鎌倉ちょっと不思議な物語第161回&照る日曇る日第216回
蒙古襲来後、鎌倉幕府では頼朝恩顧の御家人と北条一族ゆかりの得宗御内人との対立がきしみはじめ、それが幕府の執権政治のみならず天皇家や朝廷の権力闘争、さらには中世の社会構造にまで大きな影響を及ぼそうとしていた。
双方の権力闘争が最高潮に達したのは、弘安8年1285年11月の霜月騒動だった。安達氏の館は代々甘縄にあったが、泰盛はそこは子息宗景に譲り自宅の松谷の別邸に住んでいた。
その年の11月7日、なにか異常な雰囲気を感じて午前10時頃にそこを出た泰盛は、正午ごろ小町大路と横大路が交わる塔の辻の屋形に向かい、すぐ近所の執権貞時の館に参じようとしたところで御内人たちに行く手を阻まれ、死者30人、負傷者10人の被害を出した。
それをきっかけにこの辺を中心とする合戦が始まり、激闘の中で周軍の御所も炎上した。午後4時に戦闘は終わった。泰盛方は完全に敗れ、泰盛以下子息宗景、弟長景、時景色ら安達氏一族は自害・討ち死にし果てた。
安達氏とともに分流大曽禰氏、二階堂氏、小笠原氏など錚錚たる豪族も滅びた。鎌倉では泰盛の婿金沢顕時が下総に流され、ここに御家人最大の流派は滅んで内管領平頼綱の独裁政治が始まることになる。しかしその頼綱も頼綱執権貞時の手によって永仁元年1293年4月にうち滅ぼされたのである。
夜叉の如き形相で嬉々としてパレスチナ人を血祭りにあげているイスラエル外相 茫洋
眼には眼を歯には歯を旧約の教えにいそいそと従うユダヤの民かな 茫洋
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