照る日曇る日第99回
萩原延壽は朝日新聞に連載したアーネスト・サトウの伝記「遠い崖」で知られる歴史家であり、かの大仏次郎に優に比肩する当代一流の評伝作家でもあった。その精緻を極めた資料の渉猟と長期にわたる膨大な調査研究からもたらされた知見に基づく人物月旦は、まことに正統的な客観主義の外観をそなえながら、その外装の奥には主人公に対する秘められた偏愛と熱情のほむらが燃え滾っており、読むものをいつのまにか虜にする魅力を備えている。
大仏が「天皇の世紀」で目指したものが、明治という時代の骨格のあますところなき再現であったのに対して、萩原は、明治を生きた代表的人物をあますところなく対象化することを通じて、明治という時代の血肉をわが手に収めようと試みた。
そして萩原がまず最初に手がけたのが、「頼むところは天下の輿論、目指すかたきは暴虐政府」と叫んでフィラデルフィアに倒れた自由の戦士馬場辰猪であり、続いて「蹇蹇録」で知られる陸奥宗光その人であった。
ちなみに著者によれば、陸奥は明治19年の夏に足尾銅山に視察に行き、中禅寺湖に別荘を持っていたアーネスト・サトウと会ったらしい。(陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養子だった)。サトウの日本人女性に対する観察は足が短いとかなかなか辛らつであったが、ゆいいつ陸奥の後妻で才色兼備の誉れ高い亮子だけは大変な美人と絶賛したそうだ。
陸奥は和歌山藩の上級武士の子であり、海援隊の坂本龍馬の一番弟子であり、御一新の後には藩閥政府の一員であると同時にその敵対者でもあり、木戸、伊藤、後藤に愛され、岩倉、大久保、西郷、島津久光に憎まれ、絶えず権力と理念のはざまに立って動揺常ならぬ混乱と転向を繰り返しながら、わが国にとって大きな里程標となった日清戦争を外務大臣として収拾した、明治を代表する文人政治家である。陸奥は星亨と原敬を育て、結局その系譜が日本の政党政治の主流となるのである。
しかし著者はそういうマキャベリやジョセフ・フーシェを思わせる政治的人間陸奥の行蔵を描くだけではなく、あるときは権力の側に立ち、またあるときはそれを指弾して自由民権運動に加担して獄に投じられる「節操常ならざる分裂した魂」の内部をじっと覗き込む。それによって政治と人間という普遍的な問題がゆるゆるとあぶりだされ、陸奥という人間を鏡としてそこに映じられる同時代の人物たちの生き方、ひいては明治という時代そのものの実像が、おもむろに立ち現れる。ここにこそ本書の魅力がある。
♪大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし 亡羊
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