Wednesday, October 31, 2007

安藤忠雄の「歴史回廊」提言に寄せて

勝手に建築観光26回


最近ベネチア大運河入り口の旧税関跡美術ギャラリーの国際コンペに勝利して意気上がる安藤忠雄だが、この時流に敏感で商機に抜け目のない機敏な建築家が、東京に「歴史の回廊」を作ろうと提唱している。

「回廊」という言葉で誰もがすぐに想起するのは、最近亡くなった黒川紀章の未完の代表作である中国河南省都鄭州市の都市計画で、このコンセプトが「生態回廊」であることはつとに有名である。

これは北京から南西600kmの黄河流域にある人口150万人の古都に山手線内側の倍以上の広さの新都心を2020年までに造ろうという壮大な計画で、まず800hの人口湖「龍湖」を作って都心と結び、緑と水の生態回廊に基づいて各地域間に河川を巡らせ、超低層住宅群、水上交通、岸辺公園を随所にちりばめ、自然と暮らしの共生をめざそうとするものであるが、どうやら安藤の「歴史回廊」は、この黒川案の向こうを張ったとみえなくもない。

それはともかく、安藤は明治の代表的な建築物をつなぐプロムナードを東京駅周辺に作って、国際的にも世界の奇跡とされているこの黄金の時代の記憶を永久に後世に伝えようと、けなげにも提言しているのである。 

具体的には1931年吉田鉄郎設計の東京中央郵便局を破壊から守り、このたび晴れて復元&再建されることになった1914年辰野葛西建築事務所設計の東京駅と1894年ジョサイア・コンドル設計の三菱1号館を、1911年妻木頼黄建築の日本橋までつなげ、日本橋はソウル清渓川にならって高架道路を撤去しようとするそれなりに真っ当なプランであるが、このような“もっともらしい正論”をいまさらながらに提案するのなら、私はこの偉大なる建築家の驥尾に付して、ことのついでに丸ビルと新丸ビル、おまけに有楽町の旧都庁ビルと三信ビルの完全復活再生復元を提案したい。

近年三菱地所がおったてた「醜い巨大ガジェット」である丸ビルと新丸ビル、それに有楽町の「超モダンおばけ廃墟」東京国際フォーラムは、ダイナマイトでこっぱみじんに破砕しなければなるまい。

さうして丸ビルには高浜虚子が主宰するホトトギスの事務所もぜひ復活してほしい。銀座プランタン裏にあってドーリア調エンタシス柱が美しかった1931年徳永傭設計の「東邦生命ビル」と1929年完成の6丁目の交詢ビルジングも、だ。

それなくして安藤流「歴史の回廊」は画龍点睛を欠く。安藤が表参道ヒルズでお仕着せに試みた同潤会アパートの奇形的保存の反省を踏まえ、過去の偉大な建築物を、その地霊鎮魂を兼ねて徹底的に再建してほしいのである。

それあってこその偉大な明治の歴史的再生であり再現ではないだろうか。

Tuesday, October 30, 2007

♪ 07年10月の歌

♪ある晴れた日に その15

われもまた風狂の人になりたし
クワガタは樹液の近くに逃がしてやりぬ
私はとうてい大工にはなれない
鳥羽殿へ我勝ちに急ぐ参騎かな
夕闇に縄張り広げむ女郎蜘蛛
落石に注意といわれても具体的にどうすればよいのか
我君を食らふとも可なるか可也哉茸笑ふのみ
食らふとも可なるか茸笑ふのみ
男なら健女なら優と名づけむと語る甥に明るい未来を
君にもそして君にも安けき未来豊けき明日来たれ
露草を雑草とみなして焼く人をわたしは激しく憎んでいる
釣船草を船と知らずに雑草とガスバーナーで焼くな男よ
またしても君は雑草と口走る草それぞれに名はあるものを
鎌倉の横須賀線の踏み切りの傍に棲むとうかのウシガエル
踏み切りの主は幻のウシガエル心して過ぎよ横須賀線
自らの生の希薄に耐えかねてコッカコッカと鳴く自虐鳥
東京の出版社より来たりける月12万の仕事によろこぶ
キンモクセイ炎と燃ゆる秋深し
心中の業火燃やすか金木犀
わが魂を焼き尽くすや金木犀
人類は悔い改めよと金木犀日本全国激しく燃えたり
中原の中也展果てたあと大輪の薔薇静かの舞咲けり
カラス咲き、ジャクリーン咲くや薔薇の苑
油蝉10月20日に鳴いており
鳩さぶれー鳩の首から食べました
いい俳句をつくったのに忘れてしまった
人生は省略できないバイパスできない
次々に事件が起こるまず杉並一家惨殺事件から解決せよ
過ぎた昔が帰って来る日もあるだろう
なぜ1ドル117円が急に114円になったのかわからない
このキノコを喰わんとする男あり
いくたびも息子の名前をググりけり
首塚や皇子の怨念いまだ晴れず
首塚や人を呪わば穴ふたつ
ムクは死んだけどタロウはまだ生きている
十三夜愛する者より便りなし
十三夜希望の如く月は湧き
十三夜希望の如き月が出る
十三夜希望のやうな月が出て
カモはいいな真昼間から眠っている
おぼつかぬ右手でつかむケーキかな
障碍者たちがはたらくカフェで海を見ながらランチを食べた
一呼吸また一呼吸するうれしさよ
おろぬいたミズナを二人で食べにけり
俳句では言いたいことを詠むなかれ
我も人もすべての言説は生臭し
みそひとをむかえしむすこのたよりなし
人はなぜここまで自然を求むのか
偽りの自然を自然と読み直す姑息の智恵は愚かなるかな
偽りの自然も第二の自然なるかプラスティックの葉よ樹脂の樹木よ 
裏側の波の模様が美しい蝶なればこそウラナミシジミ
私はウラナミシジミのウラガワの紋が好きだ 
ユニクロで購いきたるカシミヤを身につけしきみはどうと訊ねる
ノバうさぎのCMをつくったやつは前に出よ
秋深し衆寡敵せず滅びゆく
秋深し友の寡なき男あり

Monday, October 29, 2007

ある丹波の女性の物語 第7回

 父は、女道楽の祖父を心から憎み、反面この上ない母思いであった。祖母がそこひの手術の為、京の眼科病院へ入院した時は、学校を休んで付き添いに行き、自分の眼片方と引き換えに母の目をよくしてくれと、病院内の神社に願かけをしている事が患者の中で評判になり、みんなで大きな数珠を廻して拝む念仏講を開いてくれたという。
院長も感動して精一杯の治療をしてくれ、目がみえるようになったと聞く。

 父と同い年の母菊枝は、福知山鍛冶町に雀部家の長女として生まれた。代々綿繰り機を商う家で祖父は九代伊右ェ門、幼名は庄之助、代々同じ名をついでいたようで、祖母みねも同じ福知山の彫り物師の娘で、生涯祖父を幼名の「庄さん」と呼び、色白で針仕事の上手な、まことに可愛らしい「おばあちゃん」であった。

 文明開化で紡績工場が出来てから家運は急速に衰えていったが、昔は丹波、丹後、北陸地方にかけて手広く商っていたらしく、母は庭にはまわりを子供が六人位手をつなげるような木があり、夜、燐がもえた事、米騒動の時の鍬の跡がいくつも柱に残っていた事など話してくれた事がある。

 母は20歳で遠縁に当たる佐々木家へ嫁いだ。郡立女学校の前身、香蘭女学校を出、神戸県立病院看護婦養成所を卒業、産婆の免状も持っていたが、幼い時から美人の評判が高かった。

福知山は芸事の盛んな土地で、雀部家代々のあるじも浄瑠璃が好きで、大阪の文楽から義太夫を招いて稽古をしたそうである。母も小さい時から舞や三味線を習わせられた。盆踊りも盛んな土地で、町々に連があり、母はその先頭に立って三味線をひいて町中を練り歩いた事、嫁のもらい手がふるほどあったとは、雀部の祖父のいつもの自慢話であった。

福知山音頭の優雅な調べに合わせて家々の娘は、きそうように美しく着飾って歩いたのであろう。

♪くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に  愛子

ある丹波の女性の物語 第6回

 両親・祖父母のこと

 佐々木家は代々男の子に恵まれず、何代も養子を迎える家系であったようで、曽祖父には女の子もなく、祖父祖母共の両養子であった。

祖父春助は天田郡大原村の生まれ、安産の神大原神社近くの西村家に生まれた。父のいとこ達は村長や郵便局長であった。

私は一度秋の遠足で大原神社へ行った事がある。何廻りもして峠を超えて行った事がある。道々にりんどうが色濃く咲いていたのが忘れられない。とても山深くきたという思いがした。
祖母、婦美は隣村の山家の米屋から来ていたが、49歳でなくなっている。

 明治18年2月22日、父小太郎が綾部町の佐々木家に生まれた時は、何代目かの男子誕生でとても喜ばれた。しかし栄養不良のしわくちゃな赤ん坊だったそうである。

 家は屋号が示すように昔は寺子屋であったそうで、古びた槍も鴨居にあがっていた。桑園もあって養蚕もしていたが、祖父の代に職人をおいて桐下駄の製造をはじめた。

祖父は素人芝居の女形を演ずるのが得意で、女遊びの好きな道楽物であった。それでも父は当時尋常小学校、郡立高等小学校を経て、城丹蚕業学校創立初回の卒業生であるし、父の妹つるは郡立女学校を出ているから、金もうけにも長じていたのであろうか。
どういうわけかヤン茶坊主の次男金三郎叔父だけは、小学校をおえると京の呉服問屋へ奉公に出ている。

♪突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

Saturday, October 27, 2007

ある丹波の女性の物語 第5回

絢ちゃんの事

 絢ちゃんとは一卵性双生児の片われの姉の事である。

先に生まれたからか、後なのか、どういう訳か姉と言う事である。現在では妊娠中から男女の別も分かり、勿論双生児など初めから分かるらしいが、当時は異常にお腹が大きくなるまで分からなかったのではあるまいか。母は、後期にはふすまや柱を持たないと、立ち上がれなかったそうである。

何かにつけて絢ちゃんの方が秀れているので、私が妹でほんとによかったと思っているが、姉の絢ちゃんは、とてもひ弱で息もたえだえに生まれてきたそうで、遠くにやるなら元気な方をと私の丹波行きは決まったらしい。

ところがこの姉も、ひょっとすると立場が逆になっていたかもと、私の綾部行きには責任を感じているらしいのである。

私の名前は「神は愛なり」の聖句から決まったそうで、絢子は雀部では「あいこ」と呼ばれて育ったそうである。女学校4年の時、祖父の葬式で生まれて初めて、京桃山の雀部家を訪れ、その事を知った。生家でも私の事をいつも覚えようとしていてくれた事を複雑な思いで感謝した。

 絢ちゃんは大沢家に嫁ぎ、大学教授夫人、学長夫人となった。女としてはエリートコースにあるこの姉を羨む気持ちは少しもない。もう一人の私が受けている幸いを喜ぶ気持ちだけである。

私は一商人の妻として過ごして来たが、それなりの、幸せを感謝している。人には分からぬかも知れないが、普通の姉妹では感じられぬ特別の感情が、私達にはあるらしい。
こんな姉妹であって、こんな姉があってほんとに良かったといつも思っている。

♪ 直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

Friday, October 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第4回

裕兄さんの事

 裕兄さんは私のすぐ上の兄である。上に正という長男がいたので、この次男が生まれた時から、佐々木家へほしいと何度か交渉していたらしく、「幸太郎」と言う名前まで用意していたという事である。

本人は綾部の伯父が来るたびに外へ遊びに出てしまい、ある時は風呂桶の中に入り、ふたまでして隠れていたと言う笑い話まである。結局私達姉妹の誕生によりこの話は消え、裕兄さんは綾部へ来なくてもいい事になった。

 そんな訳で、私が遠い丹波の地へもらわれていった事を、子供心にも責任を感じていたらしい。後年、雀部の父が関西に住む事になり、当時中学の裕兄さんも転校した。その中学は教室に生徒の成績順に名札がかけられており、学期末には、トップにその名札がかけられたとの事であるが、転校生「雀部裕」の名が最後の席次にあるのを、その学期中悔しかったそうである。

雀部の子供の中では、なかなかユニークな存在であったようで、両親に無断で受験、大阪外語大の合格通知がきた時は、家中でびっくりしたそうである。当時は戦時色の強い時代であつたので、「中国語蒙古学科」に入学、卒業後は華北交通に入社した。

その当時の北京からの葉書が私の手箱の中に何枚か残っている。北京がどんなにすばらしいか、空がどんなに美しいか等したためてある。いろいろと人並みの青春時代の悩みを持っていた私には、「思い切ってこの新しい天地へ出てこないか」という葉書の文字が今も心に残っている。

その兄もビルマで戦死してしまった。中国語や蒙古語は軍ではとても重宝され、その人柄は誰にも愛されていたらしい。運動は万能選手、ほがらかで、心やさしかった。苦学している友達に物資のない時なのに自分の外套をやってしまったと、母がこぼしているのを聞いた事がある。

ほんの何度かしか会っていないこの兄の事が、しきりに思い出されるこの頃である。


♪なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく  愛子

Thursday, October 25, 2007

大庭みな子の「風紋」を読む

降っても照っても第69回

先日この作家の遺著「七里湖」を読んだばかりだが、今度は別の版元から別の遺作(短編3本と6つの小さなエッセイ)が出版されたのでついつい手にとってしまった。

短編は「あなめあなめ」、「それは遺伝子よ」、そして表題作の「風紋」であるがいずれもこの世とあの世の中間部、あるいは仏教の用語で中有(生有から死有までの)といわれる父母未生以前の混沌とした時空において天人一体となって無意識裡において創造された玄妙にして摩詞不思議な作品である。

音楽で喩えると例えば往年のSPレコードでスクリャービンの「法悦の詩」をワインガルトナー指揮のヴィーン・フィルハーモニーで聴いたような、典雅で深沈とした陶酔的境地に浸ることができる。

「あなめ」は小野小町の髑髏の眼底から生えてきた薄を引き抜こうとすると小町が「あなめ、あなめ(痛い痛い)」と叫んだという故事を本歌取った夢幻譚だが、その最後は、主人公のナコ(みな子さん)が、

「両目を左右のこぶしで押さえて目から生え出ている薄を抜こうとしたが果たせなかった。「まあ、そのうち薄の方が枯れるよ」とトシ(著者の夫)は言った。

 というところで唐突に終る。この婦唱夫随の二人の魂はすでにして中有を彷徨っていることがわかる。

「それは遺伝子よ」では、著者に先立って死んだ米国の友人ヘレンの思い出が語られるが、「すべての善悪を呑み込んだ上でアラスカの原野にすっくと立った女神」を思わせる神話的な存在は、自由で放胆な生を生き切った著者自身を思わせる。

例えば次のような文章を見よ。

著者の目の前で全裸になってシャワーを浴び始めたヘレンは、

「もちろん立派な二つの乳房と高い腰を持っていた。私が息もつかずにレモネードを飲み干している間に、ヘレンはベッドルームに行き、大きなキングサイズのベッドにバタンと倒れるように横たわって、「ああフランクがいてよかったわ。一人で暮らせるのは女じゃないわね」と言うともう高いびきをかいていた。そして、眼を開けて、「フランクは暖かくて素敵だった」――次の瞬間また高いびきをかいていた。」

最後の「風紋」はこれも最近亡くなった偉大なる小説家小島信夫と著者との交情を赤裸々に、しかし、夢のような淡彩画のタッチで描く。

「信さんはもう意識もなくて植物人間のような状態だそうである。それでもナコは走って行って信さんに抱きついてキスしたかった。信さんがまだ元気な頃にナコは何回も信さんと抱きつけるほど近くに立って、キスできるほどの近さだったのに一度もそんなことをしなかったことが心残りに思われて、今は無意識の中で走ってゆき抱きついてキスしたかった。」

この文章が書かれたとき、まだ確かに生存していた信さん(小島信夫)も、ナコと自称する著者も、いまはこの世には存在しない。しかしこの夢のような話のなかに悪女と言われた著者のあどけない少女のような本当の思慕が真率に刻まれていることだけは疑えない。

しかし私がこれらの短編にも増して感動したのは、まるでささやかな香典返しのように巻末におかれた「逝ってしまった先達たち」での川端康成や佐多稲子、野間宏、藤枝静男の思い出話であった。

凝縮された見事な文章の中に、物故した作家たちの姿が、いまそこにあるかのように生々しく立ち上がってくる、それこそ文学の力には思わずギョッとさせられる。
著者によって一撃の元に拉致された彼らの些細な所作は、彼らの生の本質を的確に射抜かれ、永遠の相というタブローに磔にされたまま、浄土から差し込む微かな西陽を浴びている。

さうして最後にそっと置かれた僅か数枚のエッセイ、「あの夏――ヒロシマの記憶」こそは、あらゆる“広島文学”中の最高傑作であろう。

Wednesday, October 24, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅日本・アメリカ編」を読む

降っても照っても第68回

「21世紀仏教への旅」シリーズの最終巻を読んだ。

「わがはからいにあらず、他力のしからしむるところ」と親鸞は悟り済ませた。悪者も善人もただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける、という悪人正機説は、考えれば考えるほど、物凄い思想である。

しかし著者によれば、この有名な革命的宗教思想は、すでに法然以前の奈良仏教時代からその萌芽が生まれていて、平安末期に後白河法皇が集成した『梁塵秘抄』には
「弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称うれば 来迎引接疑わず」
というワンコーラスもすでにあらわれているという。

奈良仏教を経て鎌倉新仏教にいたる時代の変転が、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、ヒンズー教も、そしてブッダの仏教自体をも驚倒させるに足る悪人正機説を誕生させたのである。

そして著者は、奈良から鎌倉までの悪人正機説の変遷を、

源信は「泥中にありて花咲く蓮華かな」、
法然は「泥中にあれど花咲く蓮華かな」、
そして親鸞は「泥中にあれば花咲く蓮華かな」

であると、巧みに評している。

世間ではゼニゲバ流行作家としてあまり評判がよくない五木寛之であるが、「以前から私は自分の個性などというものはないほうがいい、と思っている」と語り、「できるだけ近代的な自我というものを消去する生き方をしてきた」と自負するこのデラシネ男を、私はけっして嫌いではない。

Tuesday, October 23, 2007

ある丹波の女性の物語 第3回

 祖父も私を乳母車に乗せて歩きたいと、シキリに願ったそうであるが、早くから頭をゆさぶると頭に悪い影響が出ると許さず、余程してから籐製の大きな乳母車を東京から取り寄せた。ベルトで本体を宙吊りにしてあり、脳へ響かぬよう工夫した当時では最新型のものであったそうである。

不要になってからは倉庫の天井にぶら下げてあったが、戦時中、私の長男のために充分使用出来た程、頑丈な物であった。この乳母車を祖父が街々をひいて歩いてくれると、方々から沢山のお菓子をもらうのが例であったが、私は気に入った上菓子でないと、もらったその場で「チヤィ」といって捨ててしまうので祖父は非常に困ったそうである。

 その事も何となくおぼえているようにも思うけれど、幼い日の最初の記憶は、泣いている私をおんぶして夜の街を歩き回っている父の姿であり、おんぶされている私自身の姿である。
外は真っくら、街灯の明るさだけ、ガラス窓にうつる父と子の顔、ねんねこ半纏のオリーブ色の銘仙の色、黒いビロードの衿をハッキリ覚えている。冬の夜更け、夜泣きする私をしかたなしにおぶって歩いたのであろう。涙にうるんで見えるだいだい色の街灯の色、ねんねこ半纏のオリーブ色、私の最初の色への記憶である。

 いつ頃からか、タンスの上段の底に、赤いリンズに白のふち取りをした、よだれかけ、赤いちりめんのお守り袋がしまってあるのを見つけたが、その事にふれるのが何となくはばかれて、何度もソッと見るだけにしていた。

それは横浜の家から持って来たのだと、後で知ったが、母は大事にしまっていてくれたのだと、母の私への思い、心くばりを感じる。
 私が両親の実子でない事を、おぼろげに知ったのは、小学校低学年の頃かと思う。隣が伊藤という乾物屋で、そこの主人が「愛子ちゃんは東京生まれやから。」と何かの時にいったのを、何となく誇らしいような気持ちで聞いた覚えがある。
別に悲しくもなかった。前から何となく感じていたのかもしれないが、両親の愛にみたされていたからに相違ない。

♪五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線    愛子

Monday, October 22, 2007

ある丹波の女性の物語第2回

 私は大正10年年6月26日、綾部市新町、丹陽基督教会に於いて、内田牧師より幼児洗礼を受けている。その何年か前に、両親は基督教に入信していたのである。

 現在になっては珍しい事ではないが、70年前、私には寝台が用意され温度計が付いていたそうである。部屋にも商品がいっぱい。若い店員が寝起きしていたので、当時は蚤にはずいぶん悩まされていたらしく、寝台の両ワキにはマッ白な寝巻きを着た両親が寝たそうである。蚤をたやすく発見出来る為である。

 粉ミルクは私の身体に合わなくて下痢が続き、牛乳にかえてからよく太るようになったそうで、最高1日八合の牛乳を飲んだそうである。私が大きくなっても配達してくれていた農園からは、毎年お歳暮に牛乳風呂にと、バターを取った後の脱脂乳が届けられた。
 余程大きくなるまで、毎年私の誕生日にはもらい乳をした二軒の家には、赤飯が配られたのを覚えているから今で言う混合栄養にしていたのであろう。

 そんなに細心の注意を払っていても、冬は寒い丹波のこと、とうとう肺炎になり、看護婦、産婆の免状を持っていた母ではあるが、他に二人の看護婦を雇い昼夜部屋をあたため、湿布、吸入などあらゆる看護をしてくれて、一命を取り止めたのである。

大きくなってもレントゲン写真に肺炎の後が残っているといわれたが、そんな昔に、しかも乳飲み子を肺炎から救ってくれた事は両親の献身的な努力と愛という他はない。

 そんな事もあって、両親の他は誰にも私を抱く事を許さず、只一人、一番番頭の藤吉さんだけが厚司のふところ深くに抱く事を許されたそうである。後年、もらい乳に行くのも、この藤吉さんの役目だった事を知った。

♪七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり     愛子

Sunday, October 21, 2007

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

Saturday, October 20, 2007

ある丹波の女性の物語

第1回 誕生の頃
戸籍によれば私は大正10年2月22日、京都府綾部市西本町25番地に、父佐々木小太郎、母菊枝の一人娘として生まれている。両親共に36歳の時の初めての子供であるから、身分不相応に大事にされ、可愛がられていたようである。
その当時の家業は履物製造販売。祖父も含めて家族4人、職人、店員、お手伝い、合わせて20人近い人員構成であった。
店舗兼住宅と、一寸と離れて倉庫と職場があり、倉庫には北陸地方から貨車で仕入れた桐下駄の材料が、乾燥のためうず高く積み上げられてあった。
 

 私が母菊枝の弟、雀部儀三郎の三女として横浜市桐畑に生まれ、生後100日を経た日に佐々木の両親に守られて、東海道線を乗り継ぎ山陰線の綾部に貰われてきた事を知ったのは、ずいぶん後の事である。
長い間子供に恵まれなかった両親は、雀部家の二男一女のうち、次男をかねてから欲しいと希望していたが、なかなか思うようにならずにいたところ、下に女児の双生児が生まれたので、これ幸いとその一人を貰い受ける事にしたらしい。

それにしても、その頃の東海道線を、生まれて間もない赤ん坊づれ、母乳なしの長旅は夫婦づれとはいえ大変だったろうと思う。そして父は、自分の誕生日と同じ日付で、佐々木小太郎・菊枝の長女として出生届を出しているのだから、後々のためにも、すべてに万全を期していたのに相違ない。
この事に関しては両親は勿論、私も決して口に出した事はない。公然の秘密となった時も、両親のなくなるまで私達の間で話し合う事はなかった。

♪つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   愛子

Friday, October 19, 2007

鎌倉大町の常栄寺に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語86回

日蓮は、文永8年1271年9月12日に鎌倉幕府の命によりとらわれ、龍の口刑場で処刑されることになった。

ところがその前夜、刑場で突然異変が起こったために刑の執行は不可能になり、上人は一命をながらえた。

その日、桟敷尼という老婆が捕縛された日蓮に牡丹餅を差し入れたので、上人はたいそう感激したという。

この桟敷尼の夫は京都から下ってきた将軍宗尊親王の近臣で夫婦とも法華経の信者であった。桟敷尼は龍の口の法難から三年経った文永11年1274年に88歳で亡くなったが、その法名を妙常日栄といいこれがこの寺の名前「常栄寺」になったという。

この頃から世間の人々は、老婆の牡丹餅の御利益をありがたがり、毎年9月12日には「御法難会」が催され、妙本寺や瀧口寺などの日蓮上人像に牡丹餅を供える慣しになっている。ちなみにこの夫婦の墓は現在も尚この常栄寺、別名「ぼたもち寺」にある。

 余談ながら大町近辺には日蓮宗の寺院が非常に多く、いかに鎌倉時代に日蓮が活躍したかを雄弁に物語っている。

もひとつおまけに、私は長らくこの常栄寺に行けばいつでもおいしい牡丹餅が手に入ると思っていたのだが、それが見物人に供されるのは年にたったの一度なのであった。
狭くて小さなお寺だが、可憐な庭に四季折々の花が咲く。

Thursday, October 18, 2007

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語86回&勝手に建築観光25回

今日も仕事の運びがいまいちなので、久しぶりに県立近代美術館で開かれているアントニン&ノエミ・レーモンド夫妻の「建築と暮らしの手作りモダン」展(21日迄開催)に出かけた。

うららかな小春日和である。修学旅行の生徒たちが八幡宮の参道に並んだ露天に群がっていた。

展覧会ではレーモンド夫妻がわが国に遺した数々の建築やインテリアがたくさんならべられていて、見応えがあった。というより、こんな家なら住んでみたい、こんな家具なら欲しいと思わせる作品が、次から次に現れるのである。
私が思わず「この人がまだ生きているならぜひ家の設計をお願いしたい」とつぶやくと、美術館の隅に座っている職員が笑っていた。

これまで安藤選手だの、磯崎選手だの、亡くなったばかりの黒川選手だの数多くの有名建築家の作品を鑑賞してきたが、そんな気持ちになったのはこれが生まれて初めてだ。もっとも1888年生まれのアントニン・レーモンドは、すでに1976年に亡くなっているので、それは望むべくもない空しい夢なのであるが。

1919年に帝国ホテルの建設のためにフランク・ロイド・ライトとともに来日、大戦をはさんで戦前戦後40年以上の滞日生活の中で、アントニンは欧米と日本独自の和の伝統をきわめてデリケートに調和させた、優しく、美しく、しかもシンプルで機能的な建築とインテリアを創造し続けた。

和洋折衷というととかく曖昧で芒洋としたイメージで捉えられるかもしれないが、彼が各地で手がけた数々のカトリック教会の構成に顕著に見られるように、彼の作風は両者の特性を鋭くきわだたせながら、しかも相反する2つの要素をきわめて合理的、理知的にまとめているのである。

とりわけ軽井沢の夏の家や新スタジオ、笄町にあった自邸、一ツ橋にあったリーダーズダイジェスト東京支社、横浜にできるはずだった超モダンなフォード社の工場、現存する南山大学や群馬音楽センターなどの、まったくけれんみのない、生きた人間の肌のぬくもりを感じさせる建築たちは、あの東京クソミソタウンや、かの六本木あほばかヒルズなどの金満ガジェット高層仇花建築が跋扈する当節にあって、まさに一陣の清風が吹きすぎるような爽やかさと安らぎを感じた。

 現代の売れっこ建築家に欠如していて、レーモンドにあるもの。それは秘められた輝かしい知性と人間と世界に対する慎み深さ、一言で言うと上品なたしなみのこころであろう。

特筆すべきは妻ノエミ・レーモンドの家具・インテリアの出来栄えで、昨今流行のイタリアもの、北欧ものとは一線を画する、そのモデストでいぶし銀のような意匠は、夫の同様のデザイン思潮と内なるアンサンブルを奏で、彼らが琴瑟相和してつくりあげた1軒の住居からは、さながらカレル・アンチェルがチェコフィルを指揮する舞曲のような精妙な中欧音楽が流れ出る。

私は、建築とは「凍れる音楽」ではなく、春の小川のように絶えず流れ込み、私たちの頑ななこころを溶かす音楽であると、はじめて悟ったのだった。

追記
昨日の中原中也の最後の詩の4行目が欠けていました。お詫びして再掲載させていただきます。

四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。

Wednesday, October 17, 2007

鎌倉文学館の「中原中也展」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語85回

仕事が行き詰ってしまったので、気分転換のために、鎌倉文学館で開催されている中原中也展(「詩に生きて」12月16日まで)に行った。

前回ここで中也の特別展「鎌倉の軌跡」が開催されたのは1998年だからあれからもう9年も経ったことになる。ああ、歳月の流れのなんと迅速無常なることよ!

 中也についてはこの日記でさんざん書いてしまったので、もう付け加えることなどないが、今回もまた彼が27歳の折に山口であつらえた黒いコートとお釜帽子が出品されたのでとても懐かしかった。

あの黒ずくめのダダ・ファッションで、すぐに死んでしまう富永太郎や平成の御世まで長生きした長谷川泰子と連れ立って京都の河原町をランボウとヴェルレーヌ気取りでまるで風来坊のように遊び歩いたのだ。

ところがこのコート、実はもともと他の色だったのを中也が黒に染め直したらしい。また袖の長さが異様に短く、中也はこんなに小男だったのかと改めて思った。

中也は昭和12年1937年10月に30歳の若さで、私が贔屓にしている清川病院(旧鎌倉養生院)で亡くなったが、その直前彼が郷里の母親フクに書いた手紙は、すでに死を予感していたにも関わらず、愛する母親を悲しませないために、「これからの私はの運勢はとても良いそうです」などと空元気を装って綴られており、読むものの涙を誘うが、もしかすると、彼は最後まで自己の再生と復活を基督のやうに信じていたのかもしれない。

 会場には同年9月30日に寿福寺のいまは失われた小さな借家で書かれた中也の絶筆がそっと展示されていた。

      四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。

Tuesday, October 16, 2007

八雲神社に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語84回

平安時代の永保年間(1081~84)に新羅三郎義光が、兄の八幡太郎義家を助けて清原家衡を征伐する「後三年の役」で奥州に下るため鎌倉に立ち寄った。

当時鎌倉では悪疫が流行していたために、これを救おうと京都祇園社を勧請して祈願したところたちまち悪疫は退散し、住民は難を逃れたという。そこで元は社号を祇園天王社と称していたが、明治以降八雲神社となった。

関東大震災によって倒壊し、昭和四年7月に新規造営されたのが現在の社殿だがその割には神さびて見える。境内左手には江戸時代に造営された4基の立派な神輿が収められ、7月7,8,9日の例大祭にはにぎやかに繰り出す。

すっかり都会化された鎌倉だが、まだお祭りやおみこしというと、辻ごとに意外に大勢の老若男女が参加しているようだ。

Monday, October 15, 2007

マンションとファッション

ふあっちょん幻論第6回&勝手に建築観光25回

戦後日本のファッション史を振り返ってみると、60年代の高度成長期は国産のナショナル・ブランド、73年の第1次石油危機以降の低成長期からは、三宅一生、川久保怜、山本耀司などが主導したDCデザイナー&キャラクターブランド、85年の円高ドル安時代から現在までが、ルイ・ヴィトンやグッチなど外資系ラグジュアリーブランドの時代という流れになる。この見取り図に照らすと、マンション業界の消費者MDはアパレルに比べ約30年の遅れということになるだろう。

戦後日本人の飽食暖衣は驚異的な発達を遂げたが、「住」の進化速度は遅かった。衣食と比べて住宅はお金がかかる。デザインなんて夢のまた夢。「立って半畳、寝て1畳」、とりあえず雨露さえ凌げればいい、というウサギ小屋からわれわれは再出発した。
それからまずはファションのDCブランドに血道をあげ、高度成長の波に乗りながら、徐々にグルメ、インテリア、そして最近の建築・建築雑誌の人気、デザイナーズマンションブームへとその美的・感性消費の選択肢を拡張していった。

その結果、手近なミクロ環境は、現代ファッションの洗礼を受けた消費者の鋭い審美眼に晒されることになったが、界隈性や景観デザインなどのマクロ環境は、最近大流行の都市再開発地域を含めてまだまだ顧客のウォンツを的確に捉えたものとはいえないだろう。

しかしマンション業界もようやく長すぎた冬眠から目覚めつつある。03年に神田神保町にできた三井パークタワー(トーマス・ボルズリー氏がランドスケープデザイン、佐藤尚巳氏が外観デザインを担当)や六本木ヒルズレジデンス(テレンス・コンラン卿担当)の外装をとくと眺めて見よ。いままで無視されていた広大な領域、見ていても見ないことにしていた暗鬱な灰色の領域に、突然カラフルな光線が差し込んだのである。

過去の普通のマンションが、生地屋で買ってきたドブネズミ色のズボンを身にまとって立っていたとすれば、これらの最新ビルはパリコレの影響を受けた色彩豊かなオーダーメードのスカートをはいておしゃれに闊歩している。ような気がしないだろうか?
外装のカラーブロック柄という発想は、いったん実現してしまえば、当たり前田のクラツカー(古い!)。最近では同じアイディアのマンションがあちこちに乱立して、おやおやと首を傾げたくなるが、それはそれとして、そんなに好評ならどうしてもっと昔からやらなかった、と言いたくもなる。しかし、西洋デザイン後進国の私たちはずいぶん遠い地点からゆっくりここまで歩いてきたのだ。

機能が満たされ平準化された商品は、一部のデフレ商品は別にして、デザインと装飾性によって自らを差別化するほかはない。外資系ラグジュアリーブランドからは、彼らの生命線である、デザインの楽しさと深さを、成功しているアパレルメーカーからは、多様な諸個人にフィットする柔軟なパターンオーダー製法の知恵を学ぶことが、当面のマンション業界の課題だろう。

なにはともあれ、我々庶民は、「仕事が終わればまっすぐに帰りたくなるマンション」に、一日も早く住みたいものである。

Sunday, October 14, 2007

ガルシア・マルケス著「愛その他の悪霊について」を読む

降っても照っても第66回

1949年10月、母国コロンビアで駆け出し新聞記者として活躍していたガルシア・マルケスが由緒あるサンタ・クララ修道院の地下納骨堂で見たもの、それはシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレスの頭蓋骨から伸びた22メートル11センチの長さの赤銅色の乱れ髪であった。

周知のように、人間の髪は毎月1センチずつ成長するもので、それは死後も尚続き、200年間で22メートルというのはごく平均的な数値らしい。聖トマス・アクイナスが書いたように「髪の毛は体の他の部分よりもずっと生き返りにくいもの」であるようだ。

マルケスは若き日のこの鮮烈な体験は、子どものころ祖母によって聞かされた「12歳で狂犬病で死んだ、長い髪を花嫁衣裳の尻尾のようにひきずる侯爵夫人令嬢」の伝説と重なり、神父と聖少女、聖霊と悪霊が熱に浮かされたように交わる異様な愛の物語を生み出した。

狂犬病に冒されたはずなのに死なない美少女シエルバ・マリアは、6度の悪魔祓いに耐え抜き、異端審問所で有罪判決を受けた永遠の恋人を「きらきら輝く目をして、生まれたばかりのような肌のまま」待ち続けながらみまかるが、「その剃り上げられた頭骨からは新しい髪の毛があぶくのようにふきだし、伸びていくのが見られた」のである。

当節のへなちょこ恋愛小説をあざわらう世紀の大恋愛意物語に、とくと耳を傾けよう。


金木犀業火盛んに燃ゆるごと 芒洋

Saturday, October 13, 2007

エリア・カザン監督の「エデンの東」再見

降っても照っても第65回

エリア・カザンがスタインベックの原作を映画化したこの作品は、カリフルニア州の景勝の地モンタレーを主な舞台にしている。

現在のモンタレーはリタイアしたアメリカの超大金持ちが優雅に暮らしている快適なリゾート地であるが、その岩礁に打ち寄せる荒波をただ延々と映し出す冒頭の序曲(オーバーチュア)が旧約聖書の創世記に記された人類最初の殺人事件を想起させる不気味な始まり方をするのである。

エホバによってエデンの楽園を追放されたアダムとイヴにはカインとアベルの兄弟が生まれる。2人は父なる神エホバに供え物をするがエホバはアベルの供え物を喜んで受け取ったが、カインのそれをかえりみなかった。それを恨んだカインは、弟アベルを殺してしまったので、エホバはカインを「エデンの東」に追放したのである。
兄弟の役割はさかさまになっているが、この創世記第四章の逸話がこの映画の物語の原点にあることを忘れてはならない。

エホバと同様に理不尽に父親への愛と尊崇の心を退けられたカインの怒りと悲しみは察するにあまりあるが、カイン役に全身全霊で共感したジェームズ・ディーンの演技が素晴らしい。

特にディーンが父のために稼いだお金を誕生日に贈り、それが父親によって拒否されるシーンの演技は迫真的で、最後に父との和解を遂げた病室のラストと共に涙をさそう。

しかし絶望に駆られて逃走した兄アロン(アベル)、その許婚は、それからどうなったのか、原作を読んだことがない私には気になるところである。

Friday, October 12, 2007

大庭みな子著「七里湖」を読む

降っても照っても第65回

10歳のときに父に死に別れ、12歳のときに日本を去り、アメリカに渡り、母が死んだときも帰国することなく学業を続け、長じて後も日米を行き来しながら齢を重ね、二人の娘もアメリカで暮らしている女性を主人公にした著者の未完の小説である。
日本人やアメリカ人や数多くの親族や友人男女が次々に登場し、ひとしきり思い思いのアリアを歌っては、舞台から退場してゆく。
その舞台では照明はひとつずつ消えうせ、セリフはもはや客席に向かっては語られない。言葉も、呼び出される記憶も、思い出も、やがてモノローグも遠くかすかなものとなり、人も、友も、家も、土地も、愛も、浦島草も、古井戸の死体も、幻の湖も、ありとあらゆるものが霧に包まれ、夢か現かもはや誰にもわからならい無明の闇に沈んでいくのである。

果たしてこれは小説であろうか? 小説だとしても、その物語は生者によって語られているのか、それとも死者が綴っているのだろうか? そうであるともいえるし、そうでないともいえよう。

アラスカに10年以上も住んだことのある著者は、本書の最後の最後に、アラスカで熊に食べられた星野道夫について、こう語っている。

「熊は相手をほふるとき、先ずその内臓に鋭い歯を立てる。それは食欲というよりは、相手と合体し、天地と合体しようとする夢の行為のように思われる。星野さんの写真や文章に現れていたあの奇妙なもの、この地球の軸を揺り動かすような衝撃は、その熊の夢だったと私は知った。(中略)ところで星野さんはなぜ熊に食べられたのだろう。そのような生き方をしていたからだ。文学に生きるのもきっと同じようなものだ。」

Thursday, October 11, 2007

鎌倉の東勝寺跡を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語83回

「本朝高僧伝」によれば、東勝寺は13世紀の前半に三代執権の北条泰時が創建し、開山は退耕行勇となっている。

はじめ禅密兼修で、のちに純粋の禅となったかなりの大寺であったが、元弘三年1333年、新田義貞に攻められた北条高時以下の一族郎党およそ800人がこの寺に立て籠もり、火をかけたのちに切腹して果てた。
これが有名な“いちみさんざん”鎌倉幕府の滅亡である。

頼朝一族をはじめ私の大好きな三代将軍実朝や名だたる名門氏族を次々に陰謀によって滅ぼした陰険で暗い北条政権は、今は、この谷戸のいちばん奥まった暗いやぐらの奥にひっそりと眠っている。

なんでもあの俳優の高倉健氏の先祖がこのとき滅んだ北条一族ゆかりの人らしく、年に一度は以前ご紹介した宝戒寺に詣で、このやぐらに卒塔婆を立てられるそうだ。
目を凝らすと本当に真新しい“高倉”の文字があったので驚いた。 

このようにいったんは破却された東勝寺だが、その後再建され、暦応五年1342年には関東十刹の第五位、至徳三年1386年には第三位の座を獲得している。

むかしむかしいずれのおほんときにか、この東勝寺の裏山には弾琴松という松があって、風に響くその松籟が尋常ではなかったという。私はぬかるんだ山道を駆け登っ東奔西走すみずみまでその名松を尋ねたが、ついに見出すことはできなかった。

参考「貫達人著鎌倉廃寺事典」

Wednesday, October 10, 2007

♪ザルツブルグ音楽祭2006の「フィガロの結婚」を観る。

♪音楽千夜一夜第26回

衛星放送で昨年のモーツアルト生誕250周年記念ザルツブルグ音楽祭のアーノンクール指揮、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴した。最初FMで聴いた時は序曲の乗りの悪さや特有のぎくしゃくした運びに抵抗を覚えたが、そのときの演奏とは違うのか、今回はまずまずの出来栄えだった。正確には、モーツアルトの音楽の邪魔をしなかった、というべきか。

このザルツブルグ音楽祭では、スザンナを演じたアンナ・ネトプレコが指揮者のアーノンクール以上の話題になったようだが、それなりの美貌、それなりの歌唱と演技、ということで世間がわあわあ騒ぐほどのことはない。
いずれおちつくところに落ち着き、世界中のオペラハウスで稼ぎまわったあとで消えていくだろう。カラスのような、デヴァルディのような歌手の偉大さは微塵もなく、単なる消費財として使い捨てられて終るに違いない。

それでも強いて言えば、ネトプレコの唯一の取り得は美脚であろう。男たちはみな彼女の脚下に膝まずき、そのふくらはぎに口づける。そうしてクラウス・グートの演出は、この美しい足に対してこだわることで全編に偏執的な奇妙な味わいをもたらしているのだった。

というのも、この「フィガロ」では、クリスティーネ・シェーファーが演じるケルビーノをのぞいて、アルマヴィーヴァ伯爵も、伯爵夫人も、フィガロも、スザンナも、性愛への欲望をむきだしにしているのである。登場人物たちは彼らの空虚な生に耐えられず、やたらと舞台のフロアにごろごろ転がり、覆いかぶさり、ネトプレコなどは得意の騎乗位?まで見せつけるのだからたまらない。モーツアルトが見たらいったいなんと言うだろう。

ところが驚いたことに、グートの演出ではモーツアルトご本人が、舞台のいたるところにしょっちゅう登場して歌手たちと絡む。両肩に白い翼を乗せたアマデオ(天使)の姿をして……。こんなのありだろうか?

第四幕のフィナーレはどんな凡庸な舞台をいつ見ても感動的だが、グートは、愛とやすらぎのうちに結婚式に臨む三組のカップルのうち、バルバリーナとしぶしぶ組み合わされたケリビーノだけが天使モーツアルトの祝福を拒否して、彼の次のオペラ「ドン・ジョバンニ」の主人公として再来することを予告するなど、まことにこざかしい。また彼の今回の演出では、三幕までの室内を本来の舞台である庭園の代用にしようとする機能主義むきだしの精神がよくない。

それらを含めて、すべてにおいて己の頭の良さそうなことをひけらかしているようなグートの演出は、聴衆が純粋にオペラを楽しむことを妨げ、見た目にもわずらわしく、ちゃんちゃらおかしく、結局は霊感に満ちた天才の音楽の素晴らしさに泥を塗っている。シュトラウスではないけれど、やはりオペラは音楽第一、歌手第二、最後に演出、で願いたいものだ。

かく申す時代遅れの私は、J.Pポネル以降のオペラ演出がどうにも苦手です。当節ではそれが完全に逆転して世界中であほばか演出家が我が物顔に振る舞っているが、あんな見世物に大金を払うくらいなら、家でCDを聴くか、舞台形式での上演に行った方がよっぽどましである。

最後に、歌手ではアルマヴィーヴァ伯爵役のボー・スコウフスの歌唱と演技が見事。ケルビーノを演じるシェーファーは完全なミスキャストでした。

Tuesday, October 09, 2007

「オズの魔法使い」再見

降っても照っても第64回

不気味な小人たち(その多くが身体障碍者だろう)が続々登場してジュディー・ガーランドを取り囲むシーンはその起用の無神経さとヒュウマニテイの欠如にいつも胸糞が悪くなるのだが、吐き気をこらえながら気力を奮い起こして「オズの魔法使い」を衛星放送で再見した。

アメリカ幻想小説の祖L・フランク・ボームの原作を「風と共に去りぬ」のヴィクター・フレミングが監督した本作は、フランスの詩人ネルヴァルの「夢は第二の人生である」という考え方からの影響を受けていると思われる。弱虫のライオンが「お前さんはライオンじゃなくてダンデリオン(フランス語で“たんぽぽ”、直訳すると“ライオンの歯”)じゃねえか」とからかわれるところにも、監督と脚本のおフランス趣味が表われているような気がする。

(昨日久しぶりに見た私の夢は、ライオンともたんぽぽとも関係なく、私の口の中のすべての歯がぼろぼろ取れていくという不気味なものであった。これは夢判断だとどういうことになるのだろうか?)

さて、フランスで活躍したアメリカ人といえば、なんといってもフランクリンであるが、偉大な科学者にして政治家、外交官そして“ヤンキーの父”でもあったこの怪物こそは、この映画の隠れた主人公である大学教授こと“オズの魔法使い”のモデルであろう。
フランクリンは凧を揚げて雷雲が帯電することを証明したが、カンザス州の牧場を襲う竜巻からそのめくるめくファンタジーを開始するこの映画は、90年代に盛んに製作されたトルネード映画の草分けともいえる。

フランス社交界で活躍したフランクリンは、アメリカ伝統の典型的な“ほら吹き男”として、当時の欧州で好意的に認知されたこともつけくわえておこう。フランクリン一流の白髪三千丈的な素晴らしいホラ話が、この映画のベースに横たわっている。

平凡な日常ではモノクロ、夢の世界では華麗な色彩の対比は非常に鮮やかで、主人公「カンザスのドロシー」は皮相な現実と夢魔にみちた“虹の彼方”を行き来するなかで成長して大人になる。
ジュディー・ガーランドの大人とも少女とも見分けがつかない不気味な顔をよく見よう。これこそが当時の“アメリカ合衆国の顔”である。 

この映画が製作された1939年に第二次大戦が始まったが、この国は1941年に突如日本帝国の闇討ちによって真珠湾を攻撃されるまで“虹の彼方”の理想を求めながら独り世界をさまよっていたともいえよう。

そして映画は、There is no place like home(家ほどいいところはない)、という大合唱で幕を閉じる。ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルト大統領以来、世界の警察官を自負して世界中を侵略し続けている米国だが、これは戦争に疲れた帝国主義者の本音でもあるだろう。

もともとはモンロー主義が専売特許であったこの國は、いずれわが帝国と同様、中華人民共和国との歴史的争闘に敗れて、可愛いドロシーちゃんが待つカンザスの片田舎に名誉ある帰還を遂げるに違いない。

ちなみに太平洋の孤島サイパンのスローガンは、There is no place like Saipanである。

Monday, October 08, 2007

五木寛之著「私訳歎異抄」を読む

降っても照っても第63回

浄土真宗の始祖親鸞が入滅しておよそ25年、さまざまな教説が登場して教線が大混乱するなか、異説の跋扈を嘆き、真の親鸞の教えなるものを唱導するために弟子の唯円が著わした「歎異抄」を著者が自分流にほんやくしたのが本書である。

「歎異抄」はこれまでも多くの人たちによって読解されてきたが、五木版のそれは知と情を兼ね備えた達意の名訳であると思った。

「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という有名な悪人正機説のくだりも、「いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちからから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心を改めて他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない」
とじつにわかりやすく胸におちる。

悪人正機のみならず、念仏と往生、阿弥陀仏への帰依と絶対救済、他力本願など親鸞の基本的な考え方はなぜか不信者の私の心にも沁みとおった。

巻末に付された五味文彦氏の解説は短文ながら、南都北嶺の弾圧に耐えて関東、東国に力を伸ばしてきた法然、親鸞の布教活動を取り巻く承久の乱前後の情勢について私たちの理解を深めてくれる。

Sunday, October 07, 2007

加藤典洋著「太宰と井伏」を読む

降っても照っても第62回

何度も何度も作品を読み、考え、そして論理とひらめきの端子を辛抱強くつむぐことによって編み上げられた精巧な織物のような文芸評論である。

周知のように、太宰は1948年6月に玉川上水で山崎富枝と心中したが、それまでに都合4回の自殺未遂と心中を繰り返している。

しかしいずれの場合も左翼運動の行き詰まりや、生家からの除籍と結婚生活への不安、生家からの仕送りの打ち切り、妻の裏切りなどでその原因がはっきりしているが、唯一成功した最後の試みの原因だけが、以前深い謎に包まれている。

事実前年の「斜陽」で一躍洛陽の紙価を高からしめた太宰は、当時超人気の流行作家で、ひところの睡眠薬やアルコール中毒の後遺症からも脱し、少なくとも外見からは死ぬ理由などひとつもなかった。

それなのに太宰は「人間失格」を書いて死ぬ。そしてそれはなぜか?と著者は問うのである。

作者は「人間失格」をはじめ太宰治の当時の作品や生活、とりわけ恩師井伏との対立関係などを詳細に分析し、新しく敗戦が彼にもたらした戦争の死者への同情と後ろめたさ、またそれと拮抗するように再び呼び出された、「忘れたい、そして忘れがたい人間の記憶」が、彼を死に突き動かした最大の要因であると指摘している。

「ひとからなんと思われようと、おれは生きる」といったんは決意して小山和代と別れたはずの太宰は、しかし「純白の心」を持つ死者たち、すなわち

 大いなる文学のために、死んでください。
自分も死にます、この戦争のために。

と、太宰に書き遺して死んだ若き弟子たちとの約束を果たすために、あの三島のように潔く自死したのである。

この本では、太宰とその恩師井伏の晩年の角逐についても詳しく紹介されている。

どんなに汚れた心に身を堕しても、したたかに生き延びる頑強な生活者である井伏に多大の恩義を感じながらも、太宰は、最後の最後の瞬間に反旗を翻して、「家庭の幸福は諸悪の本」という純白の御旗を勇ましく打ち振りながら死地に乗入れた。

飼い犬に激しく手を噛まれた渡世の達人井伏は、内心忸怩とした気持ちで最愛の弟子を見送ったにちがいない。

さらに著者は、三島と太宰は同じ死に方をした、と本書で断じている。
彼らは、平和と民主主義と幸福と豊かさと醜い大人の処世術というものにまみれた彼ら自身の戦後の薄汚い生き方をどうしても許容できず、己の手で己を切断する道を選んだというのである。かててくわえて、三島の恩師川端までも、三島の「純白の心」からの糾弾を受けて後に自死を遂げている。

太宰の遺書と考えられる「人間失格」の丁寧な読み直しから記述されるこれらの考察はきわめて論理的で説得力に富む。

しかし、確かに太宰の晩年の心境が「ギリギリのところで正直に語られている」作品だとしても、その次に書かれた、太宰の本当の遺作にして絶筆の「グッドバイ」は、いささか「人間失格」の世界とは異なる心境が披瀝されているように私には感じられる。

太宰は「人間失格」においてドンズマリに陥った即死状態から懸命に身を起して、ふたたびこの汚れた人間共魑魅魍魎どもが跋扈する穢土に雄雄しく居直り、もういちど生き直そうとしていたところ、運命の女との突然の遭遇によって不慮の死を遂げたのではないだろうか?

成熟した大人がこの世で生きることの苦しさと馬鹿馬鹿しさとユーモアとペーソス……。太宰の未完の最後の作品「グッドバイ」は、ヴェルディの最後にして最高のオペラ「ファルスタッフ」に似た独自の世界の端緒を創造することに成功している。

もしも太宰が、彼一流のファルス、人間喜劇の新しい物語を見事に歌い終えていたならば、彼はもはやけっして自死への誘惑に身を任せることはなかっただろう。

とまあ、著者の驥尾に付して勝手なことを書き連ねてしまった私だが、本人ならぬ私たちが死んでしまった人の死因をあれやこれやと臆面もなく想像し、とやかく議論することなど不遜であるばかりか、そもそもその作業自体が不可能なのではないだろうか? 

もしそうだとすれば、本書の著者の最初の問いかけ自体が虚妄であるというほかはない。

Saturday, October 06, 2007

07年9月の歌

♪ある晴れた日に その14

海からの風はかすかに鼻をさし今年の夏はいま逝かんとす

梓川青き流れに座しおればマガモの家族餌をねだり来る

飛騨高山上三之町の軒下に咲いていたのは天青の花

ひともとの白き芙蓉の花残しきたみ工房引っ越しにけり

らあらあときょうも賛美歌うたいつつ白髪の老人橋上に立つ

イタリアの脳天気テノール死にたれば地球は少し暗くなりたり(パヴァロッテイ死す)


大本営の秘密漏らさず逝きにけり (瀬島龍三死す)

季語のない俳句をひとつよみました

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

天青のなかに海と空がある

どうしても好きになれない人がいる(安倍退陣)

須賀線に身を投じたるカンナかな

クワガタの肉に食い入る痛さかな

おタマより手塩にかけし蛙かな

名月や世に格別のこともなし

けふもまた蝶よ花よで日が暮れる

紋白蝶に纏わりつかれるうれしさよ

てふてふは未来のために生きている

マンジュシャゲに願を掛けるか揚羽蝶

Friday, October 05, 2007

鳥越碧著「兄いもうと」を読む

降っても照っても第61回

鳥越碧という作家が「兄いもうと」という本を書いたので、読んでみるとなんのことはない正岡子規と律の兄妹物語だった。

子規の壮絶な晩年を母の八重と共に、妹の律が献身的に支えたことは広く知られているが、その家族愛の根底に“秘められた男女の愛の絆”を想定したことが本書の大きな特色であろう。

確かに律の観点から兄の短すぎた晩年を描こうとすれば、“単なるきょうだい愛を越えた異性愛”という“いまどき風の異色のファクター”を導入したほうがドラマチックな展開になるのは知れたことだが、その根拠は、お話を面白おかしくしようとする著者の読者サービス精神以外のどこにあるのだろう?

律の性格や看護について「仰臥慢録」にいくばくかの記述は出ているが、自伝のどこにも立ち昇った形跡のない薄煙を、まるで業火のように針小棒大化して、さながら近代深層心理小説のようにとくとくと書き継ぐ著者の神経に私は疑問を抱いた。

もっともあの江藤淳だって、悪妻が漱石を毒殺しようとした、なぞと本気で考えていたわけだから、当たらぬも八卦かもしれないが、ともかく私はこんな妄想的想定自体が想定外に不愉快だった。そんな小手先のテクニックを使わなくても最後の第九章などは十分に感動的な読み物になっている。

余談ながら、私は子規の小説より、俳句より、短歌より、お得意の写生文よりも、彼が激痛の合間に描いた水彩画が好きだ。

草花を画く日課や秋に入る 子規

Thursday, October 04, 2007

藤原伊織著「遊戯」を読む

降っても照っても第60回

最近亡くなった藤原伊織の遺作「オルゴール」と同じく未完の短編連作「遊戯」全5編が収められているが、やはり後者の雄大な構想と読み進むにつれて高まるスリルとサスペンスが心に残る。

登場人物は人材派遣業種に勤務する30代の男性と、ネットで知り合った20代の女性、その二人を脅かす謎の中年男という設定だが、著者は得意とするインターネットや広告・モデル業界やテレビCM制作現場の知見をフルに活用して、平成十九年の御世に棲息する同時代人の、格別面白くもない日常を平凡に生きる喜びと悲しみを知的に抑制された筆致で淡々と描き出していく。

しかしそれだけではなく、この物語では、パソコンゲームや派遣ワーカーやワインや道玄坂のバーやホテルや冷たい拳銃や銃弾やバイオレンスなどの、いかにもありそうな道具立てが手際よく点描され、いまどきの若い男女がクールに交わす乾いた双方向コミュニケーションの情景が上出来の風俗画のように次々に繰り広げられ、読者の心をしっかり捉えて離さない。

恐らくは全編の半分の道程で静かなること山の如きこの見事なサスペンス心理大作が著者の死によって永遠に途絶してしまったことは、まことに残念至極である。

しかし旧弊な人である私は、この作家が叙述文の中で頻繁に使用する、「なので」といういまどきの話し言葉がとても気になった。やはり味噌と糞とは区別しなければなるまい。

Wednesday, October 03, 2007

マリー・アンジェリック・オザンナ著「テオ もうひとりのゴッホ」を読む

降っても照っても第59回

兄である画家ヴィンセントと画商である4歳年下の弟テオの双生児的・同性愛的関係を、テオにスポットライトを当てながらその全生涯を丹念に回顧したイストワールが本書である。

ゴッホ、ゴッホというけれど、長兄ヴィンセントが誕生したのは、あのペルリが黒船で浦賀にやって来た嘉永6年だからまあつい最近の話である。

そもそもゴッホ家は先祖代々の篤信家で、父親は新教の熱心な牧師であったが、その真似事までやった兄と違い、テオはキリスト教の教義を激しく疑っていた。

しかしこの兄弟はときおりの喧嘩や行き違いがあったものの、まさに一身同体の人生を歩むことになる。

兄弟は一族の遺伝である精神病を二人ながらに患ったこともある。また兄が一時画商の見習いを勤めたように、弟も画家を志した時期もあった。二人はまるでシャム双生児のように、分離される前のベトちゃんドクちゃんのように、心身ともに依存しあいながら、「ぼくらの作品」を共同で制作しながら病で倒れ、短かい生を激しく燃焼しつくして彗星のようにこの世を去ったのであった。

よく知られているように、兄ヴィンセントは1890年7月、37歳でオーヴェールでピストル自殺するが、その直接の死因はテオが毎月150フランの仕送りを保証できないと兄に告げたためだった。当時ヨハンナと結婚し愛児ヴィンセントが生まれたばかりの弟は、パリの画廊グーピル商会の支配人であったが、昇給を認めず、印象派の絵画に無理解で保守的な考え方の画廊経営者と激しく対立し、あまつさえ梅毒の後遺症が心身を蝕んでいく懊悩を抱えるなかで、兄の援助を放棄してグーピル商会を辞して独立しようとひそかに考えていた。唯一の庇護者である弟の窮状を察知した兄は、それが最善の方法であると確信してみずからの胸に弾丸を撃ち込んだのだった。

たつきを失い、最愛の弟をヨハンナとヴィンセントに奪われたと感じていた兄に残された選択は、自死しかなかったのである。兄の死に大きな衝撃を受けた弟の病状はいっきに悪化し、錯乱して妻子に暴力を振るうようになる。

1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院したテオは、絶望に打ちひしがれた若き妻子を残して、あのフランツ・シューベルトと同じ31歳、同じ病(梅毒末期の全身麻痺)で翌91年1月25日に息を引き取った。

テオの忠実な友ピサロの嘆きの言葉や、めったに人を褒めないゴーギャンの「テオが狂った日に私も終った。私はもうどうやって絵を売っていいか分からない」という言葉が、数多くのヴィンセントの作品とともにあとに残された。

それにしても当時誰一人として認めようとしなかったゴッホの作品とその悲惨な生涯の意味と価値を、生前もうひとりのゴッホが、

「もう兄さんは治らないだろう。彼のした仕事は無駄にはならないが、実を結ぶことはないだろう。世の中が彼が絵の中で語っていることを理解するころにはもう遅いのだ。彼は最も先を行く画家であり、最も理解しがたい作家だ。彼の思考は世間の常人から遥かに隔たったところにある。だから彼の言いたいことを捉えるにはまず既成概念からすっかり解放されなければならない。理解されるとしてもずっと後世になってからだろう」

と的確に予言していたわけだが、その「理解の時期」はテオが想像したよりも意外に早かった。

ヴィンセントの真の復権と輝かしい栄光の日々は、1953年の彼の生誕100年を期してテオの息子ヴィンセント・ウイレム・ヴァン・ゴッホが祖父の作品展を開催した日にはじまったのであった。

Tuesday, October 02, 2007

杉本観音の自転車屋さん

鎌倉ちょっと不思議な物語82回&遥かな昔、遠い所で第21回

肌寒い雨の中を、神中運輸の産廃運搬車がぼろぼろになった自転車を運んでいった。

あれは確か25年前のことだった。2万5千円くらいしたブリジストンの最新型のかっこいいやつを杉本観音下の自転車屋で買ってやったのだが、少年が喜び勇んでどこかに乗って行ったら、いきなり誰かに盗まれてしまって、二度と出てこなかった。

それを知った自転車屋のおじいさんが、
「それはお気の毒だったネ。代わりにこれでも持っていきなされ」
というて譲ってくれたのがその自転車だった。

もとよりオンボロ自転車だったが、以来五年、一〇年、そして25年の歳月が流れ、少年は大きくなってとっくの昔に遠い町に行ってしまったので、もっぱら私が彼の自転車に乗ることになった。

私はいつも雨ざらしのために褐色にさびついたオンボロ車を駆って鎌倉中を疾駆し、いつでもどこでも鍵を掛けずに停めていたのに、今度は誰も盗まないのだった。たった一度だけ一晩放置していた間に消えうせたことがあったが、それは放置自転車狩りに遭ったとみえて東勝寺の脇の市の自転車置き場で見つかった。

おじいさんはその自転車がパンクしたり、ベルが取れたり、チエーンが外れたりするたびに何度も何度も無料で修理してくれ、よほど大きな修理でも200円を超えるお金はびた一文受け取らなかった。私が無理矢理500円玉をそのしわくちゃの手に握らせようとしても断固として拒否したものだった。

いつもきたない作業着を着て、無数の自転車や中古オートバイと油とゴミにまみれ、いつも腰を正確に45度に折ったまま、ビュンビュン車が走り去る道路の傍にしゃがみこんで修理していたおじいさん。
一日で幾らの収入があったか分からないけれど、靴屋のマルチンのごときその質朴で真面目で正直な仕事ぶりはいつも変わらなかった。
ある日のこと、またしても自転車がえんこしたので、私が杉本観音までえんやこら、えんやこらとひっぱっていくと、お目当てのおじいさんの姿はどこにも見当たらなかった。

店の奥から息子さん(といっても4、50代だが)が出てきたので、「おじいさんはどうしたのですか?」と尋ねると、「去年の2月に交通事故に遭って亡くなりました」という返事に、私は絶句した。

自転車を丁寧に診察してくれたその息子さんも、父親に似て質朴で真面目で正直な職人で、「これはすぐには直らないので修理が終ったら私がおたくまで届けます」と約束し、翌日修理の終ったボロボロ車をピカピカに磨いて自動車に乗せて玄関口まで運んでくれた。料金はたったの100円であった。

おじいさんが亡くなってしまったその自転車屋さんは、その息子さんとその息子さんの息子さんの2人が跡を継いで、いつも道路脇の溝の上に腰を下ろして夢中で修理している姿を見かける。

 けれども私の自転車は、今回はもう修理どころではなかった。チエーンが劣化してとろとろになり、走るたびに外れてしまう。いよいよこれで御用済みだと思い切り、ついに涙を呑んで廃車にすることにしたのである。

長い歳月を共にしたおんぼろ自転車を積んだトラックが、雨の和泉橋を右折して走り去るその後姿を、私はしばらく見詰めていた。

Monday, October 01, 2007

紅葉山やぐらと東勝寺橋

鎌倉ちょっと不思議な物語81回

宝戒寺の奥には昭和8年1933年に発見された「紅葉山やぐら」がある。

この附近のやぐらは鎌倉・室町の上層階級の墳墓と考えられているが、ここからは五輪塔、納骨堂、さらに海蔵寺と同様の十六井戸が見つかった。

そして平成11年1999年の大崩落の際に、神奈川県教育委員会の調査で、ここが北条執権ゆかりの納骨個所であることが確認された。

紅葉山やぐらに渡る橋から滑川の下流を眺めると、鎌倉で現存する最も古い赤くて瀟洒なな東勝寺橋が見える。

最近これを味けないコンクリート橋に架け替えようとする計画が発表されたようだが、四季折々の見事な景観を維持するために、どうかこのままにしておいてほしいものである。

鎌倉の宝戒寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語80回

この寺の一帯は北条義時の代に一門の屋敷が築かれ、その後歴代の得宗家が最後の執権十六代守時の代までここで総指揮を執った。三つ鱗は三菱ではなく、北条家の家紋である。

その後、北条氏打倒の命を下した後醍醐天皇が北条一門の怨霊鎮護のために足利尊氏に命じて同じ場所に建てたのがこの宝戒寺である。

その後醍醐天皇を滅ぼした形になった足利尊氏が、亡き天皇の慰霊のために京都に建立したのが天龍寺であるから、思えばこの二つの寺は不思議な縁によって結ばれているともいえる。

本堂には本尊の菩薩像のほかに梵天像、帝釈天像、不動明王などが安置されており、境内右には2世普川国師が鎮護国家を祈念して歓喜天を安置した大歓喜天堂、左には北条氏を供養する宝篋印塔が建てられ、さらに本堂を巡る庭園には、正月の羽子板の羽根の重石に使われるムクロジュなど、四季折々のさまざまな花や植物が植えられている。

Saturday, September 29, 2007

柳美里の「山手線内回り」を読む

降っても照っても第58回

私は、小説というジャンルの内容や形式の新しさなどはもはや出尽くした、と勝手に考えていたが、そうは問屋が卸しはしなかった。まだまだ前人未到の領域が残されていることを著者は見事に証明して見せたのである。

まず「山手線内回り」というタイトルだが、ここには東京の代表的な交通エリアに物語の場所を据え、駅周辺に生活する三人の都会人の最先端の生を描くと共に、その三つの生の最期と一体化された冷酷無残なギロチンとしての電車を終幕に登場させるという趣向なのである。

3つの短編にはそれぞれの主人公がいちおう存在するのだが、物語の真の主人公は、山手線の電車に象徴される現代社会がはらむ無機的な非情さと無関心と敵意と孤独そのものなのである。

第1作の最初のページは、「女は便器に越をおろすと、タイトスカートをへその上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内にこもっているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、そしてなか指をクリトリスに押し付けて左右に強く―、」という卑猥で下品で文章で始まる。

私は著者の人格を思わせるそのあまりの「えぐさ」に不愉快になり、かててくわえてその擬音や雑音や地口や広告やチラシの無秩序な引用やらにムカついて、あやうく本書を文字どおり放り出そうとしたのだが、「しかしこれはセリーヌに比べたらまだひよっこみたいなものだ」と思いつつ、ぐっとこらえているうちに、しだいに著者の術中にはまり込み、「まもなく4番線に上野・池袋方面行きが参ります、危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」という最後の文章を読むころには、あろうことか著者の力量にすっかり脱帽してしまった。

次の「JR高田馬場」、さうして巻末におかれた「JR五反田駅東口」では、著者の実験的手法は(少なからざる失敗と大きな逸脱はあるものの)、着実な成果をあげることに成功し、最後の作品の最後の文章(記号!)を眼にした人は、容易に忘れられない感銘を覚えるにちがいない。

著者は、通常の作家が見落としている非文学的な領域にあえて下降して、もっとも文学的ならざる醜い文体、無意味な記号、漂流するネット情報の断片などを丁寧に拾い上げ、それらの糞のようなガジェットどもを総動員して見事な平成文学を荒々しく紡ぎ上げた。

これは、まさしく泥池に咲いた一輪の美しい蓮の花であり、醜いアコヤ貝に育まれてついに世に出た一粒の真珠であり、さらにいうなら、閉塞する現代文学に対して投じられた起死回生の手榴弾である。

Friday, September 28, 2007

寂しい異端派

♪音楽千夜一夜第27回

いまどきの人は誰も読んでいないだろうが、音楽之友社という出版社から「レコード芸術」というクラシック趣味のマニアックな雑誌が出ている。私は吉田秀和氏のエッセイが連載されているので毎号必ず目を通しているのだが、巻頭の目玉記事は月評ということになっていて、いろいろな音楽評論家が、(読者の大半が馬鹿にしているとは知らないで)手前勝手に新作CDの批評をしている。

昔はここで高く評価されると実際にレコードが売れることもあったのだが、この節ではそのような幸福なめぐり合わせは絶えてないようである。

さてこの月評で面白いのは、交響曲担当者の小石忠雄氏と宇野功芳氏の見解と評価が毎回ほとんど一致しないことで、一方が推薦しているCDを、他方(その大半が宇野氏である)がくそみそにけなしていることだ。

例えば07年9月号では小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるモーツアルトのリンツやプラハの演奏を、小石氏は「小澤のモーツアルト世界が構築されている」と絶賛しているのに対して、宇野氏は「両曲とも平凡で、自分はこういうモーツアルトをやりたいのだ、という意志がなく、とても名曲とは思えない」と一刀両断している。

同じ指揮者の同じ演奏を前にして天地さかさまの評価が出るのは、当たり前といえば当たり前だろうが、もし芸術に鑑賞者の能力や資質や好悪を超え、各人各様の恣意性を超えた客観的かつ絶対的な評価基準があるとすれば、「どちらの意見も正しい」、あるいは「めくら千人、目明き千人」とはけっしていえないはずである。

ちなみに私も宇野氏とまったく同じ評価なのだが、どうやら世間ではあいもかわらず小澤と巨人軍(たかが野球なのにお前は軍隊なのか!)と自民党ファンが主流派らしく、少数異端の私などは、いずれ君たちにも分かる日も来るさ、と寂しくつぶやきながら黙って耐えているしかなさそうである。

Thursday, September 27, 2007

コーリン・デイビス80歳

コーリン・デイビス80歳

♪音楽千夜一夜第26回&遥かな昔、遠い所で第20回

今日もロンドンで放送しているBBC3のライブをポッドキャスティングで聞いている。コーリン・デイビスが80歳になったのでそれを記念したライブやこれまでの演奏を紹介しているのである。白髪のコーリンがフィガロの第二幕とか幻想交響曲と、シベリウスなどのおはこを楽しそうに振っているのが目に見えるようだ。

幕間のインタビューで内田光子が、コーリンのモーツアルトへの愛を例によってとても興奮した口調で喋っていたが、そんなに大げさに褒めることもあるまい。コーリンはいつでも謹厳実直で温和で、しかしここぞというときには激しい精神の火花を散らす音楽家であり、今では数少なくなった古きよき時代の英国の紳士なのである。

私が彼の音楽をはじめて耳にしたのは今から30年以上も昔の東京文化会館で、来日したコーリンがブリテンの「ピーターグライムズ」とベルリオーズの大作「トロイ人」を指揮して、それが私の生まれて初めてのオペラと英仏音楽体験となったのだった。ピーターグライムズを熱演したジョン・ヴィカーズのあの逞しい体躯!

コーリンよ、どうかいつまでも長生きして彼独自の優美なモーツアルトのオペラを聞かせてほしい。

Wednesday, September 26, 2007

吉本隆明著「自著を語る」を読む

降っても照っても第57回

吉本の人間と思想から決定的な影響を受けて雑誌「ロッキング・オン」を創刊したロック評論家渋谷陽一による吉本へのインタビュー本である。渋谷陽一のロック評に私はかつて一度も裏切られたことがないが、渋谷はここでも著者に対する的を射た的確な問いを発し、著者の誠実な回答を引き出すことに成功している。

吉本は渋谷の手引きによって忌野清志郎や遠藤ミチロウの「スターリン」のライブに出かけたそうだが、吉本とスターリンの取り合わせの妙には笑ってしまった。

それはさておき、本書では、初期の「固有時への対話」「転位のための10篇」から始まって、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」にいたる著作の執筆動機や時間的経過を経ての振り返りが、吉本の難解な表現に辟易した私のような読者にもわかりやすく語られている。

渋谷が断じたように、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」の3部作とは、小林秀雄とは違った形の吉本の「詩」であったのもかもしれない。ちなみに吉本は小林の評論を「無思想な詩」であると総括している。

しかし子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の名句である所以、芸術作品としての価値は必ずや一字一句微分積分できるはずだと、相変わらず頑固に主張するこの数理学者の言語論には首をひねらざるをえない。

もしもその理屈が可能になったとしても、その機能還元主義的分析の極限は子規の人格そのものであり、吉本主義的分析は、俳句創造の精神とはついに無縁なものであるだろう。吉本があこがれる朔太郎や中也は、別に後世に残る名詩を書きたくて詩人になったわけではない。

吉本において、言語美とは自己表出と指示表出の「織物」であるそうだが、So What?  いったいそれがどうしたというのだ。私たちの作句の精神作用となにか関係の絶対性でもあるのだろうか? ここには「文学に科学を介在させることが進歩的である」という奇妙な錯覚がある。

Tuesday, September 25, 2007

小池昌代著「タタド」を読む

降っても照っても第56回

今日の朝日新聞によれば、文芸誌の書き手が既存の専業作家から演劇畑などの異業種に拡大されつつあるそうだが、国会議員にお笑いタレントや格闘技選手が進出しているご時勢なのだからこれは遅きに失した当然の成り行きだろう。

才能の発掘の余地はつねに広く開かれていなければならない。本書の著者も本職は詩人であるが、詩人らしい繊細な感性を生かしてなかなか面白い短編を3本並べてくれている。

表題の「タタド」というのは、意味不明のタイトルで始末に終えないが、要するに海の傍の広い1軒屋に集った2組の熟年カップルが、ふとしたはずみにスワッピングしてしまう話で、ひとつ間違えば低俗ポルノに堕しかねないプロットを、著者はその寸前で見事に持ちこたえて、絶妙なクライマックッスを築くことに成功している。

しかしその文尾は、「寝室から、タマヨのあげる大きく荒々しい声が聞こえてきた」というのだが、詩人にしては少しく下品な日本語ではないだろうか。

「波を待って」もやはり舞台は海であり、この短編の主人公は、終始海から吹き続ける夏の終わりの風である、といってもよいだろう。突然サーフィーンに狂ってしまった夫の帰還をひたすら海辺で待ち続ける妻のモノローグは、どこかヴァージニア・ウルフの「波」の独白を思わせるところがあった。

私の隣人もサーファー夫婦だが、この小説を読んで、若い彼らがいったいなににとりつかれて毎日のように海に行くのか、その一端がおぼろにつかめたような気がした。

最後におかれた「45文字」は物語の設定がやや強引に過ぎると思うが、末尾の二人の登場人物のこれからが気になる。

このように著者の短編は、はじめは処女の如くおずおずと助走を開始し、徐々に加速しながら最終地点で脱兎の如く読者めがけて投じられる長弓のように、むしろ物語が果てた後で、その大きな震動が私たちを揺るがし始めるのである。

Monday, September 24, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅ブータン編」を読む

降っても照っても第55回

2500年前にインドで起こった仏教は、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡り、インドでヒンズー教と習合した後期大乗仏教が、チベットに入って土着のボン教と習合してチベット密教となり、それがブータンに入ってブータン仏教徒となった。

ブータンでもっとも信奉されているのはニンマ派の開祖で「第二の仏」と称されているグル・リンポチエで、グル・リンポチエは時と場合に応じて釈迦、王、僧侶、歓喜仏、王族、修行僧、憤怒尊など8つの姿に変身して出没するという。チベット密教の影響を強く受けたブータンの仏教が、わが国の仏教とまったく相違するのも当然であろう。

ブータンの人々はけっして蝿や蚊を叩いて殺さない。死して49日後には輪廻転生して次の人?生に生まれ変わることを信じているから、位牌を持たず、先祖供養をせず、インドと同様墓を所有しない。

インドでは遺灰はガンジスなどの川に流すが、ブータンでは手のひらほどのピラミッド型の泥細工にされて山陰や仏塔のたもとに供えられ、歳月とともに風化して土に還っていくそうだが、私はこの考え方にとても共感を覚える。

ブータンといえばGNP(国内総生産)という物神思想を廃し、国民総幸福量GNHで人間の幸福を図ろうとする価値観をなんと28年前の1979年に世界に向かって発信したことで知られる。

この國ではいかにして金儲けするかではなく、いかにして幸せに生き、幸せに死ぬか、ということが最大のテーマなのである。

Sunday, September 23, 2007

村上春樹編著「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読む

降っても照っても第54回

著者が偏愛するスコット・フィッツジェラルドの短編、エッセイ、故地探訪記、そしてスコット・フィッツジェラルドを助けた「エスクアイア」編集者によるアーネスト・ヘミングウエイとスコット・フィッツジェラルドのエッセイを付け加えた興味深いアンソロジー(いずれも村上の書下ろしと翻訳、解題による)である。

私にはわけてもスコットのファム・ファタールであるゼルダの伝記と最後の思い出話が興味深かった。
ゼルダ・セイヤーはスコットが「アラバマ、ジョージア2州に並びなき美女」と絶賛したそうだが、写真に見るその顔はそのような美人ではない。彼は彼女が発する凄まじい生命力の虜になったのだろう。

退屈のあまり消防署に「子供が屋根に上ったまま降りられないから助けて」と電話してから屋根に上り、はしごを外して救援の到着を待つ少女ゼルダ、そして20年代ジャズエイジのフラッパーとなって酒とパーテイとダンスに明け暮れ、酔っ払って断崖絶壁から深夜の海に飛び込む命知らずの女を私は好きになれないが、タデ喰う虫も好きズキ、そんな生命の爆発的な輝きにスコットは限りなく魅せられたのだろう。

しかし自由と自立を求めて、愛する恋人スコットとも戦う中で精神を病んだゼルダの晩年は、1940年、ハリウッドで心臓発作で急死したスコットと同様、目を覆いたくなるように悲惨である。1947年11月、ゼルダはアッシュビルのハイランド病院で火事に遭い他の8人の患者と共に黒焦げになって焼け死んだ。享年48。「彼女を知るものは誰一人としてその人生を短すぎるとは感じなかった」、と村上は記している。

アーノルド・ギングリッチによって書かれた巻末の「スコット、アーネスト、そして誰でもいい誰か」は、スコットとヘミングウエイの二人の共通の友人による交遊録と両者の比較であるが、ギングリッチはその人物、文学的価値のいずれをとってもスコットに軍配を上げている。

「皮肉なことに存命中には大成功しそうに見えたほうが挫折のうちに死に、挫折のうちに死んだ方が見事な成功を手にした。やがてヘミングウエイ再評価がやってくることもあるだろう。ちょうど私がドライサー再評価の到来を信じているように。でもフィッツジェラルドには再評価はもう必要ない。フィッツジェラルドは、将来必要とするであろうものまで既にすっかり手に入れてしまった。そしてヘミングウエイがいまだ辿り着いていない不動の地位をも獲得した。それはまったくのところ、スコットの好みそうな趣向である。しかしそれを鼻にかけたりすることはなかったはずだ。彼はそういうことをけっしてしない人だったから」

この1966年12月に書かれた追悼文を、泉下のスコット・フィッツジェラルドに読ませたかったと思うのは、私だけではないだろう。

Saturday, September 22, 2007

G・ガルシア¬¬・マルケス著「悪い時」を読む

降っても照っても第53回

表題作のほかに「大佐に手紙は来ない」「火曜日の昼寝」「最近のある日」「この村に泥棒はいない」などの短編を9本収録した作品集である。


前作の「落葉」は著者の生まれ故郷のアラカルタをモデルにしたマコンドの物語であったが、本作の舞台はコロンビアのとある町に変わっている。

マルケスは50年代に発表の当てもなく「悪い時」をパリで書き始めたが、その途中で「悪い時」の登場人物が、前述の「大佐に手紙は来ない」など、それぞれ自分を主人公にした物語を書くことをマルケスに要求したため、「悪い時」の完成は1962年を待つことになってしまった。

個人を描きながら、全体としての町を描き、些細な事物をきめ細かく叙述しながら、その町を取り囲む政治、経済、社会の動向を刻一刻と記録していくその手法は、ドキュメンタリーとロマンチックなドラマツルギーの双方向的融合であり、著者が目指したのは虚実をあわせ含む現代の総合全体小説といってよいだろう。そしてその試みは後の「百年の孤独」において見事に結実するのである。

 それはともかく、この作品集におさめられた「失われた時の海」における海底都市の幻想的な美しさには息を呑む思いであった。

Friday, September 21, 2007

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

♪ある晴れた日にその13&鎌倉ちょっと不思議な物語79回


 年々蛇も少なくなる。

ここ太刀洗はヤマカガシがうようよしていて、私が大切にしているオタマジャクシを食べてしまう。「ダメダメ」と追い払っているうちに秋が来るのが常だったが、今年はそんな必要もなさそうだ。

ヤマカガシよ、しっかり生き延びて大きく育ち、ここいらへんにやって来る「杉並歩こう会」のおばはんたちをびっくりさせなさい。

Thursday, September 20, 2007

クワガタの指に食い入る痛さかな

♪ある晴れた日に その12

一昨日の朝は私が、そして昨日の朝は家内が、玄関先の同じ場所で小さなクワガタに親指の肉を噛まれた。

仰向けになって必死でもがいているので、可哀相だから起してやろうと掴んだところを、クワガタの両手で深々と挟まれた。しかも私はオスに、家内はメスに噛まれたのである。

世の中には不思議なこともあるものだ。そうして不可思議な似た者夫婦もあるものだ。

Wednesday, September 19, 2007

原聖著「ケルトの水脈」を読む

降っても照っても第52回

講談社の「興亡の世界史」第7巻が本書である。80年代に入ってアイルランドのリバーダンスやエンヤの癒し?音楽など、いわゆるケルトブームが世界中で巻き起こったが、そのケルトとは何かをあれこれぐちゃぐちゃ論じている。

しかしケルト人とは何か、と問うても諸説紛々でいまいち定説がなく、基本的にはカエサルが「ガリア戦記」で述べているガリア人と同じであるらしい。ただ確かなことは古代からケルト文化の淵源はアイルランドやスコットランドなどではなく、ガリアの本拠である現在のフランスのブルターニュ地方であり、昨今のアイルランドやスコットランド中心のケルトブームは、先祖探しに狂奔するそれらの國の政治的戦略でもあるらしい。

キリスト教を国教にしたローマは、ギリシアローマ神話のみならずありとあらゆる非キリスト教的なる神話や伝説を皆殺しにしたが、このブルターニュ地方にはかなり長くケルト文化が残り、地下水のように細々と流れながらその遺産を現代に伝えているらしいのである。

その水や泉や巨石や聖なる山、ドルイドと呼ばれたケルトの僧侶が太陽崇拝を行った聖なる火、フレーザーが「金枝篇」で研究したヤドリギなどの木や植物、鬼や魔女や妖精や妖怪、アンクウと呼ばれた死神などは、いずれもケルトを代表するカルチャーであった。


著者によれば、フイニステール県の海岸部では、死者を運ぶ「霊魂の船」が人知れず夜中に航行するが、霊魂の呼びかけがあっても絶対に「アーメン」としか答えてはならない。もしそうしなければ一緒に連れて行かれてしまう。

またブルターニュ地方ではあの世からの帰還を求めて夜に洗濯する女の幻影が古来数多く見られるという。死後の霊は蝶、野うさぎ、ネズミ、小蝿、黒猫、ガチョウなどに姿を変えてこの世に戻ってくるというのだが、これはまったく非キリスト教的な考え方であり、むしろわが国の仏教に似ているのではないだろうか。

そんな次第で、このさい改めて西欧世界の歴史を学びなおし、NYの聖パトリック教会の由来や、アーサー王伝説などについてくわしく知りたい人には手ごろな教材になるだろう。

Tuesday, September 18, 2007

エットレ・スコーラの『星降る夜のリストランテ』を観る

降っても照っても第51回
                              
この映画は『特別な一日』や『ル・バル』や『マカロニ』のエットレ・スコーラ監督の作品だから、少し乱暴だけれども、あら筋がどうだこうだと書くのはいっさいやめよう。108分間、黙ってみていれば十二分に楽しませてくれる。

原題の『ラ・セーナ』は、イタリア語で「晩餐」。前菜やデザートや洒落た会話や悲喜こもごもの人間模様の数々を、監督は美味しく料理してくれる。そして最後に、夜空の星がぼおっと映し出されて、スコーラさんは、このシーンを撮りたかったのだとわかる。モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の溶ろけるようなアンダンテを、リストランテの全員がしんみり聞き惚れるシーンは素敵だ。もういちど人間を、人生を好きになれる映画、かも知れない。

以上で終り、のセンス良し映画なのだが、僕としては、ある女性に再会できて嬉しかった。
ファニー・アルダンである。もう相当の歳なのに、色っぽい。レストランの女主人という役どころ。ベージュの前開きワンピースをゆったりと着こなし、ちょっと胸元をのぞかせ、あの人懐こい笑顔、大きな口を開けて「ヴオナセーラ」とお客様にご挨拶ーー
眼を凝らして、肩紐を何回もチェックしたが、多分ノーブラOR恋するブラであろう。

80年代の前半に、フランスかイタリアの田舎町でアルダンの映画を見た。アルダンが海辺の汚いバーのトイレに行く。ドアを開けたまま、パンストとスカートを一気に下ろして便器にしゃがむ。その時陰毛がくっきり映っているので僕は吃驚した。これ見よがしにシャアシャアと用便するアルダンめがけて、若きジャックニコルソン風労務者が欲情をムキダシにして進んでゆく……。

嘘みたいなシーンだったが、僕はこの眼でしかと見たのだ。しかし、このあと2人がどうなったのかまったく覚えていないのが残念。日本未公開の超B級作品だとおもう。恋人トリュフォーを失ったアルダンの自暴自棄がアナーキーに出ていた。できるだけ下らない映画に出て、自分を痛めつけてみたかったのだろう。

トリュフォーの遺体に取りすがって、アルダンがわんわん泣いたという記事を読んだこともある。その瞬間、僕はなぜか彼女のわんわん泣いている有様が、まるで映画のワンシーンのように脳裏に浮かんできて、大根女優の彼女を、はじめて好きになったのだった。
熟女アルダンのしどけなく、臈(ろう)たけた感じがなかなかいい。死ぬまでノンシャランにやってくれい。

Monday, September 17, 2007

映画『こころの湯』を観る

降っても照っても第50回

いっけん平凡で退屈そのものの日常生活の中にも、ある日突然ひとつの「映像」がやって来る。そして、ああ、人生はいいなあ、まだまだ世の中も捨てたものではないなあ。と私たちに切実な印象を残して、その「映像」はいずこかへ飛び立ってゆく。消え去ったのではない。折に触れてそれらの「映像」は、わたしたちの心に、鳥のようにふんわりと降り立ち、再会の歌を静かに歌い、疲労と失意のどん底にある者を励ましてくれるのである。

私にとってその「映像」とは、例えば、天安門広場で両手を広げて戦車の前に立ちふさがったひとりの中国人の若者の姿であり、あるいはマルコス大統領を追放してマラカニアン宮殿にアキノ新大統領を迎えたフィリピンの大衆の歓喜の姿である。

『こころの湯』は、北京の下町の古風な銭湯「清水池」の滅亡の物語だ。チャン・ヤン(Zhang Yang)監督の話では、現在北京には40~50軒の銭湯があるが、昔ながらの銭湯はわずか4,5軒。どんどん姿を消して、日本と同様の健康ランド、総合レジャー的なものに変身しているという。超ハイテク工業化が進行する中国で、前近代的な建築物やコミュニティや人関関係が、古き良き時代の思い出と共にゆっくりと壊れていく姿を、チャン監督は、淡々と描いていく。

夜な夜なコオロギを戦わせたり、鍼灸、囲碁将棋を楽しんだり、幸福な時間を過ごした「清水池」の常連たちは、最後に行き場を失う。ローマや江戸の庶民が、心ゆくまで享受したこの至福の裸体文化も、いつかは終焉の日を迎えるのだろうか。

銭湯の経営者には、かつて日中合作のNHKドラマ『大地の子』で養父役を好演した名優チュウ・シュイ(Zhu Xu)が扮している。そして、老いた父といっしょに暮らしている障害者の次男役は、ジャン・ウー(Jiang Wu)。この姜武さんの風体と演技が、どうも誰かによく似ている。と思ったら、知恵遅れの障害者である僕の息子にそっくりなのであった。従って、これぞ迫真の名演技と断言できる。そうチャン監督に伝えたら、なんと朱旭さんの息子さんも障害者らしい。そんな因縁がある分、朱旭さんの演技にも力が入ったのかも知れない。

この映画の原題は、英語で『SHOWER』となっている。姜武さんが、イエスを洗礼したヨハネのように、ある若者の頭にシャワーを注ぐシーンを見ながら、突然、僕は知的障害者施設の先駆けである近江学園の設立者糸賀一雄氏の逸話を思い出した。

ある知恵遅れの少年が、来る日も来る日も花壇の花に水を遣っていた。そしてある日、糸賀さんは、雨がザンザン降るのに、傘も差さずに如雨露で花に水を注ぐ少年の姿を目にして、なにか大きく深いものを感じ、彼らのために一生を捧げようと決意されたそうだ。
雨の日に花に水を遣る少年―-理由は分からないのだが、いつも涙が出てくるその「映像」を何年ぶりかで脳裏に思い浮かべ、僕は息子のことをちょっぴり考えた。

Sunday, September 16, 2007

御成通りに幻の「滝乃湯」を訪ねる

鎌倉ちょっと不思議な物語77回


00年1月に失職した私は、やむなく売文稼業で身を立てようとマスコミ各社に売り込みをかけ、奮闘努力の結果ようやく名門K社の団塊世代対象の新雑誌の新米ライターとして初めての取材原稿を書くことになった。

私は天にも昇る気持ちで音羽の編集部を訪れ、担当者のSさんから「銭湯特集」の企画の説明を受け、カメラマンとのコンビで千住の「大黒湯」と、大田区仲六郷の「nuland」、そして地元鎌倉の「滝乃湯」を取材することになった。

御成通りの「滝乃湯」の前に立ったのは、忘れもしない01年5月のある晴れた日のことだった。タイル張りの玄関、苔蒸した築地塀、そしてその塀越しに優しく伸びたもみじの枝がことのほか印象に残った。

当時、この鎌倉最古の銭湯「滝乃湯」は存亡の危機にあった。番台に座り続ける経営者の熊坂紀和子さんは71歳。昭和5年築の銭湯と同い年だった。借地の更新料が払いきれずに、01年2月末に廃業通知を張り紙したところ、常連客を中心に存続嘆願書が殺到。1ヶ月近くでなんと3665通に達したという。

多くの住民の熱望、市の努力と地主さんの好意が結実し、70年の歴史に輝く名湯は、02年3月まで存続できることになったばかりだった。

私が「滝乃湯」に中に入ると、浴場も脱衣場も、照明はただ一本の電燈がぶら下がるのみで、まずこの質素さが心に沁みた。浴場に足を踏み入れると、星空がのぞく高い天井と富士山のペンキ絵が鄙びたいい味を出していた。
新米ライターの私は、さっそく熊坂さんへの取材を開始した。

「滝乃湯」は産後の血行回復、神経痛に効く漢方薬湯が名物で観光客にも人気があり、普通の銭湯と違って、毎日お湯も薬も入れ替えているという。

「うちのお湯はね、3度お湯に入って暖まらないと風邪をひくよ」
「私の夢はここを銭湯保育所にしてねえ、子育てに自信のない母親からお子さんを預かってねえ、オジイチャン、オバアチャンたちといっしょに育てることだったの」
「考えてみると、みんなが裸になって、声をかけあったり、気持を通わせる唯一の場所が、この銭湯なの……」

そんな鎌倉最後の楽園が、ここだった。

私が取材したあとも数年間は営業が続いた「滝乃湯」だったが、とうとう昨年、あの長い煙突も、私が一糸まとわぬヌードモデルとなって入浴した浴槽も、脱衣場も、富士山のペンキ絵も、築地塀も、もみじの枝も、それらのすべてが地上から消えうせて、ご覧のようにどこにでもある駐車場になってしまった。

それにしても、古き良きものは何ゆえに滅びやすいのであろうか?

ちなみに、私が執筆したその雑誌も、創刊わずか2年ほどで廃刊になってしまった。
まことに諸行は無常である。

Saturday, September 15, 2007

御成り通りのおもちゃやさん




鎌倉ちょっと不思議な物語77回

鎌倉裏駅「御成り通り」の海側の端っこにある「くろぬま」こそ、この商店街のご本尊であろう。

昔は和洋の紙屋であったが、その後袋物を扱い(現在も各種ビニール袋がずらりと並べてある)、それからおもちゃ屋さんに転身した鎌倉随一の不可思議な商店である。

私たちは幼い子供のためにこの店で花火を買ったが、子供だけでなく大人も楽しめるいろいろなグッズが、ざっかけない店内に雑然と並んでいる。

ウナギの寝床のようなお店の奥に座って新聞を読んでいるメガネのおじいさんも古めかしい店舗の風情ぴったり合っている。

Friday, September 14, 2007

ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」を読む

降っても照っても第50回

「日本文学の歴史」全18巻、「明治天皇」、「足利義政」そして「渡辺崋山」。いずれも素晴らしく読み応えのある書物であったが、その著者による自叙伝が本書である。

この人は幼い時に妹が亡くなり、両親が離婚するという悲運に見舞われながらも、いつも古きよき時代のアメリカ人だけが持っていた明朗闊達さを失わず、その文章はまるでモーツアルトのハ長調のような透明な単純明快さがある。

ここらあたりが源氏物語を翻訳したアーサー・ウエイリー、ラッセル、フォスターのみならず、谷崎、川端、三島、吉田、河上、石川、安部、永井、篠田、嶋中など日本の代表的な文学者、書店主に愛された理由であろう。

1945年に生まれて初めて朝日に染まる雪の富士山を見て涙し、飛行機の中で荷風の「すみだ川」を読んで泣き、茂山千之丞に狂言を学んだ初めての外国人キーンは、日本人以上の日本人かもしれない。

50年前の京都や原宿の暮らしに寄せる懐旧の情も胸を打つが、著者が傷だらけになった日本の現在、そして未来に寄せる深い愛情こそ貴重なものに思われる。

1938年、16歳で初めて見たメトのオペラ「オルフェウスとエウリデーチエ」やフラグスタートのワグナー、マリア・カラスの「ノルマ」(このライブ録音のレコード&CDには著者のブラーヴァ!の絶叫が収録されている)するなどオペラ黄金時代の感動的な体験を読むとうらやましい限りである。

しかしもっとも印象的なのは三島由紀夫との交友の思い出である。
三島が70年11月の自栽の前夜に書いた著者への手紙は最近出版された「三島由紀夫全集」の書簡編に収録されているが、本書には最後から2番目の手紙が紹介されている。

『豊饒の海』は月のカラフルな嘘の海を暗示した題で、強いていへば宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません。

私はこの『時は海なり』という言葉のなかに、三島の世界観が要約されていると思った。

Thursday, September 13, 2007

四方田犬彦著「先生とわたし」を読む

降っても照っても第49回

著者の生涯の師、由良君美への追悼の思いにあふれた1冊である。

由良は知る人ぞ知る博識の英文学者であったが、文芸、哲学、美術などの隣接諸学を広く深く渉猟し、狭いアカデミズムのたこつぼに閉じこもらず、目を古今東西の遠近に放った人であったらしいが、1990年8月に61歳で亡くなった。

若くして知の悦び、学びの楽しさを教えてくれた師であったが、著者が思想的に自立するに従って師弟のギャップと誤解が生じ、それはついに取り返しがつかないものになったまま2人は幽明境を異にするのだが、本書の「先生とわたし」の物語はそこから始まる。

自分が先生から享けたものは何か、先生に還したものは何か、はたまた師弟の本来あるべき姿とは何か、がこの出藍の誉でもあり、不肖の弟子でもある著者によって真摯に問われてゆく。

さうして師の真像に肉薄しようと超人的な追跡を続行する著者の内面の旅は、師の先祖の来歴探しや全生涯の振り返りにまでおよび、さながら師ヴェルギリウスと永遠の恋人ベアトリーチエの幻の影を慕うダンテの天路歴程を想わせるものがある。

このような弟子を持った師の泉下のよろこびはいかばかりであらう。以って瞑すべしとでもいうべきだろうか。

Wednesday, September 12, 2007

鎌倉聖ミカエル教会を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語76回

横須賀線が北鎌倉のトンネルを抜けた瞬間に空気が少しひんやりする。しばらくして鎌倉駅のプラットフォームに降り立つと、潮の匂いが微かに鼻腔を衝く。そしてこれが鎌倉という田舎町に住むことの最高の贅沢なのである。

しかし今も昔も東口から出る霊園方面の京急バスの最終は10時15分、ハイランド行きの最終は45分なので、私は混雑するタクシー乗り場を捨てて、たまには夜の小町通を八幡宮に向かって歩いた。

今から30年くらい前の小町通にはお茶屋と信用金庫と2つの喫茶店と玩具屋と駄菓子屋と古本屋と中華料理屋と呑み屋とひき肉屋と牛乳屋とピロシキ屋と薬局と医院と寿司屋とクリーニング屋と氷屋以外はほとんどなにもなかった。

現在のような阿呆な芋アイス屋やスイーツ屋や煎餅屋やブチックや雑貨屋やカフェなどは、ただの1軒もなかった。

ほの暗い街灯の下を私はとぼとぼと歩いた。しもた屋も貧しい民家もかたく門を閉じて寝静まり、狭くて細い道に人影はなく、舗道をうつ私の靴音だけがぴたぴたと音を立てていた。

小町通りの舗装が尽きるあたりに竹製品などを売る生垣屋があり、その左側に聖ミカエル教会が静かに佇んでいた。鎌倉には明治時代から多くの外国人が居住したために市内には22の教会が現存しているそうだ。

四人の大天使のうちの1名の名を冠したこのカトリック教会は、最近“ぴかぴかに醜く”立て直された。木造の聖堂部がかろうじて当時の姿をとどめているだけで往年の面影はない。市の指定景観重要建築物だというが、その価値はなさそうだ。

私は久しぶりにこの教会の前に立ち、この教会が経営する施設に障碍児の息子を入れていただけるかどうか神父様に相談に行った遠い昔の日を思い出した。礼拝堂に入ると格天井などさすがに内部の意匠が歴史を感じさせたが、それより驚いたのは私の亡くなった母と同じ名前の女性が最近神に召されたという知らせに出会ったことだった。

Tuesday, September 11, 2007

アクオス小百合よ ゴッホの話はやめてけれ

♪バガテルop27

「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったように美しい」(ロートレアモン「マルドロールの歌」という言葉は、広告制作の本質を捉えている。

広告の作法とは、無関係なもの同士を同一平面状に並べて、それらが思いがけない異化作用を引き起こし、さながら核融合に似た法外なエネルギーを世間に放出する文字通りアナーキーなたくらみにあるからだ。

さて、この一枚のB倍版のポスターの上で出会ったのは薹の立った女優と液晶テレヴィと孤高の画家の名作のアトランダムな組み合わせ。ほんらいなんの関係もない3つの要素が、金と冗談と機知にまかせて世界中のあちこちから呼び集められ、今夜ここでの一盛り、虚栄の歌を歌おうとしている。

されどアクオスよ、小百合よ、私は断じて君たちからヴァンゴッホのお芸術の話を聞きたくないのだ。

退け、サタンよ! 驕るなかれアドバタイジング!

Monday, September 10, 2007

朝顔のうた




♪ある晴れた日に その11




天青のなかに 海と 空がある

♪バガテルop26

どうしても 好きになれない 人がいる

Saturday, September 08, 2007

コリン・マッケーブ著「ゴダール伝」を読む

降っても照っても第49回

映像の天才詩人、ジャン・リュック・ゴダールに関する包括的な評伝が初めて刊行された。私はむかしからヌーヴェルバーグの作家や作品は嫌いではなく、特にゴダールとは1985年にテレビCMを2本作ってもらうために彼がいまも住んでいるスイスの小村ロールに出向き、やあこんにちはと挨拶したこともある(その頃ちょうど「こんにちはマリア」が公開されていた)ので懐かしく手にとった。

著者のコリン・マッケーブは名前からも分かるようにアイルランド系の英文学者兼映画研究家兼映画製作者。文学のみならず歴史や哲学の造詣が深く、英国映画協会の製作部長時代にゴダールに番組制作を依頼したりインタビューしたりしている。

文章が突然「分節化」されたり、精神分析の論文と化したりして無学な私には理解を超える個所もないではないが、この不世出の映像作家の先祖代々の系譜や幼年時代のエピソード、さらにこれまであまり解明されていなかった革命的ジガ・ヴェルトフ時代の活動、さらに生涯の伴侶アンヌ・マリ・ミエヴィルとの愛と創造の共同生活などを、映画史におけるゴダールの好意的評価とともに要領よく紹介している。

本書によれば、ゴダールは昔から盗癖があり、1952年にチューリッヒの刑務所に入るまでの5年間繰り返し盗み、捕まることを繰り返しているが、これは彼のブルジョア的な成育環境とそこで植えつけられたピューリタン的宗教教育への敵意・反発が潜んでいるようだ。

祖父が大事に所有していたヴァレリーの署名入り初版本を盗んで古本屋にたたき売る少年ゴダール。そんな少年の内気な態度や長い沈黙は、彼のパナマ、リマへの長い南米旅行から始まった、とトリュフォーは語っている。

若きゴダールはパリでの大学受験勉強に失敗してスイスに舞いもどり、アルプスの高地にある巨大な大型ダム建設現場で働き、これがプロレタリアートとしての自己確認の原点となった。

しかし渡世人ゴダールの振り出しはクロード・シャブロルから譲られた米フォクス映画の宣伝広報担当への就職で、このポジションはわが国の不世出の映画評論家淀川長治のそれを想起させるものがある。
ゴダールは米国映画帝国主義への敵意と反感をいまでも隠さないが、「勝手にしやがれ」のプレスキャンペーンやマスコミ対応などは不倶戴天の敵国の作法をしたたかに流用しているのである。

ゴダールの出世作「勝手にしやがれ」は、オットープレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て大成功を勝ち取った。サンジェルマン・デ・プレで撮影されたベルモンド、ゴダール、ボールガールの写真はカッコいい。

ゴダールの生涯をきらびやかに彩るファム・ファタール第1号は石鹸の広告モデルをしていた18歳のデンマーク人、ハンネ・カリン・バイヤーである。

彼女が「エル」の撮影をしていたとき、女優になりたいという願いを聞いたココ・シャネルから「そんな名前ではたぶんなんれないわよ」といわれたのが、アンナ・カリーナ誕生の瞬間だった。

カリーナを恋人から奪って始まったこの至上の恋は「女は女である」「女と男のいる舗道」「はなればなれに」「アルファビル」まで持続したが、なんといってもゴダールとの間にできた男児の流産が二人に致命的な打撃を与えたようだ。

ファム・ファタールの第2号は、白系ロシア人貴族の娘にしてかの有名なフランソワ・モーリアックの孫娘であるアンヌ・ヴィアゼムスキーであった。

68年の5月革命を共に駆け抜けたヴィアゼムスキーとゴダールの結婚は当時大きな話題を呼んだという。アンリ・ラングロワのシネマテーク館長解任に反対してドゴールとアンドレ・マルローに抗し、パリの学生・労働者と共に市街戦の指揮を執っていた40歳のゴダールの姿はいまなお輝かしい。

けれども「軽蔑」の主演女優BBのご機嫌を取るために得意の逆立ちをするゴダールや、ポランスキーの妻シャロンテートが惨殺されたニュースを聞いて「いいぞ、あいつは例の作品の権利を僕から盗んだ奴だからな」と暴言を吐き、アポロ13号に搭乗中の三人の宇宙飛行士に対し「地球に戻らず宇宙で死ねばいい」と何度も表明する姿はとても醜い。

全裸の映像をおぞましいポルノグラフィーに転化しないために陰毛が映っているカットが必要であると女優に強制したり、疲労困憊して顔で「パッション」のスタジオ入りをしたハンナ・シーグラに向かって、「一晩中やっていたんだ。顔のしわをみんなに見せてやればいい」と怒号するゴダールの姿もとても醜い。

「人生における最大の価値は、真であり、善であり、美であるからその格率を体現する作品をつくってほしい」という、(クライアントである)私のCM企画意図に賛同し、プレゼン用のビデオ作品を自主的に制作し、見事な作品をつくってくれたゴダールその人だけに許せない思いが強いのである。

けれどもマオイストとなって永久革命の夢からさめることができなかったゴダールのおいさらばえた精神と肉体に愛と休息の場所を与え、1979年製作の「勝手に逃げろ/人生」で奇跡の映画復帰をもたらし、いまなおスイスの小さな隠れ家でにあって世界一孤独で唯一無二の映像革命作家をしっかりと支えているのが、彼の3番目の運命の女性、アンヌ・マリ・ミエヴィルなのだった。

昔の光、いまもなお。古我邸&庭園を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語75回

鎌倉文学館(旧前田邸)、華頂宮邸(旧宮家)とならぶ鎌倉3大洋館のひとつが、この古我邸&庭園(旧荘清次郎邸・非公開)である。

大正五年、夏目漱石が亡くなった年に、かつて恐らくは智岸寺という廃寺があったと想定される場所に三菱銀行の重役荘清次郎の別荘が建築された。

設計は三菱銀行などの建築を手がけた櫻井小太郎。見るからにイングランド郊外の英国貴族の館を思わせる英国コテージ様式のすばらしい洋館が扇ガ谷近辺の山麓に現存している。

建物は木造2階建てで外壁はこげ茶色の板をウロコ状に張ったシングル張りという珍しいもの。昭和初期には浜口雄幸、近衛文麿などの総理大臣が別荘として使用し、現在は日本人で初めてカーレーサーになった古我信生夫人がご高齢にもかかわらず、まだ実際に居住されている! 

当初この一帯は「三菱村」といわれ、岩崎家はじめ三菱財閥の要人が別荘を構えていたという。実際に拝見したが、豊かに緑なす広い前庭と瀟洒な後庭に取り囲まれた重厚な洋館は、いつまでも後世に伝えたい懐かしい風韻を醸し出していた。
(鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料より引用)

Thursday, September 06, 2007

嵐の夜に

鎌倉ちょっと不思議な物語74回&遥かな昔、遠い所で第20回

台風一過、もうミンミンゼミが鳴いている。今から10数年前のこんな嵐の夜に、朝比奈切通しの坂道の途中にあるお地蔵様が鎌倉時代から安置されていた岩の下の台座から転げ落ちてしまった。

翌朝私と家内が峠を登っていくと、そのお地蔵様はお労しや大小3つに砕けて峠の坂道にひっくりかえってござった。夫婦でふうふう言いながら元の台座に戻そうとしたが、あまりの重さにそれは叶わず、仕方なく坂道の端っこに安置した。

翌日市役所に電話したのだが、担当者は砕けた断片をしばらく捜索したのみで、応援を頼んで原状回復さえせず、星霜10年、いや15年になるだろうか、今日に及んでいる。

ときおりこのお地蔵様や峠の頂上にある磨崖仏を大昔からここに在るように書いているブログがあるが、とんでもない。くだんの磨崖仏などは昭和30年代に当時横須賀市在住のおじいさんが腕をふるって刻んだアマチュア現代アートに過ぎない。

余談はさておき、このお地蔵様の砕けた右側に「延宝三年丹波之住人浄誉向入」という銘が刻まれている。「吾妻鏡」によると朝比奈峠は仁治元年1240年北条泰時によって開鑿されたが、その後3回改修工事が行われており、延宝三年1675年の第1回の大改修を勧進したのがほかならぬこの浄誉向入上人だったと思われる。(その後この切通しは安永9年1780年、寛政9年1797年、文化9年1813年の計3回改修工事が行われ、それぞれの改修碑が峠道のあちこちに残されている。)

12世紀の重源の頃から鋳物師や石工などの職人集団と結びついて各地の寺社の修造や池・橋・港湾の修築に当たったのが勧進聖、勧進上人である。
13世紀後半から14世紀にかけては北条時宗の援助を受けて東寺の工事に鋳物師を総動員した願行上人憲静や津・泊などに関を立て、回船人・商人から関料を徴収した禅律僧の恵観など数多くの勧進上人たちが活躍した。

鎌倉の勧進上人忍性などは北条氏などの権力者と結びついて公共工事を行い、その資本を調達するために神仏への初尾寄付の名目で関料を徴収し、その資本で工人、船頭、水主を動かして中国との貿易に乗り出して巨利を得た。彼らは一種の企業家、貿易商人といえるだろう。

わが丹波ゆかりの浄誉向入上人の足跡を辿ると、『新編相模国風土記稿』に「峠坂あり。村中より大切通に達する坂なり。延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す」とあった。

どうやら浄誉向入上人は自ら勧進した切通し大改修に着手、完了したその年にみまかったらしい。
ああ、偉大なるかな丹波の僧よ。大願成就、もって瞑すべし

とでも申すべきであらうか。

Wednesday, September 05, 2007

犬も歩けば「鎌倉史蹟指導標」

鎌倉ちょっと不思議な物語73回

 鎌倉を歩くと市内のあちこちに大きな石造りの案内標が建っている。

こんなに大きく頑丈で立派な表示物は日本全国、いや世界中どこにもないだろう。文化と歴史と時代の風格を漂わせるこの立派な表示は、正式には「史蹟指導標」と称され、全部で80基が現存しているそうだ。

そのうちの77基は、大正6から10年は鎌倉の「青年会」、以後昭和15年までは「青年団」、16年には「壮年団」が三基建立し、戦後は昭和31年に「友青会」が三基追加した。

大正から昭和初期の製作費1基200円也は、現在ならいくらになるだろう? 昔の青年団は偉かった。

Tuesday, September 04, 2007

海野弘著「20世紀」を読む

降っても照っても第48回

20世紀の100年間を10年ずつのディケイドに分かち、そのディケイドから20くらいの出来事や傾向を選んで自在に物語ることによってその年代の全体的な特徴をつかみだそうとする気宇壮大、骨太の現代史が本書である。

たとえば1900年代は「春のまどろみ」、10年代は「大いなる戦い」、20年代は「ローリング・ジャズエイジ」、30年代は「トラブルの時」、40年代は「引き裂かれた時代」、50年代は「ヒチコック・エイジ」、60年代は「大動揺時代」、70年代は「ナルシス・エイジ」、80年代は「幻想と欲望の時代」、90年代は「20世紀末」と銘打たれ、その各年代ごとに原稿用紙で100枚を費やし、10章で約1000枚、索引と参考文献を含めて総計607ページの大著であるからはなはだ読み応えがある。

10年代で出てくる野口英世の科学史の業績問題(黄熱病の病原菌は菌ではなくウイルスであり、野口はそのことを知らなかった)、第一次大戦の後始末役の米大統領ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルトの「革新主義」と「発展膨張主義」こそが、現代アメリカのグローバリズムの源流であること、米国20年代の「クークラクッスクラン」が古き良きアメリカを守ろうとしたプロテスタント基本主義の原点であり、その頑なな原理主義が現在のブッシュ流米国覇権主義につながっていること、20年代のパリでシャネルは香水のロイヤリテイによる莫大な収入によってはじめてファッションデザインに専念することが可能になり、それが今日のラグジュアリービジネスのスタイルを創始したこと、エンパイアー・ステートビルのエンパイアー・ステートというのは他ならぬニューヨーク州であること等々、どのページを読んでも興味深い記述が端々に転がっているが、図抜けた知の案内人と共に広大な20世紀の海を逍遥する楽しさを味わうことができる。

著者はグローバリゼーションとは世界を縮小していく過程であり、それは最終的には携帯の小さな画面に1枚の平面として集約されるようになったという。20世紀末に世界はどんどんフラットになり、奥行もなく、前後左右もなく、時間も歴史も消え去り、すべてがくまなく見えるものになった。従って20世紀の終わりをフランシス・フクヤマのように「歴史の終わり」と見ることもできよう。

しかし興味深いのは、著者が歴史は繰り返すと信じていることで、調べれば調べるほど20年代と50年代と世紀末にはある共通項が備わっているという。著者は世界の文化はほぼ30年の周期で繰り返しているのではないかという仮説をなかば信じているようだ。

しかしすべてが見える物となり、陽の下になにも新しきものはなくなり、世界がフラットと化して動かなくなれば、私たちはどうなるのだろう?

著者はすでにこの世に表われたもの、経験されたもの、既存のものをあたかもトランプのカードのようにかき混ぜ、再度カットし直してもういちど「21世紀ゲーム」を始めればよいのだと主張する。

そして最後にこう断言するのである。

「私は歴史は繰り返すと思う。もしそうでなければすべての出来事はたった1回だけで過ぎていき、私たちは歴史に学ぶこともなくただ流れていくことになろう。それではただ今だけに生きて終わりということになるだろう。感覚的な快不快はあるかもしれないが、本質的な成功も失敗もないことになるだろう。私たちの人生と世界がそんなことであっていいはずがない。私は歴史は繰り返すと思う。そうでなければ歴史を学ぶ意味などないのだから」

Monday, September 03, 2007

ある丹波の老人の話(50)最終回

ある丹波の老人の話(50)最終回

こうして幌付きの人力車に乗っているうちになんとかなるだろう、と思っておりましたが、そのうちに車夫がこの得体の知れない日本人をもてあまして「降りろ」と要求しはじめました。

私は財布からお金をつまみだして、「コレだけやるからもっと乗せろ」というたんですが、車夫は正直に20銭だけ受け取って、私を引きずり降ろしてしまいよりました。

私は途方に暮れてもう歩く元気もありまへん。しかしそのときやっと気づいて私はその場にたたずんで一生懸命神に救いを求めて祈りました。

するとどうでしょう。「その道をまっすぐ行け」という神のお告げを感じたのです。私はようやく元気を取り戻して歩きはじめました。

しばらく行くと兵隊らしき者に出会いました。兵隊は私の姿を認めるや否や銃を構えて「止まれ!」と大声で叫びました。よく見ると日本の兵隊です。
そこで訳を話すと大いに同情してくれて、電車通りに出る道を教えてもらい、無事にホテルまで辿り着くことができたんでした。

前にお話した難船の場合と同じで、これこそは私は子供のときから持ち続けた「祈れよ、さらば救われん」の実証でした。私はこれまで足掛け70年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを微塵も疑ってはおりまへん。             終


――明治18年2月22日、丹波の小さな盆地に生まれたこの老人は、その晩年はホテルなどに紅い表紙のギデオン協会の聖書を贈呈することに情熱を注いでいたが、昭和37年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」という言葉を最後に倒れ、天に召された。

Sunday, September 02, 2007

網野善彦著作集第10巻「海民の社会」を読む

降っても照っても第47回&鎌倉ちょっと不思議な物語72回 

百姓という言葉は農民を意味せず、農民、海民、工人など多種多様な職能に従事する公民をを意味する、というのが著者の創見であったが、本巻ではその海民についての論文がたくさん収められている。

中世の鎌倉は陸では四通八達の鎌倉街道を、そして鎌倉の滑川、金澤の六浦から発して埼玉県三郷や茨城県稲敷、東京都葛飾や神田など全国各所に散在する鎌倉河岸に通じ、霞ヶ浦四十八津などの水上河川、さらには伊豆、房総、西国、中国、九州にいたる広大な太平洋の交通路を開拓することに成功し、すでに11~12世紀には列島全域に廻船の安定したネットワークが完成していた。

私の家の近い金沢六浦は中世の巨大な港湾であるが、鎌倉時代にこの六浦相を治めていたのは上総に拠点を持つ武将和田義盛であった。和田氏はその後北条氏の悪辣な陰謀によって滅ぼされるが、その後を襲った三浦氏や金澤(かなさわ)氏によってその海上の道をますます整備させることになる。

この和田合戦の折に和田義盛の子、朝比奈三郎義秀は500騎を率い、6艘の船に乗って安房の國に行き、そのまま行方不明となった。一説には高麗に渡ったとも言われているが、これまた私の近所にある朝比奈峠は、豪傑三郎が1夜にして切り開いたという言い伝えがある。

いまを去る数十年の昔、私が初めて勤務した会社は神田鎌倉河岸にあり、高速道路の下にひたひたと打ち寄せる黒い水を疲労困憊した昼休みによく眺めていたものだが、本書によって初めて現在私が居住する鎌倉とくだんの鎌倉河岸とが時空を超えて一挙に結合されるのを感じた。

またその鎌倉では、忍性など多くの勧進聖、勧進上人が幕府と結びついて国内のみならず外国との貿易や文化交流を行い、中世社会のインフラを整備したことはよく知られている。極楽寺にいた忍性は、自らの船で貴重な宋本大般若経を鳥羽まで運び、奈良の叡尊に届けていたのである。

3大将軍実朝が由比ガ浜での大船製造に失敗した逸話は有名であるが、唐船建造が失敗して実朝が宋に行けなかったのは、かつて小林秀雄や吉本隆明が説いたようにあの時期の政治的事情と混乱によるものであり、中国人技術者の援助を得て日本で作られた多くの唐船が日本海を渡って交易していたことのほうを重視するべきであろう。

「海は櫓櫂の続くまで」と人口に膾炙したように、中世は海の時代であり、海民社会の誕生なくして日本の中世社会は存在しないのである。

君は“空飛ぶチンポコ”を見たか?

シアターΧ・プロデュース公演 サラ・ケイン作「フェイドラの恋」を観る

降っても照っても第46回


連日連夜の熱帯夜の眠れない夜の明け方に、私は眼裏に右から左に飛翔する面妖なものを見たような気がした。寝ぼけ眼で今度は左から右へと飛び去るそいつをよーく見ると、それはかなりの重量感にあふれた陰茎であった……。
以下は→http://www.wonderlands.jp/

Saturday, September 01, 2007

07年8月亡羊歌集

♪ある晴れた日に その10

交わりのその頂きで轢死せるミンミン蝉を蟻共喰らう

麦藁帽脱ぎて初めて挨拶すそっぽ向きおりし住職とわれ

夏空の奥の奥まで舞い上がる雌雄の蝶の行方知らずも

わが下肢の股の隙より洩れ出ずる悪しき臭いよ真夏の午後よ

昼も夜もなめくじのごとくゆるやかに世界の果てまで歩ましめよ

躊躇なくゴキブリ殺せし我が足よではなにゆえにコオロギを踏まぬ

働いたってそんなにいいことなんかないぞでもまあ働くんだな君

満月の逗子の海にてはぜる火よ光は見えず音のみを聴く

ニイニイアブラミンミンカナカナ麦稈真田の夏は過ぎ行く

祈れども息子のことは仕方なし

残尿の朝まで続く残暑かな

ミンミンもカナカナも鳴く午前5時

Friday, August 31, 2007

ある丹波の老人の話(48)

第8話 思い出話3

それから昭和15年に上海に行ったときのことです。

私はホテルから外出しての帰り道、街の見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車が走っている大通りから外れてとある横道に入っていきました。

ちょうど夕刻で中国人たちはみんな軒下に集まってにぎやかに食事しているのをものめずらしく眺めながら歩いているうちに、どんどん日が暮れかけました。

そのうちに雨が降りはじめたものですから、元の電車道に引き返そうとしたんでしたが、どこをどう迷ったものか見たこともない河にぶつかってしまいました。

地図を見ても皆目見当がつかず、雨はますます激しくなります。中国人が食事をしている軒下は通れないし、ずぶぬれで街をあちこち歩きまわりました。

しゃあけんどどこをどう歩いても大通りにはでまへん。どの道を行っても川に行き当たるばかりです。道を尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもなりまへん。私はますますいちらだち、ますますあわてました。

ふと通り合わせた人力車夫に指を輪にして「お金はいくらでも出すから乗せてくれ」というつもりを身振り手まねで示して乗せてもらいました。幌があるから濡れないだけでも助かります。

Wednesday, August 29, 2007

ある丹波の老人の話(47)

第8話 思い出話2

米国からの帰路、私はシアトルから加賀丸という大きな船で北回りで帰る途中、猛烈な防風に遭いました。

どの船室にも水が浸入して乗客一同生きた心地もなく、食事どころの騒ぎではありまへん。

けれども私はこのときひたすらに神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず体もあまり丈夫ではないのに、ただ一人平気で食事も常と同じように摂ることができたんでした。

はしなくも私は、ガリラヤの海の難船でただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めたときに、「ああ、信仰薄きものよ」と哀れみ、たちどころに波風を鎮め給いし事跡を思い起こしました。

それとこれとを比べることも大それた話ではありますが、やはり私が神を信じたから、あれだけ祈ったからこそ、弱い私があれほどのしたたかさを示すことができたんだ。と、思わずにはおれませんでした。

Sunday, August 26, 2007

ある丹波の老人の話(46)

第8話 思い出話

1928年(昭和三年)、世界日曜学校大会に出席した私は、当時のアメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見物しました。

バークレー市のカリフォルニア大学では電子顕微鏡を見せてもらい、さらにはトーキーも実際に見ることができました。

その頃の日本にはまだトーキーはなく、動く写真、つまり活動写真しかなかったんです。これをつぶさに見物した私は、世の中にはまだ人間の智恵では計り知れない不思議があることを知りました。

そうして今まで聖書にある奇跡というものを信じることができなんだ私ですが、この電子の不可思議を目にしてマリアの懐胎も、5つのパンと2匹の魚とが5千人の空腹を満たしたこと、さらには水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエスなど数々の奇跡も必ずしもありえないことではないと信ずるようになったんでした。

それからウイルソン山上の天文台で世界最大の直径100インチの大望遠鏡で夜の木星を見せてもらった私は、今更ながら宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、いっそう敬虔の念を深くしたことでした。

Saturday, August 25, 2007

「夏の歌」

♪音楽千夜一夜第25回&遥かな昔、遠い所で第19回

毎日ロンドンのロイヤルアルバートホールから生中継されるプロムスを聴いている。

今年7月13日にビエロフラービック指揮BBC響のエルガーとウオルトンに始まった「プロムス07」の終焉は来月の8日。すでに会期の半ばを過ぎ、ようやく秋は近い。

これまで印象に残った演奏は、もラヌクルズの鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ、かつての手兵アムステルダム・コンセルトヘボウを見事にドライヴしたベルナルド・ハイテインクのブルックナーの8番、コーリンデービスとヨーロッパユースシンフォニーの演奏、アバド&ルツエルン祝祭管のマーラー、さらに現在世界でもっとも大きな話題を集めているギュスターボ・デュダメル指揮ベネズエラ・ユース・シンフォニーのショスタコ10番&バーンスタイン曲集などであった。

デュダメルはバレンボイムやムーティやアバドやマゼール、それに我が尊敬する吉田秀和氏などがこぞって褒め称えている新進気鋭の第三世界の音楽家である。その鬼神も避ける疾風怒涛の演奏はまことにエネルギッシュで、全身に爽快さがみなぎる体のものであるが、これは往年の小澤の音楽と同じスタイルであり、当初は斬新かつ革命的に耳朶を聾して先物買いが殺到するだろうが、遠からずして逼塞することでしょう。

先般FMで彼らのベートーヴェンやドボ9などを聴いたが、快速楽章の運転は得意とするものの、緩徐楽章の処理をもてあましていて、それが全体的な演奏効果を大きく妨げているように思われた。

むしろ私には職人肌オペラ指揮者ラニクルズが振ったワグナーの「ラインの黄金」のほうが楽しめた。これからまだゲルギエフなど数多くの実力者が登壇するので総合ランキング評価はまだ早すぎるが、これまでのプロムス全公演でベストの快演であった。

プロムスで思い出すのは英国人のときおり熱狂に傾く自然な愛国心の発露であるが、これがわが国や米国のそれとはひとあじ違った独特の風情があり、BBC響による英国国歌の奏楽と斉唱が終った後、満堂の聴衆が手をつなぎ、肩を組んで、自然発生的に例の「蛍の光」をアカペラで合唱するときのしみじみとした感興、そしてその音程の正しさと見事なアンサンブルにはいつも深い感銘を受ける。日本帝国の「君が代」ではこうはいかないだろう。

ところで、夏のイギリス音楽といえばいつも思い出す1本のテレビ映画がある。

ある夏の終わりにNHKが英国の作曲家フレデリック・ディーリアスの伝記ドラマ「夏の歌」を放映したことがあった。晩年梅毒が元で失明したディーリアスを、彼の妻と弟子のエリック・フェンビーがかいがいしく看護するが、その甲斐もなく孤独で我侭な作曲家は亡くなり、彼の死を悼むBBCの追悼番組が放送されるシーンで、このドラマも終る。

BBCのアナウンサーが、「わが国の20世紀を代表する最大の音楽家の死を悼み、彼の代表作をお届けします」と重々しく告げると、あの懐かしい「夏の歌」の管弦楽の序奏が低く奏され、2人は白いレースのカーテンに閉ざされたリビングルームでよよと泣きくづれるのである。

往時茫茫四十年。この夏のドラマを見た夏の日から長い歳月が徒に流れたが、私が死ぬまでにもう一度観たい唯一の番組が、名匠ケン・ラッセル演出のこの音楽ドラマである。

Friday, August 24, 2007

ある丹波の老人の話(45)

第七話 ネクタイ製造最終回

ネクタイの生命は柄にあります。これで他店にヒケを取ってはならん、と私は京都高等工芸出の意匠図案係三人に欧米の流行を参考にするようにと指示して研究させました。

この頃、私は郡是でスンプという機械が発明されたという耳よりな情報に接しました。これは顕微鏡のプレパラートと同じようなものをきわめて簡単に、しかも即座に作れるというのです。

早速動植物の色々な部分を拡大して眺めてみますと、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠をそこから得ることができ、ネクタイの柄、模様、デザインの世界に一大新機軸を開くことができたんでした。

東洋ネクタイ製織所の活動は、戦前のわが国の産業飛躍に小粒ながらも貴重な役割を担ったと自負しておりますが、やがて日支事変となり、それが太平洋戦争に突入する頃には、洋服も廃れて国民服に変わり、ネクタイはぜいたく品としてさっぱり売れなくなってしまいました。

昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしもうたんで、東洋ネクタイ製織所はとうとう解散のやむなきにいたりました。

やがて敗戦となり、私は今度は趣を変えて、家内工業の小工場一〇余個所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、起業当初の原点に還り兄弟二人だけの会社にしました。そして前に述べたように弟の死後は長男がその後を継いで今日におよび、戦前ほどの華やかさはありまへんが、まずもって堅実な経営を続けております。

Thursday, August 23, 2007

ある丹波の老人の話(44)

第七話 ネクタイ製造その5

まことに小林さんらしい、パリッとしたご挨拶でありました。

それから私の会社と阪急との間にお互い誠意を尽くした取引が始まりました。それは好いのですが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。その3人を私の店の売込み係に採用したいからとゆうて、また小林さんに頼むと、就職難時代ではあるし3人とも大喜びで来てくれました。
2人は慶応、もう1人は神戸商大の出身の優秀な青年で、とてもよく働いてくれました。

まもなく阪急のネクタイは安くて品質がいい、という評判が立つようになり、私の会社の製品は他社の製品を圧倒して飛ぶように売れるようになりますと、早くも大丸が2度目の注文を寄越しました。

それから髙島屋、三越、そごう、丸物に納品し、東京では綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)その他岡山、広島の大きな百貨店とも取引し、多くはその店の株も持たされて相互の親善関係を結びました。

製品はドンドン売れ、店は繁盛しました。そこで私は一歩を進めて輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込みましたが、これは実際は上海で米国製品に化けて売られたもので、あまり名誉なことではありまへんでした。

Wednesday, August 22, 2007

網野善彦著作集第15巻「列島社会の多様性」を読む

降っても照っても第45回

本巻収録の論文「境界領域と国家」において、著者は公=パブリックなものを、境界的な場、人、物=「公界」的なものと公家、公方、公儀など国家の公的権力につながるものとに峻別しようとしている。
 
欧州でも、神仏あるいは聖なる世界(大宇宙)と人間あるいは俗界(小宇宙)との狭間で重要な役割を果たしていた“境界的な人々”が存在していたが、キリスト教の浸透がそのアジールを奪い去った。同様に日本の社会でも室町時代以降、「公界」は「公儀」によって暴力的に吸収されていったわけだが、この2分法は21世紀のいまも有効であると、私には思われる。

本巻の目玉は少し執筆年代は古くなるが、当初予定されていた宮本常一に代わって著者によって書かれた「東と西の語る日本の歴史」であろう。
著者はこの規模雄大で雄渾な論文のなかで旧石器、縄文時代から現代におよぶ長い時間にわたって列島に鋭い亀裂を生じさせてきた列島東西の諸民族と国家(東国と西国政権、アイヌ、琉球、蝦夷、隼人などを含む)の社会的、考古学的、歴史的、地勢的、政治的、経済的断層を個別具体的に検討していく。

考古学的にはすでに3万年前の旧石器時代から東西石器の形状は異なり、民俗学的には宮本常一などが明らかにしたように、東は“家父長的なイエ中心の縦型父性社会”であり、西は個々のイエの婚姻によって結ばれた“ムラ中心の母性系横型社会”である。
また縄文時代の列島の東西は植生が異なり、ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林の広がる豊穣な東日本とシイ・カシを軸とする照葉樹林が広がる貧を代表する通商的・軍事的特性であったことも歴史的な事実である。 

このような東西格差と地域の特殊性は、古代から現代まで数多くの政治的対決の淵源となってきた。
蝦夷の跳梁をはじめ9世紀から東西の抗争は激化し、10世紀の中頃には大和政権に反逆する平将門や藤原純友の乱が起こり、これを嚆矢とする「あずまみちのく」の自立を目指す安倍、清原、奥州藤原一族の叛乱へと続き、“西国国家”平家を打倒した源氏は、わが国最初の東国武家政権を鎌倉に確立した。

その後幾多の東西対決を繰り返しながら、最終的に関が原の合戦に勝利した徳川家康が東国政権による全国統一を果たしたが、いまなお列島深奥部には双方の対立要素が潜在し、それは欧州ならば優に複数の民族国家を構成するに足る亀裂であると著者は断言する。

すなわち、旧石器時代から平成の御世まで、“単一民族による単一国家”大日本帝国などほんの一瞬間も存在しなかったのである。

Tuesday, August 21, 2007

ある丹波の老人の話(43)

第七話 ネクタイ製造その4

小林社長は、商品を担当者にも見せ、一応は商品の優秀性を認めてはくれたんですが、値段があまるにも安いのを不思議がり、しきりに小首を傾けるのです。

そこで私は、それは私の店では他店の如く仕入れ係への高い運動料を含まない分だけ安いのである、ということを社主クリストの精神から説いて大いに小林氏を煙に巻いたんでした。

小林さんは「よく研究して返事する」ということでしたが、私は確かな手ごたえを感じておりました。

果たしてそれから数日経つと小林さんがただひとり、私の豆のような店を探すのに一時間もかかったといいながら自動車で来訪され、

「いかにもあなたの言われるとおり開店間もない私の店の仕入れ係もワイロを取っておった。そこで今後のみせしめのため、その3人の仕入れ係をかわいそうだが解雇しました。それからこれから私の店ではあなたの会社のネクタイを主として販売することにしたから、せいぜい勉強して納入してください」

とおっしゃいました。

Monday, August 20, 2007

ある丹波の老人の話(42)

第七話 ネクタイ製造その3


私が設立した東洋ネクタイ製織所は、波多野鶴吉翁が郡是を経営した精神に学び、次のような願いを定めました。

吾等の念願
1 イエスキリストを当社の社主と奉戴して日々その聖旨に従い、之を忠実に行はんことを期す。
2 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以って凡ての事を為さんことを期す。
3 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙遜を以って修養し自己品性の向上を計る為最善の努力を為さんことを期す。
4 常に考え、常に学び、常に励み而して常に何物かを創造せんと勉むることを期す。
5 目的達成の為信仰を養い終りまで耐え忍ぶ者は救わるべしとの信念を以って前進せんことを期す。
                    株式会社 東洋ネクタイ製織所

  そうして私は、ひとえに神の御旨に叶う工場であることを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けながら、我々のささやかな営みが主の栄光を顕す一端になることを祈りつつ前進したんでした。           

Sunday, August 19, 2007

ある丹波の老人の話(41)

第七話 ネクタイ製造その2

さて米国から帰国して早速熱心に郡是に靴下製造を勧めてみたんですが、遠藤社長、片山専務はあくまでも製糸一本槍を主張し、私のいうことなどにはてんで耳を貸しまへん。

ただしかし、たった一人取締役の平野吉左衛門氏だけは、あの温厚な人柄の氏には珍しく非常な熱意を示して私の主張に耳を傾け、その後も私にたびたび意見を求められました。

そして昭和四年、ついに平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として塚口に設立されたんでした。この会社は一時期試練の苦悩を経験しましたが、現在では親会社の製糸を抜いて全郡是を背負って立とうとする勢いを見せております。

一方ネクタイの方ですが、これは前にお話したように私が米国から帰ると間もなく父が亡くなり、このとき都会の生活に敗れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同でネクタイ製造に取り組むことにしました。

その頃、アメリカでも日本でも編みネクタイが流行しておりました。これはしごく簡単な設備で生産できますから、少額の自己資本だけで大阪都島に小さな工場を設けて創業し、その後2,3の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡大し、しばらくするとだいぶ業容が安定してきたので、昭和10年に資本金20万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を設立しました。

本社は大阪におき、京都西陣にネクタイ織物工場を新築し、加工工場を東京、大阪に設け、原糸の提供を郡是に仰ぎ、染織を京都の一流工場に委託して厳密なる製品検査を行うことにしました。ネクタイ工場は織から縫製までを一貫する当時の最新システムを備えた他社に遜色のない超一流クラスで、鋭意優良製品の生産に努めたもんでした。

Saturday, August 18, 2007

ある丹波の老人の話(40)

第七話 ネクタイ製造

昭和3年、世界日曜学校大会が米国ロスアンゼルスで開かれたとき、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表メンバーの中に選ばれて渡米しました。

そのとき私は、日本の主要輸出品である生糸の消費状況に特に注意を払うて視察を行いました。

米国滞在中はしばしば信者の家庭に泊めてもろうたのですが、どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、2,30本のネクタイが掛かっておる。また、婦人の部屋には靴下掛があって10数足の靴下が掛かっているのを知りました。

この米国で需要の多いネクタイと靴下はもちろん米国でも盛んに作られておるが、まだまだ輸入の余地がありそうである。さらにわが国の洋服着用者は年々増加しておりますから、今後自国の需要も増えてくるでしょう。

いま日本は大量の生糸のほとんど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をネクタイ、靴下の製造に振り向け、内外の需要に応じたらどうだろう、

と私は考えたのでした。ネクタイなら小資本でもやれるから、これをひとつ自分でやってみよう。そして靴下は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみよう、と思ったんでした。

Friday, August 17, 2007

弟の死

ある丹波の老人の話(39)

その時弟は、死んだ妻の事を

「実に良い姉さんやった」

と褒め、

「私が酒を止めたあと、この兄さんの家へ来て泊まるとき、姉さんはいつも土瓶の中へお茶とみせかけて酒を入れ、私の枕元に置いて飲ませてくださったもんでした」

と白状しました。

それから弟は、

「私はほんとはキリスト教に入れてもらいたかったんやけど、私のような者はとても入れてもらえんと思って今まで黙っておりました。兄さんはきっと長生きされると思うが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでもキリスト教でしてもらえんやろか」

と言いましたので、私は、

「そのお前の心がすでに神に通じておるんやから、葬式など訳もないことや」

と答えたんでしたが、昭和28年の5月7日に脳溢血で亡くなり、葬式は遺志の通りに京都紫野教会で山崎亨牧師の施式によって執り行われたんでした。

 遺児は男二人、女一人でいずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くも父の業を継いでおりました。そうして私の弟は、後顧の憂いなく安らかに眠ったんでした。

神の御恩寵は私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かでした。感謝の至りであります。                    (第6話弟の更正 終)

Thursday, August 16, 2007

ある丹波の老人の話(38)

第6話弟の更正 第6回

お互いに心の奥底まで打ち明けて兄弟の溝はすっかり取れました。

私たちは、弟が京都へ奉公に行ったときのことなどを思い出して、神の前に幼子となり、兄弟力を合わせて一仕事やろうと誓い合ったんでした。

そして弟は、私の希望を容れて酒も煙草も断って更生することを誓ったんでした。

薄志弱行、放蕩無頼の弟も永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して私との共同事業に粉骨砕身し、持ち前の商売上手と過去の経験を生かしてよく私を助け、守りたててくれました。

 昭和27年の12月、私の家に弟がやって来たとき、私は鯛尽くめのご馳走をつくり、絶対買ったことのない上等の酒を買い求め、私が手ずから温めて、

「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり飲んでいってくれ」

と弟に勧めると、弟は、

「兄さん、私はこんなにうまい酒を飲んだことはない」

といって喜びましたが、血圧が高いからといって皆までは飲みませんでした。

Wednesday, August 15, 2007

ある丹波の老人の話(37)

第6話弟の更正 第5回

さて色々と周りに迷惑を掛けてきた私のこの弟でしたが、私はこの際、父の形見という意味で3,4千円の金をやって、好きなところへ行って好きな仕事をさせようと思いました。

本音をいいますと、この道楽者とは後難のないようきっぱり縁を切りたかったんです。ほんでもってこのことを「今日は言おう、明日は言おう」と機会を狙っておった訳でした。

しゃあけんど、基督教入信以来すでに十余年、自分の弟に対してこんな仕打ちをすることは全然肉親の愛情に欠けた神の御旨に背くことでありました。

私はかつて本間俊平氏から聞いた話を卒然として思い出しました。
氏は凶悪な強盗犯で釈放された男を自分が経営する大理石工場の金庫番にして更生させたのです。

私はこの話を思い出し、ただおのれの安きを求めて弟を疎んずることをせず、「すくわるるもほろぶるもいっさい弟とともに」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから改めて弟に
「まことにお前には申し訳ないことだった」
と手を突いて謝りました。

すると弟はオイオイと泣き出して、
「兄さん、なにをいうや。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうかその手を上げてください。みな私が悪かったんです…」
と気狂いのようになって言うのでした。

Tuesday, August 14, 2007

♪バガテルop26

戦後62年。色々な問題が山積しているにもかかわらず、我々が他国との戦争に巻き込まれずにすみ、こうして表面は平和な日常を享受していることは、それ自体が奇跡的であり素晴らしいことである。

それにしても今日は終戦記念日ではなく、敗戦記念日である。
戦争は天変地異や台風ではない。わが臣民は過ぐる大戦に無関心をよそおったのではなく、一億火の玉となって積極的にアンガージュしたのだ。

物事の順序からいえば、中国や欧米諸国がまずわが帝国の領土を侵略したのではなく、われわれ日本人が天皇も官民も一体となって主体的・意図的に自己責任で他国を侵略して大きな惨禍を与えたのである。
わが国が勝手に他国に殴り込みをかけ、植民地をつくり、自国民を送り込み、その安全が危殆に瀕すると、自衛という口実のもとで軍隊を送り込み、さらに戦争を拡大していったのだ。その責任はわが臣民自身がきちんと取るべきであった。

国家の本質は市民の幻想であり、国家よりも大切なのは市民の自由意志なので、国家は市民のコンビニエンスのために奉仕しなければならない。美しい國などは無用の長物で、大論・巨論・虚論を販売しない安直近な小さなコンビニ国家こそが、われら臣民の理想なのである。

天下国家商品を販売することは国家の勝手であるが、それ自体が論理矛盾なので、これは憲法ブランドといえども例外ではない。現に私たちは憲法なぞ読んだこともなく、毎日平気で破っているではないか。
国家が唱える「公」は常に形骸化されている。むしろ今を生きる私たちにとっての「公」の実存(在り様)が大事であろう。

それにしてもわれわれは身の程も知らずに世界を相手に大戦争を戦い、2000万人の存在を与え、300万人の損害を受けた。その畏れ多さを反省するためには62年はまだまだ短すぎる。このまま謙虚な姿勢でなお100年河清を待つべし。
そのうちに世界も、頼みの人間界も滅びるだろう。

Monday, August 13, 2007

アア伝統の松竹映画市川昆監督の「映画俳優」を観る

降っても照っても第44回

午後からはまたしても紺碧海岸に遊泳し、夕べには古式豊かに御霊の迎え火を執り行ったのであるが、夜寝かれぬままに新藤兼人原作、市川昆監督、吉永小百合主演の「映画俳優」という映画を観るともなく見ていて、成程これは名優田中絹代と溝口健二監督を題材にしたお話であるかと分かったけれど、永遠の大根役者である吉永小百合や溝口を演じるガッツ菅原文太や脇役の森光子、石坂浩二、渡辺徹などが陸続と登場して松竹と日本映画の黄金時代のなつかしき思い出を川の流れのようにとうとうと描き流すその手法はさながら蒲田時代を扱った山田洋次の「キネマの天地」を再現するようなクソリアリズムの再現であり、そういえばこの映画にも生真面目な中井貴一が出演しており、一般的に生真面目が悪いというのではないけれど、日本映画の大道がいぜんとして事実を事実としてありのままに描くことであり、映画製作のありようと観衆への感興伝達の手法としてはそれしかないと頭から決め込んでしまうやり口、猫の本質を描くには猫を映し出しさえsればよいとする手法にはは最初から限界があって、そのことは本作で最後に取り上げられている溝口の「西鶴一代女」の感動的なシーンの再現においても変わることがなく、しかしそこはそれさすがに才人市川昆だけにワンカット、ワンカットの緊張に富んだ日本的「間」を演出することに力を尽くし、最後の最後の突然のカットアウトにおいて全編のクソリアリズムが一種の象徴に化すという離れ業を試み、在来の凡庸なる邦画監督とは鋭い一線を画して只者にあらざる片鱗を示したが時既に遅く、田中vs溝口の男と女のドラマツルギーのつばぜり合いの愛欲と争闘の本質にはたったの一指も触れることなく全編は唐突に終了したのであった。

Sunday, August 12, 2007

カトリック雪ノ下教会

鎌倉ちょっと不思議な物語71回

私の家はキリスト教の新教、いわゆるプロテスタントであった。幼い頃はまじめに日曜学校に通って、ルター以来のピューリタンでストイックな精神に多少の影響を受けたと思う。

そのピューリタンでストイックなところは教会の簡素な造作に現れており、やたら装飾的なカトリックと違って祭壇のしつらえが簡素である点を私なりに評価していた。カトリックの礼拝に出たことはないが、女性がヴェールをかぶったり、キリストの母親を聖母マリアと称してむやみに崇め奉ることに対する抵抗はいまでもある。

生母を聖母と聖別するのは勝手だが、私は処女だのに懐胎した妻に対する自他の疑惑や不審の念にじっと耐え、キリストの生誕を男らしく受け止めた父ヨセフのほうによっぽど共感でしたし、いまもそうである。

などと、結局は無神論者の私が、神をも恐れぬ暴言を吐いてしまったが、このカトリック雪ノ下教会は1958年(昭和33年)に「絶えざるお助けの聖母」を記念して建造された鎌倉最大の教会である。

そして聖堂外側正面の壁画は、この聖母のモザイク画をフューチャーしているのだが、この金色の装飾が私にはなぜかサラセン(イスラム)風に見えてしまうのであった。

この教会の突き当りの左側には、桃山・江戸初期の鎌倉の殉教者を悼む展示がある。いつか紹介する機会があるかもしれないが北鎌倉の光照寺は時宗遊行寺派の寺であるが、山門の欄間には隠れキリシタンゆかりのクルス紋が掲げてある。

おそらくこの光照寺や極楽寺に潜んでいた初期基督者たちが摘発され極刑に処せられたのであろう。
私はこの恐ろしい拷問の図を眺めながら、到底信仰者にはなれないと改めて悟ったのであった。

Saturday, August 11, 2007

旧安保小児科医院

鎌倉ちょっと不思議な物語70回

鎌倉には景観重要建築物が28箇所あるが、そのひとつが平成7年まで小児科病院だったこの建物である。

この病院は夏目漱石が亡くなった翌年の1917年(大正6年)に小町で開業したが、関東大震災で倒壊し、この四つ角の地で再建された。御成通りのシンボル的な存在である。

この建物の特徴は3方に設けられた切妻屋根とハーフテンバー様式の壁である。
建物内部は開業当時の医院の姿がそのまま残っており、特に天井のウサギとニンジン、診察室の鶴の漆喰細工は子供の患者に対する医師の優しい心根をあらわしているようだ。

ちなみに御成町、御成通りという名前は1899年(明治32年)に明治天皇が皇女のために建てたご用邸に由来している。天皇や皇族が御成りになったことから「御成町」の町名がつき、商店街も「御成通り商店街」と呼ばれるようになった。

以上、大半を鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料から引用しました。

Friday, August 10, 2007

花火と海水浴

花火と海水浴

♪バガテルop25

昨日は恒例の鎌倉花火大会だった。車で駅前まで送ってもらい長男と裁判所前の低い塀に腰掛けてしばらく見物してから豊嶋屋の前の臨時バス停まで歩き、八景行きに乗って帰宅した。今年はあまり観客が多くないのがとても良かった。

一の鳥居と二の鳥居、それに八幡宮前の三の鳥居下が絶好の見物場所である。なぜだか花火はうまく写真写らなかった。

そして今朝は6時半(家人は6時)に起きて、お茶だけ飲んで葉山に行き、7時から芝崎の海にぷかぷか浮かんで9時に駐車場を出発、逗子と材木座と由比ガ浜の海岸沿いに走ってさきほど10時に帰宅した。

つまり海でおむすびを食べにいったわけ。

今日はものすごい干潮で、岩場には魚やカイやウニがたくさんいたが、ここは海洋資源を保護しているのでそれらをみだりに獲ってはいけません。

空青く、海青く、心まできよらかに洗われる楽しい海水浴であった。

♪この夏はウニを獲らずに帰りけり

Thursday, August 09, 2007

網野善彦著作集第13巻「中世都市論」を読む

降っても照っても第43回

毎日暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
私の家は冬は隙間風が入って寒いけれど、夏は極めて快適そのもの。エアコンなど1台もないのに、このおんぼろ木造モルタルには冷風がびゅんびゅん吹き込んで、セミたちがが盛夏のオペラを朗々と歌い上げています。

さて閑話休題。

2004年2月27日に惜しまれつつ76歳で亡くなった偉大な歴史家、網野善彦の著作集が、遂に岩波書店から刊行されはじめた。

氏はどんな短い文章にも深く刻まれているそのおおらかな人柄とゆたかなヴィジョンで私たちを力強く抱擁し、見知らぬ未来に向かって羽ばたく力を与えてくれるけざやかな師表のひとつであった。
ついこの間の石井進もそうであったが、わが歴史学会は才能豊かなエースを立て続けに失ってしまった。されど人は死しても著作は残る。せめて遺された全18巻を心ゆくまで味読したいものである。

さて第1回配本は「中世都市論」であるが、読んでわくわくするような論文がたくさん並んでいる。
二番目に置かれた論文「中世都市論」は1976年の初出であるが、この論考はその後の著者の代表作「無縁・公界・楽」を生み出した淵源をなしている労作で読み応えがある。

「公界」とはもともと中国の禅に由来する言葉で、俗縁を断ち切って修行する場をさしていたらしい。それが戦国期の日本で独特な意味を持つようになり、「無縁」と同様既存の権力によるイエ的、私的支配、保護、扶持等の縁と無関係な場や状態を表すようになった。

例えば能楽者や遍歴する陰陽師たちは「公界衆、公界者」と呼ばれ、河原、大道、道路などは「公界」であるがゆえに耕作、売買してはならなかった。「楽」も公界も同義である。

堺、桑名、大湊などと同様、わたしんチの近所の相模の國の江ノ島は室町時代には「公界所」と呼ばれる一種の「自由都市」「アジール」であったが、著者は「楽津」「楽市」「公界」の3点セットこそ戦国期、日本中世の自治都市のキーワードであると主張する。

また巻末におかれた「都市の起源」は静岡県磐田市における一の谷遺跡(結局破壊された)にかかわる講演であるが、まず律令国家の成立にとって重要な役割を果たした国府の置かれた場所が、太古の原日本人にとって「聖なる土地」に置かれていたことを指摘している。恐らくこの指摘が著者の甥である中沢新一による一連の「地霊考古学論考」を生み出したのではないだろうか。

さらに著者は河原、中洲、浦、浜、山の根、境、峠など、聖なる世界と俗界の境界に都市と墓地が派生したと説く。そういえばわが鎌倉は町全体が墓場である。聖なる地に墓ができるのは当然のことだが、ではその同じ地にどうして市が立つのだろう? 

交易するためには物が物として流通する場が必要である。そこでおのずから「市」という場所が必要になってくる。ところが前述したように、当時の人々は河原や中洲は世俗を離れた神仏の支配する聖なる場所と考えていたので、この特別な場に入った人も物も人と人とが濃厚に結びつかないで「さらさらと」ニルアドミラルに交換できる。
交換、交易はそういう物と人とが切れる状態=「無縁」という条件、があってはじめて可能になった、と著者は勝俣鎮夫の見解を紹介しながら説明する。

このようにして神仏と世俗の境界には墓と市が立ち、そこにはさらに津や泊のような港ができ、宿も、関もでき、神社や寺院も建てられる。
そして聖なる市には聖別された人々、たとえば「道々の輩」と呼ばれた芸能民や手工業者、商人、漁労民、廻船など農業以外の生業にかかわる職能民が次々に各地からやってきて徒党を組むようになり、これら無名の民草が、神や天皇に直属し、律令社会の権力者からある程度自立した「神人」や「供御人」となっていわば聖別された特権を与えられるようになったのだが、これこそが中世日本における自治都市の起源であると著者はいう。

実際あの千利休の経済的基盤は、阪和近辺の漁港からの収益であり、その権益があればこそ利休は秀吉の横暴と戦うこともできたのである。(とこれは著者ではなく小生の想像です)

よく知られているように、ヨーロッパの自治都市では(マックス・ウエバーが「プロテスタンチシズムの倫理と資本主義の精神」などで説いたように)、金融・商業・職人制度手工業、さらには初期資本主義の発展をキリスト教が支えた。
わが国の場合にも古くは比叡山延暦寺、時代が下がると鎌倉新仏教がこの自治都市を強力に支援し、真宗、一向宗は寺や道場自体を聖なる都市として囲い込み、世俗の権力者にたいする武装蜂起と下からの革命を実行するに至るのである。

しかしこのようにして列島各地で確立された自由な自治都市郡は、14世紀の南北朝の動乱と織豊政権の成立によって古代の神仏の後ろ盾を喪失し、「道々の輩」たちはその政治的・経済的実権を失っていく。

信長や秀吉や家康は一向宗のみならず禅宗もキリスト教も徹底的に弾圧し、宗教をほとんど絶滅させた段階で江戸幕府が成立した。このように古い神仏の権威が崩壊し、新宗教がすべて殲滅されていく段階で、かつてトレンディな都会人として尊崇されていた非人、河原者、遊女、傀儡をはじめとする「神人」や「寄人」「供御人」に対する社会全体の蔑視が固定化されるようになり、ここに現代の被差別部落の淵源があると著者は指摘するのである。

Wednesday, August 08, 2007

四方竹

鎌倉ちょっと不思議な物語69回

ここは朝比奈の切り通しの入り口である。

右側に高台があって最近まで土建屋が不法に占拠し、石材置き場に使用していたが、市民と市の勧告に従って更地に戻した。それがもしかすると私が平成十三年に意を決して行った市長への陳情の成果だとしたらとてもうれしい。

さてここは、梶原景時によって将棋の最中に討たれた平広常の邸宅跡と伝えられる。

広常は頼朝騎下最大の兵力を誇ったが、その幕府帰参の時期が遅れたことと、その傲慢な態度が頼朝周辺の忌諱に触れて景時に暗殺されたのである。

広常の墓は古来2箇所あるといわれてきたが、その1箇所は杳として知れない。私はもうひとつの場所に心当たりがあるが、それも私の死と共に地上から葬られることになるだろう。歴史上の人物の伝承などまことに儚いものである。

写真はその広常を悼む鎌倉名代の四方竹の群生地。その直下に太刀洗の泉水が流れる。

Tuesday, August 07, 2007

青山真治の「サッド・ヴァケイション」を観る

降っても照っても第42回

30度を超える猛暑の中、私は街頭で死すとも可也の悲壮な決意で東京まで出撃し、青山真治という人の「サッド・ヴァケイション」という映画の最終試写を見た。

この映画は北九州を舞台にした北九州語による北九州映画である。最近奈良での介護をフォーカスした映画がカンヌで栄冠を獲得したように、個別を深くうがつことこそが世界の普遍の地平にいたることを、このクレバーな監督は熟知しているのである。

最近の日本映画が、たとえ地方を主要な舞台としながらも、そのほとんどが本質的に「東京的映画」であることを思えば、このローカルに徹した環境設定が、冒頭に出てくる中国人密入国事件とそれが引き起こす多彩なエピソードを含めて、この映画の独自性を生み出していると思った。

次にキャメラの視点がかなりドキュメンタリー的であることも、この映画の特徴である。とりわけ冒頭の夜の密輸船のざらざらした触感と恣意的なヴィジュアル処理は映画的であるよりはテレビ的で、こういうキャメラで全編を統一していたら、という望蜀の嘆もないではない。

第3に、この映画のプロットは、かなりめちゃめちゃである。未見の観客のためにここで詳しくは書けないが、片腕のない暴力団員が出所後に6人を殺して自殺した男とか、その暴力団員が自殺したからといって、その暴力団員の知的障碍を持つ妹と共に10年間逃走する男(じつはこれが本作品の主人公)とか、バスジャック事件の生き残り家出少女とか、いろいろな訳と陰のある男女が次々に登場し、突然恋をしたり、突然殺人を犯してしまったりする。まるで荒唐無稽である。

しかし作者は(監督、脚本も青山)プロット自体はどうでもよく、そんな荒唐無稽の物語の奥底に流れている現代人の孤独と漂流感覚そのものを慈しみをもってワンカット、ワンカットなめるように描き出そうとしている。

このような手法は、かつてJ.L.ゴダールがもっと徹底的に、もっと即興的に、もっとクールに敢行したものであるが、青山はその道をふたたび歩もうとはしない。その反対に、人生の行き場を失った人たちのために、なんとなんと、新しい家族やアジア的共同体への夢やあこがれを、それがシャボン玉のような幻想であると知りつつ、確信犯的な希望をもって提示するのである。

私は「悲しい休暇」という題名の二時間を超える長大な映画を観ながら、青山真治は武者小路実篤の「新しき村」を、映画で実行しようとしていると思った。

最後に余事を3つ。

その1
この映画は、浅野忠信、石田エリ、宮崎あおい、板谷由香、中村嘉葎雄、オダギリジョーなどの豪華キャストが綺羅星?の如く出演し、それぞれ好演しているが、全員が無名の新人であったほうが原作の趣旨がもっと生きたであろう。

その2
この映画は冒頭のクレジットが、海外受けを狙ったのか日本語でなくなぜか英字の崩した手書きで出るので大変見にくかった。ただしその英語がKINNOSUKE NATUMEではなく、NATUME  KINNOSUKEという順番で正しく並べてあったことに感心した。
御一新以来長い歳月が経ったのに、いまなお盲目的に西欧人の真似をして、パスポートに姓と名をさかしまに書いたりして平気な人は、どこかでアジア人としての自分を見失っている。そういう意味ではあの夏目漱石でさえ文明開化に毒されていた。

その3
これは映画とまったく関係がない感想。昨日私(たち)は、12時30分の試写の開始をきっかり5分間待たされた。試写関係者が超大物映画評論家?のOすぎ氏の到着を待っていたためである。こうした例はときどき他の試写会でも起こるが、たとえ5分間とはいえOすぎひとりのために(その理由も知らされずに)じっと我慢して待っていた数十名の小物評論家?の迷惑も考えてほしいものだ。
5分間待ってもらったお陰でOすぎは大いに助かったわけだが、同じ5分間の遅れで次の試写や新幹線に間に合わなくなった人もいたかもしれない。天才と凡人双方の利害を悪平等的に調和させるには、定時に開始するに限るのである。

Monday, August 06, 2007

島田雅彦著「カオスの娘」を読む

降っても照っても第41回

島田雅彦はルックスも良いけれど、頭もとても良い作家なのでいろいろ考えた作品を書く。多彩な現代社会を切り取る多彩なアプローチってやつだが、それがうまくいった例はあまりない。

本作ではいま最新流行のスピリチュアル世界に侵入し、オカルト探偵ナルヒトという雅彦ちゃんを思わせる魅力的なキャラを創造することに成功した。

これに対するヒロインはわが鎌倉の女子高生、亜里沙だ。この美人で清楚で無辜の主人公が父親の因果が子に報いるというかたちで国際的な陰謀に巻きこまれ、拉致、監禁、暴行、強姦、陵辱の地獄に突き落とされてゆくあたりのサドマゾポルノチックな描写は、さすがに巧いものである。

オカルト探偵ナルヒトの生い立ちや祖母との魂の交流、そして平成きっての霊能者に育っていくあたりの描写もなかなか面白い。

しかしながらこの宿命の二人を結びつける雅彦似の反体制大学教授サナダが登場し、余命いくばくもない死病に冒されたサナダが若い殺人者亜里沙の敵に復讐し、彼女の未来を救おうと決死的テロルに乗り出すあたりから、この愛と政治の大乱脈物語はまるでおもちゃの人形劇のように漫画的となり、ついには自公連立政権の愚かな紅い絆のようにびりびりに引き裂かれていき、肝心要の物語の土台自体がかのミネアポリスの虚橋のようにがたがたに崩れ落ちていく。

はじめは処女の如く、終わりは狸と狐が沈没するタイタニックの甲板上で狂ったように走り回る、という哀れな結末とはなりにけり。

なお美輪明宏という気色の悪い人が、訳の分からない賛辞を書いているが、著者にはかえって迷惑ではないだろうか。やめてけれ。
されど、好漢島田雅彦選手の大いなる実験的精神には、絶大な拍手を贈ろうではないか。

Sunday, August 05, 2007

音楽鑑賞メディアは進化したのか?

♪音楽千夜一夜第24回

世間ではCDが売れなくなり、その代わりにi-tuneなどネットで音楽ソフトを買い、それをi-podなどで聴くというスタイルが主流になったそうでまことに慶賀に耐えない。

しかしmp3などの圧縮法を経由した音楽の音質はかなりひどいもので、私にはまだ昔のウークマンのほうが良い音であったように聞こえる。いまどきの若い人たちは元のソースの情報がかなり薄められた状態の音楽を、なにも弁別できずによろこんで耳にしているのではないだろうか?

げんに私は先日ロンドンで始まった07年PROMSのライブ録音を連日英国BBCのRADIO3で愛聴しているが、ヤマハの三万円のスピーカーを通して聴いてもこれは到底音楽といえるような代物ではない。

たとえば、リヒテルが弾くバッハの「平均律」を聴いてみよう。すると明らかにCDよりはカセット、カセットよりはLPで聴く同一音源の演奏のほうが、音楽的により豊富な情報と情念に満たされているように思える。
そしてもしかすると、そのLPよりも最高級セットで鑑賞するSPレコードのほうがさらに優れた音質かもしれない。


「昔のほうが良かった」というのはかつては年寄りの世迷言であったが、今では年寄り以外の人々もひそかにそう考えており、クラシック音楽の再生音についてもその例外ではないのではなかろうか?

そうしてみると、世の中も、人間も、退化こそすれ、進歩などはないとさえ思えてくる。

Saturday, August 04, 2007

鎌倉ちょっと不思議な物語68回

ハリス記念鎌倉教会

鎌倉駅の東口を出て右折し、海に向かってどんどん歩く。下馬四つ角を過ぎた右側のちょっと凹んだところに、ゴシック調の美しいこの教会が建っている。市の指定景観重要建築物である。

創建は1897年(明治30年)、当初は木造の聖堂であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、現在の聖堂が再建された。

名称の「ハリス」はアメリカのプロテスタント派の宣教師メリマン・ハリス氏の名前にちなんでいるそうで、ハリス氏は隣にある付属幼稚園の設立にも尽力したそうである。

建物の最大の特徴は正面のトレーサリーという装飾を伴った大きな尖塔アーチ窓など初期のゴシック風スタイルにある。

礼拝堂に入ると祭壇上部のステンドグラスが十字架を浮かび上がらせている。家具や調度品のほとんどが創設当時のものだが入口に傍にあるオルガンは比較的最近のものである。(以上鎌倉市シルバーボランティアガイド協会資料による)

Friday, August 03, 2007

由比ガ浜にて

♪バガテルop24

 今年2度目の海水浴に行ってきました。

少ない海水浴客を呼び込もうと懸命に声を張り上げる海の家のアルバイトさん、小さなボートに三人の子供を乗せて波打ち際で遊ばせるお父さん、強い風から幼い妹を守るために両手で抱いてやるこれも幼い兄……、風を一杯にはらんで猛烈な勢いで沖を快走するウインドサーフアー……今日も由比ガ浜の海はさまざまな夏の情景が繰り広げられています。

しかし台風5号の影響で海は荒れ模様。監視所がオープンする午前9時と同時に遊泳中止になってしまいました。

天候不順な日に鎌倉・逗子近辺で海水浴する場合は、逗子海岸がお薦めです。ここはまるで湖のような内海なので材木座や由比ガ浜などが遊泳禁止でも大丈夫な場合があります。

現に今日も材木座や由比ガ浜が遊泳禁止なにの遊泳注意の黄色い旗が翻っていました。私たち3人は1時間足らず海岸にいて、おむすびを食べ、逗子池田通りのお気に入りの八百屋さん「うらら」でスイカを買って、いま帰宅したところです。

♪ウララ、ウララ、ウラウララア……

Thursday, August 02, 2007

山吹の里

山吹の里

遥かな昔、遠い所で第18回

いづれの御時にか、私は早稲田の裏の裏にある都電に乗って飛鳥山の麓にある滝野川までの存外に長い時間を行き来していた。

その途中には大塚や巣鴨や雑司が谷の墓地などもあったが、帝都の北の滝野川一帯はごちゃごちゃした庶民の町であった。

私が下宿していた家には外語大や東大やその他の学生が地道な学生生活を営んでおり、自堕落に生きているのは私くらいのものだった。この下宿には大家が大事にしているみなこさんという一人娘がいて、私らは毎晩みなこさんの容貌や人となりや彼女の将来の人生行路につい深夜まで大声で語らいあい、一家に迷惑をかけてばかりいた。

いちどそんな真面目と不真面目の学生こぞって近くのバー「黒猫」に行ったことがあるが、それが私の酒席初体験であった。こんな気色の悪い空間にうごめく醜悪な女どもと吐き気のするようなアルコールに、私は大人の世界の饐えた臭いを嗅いだようだが、そこへは二度と足を向けなかった。

週に1度くらいは学校に行ってもみたが格別の事件もなく、私はまたしても持病の原因不明の微熱に悩まされ、退屈きわまりない日常をもてあましていた。その数ヵ月後に熱にうかされたような突然のクー・デタが襲ってくるとは夢にも思わずに、倍賞千恵子の父親が運転するチンチン電車に揺られていたのである。

昨日紹介した亮朝院の北の、神田川にかかる面影橋のあたりは、太田道灌の「山吹の里」の伝説が残されている。
♪みのひとつだになきぞ悲しき、という例の歌だが、太田道灌も世間でちやほやされる割には悲惨な最期をとげたものだ、と思いつつ私は早稲田界隈にながの別れを告げた。

Wednesday, August 01, 2007

亮朝院

遥かな昔、遠い所で第17回&勝手に建築観光24回

私は早稲田界隈から次第に遠ざかりつつある。
ここは最初に訪れた中原中也の愛の巣から遠からぬ距離にある亮朝院である。江戸時代には有名であったが、この節はほとんど知られていない日蓮宗の古刹である。

創建者の日暉上人は、身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山町付近に七面尊像をまつり、明暦元年(1655年)には将軍家の祈祷所となったが、寛文11年(1671年)、境内が尾張家の下屋敷となったため現在地に堂塔を移し、文化文政期には「江戸名所図会」に描かれているような大規模な寺となったという。

正面の七面堂は当時のもので、「高田の七面堂」や門の色から「赤門さん」とも呼ばれている。七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対(区指定文化財)は、宝暦2年(1752年)作の珍しい石造りで迫力がある。中也と泰子も一緒に眺めたかも知れぬ。

Tuesday, July 31, 2007

坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア

坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア

遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回


私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。

この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。

正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。

中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。

また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。

その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。

最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。

ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。

さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。

例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)

 1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」 
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。

ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
 などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。

Monday, July 30, 2007

小澤征爾音楽塾の「カルメン」を聴く

♪音楽千夜一夜第23回

小田実の死と自公を葬送する嵐のような1日が終わろうとする夜、私は鎌倉芸術館へ行ってビゼーの「カルメン」を抜粋で聴いた。小澤征爾音楽塾オーケストラ&合唱団の演奏である。
はじめはひさしぶりに小澤の指揮に接することができると思っていたのだが、なんのことはない彼が指導する若手のスタッフによる演奏会であった。その代わりといってはなんだが、病気の癒えた御大が演奏の前後に元気にステージにあがって挨拶をするというサービス振りに満員の聴衆は熱狂していた。

小澤といえば今からおよそ20年前、ふぁっちょんビジネスとチンドン屋稼業に飽いた私が、再び中学生時代に好きだったクラシック音楽に夢中になっているのを知ったキャニオンレコードのクラシック担当のNさんが、畑違いの私を同社に引き抜うこうと画策されたことがあった。

説得されてだんだんその気になっていたとき、彼女が担当している小澤とキャスリーン・バトルの芸術家特有のわがまま?についてため息をつきながら語るのを耳にした私は、「こりゃ駄目だ。とてもついていけない」と痛感して転職を断念したのであった。周囲を攪拌し牽引する小澤の猛烈なエネルギーはいまも変わっていないだろうし、黒人であるコンプレックッスを裏返しにしたバトルの放恣な自己主張は彼女のメットからの永久追放という結果を生んだ。

さて昨夜の演奏の指揮者は鬼原良尚という87年生まれの若手であったが、まるで若き日の小澤そっくりのモンキースタイルで、前進するブルドーザー、戦うボクサーのように前奏曲に取り組む。

テンポが異様に速く、熱気であおられたオーケストラは、まるでブラバンのように咆哮する。こんなにうるさくてやかましい暴音はむかしモスクワのオケとロジェストベンスキーで聴いて以来だ。はるか遠くの3階席にいた私は、耳をふさぎながら思わず「おいおいオペラはスポーツではないよ」と言いたくなった。

「恋は野の鳥」、「闘牛士の歌」などの名アリアが続々登場するが、鬼原の指揮は師匠の小澤の悪しきエピゴーネンと化し、まるでヴェートーヴェンの7番を指揮するように、カルメンを指揮するのである。
しかし音楽のタテの線は常に正確無比に守られ、いかなる局面においてもいっさい破綻をしめさない。音楽の外面的な形式の平仄は終始合っているが、カルメンのドラマや内面性はどこにも感じられない。

だからあのフルートとハープで始まる第三幕への前奏曲のそっけないこと。これほど心に沁みないこの曲を私は生まれてはじめて聴いた。ビゼーが聴いたら「俺はこんな無味乾燥な音楽なんか書かなかったぞ」とさぞや嘆いたことだろう。

ビゼーの音楽とは無関係に怒涛のように流れていくおびただしい音符たち……、それは小澤の指揮するサイトウキネンなどと同じ性質のものだ。魔法使いの弟子はあくまで魔法使いと同じメロディを奏でることを知らされた私は、思わず慄然とした。

そして最後は皆様お待ちかね、カルメン(手嶋真佐子)とドンホセ(志田雄啓)の愛の破局である。猛烈にドライブされる最強音の頂点で花火のようにはじけ散ると、案の定超満員の聴衆は口をあんぐりと開き、滂沱の涙と涎を垂らしつつ爆発的な拍手を贈ったのであった。
どうにもこうにもこの発熱についていけない駄目な私を除いて……。

小澤の恩師である斉藤秀雄は「型より入れ。型より出よ」と小澤に教えた。
そこで私は鬼原にいいたい。「小澤より入れ。しかし一日も早く小澤より出よ」と。

Sunday, July 29, 2007

會津八一記念博物館にて

遥かな昔、遠い所で第15回&勝手に建築観光22回

昨夜は醜い國を代表する醜い男の連立政権に対し良識あるひとびとの鉄槌が下され、久しぶりにいい気持ちだった。

さて思いは現世を遠く離れてまたしても遠い昔をさまようのである。
たしかここら辺が早稲田大学の図書館だったとうろうろ探しているといつのまにやら會津八一記念博物館に変身していた。

ここはあの根津美術館で知られる今井兼次の設計である。1925年に竣工した大閲覧室部分は、自然光がさしこんでなにやら厳粛な雰囲気が漂っていたが、私は閉架式のこの図書館をほとんど利用したことがないが入ってみると統一のない雑多なコレクションが館内を埋めていた。そのすべてが會津八一の収集物ではないらしい。

會津八一は新潟市古町生まれ。長くこの大学の美術の教授をつとめ1956年75歳で死んだ。歌人としても知られている。

都辺をのがれ来たればねもごろに潮うち寄するふるさとの浜 八艸道人

なんでもこの大学は今年が創立125周年だそうで、それを記念して吉村某氏のエジプト展をこの博物館で堂々開催するらしいが、私はそういういかにも客寄せパンダ風の企画商売第一で考え出すこの学校がますます嫌いになる。

Saturday, July 28, 2007

秋山祐徳太子著「ブリキ男」を読む

降っても照っても第40回

今年72歳になった天才的アーチストの自伝である。最初の60年安保闘争時代のハチャメチャな回顧も面白く、二回の都知事選挙の話や新宿青線地帯の乱痴気騒ぎも抜群に面白く、終わりごろの「放尿論」なども抱腹絶倒ものである。(余談ながら作家の風人さんの名前が突然出てきてびっくりさせられる)

つまりどこを取り出して読んでも破格の面白さが満載の自叙伝であり、しかも著者がまったく受けを狙って書いてところが素晴らしい。この人こそ生まれながらのアーチストではないかと思われる。

 美大の卒業制作で最高賞に輝いた著者の彫刻「ブリキの飛蝗」は、後世に燦然と輝く不滅の名作であり、これが彼の芸術家としての出発点になった。

次はかの有名な「グリコのハプニング」である。これは著者がたまたま横須賀線に乗っていたとき、蒲田附近で大きなグリコの看板を見た瞬間に着想をえたという。

「看板に描かれた少年の格好で銀座通りを突っ走ったらどうだろう。グリコのおまけが街を走る…、これこそ私がいままでやって来たハプニングのなかでも代表作になるかもしれない」

そして事実その通りになる。

翌日ランニングシャツとパンツ1枚で両手を挙げながら銀座4丁目の角をまがり数寄屋橋公園を通り過ぎる著者の勇姿を見た大日本愛国党総裁赤尾敏氏は、その演説を中断し、「いま日の丸を背負った青年がここを通って行った。まだまだ日本にはいい青年がいる」と言ったそうだ。

赤尾敏氏と著者の出会いはさらに続き、東京都知事選でともに立候補し、ともに落選するのだが、候補者説明会のあとで著者が赤尾敏氏に銀座の不二家に拉致され、なんとチョコレートパフェをおごられるシーンも忘れがたい。

ちなみに今は亡き赤尾敏氏の兄上は長らく鎌倉御成で耳鼻科を開業しておられ、私のははも家内も何度か治療してもらったそうだが、(あまり腕前は上手ではなかったそうだ)入り口に数本の松が茂ったその昭和初期の古風な洋風住宅が先日無残にも取り壊され、今日も道行く人の涙をさそっている。
 
 それはともかく、本書の終わりに近いところに突然「放尿論」というのが出てくる。このなかで著者は、

「温泉でビールを飲んで尿意を催した私は大浴場の浴槽のなかでで突如尿意を催した。そこで突端を湯面から少し突き出して思い切り放尿すると、尿は噴水のように高く上がり、私は一人歓声を上げた」

と楽しげに書いているが、この楽しさに心から共感できる人だけが著者の友であり、本書の熱烈な愛読者であるといえよう。

Friday, July 27, 2007

気色の悪い日本語

♪バガテルop23

とかく最近の日本語は、私のような世捨て人には格別に不可解である。

その1 立ち位置
『ミラノの3Gと称されたジャンフランコ・フェレが亡くなったが、彼の「立ち位置」はジョルジュ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチとは少し違っていた…』
などと思わせぶりに使われるのだが、活字の見た目も、発音もはなはだ気持ち悪い。
いっそ「立ちションの立ち位置」なら許せそうな気もしますが、それにしても昔から「立場」という立派な日本語があるでしょうに。

その2 読み解く
この奇妙なエセインテリ?言葉は、そもそも出版社の新刊書の腰巻惹句から始まり、つい最近まで乱用されていたが、さすがに少し下火になってきたようでほっとしている。
例えば、
『安いウナギ今年が最後か? マリアナ海溝に潜む生物の謎を本書が読み解く』
『あのアユが、森理世が、ほんとにほんとの日本の美女? 激変する美意識の真相を読み解く』
のように安直に使用されるので、私はこれを「腰巻汚染」とはらり読み解いている。

その3 回収される
回収されるのはペットボトルだけかと思っていたら、ツエムリンスキーまで回収されることになっていたとはついぞ知らなんた。とうとう
『当夜の公演を聴いて改めて感じたのは、ツエムリンスキーを「絶賛批評」的なレトリックへ回収する難しさである。』 
などと、したり顔で書く音楽学者が登場したのである。(7月27日朝日夕刊文化欄岡田暁生氏関西フィル演奏会批評記事より引用)
ひとあじ違う言い回しにひきつけられた私は、岡ちゃんのこの気持ちの悪い文章を仕舞いまで丁寧に読んだが、結局どこのどいつがツエムちゃんを絶賛批評的なレトリックから回収することに成功したのか、脳力に超弱い私にはついぞ分からなかった。
岡ちゃんが自力で開発した言葉なのか、それともどこから盗用したのか知らないが、岡ちゃんはきっとこの最新流行の言葉をどこかで1回使ってみて、それから回収してみたくて仕方がなかったのだろう。 どーだ、やったぞ、決まったぞ! ばんざーい! 
てなもんだろう。極貧にあえぐ三流ライターとはいえ、私だって筆1本で渡世を渡る文筆業者だ。岡ちゃんのそのうれし恥ずかしい気持ちは分からないでもない。
されどこんなちょいと気の利いた当節風の言葉は、あと三年もすれば誰も見向きもしなくなっていると、どうして批評家ともあろう岡ちゃんは気づかないのだろうか? 
もしかして岡ちゃんは、今を去る20年前に「おしゃれなこと」を「ナウイ」とか「イマイ」とか言い、つい先ごろまで「おされな」などと言い換えてマンネリに陥るまいとあがいていた人々を先取りじゃなくて、後追いする人ではないだろうか?

その4 指摘か主張か
作家の柴田翔氏が、最近若者よりも大人の言葉が劣化している証左として、ある新聞が「談合に天の声、検察指摘」と書いたのがけしからんと怒っている。(日経7/24夕刊)
もし新聞が中立不偏の立場なら、検察と新聞の立場を同一視してはならず、(その意見には賛成)、その見出しは「談合に天の声、検察主張」でなければならない、というのである。 
されど、もとより後者のほうが分かりやすいと私も思うが、前者の表現が新聞が検察に肩入れした証拠になるのかどうか。別に指摘と書いたってそれほどの大事とは思えない。
しかしなんといっても言葉の専門家がおっしゃることだ。きっと私も、さうしてくだんの新聞記者も、左脳が超超劣化しているのだらう。

Thursday, July 26, 2007

レイモンド・カーヴァー著「ファイアズ(炎)」を読む

降っても照っても第39回

原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。

ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?

それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。

ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!? 
諸賢の所見をお伺いしたいものである。

強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。

なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。

Wednesday, July 25, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅・中国編」を読む

降っても照っても第38回

紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。

やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。

その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。

「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。

達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。

しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。

その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。

しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。

このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。

Tuesday, July 24, 2007

小さな勇気と大きな偶然

鎌倉ちょっと不思議な物語68回

パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。

私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。

八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。

名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。

余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
 
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」

と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか! 

これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。 

当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。

私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?

かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。

Monday, July 23, 2007

出てきた携帯

♪バガテルop22

これで通算4回目か、それとも5回目になるのだろうか? 先週工芸大からの帰途、たぶん新宿から戸塚間の電車内で携帯を落とした私に、およそ一週間経ってなんと小田原警察から拾得の通知があった。正確には小田原警察からの通知を受けたauから私宛に小田原警察へ出頭せよとの通知書が配送されてきたのである。

確か前回は新橋で落としたやつが三鷹で出てきて真夏の街道筋を汗だくでトボトボ歩いてはじめて三鷹警察まで行ったのだった。なんでも親切な若い女性が届けてくださってというので、その女性にひとめお会いしてお礼を言いたいと申し出ると、三鷹署員は私に不純の動機があると思ったのか、急に疑いの眼を向けて、「それは不可です」と冷たく拒んだことをはしなくも思いだした…。

ともあれ出てきたことは慶賀に耐えない。(なんでも2割の人が携帯を落とした経験があり、8割が本人に無事返っているそうだ)
それで昨日は新宿の文化の夏休み前の最後の授業が終るや否や湘南新宿ラインの小田原行きに飛び乗って小田原警察くんだりまで行って、平成十三年製造の苔むした携帯を受け取ってきたのである。

しかし、サラリーマンであった日の私ならばともかく、最近の私には携帯なんて無用の長物である。電車の中で携帯メールやゲームやワンセグにうつつを抜かす連中はほんとうにバカな亡国の民だと思っているので私は絶対にやらないし、電話だって妻以外にはほとんど誰からもかかってこないし、ましてこちらから掛けることもない。

ただ1)時計がなくても時間が分かる。2)以前母親が急死した折に役立ったことがあった。3)たった1度だけこの携帯に小学館から仕事の依頼があった 4)授業日に電車が事故に遭った場合、教務に連絡するには便利だろうと漠然と思っている…の4つの理由からなかなか捨てられなかった。

それで今回の紛失事件をきっかけに、百害あって一利しかないこの文明の利器を断固廃棄処分にしてもう携帯とは縁を切ろうと思っていたのだが、出てきたとなればまあ仕方ない。いちおうまた落っことすまでは可愛がってやろうと思った次第です。

でもよく考えてみれば今でもケイタイなどなくても構わないし、なかった時代のほうがはるかに良い時代だった。私はこんなくだらない玩具を発明して商売の具にした人を軽蔑こそすれけっして尊敬できない。私はケイタイ・ラダイストに賛同する。

Sunday, July 22, 2007

鎌倉ちょっと不思議な物語67回

前回紹介した鎌倉の農協連即売所のすぐ傍に、米国のアウトドアアパレルメーカーのパタゴニア社の日本法人がある。

この会社は世界で初めてすべてのコットン製品をオーガニック(有機栽培)に切り替えたり、他社に先駆けてペットボトルからの再生フリースを販売するなど品質と環境を重視する経営で知られるが、“勤務中好きな時間に社員をサーフィンに行かせる”会社としても有名だ。

1938年生まれの創業者イヴォン・シュイナード氏は、登山、サーフィン、フライフィッシング、ダイビングなどを楽しむために1年の半分は世界中を渡り歩いているが、その独特な経営理念はなかなか興味深いものがある。海とスポーツと湘南とファッションを愛する人にはお薦めしたい会社である。(詳しくは話題のフリーマガジン「オルタナ」のインタビュー記事などを参照のこと)

私の近所にもサーフィン大好き人間が住んでいて、台風が来ると水曜日でもないのに朝から海岸に出かけてビッグウエーブを楽しんでいるようだ。仕事なんか忘れて海と戯れる快楽の日々……とは超うらやましい話だ。

Saturday, July 21, 2007

瀬戸内寂聴著「秘花」を読む

降っても照っても第37回


世阿彌によれば、推古天皇の御世に、聖徳太子が渡来人の秦河勝に命じて天下保全と諸人快楽のために66番の遊宴を行わせ、これを申樂と称したのが能のはじまりとしている。

申樂はその後河勝の遠孫が相伝して春日・日吉神社の神職となり、和州・江州の輩が両社の神事に従うに連れて盛んになったと、当の世阿彌が「風姿花伝」に書いている。

当初は申樂よりも農事から発した田楽のほうが優勢であった。けれども足利義満公から肉体的・精神的な寵愛を受けた世阿彌は、父観阿弥のあとを継いでわが国の能芸術を大成し、あまたのライバルと闘って申樂と自家観世流の優位を確立したのであった。

しかし栄光の頂点にあった世阿彌は、72歳のとき、突如あの残虐非道の将軍義教によってなんの罪咎もなく都から佐渡に流された。ちなみに世阿彌同様の悲運を被った人々には、菅原道真、源高明、小野篁、在原行平、業平、光源氏(物語人物)、京極為兼、日野資朝、後鳥羽院、順徳院、崇徳院などがある。

後世の検証によって、世阿彌は翌73歳までは同地で生存していたと認められるが、その後の生涯は杳として知れない。この大きな謎に挑んだ著者が、この偉大な芸能感人の最晩年の足跡を「幻視」したのが、この小説である。

著者は資料や先学の研究・論文、現地調査に学びつつも、豊富な恋の遍歴と僧侶としての人生経験、そして作家特有の自由な空想のはばたきによって、「そうあったかもしれない能楽者の最後の軌跡」を、老成した筆致で、あたかも自作の謡をうたい、即興の舞いを舞うように、自在に書き連ねている。

またそのもっとも大きな創作の工夫は、老いたる能楽者に奉仕する若き女人を配したことであろう。彼女は一休に仕えた森女の如く落日の世阿彌の生と性をほのかに彩るのである。

Friday, July 20, 2007

鎌倉市農協連即売所にて

鎌倉ちょっと不思議な物語66回

ここは昭和三年、あの中原中也が亡くなった翌年に開設された鎌倉市農協連即売所である。

なんでも当時鎌倉にいた牧師から、欧州では農家の直接小売制度があると聞いた農家の人たちの有志がこの地で即売所をつくったらしい。もしかするとわが国で最初の地産地消システムかもしれない。

現在は平塚など鎌倉以外の農家も参加しているらしいが、四つのグループが四日毎に出店して正月の四日まで以外は連日8時から日没まで営業している。

終業時間が午後5時とか6時とかでなく「日没まで」というのが泣かせる。

天井には親ツバメが自分は絶対にえさを食べず、せっせと子供たちに運んでいた。これも当節の人間の親なぞが忘却してしまった真っ当な所業だと感涙を催す。

なお、よく東京のあほばかテレビがここを取り上げているようだが、すべての商品が他の八百屋より安くて品がいいとはいえないので要注意。

Thursday, July 19, 2007

モーリス・バレス著「精霊の息吹く丘」を読む

降っても照っても第36回&勝手に建築観光22回

1862年フランスのローレーヌ地方で生まれ、1894年のドレフェス事件ではゾラに反対し、1905年にはカトリック教徒と共に政教分離に反対し、20世紀初頭の青年層にアナトールフランスと人気を分かち合い、フランソワ・モーリヤックからポールニザンにまで大きな影響を与え、代表作「自我礼拝」で知られるナショナリスト作家モーリス・バレスの「聖なる丘」(1913年)が翻訳された。

バレスによればフランスには我々凡俗の民の魂を無気力から引き出す精霊の息吹く地がいくつかあるそうだ。

それらは、あの奇跡の地ルールド、サント・マリーの浜辺、ダンテやセザンヌが描いたサント・ヴィクトワールの山、ブルゴーニュのヴェズレイ、ピュイ・ド・ダーム、エージーの洞窟、カルナックの荒地、ブロセリアンドの森、アリーズ・サント・レーヌとモン・オーソワの岬、あの有名な教会があるモン・サン・ミッシェル、アルデンヌの黒い森、ドンレミーの丘にあるシュニューの森、三つの泉、ベルモンの礼拝堂、そして教会の傍のジャンヌ・ダルクの家などだが、この小説の舞台であるローレーヌ地方のシオン・ヴォデモンの丘も霊感がみなぎる精霊の地であるらしい。

そして本書では、ノートルダム修道会に所属する熱烈な孤高のカトリック三兄弟の不退転の宗教的闘争が描かれているのだが、それは読者が読まれてからのお楽しみとしておこう。ただ惜しむらく篠沢秀夫氏の逐語訳翻訳は、現代日本語としてまったく消化されていない。

この本でモーリス・バレスは言う。「どこからこれらの地の力は来るのか? その効力はこれらの地の栄光に先立ってあったし、その栄光が消えても生き残るであろう。ある森のほとり、ある山頂、ある泉、ある牧場…、あたかも誰もまだその偉大さに気づいていない隠された魂があるように、このような精霊の地は世界中に無限にある。それらは我らに思考を停止させて心の最深部に耳を傾けるように命じる」と。

そしてこれこそは古くからガリアの地、ケルトに伝わる地霊“ゲニウス・ロキ”の働きではないだろうか? 

『東京の地霊』の著者鈴木博之氏によれば、ゲニウスはラテン語で「産む人」、ロキはロコ、ロクスが元の言葉で、場所・土地の意であり、ひいてはその土地の守護霊を指すラテン語であるという。従って“ゲニウス・ロキ”とは「人を守護する精霊もしくは精気、人や事物に付随する守護の霊」ということになり、ある土地から引出される霊感やその土地に結びついた連想性・可能性を意味する。

この“ゲニウス・ロキ”という考え方が初めて文学に登場したのは、英国の詩人アレグザンダー・ポープの1731年の詩作品で、地霊は「土地を読み解くすべての鍵」とされ、それ以後英国18世紀の美意識に大きな影響を与えたそうだが、それが大陸に上陸してケルト=ガリア=フランス=ローレーヌ地方の愛国的カトリシズムと20世紀の初頭に合体したものがモーリス・バレスのこの作品ではないだろうか?

そして私は建築に携わる行政やメガデベロッパーは、今こそポープ=モーリス・バレス=鈴木博之流の“ゲニウス・ロキ”という考え方を取り入れ、当節流行のいんちきスピリチュアル流とは一線を画した“聖なる土地の霊の声”に謙虚に耳を傾けるべきではないかと思う。 

都市の歴史は都市計画や建築ヴィジョンの歴史ではない。その土地の固有の歴史である。土地をひとつのテキストとして、その土地の歴史的・文化的・社会的な背景と性格を読み解くことこそが21世紀建築の使命ではないだろうか?

Wednesday, July 18, 2007

江國香織著「がらくた」を読む

降っても照っても第35回

45歳の美術史専門の翻訳家の女性とテレビ番組を制作する50過ぎの夫や18歳の少女と建築家の父親と祖母などが登場し、海外のリゾートやビーチのパラソルやヴィラや透明なグラッパやアマレットやオマール海老や、サワークリームを添えたキャビアやミラベルというジャムにすると美味しい果物やボブ・マーリーやセルジオ・メンデスや、伊勢丹で買ったタイツや逗子葉山のサーフィン屋や車のヴォルヴォ!や、現代絵画や、動く彫刻やらも続々登場し、その合間を縫って、己の欲望や快楽をとてもとても大事にしている主人公たちが、たとえ彼らが夫婦であっても、そしてお互いに深く愛し合っていても、突如どこかで魅力的な男や女と遭遇すると、たとえそれが昼であっても夜であっても、たとえそれが海や浜辺や陸地であっても、それがマンションや浴室やキッチンであっても、迷うことなくめいめいの性的欲望を満たし、それでもって恬として恥じず、それをもってますます己は美しい桜であるとうにぼれ、それでもって気だるい寂しさとか悲しみとかを覚え、そんでもってとうとうこの小説の主人公のひとりである大人びた美少女までが、何故だか今まで好きだった同世代の少年を突然捨てて、テレビ番組を制作する50過ぎの魅力的な中年のおじさまに恋をしてしまい、どうした親の因果がこの子に報いたのかは分からないが、「ホテルとか、自動車のなかとか、裸になれる場所に行って性交をしてみたい。どうしてもこの男の人とそれをしたい」とはっきり思うようになり、それが嵩じて「不届きな真似をしてほしいの」とその男の耳元でささやくにまでに至り、そんな露骨なことを言う(言わせる?)ほうも言う(言わせる?)ほうだし、「よおし分かった」とばかりに大喜びする男も男だと思うのだが、♪アカシアの雨に打たれて♪夜霧の西麻布シテイホテルに連れて行かれてご希望通り初体験し、最後に「これがそれか。そう思うと、私はなんだかしみじみした。自分の身体が2時間前までとはべつの物になった気がして、はじめてのそれを、原さんとできてよかったと思った」とつぶやくという、わが国にも半世紀遅れでやって来たフランソワーズ・サガン風女史による夢見るシャンソン人形のような、金平糖のような、スイーツのような、触るとポロポロ崩れてしまうパフェのような、益体もないももんがあのような、著者が自称するとおりの三文がらくた小説である。 

Tuesday, July 17, 2007

ある丹波の老人の話(37)

「第6話弟の更正 第5回」

弟はそれから大阪へ戻り、親戚を頼って今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったんで手馴れたメリヤス雑貨に変わりました。

ここで嫁をもらったんで、ようやく今度はかたぎになるかと思ったら、またまた性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃくちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ良くないこともやったとみえて、警察から私のうちへ弟のことを尋ねてくるようになり、ずいぶん心配させられたもんでした。

ちょうどその時、父の病が篤く、電報で知らせたけれどなかなか帰ってこない。ようやく帰ってきて臨終には間にあったけれど、これがまた隠岐から帰ってきたときの父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿でした。

あとで聞くと帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内のほうまで行って友達に帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということでした。

葬式のときは幸い私が夏と冬のモーニングをつくっていたので、夏の分を弟に着せ、ちょうど4月の花見時分やったのでどうにかカッコウがついたんでした。

Monday, July 16, 2007

ある丹波の老人の話(36)

「第6話弟の更正 第4回」

明治44年の退営後、私の弟は福知山の長町に家を買い嫁ももらって、なかなか盛大にメリヤス雑貨の卸売問屋をやっておりました。しかし、その資金をどうしたもんかは私にもようわかりまへん。

その頃の私の家は相変わらず貧乏だったはずなのに、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまたもうけて盛り返し、七転び八起きしたもんですから、あるいは調子のよいときに弟に相当の資金を与えたのかもしれまへん。

ところが弟は女房運が悪く、はじめの嫁は離縁し、二度目のの嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという分不相応のお大尽遊びなどをやってとうとう福知山で食いつぶしてしまいました。

それから京都へ出て、西陣の松尾という大きなメリヤス雑貨問屋の番頭に住み込み、そこで成績を上げて主家に信頼され、間もなく自立しておなじ商売の店を持ち、なかなかいいところまでやっておったんですが、またもや酒色に身を持ち崩し、手形の不渡りなどでたびたび窮地に陥り、再三私のところへ無心にきよりました。

この弟には私には内緒で妻がだいぶ貢いだもんどした。結局京都の店は持ちきれずに東京へ逃げた弟は、ここでもひところはいちおう成功しておったようですが、あの大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったそうです。

Sunday, July 15, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅・朝鮮半島編」を読む

降っても照っても第34回

インドと同様、いま韓国では仏教が熱いそうだ。

韓国の仏教はその9割以上が新羅の護国仏教であった華厳宗の流れを汲む曹渓宗だそうだが、奈良の東大寺がわが国の華厳宗総本山であることを思うと、改めてこの二つの国、地域の切断されえない「えにし」について認識を新たにせざるをえない。

ちなみに、かのスパルタに似た新羅の若衆宿花郎制度は、弥勒信仰で結ばれた熱烈な青年宗教教育軍事システムであり、そのストイックなライフスタイルは京都広隆寺の半跏思惟像のたたずまいや聖徳太子の倫理観にもつながっている。

しかし儒教、国家と一体になった韓国の仏教は、わが国の仏教やカトリックによくみられる“上からの規範に準拠する下々の信仰”とは形態を異にしていて、その大半が“民衆の主体的意思にもとづく信仰”である、と著者は指摘している。

幼年期を日本の植民地朝鮮で過ごした著者は、敗戦直後の平壌で母を喪い、ソ連軍による略奪、暴行、強姦の地獄をつぶさに体験する。
「ソ連軍が官舎に乗りこんできても虚脱状態に陥った父は両手を上げたままほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのを聞いてもそうだった」

そしてその父も、引き揚げ後の日本でうしなう。ここから「私たちはすべて一定、地獄の住人ではないだろうか」という著者の諦念にみちた人生観が生まれる。

「戦争中のみならず、私たちはいまも確かに地獄に生きている。しかしその一方でその地獄に差してくるかすまな光があることを信じる。現実に生きるとはそのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」

という著者の言葉に、私は共感を覚えた。

Saturday, July 14, 2007

梅原猛の「京都発見第9巻」を読む

降っても照っても第33回

読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。

比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。

私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。

またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。

それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。

最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。

延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。

そこで著者は訴える。

すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。

著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。

さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。

金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。

これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。

Friday, July 13, 2007

♪バガテルop22

先日の新聞報道によれば、東京都足立区の区立小学校が学力テストの集計から障碍者を除外して、健常者のみの成績を教育委員会に報告していたそうだ。

同区は学校選択制を取り入れており、成績上位校には入学希望者が殺到する。この学校では「学力実態」を知るためにそういうことをやったらしいが、「優秀な生徒」だけを集めようとこういうかさ上げ措置を行ったのではないのだろうか? 

まったくもって言語同断である。成績優秀者もそうでない者も、男も女も、そのいずれでもない者も、そのいずれでもある者も、日本人も外国人も、障碍のある者もない者も、宇宙人もネコも杓子もぎょうさんおって、それらを全部足して人数で割っての平均値であろう。

ところが足立区の教育委員会では、保護者に説明して了解を取れば校長判断で集計から除外することを認めているというが、これもおかしい。

この件に関して保護者に聞く必要などまったくない。それ以前の話だ。

実際にクラスのなかに存在している人間の能力を、その優秀さと無能さを含めて、ありのままに対象化すること。それが人間と教育の基本だからである。

障碍者を幻視しながら「なき者にして」でっち上げられた数値は、いくら高くともあのアウシュビッツでユダヤ人を「亡き者にしよう」と企てた「ナチ立純ゲルマン小学校」の通知表のウルトラスーパー偏差値にどこか通じるものがありはしないだろうか?

Thursday, July 12, 2007

河野多恵子の「臍の緒は妙薬」を読む

降っても照っても第32回

クラシック音楽の指揮も、純文学も、老境に入って死期が迫れば迫るほどその芸術表現に凄みと滋味が出るようだ。

河野多恵子による本作も、まさしくその典型である。全体的に著者は耄碌しかかっているが、それが武者小路実篤とはひとあじも二味も違った絶妙のボケ加減になっていて、賛嘆おくあたわざる風韻を醸し出している。

例えばデアル体とデスマス体の平気な混在については学ぶところ大であった。

最初の「月光の曲」では、国定の国語読本の引用で楽聖ヴェートーヴェンが登場して、盲目の少女のために即興でその曲を弾き始めるところが素晴らしくて、(かの千の風なんかを読み聞きしてもなんの感銘も受けなかったこのニルアドミラルの私が)思わず涙腺が緩むのを覚えた。

余談ながら、戦前の教科書は誰が書いたかかなりの名文で、われら帝国の小国民はここから国民文学精神を体得したのだった。

例えば人口に膾炙した
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
    コイ コイ シロ コイ
    ススメ ススメ ヘイタイ ススメ

この文章はなかなか素敵な日本語だ。見事に韻を踏んでいる。知的に過ぎる谷川俊太郎には書けない無意識の民族詩だ。

「星辰」は占いの話であるが、最後の1行が圧倒的な読後感を生み、またはじめに戻って読み直す仕儀に立ち至る。これぞ短編小説の極意である。

3作目の「魔」から相当不気味なん世界に突入する。コンスターチで生まれざりし子の彫刻を作るとは! 

そうして最後の表題作では、著者の尋常ならざるへその緒への執着!があきらかにされる。

最後の文章はこうである。
「そして……。だんだん怖い女になりつつある」

自分でもどうしようもない怖い人間に、河野多恵子はどんどんなって行く、らしいのである。

Wednesday, July 11, 2007

金原ひとみの「ハイドラ」を読む

降っても照っても第31回

 題名のHydraは9つの首を持つ海蛇であるが、この小説の主人公は二つの首しか持たず、しかもその2つがお互いにぐるぐる巻きになってしまって、どちらを主人公にしていいのか自分でもわからなくなってしまう「双頭の蛇女」である。

拒食症に悩む読者モデルやヘアメイク、ホモセクシャル、人気ロックミュジシヤンなどが続々登場するので、これはおしゃれな風俗小説かと思ってすいすい読んでいったが、なんととっても古めかしい三文読みきり小説でした。

しかもテーマが、古い言葉で恐縮だが、理想と現実、もしくは新しく危険な未来と勝手知ったる手馴れた日常、との対立、相克ときたもんだ。

さらにこの双頭の蛇女ときたら、なんだかんだがありながら後者の道を選びなおすというのだから、まるで話が面白くない。たかが小説でしょ。そんなに簡単に元のさやに戻らず、せめて新しい男との波乱万丈の共同生活の成り行きをしっかり描写してから、本書の筆をおいてほしかった。