照る日曇る日第224回
デビッド・リーンの名作「アラビアのロレンス」の主人公T・Eロレンスは、あの映画の冒頭の印象的なシーンで見られるように、1935年5月19日、不慮のオートバイ事故で46歳で急死した。彼の自伝であるこの本は、すでに全3冊で同じ東洋文庫から出版されているオックスフォード普及版のオリジナル原典版にあたる内容で、これからなんと全5冊で発売されるという。やれやれ。
しかし同じタイトルの短縮版に加えて拡大ヴァージョンの正規版も併せて公刊するとはさすが天下の平凡社。これぞ出版社の鑑といわなければなるまい。
ちなみに「知恵の七柱」という題名は、旧約聖書の箴言第9章の冒頭「知恵はその家を建て、その7つの柱をきり成し、その畜をほふり、その酒をまぜ合わせ、そのふるまいをそなえ、そのはしためをつかわしてまちの高き所に呼ばわりいわしむ。拙き者よここに来たれと云々」に依る。かなり思わせぶりだが本書の内容とはあまり関係がなさそうだ。しかし冒頭の捧詩はロレンスのかつて愛した御稚児さんへの愛の言葉らしい。
第1次世界大戦中の1916年、アラブがトルコに反乱を起こせば英国はドイツと戦いながらトルコを打倒できるだろうと考えた英国は、ロレンスをアラビアに派遣、ベドウインの首長(シャリーフ)フサイン・ブン・アリーとその子息アリー、アブドゥツラー、ファイサル、ザイドに加担したロレンスはいよいよ灼熱の砂漠にその生涯の活躍の舞台を見出すのである。
ところでロレンスは、この砂漠の遊牧民の反乱の物語を、「白鯨」や「カラマーゾフの兄弟」に匹敵する偉大な物語に仕上げたいという野望のもとに執筆にかかったそうだが、出来上がったものは、もちろんそうとうに違った内容になった。
けれども以下に引用する個所(第二部「アラブ軍、攻勢に出る」第二六章「行軍命令」)には、ロレンスが自作をそれらの名作になぞらえようと懸命に努力した形跡があって微笑ましいものがある。
「右翼の従軍詩人が不意に耳障りな歌声を張り上げた。一篇の創作二行連句で、ファイサルと彼がワジェフで与えてくれるはずのよろこびを歌っていた。右翼の隊は詩句に耳を澄ませてから頭に入れ、一度、二度、三度と誇りと自己満足を誇示する前に、左翼側への嘲りをこめ、繰り返すたびに前よりも挑発的に斉唱した。しかし四度目に得意を誇示する前に、左翼の詩人が烈しく独唱に入った。右翼のライバルのカブレットに対する即席の返歌で同歩格で相応する押韻により詩人の情感を完結し、あるいは最後を締めくくるものだった。左翼の部隊は勝ち誇ったようにどよめきつつ、それを復唱する。すると太鼓がふたたび鳴り、旗手が臙脂の大旆を振りかざしつつ、右翼、左翼、中堅の全親衛が士気を鼓舞する節回しの連帯歌を斉唱した。
われはブリテンを失い、ガリアを失いぬ、
われはローマを失いぬ、ましてつらきはララゲーを失いしこと!」
♪大人しき雌の駱駝に跨りて砂漠往くなり猛きベドウイン 茫洋
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