Monday, January 19, 2009

アーサー・ウェイリー・佐復秀樹訳「源氏物語2」を読んで

照る日曇る日第223回

ウェイリーによれば紫式部はこの物語のすべての登場人物の年齢や地位や境遇を一瞬たりとも忘れることなく各帖を整然と記述しているという。物語のディテールではなく、その壮大な時間的・空間的な全体構造をきちんと押さえてからこの翻訳に入ったことは、彼のいかにも几帳面で学究的な性格を物語るとともに、この翻訳と凡百の日本語訳との決定的な違いを生んでいる、と思った。

よく源氏物語はプルーストの失われた時を求めてと比較されるが、この両者に共通する骨太の物語構造と近代的な心理分析を最初に発見したのがこのエキセントリックなキングズ・カレッジアンだった。彼の翻訳を読んでみると、谷崎や与謝野は全体構造の強固さには無自覚にただ細部の美を舐めるように慈しんでいるにすぎないことがよく分かる。

原作は同一でも、それを極東のローカル文学にとどめるか、はたまた世界最高の文学に押し上げるかは、翻訳者の世界文学の理解の深さの差であることが愚かな私にもはじめてわかったような気がする。

流謫の地から権力の中心に復活した源氏は、二条の館を離れて春夏秋冬四つの季節の名前をつけた東西南北四つの対からなる広大な屋敷を新設し、そこに正妻の紫の上、秋好皇后(六条御息所の娘)をはじめ、明石の上、玉鬘、花散里なぞの愛人たちをそれぞれ配し、対から対へ、御殿から御殿へといくつもの渡り廊下を伝って、あるいは鑓水に浮かべた小舟で遊覧する。

乱れ咲く四季折々の花々と天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響きはまさにこの世に顕現した華麗な一幅の極楽絵図そのものである。ウェイリーはこのくだりを「モーツアルトの交響楽のなかの律動と似ている」、と評しているが、巻二四「胡蝶」を目にしている私の耳朶にも、たしかに彼の最後のハ長調交響曲の終楽章のコーダが遠く鳴り響いていたのであった。

巻末のウェイリーの「解説」も興味深いが、翻訳の佐復秀樹が多用している「主要な」
という現代日本語の使用法は、文法の正則に照らして正しいとはいえない。世間でよく使っている「親交を深める」というジャッグルした表現が正則から少し外れているように。


♪管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し 茫洋

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