照る日曇る日第101回
陸奥宗光は明治10年の西南戦争の際土佐立志社系の一部が企てた政府転覆、要人暗殺計画に陰謀に加担したかどで逮捕され、禁獄5年の判決を受けて明治11年9月から15年12月まで山形と仙台で獄中生活を送ったが、その間独学の英語でベンサムの功利主義哲学にめざめ、それが彼の政治思想の転回点となった。
獄から解放された彼は伊藤博文、井上馨、渋沢栄一などの助力で欧米に留学し、英国の議会制民主主義につぶさに接するとともに、ウイーンに赴きオーストリアの公法学者シュタインの元でプロシア流の政治理論を体得し、政府専制と議会責任内閣制の双方について当時の世界最先端の政治思想に通暁する新帰朝者となった。本書はその大半のページをこの間の「思想家陸奥から政治家陸奥への変貌」に焦点を当て、その劇的な精神の転回を精細に追跡している。
余談ながら明治時代には多くの政治家や官僚、学者が欧米に留学している。大日本帝国憲法の制定にあたって伊藤博文に大きな影響を与えたオーストリアの公法学者シュタインのところにも、その伊藤をはじめ陸奥宗光、伊東巳代治、黒田清隆、松方正義、海江田信義など多くのエリートたちが教えを乞いに行っている。
彼らはそれぞれ通訳を連れて2、3週間続けてシュタイン家に日参して個人教授を受け、通訳と自分の2人でノートをとり、そのあとで1つに清書してから、今度はそれをシュタインに送って訂正してもらい、そんな風にして完全なノートが出来上がり、それが彼らの留学土産になったという。
私は萩原氏のその話を聞いてなるほど漱石の文学論もそのような形で中川芳太郎を通じて現在のような姿になったことを思い出した。もっとも漱石はその中川ノートを全面的に改稿したのだったが。
藩閥政府と自由民権派の両極で激しく分裂した陸奥は、その後中央政府の外務大臣として日清戦争を主導するが、日露、第1次大戦、太平洋戦争へと拡大していくわが国の朝鮮半島、中国、台湾への介入・進出はじつに明治27年の日清戦争から出発していることが本書を読めばよくわかる。
陸奥は首相の伊藤博文とコンビを組んで山縣有朋などの武断派を懸命に統御しようと試みるが、本心では大陸不介入派であったと思われる陸奥も、結局は軍部などの強硬派、国内に燎原の火のように燃え盛る愛国主義の嵐(それは漱石、子規をはじめ大多数の文学者、知識人をも飲み込んだ)、英、露、独、仏などの帝国主義列強の圧力に屈して、ついに「朝鮮の独立を保持するための」対清開戦に踏み切った。
幸か不幸かこの日清戦争の勝利が遼東半島の三国干渉を生み、その屈辱が列強の代理戦争としての日露戦争を生み、ひいてはあの大東亜戦争への泥沼の道を用意したのである。いかに当時の国内外情勢の渦中で陸奥が献身的な努力を傾注したとはいえ、(彼の涙ぐましい「蹇蹇録」を読まれよ)当時の陸奥が死生をともにした大日本帝国が、大国の圧力に強いられたという以上に、自らが列強の一員として積極的にアジアに覇を唱えようとしたことはまぎれもない事実である。
陸奥たちが東アジアに刻んだその最初のステップこそが、20世紀という戦争の時代のパンドラの箱を開けた。小さな侵略の成功と既得権の確保が、また次なる利権の獲得とその利権保持のための新たな戦争へと繋がっていく。かつて陸奥たちがつまずき、我々が60年前に破綻したのと同じ過ちを、現在アメリカがそのままイラクで繰り返している哀れな姿を見るにつけ、歴史は何度でも繰り返すという思いを新たにするのである。
萩原延壽の「陸奥宗光」を読むこと。それは私たちがあえて明治、大正、昭和を生き直すことであり、それを教訓として今を生きることでもある。
♪できれば目白の夫婦のように睦みあいたいものじゃ 亡羊
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