいかなかった。
小沢大先生の悪口をもうこれで最後にしようと思いつつまたしても書いてしまうのは、若き日の彼にはいま世界中の話題をさらっている81年ベネズエラ生まれの俊英指揮者ドゥダメルをはるかにしの超越的なアカルイミライがまぎれもなくあったにもかかわらず、その宝をうまく開花させることが出来なかったこの未完の天才に対して大いなる無念の想いがあるからで他意はない。
閑話休題。
その1週間くらい前には、教育テレビでコソットの演奏生活50周年記念のコンサートをやっていたがもう相当の年来なのにフィガロのケリビーノのアリアなどを歌い始めると肉弾相打つ風情の肥え太ったおばさんが突然妙齢の美少年に変身するのには驚いた。けだし年の功というやつだろう。
それに比べるとコソットより若いはずのバンブレーはもう往年の輝きは失せ、声も出ずまことに無残なものだった。
♪蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
♪老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
♪音楽千夜一夜第32回
冬来たりなば春遠からじ。私はその春の足音に耳を澄ましながら、もはや過去の遺物と化しつつあるヴィデオテープに収められたクラシック音楽の演奏を少しずつDVDに変換に変換している。
昨日は1967年に初来日したピエール・ブーレーズが大阪のフェスティバルホールでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を振った歴史的演奏を視聴した。イゾルデがビルギット・ニルソン、トリスタンがウオルフガング・ヴィントガッセン、マルケ王をハンス・ホッター、演出はヴィーラント・ワーグナーという、今では考えられない超弩級かつ垂涎の豪華絢爛たる組み合わせである。
オーケストラは大阪祝祭フェスティバル管弦楽団とあるが、おそらくはN響であろう。現在の腐敗堕落した同名のオケとは違ってなかなか見事な演奏を繰り広げ、当時弱冠40歳のブーレーズに巧みにドライブされてバイロイト風の味わいを醸し出している。さはさりながら、現在よりも40年前のほうが優れた演奏をしていた管弦楽団とはなんというおそまつさであろう!
しかしなんといっても素晴らしいのは表題役の2人の名唱、そしてハンス・ホッターの深沈たるマルケ王の絶唱である。ヴィーラントの演出といっても背後に「俊寛」を思わせる書割が出てくる程度でほとんど無作為であるが、その無作為が聴衆に音楽と歌唱への集中を促し、この空前絶後の絶対的な愛と死の物語への陶酔を生み出すのである。
それがすんでからNHKのFMをつけるとメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の目も覚めるように鮮烈な、そしてほんとに私が吐き気を覚えたエッジーな演奏が聞こえてきた。「チョン・ミョンフンかな? いやもっともっと凄いぞ」と思いながら最後まで聞きとおすと、これがなんと若き日の小沢征爾がトロント響と入れた空前絶後の古い古い演奏だったので、私は大昔から今日までどんどん恐竜のように退化していったこの国民的アイドルの音楽的「反進化」の栄光と悲惨を思わないわけにはいかなかった。
小沢大先生の悪口をもうこれで最後にしようと思いつつまたしても書いてしまうのは、若き日の彼にはいま世界中の話題をさらっている81年ベネズエラ生まれの俊英指揮者ドゥダメルをはるかにしの超越的なアカルイミライがまぎれもなくあったにもかかわらず、その宝をうまく開花させることが出来なかったこの未完の天才に対して大いなる無念の想いがあるからで他意はない。
閑話休題。
その1週間くらい前には、教育テレビでコソットの演奏生活50周年記念のコンサートをやっていたがもう相当の年来なのにフィガロのケリビーノのアリアなどを歌い始めると肉弾相打つ風情の肥え太ったおばさんが突然妙齢の美少年に変身するのには驚いた。けだし年の功というやつだろう。
それに比べるとコソットより若いはずのバンブレーはもう往年の輝きは失せ、声も出ずまことに無残なものだった。
♪蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
♪老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
Thursday, February 07, 2008
古井由吉著「白暗淵」を読む
照る日曇る日第94回
それは夢なのか、それとも夢見る前なのか、夢を見た後の想いなのか、と著者に尋ねても答えは返ってこないだろう。とりとめのない父母未生以前の記憶、突然の爆撃と機銃掃射、一瞬にして町と川と人間の景色を消し去った戦争の悪夢、よみがえった平和の中の死、老年の衰えの日々に鳴り響く幻聴、若き日の友人の些細な思い出、さまざまな女たちの臭い、皮膚と肉の柔らかな接触、鳥や花や物や人間などがひとつに融解していく恐怖と快楽などがここ2年ほどの間につむがれた11の短編の中でモノローグのように語られ、ハープシコードのように独奏されている。
どの作品も見事な出来栄えだが、とりわけ凄いのは「撫子遊ぶ」。文久2年のコレラ流行から話が始まり、やがて応天門炎上の責を問われて憤死した大納言伴善男の話になり、「伴大納言絵詞」の登場人物が側対歩(末讀選手のナンバ走り)ではないかと疑い始め、絵詞の登場人物たちの「恐慌と喜悦とはその表情においてじつに紛らわしい」と著者は書く。私はこの作品を06年の秋に出光美術館で鑑賞したがたしかにそういう表情だったと思い当たった。
やがて大納言を思わせる老人が現れ、男女の交わりの話になって突然「水口に撫子遊ぶ夕まぐれ」という句が著者に浮かんでからは少年時代の思い出に話柄は飛び、いきなり友人の父親の死の前夜の思い出が挿入されてから、「撫子の咲く野辺に 父を埋めて 母を埋めて」という唄が歌われて、さながら漱石の「夢十夜」のような狂気幻想夢譚が鮮やかに閉じられる。人生の切断面の異様なまでの鋭い美しさである。
その幕切れはどうか直接手にとって確かめていただきたい、と寅さんの口上のように言うしかない。
なお題名の「白暗淵(しろわだ)」は、旧約聖書創世記の冒頭にある「元始に神天地を創造たまえり。地は定形なく曠空くして「黒暗淵」の面にあり神の霊水の面を覆たりき」による。菊池信義による装丁は、そのためか白い壁か油絵のテクスチャーを拡大撮影したようなデザインになっているが、これは戸田ツトムの「断層図鑑」のコピーのようにも見えた。
♪その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った 亡羊
それは夢なのか、それとも夢見る前なのか、夢を見た後の想いなのか、と著者に尋ねても答えは返ってこないだろう。とりとめのない父母未生以前の記憶、突然の爆撃と機銃掃射、一瞬にして町と川と人間の景色を消し去った戦争の悪夢、よみがえった平和の中の死、老年の衰えの日々に鳴り響く幻聴、若き日の友人の些細な思い出、さまざまな女たちの臭い、皮膚と肉の柔らかな接触、鳥や花や物や人間などがひとつに融解していく恐怖と快楽などがここ2年ほどの間につむがれた11の短編の中でモノローグのように語られ、ハープシコードのように独奏されている。
どの作品も見事な出来栄えだが、とりわけ凄いのは「撫子遊ぶ」。文久2年のコレラ流行から話が始まり、やがて応天門炎上の責を問われて憤死した大納言伴善男の話になり、「伴大納言絵詞」の登場人物が側対歩(末讀選手のナンバ走り)ではないかと疑い始め、絵詞の登場人物たちの「恐慌と喜悦とはその表情においてじつに紛らわしい」と著者は書く。私はこの作品を06年の秋に出光美術館で鑑賞したがたしかにそういう表情だったと思い当たった。
やがて大納言を思わせる老人が現れ、男女の交わりの話になって突然「水口に撫子遊ぶ夕まぐれ」という句が著者に浮かんでからは少年時代の思い出に話柄は飛び、いきなり友人の父親の死の前夜の思い出が挿入されてから、「撫子の咲く野辺に 父を埋めて 母を埋めて」という唄が歌われて、さながら漱石の「夢十夜」のような狂気幻想夢譚が鮮やかに閉じられる。人生の切断面の異様なまでの鋭い美しさである。
その幕切れはどうか直接手にとって確かめていただきたい、と寅さんの口上のように言うしかない。
なお題名の「白暗淵(しろわだ)」は、旧約聖書創世記の冒頭にある「元始に神天地を創造たまえり。地は定形なく曠空くして「黒暗淵」の面にあり神の霊水の面を覆たりき」による。菊池信義による装丁は、そのためか白い壁か油絵のテクスチャーを拡大撮影したようなデザインになっているが、これは戸田ツトムの「断層図鑑」のコピーのようにも見えた。
♪その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った 亡羊
Wednesday, February 06, 2008
冬の自画像
♪バガテルop39&鎌倉ちょっと不思議な物語98回
駅前を歩いていたら裏駅と表駅を結ぶ地下道に市内の中学生の自画像が張り出してあった。
精密なモノクロームの描線が写実的でいずれも巧みなクロッキーであるが、全体の印象がどことなく暗く、陰鬱であることが気になった。
それは思わずぎょっとするほど不吉ですらあった。個々の作品をよく見るといろいろな違いが見えてくるけれど、遠くから眺めた印象では十人一律で、あえて言うなら手法と切り口を含めて無個性なのである。
間違いであってほしいが、この暗さと空虚さと類似性が若い彼らのいまを象徴している、と私は思った。そしてそこに垣間見られるものは、未来への大いなる不安とあらかじめ用意された絶望ではないだろうか。十五にして心はすでに老人のように朽ち、孤独に立ちすくむ若く孤独な魂たちを想像して、同じ心根の私は冬空の下でぶるぶると震えた。
私(たち)は死んでも希望だけは手放してはならない。
♪梅千本一輪だけが咲いており 亡羊
駅前を歩いていたら裏駅と表駅を結ぶ地下道に市内の中学生の自画像が張り出してあった。
精密なモノクロームの描線が写実的でいずれも巧みなクロッキーであるが、全体の印象がどことなく暗く、陰鬱であることが気になった。
それは思わずぎょっとするほど不吉ですらあった。個々の作品をよく見るといろいろな違いが見えてくるけれど、遠くから眺めた印象では十人一律で、あえて言うなら手法と切り口を含めて無個性なのである。
間違いであってほしいが、この暗さと空虚さと類似性が若い彼らのいまを象徴している、と私は思った。そしてそこに垣間見られるものは、未来への大いなる不安とあらかじめ用意された絶望ではないだろうか。十五にして心はすでに老人のように朽ち、孤独に立ちすくむ若く孤独な魂たちを想像して、同じ心根の私は冬空の下でぶるぶると震えた。
私(たち)は死んでも希望だけは手放してはならない。
♪梅千本一輪だけが咲いており 亡羊
Tuesday, February 05, 2008
常楽寺詣
鎌倉ちょっと不思議な物語97回
大船という地名は3代将軍実朝が宋に渡航する大きな船を材木座あるいは由比ガ浜で作らせたことに因んでいると勝手に想像していた。
ところがいつもお世話になっている「鎌倉の寺小事典」によれば、ここ大船の常楽寺の山号である「粟船」に由来しているそうだ。
嘉禎3年1237年、3代執権の北条泰時が妻の母の供養のために「栗船御堂」を建て、退耕行勇が供養の導師をつとめたのがこの寺の始まりであるという。しかしこの泰時は日本最古の港である和賀江島を材木座の海岸に築いた人なので、まんざら大きな船と縁がないわけでもない。
この常楽寺は蘭渓道隆とも縁が深く、蘭渓はあの建長寺を開山する5年前にこの寺で宋の禅を広めたそうで、「常楽は建長の根本なり」といわれるほど建長寺とのつながりが深い格式高い巨大な寺だったが、今は無粋な観光客なぞついぞ見かけずいつ訪れても直ちに中世の黄昏に身を投じることができる私だけの隠れ里である。
本尊の阿弥陀三尊像、脇恃の観音菩薩、勢至菩薩を安置した伽藍、茅葺の見事な山門、秋の夕日に輝く巨大な公孫樹、仏殿右奥の池と庭園、泰時のこていな墓、そして鎌倉三名鐘のひとつである梵鐘に通じる長い長い参道は、「門」の主人公代助が参禅した円覚寺よりもはるかに趣がある。
栗船山の中腹には木曽義仲の子で頼朝政子の娘大姫との愛の絆を引き裂かれた悲運の義高の墓「木曽塚」があるそうだが、私はまだそこまで登ったことはない。
♪立春哉窓一面乃銀世界 亡羊
大船という地名は3代将軍実朝が宋に渡航する大きな船を材木座あるいは由比ガ浜で作らせたことに因んでいると勝手に想像していた。
ところがいつもお世話になっている「鎌倉の寺小事典」によれば、ここ大船の常楽寺の山号である「粟船」に由来しているそうだ。
嘉禎3年1237年、3代執権の北条泰時が妻の母の供養のために「栗船御堂」を建て、退耕行勇が供養の導師をつとめたのがこの寺の始まりであるという。しかしこの泰時は日本最古の港である和賀江島を材木座の海岸に築いた人なので、まんざら大きな船と縁がないわけでもない。
この常楽寺は蘭渓道隆とも縁が深く、蘭渓はあの建長寺を開山する5年前にこの寺で宋の禅を広めたそうで、「常楽は建長の根本なり」といわれるほど建長寺とのつながりが深い格式高い巨大な寺だったが、今は無粋な観光客なぞついぞ見かけずいつ訪れても直ちに中世の黄昏に身を投じることができる私だけの隠れ里である。
本尊の阿弥陀三尊像、脇恃の観音菩薩、勢至菩薩を安置した伽藍、茅葺の見事な山門、秋の夕日に輝く巨大な公孫樹、仏殿右奥の池と庭園、泰時のこていな墓、そして鎌倉三名鐘のひとつである梵鐘に通じる長い長い参道は、「門」の主人公代助が参禅した円覚寺よりもはるかに趣がある。
栗船山の中腹には木曽義仲の子で頼朝政子の娘大姫との愛の絆を引き裂かれた悲運の義高の墓「木曽塚」があるそうだが、私はまだそこまで登ったことはない。
♪立春哉窓一面乃銀世界 亡羊
Monday, February 04, 2008
萩原延壽著「馬場辰猪」を読む
照る日曇る日第93回&勝手に建築観光28回
馬場辰猪は「明治の東京」の著者で西脇順三郎によって“日本のアナトール・フランス”と称された明治時代の文人馬場孤蝶の兄で、嘉永3年1850年土佐中島に生まれ、明治21年1888年米国フィラデルフィアで結核のため客死した。
辰猪(「たつい」と呼ぶ)は、17歳の時に上京し福沢諭吉の慶応義塾に入って英語を学び、明治3年英国に留学しロンドンでローマ法、財産法を学んで明治7年帰国したが、翌年再び英国に留学し、明治11年の帰国まで英国法、議会の討論と西欧民主主義のあり方について親しく見聞し、「日本語文典」、「日本における英国人」「日英条約論」などの論文・著作を英文で執筆・出版した。
帰国してからは自由民権運動の最前線に立ち、次第に身体を病魔に蝕まれながら明治専制藩閥政権の抑圧と思想的、実践的に戦い、板垣とともに結党した自由党が、党首板垣自身の腐敗堕落と戦線逃亡によって空中分解してからもなお孤軍奮闘したが、民権闘争の全面敗北の急流が押し寄せる中、米国への亡命を決意するも心身の疲労困憊がきわまる中、「あまりにも性急な歩行者」と萩原に評された享年39歳の短い生涯を閉じたのであった。
明治維新の成就いらい西欧流の自由と民権主義の移植は福沢諭吉や中江兆民はじめ数多くの留学経験者、インテリ帰朝者によって精力的に行なわれたが、伊藤博文、井上毅などが大隈重信を閣外に追放した「明治14年の政変」以来自由派への逆風がつのり結局辰猪は破滅してしまうのだが、その抵抗精神と自由主義の旗は不滅のものであり、福沢と中江の弔辞を読んで悌涙せぬ人は著者と私の友ではない。
辰猪の生涯とその戦いの詳細は本書で詳しくたどっていただくことにして、辰猪の自由思想で注目すべきは、彼の結婚観であろう。(彼自身は父親の放蕩を呪詛して生涯独身を貫いた)。彼は夫婦は愛によってのみ結ばれるべきものと考え、結婚は期限を定めた契約を前提にせよと説いている。いずれかの愛が醒めればただちに契約を破棄せよというのだがなかなかに合理的ではないか。
過日私はかつて銀座でもっとも愛していた場所を訪れた。そこには今は無残なモダン廃墟と化したわが国ではじめての社交クラブ交詢社がつい数年前まで誇らかに聳え立ち、敬愛する福沢諭吉、馬場辰猪をはじめあの西周、栗本鋤雲、菊池大麓、小野梓、岩崎小二郎、後藤象二郎、大隈重信、由利公正、小泉新吉(信三の父)、犬養毅などの倶楽部員が自由奔放に討論を交わした昔日の面影をかすかに伝えていたのである。
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう 亡羊
馬場辰猪は「明治の東京」の著者で西脇順三郎によって“日本のアナトール・フランス”と称された明治時代の文人馬場孤蝶の兄で、嘉永3年1850年土佐中島に生まれ、明治21年1888年米国フィラデルフィアで結核のため客死した。
辰猪(「たつい」と呼ぶ)は、17歳の時に上京し福沢諭吉の慶応義塾に入って英語を学び、明治3年英国に留学しロンドンでローマ法、財産法を学んで明治7年帰国したが、翌年再び英国に留学し、明治11年の帰国まで英国法、議会の討論と西欧民主主義のあり方について親しく見聞し、「日本語文典」、「日本における英国人」「日英条約論」などの論文・著作を英文で執筆・出版した。
帰国してからは自由民権運動の最前線に立ち、次第に身体を病魔に蝕まれながら明治専制藩閥政権の抑圧と思想的、実践的に戦い、板垣とともに結党した自由党が、党首板垣自身の腐敗堕落と戦線逃亡によって空中分解してからもなお孤軍奮闘したが、民権闘争の全面敗北の急流が押し寄せる中、米国への亡命を決意するも心身の疲労困憊がきわまる中、「あまりにも性急な歩行者」と萩原に評された享年39歳の短い生涯を閉じたのであった。
明治維新の成就いらい西欧流の自由と民権主義の移植は福沢諭吉や中江兆民はじめ数多くの留学経験者、インテリ帰朝者によって精力的に行なわれたが、伊藤博文、井上毅などが大隈重信を閣外に追放した「明治14年の政変」以来自由派への逆風がつのり結局辰猪は破滅してしまうのだが、その抵抗精神と自由主義の旗は不滅のものであり、福沢と中江の弔辞を読んで悌涙せぬ人は著者と私の友ではない。
辰猪の生涯とその戦いの詳細は本書で詳しくたどっていただくことにして、辰猪の自由思想で注目すべきは、彼の結婚観であろう。(彼自身は父親の放蕩を呪詛して生涯独身を貫いた)。彼は夫婦は愛によってのみ結ばれるべきものと考え、結婚は期限を定めた契約を前提にせよと説いている。いずれかの愛が醒めればただちに契約を破棄せよというのだがなかなかに合理的ではないか。
過日私はかつて銀座でもっとも愛していた場所を訪れた。そこには今は無残なモダン廃墟と化したわが国ではじめての社交クラブ交詢社がつい数年前まで誇らかに聳え立ち、敬愛する福沢諭吉、馬場辰猪をはじめあの西周、栗本鋤雲、菊池大麓、小野梓、岩崎小二郎、後藤象二郎、大隈重信、由利公正、小泉新吉(信三の父)、犬養毅などの倶楽部員が自由奔放に討論を交わした昔日の面影をかすかに伝えていたのである。
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう 亡羊
Sunday, February 03, 2008
我輩は犬である。
♪バガテルop38
名前は探偵犬クロである。さる探偵会社で大切に育てられた現役の探偵犬である。
生まれながらに探偵犬として訓練されているから、尾行や張込みはもちろん、人捜し、また同類項の動物捜しにも大活躍、探偵犬ならではの類い稀な能力を遺憾なく発揮しておる。
かの文豪夏目漱石は大の猫派で、探偵と大金持ちの金田一族を嫌ったそうだが、実はおいらも人様の秘密をあばく探偵稼業でおまんまを頂戴していることについては内心忸怩たるものがある。
しかし少なくともおいらは自分の頭と手足と六感で食べている。そこが2002年の2月に天寿を全うして大往生を遂げたあまでうす家のムクなぞとは一味も二味も違うところだ。あのアホムクなんて朝寝して時々起きて昼寝して時々起きて居眠りばかりしていたからなあ。やはり犬も働かざる犬は食うべからずだワン。
なに?六感がわからない? 「六根清浄お山は晴天」の六根がなまって目・耳・鼻・舌・身・意の六感になったんだワン。おいらはそんじょそこいらの新米マーロウ風情とはわけが違う。犬としての知性も品格も備えているつもりだ。
と、探偵犬クロは空っ風が吹きすさぶ甲州街道でなおもえらそうに自慢するのでした。
♪詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ 亡羊
名前は探偵犬クロである。さる探偵会社で大切に育てられた現役の探偵犬である。
生まれながらに探偵犬として訓練されているから、尾行や張込みはもちろん、人捜し、また同類項の動物捜しにも大活躍、探偵犬ならではの類い稀な能力を遺憾なく発揮しておる。
かの文豪夏目漱石は大の猫派で、探偵と大金持ちの金田一族を嫌ったそうだが、実はおいらも人様の秘密をあばく探偵稼業でおまんまを頂戴していることについては内心忸怩たるものがある。
しかし少なくともおいらは自分の頭と手足と六感で食べている。そこが2002年の2月に天寿を全うして大往生を遂げたあまでうす家のムクなぞとは一味も二味も違うところだ。あのアホムクなんて朝寝して時々起きて昼寝して時々起きて居眠りばかりしていたからなあ。やはり犬も働かざる犬は食うべからずだワン。
なに?六感がわからない? 「六根清浄お山は晴天」の六根がなまって目・耳・鼻・舌・身・意の六感になったんだワン。おいらはそんじょそこいらの新米マーロウ風情とはわけが違う。犬としての知性も品格も備えているつもりだ。
と、探偵犬クロは空っ風が吹きすさぶ甲州街道でなおもえらそうに自慢するのでした。
♪詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ 亡羊
Saturday, February 02, 2008
Friday, February 01, 2008
ねじめ正一著「荒地の恋」を読む
照る日曇る日第93回
何の期待も予備知識もなしに読んだのですが、とてもよく出来た小説なのでいたく感心いたしました。
著者はまるで三遊亭円生の落語の一席のようによどみなく「詩人の恋」と荒涼たる「冬の旅」を一気呵成にカタって聞かせるのです。それは詩人北村太郎の老いらくの恋と妻や恋人たちの物語です。中年男が平和な家庭を壊して自分の親友の妻を奪って親友も、妻も、自分も壊していく破壊的愛の物語なのですが、それはお互いの唾液を交し合うような濃密さを終始保ちつつ甘く切なく息詰まるようなモデラート・カンタービレで描かれているので、読者は一気に読まされてしまいます。
けれどもそれがあまりにもステレオタイプで通俗小説的な展開なので、「ちょっと待て、その嘘ほんとなの」と眉に唾する瞬間もなきにしもあらずですが、てだれの著者はまるで登場人物の霊が乗り移ったように、さながら憑依したイタコのように確信をもってカタるので、我らはもはや黙して聞くしかないのです。
登場人物の造形は確かであり、男も女もいきいきと息づいており、泣き、喚き、怒り、絶望し、途方にくれて人生に生き悩み、性交し、別れ、自殺をはかり、そうして死んでいくのです。登場人物ときたら還暦過ぎで不治の病を患っているというのにラブホテルで20代の女性を苛め抜くのですからその生と性への執着には驚倒の他はありません。
けれどもまぎれもなくここには孤独な人間の生きる姿が刻み付けられています。それはほとんど感動的なラブロマンスといってよいのでしょうが、私たちはその一見通読的なお涙頂戴の物語に感動するのではなく、そのロマンスの底に流れている、北村太郎はもちろん田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫など著者の同業の先輩である「荒地」の同人たちへの著者の畏敬と哀悼の念に対して一掬の涙を惜しまないのです。
余談ながら私は昔西本町のてらこ履物店の隣にあった火星社書店で、研究社の「英語青年」に掲載される大沢茂と最所フミという女性の論文をよく読んだものです。大沢氏は私の敬愛する英文学者の亡き叔父ですが、やはり碩学の最所フミさんが信濃在住のタオイスト加島詳造氏と結婚してすぐに別れてからなんと鮎川信夫氏と結婚していたことをこの本で知って少し驚いた次第です。
最後に、本書の最も魅力的な箇所は、疑いもなくp270の松田聖子の「ストロベリータイム」が車に流れるシーンであり、p156の「猫山」のシーンでしょう。無数の猫たちが折り重なってピラミッドになる光景を、この世におさらばする前にできたら私も一度は見たいものです。
♪そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌 亡羊
何の期待も予備知識もなしに読んだのですが、とてもよく出来た小説なのでいたく感心いたしました。
著者はまるで三遊亭円生の落語の一席のようによどみなく「詩人の恋」と荒涼たる「冬の旅」を一気呵成にカタって聞かせるのです。それは詩人北村太郎の老いらくの恋と妻や恋人たちの物語です。中年男が平和な家庭を壊して自分の親友の妻を奪って親友も、妻も、自分も壊していく破壊的愛の物語なのですが、それはお互いの唾液を交し合うような濃密さを終始保ちつつ甘く切なく息詰まるようなモデラート・カンタービレで描かれているので、読者は一気に読まされてしまいます。
けれどもそれがあまりにもステレオタイプで通俗小説的な展開なので、「ちょっと待て、その嘘ほんとなの」と眉に唾する瞬間もなきにしもあらずですが、てだれの著者はまるで登場人物の霊が乗り移ったように、さながら憑依したイタコのように確信をもってカタるので、我らはもはや黙して聞くしかないのです。
登場人物の造形は確かであり、男も女もいきいきと息づいており、泣き、喚き、怒り、絶望し、途方にくれて人生に生き悩み、性交し、別れ、自殺をはかり、そうして死んでいくのです。登場人物ときたら還暦過ぎで不治の病を患っているというのにラブホテルで20代の女性を苛め抜くのですからその生と性への執着には驚倒の他はありません。
けれどもまぎれもなくここには孤独な人間の生きる姿が刻み付けられています。それはほとんど感動的なラブロマンスといってよいのでしょうが、私たちはその一見通読的なお涙頂戴の物語に感動するのではなく、そのロマンスの底に流れている、北村太郎はもちろん田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫など著者の同業の先輩である「荒地」の同人たちへの著者の畏敬と哀悼の念に対して一掬の涙を惜しまないのです。
余談ながら私は昔西本町のてらこ履物店の隣にあった火星社書店で、研究社の「英語青年」に掲載される大沢茂と最所フミという女性の論文をよく読んだものです。大沢氏は私の敬愛する英文学者の亡き叔父ですが、やはり碩学の最所フミさんが信濃在住のタオイスト加島詳造氏と結婚してすぐに別れてからなんと鮎川信夫氏と結婚していたことをこの本で知って少し驚いた次第です。
最後に、本書の最も魅力的な箇所は、疑いもなくp270の松田聖子の「ストロベリータイム」が車に流れるシーンであり、p156の「猫山」のシーンでしょう。無数の猫たちが折り重なってピラミッドになる光景を、この世におさらばする前にできたら私も一度は見たいものです。
♪そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌 亡羊
Thursday, January 31, 2008
小島信夫著「各務原、名古屋、国立」を読む
照る日曇る日第93回
小島信夫の小説は普通の小説とは違う。あきらかに違う。
では普通の小説なんかあるのかと聞かれたって、素人の私がここでにわかに普通の小説の定義をすることなんかてんでできないが、そもそも普通の小説は、作者の語りたいテーマが最初にあって、次にそのテーマをうまく展開するためのプロットがあり、最後に、そのプロットを木の幹に譬えると、その木をより立派に見せるための枝や葉っぱを周囲に廻らせる、という形式を選ぶのだろう、といちおうは考えられる。考えさせてもらってもいいのではなかろうかいな。
ところが小島氏の小説は、特に晩年の作品は、テーマだのプロットなどはほとんどない。
いや名古屋だの国立などといちおうあることはあるのだが、読んでみるとあまり名古屋や国立そのものの話ではないことの方が多い。それでも最初だけは題名で示されたテーマに沿って氏の小説はゆっくりと開始されるのだが、途中で必ず話が逸れ、あちこちで横道に入りこみ、横丁の長屋で大いに道草を食い、そのうちにテーマなんかあってもなくても構わないと不敵に居直り、当初はあったはずのプロットを大胆に投げ捨て、いわば無手勝流でわが道を猛進するところに彼の文学の真骨頂があると私は思う。
そのとき彼は、自分という小説家が小説を書いていることを忘れるはずがないにもかかわらずいつのまにやら忘れ去り、そのとき遅くかのとき早く忘我の境地に立ち至り、それこそ無我夢中になって細君のアルツハイマー症状やら自分の過去現在の交友やら郷里の記念碑やら文学館やら私も大好きなゴンチャロフやオブローモフや幕末の聡明な奉行川路聖謨やら「わが名はアラム」のウイリアム・サローヤンやらスターンの「トリストラム・シャンデイ」やら私の大好きな新橋の日本銀行に似た昭和7年製の堀ビルやら明治大学理工学部の授業で「具体的なことだけが生きるのだ」と語った話やら持病やら住宅問題やら身の回りの些細なトラブルやらについて忙しく思いをめぐらせ、その思いの丈をまるで牧場の牛が限りなくよだれを垂らすように、春の小川が、いな秋の小川がさらさらとさらさらとどこどこまでも流れていくように、美空のひばりがとめどなく高空でぴーちくぱーちく囀るように、果てしなく書き連ねるのだが、他の多くの小説や小説家と決定的に違うのは、その折に作家は彼の実存を全てさらけ出し開陳しつくしていることなのである。
「おおこの男は今全身全霊で生きている、その証がこの麗しき水茎のあとなのだ」ということを我ら読者は彼の一語一語が目に飛び込むその瞬間ごとにいやおう無く感得するのである。彼が死に損ないの蛾が卵を産みつけているようにいままさに命の残光を刻み付けていること、いわば遺言を書きつつあること、にもかかわらず今彼が激烈に自らの生を生きていること、そうして私たちもまた生きていること、を痛切に思い知らされるのである。
本書の最後はこんな風に終わっている。
「ちょうどテレビでは、ニューヨークの世界貿易センターに、ハイジャックされた満タンの第一の旅客機が激突し、おどろいて物をいえずにおるとき、第二の旅客機が音を立てぶつかるところで、『ハイハイ』とてっとり早くいっておいてテレビに戻った。
そのテレビは、ムスメが電気屋さんにいって、おくようになったワイドの実に大きなものであって、何週間めかに思い出したように、アイコさん(主人公の妻)が、『このテレビ前からあったかしら』と問いかけ、『前からのものではありませんよ。これの方がよく見えるから、少なくともぼくにはね』というと、『いいわねえ、これ。こんなものがあるのね』
『ここにあった小型のは、まだ性能がいいからいまの二階のあなたの部屋のものと置き換えようと思っているが、どうしてか、この頃あの電気屋こないな』
何ということが、テレビで起こっているのだ。それからあと二週間、たぶん世界中が何とかよい方法はないものかとこんなに真剣になっていることは珍しい、と思いながら、小さい小さいことだけれど、わが家も似ているといえばいえないことはない、と思っているような気がする」
あの9.11同時テロに驚倒しながらも、同時につまらぬこと、どうでもよいとも思える日常生活の些事にとらわれてしまう自分を見つめている人間、世界の一大事と自家の一大事をためらいながらも等しい重さで対峙させている人間。その愚直な誠実さが小島信夫なのである。
♪またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を 亡羊
小島信夫の小説は普通の小説とは違う。あきらかに違う。
では普通の小説なんかあるのかと聞かれたって、素人の私がここでにわかに普通の小説の定義をすることなんかてんでできないが、そもそも普通の小説は、作者の語りたいテーマが最初にあって、次にそのテーマをうまく展開するためのプロットがあり、最後に、そのプロットを木の幹に譬えると、その木をより立派に見せるための枝や葉っぱを周囲に廻らせる、という形式を選ぶのだろう、といちおうは考えられる。考えさせてもらってもいいのではなかろうかいな。
ところが小島氏の小説は、特に晩年の作品は、テーマだのプロットなどはほとんどない。
いや名古屋だの国立などといちおうあることはあるのだが、読んでみるとあまり名古屋や国立そのものの話ではないことの方が多い。それでも最初だけは題名で示されたテーマに沿って氏の小説はゆっくりと開始されるのだが、途中で必ず話が逸れ、あちこちで横道に入りこみ、横丁の長屋で大いに道草を食い、そのうちにテーマなんかあってもなくても構わないと不敵に居直り、当初はあったはずのプロットを大胆に投げ捨て、いわば無手勝流でわが道を猛進するところに彼の文学の真骨頂があると私は思う。
そのとき彼は、自分という小説家が小説を書いていることを忘れるはずがないにもかかわらずいつのまにやら忘れ去り、そのとき遅くかのとき早く忘我の境地に立ち至り、それこそ無我夢中になって細君のアルツハイマー症状やら自分の過去現在の交友やら郷里の記念碑やら文学館やら私も大好きなゴンチャロフやオブローモフや幕末の聡明な奉行川路聖謨やら「わが名はアラム」のウイリアム・サローヤンやらスターンの「トリストラム・シャンデイ」やら私の大好きな新橋の日本銀行に似た昭和7年製の堀ビルやら明治大学理工学部の授業で「具体的なことだけが生きるのだ」と語った話やら持病やら住宅問題やら身の回りの些細なトラブルやらについて忙しく思いをめぐらせ、その思いの丈をまるで牧場の牛が限りなくよだれを垂らすように、春の小川が、いな秋の小川がさらさらとさらさらとどこどこまでも流れていくように、美空のひばりがとめどなく高空でぴーちくぱーちく囀るように、果てしなく書き連ねるのだが、他の多くの小説や小説家と決定的に違うのは、その折に作家は彼の実存を全てさらけ出し開陳しつくしていることなのである。
「おおこの男は今全身全霊で生きている、その証がこの麗しき水茎のあとなのだ」ということを我ら読者は彼の一語一語が目に飛び込むその瞬間ごとにいやおう無く感得するのである。彼が死に損ないの蛾が卵を産みつけているようにいままさに命の残光を刻み付けていること、いわば遺言を書きつつあること、にもかかわらず今彼が激烈に自らの生を生きていること、そうして私たちもまた生きていること、を痛切に思い知らされるのである。
本書の最後はこんな風に終わっている。
「ちょうどテレビでは、ニューヨークの世界貿易センターに、ハイジャックされた満タンの第一の旅客機が激突し、おどろいて物をいえずにおるとき、第二の旅客機が音を立てぶつかるところで、『ハイハイ』とてっとり早くいっておいてテレビに戻った。
そのテレビは、ムスメが電気屋さんにいって、おくようになったワイドの実に大きなものであって、何週間めかに思い出したように、アイコさん(主人公の妻)が、『このテレビ前からあったかしら』と問いかけ、『前からのものではありませんよ。これの方がよく見えるから、少なくともぼくにはね』というと、『いいわねえ、これ。こんなものがあるのね』
『ここにあった小型のは、まだ性能がいいからいまの二階のあなたの部屋のものと置き換えようと思っているが、どうしてか、この頃あの電気屋こないな』
何ということが、テレビで起こっているのだ。それからあと二週間、たぶん世界中が何とかよい方法はないものかとこんなに真剣になっていることは珍しい、と思いながら、小さい小さいことだけれど、わが家も似ているといえばいえないことはない、と思っているような気がする」
あの9.11同時テロに驚倒しながらも、同時につまらぬこと、どうでもよいとも思える日常生活の些事にとらわれてしまう自分を見つめている人間、世界の一大事と自家の一大事をためらいながらも等しい重さで対峙させている人間。その愚直な誠実さが小島信夫なのである。
♪またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を 亡羊
2008年亡羊睦月詩歌集
♪ある晴れた日に その20
おみくじは引かずに帰る鎌倉宮
なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ
去年今年生きてしあればそれでよし
初日の出今年も市中に山居せむ
小便の泡で描きたる髑髏かな
父祖伝来暗黒面に光なし
粛々と死地に赴く銀の船
元旦やわれよりもまず家族かな
在庫無く迎える朝に日が昇る
冬の朝わが欲望の遠ざかる
どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない
神田なるチャールズ・イー・タトル商会にあこがれし日もあり
こなくそと振り下ろしたる刀かな -偲龍馬
亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな
真っ青に晴れ上がりたる冬空にわが初めて獣になりし日を思う
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
神実在森羅万象すべて不可知なり
大寒やわが欲望の小ささよ
新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり
ひよめじろやまがらおながしじゅうからうぐいすみんなこいこいわがやのときわさんざしへ
正岡の子規が作りし月並みの句ほど好ましきものはない
果樹園で柚子を拾いき花いちもんめ
果樹園で彼女の屍体は見ざリけり
我もまた穴で春待つ土竜かな
一月も半ばになりて仕事来ず
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん
正月なし無用の用に精進する息子
わが息子寝る間惜しみて描きたる愛犬ムクの絵売れ残りたり
神仏に祈りし甲斐やムク売れる
はにかんで笑った顔がぶれていた月本氏死す弱冠四十七
ただ一人泣いていたりし通夜の客
莞爾たり無私たり自娯たりし月本氏死す享年四十七
我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ
教壇のチョークの粉にまみれつつ白けた魂を熱く燃すべし –最終講義
あの世からの刺客のごとく手裏剣を生徒の胸にシュルシュルと刺す
わが実存かけて発する言の葉よ若き胸に落ち善き実を結べ
子規漱石もし今の世にありとせばいかに生きるやいかに死ぬるや
音程が悪いとわれが罵りしその流行歌手は左耳聴こえず –許せ鮎女
昼は尨犬のごとく街頭を彷徨い夜は鮪のごとく眠れり
闘争を紛争、敗戦を終戦と言い換える人が嫌いだ
道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ
誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に長く馨るよ
空に鳥万象すべて不可知なり
一月も終わりになりて仕事来ず
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年
おみくじは引かずに帰る鎌倉宮
なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ
去年今年生きてしあればそれでよし
初日の出今年も市中に山居せむ
小便の泡で描きたる髑髏かな
父祖伝来暗黒面に光なし
粛々と死地に赴く銀の船
元旦やわれよりもまず家族かな
在庫無く迎える朝に日が昇る
冬の朝わが欲望の遠ざかる
どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない
神田なるチャールズ・イー・タトル商会にあこがれし日もあり
こなくそと振り下ろしたる刀かな -偲龍馬
亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな
真っ青に晴れ上がりたる冬空にわが初めて獣になりし日を思う
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
神実在森羅万象すべて不可知なり
大寒やわが欲望の小ささよ
新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり
ひよめじろやまがらおながしじゅうからうぐいすみんなこいこいわがやのときわさんざしへ
正岡の子規が作りし月並みの句ほど好ましきものはない
果樹園で柚子を拾いき花いちもんめ
果樹園で彼女の屍体は見ざリけり
我もまた穴で春待つ土竜かな
一月も半ばになりて仕事来ず
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん
正月なし無用の用に精進する息子
わが息子寝る間惜しみて描きたる愛犬ムクの絵売れ残りたり
神仏に祈りし甲斐やムク売れる
はにかんで笑った顔がぶれていた月本氏死す弱冠四十七
ただ一人泣いていたりし通夜の客
莞爾たり無私たり自娯たりし月本氏死す享年四十七
我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ
教壇のチョークの粉にまみれつつ白けた魂を熱く燃すべし –最終講義
あの世からの刺客のごとく手裏剣を生徒の胸にシュルシュルと刺す
わが実存かけて発する言の葉よ若き胸に落ち善き実を結べ
子規漱石もし今の世にありとせばいかに生きるやいかに死ぬるや
音程が悪いとわれが罵りしその流行歌手は左耳聴こえず –許せ鮎女
昼は尨犬のごとく街頭を彷徨い夜は鮪のごとく眠れり
闘争を紛争、敗戦を終戦と言い換える人が嫌いだ
道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ
誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に長く馨るよ
空に鳥万象すべて不可知なり
一月も終わりになりて仕事来ず
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年
Tuesday, January 29, 2008
ホッブズ・ファッションの時代
ふあっちょん幻論第7回
前回、私は80年代に女性の肩パッド入りジャケットがアウト・オブ・ファッションになると同時に婦人服の全体的なシルエットがよりミニマムで身体にきちんとフィットした細身のシルエットに変化していったこと、それからおよそ二十年近く遅れて紳士服のシルエットが同じようにスリムな形に変化したという記事を書いた。
ところがたまたま1月25日附の朝日新聞夕刊を見ると、スタイリストの原由美子さんが08年春夏のパリコレでイヴ・サンローランが発表した肩パッド付のネービーの袖なしジャケットを紹介していた。
そしてその記事の中で、原さんは「もう80年代のようなジャケットブームは帰ってこないと考えていたけれど、下に長袖を着てウエストにはベルトを締めたこの着こなしこそは今の時代に求められている新しいタイプのジャケットである」と断言し、ブームの再来の可能性を期待しているようにも見える。
ご存知のように、衣服と身体あるいは皮膚との間にはつねに鋭い緊張関係が存在しており、(皮膚は脳そのものだ)その感覚と懸隔はその時代とその時代を生きる人間との相関関係を微妙に反映している。
過ぎし高度成長の時代はまだ帝国の臣民の政治経済社会の意識は環境に対して鋭角的に鋭く対峙していたから、詰め襟の学生服や企業のお堅い制服に代表されるようにそのシルエットはぴたりと身体に密着していた。
ところがわが神国日本が大きく経済成長を遂げ、帝国臣民が総体として豊かなになり、肥え太った臣民たちの精神は著しく弛緩すると共にその典型としてバブルの時代が訪れると、前述の巨大なフィット&フレアのシルエットが畏れ多くも畏くも華麗に花開いたのである。
しかしその後のデフレ時代と世界的なテロと不安の時代が世界のファッションを再びスモール&ミニマム&ハードフィットネスの時代へと逆流させ、アホ馬鹿小泉がわが帝国において将来したいわゆる格差ふぁしずむ時代の登場が、「万人が万人に対する敵であり、衣服は潜在的な敵としての他者に対する最小の武器である」という前代未聞のホッブズ・ファッションの時代を招来したのであった。
このように重苦しい背景をひきずっているだけに、私はこのサンローランの新デザインは、原さんがいうように「肩パッド付きジャケットの再現」ではあっても、「21世紀後半のフィット&フレアのビッグ・シルエットへの大きな回帰」のさきがけとしての象徴的な意味を持っている」とまでは、まだ確言できないような気がするのである。
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年 亡羊
前回、私は80年代に女性の肩パッド入りジャケットがアウト・オブ・ファッションになると同時に婦人服の全体的なシルエットがよりミニマムで身体にきちんとフィットした細身のシルエットに変化していったこと、それからおよそ二十年近く遅れて紳士服のシルエットが同じようにスリムな形に変化したという記事を書いた。
ところがたまたま1月25日附の朝日新聞夕刊を見ると、スタイリストの原由美子さんが08年春夏のパリコレでイヴ・サンローランが発表した肩パッド付のネービーの袖なしジャケットを紹介していた。
そしてその記事の中で、原さんは「もう80年代のようなジャケットブームは帰ってこないと考えていたけれど、下に長袖を着てウエストにはベルトを締めたこの着こなしこそは今の時代に求められている新しいタイプのジャケットである」と断言し、ブームの再来の可能性を期待しているようにも見える。
ご存知のように、衣服と身体あるいは皮膚との間にはつねに鋭い緊張関係が存在しており、(皮膚は脳そのものだ)その感覚と懸隔はその時代とその時代を生きる人間との相関関係を微妙に反映している。
過ぎし高度成長の時代はまだ帝国の臣民の政治経済社会の意識は環境に対して鋭角的に鋭く対峙していたから、詰め襟の学生服や企業のお堅い制服に代表されるようにそのシルエットはぴたりと身体に密着していた。
ところがわが神国日本が大きく経済成長を遂げ、帝国臣民が総体として豊かなになり、肥え太った臣民たちの精神は著しく弛緩すると共にその典型としてバブルの時代が訪れると、前述の巨大なフィット&フレアのシルエットが畏れ多くも畏くも華麗に花開いたのである。
しかしその後のデフレ時代と世界的なテロと不安の時代が世界のファッションを再びスモール&ミニマム&ハードフィットネスの時代へと逆流させ、アホ馬鹿小泉がわが帝国において将来したいわゆる格差ふぁしずむ時代の登場が、「万人が万人に対する敵であり、衣服は潜在的な敵としての他者に対する最小の武器である」という前代未聞のホッブズ・ファッションの時代を招来したのであった。
このように重苦しい背景をひきずっているだけに、私はこのサンローランの新デザインは、原さんがいうように「肩パッド付きジャケットの再現」ではあっても、「21世紀後半のフィット&フレアのビッグ・シルエットへの大きな回帰」のさきがけとしての象徴的な意味を持っている」とまでは、まだ確言できないような気がするのである。
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年 亡羊
Monday, January 28, 2008
小島信夫著「暮坂」を読む
照る日曇る日第92回
この本にはさまざまな人物とそれらの人物がかもし出すさまざまな事件というか日常生活の断片が次々に描かれる、それはそれとして面白くないこともないのだが、読んでいて退屈になるどうでもいい挿話も続々と出現してきて、普通の私小説なら作者と作品の主人公はおおむねイコールであり、作者は読者を意識し、読者を楽しませることを主眼に物語を書き連ねるのだが、本書の場合は基本的にはその私小説という形式を踏襲しながらも、作者と同じ名前を持つ小島信夫という名の小説家を登場させたり、有名無名の作家や友人や宗教家などを無遠慮に出現させたり、小説のなかで彼らを狂言回しにして一種の哲学や考察を開陳したり、平板であるはずの私小説の世界を数多くの実在、非在の人物が暗に陽にうごめく奇怪なモノローグ詩劇のような異様な劇世界に仕立て上げてしまう結果となっており、そこが旧来の伝統的な私小説との違いであるとは分かってはいても、ではどうしてこのような奇妙かつリスキーな文学的な実験を敢行するのかと問えば、それは小島信夫という人間の謎を小島信夫という作家が完璧に解明しようとして自分が自分に仕掛けた生存の罠なのであり、多くの経験と蹉跌を経てそれ以上の血路を切り開こうとすればこうするほかはなかったとでも言うべき小説の方法的制覇への裏道、前途の勝利をまったく予測できない必然的な道行きであったとしかわれひと共にいえず、その結果作者自らがあとがきで述べるように美術評論家のU氏だの新興宗教の教祖的存在であるY氏だのZ氏だのが踵を接して登場し、それらのいずれもがきわめてうさんくさい存在のように見え始め、例えば書家井上有一の支持者であり彼の評価をここまでの高さに引き上げたといっても過言でもないU氏を作者が尊重し擁護すればするほど私たち読者の目にはそのU氏のみならずくだんの井上有一の芸術性すらも例えば白隠禅師の書の本物性に比較すればいささかどころか大いに遜色のある偽者性をその作品内部に含有しているのではないかとの疑念が湧くのをいちがいに押し留めることができないし、もっと言えばこのような怪しくうさんくさい人々との交友を深めていく作者自身に対するうさんくささもいや増すばかりなのだが、ほかならぬ作者が自らのうさんくささについて公言しており、またおよそこの世の中にうさんくさくない人間がたった一人でも存在するだろうか、文学とはそうしたうさんくささを徹底的に掘り下げることではなかろうかと考えるとき、もはや私たちにできることは外野席からとやかく批判する愚に陥る危険を避けて、この自己探求という名の泥濘に覆われた薄明の暮坂をどんどん下っていく気狂い老人の行方をただただ凝視するしかないのだった。
新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 亡羊
この本にはさまざまな人物とそれらの人物がかもし出すさまざまな事件というか日常生活の断片が次々に描かれる、それはそれとして面白くないこともないのだが、読んでいて退屈になるどうでもいい挿話も続々と出現してきて、普通の私小説なら作者と作品の主人公はおおむねイコールであり、作者は読者を意識し、読者を楽しませることを主眼に物語を書き連ねるのだが、本書の場合は基本的にはその私小説という形式を踏襲しながらも、作者と同じ名前を持つ小島信夫という名の小説家を登場させたり、有名無名の作家や友人や宗教家などを無遠慮に出現させたり、小説のなかで彼らを狂言回しにして一種の哲学や考察を開陳したり、平板であるはずの私小説の世界を数多くの実在、非在の人物が暗に陽にうごめく奇怪なモノローグ詩劇のような異様な劇世界に仕立て上げてしまう結果となっており、そこが旧来の伝統的な私小説との違いであるとは分かってはいても、ではどうしてこのような奇妙かつリスキーな文学的な実験を敢行するのかと問えば、それは小島信夫という人間の謎を小島信夫という作家が完璧に解明しようとして自分が自分に仕掛けた生存の罠なのであり、多くの経験と蹉跌を経てそれ以上の血路を切り開こうとすればこうするほかはなかったとでも言うべき小説の方法的制覇への裏道、前途の勝利をまったく予測できない必然的な道行きであったとしかわれひと共にいえず、その結果作者自らがあとがきで述べるように美術評論家のU氏だの新興宗教の教祖的存在であるY氏だのZ氏だのが踵を接して登場し、それらのいずれもがきわめてうさんくさい存在のように見え始め、例えば書家井上有一の支持者であり彼の評価をここまでの高さに引き上げたといっても過言でもないU氏を作者が尊重し擁護すればするほど私たち読者の目にはそのU氏のみならずくだんの井上有一の芸術性すらも例えば白隠禅師の書の本物性に比較すればいささかどころか大いに遜色のある偽者性をその作品内部に含有しているのではないかとの疑念が湧くのをいちがいに押し留めることができないし、もっと言えばこのような怪しくうさんくさい人々との交友を深めていく作者自身に対するうさんくささもいや増すばかりなのだが、ほかならぬ作者が自らのうさんくささについて公言しており、またおよそこの世の中にうさんくさくない人間がたった一人でも存在するだろうか、文学とはそうしたうさんくささを徹底的に掘り下げることではなかろうかと考えるとき、もはや私たちにできることは外野席からとやかく批判する愚に陥る危険を避けて、この自己探求という名の泥濘に覆われた薄明の暮坂をどんどん下っていく気狂い老人の行方をただただ凝視するしかないのだった。
新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 亡羊
Sunday, January 27, 2008
吉本隆明、梅原猛、中沢新一著「日本人は思想したか」を読む
照る日曇る日第91回
梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書である。今から10年以上前の対談であるが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値がある。
例えば次のような中沢などの指摘があって興味深い。
太閤秀吉の刀狩と喧嘩停止令が出されたために、平和な江戸時代になって博物学と物産、自然と性愛に対する興味と好奇心が高まり、その結果喜多川歌麿は当初の自然画から性愛画へと進み、西鶴の遊郭色道文学が流行し、本居宣長の性愛色道肯定の源氏物語論などが登場した。源氏物語とは、あるいは文学とは、つまりは「もものあわれ」なのだ。
また梅原は「古事記」は人麻呂によって書かれた歌物語であると断じる。「竹取物語」は天武帝時代の権力者へのカリカチュア、「万葉集」は柿本人麻呂や大伴氏への、「伊勢物語」は藤原氏に弾圧された在原業平への、「源氏物語」は源氏への、「平家物語」は平氏への鎮魂歌でありながら法然浄土教の宣伝の書であり、「古今集」は政治的生命を絶たれた紀氏の文学者独立宣言の書である。
吉本は「源氏物語」が日本の空間的な四季観を初めて確立したといい、中沢は反道長派の「枕草子」だけがこの空間化に対抗し反発したという。吉本は「新古今集」が古典的和歌リズムの絶頂と崩壊の始まりと見る。そして連歌だけは古今的で厳格な宇宙観、論理構造を受けついだとされる。
次は音楽と宗教についてである。
空也と一遍は踊る聖だった。行脚と踊りのダンスミュージックが日本芸能の発端としての縄文的&ディオニソス的音楽芸術となり、西行、芭蕉、山頭火あるいは近世の毛坊主たちによって大衆化されて、現代のストリートミュージックやフォークやロックに続いている。とこれは私の勝手な追加。
新宿角筈の地名は十二社の裏の熊野神社が毛坊主たち(浄土真宗などの信者で半僧半俗の有髪の人)の集落で、彼らが手にした「鹿の角の付いた杖」から来ていると中沢は言う。空也像もこの角筈を手に持っているが杖の脇には瓢箪がぶら下がっており、柳田國男はこの瓢箪は楽器だと書いている。
毛坊主たちは、近世のアホダラ教のチョボクレにみられるように、いつもパカポコパカポコお経をやっていた。かつて比叡山では声明をメロデイで歌っていたが、浄土宗の毛坊主たちのアホダラ教の音楽も基本はリズムである。
西欧のプロテスタントがキリスト教から美術や装飾を取り去ったためにバッハの宗教音楽のようなドイツ音楽が本格的に発展したように、仏教から美術と装飾を否定した浄土宗から、わが国の固有の音楽と文学が生まれた。(親鸞は景教の僧侶が漢訳したマタイ伝を読んでいたそうだが、もちろん浄土真宗=キリスト教ではない。表向きは一神教に見える浄土真宗も実際は選択的であり、いわば必修的な西洋一神教とは本来的に違う)
「新古集」の古典的な調和の美学は、中世の平家物語や太平記の音楽的文学、戦う武士を疾駆させる馬の蹄の跳躍の音、ギャロップのリズムによって置き換えられる。西方極楽浄土を揺るがす悪党たちの全身的破壊的ゲリラミュージックが日本の芸術に縄文的生命を注ぎ込んだのである。
そして結論。
人間と自然と神が三位一体で密接不可分であるというオリシア=基督教のコスモス思想はキリスト教内部のグノーシス派やマルチンルター、その後のヘーゲル、実存主義などによって崩壊し、予定調和的コスモスから疎外された個人と現代社会は孤独なままで漂流している。
その現代人と現代社会の「病気」を超克するには、一方では縄文、アイヌなど原始的な生命力の掘り起こしと同時に、革命的な科学技術の登場が必要である、と吉本は説くが、具体的な手がかりがどこかに転がっているわけではない。
ハイイメージ論以降の吉本の唯一の生産的な仕事は、近代詩の中心価値は比喩であり、直喩より隠喩を上手に駆使している詩のほうが文学的に上位にあると説く「詩学叙説」くらいのものではないだろうか。この対談においても発言内容、頻度ともに他の2人に力負けしているのは昔からの一ファンとして歯がゆい限りである。けれども、考えてみれば現代のアポリアについて白黒いずれか2分法の浅はかな回答を拙速に行なうことが優れた思想家の使命ではない。とすれば吉本氏はまことに賢明な不可知論者という道を選んだというべきだろう。
いずれにしても私は本書のタイトルではないがまったく思想などしないでただ生きている人間なので、激しく思想しているこの三人に大いなる知的刺激を受けた次第である。
空に鳥万象すべて不可知なり 亡羊
梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書である。今から10年以上前の対談であるが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値がある。
例えば次のような中沢などの指摘があって興味深い。
太閤秀吉の刀狩と喧嘩停止令が出されたために、平和な江戸時代になって博物学と物産、自然と性愛に対する興味と好奇心が高まり、その結果喜多川歌麿は当初の自然画から性愛画へと進み、西鶴の遊郭色道文学が流行し、本居宣長の性愛色道肯定の源氏物語論などが登場した。源氏物語とは、あるいは文学とは、つまりは「もものあわれ」なのだ。
また梅原は「古事記」は人麻呂によって書かれた歌物語であると断じる。「竹取物語」は天武帝時代の権力者へのカリカチュア、「万葉集」は柿本人麻呂や大伴氏への、「伊勢物語」は藤原氏に弾圧された在原業平への、「源氏物語」は源氏への、「平家物語」は平氏への鎮魂歌でありながら法然浄土教の宣伝の書であり、「古今集」は政治的生命を絶たれた紀氏の文学者独立宣言の書である。
吉本は「源氏物語」が日本の空間的な四季観を初めて確立したといい、中沢は反道長派の「枕草子」だけがこの空間化に対抗し反発したという。吉本は「新古今集」が古典的和歌リズムの絶頂と崩壊の始まりと見る。そして連歌だけは古今的で厳格な宇宙観、論理構造を受けついだとされる。
次は音楽と宗教についてである。
空也と一遍は踊る聖だった。行脚と踊りのダンスミュージックが日本芸能の発端としての縄文的&ディオニソス的音楽芸術となり、西行、芭蕉、山頭火あるいは近世の毛坊主たちによって大衆化されて、現代のストリートミュージックやフォークやロックに続いている。とこれは私の勝手な追加。
新宿角筈の地名は十二社の裏の熊野神社が毛坊主たち(浄土真宗などの信者で半僧半俗の有髪の人)の集落で、彼らが手にした「鹿の角の付いた杖」から来ていると中沢は言う。空也像もこの角筈を手に持っているが杖の脇には瓢箪がぶら下がっており、柳田國男はこの瓢箪は楽器だと書いている。
毛坊主たちは、近世のアホダラ教のチョボクレにみられるように、いつもパカポコパカポコお経をやっていた。かつて比叡山では声明をメロデイで歌っていたが、浄土宗の毛坊主たちのアホダラ教の音楽も基本はリズムである。
西欧のプロテスタントがキリスト教から美術や装飾を取り去ったためにバッハの宗教音楽のようなドイツ音楽が本格的に発展したように、仏教から美術と装飾を否定した浄土宗から、わが国の固有の音楽と文学が生まれた。(親鸞は景教の僧侶が漢訳したマタイ伝を読んでいたそうだが、もちろん浄土真宗=キリスト教ではない。表向きは一神教に見える浄土真宗も実際は選択的であり、いわば必修的な西洋一神教とは本来的に違う)
「新古集」の古典的な調和の美学は、中世の平家物語や太平記の音楽的文学、戦う武士を疾駆させる馬の蹄の跳躍の音、ギャロップのリズムによって置き換えられる。西方極楽浄土を揺るがす悪党たちの全身的破壊的ゲリラミュージックが日本の芸術に縄文的生命を注ぎ込んだのである。
そして結論。
人間と自然と神が三位一体で密接不可分であるというオリシア=基督教のコスモス思想はキリスト教内部のグノーシス派やマルチンルター、その後のヘーゲル、実存主義などによって崩壊し、予定調和的コスモスから疎外された個人と現代社会は孤独なままで漂流している。
その現代人と現代社会の「病気」を超克するには、一方では縄文、アイヌなど原始的な生命力の掘り起こしと同時に、革命的な科学技術の登場が必要である、と吉本は説くが、具体的な手がかりがどこかに転がっているわけではない。
ハイイメージ論以降の吉本の唯一の生産的な仕事は、近代詩の中心価値は比喩であり、直喩より隠喩を上手に駆使している詩のほうが文学的に上位にあると説く「詩学叙説」くらいのものではないだろうか。この対談においても発言内容、頻度ともに他の2人に力負けしているのは昔からの一ファンとして歯がゆい限りである。けれども、考えてみれば現代のアポリアについて白黒いずれか2分法の浅はかな回答を拙速に行なうことが優れた思想家の使命ではない。とすれば吉本氏はまことに賢明な不可知論者という道を選んだというべきだろう。
いずれにしても私は本書のタイトルではないがまったく思想などしないでただ生きている人間なので、激しく思想しているこの三人に大いなる知的刺激を受けた次第である。
空に鳥万象すべて不可知なり 亡羊
Saturday, January 26, 2008
ある丹波の女性の物語 最終回
遥かな昔、遠い所で第69回
生涯病弱だった継母の死は、其の4年後の63年11月に訪れた。90歳を5日後にひかえた死であった。
夫の死後1年で創業100年余の店をとじ、殆ど床にある母と2人きりの暮らしが続いた。それでも気分の良い日には教会に出かける日もあり、継母は教会だけが生き甲斐であった。
継母も熱心な信者を父に持って教育されたが、家が仏教だったら、きっと熱心な仏教徒で終わったろうと思う。中々頑固な所もあったが、追々と私に心を開いてくれ、感謝して、生命の灯が消えるように召されて行った。
1人残された私も昔風で云えば古稀を迎えた。高血圧の私は、いつまで生かされるか分らないが、人に迷惑をかけぬよう終わりたいと願っている。
矢内原忠雄、内村鑑三等、本棚もあさってみたが、すでに老化した脳には消化する力はない。今は教理などどうでもいい。絶対者に全てをゆだねようと思う。私を愛してくれた天上の人々との再会も又、楽しかろう。
すべてが感謝である。子供達、孫達との想い出は、したためずとも、それぞれの心の中に沢山きざんでいるにちがいない。
私は父のように立派な足跡は残せないが、母のように、そして夫のように、いつまでも人の心の中に優しさを残す人になりたいと願っている。
衛星も はた関空も かかわりなし
狂える夏を 如何に過すや 愛子
草花の たね取り終えて 我が庭は
冬の気配 色濃くなりぬ 愛子
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
小さく青き 星にあいたく 愛子
あとがき
ある丹波の女性、佐々木愛子は大正10年1921年2月22日に生まれ、平成14年2002年3月23日に81歳で亡くなりました。「ある丹波の老人の物語」は彼女の父の伝記でしたが、この「ある丹波の女性の物語」は1989年から1990年にかけて彼女自らの手で執筆された自らの半生記で、息子であるわたしが各回の文末に1975年頃から95年頃までの間に彼女が詠んだ80首余りの短歌と俳句をあわせて掲載しました。
母は、もちろん単なる下手の横好き、一介の市井の歌詠みでしたが、「歌は心が満ちればおのずから生まれるもの」というのが、生前枕草子や万葉集を愛した彼女の考え方でした。そのためか、どの作品も拙いながらも技巧にとらわれることなく、虚心坦懐に思ったまま,感じたままを素朴な調べに乗せて歌っている点が、身内贔屓の目には好ましく感じられます。
とりわけ最後の作品は、歳をとっても少女らしい夢を失わなかった故人の人柄が儚い虹のように美しくあらわれているような気がしてなりません。帰天した母もまた、きっと小さく青い星になって、いつまでも私たちを見守っていてくれることでしょう。
我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ 亡羊
生涯病弱だった継母の死は、其の4年後の63年11月に訪れた。90歳を5日後にひかえた死であった。
夫の死後1年で創業100年余の店をとじ、殆ど床にある母と2人きりの暮らしが続いた。それでも気分の良い日には教会に出かける日もあり、継母は教会だけが生き甲斐であった。
継母も熱心な信者を父に持って教育されたが、家が仏教だったら、きっと熱心な仏教徒で終わったろうと思う。中々頑固な所もあったが、追々と私に心を開いてくれ、感謝して、生命の灯が消えるように召されて行った。
1人残された私も昔風で云えば古稀を迎えた。高血圧の私は、いつまで生かされるか分らないが、人に迷惑をかけぬよう終わりたいと願っている。
矢内原忠雄、内村鑑三等、本棚もあさってみたが、すでに老化した脳には消化する力はない。今は教理などどうでもいい。絶対者に全てをゆだねようと思う。私を愛してくれた天上の人々との再会も又、楽しかろう。
すべてが感謝である。子供達、孫達との想い出は、したためずとも、それぞれの心の中に沢山きざんでいるにちがいない。
私は父のように立派な足跡は残せないが、母のように、そして夫のように、いつまでも人の心の中に優しさを残す人になりたいと願っている。
衛星も はた関空も かかわりなし
狂える夏を 如何に過すや 愛子
草花の たね取り終えて 我が庭は
冬の気配 色濃くなりぬ 愛子
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
小さく青き 星にあいたく 愛子
あとがき
ある丹波の女性、佐々木愛子は大正10年1921年2月22日に生まれ、平成14年2002年3月23日に81歳で亡くなりました。「ある丹波の老人の物語」は彼女の父の伝記でしたが、この「ある丹波の女性の物語」は1989年から1990年にかけて彼女自らの手で執筆された自らの半生記で、息子であるわたしが各回の文末に1975年頃から95年頃までの間に彼女が詠んだ80首余りの短歌と俳句をあわせて掲載しました。
母は、もちろん単なる下手の横好き、一介の市井の歌詠みでしたが、「歌は心が満ちればおのずから生まれるもの」というのが、生前枕草子や万葉集を愛した彼女の考え方でした。そのためか、どの作品も拙いながらも技巧にとらわれることなく、虚心坦懐に思ったまま,感じたままを素朴な調べに乗せて歌っている点が、身内贔屓の目には好ましく感じられます。
とりわけ最後の作品は、歳をとっても少女らしい夢を失わなかった故人の人柄が儚い虹のように美しくあらわれているような気がしてなりません。帰天した母もまた、きっと小さく青い星になって、いつまでも私たちを見守っていてくれることでしょう。
我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ 亡羊
Friday, January 25, 2008
ある丹波の女性の物語 第46回
遥かな昔、遠い所で第68回
父が召されて28年がたってしまった。時代は移り変わり、洋装の時代となり店は縮小していった。
夫は父の死後、株に興味を覚え、ラジオの短波放送に聞き入る事が多くなった。そして1年後には持ち株の殆どをうしなってしまったのである。38年の大暴落をまともに受けた訳である。
しかし、長い間養子として父に押さえられていた、若い日の代償と思えば、それは安すぎるものかも知れないと思う。
その後、夫は教会に熱心に通い、父への墓参をかかさなかった。
その間に、長男は早稲田へ、次男は府立医大へ、娘は同志社へと進学、揃って特別奨学金も受け、アルバイトもしてくれた。
59年、夫の死は全く夢のような出来事であった。隣の街に入院している人に、とどけものをしようと、綾部駅へ急ぐ途中心筋梗塞が起こり、自分で近くの病院へ行き、そこで息がたえたのである。出かけてほんの僅かの出来事で、とても信じられなかった。
夫は朝のジョギングを長年つづけ、自分の健康には自信があったので、医師になった次男にも脈をとらせた事がなかった。最後の脈も、とらせる事なく召されたのである。
夫も教会の役員となり、社会奉仕にもつとめたが、目立つ事の嫌いな人であった。しかしその優しさは、人の心にうつるものがあったようで、死後、思いがけない人々から慰めの言葉を頂いた。
水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
はじける花火 床に聞くのみ 愛子 (「水無月祭」は綾部の夏祭り)
もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
小さき秋の 気配感じぬ 愛子
打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
背低きままに つぼみつけたり 愛子
父が召されて28年がたってしまった。時代は移り変わり、洋装の時代となり店は縮小していった。
夫は父の死後、株に興味を覚え、ラジオの短波放送に聞き入る事が多くなった。そして1年後には持ち株の殆どをうしなってしまったのである。38年の大暴落をまともに受けた訳である。
しかし、長い間養子として父に押さえられていた、若い日の代償と思えば、それは安すぎるものかも知れないと思う。
その後、夫は教会に熱心に通い、父への墓参をかかさなかった。
その間に、長男は早稲田へ、次男は府立医大へ、娘は同志社へと進学、揃って特別奨学金も受け、アルバイトもしてくれた。
59年、夫の死は全く夢のような出来事であった。隣の街に入院している人に、とどけものをしようと、綾部駅へ急ぐ途中心筋梗塞が起こり、自分で近くの病院へ行き、そこで息がたえたのである。出かけてほんの僅かの出来事で、とても信じられなかった。
夫は朝のジョギングを長年つづけ、自分の健康には自信があったので、医師になった次男にも脈をとらせた事がなかった。最後の脈も、とらせる事なく召されたのである。
夫も教会の役員となり、社会奉仕にもつとめたが、目立つ事の嫌いな人であった。しかしその優しさは、人の心にうつるものがあったようで、死後、思いがけない人々から慰めの言葉を頂いた。
水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
はじける花火 床に聞くのみ 愛子 (「水無月祭」は綾部の夏祭り)
もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
小さき秋の 気配感じぬ 愛子
打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
背低きままに つぼみつけたり 愛子
Thursday, January 24, 2008
ある丹波の女性の物語 第45回
遥かな昔、遠い所で第67回
37年6月21日、その父が突然亡くなったのである。
大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、天に召された。
父は自分の思う通りに生き、まさに天国への道をかけのぼっていったように思う。当時、中学2年の長女が、この祖父の死に就いて記しているが、この祖父の活きざまにひどく心を打たれたようである。
「祖父の生涯は、祖父が好んでいた聖句―――我にとりて生くるはキリストなり、死もまた益なり―――そのもののように感じられた。」
「私の心の中と写真の中の祖父は、今もなお、悲しい時にはなぐさめ、心配がある時には自信をつけ、嬉しい時にはいっしょに喜んでくれる。私は、永遠に、祖父の思い出、祖父の全てのことを、忘れる事はないだろう。」
父は生前好んだ白百合の花に、うずまるようにかこまれて葬られた。
「血は水よりも濃し」というが、私は自分の生涯をふり返り、全然血のつながりのない父が、血縁のない私を心から愛してくれた事を感謝すると共に、血以上のものがあると思う。私がそう感じる一方、それ故に、父の死は夫に初めての解放感をあたえたと思う。
父には何かの予感があったのか、死の前夜、私に色々と昔話を語り、「自分の一生は、時間に追われて暮らしているようなものだった。時間のかねが打つ度に、生命の縮まる思いで働きつづけた。お前達の一生暮らしていける貯えは充分してあるので、これからは自分達の生活を楽しみながら、ゆったりと過ごしてほしい」と語った。
登校を こばみしふたとせ ながかりき
時も忘れぬ 今となりては 愛子
学校は とてもたのしと 生き生きと
孫は語りぬ はずむ声にて 愛子
円高の百円を切ると ニュース流る
白秋の詩をよむ 深夜便にて 愛子 (「深夜便」はNHKラジオ番組)
37年6月21日、その父が突然亡くなったのである。
大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、天に召された。
父は自分の思う通りに生き、まさに天国への道をかけのぼっていったように思う。当時、中学2年の長女が、この祖父の死に就いて記しているが、この祖父の活きざまにひどく心を打たれたようである。
「祖父の生涯は、祖父が好んでいた聖句―――我にとりて生くるはキリストなり、死もまた益なり―――そのもののように感じられた。」
「私の心の中と写真の中の祖父は、今もなお、悲しい時にはなぐさめ、心配がある時には自信をつけ、嬉しい時にはいっしょに喜んでくれる。私は、永遠に、祖父の思い出、祖父の全てのことを、忘れる事はないだろう。」
父は生前好んだ白百合の花に、うずまるようにかこまれて葬られた。
「血は水よりも濃し」というが、私は自分の生涯をふり返り、全然血のつながりのない父が、血縁のない私を心から愛してくれた事を感謝すると共に、血以上のものがあると思う。私がそう感じる一方、それ故に、父の死は夫に初めての解放感をあたえたと思う。
父には何かの予感があったのか、死の前夜、私に色々と昔話を語り、「自分の一生は、時間に追われて暮らしているようなものだった。時間のかねが打つ度に、生命の縮まる思いで働きつづけた。お前達の一生暮らしていける貯えは充分してあるので、これからは自分達の生活を楽しみながら、ゆったりと過ごしてほしい」と語った。
登校を こばみしふたとせ ながかりき
時も忘れぬ 今となりては 愛子
学校は とてもたのしと 生き生きと
孫は語りぬ はずむ声にて 愛子
円高の百円を切ると ニュース流る
白秋の詩をよむ 深夜便にて 愛子 (「深夜便」はNHKラジオ番組)
Wednesday, January 23, 2008
ある丹波の女性の物語 第44回 喜寿
遥かな昔、遠い所で第66回
夫もボツボツ休みながら、仕事も出来るようになり、34年の問屋の招待旅行には、私に姉の絢ちゃんと2人で行くようにすすめてくれ、出雲大社への旅行に出かけた。
2月末なのにとてもあたたかくて、皆生温泉では私達姉妹には浜辺の離れをあてがわれ、松籟や潮騒の音をききながら、生まれて初めて、2人きりの夜を色々と話し合った。
36年5月5日には、みんな元気で、父の喜寿を祝う事が出来た。
父の甥や姪など大勢を招いて、由良川沿いの小高い山にある料亭で宴を開いた。庭には藤の花房もたれ、さつきも満開、由良川の小波も陽にかがやいて美しく、父も大満足で、鼓を打ち、謡をうたった。みんなも心から父の喜寿を祝った。
夫は発病後、煙草も、好きな囲碁の夜ふかしも止め、毎朝ジョギングを始め、発病前より以上の元気を回復した。
父も、もっぱら教会の事、ギデオンの事に一生懸命で、高校や、病院などの聖書贈呈にいそしんだ。
級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
アルバムくりぬ 友の顔かほ 「をちとし」は一昨年の意
萌えいづる 小さきいのち いとほしく
同じ野草の 小鉢ふえゆく
藤山を めぐりて登る 桜道
ふかきみどりに つつまれて消ゆ
夫もボツボツ休みながら、仕事も出来るようになり、34年の問屋の招待旅行には、私に姉の絢ちゃんと2人で行くようにすすめてくれ、出雲大社への旅行に出かけた。
2月末なのにとてもあたたかくて、皆生温泉では私達姉妹には浜辺の離れをあてがわれ、松籟や潮騒の音をききながら、生まれて初めて、2人きりの夜を色々と話し合った。
36年5月5日には、みんな元気で、父の喜寿を祝う事が出来た。
父の甥や姪など大勢を招いて、由良川沿いの小高い山にある料亭で宴を開いた。庭には藤の花房もたれ、さつきも満開、由良川の小波も陽にかがやいて美しく、父も大満足で、鼓を打ち、謡をうたった。みんなも心から父の喜寿を祝った。
夫は発病後、煙草も、好きな囲碁の夜ふかしも止め、毎朝ジョギングを始め、発病前より以上の元気を回復した。
父も、もっぱら教会の事、ギデオンの事に一生懸命で、高校や、病院などの聖書贈呈にいそしんだ。
級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
アルバムくりぬ 友の顔かほ 「をちとし」は一昨年の意
萌えいづる 小さきいのち いとほしく
同じ野草の 小鉢ふえゆく
藤山を めぐりて登る 桜道
ふかきみどりに つつまれて消ゆ
Tuesday, January 22, 2008
ある丹波の女性の物語 第43回 夫の入院
遥かな昔、遠い所で第65回
父が念のためにと、夫を京大病院の結核研究所へ連れて行った。開放性ではないが、肺炎と結核におかされているので、要入院との事で、直ちに綾部の郡是病院の結核病棟に入院した。
私はすでに覚悟はしていたけれども、入院準備はすべて終え、夫を1人ベッドにおいて帰ろうとした時、泣くまいと思うのに、涙があふれ出るのを止める事が出来なかった。しかし夫は、優等生と言われる程おとなしく闘病してくれたので、33年秋には無事退院する事が出来た。
住み込みの女の子もよく慣れてくれていたし、父は夫の留守の間は手伝ってやると、がんばってくれた。私も皆が起きるまでに毎朝病院を訪ね、帰ってから店を開ける事にして、懸命に働いた。
父も入院中の夫を聖書を持参してはげまし、他の患者さんにも伝道した。
夫の退院祝に、鎌倉の兄からテレビを贈りたいとの申し出があったが、長男はすでに中学1年、次男も1年おいて中学生になるので、相談の上、毎日のお弁当作りに重宝なものをと、まだ田舎では珍しい電気冷蔵庫を、秋葉原から送ってもらった。
子供達は3人揃って人が羨む程成績がよくて、全く心配がなく、その点ではとても恵まれていたと思っている。
浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
今坪庭に 花さかりなり 愛子
うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
ひそと咲きたる じゅうにひとえ 愛子
春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
きほい立つごと 芽ふきいでたり 愛子
父が念のためにと、夫を京大病院の結核研究所へ連れて行った。開放性ではないが、肺炎と結核におかされているので、要入院との事で、直ちに綾部の郡是病院の結核病棟に入院した。
私はすでに覚悟はしていたけれども、入院準備はすべて終え、夫を1人ベッドにおいて帰ろうとした時、泣くまいと思うのに、涙があふれ出るのを止める事が出来なかった。しかし夫は、優等生と言われる程おとなしく闘病してくれたので、33年秋には無事退院する事が出来た。
住み込みの女の子もよく慣れてくれていたし、父は夫の留守の間は手伝ってやると、がんばってくれた。私も皆が起きるまでに毎朝病院を訪ね、帰ってから店を開ける事にして、懸命に働いた。
父も入院中の夫を聖書を持参してはげまし、他の患者さんにも伝道した。
夫の退院祝に、鎌倉の兄からテレビを贈りたいとの申し出があったが、長男はすでに中学1年、次男も1年おいて中学生になるので、相談の上、毎日のお弁当作りに重宝なものをと、まだ田舎では珍しい電気冷蔵庫を、秋葉原から送ってもらった。
子供達は3人揃って人が羨む程成績がよくて、全く心配がなく、その点ではとても恵まれていたと思っている。
浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
今坪庭に 花さかりなり 愛子
うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
ひそと咲きたる じゅうにひとえ 愛子
春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
きほい立つごと 芽ふきいでたり 愛子
Monday, January 21, 2008
ある丹波の女性の物語 第42回 旅行
遥かな昔、遠い所で第64回
翌32年も問屋の九州旅行に、私達は再び参加した。
2月は一番ヒマな時期なので、父達も心よく留守を引き受けてくれた。別府、阿蘇を経て、長崎から雲仙、三角港から熊本へと1週間の旅であった。阿蘇山上は一面の雪で、あのこおりつくような寒さは忘れられない。熊本でも積雪がある寒い冬であった。
4月の末には倉敷の夫の実家に法事があり、兄弟姉妹、夫婦で全員集まれと言う事で、私達も店には応援の人を頼み、これにも参加した。私は倉敷へは初めての訪問であった。
鷲羽山の旅館で宴会があり、甥のバィオリンでダンスも始まった。和やかな楽しい集いであった。「春の海ひねもすのたりのたりかな」そのままに、瀬戸内の波はおだやかであった。そのベタ波を目のあたりに眺め、新鮮な魚に舌鼔をうった。夫も心からくつろぎ、みちたりたようであった。兄弟姉妹って、なんていいもんだろうと私も心から思った。
その年の5月、高熱が出る風邪が大流行した。店もしめ、学校も休みになった。我が家も全員発熱。互い違いに、1週間程休んでおさまったのであるが、夫だけはいつまでもすっきりしなかった。
散りばめる 星のごとくに 若草の
野辺に咲きたる いぬふぐりの花 愛子
この春の 最後の桜に 会いたくて
上野の坂を のぼり行くなり 愛子
あらし去り 葉桜となる 藤山を
惜しみつつ眺む 街の広場に 愛子
翌32年も問屋の九州旅行に、私達は再び参加した。
2月は一番ヒマな時期なので、父達も心よく留守を引き受けてくれた。別府、阿蘇を経て、長崎から雲仙、三角港から熊本へと1週間の旅であった。阿蘇山上は一面の雪で、あのこおりつくような寒さは忘れられない。熊本でも積雪がある寒い冬であった。
4月の末には倉敷の夫の実家に法事があり、兄弟姉妹、夫婦で全員集まれと言う事で、私達も店には応援の人を頼み、これにも参加した。私は倉敷へは初めての訪問であった。
鷲羽山の旅館で宴会があり、甥のバィオリンでダンスも始まった。和やかな楽しい集いであった。「春の海ひねもすのたりのたりかな」そのままに、瀬戸内の波はおだやかであった。そのベタ波を目のあたりに眺め、新鮮な魚に舌鼔をうった。夫も心からくつろぎ、みちたりたようであった。兄弟姉妹って、なんていいもんだろうと私も心から思った。
その年の5月、高熱が出る風邪が大流行した。店もしめ、学校も休みになった。我が家も全員発熱。互い違いに、1週間程休んでおさまったのであるが、夫だけはいつまでもすっきりしなかった。
散りばめる 星のごとくに 若草の
野辺に咲きたる いぬふぐりの花 愛子
この春の 最後の桜に 会いたくて
上野の坂を のぼり行くなり 愛子
あらし去り 葉桜となる 藤山を
惜しみつつ眺む 街の広場に 愛子
Sunday, January 20, 2008
モーツアルトの降臨
モーツアルトの降臨
♪音楽千夜一夜第31回&鎌倉ちょっと不思議な物語96回
プラハの国立劇場オペラは、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」や私が偏愛する「皇帝ティトスの慈悲」を初演したオペラハウスとしても知られている。先夜私は、この中欧の凡庸とは言わないまでもローカルな、ベテランのオケをバックにだいぶとうのたったまあ2流から3流の歌手たちが奏でる「フィガロの結婚」を聴きに行った。
指揮も演奏も演出も歌手たちも私の知らない人ばかりだったがまずまずのできばえで、小沢やアーノンクールの指揮と違ってモーツアルトの音楽を聴くにはまったく問題はなかった。4幕のゴルフのシーンや虫のすだきをBGMで聞かせる演出は良くなかったが、美しい色彩のドレープの衣装がことに印象的だった。
ご存知のように、この曲の最大の聴き所は序曲と終曲にある。そしてあらゆるオペラのうちで最もオペラ的な序曲がこれである。
「さあお待ちかね、皆の衆これから胸がわくわくするような素敵なオペラが始まるよ」、といわんばかりの冒頭の数小節が、流麗な旋律、沸き立つようなリズム、そして色彩豊かなハーモニーに乗って繰り広げられるやいなや、私たちの心は早くもモーツアルトの音楽のとりこになってしまうのである。
この序曲だけで優にオペラの全曲に比肩するだろう古今随一の名曲を、モ氏は初演間際に綱渡りのように書き上げたというのだから驚く。おそらくプラハに急行する馬車の中でペンを走らせたのではないだろうか、と私はメーリケが「ドン・ジョバンニ」の初演のためにプラハに急ぐシーンから始まる「旅の日のモーツアルト」を読むたびに思うのである。
ちなみにこの本ほど読む人の心をしあわせにしてくれる書物を私は知らない。そして読むたびに彼のピアノ協奏曲第15番の第3楽章のアレグロが胸いっぱいに高鳴るのを覚えるのだ。
モ史の最初と最後の交響曲がド、ミ、ファ、レの4つの音を使っていることは有名だが、その夜私は第2幕の終わりの有名な4重唱、5重唱、6重唱、そして大団円の7重唱の掛け合いのところで彼の「レクイエム」で使われた旋律が鳴り響くのに気づいてわが耳を疑った。長調なのに短調、短調なのに長調と聴こえ、喜劇という上部構造の下部でひそかに同時並行的に進行する悲劇という重層的な音楽ドラマは、天才モ氏だけが書くことができた。
しかしいつも思うのだがフィガロの音楽は猛烈な速度で進行するのに、その演奏時間は長い。この夜は2幕の途中などで相当カットしていたがそれでも20分の休憩を挟んで160分間かかり通常は優に3時間を超える。映画「アマデウス」では、フィガロの音楽が長すぎる、音符が多すぎると感じた皇帝ヨーゼフ二世があくびをもらしたので、かのサリエリがしめたとほくそ笑むところが描かれていた。
実際フィガロの結婚話を描いたこのたった1日の朝から夜までの喜劇を描いたポーマルシェの芝居の原作もダポンテの台本もけっして長いものではない。にもかかわらず本来もっと簡単に終わるべきオペラ・ブッファの1幕から2幕、そして3幕までを、モ氏は延々と音符の限りを尽くして引き伸ばした。
何のために? 長丁場に終止符を打つ第4幕大詰めの最後の最後のフィナーレに万感の祈りを込めるためである。
封建時代の遺制である初夜権を放棄したといいながらまだフィガロの許婚スザンナに未練たっぷりな封建貴族のアルマヴィーヴァ伯爵とその従者フィガロの新旧両勢力の権力闘争を色恋沙汰を交えて描くこのどたばた悲喜劇的革命劇は、保守的で頑迷な伯爵の妻への謝罪のシーンで終わる。
第4楽章のスザンナのアリアで泣きに泣かせ、伯爵邸の夜の庭を舞台に展開されるどんちゃん騒ぎをあおりに煽り立てたオーケストラが、夜のしじまの中で一瞬全休止するとき、世界は深い闇に閉ざされ、地球はそのゆるやかな回転を突然停止する。いまやなにか神聖な時の時が訪れたことを私たちは予感する。そして私たちはモールアルトの音楽とともに、あるいはフィガロの翌年に書かれるであろうドン・ジョバンニとともに、「世界の奥底、宇宙の果て」にまで降りていくのだ。
そのとき、伯爵夫人ロジーナの前に片膝ついたアルマヴィーヴァ伯爵は、
Contessa,perdonno.(許してください伯爵夫人よ)
と厳かに歌う。すると夫の心がもはや自分を去って遠くに行ってしまった孤独と悲しさに耐えながら伯爵夫人は
Piu docili io sono
E dico di si. (素直な私ですから「はい」と申します)
とけなげに答える。
けれどもそれは夫への単なる許しの言葉ではない。人間が、生きとし生ける者たちが犯すすべての罪科に対する大いなる許しの声である。その声はその罪を胸に懐くすべての者たちの奥の奥にまで届くモーツアルトの声であり、地上で争い、憎み殺しあう者たちへの「あらかじめの許しの声」であり、こういってよければ宇宙からの、天からの声である。
私たちはこれに似た声をしばらくしてから聞くようになるだろう。世界に恒久平和を願うベートーベンの第9交響曲である。しかしシラーの歓喜の調べが高らかな直喩で歌われたのに対してモ氏の平和の歌はもっと低くもっと小さく、ほとんど聞き取れないくらいの隠喩として囁くように呟くように歌われる。それこそがモーツアルトならではの平和への祈りであり、人類と神と宇宙に向けて発せられたかそけき希望の歌なのである。
それがフィガロでモーツアルトがやりたかったただひとつの事業だった。
そうして幸いなことに私はその夜、その声を確かにこの耳で聴いたのだった。その夜モーツアルトは私(たち)の両肩の上にさながら音楽の精霊のように降臨したのである。
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん 亡羊
♪音楽千夜一夜第31回&鎌倉ちょっと不思議な物語96回
プラハの国立劇場オペラは、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」や私が偏愛する「皇帝ティトスの慈悲」を初演したオペラハウスとしても知られている。先夜私は、この中欧の凡庸とは言わないまでもローカルな、ベテランのオケをバックにだいぶとうのたったまあ2流から3流の歌手たちが奏でる「フィガロの結婚」を聴きに行った。
指揮も演奏も演出も歌手たちも私の知らない人ばかりだったがまずまずのできばえで、小沢やアーノンクールの指揮と違ってモーツアルトの音楽を聴くにはまったく問題はなかった。4幕のゴルフのシーンや虫のすだきをBGMで聞かせる演出は良くなかったが、美しい色彩のドレープの衣装がことに印象的だった。
ご存知のように、この曲の最大の聴き所は序曲と終曲にある。そしてあらゆるオペラのうちで最もオペラ的な序曲がこれである。
「さあお待ちかね、皆の衆これから胸がわくわくするような素敵なオペラが始まるよ」、といわんばかりの冒頭の数小節が、流麗な旋律、沸き立つようなリズム、そして色彩豊かなハーモニーに乗って繰り広げられるやいなや、私たちの心は早くもモーツアルトの音楽のとりこになってしまうのである。
この序曲だけで優にオペラの全曲に比肩するだろう古今随一の名曲を、モ氏は初演間際に綱渡りのように書き上げたというのだから驚く。おそらくプラハに急行する馬車の中でペンを走らせたのではないだろうか、と私はメーリケが「ドン・ジョバンニ」の初演のためにプラハに急ぐシーンから始まる「旅の日のモーツアルト」を読むたびに思うのである。
ちなみにこの本ほど読む人の心をしあわせにしてくれる書物を私は知らない。そして読むたびに彼のピアノ協奏曲第15番の第3楽章のアレグロが胸いっぱいに高鳴るのを覚えるのだ。
モ史の最初と最後の交響曲がド、ミ、ファ、レの4つの音を使っていることは有名だが、その夜私は第2幕の終わりの有名な4重唱、5重唱、6重唱、そして大団円の7重唱の掛け合いのところで彼の「レクイエム」で使われた旋律が鳴り響くのに気づいてわが耳を疑った。長調なのに短調、短調なのに長調と聴こえ、喜劇という上部構造の下部でひそかに同時並行的に進行する悲劇という重層的な音楽ドラマは、天才モ氏だけが書くことができた。
しかしいつも思うのだがフィガロの音楽は猛烈な速度で進行するのに、その演奏時間は長い。この夜は2幕の途中などで相当カットしていたがそれでも20分の休憩を挟んで160分間かかり通常は優に3時間を超える。映画「アマデウス」では、フィガロの音楽が長すぎる、音符が多すぎると感じた皇帝ヨーゼフ二世があくびをもらしたので、かのサリエリがしめたとほくそ笑むところが描かれていた。
実際フィガロの結婚話を描いたこのたった1日の朝から夜までの喜劇を描いたポーマルシェの芝居の原作もダポンテの台本もけっして長いものではない。にもかかわらず本来もっと簡単に終わるべきオペラ・ブッファの1幕から2幕、そして3幕までを、モ氏は延々と音符の限りを尽くして引き伸ばした。
何のために? 長丁場に終止符を打つ第4幕大詰めの最後の最後のフィナーレに万感の祈りを込めるためである。
封建時代の遺制である初夜権を放棄したといいながらまだフィガロの許婚スザンナに未練たっぷりな封建貴族のアルマヴィーヴァ伯爵とその従者フィガロの新旧両勢力の権力闘争を色恋沙汰を交えて描くこのどたばた悲喜劇的革命劇は、保守的で頑迷な伯爵の妻への謝罪のシーンで終わる。
第4楽章のスザンナのアリアで泣きに泣かせ、伯爵邸の夜の庭を舞台に展開されるどんちゃん騒ぎをあおりに煽り立てたオーケストラが、夜のしじまの中で一瞬全休止するとき、世界は深い闇に閉ざされ、地球はそのゆるやかな回転を突然停止する。いまやなにか神聖な時の時が訪れたことを私たちは予感する。そして私たちはモールアルトの音楽とともに、あるいはフィガロの翌年に書かれるであろうドン・ジョバンニとともに、「世界の奥底、宇宙の果て」にまで降りていくのだ。
そのとき、伯爵夫人ロジーナの前に片膝ついたアルマヴィーヴァ伯爵は、
Contessa,perdonno.(許してください伯爵夫人よ)
と厳かに歌う。すると夫の心がもはや自分を去って遠くに行ってしまった孤独と悲しさに耐えながら伯爵夫人は
Piu docili io sono
E dico di si. (素直な私ですから「はい」と申します)
とけなげに答える。
けれどもそれは夫への単なる許しの言葉ではない。人間が、生きとし生ける者たちが犯すすべての罪科に対する大いなる許しの声である。その声はその罪を胸に懐くすべての者たちの奥の奥にまで届くモーツアルトの声であり、地上で争い、憎み殺しあう者たちへの「あらかじめの許しの声」であり、こういってよければ宇宙からの、天からの声である。
私たちはこれに似た声をしばらくしてから聞くようになるだろう。世界に恒久平和を願うベートーベンの第9交響曲である。しかしシラーの歓喜の調べが高らかな直喩で歌われたのに対してモ氏の平和の歌はもっと低くもっと小さく、ほとんど聞き取れないくらいの隠喩として囁くように呟くように歌われる。それこそがモーツアルトならではの平和への祈りであり、人類と神と宇宙に向けて発せられたかそけき希望の歌なのである。
それがフィガロでモーツアルトがやりたかったただひとつの事業だった。
そうして幸いなことに私はその夜、その声を確かにこの耳で聴いたのだった。その夜モーツアルトは私(たち)の両肩の上にさながら音楽の精霊のように降臨したのである。
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん 亡羊
Saturday, January 19, 2008
吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む
吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む
照る日曇る日第90回
「だいたいでいいじゃない」というタイトルは悪くない、いや素晴らしいかもしれないと思ったのには理由があって、毎日のマスコミをにぎわせている政治、経済、社会などの話柄とそれを巡るとかく重箱の隅をつつくようなミクロの決死圏で、食うか食われるか、倒すか倒されるか、己が勝つかお前が勝つか、それでは負けたら腹を切るか、的な議論を目にしただけで疲労困憊してしまうすでに半死状態の私は、テロ特がどうなろうが民主が政権獲得に成功しようがはたまた失敗しようが、温暖化ガスが100倍排出されて朝青龍がモンゴルまで吹き飛ばされようが(私はこう平気で言い切れるくらいには排外的なナショナリスト兼国粋主義者だ)もうどうでもいいじゃないか、ミジンコ世界を逸脱して巨視的マグロ世界に悠久の時空の消長がうるわしく語られているのではないかと妄想した吉本氏と大塚氏の対談集であったが、結論としてはそうねえ中身は題名ほどには面白くなかったのであったが、これをしも羊頭狗肉とまで酷評するのは言いすぎであり、例えば吉本氏の「子供を殺された親が、もう俺は我慢がならねえから殺したほうの子供を殺しちゃう、って言って親がどっかで待ち伏せして刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ」という発言に対しては私は全面的に賛同するどころか、もし自分の子供がそういう悲惨な目にあったなら近代の法制度や正義がどうであれおそらく10中8,9そのような直接行動に出るだろうことを予感しているがゆえに「おお吉本、いい歳とってもちっとも変わっちゃいねえじゃんかよお」と思わずやんややんやの声援を送りたくなるし、「リストラされた会社員がやるべきことは、そのような事態をもたらした会社や経営者自体をリストラすることだ!」という斬新な切り口には思わずあっとうならされるし、(でも到底実行不可能だと思うけど)、明治以降のわが国の代表的知識人は柳田國男と折口信夫であるが前者は所詮は随筆家に過ぎず、後者が日本語の祖先まで遡って「国語学編」で比較言語学を敢行しているのは凄い、と喝破しているところなぞはふむふむそういうものですかと拝聴できるが、ジャック・ラカンの受け売りで「女性はみな気ちがいであり、男性の本質は女性になることです」とうわごとのように口走ったり、「新約聖書のキリストがちょっと触ったらハンセン氏病が癒えたという箇所は信じきれないが、立てと言って手をかざしたら足萎えが立ったり、足腰の痛いのがなくなったというのは完全にありうると思っている」と語ったり、「麻原彰晃でもそれはできるでしょう」と断言するのみならず、「消費は生産である」と軽ーく強弁し、あまつさえ「農業がなくなったら天皇制はなくなる」とのたまうにいたっては「もう結構です、だいたいでいいじゃない」と思わずゴッホの絵のように黄色い装丁のこの本を遠くに投げやってしまったのだった。 正岡の子規が作りし月並みの句ほど世に好ましきものはない 亡羊
照る日曇る日第90回
「だいたいでいいじゃない」というタイトルは悪くない、いや素晴らしいかもしれないと思ったのには理由があって、毎日のマスコミをにぎわせている政治、経済、社会などの話柄とそれを巡るとかく重箱の隅をつつくようなミクロの決死圏で、食うか食われるか、倒すか倒されるか、己が勝つかお前が勝つか、それでは負けたら腹を切るか、的な議論を目にしただけで疲労困憊してしまうすでに半死状態の私は、テロ特がどうなろうが民主が政権獲得に成功しようがはたまた失敗しようが、温暖化ガスが100倍排出されて朝青龍がモンゴルまで吹き飛ばされようが(私はこう平気で言い切れるくらいには排外的なナショナリスト兼国粋主義者だ)もうどうでもいいじゃないか、ミジンコ世界を逸脱して巨視的マグロ世界に悠久の時空の消長がうるわしく語られているのではないかと妄想した吉本氏と大塚氏の対談集であったが、結論としてはそうねえ中身は題名ほどには面白くなかったのであったが、これをしも羊頭狗肉とまで酷評するのは言いすぎであり、例えば吉本氏の「子供を殺された親が、もう俺は我慢がならねえから殺したほうの子供を殺しちゃう、って言って親がどっかで待ち伏せして刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ」という発言に対しては私は全面的に賛同するどころか、もし自分の子供がそういう悲惨な目にあったなら近代の法制度や正義がどうであれおそらく10中8,9そのような直接行動に出るだろうことを予感しているがゆえに「おお吉本、いい歳とってもちっとも変わっちゃいねえじゃんかよお」と思わずやんややんやの声援を送りたくなるし、「リストラされた会社員がやるべきことは、そのような事態をもたらした会社や経営者自体をリストラすることだ!」という斬新な切り口には思わずあっとうならされるし、(でも到底実行不可能だと思うけど)、明治以降のわが国の代表的知識人は柳田國男と折口信夫であるが前者は所詮は随筆家に過ぎず、後者が日本語の祖先まで遡って「国語学編」で比較言語学を敢行しているのは凄い、と喝破しているところなぞはふむふむそういうものですかと拝聴できるが、ジャック・ラカンの受け売りで「女性はみな気ちがいであり、男性の本質は女性になることです」とうわごとのように口走ったり、「新約聖書のキリストがちょっと触ったらハンセン氏病が癒えたという箇所は信じきれないが、立てと言って手をかざしたら足萎えが立ったり、足腰の痛いのがなくなったというのは完全にありうると思っている」と語ったり、「麻原彰晃でもそれはできるでしょう」と断言するのみならず、「消費は生産である」と軽ーく強弁し、あまつさえ「農業がなくなったら天皇制はなくなる」とのたまうにいたっては「もう結構です、だいたいでいいじゃない」と思わずゴッホの絵のように黄色い装丁のこの本を遠くに投げやってしまったのだった。 正岡の子規が作りし月並みの句ほど世に好ましきものはない 亡羊
Friday, January 18, 2008
網野善彦著作集第6巻「転換期としての鎌倉末・南北朝期」を読む
照る日曇る日第89回
安達泰盛といえば蒙古来襲のみぎりに自らの首を賭けてひたすら恩賞を求めて一所懸命に戦った竹崎季長に破格の待遇と恩賞を与えた剛腹な御家人だった。しかし霜月騒動によって当時の悪党どもによって暗殺される(私のご贔屓の)悲劇の政治家である。
著者は「関東公方御教書」という論文のなかで、この執権政治とその興亡を共にし、兼好法師が「道を知る人」と評した安達泰盛への共感と偏愛を隠そうとしない。無味乾燥に堕しがちな叙述の中に、私情と詩情を平然と持ち込んで語る勇気と才知を兼ね備えていた稀有な歴史家であったことが、喪ってはじめて分かる網野善彦の魅力だった。
多くの歴史家が否定的に論じた「悪党」や楠正成、後醍醐天皇についても著者の切り口は鮮やかである。古来諸説飛び交う「悪党」の本質を、非農業的な生業と不可分な関係にあり、遍歴性を持つ「職人」的武装集団と喝破したのは著者だけであろう。楠正成がその典型であるが、原始的な「荒々しさ」と著しい「有徳さ」とが切り離しがたく結びついて現れる状態、それが「ばさら」なのである。
鎌倉末期、繰り返される幕府からの弾圧にもめげず、自らの結びついた権門寺社内部の対立をたくみに泳ぎ回る「ばさら」たち。その権門内部対立が頂点にまで達したとき、赤松円心、楠正成、名和長年などの悪党たちの鬱屈した怒りと革命のエネルギーを見事に束ねたのが後醍醐天皇と(私のご贔屓の)護良親王だった。
なお正成の祖先は不明だが、本拠地金剛山の近くに平安時代から天皇家直轄の金剛砂(エメリーという鋼玉)を売買する商人がいたのでこれを正成に結び付けたくなると著者は告白している。
覆面して笠をつけ下駄を履く異類の「ばさら」たちを皇居に出入りさせ、非人たちを軍事力として活用し、あまつさえ現職の天皇でありながら自ら法服を着けて真言密教の祈祷を行なった後醍醐は実に異様な異常な王であった。
彼は元徳元年1329年に「聖天供」の祈祷を行なっているが、聖天供の本尊「大聖歓喜天」は有名な象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる。後醍醐天皇はここで人間の深奥の自然であるセックスそのものの力を自らの王権の力としたのである。(「異形の王権」P366)
そして著者は、非人を動員し、性そのものの力を王権強化に用いることを通して日本の社会の深部に天皇を突き刺した後醍醐が、「その執念で」南朝を存続させ、室町時代から現代にいたる天皇制の運命を決した、と謎のような言説を吐いて憂き世を卒然とみまかったのであった。
我もまた穴で春待つ土竜かな 亡羊
安達泰盛といえば蒙古来襲のみぎりに自らの首を賭けてひたすら恩賞を求めて一所懸命に戦った竹崎季長に破格の待遇と恩賞を与えた剛腹な御家人だった。しかし霜月騒動によって当時の悪党どもによって暗殺される(私のご贔屓の)悲劇の政治家である。
著者は「関東公方御教書」という論文のなかで、この執権政治とその興亡を共にし、兼好法師が「道を知る人」と評した安達泰盛への共感と偏愛を隠そうとしない。無味乾燥に堕しがちな叙述の中に、私情と詩情を平然と持ち込んで語る勇気と才知を兼ね備えていた稀有な歴史家であったことが、喪ってはじめて分かる網野善彦の魅力だった。
多くの歴史家が否定的に論じた「悪党」や楠正成、後醍醐天皇についても著者の切り口は鮮やかである。古来諸説飛び交う「悪党」の本質を、非農業的な生業と不可分な関係にあり、遍歴性を持つ「職人」的武装集団と喝破したのは著者だけであろう。楠正成がその典型であるが、原始的な「荒々しさ」と著しい「有徳さ」とが切り離しがたく結びついて現れる状態、それが「ばさら」なのである。
鎌倉末期、繰り返される幕府からの弾圧にもめげず、自らの結びついた権門寺社内部の対立をたくみに泳ぎ回る「ばさら」たち。その権門内部対立が頂点にまで達したとき、赤松円心、楠正成、名和長年などの悪党たちの鬱屈した怒りと革命のエネルギーを見事に束ねたのが後醍醐天皇と(私のご贔屓の)護良親王だった。
なお正成の祖先は不明だが、本拠地金剛山の近くに平安時代から天皇家直轄の金剛砂(エメリーという鋼玉)を売買する商人がいたのでこれを正成に結び付けたくなると著者は告白している。
覆面して笠をつけ下駄を履く異類の「ばさら」たちを皇居に出入りさせ、非人たちを軍事力として活用し、あまつさえ現職の天皇でありながら自ら法服を着けて真言密教の祈祷を行なった後醍醐は実に異様な異常な王であった。
彼は元徳元年1329年に「聖天供」の祈祷を行なっているが、聖天供の本尊「大聖歓喜天」は有名な象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる。後醍醐天皇はここで人間の深奥の自然であるセックスそのものの力を自らの王権の力としたのである。(「異形の王権」P366)
そして著者は、非人を動員し、性そのものの力を王権強化に用いることを通して日本の社会の深部に天皇を突き刺した後醍醐が、「その執念で」南朝を存続させ、室町時代から現代にいたる天皇制の運命を決した、と謎のような言説を吐いて憂き世を卒然とみまかったのであった。
我もまた穴で春待つ土竜かな 亡羊
Thursday, January 17, 2008
ことばには意味がある!?
♪バガテルop37
最近岩波書店の広辞苑10年ぶりに改訂され、新聞をメインにした第6版新発売キャンペーンが展開されているようだ。
ビジュアルに手塚治や桑田投手など意表をつくキャラクターを起用しているのはいいとしても、キャンペーンテーマのコピーが「ことばには意味がある」というのは、はてこれにはいったいどういう意味があるのか?と頭をかしげてしまう。
もしも言葉に意味がなければ、出目金に目玉はなく狸に金玉もなくなる道理だ。余りにも当たり前すぎる。意味のない言葉もあるだろうと嫌味のひとつもいいたくなるほど平板なコピーにかえって驚いてしまう。
これは昨日の燦鳥さんと違っていわゆるひとつの広告の言葉ではない。宣伝部のコピーライターではなく総務のおじさんがコクヨの便箋にメモした単なる説明である。私は流行に敏感に対応できる他の版元よりも、そんな時代遅れの岩波書店と改訳しない岩波文庫が大好きだが、美辞麗句以前の名辞を堂々と並べて見せる老舗の顧客無視の大胆さにはわれらもはや脱帽するほかはない。
余談ながら、石山茂利夫著「国語辞書事件」によればたしか「広辞苑」の元本は岩波茂雄が博文館から超安値で版権を買った「辞苑」であり、その「辞苑」は三省堂の金沢庄三郎の「大辞林」などの完璧なパクリであり、広辞苑の編者の新村出が同辞典の出版に際していかなる創造的な編集作業を行なわずにそのまま洛陽に押し出したことは彼の息子の新村猛がつとに告白しているところである。
だからということもないが、その後の「広辞苑」が大野晋などによって全面的に改稿されたとはいえ、私はあまりこの“日本を代表する大辞典”にはいっこうに信をおかず、「大辞林」や小学館の「国語大辞典」や北原保雄の「明鏡」、さらにはあらゆる日本語辞書の親本である大槻文彦の「大言海」を愛用している。
ちなみに「大言海」では昨日の「すっくと」の原意は「すくすくと」であり、直ク立チ上ガル状ナドニイフ語、と書かれています。
偲竜馬
こなくそと振り下ろしたる刀かな 亡羊
最近岩波書店の広辞苑10年ぶりに改訂され、新聞をメインにした第6版新発売キャンペーンが展開されているようだ。
ビジュアルに手塚治や桑田投手など意表をつくキャラクターを起用しているのはいいとしても、キャンペーンテーマのコピーが「ことばには意味がある」というのは、はてこれにはいったいどういう意味があるのか?と頭をかしげてしまう。
もしも言葉に意味がなければ、出目金に目玉はなく狸に金玉もなくなる道理だ。余りにも当たり前すぎる。意味のない言葉もあるだろうと嫌味のひとつもいいたくなるほど平板なコピーにかえって驚いてしまう。
これは昨日の燦鳥さんと違っていわゆるひとつの広告の言葉ではない。宣伝部のコピーライターではなく総務のおじさんがコクヨの便箋にメモした単なる説明である。私は流行に敏感に対応できる他の版元よりも、そんな時代遅れの岩波書店と改訳しない岩波文庫が大好きだが、美辞麗句以前の名辞を堂々と並べて見せる老舗の顧客無視の大胆さにはわれらもはや脱帽するほかはない。
余談ながら、石山茂利夫著「国語辞書事件」によればたしか「広辞苑」の元本は岩波茂雄が博文館から超安値で版権を買った「辞苑」であり、その「辞苑」は三省堂の金沢庄三郎の「大辞林」などの完璧なパクリであり、広辞苑の編者の新村出が同辞典の出版に際していかなる創造的な編集作業を行なわずにそのまま洛陽に押し出したことは彼の息子の新村猛がつとに告白しているところである。
だからということもないが、その後の「広辞苑」が大野晋などによって全面的に改稿されたとはいえ、私はあまりこの“日本を代表する大辞典”にはいっこうに信をおかず、「大辞林」や小学館の「国語大辞典」や北原保雄の「明鏡」、さらにはあらゆる日本語辞書の親本である大槻文彦の「大言海」を愛用している。
ちなみに「大言海」では昨日の「すっくと」の原意は「すくすくと」であり、直ク立チ上ガル状ナドニイフ語、と書かれています。
偲竜馬
こなくそと振り下ろしたる刀かな 亡羊
Wednesday, January 16, 2008
スクッと立つ?
♪バガテルop36
毎年「成人の日」にはサントリーの広告が出る。確か以前は山口瞳氏がコピーを書いていて、一読なかなかのものだった。氏亡き後は伊集院静氏が担当しているが、年々その中身も表現も、ビールにたとえるとコクが失せ、切れ味が鈍くなり、全体の味が軽く、薄くなったような気がするが、それは書き手の個性の違いである以上に、この間の時代の変化によるものだろう。
年々ますます生きにくくなる時代の竿頭に立って、一人前の大人が一人前になろうとする若者たちに対して何をどう助言すればいいのか? それは誰が書くににしても至難の技であるに違いない。
ちなみに今年は、「平然と生きる人であれ」「強いをめざす君に乾杯」という伊集院氏特製のキャッチフレーズが作家の万年筆の手書きでレイアウトされているが、後者はいわゆる広告のコピーである。この広告は確かにサントリーの新年広告ではあるが、わたしが思うに、「強い」をめざす、などという広告そのものの言葉を使ってはいけない。なぜならこの広告は広告言葉をあえて排除する場所でしか成立しない変態的広告であるからだ。
元は広告のプロであった氏がこのような初歩的なミスを犯すとは意外であった。
ボディコピーもそれなりのことが縷々書き連ねてあるが、さほど強烈な説得力があるわけではない。調子に乗ってさらに重箱の隅をつつけば、文中の「スクッと立っている」は副詞をカタカナ書きにした方言ないし口語的造語と受け取れば必ずしも間違いではないが、あまり耳慣れない日本語である。
スクッと立つのはさしずめレッサーパンダくらいなもので、一人前の人間ならば「すっくと立っている」「すっくと立っている」あるいは「すくと」または「すっくり立っている」の方が人口に膾炙していてモア・ベター?ではないだろうか。
ちなみに「すっくと」は立ち上がるさまを形容するのが一般的だが、堂々と立っているさまもあわせて形容する副詞である。
♪一月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊
毎年「成人の日」にはサントリーの広告が出る。確か以前は山口瞳氏がコピーを書いていて、一読なかなかのものだった。氏亡き後は伊集院静氏が担当しているが、年々その中身も表現も、ビールにたとえるとコクが失せ、切れ味が鈍くなり、全体の味が軽く、薄くなったような気がするが、それは書き手の個性の違いである以上に、この間の時代の変化によるものだろう。
年々ますます生きにくくなる時代の竿頭に立って、一人前の大人が一人前になろうとする若者たちに対して何をどう助言すればいいのか? それは誰が書くににしても至難の技であるに違いない。
ちなみに今年は、「平然と生きる人であれ」「強いをめざす君に乾杯」という伊集院氏特製のキャッチフレーズが作家の万年筆の手書きでレイアウトされているが、後者はいわゆる広告のコピーである。この広告は確かにサントリーの新年広告ではあるが、わたしが思うに、「強い」をめざす、などという広告そのものの言葉を使ってはいけない。なぜならこの広告は広告言葉をあえて排除する場所でしか成立しない変態的広告であるからだ。
元は広告のプロであった氏がこのような初歩的なミスを犯すとは意外であった。
ボディコピーもそれなりのことが縷々書き連ねてあるが、さほど強烈な説得力があるわけではない。調子に乗ってさらに重箱の隅をつつけば、文中の「スクッと立っている」は副詞をカタカナ書きにした方言ないし口語的造語と受け取れば必ずしも間違いではないが、あまり耳慣れない日本語である。
スクッと立つのはさしずめレッサーパンダくらいなもので、一人前の人間ならば「すっくと立っている」「すっくと立っている」あるいは「すくと」または「すっくり立っている」の方が人口に膾炙していてモア・ベター?ではないだろうか。
ちなみに「すっくと」は立ち上がるさまを形容するのが一般的だが、堂々と立っているさまもあわせて形容する副詞である。
♪一月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊
Tuesday, January 15, 2008
行方不明
♪バガテルop35&鎌倉ちょっと不思議な物語95回
家で寒さに震えていたらピンポーンと音がした。出てみる毛糸の帽子を被ったひとりの男が立っていた。私の近所の住人だ。
「年明けの今月の7日から自分の70代の母親が行方不明になっている。もし心当たりがあったらどんなことでも教えてほしい」といって手製のチラシを置いていかれた。
当地の行方不明者でいつも思い出すのはおよそ30年前の鎌倉花火大会のときに姿を消した戸塚の女子大生だ。当時早稲田大学の文学部に在籍していた彼女は、たしか専攻が考古学で、鎌倉の歴史古道やハイキングコースを頻繁に訪ねていたそうだが、8月10日の夜に由比ガ浜の海岸からふっつりと姿を消し、以来その行方はピーター・ウエアの映画「ピクニック・アット・ハンギングロック」の少女のように杳として知れない。
こういう言葉を安易に使いたくはないが、いわゆるひとつの神隠しにでも遭ったのであらうか。私が近くの里山を歩いている折など、ふとこの事件を思い出し、もしやここらで暴漢に襲われて谷間に転落したのではなかろうか、などと本人はもとより母独り子独りの母親のその後とあわせていつも気になっていた。
今回も地元消防団や町内会の人たち30名ほどがすぐに近くの山や川辺を捜索したのだが見つからなかったという。私も早速近所のハイキングコースをそのつもりで歩いてみたが、やはりなんの手がかりも無かった。
本人は足が悪いのでそれほど遠くにはいけないはずだが、事件発生以来すでに1週間以上が経過しているのでその生死が危ぶまれる。だれか悪い人間に誘拐されたり広域犯罪に巻き込まれた可能性がある。もしこの顔に見覚えがあれば、ぜひとも鎌倉警察署に連絡していただきたい。
♪粛々と死地に赴く銀の船 亡羊
Monday, January 14, 2008
君の瞳は6万6千ボルト
♪バガテルop34&鎌倉ちょっと不思議な物語94回
去年の暮れに兵庫県川西市の住民が携帯電話の基地局から放射される電磁波で耳鳴り、吐き気、不眠などの健康被害が出たとしてNTTドコモを訴え、ドコモ関西が撤去したという記事が出ていた。
携帯電話と健康の相関関係については諸説ある。WHO(世界保健機構)は、電磁波を浴びると頭痛やめまい、吐き気などを訴え、皮膚に赤みやチクチク感を訴える人がいることを認め、その国際電磁波プロジェクトの中で、携帯電話などの高周波電磁波についての調査を行なっており、その最終報告を早ければ来年に出すそうだ。
ところがわが国で電波行政をつかさどる総務省は、これらの症状を疾患とは認めず、あまつさえ科学的な原因調査もせずに「証拠はいっさい確認されていない」とそらとぼけているが被害者や国民不在の「あいかわらずの官僚的な態度」はいかがなものだろうか?
かててくわえて、今年に入ってNOAA(米海洋大気局)は太陽が新たな活動期に入ったことを示す焦点を観測したという。太陽活動はほぼ11年周期で変動しており、活動が活発になる今後数年はGPSの混乱や携帯電話、ATMの停止などさまざまな電子・通信機器に障害が起こる可能性があると警告している。
太陽から放出される電子や陽子などの太陽風によって、地上の送電線や電子製品の回路などに異常な電流が流れ、そのような障碍が起こるというのだが、下手をすると電磁波を上回る騒動になるかもしれない。
私が毎日のように散歩するハイキングコースの途上にある高圧電線塔も、
「今年はちょっとやばいんでねえの。あんたもあんまりおいらに近寄らないほうがいいよ」
と、心配そうに警告してくれた。
♪どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない
去年の暮れに兵庫県川西市の住民が携帯電話の基地局から放射される電磁波で耳鳴り、吐き気、不眠などの健康被害が出たとしてNTTドコモを訴え、ドコモ関西が撤去したという記事が出ていた。
携帯電話と健康の相関関係については諸説ある。WHO(世界保健機構)は、電磁波を浴びると頭痛やめまい、吐き気などを訴え、皮膚に赤みやチクチク感を訴える人がいることを認め、その国際電磁波プロジェクトの中で、携帯電話などの高周波電磁波についての調査を行なっており、その最終報告を早ければ来年に出すそうだ。
ところがわが国で電波行政をつかさどる総務省は、これらの症状を疾患とは認めず、あまつさえ科学的な原因調査もせずに「証拠はいっさい確認されていない」とそらとぼけているが被害者や国民不在の「あいかわらずの官僚的な態度」はいかがなものだろうか?
かててくわえて、今年に入ってNOAA(米海洋大気局)は太陽が新たな活動期に入ったことを示す焦点を観測したという。太陽活動はほぼ11年周期で変動しており、活動が活発になる今後数年はGPSの混乱や携帯電話、ATMの停止などさまざまな電子・通信機器に障害が起こる可能性があると警告している。
太陽から放出される電子や陽子などの太陽風によって、地上の送電線や電子製品の回路などに異常な電流が流れ、そのような障碍が起こるというのだが、下手をすると電磁波を上回る騒動になるかもしれない。
私が毎日のように散歩するハイキングコースの途上にある高圧電線塔も、
「今年はちょっとやばいんでねえの。あんたもあんまりおいらに近寄らないほうがいいよ」
と、心配そうに警告してくれた。
♪どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない
Sunday, January 13, 2008
ある丹波の女性の物語 第41回 大売出し
遥かな昔、遠い所で第63回
31年2月の問屋の招待旅行には、両親のすすめで夫婦揃って、修善寺熱海旅行に出かけた。
東京の結婚式から綾部の披露宴に帰る途中、強羅ホテル、奈良ホテルに宿泊して以来12年ぶりの事であった。三津港から眺めた富士山の姿が心に残った。帰路、鎌倉材木座に兄達を訪ね、寒い風の中、江ノ島見物をした。ついでに足を伸ばして、東京自由ヶ丘の姉の所で、次の兄や、妹達とも久し振りにあい楽しい時を過ごした。
同年6月、27、28の両日には、「開業80周年記念半額大売出し」を行った。開店前から列が出来、朝日新聞京都版に写真入りで報じられる程の大賑わいであった。今では半額売り出し等珍しくないが、40年程前では画期的な催しであった。
正札そのままを半額にするのでレジは大変で、沢山の人に手伝ってもらったが、大盛況裡に終わった。
カレンダー 最後のページに なりしとき
いよよますます かなしかりける 愛子
虫の音も たえだえとなり もみじばも
色あせはてて 庭にちりしく 愛子
(深き朝霧の中)11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
やがては深く 霧がつつみぬ 愛子
31年2月の問屋の招待旅行には、両親のすすめで夫婦揃って、修善寺熱海旅行に出かけた。
東京の結婚式から綾部の披露宴に帰る途中、強羅ホテル、奈良ホテルに宿泊して以来12年ぶりの事であった。三津港から眺めた富士山の姿が心に残った。帰路、鎌倉材木座に兄達を訪ね、寒い風の中、江ノ島見物をした。ついでに足を伸ばして、東京自由ヶ丘の姉の所で、次の兄や、妹達とも久し振りにあい楽しい時を過ごした。
同年6月、27、28の両日には、「開業80周年記念半額大売出し」を行った。開店前から列が出来、朝日新聞京都版に写真入りで報じられる程の大賑わいであった。今では半額売り出し等珍しくないが、40年程前では画期的な催しであった。
正札そのままを半額にするのでレジは大変で、沢山の人に手伝ってもらったが、大盛況裡に終わった。
カレンダー 最後のページに なりしとき
いよよますます かなしかりける 愛子
虫の音も たえだえとなり もみじばも
色あせはてて 庭にちりしく 愛子
(深き朝霧の中)11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
やがては深く 霧がつつみぬ 愛子
Saturday, January 12, 2008
藤原伊織著「名残り火」を読む
照る日曇る日第88回
藤原伊織の最後の長編が本書である。著者はいったん雑誌の連載を終えてさらに推敲中に没したそうで、ある意味では未完だが物語はいちおうの結末には達しており、その全貌をうかがい知るうえでの問題はないだろう。
仔細に点検すれば、殺人の動機、プロットの強引さなどの瑕瑾はあっても、登場人物の人間性は見事にえぐられているし、なによりもストーリの吸引力が抜群で、巻末まで一気に読ませてしまう筆力はただものではない。現代の代表的な企業物サスペンス小説であり、恐らくは彼の最高傑作であろう。
作者の最大の武器は、玲瓏玉のごとき音楽性に富む文体である。それは、
「口笛を吹いていたことはおぼえている。なぜ吹いていたかもおぼえている。オーティス・レディングの『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』。危うく命をおとしかかった人物のもとに向かう途中、口ずさむものとしてふさわしいかどうか。それは考えもしなかった。自然に口もとから洩れていた。前夜にさんざ聞かされたのが、その理由だったように思う」
という冒頭を一読してもあきらかに感得できよう。
この小説の主人公は四ッ谷駅から医大病院に向かって歩きながら無意識に口笛を吹いている。さうしてその数分後には瀕死の重傷を受けた親友の死に直面し、そこからこの長編ミステリー説がおもむろにスタートするわけである。
口笛だのオーティス・レディングだのドッグ・オブ・ザ・ベイだを引っ張り出し、「さんざん」とは書かず、あえて「さんざ」といなせに記す著者のダンディズムに注目されよ。なにやら村上春樹か欧米の人気作家を思わせる、そのおしゃれで軽快な筆致が、いきなり読者を「ジャージーな」世界に引きずりこむ。
しかしそれはいいとしても、この文章はどこか嘘っぽくはないだろうか。どことなく空虚ではないだろうか?
なぜならわたしたちの人性的直観によれば、ふつうひとは無意識に口笛を吹くことはないし、仮にもしそそうしていたとしても、どういう因果関係でその日そのときその曲を吹いていたかを考察する切実さを持たない。万が一持ったにしても、そのことは人性上も小説のうえでもまったく重要性を持たない。
にもかかわらず、日常の生活感覚からは嘘であり、小説の登場人物の内面性とも無縁な単なる修辞を、著者が大長編の死命を制する冒頭の一文にあえて掲げた理由はなんだろう?
それはひとえに読者サービスのためである。この文全体のベクトルは、自己にも、愛犬ムクにも、飢餓と戦争に苦しむ世界にも、天にも向かわず、読者に向かっている。自分の小説を愛してくれる読者だけに一直線に向かっている。さうしてそのことが、(あらゆる大衆小説と同様の)一定程度の軽薄さと品性のなさにつながっているのであらう。
ちなみに作文のベクトルが自分自身に向かうものを私小説といい、読者に向かうものを大衆小説といい、犬猫座敷わらしに向かうものを童話といい、金に目がくらむものを金権小説、賞や名誉に走るものをリスペクト小説、労働者人民に向かうものを「ああ堂々の社会主義文学」、世界に向かうものを世界文学といい、最後に(なにが最後かは私にもあなたにも分からないが)宇宙もしくは「天」に向かうものを純粋文学という。
天の下に独り座し、天があなたに命じて筆を走らせ、書かせてしまう文章。そこには読者も金も名誉もない。これぞ天知る地知る純粋文学の境地であらう。
どの文学が高尚でどれが劣等という分別はできないにしても、私がもっとも好むものは
この純粋文学である。童話にして純粋文学(宮沢賢治、漱石の猫など)、私小説にして純粋文学(小島信夫など)は十分にありうると思うが、大衆小説にして純粋小説(大菩薩峠?)というのはあまりないようであるなあ。
閑話休題。急いで表題作に戻ろう。
地上から数センチではなく、数インチ浮いた国籍不明の中空の領域こそが作者の得意な、また少しく無理無体な居場所であるが、著者はこの宙ぶらりんの苦しさに耐えながらとうとう最終ページまでたどり着き、さうして結局07年5月17日に俗塵に塗れた生からけざやかに離陸したのだった。
藤原伊織の最後の長編が本書である。著者はいったん雑誌の連載を終えてさらに推敲中に没したそうで、ある意味では未完だが物語はいちおうの結末には達しており、その全貌をうかがい知るうえでの問題はないだろう。
仔細に点検すれば、殺人の動機、プロットの強引さなどの瑕瑾はあっても、登場人物の人間性は見事にえぐられているし、なによりもストーリの吸引力が抜群で、巻末まで一気に読ませてしまう筆力はただものではない。現代の代表的な企業物サスペンス小説であり、恐らくは彼の最高傑作であろう。
作者の最大の武器は、玲瓏玉のごとき音楽性に富む文体である。それは、
「口笛を吹いていたことはおぼえている。なぜ吹いていたかもおぼえている。オーティス・レディングの『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』。危うく命をおとしかかった人物のもとに向かう途中、口ずさむものとしてふさわしいかどうか。それは考えもしなかった。自然に口もとから洩れていた。前夜にさんざ聞かされたのが、その理由だったように思う」
という冒頭を一読してもあきらかに感得できよう。
この小説の主人公は四ッ谷駅から医大病院に向かって歩きながら無意識に口笛を吹いている。さうしてその数分後には瀕死の重傷を受けた親友の死に直面し、そこからこの長編ミステリー説がおもむろにスタートするわけである。
口笛だのオーティス・レディングだのドッグ・オブ・ザ・ベイだを引っ張り出し、「さんざん」とは書かず、あえて「さんざ」といなせに記す著者のダンディズムに注目されよ。なにやら村上春樹か欧米の人気作家を思わせる、そのおしゃれで軽快な筆致が、いきなり読者を「ジャージーな」世界に引きずりこむ。
しかしそれはいいとしても、この文章はどこか嘘っぽくはないだろうか。どことなく空虚ではないだろうか?
なぜならわたしたちの人性的直観によれば、ふつうひとは無意識に口笛を吹くことはないし、仮にもしそそうしていたとしても、どういう因果関係でその日そのときその曲を吹いていたかを考察する切実さを持たない。万が一持ったにしても、そのことは人性上も小説のうえでもまったく重要性を持たない。
にもかかわらず、日常の生活感覚からは嘘であり、小説の登場人物の内面性とも無縁な単なる修辞を、著者が大長編の死命を制する冒頭の一文にあえて掲げた理由はなんだろう?
それはひとえに読者サービスのためである。この文全体のベクトルは、自己にも、愛犬ムクにも、飢餓と戦争に苦しむ世界にも、天にも向かわず、読者に向かっている。自分の小説を愛してくれる読者だけに一直線に向かっている。さうしてそのことが、(あらゆる大衆小説と同様の)一定程度の軽薄さと品性のなさにつながっているのであらう。
ちなみに作文のベクトルが自分自身に向かうものを私小説といい、読者に向かうものを大衆小説といい、犬猫座敷わらしに向かうものを童話といい、金に目がくらむものを金権小説、賞や名誉に走るものをリスペクト小説、労働者人民に向かうものを「ああ堂々の社会主義文学」、世界に向かうものを世界文学といい、最後に(なにが最後かは私にもあなたにも分からないが)宇宙もしくは「天」に向かうものを純粋文学という。
天の下に独り座し、天があなたに命じて筆を走らせ、書かせてしまう文章。そこには読者も金も名誉もない。これぞ天知る地知る純粋文学の境地であらう。
どの文学が高尚でどれが劣等という分別はできないにしても、私がもっとも好むものは
この純粋文学である。童話にして純粋文学(宮沢賢治、漱石の猫など)、私小説にして純粋文学(小島信夫など)は十分にありうると思うが、大衆小説にして純粋小説(大菩薩峠?)というのはあまりないようであるなあ。
閑話休題。急いで表題作に戻ろう。
地上から数センチではなく、数インチ浮いた国籍不明の中空の領域こそが作者の得意な、また少しく無理無体な居場所であるが、著者はこの宙ぶらりんの苦しさに耐えながらとうとう最終ページまでたどり着き、さうして結局07年5月17日に俗塵に塗れた生からけざやかに離陸したのだった。
特報「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」本日6時まで開催中!
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地下のマーガレットホール「ART@BASEMENT FLOOR」「ギャラリー・カウンタック」のコーナーへ急げ!!
東京神楽坂「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂 2-20-1TEL: (03)3267-5505FAX: (03)3267-5513
→ART@AGNES事務局公式HP(http://www.artatagnes.com/)
♪ホテルアグネスのアート展愛犬ムクの絵売れ残りたり 亡羊
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♪ホテルアグネスのアート展愛犬ムクの絵売れ残りたり 亡羊
Friday, January 11, 2008
ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む
ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む
照る日曇る日第87回
生まれてきて済みません、だの、ここはどこ、私は誰?といった違和感、場違い感は誰しもが人生に懐く感慨だが、ポール・セローの場合は筋金入りだ。おそらくは生まれながらにこの世界に対する複雑なねじれを感じつつこれまで生き延びてきた人なのだろう。
アメリカのマサチューセッツに生まれ、1963年に良心的反戦主義者として平和部隊に入り、アフリカに派遣されてマラウィとウガンダで英語教師をし、ケニアで知り合った英国人女性と結婚して3年間シンガポールで教職についたのちにロンドンに住むという彼の経歴ひとつとっても、あるいは本書に収められた9つの短編のどれを読んでもそのことが強烈に感じられる。
表題の「世界の果て」ではアメリカを引き上げてロンドンのワールズ・エンド(キングズロードに実在する地名)に移住した夫がようやく見出したはずの安住の地で突然見舞われる身震いするような災厄が描かれ、「緑滴る島」では二〇になるやならずで妊娠した、させたニューヨークの若いカップルが、灼熱の地プエルトリコに逃げ出し、サンファンのホテルでボーイをしながら暮らすうちにお互いの愛もさめ、ますます深刻な事態に陥る話だし、「真っ白な嘘」はボストンからアフリカにやってきた男の全身の皮膚から新種のハエの幼虫がぞろぞろ湧いて出るという、まるで悪夢のような、しかも実話である。
このようにセローは私たちがなにかの拍子に陥るかもしれない日常生活の不気味な落とし穴や不条理の裂け目を恐ろしくリアルに描写するが、だからといってどうこうするわけではない。あたかも「とかく世間は昔からこんなものですよ」とでもいうように、主人公も読者もその絶望的な状況に置き去りにして、あっというまに悲喜劇の現場から立ち去るのである。
ポール・セローほどクールな作家は珍しい。
暗黒層を掘れど光明現れず 亡羊
照る日曇る日第87回
生まれてきて済みません、だの、ここはどこ、私は誰?といった違和感、場違い感は誰しもが人生に懐く感慨だが、ポール・セローの場合は筋金入りだ。おそらくは生まれながらにこの世界に対する複雑なねじれを感じつつこれまで生き延びてきた人なのだろう。
アメリカのマサチューセッツに生まれ、1963年に良心的反戦主義者として平和部隊に入り、アフリカに派遣されてマラウィとウガンダで英語教師をし、ケニアで知り合った英国人女性と結婚して3年間シンガポールで教職についたのちにロンドンに住むという彼の経歴ひとつとっても、あるいは本書に収められた9つの短編のどれを読んでもそのことが強烈に感じられる。
表題の「世界の果て」ではアメリカを引き上げてロンドンのワールズ・エンド(キングズロードに実在する地名)に移住した夫がようやく見出したはずの安住の地で突然見舞われる身震いするような災厄が描かれ、「緑滴る島」では二〇になるやならずで妊娠した、させたニューヨークの若いカップルが、灼熱の地プエルトリコに逃げ出し、サンファンのホテルでボーイをしながら暮らすうちにお互いの愛もさめ、ますます深刻な事態に陥る話だし、「真っ白な嘘」はボストンからアフリカにやってきた男の全身の皮膚から新種のハエの幼虫がぞろぞろ湧いて出るという、まるで悪夢のような、しかも実話である。
このようにセローは私たちがなにかの拍子に陥るかもしれない日常生活の不気味な落とし穴や不条理の裂け目を恐ろしくリアルに描写するが、だからといってどうこうするわけではない。あたかも「とかく世間は昔からこんなものですよ」とでもいうように、主人公も読者もその絶望的な状況に置き去りにして、あっというまに悲喜劇の現場から立ち去るのである。
ポール・セローほどクールな作家は珍しい。
暗黒層を掘れど光明現れず 亡羊
Thursday, January 10, 2008
メンズウエアの現在
ふあっちょん幻論第6回
現在の小売業の市場規模はおよそ133兆円、そのうちファッションの市場はテキスタイル、アパレル、身の回り品を含めて約11兆円である。
さらにその内容を見ると婦人6兆、紳士3兆、子供ベビーなど1兆円、という大雑把な比率であるから、やはり主力はなんといってもレディスということになる。それもマスコミなどで話題になるのは外資系の婦人服や雑貨、時計、アクセサリーなどに限られ、国産の紳士服などは長らく氷河期の低迷を続けてきた。
事実メンズ市場は15年連続の前年割れに喘ぎ、中長期的にはメンズ市況の展望は暗い。
国を挙げてのクールビズ、ウオームビズ運動は多少の需要増に繋がったものの、これから団塊世代の一斉退場がスーツの売り上げを大きく奪うだろう。
メンズ専門店のアオキは店名をメンズプラザ・アオキからAOKIに変更して婦人子供服を強化。家族連れの取り込みを図っているし、青山商事なども将来はメンズ比率を5割以下に引き下げようと計画している。
しかし最近の伊勢丹メンズ新館のリニューアルはメンズウエアの昨対300%増につながり、婦人服が不調のアパレル大手も樫山の紳士服売上が久しぶりに昨対増に転じるなど一定程度の回復を見つつある。レディスでヒットした美脚&脚長パンツなどのメンズ版投入がそれなりに実った成果であろう。
もうひとつの要因は、シルエットの根本的な変化である。婦人服では80年代に全盛であった肩パッドを基軸にしたゆったりシルエットが流行遅れとなり、90年代前半にはボディにぴったりフィットするスリムなシルエットの時代がとっくの昔に訪れていたのだが、メンズの世界ではそのシルエットの導入がおよそ10年の長きに渡って遅れ、(私はこれを「失われた阿呆馬鹿メンズの10年」と名づけている)遅れた代わりにナロウ&フィット革命の進行がレディスよりも激烈で、その余波はいまなおヤングからアダルトのシルエット転換に及んでいる。
80年代後半の偉大なるジョルジョ・アルマーニのタック入りのゆったりシルエットは、2000年代に入ってはじめて世界の大衆から否定され、と同時にメンズデザイン業界は大いなる構造変革の時期に突入したのだが、それはわが国ではかの悪名高きライオン丸内閣の成立と期を一にしていたのである。
日本アパレル産業協議会によると、現在の成人男性の保有スーツは平均10.9着で、うち4.2着が不要になったと回答しているが、実はこれこそが女性の肩パッド入りドレスと同様のアウト・オブ・ファッション(シルエット変化による時代遅れ)物で、この偽不用品を強引に電機業界にあてはめると薄型テレビに対するブラウン管テレビに該当するだろう。
従ってもしアパレル業界がこのメンズ不況期を絶好の新規需要転換期ととらえなおし、新しいデザイン企画による新しいマーチャンダイジングとマーケティング戦略を発動すれば、禍転じて福=服となる絶好のチャンスかもしれないのである。
♪千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
現在の小売業の市場規模はおよそ133兆円、そのうちファッションの市場はテキスタイル、アパレル、身の回り品を含めて約11兆円である。
さらにその内容を見ると婦人6兆、紳士3兆、子供ベビーなど1兆円、という大雑把な比率であるから、やはり主力はなんといってもレディスということになる。それもマスコミなどで話題になるのは外資系の婦人服や雑貨、時計、アクセサリーなどに限られ、国産の紳士服などは長らく氷河期の低迷を続けてきた。
事実メンズ市場は15年連続の前年割れに喘ぎ、中長期的にはメンズ市況の展望は暗い。
国を挙げてのクールビズ、ウオームビズ運動は多少の需要増に繋がったものの、これから団塊世代の一斉退場がスーツの売り上げを大きく奪うだろう。
メンズ専門店のアオキは店名をメンズプラザ・アオキからAOKIに変更して婦人子供服を強化。家族連れの取り込みを図っているし、青山商事なども将来はメンズ比率を5割以下に引き下げようと計画している。
しかし最近の伊勢丹メンズ新館のリニューアルはメンズウエアの昨対300%増につながり、婦人服が不調のアパレル大手も樫山の紳士服売上が久しぶりに昨対増に転じるなど一定程度の回復を見つつある。レディスでヒットした美脚&脚長パンツなどのメンズ版投入がそれなりに実った成果であろう。
もうひとつの要因は、シルエットの根本的な変化である。婦人服では80年代に全盛であった肩パッドを基軸にしたゆったりシルエットが流行遅れとなり、90年代前半にはボディにぴったりフィットするスリムなシルエットの時代がとっくの昔に訪れていたのだが、メンズの世界ではそのシルエットの導入がおよそ10年の長きに渡って遅れ、(私はこれを「失われた阿呆馬鹿メンズの10年」と名づけている)遅れた代わりにナロウ&フィット革命の進行がレディスよりも激烈で、その余波はいまなおヤングからアダルトのシルエット転換に及んでいる。
80年代後半の偉大なるジョルジョ・アルマーニのタック入りのゆったりシルエットは、2000年代に入ってはじめて世界の大衆から否定され、と同時にメンズデザイン業界は大いなる構造変革の時期に突入したのだが、それはわが国ではかの悪名高きライオン丸内閣の成立と期を一にしていたのである。
日本アパレル産業協議会によると、現在の成人男性の保有スーツは平均10.9着で、うち4.2着が不要になったと回答しているが、実はこれこそが女性の肩パッド入りドレスと同様のアウト・オブ・ファッション(シルエット変化による時代遅れ)物で、この偽不用品を強引に電機業界にあてはめると薄型テレビに対するブラウン管テレビに該当するだろう。
従ってもしアパレル業界がこのメンズ不況期を絶好の新規需要転換期ととらえなおし、新しいデザイン企画による新しいマーチャンダイジングとマーケティング戦略を発動すれば、禍転じて福=服となる絶好のチャンスかもしれないのである。
♪千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
Wednesday, January 09, 2008
ぐあんばれ野茂!
♪バガテルop33
長い長い蹉跌と雌伏と忘却の時期を経て、われらがヒーロー野茂英雄が大リーグのマウンドにまもなく帰ってくる。
1月4日の彼のホームページによれば、彼はカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を交わし、3年ぶりにメジャーリーグに返り咲く大きなチャンスをつかんだ。
ロイヤルズといえば昨年日本ハムを2年連続でパリーグ優勝チームに導いた有能なヒルマン監督が大リーグで初めて采配を執るチームである。万年最下位ではあるが、もう上を見上げるしかない絶望的希望のチームだ。思う存分腕を振るえるに違いない。
野茂は06年6月に右ひじを手術し、07年にはかの偉大なる文学王ガルシア・マルケスゆかりのベネズエラのチームに入団し、成績は悪かったが、黙々とトレーニングに励んでいた。最初のチャレンジャー野茂が、最後にメジャーで勝ち星を挙げたのはデビルレイズ時代の05年6月27日の対ブルージェイズ戦だが、あの火の玉竜巻投球で大リーガーをきりきり舞いさせた野茂のことだ。体調さえ良ければまだまだやってくれるだろう。
昨日の夕刊によれば同じ39歳の桑田真澄投手もパイレーツと正式にマイナー契約を交わしたそうだ。ロッテのエース黒木は去ったが、私の大好きな大洋ホエールズの斉藤もドジャースのリリーフエースとして健在だ。(岡島よりこっちの活躍のほうが凄かった!)
そして私は、松坂や両松井、イチロー、福留、黒田などの旬の選手よりも、一度、二度、そして三度と一敗地にまみれた超ベテラン選手たちが、一球入魂、今生の思い出のように死力を尽くして投げ込むその雄姿と、かなうものならその泥だらけの頬に光る一掬の涙を見たいのである。
闘争を紛争と言い換える人が嫌いだ 亡羊
長い長い蹉跌と雌伏と忘却の時期を経て、われらがヒーロー野茂英雄が大リーグのマウンドにまもなく帰ってくる。
1月4日の彼のホームページによれば、彼はカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を交わし、3年ぶりにメジャーリーグに返り咲く大きなチャンスをつかんだ。
ロイヤルズといえば昨年日本ハムを2年連続でパリーグ優勝チームに導いた有能なヒルマン監督が大リーグで初めて采配を執るチームである。万年最下位ではあるが、もう上を見上げるしかない絶望的希望のチームだ。思う存分腕を振るえるに違いない。
野茂は06年6月に右ひじを手術し、07年にはかの偉大なる文学王ガルシア・マルケスゆかりのベネズエラのチームに入団し、成績は悪かったが、黙々とトレーニングに励んでいた。最初のチャレンジャー野茂が、最後にメジャーで勝ち星を挙げたのはデビルレイズ時代の05年6月27日の対ブルージェイズ戦だが、あの火の玉竜巻投球で大リーガーをきりきり舞いさせた野茂のことだ。体調さえ良ければまだまだやってくれるだろう。
昨日の夕刊によれば同じ39歳の桑田真澄投手もパイレーツと正式にマイナー契約を交わしたそうだ。ロッテのエース黒木は去ったが、私の大好きな大洋ホエールズの斉藤もドジャースのリリーフエースとして健在だ。(岡島よりこっちの活躍のほうが凄かった!)
そして私は、松坂や両松井、イチロー、福留、黒田などの旬の選手よりも、一度、二度、そして三度と一敗地にまみれた超ベテラン選手たちが、一球入魂、今生の思い出のように死力を尽くして投げ込むその雄姿と、かなうものならその泥だらけの頬に光る一掬の涙を見たいのである。
闘争を紛争と言い換える人が嫌いだ 亡羊
Tuesday, January 08, 2008
ある丹波の女性の物語 第40回 家族の写真
遥かな昔、遠い所で第62回
昭和30年頃のアルバムの中に、京都岡崎動物園で2匹の象をバックに、私達親子5人を撮った写真がある。これが私達5人揃って外出した、最初で最後の記念写真である。
その頃の小さい個人商店では、家族揃って遊びに出る事など珍しかったのである。
その年に、鎌倉に住む夫の兄夫婦が、綾部を訪問してくれた。私は留守居役にまわり、みんなで天橋立へ案内した。男の子達は土産物屋で、「岩見重太郎の刀」を欲しいとせがんだが、兄嫁は、平和日本には刀は不要と、買ってくれなかったそうである。如何にも東京女子大出の姉らしいと思った。
私達夫婦は兄達を京都まで見送り、共に観光バスで京都見物をさせてもらった。土地の物は却って名所には不案内で、東本願寺、清水寺、広沢の池、嵐山の風物は、私達の心を和ませてくれた。
その頃、店は順調に売上を伸ばし、暮れの31日には用意した商品が、すっかり売り切れるほどであった。
―リエちゃんと山新さんへ行く
病みし身も 次第にいえて 友とゆく
秋の丹波路 楽しかりけり 愛子
山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
きびしき秋の みのりを思ふ 愛子
雅子さんご成婚
いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして 愛子
昭和30年頃のアルバムの中に、京都岡崎動物園で2匹の象をバックに、私達親子5人を撮った写真がある。これが私達5人揃って外出した、最初で最後の記念写真である。
その頃の小さい個人商店では、家族揃って遊びに出る事など珍しかったのである。
その年に、鎌倉に住む夫の兄夫婦が、綾部を訪問してくれた。私は留守居役にまわり、みんなで天橋立へ案内した。男の子達は土産物屋で、「岩見重太郎の刀」を欲しいとせがんだが、兄嫁は、平和日本には刀は不要と、買ってくれなかったそうである。如何にも東京女子大出の姉らしいと思った。
私達夫婦は兄達を京都まで見送り、共に観光バスで京都見物をさせてもらった。土地の物は却って名所には不案内で、東本願寺、清水寺、広沢の池、嵐山の風物は、私達の心を和ませてくれた。
その頃、店は順調に売上を伸ばし、暮れの31日には用意した商品が、すっかり売り切れるほどであった。
―リエちゃんと山新さんへ行く
病みし身も 次第にいえて 友とゆく
秋の丹波路 楽しかりけり 愛子
山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
きびしき秋の みのりを思ふ 愛子
雅子さんご成婚
いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして 愛子
Monday, January 07, 2008
島田雅彦著「佳人の奇遇」を読む
照る日曇る日第86回&♪音楽千夜一夜第31回
「佳人之奇遇」なら明治時代に元會津藩士の東海散士が書いた金髪美人が大活躍する政治小説だが、島田雅彦のそれは金髪や黒髪の美人が大活躍しこそすれまったく非政治的な泰平の御世の音楽小説である。
その音楽とは、私も大好きなモーツアルトの、しかもオペラの傑作である「ドン・ジョバンニ」だから、これを読まずして「なんの己のお正月かな」である。
本作では一夜サントリーホール(コンサート方式のオペラ?)で上演される「ドン・ジョバンニ」の公演を巡る、指揮者や、ドン・オッターヴィオ役のテノールや、そのマネージャーや、会場に集う老若男女の聴衆たちを続々と登場させ、公演のライブ本番をピークとする同時多発的ラブストーリーをグランドホテル形式でいわば映画的に描いている。文体も形式も、小説というよりはまるでシナリオのように要領よく上手に書かれ、エンディングなども鮮やかな切れ味だ。
それでここからは私の想像だが、この作家は現在お金に困っている。あるいは、もっともっとお金がほしいのだ。そこで今回、恐らく著者は映画化とその著作権獲得を期待しながらこれを雑誌に連載したのだろう。
しかし不幸なことに、まだその企図は実現されていない。でももし実現されたなら、お手軽なB級恋愛映画がまたひとつ誕生することだろう。
本質的な紋切り型であり、クリシェであり、よく言えばウエルメイドの音楽ネタ、クラシックネタ、新のだめネタによるスノビッシュな恋愛譚なのだ。
島田はデビュー当初の小説でもこのオペラの登場人物ドンナ・アンナを取り上げたが、ドン・ジョバンニに犯されたドンア・アンナへの執着がこの小説でも継続していて2人のアンナを登場させ、あまつさえこないだのザルツブルク音楽祭で話題になったアンナ・ネトレプコに対しても鋭いふくらはぎフェチ視線を飛ばしているのが、いかにも、な感じだ。余談ながら、大江健三郎もこのふくらはぎフェチで、彼の初期の小説に「自涜型のふくらはぎ」へのこだわりが熱く表明されている。
登場人物のマエストロはどこかハンガリー人のゲオルク・ショルティを思わせる。シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、指揮も見るからに精力的だったがあちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナと一目ぼれで再婚し、たちまち子をなしたのだった。
また死ぬ前年にサントリーホールにやってきたカラヤンの知られざる姿など、クラシックファンを唸らせる数々のエピソードが、このブレヒト流三文音楽小説の気の利いたスパイスとなっている。
最後のおまけだが、島田は平成の芥川である。しかも芥川と違って長編が得意だ。
されど島田は、可哀相なことに平成の小説家としてはあまりにも知が勝ちすぎるので、偉大な小説家の要件である「小説馬鹿野郎」にはけっしてなれず、そのために一流作家になれず、またそのために血が不足していると誤解されているほどだ。
卒璽ながら、私は芥川は長編が書けない自分に絶望して自殺したと考えている。
左耳の聴こえぬその歌手を音程悪しと罵りしわれ 亡羊
「佳人之奇遇」なら明治時代に元會津藩士の東海散士が書いた金髪美人が大活躍する政治小説だが、島田雅彦のそれは金髪や黒髪の美人が大活躍しこそすれまったく非政治的な泰平の御世の音楽小説である。
その音楽とは、私も大好きなモーツアルトの、しかもオペラの傑作である「ドン・ジョバンニ」だから、これを読まずして「なんの己のお正月かな」である。
本作では一夜サントリーホール(コンサート方式のオペラ?)で上演される「ドン・ジョバンニ」の公演を巡る、指揮者や、ドン・オッターヴィオ役のテノールや、そのマネージャーや、会場に集う老若男女の聴衆たちを続々と登場させ、公演のライブ本番をピークとする同時多発的ラブストーリーをグランドホテル形式でいわば映画的に描いている。文体も形式も、小説というよりはまるでシナリオのように要領よく上手に書かれ、エンディングなども鮮やかな切れ味だ。
それでここからは私の想像だが、この作家は現在お金に困っている。あるいは、もっともっとお金がほしいのだ。そこで今回、恐らく著者は映画化とその著作権獲得を期待しながらこれを雑誌に連載したのだろう。
しかし不幸なことに、まだその企図は実現されていない。でももし実現されたなら、お手軽なB級恋愛映画がまたひとつ誕生することだろう。
本質的な紋切り型であり、クリシェであり、よく言えばウエルメイドの音楽ネタ、クラシックネタ、新のだめネタによるスノビッシュな恋愛譚なのだ。
島田はデビュー当初の小説でもこのオペラの登場人物ドンナ・アンナを取り上げたが、ドン・ジョバンニに犯されたドンア・アンナへの執着がこの小説でも継続していて2人のアンナを登場させ、あまつさえこないだのザルツブルク音楽祭で話題になったアンナ・ネトレプコに対しても鋭いふくらはぎフェチ視線を飛ばしているのが、いかにも、な感じだ。余談ながら、大江健三郎もこのふくらはぎフェチで、彼の初期の小説に「自涜型のふくらはぎ」へのこだわりが熱く表明されている。
登場人物のマエストロはどこかハンガリー人のゲオルク・ショルティを思わせる。シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、指揮も見るからに精力的だったがあちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナと一目ぼれで再婚し、たちまち子をなしたのだった。
また死ぬ前年にサントリーホールにやってきたカラヤンの知られざる姿など、クラシックファンを唸らせる数々のエピソードが、このブレヒト流三文音楽小説の気の利いたスパイスとなっている。
最後のおまけだが、島田は平成の芥川である。しかも芥川と違って長編が得意だ。
されど島田は、可哀相なことに平成の小説家としてはあまりにも知が勝ちすぎるので、偉大な小説家の要件である「小説馬鹿野郎」にはけっしてなれず、そのために一流作家になれず、またそのために血が不足していると誤解されているほどだ。
卒璽ながら、私は芥川は長編が書けない自分に絶望して自殺したと考えている。
左耳の聴こえぬその歌手を音程悪しと罵りしわれ 亡羊
Sunday, January 06, 2008
「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」へのご案内
すでにご存知の方も多いと思うが、今週土日の12、13日に「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」で「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」が開催される。
東京神楽坂の瀟洒なホテルの一室をギャラリーに仕立て、選りすぐりの現代美術作品が多数出品されるのだが、最近のブームを反映して毎回超満員の人気である。
4回目の開催となる今回は、コミッティーによる選考を経たベテランギャラリーをはじめ、 オープンしたての若手ギャラリストが運営するギャラリーが数多く出展し、これまでにないにぎやかで新しい顔ぶれとなっているようだ。
今回最大の目玉は、地下の「ART@BASEMENT FLOOR」で出展される「ギャラリー・カウンタック」のコーナーである。入場したらまずは地下のマーガレットホールを目指そう。
ただし入場料が1000円で、しかも入場するためには、前もって事務局のHPにネットで予約が必要なので要注意。当日いきなり現地に行ってもだめだそうです。
→ART@AGNES事務局公式HP (http://www.artatagnes.com/)
ART@AGNES アグネスホテル アートフェア2008 概要
主催:A@A実行委員会 共催:株式会社アグネス 協力:株式会社ライゾマティクス
コミッティー:オオタファインアーツ/ギャラリー小柳/児玉画廊/小山登美夫ギャラリー/シュウゴアーツ/タカ・イシイギャラリー/タロウナス/ヒロミヨシイ/山本現代/レントゲンヴェルケ
会場 東京神楽坂「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂 2-20-1TEL: (03)3267-5505FAX: (03)3267-5513
会期:1/12(土)11:00~19:00
1/13(日)11:00~18:00
両日ともに受付は終了の15分前まで
入場料:¥1,000
♪小便の泡で描きたる髑髏かな 亡羊
東京神楽坂の瀟洒なホテルの一室をギャラリーに仕立て、選りすぐりの現代美術作品が多数出品されるのだが、最近のブームを反映して毎回超満員の人気である。
4回目の開催となる今回は、コミッティーによる選考を経たベテランギャラリーをはじめ、 オープンしたての若手ギャラリストが運営するギャラリーが数多く出展し、これまでにないにぎやかで新しい顔ぶれとなっているようだ。
今回最大の目玉は、地下の「ART@BASEMENT FLOOR」で出展される「ギャラリー・カウンタック」のコーナーである。入場したらまずは地下のマーガレットホールを目指そう。
ただし入場料が1000円で、しかも入場するためには、前もって事務局のHPにネットで予約が必要なので要注意。当日いきなり現地に行ってもだめだそうです。
→ART@AGNES事務局公式HP (http://www.artatagnes.com/)
ART@AGNES アグネスホテル アートフェア2008 概要
主催:A@A実行委員会 共催:株式会社アグネス 協力:株式会社ライゾマティクス
コミッティー:オオタファインアーツ/ギャラリー小柳/児玉画廊/小山登美夫ギャラリー/シュウゴアーツ/タカ・イシイギャラリー/タロウナス/ヒロミヨシイ/山本現代/レントゲンヴェルケ
会場 東京神楽坂「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂 2-20-1TEL: (03)3267-5505FAX: (03)3267-5513
会期:1/12(土)11:00~19:00
1/13(日)11:00~18:00
両日ともに受付は終了の15分前まで
入場料:¥1,000
♪小便の泡で描きたる髑髏かな 亡羊
Saturday, January 05, 2008
G・ガルシア=マルケス著「迷宮の将軍」を読む
照る日曇る日第85回
ラテンアメリカ諸国の統一を夢見て1830年、サン・ペドロ・アレハンドリーナの別荘で47歳の生涯を終えた偉大な革命家であり、軍人であり、政治家であり、詩人であり、歌手でもあったシモン・ボリバールが本作の主人公である。
現在のベネズエラのカラカスに新大陸でも屈指の名家の末子に生まれたボリバールは、その生涯の大半を国内の敵対者や占領者のスペインと戦いながら、1819年36歳の暮れには現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルを統合した大コロンビア共和国を創設し、国会によってグラン・コロンビア共和国大統領に選出される。
しかしスペインのみならずアメリカ帝国主義に対峙する巨大な南米共和国連合を目指すこの理想主義者の美しい夢は、相次ぐ内外の分離主義者の敵対と裏切りと反乱に遭遇して次第に蝕まれ、政治的にも軍事的にも後退を余儀なくされ、彼の孤独な死によってついに完膚無きまでに潰えたかに見えた。
しかしその後欧州連合の成功に刺激されたMERCOSUR(南米南部共同市場)の大同団結は、ある意味ではシモン・ボリバールの理念と理想の21世紀版ともいえるだろう。ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラで構成されたMERCOSURは、人口2億5千万、GDP1兆ドルの実力を備え、アメリカ、カナダ、メキシコのNAFTA(北米自由貿易協定)国と熾烈な競争を繰り広げているのだから。
1989年に発表されたこの小説において、マルケスは長期にわたる取材と膨大な資料の渉猟、研究をつうじて実在した英雄の生涯の最期に肉薄し、「なぜシモン・ボリバールが死に至る病に冒されていたとはいえ、過酷な政治と現実との戦いから逃避し、すべてを放擲するようにして自滅していったか」という謎を明らかにしようとしたが、その執拗なまでのエネルギッシュな追求が、将軍の心の闇に潜む迷宮の秘密を解明することに成功したとは言いがたい。
しかしながら、この小説の冒頭で、
「古くから仕えている召使のホセ・パラシオスは、薬湯を張った浴槽に将軍が素っ裸のまま目を大きく見開いてぷかぷか浮かんでいるのを見て、てっきり溺れ死んだにちがいないと思い込んだ。それが将軍の瞑想法のひとつだということは分かっていても、恍惚とした表情を浮かべて浴槽に浮かんでいる姿を見ると、とてもこの世の人間とは思えなかった」
というくだりを一瞬でも目にした読者なら、たとえ途中で日本列島に大隕石が激突し、関東大震災が再来し、悪夢の2党大連合が実現し、原節子と山口百恵が2人そろってカムバックして仲良く共同記者会見したとしても、最後の最後まで読み続けようと願うに相違ない。
♪道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ
ラテンアメリカ諸国の統一を夢見て1830年、サン・ペドロ・アレハンドリーナの別荘で47歳の生涯を終えた偉大な革命家であり、軍人であり、政治家であり、詩人であり、歌手でもあったシモン・ボリバールが本作の主人公である。
現在のベネズエラのカラカスに新大陸でも屈指の名家の末子に生まれたボリバールは、その生涯の大半を国内の敵対者や占領者のスペインと戦いながら、1819年36歳の暮れには現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルを統合した大コロンビア共和国を創設し、国会によってグラン・コロンビア共和国大統領に選出される。
しかしスペインのみならずアメリカ帝国主義に対峙する巨大な南米共和国連合を目指すこの理想主義者の美しい夢は、相次ぐ内外の分離主義者の敵対と裏切りと反乱に遭遇して次第に蝕まれ、政治的にも軍事的にも後退を余儀なくされ、彼の孤独な死によってついに完膚無きまでに潰えたかに見えた。
しかしその後欧州連合の成功に刺激されたMERCOSUR(南米南部共同市場)の大同団結は、ある意味ではシモン・ボリバールの理念と理想の21世紀版ともいえるだろう。ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラで構成されたMERCOSURは、人口2億5千万、GDP1兆ドルの実力を備え、アメリカ、カナダ、メキシコのNAFTA(北米自由貿易協定)国と熾烈な競争を繰り広げているのだから。
1989年に発表されたこの小説において、マルケスは長期にわたる取材と膨大な資料の渉猟、研究をつうじて実在した英雄の生涯の最期に肉薄し、「なぜシモン・ボリバールが死に至る病に冒されていたとはいえ、過酷な政治と現実との戦いから逃避し、すべてを放擲するようにして自滅していったか」という謎を明らかにしようとしたが、その執拗なまでのエネルギッシュな追求が、将軍の心の闇に潜む迷宮の秘密を解明することに成功したとは言いがたい。
しかしながら、この小説の冒頭で、
「古くから仕えている召使のホセ・パラシオスは、薬湯を張った浴槽に将軍が素っ裸のまま目を大きく見開いてぷかぷか浮かんでいるのを見て、てっきり溺れ死んだにちがいないと思い込んだ。それが将軍の瞑想法のひとつだということは分かっていても、恍惚とした表情を浮かべて浴槽に浮かんでいる姿を見ると、とてもこの世の人間とは思えなかった」
というくだりを一瞬でも目にした読者なら、たとえ途中で日本列島に大隕石が激突し、関東大震災が再来し、悪夢の2党大連合が実現し、原節子と山口百恵が2人そろってカムバックして仲良く共同記者会見したとしても、最後の最後まで読み続けようと願うに相違ない。
♪道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ
Friday, January 04, 2008
森見登美彦著「有頂天家族」を読む
照る日曇る日第84回
この人の小説は初めて読んだが、とても面白かった。
かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていく。
具体的には実際にぜひ手にとって読んでいただくしかないのだが、血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって数少ないのではないだろうか?
著者の内部に血肉化された古今の文藻や和漢の典籍の素養、1300年の古都の歴史や土地の記憶が、若き魔法使いの杖の一閃によって縦横無尽に出現し、またたちまちにして消え去る疾風怒濤のありさまを迎え入れ、うたた呆然と見送っているうちにこの奇跡の平安幻想ゴシック小説は大団円を迎えるのだが、とりわけ私は絶体絶命のピンチを脱した狸一族が、狸特製の「偽の叡山電鉄」にうちまたがって丸太町から寺町通りへと全速力で乗り込み、木屋町界隈を風神雷神扇子の暴風で吹き飛ばして金閣、銀閣一家をやっつけるシーンなどは思わず手に汗を握ったことであった。
ちなみにかつて京都の東大路には重厚長大な市電の6番が高野、北白川まで走っており、猛暑の8月には百万遍の交差点から叡電前辺りで鉄路がぐにゃりと曲がっていたことを覚えている。叡電はいまもなお出町柳から叡山に向けて走っているが、本書の内容には叡電よりもこの豪奢な市電のほうがふさわしかっただろう。
それはともかく、金曜倶楽部の面々や冷たい美貌のヒロイン弁天、主人公の恩師赤玉先生、元許婚の海星などなど、すべての登場人物の造型もくっきりと心に残る。作者がいうように、「ああ、面白きことは良きことなり」。小説を読む醍醐味が、ここには満載されている。
この本の背後に古のカルガンチュアとパンタグルュエルやトリストラム・シャンディの面影を感じる読者も多いことだろう。
♪誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に永遠に馨るよ
この人の小説は初めて読んだが、とても面白かった。
かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていく。
具体的には実際にぜひ手にとって読んでいただくしかないのだが、血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって数少ないのではないだろうか?
著者の内部に血肉化された古今の文藻や和漢の典籍の素養、1300年の古都の歴史や土地の記憶が、若き魔法使いの杖の一閃によって縦横無尽に出現し、またたちまちにして消え去る疾風怒濤のありさまを迎え入れ、うたた呆然と見送っているうちにこの奇跡の平安幻想ゴシック小説は大団円を迎えるのだが、とりわけ私は絶体絶命のピンチを脱した狸一族が、狸特製の「偽の叡山電鉄」にうちまたがって丸太町から寺町通りへと全速力で乗り込み、木屋町界隈を風神雷神扇子の暴風で吹き飛ばして金閣、銀閣一家をやっつけるシーンなどは思わず手に汗を握ったことであった。
ちなみにかつて京都の東大路には重厚長大な市電の6番が高野、北白川まで走っており、猛暑の8月には百万遍の交差点から叡電前辺りで鉄路がぐにゃりと曲がっていたことを覚えている。叡電はいまもなお出町柳から叡山に向けて走っているが、本書の内容には叡電よりもこの豪奢な市電のほうがふさわしかっただろう。
それはともかく、金曜倶楽部の面々や冷たい美貌のヒロイン弁天、主人公の恩師赤玉先生、元許婚の海星などなど、すべての登場人物の造型もくっきりと心に残る。作者がいうように、「ああ、面白きことは良きことなり」。小説を読む醍醐味が、ここには満載されている。
この本の背後に古のカルガンチュアとパンタグルュエルやトリストラム・シャンディの面影を感じる読者も多いことだろう。
♪誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に永遠に馨るよ
Thursday, January 03, 2008
ケルアック著「オン・ザ・ロード」を読む
照る日曇る日第83回
東京の明治通りの千駄ヶ谷小学校の交差点をビクターの録音スタジオ、明治公園方向に下っていくと左側の交差点に河出書房がある。じつはこの近所に私が勤務していたかなり大きな会社があって、よくここまでランチを食べに来たものだった。
さうしてこの一度つぶれて新社になって再出発はしたものの、はかばかしいヒット作を出せないでいるこの小さな出版社を、「いまにつぶれるだろう、そのうちつぶれるだろう」と思っているうちに、あにはからんや私の会社のほうがどどーんと倒壊してしまい、私自身も弾き飛ばされたばかりか、いまやその社屋の跡形もない有様を見るにつけ、人の浮世のはかなさと私自身の読みの甘さとおろかさをふたつながらに痛感する次第である。
その、小さいけれど不倒翁の如きその出版社から、2度目のジャク・ケルアックの代表作が出た。前回は福田実の訳でタイトルは「路上」、今度は青山南の新訳で題名が原題をカタカナに変えた「オン・ザ・ロード」になったが、訳者や全集編集者の池澤夏樹ががたがたいうほど大きな変化があるわけではない。中身はおんなじジャク・ケルアックのロード小説である。一人の海のものとも山のものともつかない若者がなにかに憑かれたように何度も何度も北米大陸を横断する話である。
「ディーンに初めて会ったのは、妻と別れてまもない頃だった。ひどい病気から立ち直ったばかりのときだが、その話はあまりしたくないので、くたくたに疲れた別れのごたごたと、なにもかもおしまいだというぼくの気分が原因の病だった、とそのくらいにしておく。ディーン・モリアティの登場で、ぼくの人生のもうひとつの章、路上の人生とでも言えそうなものが始まったのだ」という出だしの文章を読んだだけで、村上春樹じゃないが、「やれやれ」という気分に駆られるのはなぜだろう。
なんだか分からないけれどここに人生に行き悩んだ若者がいて、その仲間もいて、ワアワア騒いでいて、突然春が来て、モンシロチョウなんぞがひらひら舞って、「そうだ、京都行こう」ならぬ「そうだ、サンフラン行こう」と喚いて無一文でヒッチハイクの旅に出る。あとはお決まりの女と酒と大冒険という、それだけの与太話である。
誰だって旅には出たいし、世界一週旅行をやりたいし、実際にやるやつはやっただろうが、そのやったリアルな話が誰にとっても面白おかしいわけではありません。同じ旅行記でもスイフトや芭蕉ならホラも交えて面白く読ませてくれるが、自分の体験よりは友人の実体験をぐだぐだ書き連ねただけの実録メモランダムが、現代の大方の読者を楽しませてくれるとは私には思えない。
なんでも英語の原文で読めば珠玉の名文であるらしいのだが、全然外国語を解しない私にはこの小説めいた駄文に1950年代という時代に生きたビート世代の生の記録以外の文学的価値があるとは到底思えない。当時の「KY」という時代の空気が彼に書かせ、時代が支持しただけの吹けば飛ぶよな一過性の文章であるよ。
訳者のあとがきによれば、ケルアックはアレン・ギンズバークの詩集「吠えるHowl」やウイリアム・バロウズの「裸のタンチNaked Lunch」も「ビート・ジェネレーション」という言葉そのものも命名したそうだ。彼の最大の手腕は、本文そのものではなく、「On the Road」というタイトル作りに存分に発揮されたのである。
♪おみくじを引かずに帰る鎌倉宮 亡羊
東京の明治通りの千駄ヶ谷小学校の交差点をビクターの録音スタジオ、明治公園方向に下っていくと左側の交差点に河出書房がある。じつはこの近所に私が勤務していたかなり大きな会社があって、よくここまでランチを食べに来たものだった。
さうしてこの一度つぶれて新社になって再出発はしたものの、はかばかしいヒット作を出せないでいるこの小さな出版社を、「いまにつぶれるだろう、そのうちつぶれるだろう」と思っているうちに、あにはからんや私の会社のほうがどどーんと倒壊してしまい、私自身も弾き飛ばされたばかりか、いまやその社屋の跡形もない有様を見るにつけ、人の浮世のはかなさと私自身の読みの甘さとおろかさをふたつながらに痛感する次第である。
その、小さいけれど不倒翁の如きその出版社から、2度目のジャク・ケルアックの代表作が出た。前回は福田実の訳でタイトルは「路上」、今度は青山南の新訳で題名が原題をカタカナに変えた「オン・ザ・ロード」になったが、訳者や全集編集者の池澤夏樹ががたがたいうほど大きな変化があるわけではない。中身はおんなじジャク・ケルアックのロード小説である。一人の海のものとも山のものともつかない若者がなにかに憑かれたように何度も何度も北米大陸を横断する話である。
「ディーンに初めて会ったのは、妻と別れてまもない頃だった。ひどい病気から立ち直ったばかりのときだが、その話はあまりしたくないので、くたくたに疲れた別れのごたごたと、なにもかもおしまいだというぼくの気分が原因の病だった、とそのくらいにしておく。ディーン・モリアティの登場で、ぼくの人生のもうひとつの章、路上の人生とでも言えそうなものが始まったのだ」という出だしの文章を読んだだけで、村上春樹じゃないが、「やれやれ」という気分に駆られるのはなぜだろう。
なんだか分からないけれどここに人生に行き悩んだ若者がいて、その仲間もいて、ワアワア騒いでいて、突然春が来て、モンシロチョウなんぞがひらひら舞って、「そうだ、京都行こう」ならぬ「そうだ、サンフラン行こう」と喚いて無一文でヒッチハイクの旅に出る。あとはお決まりの女と酒と大冒険という、それだけの与太話である。
誰だって旅には出たいし、世界一週旅行をやりたいし、実際にやるやつはやっただろうが、そのやったリアルな話が誰にとっても面白おかしいわけではありません。同じ旅行記でもスイフトや芭蕉ならホラも交えて面白く読ませてくれるが、自分の体験よりは友人の実体験をぐだぐだ書き連ねただけの実録メモランダムが、現代の大方の読者を楽しませてくれるとは私には思えない。
なんでも英語の原文で読めば珠玉の名文であるらしいのだが、全然外国語を解しない私にはこの小説めいた駄文に1950年代という時代に生きたビート世代の生の記録以外の文学的価値があるとは到底思えない。当時の「KY」という時代の空気が彼に書かせ、時代が支持しただけの吹けば飛ぶよな一過性の文章であるよ。
訳者のあとがきによれば、ケルアックはアレン・ギンズバークの詩集「吠えるHowl」やウイリアム・バロウズの「裸のタンチNaked Lunch」も「ビート・ジェネレーション」という言葉そのものも命名したそうだ。彼の最大の手腕は、本文そのものではなく、「On the Road」というタイトル作りに存分に発揮されたのである。
♪おみくじを引かずに帰る鎌倉宮 亡羊
Wednesday, January 02, 2008
神津朝夫著「山上宗二記入門」を読む
照る日曇る日第82回
お正月といえば、なんとなく初釜やお茶の会などを思う。
もうずいぶん昔になるが、私は東京の裏千家のお茶の会の末席を汚したことがある。どんなものかと興味津々だったが、しかしてその実態は、書画や茶碗を無暗に褒めたり、その凡庸な茶碗をひっくり返して無名の銘をしかつめらしく確認したり、飲む作法にもいちいち勿体を付け、あまつさえ主人のくだらない俗悪至極のいわゆるひとつの人生訓を長々と垂れ、さらには菓子の切り方だの座り方だの、手水の使い方だのの瑣末な規則が次々に東海の粗野な蛮人(私のことです)の前途に入れ替わり立ち代り登場し、文字通り痺れが切れた私はほうほうの体でその「こていなお座敷」を逃れ去ったのだった。
以来表も裏も真ん中の千利休も千昌男も忌み嫌って茶席をごめんこうむっている。
ところが、かつて私が憎み軽蔑していた某国のトーリー党党首の獅子のごとき髪の持ち主が、「お茶なんて自分流に勝手に飲めばいいんですよ」と豪語しているのを聞いて、彼の主張と政策に対する全面的な敵対者であった私も、そのときばかりは珍しくも共感したことを覚えている。
たかがお茶である。くだらない能書きや儀式なぞ実力で粉砕して、ただぐいっと飲んじまえばいいのだ。
と思いつつ、この本を読みました。
さて山上宗二は天文13年(1544年)生まれの堺の商人兼茶人で、師匠である辻玄哉から乗り換えて兄弟子の千宗易(後の利休)に師事した。信長、秀吉に重用され一時は千宗易、津田宗及、今井宗久など堺の10人の会合衆の上位にランクされる茶道の指導的な役割を果たしたが、秀吉の小田原北条氏攻めの際に気狂い太閤の常軌を逸した怒りをかい、鼻耳を削がれつつ哀れ非業の死を遂げた。尊師利休の死に先立つことわずか一年であった。
宗二はおそらく当時唯我独尊の境地に酔っていた秀吉の行き方を批判的に直言してこのような極刑を受けたといわれているが、幸いにも日本茶道の黎明のありかを伝える一冊の本を遺した。それが「山上宗二記」で、茶の湯の歴史や茶室の変遷、古今の茶人の来歴、茶道具名物のその所有者と伝来、茶人心得などについて書かれた本邦最初の書籍である。
私は立花実山が元禄時代に編纂した利休直伝の茶道書「南方録」を一読して、これぞ茶道の極意と勝手に考えていたのであるが、著者によればこれは偽書であり、茶道の始まりは「南方録」が唱えるように足利義政ではないというので驚いた。その義政にわび茶を伝授した村田珠光が元祖であり、そのあとが大名茶の武野紹鷗、そしてそのさらにあとを否定的に継承したのが辻玄哉や千宗易、田中宗二という流れになるそうだ。
また著者によれば茶の湯は禅宗とはまったく無縁の存在で、茶道中興の祖紹鷗は浄土宗だし、そもそも禅院茶礼では釜を据えて客の前でお点前が行なわれることはないという。
おまけに、幕末の大老井伊直弼に「茶湯一会集」という茶道本があり、ここで直弼は茶の湯の交わりは一期一会と喝破したことで有名だが、この考え方は「山上宗二記」の引用によるとものだということを、私は本書によっておそまきながら知ったのだった。
♪初日の出今年も市中に山居せむ
お正月といえば、なんとなく初釜やお茶の会などを思う。
もうずいぶん昔になるが、私は東京の裏千家のお茶の会の末席を汚したことがある。どんなものかと興味津々だったが、しかしてその実態は、書画や茶碗を無暗に褒めたり、その凡庸な茶碗をひっくり返して無名の銘をしかつめらしく確認したり、飲む作法にもいちいち勿体を付け、あまつさえ主人のくだらない俗悪至極のいわゆるひとつの人生訓を長々と垂れ、さらには菓子の切り方だの座り方だの、手水の使い方だのの瑣末な規則が次々に東海の粗野な蛮人(私のことです)の前途に入れ替わり立ち代り登場し、文字通り痺れが切れた私はほうほうの体でその「こていなお座敷」を逃れ去ったのだった。
以来表も裏も真ん中の千利休も千昌男も忌み嫌って茶席をごめんこうむっている。
ところが、かつて私が憎み軽蔑していた某国のトーリー党党首の獅子のごとき髪の持ち主が、「お茶なんて自分流に勝手に飲めばいいんですよ」と豪語しているのを聞いて、彼の主張と政策に対する全面的な敵対者であった私も、そのときばかりは珍しくも共感したことを覚えている。
たかがお茶である。くだらない能書きや儀式なぞ実力で粉砕して、ただぐいっと飲んじまえばいいのだ。
と思いつつ、この本を読みました。
さて山上宗二は天文13年(1544年)生まれの堺の商人兼茶人で、師匠である辻玄哉から乗り換えて兄弟子の千宗易(後の利休)に師事した。信長、秀吉に重用され一時は千宗易、津田宗及、今井宗久など堺の10人の会合衆の上位にランクされる茶道の指導的な役割を果たしたが、秀吉の小田原北条氏攻めの際に気狂い太閤の常軌を逸した怒りをかい、鼻耳を削がれつつ哀れ非業の死を遂げた。尊師利休の死に先立つことわずか一年であった。
宗二はおそらく当時唯我独尊の境地に酔っていた秀吉の行き方を批判的に直言してこのような極刑を受けたといわれているが、幸いにも日本茶道の黎明のありかを伝える一冊の本を遺した。それが「山上宗二記」で、茶の湯の歴史や茶室の変遷、古今の茶人の来歴、茶道具名物のその所有者と伝来、茶人心得などについて書かれた本邦最初の書籍である。
私は立花実山が元禄時代に編纂した利休直伝の茶道書「南方録」を一読して、これぞ茶道の極意と勝手に考えていたのであるが、著者によればこれは偽書であり、茶道の始まりは「南方録」が唱えるように足利義政ではないというので驚いた。その義政にわび茶を伝授した村田珠光が元祖であり、そのあとが大名茶の武野紹鷗、そしてそのさらにあとを否定的に継承したのが辻玄哉や千宗易、田中宗二という流れになるそうだ。
また著者によれば茶の湯は禅宗とはまったく無縁の存在で、茶道中興の祖紹鷗は浄土宗だし、そもそも禅院茶礼では釜を据えて客の前でお点前が行なわれることはないという。
おまけに、幕末の大老井伊直弼に「茶湯一会集」という茶道本があり、ここで直弼は茶の湯の交わりは一期一会と喝破したことで有名だが、この考え方は「山上宗二記」の引用によるとものだということを、私は本書によっておそまきながら知ったのだった。
♪初日の出今年も市中に山居せむ
Tuesday, January 01, 2008
ある丹波の女性の物語 第39回 菊人形
遥かな昔、遠い所で第61回
25年春には長男が綾部幼稚園に入園し、秋には綾部商工会議所主催の「綾部菊人形」が始まった。会場は町はずれにあるので、行き帰りの客で商店街は大賑わいであった。
催し物として「宝塚少女歌劇」の公演もあった。あんなに街中が活気にあふれた事は無い。長女がバレエで出演した事もあり、十年程菊人形も続いたが、時代も流れ移り、風水害後、復興する事も無く終わった。
追々物価も上がって、売上金の勘定に百円札の束がかさ高くて困ったが、その頃千円札が発行され便利になった。
26年には長男は小学1年生、次男は2年保育の幼稚園に入園した。
長男は女の子のように可愛く、どことなく亡き母の面影があった。父はこの子を格別可愛がった。女の子も生まれたので私にかわる愛する対象物も出来、次第にやさしく、おだやかなおじいちゃんに変わり、孫達を方々の旅行にも連れて行ってくれるようになった。
29年には末の長女も幼稚園に入園、私も育友会、参観と3人分掛けもちで忙しく、夫も商店街や自治会の仕事に追われるようになった。
丹陽教会も戦後の基督教ブーム到来で信者も増え、父は京都府下の信徒会とか、「ギデオン」という全国的な実業家の信徒の集まりにも参加して活躍、小康状態の継母をも同伴するようになった。
村雨は 淋しきものよ 身にしみて
秋の草花 色もすがれぬ 愛子
実らねど なんてんの葉も あかろみて 愛子
25年春には長男が綾部幼稚園に入園し、秋には綾部商工会議所主催の「綾部菊人形」が始まった。会場は町はずれにあるので、行き帰りの客で商店街は大賑わいであった。
催し物として「宝塚少女歌劇」の公演もあった。あんなに街中が活気にあふれた事は無い。長女がバレエで出演した事もあり、十年程菊人形も続いたが、時代も流れ移り、風水害後、復興する事も無く終わった。
追々物価も上がって、売上金の勘定に百円札の束がかさ高くて困ったが、その頃千円札が発行され便利になった。
26年には長男は小学1年生、次男は2年保育の幼稚園に入園した。
長男は女の子のように可愛く、どことなく亡き母の面影があった。父はこの子を格別可愛がった。女の子も生まれたので私にかわる愛する対象物も出来、次第にやさしく、おだやかなおじいちゃんに変わり、孫達を方々の旅行にも連れて行ってくれるようになった。
29年には末の長女も幼稚園に入園、私も育友会、参観と3人分掛けもちで忙しく、夫も商店街や自治会の仕事に追われるようになった。
丹陽教会も戦後の基督教ブーム到来で信者も増え、父は京都府下の信徒会とか、「ギデオン」という全国的な実業家の信徒の集まりにも参加して活躍、小康状態の継母をも同伴するようになった。
村雨は 淋しきものよ 身にしみて
秋の草花 色もすがれぬ 愛子
実らねど なんてんの葉も あかろみて 愛子
Monday, December 31, 2007
Sunday, December 30, 2007
さらば2007年 亡羊師走詩歌集
♪ある晴れた日に その18
満月やわれに二、三の憂いあり
土佐文旦優しき母の匂いなり
糞1個ひり出す午後の寒さかな
ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い
イヴ・クラインの青切り裂くやF30
大空を2つに切り裂くF-4EJ
袈裟懸けに双子座より落つる流れ星
その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる
沖縄スズメウリ繁茂す 沖縄独立せよ
グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ
脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか
建長寺の若き僧侶の青頭
念仏は脱兎の如し若き僧
こもごもに短き詠歌となえつつ老婆が2人峠越えたり
一座建立一日一恕の幸せを君に
高窓の光のどけき冬の朝妻と並びて抜き手切りたり
当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな
会者定離盛者必滅と鵺が鳴く
電車の中で彼女が生涯にわたって絶対見ないであろう部位をじっと見ている私
盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり
なにやらんこていな料亭ありしかど無残な更地になりにけるかも
秋晴れの丸一日を費やして描きし路線図を破り捨てたる息子
当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな
百葉落ち死者に近しき夕べかな
戦友が放り投げたる赤ん坊をこう突き刺したんだとT氏語りき
あどけなき無言の挽歌うたいつつ小楢散るなり夕陽の丘に
窓際を流るる秋に呼びかけよ かのモルフォ蝶いずくにありやと
年毎に故人増えゆくアドレス帳
人生といふ棒を振ってしもうた男なり
朝な夕な新聞のページ薄くなりあと数日で年改まるか
来年も生きてしあればそれでよし
満月やわれに二、三の憂いあり
土佐文旦優しき母の匂いなり
糞1個ひり出す午後の寒さかな
ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い
イヴ・クラインの青切り裂くやF30
大空を2つに切り裂くF-4EJ
袈裟懸けに双子座より落つる流れ星
その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる
沖縄スズメウリ繁茂す 沖縄独立せよ
グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ
脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか
建長寺の若き僧侶の青頭
念仏は脱兎の如し若き僧
こもごもに短き詠歌となえつつ老婆が2人峠越えたり
一座建立一日一恕の幸せを君に
高窓の光のどけき冬の朝妻と並びて抜き手切りたり
当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな
会者定離盛者必滅と鵺が鳴く
電車の中で彼女が生涯にわたって絶対見ないであろう部位をじっと見ている私
盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり
なにやらんこていな料亭ありしかど無残な更地になりにけるかも
秋晴れの丸一日を費やして描きし路線図を破り捨てたる息子
当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな
百葉落ち死者に近しき夕べかな
戦友が放り投げたる赤ん坊をこう突き刺したんだとT氏語りき
あどけなき無言の挽歌うたいつつ小楢散るなり夕陽の丘に
窓際を流るる秋に呼びかけよ かのモルフォ蝶いずくにありやと
年毎に故人増えゆくアドレス帳
人生といふ棒を振ってしもうた男なり
朝な夕な新聞のページ薄くなりあと数日で年改まるか
来年も生きてしあればそれでよし
Saturday, December 29, 2007
空の空なる空はない
♪バガテルop32&鎌倉ちょっと不思議な物語94回
ひところの私の趣味はデジカメで毎日自分の顔と空の写真を撮ることだったが、最近は空を飛翔するものを撮影することに「固まって」きた。
飛翔するものならトンビでも烏でもスズメでもUFOでも何でもいいのだが、圧倒的に飛行機が多い。ジャンボやヘリやプロペラ機やいろいろな飛行機がだいたい5分か6分に1機くらいの頻度でいろいろな方向に飛び交っている。
部屋にいてどこかでブーンという音が聞こえると愛用のデジカメを持って道路や露台に飛び出して上空にキョロキョロ探し求め、ともかくその機影をとらえる。朝から晩までこれをやっているから夜中でもブーンという音が聞こえると目が覚める始末。まるでノーローゼである。
自宅の周囲はあまり空が広くないので、近所の神社や広場や空き地で空にレンズを向けているから、向う三軒両隣の人々はほとんど狂人扱いで、最近は朝晩の挨拶にも顔を背ける人が増えてきたような気が心なしかする。
それはともかく自宅の上空を、毎日毎日これほど頻繁にこれほど多くの航空機が往していようとは夢にも思わなかった。先日横浜の栄区にある栄プールの上空で1機を撮影していたら、もう一機が近接遭遇したので思わずあっと叫んだくらいだ。
鎌倉は最近米軍の陸軍第一軍団前方司令部が進出してきたキャンプ座間にも、同じく米海軍空母の母港である横須賀にも、自衛隊の厚木基地にも近く、おまけに羽田や成田を発着する民間航空機の侵入離脱航路にも近いので、軍民合わせて飛来する頻度がこれほどの数になるのであろう。
幸い大和市や厚木市などのように上空すれすれに巨大な戦闘機が耳を聾せんばかりの轟音をあげながら接近することはないから助かっているものの、一日中鳥しか飛ばないのんびりした空、無人の空、旧約聖書の伝道の書にいう「空の空なる」空はもはや1瞬も存在しないことがはじめて分かった。
航空機に許された飛行範囲がきわめて限定的なものであることを考えれば、いまや大空も陸地並みの交通ラッシュ状態に近づいているといえそうだ。
♪大空を二つに切り裂くF-4EJ
ひところの私の趣味はデジカメで毎日自分の顔と空の写真を撮ることだったが、最近は空を飛翔するものを撮影することに「固まって」きた。
飛翔するものならトンビでも烏でもスズメでもUFOでも何でもいいのだが、圧倒的に飛行機が多い。ジャンボやヘリやプロペラ機やいろいろな飛行機がだいたい5分か6分に1機くらいの頻度でいろいろな方向に飛び交っている。
部屋にいてどこかでブーンという音が聞こえると愛用のデジカメを持って道路や露台に飛び出して上空にキョロキョロ探し求め、ともかくその機影をとらえる。朝から晩までこれをやっているから夜中でもブーンという音が聞こえると目が覚める始末。まるでノーローゼである。
自宅の周囲はあまり空が広くないので、近所の神社や広場や空き地で空にレンズを向けているから、向う三軒両隣の人々はほとんど狂人扱いで、最近は朝晩の挨拶にも顔を背ける人が増えてきたような気が心なしかする。
それはともかく自宅の上空を、毎日毎日これほど頻繁にこれほど多くの航空機が往していようとは夢にも思わなかった。先日横浜の栄区にある栄プールの上空で1機を撮影していたら、もう一機が近接遭遇したので思わずあっと叫んだくらいだ。
鎌倉は最近米軍の陸軍第一軍団前方司令部が進出してきたキャンプ座間にも、同じく米海軍空母の母港である横須賀にも、自衛隊の厚木基地にも近く、おまけに羽田や成田を発着する民間航空機の侵入離脱航路にも近いので、軍民合わせて飛来する頻度がこれほどの数になるのであろう。
幸い大和市や厚木市などのように上空すれすれに巨大な戦闘機が耳を聾せんばかりの轟音をあげながら接近することはないから助かっているものの、一日中鳥しか飛ばないのんびりした空、無人の空、旧約聖書の伝道の書にいう「空の空なる」空はもはや1瞬も存在しないことがはじめて分かった。
航空機に許された飛行範囲がきわめて限定的なものであることを考えれば、いまや大空も陸地並みの交通ラッシュ状態に近づいているといえそうだ。
♪大空を二つに切り裂くF-4EJ
Friday, December 28, 2007
五味文彦著「王の記憶」を読む
照る日曇る日第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語93回
京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。
発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。
後に鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実は流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。
それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。
またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。
また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。
すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。
頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)
このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。
鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。
そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。
都市 原理 基軸 性格
京都 中央 ヒト 政治
博多 境界 モノ 港湾
奈良 異界 ココロ 宗教
これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。
では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。
♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊
京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。
発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。
後に鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実は流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。
それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。
またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。
また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。
すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。
頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)
このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。
鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。
そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。
都市 原理 基軸 性格
京都 中央 ヒト 政治
博多 境界 モノ 港湾
奈良 異界 ココロ 宗教
これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。
では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。
♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊
Thursday, December 27, 2007
ジョン・アーヴィング著「また会う日まで」を読む
照る日曇る日 第80回
05年に出たジョン・アーヴィングの最新刊が本書である。上下2巻約2500枚の原稿は書くも書いたり、訳も訳したり、そして読むも読んだりの大長編である。それを簡単に要約すると、著者を思わせる少年がまだ見ぬ父に再会するまでのあれやこれやを例によって世界中を寄り道しながら半世紀にわたって旅する自伝的ビルダングスロマンというようなものであろうか。
しかし前半は刺青の話が延々と続くので消耗する。主人公の母も父もタトーをたしなみ、とりわけ母親は名だたる名人からも高く評価される腕前である。その刺青で客を取りながら自分を捨てて北欧へ行ってしまった主人公の父親を捜し求めるうらぶれた旅路が、これでもかこれでもかと描写される。
父親はオルガンの名手で教会の名オルガンを求めて放浪の旅を続けているがいたるところで女性とトラブルを起こしては追放されているらしいが、親子はついにめぐり合えないままで郷里に戻ってくる。
中盤は一転して主人公の故郷カナダのトロントにおける恐ろしく早熟な性体験と演劇クラブ活動などがアマルガムになった猥雑な小中高、そして大学までの奇妙な学校生活が執拗に描かれる。まことにシュトルムウントドランク、嵐のような青春時代である。
そしていよいよ後半は成人して俳優になった主人公がどういう風の吹き回しかオスカーを手中に収めて著名人となり、最後の最後に瞼の父と再会するのだが、このシーンはあらゆる予想と期待を上回る素晴らしさで、「さすがアービング!」と叫びたくなる。
気が狂う寸前まで本作と取り組んだ成果が、下巻第5部第39章に全面的に発揮され、540ページからそのクライマックッスが訪れる。どうか途中で投げ出さずにおしまいまで読んでください。
余談ながら主人公ときたら、「いつも」いろいろな女性に自分のペニスをつかまれながら、さまざまな映画を見ていたようだ。黒澤の「用心棒」で切られた片腕を銜えた犬が歩いているのを見た三船敏郎の怒った顔がかっこいいと述べているが、そのときだって美貌の女教師にそれをむんずとつかまれていて、「つい勃起してしまった」などと平気で書いているのだが、そんなことで真面目な映画鑑賞といえるのだろうか?
1985年のトロント映画祭では、なんと両サイドの美女から2本の手で陰茎をつかまれながら三島のドキュメンタリー映画「ミシマ」を見ていて、その映画館で「ゴダールのマリア」が上映されていると誤解した熱烈なカトリック信者からデモ隊の攻撃を受けているが、それくらいは当然のことだろう。喰らえ生卵!
ちょうどこの年のこの頃、私はパリのシャンゼリゼのたぶんバルザック座で同じ「ゴダールのマリア」を見ていたはずだが、いくら左右を見回してもちょっとでもペニスを触ってくれそうな女性はただのひとりもいなかったことを寂しく思い出したことだった。
♪イヴ・クラインの青切り裂くF30 亡羊
05年に出たジョン・アーヴィングの最新刊が本書である。上下2巻約2500枚の原稿は書くも書いたり、訳も訳したり、そして読むも読んだりの大長編である。それを簡単に要約すると、著者を思わせる少年がまだ見ぬ父に再会するまでのあれやこれやを例によって世界中を寄り道しながら半世紀にわたって旅する自伝的ビルダングスロマンというようなものであろうか。
しかし前半は刺青の話が延々と続くので消耗する。主人公の母も父もタトーをたしなみ、とりわけ母親は名だたる名人からも高く評価される腕前である。その刺青で客を取りながら自分を捨てて北欧へ行ってしまった主人公の父親を捜し求めるうらぶれた旅路が、これでもかこれでもかと描写される。
父親はオルガンの名手で教会の名オルガンを求めて放浪の旅を続けているがいたるところで女性とトラブルを起こしては追放されているらしいが、親子はついにめぐり合えないままで郷里に戻ってくる。
中盤は一転して主人公の故郷カナダのトロントにおける恐ろしく早熟な性体験と演劇クラブ活動などがアマルガムになった猥雑な小中高、そして大学までの奇妙な学校生活が執拗に描かれる。まことにシュトルムウントドランク、嵐のような青春時代である。
そしていよいよ後半は成人して俳優になった主人公がどういう風の吹き回しかオスカーを手中に収めて著名人となり、最後の最後に瞼の父と再会するのだが、このシーンはあらゆる予想と期待を上回る素晴らしさで、「さすがアービング!」と叫びたくなる。
気が狂う寸前まで本作と取り組んだ成果が、下巻第5部第39章に全面的に発揮され、540ページからそのクライマックッスが訪れる。どうか途中で投げ出さずにおしまいまで読んでください。
余談ながら主人公ときたら、「いつも」いろいろな女性に自分のペニスをつかまれながら、さまざまな映画を見ていたようだ。黒澤の「用心棒」で切られた片腕を銜えた犬が歩いているのを見た三船敏郎の怒った顔がかっこいいと述べているが、そのときだって美貌の女教師にそれをむんずとつかまれていて、「つい勃起してしまった」などと平気で書いているのだが、そんなことで真面目な映画鑑賞といえるのだろうか?
1985年のトロント映画祭では、なんと両サイドの美女から2本の手で陰茎をつかまれながら三島のドキュメンタリー映画「ミシマ」を見ていて、その映画館で「ゴダールのマリア」が上映されていると誤解した熱烈なカトリック信者からデモ隊の攻撃を受けているが、それくらいは当然のことだろう。喰らえ生卵!
ちょうどこの年のこの頃、私はパリのシャンゼリゼのたぶんバルザック座で同じ「ゴダールのマリア」を見ていたはずだが、いくら左右を見回してもちょっとでもペニスを触ってくれそうな女性はただのひとりもいなかったことを寂しく思い出したことだった。
♪イヴ・クラインの青切り裂くF30 亡羊
Wednesday, December 26, 2007
ある丹波の女性の物語 第38回 夫と父
遥かな昔、遠い所で第60回
父と一人娘と養子、というだけでも仲々むずかしい人間関係であるのに、継母との関係もあり、父の積極的な性格に、養子タイプのおとなしい夫の性格は相反して、却って相性がいいのではと、私は思ったのであるが、綾部での同居の生活が始まってからは、それぞれに言い分があり、私にはそれぞれの立場が理解出来るだけに、むずかしい立場に立たされる事が多かった。
丁度その時私は居合わせなかったので、直接の原因は分らなかったが、一寸したはづみで、夫はもう限界だからこの家を出て行きたいと、父に言う事件が起きた。夫は抑えに抑えて来た思いを抑えきれず、父に投げつけたのである。
いずれそういう事もあろうかと思っていた私は覚悟はしていたので、父に「長い間お世話になりました。私も夫に従ってこの家を出させていただきます」と言った。
父はただオロオロするばかりであったが、平伏して、「ワシが悪かった。謝る。どうぞ出て行かんでくれ」と夫に詫びた。
その後も、夫は何度か口惜しい思いをしたであろうし、父も我慢出来ぬ我慢をしてくれたであろうが、そうした事は二度と起こらなかった。
程なく、父は履物店の経営には全く口を出さず、経済的にも干渉しなかった。
父は甥達2人と京都でネクタイの事業を再開したのである。
秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
もみじ散りしく 庭のかたえに 愛子
弘安さん納骨の日
なき人を 惜しむように 秋時雨 愛子
父と一人娘と養子、というだけでも仲々むずかしい人間関係であるのに、継母との関係もあり、父の積極的な性格に、養子タイプのおとなしい夫の性格は相反して、却って相性がいいのではと、私は思ったのであるが、綾部での同居の生活が始まってからは、それぞれに言い分があり、私にはそれぞれの立場が理解出来るだけに、むずかしい立場に立たされる事が多かった。
丁度その時私は居合わせなかったので、直接の原因は分らなかったが、一寸したはづみで、夫はもう限界だからこの家を出て行きたいと、父に言う事件が起きた。夫は抑えに抑えて来た思いを抑えきれず、父に投げつけたのである。
いずれそういう事もあろうかと思っていた私は覚悟はしていたので、父に「長い間お世話になりました。私も夫に従ってこの家を出させていただきます」と言った。
父はただオロオロするばかりであったが、平伏して、「ワシが悪かった。謝る。どうぞ出て行かんでくれ」と夫に詫びた。
その後も、夫は何度か口惜しい思いをしたであろうし、父も我慢出来ぬ我慢をしてくれたであろうが、そうした事は二度と起こらなかった。
程なく、父は履物店の経営には全く口を出さず、経済的にも干渉しなかった。
父は甥達2人と京都でネクタイの事業を再開したのである。
秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
もみじ散りしく 庭のかたえに 愛子
弘安さん納骨の日
なき人を 惜しむように 秋時雨 愛子
Tuesday, December 25, 2007
ある丹波の女性の物語 第37回 大阪
遥かな昔、遠い所で第59回
9月22日に次男が生まれた。産湯を使うと、一番大きい盥にいっぱいになるような大きな子であった。
その後、商店街は次々店が開き、戦前の体裁がととのうようになった。
我が家も夫の就職口もなく、店を再開しょうと私は父と大阪へ仕入れに行った。梅田の駅を降り、堺筋から難波まで市電に乗ったが、途中只1軒、山中大仏道という仏具屋の真新しい、大きな建物が目立つだけで、北から南まで一面の焼野原であった。
父がこの土地を今買っておきたいものだ、といったのを、大阪へ行くたびに思い出し今昔の感にたえぬ。
一応商品が揃うようになってからと思ったので、他の業者より一歩おくれたけれど、履物店を再開した。おかげで、昔からの信用もあり、女の子1人をおいたけれど、花緒をたてるのが間に合わず、外へ出して頼む程よく売れるようになった。
23年7月には長女が生まれた。父の思い通り、眞善美の3人が揃ったわけである。
継母は相変わらず床に就く事が多かったが、夫は健康を取り戻し、店の仕事にも次第に慣れては来たが、初めての経験なので、父を頼りにし、自然父と娘が店の主流になる事が多かった。
露地裏に 幼子の声 ひびきいて
心はずむよ おとろうる身も 愛子
戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
目には見えねど 梢に咲けるか 愛子
9月22日に次男が生まれた。産湯を使うと、一番大きい盥にいっぱいになるような大きな子であった。
その後、商店街は次々店が開き、戦前の体裁がととのうようになった。
我が家も夫の就職口もなく、店を再開しょうと私は父と大阪へ仕入れに行った。梅田の駅を降り、堺筋から難波まで市電に乗ったが、途中只1軒、山中大仏道という仏具屋の真新しい、大きな建物が目立つだけで、北から南まで一面の焼野原であった。
父がこの土地を今買っておきたいものだ、といったのを、大阪へ行くたびに思い出し今昔の感にたえぬ。
一応商品が揃うようになってからと思ったので、他の業者より一歩おくれたけれど、履物店を再開した。おかげで、昔からの信用もあり、女の子1人をおいたけれど、花緒をたてるのが間に合わず、外へ出して頼む程よく売れるようになった。
23年7月には長女が生まれた。父の思い通り、眞善美の3人が揃ったわけである。
継母は相変わらず床に就く事が多かったが、夫は健康を取り戻し、店の仕事にも次第に慣れては来たが、初めての経験なので、父を頼りにし、自然父と娘が店の主流になる事が多かった。
露地裏に 幼子の声 ひびきいて
心はずむよ おとろうる身も 愛子
戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
目には見えねど 梢に咲けるか 愛子
Monday, December 24, 2007
鈴木清順監督の家
鎌倉ちょっと不思議な物語91回
クリスマスイブイブの夜に義母と話していたら、彼女たちが昔住んでいた長谷の家は、映画監督の鈴木清順氏の旧宅だったというので驚いた。
そこは吉屋信子氏の斜め前にあって、私もある夏の日に一度だけ訪ねたことがあったが、いまは取り壊されてしまった。なんでも玄関までのアプローチが長く、前庭の左側に丈の高い竹が欝蒼と茂っており、蓋をした井戸があったような気がする。
義母の話では外側はおんぼろだが内部は広く、立派な茶室や映画の機材やフィルムの現像室など数多くの部屋があったそうだ。また鈴木監督が引っ越したばかりで郵便ポストには誰かからのラブレターが入っていたそうだが、どこに届けていいか分からないので結局行方不明になってしまったという。
後年あの傑作「ツイゴイネルワイゼン」でベルリン国際映画祭特別審査員賞に輝いた鈴木監督は、当時おそらく日活から解雇され仕事がなくなりつつあった時期だから、生活費に困って鎌倉の寓居を手放してしまったのだろう。
夜になると鼠が天井裏を走り回り、なんだか怪談じみた不気味な雰囲気をかもし出したというが、確かに真夏の昼なのに、長い廊下や納戸のあたりに暗き闇と中世鎌倉の地霊が棲みついていたような気がする。
鈴木監督の代表作には釈迦堂切通しや小町通りの奥にあるミルクホールなど鎌倉ゆかりの旧跡や隠れ家が登場するが、私は確か「ツイゴイネルワイゼン」で大楠道代が潜んでいた水の底のイメージは、この長谷の閉じられた秘密の井戸にあったのではないかと想像を逞しくしてしまった。
いずれにせよ監督の鎌倉滞在は彼の芸術に決定的な影響を与えたのである。
ところで私自身もこの海岸から遠からぬこの古びた家とその住人に大きな感銘を受け、その翌日生まれて初めてひとつの短歌を詠んだ。
♪鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり
当時私は神田鎌倉河岸のほとりにある小さな会社に勤務していたが、消費者から受けた苦情に対する謝罪文などを、「どうかご海容下さいませ」などと気どって書いて、それを総務のタイピストをしていた年配の小柄な女性に渡すと、彼女は「へええ、あんた若いのに海容なんて言葉をよく知ってるわねえ」と褒めてくれるのだった。
そこで歌が出来た翌日、早速彼女に私のそのつたない短歌を披露すると、彼女はしばらく考えてから「へえー、生まれて初めての歌にしては悪くないわね。でも最後の「たり」を「おり」にするともっといいわよ」という助言を受けた。
若く傲慢不遜だった私は、「いや、やっぱり「たり」がいいです」と言ってその場を立ち去った。それから間もなく、私はこの不可思議な趣のある旧家に住んでいた若い女性縁あって結ばれたが、その年配の小柄な女性が、俳人として知られる井戸みづえさんであることを知ったのはずいぶん後になってからのことだった。
クリスマスイブイブの夜に義母と話していたら、彼女たちが昔住んでいた長谷の家は、映画監督の鈴木清順氏の旧宅だったというので驚いた。
そこは吉屋信子氏の斜め前にあって、私もある夏の日に一度だけ訪ねたことがあったが、いまは取り壊されてしまった。なんでも玄関までのアプローチが長く、前庭の左側に丈の高い竹が欝蒼と茂っており、蓋をした井戸があったような気がする。
義母の話では外側はおんぼろだが内部は広く、立派な茶室や映画の機材やフィルムの現像室など数多くの部屋があったそうだ。また鈴木監督が引っ越したばかりで郵便ポストには誰かからのラブレターが入っていたそうだが、どこに届けていいか分からないので結局行方不明になってしまったという。
後年あの傑作「ツイゴイネルワイゼン」でベルリン国際映画祭特別審査員賞に輝いた鈴木監督は、当時おそらく日活から解雇され仕事がなくなりつつあった時期だから、生活費に困って鎌倉の寓居を手放してしまったのだろう。
夜になると鼠が天井裏を走り回り、なんだか怪談じみた不気味な雰囲気をかもし出したというが、確かに真夏の昼なのに、長い廊下や納戸のあたりに暗き闇と中世鎌倉の地霊が棲みついていたような気がする。
鈴木監督の代表作には釈迦堂切通しや小町通りの奥にあるミルクホールなど鎌倉ゆかりの旧跡や隠れ家が登場するが、私は確か「ツイゴイネルワイゼン」で大楠道代が潜んでいた水の底のイメージは、この長谷の閉じられた秘密の井戸にあったのではないかと想像を逞しくしてしまった。
いずれにせよ監督の鎌倉滞在は彼の芸術に決定的な影響を与えたのである。
ところで私自身もこの海岸から遠からぬこの古びた家とその住人に大きな感銘を受け、その翌日生まれて初めてひとつの短歌を詠んだ。
♪鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり
当時私は神田鎌倉河岸のほとりにある小さな会社に勤務していたが、消費者から受けた苦情に対する謝罪文などを、「どうかご海容下さいませ」などと気どって書いて、それを総務のタイピストをしていた年配の小柄な女性に渡すと、彼女は「へええ、あんた若いのに海容なんて言葉をよく知ってるわねえ」と褒めてくれるのだった。
そこで歌が出来た翌日、早速彼女に私のそのつたない短歌を披露すると、彼女はしばらく考えてから「へえー、生まれて初めての歌にしては悪くないわね。でも最後の「たり」を「おり」にするともっといいわよ」という助言を受けた。
若く傲慢不遜だった私は、「いや、やっぱり「たり」がいいです」と言ってその場を立ち去った。それから間もなく、私はこの不可思議な趣のある旧家に住んでいた若い女性縁あって結ばれたが、その年配の小柄な女性が、俳人として知られる井戸みづえさんであることを知ったのはずいぶん後になってからのことだった。
Sunday, December 23, 2007
日曜日が待ち遠しい
鎌倉ちょっと不思議な物語91回
毎年恒例の市の健康診断を受けた後、横須賀線の鎌倉駅の裏駅のそばを自転車で走っていたら、線路際の料亭『吉兆』が営業を終了していた。この日本料理の店は私の近所の人が経営していて、一時はマスコミにも大きく取り上げられ、クロワッサンなどの雑誌を硬く握り締めたおばさん集団が門前市をなして詰め掛けていたが、好事魔多しでなにかまずいことがあったのだろう、広大な自宅もいつの間にか取り壊されていた。
そのほか鎌倉ではT工務店が倒産して一家が夜逃げしたという噂だし、日本経済の再びの地盤沈下と小泉格差政策の荒波をかぶってあちこちでよからぬ事件が起こっている。物言えば唇寒き師走である。
踏切を越えて小町に入ると、「Vivement dimanche!」なる喫茶店がある。最近世間ではこの「きっちゃてん」という立派な日本語をリストラして、得体の知れないカフェーという呼称に全面的に切り替えようとしているが、「Vivement dimanche!」というおふらんす語をつけていはいても、実態は普通の喫茶店である。店主がトリュフォーの大ファンらしく、店の外装や内装もカラフルで、とりわけ奇妙な看板が印象的である。
Vivement dimanche!というのはフランソワ・トリュフォーというフランスの映画監督の作品のタイトルである。邦題では『日曜日が待ち遠しい!』とネーミングされたこの作品は、前作の『隣の女』に続いて、彼の短い晩年の最後の恋人であったファニー・アルダンが主演し、共演がジャン・トランティニヤン、音楽はお馴染みジョルジュ・ドリリューのコンビによる小粋なサスペンスコメディであるが、何度鑑賞しても白鳥の歌とも思えぬその軽やかな疾走感が、残された私たちをかえって悲しませる。
当時トリュフォーはすでに不治の病に冒されており、翌1984年10月21日の日曜日に亡くなってしまうので、『日曜日が待ち遠しい!』は彼の遺作になってしまった。
私はちょうどその頃、彼を起用してテレビコマーシャルを製作しようと考え、すでにその了承ももらっていただけにこの突然の訃報はショックだった。
しかし幸い同じヌーヴェルヴァーグの監督ジャンリュック・ゴダールが、死せるトリュフォーに代わって私の「世界の映画監督シリーズ!」第1回の企画を救済し、2本のCMを作ってくれたことは大きなよろこびだった。1968年のカンヌ国際映画祭がきっかけで決別したこの2人の間を私が製作したCMがつないだことを思うと、その世にも不思議な奇縁に我ながら驚く次第である。
しかし思えばトリュフォーは、ジャン・ルノワール、オーソン・ウエルズ、ヒッチコックの剄い系譜を受け継ぐアレグロ・アッサイの演出家であった。餘りにも生き急いだ彼は、そのイストワールの余情や余韻をあえてかなぐり捨てて非情とも言うべき乾いた猛烈な速度で進行し、逆にかえってそのことが、観客に対して無上のリリシズムとあえかに夢見られた彼岸への憧憬をもたらしたのである。
毎年恒例の市の健康診断を受けた後、横須賀線の鎌倉駅の裏駅のそばを自転車で走っていたら、線路際の料亭『吉兆』が営業を終了していた。この日本料理の店は私の近所の人が経営していて、一時はマスコミにも大きく取り上げられ、クロワッサンなどの雑誌を硬く握り締めたおばさん集団が門前市をなして詰め掛けていたが、好事魔多しでなにかまずいことがあったのだろう、広大な自宅もいつの間にか取り壊されていた。
そのほか鎌倉ではT工務店が倒産して一家が夜逃げしたという噂だし、日本経済の再びの地盤沈下と小泉格差政策の荒波をかぶってあちこちでよからぬ事件が起こっている。物言えば唇寒き師走である。
踏切を越えて小町に入ると、「Vivement dimanche!」なる喫茶店がある。最近世間ではこの「きっちゃてん」という立派な日本語をリストラして、得体の知れないカフェーという呼称に全面的に切り替えようとしているが、「Vivement dimanche!」というおふらんす語をつけていはいても、実態は普通の喫茶店である。店主がトリュフォーの大ファンらしく、店の外装や内装もカラフルで、とりわけ奇妙な看板が印象的である。
Vivement dimanche!というのはフランソワ・トリュフォーというフランスの映画監督の作品のタイトルである。邦題では『日曜日が待ち遠しい!』とネーミングされたこの作品は、前作の『隣の女』に続いて、彼の短い晩年の最後の恋人であったファニー・アルダンが主演し、共演がジャン・トランティニヤン、音楽はお馴染みジョルジュ・ドリリューのコンビによる小粋なサスペンスコメディであるが、何度鑑賞しても白鳥の歌とも思えぬその軽やかな疾走感が、残された私たちをかえって悲しませる。
当時トリュフォーはすでに不治の病に冒されており、翌1984年10月21日の日曜日に亡くなってしまうので、『日曜日が待ち遠しい!』は彼の遺作になってしまった。
私はちょうどその頃、彼を起用してテレビコマーシャルを製作しようと考え、すでにその了承ももらっていただけにこの突然の訃報はショックだった。
しかし幸い同じヌーヴェルヴァーグの監督ジャンリュック・ゴダールが、死せるトリュフォーに代わって私の「世界の映画監督シリーズ!」第1回の企画を救済し、2本のCMを作ってくれたことは大きなよろこびだった。1968年のカンヌ国際映画祭がきっかけで決別したこの2人の間を私が製作したCMがつないだことを思うと、その世にも不思議な奇縁に我ながら驚く次第である。
しかし思えばトリュフォーは、ジャン・ルノワール、オーソン・ウエルズ、ヒッチコックの剄い系譜を受け継ぐアレグロ・アッサイの演出家であった。餘りにも生き急いだ彼は、そのイストワールの余情や余韻をあえてかなぐり捨てて非情とも言うべき乾いた猛烈な速度で進行し、逆にかえってそのことが、観客に対して無上のリリシズムとあえかに夢見られた彼岸への憧憬をもたらしたのである。
Saturday, December 22, 2007
ある丹波の女性の物語 第36回 ズンドコ節
遥かな昔、遠い所で第58回
そんな暮らしが2、3年も続いた。追々ヤミ商品が街に沢山並ぶようになり、古着も店につるされて売買されるようになった。お金さえあれば、何でも買えるようになったが、貯金は封鎖され新円に切り替えになった。
教会の礼拝に行っている留守の間に、その新円を泥棒にすっかり取られてしまい、当座とても困った。親戚から折角送って来た虎屋の羊羹も、ついでに持って行かれ、甘党の父はすっかりしょげてしまった。
戦後の開放感が拡がっていった終戦後はじめての21年のお盆には、誰が始めたのか大通りに自然に盆踊りの輪が出来た。それが次第に当時はやりの「ズンドコ節」に変って行ったのである。タンスにしまいこんであった浴衣姿の若者、おじいちゃん、おばあちゃんまで加わり踊りは一晩中続いた。
何かが爆発したような異常な興奮の渦が街中に広がって行った。その後も毎年盆踊りは続けられたが、ズンドコ節のあの激しさはもう無かった。
久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ 愛子
うめもどき たねまきてより いくとしか
枝もたわわに 赤き実つけぬ 愛子
そんな暮らしが2、3年も続いた。追々ヤミ商品が街に沢山並ぶようになり、古着も店につるされて売買されるようになった。お金さえあれば、何でも買えるようになったが、貯金は封鎖され新円に切り替えになった。
教会の礼拝に行っている留守の間に、その新円を泥棒にすっかり取られてしまい、当座とても困った。親戚から折角送って来た虎屋の羊羹も、ついでに持って行かれ、甘党の父はすっかりしょげてしまった。
戦後の開放感が拡がっていった終戦後はじめての21年のお盆には、誰が始めたのか大通りに自然に盆踊りの輪が出来た。それが次第に当時はやりの「ズンドコ節」に変って行ったのである。タンスにしまいこんであった浴衣姿の若者、おじいちゃん、おばあちゃんまで加わり踊りは一晩中続いた。
何かが爆発したような異常な興奮の渦が街中に広がって行った。その後も毎年盆踊りは続けられたが、ズンドコ節のあの激しさはもう無かった。
久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ 愛子
うめもどき たねまきてより いくとしか
枝もたわわに 赤き実つけぬ 愛子
Friday, December 21, 2007
ある丹波の女性の物語 第35回 虚弱体質
遥かな昔、遠い所で第57回
早々に復員が始まり、内地に配属されていた近所の人達も帰って来た。
暫くしてガダルカナルで戦死した番頭の兼さんの遺骨も帰って来た。父が引き取りに行き、夜おそく提灯をつけて兼さんの自宅に遺骨は帰った。
出征時おなかにいた末の子は、白木の箱を持ち先頭に立っていた私の父を見て、「お父ちゃん、お父ちゃん」と喜び、みんなの涙をさそった。真夏の事で供える花もないままに、私の庭の秋海棠の花を手折って供えた。秋海棠は、そんな想い出と共に悲しい花となった。
うちでは夫には召集もなく、みんな揃って終戦を迎える事が出来たが、遠慮のない父は、「うちの輸入品は弱虫ばかりで困る」と、母や夫のことをなげいた。言われる当人達はそれ以上に、この上なく辛い事であったろうが、二人とも呼吸器が弱く、とても労働の出来る身体ではなかった。
私達も頑強ではなかったが、力を合わせて野菜作りにはげんだ。豆の季節には、豆の中にお米がまじっているような御飯、夏ならお芋や南瓜であった。戸棚にごろごろしている南瓜を見ると力強かったし、土間に拡げられたじゃが芋、さつまいもを見ると、心がゆたかになるような気がした。
父は昔の知り合いを訪ねて、商品の残り物を食品に換えて来てくれたり、以前のお手伝いさんは、私の派手な着物類は農家の娘さん用に喜ばれると、お米と交換してくれたりした。
水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
ふじばかま咲き 秋深まりぬ 愛子
ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
袋につめて 彼岸まゐりに 愛子
早々に復員が始まり、内地に配属されていた近所の人達も帰って来た。
暫くしてガダルカナルで戦死した番頭の兼さんの遺骨も帰って来た。父が引き取りに行き、夜おそく提灯をつけて兼さんの自宅に遺骨は帰った。
出征時おなかにいた末の子は、白木の箱を持ち先頭に立っていた私の父を見て、「お父ちゃん、お父ちゃん」と喜び、みんなの涙をさそった。真夏の事で供える花もないままに、私の庭の秋海棠の花を手折って供えた。秋海棠は、そんな想い出と共に悲しい花となった。
うちでは夫には召集もなく、みんな揃って終戦を迎える事が出来たが、遠慮のない父は、「うちの輸入品は弱虫ばかりで困る」と、母や夫のことをなげいた。言われる当人達はそれ以上に、この上なく辛い事であったろうが、二人とも呼吸器が弱く、とても労働の出来る身体ではなかった。
私達も頑強ではなかったが、力を合わせて野菜作りにはげんだ。豆の季節には、豆の中にお米がまじっているような御飯、夏ならお芋や南瓜であった。戸棚にごろごろしている南瓜を見ると力強かったし、土間に拡げられたじゃが芋、さつまいもを見ると、心がゆたかになるような気がした。
父は昔の知り合いを訪ねて、商品の残り物を食品に換えて来てくれたり、以前のお手伝いさんは、私の派手な着物類は農家の娘さん用に喜ばれると、お米と交換してくれたりした。
水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
ふじばかま咲き 秋深まりぬ 愛子
ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
袋につめて 彼岸まゐりに 愛子
Thursday, December 20, 2007
より良い古典音楽演奏を求めて
♪音楽千夜一夜第30回
例えば下手な絵描きが描いた下手な絵が、3次元の絵画的空間ではなく、単なる絵の具の堆積として私たちの目に映ることがありますが、ジャンルは異なるとはいえそれとまったく同様な「展覧会の絵」現象がいま全国のコンサート会場で起こっているような気がします。
ではどうしてこういうことが起こるのでせうか?
部外者で素人の私にはよく分かりませんが、それは演奏家とりわけ指揮者の精神の内部に自分独自の音楽がないか、もしいくばくかのそれがあったとしても、それを楽員や聴衆に対して自信を持って的確に伝える能力が欠けているからではないのでせうか?
音楽の創造にとってもっとも重要なこと、どういう音楽を立ち上げ、それをどうやって外部に伝えるかということでせう。しかし現在の音楽教育や演奏の現場では、後者の音楽におけるHOWという機能を最優先するあまり、もっと重要なWHATの創造の課題がおきざりにされているのではないのでせうか。さうして苦労してせっかく手塩にかけて培養した幼く稚拙な創造の芽さえ効果的に周囲に伝達できないので、だからあれほどにつまらない演奏が日夜かくも膨大に流通しているのではないかと思うのです。
いろいろな努力と遍歴を重ねてはみたけれど、自己の音楽ヴィジョンをついに強固に確立できず、ただ楽員とのおためごかしの協調性と協奏のよろこびだけでその場しのぎの音楽をやろうとする指揮者たち(例えば小沢氏のウイーン国立オペラ就任記念演奏会におけるブルックナー9番の演奏やロストロポーヴィッチ氏との最後の「ドンキホーテ」のリハーサルにおけるテンポの設定不指示をカール・ライスター氏に指摘されても反省しない没主体的な指導性)が年々粗製乱造され、その成り行き次第のダルな演奏態度によって現代の再現芸術のレベルを日々劣化させているのではないでせうか?
この致命的な機能不全を解消する秘策はありませぬ。というのは音楽におけるWHATの創造は、音楽以外の暗黙知と広範な人生体験から生まれてくるからです。ひとりの人間としてより深く、より良く生きようとする不断の努力と研鑽からしか良き音楽家は生まれないと私は信じています。
いくら朝から晩までヤマハが買収したベーゼンドルファーを弾きまくっていても、あるいは神仏に祈って7度生まれ変わっても、所詮漢(おとこ)バックハウスにはなれないし、天才コルトーやリパッティには逆立ちしたってなれませぬ。けれどもたとえ永平寺で100年修行を積んだからと言っていい音楽家になれるとは限らないのです。
それではすべてお手上げかというとそうでもなくて、私たちは偉大な先人の音楽文化伝承の技術を丁寧に学ぶことによっていくらかはWHATからHOWへとつながるこの問題をキャッチアップできるはずです。
なぜなら演奏のエッセンスは、楽譜の解釈にあり、楽譜の解釈は楽譜の物語化、象徴化にあり、指揮者の仕事はこの独自な物語とシンボルの立ち上げと効果的な移植にあると考えられるからです。
指揮者(演奏家)は己の脳中と胸中に浮かんだ抽象的なWHATを、あれやこれやの具体的な指示へと置き換えなければなりませぬ。
いつか斉藤秀雄氏の弟子の飯森泰次郎氏が、死せる師匠の指揮法についてピアノを演奏しながら具体的に語っておりました。それは「タンホイザー序曲」の冒頭のシーンでありましたが、「ここは疲労困憊したローマの巡礼たちの思い足取り、ここは彼らにようやく希望の光が見えたかすかなよろこびの瞬間」というふうに、斉藤氏はまるで平家物語の語り部さながらに一小節ずつ弾き振りの指導を行なったといふのです。(ここでセルの演奏を参照してください)
また今は亡き朝比奈氏は、ベートーヴェンの第7交響曲の練習で、「ここは縦の線は無視してください。音は汚くても構わないから歌って、歌って、歌ってください」とまるでトスカニーニのように大フィルを叱咤しておりました。(なんというアバウト小氏との違いでありましょうか!)
さらにはクライバーやチエリビダッケやムラビンスキーやミュンシュやクーセヴィツスキーのリハーサルをご覧あれ。すべてがこの物語化と象徴化による音楽の結晶化作業の連続です。
さうして彼らが楽員に強烈に彼らの物語を解説し、象徴化へいざない、あるいは反抗する楽員を説得し、折伏する指導的言語と、その教育的指導を受けたあとの楽員による演奏は、その前後であきらかに顕著な違いがあるのです。音楽的境地の瞬間ごとの生成進化があるのです。
こうした音楽の物語化は演奏芸術における象徴化作業にきわめて忠実な手法であり、いまでもけっして古びてはいないし、教育的有効性を失ってはいないはずです。
最後に私は、楽譜と音楽は不即不離の関係にこそあっても、楽譜そのものは実は音楽演奏とも、ノイエザハリッヒカイトなんちゅう客体的な楽譜解釈による客観的な?演奏とも、さらには思い切って音楽の本質とも原理的には無関係ではないかと思うのです。
世間で信じているやうに、楽器の演奏ができることと、演奏された音楽の本質が理解されていることとはまるで関係がないので、かのジャン・クリストフではありませぬが、プロより頑是無い子供の素人のほうが演奏されたその音楽の本質を直観していることが多いように思われます。
盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり 亡羊
例えば下手な絵描きが描いた下手な絵が、3次元の絵画的空間ではなく、単なる絵の具の堆積として私たちの目に映ることがありますが、ジャンルは異なるとはいえそれとまったく同様な「展覧会の絵」現象がいま全国のコンサート会場で起こっているような気がします。
ではどうしてこういうことが起こるのでせうか?
部外者で素人の私にはよく分かりませんが、それは演奏家とりわけ指揮者の精神の内部に自分独自の音楽がないか、もしいくばくかのそれがあったとしても、それを楽員や聴衆に対して自信を持って的確に伝える能力が欠けているからではないのでせうか?
音楽の創造にとってもっとも重要なこと、どういう音楽を立ち上げ、それをどうやって外部に伝えるかということでせう。しかし現在の音楽教育や演奏の現場では、後者の音楽におけるHOWという機能を最優先するあまり、もっと重要なWHATの創造の課題がおきざりにされているのではないのでせうか。さうして苦労してせっかく手塩にかけて培養した幼く稚拙な創造の芽さえ効果的に周囲に伝達できないので、だからあれほどにつまらない演奏が日夜かくも膨大に流通しているのではないかと思うのです。
いろいろな努力と遍歴を重ねてはみたけれど、自己の音楽ヴィジョンをついに強固に確立できず、ただ楽員とのおためごかしの協調性と協奏のよろこびだけでその場しのぎの音楽をやろうとする指揮者たち(例えば小沢氏のウイーン国立オペラ就任記念演奏会におけるブルックナー9番の演奏やロストロポーヴィッチ氏との最後の「ドンキホーテ」のリハーサルにおけるテンポの設定不指示をカール・ライスター氏に指摘されても反省しない没主体的な指導性)が年々粗製乱造され、その成り行き次第のダルな演奏態度によって現代の再現芸術のレベルを日々劣化させているのではないでせうか?
この致命的な機能不全を解消する秘策はありませぬ。というのは音楽におけるWHATの創造は、音楽以外の暗黙知と広範な人生体験から生まれてくるからです。ひとりの人間としてより深く、より良く生きようとする不断の努力と研鑽からしか良き音楽家は生まれないと私は信じています。
いくら朝から晩までヤマハが買収したベーゼンドルファーを弾きまくっていても、あるいは神仏に祈って7度生まれ変わっても、所詮漢(おとこ)バックハウスにはなれないし、天才コルトーやリパッティには逆立ちしたってなれませぬ。けれどもたとえ永平寺で100年修行を積んだからと言っていい音楽家になれるとは限らないのです。
それではすべてお手上げかというとそうでもなくて、私たちは偉大な先人の音楽文化伝承の技術を丁寧に学ぶことによっていくらかはWHATからHOWへとつながるこの問題をキャッチアップできるはずです。
なぜなら演奏のエッセンスは、楽譜の解釈にあり、楽譜の解釈は楽譜の物語化、象徴化にあり、指揮者の仕事はこの独自な物語とシンボルの立ち上げと効果的な移植にあると考えられるからです。
指揮者(演奏家)は己の脳中と胸中に浮かんだ抽象的なWHATを、あれやこれやの具体的な指示へと置き換えなければなりませぬ。
いつか斉藤秀雄氏の弟子の飯森泰次郎氏が、死せる師匠の指揮法についてピアノを演奏しながら具体的に語っておりました。それは「タンホイザー序曲」の冒頭のシーンでありましたが、「ここは疲労困憊したローマの巡礼たちの思い足取り、ここは彼らにようやく希望の光が見えたかすかなよろこびの瞬間」というふうに、斉藤氏はまるで平家物語の語り部さながらに一小節ずつ弾き振りの指導を行なったといふのです。(ここでセルの演奏を参照してください)
また今は亡き朝比奈氏は、ベートーヴェンの第7交響曲の練習で、「ここは縦の線は無視してください。音は汚くても構わないから歌って、歌って、歌ってください」とまるでトスカニーニのように大フィルを叱咤しておりました。(なんというアバウト小氏との違いでありましょうか!)
さらにはクライバーやチエリビダッケやムラビンスキーやミュンシュやクーセヴィツスキーのリハーサルをご覧あれ。すべてがこの物語化と象徴化による音楽の結晶化作業の連続です。
さうして彼らが楽員に強烈に彼らの物語を解説し、象徴化へいざない、あるいは反抗する楽員を説得し、折伏する指導的言語と、その教育的指導を受けたあとの楽員による演奏は、その前後であきらかに顕著な違いがあるのです。音楽的境地の瞬間ごとの生成進化があるのです。
こうした音楽の物語化は演奏芸術における象徴化作業にきわめて忠実な手法であり、いまでもけっして古びてはいないし、教育的有効性を失ってはいないはずです。
最後に私は、楽譜と音楽は不即不離の関係にこそあっても、楽譜そのものは実は音楽演奏とも、ノイエザハリッヒカイトなんちゅう客体的な楽譜解釈による客観的な?演奏とも、さらには思い切って音楽の本質とも原理的には無関係ではないかと思うのです。
世間で信じているやうに、楽器の演奏ができることと、演奏された音楽の本質が理解されていることとはまるで関係がないので、かのジャン・クリストフではありませぬが、プロより頑是無い子供の素人のほうが演奏されたその音楽の本質を直観していることが多いように思われます。
盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり 亡羊
Wednesday, December 19, 2007
徳富蘇峰著「終戦後日記Ⅳ」を読む
照る日曇る日 第79回
徳富蘇峰は1863年熊本生まれで福沢の慶応を嫌って京都に出て新島襄の同志社に学び、1887年に民友社を設立して「国民之友」「国民新聞」などの有力メデイアを発行しいわゆる平民主義を唱道した。
明治、大正、昭和の3代を生き延びた言論人にして政治家の彼は、戦時中は大日本文学報国会会長、大日本言論報国会会長をつとめ、その天皇中心主義を生涯にわたって貫いた。
いわば筋金入りの保守であるが、言論人兼政治家という点では最近の読売社主兼主筆兼3流暗躍政治家のナベツネ、あるいはその先々代の正力と同類項の言行一致型の策士である。不仲であった松方、大隈の両領収手を握らせ、念願の松隈内閣を誕生させた影の立役者こそ誰あろう国民新聞社主の蘇峰だった。
蘇峰のみならず明治の御世には、尾崎行雄、犬養毅、子規の恩人日本新聞の陸羯南をはじめ数多くの新聞記者や社主が政界に進出し、彼らの理想を実行に移そうとしていたのである。平成の御世に生きる一新聞社主が自民民主両政党の連合を企むことはそのアイデアがいかに虚妄であろうともそれをやってはいけないと誰もいうことはできない。しかし彼奴がワンワン吼えても歴史は勝手に動くだけの話だ。
さてその蘇峰が書き継いだ日記「頑蘇夢物語」の完結編「終戦後日記」が本書である。日記といっても当時蘇峰は巣鴨に収容こそされなかったが立派なA級戦犯であり、進駐軍によって監視されていたから外部には公開されないままについに今日に至ったいわくつきの日記である。
本書の前半で、著者はなぜ日本が過ぐる大戦に敗れたか執拗に自問し、自答している。蘇峰が挙げるのはまずは人物の欠乏で、上は恐れ多くも明治天皇と昭和天皇、下は桂と東條、海軍の東郷平八郎と山本五十六、陸軍の大山、児玉と山下、板垣などの人物の出来具合を月旦する。
次はルーズベルトやチャーチル、スターリン、蒋介石とわが帝国首脳のスケールの大小、さらにわが帝国の東亜民族指導の資格欠如、大和民族の先天的後天的欠陥、戦争の構想の欠落、満州から中華事変への暴走起点となった盧溝橋事件の処理方法に言及し、中国の真価を知らずに蔑視して突入した支那事変を「世界戦史上最愚劣の戦争」であったと決め付ける。
ユダヤ人と並びおよそ世界で最強の漢民族と事を構えたわが帝国の無謀と愚劣を痛罵してやまないのだが、ではかつての日清、日露と同様にわが帝国の命運を賭けた大東亜戦争を肯定し、全面的に加担し、積極的に応援したご本人の立場との整合性はいったいどうなるのだろう。
結局は自分ひとりが賢くて優秀で、自分以外の日本および日本人はすべて阿呆であったとでも言いたいのだろうか? しかも日本がこの史上最悪の戦争に突入したすべての原因は、鬼畜米英と悪辣非道なソ連の陰謀にあり、わが帝国の落ち度は皆無であると他方では断言するのだから何をかいわんや。己の過去の言動を正当化する不敵な物言いとしか思えない。もしこの人が存命ならば己と帝国の無謬に乗っかったまんまで次の戦争の準備をするだろう。
しかし後半の「百敗院泡沫頑蘇居士」と題する失敗に満ち満ちた半生の記は、伊藤、井上、松方、大隈、陸奥などとの交友や人物像、東武グループの総帥根津嘉一郎の陰謀によって手塩にかけた国民新聞を追われたいきさつなどを赤裸々に描いてじつに興味深い。
また本書の執筆当時に急激に進行しつつあった米ソ冷戦の初期の動向の観察の鋭さ、その後の世界予測の正確さは、94年の生涯をしたたかに生き抜いた硬骨漢の真骨頂をものの見事に表現しているようだ。
♪ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い
♪高窓の光のどけき冬の朝妻と並んで抜き手切りたり
徳富蘇峰は1863年熊本生まれで福沢の慶応を嫌って京都に出て新島襄の同志社に学び、1887年に民友社を設立して「国民之友」「国民新聞」などの有力メデイアを発行しいわゆる平民主義を唱道した。
明治、大正、昭和の3代を生き延びた言論人にして政治家の彼は、戦時中は大日本文学報国会会長、大日本言論報国会会長をつとめ、その天皇中心主義を生涯にわたって貫いた。
いわば筋金入りの保守であるが、言論人兼政治家という点では最近の読売社主兼主筆兼3流暗躍政治家のナベツネ、あるいはその先々代の正力と同類項の言行一致型の策士である。不仲であった松方、大隈の両領収手を握らせ、念願の松隈内閣を誕生させた影の立役者こそ誰あろう国民新聞社主の蘇峰だった。
蘇峰のみならず明治の御世には、尾崎行雄、犬養毅、子規の恩人日本新聞の陸羯南をはじめ数多くの新聞記者や社主が政界に進出し、彼らの理想を実行に移そうとしていたのである。平成の御世に生きる一新聞社主が自民民主両政党の連合を企むことはそのアイデアがいかに虚妄であろうともそれをやってはいけないと誰もいうことはできない。しかし彼奴がワンワン吼えても歴史は勝手に動くだけの話だ。
さてその蘇峰が書き継いだ日記「頑蘇夢物語」の完結編「終戦後日記」が本書である。日記といっても当時蘇峰は巣鴨に収容こそされなかったが立派なA級戦犯であり、進駐軍によって監視されていたから外部には公開されないままについに今日に至ったいわくつきの日記である。
本書の前半で、著者はなぜ日本が過ぐる大戦に敗れたか執拗に自問し、自答している。蘇峰が挙げるのはまずは人物の欠乏で、上は恐れ多くも明治天皇と昭和天皇、下は桂と東條、海軍の東郷平八郎と山本五十六、陸軍の大山、児玉と山下、板垣などの人物の出来具合を月旦する。
次はルーズベルトやチャーチル、スターリン、蒋介石とわが帝国首脳のスケールの大小、さらにわが帝国の東亜民族指導の資格欠如、大和民族の先天的後天的欠陥、戦争の構想の欠落、満州から中華事変への暴走起点となった盧溝橋事件の処理方法に言及し、中国の真価を知らずに蔑視して突入した支那事変を「世界戦史上最愚劣の戦争」であったと決め付ける。
ユダヤ人と並びおよそ世界で最強の漢民族と事を構えたわが帝国の無謀と愚劣を痛罵してやまないのだが、ではかつての日清、日露と同様にわが帝国の命運を賭けた大東亜戦争を肯定し、全面的に加担し、積極的に応援したご本人の立場との整合性はいったいどうなるのだろう。
結局は自分ひとりが賢くて優秀で、自分以外の日本および日本人はすべて阿呆であったとでも言いたいのだろうか? しかも日本がこの史上最悪の戦争に突入したすべての原因は、鬼畜米英と悪辣非道なソ連の陰謀にあり、わが帝国の落ち度は皆無であると他方では断言するのだから何をかいわんや。己の過去の言動を正当化する不敵な物言いとしか思えない。もしこの人が存命ならば己と帝国の無謬に乗っかったまんまで次の戦争の準備をするだろう。
しかし後半の「百敗院泡沫頑蘇居士」と題する失敗に満ち満ちた半生の記は、伊藤、井上、松方、大隈、陸奥などとの交友や人物像、東武グループの総帥根津嘉一郎の陰謀によって手塩にかけた国民新聞を追われたいきさつなどを赤裸々に描いてじつに興味深い。
また本書の執筆当時に急激に進行しつつあった米ソ冷戦の初期の動向の観察の鋭さ、その後の世界予測の正確さは、94年の生涯をしたたかに生き抜いた硬骨漢の真骨頂をものの見事に表現しているようだ。
♪ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い
♪高窓の光のどけき冬の朝妻と並んで抜き手切りたり
Tuesday, December 18, 2007
NHKは大好きなのですが、N響が
♪音楽千夜一夜第29回
先日の「第9」公演では、近くに座った中年男が演奏中にさかんに巨大な望遠レンズをつけたキャメラで舞台を撮影していました。鎌倉の芸術観ではよく頑是無い赤子を泣かす若い母親がいたり、いびきを立てて爆睡するリーマンがいたりしますが、東京では演奏中に携帯で会話する聴衆が後をたたず、マーラーの9番の消えゆく余韻を会場のみんながかみ締めようとした瞬間、突然狂ったようなウラアの蛮声を浴びせかける体育会系男が出没するのみならず、最近は客同士が乱闘したり演奏中に交尾するカプルまで出現したという話を聞くので、私は極力演奏現場から遠ざかってクラシックの演奏を録音や録画を楽しむことが多いのです。
前にも書いたように「NHK大好き人間」の私は、当然NHK交響楽団の演奏を視聴する機会が多いのですが、それにしても昔ながらに相変わらずなんと退屈でつまらない演奏が延々と続いていることでせう。
ケント・ナガノとか準メルクルなぞの日系の若者についてはこれまでは多少応援しながら聞いておりましたが、浦和の闘莉王の素晴らしい仕事ぶりに比べたらまるで月とスッポン、比較の対象ですらなく、さんざん聞いた私が馬鹿だった。もうとうに彼らの将来はあきらめております。
以前の首席のシャルル・デユトワさんも、首になったモントリオールのオケとデッカに入れたフランス音楽の光彩陸離の演奏があまりにも素晴らしかったので大いに期待していたのですが、音響最悪巨砲ホールでのあまりにも空虚な演奏は(最初と最後とその中間の元妻との競演を除いて)いちじるしく精彩を欠き、その跡を継いだアッシュケナダ氏は、力余ってルイ14世の宮廷楽長リュリのように指揮棒で右手を刺し貫いたときには、これからどう大器晩成してくれるかと一抹の不安とともにこれまた大きな期待を小さなこの胸に懐いた次第ですが、やはりその不安が現実のものとなり、哀れ安部首相ともどもシドニー響に転出となった模様です。
彼はバレンボイムと違って指揮よりピアノがやはり本領だったようですね。いっそプレトニコフかロジャー・ノリントンを招くという手もあるかと思ったのですが、アシュケにこりた当局はもはや首席をおかないことにしたようです。
ロバの耳を持つ私には、スクロバチエフスキー(読響にいった)もプレビンもマリナーもつまらなかったし、多少ともましなのはでぶでぶネルロー・サンティさんくらいでせうか。
それにしても近年N響に客演する多くの指揮者たちによる演奏を聞いて感じられることは、彼らの多くが、音楽ではなくて音符を精密機械のように音響工学的に、オートクチュールではなくてプレタポルテ風に、四輪の運転マニュアルのように安直に演奏しているように感ぜられることです。
それは確かに楽譜どおりの演奏なのでせう。しかしながら私個人にとっては音楽的感興に打ち震える瞬間なぞは微塵もないのがとても残念です。だから愛する超ローカルオケ鎌響にせっせと通っているのです。
蓼食う虫も好きずきとはいえ、高いお金を払いながらあの紅白歌合戦ホールに毎月通い続ける定期会員の方々の心根が、私にはてんで理解できまへん。
♪その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる 亡羊
先日の「第9」公演では、近くに座った中年男が演奏中にさかんに巨大な望遠レンズをつけたキャメラで舞台を撮影していました。鎌倉の芸術観ではよく頑是無い赤子を泣かす若い母親がいたり、いびきを立てて爆睡するリーマンがいたりしますが、東京では演奏中に携帯で会話する聴衆が後をたたず、マーラーの9番の消えゆく余韻を会場のみんながかみ締めようとした瞬間、突然狂ったようなウラアの蛮声を浴びせかける体育会系男が出没するのみならず、最近は客同士が乱闘したり演奏中に交尾するカプルまで出現したという話を聞くので、私は極力演奏現場から遠ざかってクラシックの演奏を録音や録画を楽しむことが多いのです。
前にも書いたように「NHK大好き人間」の私は、当然NHK交響楽団の演奏を視聴する機会が多いのですが、それにしても昔ながらに相変わらずなんと退屈でつまらない演奏が延々と続いていることでせう。
ケント・ナガノとか準メルクルなぞの日系の若者についてはこれまでは多少応援しながら聞いておりましたが、浦和の闘莉王の素晴らしい仕事ぶりに比べたらまるで月とスッポン、比較の対象ですらなく、さんざん聞いた私が馬鹿だった。もうとうに彼らの将来はあきらめております。
以前の首席のシャルル・デユトワさんも、首になったモントリオールのオケとデッカに入れたフランス音楽の光彩陸離の演奏があまりにも素晴らしかったので大いに期待していたのですが、音響最悪巨砲ホールでのあまりにも空虚な演奏は(最初と最後とその中間の元妻との競演を除いて)いちじるしく精彩を欠き、その跡を継いだアッシュケナダ氏は、力余ってルイ14世の宮廷楽長リュリのように指揮棒で右手を刺し貫いたときには、これからどう大器晩成してくれるかと一抹の不安とともにこれまた大きな期待を小さなこの胸に懐いた次第ですが、やはりその不安が現実のものとなり、哀れ安部首相ともどもシドニー響に転出となった模様です。
彼はバレンボイムと違って指揮よりピアノがやはり本領だったようですね。いっそプレトニコフかロジャー・ノリントンを招くという手もあるかと思ったのですが、アシュケにこりた当局はもはや首席をおかないことにしたようです。
ロバの耳を持つ私には、スクロバチエフスキー(読響にいった)もプレビンもマリナーもつまらなかったし、多少ともましなのはでぶでぶネルロー・サンティさんくらいでせうか。
それにしても近年N響に客演する多くの指揮者たちによる演奏を聞いて感じられることは、彼らの多くが、音楽ではなくて音符を精密機械のように音響工学的に、オートクチュールではなくてプレタポルテ風に、四輪の運転マニュアルのように安直に演奏しているように感ぜられることです。
それは確かに楽譜どおりの演奏なのでせう。しかしながら私個人にとっては音楽的感興に打ち震える瞬間なぞは微塵もないのがとても残念です。だから愛する超ローカルオケ鎌響にせっせと通っているのです。
蓼食う虫も好きずきとはいえ、高いお金を払いながらあの紅白歌合戦ホールに毎月通い続ける定期会員の方々の心根が、私にはてんで理解できまへん。
♪その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる 亡羊
Monday, December 17, 2007
下手な小説のような松木武彦著「列島創世記」を読む。
照る日曇る日 第78回
石器時代から縄文、弥生、そして古墳時代に入るまでの、のちに日本列島と呼ばれることになる地域の歴史物語が、本書である。
あえて物語と書いたのは、この本が単なる石器や土器やらの物理的資料本位の考古学&歴史学概説にとどまることなく、「ヒューマン・サイエンス」とかいう現在欧米の人類学、経済学、歴史学などで大流行の最新型の学説を援用して、この父祖未生以前の時代の来歴について大胆な推理と解釈を施しているからである。
旧態依然とした考古学の分野に、人工物や行動や社会の本質を「心の科学」(認知考古学)によって見極め、その変化のメカニズムを真に迫って描き出そうという若き学徒の言うやよし。さいかしいざ読んでみると、「人間みな人類、我々はみなホモ・サピエンスの末裔であるからして、その心性は15万年間にわたって普遍的である」、と暗に仮定し、「新人も現代人もさぞや同じ知性と感性の働きをするに違いない」、という証明不能の粗放な科学的立場から、大昔の人々の生活と意見をさながら小説のように奔放に語るので迷惑する。
どだい嘘か真か誰にも分からぬ話を、その道の専門家から、いかにも本当でござい、としかつめらしくしゃべられても、こちとらは「ははあ、さようでございますか」、と黙って拝聴するほかないのである。
具体的には、著者は縄文や弥生の時代ごと、地域ごとに「物質文化」の変化の波が現れ、それは土器の過度の修飾などの人工物に「凝り」が盛り込まれる方向性に現れ、その方向性を読み取ると当時個人と集団のどちらのアイデンティティをより強く表現していたかが科学的に解明できる、とかなんとか講釈するのだが、私のみるところではそれこそ跡付けの見てきたような思い付きと主観的な思い込みと想像と予断の積み重ねに過ぎない。せめてそれぞれの講釈の根拠となった資料や引用箇所を網野氏のようにちゃんとそのつど表示してもらいたいものだ。
しかし梅原猛や網野善彦や岡本太郎や和辻哲郎などの思い付きと主観的な思い込みと想像と予断を笑って許せた私だが、著者のそれにはなかなか素直にうなずけなかったのはどちらの人(にん)の出来の所為だらうか。
ただひとつ確かなこと。それは著者もいうように、列島には約4万年前から1500年前までの間に列島が寒冷化していく時期が2回あり、(①第一寒冷化期=後期旧石器後半の約2万年前まで、②第一温暖化期=後期旧石器後半から縄文前期、約2万年前から7千、6千年前まで、③第2寒冷化期=縄文前期から晩期、7千、6千年前から2800、2700年前まで、④第2温暖化期=弥生前半2800、2700年前から紀元前後まで、⑤第三寒冷化期=弥生後半から古墳時代を経て奈良時代後半の紀元前後から後8世紀末ごろまで)この気候変動こそが、現代と同様、列島史を動かした最大の要因であるということだ。
♪脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか
石器時代から縄文、弥生、そして古墳時代に入るまでの、のちに日本列島と呼ばれることになる地域の歴史物語が、本書である。
あえて物語と書いたのは、この本が単なる石器や土器やらの物理的資料本位の考古学&歴史学概説にとどまることなく、「ヒューマン・サイエンス」とかいう現在欧米の人類学、経済学、歴史学などで大流行の最新型の学説を援用して、この父祖未生以前の時代の来歴について大胆な推理と解釈を施しているからである。
旧態依然とした考古学の分野に、人工物や行動や社会の本質を「心の科学」(認知考古学)によって見極め、その変化のメカニズムを真に迫って描き出そうという若き学徒の言うやよし。さいかしいざ読んでみると、「人間みな人類、我々はみなホモ・サピエンスの末裔であるからして、その心性は15万年間にわたって普遍的である」、と暗に仮定し、「新人も現代人もさぞや同じ知性と感性の働きをするに違いない」、という証明不能の粗放な科学的立場から、大昔の人々の生活と意見をさながら小説のように奔放に語るので迷惑する。
どだい嘘か真か誰にも分からぬ話を、その道の専門家から、いかにも本当でござい、としかつめらしくしゃべられても、こちとらは「ははあ、さようでございますか」、と黙って拝聴するほかないのである。
具体的には、著者は縄文や弥生の時代ごと、地域ごとに「物質文化」の変化の波が現れ、それは土器の過度の修飾などの人工物に「凝り」が盛り込まれる方向性に現れ、その方向性を読み取ると当時個人と集団のどちらのアイデンティティをより強く表現していたかが科学的に解明できる、とかなんとか講釈するのだが、私のみるところではそれこそ跡付けの見てきたような思い付きと主観的な思い込みと想像と予断の積み重ねに過ぎない。せめてそれぞれの講釈の根拠となった資料や引用箇所を網野氏のようにちゃんとそのつど表示してもらいたいものだ。
しかし梅原猛や網野善彦や岡本太郎や和辻哲郎などの思い付きと主観的な思い込みと想像と予断を笑って許せた私だが、著者のそれにはなかなか素直にうなずけなかったのはどちらの人(にん)の出来の所為だらうか。
ただひとつ確かなこと。それは著者もいうように、列島には約4万年前から1500年前までの間に列島が寒冷化していく時期が2回あり、(①第一寒冷化期=後期旧石器後半の約2万年前まで、②第一温暖化期=後期旧石器後半から縄文前期、約2万年前から7千、6千年前まで、③第2寒冷化期=縄文前期から晩期、7千、6千年前から2800、2700年前まで、④第2温暖化期=弥生前半2800、2700年前から紀元前後まで、⑤第三寒冷化期=弥生後半から古墳時代を経て奈良時代後半の紀元前後から後8世紀末ごろまで)この気候変動こそが、現代と同様、列島史を動かした最大の要因であるということだ。
♪脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか
Sunday, December 16, 2007
♪日本語で歌う「第9」演奏会を聴く
♪音楽千夜一夜第29回
最近ドイツの長老指揮者ハンス・マルチン・シュナイトを音楽監督に迎え、人気、実力とも赤丸上昇中のオケなのでとても期待していたのだが、結果は見るも、じゃなくて聴くも無残なものだった。
冒頭の「エグモント序曲」で最初の野太い音が出たとき、「ああ、さすがはプロだ。いつもの鎌響とはさすがに違う骨のある音作りだなあ」、と感嘆したのだが、うれしい驚きはそこまでだった。
あとはまるで中学校のブラバン(中学生とブラスバンドには大変申し訳ないのですがものの譬えなのでご勘弁を)のように健康的で、陽気で、元気で、単細胞な音楽が延々と続けられたのだった。
その演奏は精緻なダイナミクスの計算がなく、音色の繊細さや音楽の光と影の交錯に乏しく、それでいて正確無比で、細部が異常なまでに磨きぬかれ、私が評価しない、あるいはできない小沢やサバリッツシュやブロムシュテットやオーマンディやムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の音楽作りに似ている。
例えば第9のもっとも美しい第3楽章では、なんの叙情も音色の自己耽美もなく音は国道1号線を疾駆するダンプカーのように走りすぎ、最終楽章のはじめのところで、チェロとコントラバスがひそやかに歌い始めた美しい「歓喜の歌」のメロディが2丁のバスーンなどによって同伴される箇所などは、凡庸な指揮者の演奏でも思わず息を呑まずにはいられない霊妙な音楽的佳境の瞬間であるはずなのに、彼ら演奏者は格別の思い入れもなく、淡々と通過してしまう。
それに続くバリトンの第1声がドイツ語ではなく、「わが友よ、歌うならもっと快い歌を歌おう!」という翻訳のゆるい日本語であったのには驚いたが、演奏自体はもはや私にとってなんの感動も伴わず、知性の陰りや理性のひらめきはおろか、ひとかけらの霊感すら天上から降臨しないまま、能天気な音符たちが1時間以上もえっちらおらっち眼前を軍隊行進していき、気がつけばすべてが終わってしまっていたのだった。
最初の「エグモント序曲」で野太い音が出たと書いたが、この音は20年以上も前に愛聴した新星日響の音だと演奏中に気がつき、あとで現田茂夫という指揮者の経歴を調べたらはしなくもこのオケの出身者であった。
あのころの新星日響はコンサートマスターをウイーンフィルのヘッツエルのように不慮の事故で失い、その悲しみを消去しようと毎回それこそ松脂から炎の出るような全都随一の激烈で悲愴な音楽をやっていたが、あれから四半世紀を経ていまや中堅の域に達したこの指揮者になんら進歩の形跡がないことに気づいた私は、「にんげんそう簡単に変わるもんじゃあないぞ」の思いを新たにしたことだった。
私は音楽の生命が光り輝く精霊の森に分け入りたかったのに、案内されたのは鳥も花も死んだ冷たい化石の森だった。嗚呼、冷感症の自称音楽家たちによってずたずたに傷つけられたベートーベンの名曲よ! こんな演奏は悪魔にでも食われてしまえ!と(私だけは)心の中で呪ったことであったよ。
老婆心ながらこれからベートーベンを演奏しようと思う若い人は、間違っても小沢など斉藤秀雄ゆかりの教師につかず、古い図書館の地下室に眠っているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を開いてほしい。そしてそのなかで、主人公の少年が生まれて初めて彼の交響曲のライブを耳にした瞬間に彼の魂を震撼させた音楽の圧倒的な素晴らしさ、また音楽が人生を変えることの恐ろしさ、その無上の快楽と毒性について知ってから指揮棒(楽器)を手にしてもらいたいものである。
指揮 現田茂夫 演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
独唱
ソプラノ 亀田真由美
アルト 稲本まき子
テノール 小林彰英
バリトン 末吉利行
合唱 日本語で歌う「第9」2007合唱団
会場 鎌倉芸術館
♪グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ
最近ドイツの長老指揮者ハンス・マルチン・シュナイトを音楽監督に迎え、人気、実力とも赤丸上昇中のオケなのでとても期待していたのだが、結果は見るも、じゃなくて聴くも無残なものだった。
冒頭の「エグモント序曲」で最初の野太い音が出たとき、「ああ、さすがはプロだ。いつもの鎌響とはさすがに違う骨のある音作りだなあ」、と感嘆したのだが、うれしい驚きはそこまでだった。
あとはまるで中学校のブラバン(中学生とブラスバンドには大変申し訳ないのですがものの譬えなのでご勘弁を)のように健康的で、陽気で、元気で、単細胞な音楽が延々と続けられたのだった。
その演奏は精緻なダイナミクスの計算がなく、音色の繊細さや音楽の光と影の交錯に乏しく、それでいて正確無比で、細部が異常なまでに磨きぬかれ、私が評価しない、あるいはできない小沢やサバリッツシュやブロムシュテットやオーマンディやムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の音楽作りに似ている。
例えば第9のもっとも美しい第3楽章では、なんの叙情も音色の自己耽美もなく音は国道1号線を疾駆するダンプカーのように走りすぎ、最終楽章のはじめのところで、チェロとコントラバスがひそやかに歌い始めた美しい「歓喜の歌」のメロディが2丁のバスーンなどによって同伴される箇所などは、凡庸な指揮者の演奏でも思わず息を呑まずにはいられない霊妙な音楽的佳境の瞬間であるはずなのに、彼ら演奏者は格別の思い入れもなく、淡々と通過してしまう。
それに続くバリトンの第1声がドイツ語ではなく、「わが友よ、歌うならもっと快い歌を歌おう!」という翻訳のゆるい日本語であったのには驚いたが、演奏自体はもはや私にとってなんの感動も伴わず、知性の陰りや理性のひらめきはおろか、ひとかけらの霊感すら天上から降臨しないまま、能天気な音符たちが1時間以上もえっちらおらっち眼前を軍隊行進していき、気がつけばすべてが終わってしまっていたのだった。
最初の「エグモント序曲」で野太い音が出たと書いたが、この音は20年以上も前に愛聴した新星日響の音だと演奏中に気がつき、あとで現田茂夫という指揮者の経歴を調べたらはしなくもこのオケの出身者であった。
あのころの新星日響はコンサートマスターをウイーンフィルのヘッツエルのように不慮の事故で失い、その悲しみを消去しようと毎回それこそ松脂から炎の出るような全都随一の激烈で悲愴な音楽をやっていたが、あれから四半世紀を経ていまや中堅の域に達したこの指揮者になんら進歩の形跡がないことに気づいた私は、「にんげんそう簡単に変わるもんじゃあないぞ」の思いを新たにしたことだった。
私は音楽の生命が光り輝く精霊の森に分け入りたかったのに、案内されたのは鳥も花も死んだ冷たい化石の森だった。嗚呼、冷感症の自称音楽家たちによってずたずたに傷つけられたベートーベンの名曲よ! こんな演奏は悪魔にでも食われてしまえ!と(私だけは)心の中で呪ったことであったよ。
老婆心ながらこれからベートーベンを演奏しようと思う若い人は、間違っても小沢など斉藤秀雄ゆかりの教師につかず、古い図書館の地下室に眠っているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を開いてほしい。そしてそのなかで、主人公の少年が生まれて初めて彼の交響曲のライブを耳にした瞬間に彼の魂を震撼させた音楽の圧倒的な素晴らしさ、また音楽が人生を変えることの恐ろしさ、その無上の快楽と毒性について知ってから指揮棒(楽器)を手にしてもらいたいものである。
指揮 現田茂夫 演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
独唱
ソプラノ 亀田真由美
アルト 稲本まき子
テノール 小林彰英
バリトン 末吉利行
合唱 日本語で歌う「第9」2007合唱団
会場 鎌倉芸術館
♪グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ
Saturday, December 15, 2007
坂口弘著「常しへの道」を読む
照る日曇る日 第77回
1972年2月19日のあさま山荘事件で警察官2名、民間人1名が射殺され、同年3月に群馬県の山林で12人、千葉県で2人のリンチ殺人が行なわれた。そしてこのすべての事件に直接かかわっていた坂口弘の2番目の歌集が、この「常しへの道」である。
その題名は、旧約聖書詩篇49章9節の「魂を購う価は高く、とこしえに、払い終えることはない」によっている。
坂口は、たしかにリンチに加担した。
途方もなきわれらの事件よ
主導者の独りよがりも
桁外れなりき
年雨量の三分の一が降れる日よ
銃撃ちまくれる
かの日思えり
腫れ上がる顔面といふより
膨れ上がる顔面といふべし
リンチの凄惨
坂口は、とても生真面目な性格の持ち主である。
新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国
人の為ししことにて
解けぬ謎なしと
信じて事件の解明をする
指導部の一員なれば
その罪を
組織に代わり負うべきと知る
坂口は、日々死におびえる死刑囚である。
おそらくは
妻子と離縁をせしならむ
苗字を変へて執行されたり
執行のありしこと知り
下痢をしぬ
くそ垂れ流し曳かるるはこれか
望みなき
わが人生の終点に
転車台のごときものはあらぬか
坂口には、愛する家族がある。
明日もしお迎えあれば
今際なる父の食みしごと
林檎食みたし
これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる
また坂口は、啄木を愛する詩人である。
気配せる
闇の外の面に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃きなり
屋上へ運動に行かむ
梅雨なれば
綾瀬川の水匂ひもすらむ
知らぬまに花茎を伸ばし
ふいに立つ
死神のごと彼岸花咲く
しかし坂口には、まだいうべきことがある。
かの武闘を
論外なりと言われしが
核心を衝く批判はされざりき
坂口の
死刑執行がまだされずと
不満を佐々氏が述べてゐるなり
死刑ゆえに
澄める心になるという
そこまでせねば澄めぬか人は
悪党といふ他はなき男はや
絞首刑されよ
とまでは言はずも
そして坂口は、昔のわたしに少し似ている。
演説のできぬ
左翼にありしかど
焚き付くるほどの怒りもなかりき
♪一日一恕の幸せを君に 亡羊
1972年2月19日のあさま山荘事件で警察官2名、民間人1名が射殺され、同年3月に群馬県の山林で12人、千葉県で2人のリンチ殺人が行なわれた。そしてこのすべての事件に直接かかわっていた坂口弘の2番目の歌集が、この「常しへの道」である。
その題名は、旧約聖書詩篇49章9節の「魂を購う価は高く、とこしえに、払い終えることはない」によっている。
坂口は、たしかにリンチに加担した。
途方もなきわれらの事件よ
主導者の独りよがりも
桁外れなりき
年雨量の三分の一が降れる日よ
銃撃ちまくれる
かの日思えり
腫れ上がる顔面といふより
膨れ上がる顔面といふべし
リンチの凄惨
坂口は、とても生真面目な性格の持ち主である。
新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国
人の為ししことにて
解けぬ謎なしと
信じて事件の解明をする
指導部の一員なれば
その罪を
組織に代わり負うべきと知る
坂口は、日々死におびえる死刑囚である。
おそらくは
妻子と離縁をせしならむ
苗字を変へて執行されたり
執行のありしこと知り
下痢をしぬ
くそ垂れ流し曳かるるはこれか
望みなき
わが人生の終点に
転車台のごときものはあらぬか
坂口には、愛する家族がある。
明日もしお迎えあれば
今際なる父の食みしごと
林檎食みたし
これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる
また坂口は、啄木を愛する詩人である。
気配せる
闇の外の面に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃きなり
屋上へ運動に行かむ
梅雨なれば
綾瀬川の水匂ひもすらむ
知らぬまに花茎を伸ばし
ふいに立つ
死神のごと彼岸花咲く
しかし坂口には、まだいうべきことがある。
かの武闘を
論外なりと言われしが
核心を衝く批判はされざりき
坂口の
死刑執行がまだされずと
不満を佐々氏が述べてゐるなり
死刑ゆえに
澄める心になるという
そこまでせねば澄めぬか人は
悪党といふ他はなき男はや
絞首刑されよ
とまでは言はずも
そして坂口は、昔のわたしに少し似ている。
演説のできぬ
左翼にありしかど
焚き付くるほどの怒りもなかりき
♪一日一恕の幸せを君に 亡羊
Friday, December 14, 2007
ある丹波の女性の物語 第34回 敗戦
遥かな昔、遠い所で第56回
8月15日正午の終戦の放送は、ほんとにホットして開放されたという思いがした。
灯火管制がなくなり、明るい電灯の下で、晴れがましいような思いで夕食を食べた。
その記憶はこの間のように、ハッキリ思い出す事が出来るのに、その前後の事は、突然フイルムが切れて、何コマかがとんでしまったように思い出す事が出来ない。
東京で一人で病んでいた夫を、父が迎えに行った事、大阪への転勤が決まり一時、東京の荷物を京都まで運び、その後綾部へ戻した事等が、どんな順序で、いつ行われたのか、どうしても思い出す事が出来ないのは、どうした事なのだろう。
無我夢中の言葉をそのままに、とにかく長男を加えて、父、継母、夫、私の5人の、今までとは全然ちがった生活が始まったのである。
そして食糧難時代もいよいよ本番を迎えた。食糧の配給はおくれながらも続けられたが、バケツ一杯の砂糖であったり、とうもろこし粉であったり、今までの主食の観念をまるきりかえてしまうような事もあった。
それでも戦争に負けたのに、何の危害も加えられず、いままでの敵国から食糧が配給され、無事に日常生活が出来た事を、だれもが一応は感謝していた。
♪拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
花を見つけぬ 紫つゆくさ
♪拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
ひそやかに咲く むらさきつゆくさ
8月15日正午の終戦の放送は、ほんとにホットして開放されたという思いがした。
灯火管制がなくなり、明るい電灯の下で、晴れがましいような思いで夕食を食べた。
その記憶はこの間のように、ハッキリ思い出す事が出来るのに、その前後の事は、突然フイルムが切れて、何コマかがとんでしまったように思い出す事が出来ない。
東京で一人で病んでいた夫を、父が迎えに行った事、大阪への転勤が決まり一時、東京の荷物を京都まで運び、その後綾部へ戻した事等が、どんな順序で、いつ行われたのか、どうしても思い出す事が出来ないのは、どうした事なのだろう。
無我夢中の言葉をそのままに、とにかく長男を加えて、父、継母、夫、私の5人の、今までとは全然ちがった生活が始まったのである。
そして食糧難時代もいよいよ本番を迎えた。食糧の配給はおくれながらも続けられたが、バケツ一杯の砂糖であったり、とうもろこし粉であったり、今までの主食の観念をまるきりかえてしまうような事もあった。
それでも戦争に負けたのに、何の危害も加えられず、いままでの敵国から食糧が配給され、無事に日常生活が出来た事を、だれもが一応は感謝していた。
♪拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
花を見つけぬ 紫つゆくさ
♪拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
ひそやかに咲く むらさきつゆくさ
Thursday, December 13, 2007
ある丹波の女性の物語 第33回 戦後、幼い子供達
遥かな昔、遠い所で第55回
昭和19年に入るとあらゆる物が統制になり、店の営業は殆ど出来なくなってきた。これからは食べる事だけのために生きているという時代になったのである。
綾部のような田舎でも灯火管制が行われ、町内会で防空壕を掘り、飛行機の燃料にと、男の人達の松根堀りの奉仕作業も始まった。
20年に入ると都会の空襲は激しくなり、舞鶴の軍事施設も爆撃されて、綾部からも夜空に燃えさかる火の手が見られるようになった。
私は毎晩、赤ん坊の長男をいつでも背負って逃げられるよう、枕元に衣類や負い紐を用意して寝たものである。
貸していた畑を返してもらい、春にはじゃが芋を植えた。父と二人でじゃが芋の芽を切り分け、灰をつけるのであるが、何分馴れぬ事で、二百坪の畑の畝に適当に並べているうちに日が暮れてしまい、土をかぶせるのは又明朝という事にして帰った。
夕食もすみ、お風呂に薪をもやしていると戸をたたく音がする。畑の近くの人がわざわざ自転車で「芋は上に土をかぶさないと芽がでませんよ」と知らせにきて来れたのである。親切は嬉しかったが、父と大笑いした。
♪炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
♪弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
おとないくれし 日もまだあさきに
昭和19年に入るとあらゆる物が統制になり、店の営業は殆ど出来なくなってきた。これからは食べる事だけのために生きているという時代になったのである。
綾部のような田舎でも灯火管制が行われ、町内会で防空壕を掘り、飛行機の燃料にと、男の人達の松根堀りの奉仕作業も始まった。
20年に入ると都会の空襲は激しくなり、舞鶴の軍事施設も爆撃されて、綾部からも夜空に燃えさかる火の手が見られるようになった。
私は毎晩、赤ん坊の長男をいつでも背負って逃げられるよう、枕元に衣類や負い紐を用意して寝たものである。
貸していた畑を返してもらい、春にはじゃが芋を植えた。父と二人でじゃが芋の芽を切り分け、灰をつけるのであるが、何分馴れぬ事で、二百坪の畑の畝に適当に並べているうちに日が暮れてしまい、土をかぶせるのは又明朝という事にして帰った。
夕食もすみ、お風呂に薪をもやしていると戸をたたく音がする。畑の近くの人がわざわざ自転車で「芋は上に土をかぶさないと芽がでませんよ」と知らせにきて来れたのである。親切は嬉しかったが、父と大笑いした。
♪炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
♪弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
おとないくれし 日もまだあさきに
Wednesday, December 12, 2007
ソープオペラ
♪バガテルop31&♪音楽千夜一夜第28回
さてお立会い。水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちしょんべん……
では皆さん、ここで小粋な住宅について考えてみると、縄文時代の早期はほとんど円形または楕円で、後期になると四角、弥生時代には竪穴から平床で西部では床が付きはじめる。んで、わが国に大きな影響を与えた大陸文化には床つきの住宅はなく、床は稲作と結びついて南方から入ってきた。平安初期までのお寺は土間に仏を祭っていた。しかし弥生中期に日本に渡来し国家統一を行なった北方系の……。
♪たりり、たら、たらん。
頭の中で鈴が鳴る。
毎日毎日くだらない事件ばかりが続く。もういい加減にしてくれええ……
いきなり洪水のような下痢が一晩中続いたり、家族がそれに感染したり、でも面白くもない毎日を面白う住みなすことが人生だったりする、と高杉氏も遺言していたりするし、「たり」は繰り返して使います、とアホバカウインドウズが狂ったように警告したりするので、アホバカとは何ぞやとつらつら考えてみたりすると、馬を呼んでは鹿と呼んだり、鹿を呼んでは馬というたりすることらしいから、いよいよおいらはバガテル人間だあ。
ところで最近巷で極左冒険主義新聞という噂の某夕陽新聞を読んでいたりしたら、フィンランドでは通行証のことを「クルクルパ」というたり、あのルワンダでは唐辛子のことを「ウルセエンダ」と呼んだりするらしいので、おいらはフィガロの結婚の1幕だか2幕だかで誰かが「タスカリマシタ」と日本語で叫んだりしているのがいつまでも耳を離れなかった。
さて本日の結論
およそ現代のご立派な議論にあって、最後に誰かが「so what?」 と反問して一挙に崩壊しない程度にご立派な理屈は存在しない。
♪たりり、たら、たらん。
わが余生よ 安かれ!
so what?
さてお立会い。水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちしょんべん……
では皆さん、ここで小粋な住宅について考えてみると、縄文時代の早期はほとんど円形または楕円で、後期になると四角、弥生時代には竪穴から平床で西部では床が付きはじめる。んで、わが国に大きな影響を与えた大陸文化には床つきの住宅はなく、床は稲作と結びついて南方から入ってきた。平安初期までのお寺は土間に仏を祭っていた。しかし弥生中期に日本に渡来し国家統一を行なった北方系の……。
♪たりり、たら、たらん。
頭の中で鈴が鳴る。
毎日毎日くだらない事件ばかりが続く。もういい加減にしてくれええ……
いきなり洪水のような下痢が一晩中続いたり、家族がそれに感染したり、でも面白くもない毎日を面白う住みなすことが人生だったりする、と高杉氏も遺言していたりするし、「たり」は繰り返して使います、とアホバカウインドウズが狂ったように警告したりするので、アホバカとは何ぞやとつらつら考えてみたりすると、馬を呼んでは鹿と呼んだり、鹿を呼んでは馬というたりすることらしいから、いよいよおいらはバガテル人間だあ。
ところで最近巷で極左冒険主義新聞という噂の某夕陽新聞を読んでいたりしたら、フィンランドでは通行証のことを「クルクルパ」というたり、あのルワンダでは唐辛子のことを「ウルセエンダ」と呼んだりするらしいので、おいらはフィガロの結婚の1幕だか2幕だかで誰かが「タスカリマシタ」と日本語で叫んだりしているのがいつまでも耳を離れなかった。
さて本日の結論
およそ現代のご立派な議論にあって、最後に誰かが「so what?」 と反問して一挙に崩壊しない程度にご立派な理屈は存在しない。
♪たりり、たら、たらん。
わが余生よ 安かれ!
so what?
Tuesday, December 11, 2007
ある丹波の女性の物語 第32回 継母
遥かな昔、遠い所で第54回
私は翌年10月出産と分かり、夫を東京に残し綾部へ帰った。9月はじめと思う。
綾部へ帰れば食糧は何とでもなると安心していた私は、留守中の夫の為に、私の移動申告をしないで帰ってきたのであるが、帰る早々お米の配給がもらえぬと継母に非難され、ひどく困った辛い思い出がある。
なくなった母なら、古い馴染みを通して食糧の確保も容易であったろうが、来たての継母にはむずかしかったにちがいない。産み月せまった私にはどうしょうもなく、片身せまくみじめな思いをした。我が家でこんな思いをと情けなかった。
其の後、父も食糧係りとなり色々カバーしてくれたが、父をめぐる子と後妻との関係は、今まで経験した事のない感情だけに、そのむずかしさを日毎に痛感した。
昭和19年10月16日、長男が誕生した。秋祭りの翌日早朝の事である。父の喜びはたとえようもなかった。私の3人の子供のうち一番華奢な体つきは胎内での食糧不足で致し方ないが、髪が長くて、女の子のような可愛らしい子であった。
夫は交通事情も大変むづかしくなっていたのに、等々力で2人で作った大きい大根を土産に帰ってきてくれた。
♪くちなしの うつむき匂う そのさがを
ゆかしと思ふ ともしと思ふ
(注「ともし」は面白いの意。)
♪おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
くちなし匂う 朝を迎うる
私は翌年10月出産と分かり、夫を東京に残し綾部へ帰った。9月はじめと思う。
綾部へ帰れば食糧は何とでもなると安心していた私は、留守中の夫の為に、私の移動申告をしないで帰ってきたのであるが、帰る早々お米の配給がもらえぬと継母に非難され、ひどく困った辛い思い出がある。
なくなった母なら、古い馴染みを通して食糧の確保も容易であったろうが、来たての継母にはむずかしかったにちがいない。産み月せまった私にはどうしょうもなく、片身せまくみじめな思いをした。我が家でこんな思いをと情けなかった。
其の後、父も食糧係りとなり色々カバーしてくれたが、父をめぐる子と後妻との関係は、今まで経験した事のない感情だけに、そのむずかしさを日毎に痛感した。
昭和19年10月16日、長男が誕生した。秋祭りの翌日早朝の事である。父の喜びはたとえようもなかった。私の3人の子供のうち一番華奢な体つきは胎内での食糧不足で致し方ないが、髪が長くて、女の子のような可愛らしい子であった。
夫は交通事情も大変むづかしくなっていたのに、等々力で2人で作った大きい大根を土産に帰ってきてくれた。
♪くちなしの うつむき匂う そのさがを
ゆかしと思ふ ともしと思ふ
(注「ともし」は面白いの意。)
♪おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
くちなし匂う 朝を迎うる
Monday, December 10, 2007
ある丹波の女性の物語 第31回 本郷、青山、銀座
遥かな昔、遠い所で第53回
日曜日には時々主人と共に本郷教会へ礼拝に出かけた。教会も階下は食糧倉庫になっており、礼拝を守る人数も少なくなっているので、会議室のような所で行われたが、安井てつ女史が黒紋付の羽織姿でいつも出席され、賛美歌の奏楽は大中寅二先生であった。
昼食は牧師夫人が用意してくださる事もあり、青山5丁目の長兄宅に立ち寄りご馳走にもなった。長兄の家の隣に土屋文明先生のお宅があり、急に身近な人のように感じた。
銀座へ廻る時もあったが、防空壕が出来るのか、舗道のところどころが掘り返されていた。綾部ではモンペ姿が通常であったが、道行く人は和服の着流しも多く、東京の人の方が余裕があるなとほっとしたが、レストランで出された大根葉のスープには驚いた。
夫の長姉の夫は海軍主計中将であったので、お祝い事で水交社へ招かれた事がある。ここばかりは昔ながらのフルコースである。まだこんな世界もあるのかと、これにも驚いた。
或る日突然雀部の父が出張で上京し、歌舞伎座へ私達夫婦を招待してくれた。出しものは「菊五郎の襲」と「羽左ェ門の勧進帳」であった。幕際で六法を踏む弁慶の姿が忘れられない。戦前の歌舞伎座で今はない名優の芝居を見た。数少ない東京での豪華な思い出である。
♪十両、千両、万両 花つける
我庭にまた 億両植うるよ
♪命得て ふたたび迎ふる あらたまの
年の始めを ことほぎまつる
日曜日には時々主人と共に本郷教会へ礼拝に出かけた。教会も階下は食糧倉庫になっており、礼拝を守る人数も少なくなっているので、会議室のような所で行われたが、安井てつ女史が黒紋付の羽織姿でいつも出席され、賛美歌の奏楽は大中寅二先生であった。
昼食は牧師夫人が用意してくださる事もあり、青山5丁目の長兄宅に立ち寄りご馳走にもなった。長兄の家の隣に土屋文明先生のお宅があり、急に身近な人のように感じた。
銀座へ廻る時もあったが、防空壕が出来るのか、舗道のところどころが掘り返されていた。綾部ではモンペ姿が通常であったが、道行く人は和服の着流しも多く、東京の人の方が余裕があるなとほっとしたが、レストランで出された大根葉のスープには驚いた。
夫の長姉の夫は海軍主計中将であったので、お祝い事で水交社へ招かれた事がある。ここばかりは昔ながらのフルコースである。まだこんな世界もあるのかと、これにも驚いた。
或る日突然雀部の父が出張で上京し、歌舞伎座へ私達夫婦を招待してくれた。出しものは「菊五郎の襲」と「羽左ェ門の勧進帳」であった。幕際で六法を踏む弁慶の姿が忘れられない。戦前の歌舞伎座で今はない名優の芝居を見た。数少ない東京での豪華な思い出である。
♪十両、千両、万両 花つける
我庭にまた 億両植うるよ
♪命得て ふたたび迎ふる あらたまの
年の始めを ことほぎまつる
Sunday, December 09, 2007
宮本常一著「なつかしい話」を読む
照る日曇る日 第76回
民俗学者の宮本常一が生前行なったいくつかの対談のアンソロジーでどこからでも読めて、どれも題名どおりに懐かしい気分につつまれるいわゆるひとつの「珠玉の名篇」である。
とりわけ面白いのは歴史家の和歌森太郎との幽霊対談で、実際には会ったことのない2人が仮想対談する仕組みもユニークだが、中身も面白い。
和歌森が網野と同様、いやもっと昔から化外の民や海民の重要性に言及しているところや、宮本が指摘する「山人の海民化」も興味深い。例えば古代のカモ部は、当初京都賀茂神社や大和葛城などの山中に住んでいたが、次第に瀬戸内海の島々などに降りてきたとか、長野県安曇の山民が滋賀県の安曇川などに降りていって海人部を宰領するようになったという。
「中世雑談」における宮本の「昭和25年の対馬では時計もなく、1日2食で、1日の時間としては朝と夜があるだけで昼がなかった」、時間の経過におそろしく無頓着だったという話も興味深い。わが国の大事な祭りはすべて夜であり、たいまつを焚き、夜を徹して行なわれるお神楽が終わって白々と夜が明けてくるその瞬間に、祖先は一期一会という言葉を実感したのではないかと説くのである。
さらに半農半漁の村でも漁業の民家はすべて田の字ではなく並列型であり、農業はすべて引き戸であるのに対して、後者ではしとみ戸であると指摘し、「衰弱した漁村」と見えるものもその実態は「陸上がりした漁業」であることを、その漁民の間取りに即して具体的に説明しているところには、柳田國男などの前頭葉偏重学者にはないきめ細かな観察と生きた思索の真価がよく示されている。
著者によれば、昔は夕方のいわゆる逢魔が時にはお互いに必ず挨拶をする慣わしがあった。もしも向こうがこちらの挨拶に答えてくれなければ、それは魔物だとされたそうだが、私などは最近朝比奈の峠で多くの魔物に遭遇したことになる。
では最後に、本書で紹介されているなつかしい昔話から、福島県の出稼ぎのをひとつ。
かかあが言うには、「おトト、おまえさん出稼ぎに行くともう半年も会わねいから」というてね朝っぱらから重なった。そしたらそこへ子供が出てきて「おトト、おカカ何してるんだて」。それでおカカ「バカ、トトは出稼ぎいぐんだいや。おまえはあっちいってろ」「あっちいってい、いうたってこんなせまいとこ、どこいくわな」「ニワトリ小屋いってえい」。子供はニワトリ小屋いった。そしたらニワトリもまたチョコンと重なっちもうた。子供たまげてとんできて「「トト、カカ、ニワトリも出稼ぎに行く!」一期ブラーンとさがった。
♪年毎に故人増えゆくアドレス帳
民俗学者の宮本常一が生前行なったいくつかの対談のアンソロジーでどこからでも読めて、どれも題名どおりに懐かしい気分につつまれるいわゆるひとつの「珠玉の名篇」である。
とりわけ面白いのは歴史家の和歌森太郎との幽霊対談で、実際には会ったことのない2人が仮想対談する仕組みもユニークだが、中身も面白い。
和歌森が網野と同様、いやもっと昔から化外の民や海民の重要性に言及しているところや、宮本が指摘する「山人の海民化」も興味深い。例えば古代のカモ部は、当初京都賀茂神社や大和葛城などの山中に住んでいたが、次第に瀬戸内海の島々などに降りてきたとか、長野県安曇の山民が滋賀県の安曇川などに降りていって海人部を宰領するようになったという。
「中世雑談」における宮本の「昭和25年の対馬では時計もなく、1日2食で、1日の時間としては朝と夜があるだけで昼がなかった」、時間の経過におそろしく無頓着だったという話も興味深い。わが国の大事な祭りはすべて夜であり、たいまつを焚き、夜を徹して行なわれるお神楽が終わって白々と夜が明けてくるその瞬間に、祖先は一期一会という言葉を実感したのではないかと説くのである。
さらに半農半漁の村でも漁業の民家はすべて田の字ではなく並列型であり、農業はすべて引き戸であるのに対して、後者ではしとみ戸であると指摘し、「衰弱した漁村」と見えるものもその実態は「陸上がりした漁業」であることを、その漁民の間取りに即して具体的に説明しているところには、柳田國男などの前頭葉偏重学者にはないきめ細かな観察と生きた思索の真価がよく示されている。
著者によれば、昔は夕方のいわゆる逢魔が時にはお互いに必ず挨拶をする慣わしがあった。もしも向こうがこちらの挨拶に答えてくれなければ、それは魔物だとされたそうだが、私などは最近朝比奈の峠で多くの魔物に遭遇したことになる。
では最後に、本書で紹介されているなつかしい昔話から、福島県の出稼ぎのをひとつ。
かかあが言うには、「おトト、おまえさん出稼ぎに行くともう半年も会わねいから」というてね朝っぱらから重なった。そしたらそこへ子供が出てきて「おトト、おカカ何してるんだて」。それでおカカ「バカ、トトは出稼ぎいぐんだいや。おまえはあっちいってろ」「あっちいってい、いうたってこんなせまいとこ、どこいくわな」「ニワトリ小屋いってえい」。子供はニワトリ小屋いった。そしたらニワトリもまたチョコンと重なっちもうた。子供たまげてとんできて「「トト、カカ、ニワトリも出稼ぎに行く!」一期ブラーンとさがった。
♪年毎に故人増えゆくアドレス帳
Saturday, December 08, 2007
ある丹波の女性の物語 第30回 等々力
遥かな昔、遠い所で第52回
父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。
私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。
等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。
綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。
東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。
銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。
♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
雀のさえづり 聞きてうれしも
♪次々と おとないくれし 子等の顔
やがては涙の 中に浮かびぬ
父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。
私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。
等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。
綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。
東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。
銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。
♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
雀のさえづり 聞きてうれしも
♪次々と おとないくれし 子等の顔
やがては涙の 中に浮かびぬ
Friday, December 07, 2007
ある丹波の女性の物語 第29回 谷中
遥かな昔、遠い所で第51回
父はその帰路、谷中の伯父の家へ連れて行ってくれた。そこは公然の秘密にはなっていたが、私の生母の兄の家であり、母の実家であった。
上野の下町から坂を上がって行くと全くの住宅地があった。玄関をあけると「ガラン、ガラン」と大きな音がして驚いた。玄関の足元から各種の時計や美術品がいっぱいに散らばって並べてあった。
まるで骨董屋である。洋服屋と聞いていたが、まるきりそれらしいものは見当たらぬ。よくは分からぬが、ウェストミンスターと言うのか大きな時計が5分とか10分おきに、ちがった響きのある音で時をきざむので、その美しい音色には魅せられた。
広い庭は草茫々。小川が流れ、陶器を焼く窯があった。手彫りのテーブルの上に手焼きの食器が並べられ、そばをご馳走になった。
伯父いわく「この戦争は必ず負けますよ。われわれはどうしても生きのびなければならない。私は洋服屋は止めましたが舶来の生地をシッカリ買いこみました。食料は勿論、ビタミン等の薬品類、それにダイヤ等も。あなたも有金全部払戻して必需品を買い込みなさい。」
私達はこの怪気炎にまかれて帰宅した。なかなかその真似事も出来なかったが、これが伯父と姪との最初で最後の出会いであった。
♪今ひとたび あたえられし 我が命
無駄にはすまじと 思う比頃
注 谷中の伯父とは上口愚朗(作次郎)。明治25年谷中生まれ。小学卆後宮内省御用の大谷洋服店に弟子入り大正末期に「超流行上口中等洋服店」開店。江戸時代の大名時計の収集家としても知られる。旧邸跡地に現在大名時計博物館がある。
父はその帰路、谷中の伯父の家へ連れて行ってくれた。そこは公然の秘密にはなっていたが、私の生母の兄の家であり、母の実家であった。
上野の下町から坂を上がって行くと全くの住宅地があった。玄関をあけると「ガラン、ガラン」と大きな音がして驚いた。玄関の足元から各種の時計や美術品がいっぱいに散らばって並べてあった。
まるで骨董屋である。洋服屋と聞いていたが、まるきりそれらしいものは見当たらぬ。よくは分からぬが、ウェストミンスターと言うのか大きな時計が5分とか10分おきに、ちがった響きのある音で時をきざむので、その美しい音色には魅せられた。
広い庭は草茫々。小川が流れ、陶器を焼く窯があった。手彫りのテーブルの上に手焼きの食器が並べられ、そばをご馳走になった。
伯父いわく「この戦争は必ず負けますよ。われわれはどうしても生きのびなければならない。私は洋服屋は止めましたが舶来の生地をシッカリ買いこみました。食料は勿論、ビタミン等の薬品類、それにダイヤ等も。あなたも有金全部払戻して必需品を買い込みなさい。」
私達はこの怪気炎にまかれて帰宅した。なかなかその真似事も出来なかったが、これが伯父と姪との最初で最後の出会いであった。
♪今ひとたび あたえられし 我が命
無駄にはすまじと 思う比頃
注 谷中の伯父とは上口愚朗(作次郎)。明治25年谷中生まれ。小学卆後宮内省御用の大谷洋服店に弟子入り大正末期に「超流行上口中等洋服店」開店。江戸時代の大名時計の収集家としても知られる。旧邸跡地に現在大名時計博物館がある。
Thursday, December 06, 2007
ある丹波の女性の物語 第28回 結婚
遥かな昔、遠い所で第50回
翌18年、京都のネクタイ工場は強制疎開でこわされてしまった。戦況は日に日に悪化していたが、国民には知らされていなかった。
10月11日、東京本郷教会に於いて私は田崎牧師夫妻の媒酌により、根岸精三郎を養子として迎える事になり結婚式をあげた。
根岸家は倉敷市で古くから米問屋を営んでいたが、父は早死にし、店はすでに破産していた。
本人は兄弟姉妹合わせて11人きょうだいの七男であったが、その殆どが東京におり、元倉敷の牧師が仲人をして下さったのである。
精三郎のすぐ上の兄が綾部の丹陽教会へ伝道に来ていた事もあり、この話はスムーズにまとまったのである。結婚に先だって父は私をつれて上京、一応見合いをした。おとなしい養子タイプの人であったので、これなら父に従っていけそうだなと思った。
♪みんなみの 窓辺の床に 横たわり
ひねもす雲の かぎろいを見つ
♪七十年 過ごせし街の 拡がりを
初めて北より ひた眺めをり
翌18年、京都のネクタイ工場は強制疎開でこわされてしまった。戦況は日に日に悪化していたが、国民には知らされていなかった。
10月11日、東京本郷教会に於いて私は田崎牧師夫妻の媒酌により、根岸精三郎を養子として迎える事になり結婚式をあげた。
根岸家は倉敷市で古くから米問屋を営んでいたが、父は早死にし、店はすでに破産していた。
本人は兄弟姉妹合わせて11人きょうだいの七男であったが、その殆どが東京におり、元倉敷の牧師が仲人をして下さったのである。
精三郎のすぐ上の兄が綾部の丹陽教会へ伝道に来ていた事もあり、この話はスムーズにまとまったのである。結婚に先だって父は私をつれて上京、一応見合いをした。おとなしい養子タイプの人であったので、これなら父に従っていけそうだなと思った。
♪みんなみの 窓辺の床に 横たわり
ひねもす雲の かぎろいを見つ
♪七十年 過ごせし街の 拡がりを
初めて北より ひた眺めをり
Wednesday, December 05, 2007
ある丹波の女性の物語 第27回 母の死
遥かな昔、遠い所で第49回
昭和16年3月、寒い日であったが父は丹陽基督教会の代表として、綾部警察署に留置された。
母は病床にあったが、みんなが私を力づけてくれた。毎日食事を差し入れに行くお手伝いさんの「おはようございます。」と言う大きな声に、どれほど勇気づけられたことかと父は後日話した。
「天皇は神である」と言えと毎日強要されたそうである。父は牧師や信者が拷問に会い多数獄死しているので、万一の時の死をも覚悟したそうであるが、一週間程で釈放された。
そのうち、主食を始めとして食料品が切符制となり、さらに金属回収も始まり、火鉢、銅の屋根、お墓の扉まで供出した。
昭和17年9月10日朝、番頭の兼さんが出征した。兼さんは出発の直前まで母の枕元で別れを惜しみ、母も、もう若くない番頭さんの身を案じ共に泣いた。
父が二十連隊まで送っていった留守に母は息を引き取った。看護婦さんが座をはずし私が1人付き添っている時であった。
「9月10日風静かにして姉ゆきぬ」
母の弟儀三郎は色々のおもいと共に、棺の中にこの句を入れた。体中の腫れがすっかりひき、美しい母の顔に戻っていた。数えて58歳であった。
両親、夫、弟妹、家族全員に力おしみなくつかえた一生であった。かつての店員、お手伝いさん達も心からその死をいたんだ。
優しい母であった。
♪陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
今日のひとひは 晴れとなるらし
♪由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
孫の手にせる いぬふぐりの花
昭和16年3月、寒い日であったが父は丹陽基督教会の代表として、綾部警察署に留置された。
母は病床にあったが、みんなが私を力づけてくれた。毎日食事を差し入れに行くお手伝いさんの「おはようございます。」と言う大きな声に、どれほど勇気づけられたことかと父は後日話した。
「天皇は神である」と言えと毎日強要されたそうである。父は牧師や信者が拷問に会い多数獄死しているので、万一の時の死をも覚悟したそうであるが、一週間程で釈放された。
そのうち、主食を始めとして食料品が切符制となり、さらに金属回収も始まり、火鉢、銅の屋根、お墓の扉まで供出した。
昭和17年9月10日朝、番頭の兼さんが出征した。兼さんは出発の直前まで母の枕元で別れを惜しみ、母も、もう若くない番頭さんの身を案じ共に泣いた。
父が二十連隊まで送っていった留守に母は息を引き取った。看護婦さんが座をはずし私が1人付き添っている時であった。
「9月10日風静かにして姉ゆきぬ」
母の弟儀三郎は色々のおもいと共に、棺の中にこの句を入れた。体中の腫れがすっかりひき、美しい母の顔に戻っていた。数えて58歳であった。
両親、夫、弟妹、家族全員に力おしみなくつかえた一生であった。かつての店員、お手伝いさん達も心からその死をいたんだ。
優しい母であった。
♪陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
今日のひとひは 晴れとなるらし
♪由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
孫の手にせる いぬふぐりの花
Tuesday, December 04, 2007
ある丹波の女性の物語 第26回 結婚前後
遥かな昔、遠い所で第48回
幼い日の思い出は私の心の中でもう風化しているので、それなりに美しくなつかしいものとして蘇って来るので、あまり考える事もなくペンを進めて来たが、結婚前後、苦しい戦時中の事となると、何となくためらいがちになるが致し方ない。
昭和14年頃は、一応戦局は勝ちいくさという事になっていたので、そんなに悲壮感はなく、京都まで出ると、外映も2本立てで古い映画が見られた。「舞踏会の手帳」のように美しい映画も見られたし、コリエンヌリシェールとか言う知的な女優の「格子なき牢獄」も封切られ評判になった。
店をまかされていた母は、若い店員が皆兵隊に行ってしまい番頭さん一人となったため、お手伝いさんにも店を手伝わせ、なかなか気苦労の多い毎日であった。母はいつも「うちの旦那さんは床柱になるように生まれたお方だ。」と言っていたが、父はいくら貧乏しても下積みの暮らしはした事がないので、思いやりには欠けており、連れそうには人に言えぬ苦労があった。癇癪持ちの父に対等にズケズケ話せるのは、私位しかいなかったのであるまいか。
母は以前から糖尿の気があり、自分で検尿し、インシュリンを注射していたが、だんだん薬も入手出来にくくなり、腎臓炎を併発、血圧も200を越すようになり、臥せり勝ちになった。
国民服と言うのが出来、ネクタイも贅沢品ということにはなったが、まだ製造はつづけており、自然私が履物店を守るようになった。
大政翼賛会が発足し、公務についている人は入会し、川で禊をするような世の中になった。戦争をすすめて行く為には国粋主義を掲げ、国民の気持を一つにまとめて行かねばならなかったのであろう。思想、言論の自由は失われていった。時代の流れに押しつぶされてしまわない為には、一応時代の波に沈まぬよう、たゆとうて自衛するより外なかったのである。
♪師走月 ましろき綿に つつまれて
ようやく棉の 実はじけそむ 「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花
♪母の里 綿くり機をば 商いぬと
聞けばなつかし 白き棉の実
幼い日の思い出は私の心の中でもう風化しているので、それなりに美しくなつかしいものとして蘇って来るので、あまり考える事もなくペンを進めて来たが、結婚前後、苦しい戦時中の事となると、何となくためらいがちになるが致し方ない。
昭和14年頃は、一応戦局は勝ちいくさという事になっていたので、そんなに悲壮感はなく、京都まで出ると、外映も2本立てで古い映画が見られた。「舞踏会の手帳」のように美しい映画も見られたし、コリエンヌリシェールとか言う知的な女優の「格子なき牢獄」も封切られ評判になった。
店をまかされていた母は、若い店員が皆兵隊に行ってしまい番頭さん一人となったため、お手伝いさんにも店を手伝わせ、なかなか気苦労の多い毎日であった。母はいつも「うちの旦那さんは床柱になるように生まれたお方だ。」と言っていたが、父はいくら貧乏しても下積みの暮らしはした事がないので、思いやりには欠けており、連れそうには人に言えぬ苦労があった。癇癪持ちの父に対等にズケズケ話せるのは、私位しかいなかったのであるまいか。
母は以前から糖尿の気があり、自分で検尿し、インシュリンを注射していたが、だんだん薬も入手出来にくくなり、腎臓炎を併発、血圧も200を越すようになり、臥せり勝ちになった。
国民服と言うのが出来、ネクタイも贅沢品ということにはなったが、まだ製造はつづけており、自然私が履物店を守るようになった。
大政翼賛会が発足し、公務についている人は入会し、川で禊をするような世の中になった。戦争をすすめて行く為には国粋主義を掲げ、国民の気持を一つにまとめて行かねばならなかったのであろう。思想、言論の自由は失われていった。時代の流れに押しつぶされてしまわない為には、一応時代の波に沈まぬよう、たゆとうて自衛するより外なかったのである。
♪師走月 ましろき綿に つつまれて
ようやく棉の 実はじけそむ 「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花
♪母の里 綿くり機をば 商いぬと
聞けばなつかし 白き棉の実
Monday, December 03, 2007
網野善彦著「無縁・公界・楽」を読む
照る日曇る日 第76回
いまから四十年の昔、「なぜ平安末・鎌倉時代に限って偉大な宗教家が登場したのか?」と都立北園高校の1生徒に問われた著者は教壇で絶句してしまう。
しかしその難問に対するおよそ10年後の回答が、中世のみならず日本史全体の書き換えをうながす「革命的な」著作の誕生につながった。それがこの「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」である。
著者はまず平安末・鎌倉は、非農業的な生業の比率が比類なく高まった時代であるという。供御人、神人、寄人など多様な職能民の集団が、天皇・神仏の直属民として、課税・関料を免除されて活発に活動し、天皇・神仏の奴婢と自称する彼らは、俗世の政治権力に対峙しつつ独自の「聖性」と権益を獲得しつつあった。
またそれと平行して、平民百姓の中にも海民、製塩民、鵜飼、山民、製鉄民、製紙民などの非農業的な生業をいとなむ人々が急増していた。
「百姓」とはその名が示すとおり、農人以外の商人、船持ち、手工業者、金融業者などの平民を多数含んでいた。彼らの多くが堺、中州、川中島、江ノ島などの都市に住み、交易、商業、流通、金融の経済活動を、時の権力から一定の距離をおきながら、独自の自由で平和で初期資本主義的生活を営んでいた。そして非農業的な彼らが生息していた場所こそが、世俗との縁が切れた「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた空間であった。
彼らの生産物は、いったん聖なる場=「市庭」に投げ込まれてはじめて「商品」となる。そしてその商品が商品交換の手段としての「貨幣」として神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極地とも言うべきその交換機能を果たすことになる。
わが国では、弥生時代以降13世紀までは米、絹、布など、13世紀以降は銭貨、米などがそのような貨幣の機能を果たした。
さらに貸付によって利子をとり、多くの職能民の労働力を雇用して建築土工事業をいとなむための「資本」も神仏の物として蓄積されていくが、そうした巨大な事業を推進経営できたのは中世では絶対権力から「無縁」の勧進聖、上人だけであった。
このように商業・金融などの経済活動はきわめて古くから人の力を超えた聖なる世界、神仏と深くかかわっていた、と著者はいう。
ちなみに、鎌倉時代の治承2年1178年に書かれた「山楷記」には銭を用いた出産時の呪法が紹介されている。
父親は手に99文の銭を持ち新生児の耳に「天を以って母とし、金銭99文を領して児寿せしむ」という祝詞を3度唱える。その後産婦がへその緒を切ると父親は児の左手をひらき、「号は善理、寿千歳」とまた3遍唱える。ここで乳付けが行なわれ父親はさきの銭袋を枕元において儀礼が終わる。
このように出産や埋葬に銭が使われるのは銭が生命を育む大地とつながっていた証であるという。
そして13世紀から14世紀にかけて、この「無縁」「公界」「楽」という舞台で銭貨の交換と資本蓄積によって大きな経済成長を遂げ、「悪党」や「海賊」とも蔑称された彼ら自由民たちの「重商主義」路線は、商業・金融を抑制しようとする権力者側の「農本主義」と政治的・思想的に鋭く対立することになる。
そうしてあくまでも自由を求めてやまないこの「悪人」を積極的に肯定し、自らもその渦中に身をおいた法然、親鸞、一遍、日蓮など鎌倉仏教の始祖たちがこの未曾有の乱世に陸続と登場することになった。
14世紀から15世紀にかけて禅宗、律宗は幕府と結びついてその立場を確立したのに対して、15、16世紀には真宗、時宗、法華宗もその教線を拡大し、とくに真宗は教団として大きな力を持つにいたり、都市型自由民の反逆の戦いとして知られる一向一揆の原動力となるが、最終的には「無縁」「公界」「楽」の重商主義の旗に結集した平民の初期資本主義的・原始宗教的エネルギーは、農本主義を旗印にした世俗権力(織豊政権と徳川幕府)のゲバルトによって圧殺されていったのであった。
私はこの本を読みながら、学問の厳しさを思った。
「武家と朝廷の専制と圧制と抑圧と課税にあえいでいたはずの農民に、いったいいかなる自由と平和があったのか? あれば教えてほしい」というほとんどすべての歴史研究家の嘲笑と否定的評価を、敢然と受けて立った思想家の孤独を思った。
しかし不撓不屈の独創的な反権力者によって営々と書き継がれたこの本は、「学問とは何か?」「学問には何が可能?」という私たちの問いかけに対するひときわ鮮やかな回答でありつづけている。
♪真夜中に武者共喚きて切りかかる物音がする谷戸の冬かな
いまから四十年の昔、「なぜ平安末・鎌倉時代に限って偉大な宗教家が登場したのか?」と都立北園高校の1生徒に問われた著者は教壇で絶句してしまう。
しかしその難問に対するおよそ10年後の回答が、中世のみならず日本史全体の書き換えをうながす「革命的な」著作の誕生につながった。それがこの「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」である。
著者はまず平安末・鎌倉は、非農業的な生業の比率が比類なく高まった時代であるという。供御人、神人、寄人など多様な職能民の集団が、天皇・神仏の直属民として、課税・関料を免除されて活発に活動し、天皇・神仏の奴婢と自称する彼らは、俗世の政治権力に対峙しつつ独自の「聖性」と権益を獲得しつつあった。
またそれと平行して、平民百姓の中にも海民、製塩民、鵜飼、山民、製鉄民、製紙民などの非農業的な生業をいとなむ人々が急増していた。
「百姓」とはその名が示すとおり、農人以外の商人、船持ち、手工業者、金融業者などの平民を多数含んでいた。彼らの多くが堺、中州、川中島、江ノ島などの都市に住み、交易、商業、流通、金融の経済活動を、時の権力から一定の距離をおきながら、独自の自由で平和で初期資本主義的生活を営んでいた。そして非農業的な彼らが生息していた場所こそが、世俗との縁が切れた「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた空間であった。
彼らの生産物は、いったん聖なる場=「市庭」に投げ込まれてはじめて「商品」となる。そしてその商品が商品交換の手段としての「貨幣」として神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極地とも言うべきその交換機能を果たすことになる。
わが国では、弥生時代以降13世紀までは米、絹、布など、13世紀以降は銭貨、米などがそのような貨幣の機能を果たした。
さらに貸付によって利子をとり、多くの職能民の労働力を雇用して建築土工事業をいとなむための「資本」も神仏の物として蓄積されていくが、そうした巨大な事業を推進経営できたのは中世では絶対権力から「無縁」の勧進聖、上人だけであった。
このように商業・金融などの経済活動はきわめて古くから人の力を超えた聖なる世界、神仏と深くかかわっていた、と著者はいう。
ちなみに、鎌倉時代の治承2年1178年に書かれた「山楷記」には銭を用いた出産時の呪法が紹介されている。
父親は手に99文の銭を持ち新生児の耳に「天を以って母とし、金銭99文を領して児寿せしむ」という祝詞を3度唱える。その後産婦がへその緒を切ると父親は児の左手をひらき、「号は善理、寿千歳」とまた3遍唱える。ここで乳付けが行なわれ父親はさきの銭袋を枕元において儀礼が終わる。
このように出産や埋葬に銭が使われるのは銭が生命を育む大地とつながっていた証であるという。
そして13世紀から14世紀にかけて、この「無縁」「公界」「楽」という舞台で銭貨の交換と資本蓄積によって大きな経済成長を遂げ、「悪党」や「海賊」とも蔑称された彼ら自由民たちの「重商主義」路線は、商業・金融を抑制しようとする権力者側の「農本主義」と政治的・思想的に鋭く対立することになる。
そうしてあくまでも自由を求めてやまないこの「悪人」を積極的に肯定し、自らもその渦中に身をおいた法然、親鸞、一遍、日蓮など鎌倉仏教の始祖たちがこの未曾有の乱世に陸続と登場することになった。
14世紀から15世紀にかけて禅宗、律宗は幕府と結びついてその立場を確立したのに対して、15、16世紀には真宗、時宗、法華宗もその教線を拡大し、とくに真宗は教団として大きな力を持つにいたり、都市型自由民の反逆の戦いとして知られる一向一揆の原動力となるが、最終的には「無縁」「公界」「楽」の重商主義の旗に結集した平民の初期資本主義的・原始宗教的エネルギーは、農本主義を旗印にした世俗権力(織豊政権と徳川幕府)のゲバルトによって圧殺されていったのであった。
私はこの本を読みながら、学問の厳しさを思った。
「武家と朝廷の専制と圧制と抑圧と課税にあえいでいたはずの農民に、いったいいかなる自由と平和があったのか? あれば教えてほしい」というほとんどすべての歴史研究家の嘲笑と否定的評価を、敢然と受けて立った思想家の孤独を思った。
しかし不撓不屈の独創的な反権力者によって営々と書き継がれたこの本は、「学問とは何か?」「学問には何が可能?」という私たちの問いかけに対するひときわ鮮やかな回答でありつづけている。
♪真夜中に武者共喚きて切りかかる物音がする谷戸の冬かな
Sunday, December 02, 2007
ある丹波の女性の物語 第25回 京都へ
遥かな昔、遠い所で第47回
翌昭和13年春、綾部高女を卒業した私は、京都府立第一高等女学校補習科に入学した。
一学期は銀閣寺近くの寄宿舎に入った。綾部からは薬屋さんの娘さんと二人であった。朝寝坊すると電車では間に合わなくなり、荒神口まで35銭也のタクシーをよく利用した。5人も乗れば市電並みであった。
「柳橋をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」
春の京阪沿線の鴨川ぞいは和歌の通りに美しく彩られる。私は一寸心にいたみを覚えつつも京阪電車に乗って、実母の待つ桃山へ心はづむ思いで出かけたものだった。
学校の選択科目には、裁縫、英語、数学、国語があった。私は無条件で国語をえらんだ。
私達4人は源氏物語、枕草子、万葉集などを膝を交えて学んだ。私は紫式部より清少納言に魅力を感じた。万葉集の大らかさに感動し、自然、明星の華やかさより、アララギ派が好きであった。墨汁一滴も輪読した。今の私には、明星の歌にも心ひかれるものが沢山ある。年を重ねた故であろう。
講師として京大から美術の源先生、心理学の岡本先生が出講されたがいずれも、ていねいな講義であった。法隆寺へも案内していただいた。玉虫の厨子はハッキリ覚えているのに、うす暗かった故か壁画が思い出せぬ。もったいないようなあの機会に、どうしてもっと真剣に学ばなかったのかと悔やまれる。
戦局と共に軍の衿章作りの奉仕や、炊き出しの訓練も行われた。2学期からは父の紫竹のネクタイ工場から通う事になった。
秋には九州への修学旅行があったが、母の病気の為私は綾部へ帰った。母は追々弱って行くのである。
♪築山の 千両の実の 色づきぬ
種子より育てし ななとせを経て
♪手折らんと してはまよいぬ 千両の
はじめてつけし あかき実なれば
翌昭和13年春、綾部高女を卒業した私は、京都府立第一高等女学校補習科に入学した。
一学期は銀閣寺近くの寄宿舎に入った。綾部からは薬屋さんの娘さんと二人であった。朝寝坊すると電車では間に合わなくなり、荒神口まで35銭也のタクシーをよく利用した。5人も乗れば市電並みであった。
「柳橋をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」
春の京阪沿線の鴨川ぞいは和歌の通りに美しく彩られる。私は一寸心にいたみを覚えつつも京阪電車に乗って、実母の待つ桃山へ心はづむ思いで出かけたものだった。
学校の選択科目には、裁縫、英語、数学、国語があった。私は無条件で国語をえらんだ。
私達4人は源氏物語、枕草子、万葉集などを膝を交えて学んだ。私は紫式部より清少納言に魅力を感じた。万葉集の大らかさに感動し、自然、明星の華やかさより、アララギ派が好きであった。墨汁一滴も輪読した。今の私には、明星の歌にも心ひかれるものが沢山ある。年を重ねた故であろう。
講師として京大から美術の源先生、心理学の岡本先生が出講されたがいずれも、ていねいな講義であった。法隆寺へも案内していただいた。玉虫の厨子はハッキリ覚えているのに、うす暗かった故か壁画が思い出せぬ。もったいないようなあの機会に、どうしてもっと真剣に学ばなかったのかと悔やまれる。
戦局と共に軍の衿章作りの奉仕や、炊き出しの訓練も行われた。2学期からは父の紫竹のネクタイ工場から通う事になった。
秋には九州への修学旅行があったが、母の病気の為私は綾部へ帰った。母は追々弱って行くのである。
♪築山の 千両の実の 色づきぬ
種子より育てし ななとせを経て
♪手折らんと してはまよいぬ 千両の
はじめてつけし あかき実なれば
Saturday, December 01, 2007
ある丹波の女性の物語 第24回 修学旅行
遥かな昔、遠い所で第46回
そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。
昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。
山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。
上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。
♪老祖父と 共にくぐりし 古き門
想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
あかりともして 心たらわん
そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。
昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。
山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。
上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。
♪老祖父と 共にくぐりし 古き門
想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
あかりともして 心たらわん
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