照る日曇る日第222回
敗戦直前の1945年3月24日、当時27歳の「心からやりたいということ、心から何事かをなしたいという欲求がさらにない」一人の若者は、松岡洋右の息子の仲介で日本を飛び出し、「上海客死」の覚悟で欧州をめざした。しかし当時欧州直行便は存在せず、やむなく著者はこの動乱の地で8月15日を迎え、1947年1月に帰国するまで当地の武田泰淳宅に転がり込む。
その間の私的な記録がこの日記である。そこには支配から脱して自らに目覚めつつある等身大の中国と生身の中国人たちの動向、そして敗戦国民に転落して動揺する日本人たちの狂乱ぶり、さらに異国での異常な体験と燃え上がる愛に戸惑う孤独な魂の彷徨がとぎれとぎれの断想のように記されている。
日本人を憎んで密告したり殺したりする中国人もいたが、戦争中とまったく同じようにつきあう中国人もいる。しかし大半の日本人は戦争中とがらりと態度を変えて民主主義人間に変身してしまう。いっぽうこの人物はといえば、敗戦から国共内戦開始という天下の大乱のさなかに木の葉のように右往左往しながらも、「天下国家のために何をなしたいという野望もない。また自分一個のためにすら何をしたいとも思わぬ。つまらないことおびただしい。自分で自分がまったくつまらない。食物をこしらえたり、皿を洗ったりする瞬間がもっとも充実しているように思う」と書いていて、若いのにさすが掘田、と大いなる共感を覚える。敗戦の日にわざと陸軍兵の軍帽をかぶり、戦勝を寿ぐ中国人たちで雑沓する市街に単身身を乗り入れる著者の勇気は感動的ですらある。
1946年5月21日
今日から自分と戦うことについて考えよう。
したいことはしない。
したくないことはしない。
1946年8月10日
アインシュタインが宇宙の構成は単一であると言ったとき、ヴァレリーが「その単一なることを証明するものは何であるか」と問うたところ、アインシュタインは「それは信仰だ」と決答した。これに対して、ヴァレリーは「このときほど自分は感動したことがない」と慨した。信仰のない科学は所詮うすめられた毒薬の注射以外のものでない。信仰がないからその毒に耐えきれないのである。されば科学自体も発展しないし、人格も決して人に卓越せるものとなりえない。
1946年10月18日
岸田劉生の「美の本体」に「運命に形を与えれば実在だ」という言葉がある。これは芸術と人生を深く深く見たまことの芸術家の言葉である。とらえがたきこの世の運命に形を与えたもの、それが文学である。実在である。
「それは美だ。在るといふことの美だ」。
などの日記も、なかなか示唆に富む。
広場の孤独やゴヤの作家の揺籃の地はまさに上海にあったことを雄弁に物語る貴重な青春の記録と評せよう。
♪おお天よ、われらが運命に形を与え給え 茫洋
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