Thursday, February 07, 2008

古井由吉著「白暗淵」を読む

照る日曇る日第94回

それは夢なのか、それとも夢見る前なのか、夢を見た後の想いなのか、と著者に尋ねても答えは返ってこないだろう。とりとめのない父母未生以前の記憶、突然の爆撃と機銃掃射、一瞬にして町と川と人間の景色を消し去った戦争の悪夢、よみがえった平和の中の死、老年の衰えの日々に鳴り響く幻聴、若き日の友人の些細な思い出、さまざまな女たちの臭い、皮膚と肉の柔らかな接触、鳥や花や物や人間などがひとつに融解していく恐怖と快楽などがここ2年ほどの間につむがれた11の短編の中でモノローグのように語られ、ハープシコードのように独奏されている。

どの作品も見事な出来栄えだが、とりわけ凄いのは「撫子遊ぶ」。文久2年のコレラ流行から話が始まり、やがて応天門炎上の責を問われて憤死した大納言伴善男の話になり、「伴大納言絵詞」の登場人物が側対歩(末讀選手のナンバ走り)ではないかと疑い始め、絵詞の登場人物たちの「恐慌と喜悦とはその表情においてじつに紛らわしい」と著者は書く。私はこの作品を06年の秋に出光美術館で鑑賞したがたしかにそういう表情だったと思い当たった。

やがて大納言を思わせる老人が現れ、男女の交わりの話になって突然「水口に撫子遊ぶ夕まぐれ」という句が著者に浮かんでからは少年時代の思い出に話柄は飛び、いきなり友人の父親の死の前夜の思い出が挿入されてから、「撫子の咲く野辺に 父を埋めて 母を埋めて」という唄が歌われて、さながら漱石の「夢十夜」のような狂気幻想夢譚が鮮やかに閉じられる。人生の切断面の異様なまでの鋭い美しさである。
その幕切れはどうか直接手にとって確かめていただきたい、と寅さんの口上のように言うしかない。

なお題名の「白暗淵(しろわだ)」は、旧約聖書創世記の冒頭にある「元始に神天地を創造たまえり。地は定形なく曠空くして「黒暗淵」の面にあり神の霊水の面を覆たりき」による。菊池信義による装丁は、そのためか白い壁か油絵のテクスチャーを拡大撮影したようなデザインになっているが、これは戸田ツトムの「断層図鑑」のコピーのようにも見えた。

♪その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った 亡羊

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