ふあっちょん幻論第26回
西欧は洋服の本場であるが、では日本のメンズモードはどのように移植されたのだろうか。
16世紀の中葉に宣教師たちが渡来すると、南蛮服、えびす服、紅毛服による洋服受容がはじまった。「南蛮服」のアイテムとしては、「合羽」(ケープがなまった)軽珍(カルソン。形状はbreechesブリーチズで半ズボンに近い)、無縁帽子、羅紗、ビロード、毛留(むうる)、鹿皮等であるがこれらはそのまま後世に伝えられて現代のファッション・アイテムになる。
1587年に豊臣秀吉がキリシタン排外政策を開始し、1633年の徳川幕府が鎖国令を宣言すると南蛮モードの流入は下火になる。しかしその後も、プロテスタント国のオランダから輸入された羅紗(厚くて粗いウール、陣羽織や火事羽織り・袋物に使用)や緞子(文様を織り出した絹織物)等は権力者によって珍重されたが、その後取り締まりがさらに強化され、1643年に町人の羅紗合羽の着用が、1652年には歌舞伎役者のビロード襟が禁止された。
しかし諸外国からの影響が強まる中で、1720年に幕府は洋書の禁を解き、蘭学を解禁した。それ以前から出島のオランダ人は「えびす言葉」を話し「えびす模様」の「えびすの長衣装」(紅毛服)を纏い、蘭学者は「えびす流」または「唐人仕立て」と呼ばれる装束を纏っていた。前野良沢や杉田玄白は和服の襦袢の上に洋服の上着、チョッキを着、のちの大黒さんと称するズボン様のものをはき、吾妻コートに似た袖なし、折襟型のオーバーのようなものを着ていたのである。
♪南蛮服に身を包み真紅のワイン飲み干したり織田信長 茫洋
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