Tuesday, March 31, 2009
梅原猛著「うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成」を読んで
能の大成者である観阿弥(世阿弥の父)の出生地は、大和ではなく断じて伊賀である。
観阿弥は伊賀に縁の深い上島家、永冨家、南朝の功労者楠正成の親類縁者として当地に生まれて能の一座を立ち上げたのちに初めて大和に進出した。
正成ゆかりの観阿弥は、とうぜん南朝の流れを汲む武士の一族であり、二人の兄を戦乱のさなかに亡くしていたが、観世音菩薩(観阿弥、世阿弥、音阿弥の命名はここから)の加護によってただひとり河原者となったが、「南北朝の調停者」であった北朝側の支配者足利義満の思惑によって引き立てられ、格上の金春座などを抜いていっきょに猿楽のスターダムにのし上がった、と著者は熱く説く。
「観阿弥伊賀出生説」はかつては学会の定説であったが、明治四二年(一九〇九年)吉田東伍が「世阿弥一六部集」を出してこれを疑い、能勢朝次の「能楽源流考」において大和説に逆転したのだが、すでに80歳を超えた梅原翁が、この大和説をうのみにする能学の権威者香西、表(岩波文庫「申楽談義」の編者)両氏に全面的には歯向い、筆鋒鋭く反論するさまは阿修羅のようにものすごく、本署の白眉である。
ここには能という孤城に閉じこもり、能の先駆者の生き方や南北朝の政治経済文化状況、仏教の本質についてあまりにも無感覚で不勉強な斯界の専門家に対する激しい憤りが感じられる。著者がみずから告白するように、この本はまさしく梅原翁に乗り移った観阿弥世阿弥の霊が書かせているような気もする。
しかし私はこのいささかエキセントリックな前半の論難部分よりも、後半でじっくりと描かれる観阿弥の能の名作「自然居士」「金礼」「卒塔婆小町」「百万」などの情意を尽くした見事な評釈の方がよりいっそう心に沁みた。
♪曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け 茫洋
Monday, March 30, 2009
西暦2009年茫洋弥生歌日記
親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや
遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら
坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子
もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが
少年にして少女のかんばせカルジャが撮りし17歳のランボー
われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし
真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声
新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし
春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく
洛北の北白川なる重度しょうぐあい施設湯船を埋めし黄色い雲古かな
我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな
青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず
土佐文旦手に持てばわが失いしもの程の重さかな
息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき
吾のため子のため母のためたった7年で地球を2周せしカローラの妻
北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰
言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました
隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう
金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる
月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり
己の屁の臭い嗅ぐああ生きているな
懐かしき人死して鶯さわに鳴く
春三月わたしの園を荒らすのは誰だ
千葉県で太陽に向かって吠える男
コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな
蛇のような棒か棒のような蛇か
いつも物見の上にいる鷹のやうに
―ある回想
夢の中でKに会った。Kは言った。W大闘争を総括してみろ。
俺は答えた。あれはスポーツだったよ。
夢の中でWに会った。俺は言った。
貴様は俺をリストラしたうえ会社を目茶目茶にしてしまったな。
Wは怯えた目をして走り去った。
にんげんは過去のしがらみからはどうしても逃げられないものである。
♪新宿ビックカメラで60円で売れたCD-RWうれしいやら悲しいやら 茫洋
Sunday, March 29, 2009
浄光明寺と「地蔵やぐら」
またこの浄光明寺には、これら数多くの史跡とともに、これからご紹介する「地蔵やぐら」通称「網引きやぐら」があります。
「地蔵やぐら」の天井には天蓋をつりさげた円形とそれを支えた梁の跡の溝がみられ貴重な遺跡となっています。また安置されている地蔵像は制作年代が正和2年1313年と銘記されていることが評価されており、冷泉為相が寄進したという伝承があるそうです。母の阿仏尼の尽力に深く感謝してこのお地蔵さまを造営したのではないでしょうか。鎌倉時代から南北朝にかけては訴訟の時代であり、男性はもちろんのこと阿仏尼のような女性たちも幕府に対してどんどん異議申し立てを試みています。
さらにこの浄光明寺には徳川家ゆかりの尼寺英勝寺に仕えた水戸徳川家の家臣の墓地やぐらや、鶴岡八幡宮の神職大伴氏とその家族の純神道式の笏型墓碑が3基あり異彩を放っています。
けれども私がもっとも心を傷めたのは、つい最近亡くなられたこの浄光明寺住職にして偉大な考古学者兼中世史研究家であった方のお墓でありました。思えば今を去る20数年前、私がはじめてこのお寺を訪ねたおりに、懇切丁寧に寺院や仏様の由来について説明してくださったのは、ほかならぬ大三輪龍彦氏でありました。
私は鎌倉の歴史について多くの示唆を与えてくれたこの先学に深々と頭を垂れてから、うぐいす鳴く浄光明寺を辞したのでした。
懐かしき人死して鶯しきりに鳴く 茫洋
千葉県で太陽に向かって吠える男
Saturday, March 28, 2009
春の浄光明寺を訪ねて
浄光明寺は皇室の菩提寺である京都の泉涌寺を本山とする「準別格本山」であり、慶長3年1251年に6代目執権の北条長時が真阿上人を開山として創建したお寺ですが、それ以前に源頼朝が頼んで文覚上人が建てたお堂がそもそものはじまりだそうです。
元弘3年1333年には後醍醐天皇の勅願所となるいっぽう、真言、天台、禅、浄土の4つの勧学院を建て、学問の道場としての基礎を築きました。また足利尊氏は建武2年1335年にこの寺にこもり、後醍醐天皇に反逆することを決意したといわれており、尊氏、直義兄弟の帰依と奇進と受けたのです。兄弟が足利家執事の高師直の軍勢に十重二十重に取り囲まれたのもこの寺でした。
本堂横の収蔵庫には本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩が安置されています。地蔵菩薩立像は矢拾地蔵とも呼ばれ、足利直義の守り本尊でした。篤信家の直義でしたが兄尊氏との私闘に敗れ、最後は同じ鎌倉の浄妙寺で無念にも殺されてしまいます。しかしその同じ直義が後醍醐天皇の皇子護良親王を暗殺しているのですから因果は巡る風車といったところでしょうか。
浄光明寺の裏山には、一四世紀の歌人、冷泉為相の墓(宝塔印塔)があります。為相はあの有名な歌人藤原定家の孫で、父の死後遺領の相続をめぐって異母兄と争い、その訴訟のために鎌倉へ下向した「十六夜日記」で知られる母の阿仏尼のあとを慕って当地に入ったのです。
♪北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰 茫洋
Friday, March 27, 2009
バレンボイム・ベルリン国立で「コシ・ファントゥッテ」を視聴する
02年9月のバレンボイム指揮ベルリン国立ライブで「コシ・ファントゥッテ」を視聴する。
近年モーツアルトのコシはますます上演機会が増え、さまざまな演奏と演出が登場してわれわれを楽しませてくれるようになった。それはこのダポンテ・オペラの最後の作品がすばらしいアリアと女と男という現代的なテーマでわれわれの心をとらえるからに違いない。
かりそめの恋愛に絶対はなく、その恋愛の対象は時間と環境を変換すればたちどころに置き換え可能であり、その定かならざる不定性こそが男女の関係性の本質そのものであることを、この音楽と心理の天才はよく知っていた。どんな男女の間でも恋愛は可能であり、また不可能であることを歌うこのオペラの音楽の魅力は不滅であろう。
いまや押しも押されぬ大家となったバレンボイムは、手兵のベルリン国立歌劇場管弦楽団をよく掌中におさめ、そんなモーツアルトの名曲をいとしむように、楽しみながら振っている。それは彼が目指しているフルトヴェングラーの演奏とは対極にあるものだが、それなりに身をゆだねて聴くことができる。カテリーナ・カンマーローアー、ドロテア・レシュマンなどの歌唱もおおきな破綻はなく、手なれたアンサンブルが予定調和的に醸し出されるが、時代を60年代の終わりに設定したリス・テリエの演出はシャープな切れ味をみせた。
♪春三月わたしの園を荒らすのは誰だ 茫洋
Thursday, March 26, 2009
ドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する
08年1月のミラノ・スカラ座ライブでドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する
「マリア・ストゥアルダ」はて何じゃらほい、といぶかしく思う向きもあるだろうが、なんのことはない、これはスコットランドの女王、「マリー・スチュアート」のイタリア語読みである。
スコットランド併合を企む9歳年上の従姉イングランドの女王エリザベス一世と政治的に対立したばかりか、レスター伯爵をめぐって激しい恋のさや当てを演じる。そしてマリーが、宿敵エリザベスによってとらわれ、英国に18年間幽閉された挙句にとうとう断頭台で斬首刑に処せられる悲劇は、かのシュテファン・ツヴァイクの史伝「メアリー・スチュアート」などでひろく知られている。
その有名な原作を音化したドニゼッテイは、序曲から終曲のカタストロフまで朗々たる歌謡の極致を体感させ、イタリアオペラの楽しさを心ゆくまで味あわせてくれる。
エリザベス(エリザベッタ)役のアントナッチはまずまずだが、表題役を歌うマリエラ・デヴィーナのハイCがすごい。演奏はアントニーノ・フォグリアーニ指揮のミラノ・スカラ座管弦楽団で文句なし。演出・美術・衣装の3役兼ねたピエール・ルイージ・ピッツイは最後の処刑場で史実通りに真紅のドレスをマリア・ストゥアルダに纏わせ、首切り役人の一撃で鮮やかに全曲を切断してみせた。
隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう 茫洋
Wednesday, March 25, 2009
「相馬師常やぐら」を訪ねて
相馬師常は源頼朝の重臣、千葉常胤に次男で、相馬氏の祖となった武将です。1180年(治承4年)の頼朝挙兵に父常胤と共に参加して活躍した相馬師常は、その後も奥州征伐などで多くの戦功を挙げました。念仏行者として端坐、合掌して没し(即身成仏という)多くの人々が感動した逸話でも知られています。
彼の父親の常胤は千葉県の名の元にもなった名家の出身ですが、その父親常重と頼朝の父義朝が相馬御厨の所有権を巡る騒動もあり、「吾妻鏡」にあるようにただちに三〇〇騎をもって頼朝の救援に駆け付けたわけでもないようです。
それはともかくこのやぐらは、玄室奥壁中央部の大きな龕(がん)が切り石でふさがれている独特の形態であり、玄室左奥の一石五輪塔も非常に珍しいものです。伝承とはいえ被葬者の名前が知られているきわめてまれなやぐらとして貴重です。
♪新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし 茫洋
Tuesday, March 24, 2009
「瓜ヶ谷やぐら」を訪ねて
今度は坂道を東にわたって田圃に降りて海蔵寺の麓あたりに位置する瓜ヶ谷やぐらに向かいます。ここは別名「東瓜ヶ谷やぐら」、五つの穴がありますが、一号穴は「地蔵やぐら」とも称される約二〇畳くらいの大型やぐらです。壁面には多くの彫刻があり、第一級のやぐらとして高く評価されています。この先の葛原岡神社付近はかつての刑場跡といわれ、このやぐらの山稜部では荼毘所の跡が発掘されているので、このやぐら近辺も一連の葬祭施設が点在していたと推測されています。
一号穴は天井の一部崩壊により造立時の床は底上げされていますが、地蔵菩薩を中心に仏殿形式が整っています。中央には地蔵菩薩坐像が鎮座しており、左腕と胸の間の溝に塗色らしきものがみられます。左壁には龕(仏像を納める厨子)と納骨穴、奥壁には高さ一六七センチの坐像、高さ一五一センチ厚肉彫の大五輪塔、龕と納骨穴がずらりと並び、右壁には鳥居と神殿、地蔵菩薩立像、神像、龕などがあり、神仏融合の面影が残っています。
二号穴は厚肉彫の大五輪塔があって梵字がよくのこっています。また三号穴は三方に石棚があって壁には五輪塔が八基刻まれており、彫りかけの状態のものもあります。
♪吾のため子のため母のため7年で地球を2周せしカローラの妻 茫洋
Monday, March 23, 2009
洋服解体新書
幕末から明治にかけて洋服の強制的な導入はさまざまな混乱をもたらした。たとえば和服は直線裁ちであるが、洋服は曲線裁ちである。曲線裁ちのできる洋服職人もそんな技術も不在だったので、足袋職人が最初の縫製士となった。足袋職人たちは外国人から仕立てを学び、洋服を解体しては組み立てて縫製を行なった。医学のみならず洋服も「解体新書」の時代があったのである。
江戸時代の洋服は「蘭服」と呼ばれていた。オランダ、阿蘭陀の蘭である。明治5年1872年学制公布の一環で詰襟背広の洋装が導入され、当時の帝大で明治19年1886年に軍服を手本として学生服が採用されたが、これは学生が着る蘭服だから、学ランと呼ばれるようになった。黒の生地に5つの金ボタンの詰襟に学帽というスタイルが以後の原型になったのである。
1980年代には日本被服工業連合組合が襟のカラーは白、ボタンは5個、装飾的な刺繍などが裏地に入らないことなどの細かな基準を決定。認証マークつけた。卒業式に女性が第2ボタンをもらう習慣の起源は武田泰淳の小説「ひかりごけ」(特攻隊員がひそかに思いを寄せていた兄嫁に軍服の第2ボタンを渡した)という説があるそうだが、そんなことが書かれていたかなあ。
(後段の情報は朝日新聞のコラムより転載しました)
♪我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな 茫洋
Sunday, March 22, 2009
母7周忌に寄せて
真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声
われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし
天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり 日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音 教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり 陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり 千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき 白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな 我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う 母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ 太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花 千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり 滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
Saturday, March 21, 2009
「一四やぐら」を訪ねて
私たちはまず北鎌倉の「西瓜ヶ谷やぐら」を訪ねました。鎌倉時代に鎌倉とそれ以外の地を切り離している地点に十王堂橋がかかっていました。ここには関所(交番)もあり、この十王堂橋から大切岸(瓜ヶ谷やぐら)または梶原方面に抜ける切り通しがあったと伝えられています。あの一遍上人が北条時宗によって追い払われたのもまさしくこの場所ですが、私たちはここから坂を登ります。
「西瓜ヶ谷やぐら」は別名「一四やぐら」ともいわれ、このやぐらを含む森全体が遺跡とみられています。かつてここには寺院があり、埋蔵物も多いと考えられています。
ちなみにこの瓜ヶ谷という地名は、かつて源頼朝の乳母、比企の禅尼がこのあたりで瓜園を造ったからだそうです。そのせいか、この近所では都会では珍しくまだ田圃が残っています。
山麓にある「一四やぐら」は鎌倉時代後期の造立で、一級の厚肉彫五輪塔が残存しています。五輪塔とは五つの鎌倉石を積み上げた塔で、下からそれぞれ地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼んでいます。
ここでは故人の冥福を祈る追善供養のために、初七日から7日ごとに五輪塔を造り、後に一周忌などの法要にさらに塔を増築したと思われます。また中央の大型の塔(四五日法要用)には梵字の一部が残っています。
板碑と五輪塔はかなり風化していますが二か所あり、上段のやぐらは左側にも広がっていると考えられます。五輪塔の下の塚は人工的に盛り土されたもので「富士塚」または「経塚」跡とみられています。
♪息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき 茫洋
Friday, March 20, 2009
早春賦
今年もまた春が来ました。亀田さんの庭に桜の花が咲き、樋口さんの庭ではだいぶ前から白いモクレンが咲き誇っています。
朝の驟雨がお昼にはおさまって青空がのぞいたので、妻君と一緒に近くの朝比奈の滝まで散歩に出かけました。土饅頭のようなうてなの上には、朝の光をさんさんと浴びて、無数のスミレが可憐な水色の花をつけています。
私は漱石の「菫程の小さき人に生まれたし」という俳句を思い出し、生まれ変わったら来世ではこの美しい植物、あるいはその上空を飛び回っていたルリタテハになりたいと念じたことでした。
漱石は絵も字も名刺までもとても小さくて細いのを好む人で、それがこの作家の独特の繊細さと狂気すれすれの神経過敏の度合いを物語っていると思います。
どうして急に漱石を思い出したかというと、私の家のカレンダーが漱石だからです。1年12か月の12枚全部が、漱石が実際に書いた和洋の数字でできているという、世にも不思議なカレンダーを毎日眺めているので、散歩しているときにもふいに漱石が出てきたのでしょう。
朝比奈の滝が昨夜来の雨で増水して音を立てて落下しています。すぐそばには鎌倉市が2,3日前に立てた「国史跡朝夷奈切通し」の看板があって、当地の由来が4カ国語で説明されています。
私たちは無人の朝比奈峠をゆっくりと登って行きました。左右の沢からは清流が勢いよく流れ下り、その音がウグイスやキセキレイのさえずりと混じってまるでこの世の極楽のような気持ちにさせてくれます。
私は妻君を落葉が散り敷いた斜面に案内し、「ほら見てごらん、今年もオタマが孵ったんだよ」と自慢げに言いました。もう10年以上前からこの一角はいろんな種類のカエルが水溜りで交尾し天然自然に産卵する、市内でも貴重な場所なのです。ところが市の土木課が突然「世界遺産にするための環境整備」と称してこの周辺の樹木を伐採し、いままであった数少ない水溜りをブルドーザーで埋めてしまいました。
仕方なく私は長靴を履き、スコップを持って汗だくで原状を回復してやったのですが、そのささやかなスペースに今年もまたいくつかのカエルの卵とそこから孵化した小さなオタマジャクシを見つけたときの喜びは、なにものにもかえがたいほどでした。
「あらまあ、おかあさんガエルがいるじゃないの」
と妻君が驚いたように言いました。見ると水溜りの中に一匹の黄色いカエルが両手と両足を少し広げるようにしてふわりと浮かんでいます。
「おやおや、これはびっくりだ。ようこそカエルさん」と私が言うとそのカエルが突き出した瞳をちょっと右に動かして私たちの方を見ました。
カエル君をあんまり驚かせるとよくないので、隣の水溜りを覗いてみると、なんとそこにももう一匹のチビガエルがあわてて水底に潜り込もうとしていました。市役所があれほど野蛮な工事を行なったので、あんきに冬眠していた動物たちは全滅したのではないかと心配していたのですが、杞憂だったようです。
「また昔のように一〇組以上のカエルが盛大に交尾するようになると楽しいよね」
と妻君が言ったので、私は「うん」と大きく頷き、
「しかしこのままだと蛇や人に見つかって全滅するおそれがあるから、ここのオタマを今のうちに分配しておこう」
と言いながら、掌に掬った小さなオタマジャクシを、近くの他の水溜りにせっせせっせと移してやりました。
家計や日本経済と同じで、こういう風にリスクヘッジしておかないと、現在またまたま繁盛している生息箇所も、初夏の旅立ちまでの長丁場に、不意に破壊されたり、死滅してしまう危険があるのです。
「やっと終わったぞ。今年もなんとか元気に生き延びてくれよな」
と、祈る思いで緑色のうるんだ卵の塊を見つめていると、
「おとうさーーん。おかあさーーん」
という野太い声が、峠の麓の方から聞こえてきました。私たちが散歩に出たと知った長男が、急いであとを追いかけてきたのでしょう。
声に驚いてウグイスが飛び立った椿の梢から、一輪の紅い花弁がぽとりと落ちました。
♪コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな 茫洋
Thursday, March 19, 2009
アーサー・ウェーリー英語訳・佐復秀樹訳「源氏物語3」を読んで
アーサー・ウェーリーによる源氏物語は谷崎などの翻訳とは一味もふた味も異なっていて、物語の進行速度がはやい。物語の推進を邪魔する枝葉の部分を大胆にカットしていること、紫式部が念入りにこさえた、どこが頭でどこが尻尾か分からない海鼠のような文章を、ここが主語、ここが述語、ここが形容句という風に因数分解して、抜群によく切れるナイフで整除しているために、そういう爽やかで明快な印象が際だつのである。
進行速度ということでは与謝野訳が早い方だが、仮にこれをモデラートとすると、ウェーリーはアレグロ、谷崎はアダージオというところだろうか。調子に乗ってもっと音楽に喩えると、谷崎版はフルトヴェングラー、ウェーリー版はトスカニーニ指揮のテンポで、この世界で3番目に偉大な交響絵巻を演奏している感じがする。(ちなみに1番は旧約聖書、2番はシェークスピア、3番の同着はプルースト)
この第3巻で源氏はあっけなく息を引き取り、物語は彼の息子の世代の活躍が始まるのだが、その疾風怒涛のプレストが、逆にこの不世出の大恋愛家にして大心理家の喪失の悲しみをそそっているのかもしれない。
葵上も、紫も、夕顔さえもが六条の御息所(「みやすんどころ」と読む)の怨霊に執拗に祟られてとり殺され、その恐るべき悲嘆が源氏のいのちを奪い去る。そしてその怨霊の呪いと祟りを当の御息所にさえ制御できなかったとすれば、平安時代の貴族や民衆の精神を支配していた魑魅魍魎の無量の闇の深さはいかばかりであったろう。
宮中を華やかに彩った美人も才子はもことごとく姿を消し、今年もまた紫の上があれほど眺めたかった桜が咲こうとしている。そして、その春の梅や桜の花々を目にした私たちは、あの美しく貞潔だった紫の儚い生涯と行方も知らぬ後生をゆくりなくも偲ぶことになる。思えば紫式部はなんという驚異の物語を遺したものだろう。
♪こぞの花いずくにありや春の風 茫洋
Wednesday, March 18, 2009
小川国夫著「イエス・キリストの生涯を読む」を読んで
イエスの言葉については郷里の丹陽教会で、S牧師をつうじて再三再四にわたって日夜聞かされたが、神やイエスの実在について、わたしはどうしても信じることができなかった。まことに失礼ながら、時折はまるで夜店の香具師のような説教だとも思ったものである。
それはこのたび小川国夫のこの聖書講義を読んでも、本当のところは同じように感じた。信じる者と信じられぬ者、神につく人とつかぬ人。彼らと私の間には、たったの1歩を隔てて、どうしても飛び越えることができない千尋の谷底が横たわっており、彼らはその谷の向こうから神聖なることどもを、さまざまに語りかけてくるのであるが、やはりそれらはすでに異界に居住する賢人、聖人の言葉であって、しょせん私のような異邦人には解しがたい言葉なのであった。
そもそも新約聖書は、神様と人類のあたらしい契約、約束の書であるから、罪を犯した人類のために犠牲となったイエスの聖なる言葉とその復活を信じない者が読んでもほんとうは意味をなさない。契約を拒んだり無視しようと決めた人間などが手にしてはならない文書であると言っても差し支えないだろう。
しかし私は、謎のようなエホバの言葉、意味が分からないけれども妙に惹かれるイエスの言葉の深遠さに文学的な面白さを感じて、新旧ふたつの聖書を折にふれてひもとくようになったのである。
例えば私は、虐げられた人々の側に立って、「あなたたちの中で罪がない者がまず石を彼女に投げつけるように」(ヨハネ伝8章)と優しい言葉をかけるイエス、そして、その反対にエルサレムの神殿に乗り込んで、牛、羊、鳩を売る者を追い出し、両替する者たちの机を覆し、「私の父の家を商いの家とするな」と怒り、「この神殿を壊すがいい」と阿修羅のように絶叫する秩序破壊者のイエスが好きだった。(P113~118)
精神の王国にしか住めないイエスは、商業による蓄財と家族による平和の絆を本心では蛇蠍のごとく忌み嫌っていたのではないだろうか。そして少年時から青年時代にかけての私は、そんな「戦うイエス」を激しく愛していたのである。
けれども私にとってキリスト教はついに異国の一神教にすぎず、神と聖霊と子は難攻不落の砦であり続けるだろう。しかし、次に掲げる「南北戦争に従事して盲目になったある南軍兵士の祈り」なら私にも理解できるし、これを“神様の御業”と讃えた亡き大伯母の気持にも素直に寄り添うことができそうだ。
「答えられた祈り」(原文英語、アイリーン・ベン投稿 左近允訳)
功績をたてるために神の力を求めたのに
謙遜に従うことを学ぶように無力にされた。
もっと大きなことをするために健康を求めたのに
もっとよいことをするように虚弱を与えられた。
幸福になるために富を求めたのに
賢くなるように貧しさを与えられた。
人々の称賛を得るために権力を求めたのに
神の必要を感じるように無力を与えられた。
人生を楽しむためにあらゆることを求めたのに
あらゆることを楽しむためにいのちを与えられた。
求めたものは何も得られなかったのに、
望んでいたものは何でも得られた。
ほとんどわたし自身にかかわりなく、わたしの無言の祈りは答えられた。
すべての人の中で、わたしは最も豊かに恵まれた。
「ああ神様、おお、しかし神様」と身もだえしながら祈りしわが父よ 茫洋
Tuesday, March 17, 2009
感傷的な日記
昨日は久しぶりに東京に出ました。お世話になっている方が先日結婚式を挙げられ、おまけに新居も完成されたというので、長男が通っている施設で作った陶器を差し上げるつもりで紙袋に入れて駅までのバスに乗ったのですが、ここでまたしてもお得意のポカをやってしまいました。座席の隅に置き忘れてしまったのです。
それに気が付いたのは駅の改札を通り抜けてしばらくしてからのこと。急いで引き返しました。スイカ・カードを入口に駅員さんに見せ、「用事が出来たので電車に乗らずに外へ出たいんだけど」と言うと、20代前半とおぼしきその若い女性は、にっこり笑って「いいですよ」と言って入場料金を消してくれました。ほんとうはこのケースでは私がスイカを改札機にくぐらせて初乗り料金を支払わなければいけないのでしょうが、彼女は私にそうしろと言う代わりに格別の配慮を示してくれたのです。
改札口を出た私は、さっき降りたバスを捜しましたが見つかりません。焦った私がうろたえていると、京急バスの職員さんが、「どうかしましたか」と尋ねるので、「これこれしかじかで困っている」と説明すると、忘れものの形と中身を確かめてからすぐに携帯でバスの駐車場を呼び出し、「すぐにこちらに向かうバスがあるので、忘れものを持ってこさせます。あなたは5番のバス停のところでしばらく待っていてください」と言いました。
待つことしばし、「大丈夫かなあ」とやきもきしていた私の前に、突然さきほどの駅員さんが現れ、「忘れ物はこれですか」とくだんの紙袋を差し出しました。「そうです、そうです、これです、これです」と私はいっぺんで嬉しくなり、「ほんとうにありがとう。助かりました」と頭を下げますと、その30代後半の職員さんも自分のことのように喜んでくれ、丁寧に帽子を取って「いえいえ、うまく出てきてよかったです」と言いつつお辞儀をしながらにっこり笑いました。
しばらくして横須賀線の車上の人となった私の心のうちに、次第にほのぼのしたものがこみあげてきました。私は、いまさらながら「親切」ということを思いました。この人たちが私に対して示してくれた親切は、企業の規則やマニュアルに従った行為ではありません。ささやかではあっても、彼らの心の裡に生まれた自発的な行ないです。目の前で人が困っている。だから助けてあげよう、という素直な気持ちです。それが私の心に響いたのです。
「小さな親切 余計なお世話」という言葉もありますが、この世知辛い世の中でさりげなく小さな親切を実行する人たちは間違いなくこの世の宝であり、社会の根っこを支えているはずです。その証拠に、昨日私が直面したトラブルを昨日の二人のようにさりげなく処理する国など、おそらく世界中のどこの国にもないでしょう。
まさに「小さな親切 大きな感動」ですね。こうして久しぶりに拙い日記を綴りながら私にとってつくづく昨日は格別に良い日であったことが振り返られ、それと同時に、その恩返しということではないのですが、私もできるだけ人には親切にしよう、と殊勝にも思ったことでした。
♪春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく 茫洋
Monday, March 16, 2009
「やぐら」はインド、中国渡来
広辞苑によれば「やぐら」とは「岩石に穴を掘って物を貯蔵しておく倉。また墓所。鎌倉付近に多い」と解説され、矢倉あるいは窟という漢字があてられ、イハクラ(岩倉)の訛りではないかと想像されています。しかしこのような即物的な記述ではこの窟の宗教的な背景を捉えそこなってしまうことは前回に申し述べたとおりです。イハクラがどうしてやぐらに転訛したのかも言語学的にはおおいに怪しまれるところです。
斉藤顕一氏の見解では、やぐらという言葉自体が江戸時代になって定着したものだそうです。つまりあのような岩窟を鎌倉時代になんと呼んでいたかは分からないというのです。鎌倉時代から江戸時代までにはおよそ400年の歳月が横たわっていますが、私たちが現在鎌倉と鎌倉時代の文物についてもっともらしく語っている情報の7割以上がで出所が不明か怪しいと言われるのですから、なにを信じ、なにを退けていいのかおおいに迷います。
さてやぐらの形状については、山腹に垂直面、前面に平場、矩形の開口部、垂直の内壁と平天井、玄室・羨道・羨門という特徴を持ち、その機能としては納骨と供養をつかさどります。また火葬にされた骨を埋葬するための骨蔵器が仏像や五輪塔、宝篋印塔、板碑、壁面浮き彫りなどの傍に備え付けられており、床下には壇と龕があります。
やぐらからは華瓶、茶碗、かわらけ、小皿、写経石、古銭、鏡などが出土することが多く、内部で使用されている塗色は胡粉、漆、金泥などです。
またやぐらの起源については、鎌倉時代の宋から渡来したさまざまな文物、宗教、文化などのなかにこのやぐらという思想と建築物があって、時の幕府の要職にあった人々がこれを先進的に取り入れたのではないか、という学説が有力だそうです。ということはこうしたカルチャーはおそらく西インドのエローラ、アジャンターなどの石窟寺院や仏教文化がさまざまな仏像と共に中国に東漸し、これが朝鮮半島を経由してわが国に渡来したのでしょう。
鎌倉の立派な石窟を眺めているとE.Mフォスターの小説「インドへの道」の謎の場面が思い出されます。
♪遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら 茫洋
Sunday, March 15, 2009
鎌倉の「やぐら」を訪ねて
鎌倉ガイド協会が主催する「やぐら」探訪シリーズの第3弾に参加しましたので、ここしばらくはその報告をしたいと思います。なお、これから記述する内容は、同協会制作の資料とツアーコンダクターの斉藤顕一氏のコメントに小生の感想を随時付け加えたものですあることをお断りしておきます。
「やぐら」とは中世鎌倉を取り巻く山稜、山腹を穿って造られた横穴式墳墓のことです。ここは小さな石造りの仏殿であり、埋葬、納骨のための墳墓窟でもありました。
この埋葬、納骨は、当時の人々が浄土を求めるひたむきな願望の表れとして営まれたものですから、やぐらは単なる岩窟ではありません。こうしたやぐらのある谷戸全体を聖なる宗教的空間としてとらえる必要があるのではないでしょうか。
さてこのやぐらに埋葬されたのはまずは僧侶たちであり、次にはその僧侶を尊崇して同じ場所に葬られたいと願っていた武士たちであると考えられています。これらのハイソサエティに属するエリートたちはその大半が火葬にされ、やぐらの内部に丁重に葬られましたが、それ以外の一般大衆はほとんどが海岸の近くに土葬にされました。彼らの身体は清浄な海の砂によって清められたと考えられます。
ちなみに現在由比ガ浜のすぐそばにある駐車場や消防署、京急バスの事務所や裁判所などの地下には、これら鎌倉時代の民衆の無数の遺体が発掘されました。私は以前これらの発掘現場に行きましたところ、由比ガ浜の地下数メートルのところに3人の親子と思しき全身の骨が、相模湾の夕日に照らされていた荘厳な光景を忘れるわけにはいきません。
親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや 茫洋
Saturday, March 14, 2009
ビゼーの「カルメン」を観たり聴いたり
ジョルジュ・ビゼーは1875年にモーツアルトと同じ35歳で死んだ。活躍した時代は1世紀近く離れており、その作風も作品の数も違うが、その音楽の純なること、歌の直截さ、そして泉のように汲めどもあふれる旋律の美しさという点では、似ていないこともない。ともかく素晴らしい音楽と歌が次々に出てくるのである。
ところで、ビゼーの歌劇「カルメン」の第4幕の大詰めでは、表題役のジプシー女(最近ではロマというそうだ)が、恋に狂う元伍長のドン・ホセに執拗に復縁を迫られるのだが、断固として哀れな男の求愛を拒否するところが、どこか騎士長に「悔い改めよ」と強要されて三度ノン、ノン、ノンと拒んでついに地獄落ちしてしまうモ氏の傑作「ドン・ジョバンニ」の終幕と似ている。もしかしてビゼーが真似(引用)をしたのではないだろうか。
ここのところを2つの映像で見ると、演出と指揮を兼ねたカラヤン・ウイーン国立歌劇場soによる1967年の劇場映画版(グレース・バンブリーのカルメン、ジョン・ヴィッカーズのドン・ホセ)よりも、07年の新国立劇場版(ジャック・デラコート指揮東フィル、マリア・ホセ・モンティエルのカルメン、ゾラン・トドロヴィッチのドン・ホセ、鵜山仁の演出)の方が第2幕の空間設定と共にはるかに勝っていた。
カラヤンという人は交響曲や管弦楽では破綻が多いが、(77年普門館日本公演ヴェートーヴェンの5番、6番の超レガート奏法でいっぺんで辟易)、ことオペラではつねに満足できる演奏をする不可思議な指揮者であるが、調子に乗って演出や映像監督に手を出すとこれがまたいつも失敗に終わるので有名だった。
そのことはビルギット・ニルソンが自伝で「彼はちっとも歌の練習をしないで舞台美術ばかり熱中している」と文句を言っていることでも分かるし、この劇場映画の第2幕のダンスでマリアンマ&スペイン舞踊団を起用したのはいいけれど、肝心の音楽と舞踊のリズムがばらばらであることにも如実に表れている。
しかしカラヤンの音楽と歌のなんと生命力にあふれていること。ジャック・デラコート指揮東フィルなぞ足元の爪の垢にも及ばない。
カラヤンは歌手をのびのびと歌わせている。後にベルリンフィルと入れた時はアグネス・パルツアだったが、この劇場映画版のカルメン役はグレース・バンブリー、1964年に同じウイーンフィルと入れた時はレオンタイン・プライス(「クリスマスの歌」の名盤あり。お相手のドン・ホセはフランコ・コレルリ、ミカエラは劇場映画版と同様ミッラ・フレーニ)でいずれも黒人だった。1987年ただ1度だけウイーンフィルの元旦コンサートに出演した時もキャスリーン・バトルという黒人のスーブレット・ソプラノを起用して「春の声」を歌わせていたから、結構黒人の声の魅力をかっていたのだろう。
そのグレース・バンブリーは2年前に来日してなんと70歳記念コンサートを行ったがすでに往年の面影はなく、時間にルーズで我儘なためにジェームズ・レバインからメットを追放されたキャスリーン・バトルも次第に活躍の場を失いつつあるようだ。
己の屁の臭い嗅ぐああ生きておる 茫洋
Friday, March 13, 2009
吉田秀和著「永遠の故郷 薄明」を読んで
冒頭に懐かしいヴィクトル・ユゴーの詩が掲げてあって、そこからこのフランス語とドイツ語と日本語が入り混じった多声的な語りに加えて、随所に手書きの楽譜が自在に挿入され、もはや小林秀雄の入眠落語を超越した吉田翁独自の音楽と文学と人生のたわむれが緩やかにはじまる。
Limmense bonte tommbait du firmament.(アクセント符号・記号等を省く)
「測り知れぬほど大きな優しさが大空から降りてきた。」(吉田秀和訳)
そういえばユゴーには、私の好きなこんな言葉もある。
「海よりも広いのは空である。空よりも広いのは、人の心である。」
新しい音は昨日の思い出を、昨日の思い出は明日の人生を、そして今日の人生がまた若き日の記憶の底へと古池の落葉のように沈んでいく。
語り部は、はたしてまだ生きているのか、それとも、もう死んでしまったのか、冥界からの子守歌のような無限旋律は、われらの心を限りなく慰藉するのである。
土佐文旦ずしりわが失いしもの程の重さかな 茫洋
青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず
Thursday, March 12, 2009
鎌倉の廃仏棄釈 十二所の歴史と宗教 その2
明治初年の廃仏毀釈によって鶴岡八幡宮寺の大伽藍や仏像や宝塔はことごとく廃棄され、価値ある仏像や経文の多くは市内や遠くは浅草寺にまで散逸してしまった。先日の中国清朝の彫刻やインドのガンジーの眼鏡と同様、文化財は本来の場所に返還されねばならない。
神仏分離令では一夜にして坊主が神主になり替わった。それまで縦に木魚などを叩いていた僧侶が突然横に幣を振り始めたので脇を痛めて困っている、と当時の文書に書かれているが、ともかく神道では平気で魚などを食らい殺生していたのに、仏教ではかたく禁じていたから、大きな矛盾に逢着した。そこで両者が知恵を出し合って作ったのが放生会という儀式で、まずはウナギとドジョウを食らったあとでこれらの生き物を川に逃がしてやったのである。
鶴岡八幡宮には二五坊があるが、十二所にも数多くの僧侶が二五か所の寺院に多数住んでいた二五坊が存在したのではないかと考えられる。御坊谷、御坊橋、御坊井、御坊坂など現在の地名がそれを跡付けている。二五坊というのは阿弥陀仏が来迎する際にその周囲に連なっている二五の仏にちなむ二五の寺院を指す。
太陽の神は烏であり、月の神は兎と蟇蛙である、とするのは中国の神話であるが、それが日本に入ると太陽神はやはりカラスであるが、月からはカエルが姿を消してウサギだけになった。(竹取物語)。ちなみに中国の最高神は龍であるが、本邦に入ると鯉となった。
いずれにせよ中国では日月の神は常に対になっていて、本地垂迹説によって本邦では日光、月光両菩薩のようにペアで仏が建造されることになる。十二所には御坊橋の近所に月輪(がちりん)寺の旧跡があるので、当然その付近に日輪寺もあるだろう。
あまでうす独白。
かつて私が日輪寺と想定した中世共同埋葬センターの向かいの谷戸は、三浦氏も寺院跡であると認められた
―日経連載中の小説を読んで
♪坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子 茫洋
Tuesday, March 10, 2009
十二所の歴史と宗教 その1
地元の十二所公民館に、鎌倉国宝館の三浦勝男氏が来訪され十二所の歴史と宗教について短い講演をされたので簡単に抄録しておこう。
まず鎌倉で往時の面影をいまに伝えているのは、ここ十二所と山崎と扇谷の3箇所だけである。特に十二所は滑川が流れ、船着き場があり、港へのネットワークが発達して盛んに交易を行っている点で「もっとも鎌倉らしい鎌倉」と言える。十二所は鎌倉七口のうち西御門(晩年の江藤淳が住んでいた)と並んで幕府にとってはもっとも重要な脱出口であった。(朝比奈峠から六浦を経て房総半島にいたる)
あまでうす曰く。巴里が仏蘭西にあらざるが如く、紐育が米国にあらざる如く、現在観光客が群れ集って殷賑を極めている小町通りなどは「もっとも鎌倉らしからぬ鎌倉」であろう。
次に、「十二所」(じゅうにそう)という地名は秋田県大館、兵庫県養老、福島県会津など数か所あるが、いずれも熊野信仰に基づく。当時の人々は、死ぬとその霊は「八咫烏(やたがらす)」という三本足のカラスが熊野にまで運ぶという信仰があった。だから熊野は、それらの霊を祀り穢れを清める神聖な霊場であった。また熊野神社は空海ゆかりの高野山系真言宗の本拠地でもあるが、後白河法皇などは源頼朝から金千両をせがんでは幾度も熊野に詣でた。
しかしその熊野にいます十二神をワンンセットで勧請したのは当地だけであり、そういう意味ではきわめて格式が高い。しかもそれを鎌倉の光触寺に勧請したのはほかならぬ一遍である。
一遍は時宗を興した。彼は当初は時宗ではなく「時衆」と称していたが、北条氏の弾圧により改名せざるを得なかった。時宗は同じ鎌倉新宗教の禅宗に似ていて、己の欲を断てと民衆に説き、財産や係累のすべてを捨てよと力説した。そのために光触寺の住職と懸命に資料を捜したが出てこなかった。恐らく一遍が全てを廃棄したのだろう。
その一遍は1282年に小袋坂から鎌倉に入ろうとしたが北条時宗に追い返された。親鸞も同様で、宗祖としてただ一人入鎌できたのは日蓮だけだった。大きな法難を被ったにせよ、それが可能だったのは、彼の出身が千葉の網元でそこが北条氏の領地であったことが影響していると考えられる。
月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり 茫洋
追伸 昨日アップした「レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「海への新しい小径」を読む」は「滝への新しい小径」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。
Monday, March 09, 2009
レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「滝への新しい小径」を読む
五〇歳で亡くなった米国の作家の遺作詩集である。
ガンで五〇歳の男が死ななければならない、ということはどういうことか、次の詩を読むと分かる。
「若い娘」
思わずたじろいだ出来事をみんな忘れてしまおう。
室内楽にかかわることもすっかり忘れてしまおう。
日曜日の午後の美術館だとか、そういうあれこれ。
古き時代の巨匠たち。そういうものすべてを。
若い娘のことも忘れよう。なんとかしっかり忘れてしまおう。
若い娘たち。そういうあれこれすべて。 ―The Young Girls
そして、カーヴァーの最後の詩集のいちばん最後におかれたのは、次の数行だった。
「おしまいの断片」
And did you get what
You wanted from this life,even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved,to feel myself
beloved on the earth. ―LATE FRAGMENT
生涯の最後の最期である 人よ何を想うか 茫洋
Sunday, March 08, 2009
小松祐著 小学館日本の歴史「いのちと帝国日本」を読む
明治時代中期から1920年代までを取り扱う本巻は、通時的叙述ではなく、「いのちと戦争」、「いのちとデモクラシー」、「いのちと亜細亜」という3つの主題ごとに共時的にテーマを設定して人民と帝国の相関関係を骨太に追っている。そして時代を経るごとに、われら臣民の生命がどんどん精密に管理され、秩序化されていくありさまが具体的にえぐりだされていく。
まずは文明国への入学試験である日清戦争とその卒業試験である日露戦争への悪魔的な道行の過程が克明に描かれるが、もしも日本が近代日本史の試験をやりなおすことができるとすればやはりこの段階だろう。
著者によれば、当時平民社では階級的視点に立つ非戦論を唱えながら幸徳秋水、安部磯雄などがスイス、オランダ、デンマークなどの小国を理想とし、軍事大国化路線を否定して民衆生活の安定と地方自治の確立、教育・社会福祉の充実、科学技術の発展などを通じて小国自立をめざしていた。
こうした考えは歴史的には自由民権期の中江兆民や植木枝盛、明治20年代の国粋主義者三宅雪嶺にもさかのぼることができるが、すでに田中正造も「いのち」の観点に立つ非戦論を唱えていたし、与謝野晶子、大塚楠緒子流の肉親愛に立脚する非戦論、さらには宮武外骨流の良心的非戦論者なども一定の影響力を持っていた。
また同時代の柏木義円の「柔和なる小日本主義」から見れば、日露開戦の理由などまったくみあたらないし、両国が旅順や二〇三高地で大量の犠牲者を出す必要はなかった、ということになる。
スイスを理想とする柏木の思想は、のちに「東洋経済新報」に拠る石橋湛山の政治思想に影響を与え、小さくともキラリと光る国をめざした武村正義などに引き継がれて現代にいたっているが、世界のグローバル大国との熾烈な競争と徒労に満ちた角逐を放擲して、あえて「アジアの一小国」へと隠遁することも二一世紀末葉の日本の魅力的な選択肢ではないだろうか。
ああ疲れた重き荷物を抛り投げて懐かしの峠の我が家に帰るのだ 茫洋
Saturday, March 07, 2009
橋本征子著・詩集「破船」(2004年刊)を読んで
「夏の呪文」「闇の乳房」に続く最新の第3詩集が本書である。
北の国で積み重なった幾星霜が、この詩人の思想をさらに深く沈潜させたのだろうか、その詩的世界はますます豊穣な収穫を生み出しているようにみえる。
例えば「吹雪がぴたっと止んだ夜 急にまたたき始めた星に気をとられて転んでしまった」という詩句から始まる「地底びと」を見よ。
地下鉄工事現場の覆工板から覗いた野戦病院のような灼熱の空間には、上半身裸の赤銅色のたくましい腕に青の薔薇のタトゥーをした男達が地底を掘り進めており、縄梯子を伝ってさらに下っていくと、青い海の底の部屋で籐の椅子に腰かけた若い女性が薄桃色のケープを編んでいて、よく見ればそれはいまは亡き母の姿であり、わたしはいつの間にか母となり、母はわたしと化してしまう。
さりげない日常のささやかな割れ目からするすると異界へ忍び込むと、過去の思い出や、忘れ難き幻影、懐かしき面影が茫洋と立ち上がり、詩人は遭遇した他者や「もの」たちへといともたやすく憑依して、軽々と自己滅却と自己再発見の旅へと旅立つのである。
そしてそのあとに残される風景とは、次のようなものであり、ここに詩人の詩作に対する秘法と、生の基本的な枠組みが一挙に示されているように思われる。
「もうそのひとはいない 覆工板の
間からあかあかと光が洩れているだ
けだった 地底びとよ 燃える水の
神殿に沈んだ者たちよ 地を這うわ
たしを身守れよ わたしが地の底の
眠りにつくまで 海の母乳をむさぼ
る嬰児となるまで――」
ちなみに、著者は詩誌「極光」同人で日本現代詩人会、日本詩人クラブ、北海道詩人協会の会員である。
金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる 茫洋
Friday, March 06, 2009
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
照る日曇る日第238回
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
Thursday, March 05, 2009
鈴木和成著「ランボーとアフリカの8枚の写真」を読んで
最近詩人アルチュール・ランボーの研究は、彼が37年の短かい生涯の中でアフリカで過ごしたおよそ10年間の後半生における生活と文学活動に集中している感がある。
17歳でパリ・コンミューンに加担し、19歳で「地獄の季節」を出版し、20歳で「イリュミナシオン」を完成し、21歳でピストルで撃たれた「恋人」ヴェルレーヌと決別し、23歳で明治日本へ行こうと夢見た天才詩人は、25歳にしてはじめて東アフリカ、現エチオピアのハラルを訪れ、当地を拠点として武器弾薬、象牙、香料、コーヒー等をなんでもあつかう灼熱の砂漠の大商人として活躍するのだが、この間に友人知己、家族、地理学協会に書き送った書簡が、若き日の詩作に勝るとも劣らぬ「文学作品」として、彼のアフリカ生活と共に再評価されているようだ。
かつて黄金のように輝かしい詩篇を生み出したこの19世紀最大の詩人は、けっして詩作を断念したのではない。いっけん無味乾燥と考えられがちな、この簡潔で事務的な商業文、そしてその行間から立ち現れる「新アフリカ人」としての生活、偉大な大旅行者の足跡そのものが「生の文学」に他ならない。あの南太平洋に遁走したゴーギャンが、旧態依然たる西欧美術に弔鐘を打ち鳴らしたように、ランボーもまた、というのである。
1891年11月10日午前10時、ランボーはフランスの港町マルセイユのコンセプシオンン病院で全身がん腫に冒され、右足切断の犠牲も空しく没するが、最後の最後までアフリカに戻ること願い、その遺言は「何時に乗船すれがばいいかお知らせください」であった。ランボーは恐ろしい激痛を堪え、彼の最期の作品を死を賭してマルセイユで書いた。
またランボーは、巨費を投じて当時の最新メカであったカメラと撮影機材一式をパリからハラルに送らせ、彼自身のポートレートを含めた8枚の写真を撮ったが、それが本書の執筆動機になっている。ある意味では晩年の詩人のドキュメンタリー的小説であり、ある意味ではアフリカにおけるランボー研究の最新レポートであり、またある意味ではランボー研究家が自作自演する色っぽい推理小説でもある。
色っぽいといえば、著者はヴェルレーヌとの関係において「ランボーは女であった」と断定しているが、それはどんなものだろう。アフリカにおける彼の多彩な女性関係や「地獄の季節」における性的叙述、そしてなによりも両者の詩風(男性的なランボーと女性的なヴェルレーヌ)を考えれば、その役割は逆ではなかったか、と愚考するあまでうすでありました。
少年にして少女のかんばせ カルジャが撮りし17歳のランボー 茫洋
Wednesday, March 04, 2009
網野善彦著作集第4巻「荘園・公領の地域展開」を読んで
本巻の月報で犬丸義一が若き日の網野について書いている。
1949年4月犬丸が東大に入学したとき、網野は歴研を代表して挨拶した。
この年は1月の総選挙で共産党の議席が一挙に35に伸張し、東大生の支持政党の第一位が共産党になった左翼の季節で、巷では「9月革命説」が流布していた。実際に国史学科に入った16名のうち実に9名が日共に入党している。
網野は卒業後は渋沢敬三の日本常民文化研究所に就職し歴史研究会の委員として活躍しながら、日共の指導部にいて引き続き革命運動に打ち込んだ。国民的歴史学運動の華やかな展開の中で、青年歴史家会議の議長に就任し、歴史家会議の指導部にいた石母田正、松本新八郎、藤間生大などと共闘していたのである。
当時党の地下指導部からはカーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類が配布されていたが、犬丸はそれを月島の常民文化研究所にいた網野から受け取って、民科歴史部会のグループ員に渡していたという。
53年3月、犬丸は網野らの指示によって深夜密漁漁船で当時国交のなかった共産中国に渡り、北京郊外の中国人民大学で日本近代史、労働運動、共産党史などを教え、58年7月、中国からの最後の引き揚げ船白山丸で舞鶴港に着いた。
東京に着くと密出国の罪で留置・起訴されたが最終的には懲役3か月、執行猶予1年の判決を受けたが、網野は終生このことを苦にして責任を感じていたという。
もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが 茫洋
Tuesday, March 03, 2009
橋本征子著・詩集「夏の呪文」(1993年刊)を読んで
詩人が「あたしは」と呪文のようにつぶやくとき、地軸は停止し、世界は沈黙し、失われた遠い日の思い出が一挙に蘇る。
―とつぜん春になったので、ビルの最上階の歯科医院は歯槽膿漏の患者であふれ、エーテルの匂いのする若い歯科医はうっすらと汗ばみながら腫れた歯肉を切り裂いてゆく。
―わずかばかりの夏 あたしのひとりきりのたった一度の海 赤いビーチサンダルをはいた少年を波打ち際の砂に埋めた。少年の声は次第にうず高く積まれる砂の中で恐怖の声に変り 生温い海水の中に沈んでいった。
―ふとった女医が外科器の触れ合う音にうっとりしながら慣れた手つきで掻爬している。光は光にかみつき 次第に自滅し 太陽の手錠は少しずつずれて静かに夏は老いてゆく。
―晴れた秋の日 火葬場では人が燃え 隣のグランドでは 少年たちがラグビー球を蹴っている。
―冬が来た。けれどあたしの蹠の王国では時折夏の残照が燃えて 吹雪の夜 爪など切っていると剥きでた薄桃色の皮膚のうえに多肉植物の切り口のような緑の臭気がたちのぼってくる。
(以上は、別の作品の詩句を無断でコラージュさせていただきました)
詩人の心臓から流れ出した真紅の血潮は、乾ききった不毛の荒野を流れ流れて干天の慈雨のように私たちの魂を潤す。
天使のように優しく、悪魔のように大胆な性と聖と生の饗宴に、私たちは思わず言葉を失ってしまうだろう。
それにしても海や空を漂う夥しい嬰児の亡骸は、詩人の妄想であろうか。それとも亡霊に仮託したおのれの切実な体験であろうか。
♪言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました 茫洋
半藤一利著「幕末史」を読んで その2
明治6年の征韓論騒動は、林子平、会沢正志斎、吉田松蔭、橋本佐内、藤田東湖など多くの幕末の憂国の志士達の衣鉢を継いだ西郷明治政府が引き起こした国権拡張運動だが、
大久保などの非征韓論派に反対にあって引きずり降ろされた年末に、その西郷どんが、
白髪衰顔 意とする所に非ず
壮心 剣を横たえて勲なきを愧づ
百千の窮鬼 吾何ぞ畏れん
脱出す 人間虎豹の群
などと悲愴な漢詩を詠んでいるところをみると、やはり本気で討ち死にするつもりだったのだろう。
しかし西郷を下野させたその大久保が、不平士族などの怒りを国外に解消するべく「琉球人(日本人にあらず)の保護」を名目に台湾出兵を強行するのだから、征韓論者と選ぶところはない。どっちもどっちの海外覇権侵略主義者輩の蛮行であり、これの延長線上に日清、日露、大東亜戦争の悲惨があった。逆に言うと明治時代の台湾、朝鮮への出兵、武力進出がなければ大日本帝国の成立はなかった。
わが国を地獄の底まで引きずり込んだ元凶は、軍隊による統帥権の独立独占であるが、著者によれば、これは悪知恵の働く山県有朋の陰謀によって明治22年の明治憲法発布をさかのぼる明治11年12月5日にすでに確立されていた。「国の基本骨格のできる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していた」のである。
歴史に「たられば」はないけれど、しかしもしも著者が説くように、ペリー来航以来攘夷か開国かで大揉めに揉めていた大騒動が、1865年慶応元年10月に晴れて結着した段階で幕府と朝廷が1つに結束し、薩長などの尊皇攘夷派が暴力による倒幕運動に乗り出さなければ、少なくともあの無意味で悲惨な内戦だけは避けられただろう。
戦争と夫婦喧嘩はいともたやすく開始されるが、その終息ほど困難なものはない。茫洋
Sunday, March 01, 2009
半藤一利著「幕末史」を読んで その1
東京生まれの東京育ち、しかも祖父が戊辰戦争で官軍と奮戦した越後長岡藩出身という著者ならではの、じつに面白くてとても為になる幕末・明治10年史である。
当然ながら基本的には薩長嫌いの著者は、漱石や荷風同様、明治維新を「維新」ととらえるよりは、徳川(とくせん)家の瓦解、という視点からこの「暴力革命」の日々を眺めていくことになるわけであるが、しかしご本人がそう芝居がかって意気込むわりには、西郷も大久保も木戸も坂本も否定的に描かれているわけではない。
また著者ごひいきの勝海舟を引き倒していることもない。むしろ類書よりも彼らの行蔵を温かく親切に見守っている趣もあり、この人の懐の深さが思い知られるのである。
明治史を成り上がりの薩長とそれ以外の諸藩の内紛の歴史、つまり戊辰戦争の拡大ヴァージョンとして語ることは一面的であるかもしれないが、まさしく「長の陸軍、薩の海軍」、昭和になっても官軍閥が強力に存在していたのは間違いがない。
永井荷風は「大日本帝国は薩長がつくり、薩長が滅ぼした」と語ったそうだが、太平洋戦争直前の海軍中央部は薩長の揃い踏み。こいつらが日本をめちゃめちゃにした挙句、最後の最後に国家滅亡を救ったのが関宿藩出身の鈴木貫太郎、盛岡藩の米内光政、仙台藩の井上成美の賊軍トリオという不思議な暗合も因縁めいて興味深いものがある。
著者いわく。「これら差別された賊軍出身者が、国を救ったのである。」
勝てば官軍負ければ賊軍勝たず負けず不戦で行きたし 茫洋
Saturday, February 28, 2009
照る日曇る日第232回
異様な妄想に駆られたわが国の軍人たちが、赤の他人の国にでっちあげた奇妙な植民地、満州。1931年生まれの著者は、国民中学生として家族とともに敗戦1年後までの9年間をこの奇妙な植民地第3の都市ハルビンで過ごした。
総面積およそ130万平方キロで現在の日本の3.4倍、仏独伊を合わせた面積よりも広いこの王道楽土の大帝国は、関東軍の陰謀によってわずか半年間で誕生し、たった13年で崩壊した。
人口3000万の満州を、たった20数万人の日本人が支配できたのは、ひとえに関東軍の武力があったからだ。満州事変(宣戦布告すると中立国からの軍需資材の輸入がのぞめなくなるから、戦争ではなく事変と命名した)における死傷者は1199人だったから、日露戦争のわずか100分の1の犠牲者で、日本は満州全土を手に入れたことになる。
敗戦2か月前、学徒勤労令によって満洲の奥地にある王栄開拓団に派遣されていた中学3年生の著者は、1945年8月9日、ソ連侵攻の急報を受けて命からがらハルビンに帰還する。そこで見たものは中国人の白昼堂々の略奪と、われらが精鋭関東軍の鮮やかな遁走という悪夢だった。
ソ連の満州侵攻は寝耳に水だったが、じつは関東軍は、開拓団や一般市民を「棄民」して満州防衛から朝鮮防衛に作戦を切り替えることは敗戦の3か月も前から決めていたのだった。
やがてソ連軍がハルビンに進駐してくると、著者の周囲では暴行、襲撃、略奪、集団自決が相次ぎ、父は「いざという時のために」家族全員に青酸カリを渡す。そして次々に襲いかかる生命の危機と苦難に満ちた屈辱の日々がはじまる……
病気で寝ていた父は中国人の警官に連行され、ハルビンから約200キロ東南にある牡丹江の収容所に入れられ、九死に一生を得たものの、この時の無理がたたって舞鶴に引き揚げて三年後に五〇歳で世を去る。
また髪の毛を切って少年を装っていた姉は、突然侵入してきたソ連兵にマンドリン銃を突きつけられる。
「その時だった。母が飛び出して銃口の前に立ちふさがり、『まだ子供だから何もしないで!』とロシア語で叫んだ。小柄な母が仁王になった」……
我々の優秀な先輩たち、私やあなたの賢明にして愚かな祖父や父親たちが引き起こした未曾有の国家的災厄が、植民地に生きる平凡な一家族の身の上に突如嵐のように襲いかかり、日々の平安が根底から根こぎにされていくありさまが、一人の少年の汚れなき瞳にくっきりと映じる。
その描写はあくまでも冷静に抑制され、歴史的な事実が淡々と述べられていることが、かえって私たちの胸を打つのだが、同時に、「それらの惨劇がそもそもなぜ、どのようにして引き起こされたのか?」という鋭い問いかけも忘れられてはいない。「これだけは後世に語り遺しておきたい」という著者の熱い想いがひたひたと伝わってくるのである。
「一度目のあやまち」を故意に忘却しようとし、「二度目のあやまち」を犯そうとする日が急速に近づきつつある今日この頃、平成の大瓦壊期に棲息するすべての国民にとっての必読の書であろう。
これだけは次の世代に伝えたい 恩師が綴りし入魂の一冊 茫洋
Friday, February 27, 2009
西暦2009年茫洋如月歌日記
愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典
あやしくも胸揺るがすは極彩のジンタブラスの猛き咆哮
わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪に添いて妻と楽しむ
果樹園の白梅いまだ四分咲きにして富士のお山は本日見えず
長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜
大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む
遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ
つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら
明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった
嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳
雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君
オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ
香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり
余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけた白き髪
君は岳私は大天使ガブリエル二人で成りきる風のガーデン
お父さんがく君のがくは八ヶ岳の岳だよと息子いい
思藻がないから語らない 歌がないから歌わない
拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る
障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ!
キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人
悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし
おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで地獄の釜が抜けるまで
新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律
あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙あり
人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし
この春もおたまに出会いしうれしさよ
紅白の梅を咲かせた古家かな
落ちていく世界の底が抜けるまで
鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク
春雨を聴くや五尺の土の下
コゲラ叩く大樹の下を通りけり
ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり
♪青空や日本全国梅便り 茫洋
Thursday, February 26, 2009
牧原憲夫著「小学館日本の歴史・文明国をめざして」を読んで
明治7年1874年7月、に尊敬すべき父兄の遺体を平然と火葬する仏教徒に怒り狂った神道派の要請を受けて、同年7月、明治政府は「火葬禁止令」を布告すると、火葬派の仏教徒のみならず多くの国民からの反発が高まった。
著者によれば、わが国における火葬の歴史は、文武天皇4年700年の僧道昭からはじまる、と「続日本紀」に記されているが、実際にはそれ以前に火葬された人骨が多数出土しているそうだ。私の住まいのすぐ近所にも鎌倉時代の「国立中世火葬センター」の遺跡があるし、火葬は我が国の伝統的な古くからの葬礼作法のひとつだった。
お釈迦さまも火葬されたが、たまたまそれがインドの風習であったからに過ぎず、「そもそも仏教の教義と火葬とはまったく関係がない」と、著者はいう。実際当時の仏教徒の大半は土葬であり、江戸時代の江戸、大坂、京などで火葬が広まったのは、墓地不足が原因だった。
ただし浄土真宗だけは例外で、祖霊信仰を否定した親鸞が簡便な葬礼として火葬を勧めていたために、「火葬禁止令」が出ると、各地の門徒は土葬した墓の上で薪を燃やして心を慰めるしかなかったそうだ。
翌明治7年、「朱引内埋葬禁止令」が出されたのをきっかけに、火葬派がいっせいに反撃を開始する。「火ほど清いものはない。埋葬スペースが狭いから都市計画の妨げにならないし、どこで死んでも家族と離れずに郷里の墓に入れる」。「火葬は残酷だというが、「大切なる体を泥土中に埋め、漬物のように大石を置き、ゆるゆると腐らし、そろそろと蚯蚓責めにするのはいかがなもののか」などと、当局に懸命にアピールした。
事実「復活」に備えて遺体を保存してきたキリスト教国でさえ、都市の墓地不足や衛生を理由に火葬が盛んになり、ちょうどこの年には英国でも「火葬協会」が設立されていた。
ちなみに幕末に浦上の家呉隠れキリシタンが捕縛されたのも、仏式葬儀の拒否が発端だった。明治政府は幕府以上にキリスト教を弾圧して国際的な批判を浴びており、キリスト教式の葬儀や墓地をめぐるトラブルも絶えなかったのである。
その結果、明治8年5月には「火葬禁止令」は廃止され、神葬祭用に設置された東京の青山墓地や谷中墓地まで一転して宗教とは関係のない公営墓地になった。また同じ年の11月にはキリスト教を含めた信教の自由が公式に認められ、10年には神道派の拠点であった教部省が廃止され、役場による伊勢神宮大麻の配布も翌11年には中止された。
かつて私はジェーン・バーキンを鎌倉の収玄寺に案内したおりに、彼女から日本の火葬の歴史について質問され、恥ずかしながらろくに答えることができなかったのであるが、いまならなんとか説明できるぞ、と本書を読んでおそまきながら思ったことだった。
思藻がないから語らない 歌がないから歌わない 茫洋
Wednesday, February 25, 2009
梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その2
著者が梅棹忠夫、上山春平などと打ち合わせが終わって、京都・祇園のお茶屋で四方山話に興じていると、突然酔っぱらった吉川幸次郎が部屋に乱入してきた。
偉大なこの中国文学者は、酒が入ると荒れる傾向があったが、その日はなにやら異常な殺気のようなものが漂っていた。危険を感じた梅原はそっと席を移ったので、その結果吉川は梅棹の隣の席に座ることになった。
すると酒乱の大学者は、いきなり「お前がつまらん学問をやっている梅棹か。お前のやっているフィールド研究などというものはいい加減なものだ。文献を読まないような学問は学問ではない」と面罵した。
そこで梅棹が、「文献研究だけではとても歴史の真実は解らない。文献には結構嘘が書いてある」と反撃すると、当時70代の吉川は激怒して50代の梅棹に殴りかかった。
すぐに腕っ節の強い上山と福永光司が中に入り、すぐれた道教の研究者であるとともに柔道5段の福永が吉川をはがいじめにして隣室へ連れて行ったそうだ。
さらに梅原は、「その後ろ姿に梅棹が、『この馬鹿ジジイ』と浴びせた罵声が、いまだに私の耳の底に残っている。それは私の幻聴かも知れないが、確かに私はそう聞いたと思う。」と記してから、己の学問に絶対の自信を持つ2人の碩学へのオマージュを捧げている。
私はこの興味津々たるエピソードを目にして、梅棹忠夫と福永光司がさらに好きになったが、この「唐詩選」の編者がかのアルコール・ラムボオ的政治家、宮沢喜一や中川昭一と同じ穴の貉であることを知っていっぺんで嫌いになったが、なぜか本書の著者に対してもいささか興醒めしたことを告白せざるを得ない。
♪拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る 茫洋
Tuesday, February 24, 2009
梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その1
日本書紀によれば秦の始皇帝の子孫と伝えられる秦氏は、応神天皇の14年に百済より渡来し、優れた養蚕技術で仁徳天皇の御代に素晴らしい絹織物を生産したために「波陀」、雄略天皇の時代には、「うずまさ」の姓をたまわり、現在広隆寺がある葛野を拠点に京都盆地全体で隆盛を極め、京都文化の基礎を作ったといわれている。
現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの偉大な一族の末裔である。ちなみに私の丹波の郷里は古代からこの秦氏の一大根拠地であり、偉大な養蚕家にして基督教者、波多野鶴吉翁が創立された郡是製糸の本社もこの地にあった。
さて聖徳太子の政経ブレーンとして活躍した秦河勝は、太子一族の没落後、藤原鎌足の陰謀によって流罪の身となり「うつぼ舟」に乗って西海を漂い、播磨の国坂越に漂着し死後は大荒大明神として祀られた。
河勝には3人の子があり、1人は武を、1人は楽を、もう1人が猿楽を伝えた。武を伝えたのは大和の長谷川党で、楽を伝えたのは河内の四天王寺の伶人、そして猿楽を伝えたのが円満井の金春大夫である。世阿弥の娘婿金春禅竹は、秦河勝から数えて40余代の孫であるから、秦河勝は能の創始者といわれている。
また著者によれば、秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、彼の庇護者であった聖徳太子もそれに影響されたと思われる。ペルシアのササン朝に保護されたネストル派のキリスト教(景教)は当時ペルシアから中国在住の中国人(秦人)に広まり、それが朝鮮半島を経由して日本の播磨の国坂越に上陸してそこにダビデ礼拝堂が建てられた。それが現在の大避神社で、古来から存する井戸はヤコブの井戸であったと考えられる。
なお著者は、このキリスト教伝来と同時に、あの謎に満ちた摩多羅神も輸入されたのではないかと考えているようだ。
キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人 茫洋
提案と回答と感想 その2
○提案
鎌倉市の「障がい者計画」への要望
1「障がい者自立支援法」と合わせて市の障害福祉計画の見直しを!
「障がい者自立支援法」は、障がい者を無理やり自立させようとして施設から追い出そうとしたり、収入のない障がい者に従来よりも経費負担を強いて自活困難に追い込むなど、数多くの問題点をかかえており、現在各政党でも白紙撤回や改定を検討中である。従ってこの法律をもとにした障がい福祉計画の実施は、新法の成立までいったん中止しそれから再検討するべきではないだろうか。
2障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を!
市の障がい福祉計画の福祉施設から地域生活への移行の「数値目標」にあまりにも力点がおかれすぎている。施設からどうしても移行できない障がい者も数多く存在しているのに、そうした個人個人の実態とは無関係に年度別の数字で減少計画を立てることは無謀であり非人間的である。数値計画自体を撤廃し、もっと障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を充実させるべきではないだろうか。
3収容施設の増設を!
現在鎌倉市にはかなりの数の通所施設や地域作業所が存在しているが、入所施設は1か所しかない。今後その需要は急速に高まると予想されるので、その増設を希望する。
4「障害者」から「障碍者」へ
現在逗子市など全国の多くの市町村では、いわゆる障害者のことを「障碍者」と表記するようになっている。それは「障害」という表記がなにか悪いもの、世間に悪をなすもの、という印象をともなうところから、あえてニュートラルな「障碍」あるいは「障がい」という用語を使うように変化しているのである。本市でも遅まきながらこの表現法を採用されんことをのぞむものである。わたしたちは害虫ではない。
○回答
お寄せいただきましたご意見につきまして、次のとおりお答えいたします。
1について
平成18年度に施行された障害者自立支援法では、全市町村に「障害福祉計画」の策定を義務づけており、鎌倉市においても、鎌倉市障害者福祉計画を策定いたしました。
今回の計画の改定作業も、障害者自立支援法に基づき、国の指針を受けて、平成20年度末までに全市町村で取り組まなければならないものです。なお改定にあたっては利用状況やニーズをふまえ、検討や見直しを行います。
2について
障害福祉計画は、利用状況やニーズに対応したサービスの提供の確保を図るための数値目標を定めた計画となっています。数値目標やサービス種別は国の指針に基づき全国共通のものとなっております。なお、地域生活支援事業の部分につきましては、任意事業も含め、市独自の内容となっています。
利用者一人ひとりの利用状況に対応したきめ細かい事業の展開はとても大切なことと認識しており、計画期間中においては進行評価を行い、点検、管理をしていきます。
3について
いわゆる親なきあとのケアについては、市としても重要な事項としてとらえております。社会福祉協議会やNPO法人などと連携して成年後見制度利用支援事業などを推進していきます。
国は新たな入所施設を認めない方針でいるため、新たな施設を作ることは困難な状況ですが、施設入所が必要な利用者には利用者の生活環境や状況に応じた支援を実施します。さらに在宅でのサービスを利用する方への支援も事業者と連携を図り、事業の充実を図り実施していきたいと考えています。
4について
「障害者」の表記につきましては、鎌倉市障害者福祉計画を策定する経過の中で検討した際、「法律用語としてはひきつづき表現が残ることから今後も国の動向を見据えていく」、「表記よりもまず施策等の充実を図ることを推進すべき」という意見があり、「障害者」の表記を使用することとなった経緯があります。 しかしながら、ご指摘いただきましたように、表記を工夫している市町村もありますので、表現方法も含め、よりよい施策や事業の推進が図られるよう、表記から市民が受けとめる印象も考慮して、ひきつづき研究してまいりたいと思います。
今後とも、市民に信頼される市政を進めてまいりますので、ご理解ご協力のほどよろしくお願い申しあげます。
平成 21 年 1 月 7 日 鎌倉市長 石渡德一
○感想
市長より懇切丁寧な回答をいただいたことには感謝しているが、やはりお役所一流の官僚的な答弁の域を出ない点に不満を覚える。こういう要望にはこういう風に答えておけばよい、とでもいうような。
卒璽ながら私はこれから障がい者のことを「障ぐあい者」と呼びたいと思います。
障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ! 茫洋
Monday, February 23, 2009
提案と回答と感想 その1
○提案
拝啓 松竹本社殿
貴社築地歌舞伎座建て替え問題についての提言 このたび貴社が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをひとたびはめざされたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。 このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。 わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという都知事の鶴の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」こそ、貴社が、そして私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。 だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊してきた三菱地所さんもかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままの形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。 そこであの不朽の「寅さんシリーズ」をはじめ貴社の輝かしい映画歌舞伎製作と興業を愛し続けてきた小生からの切なるお願いは、貴社が先日マスコミ発表された「都知事推薦の現行案」を廃棄して、もう一度「当初のオリジナル案」に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を断行していただくことです。 貴社と歌舞伎の愛好者、そして全国の心ある人々は、必ずや貴社の勇気ある決断を支持することでしょう。 敬具
○回答
この度は、歌舞伎座再開発に関しまして、貴重なご意見をいただき誠にありがとうございました。 また、返信が遅くなりまして、誠に申し訳ございません。 いただいたご意見は関係者に回付いたしました。 歌舞伎座再開発につきましては、耐震性能の確保、劇場機能の改善、環境保全や地域との共生など様々な角度から計画を検討し、 なによりお客様の声を第一に反映できるよう、努力してまいる所存でございます。 今後ともご理解とご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。------------------------------------ 松 竹 株 式 会 社 東 京 本 社
○感想
暖簾に腕押しとはこのことか。関係者とはどこのどなたでござるか。
せっかくおだててあげたのに、あまりにつれない返事にがっかり。
石原都知事の意見など反映せずに、私の意見をしっかり反映してほしい。
人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし 茫洋
Saturday, February 21, 2009
永井荷風、西洋料理を論ず
ゼントルメンともあろう人物が、洋服に憂き身を窶しても料理にはてんで構わないのはまことにおかしい。
そもそも西洋料理の出来栄えは、コンソメ、吸い物を味わえば、そのすべてがわかる。フルコースなど喰らう必要はないのである。
1926年(大正15年)現在、本邦の西洋料理のベストは、横浜・神戸のホテル、銀座、神田小川町の順である。されどデザートや洋酒の備蓄が弱いのは残念なり。白ぶどう酒はボルドー産は甘すぎて食事に適せず。すべからくライン産を備えよ。
銀座周辺地区においての第一位は銀座竹川町コットなりしが、今はなし。日比谷帝国ホテル、築地明石町オテルサントラルよろしからず。けだし東都最美味は虎ノ門東京倶楽部なるべし。されど外交官、華族集会場なれば身分なきものは出入りしがたし。
銀座南鍋町の風月堂良し。木挽町精養軒、芝口有楽軒、京橋三橋亭だめなり。麹町富士見軒、新橋金春通り壷屋よし。
東京市中でアイスクリームが登場したのは明治32、3年頃のことなり。当時はチップを1割与えしものなり。
浅草公園の料理屋に個々のテーブルなく、NYウオール街のレストランのごとくカウンターで食事するスタイルの食堂あり。これ本邦の最新型スタイルなるべし。
されど、売春婦を写真と切符で買う国民は、世界広しといえども日本国のみならん。浅ましきこと限りなし。
嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳 茫洋
雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君 茫洋
永井荷風いわく、「画工・詩人・音楽家・俳優などは方外の者なり。」
仏蘭西では、画工・詩人・音楽家・俳優などは「方外の者」とみなされ、礼儀に拘捉せざるも之を咎むる者なし。
されば、この仲間の弟子には自ら特別の風俗あり。頭髪を長く伸ばし、衣服はビロードの仕事服にて襟飾りの長きを風になびかし、帽子は大黒頭巾のごときを冠る。
冬も外套を着ず、マントーを身にまとう。眉目清秀なる青年にてその姿ややみすぼらしきが雪の降る夜なぞ胡弓入れたる革靴を携え、公園の樹陰を急ぎ行く姿なぞ見れば、何となく哀れに、また末頼もしき心地せらるるなり。かかる風俗巴里ならでは見られぬなり。
あまでうす曰く、これさながら「ラ・ボエーム」の一場面のごとし。
♪悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし 茫洋
Friday, February 20, 2009
愛犬ムクを悼む歌 没後7周年の夜に
OH!アデュー 人語をはじめてに口にして
老犬ムクは いま身罷りぬ
ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す
鎌倉の 山野を駆けし細き脚
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり
ここで跳べ ザンブと飛び込む滑川
ウオータードッグよ 輝きの夏
大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク
ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす
17年 一直線に駆け去りぬ
今一度鳴け 野太きWANG!
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり。
庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり
崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハ雌雄乱舞す
まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク
春雨を聴くや5尺の土の下
Thursday, February 19, 2009
永井荷風いわく、「赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし」
ふあっちょん幻論第38回 メンズ漫録その16 断腸亭主人紳士洋装論その7
ハンケチは晒し麻白を上等とす。熱帯植民地はかならず驟雨があるので、欧州では外出時に傘を携行するのである。
ヘルメット帽は雨には傘となり、炎天には空気が通いて涼しく、熱帯には最高である。日本でも一時流行したのに、なぜ最近廃れたのか?
赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし。ただし絶対に礼式用ではない。だのに日本でフロックコートを着て赤皮の半靴を履く人種あり。これは、紋付羽織袴で足袋を履かずにいるようなものなり。
コゲラ叩く大樹の下を通りけり 茫洋
Wednesday, February 18, 2009
永井荷風いわく、「肌着を人目にさらすなかれ」
永井荷風またいわく。メリヤス(ニット)肌着は褌(ふんどし)と同様、いかなる場合にも人目に触れてはならない。
ホワイトシャツの袖を捲り上げても、肌着は出すな。シャツは米国では白のみならず変わり縞多数あり。これ英国流にあらず。
近年堅いカラーの代わりにシャツと共色の柔らかい襟を使う例あり。これぞ米国の若者流なり。
米国は欧州と違って夏暑いので、お上品ではない。日本では温度は米国より低いが、湿度は高い。洋服には不便であるが、むかしは「武士のカラ脛、奴の尻の寒晒し」と言うておった。いつの世にも勤めはつらいものなり。されど極力、南洋植民地風にせず、せめてNY風をめざすべし。
ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり 茫洋
Tuesday, February 17, 2009
荷風いわく「鳥打帽はパリの新聞売りのためのものだ」
永井荷風またいわく。帽子は洋服に合わせること。鳥打帽は銃猟、航海旅行用、そしてパリの新聞売りのためのものだ。黒の山高帽が普通である。
米国の東部の都市では晴雨ともに風の勢いが甚だしいので、中折れ帽は吹き飛ばされて不便である。その点夏炎天下でも山高帽は大層具合がよろしい。
中折れ帽は春から夏にかぶるべきものであるが、毎年色々な流行があるので、すべからく背広に合わせよ。日本人の古ぼけた中折れは西洋では職人労働者のものだ。
ただし米国では白人階級の上下の差別が無いため、日曜日には職人も黒の山高帽を頭にのせて女房同伴で教会へ行く。パナマ帽は英国で少しは見かけるが、米国では全然見かけない。英米はなんといっても麦藁帽が主流である。
おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで 茫洋
Monday, February 16, 2009
荷風いわく「日本製は中国に劣る」、と。
永井荷風いわく。洋服仕立ては日本より中国に限る。とりわけお薦めしたいのは帝国ホテル前のシナ人洋服店である。銀座の「山崎」などは糸を惜しみ、なおかつ高い。縫い目、ボタンのつけ方健固ならず。まことに「日本の商人ほど信用を置きがたきはなし。」
あまでうす註。この山崎とは、米国ミッチェル裁断学校を卒業した山崎隆造を指す。後に彼は明治37年開催の米国万国博覧会仕立て服コンクールで金賞を受賞し、銀座に「山崎高等洋服店」を開いたが、荷風はその「山崎」が駄目だと言っているのである。また当時の国産よりも中国人による縫製に軍配を上げているのも興味深い。荷風自身もシナ人などと慎太郎風の「差別用語」を使っているように中国への蔑視はあるのだが、にもかかわらずいながらも、見るべきところをきちんと見ている冷徹な文学者の視線に感動すら覚える。
それはともかく、いずれ21世紀のわが国の全産業部門で、こういう荷風的事態を迎えることだろう。
新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律 茫洋
Sunday, February 15, 2009
断腸亭主人の紳士洋装論その3
断腸亭主人、荷風散人いわく。洋服の手本は西洋である。しかし色白の西洋人に似合っても、黄色の日本人には合わない色柄が多い。例えば英国人が着るキツネ色の外套は、日本人には似合わない。
日本人には黒・紺・ネズミが無難である。また縞柄の粗いものは下品になりがちだ。しかし霜降りなら無難である。
形は、背広、モーニングコート、フロックコート、燕尾服がある。背広は普段着でまあ着流しと同じようなものだ。日本人は背が低いから、モーニングは似合わない。
スーツは米国では欧州に較べて上下ともゆったりした仕立てだが、同じ欧州でも英国は少しゆるやかな感じである。仏蘭西はキチンと身体に合わせたシルエットであり、袖のつけ方なども堅苦しい。
婦人物なら仏蘭西が一番と言われるが、紳士の背広は英国が世界で随一だ。しかし私の経験では、日本人には米国風が一番似合うようだ。
上記の永井荷風の見解には、あまでうすも同感です。
あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙 茫洋
この春もおたまに出会いしうれしさよ 茫洋
Friday, February 13, 2009
Thursday, February 12, 2009
永井荷風の紳士洋装論その1
日本人洋服の着始めは、旧幕府仏蘭西式歩兵の制服であった。その頃、人々はこれを「膝取りマンテル」などといった。御一新となり、岩倉公らの西洋視察(明治4-6年)後、文官の大礼服もでき、上級役人は洋服を着て馬に乗ることとなった。日本では洋服は役人と軍人が公式時に着るものとなった。
内務省の役人だった荷風の先考久一郎は、とてもダンディな人だった。明治12年現在だというのに10畳洋間にイス、テーブル、長椅子をすえつけ、ストーブをたいて、テーブルで家庭料理を楽しんだ。
役所から帰宅すると、彼は洋服を脱ぎ、エビ色のスモーキングジャケットに着替え、英国風パイプでお勉強に励んだ。また雨の日には、木の底をつけた長靴で出勤したという。
断腸亭主人いわく。「上野精養軒にいきて、わが家と同じ料理なりと奇異の思いしたり。」
鹿鳴館華やかなりし頃、荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、ここから洋服で幼稚園に通っていた。小学校時代は海軍服に半ズボン姿でそれは15、6歳まで続く。
「襟より後ろは肩を被うほどに広く折り返したカラーをつけ、幅広きリボンを胸元にて蝶結び。帽子は広いつば、鉢巻リボン。頭髪は西洋人のように長く刈り込みたり」
永井荷風はファッションはもちろんのこと、衣食住のすべてにおいてヤングジャパンの欧化文明の最凸端で生活していたことになる。
余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけし白き髪 茫洋
メンズ漫録その9 ヤングジャパンとメンズスーツ
日本におけるスーツ受容の歴史の特徴とは、①前回の明治天皇家の事例でみたように、
あくまでも「上」からの指令で着せられたこと。②軍服の機能性をウリに官吏の権威を振りかざして大衆化していったこと。③従ってなかなかTPOまで手が回らなかった。ことなどが挙げられます。
最後の点については戦後石津謙介氏が提唱するトラッドが登場するまでわが国の男どもには身につかなかったという意見があるくらいですが、それほど長いメンズ暗黒時代が続いたわけではありませぬ。
たとえばここで紹介しようと思う荷風散人なぞは鴎外、漱石などほぼ同時代の文学者に比べても抜群にお洒落でありました。私はメンズモードの初期の規範はこのダンディによてはじめて確立されたのではないかとひそかに考えております。
前置きはこれくらいにして次回から永井荷風のファッション論を紹介してまいりませう。もっともその材料はすべて1916年(大正5年)に発表された彼の「洋服論」に基づいておりますので念のため。
明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった 茫洋
Tuesday, February 10, 2009
メンズ漫録その8 明治皇后の衣服改革
明治19年、天皇は病気がちで執務と行幸を怠ったが、その代理を洋装で務めたのが皇后だった。
宮廷の旧来の類型を打破して、皇后が初めて洋装で公衆の面前に登場したのは同年7月30日に華族女学校に行啓し、卒業証書授与式に出席した時だった。
翌月の8月10日には、皇后は天皇とともに西洋音楽会に出席し、洋服姿で初めて外人客に接見した。それは鹿鳴館の物真似ではなく、聡明な彼女の内部で芽生えた自立的な自己意識の産物だった。
さらに皇后は、天皇の代理で横須賀造船所で行われた軍艦武蔵の進水式に出席したり、赤羽で行われた近衛兵の戦闘訓練を観戦し、11月26日には巡洋艦浪速、高千穂に試乗して水雷発射作業を観覧し、「事しあらばみくにのために仇波のよせくる船もかくやくだかむ」と詠んだ。
翌20年の元旦、皇后はこれも開闢以来初めて洋装大礼服を着け、宮中の祝賀を受けたが、以後このコスチュームがこの種の儀式での慣例となった。1月17日に彼女は女子服制に関する「思召書」を発布したが、ここで彼女は「着物は14世紀南北朝以来の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明に適しないばかりか、古代の日本女子の服装とも異なる。着物よりもむしろ西洋女性の服装が古代につながる。『宜しくならいて以って我が制と為すべし』と述べ、これが国産服地の改良、販促につながることを期待したのであった。
以上はD・キーン著「明治天皇」からの抜粋でしたが、私はこのような男勝りのスーパー国粋派女帝や三韓征伐に挑んだ神功皇后よりも皇室の非人間性に窮して病気がちの雅子妃の自虐的に抵抗しつつ苦悶する態度の方がよっぽど普通ぽくて好ましく感じられます。
つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら 茫洋
世界のオケのライブを聴く
「レコード芸術」の1月号をぱらぱら見ていたら、世界各地のラジオ放送を無料でポッド・キャスッティング聴取ができるようになったという記事が出ていた
最近バイロイト音楽祭やベルリンフィル、メトロポリタンオペラのライブや過去の放送を有料で聴取するシステムができたことは知っている。我が国の新日フィルの演奏が「日経パソコンの特設サイト」で、読響のライブが「第2日本テレビ」の映像で視聴できることも知っていた。しかしニューヨーク・フィルやシカゴ交響楽団までもが無料で最近の、あるいは過去の名演奏をネットで聴かせてくれるようになったとはついぞ知らなかった。
早速昨日からドゥダメル指揮NYフィルのマーラーの5番やピンカス・ズーカーマンの独奏によるクヌセンのバイオリン協奏曲、ムストネン独奏のモーツアルトのピアノ協奏曲11番などを聴きまくっているが、演奏も音質も素晴らしい。
ただひとつだけ残念なのはシカゴ響をバックにモーツアルトの13番と23番の協奏曲を弾き振った内田光子の昨年12月の演奏の再放送期限が2月2日で切れてしまっていること。切歯扼腕とはこのことか。
しかしこれまでプロムスなどをさんざん楽しんできた英国BBC放送局のクラシックチャンネルとあわせて、またしても新しく魅力的な世界が眼前に広がった大いなるよろこびを覚える。
http://nyphil.org/attend/broadcasts/index.cfm?page=broadcastsByMonth
http://www.cso.org/main.taf?p=15,1
大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む 茫洋
Monday, February 09, 2009
滋味ある演出
なぜだか最近NHKと仲良くしている富士テレビが、「風のガーデン」に続けて山田太一脚本の「ありふれた奇跡」というドラマをやっている。自殺未遂の三人の男女を中心に展開する愛のドラマだが、前回は脇役の二人の女性の間でこんなシーンがあった。
ヒロインの母親役の戸田恵子が(女装趣味に走ったりしている夫にあきたらず)不倫に走ったが無残なまでに振り棄てられて落ち込んでいる。そこへ姑の八千草薫がウイスキー片手にやってきて慰める。
「まあまあそんなに落ち込んでかわいそうに。でもねえ、私もあなたくらいの年ごろの時にもう死んでしまおうと思ったことがあるのよ、あなたとは理由が違うんだけど」というような前置きがあって、彼女はいい歳をした家庭の主婦が亭主とは別の男に真剣に恋した話を淡々と語る。
俄然全身が耳になった嫁が、「まあ、お母様のような大人しい方にそんなことがあったなんて」と驚いていると、八千草薫が「でもあの男はよくなかった。やめておいてよかった。それが正解だったのよね」とさらりというのだが、その時遅く、かの時早く、戸田恵子は義母のその告白が嫁の行状の全てを鋭く見抜いたうえでの「お話」であることに気づいて愕然とするのである。
こういうさりげないけれども人間の心肝を寒からしめる「ありふれた奇跡の一瞬」こそ山田太一の真価であり、最近の若い脚本家にはなかなか真似ができない境地なのだろう。
長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜 茫洋
Sunday, February 08, 2009
鉄腕アトムと坂本選手と谷川選手
なぜだかNHKで「鉄腕アトム」の番組をやっていた。いろんな人がいろんなことを述べていたが、坂本龍一が、「手塚治の最大の特徴は曲線の美しさにあると思う」というので、またまたそんな出まかせを、でももしかするとホントかなあ、と半信半疑で「リボンの騎士」の表紙を見てびっくり。
そのすらりと伸びた騎士の足の描線の官能的なまでにデリケートな美しさに三嘆。坂本選手はさすがだと思った。それから手塚治はおそらく美脚フェチだったろう。
せっかく褒めた後ですぐくさすのもなんだが、その坂本選手があまりにも早すぎる自叙伝のようなものを新潮社の「エンジン」に連載しているのはいかがなものか。
鈴木編集長のいつもながらの「目のつけどころのシャープさ?」には敬服するが、こういうものは死ぬ間際の日経の「私の履歴書」か、死んでから第三者が書くものだろう。そうではないかね、坂本君。
それにしても「鉄腕アトム」の主題歌は素晴らしい。これをすこし音程をはずしながら手塚治が歌っている画面を見るとなんだか泣けてくる。作詞は谷川俊太郎だが、これは彼のこれまでのどんな詩よりも素晴らしいと思うのは、私だけだろうか。
紅白の梅を咲かせた古家かな 茫洋
Saturday, February 07, 2009
メンズ漫録その7
ふあっちょん幻論第30回
このようにして洋服は、大元帥陛下の軍服を頂点に、軍国主義と官僚主義の2つに跨って新しい権威の象徴となった。
最初に洋服になじんだのは、官吏、インテリ、富裕層だった。彼らは、昼は燕尾服(テイルコート)、夜はフロックコートを上手に着こなしたのだが、これはなぜか正式の英国流とは異なる着方だった。
英国ではダブル前の丈の長いフロックコートが長期にわたって昼間の正装であったが、1926年にジョージ5世が準正装のモーニング(午前中に行なう乗馬のために前裾がカットされ背中には裾を留めるボタンが2コついている)を着てチェルシー・フラワーショーに出席したのを契機に、モーニングがフロックに代わって昼の正装になった。明治のエリートたちはそんなことなどお構いなくわが道を歩んでいたのである。
現在の我が国では、モーニングは昼夜を問わぬ正式礼服であり、燕尾服は格調高い宮中最高礼服として通用している。大隈重信、板垣退助、伊藤博文など明治の政治家もその大半がフロックコートを着用していた。
ちなみにタキシードは、絹布が張られた剣襟かへチマ襟の上着と顕章つきシングルズボンの夜の正装である。色はクロかミッドナイトブルーで黒の蝶ネクタイとカマーバンド、エナメルのオペラパンプスなどとともに着用する。ブラックタイ着用とあればこれを着るのが無難だろう。
ちなみついでに、このタキシードはNY郊外のタキシードパークでタバコ王ロリラード家の4世がここにタキシードクラブをつくり、1886年10月10日にパーティを開催したのだが、その時に英国帰りの息子が、「尾のない燕尾服型の上着」を一着におよんで登場したのが起源だという。
しかし英国人は、これは「ディナージャケットだ。本物のタキシードはエドワード7世の注文で1865年ヘンリープールが制作したのだ」と称して異を唱えているという。
以上の記述の大半は、服飾評論家中野香織氏の指摘による。
わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし 茫洋
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪なれども妻と楽しむ
Friday, February 06, 2009
メンズ漫録その6
明治5年11月12日、文武百官の大礼服は、正服は洋服、祭服だけは衣冠束帯と改められた。そしてこの決定を待っていたかのようにして、ちょうどこの年に岩倉使節団が海外に旅立つのである。
翌明治6年以降、明治天皇は死ぬまでのおよそ40年間洋服に身を包んでいたが、それには海外から帰朝したばかりの近代化論者の大久保利通の意向が強く働いていた。けれども明治から昭和のはじめまで一般大衆はビジネスシーンにおいて和服を着ることが多かった。和から洋への転換は、あくまでも天皇の権威を借りた上からの強制であることに留意する必要がある。
この転換がまだ中途半端であることをみてとった明治政府は、急遽「上滑りまま走り続ける洋化政策」を採用する。明治16年には日比谷に鹿鳴館が竣工。ここを拠点とした鹿鳴館外交を通じて治外法権と関税統制を撤廃し、不平等条約を改正しようとしたのが井上馨の狙いだった。
ちなみにこの失われた名建築の設計は英国の建築家ジョサイア・コンドルで、この「鹿鳴」の名は「詩経」から取っているが、これは井上馨夫人の武子(三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロインである元芸者朝子のモデル)の前夫中井弘の命名にかかる。中井はパリのムーランルージュのレビューを見て、京の「都踊り」を着想した才人でもあった。
明治18年と20年11月3日の天長節に、伊藤博文&梅子夫妻主宰の大晩餐会がここ鹿鳴館で開催されたことは、よくテレビドラマなのでも紹介されている。
国がおいらにも2万円くれるのか早くくれもっともっとおくれ 茫洋
Thursday, February 05, 2009
Wednesday, February 04, 2009
桐野夏生著「女神記」を読んで
次々に新しい活動の領域を開拓している気鋭の著者によって、「古事記」の解体と再構成、語りなおしが敢行された。
ここでは「古事記」における神話的な伝承と言葉が、現代にも通底する男と女、女と男のかかわりあいの生々しい対立とぎりぎりの対決の問題として解釈され、語りなおされている。
私たちは著者とともにイザナギ、イザナミの二神になりかわって、国や山河や八百万の神を、つまりはこの世を、全世界を、産み直すのであり、そのことを通じて、父母未生以前の原始的な創世期における、人と人、とりわけ男と女、女と男の相関関係についての記憶と認識を新たにすることになる。
いっぽうそれは、国土未生の状態から初源の国産みにいたる全プロセスの追体験でもあり、柳田國男や折口信夫などの民族学者たちによって考察された南方諸島文化と本土文化の相関関係に対する現代文学からの清新な回答でもある。
「古事記」では諸神中の神として鎮座ましましているイザナギ、イザナミの二神は、ここでは愛と憎悪、怒りと悲しみの化身となり、黄泉比良坂をいくたびも往還しながら、人間的な、あまりにも人間的な、男神と女神の壮絶な争闘を繰り広げ、とどのつまりはギリシア神話にも比定すべき氷のように美しい女神の哀切な勝利宣言で全編の幕を閉じる。地球と宇宙は、母なる子宮と原子心母を軸にして繋がっているのだろうか。
私はこの下りを目にしながら、ムラビンスキー、レニングラードフィルによる「悲愴」の息も絶え絶えな終楽章の断末魔の響きを確かに聞き取ったのである。
遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ 茫洋
Monday, February 02, 2009
平川新著「開国への道」を読む
小学館の日本の歴史もそろそろ大詰めに近づいた。今回は19世紀の江戸時代を取り扱っている。
本書ではまず西欧、ロシア、米国などが日本に押し寄せてくる環太平洋の時代のなかにあって、露西亜との北方領土画定のせめぎあい、大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛などの漂流民や人質外交戦においても、我が国がそれなりに「帝国」としての存在感を示して列強諸国の圧力に耐えたことが指摘される。
また江戸時代がけっして幕府の専制独裁の世の中ではなく、ルールにのっとった建策はかなりの程度まで受け入れられ採用された民主的?なシステムをもっていたこと、またこの潮流が幕末のペリー来航の際のオープンな開国論議に引き継がれていたこと。
庶民の正義の味方として高く評価されている大塩平八郎が、その裏面では水戸藩に対して特別の好意を示して米価の引き上げにつながるような便宜を図っていること、天保の改革で風俗を取り締まって倹約を断行した老中水野忠邦はもっと再評価されるべきであること。
さらにはそもそも百姓もある時期までは一本差しなら武装が認められており、高杉晋作の奇兵隊以前に、江戸市中に散在した道場主やメンバーの大半、近藤勇の新撰組やその前身の浪士組のメンバーの大半が武士ではなく、もっぱら百姓や神主などの平民であったこと。そしてその歴史と実績が幕末に物をいい、かれら「草莽の庶民剣士」こそが明治維新の立役者であったことなどが、きわめて実証的に語られるのである。
香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり 茫洋
Sunday, February 01, 2009
オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を視聴して
オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を衛星放送で観劇しました。これはパリのシャトレ座における04年12月のライブです。
シャトレ座といえば昔パリ管の指揮者で売り出し中だった、まだ若手か中堅時代のダニエル・バレンボイムが「ドンジョバンニ」を振った夜に、聴衆の見解がそれこそ賛否両論真っ二つに割れて、ブラボーとブーの2つの叫びが5分間も続いたことが忘れられません。その間、当のバレンボイムが胸に手を当てたまま審判に身をゆだねている姿が印象的でした。
何事につけても良い悪いの意思表示がはっきりしているのがパリの民衆の特徴なのですが、この日の演奏に対してはきわめてノリが悪く、ようやく拍手がわいたのは表題役を演じるフェリシテーィ・ロットの最初のアリアのときでした。浅草オペラなどで一世を風靡したブン大将をフランソア・ルルーが好演していますが、やはりなんといってもベテラン姥桜ロット様の貫禄の歌唱と演技の勝利でしょう。
永井荷風ゆかりのこの浅草オペラでまたしても思い出すのは、田谷力三がうたっていた
スッぺの喜歌劇「ボッカチオ」の有名なアリア「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」や「恋はやさし百合の花よ」です。かつての私の上司は、これを宴会であざやかに歌いこなして万座の喝采を博したのでしたがいまどきのリーマンにこのように奥の深い芸当ができるでしょうか?
マルク・ミンコフスキー指揮のグルノーブル・ルーブル宮音楽隊は、ブンチャッチャ、ブンチャッチャの力演で、かつてリュリが指揮杖でおのれの足を刺し貫いたさまをしのばせましたが、やはり音楽は2拍子からはじまって3拍子、4拍子へと進化していったのではあるまいかと、まるで阿呆のように思ったことでした。
♪元わが上司N氏の名歌唱「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」をもいちど聴きたし
茫洋
Saturday, January 31, 2009
メンデルスゾーンの代表的作品「MENDELSSOHN THE COMPULETE MASTERPIECES」を聴いて
毎度おなじみ超廉価のソニーBGMグループの全30枚組オムニバスを聴き終えました。
なんでメンデルちゃんなのかといいますと、今年は彼の生誕100周年にあたるのでこういう記念盤がぞろりと発売されるのです。有名な「イタリア」とか「スコットランド」のニックネームがついている交響曲はクルト・マズア指揮ゲバントハウス響の古式豊かな演奏で楽しめますが、ロイ・グッドマンが指揮してハノーバー・バンドが演奏している若書きの弦楽シンフォニーもとてもフレッシュで魅力的です。
意外にも?感銘を受けたのが、ヘンシェルカルテットが奏でる3枚組シリーズの弦楽四重奏曲集とこれまた3枚も収録されたオルガン曲たち。後者はさすがバッハの「マタイ受難曲」をバッハ時代以来はじめて蘇演したこの作曲家らしく、まるで生前のバッハもかくやと思われるほど生き写しの演奏にびっくりしました。これはスイスの古い教会のオルガンをステファン・ヨハネス・ブレイシャーが重厚かつ荘重に弾きこなしています。
私の大好きなエーリッヒ・ラインスドルフがボストン交響楽団を率いた「真夏の夜の夢の音楽」は、クレンペラーの名演には及ばないものの深沈たる夜の森の妖精たちを眼前させてくれる見事な演奏です。
今を去る四半世紀の昔の7月4日、純白の夏服に身を包んだ彼が指揮棒一閃、スーザの行進曲「星条旗を永遠なれ」をニューヨーク・フィルを立たせて颯爽と演奏した東京文化会館の夜を懐かしく思い出したことでした。
良家のぼんぼんとして何不自由なく健やかに成長し、ワーマール共和国のゲーテとも親交のあったメンデルスゾーンですが、わずか38歳で夭折します。そのせいか、彼のどの曲を聴いても永遠の若々しさが輝いているような気がしませんか。
♪愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典 茫洋
♪あやしくも胸揺るがすは極彩の音高鳴るジンタブラスの咆哮 茫洋
Friday, January 30, 2009
西暦2009年茫洋睦月歌日記
ブルーベリー、苺無花果林檎ジャム数々あれど柚子が大好き
何事のおわしますかは知らねども胸に満ち来る光一筋
われもまたソウル・トレインに乗り込んで、世界の果てまで旅立ちたし
武士は義に女は恋に死すべしと元録の掟ついに定まる
昼下がり舗道に伏したる黒猫は薄き血吐きて瞑目しており
「新世界」の第4楽章は行進曲ではない讃歌である「歌え歌え」とクーベリックは叫ぶ
やたら雷、津波を連発するなかれ気象庁とマスコミはピーターと狼
豚のごとく太りしもの武道館にこけつまろびつ還暦ジュリーコンサート
6時間ぶっちぎり武道館還暦ジュリーは日本のプレスリー
なにやらんかなしききもちになりにけりじへいしょうきょうかいがつくりしぼうさいはんどぶっく
災害はいつどこで起こるか分からない君のために何ができるか
殺すか殺されるか一つを選ぶ苦しさよ
かくすればかくなるものとは知りながら御身大事に敵殺す君
遥かなる遺恨のほどはさておきて眼下の敵はみなみな殺せ
夜叉の如き形相で嬉々としてパレスチナ人を血祭りにあげているイスラエル外相
眼には眼を歯には歯を旧約の教えにいそいそと従うユダヤの民かな
自分探しなぞというありあわせの言葉を用いて己の営為を規定しようとするそのお粗末さ肌寒さよ
美しい人の心が美しいかどうかがはっきりと見えたらいいのに
サンキュロットたちを仇やおろそかにすれば罰が当たるぜよ
南蛮服に身を包み真紅のワイン飲み干したり織田信長
着物を裂き足袋職人が洋服に縫う沼田氏こそはヨウジの大先輩
大人しき雌の駱駝に跨りて砂漠往くなり猛きベドウイン
どうせわたしをだますならさいごのさいごまでだましだましつづけてほしかったあ
望みなきにしもあらずなおも一縷の希望を胸に進みたし絶望も希望も虚妄ならば
堕落腐敗しきった平成俳句界にいまひとりの碧梧桐出でよ
管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し
こんな小説のどこがおもろいんじゃあと叫びて屑籠めがけて投げつける
どんな革命にも大中小の獅子がいた吼えよライオン
女性の蜂起なくして真の革命なし昔も今も
歌舞伎座やオリンピックに口出しする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事
若水をこころに浴びて命かな
立ったまま朽ちてゆかなむ0九年
市田柿1箱498円鎌万の安さ畏るべし
武士道は辞世一発死ぬことと見つけたり
遠い日を思い出させて遠い景
おお天よ、われらが運命に形を与え給え
☆青い空には雲がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
京都には百万遍がある
鎌倉には十二所神社がある
綾部には「てらこ」がある
百貨店には屋上庭園がある
サーカスにはブランコがある
リーマンにはボーナスがある
カレンダーには旗日がある
機動隊には7つある
小田急線にはロマンスカーがある
機動隊には貸しがある。
吉本隆明には借りがある
愛犬ムクには墓がある
手術台にはメスがある
佐々木小次郎には物干し竿がある
露台には植木鉢がある
食堂の戸棚にはドラヤキがある
隣の親父には抜け毛がある
新国籍法には抜け道がある
金融業には悪がある
障碍児には無垢がある
我が家の玄関には灯りがある
イエスにはマリアがある
大刀洗には井戸がある
畳の上には布団がある
猫にはタマがある
男にも玉がある
竜宮城には玉手箱がある
赤ちゃんには乳歯がある
処女には処女膜がある
老人には萎びた珍宝がある
レノンにはイマジンがある
サントリーには山崎がある
私には2人の子供がある
ジョン・フォードにはジョン・ウエインがある
助さんには格さんがある
私には可愛い奥さんがある
蝶には翅がある。
臍には胡麻がある
眼には涙がある
道には石がある
身体には骨がある
人には理想がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
♪オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ 茫洋
Thursday, January 29, 2009
ロドリゴ・ガルシア監督の映画「美しい人」を見る
衛星放送で先日やっていた05年公開のアメリカ映画です。
タイトルが妙に気になったので、ほんとに美しい人が出てくるのかと期待していましたら、ホリーハンターとかシシースペイセク、とどめにグレン・クローズまで登場します。これは「美しい人」というよりは「元美しかった人」ではないかなとちょっと思ったりしましたが、それは冗談。心の清い女性が陸続と登場する上出来のオムニバス映画でした。
ちなみに原題は「nine lives」。9人の女性の人生の断面をワンシーン、ワンカットであざやかに描いています。
グレン・クローズは、たしかNHKのBS2であの超面白かった「ホワイトハウス」のあと番組(題名忘却)で、じつに見事な演技を披露していました。マーチン・シーン主演の「ホワイトハウス」も抜群だったけど、これが謎が謎を呼ぶまたしても超々面白い連続ドラマでした。
ああそれなのにたったワンクールで打ち切りにしてしまうとはNHKはけしからん!
こういう超一流のドラマにくらべたら「篤姫」なんかまるで幼稚園のお遊戯みたいなもんでござんすよ。
ところでハリウッドでは(でも?)、もう若くはない演技派女優の出演機会が極端に減ってあほばか美貌肉体誇示女優にとって替わられているようです。そのことを主題にした映画も数年前に制作されていたような気がしますが、これはあほばか男性の一員として分かるだけにちと心が痛む話。老いも若きも、美しい人も、美しくない人も末長くよい映画に出演していただきたいものです。
♪美しい人の心が美しいかどうかがはきりと見えたらいいのに 茫洋
これが歌舞伎座?松竹は、歌舞伎座建て替え案を白紙撤回せよ
「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」。これが私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。
だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊した悪評高い三菱地所もかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。
東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままんも形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。
だとすれば、このたび松竹が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをめざしたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。
このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。
以上の観点から、松竹本社は昨日マスコミ発表された都知事推薦の現行案を廃棄して、もう一度当初の案に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を再検討していただきたいのです。心ある市民は必ずや松竹オリジナル案を支持することでしょう。
Wednesday, January 28, 2009
松竹は「石原都知事案による歌舞伎座建て替え」を中止せよ
東京築地の歌舞伎座では、いま異例のさよなら公演を行っています。
1924年に建てられ、米軍機による空襲で被災し、50年に改修され、02年に国の登録有形文化財に指定されたこの由緒ある建物については、私もこれまでこの日記で再三触れてきましたが、その老朽化が進んだためにどうしても建て替えるというのです。
物には寿命があるので建て替え自体は仕方がないのでしょうが、親会社の松竹が都に申請した第1次建て替え案を石原東京都知事が却下したために第2案に変更したというので驚きました。
今回の計画に携わった伊藤滋・早大特命教授らによれば、当初松竹は現在の歌舞伎座の原型となった太平洋戦争前の歌舞伎座を復元する計画だったそうです。ところが知事が事前の調整段階で注文をつけて、私見ではこのきわめてまっとうな復元計画を己の一存で葬ったというのです。
28日附の朝刊にはその改定案の写真が掲載されていましたが、それはこれまでも丸ビルや表参道ヒルズなどで実施されていたオリジナルの一部を形式的に踏襲する中途半端な折衷案でした。しかし施主が当初目指していたのは、価値ある文化財を単に復元するのみならず、光輝ある歌舞伎の殿堂をより歴史に忠実に再現復古しようとする意欲的な方法論でした。
これはたとえて言えば両国の国技館の立て直しにあたって江戸時代の回向院の相撲小屋、連合軍の爆撃によって崩壊したドレスデンの国立オペラをその一時代前の様式で再建しようとする試みにも似た「本格的な復古再現建築」への挑戦でした。
わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという一知半解の近代化論者の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。
逗子海岸の丘の上の豪邸に住み少年時代から金持ちのぼんぼんとして育ったこの人物は、おそらく生まれてから一度も銭湯などに入ったことがないでしょうし、宮大工が秘術を尽くして建造した全国各地の銭湯建築や、庶民のあこがれが生み出した富士山のタイル絵の実物を見たこともないでしょう。
東京千住「大黒湯」の絢爛豪華な外装と内装の華麗な宮造りスタイル、花鳥の絵が色彩豊かに描かれた格天井、大寺院にもひけをとらないその完成度を一度でも目にした人なら、「銭湯みたいで好きじゃない」などとは口が裂けても言えないはずです。そのような不遜な言い草は我が国が誇る「銭湯文化」に対する無知であり、いわれなき差別でもあります。
また歌舞伎はいわば日本のオペラで、西欧のオペラとほぼ同じころに誕生した芸能ジャンルですが、それぞれに深い歴史と伝統がありますから、それにふさわしい建築様式で敬意を表さなければなりません。とりわけ本邦の歌舞伎建築においては、オペラ座の大理石と鉄とガラスではなく、重厚な木と紙と漆喰の壁で構築しなければ長唄、下座音楽、義太夫、清元の音響がなじまないのです。
ちなみに現在の歌舞伎座の音響の精妙さは国立劇場はもとより、サントリーホールやカーネギーホールなどをはるかにしのぎ、世界の劇場でも有数のものであることをほとんどの人が知りません。知事がいったいどこのオペラ座を想定しているのか知りませんが、新歌舞伎座は断じて「オペラ座のようにしては」なりません。
また知事周辺は「建て替えに反対したわけではない。ただ劇場とビルの調和がとれていなかった」と話しているそうですが、この場合、調和を破っているのは、そんじょそこらのどこにでもあるモダンなビルのほうです。
古今東西にわたって永久不滅の銀座の象徴であるべき劇場が、もしもありきたりのモダンなビルと調和していたならば、そのビルの外装やデザインをこそ劇場(新歌舞伎座)に合わせて根本的に変えなければならないはずです。
銀座のランドマークともいうべき交詢社ビルや和光ビルの形式的な保存改装が、首都の建築遺産にどれほどの文化的損失を与えたかを考えるとき、残る唯一無二の「世界に向かって開かれた銀座の顔」をどのように維持・保存・強化するのかはきわめて重要な問題です。
わたくしはこの際松竹本社に対して、フランスや中国の文化に圧倒的に無知で無理解な知事のアホ馬鹿勧告を勇気をもって退け、今回発表された改造案をただちに白紙撤回して当初原案に基づく新改築計画に復帰されることをせつに望むものです。
時こそ今は 傾け歌舞伎座!
♪今こそは天下分け目の関ヶ原松竹は断固石原案を退けよ 茫洋
♪歌舞伎座やオリンピックごっこする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事
Tuesday, January 27, 2009
照る日曇る日第225回
見るたびに日本絵画の底知れぬ磁力に引き入れられる「松林図屏風」であるが、この六双の名品を描いた長谷川等伯を主人公とする時代小説が本作である。
絵師一族とその生涯を取り巻く時代背景をじっくりと調査し、そこから浮かび上がった創作の秘密に大胆な推理と想像を凝らして偉大な芸術家の真実に迫った手際はあっぱれ。第二回日経小説大賞を受賞したのもむべなるかな、といえがばいえようが、まずはタイトルと主題で得をしている。
思いがけないどんでん返しやら時代考証的な意外性も随所に盛り込まれ、飽かせずになんとか最後まで引っ張っていく構想力と筆力はたいしたものだと思うが、さてそれで読後になにが残ったのか。これが信長、光秀、秀吉、家康の治世を生き抜いた絵師のほんとうの生きざまだったのだろうか、と問い返せば胸の裡にうすら寒い空々しさが垂れこめている。どうせ騙すならもっと徹底的に騙して欲しかった、となにやら歌謡曲のうらめしいリフレーンのような木霊が返ってきた。
根も葉もない嘘っぱちを書いていかにもありそうな話だと得心させたら小説として大成功だが、そこそこ根と葉のある話を徹頭徹尾得心させることも意外に難しそうなのである。
♪どうせわたしをだますならさいごのさいごまでだましだましつづけてほしかったあ
茫洋
Monday, January 26, 2009
T・Eロレンス著・田隈恒生訳「完全版 知恵の七柱1」を読んで
デビッド・リーンの名作「アラビアのロレンス」の主人公T・Eロレンスは、あの映画の冒頭の印象的なシーンで見られるように、1935年5月19日、不慮のオートバイ事故で46歳で急死した。彼の自伝であるこの本は、すでに全3冊で同じ東洋文庫から出版されているオックスフォード普及版のオリジナル原典版にあたる内容で、これからなんと全5冊で発売されるという。やれやれ。
しかし同じタイトルの短縮版に加えて拡大ヴァージョンの正規版も併せて公刊するとはさすが天下の平凡社。これぞ出版社の鑑といわなければなるまい。
ちなみに「知恵の七柱」という題名は、旧約聖書の箴言第9章の冒頭「知恵はその家を建て、その7つの柱をきり成し、その畜をほふり、その酒をまぜ合わせ、そのふるまいをそなえ、そのはしためをつかわしてまちの高き所に呼ばわりいわしむ。拙き者よここに来たれと云々」に依る。かなり思わせぶりだが本書の内容とはあまり関係がなさそうだ。しかし冒頭の捧詩はロレンスのかつて愛した御稚児さんへの愛の言葉らしい。
第1次世界大戦中の1916年、アラブがトルコに反乱を起こせば英国はドイツと戦いながらトルコを打倒できるだろうと考えた英国は、ロレンスをアラビアに派遣、ベドウインの首長(シャリーフ)フサイン・ブン・アリーとその子息アリー、アブドゥツラー、ファイサル、ザイドに加担したロレンスはいよいよ灼熱の砂漠にその生涯の活躍の舞台を見出すのである。
ところでロレンスは、この砂漠の遊牧民の反乱の物語を、「白鯨」や「カラマーゾフの兄弟」に匹敵する偉大な物語に仕上げたいという野望のもとに執筆にかかったそうだが、出来上がったものは、もちろんそうとうに違った内容になった。
けれども以下に引用する個所(第二部「アラブ軍、攻勢に出る」第二六章「行軍命令」)には、ロレンスが自作をそれらの名作になぞらえようと懸命に努力した形跡があって微笑ましいものがある。
「右翼の従軍詩人が不意に耳障りな歌声を張り上げた。一篇の創作二行連句で、ファイサルと彼がワジェフで与えてくれるはずのよろこびを歌っていた。右翼の隊は詩句に耳を澄ませてから頭に入れ、一度、二度、三度と誇りと自己満足を誇示する前に、左翼側への嘲りをこめ、繰り返すたびに前よりも挑発的に斉唱した。しかし四度目に得意を誇示する前に、左翼の詩人が烈しく独唱に入った。右翼のライバルのカブレットに対する即席の返歌で同歩格で相応する押韻により詩人の情感を完結し、あるいは最後を締めくくるものだった。左翼の部隊は勝ち誇ったようにどよめきつつ、それを復唱する。すると太鼓がふたたび鳴り、旗手が臙脂の大旆を振りかざしつつ、右翼、左翼、中堅の全親衛が士気を鼓舞する節回しの連帯歌を斉唱した。
われはブリテンを失い、ガリアを失いぬ、
われはローマを失いぬ、ましてつらきはララゲーを失いしこと!」
♪大人しき雌の駱駝に跨りて砂漠往くなり猛きベドウイン 茫洋
Sunday, January 25, 2009
メンズ漫録その4 本邦初のパタンナー
1853年にペリーが来日すると、「毛唐柄」(唐桟(細番の綿糸で平織りにした縞織物、紺+浅黄、赤の羽織りや着物に使用)や「唐人仕立て」が流行するが、幕府は百姓・町人の異国風衣装を禁じた。しかし部分的には国防強化のため軍事訓練用に洋装、軍服を取り入れるようになる。
このときに活躍したのが初代裁断士の沼田守一で、彼は古着を解体し、足袋職人12人に羅紗、型紙を与えて洋服を製作した。彼こそは本邦初のパタンナー兼デザイナーというべき人物である。
ちなみに「洋服」という言葉は、1867年に発行された『方庵日記』に初出しており、ご一新以後一般にも使われるようになったそうだ。また福沢諭吉の著書『西洋衣食住』には、袴とズボン、帯とベルトなど着物と洋服の類似点や、彼独自の洋服着こなしノウハウが記述されているそうだが、私はまだ読んだことはない。
♪着物を裂き足袋職人が洋服に縫う沼田氏こそはヨウジの大先輩 茫洋
Saturday, January 24, 2009
メンズ漫録その3 南蛮服から日本の服へ
西欧は洋服の本場であるが、では日本のメンズモードはどのように移植されたのだろうか。
16世紀の中葉に宣教師たちが渡来すると、南蛮服、えびす服、紅毛服による洋服受容がはじまった。「南蛮服」のアイテムとしては、「合羽」(ケープがなまった)軽珍(カルソン。形状はbreechesブリーチズで半ズボンに近い)、無縁帽子、羅紗、ビロード、毛留(むうる)、鹿皮等であるがこれらはそのまま後世に伝えられて現代のファッション・アイテムになる。
1587年に豊臣秀吉がキリシタン排外政策を開始し、1633年の徳川幕府が鎖国令を宣言すると南蛮モードの流入は下火になる。しかしその後も、プロテスタント国のオランダから輸入された羅紗(厚くて粗いウール、陣羽織や火事羽織り・袋物に使用)や緞子(文様を織り出した絹織物)等は権力者によって珍重されたが、その後取り締まりがさらに強化され、1643年に町人の羅紗合羽の着用が、1652年には歌舞伎役者のビロード襟が禁止された。
しかし諸外国からの影響が強まる中で、1720年に幕府は洋書の禁を解き、蘭学を解禁した。それ以前から出島のオランダ人は「えびす言葉」を話し「えびす模様」の「えびすの長衣装」(紅毛服)を纏い、蘭学者は「えびす流」または「唐人仕立て」と呼ばれる装束を纏っていた。前野良沢や杉田玄白は和服の襦袢の上に洋服の上着、チョッキを着、のちの大黒さんと称するズボン様のものをはき、吾妻コートに似た袖なし、折襟型のオーバーのようなものを着ていたのである。
♪南蛮服に身を包み真紅のワイン飲み干したり織田信長 茫洋
Friday, January 23, 2009
メンズ漫録その2 フランス革命とスーツの誕生
1789年のフランス革命では国王・貴族・僧侶以外の第3階級=市民階級が台頭した。彼らはバスティーユ監獄を襲撃し、ルイ16世とマリー・アントワネットを処刑し、国民公会による共和制政府を樹立した。
この蜂起の主役たちをドラクロアの名画「民衆を導く自由の女神」で観察してみよう。画面に登場する庶民派・労働者の戦士たちはすべて長ズボンのサンキュロット(sans culotteあるいはパンタロンpantalon。丈夫で安価な直線裁ちの簡素なズボン)をはいている。
キュロット(culotte半ズボン、ブリーチズ)をはいた貴族・ブルジョワ階級の独裁を、怒れるサンキュロットたちが実力で打倒したのがメンズ・ファッションにおけるフランス革命であり、このためにフランス革命を「サンキュロット革命」ともいう。
しかしフランスの共和制はロベスピエールらによる5年間の恐怖政治、ナポレオン・ボナパルトによる帝政と欧州征服の15年間を経て弱体化し、代わって産業革命をいち早く経験した英国が19世紀初頭に覇権を確立する。
そして19世紀中頃になると、現代のスーツの原型であるサックススーツが登場した。
このスーツの原型についてはハーディー・エーミス卿などが唱える乗馬服説と室内着ラウンジスーツ説の2説があって対立している。どう見ても下にキュロットはいた乗馬ジャケットがスーツの原型とは考え難く、後者の楽なラウンジ説が有力であるが、いずれにしても上下のユニットの下のパンツはサンキュロット・スタイルである。
フランス革命は、近代の政治経済社会の礎石を築いたが、同様に西欧衣服史のあざやかなメルクマールでもあった。市民革命と西洋のメンズスーツを創造したサンキュロットたちは、自由で自立した個人の原型であり、ここに歴史上はじめて市民(シビライズドマン)が誕生したともいえよう。背広=市民服=civil clothingというテーゼが、近現代を貫く衣装哲学であることを、世のリーマンたちはいっときも忘却してはならない。
♪サンキュロットたちを仇やおろそかにすれば罰が当たるぜよ 茫洋
Thursday, January 22, 2009
ふあっちょん幻論第24回
日本の武士の本質は「葉隠」がいみじくも喝破したように死ぬことにあり、潔く戦って潔く死ぬための文武の修業、具体的には剣術と切腹の稽古、そして生涯の経綸を一瞬で総括するための最低限の文化である辞世を遺す練習に励んだ。
この最後の部分の価値を知らず、あるいは知ってはいてもあえて無視して「俳句第二芸術論」を唱えた桑原武夫のような曲学阿世がいまも跡を絶たないようだが、すべからく現代の君子士人は平素より腰折れの2つ3つを即座に詠める「最低の教養」を身につけておかねばなるまい。俳句には芸術よりもっともっと大事な意義があるのだ。
ところでモーツアルトの最晩年時代、すなわちフランス革命前夜の西欧の貴族は日本の武士が切腹の稽古に励んだように、みな乗馬を好んだ。馬に乗る際には長い革長靴をはく。その長い靴と美的に調和し、ヒップの線を美しく強調し、馬上の運動を快適にするために、彼らは短いキュロット(culotte半ズボン、ブリーチズ)をつけた。
キュロットをつけた両足で挟んだ馬体を蹴ると、馬は直進する。これが競馬になる。その直進運動を轡を引いて制御すると、動と反動の相反運動の対峙状態となる。これが曲馬の始原であり、人馬一体の芸術の端緒である。これこそは究極の男の美学であり、第三階級などにはついぞ無縁の貴族の特権的快楽だったのである。
♪武士道は辞世一発死ぬことと見つけたり 茫洋
Wednesday, January 21, 2009
Tuesday, January 20, 2009
京都思文閣とわたし
むかしたった1年間だけ京都で下宿していたことがある。左京区の田中西大久保町という叡電前や百万遍や出町柳や高野に近いところだが、そのすぐそばに思文閣という骨董屋があったと知ったのは、四半世紀の時間が経過して偶然この会社のカタログが時折送られてくるようになってからのことだった。
思文閣ははじめは古本屋だったのが次第に美術品を扱うようになり、最近では若社長の田中大氏が12chの「何でも鑑定団」の審査員として出場するまでになっている。
それはともかく、年に数回届けられるようになったカタログはオールグラビア印刷の立派なもので、ほんらいはそのカタログであれやこれやの高価な珍品を発注するための商材なのだが、私はそんな持ち合わせも余裕もないのでもっぱら古今東西の優品を眺めて楽しんでいる。
私のような素人には図版の上から眺める商品の真贋など知る由もなく、よしんば本物の若冲の逸品であっても自分のものにできるはずもないのだが、それでも漱石、鴎外、露伴、紅葉など文人墨客の筆のすさびを眺めているだけでもしばし浮世の憂いを忘れることができるのである。眼福とはけだしこのようなことをいうのだろう。
しかも毎回陸続と登場する屏風、仏像、彫刻、和洋の絵画と書、壺や陶器、写経、古文書、写本、浮世絵、刷り物、硯、版木、色紙、書簡や断簡零墨に至る多種多様な骨董・美術品には、当たり前のことだがすべて値札がつけられていて、同じ画家や文学者、政治家でもずいぶん値段が違うところが興味深い。
例えば、松平不昧候書状42万円也、頼山陽書状31万5000円、華岡青周洲書状47万2500円也。
いったい何を根拠にこの値段がついているのだろうと考えて見ても、おそらくは誰も決定的な根拠を明かせないところがまた面白いのである。
維新のぼんくら政治家田中光顕(こやつのいたずらに巨大で空疎な墓石を見よ)と足尾銅山の田中正造の短歌が並んでいて、前者が65000円、後者が150000円というのはなぜか納得できるような気がするが、子規の同門である高浜虚子の短冊「一つ根に離れ浮く葉や春の水」が200000円であるのに対して、河東碧梧桐の「ざぼんに刃をあてる刃を入るゝ」がたった120000円であるのがどうにも解せない。
作品、筆跡、人物のいずれをとっても虚子ごとき凡庸な俳諧師の風下に立ついわれのない偉大な野人芸術家碧梧桐のために、私は京都思文閣の鑑定に断固異議を唱えたいのである。
♪堕落腐敗しきった平成俳句界にいまひとりの碧梧桐出でよ 茫洋
Monday, January 19, 2009
アーサー・ウェイリー・佐復秀樹訳「源氏物語2」を読んで
ウェイリーによれば紫式部はこの物語のすべての登場人物の年齢や地位や境遇を一瞬たりとも忘れることなく各帖を整然と記述しているという。物語のディテールではなく、その壮大な時間的・空間的な全体構造をきちんと押さえてからこの翻訳に入ったことは、彼のいかにも几帳面で学究的な性格を物語るとともに、この翻訳と凡百の日本語訳との決定的な違いを生んでいる、と思った。
よく源氏物語はプルーストの失われた時を求めてと比較されるが、この両者に共通する骨太の物語構造と近代的な心理分析を最初に発見したのがこのエキセントリックなキングズ・カレッジアンだった。彼の翻訳を読んでみると、谷崎や与謝野は全体構造の強固さには無自覚にただ細部の美を舐めるように慈しんでいるにすぎないことがよく分かる。
原作は同一でも、それを極東のローカル文学にとどめるか、はたまた世界最高の文学に押し上げるかは、翻訳者の世界文学の理解の深さの差であることが愚かな私にもはじめてわかったような気がする。
流謫の地から権力の中心に復活した源氏は、二条の館を離れて春夏秋冬四つの季節の名前をつけた東西南北四つの対からなる広大な屋敷を新設し、そこに正妻の紫の上、秋好皇后(六条御息所の娘)をはじめ、明石の上、玉鬘、花散里なぞの愛人たちをそれぞれ配し、対から対へ、御殿から御殿へといくつもの渡り廊下を伝って、あるいは鑓水に浮かべた小舟で遊覧する。
乱れ咲く四季折々の花々と天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響きはまさにこの世に顕現した華麗な一幅の極楽絵図そのものである。ウェイリーはこのくだりを「モーツアルトの交響楽のなかの律動と似ている」、と評しているが、巻二四「胡蝶」を目にしている私の耳朶にも、たしかに彼の最後のハ長調交響曲の終楽章のコーダが遠く鳴り響いていたのであった。
巻末のウェイリーの「解説」も興味深いが、翻訳の佐復秀樹が多用している「主要な」
という現代日本語の使用法は、文法の正則に照らして正しいとはいえない。世間でよく使っている「親交を深める」というジャッグルした表現が正則から少し外れているように。
♪管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し 茫洋
掘田善衛著「掘田善衛上海日記」を読む
敗戦直前の1945年3月24日、当時27歳の「心からやりたいということ、心から何事かをなしたいという欲求がさらにない」一人の若者は、松岡洋右の息子の仲介で日本を飛び出し、「上海客死」の覚悟で欧州をめざした。しかし当時欧州直行便は存在せず、やむなく著者はこの動乱の地で8月15日を迎え、1947年1月に帰国するまで当地の武田泰淳宅に転がり込む。
その間の私的な記録がこの日記である。そこには支配から脱して自らに目覚めつつある等身大の中国と生身の中国人たちの動向、そして敗戦国民に転落して動揺する日本人たちの狂乱ぶり、さらに異国での異常な体験と燃え上がる愛に戸惑う孤独な魂の彷徨がとぎれとぎれの断想のように記されている。
日本人を憎んで密告したり殺したりする中国人もいたが、戦争中とまったく同じようにつきあう中国人もいる。しかし大半の日本人は戦争中とがらりと態度を変えて民主主義人間に変身してしまう。いっぽうこの人物はといえば、敗戦から国共内戦開始という天下の大乱のさなかに木の葉のように右往左往しながらも、「天下国家のために何をなしたいという野望もない。また自分一個のためにすら何をしたいとも思わぬ。つまらないことおびただしい。自分で自分がまったくつまらない。食物をこしらえたり、皿を洗ったりする瞬間がもっとも充実しているように思う」と書いていて、若いのにさすが掘田、と大いなる共感を覚える。敗戦の日にわざと陸軍兵の軍帽をかぶり、戦勝を寿ぐ中国人たちで雑沓する市街に単身身を乗り入れる著者の勇気は感動的ですらある。
1946年5月21日
今日から自分と戦うことについて考えよう。
したいことはしない。
したくないことはしない。
1946年8月10日
アインシュタインが宇宙の構成は単一であると言ったとき、ヴァレリーが「その単一なることを証明するものは何であるか」と問うたところ、アインシュタインは「それは信仰だ」と決答した。これに対して、ヴァレリーは「このときほど自分は感動したことがない」と慨した。信仰のない科学は所詮うすめられた毒薬の注射以外のものでない。信仰がないからその毒に耐えきれないのである。されば科学自体も発展しないし、人格も決して人に卓越せるものとなりえない。
1946年10月18日
岸田劉生の「美の本体」に「運命に形を与えれば実在だ」という言葉がある。これは芸術と人生を深く深く見たまことの芸術家の言葉である。とらえがたきこの世の運命に形を与えたもの、それが文学である。実在である。
「それは美だ。在るといふことの美だ」。
などの日記も、なかなか示唆に富む。
広場の孤独やゴヤの作家の揺籃の地はまさに上海にあったことを雄弁に物語る貴重な青春の記録と評せよう。
♪おお天よ、われらが運命に形を与え給え 茫洋
Saturday, January 17, 2009
エルサ・モランテ著「アルトゥーロの島」、ナタリア・ギンズブルク著「モンテ・フェルシモの丘の家」を読んで
前者は少年の継母への淡い初恋を軸にした偽ビルダングスロマンであるが、どこがイタリアを代表する女流作家らしいのか理解に苦しむ。こうしたテーマでは中勘助などのわが国の少年文学のほうに1日の長がある。私はそぞろ下村湖人や山本有三なぞをまた読み返してみたくなった。
2作のうち取るとすれば、まだ後者か。これはローマからアメリカのプリンストンに脱出した作家を中心にその係累たちがお互いに取り交わす書簡から構成される家族の物語で、翻訳を亡くなった須賀敦子が担当していてそれなりに読ませるものがある。
池澤夏樹の個人編集による河出書房新社の世界文学全集は、これまでは比較的駄作が少なかったが、本巻はその数少ない例外といえよう。
♪こんな小説のどこがおもろいんじゃあと叫びて屑籠めがけて投げつける 茫洋
Friday, January 16, 2009
佐藤賢一著・小説フランス革命「バスティーユの陥落」を読む
ヴェルサイユで打ち上げられた烽火は平民の町パリの要塞で大爆発を遂げ、それが7月14日の革命として結実した。
この小説の冒頭で大活躍するのは、ミラボーの陰謀によって暴発した弁護士デムーランである。パレ・ロワイヤルの行進からはじまった反貴族、反軍隊、ネッケル復活を旗印とするパリ民衆のデモンストレーションは、ついにテュイルリー公園でのドイツ傭兵との武力衝突を引き起こすが、フランス衛兵隊の支援によって竜騎兵を撃退したデムーランは、一夜にして一躍パリ市民の英雄となる。
しかし王と政府は、シャン・ド・マルスなどパリの四囲に強大な外国軍を待機させ、武力介入の機会をうかがっていた。武器には武器で対峙しなければならない。ダントン、マラーなどとともにデムーランを指導者とするパリ市民は、武器が隠匿されていると思われたバスティーユ監獄に弁天橋さながら遮二無二に突入し、ついに難攻不落の要塞を陥落させる。
フランス革命の一里塚は、このような偶然の暴発ともみえる民衆の盲目的なエネルギーの全面展開によって築かれたのである。暴動こそが革命の母なのだ。かくしてパリの権力は、各種ブルジョワ混成軍の手によって奪取された。
このような首都の高揚を人民の果実とせず、王冠の祝祭と化すためにミラボーは、ルイ一六世のパリ訪問を提起し、それは実現される。一七八九年七月一七日、パリ市政庁の露台に上がった国王は、ヴィヴラフランス、ヴィヴルロワの大歓声に包まれた。
ヴェルサイユの憲法制定国民議会は、ミラボーなど保守派の逡巡躊躇を押しのけてルソーがかつて種を播いた人権宣言を採択し、ロベスピエールを感涙させたがその革命的な法案をルイ16世は批准しようとはしなかった。閉塞状態に陥った事態を打開したのは、パリの平民女性の蜂起だった。降りしきる雨の中「パンを寄こせ」とシュプレヒコールを挙げながらグレーヴ広場からヴェルサイユまで歩き続けた彼女たちは、ミラボー、デムーラン、ロベスピエールなどの革命指導者たちを乗り越え、ヴェルサイユ宮殿の内部まで乱入しルイ16世と王妃マリー・アントワネットを実力で拉致し、再びパリに取って返してテュイルリー宮に幽閉する。無名の、無数の女性たちの活躍で、フランス革命は決定的なメルクマールを刻んだのである。
♪女性の蜂起なくして真の革命なし昔も今も 茫洋
Thursday, January 15, 2009
佐藤賢一著・小説フランス革命「革命のライオン」を読む
そもそもの始まりは王国の財政難だった。貴族が課税に抵抗したためにフランスの国政が混乱し、1788年、貴族の傲慢な居直りを背景に高等法院と政府(財務長官ネッケル)は決定的に対立した。
翌年の8月8日、国民の声に押されて魔がさしたルイ16世は、よせばいいのに何を血迷ったのか全国3部会の招集を発令する。
ここに全国から集まった平民、僧侶、貴族の政治的対立がフランスの国民意識の覚醒をうながし、それが同89年7月14日のバスティーユ要塞攻撃に引火していくのである。
このシリーズの第1巻は、革命前夜の全国3部会の動静をつぶさに描いて興味深い。そこでは王、第1身分の聖職者や第2身分の貴族たちから蔑視されながら徐々に己の権利と権力にめざめていく第3身分の平民たちの姿が、プロバンスの貴族でありながら第3身分代表として全国3部会、後の国民議会の議員となったミラボー伯爵を中心に生き生きと描かれている。
「革命の獅子」と呼ばれたミラボーの豪傑ぶりと、その清濁併せ呑む政治的言動に魅了されながら、次第に力を蓄えていくアラスの弁護士で後の独裁者ロベスピエールの初々しい姿、「第3身分とは何か」を書いた僧侶のシェイエス、アメリカ独立戦争にボランティアとして従軍したラ・ファイエット将軍などの実像も新鮮そのもの。あの悪筆家の塩野七生ほどではないが、文章の一部に生硬な表現がみられるが、そんなことより今後の展開が大いに期待される。
♪どんな革命にも大中小の獅子がいた吼えよライオン 茫洋
Wednesday, January 14, 2009
加藤廣著「謎手本忠臣蔵」を読んで
「此間の遺恨、覚えたか」と叫びながら、浅野内匠頭はなぜ上野介に刃傷に及んだか。「此間の遺恨」とは何か。著者は主に五代将軍綱吉とその僚友側用人柳沢吉保の視点をつうじてこの松の廊下刃傷事件を解明しようとしている。
元禄14年当時の彼らにとって最大のテーマは、綱吉の母桂昌院の従一位授与問題「桂一計画」であった。栄耀栄華を極めた京堀川の八百屋の娘を史上最高の官位に就け、愛する母に死土産として贈りたい。この綱吉の悲願を達成するために、柳沢吉保が朝廷に対する折衝と政治工作のために特命を授けて送り込んだのが吉良上野介であった。
ところが先祖代々朝廷贔屓で知られる浅野家は、親しい関白を通じてそのような朝幕間の内部事情に通暁しており、こうした幕府の理不尽なごりおしに反発を懐いていた。
そしてたまたま朝使饗応役に任じられた浅野内匠頭の前に吉良上野介が登場し、「桂一計画」において自分が担っている大役を誇らしげに漏らした。そのとき、内匠頭が何らかの否定的な発言を行ない、それに対して上野介が武士のプライドを傷つけるような種類の発言を行ない、堪忍袋の緒を切らせた内匠頭が斬りつけた、というのが著者の解釈である。
当初仇討に否定的であった内蔵助はこうした朝幕間の醜い争いを外部に漏らすことなく恨みを呑んで刑場の露と消えた内匠頭の真意を知ってはじめて討ち入りに立ちあがる。それは主君への私怨をはらすのではなく公儀への異議申し立てであった。
いっぽう吉良上野介の朝廷への働きかけが不成功に終わったことを知った綱吉と吉保は、上野介の限界を悟って別のルートから猛烈に運動し、桂昌院の従一位授与問題は討ち入り寸前に成就する。
松の廊下事件が喧嘩両成敗ではなく一方的に浅野内匠頭に不利な裁きであったことから反発する世論をなだめるために、綱吉と吉保は、赤穂浪士の策動を隅々まで熟知しながら上野介暗殺を許したというのである。
まあこの説が嘘か本当かはにわかに断定できないが、従来悪人とされてきた綱吉と吉保の功罪を洗い直し、彼らの暦や貨幣改革とオランダによる暴利の追及、さらには家康が福島正則に書いた密書の行方など数々の派生的エピソードにいそいそと言及している点も思いがけず楽しめる。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは綱吉と彼を裏面操作した側用人柳沢吉保の陰謀である、というのは、この間読んだ秋山駿著「忠臣蔵」と同じ結論であるが、この本の引用は、ほとんど福本日南の「元禄快挙録」と徳富蘇峰の「近世日本国民史・赤穂浪士」の二著に依存していたために、そのくわしい実証的な説明はなかった。本書では、その渇を存分に癒すことができるだろう。
♪昼下がり舗道に伏したる黒猫は薄き血吐きて瞑目しており 茫洋
Tuesday, January 13, 2009
最終回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
家族の方へ 災害後の助言by日本自閉症協会会長・石井哲夫氏のアドバイス
「子供さんにもよりますが、高機能で生活行動の自立した子供さんの場合は、まず不安が取れず興奮しているわが子の気持ちをいやすことを考えてください。そのためには傍らにいて静かに話しかけたり、好きな音楽を聴かせたり、本を読ませたり、ゲームをさせたりするとよいと思います。そしてこの機会に災害から逃れた状況に関してわが子の取った行動をほめてほしいと思います。特に自分から気づいたり判断したりしたことがあれば、それを繰り返し話し、本人の気付きをはっきりさせることが良い教育になるのです。
自立していない子供さんの場合は、嫌がらない場合にはよく抱きしめてあげたり、一緒に毛布やふとんの中でくるまって落ち着かせる工夫をしてください。」
いかにもこの人らしい温和な対応ですね。30年前のその昔、私は石井氏などが主張する、自閉症児の障碍をただありのままに受け入れようと主張する「受容療法」に批判的でした。症状と障碍のもっと本質に肉薄して損傷部分を活性化する積極的な療法にかつえていたのです。しかし障碍者に対して強制的にかかわる際の反発や逆効果などを考慮すると「大人になった」今では、こういう受け身の対応もあながち全面的に否定するものではありません。
昔は自閉症の原因を「脳の器質障碍」であると考える医者や学者はきわめて少数で、たとえば神奈川県戸塚のこども医療センターに勤務していた東大精神科のあほばか医師などは、ふたりとも自閉症の専門家を自称していたにもかかわらず、私の長男の障碍の原因を母親の育児の失敗(当時「母原病!」と呼んでいた)によるものである、となんの科学的根拠もなく、一方的に決め付けてくれました。
その後こういうお偉い人たちも、主流派の情緒障碍説から機能障碍説へとこっそり「転向」したのでしょうが、あの時の彼らのしたり顔を思い出すたびに、きょうもふつふつと怒りがこみ上げてくるのです。
それはさておき、私はかつて1日両切りピース50本の猛烈なヘビースモーカーであり、強度のニコンチン依存症であったために、その毒が妻の胎内に入って障碍児を誕生させたと確信していますので、若い人たちにはどうしても禁煙してほしいのです。
♪「新世界」の第4楽章は行進曲ではない讃歌である「歌え歌え」とクーベリックは叫ぶ 茫洋
Monday, January 12, 2009
第5回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
12君が海や川のそばにいたら
・津波で突然水が増えてくるので、海岸や川岸から離れよう
・海岸で強い揺れに襲われたら、いちばん恐ろしいのは津波。避難の指示や勧告を待つことなく、安全な高台や避難場所を目指す
13学校・職場と確認しておくことは
・集合場所、避難場所を決めておこう
・「私は大丈夫です。ここにいます」と家族に伝える方法を決めておこう。
・「助けてカード」を家族と作り、いつも持っていよう。
・帰宅地図を家族といっしょに作ろう。トイレや水の補給できるところを記入しておこう。
・ペットボトル、飲料水、チョコレートやあめなどを職場に置いてもらおう。
・災害が起きたときには、すぐに家に帰るかどうか職場や学校に決めてもらおう。
14局地的豪雨、雷雨、台風、竜巻にも注意
・川は突然水が増えてくるので大急ぎでその場を離れよう
・町中では水が来たと思ったら側溝に落ちないように電柱などを目印に傘などで安全を確認しながら高いところへ避難しよう。地下街では急いで階段へ。手すりにつかまって上がろう。
・車のドアは水深60センチになったら開かなくなるので、その前に逃げよう。
・雷雨 ぴかりときたら屋内へ。野原では身を低く。
♪やたら雷、津波を連発するなかれ気象庁とマスコミはピーターと狼 茫洋
Sunday, January 11, 2009
第4回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
8駅では
・線路には絶対に下りてはいけません。危険!
・駅員さんのいうとおりにしよう
9電車やバスの中では
・吊皮やボールにつかまろう。勝手に外には出ない
・運転士さんのいうとおりにしよう
10遊園地・公園では
・乗り物の中にいたら、しっかりつかまる
・家族やいっしょに来た人と、はぐれないように手をつなぐ
11君がひとりだったら
・大声で「助けて」という
・近くの人・制服の人(駅員・警察官・警備員)に助けてもらおう
・助けに来てくれた人に「助けてカード」、身分証明書、サポートブックなどを見せ、避難場所に連れて行ってもらおう
・家族に連絡してもらおう
・駅や乗り物の中では、係りの人のいうとおりにしよう
避難するときの注意
・あわてず落ち着いて
・割れたガラスなどの落ちているものを踏まないように注意
・はしらない。急ぎ足で移動する
・人を押さない。順番を守る。とくに階段やエスカレーターでは皆が倒れて事故になるので注意
・係りの人やお店の人がいるときは、いうことをきいて行動する
・係りの人がいないときは、非常口のマークの方に移動する
♪遠い日を思い出させて遠い景 茫洋
Saturday, January 10, 2009
第3回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
4地震のとき外にいたら
・落ちてくるもの、看板・ガラスなどから逃げる
・カバンなどで頭を守る
・切れた電線にさわらない
・電柱・ブロック塀・自動販売機やマンホールから離れる
5君が学校にいたら
・あわてて飛び出さず先生のいうとおりにしよう
6デパート、スーパーでは
・店員さんのいうとおりにしよう
・エレベーターに閉じ込められたら、あわてず非常ボタンを押す。すべての階のボタンを押す
・バッグや買い物かごなどを頭に乗せ、ショーケースなど倒れやすいものから離れよう
・非常口マークを普段から確認しておく
・エスカレーターでは前の人との間をあけて、かならず手すりにつかまるように習慣づけておこう
7地下街では
・柱や壁に寄りかかり、定員さんのいうとおりにしよう
・バッグなどを頭に乗せ、揺れがおさまるのを待つ
・あわてず、地上に出る
・脱出するときは、壁伝いに歩いて避難
・火災が発生しなければ比較的安全なので、あわてず行動すること
♪豚のごとく太りしもの武道館にこけつまろびつ還暦ジュリーコンサート 茫洋
♪豚の如く醜き男駆け回る日本武道館還暦ジュリーコンサート
♪6時間ぶっちぎり武道館還暦ジュリーは日本のプレスリー
Friday, January 09, 2009
続「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
自閉症の人たちは、もし災害にあったら
・落ち着いて身を守りましょう
・1人でいてもあわてないこと。必ず助けが来ると信じよう
・お家の人といっしょだったら、お家の人のいうとおりにしよう
・いっしょにいる人と離れないようにしよう
こんなときにはこうしよう
1地震が来た時家で寝ていたら
・ふとんをかぶろう
・割れた窓ガラスでけがをしないように注意
・枕元に履きなれた靴、懐中電灯、携帯電話、ラジオなどを準備
・寝室に倒れそうなものを置かない
・頭の上に物が落ちてこないところに寝る
2地震が来た時部屋にいたら
・机の下にもぐり、机の脚にしかりつかまる
・食器棚、倒れてくるものから離れる
・物が飛んでくることもあるので気をつけて
・頭にクッションなどをのせて揺れがおさまるまでそのままでいる
・戸をあけて出入り口を確保
・あわてて戸外へ飛び出さないように
・無理に火を消しに行かない
3お風呂、トイレに入っていたら
・風呂場、トイレからあわてて飛び出さない
・湯船から出ないで洗面器をかぶる
・けがしないようにバスマットなどで足を守る
・ドアをあけ、逃げ道をつくる
・割れた鏡、タイルに注意
♪なにやらんかなしききもちになりにけりじへいしょうきょうかいがつくりしぼうさいはんどぶっく 茫洋
バガテルop80
○災害が起きたら、自閉症の人たちはこうしよう
①まず落ち着くこと
深呼吸を3回くらいして助けを待とう
②危険から体をまもろう
③人を呼ぼう
④安全なところへ連れて行ってもらおう
○災害が起きたら、家族はこうしよう
A災害が起きたら、
親がまず落ち着くこと
「大丈夫だよ」と声をかけよう
本人に分かりやすい言葉や方法で本人を落ち着かせよう
B普段からの準備と心構え
練習していないことはいざというときには役に立たない。
①気づいてもらうために
「助けてカード」を作成し、本人にいつも持たせる
『助けて』と声を出す練習、ホイッスルを吹く練習
衣服への記名、サポートブックを作成し、持たせる
②日頃からわが子の存在を知っておいてもらう
隣近所とのお付き合いを
民生委員とのコンタクトも
要援護者名簿に登録
ひとりになったときを想定し、普段からの準備・訓練を
③家族で防災会議をしよう
家族同士の連絡方法などについて
④地域での避難訓練に参加を
⑤自宅以外で宿泊する体験をもとう
♪災害はいつどこで起こるか分からない君のために何ができるか 茫洋
Wednesday, January 07, 2009
川上弘美著「どこから行っても遠い町」を読んで
道路の左端に江戸時代に建立された馬頭観音と右かなざわ道と書かれた道路標識が立ち並んでいて、この一帯が古代から幹線道路として重要視されたかすかな面影を伝えていた。
鎌倉石でできたその二基の標識のすぐ隣に立っている一軒の魚屋さんが、おそらくはこの小説の最初に出てくる魚屋「魚清」のモデルではないだろうか、と私は勝手に想像を逞しうした。なぜならその魚屋は小説と同じように三階建てで、一階では魚を商っており、二階は住居部分であり、三階には小さな小屋があるのだが、それを除いた広大なスペースを利用してよくアジやイカなどを天日干にしているからである。
「魚清」を起点にして著者がはじめるのは、東京近郊のとある小さな町の住人たちが織りなす生と死と愛と希望の物語だが、私は私で別の空想を楽しんでいた。
その魚屋には年老いた夫婦二人が長らく商売を続けてきた。彼らの一人息子は東京の大学でフランス文学を専攻し、ソルボンヌに留学をしてからリヨンの大学で教員をしていたと風の噂で聞いたことがある。ところが理由はまったく不明だが、彼は今から一五年ほど前に突然帰国し、しばらくはフランス語の家庭教師の看板をカツオやヒラメの隣に掲げていたのだが、受験勉強に追われるいまどきの学生にこんな時代遅れの言語を学ぼうとする者などいるはずもなく、ある日父親に向かって「俺は魚屋のあとを継ぐ」と宣言したのだった。
魚屋の向かいにはここから鮮魚を仕入れている仕舞店風の鮓屋があったが、いつが営業日でいつが休日なのか客も店主にもよく分からない気まぐれな店だったので、一握りの馴染み客しか寄り付かなかった。
そんな鮨屋金兵衛をことのほか贔屓にしていたのが、金兵衛の隣のガソリンスタンドで働いていたFさんだった。氏は九州大学の理学部を卒業したインテリだったが、ある日大企業を突如リストラされ、とにもかくにも月々の生活費を稼ぐためにエッソスタンダードに飛び込んできたというわけだった。
私とFさんの唯一の接点は、障碍児を持つ父親ということだった。二人は時々金兵衛でゲソなぞをつまみながら、まるで同病相哀れむように、他人にはとうてい聞かせられない情けないグチをこぼしあう仲だった。
新しい年が明けてまもないある夜のこと、いつものように私が金兵衛の暖簾をくぐると、この店ではついぞ見かけたことのない若い女が、ねじり鉢巻きを巻いた徳さんに向かって「もう、あたし我慢できない」と何度も叫ぶように言いながらううすい背中を震わせて泣いていた。
……まあ、ざっとそんな感じの、因果は巡る花車小説です。
かくすればかくなるものとは知りながら御身大事に敵殺す君 茫洋
遥かなる遺恨のほどはさておきて眼下の敵はみなみな殺せ 茫洋
Tuesday, January 06, 2009
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その5
蒙古襲来後、鎌倉幕府では頼朝恩顧の御家人と北条一族ゆかりの得宗御内人との対立がきしみはじめ、それが幕府の執権政治のみならず天皇家や朝廷の権力闘争、さらには中世の社会構造にまで大きな影響を及ぼそうとしていた。
双方の権力闘争が最高潮に達したのは、弘安8年1285年11月の霜月騒動だった。安達氏の館は代々甘縄にあったが、泰盛はそこは子息宗景に譲り自宅の松谷の別邸に住んでいた。
その年の11月7日、なにか異常な雰囲気を感じて午前10時頃にそこを出た泰盛は、正午ごろ小町大路と横大路が交わる塔の辻の屋形に向かい、すぐ近所の執権貞時の館に参じようとしたところで御内人たちに行く手を阻まれ、死者30人、負傷者10人の被害を出した。
それをきっかけにこの辺を中心とする合戦が始まり、激闘の中で周軍の御所も炎上した。午後4時に戦闘は終わった。泰盛方は完全に敗れ、泰盛以下子息宗景、弟長景、時景色ら安達氏一族は自害・討ち死にし果てた。
安達氏とともに分流大曽禰氏、二階堂氏、小笠原氏など錚錚たる豪族も滅びた。鎌倉では泰盛の婿金沢顕時が下総に流され、ここに御家人最大の流派は滅んで内管領平頼綱の独裁政治が始まることになる。しかしその頼綱も頼綱執権貞時の手によって永仁元年1293年4月にうち滅ぼされたのである。
夜叉の如き形相で嬉々としてパレスチナ人を血祭りにあげているイスラエル外相 茫洋
眼には眼を歯には歯を旧約の教えにいそいそと従うユダヤの民かな 茫洋
Monday, January 05, 2009
初夢
嵐の中を疾走するシカゴ行きの夜行列車に乗ってどこか比較的大きな駅に着いた。プラットホームに停まった蒸気機関車から野生の獣の荒い息のように白い蒸気が噴き出ている。どうやらこの駅でしばらく停車するようだ。私はホームの端にある改札口を出て駅前広場のあたりをふらふらと歩きだした。
その暗闇の街でなにか大きな事件が起こったということはないと思う。あったとしても覚えていない。しかし私はそこでいつも夢の中でしか出会わない建物や風景と久しぶりに出会い、とても懐かしい思いに駆られた。
気が付くとそうとうの時間が経過していた。私は大急ぎで駅に引き返して闇を透かしてプラットホームをのぞくと、蒸気機関車とそれが牽引する何両かの古ぼけた木造の客車の姿は何度見直してもそのかけらもなかった。列車はもうとっくに出発してしまっていたのだ。
私は茫然として改札口に立ちすくみ、さてどうしたものかと考えた挙句に、改札口の傍にある小さな詰所に入っていった。幸いなことに駅員がいたので、私は事情を説明してなんとかならないかと尋ねると、彼は「もう上りはないよ」と冷たく言ってドアを閉めようとしたので、焦った私はドアの下に靴を入れてそれを防いだ。
「しかし下りで一駅戻れば上りの新幹線に乗り継ぐことができるのではないだろうか」といまそこで思いついたことをいうと、それが当たりだったと見えて、駅員は彼のほんらいの地である親切そうな表情に戻り、デスクで仕事をしていたもう一人の同僚に声をかけ、連絡と乗り継ぎの計算と新幹線の予約作業を猛烈な勢いで開始した。
ところがようやくその時になって、私は胸に納めた財布にたった1円もなく、この駅までの切符さえ持っていないことにはじめて気が付き、大いにうろたえ、さらにうろたえ、限りもなくうろたえているのだった。
♪市田柿1箱498円鎌万の安さ畏るべし 茫洋
Saturday, January 03, 2009
秋山駿著「忠臣蔵」を読む
大阪城崩壊から80年を閲し、原城の反乱の記憶も次第に遠ざかると血なまぐさい硝煙にかわって美服に薫じられた上方流のかぐわしい香の匂いが人々を魅了するようになる。華麗なる元禄文化の開幕である。
そこで権力者は、血を血で洗う戦乱の世に別れを告げ、太平に慣れ親しみ、平和というものに倦み果てた武士たちに対して、かつての宮本武蔵の「五輪書」や山本常朝の「葉隠」に代わって新たな「武士道」の規範を示さなければならない。恒久平和の時代における武士の生き方のバイブルを制作しなければならない。そのために活用されたのがこの前代未聞の仇討である、と著者は説く。
忠臣蔵の思想は、形は吉良の首を打って亡き主君の恩に報じるというものだが、その核心を流れるのは「武士であろうとする者は死を尖端に置く考えと行動によって義を護る者だ」ということだ。この独創的な元禄版武士道を立ち上げた大石内蔵助の義挙を民衆の潜在的な支援とあいまって直接間接にバックアップすることによって、5代将軍綱吉と側用人柳沢吉保は泰平の時代の武士道を確立した。そしてこの新武士道はそれ以後の徳川、明治時代を貫通し、明治天皇崩御の時点まで生命を保っていた。そういうのである。
せんじつめれば赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄時代の強権独裁者である綱吉と彼を裏面操作した側用人柳沢吉保の陰謀である、というのが著者の結論であるが、しかし誰かに都合よく洗脳された浅野内匠頭が突然でくのぼうのように上野介に斬りかかったわけではあるまい。
論理の大筋は簡明だとしても、各論の証明があまりにもお粗末。これは歴史の理屈をうんぬんするのではなく、忠臣蔵をめぐる著者のユニークな文学的歴史散歩に耳を傾けるべき書物であろう。
♪武士は義に女は恋に死すべしと元録の掟ついに定まる 茫洋
Friday, January 02, 2009
高橋源一郎著「いつかソウル・トレインに乗る日まで」を読んで
驚いたことには高橋源ちゃんの小説にはほとんど駄作がなく、おまけに駄作であったとしても必ずそれが現今の文学に対する鋭い異議申し立てになっている。そしてそれは今回も例外ではない。
なんせ「生涯初の、そして最後の」、と銘打たれた超恋愛小説である。主人公は某マスコミに勤務する相当垢が溜まった中年の俸給生活者であるが、作者と同様に元サヨクの前歴を有するこの主人公は大多数の日本人と相違してなぜか韓国とその国の住人に大いなる親和力を有しており、その結果この小説のヒロインとの超絶的恋愛が発生する。
という仕儀は多少不自然であり、説明不足のようでもあるが、どうやら主人公は韓国の特派員時代にこの国の反権力闘争に加担していた形跡もあり、その運動参加者とのシンパシーがこの小説の登場人物たちとの連関を構成している。
らしいのであるが、そんなことはどうでもいい。ともかく主人公は半死に状態の日本と自分を捨ててこの国に呼び寄せられ、そこで2度目のファム・ファタルと遭遇し、2度目の、そして最後の恋愛に深く埋没していく。案の上愛は男を覚醒し再生し復活させるのだが、それが達成されたと見えた瞬間にまるで一場の夢のように崩壊する。(衝撃のラスト?ゆえにわざとこのように書いています。くわしくは手に取って読んでください。)
というようなプロットもじつはどうでもよくて、作者がここでやりたかったのはとても不器用な愛の経験の零からの再構築であり、その愛の結晶化作用と同時に構築されていく小説構造自体の破壊的再構成なのである。つまり作者は、愛と小説をほとんど幼児が粘土の人形を作っては壊すように、作りながら壊し、壊しながら何か新しいものを作り出そうとしている。その製造過程をここで臆面もなく公開すること、それが小説だと言いたいらしいのである。
しかし「何か新しいもの」とは最後までわからない。作者にもわからないものが、どうして私たち読者にわかるだろうか。けれども、そういう無手勝流のはちゃめちゃでアナーキーな小説作法をいくら読者が少なくなろうと断固として譲り渡さないところが、時代に媚びず時代に先駆けるこの作家の革命的根性なのである。
♪われもまたソウル・トレインに乗り込んで、世界の果てまで旅立ちたし 茫洋
Thursday, January 01, 2009
青い空には雲がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
京都には百万遍がある
鎌倉には十二所神社がある
綾部にはてらこがある
百貨店には屋上庭園がある
サーカスにはブランコがある
リーマンにはボーナスがある
カレンダーには旗日がある
機動隊には7つある
小田急線にはロマンスカーがある
機動隊には貸しがある。
吉本隆明には借りがある
愛犬ムクには墓がある
手術台にはメスがある
佐々木小次郎には物干し竿がある
露台には植木鉢がある
食堂の戸棚にはドラヤキがある
隣の親父には抜け毛がある
新国籍法には抜け道がある
金融業には悪がある
障碍児には無垢がある
我が家の玄関には灯りがある
イエスにはマリアがある
大刀洗には井戸がある
畳の上には布団がある
猫にはタマがある
男にも玉がある
竜宮城には玉手箱がある
赤ちゃんには乳歯がある
処女には処女膜がある
老人には萎びた珍宝がある
レノンにはイマジンがある
サントリーには山崎がある
私には2人の子供がある
ジョン・フォードにはジョン・ウエインがある
助さんには格さんがある
私には可愛い奥さんがある
蝶には翅がある。
臍には胡麻がある
眼には涙がある
道には石がある
身体には骨がある
人には理想がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
Wednesday, December 31, 2008
Tuesday, December 30, 2008
西暦2008年茫洋師走歌日記
身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーのごとき裁定者欲し
ブルックリンのドラッグストアの四つ角でプカリ浮かんだジタンの煙よ
ハイランドの坂をあえぎながら登りゆきし3台のトラックの名は信望愛
ねえニザン20歳がもっとも醜いときだなんて誰もが知ってるさ
おやびんのためなら滅私奉公 お国も王も喜んで裏切りますぜ
奏者全員死者のミサ曲聴けば冥界より手招きさるる心地して
硝煙燻ぶるバリケードに仁王立ち最後の1発を放ちし老革命家に乾杯
遥かなるエルドラドの輝きは幻かわれら冷え行く鉄の時代に生きる者
俯いて地面に何を書いていたのか己に罪なしと信ずる者より石を打てといいいし人は
意味のある言葉を吐きたくない朝もある
平安の御代の源氏も式部も紫も雅な京都弁を喋っていた
楽しみは亡き母ゆかりの谷根千をひとり静かにさすらうとき
文を読めば音楽が聞こえてくるような文を書きたし
文を書けば己の血がでるそのような文も書きたし
時代も世紀も煎じ詰めればこの一瞬のわれらの行状に尽きる
フルベン王は死せり後は洪水垂れ流すのみとカラヤン嗤う
夕焼けの公孫樹の下に眠りたり雑司ヶ谷なる大塚夫妻
さらばベネチア沈みゆく関東ローム層で弔鐘を鳴らすのは誰
ぐららがあぐ おんぎゃあどれんちゃ ぶおばぶば ぐちゃわんべるる ううれえんぱあ
またひとりパパゲーノ見つけたり広大なるロシアの森に
障害者を障がい者とひらくこころの優しさよ
降っても照っても元気に行くよ俺たち陽気な3馬鹿大将
バーキンが別れに呉れし☆リース部屋に飾りてクリスマス迎う
サラリマンは哀しきものよアホ馬鹿の咎を背負いて血肉であがなう
異邦人を愛したことのない人は永遠に彼らを差別するだろう
われもすべてをなげうちおどりくるうてだいくわんきのうちにしにたし
困った時には神風が吹く安んじて死地に赴け汝陛下の赤子共
☆俸給生活者はつらいよ
俸給生活者は達成不可能なノルマもなんとか達成しなければならぬ
俸給生活者は他社より劣った製品をそれと知りつつ売り込まねばならぬ
俸給生活者は40度の高熱を押して出社せねばならぬ
俸給生活者は哀しいよ
俸給生活者は理不尽な人事の憂き目を見なければならぬ
俸給生活者は嫌な上司も好きにならねばらぬ
俸給生活者は最低の部下も愛さねばならぬ
俸給生活者はえらいよ
俸給生活者はアホ馬鹿消費者のわがままを否定しない
俸給生活者はクレーマーの唾を浴びながら謝罪する
俸給生活者はアホ馬鹿社長に代わって土下座までする
俸給生活者は楽しいよ
俸給生活者はともかく毎月給料をもらえる
俸給生活者は会社の金を使える
俸給生活者は会社をだしにして己の欲望をかなえることができる
俸給生活者はすごいよ
俸給生活者は家庭や家族を忘却することができる
俸給生活者は会社の金で豪遊できる
俸給生活者は棚牡丹餅ボーナスを年に2回ももらえる
俸給生活者はサイコーだよ
俸給生活者は仕事ができなくても出世できる
俸給生活者はなんだか分からぬ権力を手中に収める
俸給生活者は何の根拠もなく己を偉い者だと思ったりする
しかし俸給生活者は、ある日突然リストラされる
柚子四ツ浮かべたる風呂の楽しさよ
雪でも降れだんだん東京が厭になる
吉田家でプーランク聴こえる小町かな
ルビコンを渡らぬ人のいとおしき
国も人も三割縮む年の暮
オオフロイデ、蛍の光で年は暮れ
では皆様、よいお年を!
Monday, December 29, 2008
西暦2008年茫洋読書回想録
歳末につき、08年に私が読んだ本の中からベスト数冊を挙げておきましょう。
まずはわが敬愛する歴史家網野善彦の著作集(岩波書店)から「第5巻蒙古襲来」と「第11巻芸能・身分・女性」の2冊。いずれも日本中世の深奥に血路を切り開く知の冒険は身震いするほど感動的です。ただ情報や資料を客観的に分析して要素還元式レポートを書いていればそれで良しとする学者と違って、彼には彼独自の不逞な志があり、それが私を魅了するのだと思います。
「日本人は思想したか」(新潮文庫)は梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書です。今から10年以上前の対談ですが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値があると思います。
吉田秀和「永遠の故郷-夜」(集英社)は、音楽ファン以外の人にもお薦めの1冊。小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆です。
今年は小島信夫の本をかなり読んだのですが、いずれも深い感銘を受けました。
「菅野満子の手紙」(集英社)では、作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとしています。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことはしょせんは絶望的に不可能なのですが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かけるのです。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのですが、そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくるのでした。
森見登美彦著「有頂天家族」(幻冬舎)のエネルギッシュなエンターテインメントには脱帽しました。
かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていくのです。血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって珍しいのではないでしょうか。
次は川上弘美の「風花」(集英社)です。そんじょそこいらのどこにでもいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置してしまう。これこそ当代一流の文学者の凄腕でしょう。
続いては、私の尊敬するマイミクさんでもある新進気鋭の思想家、雑賀恵子さんの新著「エコ・ロゴス」(人文書院)に瞠目しました。「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら、私たちを未踏の領域に導いていきます。
さて、今年はずいぶん遠ざかっていたドストエフスキーを久しぶりに手に取りました。話題の光文社版ではありません。手垢のついた米川版です。昔から雑誌は改造、文庫は岩波、浪曲は廣澤虎造、小唄は赤坂小梅、沙翁は逍遙、トルストイは中村白葉、ドストは米川正夫と相場が決まっているのです。 「カラマーゾフの兄弟」(昭和29年河出書房版)の最後の最後のエピローグで、多くの子供たちに囲まれてアリョーシャが別れの言葉を述べるくだりは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の末尾の合唱を思わずにはいられません。それは愛と許しと世界の平和を願う音楽です。同じ作曲家による「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナの歌や少年天使の歌、近くはパブロ・カザルスの「鳥の歌」と同じ主題をドストエフスキーは臆面もなく奏でているような気がしました。
私にとって、本を読むということは、毎日ご飯やパンを食べるようなものです。食べるはしから排泄していって昨日の朝は何を食べたのかすら忘れてしまう。これではあまりに健忘症ではないかということで06年の7月から読書覚書をつけるようになりましたが、さきほど今年読んだ本を数えてみたらわずか90冊。年々気力体力視力が衰えてくるので消化する本の数も落ち込んでいくのです。
しかし読むべき本の数は年々積み上がります。晩年の中原中也がいうたように、量より質、1冊1冊を一期一会、最後の晩餐とみなして精読し、壊れゆく脳内の記憶を死守していきたいと願っている次第です。
♪国も人も三割縮む年の暮 茫洋
Sunday, December 28, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その4
いわゆる元寇は、第1回が文永11年1274年、第2回目が弘安4年1281年であるが、来襲したモンゴル、高麗、漢、(弘安の役は江南軍も)の大軍勢はいずれも台風の被害に遭っている。
しかし「文永の役」でそれがあったかなかったかについてはまだいろいろな議論があるようであるが、「弘安の役」における暴風雨の来襲は確実で、戦死・溺死する者元軍10万、高麗軍7千、総敬14万の大軍はそのおよそ4分の3を失った。
著者は、元軍壊滅の原因は台風ももちろんであるが、モンゴル、高麗、漢、江南軍の4つの混成寄せ集め部隊の内部対立が主因であり、宿敵同士の指揮官の行動には終始統一と団結が欠けていた。さらに専制的な強制によって建造された軍船はモンゴルによって滅ぼされた中国の船大工が手抜きしたといわれるほど脆弱な造りであったことなどを指摘している。
しかし日本軍の防衛体制も脆弱そのもので挙国一致などとはお世辞にもいえず、まことに薄氷の勝利であったと言わざるをえない。世評とは裏腹に無能の将軍北条時宗は鎌倉八幡宮に異国降伏の祈祷をするくらいのことしかしていないが、そこは腐っても鯛、執権政治の最盛期であったために竹崎季長、河野通有などの勇猛な御家人の敢闘の前に、元軍の侵攻は「失敗すべくして失敗」したのである。
ところが戦後油然としてわき起こったのは元軍敗北は神風の仕業であり、寺社仏閣の神威であるという愚かな見解であった。以前からあった、日本は神国であり神明の加護する特別な国であるというあほらしい考え方はさらに強まり、仏は神が姿を変えて現れたとする反本地垂迹説や伊勢神宮外宮の神官度会氏の唱える伊勢神道はこのような愛国的空気のなかで形成され、その663年後、このアトモスフェアをKYした狂気の軍人どもによって「神風」特攻隊の悲劇が起こったことを私たちは忘れるわけにはいかない。
♪困った時には神風が吹く安んじて死地に赴け汝陛下の赤子共 茫洋
Saturday, December 27, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その3
ちょうどその頃、一遍は京の五条烏丸東の因幡堂の縁の下で乞食と共に眠っていたが、弘安2年1279年の8月、信濃の善光寺に向かった一遍は食器の鉢をたたき、念仏を唱えながら踊り出した。一遍が踊ると乞食も癩の者も頭をふり、足をあげ、高声で念仏を唱えて踊りはじめた。
はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの
のりのみちをば しる人ぞしる
ともはねよ かくてもをどれ こころこま
みだのみのりと きくぞうれしき
踊りと念仏のなかで、人々は歓喜に導かれていった。このようにして
おのずから動く手足を動かし、心のままに躍り声をあげることによって自然な野生のよろこびを一遍は抑圧された民衆の心にわきたたせていったのである。
一遍は遍歴・漂泊する人々と共に歩み、遊行した。弘安7年1284年、京の桂を発って丹波の篠村に着いた一遍の周囲にいたのは「異類異形にしてよのつねにあらず」、利のために狩猟、漁労などの殺生を業とする人たちであった。彼らが頭を振り、肩をゆすり、一糸まとわぬ姿になって踊っていると頭上から花々が降り注ぎ、紫雲がたなびいたという。
正応2年1289年、摂津国兵庫島の和田岬で一遍は静かな往生を遂げたが、「葬礼の儀式をととのうべからず。野にすててけだものにほどこすべし」という遺言は守られず、彼の遺体は岬の観音堂に埋められた。彼の死に接し入水自殺を遂げた7人の僧と非人の成仏する姿は「一遍聖絵」で今日もつぶさに見ることができる。
以上は、本書からの自由な引用でした。
♪われもすべてをなげうちおどりくるうてだいくわんきのうちにしにたし 茫洋
Friday, December 26, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その2
「立正安国論」を書いて国難に臨む執権時宗に意見具申をはかった日蓮は「念仏は無間地獄、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説なり」という「四箇の格言」を掲げ、モンゴルを退けうるのは日本第一の法華経の行者われをおいてほかになしと小町の門々で絶叫したために、文永8年9月12日、得宗御内人の代表的人物平頼綱によって逮捕され、いままさに瀧口寺で処刑されようとした。
伝説では「一天にわかにかき曇り大なる雷鳴なりひびき刀は宙に舞いにけり」ということになってはいるが、実際には平頼綱の最大のライバル筆頭御家人の安達泰盛の時宗への進言の結果である、と著者はいう。蒙古襲来の前夜、鎌倉幕府の御家人と得宗との対立はぬきさしならぬ様相を呈していた。
九死に一生を得た日蓮であるが、その説教はますます火を吐くように過激になり、その攻撃の矛先は鎌倉極楽寺の勧進上人、忍性に向けられた。
日蓮は、「生身の如来」と仰がれながらじつは布絹財宝を貯え、利銭借請を業としている生臭坊主の貧民への施しは偽善でしかない、と弾劾し、この年の大旱魃に当たって祈雨の法験を争おう、と忍性に挑んだのである。
北条一門と癒着する宗教者のみならず北条政権そのものに対してもまっこうから批判を加え始めた日蓮は、はげしい弾圧に身をさらしつつ、この弾圧それ自体のなかに法華経の真理のあかしを読み取り、その確信のなかから「われはセンダラ(賎民)が子、片海の海人が子」という発言が生まれた。権力の課した過酷な弾圧は、ここに一個の不屈の思想家を誕生せしめたのである。(P139)
しかしながら日蓮は、「モンゴル来襲の非常時に忍性ごときを信じている輩は殺され、女は他国へ連れ去られるだろう。白癩・黒癩・諸悪重病の人々、多かるへし」と差別的妄言を吐いている。かれども、その癩病の患者を背負ってこれを救おうとした人こそ、ほかならぬ忍性であった。
♪異邦人を愛したことのない人は永遠に彼らを差別するだろう 茫洋
Thursday, December 25, 2008
サラリマン音頭
俸給生活者はつらいよ
俸給生活者は達成不可能なノルマもなんとか達成しなければならぬ
俸給生活者は他社より劣った製品をそれと知りつつ売り込まねばならぬ
俸給生活者は40度の高熱を押して出社せねばならぬ
俸給生活者は哀しいよ
俸給生活者は理不尽な人事の憂き目を見なければならぬ
俸給生活者は嫌な上司も好きにならねばらぬ
俸給生活者は最低の部下も愛さねばならぬ
俸給生活者はえらいよ
俸給生活者はアホ馬鹿消費者のわがままを否定しない
俸給生活者はクレーマーの唾を浴びながら謝罪する
俸給生活者はアホ馬鹿社長に代わって土下座までする
俸給生活者は楽しいよ
俸給生活者はともかく毎月給料をもらえる
俸給生活者は会社の金を使える
俸給生活者は会社をだしにして己の欲望をかなえることができる
俸給生活者はすごいよ
俸給生活者は家庭や家族を忘却することができる
俸給生活者は会社の金で豪遊できる
俸給生活者は棚牡丹餅ボーナスを年に2回ももらえる
俸給生活者はサイコーだよ
俸給生活者は仕事ができなくても出世できる
俸給生活者はなんだか分からぬ権力を手中に収める
俸給生活者は何の根拠もなく己を偉い者だと思ったりする
しかし俸給生活者は、ある日突然リストラされる
♪サラリマンは哀しきものよアホ馬鹿の咎を背負いて血肉であがなう 茫洋
Wednesday, December 24, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで
鎌倉時代の農民とは一線を画して、海賊をも業とする海民、殺生をも業とする山民の世界があった。
11世紀半ばに「鬼の子孫」と自称し、都の人々からもそう呼ばれていた京の都の郊外の里に住む八瀬童子は、代々刀自に率いられた集団であったが、山門の青蓮院門跡に属し天皇の賀輿丁もつとめた彼らは、炭を焼き、薪を売るなどの山仕事を業とする山の民だった。
大原の里に住む人々もこれと同様な集団で、当時の大原女は鈴鹿山の女盗賊と同じように荒くれだった炭売り商人であり、現在の鄙びた花売り娘とはまるで違う逞しい存在だった。
桂、大井、宇治など山城を中心に流れる河川のすべてを漁場として天皇から認められていた鵜飼の女性たちは、大原女と同様に頭に白い布をまき、鮎などの魚を売り歩く商売女であった。
宝冶2年1248年、漁場の争いに激昂した桂女たちは院の御所に集団で押しかけちょうど退出してきた摂政近衛兼経の背に向かって声高に罵ったという。
その桂女は室町時代から特徴あるかぶりものをかぶる遊女の一種とみなされ、そのたおやかな優艶さで知られるようになっていくが、これを女性の存在の仕方の時代的進化と呼ぶのか退化と呼ぶのかは微妙なところである。
♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーこそは闘士なりけり 茫洋
♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーのごとき裁定者欲し 茫洋
Tuesday, December 23, 2008
こんな夢を見た
昨夜衛星放送で黒澤の「夢」という映画をやっていた。前にも見たことがあるのだが、随所に素晴らしい情景が出てくる名画なのでじっと眼を凝らしていたのだが、そのうちに猛烈な睡魔に襲われてしまった。仕事の疲れがどっと出たらしい。仕方なく幻の兵隊が回れ右して暗闇のトンネルにザックザックと姿を消したあたりで寝室に引き揚げて眠ってしまった。
「夢は第2の人生である」という名文句を吐いたのは仏蘭西の偉大な詩人ジェラール・ド・ネルヴァルだが、そんな因果の関係からなにかひとつくらいささやかな夢を見るかと思っていたのだが、ひとかけらすら見なかった。
そこで、というのも妙な話だが、2002年10月3日に私が見た夢を備忘録として記しておこう。
昨夜見た夢の中で昔死んだ近藤さんを見かけた。近藤さんの顔は茶色の斑点入りのヴェールのようなもので覆われていたためにちらとしか見えなかったが、たしかにそれは近藤さんだった。彼女が腰をおろしていた丸いテーブルの反対側にはでっぷり太った広瀬さんが座っていた。でもどうしてガンで死んだ女性が生きているのか。もしかして男性の広瀬さんももう死んでしまっているのではあるまいか、と怪しみながら、僕が丸いテーブルの方へ近づいたとき、突然マガジンハウスの雑誌編集者のI君がその部屋に滑り込んできた。そして背中に背負ったリュックサックをどさりと投げ出すと、そこから2枚のLPのアルバムを取り出して部屋の片隅の壁のたもとに丁寧に並べた。僕がI君に近づくと、彼は僕の顔をみるなり少し顔を赤らめてリュックをつかむとさっと走り去った。そこで僕は好奇心に駆られてアルバムを手にとった。その1枚はカール・リヒター指揮、ミュンヘンバッハ演奏のバッハのブランデンブルグ協奏曲全曲のレコードだった。1枚のジャケットに2枚のレコードが入っていた。
♪バーキンが別れに呉れし☆リース部屋に飾りてクリスマス迎う 茫洋
天才とは?
いまを去る遠い昔の某月某日、
天才とはどんな人であるかと聞かれた建築家のフランク・ロイド・ライトが、
天才とは、自然を見る目を持つ人のこと。
天才とは、自然を感じる心を持つ人のこと。
天才とは、自然に従う勇気をもつ人のこと。
と答えたそうであるが、なかなかよい答えではないだろうか。
なんでも「マビノギオン」という古代ウエールズの三題詩からに引用らしいが、私は
そういう天才なら、身近にいる多くの知的障碍者なら、みんな立派にこの3馬鹿大将に該当するなあ、と思ったことであった。
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♪降っても照っても元気に行くよ俺たち陽気な3馬鹿大将 茫洋
Monday, December 22, 2008
ちゃんと就職したいと願っている君に
あっという間の就職氷河期の到来である。なかには内定が決まっていたのに門前払いを食わす不届きな企業もあるときく。法律違反だから断固闘えと檄を飛ばす厚生労働省の某大臣もいたようだが、かといっての臨時職員に雇ってあげようというでもない。
この突然の世界不況の元凶はひとえにアメリカ帝国を中心とした金融資本主義者および同国の金に目がくらんだ亡者どもの常軌を逸した欲望の狂乱にあるのであり、わが国をはじめとした世界各国のいっぱんピープルにはまったく無関係に一〇〇年に一度の大波乱が起こった。あのサブプライムローン問題さえなければ、このような悲劇は起こらなかったのである。
したがって今次の世界不況の影響を被ったすべての国家と組織と個人は、ただちに彼らに対して抗議するとともにアメリカ大使館に波状デモをかけ、その被害の多いさに応じて損害賠償の大衆訴訟を起こすべきである。それなのにあほばか大国の愚挙の尻拭いをどうして国内のメーカーや自治体が行う必要があるのか理解に苦しむ。これほど明々白々たる因果は、いまこそ正確に応報しなければならない。
それはさておき、来年卒業する予定の大学生や専門学校生の諸君の不安はいかばかりであろう。微力な私にできるコト。それは彼らに対して、「それほど悪くはない就職口」をたったひとつだけ、しかし自信をもって紹介することだろう。
いまとても困っている学友諸君は、つぎのホームページにアクセスされたい。
http://tomoni.or.jp/saiyou/saiyou.html
♪柚子四つ浮かべる風呂の楽しさよ 茫洋