Friday, February 29, 2008

小島信夫著「菅野満子の手紙」を読む

照る日曇る日第102回

作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとする。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことは絶望的に不可能なのだが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かける。

そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのだ。

そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくる。

この作者が誰を登場させ、何を語らせ、どんな奇妙な事件が小説の中で生起しようがいったいそれがどうだというのだ。

菅野満子が作家の由紀しげ子であろうが作家の分身である謙二とその兄の良一が満子とどれくらい激しい恋をしたか否か、それがヘルダーリンやゲーテの恋と遜色があるのかないのか、満子の手紙と遺書の内容が事実であろうが嘘であろうがはたまた作者のでっち上げであろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。

それよりもたったいま作者がこの本のこの箇所に書き付けたこのさりげない1行を目と舌でじっくりと味わおう。作者が奏でるこの一筋の旋律を心行くまで味わおうという気持ちになってくるのである。

そうしてこの600ページになんなんとする大著を読了した人は、最初は三流私小説作家の身辺雑記のように不用意に書き始められた軽い心境小説が、最後にはプルーストの「失われた時を求めて」と遠くかすかに響きあう精妙な世界に遊んだと思うかもしれない。おまけに「失われた時を求めて」と同じように、この本も終わりに近づくに従って猛烈に面白くなるのだ。

あるいはまた、またこの小説はもしかすると小説ではなかったのだ、最初はさりげない主題の提示ではじまりそれが次第にさまざまな変奏と協奏をかなで、最後には信じられない聖なる高みに到達するブルックナーのような大曲をたっぷりと聴かされた、という感慨を懐く人がいるかもしれない。

いずれにしてもこれは作者の文学への気違いじみた情熱と無私な献身に圧倒されるメタ・メタ(めためたであるかもしれない)フイクションの最高傑作である。


♪この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ 亡羊

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