鎌倉ちょっと不思議な物語122回 十二所神社物語その7
十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある。
右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである。村人たちは疱瘡にかかることを恐れていた。
その左にある比較的新しい一祠は神社のこの土地を寄進した大木市衛門、すなわち地主神を祀った。
私が現在住んでいる場所も、昔はこの大木一族の土地であり、元は鎌倉石を切り出した跡を田圃にしていたところに小さな家を建てたのであるが、整地をしている大工は、岩場の穴からうじゃうじゃ現れる無数のヤマカガシを取り除くのに大童だった。
さしものヤマカガシも、最近はようやく姿を消してしまったが、新築当初は私たちがネンネグーしている枕元にも現われ、私の好きなエルガーの「愛の挨拶」を歌ったのであった。
ヤマカガシたちは愛犬ムクの遊び相手になったり、健君のマフラーになったり、大木一族の跡取りの格好のおもちゃになったりしてから、家の前を流れる太刀洗川にドボンドボンと捨てられ、下流の滑川にぷかぷか浮かびながら由比ガ浜の河口までゆるやかに南下して、次々に相模湾に流れ入り、ついには広大な太平洋へ乗り入れたのだった。
そうして十二所村の悪がきたちは、ノドチンコもあらわに声をそろえて歌ったものだ。
♪山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
あれら無数の蛇たちの霊よ、安かれ!
♪いざともに交尾致さむ揚羽蝶 茫洋
Thursday, May 15, 2008
Wednesday, May 14, 2008
神社と力士
鎌倉ちょっと不思議な物語121回 十二所神社物語その6
「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。
そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。
その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。
地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。
♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊
「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。
そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。
その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。
地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。
♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊
Tuesday, May 13, 2008
♪流れよ みこし どんぶらこ
♪流れよ みこし どんぶらこ
鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5
神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?
しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。
きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。
いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。
先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。
それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。
去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?
猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。
と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。
10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5
神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?
しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。
きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。
いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。
先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。
それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。
去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?
猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。
と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。
10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋
Monday, May 12, 2008
兎とバラモン
鎌倉ちょっと不思議な物語119回 十二所神社物語その4
神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。
インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。
兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。
ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。
さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。
帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。
月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。
「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋
神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。
インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。
兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。
ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。
さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。
帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。
月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。
「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋
Sunday, May 11, 2008
川尻秋生著「揺れ動く貴族社会」を読む
照る日曇る日第124回
17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。
9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。
藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。
著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。
その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。
御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、
などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。
♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋
17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。
9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。
藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。
著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。
その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。
御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、
などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。
♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋
Saturday, May 10, 2008
十二所神社物語その2
鎌倉ちょっと不思議な物語118回
さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。
鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。
もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。
さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。
往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。
神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。
しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。
♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋
さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。
鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。
もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。
さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。
往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。
神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。
しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。
♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋
Thursday, May 08, 2008
祭礼の夜
鎌倉ちょっと不思議な物語117回
十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。
例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。
夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。
敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。
祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。
私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。
しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。
祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。
♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。
例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。
夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。
敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。
祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。
私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。
しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。
祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。
♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
Wednesday, May 07, 2008
十二所神社物語その1
鎌倉ちょっと不思議な物語116回
十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。
紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。
ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。
♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋
十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。
紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。
ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。
♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋
Tuesday, May 06, 2008
十二所物語
鎌倉ちょっと不思議な物語115回
私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。
この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。
下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。
十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋
私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。
この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。
下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。
十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋
Monday, May 05, 2008
鎌倉ちょっと不思議な物語114回
十二所の「大江稲荷社」拝観
これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。
大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。
灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。
稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。
♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋
これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。
大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。
灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。
稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。
♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋
Sunday, May 04, 2008
サガン著「悲しみよ こんにちは」を読んで
照る日曇る日第123回
ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。
父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。
そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。
あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。
だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。
この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。
♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋
ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。
父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。
そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。
あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。
だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。
この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。
♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋
Saturday, May 03, 2008
デュラス著「愛人 ラマン」を読んで
照る日曇る日第122回
「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。
ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。
17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。
この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。
やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。
少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋
「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。
ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。
17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。
この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。
やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。
少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋
Friday, May 02, 2008
デュラス著「太平洋の防波堤」を読んで
照る日曇る日第121回
どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。
老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。
ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。
荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。
♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋
どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。
老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。
ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。
荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。
♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋
Thursday, May 01, 2008
Wednesday, April 30, 2008
2008年卯月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その26
春の宵近江の牛を食べにけり
蟷螂の斧振りかざす春の宵
修道女の瞑想破る太刀嵐
桜花一輪拾いて水に浸す
桜咲く今朝の女の薄化粧
これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
ト短調で歌うなハ長調で歌え
景時の行方はいずこ鯨殿
こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
新築減り仕事なくなりし甥っ子の心配す
君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね
流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである
ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川
ヘルメットに棍棒握って武装せしわが手が握りし黄色な檸檬
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり
わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人とおるかな
嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らしはうちの健ちゃん
しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 与黒田某
新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる
紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし
一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり
空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり
近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり
柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな
シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館
寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする
♪俳句は断想であり短歌は私小説である 茫洋
春の宵近江の牛を食べにけり
蟷螂の斧振りかざす春の宵
修道女の瞑想破る太刀嵐
桜花一輪拾いて水に浸す
桜咲く今朝の女の薄化粧
これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
ト短調で歌うなハ長調で歌え
景時の行方はいずこ鯨殿
こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
新築減り仕事なくなりし甥っ子の心配す
君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね
流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである
ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川
ヘルメットに棍棒握って武装せしわが手が握りし黄色な檸檬
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり
わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人とおるかな
嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らしはうちの健ちゃん
しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 与黒田某
新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる
紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし
一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり
空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり
近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり
柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな
シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館
寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする
♪俳句は断想であり短歌は私小説である 茫洋
Tuesday, April 29, 2008
吉田秀和著「永遠の故郷 夜」を読む
照る日曇る日第120回&♪音楽千夜一夜第34回
朝の授業のために湘南新宿ラインに乗りながら、この本を読んでいた。
小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆である。
鼓膜の中いっぱいに楽の音が満ち溢れ、泣きたくなるような感動が押し寄せてきたのは、「4つの最後の歌」という短編を読んでいるときだった。
1954年、著者はミュンヘンでこの曲の初演をなんとゲルハルト・ヒッシュと中山悌一に挟まれてリサ・デラ・カーサの独唱、ヨーゼフ・カイルベルトが指揮するミュンヘン・フィルの演奏で聴いたという。ああ、なんという夢のような組み合わせだろう!
「4つの最後の歌」はご存知のようにリヒアルト・シュトラウスの文字通り最後の作品であり、歌曲は世に数々あれど、この本で吉田さんが紹介しているヒューゴー・ヴォルフやブラームスよりも私が愛惜措くあたわざる古今の絶唱である。
著者が評しているように、意識の明確さと幻想の深さ、驚くばかりの輝きと闇が、そして生と死が絡み合う比類のない高みに達した崇高な芸術作品である。
その日そのときの演奏が、時空を超越して吉田さんの心の奥底から突如として沸き起こってくる。そうして私たちはもはや最後の日も遠くないことを自覚している著者とともに、天才作曲家の文字通り最後の4つの挽歌をひとつひとつ聴いていくのである。
第1曲は「春」、第2曲は「9月」、第3曲は「眠りにつくに当たって」はいずれもシュトラウスを憎んでいたヘルマンヘッセの作詞であるが、ナチスに肩入れしていた疑惑の作曲家は、善悪を超越した此岸から彼岸にかかる渡り橋の真ん中で、現世への最後の一瞥をくれたのである。ヘッセもって瞑すべし、ということでもあらうか。
吉田さんは第4曲「夕映えの中で」のアイヘンドルフの原詩を翻訳して示す。
おお、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
そして変ホ長調、アンダンテ、4分の4拍子で生まれ、最後の15小節で再び変ホ長調に戻って永遠に終息した死と美が共存するこの美しい音楽のスコアを、自らの手で書き写しながら、吉田さんはリルケの詩を思い出すのである。
何故ならば、美は私たちの耐えられる限りでの
恐ろしいものの始まりにほかならないのだから (『ドゥイーノの悲歌』
吉田さんは、なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくあるうるのか? 美しくなければならないか? と自問し、次のように答えている。
―なぜならば、これが音楽であるからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。美はその過程の中で生まれてきたあるものでしかない。(中略)セザンヌ最晩年の農夫の肖像を見るがいい。彼を囲んで黄と緑と深い青と濃い茶の光と闇とが入り混じり、音もなく燃えている。セザンヌは何を描いたのか?「もしかしたら、これが死?」
というところで、吉田さんの筆は突然書くことをやめ、それから私の心の中であの懐かしいIm Abendrotの演奏が鳴り響いたのだった。
おかげで私の講義は無残なものだった。しかし、音楽について語る数ページが、その音楽そのものを、無上のよろこびと無限のかなしみとを2つながらに伴いながら、オケと歌手と指揮者もなしに、私の魂の中でいきいきと立ち上がらせるとは、なんという書き手であることか!
「あとがき」のなかで吉田さんは、「歌曲とは心の歌にほかならない」とハイネの言葉を訳しているが、「永遠の故郷 夜」というこの本自体も、隅から隅まで吉田さんの「心の歌」にほかならないのである。
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川 亡羊
朝の授業のために湘南新宿ラインに乗りながら、この本を読んでいた。
小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆である。
鼓膜の中いっぱいに楽の音が満ち溢れ、泣きたくなるような感動が押し寄せてきたのは、「4つの最後の歌」という短編を読んでいるときだった。
1954年、著者はミュンヘンでこの曲の初演をなんとゲルハルト・ヒッシュと中山悌一に挟まれてリサ・デラ・カーサの独唱、ヨーゼフ・カイルベルトが指揮するミュンヘン・フィルの演奏で聴いたという。ああ、なんという夢のような組み合わせだろう!
「4つの最後の歌」はご存知のようにリヒアルト・シュトラウスの文字通り最後の作品であり、歌曲は世に数々あれど、この本で吉田さんが紹介しているヒューゴー・ヴォルフやブラームスよりも私が愛惜措くあたわざる古今の絶唱である。
著者が評しているように、意識の明確さと幻想の深さ、驚くばかりの輝きと闇が、そして生と死が絡み合う比類のない高みに達した崇高な芸術作品である。
その日そのときの演奏が、時空を超越して吉田さんの心の奥底から突如として沸き起こってくる。そうして私たちはもはや最後の日も遠くないことを自覚している著者とともに、天才作曲家の文字通り最後の4つの挽歌をひとつひとつ聴いていくのである。
第1曲は「春」、第2曲は「9月」、第3曲は「眠りにつくに当たって」はいずれもシュトラウスを憎んでいたヘルマンヘッセの作詞であるが、ナチスに肩入れしていた疑惑の作曲家は、善悪を超越した此岸から彼岸にかかる渡り橋の真ん中で、現世への最後の一瞥をくれたのである。ヘッセもって瞑すべし、ということでもあらうか。
吉田さんは第4曲「夕映えの中で」のアイヘンドルフの原詩を翻訳して示す。
おお、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
そして変ホ長調、アンダンテ、4分の4拍子で生まれ、最後の15小節で再び変ホ長調に戻って永遠に終息した死と美が共存するこの美しい音楽のスコアを、自らの手で書き写しながら、吉田さんはリルケの詩を思い出すのである。
何故ならば、美は私たちの耐えられる限りでの
恐ろしいものの始まりにほかならないのだから (『ドゥイーノの悲歌』
吉田さんは、なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくあるうるのか? 美しくなければならないか? と自問し、次のように答えている。
―なぜならば、これが音楽であるからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。美はその過程の中で生まれてきたあるものでしかない。(中略)セザンヌ最晩年の農夫の肖像を見るがいい。彼を囲んで黄と緑と深い青と濃い茶の光と闇とが入り混じり、音もなく燃えている。セザンヌは何を描いたのか?「もしかしたら、これが死?」
というところで、吉田さんの筆は突然書くことをやめ、それから私の心の中であの懐かしいIm Abendrotの演奏が鳴り響いたのだった。
おかげで私の講義は無残なものだった。しかし、音楽について語る数ページが、その音楽そのものを、無上のよろこびと無限のかなしみとを2つながらに伴いながら、オケと歌手と指揮者もなしに、私の魂の中でいきいきと立ち上がらせるとは、なんという書き手であることか!
「あとがき」のなかで吉田さんは、「歌曲とは心の歌にほかならない」とハイネの言葉を訳しているが、「永遠の故郷 夜」というこの本自体も、隅から隅まで吉田さんの「心の歌」にほかならないのである。
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川 亡羊
Monday, April 28, 2008
トルーマン・カポーティ著「ティファニーで朝食を」読む
照る日曇る日第119回
イカの次はなぜか宝石である。
私はいまのところオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」という映画がいちばん好きで、グレゴリーペックとの別れのシーンを見るたびに嗚咽せざるを得ない人なのだが、そんな素敵な映画に主演したヘプバーンが出ているというのでついでに「ティファニーで朝食を」という映画を見たら、それは「ローマの休日」には及びもつかない奇妙な映画で、まあ失敗作といってもいいのだろうが、ゆいいつアパートの窓辺でヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」をギターで弾き語りする小鹿のバンビのようなオードリーの可憐な声と姿だけが記憶に留められた。
「ティファニーで朝食を」の原作がトルーマン・カポーティというアメリカの人気作家の小説であるということは知っていたが、最近私はいまごろになって村上春樹の翻訳で初めてこれを読んだ。するとこれが思いのほかに面白かった。じつにうまく書かれた小説であった。
マンハッタン中の男どもの魂をわしづかみにしたこの小説の女主人公ホリー・ゴライトリーの天衣無縫の魅力は、当たり前の話だが原作のなかでは光彩陸離と輝き渡っている。しかし映画のなかでは、小鹿バンビオードリーがそれなりにファニーであるだけで、それ以外にはなにもない映画といってもけっして過言ではない。
原作のなかでのカポーティは、なぜかフィッツジェラルドやへミングウエイにも似ている。手を伸ばせば届きそうなところにある宝石を心の奥底で追い求めながらもついに手中に収めることのできない男の悲しみの物語が切ないまでにリアルに描き出されている。
それでうれしくなって「ティファニーで朝食を」と一緒に収められている「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」という3本の短編も読んでみたら、これが「ティファニーで朝食を」よりもよく出来た小説だったのでまた驚いた。
この調子なら昔途中で投げ出したこの人の「冷血」とか「遠い声、遠い部屋」も読みとおせるかもしれない。
もっとも「ティファニーで朝食を」とるというフレーズは、小説のなかではなにがなくほんの1小節しか演奏されていないのに、それをタイトルにしたのは不可解である。ティファニーからタイアップ料金をもらっていたからではないかとさえかんぐられるが、この題名であればこその大ヒットであったのかもしれない。
♪寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする 亡羊
イカの次はなぜか宝石である。
私はいまのところオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」という映画がいちばん好きで、グレゴリーペックとの別れのシーンを見るたびに嗚咽せざるを得ない人なのだが、そんな素敵な映画に主演したヘプバーンが出ているというのでついでに「ティファニーで朝食を」という映画を見たら、それは「ローマの休日」には及びもつかない奇妙な映画で、まあ失敗作といってもいいのだろうが、ゆいいつアパートの窓辺でヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」をギターで弾き語りする小鹿のバンビのようなオードリーの可憐な声と姿だけが記憶に留められた。
「ティファニーで朝食を」の原作がトルーマン・カポーティというアメリカの人気作家の小説であるということは知っていたが、最近私はいまごろになって村上春樹の翻訳で初めてこれを読んだ。するとこれが思いのほかに面白かった。じつにうまく書かれた小説であった。
マンハッタン中の男どもの魂をわしづかみにしたこの小説の女主人公ホリー・ゴライトリーの天衣無縫の魅力は、当たり前の話だが原作のなかでは光彩陸離と輝き渡っている。しかし映画のなかでは、小鹿バンビオードリーがそれなりにファニーであるだけで、それ以外にはなにもない映画といってもけっして過言ではない。
原作のなかでのカポーティは、なぜかフィッツジェラルドやへミングウエイにも似ている。手を伸ばせば届きそうなところにある宝石を心の奥底で追い求めながらもついに手中に収めることのできない男の悲しみの物語が切ないまでにリアルに描き出されている。
それでうれしくなって「ティファニーで朝食を」と一緒に収められている「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」という3本の短編も読んでみたら、これが「ティファニーで朝食を」よりもよく出来た小説だったのでまた驚いた。
この調子なら昔途中で投げ出したこの人の「冷血」とか「遠い声、遠い部屋」も読みとおせるかもしれない。
もっとも「ティファニーで朝食を」とるというフレーズは、小説のなかではなにがなくほんの1小節しか演奏されていないのに、それをタイトルにしたのは不可解である。ティファニーからタイアップ料金をもらっていたからではないかとさえかんぐられるが、この題名であればこその大ヒットであったのかもしれない。
♪寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする 亡羊
Saturday, April 26, 2008
中沢新一・波多野一郎著「イカの哲学」を読む
照る日曇る日第119回
チョウの続きは、イカの話である。
「ある丹波の老人の物語」の主人公がその生涯で最も大きな影響を受けた偉大な実業家にして宗教家、それが郡是を創業したクリスチャンの波多野鶴吉であったが、本書はその翁の孫である波多野一郎氏の遺著「イカの哲学」を再発見した中沢新一による絶対平和論への試みの書である。
特攻隊の生き残りで戦後ソ連の炭鉱で4年間の強制労働に従事した波多野氏は、米国スタンフォード大学でプラグマティズムを学んだ在野の哲学者であった。そして氏は大学の夏休みにカリフォルニアの風光明媚なモントレーの海(私の懐かしき曾遊の地、あんな土地に住んでみたいものだ)で取れたイカの冷凍加工アルバイトをしながら彼独自の生命哲学を体得するのであるが、著者は彼の「イカの哲学」の中に人間のみならずイカやさまざまな動植物の生命価値をヒトと同等に尊重する絶対平等絶対平和の思想を見出し、それが21世紀の人類と地球の運命を変える可能性を秘めていると説くのである。
せんじつめれば、人間中心主義による通常の平和論では人間の遺伝子に内蔵された戦争を発現せざるを得ないが、「イカ中心主義」に立脚し、知性と生命あるものすべてが、生ある森羅万象の生命の実存のかけがえのなさを体得すれば、戦争を不可能にする契機を見出すこともあながち不可能ではない、というのが波多野哲学のいちばん大切なポイントではないかと私は思った。
基本的には金子みすゞの「大漁」や宮沢賢治の「ヨダカの星」「銀河鉄道の夜」の世界に通底する大悲・大慈の思想ではないだろうか。
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう
この金子みすゞの視点である。
油の乗り切った当代一流の思想家が、ジョルジュ・バタイユのエロチシズム論を引用したり、生物学の知見やら卓抜な比喩や飛躍など次々にお得意の知的な装置を繰り出して、波多野氏の簡潔な著作を重層的に深読みしていく手際はあざやかだ。
けれども、中沢ファンとして人後におちないと自負するわたしではあったが、あまりにも性急かつ激烈で我田引水が過ぎるように感じられる彼の熱弁に耳を傾けているうちに、重い主題をわざと軽やかに取り扱い、絶妙なユーモアとウイットのセンスを生かした原著者の熟した心根がどこかでおいてけぼりにされているような気持にさえなってしまったのは自分でも思いがけないことだった。
♪しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな 亡羊
チョウの続きは、イカの話である。
「ある丹波の老人の物語」の主人公がその生涯で最も大きな影響を受けた偉大な実業家にして宗教家、それが郡是を創業したクリスチャンの波多野鶴吉であったが、本書はその翁の孫である波多野一郎氏の遺著「イカの哲学」を再発見した中沢新一による絶対平和論への試みの書である。
特攻隊の生き残りで戦後ソ連の炭鉱で4年間の強制労働に従事した波多野氏は、米国スタンフォード大学でプラグマティズムを学んだ在野の哲学者であった。そして氏は大学の夏休みにカリフォルニアの風光明媚なモントレーの海(私の懐かしき曾遊の地、あんな土地に住んでみたいものだ)で取れたイカの冷凍加工アルバイトをしながら彼独自の生命哲学を体得するのであるが、著者は彼の「イカの哲学」の中に人間のみならずイカやさまざまな動植物の生命価値をヒトと同等に尊重する絶対平等絶対平和の思想を見出し、それが21世紀の人類と地球の運命を変える可能性を秘めていると説くのである。
せんじつめれば、人間中心主義による通常の平和論では人間の遺伝子に内蔵された戦争を発現せざるを得ないが、「イカ中心主義」に立脚し、知性と生命あるものすべてが、生ある森羅万象の生命の実存のかけがえのなさを体得すれば、戦争を不可能にする契機を見出すこともあながち不可能ではない、というのが波多野哲学のいちばん大切なポイントではないかと私は思った。
基本的には金子みすゞの「大漁」や宮沢賢治の「ヨダカの星」「銀河鉄道の夜」の世界に通底する大悲・大慈の思想ではないだろうか。
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう
この金子みすゞの視点である。
油の乗り切った当代一流の思想家が、ジョルジュ・バタイユのエロチシズム論を引用したり、生物学の知見やら卓抜な比喩や飛躍など次々にお得意の知的な装置を繰り出して、波多野氏の簡潔な著作を重層的に深読みしていく手際はあざやかだ。
けれども、中沢ファンとして人後におちないと自負するわたしではあったが、あまりにも性急かつ激烈で我田引水が過ぎるように感じられる彼の熱弁に耳を傾けているうちに、重い主題をわざと軽やかに取り扱い、絶妙なユーモアとウイットのセンスを生かした原著者の熟した心根がどこかでおいてけぼりにされているような気持にさえなってしまったのは自分でも思いがけないことだった。
♪しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな 亡羊
Friday, April 25, 2008
日高敏隆著「チョウはなぜ飛ぶか」を読む
照る日曇る日第118回
私は昔からチョウが好きだった。私自身やあまたの人間どもよりもずっとずっと好きだったし、その思いは近年ますます強まってくるばかりだ。
そしてたまたまこの本を手にとってみると、普段自分がいかに自分自身にとってどうでもいい種類の書物に惰性で目を晒し続けて貴重な生の時間を無駄にし続けているのかが痛感される。
さて本書である。奇妙なことには表題の「なぜ飛ぶか」という問いに対する答えはまったく書かれていないが、チョウがなぜ一定の道、「チョウ道」を飛ぶのかという問題への相次ぐまっすぐな問いかけとその問いに対する実験と考察、その動物行動学の試行錯誤が元昆虫少年のつぶらな瞳で一瀉千里に書かれていて気持ちがいい。
私は「チョウ道」はすべてのチョウにあると思っていたが、実際はキアゲハを除くアゲハ類にだけそれがあると著者は言う。ヨーロッパの代表的なアゲハはキアゲハなので、かの地にはチョウ道が存在しないというのも初耳だった。(しかしいま私がもっとも関心を懐いているタテハチョウのそれについてまったく触れていないのは残念至極である)
チョウの雌雄の見分け方についても驚くべき報告がなされている。
モンシロチョウのオスは、人間には識別不可能な黄色と紫外線の混ざった色でメスを直ちに見分けるのであるが、アゲハチョウのオスはメスの黄色と黒のストライプがめじるしになり、それを目にするや否やオスは突進を開始し、(その軌跡が「アゲハのチョウ道」となるのであるが)いざ接近してもそれが目指すメスであるかはたまたライバルのオスであるかはまだ分からないので、まずは触手でさわってみる。黙って触ればぴたりと雌雄が分かる、というところまでは分かったというのである。
ゴキブリなども触手でにおいがわかるので、アゲハもにおいで雌雄を弁別しているのであろうということになる。
ところが、最後にアゲハチョウのメスの産卵のめじるしの実験で、それまで成功裏に着実に積み重ねられてきた研究成果がすべてご破算となり、著者自らが途方に暮れてしまうところで唐突に記述が終わってしまう。
仮説を次々に立ててそれを実験によって証明し、また新たな仮説→実験→証明へと破竹の前進を遂げてきた「チョウ道」学であったが、いくつかの実験結果が矛盾していたために「なにがなんだかわからなくなってしまった」と著者は正直にいうのである。
そして「成功ばかりではなく失敗のプロセスをすべて公開するのも科学の道である」と述べているが、そのことが書物として、生きた科学の記述として、あるいは人生の蹉跌の象徴としても、まことにいさぎよく感動的な本である。
♪一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れておった 亡羊
私は昔からチョウが好きだった。私自身やあまたの人間どもよりもずっとずっと好きだったし、その思いは近年ますます強まってくるばかりだ。
そしてたまたまこの本を手にとってみると、普段自分がいかに自分自身にとってどうでもいい種類の書物に惰性で目を晒し続けて貴重な生の時間を無駄にし続けているのかが痛感される。
さて本書である。奇妙なことには表題の「なぜ飛ぶか」という問いに対する答えはまったく書かれていないが、チョウがなぜ一定の道、「チョウ道」を飛ぶのかという問題への相次ぐまっすぐな問いかけとその問いに対する実験と考察、その動物行動学の試行錯誤が元昆虫少年のつぶらな瞳で一瀉千里に書かれていて気持ちがいい。
私は「チョウ道」はすべてのチョウにあると思っていたが、実際はキアゲハを除くアゲハ類にだけそれがあると著者は言う。ヨーロッパの代表的なアゲハはキアゲハなので、かの地にはチョウ道が存在しないというのも初耳だった。(しかしいま私がもっとも関心を懐いているタテハチョウのそれについてまったく触れていないのは残念至極である)
チョウの雌雄の見分け方についても驚くべき報告がなされている。
モンシロチョウのオスは、人間には識別不可能な黄色と紫外線の混ざった色でメスを直ちに見分けるのであるが、アゲハチョウのオスはメスの黄色と黒のストライプがめじるしになり、それを目にするや否やオスは突進を開始し、(その軌跡が「アゲハのチョウ道」となるのであるが)いざ接近してもそれが目指すメスであるかはたまたライバルのオスであるかはまだ分からないので、まずは触手でさわってみる。黙って触ればぴたりと雌雄が分かる、というところまでは分かったというのである。
ゴキブリなども触手でにおいがわかるので、アゲハもにおいで雌雄を弁別しているのであろうということになる。
ところが、最後にアゲハチョウのメスの産卵のめじるしの実験で、それまで成功裏に着実に積み重ねられてきた研究成果がすべてご破算となり、著者自らが途方に暮れてしまうところで唐突に記述が終わってしまう。
仮説を次々に立ててそれを実験によって証明し、また新たな仮説→実験→証明へと破竹の前進を遂げてきた「チョウ道」学であったが、いくつかの実験結果が矛盾していたために「なにがなんだかわからなくなってしまった」と著者は正直にいうのである。
そして「成功ばかりではなく失敗のプロセスをすべて公開するのも科学の道である」と述べているが、そのことが書物として、生きた科学の記述として、あるいは人生の蹉跌の象徴としても、まことにいさぎよく感動的な本である。
♪一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れておった 亡羊
Thursday, April 24, 2008
日本と中国の今昔 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
照る日曇る日第117回
前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。
全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。
遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。
天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。
また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。
しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。
♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊
前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。
全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。
遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。
天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。
また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。
しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。
♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊
Wednesday, April 23, 2008
Sunday, April 20, 2008
倭から日本へ 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
照る日曇る日第116回&ふあっちょん幻論第19回
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
Saturday, April 19, 2008
職人気質
♪バガテルop54
しばらく前にキッチンを修理し、去年は自宅の北側の壁が腐りかけていたのでトイレと一緒に修理し、やれやれこれで終わりかと乏しくなった財布の底をながめてため息をつきながらもほっとしていたら、今度は便所の隣の浴室のねだが腐っていることが判明したので、善は急げ?とばかりにほとんどやけくそになって今年の冬にリフォームした。
おかげで最新式の浴槽が導入され、洗面所の採光も改善され、それなりに平成モダンライフ?の快適さをエンジョイすることができると一安心したんのもつかの間、またしても2階二回の天井裏に葡萄状連鎖状球菌ならぬ白色腐朽菌というのが繁殖していることが判明、いずれは屋根のてっぺえんを切開して修理する必要が生じた。
まったくいつまで続くぬかるみぞ、といったところだが、それはともかくとして私が再認識したのはわが国の大工さんやペンキ屋さんや経師屋さんや電気屋さんやその他もろもろの職人さんの腕の冴え、技術の素晴らしさである。
古くて狭くて具合の悪いところをいとこたやすくすいすいと直してしまう。もちろんそれがプロの職人芸と言ってしまえば実も蓋もないが、それはおそらくわが国の昔からの良き伝統であり、民族の身体性に付与された特性であり、諸外国の職人さんと比べても抜群の器用さであるに違いない。
彼らは朝から働き、10時に小休止し、正午に昼食をとって車の中などで午睡し、1時から3時まで働いてまた一休みして夕方まで働き続けるのだが、傍から見ているとこれが一日の労働に最も適した時間割であるということが良く分かる。
単調で過酷な労働であるからおやつに甘いものを出すと喜んでみな食べてくれる。しかし「トイレをどうぞ自由に使ってください」と勧めても、固辞してほとんど用を足さない職人が多いのは、古来そういうしつけをされてきたからであろうか。
いずれにしても非常に不器用でなにひとつ修理できない私にとっては、日本のホモ・ファーベルのありがたさ、素晴らしさを見せつけられたあほばかホモ・ルーデンスの2週間だった。
♪新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり 亡羊
しばらく前にキッチンを修理し、去年は自宅の北側の壁が腐りかけていたのでトイレと一緒に修理し、やれやれこれで終わりかと乏しくなった財布の底をながめてため息をつきながらもほっとしていたら、今度は便所の隣の浴室のねだが腐っていることが判明したので、善は急げ?とばかりにほとんどやけくそになって今年の冬にリフォームした。
おかげで最新式の浴槽が導入され、洗面所の採光も改善され、それなりに平成モダンライフ?の快適さをエンジョイすることができると一安心したんのもつかの間、またしても2階二回の天井裏に葡萄状連鎖状球菌ならぬ白色腐朽菌というのが繁殖していることが判明、いずれは屋根のてっぺえんを切開して修理する必要が生じた。
まったくいつまで続くぬかるみぞ、といったところだが、それはともかくとして私が再認識したのはわが国の大工さんやペンキ屋さんや経師屋さんや電気屋さんやその他もろもろの職人さんの腕の冴え、技術の素晴らしさである。
古くて狭くて具合の悪いところをいとこたやすくすいすいと直してしまう。もちろんそれがプロの職人芸と言ってしまえば実も蓋もないが、それはおそらくわが国の昔からの良き伝統であり、民族の身体性に付与された特性であり、諸外国の職人さんと比べても抜群の器用さであるに違いない。
彼らは朝から働き、10時に小休止し、正午に昼食をとって車の中などで午睡し、1時から3時まで働いてまた一休みして夕方まで働き続けるのだが、傍から見ているとこれが一日の労働に最も適した時間割であるということが良く分かる。
単調で過酷な労働であるからおやつに甘いものを出すと喜んでみな食べてくれる。しかし「トイレをどうぞ自由に使ってください」と勧めても、固辞してほとんど用を足さない職人が多いのは、古来そういうしつけをされてきたからであろうか。
いずれにしても非常に不器用でなにひとつ修理できない私にとっては、日本のホモ・ファーベルのありがたさ、素晴らしさを見せつけられたあほばかホモ・ルーデンスの2週間だった。
♪新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり 亡羊
Friday, April 18, 2008
続「大江広元の墓」の謎
鎌倉ちょっと不思議な物語114回
「十二所地誌新稿」にまたまたいう。
明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。
山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。
その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。
さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」
と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。
♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊
「十二所地誌新稿」にまたまたいう。
明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。
山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。
その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。
さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」
と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。
♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊
Thursday, April 17, 2008
荒岱介著「新左翼とは何だったのか」を読んで
照る日曇る日第115回
60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。
私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。
しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。
1967年10月8日の昼前のこと、
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。
「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。
と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。
本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。
私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。
なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。
ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬
60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。
私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。
しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。
1967年10月8日の昼前のこと、
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。
「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。
と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。
本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。
私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。
なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。
ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬
Wednesday, April 16, 2008
ガルシア・マルケス著・旦敬介訳「十二の遍歴の物語」を読む
照る日曇る日第114回
「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。
本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。
「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」
その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。
「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」
この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊
「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。
本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。
「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」
その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。
「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」
この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊
Tuesday, April 15, 2008
ガルシア・マルケス著「予告された殺人の記録」を読む
照る日曇る日第113回
「愛の狩人は鷹に似て高きより獲物を狙う」というジル・ヴィセンテのエピグラムを巻頭に掲げたマルケスは、天空はるかなる視点から、おのれを神に擬し、1951年1月22日に彼と彼の家族が実際に身近に体験したこの殺人事件をメタ・ドキュメンタリーな神話として語りなおそうとした。
言ってみれば、新婚の床から追放された妹の汚名を雪ごうと、その双子の兄弟が、彼女を処女ではなくした張本人であると称される男を肉きり包丁で刺し殺すギリシア悲劇さながらの敵討ち噺なのだが、その新聞種に類した悲劇を、ただ無数の事実の羅列によって叙述しようとする。
それならば単なるドキュメンタリー小説で終わったであろうこの小説は、数多くの登場人物の多様な視点、現在から既往、既往からまた現在、そして未来へとせわしなく移動する多彩な時間軸の運動を映画のクロースアップとパンのように交互に繰り返すことによって、とある殺人事件の複合的・重層的な局面に隠されているいくつもの真実をつぎつぎに暴き出す。
すると最初は起こるべくして起こったはずの事件、そのあらかじめ決定されていたはずの事件の確定的要因が次第に溶解して、陰影定かならざる曖昧模糊とした諸要素に還元されていく。
事実と歴史が彩度と輪郭を失い、真実は虚構へ、現実は夢想へ、そして最後には人間界のすべての事象が、偶然と運命の所業へと召還されてゆくのであった。
♪君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね。亡羊
「愛の狩人は鷹に似て高きより獲物を狙う」というジル・ヴィセンテのエピグラムを巻頭に掲げたマルケスは、天空はるかなる視点から、おのれを神に擬し、1951年1月22日に彼と彼の家族が実際に身近に体験したこの殺人事件をメタ・ドキュメンタリーな神話として語りなおそうとした。
言ってみれば、新婚の床から追放された妹の汚名を雪ごうと、その双子の兄弟が、彼女を処女ではなくした張本人であると称される男を肉きり包丁で刺し殺すギリシア悲劇さながらの敵討ち噺なのだが、その新聞種に類した悲劇を、ただ無数の事実の羅列によって叙述しようとする。
それならば単なるドキュメンタリー小説で終わったであろうこの小説は、数多くの登場人物の多様な視点、現在から既往、既往からまた現在、そして未来へとせわしなく移動する多彩な時間軸の運動を映画のクロースアップとパンのように交互に繰り返すことによって、とある殺人事件の複合的・重層的な局面に隠されているいくつもの真実をつぎつぎに暴き出す。
すると最初は起こるべくして起こったはずの事件、そのあらかじめ決定されていたはずの事件の確定的要因が次第に溶解して、陰影定かならざる曖昧模糊とした諸要素に還元されていく。
事実と歴史が彩度と輪郭を失い、真実は虚構へ、現実は夢想へ、そして最後には人間界のすべての事象が、偶然と運命の所業へと召還されてゆくのであった。
♪君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね。亡羊
Monday, April 14, 2008
春風の丘に立つ
車も化粧品もアパレルも、世界市場の使命を制するのはBRICsわけてもアジアのマーケットである。
昨日は2つの学校で私の今季のヒジョーキン生活が始まったが、韓国、中国、香港、台湾の学生の元気な表情が印象的だった。
日本人に元気がないとはいわない。日本がアジアの一員でないともいわない。しかし背後に自分自身の未来とくわえて国の将来を背負った彼らの勉学への精進を親しく見聞していると、なにかが微妙に違っていると感じないわけにはいかない。
彼らは外国語としての日本語を驚くほど速やかにマスターしてしまう。なかにはわが維新の時代の壮士を思わせる気概の持ち主もいる。成長期の世界と円熟期の世界とでは商品・サービスのみならず人材が輩出されるための土壌・環境がまるで違っているのであろう。
かつて毛沢東は、「青年は午前10時の太陽である」と言った。若いこと、無名であること、貧乏であること。これが革命者の条件である、とも言った。毛の誤謬や革命の功罪はさておき、前途有望な若者への激励の辞としてはまだ有効であろう。
それにしても若いということはいいことだ。どんな失敗もまだ許される。願わくは破綻や蹉跌を恐れず己の信ずる路をひたすらつき進んでいってほしいものだ。
午前10時ならぬ午後5時の残照に孤影漂うわたくしであるが、明日からは3つ目の学校へのお勤めも始まる。見えない未来に向かって疾走する人々にいささかの後押しをいたしたいものである。
最後に全国の学友諸君に対し、正岡子規の高弟であり、夏目漱石に「猫」を書かせて作家デビューを後押しした俳人の普段の写実の姿勢をかなぐり捨てた激句を捧げ、よってもって連帯の挨拶に代えたい。
春風や 闘志いだきて 丘に立つ 高浜虚子
♪鳶一羽われに愛する力あり 亡羊
昨日は2つの学校で私の今季のヒジョーキン生活が始まったが、韓国、中国、香港、台湾の学生の元気な表情が印象的だった。
日本人に元気がないとはいわない。日本がアジアの一員でないともいわない。しかし背後に自分自身の未来とくわえて国の将来を背負った彼らの勉学への精進を親しく見聞していると、なにかが微妙に違っていると感じないわけにはいかない。
彼らは外国語としての日本語を驚くほど速やかにマスターしてしまう。なかにはわが維新の時代の壮士を思わせる気概の持ち主もいる。成長期の世界と円熟期の世界とでは商品・サービスのみならず人材が輩出されるための土壌・環境がまるで違っているのであろう。
かつて毛沢東は、「青年は午前10時の太陽である」と言った。若いこと、無名であること、貧乏であること。これが革命者の条件である、とも言った。毛の誤謬や革命の功罪はさておき、前途有望な若者への激励の辞としてはまだ有効であろう。
それにしても若いということはいいことだ。どんな失敗もまだ許される。願わくは破綻や蹉跌を恐れず己の信ずる路をひたすらつき進んでいってほしいものだ。
午前10時ならぬ午後5時の残照に孤影漂うわたくしであるが、明日からは3つ目の学校へのお勤めも始まる。見えない未来に向かって疾走する人々にいささかの後押しをいたしたいものである。
最後に全国の学友諸君に対し、正岡子規の高弟であり、夏目漱石に「猫」を書かせて作家デビューを後押しした俳人の普段の写実の姿勢をかなぐり捨てた激句を捧げ、よってもって連帯の挨拶に代えたい。
春風や 闘志いだきて 丘に立つ 高浜虚子
♪鳶一羽われに愛する力あり 亡羊
Sunday, April 13, 2008
「大江広元の墓」の謎
鎌倉ちょっと不思議な物語113回
「十二所地誌新稿」にまたいう。
扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。
しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。
一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。
島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!
♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊
「十二所地誌新稿」にまたいう。
扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。
しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。
一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。
島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!
♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊
Saturday, April 12, 2008
大江広元邸旧蹟再論
鎌倉ちょっと不思議な物語112回
以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。
屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。
江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。
最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。
「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。
♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。
屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。
江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。
最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。
「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。
♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
Friday, April 11, 2008
長楽寺再訪
鎌倉ちょっと不思議な物語112回&鎌倉廃寺巡礼その8
長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。
「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。
鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊
長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。
「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。
鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊
Thursday, April 10, 2008
続・荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読んで
照る日曇る日第112回
東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。
では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。
彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。
東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。
東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。
東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。
♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊
東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。
では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。
彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。
東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。
東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。
東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。
♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊
Wednesday, April 09, 2008
荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読む
照る日曇る日第111回
東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。
苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。
東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。
外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。
駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。
かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。
♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊
東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。
苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。
東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。
外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。
駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。
かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。
♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊
Tuesday, April 08, 2008
大江広元の屋敷と墓
鎌倉ちょっと不思議な物語111回
大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。
次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。
さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。
どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。
それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)
千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)
ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう?
それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。
ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。
お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。
♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊
大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。
次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。
さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。
どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。
それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)
千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)
ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう?
それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。
ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。
お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。
♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊
Monday, April 07, 2008
続・春宵源語
照る日曇る日第110回
無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。
三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。
しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。
登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。
例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?
原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。
同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。
しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。
♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊
無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。
三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。
しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。
登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。
例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?
原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。
同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。
しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。
♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊
Sunday, April 06, 2008
春宵源語
照る日曇る日第109回
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
Saturday, April 05, 2008
常楽寺はどこだ?
鎌倉ちょっと不思議な物語111回&鎌倉廃寺巡礼その8
常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。
ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。
写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。
♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊
常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。
ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。
写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。
♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊
Friday, April 04, 2008
昌楽寺発見
鎌倉ちょっと不思議な物語110回&鎌倉廃寺巡礼その7
鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、
「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」
と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。
一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。
この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。
5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。
山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。
なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、
「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」
と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。
一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。
この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。
5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。
山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。
なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
Thursday, April 03, 2008
能満寺を尋ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語109回&鎌倉廃寺巡礼その6
能満寺については「風土記稿」は「小名川の上にあり」と伝えるだけでいっこうにわからない。
「十二所地誌新稿」には、「川の上の裏山、学園の辺にあって「上の寺」と称した。今その付近に石塔などが多少ある」と書かれているが、「五大堂事蹟考」には「梶原谷に入り口に能満寺の寺号いまに田畑に残る」とあるのでおそらく梶原屋敷の入り口あたりではないだろうか。
早速梶原屋敷へ行ってみる。
ここは梶原ヵ谷にあった平三景時の屋敷跡である。(写真)
「石橋山の合戦」で一敗地にまみれた頼朝を洞窟の奥で救った景時は、当然頼朝に重用され、また平広常や義経を死に追いやった小賢しい御家人であるが、正治元年1199年に小山朝光を頼家に讒言したために諸将の怒りを買い、駿河の孤峰で吉幡小治郎に殺された。
幕府はその年の12月にこの邸宅を破却して二階堂永福寺の僧坊に寄付したのだが、その跡が畑となり、入り口の跡の抜け穴と梶原井戸が残っている。
その井戸には明王院の鐘が入っていたが後になって拾い出したといわれている。(写真)。なおこの谷戸の山腹には一門の墓らしい数基の五輪塔があるらしいのでいつか探検してみよう。
能満寺は、この梶原屋敷の手前のテニス倶楽部から少し入った以前ご紹介した「鯨屋敷」(写真)付近にそびえ立っていたと想像するのだが、さてどうだろう。
あの巨大な鯨にでも聞いてみるとするか。
♪景時の行方はいずこ鯨殿 亡羊
能満寺については「風土記稿」は「小名川の上にあり」と伝えるだけでいっこうにわからない。
「十二所地誌新稿」には、「川の上の裏山、学園の辺にあって「上の寺」と称した。今その付近に石塔などが多少ある」と書かれているが、「五大堂事蹟考」には「梶原谷に入り口に能満寺の寺号いまに田畑に残る」とあるのでおそらく梶原屋敷の入り口あたりではないだろうか。
早速梶原屋敷へ行ってみる。
ここは梶原ヵ谷にあった平三景時の屋敷跡である。(写真)
「石橋山の合戦」で一敗地にまみれた頼朝を洞窟の奥で救った景時は、当然頼朝に重用され、また平広常や義経を死に追いやった小賢しい御家人であるが、正治元年1199年に小山朝光を頼家に讒言したために諸将の怒りを買い、駿河の孤峰で吉幡小治郎に殺された。
幕府はその年の12月にこの邸宅を破却して二階堂永福寺の僧坊に寄付したのだが、その跡が畑となり、入り口の跡の抜け穴と梶原井戸が残っている。
その井戸には明王院の鐘が入っていたが後になって拾い出したといわれている。(写真)。なおこの谷戸の山腹には一門の墓らしい数基の五輪塔があるらしいのでいつか探検してみよう。
能満寺は、この梶原屋敷の手前のテニス倶楽部から少し入った以前ご紹介した「鯨屋敷」(写真)付近にそびえ立っていたと想像するのだが、さてどうだろう。
あの巨大な鯨にでも聞いてみるとするか。
♪景時の行方はいずこ鯨殿 亡羊
Wednesday, April 02, 2008
一心院跡の春
鎌倉ちょっと不思議な物語108回&鎌倉廃寺巡礼その5
ここはわが十二所の明石ヵ谷である。
すぐ近くにはいま値下げ問題で話題のガソロンスタンドがあり、右に曲がればハイランド、直進すれば鎌倉霊園という交差点を霊園方向に10m進んだ左側にこの古刹があった。
鎌倉時代から江戸時代まで、石山を切り開き四坪ばかりの平地があり、鐘楼堂または鐘つき堂があったと言い伝えられた箇所であるが、いまではその痕跡はどこにもない。
そのかわりに私のははの家がある。もしかすると彼女の家が一心院跡かもしれない。
「鎌倉廃寺事典」によれば、元弘3年1333年9月4日、覚伊僧正が一心院明石本坊に住して沙汰したとある。文和2年1353年5月22日には明石谷法印修法始行とあり、明石ヵ谷より桜を壷に移している。ちなみにこの近所にはいまも桜並木がある。当時はソメイヨシノはなかったが、さぞ見事な桜だったのだろう。
さらに応永13年1406年7月18日の火事では、一心院の大工が上手に消火したと「鎌倉志」に記されている。一心院に住持は鎌倉御所の足利成氏の護寺僧になっていたというが、成氏の御所は近距離にあり、これもうなずける話である。
♪桜花一輪拾いて水に浸す 亡羊
ここはわが十二所の明石ヵ谷である。
すぐ近くにはいま値下げ問題で話題のガソロンスタンドがあり、右に曲がればハイランド、直進すれば鎌倉霊園という交差点を霊園方向に10m進んだ左側にこの古刹があった。
鎌倉時代から江戸時代まで、石山を切り開き四坪ばかりの平地があり、鐘楼堂または鐘つき堂があったと言い伝えられた箇所であるが、いまではその痕跡はどこにもない。
そのかわりに私のははの家がある。もしかすると彼女の家が一心院跡かもしれない。
「鎌倉廃寺事典」によれば、元弘3年1333年9月4日、覚伊僧正が一心院明石本坊に住して沙汰したとある。文和2年1353年5月22日には明石谷法印修法始行とあり、明石ヵ谷より桜を壷に移している。ちなみにこの近所にはいまも桜並木がある。当時はソメイヨシノはなかったが、さぞ見事な桜だったのだろう。
さらに応永13年1406年7月18日の火事では、一心院の大工が上手に消火したと「鎌倉志」に記されている。一心院に住持は鎌倉御所の足利成氏の護寺僧になっていたというが、成氏の御所は近距離にあり、これもうなずける話である。
♪桜花一輪拾いて水に浸す 亡羊
Tuesday, April 01, 2008
網野善彦著作集第9巻「中世の生業と流通」を読む
照る日曇る日第108回
この本は、古代から中世、近世までの製塩、漁労、桑と養蚕、紙、鉄器などの「主要非農業生産物」の生産と流通にかんする歴史を概括している。
注目すべきことは、古代から現代まで女性が糸、絹、綿、繭を商人に販売していたことである。彼女たちは養蚕にかんしては弥生時代から一貫してそれら繊維製品の生産部門を双肩に担い、さらにその生産物を自らの裁量で市庭で売却し、交易する商業活動に従事していたのである。
のみならず魚貝などの海産品、炭、薪などの山産品や精進物、野菜の商人も女性が中心であった。古来大多数の農産物、食品の売買も女性が担当し、たやすくは亭主や男性にその収入を手渡したとは考えられない。
またこのような歴史的経路が、「女工哀史」の悲劇はありつつも今日のアパレルデザインや生産・販売への女性優位の参画をもたらしているのだろう。
14世紀以降、女性が田畑などの土地財産についてはその権利を次第に失っていくのは事実であるが、貨幣、動産についての権利をたやすく喪失したわけではない、と著者は断じる。
ルイス・フロイスが日本史で書いたように、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けている」というのが桃山時代までの日本だったのである。
このように、中世までの「日本商業史」をめざして書かれたこの前人未踏の試みは、その後継者もほとんどなく、冬枯れの草むらの中に消えた一本の小道のように再び辿る人を待っている。
♪ト短調で歌うなハ長調で歌え
♪これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
この本は、古代から中世、近世までの製塩、漁労、桑と養蚕、紙、鉄器などの「主要非農業生産物」の生産と流通にかんする歴史を概括している。
注目すべきことは、古代から現代まで女性が糸、絹、綿、繭を商人に販売していたことである。彼女たちは養蚕にかんしては弥生時代から一貫してそれら繊維製品の生産部門を双肩に担い、さらにその生産物を自らの裁量で市庭で売却し、交易する商業活動に従事していたのである。
のみならず魚貝などの海産品、炭、薪などの山産品や精進物、野菜の商人も女性が中心であった。古来大多数の農産物、食品の売買も女性が担当し、たやすくは亭主や男性にその収入を手渡したとは考えられない。
またこのような歴史的経路が、「女工哀史」の悲劇はありつつも今日のアパレルデザインや生産・販売への女性優位の参画をもたらしているのだろう。
14世紀以降、女性が田畑などの土地財産についてはその権利を次第に失っていくのは事実であるが、貨幣、動産についての権利をたやすく喪失したわけではない、と著者は断じる。
ルイス・フロイスが日本史で書いたように、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けている」というのが桃山時代までの日本だったのである。
このように、中世までの「日本商業史」をめざして書かれたこの前人未踏の試みは、その後継者もほとんどなく、冬枯れの草むらの中に消えた一本の小道のように再び辿る人を待っている。
♪ト短調で歌うなハ長調で歌え
♪これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
Monday, March 31, 2008
ジャパンちゃちゃちゃ
ふあっちょん幻論第18回 20世紀の10大トレンドその10「ジャパニーズデザイン」
20世紀のアパレル・デザインに対して日本人のデザイナーたちは大きく貢献するとともに
世界のファッションの中心軸を、アジアのほうへ拡散させた。
60年代 森英恵 NY進出
70年 高田賢三 パリデビュー 70年代はじめ 一生、カンサイ
デコントラクテ/ジャポニズム
74年 一生 「一枚の布」 <間> レイヤード、オーバーサイズ
82年 川久保玲 山本耀司のパリコレデビュー。
東洋アジア主義の服、無装飾 ぼろルックの衝撃
85年 ジャパニーズパワー 全盛
80年末 一生 プリーツ
97年 川久保玲「ボディ・ミーツ・ドレス」
99年 一生A-POC 「世界服の創造」東洋西洋の域を超えて中心の拡散に挑戦
00年代 数多くの新人デザイナーたち
「一生のプリーツは伝統建築工芸である」、と太鼓奏者の林英哲は語る。
石垣、石畳、石段、なまこ壁、瓦屋根、垂木、格子戸。布の襞が繰り返す反復の造型は古い町並みの静けさや詩情、流れる水や風を感じさせる。
糸が織り成す反復造型で布地を織る作業には、ビートや時間が含まれる。それが畳まれてプリーツになり、身にまとって衣服になる。
「だが単なる衣服を越え、建築のように時間や空間や思想をも内在させた独立した造型になっている」「持ち運びのできる建築」「身に纏う思索」それが三宅一生の本質である。
というのはいささか褒めすぎの感もあるが、一生以降革新的な日本人デザイナーが登場していないことも事実であろう。
21世紀は、このような過去のビッグネームに依存したり期待せずに、「ジャパン・クール」などの切り口で日本の独自性を編集したり、東京ガールズコレクションのようなカジュアルセンスを海外に発信すること、あるいはまた創造性の枯渇にあえぐ「日本」自体をいっそ見切ってBRICs、韓国、ベトナムなどの新興勢力とともに新しいビジネスモデルを構築する方向性をめざすべきであろう。
*なお本シリーズは「深井晃子氏&京都服飾文化研究財団レポート」を参考にさせていただきました。
♪一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり 亡羊
20世紀のアパレル・デザインに対して日本人のデザイナーたちは大きく貢献するとともに
世界のファッションの中心軸を、アジアのほうへ拡散させた。
60年代 森英恵 NY進出
70年 高田賢三 パリデビュー 70年代はじめ 一生、カンサイ
デコントラクテ/ジャポニズム
74年 一生 「一枚の布」 <間> レイヤード、オーバーサイズ
82年 川久保玲 山本耀司のパリコレデビュー。
東洋アジア主義の服、無装飾 ぼろルックの衝撃
85年 ジャパニーズパワー 全盛
80年末 一生 プリーツ
97年 川久保玲「ボディ・ミーツ・ドレス」
99年 一生A-POC 「世界服の創造」東洋西洋の域を超えて中心の拡散に挑戦
00年代 数多くの新人デザイナーたち
「一生のプリーツは伝統建築工芸である」、と太鼓奏者の林英哲は語る。
石垣、石畳、石段、なまこ壁、瓦屋根、垂木、格子戸。布の襞が繰り返す反復の造型は古い町並みの静けさや詩情、流れる水や風を感じさせる。
糸が織り成す反復造型で布地を織る作業には、ビートや時間が含まれる。それが畳まれてプリーツになり、身にまとって衣服になる。
「だが単なる衣服を越え、建築のように時間や空間や思想をも内在させた独立した造型になっている」「持ち運びのできる建築」「身に纏う思索」それが三宅一生の本質である。
というのはいささか褒めすぎの感もあるが、一生以降革新的な日本人デザイナーが登場していないことも事実であろう。
21世紀は、このような過去のビッグネームに依存したり期待せずに、「ジャパン・クール」などの切り口で日本の独自性を編集したり、東京ガールズコレクションのようなカジュアルセンスを海外に発信すること、あるいはまた創造性の枯渇にあえぐ「日本」自体をいっそ見切ってBRICs、韓国、ベトナムなどの新興勢力とともに新しいビジネスモデルを構築する方向性をめざすべきであろう。
*なお本シリーズは「深井晃子氏&京都服飾文化研究財団レポート」を参考にさせていただきました。
♪一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり 亡羊
Sunday, March 30, 2008
2008年亡羊弥生詩歌集
♪ある晴れた日に その24
ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で身くねらすなり ―夢の中にて
懇々とわれは少女を諭したり何故に鴨に石を投ずるは不可なるかと
なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
市当局の整備工事より守りたる泥沼に生まれしオタマジャクシよ
当局の暴挙を防ぎし小池なり春遅き地にオタマ生まれる
新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか
今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ
同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日
長大なアリアを見事歌いきりほっと息つく谷戸の鶯
いざ行かん鯨の家にまたがりてあの青空の彼方まで
悪党の背にはらはらと梅の花
弥生三月春の力をわれに与えよ
啓蟄の虫仰ぎ見る空の青
啓蟄の虫が見ている空の雲
ふきのとう揚げる人あり描く人あり
ふきのとう描く人あり喰らう人あり
アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ
始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ
ここもまた大寺ありけり冬の谷戸
鳶一羽空に舞いたり廃寺跡
春風や幻の寺日輪月輪ここにあり
梅が香やいにしえの大寺ここにあり
春浅し一味神水の村を過ぐ
悪党共一味神水の村を過ぐ
椿落ち自由狼藉の世界かな
百花落ち自由狼藉春の朝
春浅し落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花流水朝比奈峠
悪党共落花流水の村を過ぐ
地に落ちて憾みはなきや冬柏
女房の茶碗を割りし悲しさよ
男は女に女は男になりたがり
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう
昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る
この頃の男は貧相な顔になったと言ってから己の顔を見る
生きている人のことはすぐ忘れるが 死んだ人のことはしょっちゅう思い出す
この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕えしはうちの健ちゃん
ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で身くねらすなり ―夢の中にて
懇々とわれは少女を諭したり何故に鴨に石を投ずるは不可なるかと
なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
市当局の整備工事より守りたる泥沼に生まれしオタマジャクシよ
当局の暴挙を防ぎし小池なり春遅き地にオタマ生まれる
新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか
今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ
同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日
長大なアリアを見事歌いきりほっと息つく谷戸の鶯
いざ行かん鯨の家にまたがりてあの青空の彼方まで
悪党の背にはらはらと梅の花
弥生三月春の力をわれに与えよ
啓蟄の虫仰ぎ見る空の青
啓蟄の虫が見ている空の雲
ふきのとう揚げる人あり描く人あり
ふきのとう描く人あり喰らう人あり
アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ
始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ
ここもまた大寺ありけり冬の谷戸
鳶一羽空に舞いたり廃寺跡
春風や幻の寺日輪月輪ここにあり
梅が香やいにしえの大寺ここにあり
春浅し一味神水の村を過ぐ
悪党共一味神水の村を過ぐ
椿落ち自由狼藉の世界かな
百花落ち自由狼藉春の朝
春浅し落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花流水朝比奈峠
悪党共落花流水の村を過ぐ
地に落ちて憾みはなきや冬柏
女房の茶碗を割りし悲しさよ
男は女に女は男になりたがり
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう
昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る
この頃の男は貧相な顔になったと言ってから己の顔を見る
生きている人のことはすぐ忘れるが 死んだ人のことはしょっちゅう思い出す
この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕えしはうちの健ちゃん
Saturday, March 29, 2008
桜咲く今朝の女の薄化粧
ふあっちょん幻論第17回 20世紀の10大トレンドその9「化粧/ファッションドボディ」
「全身化粧」の時代
20世紀は「服を脱ぐ」時代→身体自体への直接装飾加工
その端緒は1916年 英ヴォーグ誌 21年 仏ヴォーグ誌に見られる。ここでは
服をおいてけぼりにして 肌、ヒフそのものを「服」としている。
1964年ルディ・ガーンライヒ「モノキニ」 トップレス水着
ヒフ芸術の全面展開
三宅一生1989年の入れ墨ボディタイツ、ゴルチエ1996年の入れ墨ドレス
00年代アンダーカバー高橋盾のアンサンブル(ジャケット+セーター+スカート+パンツ+スカーフ+ベルト+バック+手袋+タイツ+ウィッグ)赤青白チェック 生身肌にもペイント
タトウ、ピアス、茶パツ……身体の境界を消し去るFashioned Body
耳に平気でピアスできる人と、親にもらった大切な体をピアスやタトウで傷つけたくない人とのモラル&美意識の葛藤を乗り越え、なんでもありの全身化粧の新世紀へ!
♪にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らえしうちの健ちゃん
「全身化粧」の時代
20世紀は「服を脱ぐ」時代→身体自体への直接装飾加工
その端緒は1916年 英ヴォーグ誌 21年 仏ヴォーグ誌に見られる。ここでは
服をおいてけぼりにして 肌、ヒフそのものを「服」としている。
1964年ルディ・ガーンライヒ「モノキニ」 トップレス水着
ヒフ芸術の全面展開
三宅一生1989年の入れ墨ボディタイツ、ゴルチエ1996年の入れ墨ドレス
00年代アンダーカバー高橋盾のアンサンブル(ジャケット+セーター+スカート+パンツ+スカーフ+ベルト+バック+手袋+タイツ+ウィッグ)赤青白チェック 生身肌にもペイント
タトウ、ピアス、茶パツ……身体の境界を消し去るFashioned Body
耳に平気でピアスできる人と、親にもらった大切な体をピアスやタトウで傷つけたくない人とのモラル&美意識の葛藤を乗り越え、なんでもありの全身化粧の新世紀へ!
♪にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らえしうちの健ちゃん
Friday, March 28, 2008
ブラは春風に乗って
ふあっちょん幻論第16回 20世紀の10大トレンドその8「ブラジャー/下着革命」
18世紀末 テルミドールの反乱の後「ギリシャ風」がテーマとなり薄絹、モスリンの肌着が流行。
19世紀末トレンドとしての薄着、下着ファッシヨン。
20世紀初頭の1906年にポール・ポワレが女性をコルセットから解放。コルセットなしのハイウェストドレスが登場し、反拘束による肉体の軽装化、薄着化、露出化突出。
自由の20世紀へ!
第一次大戦後 人類は完全にコルセットを捨てた。視点がウエストから「肩」へと変わり、
時代とともに身体の合理性、機能性、日常性を強調、重視するようになった。
続いてブラ、スリップ、スリップ、テディが続々登場し、体の自然な美しさを強調するようになる。
*女性の美意識の変遷
初期 1922年ヴィクトール・マルグリットの小説。胸のふくらみを抑える「少年のような娘」=ギャルソンヌへのあこがれ→これが川久保玲のコムデギャルソンに影響。
中期 50年代 ディオール/ニュールック 豊かな胸を演出
60年代 ノーブラ byルディ・ガーンライヒ
65年にボライ・コンシャス登場。
後期 80年代 フィットネスとパワーウーマン 鍛え上げられた肉体美(リサ・ライオン)
JPゴルチエ、ヴィヴィアン・ウェストウッドなどが下着→表着へ
21世紀に入って「下着の外着化」が進行しすぎて「皮膚が下着化」→エロスゾーンの後退。
♪長大なアリアを見事歌い切りほっと息つく谷戸の鶯 亡羊
18世紀末 テルミドールの反乱の後「ギリシャ風」がテーマとなり薄絹、モスリンの肌着が流行。
19世紀末トレンドとしての薄着、下着ファッシヨン。
20世紀初頭の1906年にポール・ポワレが女性をコルセットから解放。コルセットなしのハイウェストドレスが登場し、反拘束による肉体の軽装化、薄着化、露出化突出。
自由の20世紀へ!
第一次大戦後 人類は完全にコルセットを捨てた。視点がウエストから「肩」へと変わり、
時代とともに身体の合理性、機能性、日常性を強調、重視するようになった。
続いてブラ、スリップ、スリップ、テディが続々登場し、体の自然な美しさを強調するようになる。
*女性の美意識の変遷
初期 1922年ヴィクトール・マルグリットの小説。胸のふくらみを抑える「少年のような娘」=ギャルソンヌへのあこがれ→これが川久保玲のコムデギャルソンに影響。
中期 50年代 ディオール/ニュールック 豊かな胸を演出
60年代 ノーブラ byルディ・ガーンライヒ
65年にボライ・コンシャス登場。
後期 80年代 フィットネスとパワーウーマン 鍛え上げられた肉体美(リサ・ライオン)
JPゴルチエ、ヴィヴィアン・ウェストウッドなどが下着→表着へ
21世紀に入って「下着の外着化」が進行しすぎて「皮膚が下着化」→エロスゾーンの後退。
♪長大なアリアを見事歌い切りほっと息つく谷戸の鶯 亡羊
Thursday, March 27, 2008
平成東京革命音頭
♪バガテルop53
かねて私が高く評価するフランス文化を侮辱し、女性や老人やアジアの隣国を軽蔑し、唯一の取り柄といえばかつてその身内にナイスガイ俳優がいたことに過ぎない現東京都知事の石原慎太郎氏が、昨日の都議会委で新銀行東京への400億円追加出資を勝ち取られた。誠に慶賀に耐えない。
斬った張った誰でもいいから殺したかった、という世も末暗黒事件が連日相次ぐなかで、近来これほどの朗報があるだろうか。私はかつてあれほど軽蔑し、蛇蝎のごとく看做して弊履のごとく顧みなかったこの右顧左眄しょぼしょぼ目つきの三流文学者を、はじめて見直し、尊崇の眼で帝都の西北に仰ぎ見たのであった。
かくも長きにわたってこの満州王朝功労者の末裔であらせられるこの高貴なお方を保守反動、極右排外主義者の老旗手と想定し続けたことは、わが想定外の生涯の禍根、大いなる錯誤であった。
見よ、神もご照覧あれ! げにこの人こそは誤謬なきレーニン、毛沢東、チェ・ゲバラの衣鉢を継ぐ古今東西稀に見る真の社会主義者であった。ただし1周遅れ、否300周遅れの憾みはあるとしても…。
とにもかくにも、このせちがらい平成の御世にあって、いかなる困難、誹謗と中傷にもめげず、これからも倒産寸前の中小企業の経営者に対して、未審査、無担保、無制限でじやんじゃん貸付を青天井で続行してくれるというのだ。ウラア! これを前代未聞の貧民救済宮廷革命、格差社会粉砕の暴挙的快挙と呼ばずになんと言うのだ!
すでに投下された1000億円に加えた今回の400億円投入は、すべて石原氏を圧倒的に支持した教養と知性漲る都民士人各位からかすめとったほんのはした金であり、累計では都民一世当たり23000円の負担になるそうだが、ちいさい、ちいさい。こんな小銭の寄せ集めで、かの博愛の人、石原慎太郎の遠大な社会革命、人民正義の偉業、はたまた東京都民の見果てぬ夢が実現されるはずがない。
このうえは、もっと大胆に、より大胆に、さらに大胆に、前進あるのみ。
かの超富裕なる東京プレミアムスノッブウルトラスーパーブルジョワジーからもっともっとテッテ的に搾取して、中小プチブル企業経営者のみならず、小泉流グラバル新自由主義者の陰謀の犠牲者となってこのたび最底辺下層階級に転落した汝人民ルンペンプロレタリアート、西口人民広場に屯する社会的弱者たちや国の重税にあえぐわれら障碍者や老人にも救済の寛大なる網目を幾何級数的にどんどん広げてほしいものである。
万国の貧民労働者は平成革命的東京知事石原慎太郎の紅の翼の元に団結せよ!
我らが太陽帝国の首領石原慎太郎の天地に咆える社会革命を断固支持せよ!
新銀行東京を一点突破しイスラム銀行と連帯して全世界金融革命の狂った果実を手中に収めよ!
♪なんでもかんでもとにかく慎太郎ちゃん万歳!
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃 亡羊
かねて私が高く評価するフランス文化を侮辱し、女性や老人やアジアの隣国を軽蔑し、唯一の取り柄といえばかつてその身内にナイスガイ俳優がいたことに過ぎない現東京都知事の石原慎太郎氏が、昨日の都議会委で新銀行東京への400億円追加出資を勝ち取られた。誠に慶賀に耐えない。
斬った張った誰でもいいから殺したかった、という世も末暗黒事件が連日相次ぐなかで、近来これほどの朗報があるだろうか。私はかつてあれほど軽蔑し、蛇蝎のごとく看做して弊履のごとく顧みなかったこの右顧左眄しょぼしょぼ目つきの三流文学者を、はじめて見直し、尊崇の眼で帝都の西北に仰ぎ見たのであった。
かくも長きにわたってこの満州王朝功労者の末裔であらせられるこの高貴なお方を保守反動、極右排外主義者の老旗手と想定し続けたことは、わが想定外の生涯の禍根、大いなる錯誤であった。
見よ、神もご照覧あれ! げにこの人こそは誤謬なきレーニン、毛沢東、チェ・ゲバラの衣鉢を継ぐ古今東西稀に見る真の社会主義者であった。ただし1周遅れ、否300周遅れの憾みはあるとしても…。
とにもかくにも、このせちがらい平成の御世にあって、いかなる困難、誹謗と中傷にもめげず、これからも倒産寸前の中小企業の経営者に対して、未審査、無担保、無制限でじやんじゃん貸付を青天井で続行してくれるというのだ。ウラア! これを前代未聞の貧民救済宮廷革命、格差社会粉砕の暴挙的快挙と呼ばずになんと言うのだ!
すでに投下された1000億円に加えた今回の400億円投入は、すべて石原氏を圧倒的に支持した教養と知性漲る都民士人各位からかすめとったほんのはした金であり、累計では都民一世当たり23000円の負担になるそうだが、ちいさい、ちいさい。こんな小銭の寄せ集めで、かの博愛の人、石原慎太郎の遠大な社会革命、人民正義の偉業、はたまた東京都民の見果てぬ夢が実現されるはずがない。
このうえは、もっと大胆に、より大胆に、さらに大胆に、前進あるのみ。
かの超富裕なる東京プレミアムスノッブウルトラスーパーブルジョワジーからもっともっとテッテ的に搾取して、中小プチブル企業経営者のみならず、小泉流グラバル新自由主義者の陰謀の犠牲者となってこのたび最底辺下層階級に転落した汝人民ルンペンプロレタリアート、西口人民広場に屯する社会的弱者たちや国の重税にあえぐわれら障碍者や老人にも救済の寛大なる網目を幾何級数的にどんどん広げてほしいものである。
万国の貧民労働者は平成革命的東京知事石原慎太郎の紅の翼の元に団結せよ!
我らが太陽帝国の首領石原慎太郎の天地に咆える社会革命を断固支持せよ!
新銀行東京を一点突破しイスラム銀行と連帯して全世界金融革命の狂った果実を手中に収めよ!
♪なんでもかんでもとにかく慎太郎ちゃん万歳!
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃 亡羊
Wednesday, March 26, 2008
イヴ・サンローランの「シティパンツ」あるいは越境するジェンダー
ふあっちょん幻論第15回 20世紀の10大トレンドその7「シティパンツ」
1851年 米女性解放運動家、ブルーマー夫人のブルーマー登場、19世紀末のサイクリングウェアに。その頃サンローランはディオール店に入り、その後独立し反体制クリエーターとなる。
1966年 サンオーラン・リヴ・ゴーシュの「マリンルック」発表。官能的な夜のパンツ「スモーキング」発表
1967年 街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」(チュニック丈ジャケット&パンツ、ウールジャージー)「サファリスーツ」もデザイン。彼の“働く女のスーツ”を見たシャネルが、「私の後継者」と呼ぶ.
1968年 5月革命勃発、ウーマンリブ、ユニセックス、ストリート・ファッション
「シースルー」発表、あらゆる既成概念を打ち砕く。アルマーニ、カルバン・クラインが80年代に踏襲する。
70年代は“若さ”がキーワード。70年発刊の雑誌ananと若者をターゲットにした既製服の時代。すでに「9号神話の時代」が始まっている。
80年代はティエリー・ミュグレー、ゴルチエ、アライアなどのボディコンの時代。男勝りのこびないパワースーツ。いわゆるひとつのキャリアウーマンの時代。
80年代後半は肩肘はらない自然でソフトなシルエット。身体を露出する「ミニマリズム」と呼ばれるセクシーな服も誕生。ナオミ・キャンベルのような黒人トップモデルへの関心。88年パリコレデビューのマルジェラが切り裂き服など大胆な提案。
90年代はグローバル&多様化の時代。スポーツ意識の服、ゴルチエの倒錯的ホモセクシャル服。新たなる混迷。
00年からは戦争と平和の時代。万人が万人に対して武装し、疲労困憊し、その反面ではつかの間の癒しとやらを求めて己が繭の中に入り込むコクーンニングの時代。
♪ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で踊るなり 亡羊
1851年 米女性解放運動家、ブルーマー夫人のブルーマー登場、19世紀末のサイクリングウェアに。その頃サンローランはディオール店に入り、その後独立し反体制クリエーターとなる。
1966年 サンオーラン・リヴ・ゴーシュの「マリンルック」発表。官能的な夜のパンツ「スモーキング」発表
1967年 街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」(チュニック丈ジャケット&パンツ、ウールジャージー)「サファリスーツ」もデザイン。彼の“働く女のスーツ”を見たシャネルが、「私の後継者」と呼ぶ.
1968年 5月革命勃発、ウーマンリブ、ユニセックス、ストリート・ファッション
「シースルー」発表、あらゆる既成概念を打ち砕く。アルマーニ、カルバン・クラインが80年代に踏襲する。
70年代は“若さ”がキーワード。70年発刊の雑誌ananと若者をターゲットにした既製服の時代。すでに「9号神話の時代」が始まっている。
80年代はティエリー・ミュグレー、ゴルチエ、アライアなどのボディコンの時代。男勝りのこびないパワースーツ。いわゆるひとつのキャリアウーマンの時代。
80年代後半は肩肘はらない自然でソフトなシルエット。身体を露出する「ミニマリズム」と呼ばれるセクシーな服も誕生。ナオミ・キャンベルのような黒人トップモデルへの関心。88年パリコレデビューのマルジェラが切り裂き服など大胆な提案。
90年代はグローバル&多様化の時代。スポーツ意識の服、ゴルチエの倒錯的ホモセクシャル服。新たなる混迷。
00年からは戦争と平和の時代。万人が万人に対して武装し、疲労困憊し、その反面ではつかの間の癒しとやらを求めて己が繭の中に入り込むコクーンニングの時代。
♪ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で踊るなり 亡羊
Tuesday, March 25, 2008
「世界服」としてのジーンズ
ふあっちょん幻論第14回 20世紀の10大トレンドその6「ジーンズ」
ジーンズは19世紀の半ば アメリカの田舎で金鉱採掘用作業服として誕生した。
1853年 ババリアからの移民リーバイ・ストラウスが、作業用パンツを丈夫な帆布用の綾織布で作った。当時イタリアのジェノバからアメリカへ輸出されていたインディゴで染めた安くて丈夫な帆布を使用した。仏語のLe Jean→英語のJeanとなる。
同じジーンズでも、厚地綾織り綿のフランスのニーム産もあった。この「ニームのサージ」Serge de Nimes )がデニムの語源となった。
黒船の到来がわが国の明治維新をうながしたが、ペルリ提督が切実に求めていたのは、ほかでもない米国の捕鯨船の寄港と石炭、薪の補給だった。当時の米国は1851年メルヴィル著「モビーディック」のエイハブ船長みたいな輩が世界中の鯨をとりまくっていた。しかも肉は捨てていた。もったいない!
リーバイ・ストラウス社第1号ジーンズは1873年製。同社製の1880~1885年世界最古のジーンズがネバダ州の元鉱山街で発見され、リーバイ・ストラウス社が560万円で落札。腰ポケットが右側だけ。ウオッチバンドもなく、ウエストバンドつきのバックヨークもついていない。01年11月、その復刻版がヴィンテージラインとしてたった500本だけ$400で世界主要都市で発売された。
「リーバイス501」は布の重なり部分にリベットを打つというジェイコブ・ディヴァイスのアイデアを生かし、これがヒットした。
1929年の世界恐慌後、豊かになったアメリカ東部人が西部の牧場で休暇をすごしたおみやげがジーンズだった。これが「都会の街着」になり、30年代の衣服のカジュアル化を後押しした。
二つの大戦を通じて、アメリカのGIがジーンズを「世界服」にした。しかしそのイニシアチブをGIとプレスリーから奪って「反逆する青春」のイメージを作ったのはジェームス・ディーンだった。
1968年 仏5月革命.69年安田講堂.学生反乱氾濫、反戦フォーク、ヒッピー反体制運動の高揚はつねにジーンズとともにあった。「権力と戦わぬ者は、けっしてジーンズをはいてはならない」とは、当時のあまでうす氏の言葉。
ケンゾー、マリテ&フランソワ・ジルボーらがジーンズをフアッションアイテム化した段階で、ジーンズは反体制のシンボルであることをやめた。
1969年から国産ジーンズの普及と大衆化、その後20年にわたる成熟と陳腐化。
00年から海外製高級ジーンズブーム始まる。
ジーンズこそ、ストリートフアッション、トランスジェンダー、コスモポリタン、カジュアルなど、20世紀のファッション・キーワードの要件をほぼ満たす代表的なアイテムであった。
♪新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか 亡羊
ジーンズは19世紀の半ば アメリカの田舎で金鉱採掘用作業服として誕生した。
1853年 ババリアからの移民リーバイ・ストラウスが、作業用パンツを丈夫な帆布用の綾織布で作った。当時イタリアのジェノバからアメリカへ輸出されていたインディゴで染めた安くて丈夫な帆布を使用した。仏語のLe Jean→英語のJeanとなる。
同じジーンズでも、厚地綾織り綿のフランスのニーム産もあった。この「ニームのサージ」Serge de Nimes )がデニムの語源となった。
黒船の到来がわが国の明治維新をうながしたが、ペルリ提督が切実に求めていたのは、ほかでもない米国の捕鯨船の寄港と石炭、薪の補給だった。当時の米国は1851年メルヴィル著「モビーディック」のエイハブ船長みたいな輩が世界中の鯨をとりまくっていた。しかも肉は捨てていた。もったいない!
リーバイ・ストラウス社第1号ジーンズは1873年製。同社製の1880~1885年世界最古のジーンズがネバダ州の元鉱山街で発見され、リーバイ・ストラウス社が560万円で落札。腰ポケットが右側だけ。ウオッチバンドもなく、ウエストバンドつきのバックヨークもついていない。01年11月、その復刻版がヴィンテージラインとしてたった500本だけ$400で世界主要都市で発売された。
「リーバイス501」は布の重なり部分にリベットを打つというジェイコブ・ディヴァイスのアイデアを生かし、これがヒットした。
1929年の世界恐慌後、豊かになったアメリカ東部人が西部の牧場で休暇をすごしたおみやげがジーンズだった。これが「都会の街着」になり、30年代の衣服のカジュアル化を後押しした。
二つの大戦を通じて、アメリカのGIがジーンズを「世界服」にした。しかしそのイニシアチブをGIとプレスリーから奪って「反逆する青春」のイメージを作ったのはジェームス・ディーンだった。
1968年 仏5月革命.69年安田講堂.学生反乱氾濫、反戦フォーク、ヒッピー反体制運動の高揚はつねにジーンズとともにあった。「権力と戦わぬ者は、けっしてジーンズをはいてはならない」とは、当時のあまでうす氏の言葉。
ケンゾー、マリテ&フランソワ・ジルボーらがジーンズをフアッションアイテム化した段階で、ジーンズは反体制のシンボルであることをやめた。
1969年から国産ジーンズの普及と大衆化、その後20年にわたる成熟と陳腐化。
00年から海外製高級ジーンズブーム始まる。
ジーンズこそ、ストリートフアッション、トランスジェンダー、コスモポリタン、カジュアルなど、20世紀のファッション・キーワードの要件をほぼ満たす代表的なアイテムであった。
♪新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか 亡羊
Monday, March 24, 2008
五味文彦・本郷和人編「吾妻鏡2」平氏滅亡を読んで
照る日曇る日第107回
「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。
例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。
文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。
後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。
当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。
彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。
しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。
頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。
義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。
このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。
そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊
「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。
例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。
文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。
後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。
当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。
彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。
しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。
頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。
義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。
このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。
そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊
Sunday, March 23, 2008
春風とミニ 20世紀の10大トレンドその5「ミニ/ボディコンシャス」
ふあっちょん幻論第13回
1950年代 サントロペのリゾートでカジュアルウエアブーム。戦後のベビーブーマー時代が主導する大量生産・大衆消費時代がはじまる。
1960年代 ロンドンのマリー・クワント、パリのアンドレ・クレージュが全世界にBODY CONCIOUSという意識を植えつけた。64年ミニ・パンツも。
1980年代 アズディン・アライア、クリスティアン・ラクロワ再浮上
その後00年代も、基本底流にミニが流れている。それはマーシャル・マクルーハンの「衣服はヒフの拡張である」という考え方の実践である。
その頂点は1994年製作のロバート・アルトマンの映画「プレタポルテ」における全裸モデルのパリコレシーンであった。
あらゆる「衣装という意匠」を突き抜けて、「裸自体が最高の衣装」であるとするアルトマンの衣装哲学が高らかに闡明されたのである。
タトウ、ピアス、整形手術、などによってこの「究極の衣装、至高の衣装」そのものをさらに先鋭的に構造変革し、人格のアバター化、複合化、重層化、無人格化、非人間化を図ろうとする私たちの潜在的な欲望が、今日もふぁっちょんの最先端を揺るがせている。
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
1950年代 サントロペのリゾートでカジュアルウエアブーム。戦後のベビーブーマー時代が主導する大量生産・大衆消費時代がはじまる。
1960年代 ロンドンのマリー・クワント、パリのアンドレ・クレージュが全世界にBODY CONCIOUSという意識を植えつけた。64年ミニ・パンツも。
1980年代 アズディン・アライア、クリスティアン・ラクロワ再浮上
その後00年代も、基本底流にミニが流れている。それはマーシャル・マクルーハンの「衣服はヒフの拡張である」という考え方の実践である。
その頂点は1994年製作のロバート・アルトマンの映画「プレタポルテ」における全裸モデルのパリコレシーンであった。
あらゆる「衣装という意匠」を突き抜けて、「裸自体が最高の衣装」であるとするアルトマンの衣装哲学が高らかに闡明されたのである。
タトウ、ピアス、整形手術、などによってこの「究極の衣装、至高の衣装」そのものをさらに先鋭的に構造変革し、人格のアバター化、複合化、重層化、無人格化、非人間化を図ろうとする私たちの潜在的な欲望が、今日もふぁっちょんの最先端を揺るがせている。
瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花
Saturday, March 22, 2008
母六回忌
天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり
日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音
教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり
陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり
千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき
白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず
そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ
うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな
我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う
母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり
日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音
教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり
陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり
千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき
白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず
そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ
うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな
我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う
母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母
Friday, March 21, 2008
春風スタディ 20世紀の10大トレンドその4「化学繊維/テクノロジー」
ふあっちょん幻論第12回
1935年 ナイロン
人類初の化学繊維 米デュポン社のW・カロザース発明。石炭、水、空気で作る合成繊維
「くもの糸より細く優美で鉄鋼より強い」→パラシュート用を民生に転用
1940年 ストッキング大流行
60年代 宇宙開発と宇宙服と化学繊維
1964年 アンドレ・クレージュ ミニスカート発表→パンスト
66年 金属板や鎖やプラスチック片という硬質の無機質素材を用いた甲冑風ドレスで一世風靡したパコ・ラバンヌが、プラスチックドレス発表 布と糸で作られる服という概念を破る
身頃を円形にくり貫いた宇宙服風ドレスとヘルメットで「スペースエイジ」を表現したカルダン、ビニール素材と幾何学的なラインで宇宙時代のイメージを提案したアンドレ・クレージュ 宇宙、未来イメージ、不織布→懐かしく温かなレトロ・フーチャーが03春夏のルイ・ヴィトン、フセイン・チャラヤン、ドルチェ&ガッパーナ、プラダ、フェンディで再現された。
*ハイテク新素材開発史
ナイロン→ポリエステル→スパンテックス→フッソ繊維へと新展開。それ以降ハイテク日本繊維「新合繊」の時代
80年代 シンセレート素材、ポリエステル合せん中空糸→湿度を熱に変える
三宅一生、ヘルムート・ラング
90年代 ミニマル服→体温と光に色が変化する素材
2000年 渡辺淳弥 撥水性のマイクロファイバー
01春夏高橋盾スーパーフラット(9種マテリアル混合)などなど。
21世紀に入ってからは米デュポンがトウモロコシ原料のポリマー3GTやプラスチック原料のバイオ糸を生産、2010年までに同社は商品の25%をバイオ化する。
わが国では東レ、東洋紡のバイオテクノロジーをはじめ最新IT技術を援用したハイテク素材の開発が急速に進み、水着、スポーツウエアのみならずスーツやカジュアルウエアなどの新製品にもシーズンごとに取り入れられてあたらしい需要を喚起している。
新規マテリアル技術こそ、わが国の未来派ファッションの原動力であろう。
ただしNASAの宇宙服や08年に米陸軍が配備した「近未来型戦闘服」のように手放しで賛美できないハイテク技術もある。
例えば後者ではヘルメットには現在地を司令部へ伝達するGPS、夜間の戦場を透視できる赤外線カメラ、敵味方識別の発信機、生物化学兵器の探知機、ガスマスクなどを装着。血圧、体温測定器付きでそのデータは司令部や部隊の衛生兵に送られ全体的にロボコップのデザインに似ている。ハイテク戦争ウエアもファションメーカーの重要なビジネスなのである。
♪なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり 亡羊
1935年 ナイロン
人類初の化学繊維 米デュポン社のW・カロザース発明。石炭、水、空気で作る合成繊維
「くもの糸より細く優美で鉄鋼より強い」→パラシュート用を民生に転用
1940年 ストッキング大流行
60年代 宇宙開発と宇宙服と化学繊維
1964年 アンドレ・クレージュ ミニスカート発表→パンスト
66年 金属板や鎖やプラスチック片という硬質の無機質素材を用いた甲冑風ドレスで一世風靡したパコ・ラバンヌが、プラスチックドレス発表 布と糸で作られる服という概念を破る
身頃を円形にくり貫いた宇宙服風ドレスとヘルメットで「スペースエイジ」を表現したカルダン、ビニール素材と幾何学的なラインで宇宙時代のイメージを提案したアンドレ・クレージュ 宇宙、未来イメージ、不織布→懐かしく温かなレトロ・フーチャーが03春夏のルイ・ヴィトン、フセイン・チャラヤン、ドルチェ&ガッパーナ、プラダ、フェンディで再現された。
*ハイテク新素材開発史
ナイロン→ポリエステル→スパンテックス→フッソ繊維へと新展開。それ以降ハイテク日本繊維「新合繊」の時代
80年代 シンセレート素材、ポリエステル合せん中空糸→湿度を熱に変える
三宅一生、ヘルムート・ラング
90年代 ミニマル服→体温と光に色が変化する素材
2000年 渡辺淳弥 撥水性のマイクロファイバー
01春夏高橋盾スーパーフラット(9種マテリアル混合)などなど。
21世紀に入ってからは米デュポンがトウモロコシ原料のポリマー3GTやプラスチック原料のバイオ糸を生産、2010年までに同社は商品の25%をバイオ化する。
わが国では東レ、東洋紡のバイオテクノロジーをはじめ最新IT技術を援用したハイテク素材の開発が急速に進み、水着、スポーツウエアのみならずスーツやカジュアルウエアなどの新製品にもシーズンごとに取り入れられてあたらしい需要を喚起している。
新規マテリアル技術こそ、わが国の未来派ファッションの原動力であろう。
ただしNASAの宇宙服や08年に米陸軍が配備した「近未来型戦闘服」のように手放しで賛美できないハイテク技術もある。
例えば後者ではヘルメットには現在地を司令部へ伝達するGPS、夜間の戦場を透視できる赤外線カメラ、敵味方識別の発信機、生物化学兵器の探知機、ガスマスクなどを装着。血圧、体温測定器付きでそのデータは司令部や部隊の衛生兵に送られ全体的にロボコップのデザインに似ている。ハイテク戦争ウエアもファションメーカーの重要なビジネスなのである。
♪なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり 亡羊
Thursday, March 20, 2008
ふあっちょん幻論第10回
春のにわか勉強 20世紀の10大トレンドその3
第3トレンド
クリスチャン・ディオールの「ニュールック」/エレガンスの再構築
19世紀頃からファッション界には身体快適機能性への大反動が起こった。せっかくそれまで人間の身体の機能性に優しく対応してきたナチュラリズム志向を、当時ファッション界の盟主であったディオールが自己否定したのである。
1947年2月11日、「心が軽やかなら、布地の重さなど苦痛にならない」という有名な格言とともに、パリのモンテーニュ街のアトリエで誕生したのは、細いウエスト、美しくシェイプした豊かな胸、たっぷりしたロングスカートのドレスであった。
これこそは19世紀の古典的エレガンスの20世紀における復活であった。当時の「ハーパース・バザー」の編集長キャメル・スノウ、ディオールのこの新作を「本当に新しいルック」と評したのでこの名前が一世を風靡したのである。
ディオールの功績
軍服ルックを駆逐 エビータ、マーガレット王女、ヘプバーンの衣装etc
54年 Hライン 55年 Yラインを発表
「平和時代のぜいたく」の象徴 リヨンの高級絹
シャネル以降アメリカに移動したファッションのヨーロッパへの復権
50年代はディオールに続きピエール・バルマン、バレンシアガなどがパリ・オートクチュールの黄金期を作った。しかしこれは一時的現象で、57年秋には紡錘型のフュゾーラインのルーズフィットのシュミーズドレスが発表され、着やすい服の時代が再来する。
このフォーマルとカジュアルの2極への重心の移動と動・反動こそは世界のファッション史の大きな機制のひとつである。我々は、一定の周期で移動する惑星の軌道を想像することもできよう。
60年代はTシャツ&ジーンズに象徴されるカジュアルなユニセックスが登場した。
マリー・クワント、ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、サンローランなどのミニ旋風が巻き起こり、体を美しく露出する美意識・価値観が登場する。
米国では50年代半ばのビートニック世代が史上初めてストリートファッションを提示し、この流れが66年のヒッピー文化に継承される。
64年ガーンライヒのトップレス水着、パリコレでは66年サンローランのシティパンツが登場。エレガントで機能的なスタイルは67年に日本のイエイエで最後の花を咲かせた。
女房の茶碗を割りし悲しさよ 亡羊
第3トレンド
クリスチャン・ディオールの「ニュールック」/エレガンスの再構築
19世紀頃からファッション界には身体快適機能性への大反動が起こった。せっかくそれまで人間の身体の機能性に優しく対応してきたナチュラリズム志向を、当時ファッション界の盟主であったディオールが自己否定したのである。
1947年2月11日、「心が軽やかなら、布地の重さなど苦痛にならない」という有名な格言とともに、パリのモンテーニュ街のアトリエで誕生したのは、細いウエスト、美しくシェイプした豊かな胸、たっぷりしたロングスカートのドレスであった。
これこそは19世紀の古典的エレガンスの20世紀における復活であった。当時の「ハーパース・バザー」の編集長キャメル・スノウ、ディオールのこの新作を「本当に新しいルック」と評したのでこの名前が一世を風靡したのである。
ディオールの功績
軍服ルックを駆逐 エビータ、マーガレット王女、ヘプバーンの衣装etc
54年 Hライン 55年 Yラインを発表
「平和時代のぜいたく」の象徴 リヨンの高級絹
シャネル以降アメリカに移動したファッションのヨーロッパへの復権
50年代はディオールに続きピエール・バルマン、バレンシアガなどがパリ・オートクチュールの黄金期を作った。しかしこれは一時的現象で、57年秋には紡錘型のフュゾーラインのルーズフィットのシュミーズドレスが発表され、着やすい服の時代が再来する。
このフォーマルとカジュアルの2極への重心の移動と動・反動こそは世界のファッション史の大きな機制のひとつである。我々は、一定の周期で移動する惑星の軌道を想像することもできよう。
60年代はTシャツ&ジーンズに象徴されるカジュアルなユニセックスが登場した。
マリー・クワント、ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、サンローランなどのミニ旋風が巻き起こり、体を美しく露出する美意識・価値観が登場する。
米国では50年代半ばのビートニック世代が史上初めてストリートファッションを提示し、この流れが66年のヒッピー文化に継承される。
64年ガーンライヒのトップレス水着、パリコレでは66年サンローランのシティパンツが登場。エレガントで機能的なスタイルは67年に日本のイエイエで最後の花を咲かせた。
女房の茶碗を割りし悲しさよ 亡羊
Wednesday, March 19, 2008
歌人たちの鎌倉
鎌倉ちょっと不思議な物語107回
春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。
万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。
実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。
家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ
どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。
さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。
しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。
鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。
地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊
与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。
晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。
鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし
この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ
死者のこともう忘れよとダリア咲く
という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。
♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊
春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。
万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。
実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。
家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ
どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。
さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。
しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。
鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。
地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊
与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。
晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。
鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし
この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ
死者のこともう忘れよとダリア咲く
という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。
♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊
Tuesday, March 18, 2008
網野善彦著作集第1巻「中世荘園の様相」を読む
照る日曇る日第106回
岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。
いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さな部落にスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。
長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。
すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。
当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。
もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。
広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。
しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。
おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊
岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。
いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さな部落にスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。
長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。
すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。
当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。
もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。
広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。
しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。
おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊
Monday, March 17, 2008
春の復習 20世紀の10大トレンドその2
ふあっちょん幻論第10回
第2トレンド マドレーヌ・ヴィオネのバイアス・カット=服の再構成とその日本における後継者
1917-39年まで活躍したマドレーヌ・ヴィオネは、立体裁断(ドレーピング)によるバイアス・カットやサーキュラーカットなどの革新的なアイデアを連発した。
「カットは身体とのフイット性や運動性と結びつかねばならぬ」という彼女の考えは、クリストバル・バレンシアガ、三宅一生にも共通する姿勢である。
彼女はモスリンを使い60cm大の木製マネキン人形上でドレーピングし、シームの位置も自由にきめ、あとでそのパターンを実物大に拡大したのである。(紙上の平面パターンを否定)
ヴィオネの功績
1929年代前半 チューブドレス~アナトミカル(解剖学的)カットの発明
30年代 サーキュラーカット→これは50年代のクリストバル・バレンシアガによって継承され、バレンシアガは、驚異の裁断と最高級技術で「オートクチュールの巨匠」と呼ばれた。
またヴィオネによるチュニックドレス、オフ・ネック、サックドレスは、のちの既製服の基本となった。
ヴィオネの後継者としての三宅一生
70年代の「一枚の布」、80年代からの「プリーツ」、99年にはコンピューターで着る人の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
A-POCとはa peace of clothの略で、蚕が繭を紡ぐように糸から繊維がチューブ状に織り出されていく。98年春夏のジャスト・ビフォーという筒状のニットが出発点。藤原大氏コンピューター製作のジャージー編機から出てきた、ひとつながりのニットをカットするだけで、縫製もせずに着る事ができる。
高校時代にイサムノグチ設計の平和大橋に感銘を受けてデザイナーを志した彼は、つねに身体と服の原点を見つめてきた。過去の類型にない独自の新しいフオルムと素材が有機的に融合している。一枚の布に無数のフォルムが内臓されているのである。
2000年4月都現代美術館展におけるISSEY・MIYAKE MAKING THINGSはその集大成であった。そこでは以下の作品が提示された。
「バケット」~どこでカットしてもほつれるニット
「モビール」~人間の格好をしたクッション.どこでも寝られ生分解性でリサイクル。
「A-POCクイーン」~CP制御でチューブ状ニットが編み出される。ロール1人分で帽子、ドレス、手袋、靴下、財布、大小バック、ブラトップ、ショーツ、ベルトなど一式が内蔵されている。半そで、長そで、ロング、ショートの選択可能
A-POCの今後の応用としては、衣服以外、医療用品、建築などが考えられる。
A-POCからA-POS a peace of strings 糸や繊維をもっと自由にあやつる
A-POM オリジナル機械に向かって好みの色やデザインを入力するとポンと衣服が出る
A-POE 社会的教育
三宅一生の本質は、ポエジーである。彼はハイテクノロジーを制御できるイマジネーション+ポエジーが21世紀のデザインをつくると考え、六本木ミッドタウンに21_21 DESIGN SIGHTを設立した。
♪春浅し落花狼藉朝比奈峠 亡羊
第2トレンド マドレーヌ・ヴィオネのバイアス・カット=服の再構成とその日本における後継者
1917-39年まで活躍したマドレーヌ・ヴィオネは、立体裁断(ドレーピング)によるバイアス・カットやサーキュラーカットなどの革新的なアイデアを連発した。
「カットは身体とのフイット性や運動性と結びつかねばならぬ」という彼女の考えは、クリストバル・バレンシアガ、三宅一生にも共通する姿勢である。
彼女はモスリンを使い60cm大の木製マネキン人形上でドレーピングし、シームの位置も自由にきめ、あとでそのパターンを実物大に拡大したのである。(紙上の平面パターンを否定)
ヴィオネの功績
1929年代前半 チューブドレス~アナトミカル(解剖学的)カットの発明
30年代 サーキュラーカット→これは50年代のクリストバル・バレンシアガによって継承され、バレンシアガは、驚異の裁断と最高級技術で「オートクチュールの巨匠」と呼ばれた。
またヴィオネによるチュニックドレス、オフ・ネック、サックドレスは、のちの既製服の基本となった。
ヴィオネの後継者としての三宅一生
70年代の「一枚の布」、80年代からの「プリーツ」、99年にはコンピューターで着る人の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
A-POCとはa peace of clothの略で、蚕が繭を紡ぐように糸から繊維がチューブ状に織り出されていく。98年春夏のジャスト・ビフォーという筒状のニットが出発点。藤原大氏コンピューター製作のジャージー編機から出てきた、ひとつながりのニットをカットするだけで、縫製もせずに着る事ができる。
高校時代にイサムノグチ設計の平和大橋に感銘を受けてデザイナーを志した彼は、つねに身体と服の原点を見つめてきた。過去の類型にない独自の新しいフオルムと素材が有機的に融合している。一枚の布に無数のフォルムが内臓されているのである。
2000年4月都現代美術館展におけるISSEY・MIYAKE MAKING THINGSはその集大成であった。そこでは以下の作品が提示された。
「バケット」~どこでカットしてもほつれるニット
「モビール」~人間の格好をしたクッション.どこでも寝られ生分解性でリサイクル。
「A-POCクイーン」~CP制御でチューブ状ニットが編み出される。ロール1人分で帽子、ドレス、手袋、靴下、財布、大小バック、ブラトップ、ショーツ、ベルトなど一式が内蔵されている。半そで、長そで、ロング、ショートの選択可能
A-POCの今後の応用としては、衣服以外、医療用品、建築などが考えられる。
A-POCからA-POS a peace of strings 糸や繊維をもっと自由にあやつる
A-POM オリジナル機械に向かって好みの色やデザインを入力するとポンと衣服が出る
A-POE 社会的教育
三宅一生の本質は、ポエジーである。彼はハイテクノロジーを制御できるイマジネーション+ポエジーが21世紀のデザインをつくると考え、六本木ミッドタウンに21_21 DESIGN SIGHTを設立した。
♪春浅し落花狼藉朝比奈峠 亡羊
Sunday, March 16, 2008
春の復習 20世紀の10大トレンドその1
ふあっちょん幻論第9回
18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。
第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。
第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)
彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。
仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。
シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。
♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく
18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。
第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。
第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)
彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。
仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。
シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。
♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく
Saturday, March 15, 2008
帰ってきたカエルたち
♪バガテルop52&鎌倉ちょっと不思議な物語106回
1ヶ月以上にわたって続いていた朝比奈峠の工事がいちおう終わってふたたび自由に往来できるようになった。
危険な倒木を未然に防いだり、歩行者が歩きやすくするということで一部の箇所に橋を掛けたり、補強したりしたそうだ。
700年前の古道の表面は舗装したかのようにつるつるになり、峠道の前後左右に群がり生えていた植物はきれいさっぱり刈り取られてしまったために以前の鬱蒼とした中世の風情は失われてしまったが、まあこれもやむをえないか。
私はかねてより心に掛けていた峠道の途中の湿地に天然自然に誕生するオタマジャクシのことが気が気でなかったので、市の工事担当者にかねてから当該区画の環境保全の依頼をしていたが、幸い無傷のままで工事が終わった。
しかし例年ならば2月に行なわれるはずのカエルの産卵がいっこうに見られず、工事のせいで土中に隠れていた親ガエルが全滅したのではないかとやきもきしていたのだが、3日前に産み付けられた卵を発見し、ようやく胸をなでおろしているところだ。
このあたりには昔は少なくとも3種類のカエルが繁殖し、特に啓蟄の頃数多くの大きなヒキガエルの雌雄が泥沼のいたるところで交尾する姿をよく見かけて興奮したものだが、去年あたりからそういう感動的な光景は跡を絶った。
その代わりに昨日浮かんでいたのは小さな2匹のアカガエルであった。おそらく彼ら夫婦が、私が冬の間に落ち葉を掻き分けてせっせと掘った3つの水溜りの2つに産卵してくれたのであろう。できたらもう一箇所にも意気のいい生卵を生んでくれ!と私は声援を送ったが、彼らは知らん顔をしてそっぽを向いていた。
産卵は2月から3月まで何度かにわたって行なわれ、それが4月にオタマジャクシにかえり、初夏の頃にようやく小さなカエルになるのだが、それまでに水溜りが枯渇したり、無法者がオートバイで乗り入れてきてひき殺したり、いたずら者が自宅に持ちかえったりしてほとんど消滅するので、私は全体の卵のおよそ2割を自宅とおばあちゃんチの水がめで養殖し、大きくなってから再びこの池に放して“ういきゃつら”の生育を側面援助している。
年々少なくなるカエルの聖地を断固死守することはたやすくはないが、それは私のささやかな生きがいでもある。ゲロゲロ。
♪痩せガエル逃げるなも一度愛し合え 産めよ増やせよ日本のたから 亡羊
1ヶ月以上にわたって続いていた朝比奈峠の工事がいちおう終わってふたたび自由に往来できるようになった。
危険な倒木を未然に防いだり、歩行者が歩きやすくするということで一部の箇所に橋を掛けたり、補強したりしたそうだ。
700年前の古道の表面は舗装したかのようにつるつるになり、峠道の前後左右に群がり生えていた植物はきれいさっぱり刈り取られてしまったために以前の鬱蒼とした中世の風情は失われてしまったが、まあこれもやむをえないか。
私はかねてより心に掛けていた峠道の途中の湿地に天然自然に誕生するオタマジャクシのことが気が気でなかったので、市の工事担当者にかねてから当該区画の環境保全の依頼をしていたが、幸い無傷のままで工事が終わった。
しかし例年ならば2月に行なわれるはずのカエルの産卵がいっこうに見られず、工事のせいで土中に隠れていた親ガエルが全滅したのではないかとやきもきしていたのだが、3日前に産み付けられた卵を発見し、ようやく胸をなでおろしているところだ。
このあたりには昔は少なくとも3種類のカエルが繁殖し、特に啓蟄の頃数多くの大きなヒキガエルの雌雄が泥沼のいたるところで交尾する姿をよく見かけて興奮したものだが、去年あたりからそういう感動的な光景は跡を絶った。
その代わりに昨日浮かんでいたのは小さな2匹のアカガエルであった。おそらく彼ら夫婦が、私が冬の間に落ち葉を掻き分けてせっせと掘った3つの水溜りの2つに産卵してくれたのであろう。できたらもう一箇所にも意気のいい生卵を生んでくれ!と私は声援を送ったが、彼らは知らん顔をしてそっぽを向いていた。
産卵は2月から3月まで何度かにわたって行なわれ、それが4月にオタマジャクシにかえり、初夏の頃にようやく小さなカエルになるのだが、それまでに水溜りが枯渇したり、無法者がオートバイで乗り入れてきてひき殺したり、いたずら者が自宅に持ちかえったりしてほとんど消滅するので、私は全体の卵のおよそ2割を自宅とおばあちゃんチの水がめで養殖し、大きくなってから再びこの池に放して“ういきゃつら”の生育を側面援助している。
年々少なくなるカエルの聖地を断固死守することはたやすくはないが、それは私のささやかな生きがいでもある。ゲロゲロ。
♪痩せガエル逃げるなも一度愛し合え 産めよ増やせよ日本のたから 亡羊
Friday, March 14, 2008
この家を見よ! 「FUJIMORI藤森照信建築」を読む
照る日曇る日第105回&勝手に建築観光29回
藤森照信はいま私が最も興味を懐き、共感をもってみつめている建築家の一人である。
20世紀建築の4人の巨匠はグロピウス、ル・コルビュジエ、ライト、ミースであるが、藤森が原廣司と共に高く評価するのはミースである。線と面だけで作られた抽象的で均質な表現こそが20世紀建築の最大の特徴であり、それをもっともよく体現しているのがミースであるというのだ。
ミースの表現の元になっているのはデ・ステイル派であり、その源泉をたどるとデカルトにいたる。デカルトこそが近代哲学のみならず近代建築の祖であった。
いっぽうでは20世紀は科学技術の時代であり、科学技術を支えるのは数学的世界観であり、建築に添って解釈するならば、面と線による抽象的、幾何学的造形こそそれに該当するはずだが、この点をもっと突き詰めた建築家はミースよりもグロピウスであったと藤森はいう。
グロピウスが20世紀建築の座礁軸のゼロ点であると考えると、ル・コルビュジエはヨーロッパ建築文化の主流を成す海と光と大理石の地中海方面へ、アールトは白夜と針葉樹の北欧へ、ガウディはペレネー山脈の彼方のイスラム色の残るスペインへ、ライトは西部開拓のアメリカへ、それぞれの方向に引かれた線上に位置する。この伝でいけば、わが国の巨匠丹下健三は木に由来する柱梁構造の日本へ引いた線の先端に位置づけられるというわけである。
結局グロピウスの建築は20世紀世界にとっての数学や科学技術のようなインターナショナルな意味を持った。彼以外はル・コルビュジエもガウディもライトも無色透明なインターナショナルになにがしかの文化的・地域的要素を加えて成立していると藤森は説くのであるが、では丹下の弟子である藤森自身の建築はいかなるものであるかをこれから眺めてみよう。
そもそもこの人は鈴木博之と同様、一介の建築史家であってほんらいは現場の人ではなかったのだが、ある日突然依頼を受け、1991年2月、生まれ故郷の茅野市に神長官守矢史料館という建物を建てた。
吉阪隆正の影響を受けた藤森は、「孫悟空の飛んでいるような大地に立つひとくれの土の塊」の如き、「あらゆる建築の始原であり、どこの国のどの土地の風土も文化も感じさせない超無国籍の民家」と評されるきわめて個性的な建物を作ってしまったのである。私が見るところ、これに匹敵する建築物は伊勢市御塩殿の天地根元造しかないだろう。
本来ならばそのすぐそばに実家がある伊東豊雄がやるべき仕事であったが、やむを得ぬ事情でピンチヒッターに立ったところ、これがトンでもない初打席場外ホーマーとなり、ここから藤森の破竹の快進撃が始まった。
2作目に作った自宅が、かの有名な「タンポポハウス」である。昔の日本の農家には茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせる「芝棟」という植物と建築の一体化の手法があったが、これを平成の御世に甦らせたのが藤森だった。
もっともこれはわが国の東北地方だけでなく仏ノルマンディやヴェルサイユ宮殿のアモーの農家のルッカノグィニージの塔などにも植物がそびえているそうだ。その後この手法を藤森は盟友赤瀬川原平宅の「ニラハウス」、屋根のてっぺんに松がすっくと聳え立つ「一本松ハウス」や「ラムネ温泉館」、伊豆大島の「ツバキ城」、イチハツとキキョウが箱根連山を吹く風になびく「養老昆虫館」でも採用している。
樹木を頂上におったてるのは、当世風に言えば、人工物を自然で覆う環境主義的な発想であろうが、藤森は屋根のてっぺんだけでなく家の内外のいたるところに屋根を突き破って自然のままの樹木のぶっとい柱曲がりくねった枝を空高く貫通させる。
この「お山の大将我一人」的な腕白ターザン少年の素晴らしい建築冒険の源泉を、赤瀬川は諏訪大社の「御柱祭」の御柱に見出している。御柱というのは神の依代で人間の信仰の原型である。太古天の神霊にお出ましを願うための媒体こそが、藤森にとっての家作りの原点ではないか、と憶測をたくましくするのである。
まるでナガサキアゲハの巨大な五齢の幼虫か古代鯨が大空に向かって飛び出さんばかりに無類の生命的な存在感をたたえて大地に鎮座している「ねむの木こども美術館」や「焼杉ハウス」の勇姿、さらには満開の桜の木に取り囲まれ、たった一本の巨大な樹木に支えられて宙空にそびえている「茶室 徹」など、藤森のすべての建築群に共通するのは、青白き腐れインテリ思想や難解なヒポコンデリー建築思想から完全に解き放たれた原&現縄文人のあまりにも健全なエラン・ヴィタール、かの偉大なる剽窃家の安藤やら貧血症の磯崎やら突然死んじまった黒川やら才能てんでなき隈研吾やらかの醜悪かつ反吐の出るような江戸東京博物館をつくりし菊竹清訓等々の有象無象、
ともかくゲーリー・フランクと荒川修作以外の既存のいっさいの建築を“すでに死に絶えたるたるもの”とさえ思い込ませる無限の自由奔放さと精神の自由、自然に根ざしつつなおも天空の太陽と星の彼方へとあくがれるかの永遠のロマンチシズムであらう。
♪藤森の鯨の家にまたがりていざや空の彼方まで 亡羊
藤森照信はいま私が最も興味を懐き、共感をもってみつめている建築家の一人である。
20世紀建築の4人の巨匠はグロピウス、ル・コルビュジエ、ライト、ミースであるが、藤森が原廣司と共に高く評価するのはミースである。線と面だけで作られた抽象的で均質な表現こそが20世紀建築の最大の特徴であり、それをもっともよく体現しているのがミースであるというのだ。
ミースの表現の元になっているのはデ・ステイル派であり、その源泉をたどるとデカルトにいたる。デカルトこそが近代哲学のみならず近代建築の祖であった。
いっぽうでは20世紀は科学技術の時代であり、科学技術を支えるのは数学的世界観であり、建築に添って解釈するならば、面と線による抽象的、幾何学的造形こそそれに該当するはずだが、この点をもっと突き詰めた建築家はミースよりもグロピウスであったと藤森はいう。
グロピウスが20世紀建築の座礁軸のゼロ点であると考えると、ル・コルビュジエはヨーロッパ建築文化の主流を成す海と光と大理石の地中海方面へ、アールトは白夜と針葉樹の北欧へ、ガウディはペレネー山脈の彼方のイスラム色の残るスペインへ、ライトは西部開拓のアメリカへ、それぞれの方向に引かれた線上に位置する。この伝でいけば、わが国の巨匠丹下健三は木に由来する柱梁構造の日本へ引いた線の先端に位置づけられるというわけである。
結局グロピウスの建築は20世紀世界にとっての数学や科学技術のようなインターナショナルな意味を持った。彼以外はル・コルビュジエもガウディもライトも無色透明なインターナショナルになにがしかの文化的・地域的要素を加えて成立していると藤森は説くのであるが、では丹下の弟子である藤森自身の建築はいかなるものであるかをこれから眺めてみよう。
そもそもこの人は鈴木博之と同様、一介の建築史家であってほんらいは現場の人ではなかったのだが、ある日突然依頼を受け、1991年2月、生まれ故郷の茅野市に神長官守矢史料館という建物を建てた。
吉阪隆正の影響を受けた藤森は、「孫悟空の飛んでいるような大地に立つひとくれの土の塊」の如き、「あらゆる建築の始原であり、どこの国のどの土地の風土も文化も感じさせない超無国籍の民家」と評されるきわめて個性的な建物を作ってしまったのである。私が見るところ、これに匹敵する建築物は伊勢市御塩殿の天地根元造しかないだろう。
本来ならばそのすぐそばに実家がある伊東豊雄がやるべき仕事であったが、やむを得ぬ事情でピンチヒッターに立ったところ、これがトンでもない初打席場外ホーマーとなり、ここから藤森の破竹の快進撃が始まった。
2作目に作った自宅が、かの有名な「タンポポハウス」である。昔の日本の農家には茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせる「芝棟」という植物と建築の一体化の手法があったが、これを平成の御世に甦らせたのが藤森だった。
もっともこれはわが国の東北地方だけでなく仏ノルマンディやヴェルサイユ宮殿のアモーの農家のルッカノグィニージの塔などにも植物がそびえているそうだ。その後この手法を藤森は盟友赤瀬川原平宅の「ニラハウス」、屋根のてっぺんに松がすっくと聳え立つ「一本松ハウス」や「ラムネ温泉館」、伊豆大島の「ツバキ城」、イチハツとキキョウが箱根連山を吹く風になびく「養老昆虫館」でも採用している。
樹木を頂上におったてるのは、当世風に言えば、人工物を自然で覆う環境主義的な発想であろうが、藤森は屋根のてっぺんだけでなく家の内外のいたるところに屋根を突き破って自然のままの樹木のぶっとい柱曲がりくねった枝を空高く貫通させる。
この「お山の大将我一人」的な腕白ターザン少年の素晴らしい建築冒険の源泉を、赤瀬川は諏訪大社の「御柱祭」の御柱に見出している。御柱というのは神の依代で人間の信仰の原型である。太古天の神霊にお出ましを願うための媒体こそが、藤森にとっての家作りの原点ではないか、と憶測をたくましくするのである。
まるでナガサキアゲハの巨大な五齢の幼虫か古代鯨が大空に向かって飛び出さんばかりに無類の生命的な存在感をたたえて大地に鎮座している「ねむの木こども美術館」や「焼杉ハウス」の勇姿、さらには満開の桜の木に取り囲まれ、たった一本の巨大な樹木に支えられて宙空にそびえている「茶室 徹」など、藤森のすべての建築群に共通するのは、青白き腐れインテリ思想や難解なヒポコンデリー建築思想から完全に解き放たれた原&現縄文人のあまりにも健全なエラン・ヴィタール、かの偉大なる剽窃家の安藤やら貧血症の磯崎やら突然死んじまった黒川やら才能てんでなき隈研吾やらかの醜悪かつ反吐の出るような江戸東京博物館をつくりし菊竹清訓等々の有象無象、
ともかくゲーリー・フランクと荒川修作以外の既存のいっさいの建築を“すでに死に絶えたるたるもの”とさえ思い込ませる無限の自由奔放さと精神の自由、自然に根ざしつつなおも天空の太陽と星の彼方へとあくがれるかの永遠のロマンチシズムであらう。
♪藤森の鯨の家にまたがりていざや空の彼方まで 亡羊
Thursday, March 13, 2008
日輪寺再説
鎌倉ちょっと不思議な物語105回&鎌倉廃寺巡礼その4
先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。
高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)
日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)
その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。
吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。
悪党の背にはらはらと梅の花
春風や幻の寺ここにあり
先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。
高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)
日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)
その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。
吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。
悪党の背にはらはらと梅の花
春風や幻の寺ここにあり
Wednesday, March 12, 2008
中世の鎌倉
鎌倉ちょっと不思議な物語101回
古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。
8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。
中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。
鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊
古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。
8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。
中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。
鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊
Tuesday, March 11, 2008
バルガス・リョサ著「楽園への道」を読む
照る日曇る日第104回
「楽園への道」といえば私にとってはエルガーの名曲だが、ペルーの作家バルガス・リョサの同名の交響的長編小説も、英国の音楽家と同じような感動を私に与えてくれた。
本書は二つの物語が交互に奏される対位法叙述形式をとっていて、最初はどこの誰の話かと戸惑うが、それが19世紀中葉の社会主義とフェミニズムの立役者である女性と、その孫である画家ゴーギャンの2人を主人公とする欧州と南米、南太平洋をまたぐ規模雄大な物語であると知れば読者の関心もいやがうえにも高まるというものだ。
前者の主人公フローラは、ジョルジュ・サンドやリスト、ビクトール・ユゴーと同時代の人物であるが、妻の離婚を許さず、その遺産を狙い、あまつさえ娘を犯す色魔でもある強欲な夫のために終生迫害され、ついには銃で命を狙われながらも、サンシモン、フーリエ、オーエンなどの影響を受けて初期社会主義、労働組合運動の確立に挺身する。
後続のマルクス、エンゲルスに対して決定的な影響を及ぼした美貌の思想家、実践家であるが、マルクスなどの進歩派からも「女だてらに労働運動に首をつっこみやがって」と白眼視されていたことがよくわかる。
そしてそんな時代にありながら自恃と尊厳を貫いて無残に散ったフローラの遺伝子と生き方を受け継いだのがかのゴーギャンであった。
かつてサマセット・モームが「月と6ペンス」で描いた個性的な印象派画家の劇的な生涯を、著者はモームとは異なる視点、熱い共感と燃えるような想像力であざやかに再現している。
「マナオ・トゥパパウ」、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」など、彼の代表作がいかなる状況にあって、いかにして描かれたか? 狂ったオランダ人、ゴッホとの共同生活がいかにして破綻したのか? いかにしてエリート株式仲買人が芸術の魑魅魍魎の世界に取り込まれ、世界の果てまで逃亡せざるを得なかったのか? いかにして死せる西欧世界の古典的秩序を大きく逸脱し、魔術と原始的生命の復活再生に一命を捧げるに至ったのか?
性病に皮膚、内臓、脳髄を次々に侵され、ついに絶海の孤島でくたばった天涯孤独の創造者の生涯の顛末を、バルガス・リョサはあますところなく描きつくした。
暴力的な異性愛に傷つき、優しい同性愛に癒されながらも、社会正義の大義名分のためにいっさいのエロスを封印した祖母、荒くれマッチョであったはずの己の内部に小さくうずくまっていた一人の女性を発見して驚愕する孫……、ライフスタイルに共通点がある2人の主人公を見事なフーガの技法で巧みに踊らせながら、人間の生の深奥に潜む性の暗闇を容赦なくあばきたてる著者の視線はあくまでも鋭利に研ぎ澄まされている。
これだけ書けば、もういいだろう、リョサ?
♪昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る 亡羊
「楽園への道」といえば私にとってはエルガーの名曲だが、ペルーの作家バルガス・リョサの同名の交響的長編小説も、英国の音楽家と同じような感動を私に与えてくれた。
本書は二つの物語が交互に奏される対位法叙述形式をとっていて、最初はどこの誰の話かと戸惑うが、それが19世紀中葉の社会主義とフェミニズムの立役者である女性と、その孫である画家ゴーギャンの2人を主人公とする欧州と南米、南太平洋をまたぐ規模雄大な物語であると知れば読者の関心もいやがうえにも高まるというものだ。
前者の主人公フローラは、ジョルジュ・サンドやリスト、ビクトール・ユゴーと同時代の人物であるが、妻の離婚を許さず、その遺産を狙い、あまつさえ娘を犯す色魔でもある強欲な夫のために終生迫害され、ついには銃で命を狙われながらも、サンシモン、フーリエ、オーエンなどの影響を受けて初期社会主義、労働組合運動の確立に挺身する。
後続のマルクス、エンゲルスに対して決定的な影響を及ぼした美貌の思想家、実践家であるが、マルクスなどの進歩派からも「女だてらに労働運動に首をつっこみやがって」と白眼視されていたことがよくわかる。
そしてそんな時代にありながら自恃と尊厳を貫いて無残に散ったフローラの遺伝子と生き方を受け継いだのがかのゴーギャンであった。
かつてサマセット・モームが「月と6ペンス」で描いた個性的な印象派画家の劇的な生涯を、著者はモームとは異なる視点、熱い共感と燃えるような想像力であざやかに再現している。
「マナオ・トゥパパウ」、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」など、彼の代表作がいかなる状況にあって、いかにして描かれたか? 狂ったオランダ人、ゴッホとの共同生活がいかにして破綻したのか? いかにしてエリート株式仲買人が芸術の魑魅魍魎の世界に取り込まれ、世界の果てまで逃亡せざるを得なかったのか? いかにして死せる西欧世界の古典的秩序を大きく逸脱し、魔術と原始的生命の復活再生に一命を捧げるに至ったのか?
性病に皮膚、内臓、脳髄を次々に侵され、ついに絶海の孤島でくたばった天涯孤独の創造者の生涯の顛末を、バルガス・リョサはあますところなく描きつくした。
暴力的な異性愛に傷つき、優しい同性愛に癒されながらも、社会正義の大義名分のためにいっさいのエロスを封印した祖母、荒くれマッチョであったはずの己の内部に小さくうずくまっていた一人の女性を発見して驚愕する孫……、ライフスタイルに共通点がある2人の主人公を見事なフーガの技法で巧みに踊らせながら、人間の生の深奥に潜む性の暗闇を容赦なくあばきたてる著者の視線はあくまでも鋭利に研ぎ澄まされている。
これだけ書けば、もういいだろう、リョサ?
♪昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る 亡羊
Monday, March 10, 2008
月輪寺を求めて
鎌倉ちょっと不思議な物語104回&鎌倉廃寺巡礼その3
月輪寺は「がちりんじ」とひらがな表記して「がつりんじ」と発音する。「鎌倉志」に「光触寺の北、霧沢のうちに好見というにあり。ゆえに好見の月輪寺という」とあるが好見がどこであるか不明である。
しかし「十二所地誌」には「かつて光触寺所有の明石山の中腹にあり。その面積400坪、その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴がある。本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏」とあり、さる考古学者が尋ねてきたが仔細はいっこうに分からず、遺物なぞはひとつも発見されなかったという。
さらに同書には「御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である」と記されている。
それなら定めしこの地であろうという閑静な一画を私はいつもの散歩コースにたやすく見出した。手前の家は私の次男の同級生の家でご両親はクリーニング業を営まれているが、その突き当たりに杉並木に囲まれた高台があり、この近所には多数の五輪塔ややぐら跡が発見されている。
「社務職次第」「供僧次第」「「若狭国志」にもこの古刹の名が出ており、「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる。
♪鳶一羽空に舞いたり廃寺跡 亡羊
月輪寺は「がちりんじ」とひらがな表記して「がつりんじ」と発音する。「鎌倉志」に「光触寺の北、霧沢のうちに好見というにあり。ゆえに好見の月輪寺という」とあるが好見がどこであるか不明である。
しかし「十二所地誌」には「かつて光触寺所有の明石山の中腹にあり。その面積400坪、その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴がある。本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏」とあり、さる考古学者が尋ねてきたが仔細はいっこうに分からず、遺物なぞはひとつも発見されなかったという。
さらに同書には「御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である」と記されている。
それなら定めしこの地であろうという閑静な一画を私はいつもの散歩コースにたやすく見出した。手前の家は私の次男の同級生の家でご両親はクリーニング業を営まれているが、その突き当たりに杉並木に囲まれた高台があり、この近所には多数の五輪塔ややぐら跡が発見されている。
「社務職次第」「供僧次第」「「若狭国志」にもこの古刹の名が出ており、「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる。
♪鳶一羽空に舞いたり廃寺跡 亡羊
Sunday, March 09, 2008
幻の廃寺、日輪寺ここに在り
鎌倉ちょっと不思議な物語103回
「十二所地誌」によれば日輪寺跡はタタラが谷に所在、とある。タタラが谷については私が去年の夏に発見して確かこの日記にも報告した地点だから我が家から3分だ。よしあの近くを探そう。
ここでちょっと復習すると、「タタラ」というのはフイゴの古語でタタラ場、鍛冶屋、すなわち鉄製品を造るところであり、1回の作業は3昼夜であったという。タタラ師は「金屋子神」を信仰し、旧暦の11月4日にはタタラ祭りが行なわれというが、作業中は女性の接近を忌むという。
鎌倉時代の刀剣は京大和から運ばれてきたという学者もいるがとんでもない。鎌倉時代の東国の武士たちは自前の武器を自分たちの領地のあちこちで生産していたのである。だから十二所に限らずこの「タタラが谷」という地名は、そこで古代から中世にかけて製鉄、加工が行なわれていた場所である確率が高い。
しかもこの十二所のタタラが谷、太刀洗一帯には鎌倉幕府の「中世国立葬儀センター」があり、その周辺は高級墓地であったから、近くには当然大きな寺院もあったはずだ。
「十二所地誌」には果樹園の山腹に窟があって五輪が散乱している辺りか」としているが、果樹園はタタラが谷から相当離れているからこの説は却下だ。
私が“ここが日輪寺跡”、と特定する地域は、太刀洗川をはさんで5,6年前に発掘されたその国立葬儀センターの真向かいにある台地だ。
太刀洗に通じる朝比奈古道に沿ってわずかに勾配のある右側の小道を登っていくと、タタラが谷の麓に千坪くらいのこぢんまりとした平地がある。山腹の頂上から中腹にかけて群生する無数の竹に囲まれた静かな谷戸こそが往時の日輪寺だ、と私は確信する。
実際現在ここに住んでいる瓦斯屋のおじさんは、「ここに家を建てたときに無数の五輪等や仏像の瓦の断片をみな太刀洗川に捨てた」と罰当たりな証言をしている。けれどもその時至り、発掘してみれば私の予想は必ず的中するだろう。
♪ここもまた大寺ありけり冬の谷戸 亡羊
「十二所地誌」によれば日輪寺跡はタタラが谷に所在、とある。タタラが谷については私が去年の夏に発見して確かこの日記にも報告した地点だから我が家から3分だ。よしあの近くを探そう。
ここでちょっと復習すると、「タタラ」というのはフイゴの古語でタタラ場、鍛冶屋、すなわち鉄製品を造るところであり、1回の作業は3昼夜であったという。タタラ師は「金屋子神」を信仰し、旧暦の11月4日にはタタラ祭りが行なわれというが、作業中は女性の接近を忌むという。
鎌倉時代の刀剣は京大和から運ばれてきたという学者もいるがとんでもない。鎌倉時代の東国の武士たちは自前の武器を自分たちの領地のあちこちで生産していたのである。だから十二所に限らずこの「タタラが谷」という地名は、そこで古代から中世にかけて製鉄、加工が行なわれていた場所である確率が高い。
しかもこの十二所のタタラが谷、太刀洗一帯には鎌倉幕府の「中世国立葬儀センター」があり、その周辺は高級墓地であったから、近くには当然大きな寺院もあったはずだ。
「十二所地誌」には果樹園の山腹に窟があって五輪が散乱している辺りか」としているが、果樹園はタタラが谷から相当離れているからこの説は却下だ。
私が“ここが日輪寺跡”、と特定する地域は、太刀洗川をはさんで5,6年前に発掘されたその国立葬儀センターの真向かいにある台地だ。
太刀洗に通じる朝比奈古道に沿ってわずかに勾配のある右側の小道を登っていくと、タタラが谷の麓に千坪くらいのこぢんまりとした平地がある。山腹の頂上から中腹にかけて群生する無数の竹に囲まれた静かな谷戸こそが往時の日輪寺だ、と私は確信する。
実際現在ここに住んでいる瓦斯屋のおじさんは、「ここに家を建てたときに無数の五輪等や仏像の瓦の断片をみな太刀洗川に捨てた」と罰当たりな証言をしている。けれどもその時至り、発掘してみれば私の予想は必ず的中するだろう。
♪ここもまた大寺ありけり冬の谷戸 亡羊
Saturday, March 08, 2008
鎌倉廃寺巡礼
鎌倉ちょっと不思議な物語102回
鎌倉は寺も多いが、廃寺も多い。多くの人々は地上にそびえる美麗な寺社仏閣を仰ぎ見て嘆声を発するが、私が関心を持っているのはかつては大いに栄え、今はもはやこの世にない死せる寺々である。
現存しない寺院、堂宇、塔頭は私の地元の狭い狭い十二所だけでもなんと19箇所もある。(鎌倉廃寺事典)さらに浄明寺で19、二階堂で13、江藤淳が自死した西御門で14、雪ノ下で22という按配だから、寺霊たちはそれこそ無尽蔵にこの死都鎌倉の土の下に眠っているのである。
霊と死者たちを起こす非道をおかすつもりは毛頭ないが、弥生のそよ風に誘われていざ廃寺探訪に出かけようではないか。
まずは日輪、月輪の両寺を探索しよう。この二つの寺院はほとんどの歴史書に現われない幻の廃寺である。しかし鎌倉時代にはいずれもここ十二所の地にあって、おそらくは対になって要地を占めていたのではなかろうか。
♪同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日 亡羊
鎌倉は寺も多いが、廃寺も多い。多くの人々は地上にそびえる美麗な寺社仏閣を仰ぎ見て嘆声を発するが、私が関心を持っているのはかつては大いに栄え、今はもはやこの世にない死せる寺々である。
現存しない寺院、堂宇、塔頭は私の地元の狭い狭い十二所だけでもなんと19箇所もある。(鎌倉廃寺事典)さらに浄明寺で19、二階堂で13、江藤淳が自死した西御門で14、雪ノ下で22という按配だから、寺霊たちはそれこそ無尽蔵にこの死都鎌倉の土の下に眠っているのである。
霊と死者たちを起こす非道をおかすつもりは毛頭ないが、弥生のそよ風に誘われていざ廃寺探訪に出かけようではないか。
まずは日輪、月輪の両寺を探索しよう。この二つの寺院はほとんどの歴史書に現われない幻の廃寺である。しかし鎌倉時代にはいずれもここ十二所の地にあって、おそらくは対になって要地を占めていたのではなかろうか。
♪同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日 亡羊
Friday, March 07, 2008
平川南著「日本の原像」を読む その2
照る日曇る日第104回&ふあっちょん幻論第8回
座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。
日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。
またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。
「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。
繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。
♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊
座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。
日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。
またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。
「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。
繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。
♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊
Thursday, March 06, 2008
平川南著「日本の原像」を読む その1
照る日曇る日第103回
天皇と日本のはじまり
倭国王が東アジア世界に秩序づけられた「王」「大王」に代わり独立した最高位の称号をのぞみ、道教思想において宇宙の最高神を示す「天皇」という名称を日本国王として用いた。そしてこの天皇は則天武后時代では明らかに「皇帝」より下位に位置づけられていたために中国からも是認された。これがわが国の天皇号のはじまりである。
仏典の「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたわが国は7世紀後半に新たな国号を日本と定めたが、これも古代中国の世界像における東夷の世界、東の果ての地として「日の土台」という意味で採択された。
一方これは古代朝鮮に対して「西蕃」vs「貴国」という世界関係を成立させることをのぞみ、みずから東にある「貴き国」のイメージを求め、それを「日本」と呼んだ。もしかすると現在に至る中国-朝鮮-日本の三角関係の基本構造は、今から17000年前にセットされたということができるかもしれない。
国名のはじまり
わが国の東西の境界線は古代から東海道では遠江と三河、東山道では信濃と美濃の国境にあった。そして東国の国名はヤマト朝廷によってある時期にいっせいに命名された。
近江国は琵琶湖を「近つ淡海」と称したことに由来し、遠江国は浜名湖を「遠つ淡海」と称したことに由来するがこれらはいずれもヤマトからの距離を基準にしている。
美濃国はもと三野(各務野、青野、加茂野)があることから命名され、三河は男川、豊川、矢作川があることから名づけられた。
近江から不破の関を越え、美濃、信濃、上野、下野と行く東山道、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模と行く東海道の山道と海道で南北の地の国名が「野」と「河」という対になっていることに注目しよう。
♪アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 亡羊
天皇と日本のはじまり
倭国王が東アジア世界に秩序づけられた「王」「大王」に代わり独立した最高位の称号をのぞみ、道教思想において宇宙の最高神を示す「天皇」という名称を日本国王として用いた。そしてこの天皇は則天武后時代では明らかに「皇帝」より下位に位置づけられていたために中国からも是認された。これがわが国の天皇号のはじまりである。
仏典の「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたわが国は7世紀後半に新たな国号を日本と定めたが、これも古代中国の世界像における東夷の世界、東の果ての地として「日の土台」という意味で採択された。
一方これは古代朝鮮に対して「西蕃」vs「貴国」という世界関係を成立させることをのぞみ、みずから東にある「貴き国」のイメージを求め、それを「日本」と呼んだ。もしかすると現在に至る中国-朝鮮-日本の三角関係の基本構造は、今から17000年前にセットされたということができるかもしれない。
国名のはじまり
わが国の東西の境界線は古代から東海道では遠江と三河、東山道では信濃と美濃の国境にあった。そして東国の国名はヤマト朝廷によってある時期にいっせいに命名された。
近江国は琵琶湖を「近つ淡海」と称したことに由来し、遠江国は浜名湖を「遠つ淡海」と称したことに由来するがこれらはいずれもヤマトからの距離を基準にしている。
美濃国はもと三野(各務野、青野、加茂野)があることから命名され、三河は男川、豊川、矢作川があることから名づけられた。
近江から不破の関を越え、美濃、信濃、上野、下野と行く東山道、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模と行く東海道の山道と海道で南北の地の国名が「野」と「河」という対になっていることに注目しよう。
♪アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 亡羊
Wednesday, March 05, 2008
自閉症の人のヘルプポイント
♪バガテルop51
では自閉症の人に手助けするには具体的にどうすればいいのでしょうか。
自閉症の人に手助けするには次のようにしましょう。
手助けその1 コミュニケーションのやり方は?
自閉症の人は話だけを聞いてその内容を理解することが苦手ですが、目で見て理解することが得意なので、何かを伝えるときは口で説明するだけでなく、実物を見せたり、絵や写真を見せたり、文字を書いて伝える方法を考えましょう。
しかしその人によって得手不得手はあるので、どの方法が伝わりやすいかを工夫する必要があります。また自閉症の人が周囲に伝える方法もさまざまです。
手助けその2 前もって伝えよう
自閉症の人は予定が分からないことに大変な苦痛と不安を感じます。その日その時間に何をするのかが分かるととても安心するのです。そこでスケジュール表に予定を書き込むようにするとよいでしょう。
予定を知らせるときは文字が読める人には文字で、読めない人には絵や写真で、実物でなくては分からない人にはたとえば食事の時間は「はし」などの実物を使うなどの方法をつかいます。
手助けその3 集中できる環境をつくる
自閉症の人はいろいろな物音や声が聞こえてくると気が散ってしまうことが多いので、これを防ぐ工夫をしましょう。たとえば窓にカーテンをしたり、周りをついたてで囲う方法もあります。
手助けその4 話しかけるときはおだやかに
自閉症の人に注意したりなにかを教えるときには命令ではなく簡単な言葉でやさしく、しかしはっきりとその人がどうしたらいいか分かるように伝えます
大声で話しかけたり、「○○したらだめ!」と怒鳴ったりすると、自閉症の人はその人から怒られたとしか感じなくなり、もはやなにも受け入れようとはしなくなります。
名前を呼んでできるだけおだやかに話しかけてください。自閉症の人は記憶力が良い人が多く、一度だけ経験したことでも怖かったり、嫌だったりしたことはずっと覚えているのでこの点はくれぐれも留意してくださいね。
以上簡単に自閉症についての解説をしてきましたが、これらの記述は内山登起夫さんが監修され、私の長男がお世話になっている社会福祉法人県央福祉会県央療育センターの諏訪利明さん、安倍陽子さんがお書きになった「発達と障害を考える本」①「ふしぎだね!? 自閉症のおともだち」(ミネルヴァ書房)を参考にしました。
自閉症についてもっと詳しいことを知りたい人は、日本自閉症協会http:autism.or.jp/までどうぞ。
♪もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう 亡羊
では自閉症の人に手助けするには具体的にどうすればいいのでしょうか。
自閉症の人に手助けするには次のようにしましょう。
手助けその1 コミュニケーションのやり方は?
自閉症の人は話だけを聞いてその内容を理解することが苦手ですが、目で見て理解することが得意なので、何かを伝えるときは口で説明するだけでなく、実物を見せたり、絵や写真を見せたり、文字を書いて伝える方法を考えましょう。
しかしその人によって得手不得手はあるので、どの方法が伝わりやすいかを工夫する必要があります。また自閉症の人が周囲に伝える方法もさまざまです。
手助けその2 前もって伝えよう
自閉症の人は予定が分からないことに大変な苦痛と不安を感じます。その日その時間に何をするのかが分かるととても安心するのです。そこでスケジュール表に予定を書き込むようにするとよいでしょう。
予定を知らせるときは文字が読める人には文字で、読めない人には絵や写真で、実物でなくては分からない人にはたとえば食事の時間は「はし」などの実物を使うなどの方法をつかいます。
手助けその3 集中できる環境をつくる
自閉症の人はいろいろな物音や声が聞こえてくると気が散ってしまうことが多いので、これを防ぐ工夫をしましょう。たとえば窓にカーテンをしたり、周りをついたてで囲う方法もあります。
手助けその4 話しかけるときはおだやかに
自閉症の人に注意したりなにかを教えるときには命令ではなく簡単な言葉でやさしく、しかしはっきりとその人がどうしたらいいか分かるように伝えます
大声で話しかけたり、「○○したらだめ!」と怒鳴ったりすると、自閉症の人はその人から怒られたとしか感じなくなり、もはやなにも受け入れようとはしなくなります。
名前を呼んでできるだけおだやかに話しかけてください。自閉症の人は記憶力が良い人が多く、一度だけ経験したことでも怖かったり、嫌だったりしたことはずっと覚えているのでこの点はくれぐれも留意してくださいね。
以上簡単に自閉症についての解説をしてきましたが、これらの記述は内山登起夫さんが監修され、私の長男がお世話になっている社会福祉法人県央福祉会県央療育センターの諏訪利明さん、安倍陽子さんがお書きになった「発達と障害を考える本」①「ふしぎだね!? 自閉症のおともだち」(ミネルヴァ書房)を参考にしました。
自閉症についてもっと詳しいことを知りたい人は、日本自閉症協会http:autism.or.jp/までどうぞ。
♪もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう 亡羊
Tuesday, March 04, 2008
どうすれば自閉症の人をヘルプできるんだろう?
♪バガテルop50
自閉症の特徴は幼稚園や小学校などの集団に入ると目立つことが多いようです。
言われたことが理解できない。思ったことが伝えられない。その場で何をしたらいいのかが分からない、などが原因でストレスがたまってパニックになり、ときには自分で自分を傷つけることもあります。またそういう不安が顔に出ることも多いのです。
自閉症の人がパニくるには必ず原因があります。ですからその原因を理解しようとしないままその行為をやめさせようとすると、かえってその人を追い詰めてしまうことになりがちです。
そして自閉症の人の言うことやすることがおかしくてもみんなではやしたてたり、笑ったりしないことが大切です。
さて、私の在仏マイミクのミズリンさんによれば、現在フランスの有名な映画俳優サンドリーヌ・ボネールさんの初監督作品『Elle s'appelle Sabine』(彼女の名前はサビーヌ)がパリの映画館で公開中とのこと。実は彼女の妹さんが自閉症で、この映画は自閉症の妹についてのドキュメンタリーだそうで、ボネールさんは、「自身のスターとしての名声を利用して、自閉症への理解を世間に強く訴えている」そうです。
またミズリンさん情報によればこの話題の映画を日本のどこかの会社が買い付けたそうなので私も公開のあかつきにはぜひ鑑賞してみたいと思っています。
なおこの映画の詳細については下記をクリックしてみてくださいな。
http://www.ilyfunet.com/ovni/2008/625/cinema.php
♪始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ 亡羊
自閉症の特徴は幼稚園や小学校などの集団に入ると目立つことが多いようです。
言われたことが理解できない。思ったことが伝えられない。その場で何をしたらいいのかが分からない、などが原因でストレスがたまってパニックになり、ときには自分で自分を傷つけることもあります。またそういう不安が顔に出ることも多いのです。
自閉症の人がパニくるには必ず原因があります。ですからその原因を理解しようとしないままその行為をやめさせようとすると、かえってその人を追い詰めてしまうことになりがちです。
そして自閉症の人の言うことやすることがおかしくてもみんなではやしたてたり、笑ったりしないことが大切です。
さて、私の在仏マイミクのミズリンさんによれば、現在フランスの有名な映画俳優サンドリーヌ・ボネールさんの初監督作品『Elle s'appelle Sabine』(彼女の名前はサビーヌ)がパリの映画館で公開中とのこと。実は彼女の妹さんが自閉症で、この映画は自閉症の妹についてのドキュメンタリーだそうで、ボネールさんは、「自身のスターとしての名声を利用して、自閉症への理解を世間に強く訴えている」そうです。
またミズリンさん情報によればこの話題の映画を日本のどこかの会社が買い付けたそうなので私も公開のあかつきにはぜひ鑑賞してみたいと思っています。
なおこの映画の詳細については下記をクリックしてみてくださいな。
http://www.ilyfunet.com/ovni/2008/625/cinema.php
♪始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ 亡羊
Monday, March 03, 2008
知的障碍と自閉症の違いは?
♪バガテルop49
先日私の大嫌いな「阿呆の泉」という番組で、私がとても軽蔑している着物姿のいかがわしい男が、「障碍は個性」という最近巷にあふれかえっている陳腐な発言をしていました。
確かに自閉症を含めて障碍者にはさまざまな障碍があり、その姿かたちを「個性的」と表現することはできますが、障碍の本質は「重篤な障碍そのもの」であり、けっして「多彩な個性そのもの」ではありません。ことの本質を無視して、「障碍=個性」などと分かったようなレッテルを貼り深刻な事態を安易に図式化しようとするかの霊感業者たちは、それらの障碍に真摯に向き合うことから怪人20面相のように軽快に身をひるがえしているとしか思えません。もっともその方が「霊感的に楽ちん」でいいだろうしね。
さて閑話休題。知的な遅れもその内容は人によってさまざまですが、一般的には人懐っこかったり、いっしょに遊びたがったりします。
しかし自閉症児者の多くは他人との交流が苦手で、想像力に乏しくてこだわりも多いケースが多いので、交流するときに体に触れたり手をつなごうとするとパニックになることもあります。
また思ってもいない出来事が突然起こると、たとえそれが自分の誕生日を祝ってくれるものであっても強い不安でパニックになることもあります。
多くの自閉症児者は人々がざわざわとしている状態に出会うと不安になりストレスを感じることがあります。動物や赤ちゃんや元気な子供などの特定の人がとても気になったり、それらが引き起こす鳴き声や泣き声、叫び声や物音が苦手になり、耳をふさいでしまうこともあります。
♪今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ 亡羊
先日私の大嫌いな「阿呆の泉」という番組で、私がとても軽蔑している着物姿のいかがわしい男が、「障碍は個性」という最近巷にあふれかえっている陳腐な発言をしていました。
確かに自閉症を含めて障碍者にはさまざまな障碍があり、その姿かたちを「個性的」と表現することはできますが、障碍の本質は「重篤な障碍そのもの」であり、けっして「多彩な個性そのもの」ではありません。ことの本質を無視して、「障碍=個性」などと分かったようなレッテルを貼り深刻な事態を安易に図式化しようとするかの霊感業者たちは、それらの障碍に真摯に向き合うことから怪人20面相のように軽快に身をひるがえしているとしか思えません。もっともその方が「霊感的に楽ちん」でいいだろうしね。
さて閑話休題。知的な遅れもその内容は人によってさまざまですが、一般的には人懐っこかったり、いっしょに遊びたがったりします。
しかし自閉症児者の多くは他人との交流が苦手で、想像力に乏しくてこだわりも多いケースが多いので、交流するときに体に触れたり手をつなごうとするとパニックになることもあります。
また思ってもいない出来事が突然起こると、たとえそれが自分の誕生日を祝ってくれるものであっても強い不安でパニックになることもあります。
多くの自閉症児者は人々がざわざわとしている状態に出会うと不安になりストレスを感じることがあります。動物や赤ちゃんや元気な子供などの特定の人がとても気になったり、それらが引き起こす鳴き声や泣き声、叫び声や物音が苦手になり、耳をふさいでしまうこともあります。
♪今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ 亡羊
Sunday, March 02, 2008
自閉症大研究 第6回
♪バガテルop48
よく知的障碍という言葉を耳にします。てっきり「痴的障碍」と思っていたのに、なんだその言葉のインテリジェントな響きは。この障碍はとても知的でおしゃれでシックなレナウン娘のことかと思っていたのですが、さにあらず、知的な遅れを伴う障碍という意味であると知ってがっくりした人もいるのではないでしょうか。
ところで自閉症の人は、この知的障碍をあわせもっていることが多いのですね。
世の中には知能テストというものがあって、これで知能指数IQを計ります。IQはそれぞれの年齢で平均100になるように設定されていますが、このIQが70以下の場合は知的な遅れ(昔は知恵遅れといったが最近はそりゃ差別?だというので死語にしたらしい)があることも考えられるというわけです。
しかし前にも触れたように、この知的障碍と自閉症とは異なる障碍です。
このような知的な遅れのある自閉症児者は、例えば、
言葉や文章で表現したり
お金を計算したり、
時間をはかったり、
相手の行動を見て自分の身を守る工夫をしたり、
学校の勉強を理解することなど
が苦手だったりします。
さらには「いくつなの?」と話しかけられて、「いくつなの?」とオウム返しをしたり、一度聴いた昔の言葉や駅のアナウンスを何回も繰り返したり、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」の主人公の名前を何度も呼んだりします。
あるいはまた何回も手をぱちぱちとたたき続けたり、飛び跳ねたり、体を前後にゆすったりすることがあります。
その他自閉症は、同じ脳の障碍であるてんかんや、チック症、睡眠障害などを複合するケースもあるので要注意です。
♪ふきのとう描く人あり喰らう人あり 亡羊
よく知的障碍という言葉を耳にします。てっきり「痴的障碍」と思っていたのに、なんだその言葉のインテリジェントな響きは。この障碍はとても知的でおしゃれでシックなレナウン娘のことかと思っていたのですが、さにあらず、知的な遅れを伴う障碍という意味であると知ってがっくりした人もいるのではないでしょうか。
ところで自閉症の人は、この知的障碍をあわせもっていることが多いのですね。
世の中には知能テストというものがあって、これで知能指数IQを計ります。IQはそれぞれの年齢で平均100になるように設定されていますが、このIQが70以下の場合は知的な遅れ(昔は知恵遅れといったが最近はそりゃ差別?だというので死語にしたらしい)があることも考えられるというわけです。
しかし前にも触れたように、この知的障碍と自閉症とは異なる障碍です。
このような知的な遅れのある自閉症児者は、例えば、
言葉や文章で表現したり
お金を計算したり、
時間をはかったり、
相手の行動を見て自分の身を守る工夫をしたり、
学校の勉強を理解することなど
が苦手だったりします。
さらには「いくつなの?」と話しかけられて、「いくつなの?」とオウム返しをしたり、一度聴いた昔の言葉や駅のアナウンスを何回も繰り返したり、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」の主人公の名前を何度も呼んだりします。
あるいはまた何回も手をぱちぱちとたたき続けたり、飛び跳ねたり、体を前後にゆすったりすることがあります。
その他自閉症は、同じ脳の障碍であるてんかんや、チック症、睡眠障害などを複合するケースもあるので要注意です。
♪ふきのとう描く人あり喰らう人あり 亡羊
Saturday, March 01, 2008
自閉症大研究 第5回
自閉症大研究 第5回
♪バガテルop47
前にご紹介した三大特徴だけが自閉症ではありません。それ以外にも
1) 目で見たものを写真で撮ったように正確に覚えたり、駅の名前をたちどころに覚えたりするケースもあります。また、
2) 自閉症児者は感覚がとくに鋭かったり、その逆ににぶかったりするので厄介です。例えば私たちが気にしない音や匂いが気になったり、その反対にガラスでひっかく嫌な音が気にならなかったりします。また野菜やくだものなどある特定の食品しか食べない、それも特定のメーカーの製品しか食べない人もいます。
3) 健常者の場合はさまざまな能力が個人差はあっても同じように発達していきますが、自閉症ではそれがばらばらであることが多いようです。
トランポリンは上手に飛べるのにボールがうまく投げられないとか、捕球ができない、はしが上手に使えない、歩き方、走り方がどこかぎことないケースも多いようです。けれども、はしが上手に使えないのにテレビゲームは上手に操作したりすることもあります。
♪弥生三月春の力をわれに与えよ 亡羊
♪バガテルop47
前にご紹介した三大特徴だけが自閉症ではありません。それ以外にも
1) 目で見たものを写真で撮ったように正確に覚えたり、駅の名前をたちどころに覚えたりするケースもあります。また、
2) 自閉症児者は感覚がとくに鋭かったり、その逆ににぶかったりするので厄介です。例えば私たちが気にしない音や匂いが気になったり、その反対にガラスでひっかく嫌な音が気にならなかったりします。また野菜やくだものなどある特定の食品しか食べない、それも特定のメーカーの製品しか食べない人もいます。
3) 健常者の場合はさまざまな能力が個人差はあっても同じように発達していきますが、自閉症ではそれがばらばらであることが多いようです。
トランポリンは上手に飛べるのにボールがうまく投げられないとか、捕球ができない、はしが上手に使えない、歩き方、走り方がどこかぎことないケースも多いようです。けれども、はしが上手に使えないのにテレビゲームは上手に操作したりすることもあります。
♪弥生三月春の力をわれに与えよ 亡羊
Friday, February 29, 2008
小島信夫著「菅野満子の手紙」を読む
照る日曇る日第102回
作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとする。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことは絶望的に不可能なのだが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かける。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのだ。
そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくる。
この作者が誰を登場させ、何を語らせ、どんな奇妙な事件が小説の中で生起しようがいったいそれがどうだというのだ。
菅野満子が作家の由紀しげ子であろうが作家の分身である謙二とその兄の良一が満子とどれくらい激しい恋をしたか否か、それがヘルダーリンやゲーテの恋と遜色があるのかないのか、満子の手紙と遺書の内容が事実であろうが嘘であろうがはたまた作者のでっち上げであろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。
それよりもたったいま作者がこの本のこの箇所に書き付けたこのさりげない1行を目と舌でじっくりと味わおう。作者が奏でるこの一筋の旋律を心行くまで味わおうという気持ちになってくるのである。
そうしてこの600ページになんなんとする大著を読了した人は、最初は三流私小説作家の身辺雑記のように不用意に書き始められた軽い心境小説が、最後にはプルーストの「失われた時を求めて」と遠くかすかに響きあう精妙な世界に遊んだと思うかもしれない。おまけに「失われた時を求めて」と同じように、この本も終わりに近づくに従って猛烈に面白くなるのだ。
あるいはまた、またこの小説はもしかすると小説ではなかったのだ、最初はさりげない主題の提示ではじまりそれが次第にさまざまな変奏と協奏をかなで、最後には信じられない聖なる高みに到達するブルックナーのような大曲をたっぷりと聴かされた、という感慨を懐く人がいるかもしれない。
いずれにしてもこれは作者の文学への気違いじみた情熱と無私な献身に圧倒されるメタ・メタ(めためたであるかもしれない)フイクションの最高傑作である。
♪この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ 亡羊
作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとする。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことは絶望的に不可能なのだが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かける。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのだ。
そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくる。
この作者が誰を登場させ、何を語らせ、どんな奇妙な事件が小説の中で生起しようがいったいそれがどうだというのだ。
菅野満子が作家の由紀しげ子であろうが作家の分身である謙二とその兄の良一が満子とどれくらい激しい恋をしたか否か、それがヘルダーリンやゲーテの恋と遜色があるのかないのか、満子の手紙と遺書の内容が事実であろうが嘘であろうがはたまた作者のでっち上げであろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。
それよりもたったいま作者がこの本のこの箇所に書き付けたこのさりげない1行を目と舌でじっくりと味わおう。作者が奏でるこの一筋の旋律を心行くまで味わおうという気持ちになってくるのである。
そうしてこの600ページになんなんとする大著を読了した人は、最初は三流私小説作家の身辺雑記のように不用意に書き始められた軽い心境小説が、最後にはプルーストの「失われた時を求めて」と遠くかすかに響きあう精妙な世界に遊んだと思うかもしれない。おまけに「失われた時を求めて」と同じように、この本も終わりに近づくに従って猛烈に面白くなるのだ。
あるいはまた、またこの小説はもしかすると小説ではなかったのだ、最初はさりげない主題の提示ではじまりそれが次第にさまざまな変奏と協奏をかなで、最後には信じられない聖なる高みに到達するブルックナーのような大曲をたっぷりと聴かされた、という感慨を懐く人がいるかもしれない。
いずれにしてもこれは作者の文学への気違いじみた情熱と無私な献身に圧倒されるメタ・メタ(めためたであるかもしれない)フイクションの最高傑作である。
♪この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ 亡羊
Thursday, February 28, 2008
2008年亡羊如月詩歌集
♪ある晴れた日に その22
雪深しわれは昭和の子供なり
立春哉窓一面乃銀世界
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう
ぴらかんさ千両の順に食われけり
その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った
生きておっても死んでおっても空の空なり
詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ
如月も十日を過ぎて仕事なし
そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌
またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を
25年お世話になりしステンレスの浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
古いお風呂よさようならお払い箱になるんだねと耕君がいう
30年家族暖めし風呂なればこぼつは惜ししもったいなし
25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
亡くなった父も母もムクも入りしこの湯船
白々と骨が残りしバスルーム美人モデルはスープとなりぬ
青山の3LDKの浴槽にトップモデルは骨だけ残せり
けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気
家族3人で水炊きを食べるほど幸せなことはない
私には何がなんだか分からない確定申告できる人は偉大なり
まぎれもない獣の臭いが好きだった丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
如月も半ばを過ぎて仕事なし
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ
花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ
1000本の時計を持てるちょい悪ジローラモその強欲をひそかに憎む
1000本の時計が自慢のちょい悪ジローラモわれは1本千円を愛す
小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
梅千本ただ一輪が咲いており
全山鳴動梅一輪ひらく
蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
篤姫を見てもフルスイングを見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球
セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄
大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし
できれば目白のように睦みあいたいものじゃ
私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
如月の果ての果てにて舞い降りし鶴の一声受けるうれしさ
雪深しわれは昭和の子供なり
立春哉窓一面乃銀世界
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう
ぴらかんさ千両の順に食われけり
その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った
生きておっても死んでおっても空の空なり
詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ
如月も十日を過ぎて仕事なし
そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌
またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を
25年お世話になりしステンレスの浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
古いお風呂よさようならお払い箱になるんだねと耕君がいう
30年家族暖めし風呂なればこぼつは惜ししもったいなし
25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな
亡くなった父も母もムクも入りしこの湯船
白々と骨が残りしバスルーム美人モデルはスープとなりぬ
青山の3LDKの浴槽にトップモデルは骨だけ残せり
けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気
家族3人で水炊きを食べるほど幸せなことはない
私には何がなんだか分からない確定申告できる人は偉大なり
まぎれもない獣の臭いが好きだった丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
如月も半ばを過ぎて仕事なし
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ
花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ
1000本の時計を持てるちょい悪ジローラモその強欲をひそかに憎む
1000本の時計が自慢のちょい悪ジローラモわれは1本千円を愛す
小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
梅千本ただ一輪が咲いており
全山鳴動梅一輪ひらく
蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
篤姫を見てもフルスイングを見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球
セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄
大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし
できれば目白のように睦みあいたいものじゃ
私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
如月の果ての果てにて舞い降りし鶴の一声受けるうれしさ
Wednesday, February 27, 2008
自閉症を知る 第4回
♪バガテルop46
自閉症には3つの大きな特徴があり、その悲しい特徴はだいたい3歳までに現われます。
その3つの特徴とは、
1) 人とうまく付き合えない。
2) 人とうまくコミュニケーションがとれない。
3) 奇妙なものに対してこだわりがある。
に大別されます。
最初1)の例としては、他人と目を合わせて会話すること、喜怒哀楽の感情を素直に表すこと、同じ年齢の人と集団で遊ぶ、自然に決まっているルールに従うことなどが苦手な場合が多いのです。自閉症児者は健常者に比べて想像力に乏しいので他人の気持ちを理解したり、KYことがとても難しいのです。
次のコミュニケーションもこれと似たことですが、言葉を覚えて使うこと、相手の発言を理解すること、適切な返事をすること、たとえ話を理解することなどが困難です。というのも自閉症児の大半は言葉の障碍があるからです。
3番目のこだわりの具体例としては、溝の穴など同じところをじっと見続けたり、決まった道や順序でないと行動できないとか、流れる水や扇風機や車輪などグルグル回るものに気をとられたりするケースが見受けられます
要するにいつもと違うことの出現に対して警戒したりパニくることが多いのです。
♪私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
自閉症には3つの大きな特徴があり、その悲しい特徴はだいたい3歳までに現われます。
その3つの特徴とは、
1) 人とうまく付き合えない。
2) 人とうまくコミュニケーションがとれない。
3) 奇妙なものに対してこだわりがある。
に大別されます。
最初1)の例としては、他人と目を合わせて会話すること、喜怒哀楽の感情を素直に表すこと、同じ年齢の人と集団で遊ぶ、自然に決まっているルールに従うことなどが苦手な場合が多いのです。自閉症児者は健常者に比べて想像力に乏しいので他人の気持ちを理解したり、KYことがとても難しいのです。
次のコミュニケーションもこれと似たことですが、言葉を覚えて使うこと、相手の発言を理解すること、適切な返事をすること、たとえ話を理解することなどが困難です。というのも自閉症児の大半は言葉の障碍があるからです。
3番目のこだわりの具体例としては、溝の穴など同じところをじっと見続けたり、決まった道や順序でないと行動できないとか、流れる水や扇風機や車輪などグルグル回るものに気をとられたりするケースが見受けられます
要するにいつもと違うことの出現に対して警戒したりパニくることが多いのです。
♪私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり
Tuesday, February 26, 2008
続々 自閉症とは何だろう
♪バガテルop45
前回述べたように自閉症の人は知恵遅れなど別の障碍をともなうケースも多く、また人によって現われ方が違っていたり、同じ人でも成長していくうちにその症状が変化したりします。
また自閉症のある特徴は顕著でも、別の特徴はあまり発現しない人もいて、同じ自閉症といってもその状態はまるで虹のように色彩が多様であり、色と色との境界線がはっきりしていないのです。
そこでそういった区別や境界をあまり厳密に区別せず幅広く自閉症総体としてとらえようという考え方がうまれ、そのときに「自閉症スペクトラム」というアバウトな概念と用語も生まれたのです。
たとえば知的な遅れが目立たない自閉症を「アスペルガー症候群」と呼んで、おおかたは知恵遅れを伴う本来の、狭義の自閉症と区別する考え方もあります。それというのもけっきょくは自閉症の本質が解明されず、漠然と脳の機能障碍であるとしかいえないところから来ているわけで、今後の研究次第ではいま自閉症とされている障碍がじつは別のものになってしまう可能性もなしとしないのです。
私は個人的には秀才型?自閉症の「アスペルガー症候群」は、お馴染みの古典的な「だめ自閉症」とはぜんぜん別種の違うものであろう、とひそかに考えていますが、これが正解か否かはそれこそ神のみぞ知るであります。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気 亡羊
前回述べたように自閉症の人は知恵遅れなど別の障碍をともなうケースも多く、また人によって現われ方が違っていたり、同じ人でも成長していくうちにその症状が変化したりします。
また自閉症のある特徴は顕著でも、別の特徴はあまり発現しない人もいて、同じ自閉症といってもその状態はまるで虹のように色彩が多様であり、色と色との境界線がはっきりしていないのです。
そこでそういった区別や境界をあまり厳密に区別せず幅広く自閉症総体としてとらえようという考え方がうまれ、そのときに「自閉症スペクトラム」というアバウトな概念と用語も生まれたのです。
たとえば知的な遅れが目立たない自閉症を「アスペルガー症候群」と呼んで、おおかたは知恵遅れを伴う本来の、狭義の自閉症と区別する考え方もあります。それというのもけっきょくは自閉症の本質が解明されず、漠然と脳の機能障碍であるとしかいえないところから来ているわけで、今後の研究次第ではいま自閉症とされている障碍がじつは別のものになってしまう可能性もなしとしないのです。
私は個人的には秀才型?自閉症の「アスペルガー症候群」は、お馴染みの古典的な「だめ自閉症」とはぜんぜん別種の違うものであろう、とひそかに考えていますが、これが正解か否かはそれこそ神のみぞ知るであります。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気 亡羊
Monday, February 25, 2008
続 自閉症とは何だろう
♪バガテルop44
1943年にアメリカのカナーという精神科医が11人の子供の特徴をまとめて世界ではじめてその障碍についての研究成果を発表しました。これが世界で初めての自閉症についての報告です。しかしカナー以降二十年ほどは自閉症は主に「情緒の障碍」「心の病気」として研究されていたので、その原因が母親の愛情不足や育て方の誤りが原因であるなどという俗説がまかりとおることも多かったのです。
前回にも述べたように「自閉」という言葉は統合失調症でも使用されるのでまぎらわしいのですが、この2つはまったく違うのです。またこのいずれもが親の育て方など心理的な要因で起こるわけではありません。研究が進むに連れて自閉症は家庭環境、不安・ストレスに起因する心の病ではなく、生まれながらの脳の機能障碍であることが分かってきたのです。
また日本自閉症協会では、自閉症はおよそ100人に1人くらいの割合で存在しているといっていますが、広い意味での自閉症(これを「自閉症スペクトラム」と呼んでいます。スペクトラムとは英語で連続体という意味です)を入れるとその割合はもっと多いのではないでしょうか。
♪亡くなった父もムクも入りしこの湯船 亡羊
1943年にアメリカのカナーという精神科医が11人の子供の特徴をまとめて世界ではじめてその障碍についての研究成果を発表しました。これが世界で初めての自閉症についての報告です。しかしカナー以降二十年ほどは自閉症は主に「情緒の障碍」「心の病気」として研究されていたので、その原因が母親の愛情不足や育て方の誤りが原因であるなどという俗説がまかりとおることも多かったのです。
前回にも述べたように「自閉」という言葉は統合失調症でも使用されるのでまぎらわしいのですが、この2つはまったく違うのです。またこのいずれもが親の育て方など心理的な要因で起こるわけではありません。研究が進むに連れて自閉症は家庭環境、不安・ストレスに起因する心の病ではなく、生まれながらの脳の機能障碍であることが分かってきたのです。
また日本自閉症協会では、自閉症はおよそ100人に1人くらいの割合で存在しているといっていますが、広い意味での自閉症(これを「自閉症スペクトラム」と呼んでいます。スペクトラムとは英語で連続体という意味です)を入れるとその割合はもっと多いのではないでしょうか。
♪亡くなった父もムクも入りしこの湯船 亡羊
Sunday, February 24, 2008
スピルバーグの「シンドラーのリスト」を観る
照る日曇る日第102回
激突、ジョーズ、未知との遭遇、1941、E.T、トワイライト・ゾーン、カラーパープル、太陽の帝国、インディジョーンズ、ミュンヘンと常に話題作を撮り続けてきた世界の人気監督の93年の作品である。
彼の本領はなんといってもインディジョーンズなどの問答無用の娯楽にあると思う私は、プラーベートベンジャミン、カラーパープル、太陽の帝国など、非常に生真面目であったり、人道的、政治的色彩が濃厚に漂う作品はあまり評価できない。
例えば「太陽の帝国」におけるゼロ戦大好き少年のあこがれのまなざしのいかがわしさを見よ。光り輝く太陽の彼方に権力の栄光を夢見る少年のひとみは、そのままけがれなき永遠の童心少年、スピルバーグのものでもある。
さて本作は第2次大戦中にチェコの実業家シンドラーがナチにうまく取り入ってなんと1100名のユダヤ人の命を救ったという美談を、スピルバーグが映画化したもの。実話だそうだが、じつに感動的な脚本である。
特に素晴らしいのはヤヌス・カミンスキーの白黒の撮影で、これほどの美しさが果たして必要だったのかという気すらする。常連ジョン・ウイリアムズの珍しく抑制した音楽もベテランの味を出している。これをアカデミー賞にしなくてなにがアメリカだ、ハリウッドだ、といわんばかりのああ威風堂々の完成度だ。
しかしそんな立派な偉大な人類愛の物語であり、もちろん感動もするのだが、スピルバーグならではのワクワクドキドキする映画的感興はそこにはない。
あるとすれば、モノクロ画面でゆいいつ赤く着色される少女の姿やシンドラーの愛人の奔放な性交シーンであろうが、主題が主題であるだけにそれ以上の逸脱やいかがわしさの発露が微塵もない。
ユダヤ人であるスピルバーグがどうしても撮りたかった映画であり、その価値と歴史的な意味は十二分に評価してうえでいうのだが、これは凡庸な映画である。ジョーズやジェラシックパークを本領とするスピルバーグのようなエンタの達人に、大真面目に力みかえった偉人伝なぞ似合うわけがない。それは最後の主人公の演説のシーンで「もっと金があればもっともっと人を救えたのに」と泣くシーンを見れば分かるだろう。
スピルバーグといえば最近中国政府がスーダンの大量虐殺に対して誠実に対応していないという理由で北京五輪の芸術アドバイザーを辞任したそうだが、彼もまたシンドラーのような正義の人を目指そうとするのだろうか。
♪25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな 亡羊
激突、ジョーズ、未知との遭遇、1941、E.T、トワイライト・ゾーン、カラーパープル、太陽の帝国、インディジョーンズ、ミュンヘンと常に話題作を撮り続けてきた世界の人気監督の93年の作品である。
彼の本領はなんといってもインディジョーンズなどの問答無用の娯楽にあると思う私は、プラーベートベンジャミン、カラーパープル、太陽の帝国など、非常に生真面目であったり、人道的、政治的色彩が濃厚に漂う作品はあまり評価できない。
例えば「太陽の帝国」におけるゼロ戦大好き少年のあこがれのまなざしのいかがわしさを見よ。光り輝く太陽の彼方に権力の栄光を夢見る少年のひとみは、そのままけがれなき永遠の童心少年、スピルバーグのものでもある。
さて本作は第2次大戦中にチェコの実業家シンドラーがナチにうまく取り入ってなんと1100名のユダヤ人の命を救ったという美談を、スピルバーグが映画化したもの。実話だそうだが、じつに感動的な脚本である。
特に素晴らしいのはヤヌス・カミンスキーの白黒の撮影で、これほどの美しさが果たして必要だったのかという気すらする。常連ジョン・ウイリアムズの珍しく抑制した音楽もベテランの味を出している。これをアカデミー賞にしなくてなにがアメリカだ、ハリウッドだ、といわんばかりのああ威風堂々の完成度だ。
しかしそんな立派な偉大な人類愛の物語であり、もちろん感動もするのだが、スピルバーグならではのワクワクドキドキする映画的感興はそこにはない。
あるとすれば、モノクロ画面でゆいいつ赤く着色される少女の姿やシンドラーの愛人の奔放な性交シーンであろうが、主題が主題であるだけにそれ以上の逸脱やいかがわしさの発露が微塵もない。
ユダヤ人であるスピルバーグがどうしても撮りたかった映画であり、その価値と歴史的な意味は十二分に評価してうえでいうのだが、これは凡庸な映画である。ジョーズやジェラシックパークを本領とするスピルバーグのようなエンタの達人に、大真面目に力みかえった偉人伝なぞ似合うわけがない。それは最後の主人公の演説のシーンで「もっと金があればもっともっと人を救えたのに」と泣くシーンを見れば分かるだろう。
スピルバーグといえば最近中国政府がスーダンの大量虐殺に対して誠実に対応していないという理由で北京五輪の芸術アドバイザーを辞任したそうだが、彼もまたシンドラーのような正義の人を目指そうとするのだろうか。
♪25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな 亡羊
Saturday, February 23, 2008
自閉症とは何だろう
♪バガテルop43
自閉症が「病気」や「性格」ではなく生まれながらの「脳の障害」であることは、近年になって世間から少しずつ理解されてきたようです。30年前の神奈川県立こども医療センターのように、「親の育て方に原因がある「母原病」です!」と私たちの目の前で担当医が決め付けたり、砂糖の摂取に原因がある砂糖病であるなどという馬鹿げた診断をする医者はなくなりましたが、相変わらず「引きこもり」や統合失調症における「自閉」と誤解したりする人はあとを絶ちません。
まず自閉症は生まれついての先天的な障碍で、中枢神経系(つまり脳と脊髄ですね)のどこかの障碍が原因と考えられています。以下の3つが大事なポイントです。
1) 自閉症は内気とか自閉的とか人間嫌いなどの「性格的」なものとは無関係です。
2) 自閉症は病気ではなく、生まれつきの障碍です。
3) 自閉症は人によってその現われ方に違いがあるので厄介です。
自閉症は風邪のように一時的な治療で治る病気ではなく、また親や周囲の愛情が不足してなるような「心の病気」でもありません。これはよくマスコミなども誤解しているようですね。多くの自閉症児者はまったく自閉的ではなく、むしろ外観は元気はつらつとしていることが多いのです。
しかし世間がそういう「根暗の閉じこもり人間」が自閉症であるというレッテルを貼るようになった原因のひとつは、この「自閉症」というネーミング自体にもあったようです。日本自閉症協会の機関紙名は現在は「いとしご」ですが、長い間「心を開く」という誤解を招きがちなタイトルでした。これでは自閉症が脳の障碍ではなくて精神や心の障碍であるとご本尊が宣言しているようなものですからね。
それはともかく自閉症の原因は、「中枢神経系(脳、脊髄)が生まれつきうまくはたらかないことにある」と学者の意見はようやく一致しました。しかしではその根本的な治療法は?というとそんな素晴らしいものはまだ世界中どこにも存在していません。
最近は脳や遺伝子研究が進んでいるので、その伸展に期待するほかなさそうです。
♪花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 亡羊
自閉症が「病気」や「性格」ではなく生まれながらの「脳の障害」であることは、近年になって世間から少しずつ理解されてきたようです。30年前の神奈川県立こども医療センターのように、「親の育て方に原因がある「母原病」です!」と私たちの目の前で担当医が決め付けたり、砂糖の摂取に原因がある砂糖病であるなどという馬鹿げた診断をする医者はなくなりましたが、相変わらず「引きこもり」や統合失調症における「自閉」と誤解したりする人はあとを絶ちません。
まず自閉症は生まれついての先天的な障碍で、中枢神経系(つまり脳と脊髄ですね)のどこかの障碍が原因と考えられています。以下の3つが大事なポイントです。
1) 自閉症は内気とか自閉的とか人間嫌いなどの「性格的」なものとは無関係です。
2) 自閉症は病気ではなく、生まれつきの障碍です。
3) 自閉症は人によってその現われ方に違いがあるので厄介です。
自閉症は風邪のように一時的な治療で治る病気ではなく、また親や周囲の愛情が不足してなるような「心の病気」でもありません。これはよくマスコミなども誤解しているようですね。多くの自閉症児者はまったく自閉的ではなく、むしろ外観は元気はつらつとしていることが多いのです。
しかし世間がそういう「根暗の閉じこもり人間」が自閉症であるというレッテルを貼るようになった原因のひとつは、この「自閉症」というネーミング自体にもあったようです。日本自閉症協会の機関紙名は現在は「いとしご」ですが、長い間「心を開く」という誤解を招きがちなタイトルでした。これでは自閉症が脳の障碍ではなくて精神や心の障碍であるとご本尊が宣言しているようなものですからね。
それはともかく自閉症の原因は、「中枢神経系(脳、脊髄)が生まれつきうまくはたらかないことにある」と学者の意見はようやく一致しました。しかしではその根本的な治療法は?というとそんな素晴らしいものはまだ世界中どこにも存在していません。
最近は脳や遺伝子研究が進んでいるので、その伸展に期待するほかなさそうです。
♪花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 亡羊
Friday, February 22, 2008
古くて暗いモノクロ映画を見る
照る日曇る日第102回
「陽のあたる場所」はセオドア・ドライサーの原作を51年にジョージ・スティブンスが映画化したもの。田舎育ちの青年がふとしたはずみで隣の女と関係し妊娠させるところから悲劇が始まる。そのまま地味な家庭を築けばよかったろうに、偶然ハイソサエティの美女と恋に落ちたことから青年の心と体は真っ二つに引き裂かれ、若い2人は今生の別れをつげることになる。
世間によくある話だが、身につまされる。「生も暗く、死もまた暗い」というマーラーの「大地の歌」のように暗い物語だが、その悲劇の主人公をモンティが悲壮に演じるので観客はいっそう暗い気持ちになってしまう。そうして彼がついに届かなかったA place in the Sunへの想いが胸を打つ。
純情可憐なヒロイン役を演じるエリザベス・テーラーはきれいでかわいい。後年の熟女の面影なんかみじんも感じさせない。しかしものの本によればこの映画はドライサーの「アメリカの悲劇」の皮相なパロディであり、ヒロインは軽薄で鼻持ちならないハイソの馬鹿娘として描かれているらしいが、私は原作を読んだことがないのでなんともいえない。
44年の英国映画「ガス灯」も負けずに暗い。殺人犯のシャルル・ボワイエの魔手に引っかかって結婚してしまったこれまた純情可憐なイングリッド・バーグマンが、悪い夫に徹底的にいじめられ、あわや心身喪失状態で病院送りになる寸前に正義の味方ジョセフ・コットンが登場してお姫様の危機を救ってくれるという典型的な勧善懲悪の1幕であるが、ここでもバーグマンが後年の堂々たる存在感とは無縁の輝かしい若さと官能美を見せる。
♪1000本の時計を持つ男ジローラモその強欲をひそかに憎む 亡羊
「陽のあたる場所」はセオドア・ドライサーの原作を51年にジョージ・スティブンスが映画化したもの。田舎育ちの青年がふとしたはずみで隣の女と関係し妊娠させるところから悲劇が始まる。そのまま地味な家庭を築けばよかったろうに、偶然ハイソサエティの美女と恋に落ちたことから青年の心と体は真っ二つに引き裂かれ、若い2人は今生の別れをつげることになる。
世間によくある話だが、身につまされる。「生も暗く、死もまた暗い」というマーラーの「大地の歌」のように暗い物語だが、その悲劇の主人公をモンティが悲壮に演じるので観客はいっそう暗い気持ちになってしまう。そうして彼がついに届かなかったA place in the Sunへの想いが胸を打つ。
純情可憐なヒロイン役を演じるエリザベス・テーラーはきれいでかわいい。後年の熟女の面影なんかみじんも感じさせない。しかしものの本によればこの映画はドライサーの「アメリカの悲劇」の皮相なパロディであり、ヒロインは軽薄で鼻持ちならないハイソの馬鹿娘として描かれているらしいが、私は原作を読んだことがないのでなんともいえない。
44年の英国映画「ガス灯」も負けずに暗い。殺人犯のシャルル・ボワイエの魔手に引っかかって結婚してしまったこれまた純情可憐なイングリッド・バーグマンが、悪い夫に徹底的にいじめられ、あわや心身喪失状態で病院送りになる寸前に正義の味方ジョセフ・コットンが登場してお姫様の危機を救ってくれるという典型的な勧善懲悪の1幕であるが、ここでもバーグマンが後年の堂々たる存在感とは無縁の輝かしい若さと官能美を見せる。
♪1000本の時計を持つ男ジローラモその強欲をひそかに憎む 亡羊
Thursday, February 21, 2008
萩原延壽著「陸奥宗光下巻」を読む
照る日曇る日第101回
陸奥宗光は明治10年の西南戦争の際土佐立志社系の一部が企てた政府転覆、要人暗殺計画に陰謀に加担したかどで逮捕され、禁獄5年の判決を受けて明治11年9月から15年12月まで山形と仙台で獄中生活を送ったが、その間独学の英語でベンサムの功利主義哲学にめざめ、それが彼の政治思想の転回点となった。
獄から解放された彼は伊藤博文、井上馨、渋沢栄一などの助力で欧米に留学し、英国の議会制民主主義につぶさに接するとともに、ウイーンに赴きオーストリアの公法学者シュタインの元でプロシア流の政治理論を体得し、政府専制と議会責任内閣制の双方について当時の世界最先端の政治思想に通暁する新帰朝者となった。本書はその大半のページをこの間の「思想家陸奥から政治家陸奥への変貌」に焦点を当て、その劇的な精神の転回を精細に追跡している。
余談ながら明治時代には多くの政治家や官僚、学者が欧米に留学している。大日本帝国憲法の制定にあたって伊藤博文に大きな影響を与えたオーストリアの公法学者シュタインのところにも、その伊藤をはじめ陸奥宗光、伊東巳代治、黒田清隆、松方正義、海江田信義など多くのエリートたちが教えを乞いに行っている。
彼らはそれぞれ通訳を連れて2、3週間続けてシュタイン家に日参して個人教授を受け、通訳と自分の2人でノートをとり、そのあとで1つに清書してから、今度はそれをシュタインに送って訂正してもらい、そんな風にして完全なノートが出来上がり、それが彼らの留学土産になったという。
私は萩原氏のその話を聞いてなるほど漱石の文学論もそのような形で中川芳太郎を通じて現在のような姿になったことを思い出した。もっとも漱石はその中川ノートを全面的に改稿したのだったが。
藩閥政府と自由民権派の両極で激しく分裂した陸奥は、その後中央政府の外務大臣として日清戦争を主導するが、日露、第1次大戦、太平洋戦争へと拡大していくわが国の朝鮮半島、中国、台湾への介入・進出はじつに明治27年の日清戦争から出発していることが本書を読めばよくわかる。
陸奥は首相の伊藤博文とコンビを組んで山縣有朋などの武断派を懸命に統御しようと試みるが、本心では大陸不介入派であったと思われる陸奥も、結局は軍部などの強硬派、国内に燎原の火のように燃え盛る愛国主義の嵐(それは漱石、子規をはじめ大多数の文学者、知識人をも飲み込んだ)、英、露、独、仏などの帝国主義列強の圧力に屈して、ついに「朝鮮の独立を保持するための」対清開戦に踏み切った。
幸か不幸かこの日清戦争の勝利が遼東半島の三国干渉を生み、その屈辱が列強の代理戦争としての日露戦争を生み、ひいてはあの大東亜戦争への泥沼の道を用意したのである。いかに当時の国内外情勢の渦中で陸奥が献身的な努力を傾注したとはいえ、(彼の涙ぐましい「蹇蹇録」を読まれよ)当時の陸奥が死生をともにした大日本帝国が、大国の圧力に強いられたという以上に、自らが列強の一員として積極的にアジアに覇を唱えようとしたことはまぎれもない事実である。
陸奥たちが東アジアに刻んだその最初のステップこそが、20世紀という戦争の時代のパンドラの箱を開けた。小さな侵略の成功と既得権の確保が、また次なる利権の獲得とその利権保持のための新たな戦争へと繋がっていく。かつて陸奥たちがつまずき、我々が60年前に破綻したのと同じ過ちを、現在アメリカがそのままイラクで繰り返している哀れな姿を見るにつけ、歴史は何度でも繰り返すという思いを新たにするのである。
萩原延壽の「陸奥宗光」を読むこと。それは私たちがあえて明治、大正、昭和を生き直すことであり、それを教訓として今を生きることでもある。
♪できれば目白の夫婦のように睦みあいたいものじゃ 亡羊
陸奥宗光は明治10年の西南戦争の際土佐立志社系の一部が企てた政府転覆、要人暗殺計画に陰謀に加担したかどで逮捕され、禁獄5年の判決を受けて明治11年9月から15年12月まで山形と仙台で獄中生活を送ったが、その間独学の英語でベンサムの功利主義哲学にめざめ、それが彼の政治思想の転回点となった。
獄から解放された彼は伊藤博文、井上馨、渋沢栄一などの助力で欧米に留学し、英国の議会制民主主義につぶさに接するとともに、ウイーンに赴きオーストリアの公法学者シュタインの元でプロシア流の政治理論を体得し、政府専制と議会責任内閣制の双方について当時の世界最先端の政治思想に通暁する新帰朝者となった。本書はその大半のページをこの間の「思想家陸奥から政治家陸奥への変貌」に焦点を当て、その劇的な精神の転回を精細に追跡している。
余談ながら明治時代には多くの政治家や官僚、学者が欧米に留学している。大日本帝国憲法の制定にあたって伊藤博文に大きな影響を与えたオーストリアの公法学者シュタインのところにも、その伊藤をはじめ陸奥宗光、伊東巳代治、黒田清隆、松方正義、海江田信義など多くのエリートたちが教えを乞いに行っている。
彼らはそれぞれ通訳を連れて2、3週間続けてシュタイン家に日参して個人教授を受け、通訳と自分の2人でノートをとり、そのあとで1つに清書してから、今度はそれをシュタインに送って訂正してもらい、そんな風にして完全なノートが出来上がり、それが彼らの留学土産になったという。
私は萩原氏のその話を聞いてなるほど漱石の文学論もそのような形で中川芳太郎を通じて現在のような姿になったことを思い出した。もっとも漱石はその中川ノートを全面的に改稿したのだったが。
藩閥政府と自由民権派の両極で激しく分裂した陸奥は、その後中央政府の外務大臣として日清戦争を主導するが、日露、第1次大戦、太平洋戦争へと拡大していくわが国の朝鮮半島、中国、台湾への介入・進出はじつに明治27年の日清戦争から出発していることが本書を読めばよくわかる。
陸奥は首相の伊藤博文とコンビを組んで山縣有朋などの武断派を懸命に統御しようと試みるが、本心では大陸不介入派であったと思われる陸奥も、結局は軍部などの強硬派、国内に燎原の火のように燃え盛る愛国主義の嵐(それは漱石、子規をはじめ大多数の文学者、知識人をも飲み込んだ)、英、露、独、仏などの帝国主義列強の圧力に屈して、ついに「朝鮮の独立を保持するための」対清開戦に踏み切った。
幸か不幸かこの日清戦争の勝利が遼東半島の三国干渉を生み、その屈辱が列強の代理戦争としての日露戦争を生み、ひいてはあの大東亜戦争への泥沼の道を用意したのである。いかに当時の国内外情勢の渦中で陸奥が献身的な努力を傾注したとはいえ、(彼の涙ぐましい「蹇蹇録」を読まれよ)当時の陸奥が死生をともにした大日本帝国が、大国の圧力に強いられたという以上に、自らが列強の一員として積極的にアジアに覇を唱えようとしたことはまぎれもない事実である。
陸奥たちが東アジアに刻んだその最初のステップこそが、20世紀という戦争の時代のパンドラの箱を開けた。小さな侵略の成功と既得権の確保が、また次なる利権の獲得とその利権保持のための新たな戦争へと繋がっていく。かつて陸奥たちがつまずき、我々が60年前に破綻したのと同じ過ちを、現在アメリカがそのままイラクで繰り返している哀れな姿を見るにつけ、歴史は何度でも繰り返すという思いを新たにするのである。
萩原延壽の「陸奥宗光」を読むこと。それは私たちがあえて明治、大正、昭和を生き直すことであり、それを教訓として今を生きることでもある。
♪できれば目白の夫婦のように睦みあいたいものじゃ 亡羊
Wednesday, February 20, 2008
愛犬ムク六周忌
♪ある晴れた日に その21
OH!アデュー 人語をはじめて口にして
老犬ムクは いま身罷りぬ
ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す
鎌倉の 山野を駆けし細き脚
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり
ここで跳べ! ザンブと飛び込む滑川
ウオータードッグよ 輝きの夏
大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク
ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす
十七年 一直線に駆け去りぬ
今一度鳴け 野太きWANG!
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり
庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり
崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハの雌雄乱舞す
まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
OH!アデュー 人語をはじめて口にして
老犬ムクは いま身罷りぬ
ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す
鎌倉の 山野を駆けし細き脚
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり
ここで跳べ! ザンブと飛び込む滑川
ウオータードッグよ 輝きの夏
大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク
ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす
十七年 一直線に駆け去りぬ
今一度鳴け 野太きWANG!
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり
庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり
崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハの雌雄乱舞す
まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
Tuesday, February 19, 2008
市川崑追悼の「細雪」を観る
照る日曇る日第100回
先日私の大好きなマイミクのぽんぽこはんが映画「細雪」について書いておられたので私も負けてへんでとぐあんばってDVDで見てみたんや。谷崎はんの原作もそら素晴らしいけど、さすがに市川崑はんの代表作に恥じへん代表的な日本映画どしたえ。
時は昭和13年。迫りくる戦争の足音とつかの間の幸せ。やがてはすべてが崩壊する桜の園の最後の宴、姉妹たちの窓際を流れゆく二度と帰らぬ美しい季節が、市川はんの円熟のメガフォンでその一時いっときを惜しむかのようにゆるやかに流れていくんですからもうたまりまへん。
ラストのへんで岸恵子はんが「今年はもう姉妹4人で京の桜を見れへんのやねえ」と呟かれたときには、さすがに非情で冷酷な鉄の心を持つ私も、我知らずさめざめと細雪のような涙を流しておりましてん。
思えば映画で泣いたんは今を去るおよそ10年前に「ローマの休日」がコンピューター補正された新装版を、確かまだ新橋にあったヘラルドさんの試写で見たとき以来やったなあ。あんときはヘップバーンはんが、記者会見で「イエス、ローマ」と答えられたその瞬間に、あたしゃぐわあと人目をはばからずに号泣してしもうてからに、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてたまらず、失礼ながらラスト・クレジットが終わるのをまたんと現場から新橋駅まで逃走しよりましたんや。しゃあけんど私にいわしてもらえば、あの映画のあのシーンで泣かないやつなんか人間ではあらしまへんで、ほんまの話。
肝心の「細雪」でっけど、女優さんがみなはんよろしおしたなあ。私は吉永はんの演技がいつも気になるんやけど、この映画の雪子はんでは役どころとマッチして彼女の大根ぶりがあんまり外に出ず、ほんまよろしゅうおしたなあ。
衣装も絢爛豪華で眼の保養になりましたが、あれは当時の大阪船場や芦屋のセレブのおべべにしては、なんぼ映画衣装とはいえちと色柄デザインが下卑すぎておりましたな。上方のふぁっちょんかるちゃあは、絶対もっと渋くて底が深いもんや。当節ならいざ知らず、谷崎わーるどの主人公たちが、あんなギンギンギラギラにどぎつい下品な着物を着ておったはずはありまへん。大阪弁だけやなしにコスチュームも谷崎夫人のご指導を仰いだらよかったんとちゃいますか。
それから音楽担当2人もおるくせに、使用音楽は英国ヘンデルはんのラルゴ、おんぶら・まい・ふだけちゅうのは一体どういう了見や。貧相な電子音楽やし、せめてオケの生使うとか、もうひとひねりできんかったんやろか。ともかくあれなら素人でもでけます。
それにしてもラストの箕面の紅葉と女優さんの顔のアップ、きれいどしたなあ。美しい日本の景色と美人はいったいどこに行ってしもたんやろか。5年前にたった一度銀座で見かけたような気がするけど、あれは夢まぼろしやったんやろか。
♪新橋のヘラルドエースの試写室でヘップヘップと悌きしわれかも
先日私の大好きなマイミクのぽんぽこはんが映画「細雪」について書いておられたので私も負けてへんでとぐあんばってDVDで見てみたんや。谷崎はんの原作もそら素晴らしいけど、さすがに市川崑はんの代表作に恥じへん代表的な日本映画どしたえ。
時は昭和13年。迫りくる戦争の足音とつかの間の幸せ。やがてはすべてが崩壊する桜の園の最後の宴、姉妹たちの窓際を流れゆく二度と帰らぬ美しい季節が、市川はんの円熟のメガフォンでその一時いっときを惜しむかのようにゆるやかに流れていくんですからもうたまりまへん。
ラストのへんで岸恵子はんが「今年はもう姉妹4人で京の桜を見れへんのやねえ」と呟かれたときには、さすがに非情で冷酷な鉄の心を持つ私も、我知らずさめざめと細雪のような涙を流しておりましてん。
思えば映画で泣いたんは今を去るおよそ10年前に「ローマの休日」がコンピューター補正された新装版を、確かまだ新橋にあったヘラルドさんの試写で見たとき以来やったなあ。あんときはヘップバーンはんが、記者会見で「イエス、ローマ」と答えられたその瞬間に、あたしゃぐわあと人目をはばからずに号泣してしもうてからに、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてたまらず、失礼ながらラスト・クレジットが終わるのをまたんと現場から新橋駅まで逃走しよりましたんや。しゃあけんど私にいわしてもらえば、あの映画のあのシーンで泣かないやつなんか人間ではあらしまへんで、ほんまの話。
肝心の「細雪」でっけど、女優さんがみなはんよろしおしたなあ。私は吉永はんの演技がいつも気になるんやけど、この映画の雪子はんでは役どころとマッチして彼女の大根ぶりがあんまり外に出ず、ほんまよろしゅうおしたなあ。
衣装も絢爛豪華で眼の保養になりましたが、あれは当時の大阪船場や芦屋のセレブのおべべにしては、なんぼ映画衣装とはいえちと色柄デザインが下卑すぎておりましたな。上方のふぁっちょんかるちゃあは、絶対もっと渋くて底が深いもんや。当節ならいざ知らず、谷崎わーるどの主人公たちが、あんなギンギンギラギラにどぎつい下品な着物を着ておったはずはありまへん。大阪弁だけやなしにコスチュームも谷崎夫人のご指導を仰いだらよかったんとちゃいますか。
それから音楽担当2人もおるくせに、使用音楽は英国ヘンデルはんのラルゴ、おんぶら・まい・ふだけちゅうのは一体どういう了見や。貧相な電子音楽やし、せめてオケの生使うとか、もうひとひねりできんかったんやろか。ともかくあれなら素人でもでけます。
それにしてもラストの箕面の紅葉と女優さんの顔のアップ、きれいどしたなあ。美しい日本の景色と美人はいったいどこに行ってしもたんやろか。5年前にたった一度銀座で見かけたような気がするけど、あれは夢まぼろしやったんやろか。
♪新橋のヘラルドエースの試写室でヘップヘップと悌きしわれかも
Monday, February 18, 2008
見捨てられた墓地
鎌倉ちょっと不思議な物語100回
ここは私が住んでいる十二所のガソリンスタンドがある交差点の、すぐ袂にある小さな墓地です。鎌倉駅から八景方面のバスに乗って、まっすぐ行くと鎌倉霊園、右に曲がると鎌倉逗子ハイランドという交通の要地なのに、誰も見向きもしないで通り過ぎます。
しかしここは鎌倉時代にはすぐそばの大慈寺の境内でありました。大慈寺は八幡宮寺、勝長寿院、永福寺と並ぶ鎌倉四大聖地のひとつで三代将軍実朝が君恩父徳に報謝するために、つまり天皇と頼朝公に感謝するために建暦2年1212年に造営がはじまりました。
十二所のバス停の近くに明王院というこれも鎌倉時代創建の古いお寺がありますが、この明王院の東一帯がすべて大慈寺で、前にも書きましたように現在カトリックの修道院になっている小高い丘陵も往時の七堂伽藍が聳えておりました。
大慈寺の木造の大仏を安置した丈六堂は江戸時代まではこの付近にあり、その仏頭は私が最近住職と和解した光触寺に隠されておりますが、その丈六堂が存続していた頃の面影をかろうじてこの墓地だけが伝えているのです。
ああそれなのに、先日この聖なる地に進入し、1基の仏塔を倒した悪いやつがいるのは許せません。
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ 亡羊
ここは私が住んでいる十二所のガソリンスタンドがある交差点の、すぐ袂にある小さな墓地です。鎌倉駅から八景方面のバスに乗って、まっすぐ行くと鎌倉霊園、右に曲がると鎌倉逗子ハイランドという交通の要地なのに、誰も見向きもしないで通り過ぎます。
しかしここは鎌倉時代にはすぐそばの大慈寺の境内でありました。大慈寺は八幡宮寺、勝長寿院、永福寺と並ぶ鎌倉四大聖地のひとつで三代将軍実朝が君恩父徳に報謝するために、つまり天皇と頼朝公に感謝するために建暦2年1212年に造営がはじまりました。
十二所のバス停の近くに明王院というこれも鎌倉時代創建の古いお寺がありますが、この明王院の東一帯がすべて大慈寺で、前にも書きましたように現在カトリックの修道院になっている小高い丘陵も往時の七堂伽藍が聳えておりました。
大慈寺の木造の大仏を安置した丈六堂は江戸時代まではこの付近にあり、その仏頭は私が最近住職と和解した光触寺に隠されておりますが、その丈六堂が存続していた頃の面影をかろうじてこの墓地だけが伝えているのです。
ああそれなのに、先日この聖なる地に進入し、1基の仏塔を倒した悪いやつがいるのは許せません。
無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ 亡羊
Sunday, February 17, 2008
映画「アマデウス」を視聴する。
♪音楽千夜一夜第33回
先日かつて大ヒットした映画「アマデウス」がNHKのBSでデイレクターズ・カット版という長尺版で放送されたので久しぶりに再見したのだが「ドン・ジョバンニ」の序曲の冒頭の和音から始まり、k467のピアノ協奏曲のアンダンテで終わるこの映画の醍醐味はやはりモザールの音楽の素晴らしさを堪能することにあるのであって、サリエリがモザールの神に愛された天才を憎むあまり、刺客を派遣して砒素を盛って暗殺したなどという愚にもつかない伝説や、同じサリエリがモザールの妻コンスタンチエの貞操を奪おうとしたとか、あまつさえみずからが「レクイエム」の作曲を依頼し、モザールの最期の夜に彼の絶筆をアシストしたとなどというモザールにまつわるあれやこれやのホラ話や嘘やインチキや風説のかぎりを吹聴される下世話なたのしさ、面白さなどにけっしてないことは心ある人には自明のことであるにしても、それでもこの映画がモザールの自伝というふれこみであるだけにいまなお一抹の不安が掠めるのであるが、であるにせよ見所聴きどころはいたるところに転がっており、例えば「後宮からの誘拐」のフィナーレのジャン・ピエール・ポネルを偲ばせる見事な演出や「フィガロの結婚」の第4幕の至高のフィナーレで皇帝ヨーゼフ2世が欠伸をすることによって自らの俗流芸術趣味を暴露してしまう箇所、ウイーンで冷遇されたモザールがプラハの民衆から歓呼を受ける光景、死相をあらわにしながら「魔笛」を振るモザールの鬼気迫る指揮ぶり、「ドン・ジョバンニ」の地獄落ちの凄まじさ、光るネビル・マリナーの指揮と音楽構成、セントアカデミー・インザフィールド管の演奏によるk201の交響曲、k450のロ長調ピアノ協奏曲のアレグロの導入、あるいは楽譜初稿に書き損じがないとサリエリが感嘆する瞬間に流れる「フルートとハープのためのコンチエルト」k299の緩徐楽章のフルートの高鳴りなどなど文句なしのお楽しみだが、そうはいっても映画の最後の葬送シーンで未完の「レクイエム」に伴われてウイーンの墓地にしの降る雨はほとんど春雨程度のゆるい降りであり、実際にそうであった12月の暴風雨の荒れ模様などまるで表現されておらず、一体全体どうしてサリエリもコンスタンチエも墓地の入り口で留まって引き返したのか、またいったいモザールともあろう有名人がどうして無人墓地に犬猫のように葬られてしまったのか、あんまり可哀相ではないか、あれでは02年の今月今夜に死んで我が家の庭の奥津城に葬られた愛犬ムクのほうがよほど恵まれていたではないか、と文句のひとつも言いたくなるのである。
♪セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄 亡羊
先日かつて大ヒットした映画「アマデウス」がNHKのBSでデイレクターズ・カット版という長尺版で放送されたので久しぶりに再見したのだが「ドン・ジョバンニ」の序曲の冒頭の和音から始まり、k467のピアノ協奏曲のアンダンテで終わるこの映画の醍醐味はやはりモザールの音楽の素晴らしさを堪能することにあるのであって、サリエリがモザールの神に愛された天才を憎むあまり、刺客を派遣して砒素を盛って暗殺したなどという愚にもつかない伝説や、同じサリエリがモザールの妻コンスタンチエの貞操を奪おうとしたとか、あまつさえみずからが「レクイエム」の作曲を依頼し、モザールの最期の夜に彼の絶筆をアシストしたとなどというモザールにまつわるあれやこれやのホラ話や嘘やインチキや風説のかぎりを吹聴される下世話なたのしさ、面白さなどにけっしてないことは心ある人には自明のことであるにしても、それでもこの映画がモザールの自伝というふれこみであるだけにいまなお一抹の不安が掠めるのであるが、であるにせよ見所聴きどころはいたるところに転がっており、例えば「後宮からの誘拐」のフィナーレのジャン・ピエール・ポネルを偲ばせる見事な演出や「フィガロの結婚」の第4幕の至高のフィナーレで皇帝ヨーゼフ2世が欠伸をすることによって自らの俗流芸術趣味を暴露してしまう箇所、ウイーンで冷遇されたモザールがプラハの民衆から歓呼を受ける光景、死相をあらわにしながら「魔笛」を振るモザールの鬼気迫る指揮ぶり、「ドン・ジョバンニ」の地獄落ちの凄まじさ、光るネビル・マリナーの指揮と音楽構成、セントアカデミー・インザフィールド管の演奏によるk201の交響曲、k450のロ長調ピアノ協奏曲のアレグロの導入、あるいは楽譜初稿に書き損じがないとサリエリが感嘆する瞬間に流れる「フルートとハープのためのコンチエルト」k299の緩徐楽章のフルートの高鳴りなどなど文句なしのお楽しみだが、そうはいっても映画の最後の葬送シーンで未完の「レクイエム」に伴われてウイーンの墓地にしの降る雨はほとんど春雨程度のゆるい降りであり、実際にそうであった12月の暴風雨の荒れ模様などまるで表現されておらず、一体全体どうしてサリエリもコンスタンチエも墓地の入り口で留まって引き返したのか、またいったいモザールともあろう有名人がどうして無人墓地に犬猫のように葬られてしまったのか、あんまり可哀相ではないか、あれでは02年の今月今夜に死んで我が家の庭の奥津城に葬られた愛犬ムクのほうがよほど恵まれていたではないか、と文句のひとつも言いたくなるのである。
♪セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄 亡羊
Saturday, February 16, 2008
蔵で暮らす
勝手に建築観光28回&鎌倉ちょっと不思議な物語99回
鶴岡八幡宮の東側の小道に気になる蔵があります。外壁の周囲は緑の分厚い蔦に覆われ、四季折々の変容を見せくれます。
昔ながらの蔵なのですが、その中に住んでいる人がいるのです。私は駅から家までの帰り道に必ずここを通ります。どんな人がここで暮らしているのだろう。おそらくデザイナーではないだろうか、などと勝手に想像しているのですが、実際に住人の姿を見たことは残念ながら一度もないのです。
寿福寺から少し南に下がったところにもっと大きく立派な蔵がありますが、これは最近どこか地方から移転させてきたものでイベントなどに使っているようですが、誰かが住んでいるわけではありません。
私もたまにはこんな蔵で寝転がって、八幡様の蓮がパン、パパンと開くのを耳にしながら平家物語や徒然草を読んでみたいな。
♪如月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊
鶴岡八幡宮の東側の小道に気になる蔵があります。外壁の周囲は緑の分厚い蔦に覆われ、四季折々の変容を見せくれます。
昔ながらの蔵なのですが、その中に住んでいる人がいるのです。私は駅から家までの帰り道に必ずここを通ります。どんな人がここで暮らしているのだろう。おそらくデザイナーではないだろうか、などと勝手に想像しているのですが、実際に住人の姿を見たことは残念ながら一度もないのです。
寿福寺から少し南に下がったところにもっと大きく立派な蔵がありますが、これは最近どこか地方から移転させてきたものでイベントなどに使っているようですが、誰かが住んでいるわけではありません。
私もたまにはこんな蔵で寝転がって、八幡様の蓮がパン、パパンと開くのを耳にしながら平家物語や徒然草を読んでみたいな。
♪如月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊
Friday, February 15, 2008
萩原延壽著「陸奥宗光上巻」を読む
照る日曇る日第99回
萩原延壽は朝日新聞に連載したアーネスト・サトウの伝記「遠い崖」で知られる歴史家であり、かの大仏次郎に優に比肩する当代一流の評伝作家でもあった。その精緻を極めた資料の渉猟と長期にわたる膨大な調査研究からもたらされた知見に基づく人物月旦は、まことに正統的な客観主義の外観をそなえながら、その外装の奥には主人公に対する秘められた偏愛と熱情のほむらが燃え滾っており、読むものをいつのまにか虜にする魅力を備えている。
大仏が「天皇の世紀」で目指したものが、明治という時代の骨格のあますところなき再現であったのに対して、萩原は、明治を生きた代表的人物をあますところなく対象化することを通じて、明治という時代の血肉をわが手に収めようと試みた。
そして萩原がまず最初に手がけたのが、「頼むところは天下の輿論、目指すかたきは暴虐政府」と叫んでフィラデルフィアに倒れた自由の戦士馬場辰猪であり、続いて「蹇蹇録」で知られる陸奥宗光その人であった。
ちなみに著者によれば、陸奥は明治19年の夏に足尾銅山に視察に行き、中禅寺湖に別荘を持っていたアーネスト・サトウと会ったらしい。(陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養子だった)。サトウの日本人女性に対する観察は足が短いとかなかなか辛らつであったが、ゆいいつ陸奥の後妻で才色兼備の誉れ高い亮子だけは大変な美人と絶賛したそうだ。
陸奥は和歌山藩の上級武士の子であり、海援隊の坂本龍馬の一番弟子であり、御一新の後には藩閥政府の一員であると同時にその敵対者でもあり、木戸、伊藤、後藤に愛され、岩倉、大久保、西郷、島津久光に憎まれ、絶えず権力と理念のはざまに立って動揺常ならぬ混乱と転向を繰り返しながら、わが国にとって大きな里程標となった日清戦争を外務大臣として収拾した、明治を代表する文人政治家である。陸奥は星亨と原敬を育て、結局その系譜が日本の政党政治の主流となるのである。
しかし著者はそういうマキャベリやジョセフ・フーシェを思わせる政治的人間陸奥の行蔵を描くだけではなく、あるときは権力の側に立ち、またあるときはそれを指弾して自由民権運動に加担して獄に投じられる「節操常ならざる分裂した魂」の内部をじっと覗き込む。それによって政治と人間という普遍的な問題がゆるゆるとあぶりだされ、陸奥という人間を鏡としてそこに映じられる同時代の人物たちの生き方、ひいては明治という時代そのものの実像が、おもむろに立ち現れる。ここにこそ本書の魅力がある。
♪大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし 亡羊
萩原延壽は朝日新聞に連載したアーネスト・サトウの伝記「遠い崖」で知られる歴史家であり、かの大仏次郎に優に比肩する当代一流の評伝作家でもあった。その精緻を極めた資料の渉猟と長期にわたる膨大な調査研究からもたらされた知見に基づく人物月旦は、まことに正統的な客観主義の外観をそなえながら、その外装の奥には主人公に対する秘められた偏愛と熱情のほむらが燃え滾っており、読むものをいつのまにか虜にする魅力を備えている。
大仏が「天皇の世紀」で目指したものが、明治という時代の骨格のあますところなき再現であったのに対して、萩原は、明治を生きた代表的人物をあますところなく対象化することを通じて、明治という時代の血肉をわが手に収めようと試みた。
そして萩原がまず最初に手がけたのが、「頼むところは天下の輿論、目指すかたきは暴虐政府」と叫んでフィラデルフィアに倒れた自由の戦士馬場辰猪であり、続いて「蹇蹇録」で知られる陸奥宗光その人であった。
ちなみに著者によれば、陸奥は明治19年の夏に足尾銅山に視察に行き、中禅寺湖に別荘を持っていたアーネスト・サトウと会ったらしい。(陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養子だった)。サトウの日本人女性に対する観察は足が短いとかなかなか辛らつであったが、ゆいいつ陸奥の後妻で才色兼備の誉れ高い亮子だけは大変な美人と絶賛したそうだ。
陸奥は和歌山藩の上級武士の子であり、海援隊の坂本龍馬の一番弟子であり、御一新の後には藩閥政府の一員であると同時にその敵対者でもあり、木戸、伊藤、後藤に愛され、岩倉、大久保、西郷、島津久光に憎まれ、絶えず権力と理念のはざまに立って動揺常ならぬ混乱と転向を繰り返しながら、わが国にとって大きな里程標となった日清戦争を外務大臣として収拾した、明治を代表する文人政治家である。陸奥は星亨と原敬を育て、結局その系譜が日本の政党政治の主流となるのである。
しかし著者はそういうマキャベリやジョセフ・フーシェを思わせる政治的人間陸奥の行蔵を描くだけではなく、あるときは権力の側に立ち、またあるときはそれを指弾して自由民権運動に加担して獄に投じられる「節操常ならざる分裂した魂」の内部をじっと覗き込む。それによって政治と人間という普遍的な問題がゆるゆるとあぶりだされ、陸奥という人間を鏡としてそこに映じられる同時代の人物たちの生き方、ひいては明治という時代そのものの実像が、おもむろに立ち現れる。ここにこそ本書の魅力がある。
♪大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし 亡羊
Thursday, February 14, 2008
蕪村のアイドルをさがせ
♪バガテルop42
俳人にして画家の与謝蕪村は、一休のように65歳になっても若い女たちとうたを詠み交わし、精神と肉体の愛の生活にふけっていた。らしい。
「蕪村七部集」の「花鳥篇」のなかの「花櫻帖」を見ると彼女たちの名前と俳句が載っている。おそらくは芸妓や町人の娘であろうが、初心の素人衆ばかりであるとはいえ、いずれも蕪村好みの天明調の緩さが懐かしく、捨てがたいのどかな趣がある。
それにつけても蕪村の御伽は次の女衆のうちのいずれであらうか。
月のよは花より明てさくら哉 うめ
うつくしき花のさかりやきのふけふ ことの
いろいろの人見る花の山路かな 小いと
老いて猶さくらは花にとはれける 柳女
櫻かりかの木この木の一構 まさ女
雲と咲雪と散けり山ざくら 石松
♪小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 亡羊
俳人にして画家の与謝蕪村は、一休のように65歳になっても若い女たちとうたを詠み交わし、精神と肉体の愛の生活にふけっていた。らしい。
「蕪村七部集」の「花鳥篇」のなかの「花櫻帖」を見ると彼女たちの名前と俳句が載っている。おそらくは芸妓や町人の娘であろうが、初心の素人衆ばかりであるとはいえ、いずれも蕪村好みの天明調の緩さが懐かしく、捨てがたいのどかな趣がある。
それにつけても蕪村の御伽は次の女衆のうちのいずれであらうか。
月のよは花より明てさくら哉 うめ
うつくしき花のさかりやきのふけふ ことの
いろいろの人見る花の山路かな 小いと
老いて猶さくらは花にとはれける 柳女
櫻かりかの木この木の一構 まさ女
雲と咲雪と散けり山ざくら 石松
♪小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 亡羊
Wednesday, February 13, 2008
レイモンド・カーヴァー著「象」を読む
照る日曇る日第98回
これは村上春樹が翻訳したレイモンド・カーヴァー最後の短編集である。
レイの短編の特徴は見事に完成されたばかりのキャンバスをその瞬間にナイフでざっくりと切り裂いたような放埓なラストであろう。表題作の象における稲妻のごとく疾走する大型車、「誰かは知らないが、このベッドで寝ていた人が」において突如引き抜かれる電話線、「親密」で主人公に降りかかるおびただしい木の葉、「ブラックバード・バイ」における愛する人との別れ――読者を突き放すように唐突に断ち切られた物語の終わりが、生きることは死ぬことであり、死ぬこともまた生きることである、という著者のクールな人生観をあざやかに示すのである。
最後にさりげなく置かれた「使い走り」は、死期を宣告された著者がそれこそ死力を奮って書き綴った遺作の短編だが、それはロシアの文学者チェーホフ最期の日を想像力豊かに描くことによって迫りくる自らの死を冷徹にトレースしている。
「バーデンヴァイラーはシュヴァルツヴァルト地方の西にある保養地で、バーゼルからそれほど遠くないとことにある。町のほとんどの場所からヴォージュ山脈が見えた。その当時、空気はまじりけなく綺麗で爽快であった。ロシア人たちは古くからそこを好んで訪れ、熱い鉱泉に身を浸し、通りをそぞろ歩いたものだ。1904年の6月に、チェーホフは死ぬためにそこを訪れた」
という見事なセンテンスを眼にした読者は、そのときマグニチュード8.0の大震災に襲われたとしても、その次から始まる短編の極意とでもいうべきストーリーを読まないわけにはいかないだろう。レイモンド・カーヴァーはこんな素晴らしい短編をこの世の置き土産に、1988年、50歳を一期に肺がんで身罷ったが、そのあまりにも早すぎた死が惜しまれる。
♪ぴらかんさ次いで千両の順に食われけり 亡羊
これは村上春樹が翻訳したレイモンド・カーヴァー最後の短編集である。
レイの短編の特徴は見事に完成されたばかりのキャンバスをその瞬間にナイフでざっくりと切り裂いたような放埓なラストであろう。表題作の象における稲妻のごとく疾走する大型車、「誰かは知らないが、このベッドで寝ていた人が」において突如引き抜かれる電話線、「親密」で主人公に降りかかるおびただしい木の葉、「ブラックバード・バイ」における愛する人との別れ――読者を突き放すように唐突に断ち切られた物語の終わりが、生きることは死ぬことであり、死ぬこともまた生きることである、という著者のクールな人生観をあざやかに示すのである。
最後にさりげなく置かれた「使い走り」は、死期を宣告された著者がそれこそ死力を奮って書き綴った遺作の短編だが、それはロシアの文学者チェーホフ最期の日を想像力豊かに描くことによって迫りくる自らの死を冷徹にトレースしている。
「バーデンヴァイラーはシュヴァルツヴァルト地方の西にある保養地で、バーゼルからそれほど遠くないとことにある。町のほとんどの場所からヴォージュ山脈が見えた。その当時、空気はまじりけなく綺麗で爽快であった。ロシア人たちは古くからそこを好んで訪れ、熱い鉱泉に身を浸し、通りをそぞろ歩いたものだ。1904年の6月に、チェーホフは死ぬためにそこを訪れた」
という見事なセンテンスを眼にした読者は、そのときマグニチュード8.0の大震災に襲われたとしても、その次から始まる短編の極意とでもいうべきストーリーを読まないわけにはいかないだろう。レイモンド・カーヴァーはこんな素晴らしい短編をこの世の置き土産に、1988年、50歳を一期に肺がんで身罷ったが、そのあまりにも早すぎた死が惜しまれる。
♪ぴらかんさ次いで千両の順に食われけり 亡羊
Tuesday, February 12, 2008
続・元コピーライター、かく語りき
♪バガテルop42&照る日曇る日第97回
消費者に商品を売る一介のテクノクラートであり、商品の宣伝の召使であるはずの広告文案作成屋が、なにを勘違いしたのか社長に代わっておのれの個人的な思想や感慨を語りはじめ、天下の公器を私物化し、あまつさえ1行のコピーが時代や世の中を変える、などと錯覚し、ドンキホーテのように奇怪な妄想にうつつを抜かしはじめたのである。彼ら自身は無自覚であったが、「欲しがりません勝つまでは」という名コピーを書いて文字通り一世を風靡した才人をひそかに目指していたのかもしれない。
私自身も含めてコピーライターのみならずほんらい怜悧であるはずの日本資本主義もまたここで大きな勘違いをしてしまった。思えばここがいわゆるコピーライターブームの出発点であり、後続するバブル時代の幕開けだったのではないだろうか。まことに思い出しただけで吐き気がするほど苦しく、また悶絶的に楽しい戯作家の虚業全盛時代でもあった。
それにしてもあるかなきかの微細な商品の独自性、優位性、セールスポイントをむりやり「発見」し、それに対して針小膨大な「付加価値」をでっちあげ、おのれの才覚にまかせて恣意的なお化粧を施し、無理やり消費者の欲望を喚起させるこの仕事は、いかに身過ぎ世過ぎとはいえ本質的には良心に恥じ、人倫に悖る作業であり、内心忸怩たる因業な課業でもある。
この賎業への加担を逃れ、因果の悪連鎖を逃れるためには、広告の現場からとく立ち去って生産現場に駆けつけ、本当に消費者のためになる画期的な製品をみずからの手で生産し、しかるのちに広告宣伝に立ち戻るか、あるいは目の前の劣悪で凡庸な商品に眼をつぶって、消費者にその本質を気づかせないような呪文や幻惑や目潰しをあびせ続けるか、あるいは誰にも評価されず注文が来なくとも、誠実で正直なコピーをほそぼそと書き続けるか、はたまた「自分が幸福ではないのに幸福なコピーは書けない」と遺言して1973年に自死した杉山登志の道を選ぶか、のいずれかしかないだろう。
そしてそのあまりにも美しすぎる呪文のひとつが、昨日挙げた秋山氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」という“感動的な”コピーだったのではないか、と私は今にして振り返るのである。
バブルは無残にはじけ、毎晩銀座のバーを肩で風切って闊歩しながら飲み歩く流行作家気取りのかっこいいコピーライターは1匹残らず絶滅した。時代はコピーライターのものから、スタイリスト、フォトグラファー、そしてプランナー、デザイナー、アートディレクター、マーチャンダイザーの覇権へとめまぐるしく変遷し、グッチやルイ・ヴィトンなど外資系ラグジュアリーブランドの広告では、いっさいの広告コピーを廃し、画像とロゴとURLだけで構成するのがいっそおしゃれであるという流儀が定着して久しい。
茫茫30年。制作費が厳しく削減され、広告宣伝の玄妙な秘法など糞喰らえのクライアントの強権が問答無用で復活し、なんの教養もないど素人コピーライターによって携帯メールで殴り書かかれた風情も工夫も含蓄もない超即物的かつ短絡的なへたくそコピー全盛の現在が、むしろ健全でいっそ小気味よい光景と映るのは果たして私だけだろうか。
♪篤姫を見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球 亡羊
消費者に商品を売る一介のテクノクラートであり、商品の宣伝の召使であるはずの広告文案作成屋が、なにを勘違いしたのか社長に代わっておのれの個人的な思想や感慨を語りはじめ、天下の公器を私物化し、あまつさえ1行のコピーが時代や世の中を変える、などと錯覚し、ドンキホーテのように奇怪な妄想にうつつを抜かしはじめたのである。彼ら自身は無自覚であったが、「欲しがりません勝つまでは」という名コピーを書いて文字通り一世を風靡した才人をひそかに目指していたのかもしれない。
私自身も含めてコピーライターのみならずほんらい怜悧であるはずの日本資本主義もまたここで大きな勘違いをしてしまった。思えばここがいわゆるコピーライターブームの出発点であり、後続するバブル時代の幕開けだったのではないだろうか。まことに思い出しただけで吐き気がするほど苦しく、また悶絶的に楽しい戯作家の虚業全盛時代でもあった。
それにしてもあるかなきかの微細な商品の独自性、優位性、セールスポイントをむりやり「発見」し、それに対して針小膨大な「付加価値」をでっちあげ、おのれの才覚にまかせて恣意的なお化粧を施し、無理やり消費者の欲望を喚起させるこの仕事は、いかに身過ぎ世過ぎとはいえ本質的には良心に恥じ、人倫に悖る作業であり、内心忸怩たる因業な課業でもある。
この賎業への加担を逃れ、因果の悪連鎖を逃れるためには、広告の現場からとく立ち去って生産現場に駆けつけ、本当に消費者のためになる画期的な製品をみずからの手で生産し、しかるのちに広告宣伝に立ち戻るか、あるいは目の前の劣悪で凡庸な商品に眼をつぶって、消費者にその本質を気づかせないような呪文や幻惑や目潰しをあびせ続けるか、あるいは誰にも評価されず注文が来なくとも、誠実で正直なコピーをほそぼそと書き続けるか、はたまた「自分が幸福ではないのに幸福なコピーは書けない」と遺言して1973年に自死した杉山登志の道を選ぶか、のいずれかしかないだろう。
そしてそのあまりにも美しすぎる呪文のひとつが、昨日挙げた秋山氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」という“感動的な”コピーだったのではないか、と私は今にして振り返るのである。
バブルは無残にはじけ、毎晩銀座のバーを肩で風切って闊歩しながら飲み歩く流行作家気取りのかっこいいコピーライターは1匹残らず絶滅した。時代はコピーライターのものから、スタイリスト、フォトグラファー、そしてプランナー、デザイナー、アートディレクター、マーチャンダイザーの覇権へとめまぐるしく変遷し、グッチやルイ・ヴィトンなど外資系ラグジュアリーブランドの広告では、いっさいの広告コピーを廃し、画像とロゴとURLだけで構成するのがいっそおしゃれであるという流儀が定着して久しい。
茫茫30年。制作費が厳しく削減され、広告宣伝の玄妙な秘法など糞喰らえのクライアントの強権が問答無用で復活し、なんの教養もないど素人コピーライターによって携帯メールで殴り書かかれた風情も工夫も含蓄もない超即物的かつ短絡的なへたくそコピー全盛の現在が、むしろ健全でいっそ小気味よい光景と映るのは果たして私だけだろうか。
♪篤姫を見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球 亡羊
Monday, February 11, 2008
元コピーライター、かく語りき
♪バガテルop41&照る日曇る日第96回
宣伝会議という出版社から最近発売された「コピーがひもとく日本の50年」という2095円もする分厚い本を頂いた。私はかつてコピーライターという仕事をしていたことがあり、宣伝会議社が主催するコピーライター講座の講師を数年間やっていたこともあるので昔を思い出して懐かしかった。
当時銀座の松屋の裏にその教室があり、毎週1回のその夕方からの授業が終わると、私は生徒全員を引き連れて安酒場に行って飲みかつ喰らい愉快に談笑するのが常だった。その当時の私はまだ少しなら酒を口にすることができ、後年のようにたったビール一口で急性アルコール中毒で昏倒するような無様なことはなかった。私のクラスから巣立った何人かはその後映画や音楽産業の優れた担い手となり、私は彼らのその後の活躍をわがことのようにうれしく思っている。
さてその分厚い本を繰ってみると、わが国のコピーとコピーライターの歴史をつくった梶裕輔や土屋耕一、秋山晶、仲畑貴志、真木準といった俊才たちの過去半世紀の名作コピー365本が、ご本人たちのコメントとともに紹介されており、なかなか興味深いものがあった。
向秀雄氏の「ミュンヘン、サッポロ、ミルウオーキー」、山口瞳氏の「トリスを飲んでHaWaiiへ行こう」、「なぜ年齢をきくの」とか「こんにちは土曜日くん」「君のひとみは10000ボルト」など伊勢丹の企業広告のコピーを作った土屋耕一氏の作品は時代の記憶の一部となったし、「おしりだって洗ってほしい」(TOTO)、「好きだから、あげる」(丸井)を作った仲畑貴志氏、「ピイカピカの1年生」の杉山恒太郎氏、「でかいどお、北海道」の真木準氏などの作品を眼にすると、私と同時代の制作者である彼らの当時の面影があざやかに甦ってくる。
しかしかつては広告文案作成屋と呼ばれたコピーライティングの流れを大きく変えたのは、1974年のたしか糸井重里氏作の「ケネディは好きだったけれど、ジャクリーヌは嫌いだ」、そして77年に高校野球をテーマにした秋山晶氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」というキャノン販売の広告ではなかっただろうか。
これらの作品ではいずれも主語がクライアントではなく、驚いたことにはコピーライター本人であり、訴求テーマが商品そのものから大きく逸脱してモノからコトへ、商品世界から仮想文学的世界へと大きく飛躍し、幻想の虚空で浮遊している。
♪生きておっても死んでおっても空の空なり 亡羊
宣伝会議という出版社から最近発売された「コピーがひもとく日本の50年」という2095円もする分厚い本を頂いた。私はかつてコピーライターという仕事をしていたことがあり、宣伝会議社が主催するコピーライター講座の講師を数年間やっていたこともあるので昔を思い出して懐かしかった。
当時銀座の松屋の裏にその教室があり、毎週1回のその夕方からの授業が終わると、私は生徒全員を引き連れて安酒場に行って飲みかつ喰らい愉快に談笑するのが常だった。その当時の私はまだ少しなら酒を口にすることができ、後年のようにたったビール一口で急性アルコール中毒で昏倒するような無様なことはなかった。私のクラスから巣立った何人かはその後映画や音楽産業の優れた担い手となり、私は彼らのその後の活躍をわがことのようにうれしく思っている。
さてその分厚い本を繰ってみると、わが国のコピーとコピーライターの歴史をつくった梶裕輔や土屋耕一、秋山晶、仲畑貴志、真木準といった俊才たちの過去半世紀の名作コピー365本が、ご本人たちのコメントとともに紹介されており、なかなか興味深いものがあった。
向秀雄氏の「ミュンヘン、サッポロ、ミルウオーキー」、山口瞳氏の「トリスを飲んでHaWaiiへ行こう」、「なぜ年齢をきくの」とか「こんにちは土曜日くん」「君のひとみは10000ボルト」など伊勢丹の企業広告のコピーを作った土屋耕一氏の作品は時代の記憶の一部となったし、「おしりだって洗ってほしい」(TOTO)、「好きだから、あげる」(丸井)を作った仲畑貴志氏、「ピイカピカの1年生」の杉山恒太郎氏、「でかいどお、北海道」の真木準氏などの作品を眼にすると、私と同時代の制作者である彼らの当時の面影があざやかに甦ってくる。
しかしかつては広告文案作成屋と呼ばれたコピーライティングの流れを大きく変えたのは、1974年のたしか糸井重里氏作の「ケネディは好きだったけれど、ジャクリーヌは嫌いだ」、そして77年に高校野球をテーマにした秋山晶氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」というキャノン販売の広告ではなかっただろうか。
これらの作品ではいずれも主語がクライアントではなく、驚いたことにはコピーライター本人であり、訴求テーマが商品そのものから大きく逸脱してモノからコトへ、商品世界から仮想文学的世界へと大きく飛躍し、幻想の虚空で浮遊している。
♪生きておっても死んでおっても空の空なり 亡羊
Sunday, February 10, 2008
DVDには寿命がある!?
♪バガテルop40
9日の旭日新聞の夕刊トップに「DVDディスク寿命格差」という大見出しで、いま使われているDVDディスクの中には数年で劣化してデータを読み出せなくなるかもしれないと警告する記事が出ていた。DVDディスクなら孫子の代まで大丈夫と思っていたのに1年で映像が消えうせる例も多々あるという。
国内ブランドの一部は半永久的に保存できる優良製品もあるようだが、私が愛用している1枚30円から40円の台湾製は、実験前からエラーが多すぎて寿命の推定が不可能という劣悪品が多いそうだ。そういうこともあるかもしれないと漠然と考えていたが、実験結果をこのように露骨に突きつけられるとはたと頭を抱え込んでしまう。
私は前にもここで書いたように、NHKBSで放映されるすべての映画とクラシック音楽、歌舞伎などの新旧演劇番組を連日DVDディスクに録画してきた。1日にたかだか4番組くらいだが、それが毎日毎日何年にもわたるとおびただしい数量となり、私のような恒産なき流浪のルンペン・プロレタリアートには1枚100円以上もする国内盤はいくら品質が優れているとはいえ経済的に負担がかかりすぎる。
よって超安価な台湾製のあれやこれやをためつすがめつ大量に買い込むことになる。ところが100枚2300円のお買い得を買ったはいいけれど、それがちゃんと録画できないこともよくあり、これまでいくど痛い目に遭ったか分からない。例えばZEROは人気の台湾ブランドでそこそこ品質もよく、値段も安いので愛用していたが、ある時期から工場だか規格が変わったらしく、私のレコーダーがいっさい受け付けなくなってしまった。
やむなくPRO-FEELブランドに転向しそれなりに満足していたら、突然この製品が冷凍餃子のように市中に出回らなくなってしまった。そこでようやく超破格値のFINEブランドに切り替えたところ、この16倍速がそれこそ早い・安い・美味いの3拍子が揃っているのでやれやれと安心していた矢先に旭日新聞の記事である。
もし私にお金があったらもちろん国産を買うだろう。しかし国産といっても三菱のように台湾の工場に委託しているものも多く、純台湾製ほど多くはないがけっこうトラブルも生じるから始末におえない。
コストの問題以上に問題なのは収納スペースだ。私の狭い書斎はすでに無数の書籍群とLPレコード、カセットテープ、ビデオテープの大群に加えてかの「あほばかレーザーディスク」まで捨てるに捨てられない状態で死蔵されている。これに加えて日夜増殖を遂げつつある膨大なDVD! 過大な加重に耐え切れず部屋の土台が崩れ去る日も近い。
それにしても、と私は考える。どんどん膨れ上がるこの膨大なソフトを、果たして私は生きているうちに鑑賞できるのだろうか?
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
9日の旭日新聞の夕刊トップに「DVDディスク寿命格差」という大見出しで、いま使われているDVDディスクの中には数年で劣化してデータを読み出せなくなるかもしれないと警告する記事が出ていた。DVDディスクなら孫子の代まで大丈夫と思っていたのに1年で映像が消えうせる例も多々あるという。
国内ブランドの一部は半永久的に保存できる優良製品もあるようだが、私が愛用している1枚30円から40円の台湾製は、実験前からエラーが多すぎて寿命の推定が不可能という劣悪品が多いそうだ。そういうこともあるかもしれないと漠然と考えていたが、実験結果をこのように露骨に突きつけられるとはたと頭を抱え込んでしまう。
私は前にもここで書いたように、NHKBSで放映されるすべての映画とクラシック音楽、歌舞伎などの新旧演劇番組を連日DVDディスクに録画してきた。1日にたかだか4番組くらいだが、それが毎日毎日何年にもわたるとおびただしい数量となり、私のような恒産なき流浪のルンペン・プロレタリアートには1枚100円以上もする国内盤はいくら品質が優れているとはいえ経済的に負担がかかりすぎる。
よって超安価な台湾製のあれやこれやをためつすがめつ大量に買い込むことになる。ところが100枚2300円のお買い得を買ったはいいけれど、それがちゃんと録画できないこともよくあり、これまでいくど痛い目に遭ったか分からない。例えばZEROは人気の台湾ブランドでそこそこ品質もよく、値段も安いので愛用していたが、ある時期から工場だか規格が変わったらしく、私のレコーダーがいっさい受け付けなくなってしまった。
やむなくPRO-FEELブランドに転向しそれなりに満足していたら、突然この製品が冷凍餃子のように市中に出回らなくなってしまった。そこでようやく超破格値のFINEブランドに切り替えたところ、この16倍速がそれこそ早い・安い・美味いの3拍子が揃っているのでやれやれと安心していた矢先に旭日新聞の記事である。
もし私にお金があったらもちろん国産を買うだろう。しかし国産といっても三菱のように台湾の工場に委託しているものも多く、純台湾製ほど多くはないがけっこうトラブルも生じるから始末におえない。
コストの問題以上に問題なのは収納スペースだ。私の狭い書斎はすでに無数の書籍群とLPレコード、カセットテープ、ビデオテープの大群に加えてかの「あほばかレーザーディスク」まで捨てるに捨てられない状態で死蔵されている。これに加えて日夜増殖を遂げつつある膨大なDVD! 過大な加重に耐え切れず部屋の土台が崩れ去る日も近い。
それにしても、と私は考える。どんどん膨れ上がるこの膨大なソフトを、果たして私は生きているうちに鑑賞できるのだろうか?
全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族
Saturday, February 09, 2008
小島信夫の「月光」を読む
小島信夫の「月光」を読む
照る日曇る日第95回
依然としてさっぱり仕事が来ない私は、またしても小島信夫の小説を読んで、みずから無聊を慰めることしかできない。
私が思うに、この人はまあ「書く自動機械」に似たようなものであるなあ。小島信夫のなかにもう一人の小島信夫、あるいはコジマ式ロボットが棲息しておって、これが日常茶飯事、森羅万象をすべて書きまくるのじゃ。人の迷惑もプライバシーもなぎ倒してじゃんじゃん書きなぐるのである。
それは書きたいことを書きたいからではなく、普通の人間なら非常に書きづらいこと、あるいは絶対に書いてはいけないこと、を、彼はどうでも書かなければならない、と天によって強くうながされ、みずからもそうしようと決意しているからなのだ。自分がその先に進み、生きるために破らなければならないベールを、彼はどんどん破りながら全身全力で前進するのである。
そしてそのように行動することの総体が、小島信夫の生であり文学なのだ。
書かずにいられないその軌跡を、人は宇宙の果てまで限りなく越境する私小説というが、当のご本人は「私はいまは夢見るように書き綴っていので、相前後し、合体することを許してもらいたい」と澄ましている。
さて本書は1982年4月から翌年8月にかけて「群像」に連載された表題作はじめ「青衣」「蜻蛉」「合掌」「「高砂」「「再生」の6つの短編小説であるが、例によって例のごとくあっちに寄ってはこちらに引っかかりながら、まるで二人羽織のように脳内対話がとめどなく繰り広げられていく。
最後に並べられた「再生」では、甦りの再生ではなく噺家の安藤芳流という人の談話テープを作者が文字起こししてそのユニークな語りを再現するのに驚かされる。
安藤は漱石の弟子の森田草平の思い出を語り、続いて福本日南が書いた「元禄快挙録」を引き合いに出して、大石内蔵助の切腹があまり潔いものではなかったという話をする。彼の切腹を陰からこっそり見ていた細川越中守がそう証言しているというのである。
定めし立派な腹切りであろうと固唾を呑んで期待していたら意外にも「あまり締まりがなかった」。いったいどうしてだろうといぶかしみながら越中守が内蔵助が使っていた手文庫の中を改めてみたら、「見事なる切腹は一人にかぎり候」という書置きが出てきたそうだ。
この秘話を安藤が恩師の森田に語ってきかせたところ、草平は「おいちょっと待て。そこのところは『見事なる切腹は、殿ご一人にかぎり候 内蔵助』とやれ」と安藤に知恵を授けたという。
なるほど、これだと内蔵助が主君の見事な切腹を際立たせるためにあえて無様な切腹を選び取ったということが一遍で分かる。さすが漱石の永遠の弟子の森田草平だけのことはある、ということを言いたいがために、小島信夫はこの40分間の口演テープを汗だくで再現してみせるのである。
♪如月も十日を過ぎて仕事なし 亡羊
照る日曇る日第95回
依然としてさっぱり仕事が来ない私は、またしても小島信夫の小説を読んで、みずから無聊を慰めることしかできない。
私が思うに、この人はまあ「書く自動機械」に似たようなものであるなあ。小島信夫のなかにもう一人の小島信夫、あるいはコジマ式ロボットが棲息しておって、これが日常茶飯事、森羅万象をすべて書きまくるのじゃ。人の迷惑もプライバシーもなぎ倒してじゃんじゃん書きなぐるのである。
それは書きたいことを書きたいからではなく、普通の人間なら非常に書きづらいこと、あるいは絶対に書いてはいけないこと、を、彼はどうでも書かなければならない、と天によって強くうながされ、みずからもそうしようと決意しているからなのだ。自分がその先に進み、生きるために破らなければならないベールを、彼はどんどん破りながら全身全力で前進するのである。
そしてそのように行動することの総体が、小島信夫の生であり文学なのだ。
書かずにいられないその軌跡を、人は宇宙の果てまで限りなく越境する私小説というが、当のご本人は「私はいまは夢見るように書き綴っていので、相前後し、合体することを許してもらいたい」と澄ましている。
さて本書は1982年4月から翌年8月にかけて「群像」に連載された表題作はじめ「青衣」「蜻蛉」「合掌」「「高砂」「「再生」の6つの短編小説であるが、例によって例のごとくあっちに寄ってはこちらに引っかかりながら、まるで二人羽織のように脳内対話がとめどなく繰り広げられていく。
最後に並べられた「再生」では、甦りの再生ではなく噺家の安藤芳流という人の談話テープを作者が文字起こししてそのユニークな語りを再現するのに驚かされる。
安藤は漱石の弟子の森田草平の思い出を語り、続いて福本日南が書いた「元禄快挙録」を引き合いに出して、大石内蔵助の切腹があまり潔いものではなかったという話をする。彼の切腹を陰からこっそり見ていた細川越中守がそう証言しているというのである。
定めし立派な腹切りであろうと固唾を呑んで期待していたら意外にも「あまり締まりがなかった」。いったいどうしてだろうといぶかしみながら越中守が内蔵助が使っていた手文庫の中を改めてみたら、「見事なる切腹は一人にかぎり候」という書置きが出てきたそうだ。
この秘話を安藤が恩師の森田に語ってきかせたところ、草平は「おいちょっと待て。そこのところは『見事なる切腹は、殿ご一人にかぎり候 内蔵助』とやれ」と安藤に知恵を授けたという。
なるほど、これだと内蔵助が主君の見事な切腹を際立たせるためにあえて無様な切腹を選び取ったということが一遍で分かる。さすが漱石の永遠の弟子の森田草平だけのことはある、ということを言いたいがために、小島信夫はこの40分間の口演テープを汗だくで再現してみせるのである。
♪如月も十日を過ぎて仕事なし 亡羊
Friday, February 08, 2008
40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」
40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」
♪音楽千夜一夜第32回
冬来たりなば春遠からじ。私はその春の足音に耳を澄ましながら、もはや過去の遺物と化しつつあるヴィデオテープに収められたクラシック音楽の演奏を少しずつDVDに変換に変換している。
昨日は1967年に初来日したピエール・ブーレーズが大阪のフェスティバルホールでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を振った歴史的演奏を視聴した。イゾルデがビルギット・ニルソン、トリスタンがウオルフガング・ヴィントガッセン、マルケ王をハンス・ホッター、演出はヴィーラント・ワーグナーという、今では考えられない超弩級かつ垂涎の豪華絢爛たる組み合わせである。
オーケストラは大阪祝祭フェスティバル管弦楽団とあるが、おそらくはN響であろう。現在の腐敗堕落した同名のオケとは違ってなかなか見事な演奏を繰り広げ、当時弱冠40歳のブーレーズに巧みにドライブされてバイロイト風の味わいを醸し出している。さはさりながら、現在よりも40年前のほうが優れた演奏をしていた管弦楽団とはなんというおそまつさであろう!
しかしなんといっても素晴らしいのは表題役の2人の名唱、そしてハンス・ホッターの深沈たるマルケ王の絶唱である。ヴィーラントの演出といっても背後に「俊寛」を思わせる書割が出てくる程度でほとんど無作為であるが、その無作為が聴衆に音楽と歌唱への集中を促し、この空前絶後の絶対的な愛と死の物語への陶酔を生み出すのである。
それがすんでからNHKのFMをつけるとメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の目も覚めるように鮮烈な、そしてほんとに私が吐き気を覚えたエッジーな演奏が聞こえてきた。「チョン・ミョンフンかな? いやもっともっと凄いぞ」と思いながら最後まで聞きとおすと、これがなんと若き日の小沢征爾がトロント響と入れた空前絶後の古い古い演奏だったので、私は大昔から今日までどんどん恐竜のように退化していったこの国民的アイドルの音楽的「反進化」の栄光と悲惨を思わないわけにはいかなかった。
小沢大先生の悪口をもうこれで最後にしようと思いつつまたしても書いてしまうのは、若き日の彼にはいま世界中の話題をさらっている81年ベネズエラ生まれの俊英指揮者ドゥダメルをはるかにしの超越的なアカルイミライがまぎれもなくあったにもかかわらず、その宝をうまく開花させることが出来なかったこの未完の天才に対して大いなる無念の想いがあるからで他意はない。
閑話休題。
その1週間くらい前には、教育テレビでコソットの演奏生活50周年記念のコンサートをやっていたがもう相当の年来なのにフィガロのケリビーノのアリアなどを歌い始めると肉弾相打つ風情の肥え太ったおばさんが突然妙齢の美少年に変身するのには驚いた。けだし年の功というやつだろう。
それに比べるとコソットより若いはずのバンブレーはもう往年の輝きは失せ、声も出ずまことに無残なものだった。
♪蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
♪老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
♪音楽千夜一夜第32回
冬来たりなば春遠からじ。私はその春の足音に耳を澄ましながら、もはや過去の遺物と化しつつあるヴィデオテープに収められたクラシック音楽の演奏を少しずつDVDに変換に変換している。
昨日は1967年に初来日したピエール・ブーレーズが大阪のフェスティバルホールでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を振った歴史的演奏を視聴した。イゾルデがビルギット・ニルソン、トリスタンがウオルフガング・ヴィントガッセン、マルケ王をハンス・ホッター、演出はヴィーラント・ワーグナーという、今では考えられない超弩級かつ垂涎の豪華絢爛たる組み合わせである。
オーケストラは大阪祝祭フェスティバル管弦楽団とあるが、おそらくはN響であろう。現在の腐敗堕落した同名のオケとは違ってなかなか見事な演奏を繰り広げ、当時弱冠40歳のブーレーズに巧みにドライブされてバイロイト風の味わいを醸し出している。さはさりながら、現在よりも40年前のほうが優れた演奏をしていた管弦楽団とはなんというおそまつさであろう!
しかしなんといっても素晴らしいのは表題役の2人の名唱、そしてハンス・ホッターの深沈たるマルケ王の絶唱である。ヴィーラントの演出といっても背後に「俊寛」を思わせる書割が出てくる程度でほとんど無作為であるが、その無作為が聴衆に音楽と歌唱への集中を促し、この空前絶後の絶対的な愛と死の物語への陶酔を生み出すのである。
それがすんでからNHKのFMをつけるとメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の目も覚めるように鮮烈な、そしてほんとに私が吐き気を覚えたエッジーな演奏が聞こえてきた。「チョン・ミョンフンかな? いやもっともっと凄いぞ」と思いながら最後まで聞きとおすと、これがなんと若き日の小沢征爾がトロント響と入れた空前絶後の古い古い演奏だったので、私は大昔から今日までどんどん恐竜のように退化していったこの国民的アイドルの音楽的「反進化」の栄光と悲惨を思わないわけにはいかなかった。
小沢大先生の悪口をもうこれで最後にしようと思いつつまたしても書いてしまうのは、若き日の彼にはいま世界中の話題をさらっている81年ベネズエラ生まれの俊英指揮者ドゥダメルをはるかにしの超越的なアカルイミライがまぎれもなくあったにもかかわらず、その宝をうまく開花させることが出来なかったこの未完の天才に対して大いなる無念の想いがあるからで他意はない。
閑話休題。
その1週間くらい前には、教育テレビでコソットの演奏生活50周年記念のコンサートをやっていたがもう相当の年来なのにフィガロのケリビーノのアリアなどを歌い始めると肉弾相打つ風情の肥え太ったおばさんが突然妙齢の美少年に変身するのには驚いた。けだし年の功というやつだろう。
それに比べるとコソットより若いはずのバンブレーはもう往年の輝きは失せ、声も出ずまことに無残なものだった。
♪蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
♪老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌
Thursday, February 07, 2008
古井由吉著「白暗淵」を読む
照る日曇る日第94回
それは夢なのか、それとも夢見る前なのか、夢を見た後の想いなのか、と著者に尋ねても答えは返ってこないだろう。とりとめのない父母未生以前の記憶、突然の爆撃と機銃掃射、一瞬にして町と川と人間の景色を消し去った戦争の悪夢、よみがえった平和の中の死、老年の衰えの日々に鳴り響く幻聴、若き日の友人の些細な思い出、さまざまな女たちの臭い、皮膚と肉の柔らかな接触、鳥や花や物や人間などがひとつに融解していく恐怖と快楽などがここ2年ほどの間につむがれた11の短編の中でモノローグのように語られ、ハープシコードのように独奏されている。
どの作品も見事な出来栄えだが、とりわけ凄いのは「撫子遊ぶ」。文久2年のコレラ流行から話が始まり、やがて応天門炎上の責を問われて憤死した大納言伴善男の話になり、「伴大納言絵詞」の登場人物が側対歩(末讀選手のナンバ走り)ではないかと疑い始め、絵詞の登場人物たちの「恐慌と喜悦とはその表情においてじつに紛らわしい」と著者は書く。私はこの作品を06年の秋に出光美術館で鑑賞したがたしかにそういう表情だったと思い当たった。
やがて大納言を思わせる老人が現れ、男女の交わりの話になって突然「水口に撫子遊ぶ夕まぐれ」という句が著者に浮かんでからは少年時代の思い出に話柄は飛び、いきなり友人の父親の死の前夜の思い出が挿入されてから、「撫子の咲く野辺に 父を埋めて 母を埋めて」という唄が歌われて、さながら漱石の「夢十夜」のような狂気幻想夢譚が鮮やかに閉じられる。人生の切断面の異様なまでの鋭い美しさである。
その幕切れはどうか直接手にとって確かめていただきたい、と寅さんの口上のように言うしかない。
なお題名の「白暗淵(しろわだ)」は、旧約聖書創世記の冒頭にある「元始に神天地を創造たまえり。地は定形なく曠空くして「黒暗淵」の面にあり神の霊水の面を覆たりき」による。菊池信義による装丁は、そのためか白い壁か油絵のテクスチャーを拡大撮影したようなデザインになっているが、これは戸田ツトムの「断層図鑑」のコピーのようにも見えた。
♪その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った 亡羊
それは夢なのか、それとも夢見る前なのか、夢を見た後の想いなのか、と著者に尋ねても答えは返ってこないだろう。とりとめのない父母未生以前の記憶、突然の爆撃と機銃掃射、一瞬にして町と川と人間の景色を消し去った戦争の悪夢、よみがえった平和の中の死、老年の衰えの日々に鳴り響く幻聴、若き日の友人の些細な思い出、さまざまな女たちの臭い、皮膚と肉の柔らかな接触、鳥や花や物や人間などがひとつに融解していく恐怖と快楽などがここ2年ほどの間につむがれた11の短編の中でモノローグのように語られ、ハープシコードのように独奏されている。
どの作品も見事な出来栄えだが、とりわけ凄いのは「撫子遊ぶ」。文久2年のコレラ流行から話が始まり、やがて応天門炎上の責を問われて憤死した大納言伴善男の話になり、「伴大納言絵詞」の登場人物が側対歩(末讀選手のナンバ走り)ではないかと疑い始め、絵詞の登場人物たちの「恐慌と喜悦とはその表情においてじつに紛らわしい」と著者は書く。私はこの作品を06年の秋に出光美術館で鑑賞したがたしかにそういう表情だったと思い当たった。
やがて大納言を思わせる老人が現れ、男女の交わりの話になって突然「水口に撫子遊ぶ夕まぐれ」という句が著者に浮かんでからは少年時代の思い出に話柄は飛び、いきなり友人の父親の死の前夜の思い出が挿入されてから、「撫子の咲く野辺に 父を埋めて 母を埋めて」という唄が歌われて、さながら漱石の「夢十夜」のような狂気幻想夢譚が鮮やかに閉じられる。人生の切断面の異様なまでの鋭い美しさである。
その幕切れはどうか直接手にとって確かめていただきたい、と寅さんの口上のように言うしかない。
なお題名の「白暗淵(しろわだ)」は、旧約聖書創世記の冒頭にある「元始に神天地を創造たまえり。地は定形なく曠空くして「黒暗淵」の面にあり神の霊水の面を覆たりき」による。菊池信義による装丁は、そのためか白い壁か油絵のテクスチャーを拡大撮影したようなデザインになっているが、これは戸田ツトムの「断層図鑑」のコピーのようにも見えた。
♪その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った 亡羊
Wednesday, February 06, 2008
冬の自画像
♪バガテルop39&鎌倉ちょっと不思議な物語98回
駅前を歩いていたら裏駅と表駅を結ぶ地下道に市内の中学生の自画像が張り出してあった。
精密なモノクロームの描線が写実的でいずれも巧みなクロッキーであるが、全体の印象がどことなく暗く、陰鬱であることが気になった。
それは思わずぎょっとするほど不吉ですらあった。個々の作品をよく見るといろいろな違いが見えてくるけれど、遠くから眺めた印象では十人一律で、あえて言うなら手法と切り口を含めて無個性なのである。
間違いであってほしいが、この暗さと空虚さと類似性が若い彼らのいまを象徴している、と私は思った。そしてそこに垣間見られるものは、未来への大いなる不安とあらかじめ用意された絶望ではないだろうか。十五にして心はすでに老人のように朽ち、孤独に立ちすくむ若く孤独な魂たちを想像して、同じ心根の私は冬空の下でぶるぶると震えた。
私(たち)は死んでも希望だけは手放してはならない。
♪梅千本一輪だけが咲いており 亡羊
駅前を歩いていたら裏駅と表駅を結ぶ地下道に市内の中学生の自画像が張り出してあった。
精密なモノクロームの描線が写実的でいずれも巧みなクロッキーであるが、全体の印象がどことなく暗く、陰鬱であることが気になった。
それは思わずぎょっとするほど不吉ですらあった。個々の作品をよく見るといろいろな違いが見えてくるけれど、遠くから眺めた印象では十人一律で、あえて言うなら手法と切り口を含めて無個性なのである。
間違いであってほしいが、この暗さと空虚さと類似性が若い彼らのいまを象徴している、と私は思った。そしてそこに垣間見られるものは、未来への大いなる不安とあらかじめ用意された絶望ではないだろうか。十五にして心はすでに老人のように朽ち、孤独に立ちすくむ若く孤独な魂たちを想像して、同じ心根の私は冬空の下でぶるぶると震えた。
私(たち)は死んでも希望だけは手放してはならない。
♪梅千本一輪だけが咲いており 亡羊
Tuesday, February 05, 2008
常楽寺詣
鎌倉ちょっと不思議な物語97回
大船という地名は3代将軍実朝が宋に渡航する大きな船を材木座あるいは由比ガ浜で作らせたことに因んでいると勝手に想像していた。
ところがいつもお世話になっている「鎌倉の寺小事典」によれば、ここ大船の常楽寺の山号である「粟船」に由来しているそうだ。
嘉禎3年1237年、3代執権の北条泰時が妻の母の供養のために「栗船御堂」を建て、退耕行勇が供養の導師をつとめたのがこの寺の始まりであるという。しかしこの泰時は日本最古の港である和賀江島を材木座の海岸に築いた人なので、まんざら大きな船と縁がないわけでもない。
この常楽寺は蘭渓道隆とも縁が深く、蘭渓はあの建長寺を開山する5年前にこの寺で宋の禅を広めたそうで、「常楽は建長の根本なり」といわれるほど建長寺とのつながりが深い格式高い巨大な寺だったが、今は無粋な観光客なぞついぞ見かけずいつ訪れても直ちに中世の黄昏に身を投じることができる私だけの隠れ里である。
本尊の阿弥陀三尊像、脇恃の観音菩薩、勢至菩薩を安置した伽藍、茅葺の見事な山門、秋の夕日に輝く巨大な公孫樹、仏殿右奥の池と庭園、泰時のこていな墓、そして鎌倉三名鐘のひとつである梵鐘に通じる長い長い参道は、「門」の主人公代助が参禅した円覚寺よりもはるかに趣がある。
栗船山の中腹には木曽義仲の子で頼朝政子の娘大姫との愛の絆を引き裂かれた悲運の義高の墓「木曽塚」があるそうだが、私はまだそこまで登ったことはない。
♪立春哉窓一面乃銀世界 亡羊
大船という地名は3代将軍実朝が宋に渡航する大きな船を材木座あるいは由比ガ浜で作らせたことに因んでいると勝手に想像していた。
ところがいつもお世話になっている「鎌倉の寺小事典」によれば、ここ大船の常楽寺の山号である「粟船」に由来しているそうだ。
嘉禎3年1237年、3代執権の北条泰時が妻の母の供養のために「栗船御堂」を建て、退耕行勇が供養の導師をつとめたのがこの寺の始まりであるという。しかしこの泰時は日本最古の港である和賀江島を材木座の海岸に築いた人なので、まんざら大きな船と縁がないわけでもない。
この常楽寺は蘭渓道隆とも縁が深く、蘭渓はあの建長寺を開山する5年前にこの寺で宋の禅を広めたそうで、「常楽は建長の根本なり」といわれるほど建長寺とのつながりが深い格式高い巨大な寺だったが、今は無粋な観光客なぞついぞ見かけずいつ訪れても直ちに中世の黄昏に身を投じることができる私だけの隠れ里である。
本尊の阿弥陀三尊像、脇恃の観音菩薩、勢至菩薩を安置した伽藍、茅葺の見事な山門、秋の夕日に輝く巨大な公孫樹、仏殿右奥の池と庭園、泰時のこていな墓、そして鎌倉三名鐘のひとつである梵鐘に通じる長い長い参道は、「門」の主人公代助が参禅した円覚寺よりもはるかに趣がある。
栗船山の中腹には木曽義仲の子で頼朝政子の娘大姫との愛の絆を引き裂かれた悲運の義高の墓「木曽塚」があるそうだが、私はまだそこまで登ったことはない。
♪立春哉窓一面乃銀世界 亡羊
Monday, February 04, 2008
萩原延壽著「馬場辰猪」を読む
照る日曇る日第93回&勝手に建築観光28回
馬場辰猪は「明治の東京」の著者で西脇順三郎によって“日本のアナトール・フランス”と称された明治時代の文人馬場孤蝶の兄で、嘉永3年1850年土佐中島に生まれ、明治21年1888年米国フィラデルフィアで結核のため客死した。
辰猪(「たつい」と呼ぶ)は、17歳の時に上京し福沢諭吉の慶応義塾に入って英語を学び、明治3年英国に留学しロンドンでローマ法、財産法を学んで明治7年帰国したが、翌年再び英国に留学し、明治11年の帰国まで英国法、議会の討論と西欧民主主義のあり方について親しく見聞し、「日本語文典」、「日本における英国人」「日英条約論」などの論文・著作を英文で執筆・出版した。
帰国してからは自由民権運動の最前線に立ち、次第に身体を病魔に蝕まれながら明治専制藩閥政権の抑圧と思想的、実践的に戦い、板垣とともに結党した自由党が、党首板垣自身の腐敗堕落と戦線逃亡によって空中分解してからもなお孤軍奮闘したが、民権闘争の全面敗北の急流が押し寄せる中、米国への亡命を決意するも心身の疲労困憊がきわまる中、「あまりにも性急な歩行者」と萩原に評された享年39歳の短い生涯を閉じたのであった。
明治維新の成就いらい西欧流の自由と民権主義の移植は福沢諭吉や中江兆民はじめ数多くの留学経験者、インテリ帰朝者によって精力的に行なわれたが、伊藤博文、井上毅などが大隈重信を閣外に追放した「明治14年の政変」以来自由派への逆風がつのり結局辰猪は破滅してしまうのだが、その抵抗精神と自由主義の旗は不滅のものであり、福沢と中江の弔辞を読んで悌涙せぬ人は著者と私の友ではない。
辰猪の生涯とその戦いの詳細は本書で詳しくたどっていただくことにして、辰猪の自由思想で注目すべきは、彼の結婚観であろう。(彼自身は父親の放蕩を呪詛して生涯独身を貫いた)。彼は夫婦は愛によってのみ結ばれるべきものと考え、結婚は期限を定めた契約を前提にせよと説いている。いずれかの愛が醒めればただちに契約を破棄せよというのだがなかなかに合理的ではないか。
過日私はかつて銀座でもっとも愛していた場所を訪れた。そこには今は無残なモダン廃墟と化したわが国ではじめての社交クラブ交詢社がつい数年前まで誇らかに聳え立ち、敬愛する福沢諭吉、馬場辰猪をはじめあの西周、栗本鋤雲、菊池大麓、小野梓、岩崎小二郎、後藤象二郎、大隈重信、由利公正、小泉新吉(信三の父)、犬養毅などの倶楽部員が自由奔放に討論を交わした昔日の面影をかすかに伝えていたのである。
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう 亡羊
馬場辰猪は「明治の東京」の著者で西脇順三郎によって“日本のアナトール・フランス”と称された明治時代の文人馬場孤蝶の兄で、嘉永3年1850年土佐中島に生まれ、明治21年1888年米国フィラデルフィアで結核のため客死した。
辰猪(「たつい」と呼ぶ)は、17歳の時に上京し福沢諭吉の慶応義塾に入って英語を学び、明治3年英国に留学しロンドンでローマ法、財産法を学んで明治7年帰国したが、翌年再び英国に留学し、明治11年の帰国まで英国法、議会の討論と西欧民主主義のあり方について親しく見聞し、「日本語文典」、「日本における英国人」「日英条約論」などの論文・著作を英文で執筆・出版した。
帰国してからは自由民権運動の最前線に立ち、次第に身体を病魔に蝕まれながら明治専制藩閥政権の抑圧と思想的、実践的に戦い、板垣とともに結党した自由党が、党首板垣自身の腐敗堕落と戦線逃亡によって空中分解してからもなお孤軍奮闘したが、民権闘争の全面敗北の急流が押し寄せる中、米国への亡命を決意するも心身の疲労困憊がきわまる中、「あまりにも性急な歩行者」と萩原に評された享年39歳の短い生涯を閉じたのであった。
明治維新の成就いらい西欧流の自由と民権主義の移植は福沢諭吉や中江兆民はじめ数多くの留学経験者、インテリ帰朝者によって精力的に行なわれたが、伊藤博文、井上毅などが大隈重信を閣外に追放した「明治14年の政変」以来自由派への逆風がつのり結局辰猪は破滅してしまうのだが、その抵抗精神と自由主義の旗は不滅のものであり、福沢と中江の弔辞を読んで悌涙せぬ人は著者と私の友ではない。
辰猪の生涯とその戦いの詳細は本書で詳しくたどっていただくことにして、辰猪の自由思想で注目すべきは、彼の結婚観であろう。(彼自身は父親の放蕩を呪詛して生涯独身を貫いた)。彼は夫婦は愛によってのみ結ばれるべきものと考え、結婚は期限を定めた契約を前提にせよと説いている。いずれかの愛が醒めればただちに契約を破棄せよというのだがなかなかに合理的ではないか。
過日私はかつて銀座でもっとも愛していた場所を訪れた。そこには今は無残なモダン廃墟と化したわが国ではじめての社交クラブ交詢社がつい数年前まで誇らかに聳え立ち、敬愛する福沢諭吉、馬場辰猪をはじめあの西周、栗本鋤雲、菊池大麓、小野梓、岩崎小二郎、後藤象二郎、大隈重信、由利公正、小泉新吉(信三の父)、犬養毅などの倶楽部員が自由奔放に討論を交わした昔日の面影をかすかに伝えていたのである。
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう 亡羊
Sunday, February 03, 2008
我輩は犬である。
♪バガテルop38
名前は探偵犬クロである。さる探偵会社で大切に育てられた現役の探偵犬である。
生まれながらに探偵犬として訓練されているから、尾行や張込みはもちろん、人捜し、また同類項の動物捜しにも大活躍、探偵犬ならではの類い稀な能力を遺憾なく発揮しておる。
かの文豪夏目漱石は大の猫派で、探偵と大金持ちの金田一族を嫌ったそうだが、実はおいらも人様の秘密をあばく探偵稼業でおまんまを頂戴していることについては内心忸怩たるものがある。
しかし少なくともおいらは自分の頭と手足と六感で食べている。そこが2002年の2月に天寿を全うして大往生を遂げたあまでうす家のムクなぞとは一味も二味も違うところだ。あのアホムクなんて朝寝して時々起きて昼寝して時々起きて居眠りばかりしていたからなあ。やはり犬も働かざる犬は食うべからずだワン。
なに?六感がわからない? 「六根清浄お山は晴天」の六根がなまって目・耳・鼻・舌・身・意の六感になったんだワン。おいらはそんじょそこいらの新米マーロウ風情とはわけが違う。犬としての知性も品格も備えているつもりだ。
と、探偵犬クロは空っ風が吹きすさぶ甲州街道でなおもえらそうに自慢するのでした。
♪詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ 亡羊
名前は探偵犬クロである。さる探偵会社で大切に育てられた現役の探偵犬である。
生まれながらに探偵犬として訓練されているから、尾行や張込みはもちろん、人捜し、また同類項の動物捜しにも大活躍、探偵犬ならではの類い稀な能力を遺憾なく発揮しておる。
かの文豪夏目漱石は大の猫派で、探偵と大金持ちの金田一族を嫌ったそうだが、実はおいらも人様の秘密をあばく探偵稼業でおまんまを頂戴していることについては内心忸怩たるものがある。
しかし少なくともおいらは自分の頭と手足と六感で食べている。そこが2002年の2月に天寿を全うして大往生を遂げたあまでうす家のムクなぞとは一味も二味も違うところだ。あのアホムクなんて朝寝して時々起きて昼寝して時々起きて居眠りばかりしていたからなあ。やはり犬も働かざる犬は食うべからずだワン。
なに?六感がわからない? 「六根清浄お山は晴天」の六根がなまって目・耳・鼻・舌・身・意の六感になったんだワン。おいらはそんじょそこいらの新米マーロウ風情とはわけが違う。犬としての知性も品格も備えているつもりだ。
と、探偵犬クロは空っ風が吹きすさぶ甲州街道でなおもえらそうに自慢するのでした。
♪詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ 亡羊
Saturday, February 02, 2008
Friday, February 01, 2008
ねじめ正一著「荒地の恋」を読む
照る日曇る日第93回
何の期待も予備知識もなしに読んだのですが、とてもよく出来た小説なのでいたく感心いたしました。
著者はまるで三遊亭円生の落語の一席のようによどみなく「詩人の恋」と荒涼たる「冬の旅」を一気呵成にカタって聞かせるのです。それは詩人北村太郎の老いらくの恋と妻や恋人たちの物語です。中年男が平和な家庭を壊して自分の親友の妻を奪って親友も、妻も、自分も壊していく破壊的愛の物語なのですが、それはお互いの唾液を交し合うような濃密さを終始保ちつつ甘く切なく息詰まるようなモデラート・カンタービレで描かれているので、読者は一気に読まされてしまいます。
けれどもそれがあまりにもステレオタイプで通俗小説的な展開なので、「ちょっと待て、その嘘ほんとなの」と眉に唾する瞬間もなきにしもあらずですが、てだれの著者はまるで登場人物の霊が乗り移ったように、さながら憑依したイタコのように確信をもってカタるので、我らはもはや黙して聞くしかないのです。
登場人物の造形は確かであり、男も女もいきいきと息づいており、泣き、喚き、怒り、絶望し、途方にくれて人生に生き悩み、性交し、別れ、自殺をはかり、そうして死んでいくのです。登場人物ときたら還暦過ぎで不治の病を患っているというのにラブホテルで20代の女性を苛め抜くのですからその生と性への執着には驚倒の他はありません。
けれどもまぎれもなくここには孤独な人間の生きる姿が刻み付けられています。それはほとんど感動的なラブロマンスといってよいのでしょうが、私たちはその一見通読的なお涙頂戴の物語に感動するのではなく、そのロマンスの底に流れている、北村太郎はもちろん田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫など著者の同業の先輩である「荒地」の同人たちへの著者の畏敬と哀悼の念に対して一掬の涙を惜しまないのです。
余談ながら私は昔西本町のてらこ履物店の隣にあった火星社書店で、研究社の「英語青年」に掲載される大沢茂と最所フミという女性の論文をよく読んだものです。大沢氏は私の敬愛する英文学者の亡き叔父ですが、やはり碩学の最所フミさんが信濃在住のタオイスト加島詳造氏と結婚してすぐに別れてからなんと鮎川信夫氏と結婚していたことをこの本で知って少し驚いた次第です。
最後に、本書の最も魅力的な箇所は、疑いもなくp270の松田聖子の「ストロベリータイム」が車に流れるシーンであり、p156の「猫山」のシーンでしょう。無数の猫たちが折り重なってピラミッドになる光景を、この世におさらばする前にできたら私も一度は見たいものです。
♪そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌 亡羊
何の期待も予備知識もなしに読んだのですが、とてもよく出来た小説なのでいたく感心いたしました。
著者はまるで三遊亭円生の落語の一席のようによどみなく「詩人の恋」と荒涼たる「冬の旅」を一気呵成にカタって聞かせるのです。それは詩人北村太郎の老いらくの恋と妻や恋人たちの物語です。中年男が平和な家庭を壊して自分の親友の妻を奪って親友も、妻も、自分も壊していく破壊的愛の物語なのですが、それはお互いの唾液を交し合うような濃密さを終始保ちつつ甘く切なく息詰まるようなモデラート・カンタービレで描かれているので、読者は一気に読まされてしまいます。
けれどもそれがあまりにもステレオタイプで通俗小説的な展開なので、「ちょっと待て、その嘘ほんとなの」と眉に唾する瞬間もなきにしもあらずですが、てだれの著者はまるで登場人物の霊が乗り移ったように、さながら憑依したイタコのように確信をもってカタるので、我らはもはや黙して聞くしかないのです。
登場人物の造形は確かであり、男も女もいきいきと息づいており、泣き、喚き、怒り、絶望し、途方にくれて人生に生き悩み、性交し、別れ、自殺をはかり、そうして死んでいくのです。登場人物ときたら還暦過ぎで不治の病を患っているというのにラブホテルで20代の女性を苛め抜くのですからその生と性への執着には驚倒の他はありません。
けれどもまぎれもなくここには孤独な人間の生きる姿が刻み付けられています。それはほとんど感動的なラブロマンスといってよいのでしょうが、私たちはその一見通読的なお涙頂戴の物語に感動するのではなく、そのロマンスの底に流れている、北村太郎はもちろん田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫など著者の同業の先輩である「荒地」の同人たちへの著者の畏敬と哀悼の念に対して一掬の涙を惜しまないのです。
余談ながら私は昔西本町のてらこ履物店の隣にあった火星社書店で、研究社の「英語青年」に掲載される大沢茂と最所フミという女性の論文をよく読んだものです。大沢氏は私の敬愛する英文学者の亡き叔父ですが、やはり碩学の最所フミさんが信濃在住のタオイスト加島詳造氏と結婚してすぐに別れてからなんと鮎川信夫氏と結婚していたことをこの本で知って少し驚いた次第です。
最後に、本書の最も魅力的な箇所は、疑いもなくp270の松田聖子の「ストロベリータイム」が車に流れるシーンであり、p156の「猫山」のシーンでしょう。無数の猫たちが折り重なってピラミッドになる光景を、この世におさらばする前にできたら私も一度は見たいものです。
♪そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌 亡羊
Thursday, January 31, 2008
小島信夫著「各務原、名古屋、国立」を読む
照る日曇る日第93回
小島信夫の小説は普通の小説とは違う。あきらかに違う。
では普通の小説なんかあるのかと聞かれたって、素人の私がここでにわかに普通の小説の定義をすることなんかてんでできないが、そもそも普通の小説は、作者の語りたいテーマが最初にあって、次にそのテーマをうまく展開するためのプロットがあり、最後に、そのプロットを木の幹に譬えると、その木をより立派に見せるための枝や葉っぱを周囲に廻らせる、という形式を選ぶのだろう、といちおうは考えられる。考えさせてもらってもいいのではなかろうかいな。
ところが小島氏の小説は、特に晩年の作品は、テーマだのプロットなどはほとんどない。
いや名古屋だの国立などといちおうあることはあるのだが、読んでみるとあまり名古屋や国立そのものの話ではないことの方が多い。それでも最初だけは題名で示されたテーマに沿って氏の小説はゆっくりと開始されるのだが、途中で必ず話が逸れ、あちこちで横道に入りこみ、横丁の長屋で大いに道草を食い、そのうちにテーマなんかあってもなくても構わないと不敵に居直り、当初はあったはずのプロットを大胆に投げ捨て、いわば無手勝流でわが道を猛進するところに彼の文学の真骨頂があると私は思う。
そのとき彼は、自分という小説家が小説を書いていることを忘れるはずがないにもかかわらずいつのまにやら忘れ去り、そのとき遅くかのとき早く忘我の境地に立ち至り、それこそ無我夢中になって細君のアルツハイマー症状やら自分の過去現在の交友やら郷里の記念碑やら文学館やら私も大好きなゴンチャロフやオブローモフや幕末の聡明な奉行川路聖謨やら「わが名はアラム」のウイリアム・サローヤンやらスターンの「トリストラム・シャンデイ」やら私の大好きな新橋の日本銀行に似た昭和7年製の堀ビルやら明治大学理工学部の授業で「具体的なことだけが生きるのだ」と語った話やら持病やら住宅問題やら身の回りの些細なトラブルやらについて忙しく思いをめぐらせ、その思いの丈をまるで牧場の牛が限りなくよだれを垂らすように、春の小川が、いな秋の小川がさらさらとさらさらとどこどこまでも流れていくように、美空のひばりがとめどなく高空でぴーちくぱーちく囀るように、果てしなく書き連ねるのだが、他の多くの小説や小説家と決定的に違うのは、その折に作家は彼の実存を全てさらけ出し開陳しつくしていることなのである。
「おおこの男は今全身全霊で生きている、その証がこの麗しき水茎のあとなのだ」ということを我ら読者は彼の一語一語が目に飛び込むその瞬間ごとにいやおう無く感得するのである。彼が死に損ないの蛾が卵を産みつけているようにいままさに命の残光を刻み付けていること、いわば遺言を書きつつあること、にもかかわらず今彼が激烈に自らの生を生きていること、そうして私たちもまた生きていること、を痛切に思い知らされるのである。
本書の最後はこんな風に終わっている。
「ちょうどテレビでは、ニューヨークの世界貿易センターに、ハイジャックされた満タンの第一の旅客機が激突し、おどろいて物をいえずにおるとき、第二の旅客機が音を立てぶつかるところで、『ハイハイ』とてっとり早くいっておいてテレビに戻った。
そのテレビは、ムスメが電気屋さんにいって、おくようになったワイドの実に大きなものであって、何週間めかに思い出したように、アイコさん(主人公の妻)が、『このテレビ前からあったかしら』と問いかけ、『前からのものではありませんよ。これの方がよく見えるから、少なくともぼくにはね』というと、『いいわねえ、これ。こんなものがあるのね』
『ここにあった小型のは、まだ性能がいいからいまの二階のあなたの部屋のものと置き換えようと思っているが、どうしてか、この頃あの電気屋こないな』
何ということが、テレビで起こっているのだ。それからあと二週間、たぶん世界中が何とかよい方法はないものかとこんなに真剣になっていることは珍しい、と思いながら、小さい小さいことだけれど、わが家も似ているといえばいえないことはない、と思っているような気がする」
あの9.11同時テロに驚倒しながらも、同時につまらぬこと、どうでもよいとも思える日常生活の些事にとらわれてしまう自分を見つめている人間、世界の一大事と自家の一大事をためらいながらも等しい重さで対峙させている人間。その愚直な誠実さが小島信夫なのである。
♪またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を 亡羊
小島信夫の小説は普通の小説とは違う。あきらかに違う。
では普通の小説なんかあるのかと聞かれたって、素人の私がここでにわかに普通の小説の定義をすることなんかてんでできないが、そもそも普通の小説は、作者の語りたいテーマが最初にあって、次にそのテーマをうまく展開するためのプロットがあり、最後に、そのプロットを木の幹に譬えると、その木をより立派に見せるための枝や葉っぱを周囲に廻らせる、という形式を選ぶのだろう、といちおうは考えられる。考えさせてもらってもいいのではなかろうかいな。
ところが小島氏の小説は、特に晩年の作品は、テーマだのプロットなどはほとんどない。
いや名古屋だの国立などといちおうあることはあるのだが、読んでみるとあまり名古屋や国立そのものの話ではないことの方が多い。それでも最初だけは題名で示されたテーマに沿って氏の小説はゆっくりと開始されるのだが、途中で必ず話が逸れ、あちこちで横道に入りこみ、横丁の長屋で大いに道草を食い、そのうちにテーマなんかあってもなくても構わないと不敵に居直り、当初はあったはずのプロットを大胆に投げ捨て、いわば無手勝流でわが道を猛進するところに彼の文学の真骨頂があると私は思う。
そのとき彼は、自分という小説家が小説を書いていることを忘れるはずがないにもかかわらずいつのまにやら忘れ去り、そのとき遅くかのとき早く忘我の境地に立ち至り、それこそ無我夢中になって細君のアルツハイマー症状やら自分の過去現在の交友やら郷里の記念碑やら文学館やら私も大好きなゴンチャロフやオブローモフや幕末の聡明な奉行川路聖謨やら「わが名はアラム」のウイリアム・サローヤンやらスターンの「トリストラム・シャンデイ」やら私の大好きな新橋の日本銀行に似た昭和7年製の堀ビルやら明治大学理工学部の授業で「具体的なことだけが生きるのだ」と語った話やら持病やら住宅問題やら身の回りの些細なトラブルやらについて忙しく思いをめぐらせ、その思いの丈をまるで牧場の牛が限りなくよだれを垂らすように、春の小川が、いな秋の小川がさらさらとさらさらとどこどこまでも流れていくように、美空のひばりがとめどなく高空でぴーちくぱーちく囀るように、果てしなく書き連ねるのだが、他の多くの小説や小説家と決定的に違うのは、その折に作家は彼の実存を全てさらけ出し開陳しつくしていることなのである。
「おおこの男は今全身全霊で生きている、その証がこの麗しき水茎のあとなのだ」ということを我ら読者は彼の一語一語が目に飛び込むその瞬間ごとにいやおう無く感得するのである。彼が死に損ないの蛾が卵を産みつけているようにいままさに命の残光を刻み付けていること、いわば遺言を書きつつあること、にもかかわらず今彼が激烈に自らの生を生きていること、そうして私たちもまた生きていること、を痛切に思い知らされるのである。
本書の最後はこんな風に終わっている。
「ちょうどテレビでは、ニューヨークの世界貿易センターに、ハイジャックされた満タンの第一の旅客機が激突し、おどろいて物をいえずにおるとき、第二の旅客機が音を立てぶつかるところで、『ハイハイ』とてっとり早くいっておいてテレビに戻った。
そのテレビは、ムスメが電気屋さんにいって、おくようになったワイドの実に大きなものであって、何週間めかに思い出したように、アイコさん(主人公の妻)が、『このテレビ前からあったかしら』と問いかけ、『前からのものではありませんよ。これの方がよく見えるから、少なくともぼくにはね』というと、『いいわねえ、これ。こんなものがあるのね』
『ここにあった小型のは、まだ性能がいいからいまの二階のあなたの部屋のものと置き換えようと思っているが、どうしてか、この頃あの電気屋こないな』
何ということが、テレビで起こっているのだ。それからあと二週間、たぶん世界中が何とかよい方法はないものかとこんなに真剣になっていることは珍しい、と思いながら、小さい小さいことだけれど、わが家も似ているといえばいえないことはない、と思っているような気がする」
あの9.11同時テロに驚倒しながらも、同時につまらぬこと、どうでもよいとも思える日常生活の些事にとらわれてしまう自分を見つめている人間、世界の一大事と自家の一大事をためらいながらも等しい重さで対峙させている人間。その愚直な誠実さが小島信夫なのである。
♪またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を 亡羊
2008年亡羊睦月詩歌集
♪ある晴れた日に その20
おみくじは引かずに帰る鎌倉宮
なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ
去年今年生きてしあればそれでよし
初日の出今年も市中に山居せむ
小便の泡で描きたる髑髏かな
父祖伝来暗黒面に光なし
粛々と死地に赴く銀の船
元旦やわれよりもまず家族かな
在庫無く迎える朝に日が昇る
冬の朝わが欲望の遠ざかる
どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない
神田なるチャールズ・イー・タトル商会にあこがれし日もあり
こなくそと振り下ろしたる刀かな -偲龍馬
亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな
真っ青に晴れ上がりたる冬空にわが初めて獣になりし日を思う
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
神実在森羅万象すべて不可知なり
大寒やわが欲望の小ささよ
新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり
ひよめじろやまがらおながしじゅうからうぐいすみんなこいこいわがやのときわさんざしへ
正岡の子規が作りし月並みの句ほど好ましきものはない
果樹園で柚子を拾いき花いちもんめ
果樹園で彼女の屍体は見ざリけり
我もまた穴で春待つ土竜かな
一月も半ばになりて仕事来ず
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん
正月なし無用の用に精進する息子
わが息子寝る間惜しみて描きたる愛犬ムクの絵売れ残りたり
神仏に祈りし甲斐やムク売れる
はにかんで笑った顔がぶれていた月本氏死す弱冠四十七
ただ一人泣いていたりし通夜の客
莞爾たり無私たり自娯たりし月本氏死す享年四十七
我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ
教壇のチョークの粉にまみれつつ白けた魂を熱く燃すべし –最終講義
あの世からの刺客のごとく手裏剣を生徒の胸にシュルシュルと刺す
わが実存かけて発する言の葉よ若き胸に落ち善き実を結べ
子規漱石もし今の世にありとせばいかに生きるやいかに死ぬるや
音程が悪いとわれが罵りしその流行歌手は左耳聴こえず –許せ鮎女
昼は尨犬のごとく街頭を彷徨い夜は鮪のごとく眠れり
闘争を紛争、敗戦を終戦と言い換える人が嫌いだ
道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ
誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に長く馨るよ
空に鳥万象すべて不可知なり
一月も終わりになりて仕事来ず
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年
おみくじは引かずに帰る鎌倉宮
なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ
去年今年生きてしあればそれでよし
初日の出今年も市中に山居せむ
小便の泡で描きたる髑髏かな
父祖伝来暗黒面に光なし
粛々と死地に赴く銀の船
元旦やわれよりもまず家族かな
在庫無く迎える朝に日が昇る
冬の朝わが欲望の遠ざかる
どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない
神田なるチャールズ・イー・タトル商会にあこがれし日もあり
こなくそと振り下ろしたる刀かな -偲龍馬
亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな
真っ青に晴れ上がりたる冬空にわが初めて獣になりし日を思う
太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花
犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり
神実在森羅万象すべて不可知なり
大寒やわが欲望の小ささよ
新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり
ひよめじろやまがらおながしじゅうからうぐいすみんなこいこいわがやのときわさんざしへ
正岡の子規が作りし月並みの句ほど好ましきものはない
果樹園で柚子を拾いき花いちもんめ
果樹園で彼女の屍体は見ざリけり
我もまた穴で春待つ土竜かな
一月も半ばになりて仕事来ず
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん
正月なし無用の用に精進する息子
わが息子寝る間惜しみて描きたる愛犬ムクの絵売れ残りたり
神仏に祈りし甲斐やムク売れる
はにかんで笑った顔がぶれていた月本氏死す弱冠四十七
ただ一人泣いていたりし通夜の客
莞爾たり無私たり自娯たりし月本氏死す享年四十七
我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ
教壇のチョークの粉にまみれつつ白けた魂を熱く燃すべし –最終講義
あの世からの刺客のごとく手裏剣を生徒の胸にシュルシュルと刺す
わが実存かけて発する言の葉よ若き胸に落ち善き実を結べ
子規漱石もし今の世にありとせばいかに生きるやいかに死ぬるや
音程が悪いとわれが罵りしその流行歌手は左耳聴こえず –許せ鮎女
昼は尨犬のごとく街頭を彷徨い夜は鮪のごとく眠れり
闘争を紛争、敗戦を終戦と言い換える人が嫌いだ
道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ
誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に長く馨るよ
空に鳥万象すべて不可知なり
一月も終わりになりて仕事来ず
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年
Tuesday, January 29, 2008
ホッブズ・ファッションの時代
ふあっちょん幻論第7回
前回、私は80年代に女性の肩パッド入りジャケットがアウト・オブ・ファッションになると同時に婦人服の全体的なシルエットがよりミニマムで身体にきちんとフィットした細身のシルエットに変化していったこと、それからおよそ二十年近く遅れて紳士服のシルエットが同じようにスリムな形に変化したという記事を書いた。
ところがたまたま1月25日附の朝日新聞夕刊を見ると、スタイリストの原由美子さんが08年春夏のパリコレでイヴ・サンローランが発表した肩パッド付のネービーの袖なしジャケットを紹介していた。
そしてその記事の中で、原さんは「もう80年代のようなジャケットブームは帰ってこないと考えていたけれど、下に長袖を着てウエストにはベルトを締めたこの着こなしこそは今の時代に求められている新しいタイプのジャケットである」と断言し、ブームの再来の可能性を期待しているようにも見える。
ご存知のように、衣服と身体あるいは皮膚との間にはつねに鋭い緊張関係が存在しており、(皮膚は脳そのものだ)その感覚と懸隔はその時代とその時代を生きる人間との相関関係を微妙に反映している。
過ぎし高度成長の時代はまだ帝国の臣民の政治経済社会の意識は環境に対して鋭角的に鋭く対峙していたから、詰め襟の学生服や企業のお堅い制服に代表されるようにそのシルエットはぴたりと身体に密着していた。
ところがわが神国日本が大きく経済成長を遂げ、帝国臣民が総体として豊かなになり、肥え太った臣民たちの精神は著しく弛緩すると共にその典型としてバブルの時代が訪れると、前述の巨大なフィット&フレアのシルエットが畏れ多くも畏くも華麗に花開いたのである。
しかしその後のデフレ時代と世界的なテロと不安の時代が世界のファッションを再びスモール&ミニマム&ハードフィットネスの時代へと逆流させ、アホ馬鹿小泉がわが帝国において将来したいわゆる格差ふぁしずむ時代の登場が、「万人が万人に対する敵であり、衣服は潜在的な敵としての他者に対する最小の武器である」という前代未聞のホッブズ・ファッションの時代を招来したのであった。
このように重苦しい背景をひきずっているだけに、私はこのサンローランの新デザインは、原さんがいうように「肩パッド付きジャケットの再現」ではあっても、「21世紀後半のフィット&フレアのビッグ・シルエットへの大きな回帰」のさきがけとしての象徴的な意味を持っている」とまでは、まだ確言できないような気がするのである。
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年 亡羊
前回、私は80年代に女性の肩パッド入りジャケットがアウト・オブ・ファッションになると同時に婦人服の全体的なシルエットがよりミニマムで身体にきちんとフィットした細身のシルエットに変化していったこと、それからおよそ二十年近く遅れて紳士服のシルエットが同じようにスリムな形に変化したという記事を書いた。
ところがたまたま1月25日附の朝日新聞夕刊を見ると、スタイリストの原由美子さんが08年春夏のパリコレでイヴ・サンローランが発表した肩パッド付のネービーの袖なしジャケットを紹介していた。
そしてその記事の中で、原さんは「もう80年代のようなジャケットブームは帰ってこないと考えていたけれど、下に長袖を着てウエストにはベルトを締めたこの着こなしこそは今の時代に求められている新しいタイプのジャケットである」と断言し、ブームの再来の可能性を期待しているようにも見える。
ご存知のように、衣服と身体あるいは皮膚との間にはつねに鋭い緊張関係が存在しており、(皮膚は脳そのものだ)その感覚と懸隔はその時代とその時代を生きる人間との相関関係を微妙に反映している。
過ぎし高度成長の時代はまだ帝国の臣民の政治経済社会の意識は環境に対して鋭角的に鋭く対峙していたから、詰め襟の学生服や企業のお堅い制服に代表されるようにそのシルエットはぴたりと身体に密着していた。
ところがわが神国日本が大きく経済成長を遂げ、帝国臣民が総体として豊かなになり、肥え太った臣民たちの精神は著しく弛緩すると共にその典型としてバブルの時代が訪れると、前述の巨大なフィット&フレアのシルエットが畏れ多くも畏くも華麗に花開いたのである。
しかしその後のデフレ時代と世界的なテロと不安の時代が世界のファッションを再びスモール&ミニマム&ハードフィットネスの時代へと逆流させ、アホ馬鹿小泉がわが帝国において将来したいわゆる格差ふぁしずむ時代の登場が、「万人が万人に対する敵であり、衣服は潜在的な敵としての他者に対する最小の武器である」という前代未聞のホッブズ・ファッションの時代を招来したのであった。
このように重苦しい背景をひきずっているだけに、私はこのサンローランの新デザインは、原さんがいうように「肩パッド付きジャケットの再現」ではあっても、「21世紀後半のフィット&フレアのビッグ・シルエットへの大きな回帰」のさきがけとしての象徴的な意味を持っている」とまでは、まだ確言できないような気がするのである。
善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年 亡羊
Subscribe to:
Posts (Atom)