Monday, January 28, 2008

小島信夫著「暮坂」を読む

照る日曇る日第92回

この本にはさまざまな人物とそれらの人物がかもし出すさまざまな事件というか日常生活の断片が次々に描かれる、それはそれとして面白くないこともないのだが、読んでいて退屈になるどうでもいい挿話も続々と出現してきて、普通の私小説なら作者と作品の主人公はおおむねイコールであり、作者は読者を意識し、読者を楽しませることを主眼に物語を書き連ねるのだが、本書の場合は基本的にはその私小説という形式を踏襲しながらも、作者と同じ名前を持つ小島信夫という名の小説家を登場させたり、有名無名の作家や友人や宗教家などを無遠慮に出現させたり、小説のなかで彼らを狂言回しにして一種の哲学や考察を開陳したり、平板であるはずの私小説の世界を数多くの実在、非在の人物が暗に陽にうごめく奇怪なモノローグ詩劇のような異様な劇世界に仕立て上げてしまう結果となっており、そこが旧来の伝統的な私小説との違いであるとは分かってはいても、ではどうしてこのような奇妙かつリスキーな文学的な実験を敢行するのかと問えば、それは小島信夫という人間の謎を小島信夫という作家が完璧に解明しようとして自分が自分に仕掛けた生存の罠なのであり、多くの経験と蹉跌を経てそれ以上の血路を切り開こうとすればこうするほかはなかったとでも言うべき小説の方法的制覇への裏道、前途の勝利をまったく予測できない必然的な道行きであったとしかわれひと共にいえず、その結果作者自らがあとがきで述べるように美術評論家のU氏だの新興宗教の教祖的存在であるY氏だのZ氏だのが踵を接して登場し、それらのいずれもがきわめてうさんくさい存在のように見え始め、例えば書家井上有一の支持者であり彼の評価をここまでの高さに引き上げたといっても過言でもないU氏を作者が尊重し擁護すればするほど私たち読者の目にはそのU氏のみならずくだんの井上有一の芸術性すらも例えば白隠禅師の書の本物性に比較すればいささかどころか大いに遜色のある偽者性をその作品内部に含有しているのではないかとの疑念が湧くのをいちがいに押し留めることができないし、もっと言えばこのような怪しくうさんくさい人々との交友を深めていく作者自身に対するうさんくささもいや増すばかりなのだが、ほかならぬ作者が自らのうさんくささについて公言しており、またおよそこの世の中にうさんくさくない人間がたった一人でも存在するだろうか、文学とはそうしたうさんくささを徹底的に掘り下げることではなかろうかと考えるとき、もはや私たちにできることは外野席からとやかく批判する愚に陥る危険を避けて、この自己探求という名の泥濘に覆われた薄明の暮坂をどんどん下っていく気狂い老人の行方をただただ凝視するしかないのだった。


新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 亡羊

Sunday, January 27, 2008

吉本隆明、梅原猛、中沢新一著「日本人は思想したか」を読む

照る日曇る日第91回

梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書である。今から10年以上前の対談であるが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値がある。

例えば次のような中沢などの指摘があって興味深い。
 
太閤秀吉の刀狩と喧嘩停止令が出されたために、平和な江戸時代になって博物学と物産、自然と性愛に対する興味と好奇心が高まり、その結果喜多川歌麿は当初の自然画から性愛画へと進み、西鶴の遊郭色道文学が流行し、本居宣長の性愛色道肯定の源氏物語論などが登場した。源氏物語とは、あるいは文学とは、つまりは「もものあわれ」なのだ。

また梅原は「古事記」は人麻呂によって書かれた歌物語であると断じる。「竹取物語」は天武帝時代の権力者へのカリカチュア、「万葉集」は柿本人麻呂や大伴氏への、「伊勢物語」は藤原氏に弾圧された在原業平への、「源氏物語」は源氏への、「平家物語」は平氏への鎮魂歌でありながら法然浄土教の宣伝の書であり、「古今集」は政治的生命を絶たれた紀氏の文学者独立宣言の書である。

吉本は「源氏物語」が日本の空間的な四季観を初めて確立したといい、中沢は反道長派の「枕草子」だけがこの空間化に対抗し反発したという。吉本は「新古今集」が古典的和歌リズムの絶頂と崩壊の始まりと見る。そして連歌だけは古今的で厳格な宇宙観、論理構造を受けついだとされる。

次は音楽と宗教についてである。

空也と一遍は踊る聖だった。行脚と踊りのダンスミュージックが日本芸能の発端としての縄文的&ディオニソス的音楽芸術となり、西行、芭蕉、山頭火あるいは近世の毛坊主たちによって大衆化されて、現代のストリートミュージックやフォークやロックに続いている。とこれは私の勝手な追加。

新宿角筈の地名は十二社の裏の熊野神社が毛坊主たち(浄土真宗などの信者で半僧半俗の有髪の人)の集落で、彼らが手にした「鹿の角の付いた杖」から来ていると中沢は言う。空也像もこの角筈を手に持っているが杖の脇には瓢箪がぶら下がっており、柳田國男はこの瓢箪は楽器だと書いている。

毛坊主たちは、近世のアホダラ教のチョボクレにみられるように、いつもパカポコパカポコお経をやっていた。かつて比叡山では声明をメロデイで歌っていたが、浄土宗の毛坊主たちのアホダラ教の音楽も基本はリズムである。

西欧のプロテスタントがキリスト教から美術や装飾を取り去ったためにバッハの宗教音楽のようなドイツ音楽が本格的に発展したように、仏教から美術と装飾を否定した浄土宗から、わが国の固有の音楽と文学が生まれた。(親鸞は景教の僧侶が漢訳したマタイ伝を読んでいたそうだが、もちろん浄土真宗=キリスト教ではない。表向きは一神教に見える浄土真宗も実際は選択的であり、いわば必修的な西洋一神教とは本来的に違う)

「新古集」の古典的な調和の美学は、中世の平家物語や太平記の音楽的文学、戦う武士を疾駆させる馬の蹄の跳躍の音、ギャロップのリズムによって置き換えられる。西方極楽浄土を揺るがす悪党たちの全身的破壊的ゲリラミュージックが日本の芸術に縄文的生命を注ぎ込んだのである。

そして結論。

人間と自然と神が三位一体で密接不可分であるというオリシア=基督教のコスモス思想はキリスト教内部のグノーシス派やマルチンルター、その後のヘーゲル、実存主義などによって崩壊し、予定調和的コスモスから疎外された個人と現代社会は孤独なままで漂流している。

その現代人と現代社会の「病気」を超克するには、一方では縄文、アイヌなど原始的な生命力の掘り起こしと同時に、革命的な科学技術の登場が必要である、と吉本は説くが、具体的な手がかりがどこかに転がっているわけではない。

ハイイメージ論以降の吉本の唯一の生産的な仕事は、近代詩の中心価値は比喩であり、直喩より隠喩を上手に駆使している詩のほうが文学的に上位にあると説く「詩学叙説」くらいのものではないだろうか。この対談においても発言内容、頻度ともに他の2人に力負けしているのは昔からの一ファンとして歯がゆい限りである。けれども、考えてみれば現代のアポリアについて白黒いずれか2分法の浅はかな回答を拙速に行なうことが優れた思想家の使命ではない。とすれば吉本氏はまことに賢明な不可知論者という道を選んだというべきだろう。

いずれにしても私は本書のタイトルではないがまったく思想などしないでただ生きている人間なので、激しく思想しているこの三人に大いなる知的刺激を受けた次第である。


空に鳥万象すべて不可知なり 亡羊

Saturday, January 26, 2008

ある丹波の女性の物語 最終回 

遥かな昔、遠い所で第69回

 生涯病弱だった継母の死は、其の4年後の63年11月に訪れた。90歳を5日後にひかえた死であった。

 夫の死後1年で創業100年余の店をとじ、殆ど床にある母と2人きりの暮らしが続いた。それでも気分の良い日には教会に出かける日もあり、継母は教会だけが生き甲斐であった。

継母も熱心な信者を父に持って教育されたが、家が仏教だったら、きっと熱心な仏教徒で終わったろうと思う。中々頑固な所もあったが、追々と私に心を開いてくれ、感謝して、生命の灯が消えるように召されて行った。

 1人残された私も昔風で云えば古稀を迎えた。高血圧の私は、いつまで生かされるか分らないが、人に迷惑をかけぬよう終わりたいと願っている。

矢内原忠雄、内村鑑三等、本棚もあさってみたが、すでに老化した脳には消化する力はない。今は教理などどうでもいい。絶対者に全てをゆだねようと思う。私を愛してくれた天上の人々との再会も又、楽しかろう。

 すべてが感謝である。子供達、孫達との想い出は、したためずとも、それぞれの心の中に沢山きざんでいるにちがいない。

 私は父のように立派な足跡は残せないが、母のように、そして夫のように、いつまでも人の心の中に優しさを残す人になりたいと願っている。


衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや  愛子       

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ 愛子


1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく  愛子

 

あとがき

ある丹波の女性、佐々木愛子は大正10年1921年2月22日に生まれ、平成14年2002年3月23日に81歳で亡くなりました。「ある丹波の老人の物語」は彼女の父の伝記でしたが、この「ある丹波の女性の物語」は1989年から1990年にかけて彼女自らの手で執筆された自らの半生記で、息子であるわたしが各回の文末に1975年頃から95年頃までの間に彼女が詠んだ80首余りの短歌と俳句をあわせて掲載しました。

母は、もちろん単なる下手の横好き、一介の市井の歌詠みでしたが、「歌は心が満ちればおのずから生まれるもの」というのが、生前枕草子や万葉集を愛した彼女の考え方でした。そのためか、どの作品も拙いながらも技巧にとらわれることなく、虚心坦懐に思ったまま,感じたままを素朴な調べに乗せて歌っている点が、身内贔屓の目には好ましく感じられます。
とりわけ最後の作品は、歳をとっても少女らしい夢を失わなかった故人の人柄が儚い虹のように美しくあらわれているような気がしてなりません。帰天した母もまた、きっと小さく青い星になって、いつまでも私たちを見守っていてくれることでしょう。


我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ 亡羊

Friday, January 25, 2008

ある丹波の女性の物語 第46回 

遥かな昔、遠い所で第68回

 父が召されて28年がたってしまった。時代は移り変わり、洋装の時代となり店は縮小していった。

 夫は父の死後、株に興味を覚え、ラジオの短波放送に聞き入る事が多くなった。そして1年後には持ち株の殆どをうしなってしまったのである。38年の大暴落をまともに受けた訳である。

 しかし、長い間養子として父に押さえられていた、若い日の代償と思えば、それは安すぎるものかも知れないと思う。
 その後、夫は教会に熱心に通い、父への墓参をかかさなかった。

 その間に、長男は早稲田へ、次男は府立医大へ、娘は同志社へと進学、揃って特別奨学金も受け、アルバイトもしてくれた。

 59年、夫の死は全く夢のような出来事であった。隣の街に入院している人に、とどけものをしようと、綾部駅へ急ぐ途中心筋梗塞が起こり、自分で近くの病院へ行き、そこで息がたえたのである。出かけてほんの僅かの出来事で、とても信じられなかった。

 夫は朝のジョギングを長年つづけ、自分の健康には自信があったので、医師になった次男にも脈をとらせた事がなかった。最後の脈も、とらせる事なく召されたのである。

 夫も教会の役員となり、社会奉仕にもつとめたが、目立つ事の嫌いな人であった。しかしその優しさは、人の心にうつるものがあったようで、死後、思いがけない人々から慰めの言葉を頂いた。



水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ   愛子   (「水無月祭」は綾部の夏祭り)  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ  愛子


打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり 愛子

Thursday, January 24, 2008

ある丹波の女性の物語 第45回 

遥かな昔、遠い所で第67回

 37年6月21日、その父が突然亡くなったのである。

 大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、天に召された。

 父は自分の思う通りに生き、まさに天国への道をかけのぼっていったように思う。当時、中学2年の長女が、この祖父の死に就いて記しているが、この祖父の活きざまにひどく心を打たれたようである。

 「祖父の生涯は、祖父が好んでいた聖句―――我にとりて生くるはキリストなり、死もまた益なり―――そのもののように感じられた。」
 「私の心の中と写真の中の祖父は、今もなお、悲しい時にはなぐさめ、心配がある時には自信をつけ、嬉しい時にはいっしょに喜んでくれる。私は、永遠に、祖父の思い出、祖父の全てのことを、忘れる事はないだろう。」

父は生前好んだ白百合の花に、うずまるようにかこまれて葬られた。
 「血は水よりも濃し」というが、私は自分の生涯をふり返り、全然血のつながりのない父が、血縁のない私を心から愛してくれた事を感謝すると共に、血以上のものがあると思う。私がそう感じる一方、それ故に、父の死は夫に初めての解放感をあたえたと思う。

 父には何かの予感があったのか、死の前夜、私に色々と昔話を語り、「自分の一生は、時間に追われて暮らしているようなものだった。時間のかねが打つ度に、生命の縮まる思いで働きつづけた。お前達の一生暮らしていける貯えは充分してあるので、これからは自分達の生活を楽しみながら、ゆったりと過ごしてほしい」と語った。

 
登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては  愛子

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて  愛子

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて   愛子   (「深夜便」はNHKラジオ番組)

Wednesday, January 23, 2008

ある丹波の女性の物語 第44回 喜寿

遥かな昔、遠い所で第66回

 夫もボツボツ休みながら、仕事も出来るようになり、34年の問屋の招待旅行には、私に姉の絢ちゃんと2人で行くようにすすめてくれ、出雲大社への旅行に出かけた。
2月末なのにとてもあたたかくて、皆生温泉では私達姉妹には浜辺の離れをあてがわれ、松籟や潮騒の音をききながら、生まれて初めて、2人きりの夜を色々と話し合った。

 36年5月5日には、みんな元気で、父の喜寿を祝う事が出来た。

 父の甥や姪など大勢を招いて、由良川沿いの小高い山にある料亭で宴を開いた。庭には藤の花房もたれ、さつきも満開、由良川の小波も陽にかがやいて美しく、父も大満足で、鼓を打ち、謡をうたった。みんなも心から父の喜寿を祝った。

 夫は発病後、煙草も、好きな囲碁の夜ふかしも止め、毎朝ジョギングを始め、発病前より以上の元気を回復した。
 父も、もっぱら教会の事、ギデオンの事に一生懸命で、高校や、病院などの聖書贈呈にいそしんだ。


級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく


藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

Tuesday, January 22, 2008

ある丹波の女性の物語 第43回 夫の入院

遥かな昔、遠い所で第65回


 父が念のためにと、夫を京大病院の結核研究所へ連れて行った。開放性ではないが、肺炎と結核におかされているので、要入院との事で、直ちに綾部の郡是病院の結核病棟に入院した。

私はすでに覚悟はしていたけれども、入院準備はすべて終え、夫を1人ベッドにおいて帰ろうとした時、泣くまいと思うのに、涙があふれ出るのを止める事が出来なかった。しかし夫は、優等生と言われる程おとなしく闘病してくれたので、33年秋には無事退院する事が出来た。

 住み込みの女の子もよく慣れてくれていたし、父は夫の留守の間は手伝ってやると、がんばってくれた。私も皆が起きるまでに毎朝病院を訪ね、帰ってから店を開ける事にして、懸命に働いた。

 父も入院中の夫を聖書を持参してはげまし、他の患者さんにも伝道した。

 夫の退院祝に、鎌倉の兄からテレビを贈りたいとの申し出があったが、長男はすでに中学1年、次男も1年おいて中学生になるので、相談の上、毎日のお弁当作りに重宝なものをと、まだ田舎では珍しい電気冷蔵庫を、秋葉原から送ってもらった。
 子供達は3人揃って人が羨む程成績がよくて、全く心配がなく、その点ではとても恵まれていたと思っている。


浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり 愛子

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ 愛子

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり 愛子

Monday, January 21, 2008

ある丹波の女性の物語 第42回 旅行 

遥かな昔、遠い所で第64回

 翌32年も問屋の九州旅行に、私達は再び参加した。

2月は一番ヒマな時期なので、父達も心よく留守を引き受けてくれた。別府、阿蘇を経て、長崎から雲仙、三角港から熊本へと1週間の旅であった。阿蘇山上は一面の雪で、あのこおりつくような寒さは忘れられない。熊本でも積雪がある寒い冬であった。

 4月の末には倉敷の夫の実家に法事があり、兄弟姉妹、夫婦で全員集まれと言う事で、私達も店には応援の人を頼み、これにも参加した。私は倉敷へは初めての訪問であった。

鷲羽山の旅館で宴会があり、甥のバィオリンでダンスも始まった。和やかな楽しい集いであった。「春の海ひねもすのたりのたりかな」そのままに、瀬戸内の波はおだやかであった。そのベタ波を目のあたりに眺め、新鮮な魚に舌鼔をうった。夫も心からくつろぎ、みちたりたようであった。兄弟姉妹って、なんていいもんだろうと私も心から思った。

 その年の5月、高熱が出る風邪が大流行した。店もしめ、学校も休みになった。我が家も全員発熱。互い違いに、1週間程休んでおさまったのであるが、夫だけはいつまでもすっきりしなかった。





散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花 愛子

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり 愛子

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に 愛子

Sunday, January 20, 2008

モーツアルトの降臨

モーツアルトの降臨

♪音楽千夜一夜第31回&鎌倉ちょっと不思議な物語96回  
プラハの国立劇場オペラは、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」や私が偏愛する「皇帝ティトスの慈悲」を初演したオペラハウスとしても知られている。先夜私は、この中欧の凡庸とは言わないまでもローカルな、ベテランのオケをバックにだいぶとうのたったまあ2流から3流の歌手たちが奏でる「フィガロの結婚」を聴きに行った。

指揮も演奏も演出も歌手たちも私の知らない人ばかりだったがまずまずのできばえで、小沢やアーノンクールの指揮と違ってモーツアルトの音楽を聴くにはまったく問題はなかった。4幕のゴルフのシーンや虫のすだきをBGMで聞かせる演出は良くなかったが、美しい色彩のドレープの衣装がことに印象的だった。

ご存知のように、この曲の最大の聴き所は序曲と終曲にある。そしてあらゆるオペラのうちで最もオペラ的な序曲がこれである。
「さあお待ちかね、皆の衆これから胸がわくわくするような素敵なオペラが始まるよ」、といわんばかりの冒頭の数小節が、流麗な旋律、沸き立つようなリズム、そして色彩豊かなハーモニーに乗って繰り広げられるやいなや、私たちの心は早くもモーツアルトの音楽のとりこになってしまうのである。

この序曲だけで優にオペラの全曲に比肩するだろう古今随一の名曲を、モ氏は初演間際に綱渡りのように書き上げたというのだから驚く。おそらくプラハに急行する馬車の中でペンを走らせたのではないだろうか、と私はメーリケが「ドン・ジョバンニ」の初演のためにプラハに急ぐシーンから始まる「旅の日のモーツアルト」を読むたびに思うのである。
ちなみにこの本ほど読む人の心をしあわせにしてくれる書物を私は知らない。そして読むたびに彼のピアノ協奏曲第15番の第3楽章のアレグロが胸いっぱいに高鳴るのを覚えるのだ。

モ史の最初と最後の交響曲がド、ミ、ファ、レの4つの音を使っていることは有名だが、その夜私は第2幕の終わりの有名な4重唱、5重唱、6重唱、そして大団円の7重唱の掛け合いのところで彼の「レクイエム」で使われた旋律が鳴り響くのに気づいてわが耳を疑った。長調なのに短調、短調なのに長調と聴こえ、喜劇という上部構造の下部でひそかに同時並行的に進行する悲劇という重層的な音楽ドラマは、天才モ氏だけが書くことができた。

しかしいつも思うのだがフィガロの音楽は猛烈な速度で進行するのに、その演奏時間は長い。この夜は2幕の途中などで相当カットしていたがそれでも20分の休憩を挟んで160分間かかり通常は優に3時間を超える。映画「アマデウス」では、フィガロの音楽が長すぎる、音符が多すぎると感じた皇帝ヨーゼフ二世があくびをもらしたので、かのサリエリがしめたとほくそ笑むところが描かれていた。

実際フィガロの結婚話を描いたこのたった1日の朝から夜までの喜劇を描いたポーマルシェの芝居の原作もダポンテの台本もけっして長いものではない。にもかかわらず本来もっと簡単に終わるべきオペラ・ブッファの1幕から2幕、そして3幕までを、モ氏は延々と音符の限りを尽くして引き伸ばした。

何のために? 長丁場に終止符を打つ第4幕大詰めの最後の最後のフィナーレに万感の祈りを込めるためである。

封建時代の遺制である初夜権を放棄したといいながらまだフィガロの許婚スザンナに未練たっぷりな封建貴族のアルマヴィーヴァ伯爵とその従者フィガロの新旧両勢力の権力闘争を色恋沙汰を交えて描くこのどたばた悲喜劇的革命劇は、保守的で頑迷な伯爵の妻への謝罪のシーンで終わる。

第4楽章のスザンナのアリアで泣きに泣かせ、伯爵邸の夜の庭を舞台に展開されるどんちゃん騒ぎをあおりに煽り立てたオーケストラが、夜のしじまの中で一瞬全休止するとき、世界は深い闇に閉ざされ、地球はそのゆるやかな回転を突然停止する。いまやなにか神聖な時の時が訪れたことを私たちは予感する。そして私たちはモールアルトの音楽とともに、あるいはフィガロの翌年に書かれるであろうドン・ジョバンニとともに、「世界の奥底、宇宙の果て」にまで降りていくのだ。

そのとき、伯爵夫人ロジーナの前に片膝ついたアルマヴィーヴァ伯爵は、

Contessa,perdonno.(許してください伯爵夫人よ)

と厳かに歌う。すると夫の心がもはや自分を去って遠くに行ってしまった孤独と悲しさに耐えながら伯爵夫人は

Piu docili io sono
E dico di si. (素直な私ですから「はい」と申します)
とけなげに答える。

けれどもそれは夫への単なる許しの言葉ではない。人間が、生きとし生ける者たちが犯すすべての罪科に対する大いなる許しの声である。その声はその罪を胸に懐くすべての者たちの奥の奥にまで届くモーツアルトの声であり、地上で争い、憎み殺しあう者たちへの「あらかじめの許しの声」であり、こういってよければ宇宙からの、天からの声である。

私たちはこれに似た声をしばらくしてから聞くようになるだろう。世界に恒久平和を願うベートーベンの第9交響曲である。しかしシラーの歓喜の調べが高らかな直喩で歌われたのに対してモ氏の平和の歌はもっと低くもっと小さく、ほとんど聞き取れないくらいの隠喩として囁くように呟くように歌われる。それこそがモーツアルトならではの平和への祈りであり、人類と神と宇宙に向けて発せられたかそけき希望の歌なのである。
それがフィガロでモーツアルトがやりたかったただひとつの事業だった。

そうして幸いなことに私はその夜、その声を確かにこの耳で聴いたのだった。その夜モーツアルトは私(たち)の両肩の上にさながら音楽の精霊のように降臨したのである。
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん 亡羊

Saturday, January 19, 2008

吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む

吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む

照る日曇る日第90回

「だいたいでいいじゃない」というタイトルは悪くない、いや素晴らしいかもしれないと思ったのには理由があって、毎日のマスコミをにぎわせている政治、経済、社会などの話柄とそれを巡るとかく重箱の隅をつつくようなミクロの決死圏で、食うか食われるか、倒すか倒されるか、己が勝つかお前が勝つか、それでは負けたら腹を切るか、的な議論を目にしただけで疲労困憊してしまうすでに半死状態の私は、テロ特がどうなろうが民主が政権獲得に成功しようがはたまた失敗しようが、温暖化ガスが100倍排出されて朝青龍がモンゴルまで吹き飛ばされようが(私はこう平気で言い切れるくらいには排外的なナショナリスト兼国粋主義者だ)もうどうでもいいじゃないか、ミジンコ世界を逸脱して巨視的マグロ世界に悠久の時空の消長がうるわしく語られているのではないかと妄想した吉本氏と大塚氏の対談集であったが、結論としてはそうねえ中身は題名ほどには面白くなかったのであったが、これをしも羊頭狗肉とまで酷評するのは言いすぎであり、例えば吉本氏の「子供を殺された親が、もう俺は我慢がならねえから殺したほうの子供を殺しちゃう、って言って親がどっかで待ち伏せして刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ」という発言に対しては私は全面的に賛同するどころか、もし自分の子供がそういう悲惨な目にあったなら近代の法制度や正義がどうであれおそらく10中8,9そのような直接行動に出るだろうことを予感しているがゆえに「おお吉本、いい歳とってもちっとも変わっちゃいねえじゃんかよお」と思わずやんややんやの声援を送りたくなるし、「リストラされた会社員がやるべきことは、そのような事態をもたらした会社や経営者自体をリストラすることだ!」という斬新な切り口には思わずあっとうならされるし、(でも到底実行不可能だと思うけど)、明治以降のわが国の代表的知識人は柳田國男と折口信夫であるが前者は所詮は随筆家に過ぎず、後者が日本語の祖先まで遡って「国語学編」で比較言語学を敢行しているのは凄い、と喝破しているところなぞはふむふむそういうものですかと拝聴できるが、ジャック・ラカンの受け売りで「女性はみな気ちがいであり、男性の本質は女性になることです」とうわごとのように口走ったり、「新約聖書のキリストがちょっと触ったらハンセン氏病が癒えたという箇所は信じきれないが、立てと言って手をかざしたら足萎えが立ったり、足腰の痛いのがなくなったというのは完全にありうると思っている」と語ったり、「麻原彰晃でもそれはできるでしょう」と断言するのみならず、「消費は生産である」と軽ーく強弁し、あまつさえ「農業がなくなったら天皇制はなくなる」とのたまうにいたっては「もう結構です、だいたいでいいじゃない」と思わずゴッホの絵のように黄色い装丁のこの本を遠くに投げやってしまったのだった。 正岡の子規が作りし月並みの句ほど世に好ましきものはない 亡羊

Friday, January 18, 2008

網野善彦著作集第6巻「転換期としての鎌倉末・南北朝期」を読む

照る日曇る日第89回


安達泰盛といえば蒙古来襲のみぎりに自らの首を賭けてひたすら恩賞を求めて一所懸命に戦った竹崎季長に破格の待遇と恩賞を与えた剛腹な御家人だった。しかし霜月騒動によって当時の悪党どもによって暗殺される(私のご贔屓の)悲劇の政治家である。

著者は「関東公方御教書」という論文のなかで、この執権政治とその興亡を共にし、兼好法師が「道を知る人」と評した安達泰盛への共感と偏愛を隠そうとしない。無味乾燥に堕しがちな叙述の中に、私情と詩情を平然と持ち込んで語る勇気と才知を兼ね備えていた稀有な歴史家であったことが、喪ってはじめて分かる網野善彦の魅力だった。 

多くの歴史家が否定的に論じた「悪党」や楠正成、後醍醐天皇についても著者の切り口は鮮やかである。古来諸説飛び交う「悪党」の本質を、非農業的な生業と不可分な関係にあり、遍歴性を持つ「職人」的武装集団と喝破したのは著者だけであろう。楠正成がその典型であるが、原始的な「荒々しさ」と著しい「有徳さ」とが切り離しがたく結びついて現れる状態、それが「ばさら」なのである。

鎌倉末期、繰り返される幕府からの弾圧にもめげず、自らの結びついた権門寺社内部の対立をたくみに泳ぎ回る「ばさら」たち。その権門内部対立が頂点にまで達したとき、赤松円心、楠正成、名和長年などの悪党たちの鬱屈した怒りと革命のエネルギーを見事に束ねたのが後醍醐天皇と(私のご贔屓の)護良親王だった。

なお正成の祖先は不明だが、本拠地金剛山の近くに平安時代から天皇家直轄の金剛砂(エメリーという鋼玉)を売買する商人がいたのでこれを正成に結び付けたくなると著者は告白している。

覆面して笠をつけ下駄を履く異類の「ばさら」たちを皇居に出入りさせ、非人たちを軍事力として活用し、あまつさえ現職の天皇でありながら自ら法服を着けて真言密教の祈祷を行なった後醍醐は実に異様な異常な王であった。

彼は元徳元年1329年に「聖天供」の祈祷を行なっているが、聖天供の本尊「大聖歓喜天」は有名な象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる。後醍醐天皇はここで人間の深奥の自然であるセックスそのものの力を自らの王権の力としたのである。(「異形の王権」P366) 

そして著者は、非人を動員し、性そのものの力を王権強化に用いることを通して日本の社会の深部に天皇を突き刺した後醍醐が、「その執念で」南朝を存続させ、室町時代から現代にいたる天皇制の運命を決した、と謎のような言説を吐いて憂き世を卒然とみまかったのであった。
我もまた穴で春待つ土竜かな 亡羊

Thursday, January 17, 2008

ことばには意味がある!?

♪バガテルop37

最近岩波書店の広辞苑10年ぶりに改訂され、新聞をメインにした第6版新発売キャンペーンが展開されているようだ。

ビジュアルに手塚治や桑田投手など意表をつくキャラクターを起用しているのはいいとしても、キャンペーンテーマのコピーが「ことばには意味がある」というのは、はてこれにはいったいどういう意味があるのか?と頭をかしげてしまう。
もしも言葉に意味がなければ、出目金に目玉はなく狸に金玉もなくなる道理だ。余りにも当たり前すぎる。意味のない言葉もあるだろうと嫌味のひとつもいいたくなるほど平板なコピーにかえって驚いてしまう。

これは昨日の燦鳥さんと違っていわゆるひとつの広告の言葉ではない。宣伝部のコピーライターではなく総務のおじさんがコクヨの便箋にメモした単なる説明である。私は流行に敏感に対応できる他の版元よりも、そんな時代遅れの岩波書店と改訳しない岩波文庫が大好きだが、美辞麗句以前の名辞を堂々と並べて見せる老舗の顧客無視の大胆さにはわれらもはや脱帽するほかはない。

余談ながら、石山茂利夫著「国語辞書事件」によればたしか「広辞苑」の元本は岩波茂雄が博文館から超安値で版権を買った「辞苑」であり、その「辞苑」は三省堂の金沢庄三郎の「大辞林」などの完璧なパクリであり、広辞苑の編者の新村出が同辞典の出版に際していかなる創造的な編集作業を行なわずにそのまま洛陽に押し出したことは彼の息子の新村猛がつとに告白しているところである。

だからということもないが、その後の「広辞苑」が大野晋などによって全面的に改稿されたとはいえ、私はあまりこの“日本を代表する大辞典”にはいっこうに信をおかず、「大辞林」や小学館の「国語大辞典」や北原保雄の「明鏡」、さらにはあらゆる日本語辞書の親本である大槻文彦の「大言海」を愛用している。

ちなみに「大言海」では昨日の「すっくと」の原意は「すくすくと」であり、直ク立チ上ガル状ナドニイフ語、と書かれています。


偲竜馬
こなくそと振り下ろしたる刀かな 亡羊 

Wednesday, January 16, 2008

スクッと立つ?

♪バガテルop36

毎年「成人の日」にはサントリーの広告が出る。確か以前は山口瞳氏がコピーを書いていて、一読なかなかのものだった。氏亡き後は伊集院静氏が担当しているが、年々その中身も表現も、ビールにたとえるとコクが失せ、切れ味が鈍くなり、全体の味が軽く、薄くなったような気がするが、それは書き手の個性の違いである以上に、この間の時代の変化によるものだろう。

年々ますます生きにくくなる時代の竿頭に立って、一人前の大人が一人前になろうとする若者たちに対して何をどう助言すればいいのか? それは誰が書くににしても至難の技であるに違いない。

ちなみに今年は、「平然と生きる人であれ」「強いをめざす君に乾杯」という伊集院氏特製のキャッチフレーズが作家の万年筆の手書きでレイアウトされているが、後者はいわゆる広告のコピーである。この広告は確かにサントリーの新年広告ではあるが、わたしが思うに、「強い」をめざす、などという広告そのものの言葉を使ってはいけない。なぜならこの広告は広告言葉をあえて排除する場所でしか成立しない変態的広告であるからだ。
元は広告のプロであった氏がこのような初歩的なミスを犯すとは意外であった。

ボディコピーもそれなりのことが縷々書き連ねてあるが、さほど強烈な説得力があるわけではない。調子に乗ってさらに重箱の隅をつつけば、文中の「スクッと立っている」は副詞をカタカナ書きにした方言ないし口語的造語と受け取れば必ずしも間違いではないが、あまり耳慣れない日本語である。

スクッと立つのはさしずめレッサーパンダくらいなもので、一人前の人間ならば「すっくと立っている」「すっくと立っている」あるいは「すくと」または「すっくり立っている」の方が人口に膾炙していてモア・ベター?ではないだろうか。
ちなみに「すっくと」は立ち上がるさまを形容するのが一般的だが、堂々と立っているさまもあわせて形容する副詞である。


♪一月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊

Tuesday, January 15, 2008

行方不明




♪バガテルop35&鎌倉ちょっと不思議な物語95回

家で寒さに震えていたらピンポーンと音がした。出てみる毛糸の帽子を被ったひとりの男が立っていた。私の近所の住人だ。
「年明けの今月の7日から自分の70代の母親が行方不明になっている。もし心当たりがあったらどんなことでも教えてほしい」といって手製のチラシを置いていかれた。

当地の行方不明者でいつも思い出すのはおよそ30年前の鎌倉花火大会のときに姿を消した戸塚の女子大生だ。当時早稲田大学の文学部に在籍していた彼女は、たしか専攻が考古学で、鎌倉の歴史古道やハイキングコースを頻繁に訪ねていたそうだが、8月10日の夜に由比ガ浜の海岸からふっつりと姿を消し、以来その行方はピーター・ウエアの映画「ピクニック・アット・ハンギングロック」の少女のように杳として知れない。

こういう言葉を安易に使いたくはないが、いわゆるひとつの神隠しにでも遭ったのであらうか。私が近くの里山を歩いている折など、ふとこの事件を思い出し、もしやここらで暴漢に襲われて谷間に転落したのではなかろうか、などと本人はもとより母独り子独りの母親のその後とあわせていつも気になっていた。

今回も地元消防団や町内会の人たち30名ほどがすぐに近くの山や川辺を捜索したのだが見つからなかったという。私も早速近所のハイキングコースをそのつもりで歩いてみたが、やはりなんの手がかりも無かった。

本人は足が悪いのでそれほど遠くにはいけないはずだが、事件発生以来すでに1週間以上が経過しているのでその生死が危ぶまれる。だれか悪い人間に誘拐されたり広域犯罪に巻き込まれた可能性がある。もしこの顔に見覚えがあれば、ぜひとも鎌倉警察署に連絡していただきたい。


♪粛々と死地に赴く銀の船 亡羊

Monday, January 14, 2008

君の瞳は6万6千ボルト

♪バガテルop34&鎌倉ちょっと不思議な物語94回

去年の暮れに兵庫県川西市の住民が携帯電話の基地局から放射される電磁波で耳鳴り、吐き気、不眠などの健康被害が出たとしてNTTドコモを訴え、ドコモ関西が撤去したという記事が出ていた。

携帯電話と健康の相関関係については諸説ある。WHO(世界保健機構)は、電磁波を浴びると頭痛やめまい、吐き気などを訴え、皮膚に赤みやチクチク感を訴える人がいることを認め、その国際電磁波プロジェクトの中で、携帯電話などの高周波電磁波についての調査を行なっており、その最終報告を早ければ来年に出すそうだ。

ところがわが国で電波行政をつかさどる総務省は、これらの症状を疾患とは認めず、あまつさえ科学的な原因調査もせずに「証拠はいっさい確認されていない」とそらとぼけているが被害者や国民不在の「あいかわらずの官僚的な態度」はいかがなものだろうか?

かててくわえて、今年に入ってNOAA(米海洋大気局)は太陽が新たな活動期に入ったことを示す焦点を観測したという。太陽活動はほぼ11年周期で変動しており、活動が活発になる今後数年はGPSの混乱や携帯電話、ATMの停止などさまざまな電子・通信機器に障害が起こる可能性があると警告している。

太陽から放出される電子や陽子などの太陽風によって、地上の送電線や電子製品の回路などに異常な電流が流れ、そのような障碍が起こるというのだが、下手をすると電磁波を上回る騒動になるかもしれない。

私が毎日のように散歩するハイキングコースの途上にある高圧電線塔も、
「今年はちょっとやばいんでねえの。あんたもあんまりおいらに近寄らないほうがいいよ」
と、心配そうに警告してくれた。

♪どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない

Sunday, January 13, 2008

ある丹波の女性の物語 第41回 大売出し

遥かな昔、遠い所で第63回

 31年2月の問屋の招待旅行には、両親のすすめで夫婦揃って、修善寺熱海旅行に出かけた。

東京の結婚式から綾部の披露宴に帰る途中、強羅ホテル、奈良ホテルに宿泊して以来12年ぶりの事であった。三津港から眺めた富士山の姿が心に残った。帰路、鎌倉材木座に兄達を訪ね、寒い風の中、江ノ島見物をした。ついでに足を伸ばして、東京自由ヶ丘の姉の所で、次の兄や、妹達とも久し振りにあい楽しい時を過ごした。

 同年6月、27、28の両日には、「開業80周年記念半額大売出し」を行った。開店前から列が出来、朝日新聞京都版に写真入りで報じられる程の大賑わいであった。今では半額売り出し等珍しくないが、40年程前では画期的な催しであった。

正札そのままを半額にするのでレジは大変で、沢山の人に手伝ってもらったが、大盛況裡に終わった。

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける 愛子

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく  愛子

(深き朝霧の中)11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ  愛子

Saturday, January 12, 2008

藤原伊織著「名残り火」を読む

照る日曇る日第88回

藤原伊織の最後の長編が本書である。著者はいったん雑誌の連載を終えてさらに推敲中に没したそうで、ある意味では未完だが物語はいちおうの結末には達しており、その全貌をうかがい知るうえでの問題はないだろう。

仔細に点検すれば、殺人の動機、プロットの強引さなどの瑕瑾はあっても、登場人物の人間性は見事にえぐられているし、なによりもストーリの吸引力が抜群で、巻末まで一気に読ませてしまう筆力はただものではない。現代の代表的な企業物サスペンス小説であり、恐らくは彼の最高傑作であろう。

作者の最大の武器は、玲瓏玉のごとき音楽性に富む文体である。それは、

「口笛を吹いていたことはおぼえている。なぜ吹いていたかもおぼえている。オーティス・レディングの『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』。危うく命をおとしかかった人物のもとに向かう途中、口ずさむものとしてふさわしいかどうか。それは考えもしなかった。自然に口もとから洩れていた。前夜にさんざ聞かされたのが、その理由だったように思う」

という冒頭を一読してもあきらかに感得できよう。

この小説の主人公は四ッ谷駅から医大病院に向かって歩きながら無意識に口笛を吹いている。さうしてその数分後には瀕死の重傷を受けた親友の死に直面し、そこからこの長編ミステリー説がおもむろにスタートするわけである。

口笛だのオーティス・レディングだのドッグ・オブ・ザ・ベイだを引っ張り出し、「さんざん」とは書かず、あえて「さんざ」といなせに記す著者のダンディズムに注目されよ。なにやら村上春樹か欧米の人気作家を思わせる、そのおしゃれで軽快な筆致が、いきなり読者を「ジャージーな」世界に引きずりこむ。

しかしそれはいいとしても、この文章はどこか嘘っぽくはないだろうか。どことなく空虚ではないだろうか?

なぜならわたしたちの人性的直観によれば、ふつうひとは無意識に口笛を吹くことはないし、仮にもしそそうしていたとしても、どういう因果関係でその日そのときその曲を吹いていたかを考察する切実さを持たない。万が一持ったにしても、そのことは人性上も小説のうえでもまったく重要性を持たない。

にもかかわらず、日常の生活感覚からは嘘であり、小説の登場人物の内面性とも無縁な単なる修辞を、著者が大長編の死命を制する冒頭の一文にあえて掲げた理由はなんだろう?

それはひとえに読者サービスのためである。この文全体のベクトルは、自己にも、愛犬ムクにも、飢餓と戦争に苦しむ世界にも、天にも向かわず、読者に向かっている。自分の小説を愛してくれる読者だけに一直線に向かっている。さうしてそのことが、(あらゆる大衆小説と同様の)一定程度の軽薄さと品性のなさにつながっているのであらう。

ちなみに作文のベクトルが自分自身に向かうものを私小説といい、読者に向かうものを大衆小説といい、犬猫座敷わらしに向かうものを童話といい、金に目がくらむものを金権小説、賞や名誉に走るものをリスペクト小説、労働者人民に向かうものを「ああ堂々の社会主義文学」、世界に向かうものを世界文学といい、最後に(なにが最後かは私にもあなたにも分からないが)宇宙もしくは「天」に向かうものを純粋文学という。

天の下に独り座し、天があなたに命じて筆を走らせ、書かせてしまう文章。そこには読者も金も名誉もない。これぞ天知る地知る純粋文学の境地であらう。

どの文学が高尚でどれが劣等という分別はできないにしても、私がもっとも好むものは
この純粋文学である。童話にして純粋文学(宮沢賢治、漱石の猫など)、私小説にして純粋文学(小島信夫など)は十分にありうると思うが、大衆小説にして純粋小説(大菩薩峠?)というのはあまりないようであるなあ。

閑話休題。急いで表題作に戻ろう。

地上から数センチではなく、数インチ浮いた国籍不明の中空の領域こそが作者の得意な、また少しく無理無体な居場所であるが、著者はこの宙ぶらりんの苦しさに耐えながらとうとう最終ページまでたどり着き、さうして結局07年5月17日に俗塵に塗れた生からけざやかに離陸したのだった。

特報「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」本日6時まで開催中!

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♪ホテルアグネスのアート展愛犬ムクの絵売れ残りたり 亡羊

Friday, January 11, 2008

ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む

ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む

照る日曇る日第87回

生まれてきて済みません、だの、ここはどこ、私は誰?といった違和感、場違い感は誰しもが人生に懐く感慨だが、ポール・セローの場合は筋金入りだ。おそらくは生まれながらにこの世界に対する複雑なねじれを感じつつこれまで生き延びてきた人なのだろう。

アメリカのマサチューセッツに生まれ、1963年に良心的反戦主義者として平和部隊に入り、アフリカに派遣されてマラウィとウガンダで英語教師をし、ケニアで知り合った英国人女性と結婚して3年間シンガポールで教職についたのちにロンドンに住むという彼の経歴ひとつとっても、あるいは本書に収められた9つの短編のどれを読んでもそのことが強烈に感じられる。

表題の「世界の果て」ではアメリカを引き上げてロンドンのワールズ・エンド(キングズロードに実在する地名)に移住した夫がようやく見出したはずの安住の地で突然見舞われる身震いするような災厄が描かれ、「緑滴る島」では二〇になるやならずで妊娠した、させたニューヨークの若いカップルが、灼熱の地プエルトリコに逃げ出し、サンファンのホテルでボーイをしながら暮らすうちにお互いの愛もさめ、ますます深刻な事態に陥る話だし、「真っ白な嘘」はボストンからアフリカにやってきた男の全身の皮膚から新種のハエの幼虫がぞろぞろ湧いて出るという、まるで悪夢のような、しかも実話である。

このようにセローは私たちがなにかの拍子に陥るかもしれない日常生活の不気味な落とし穴や不条理の裂け目を恐ろしくリアルに描写するが、だからといってどうこうするわけではない。あたかも「とかく世間は昔からこんなものですよ」とでもいうように、主人公も読者もその絶望的な状況に置き去りにして、あっというまに悲喜劇の現場から立ち去るのである。

 ポール・セローほどクールな作家は珍しい。

暗黒層を掘れど光明現れず 亡羊

Thursday, January 10, 2008

メンズウエアの現在

ふあっちょん幻論第6回


現在の小売業の市場規模はおよそ133兆円、そのうちファッションの市場はテキスタイル、アパレル、身の回り品を含めて約11兆円である。

さらにその内容を見ると婦人6兆、紳士3兆、子供ベビーなど1兆円、という大雑把な比率であるから、やはり主力はなんといってもレディスということになる。それもマスコミなどで話題になるのは外資系の婦人服や雑貨、時計、アクセサリーなどに限られ、国産の紳士服などは長らく氷河期の低迷を続けてきた。

事実メンズ市場は15年連続の前年割れに喘ぎ、中長期的にはメンズ市況の展望は暗い。
国を挙げてのクールビズ、ウオームビズ運動は多少の需要増に繋がったものの、これから団塊世代の一斉退場がスーツの売り上げを大きく奪うだろう。

メンズ専門店のアオキは店名をメンズプラザ・アオキからAOKIに変更して婦人子供服を強化。家族連れの取り込みを図っているし、青山商事なども将来はメンズ比率を5割以下に引き下げようと計画している。

しかし最近の伊勢丹メンズ新館のリニューアルはメンズウエアの昨対300%増につながり、婦人服が不調のアパレル大手も樫山の紳士服売上が久しぶりに昨対増に転じるなど一定程度の回復を見つつある。レディスでヒットした美脚&脚長パンツなどのメンズ版投入がそれなりに実った成果であろう。

もうひとつの要因は、シルエットの根本的な変化である。婦人服では80年代に全盛であった肩パッドを基軸にしたゆったりシルエットが流行遅れとなり、90年代前半にはボディにぴったりフィットするスリムなシルエットの時代がとっくの昔に訪れていたのだが、メンズの世界ではそのシルエットの導入がおよそ10年の長きに渡って遅れ、(私はこれを「失われた阿呆馬鹿メンズの10年」と名づけている)遅れた代わりにナロウ&フィット革命の進行がレディスよりも激烈で、その余波はいまなおヤングからアダルトのシルエット転換に及んでいる。

80年代後半の偉大なるジョルジョ・アルマーニのタック入りのゆったりシルエットは、2000年代に入ってはじめて世界の大衆から否定され、と同時にメンズデザイン業界は大いなる構造変革の時期に突入したのだが、それはわが国ではかの悪名高きライオン丸内閣の成立と期を一にしていたのである。

日本アパレル産業協議会によると、現在の成人男性の保有スーツは平均10.9着で、うち4.2着が不要になったと回答しているが、実はこれこそが女性の肩パッド入りドレスと同様のアウト・オブ・ファッション(シルエット変化による時代遅れ)物で、この偽不用品を強引に電機業界にあてはめると薄型テレビに対するブラウン管テレビに該当するだろう。

従ってもしアパレル業界がこのメンズ不況期を絶好の新規需要転換期ととらえなおし、新しいデザイン企画による新しいマーチャンダイジングとマーケティング戦略を発動すれば、禍転じて福=服となる絶好のチャンスかもしれないのである。

♪千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

Wednesday, January 09, 2008

ぐあんばれ野茂!

♪バガテルop33

長い長い蹉跌と雌伏と忘却の時期を経て、われらがヒーロー野茂英雄が大リーグのマウンドにまもなく帰ってくる。

1月4日の彼のホームページによれば、彼はカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を交わし、3年ぶりにメジャーリーグに返り咲く大きなチャンスをつかんだ。

ロイヤルズといえば昨年日本ハムを2年連続でパリーグ優勝チームに導いた有能なヒルマン監督が大リーグで初めて采配を執るチームである。万年最下位ではあるが、もう上を見上げるしかない絶望的希望のチームだ。思う存分腕を振るえるに違いない。

野茂は06年6月に右ひじを手術し、07年にはかの偉大なる文学王ガルシア・マルケスゆかりのベネズエラのチームに入団し、成績は悪かったが、黙々とトレーニングに励んでいた。最初のチャレンジャー野茂が、最後にメジャーで勝ち星を挙げたのはデビルレイズ時代の05年6月27日の対ブルージェイズ戦だが、あの火の玉竜巻投球で大リーガーをきりきり舞いさせた野茂のことだ。体調さえ良ければまだまだやってくれるだろう。

昨日の夕刊によれば同じ39歳の桑田真澄投手もパイレーツと正式にマイナー契約を交わしたそうだ。ロッテのエース黒木は去ったが、私の大好きな大洋ホエールズの斉藤もドジャースのリリーフエースとして健在だ。(岡島よりこっちの活躍のほうが凄かった!)

そして私は、松坂や両松井、イチロー、福留、黒田などの旬の選手よりも、一度、二度、そして三度と一敗地にまみれた超ベテラン選手たちが、一球入魂、今生の思い出のように死力を尽くして投げ込むその雄姿と、かなうものならその泥だらけの頬に光る一掬の涙を見たいのである。


闘争を紛争と言い換える人が嫌いだ 亡羊

Tuesday, January 08, 2008

ある丹波の女性の物語 第40回 家族の写真

遥かな昔、遠い所で第62回

昭和30年頃のアルバムの中に、京都岡崎動物園で2匹の象をバックに、私達親子5人を撮った写真がある。これが私達5人揃って外出した、最初で最後の記念写真である。
その頃の小さい個人商店では、家族揃って遊びに出る事など珍しかったのである。

 その年に、鎌倉に住む夫の兄夫婦が、綾部を訪問してくれた。私は留守居役にまわり、みんなで天橋立へ案内した。男の子達は土産物屋で、「岩見重太郎の刀」を欲しいとせがんだが、兄嫁は、平和日本には刀は不要と、買ってくれなかったそうである。如何にも東京女子大出の姉らしいと思った。

 私達夫婦は兄達を京都まで見送り、共に観光バスで京都見物をさせてもらった。土地の物は却って名所には不案内で、東本願寺、清水寺、広沢の池、嵐山の風物は、私達の心を和ませてくれた。

 その頃、店は順調に売上を伸ばし、暮れの31日には用意した商品が、すっかり売り切れるほどであった。


―リエちゃんと山新さんへ行く
病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり 愛子

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ 愛子

雅子さんご成婚
いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして   愛子     

Monday, January 07, 2008

島田雅彦著「佳人の奇遇」を読む

照る日曇る日第86回&♪音楽千夜一夜第31回


「佳人之奇遇」なら明治時代に元會津藩士の東海散士が書いた金髪美人が大活躍する政治小説だが、島田雅彦のそれは金髪や黒髪の美人が大活躍しこそすれまったく非政治的な泰平の御世の音楽小説である。

その音楽とは、私も大好きなモーツアルトの、しかもオペラの傑作である「ドン・ジョバンニ」だから、これを読まずして「なんの己のお正月かな」である。

本作では一夜サントリーホール(コンサート方式のオペラ?)で上演される「ドン・ジョバンニ」の公演を巡る、指揮者や、ドン・オッターヴィオ役のテノールや、そのマネージャーや、会場に集う老若男女の聴衆たちを続々と登場させ、公演のライブ本番をピークとする同時多発的ラブストーリーをグランドホテル形式でいわば映画的に描いている。文体も形式も、小説というよりはまるでシナリオのように要領よく上手に書かれ、エンディングなども鮮やかな切れ味だ。

それでここからは私の想像だが、この作家は現在お金に困っている。あるいは、もっともっとお金がほしいのだ。そこで今回、恐らく著者は映画化とその著作権獲得を期待しながらこれを雑誌に連載したのだろう。

しかし不幸なことに、まだその企図は実現されていない。でももし実現されたなら、お手軽なB級恋愛映画がまたひとつ誕生することだろう。
本質的な紋切り型であり、クリシェであり、よく言えばウエルメイドの音楽ネタ、クラシックネタ、新のだめネタによるスノビッシュな恋愛譚なのだ。

島田はデビュー当初の小説でもこのオペラの登場人物ドンナ・アンナを取り上げたが、ドン・ジョバンニに犯されたドンア・アンナへの執着がこの小説でも継続していて2人のアンナを登場させ、あまつさえこないだのザルツブルク音楽祭で話題になったアンナ・ネトレプコに対しても鋭いふくらはぎフェチ視線を飛ばしているのが、いかにも、な感じだ。余談ながら、大江健三郎もこのふくらはぎフェチで、彼の初期の小説に「自涜型のふくらはぎ」へのこだわりが熱く表明されている。

登場人物のマエストロはどこかハンガリー人のゲオルク・ショルティを思わせる。シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、指揮も見るからに精力的だったがあちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナと一目ぼれで再婚し、たちまち子をなしたのだった。
また死ぬ前年にサントリーホールにやってきたカラヤンの知られざる姿など、クラシックファンを唸らせる数々のエピソードが、このブレヒト流三文音楽小説の気の利いたスパイスとなっている。

最後のおまけだが、島田は平成の芥川である。しかも芥川と違って長編が得意だ。
されど島田は、可哀相なことに平成の小説家としてはあまりにも知が勝ちすぎるので、偉大な小説家の要件である「小説馬鹿野郎」にはけっしてなれず、そのために一流作家になれず、またそのために血が不足していると誤解されているほどだ。

卒璽ながら、私は芥川は長編が書けない自分に絶望して自殺したと考えている。

左耳の聴こえぬその歌手を音程悪しと罵りしわれ 亡羊

Sunday, January 06, 2008

「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」へのご案内

すでにご存知の方も多いと思うが、今週土日の12、13日に「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」で「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」が開催される。
東京神楽坂の瀟洒なホテルの一室をギャラリーに仕立て、選りすぐりの現代美術作品が多数出品されるのだが、最近のブームを反映して毎回超満員の人気である。

4回目の開催となる今回は、コミッティーによる選考を経たベテランギャラリーをはじめ、 オープンしたての若手ギャラリストが運営するギャラリーが数多く出展し、これまでにないにぎやかで新しい顔ぶれとなっているようだ。

今回最大の目玉は、地下の「ART@BASEMENT FLOOR」で出展される「ギャラリー・カウンタック」のコーナーである。入場したらまずは地下のマーガレットホールを目指そう。

ただし入場料が1000円で、しかも入場するためには、前もって事務局のHPにネットで予約が必要なので要注意。当日いきなり現地に行ってもだめだそうです。

→ART@AGNES事務局公式HP (http://www.artatagnes.com/)


ART@AGNES アグネスホテル アートフェア2008 概要

主催:A@A実行委員会  共催:株式会社アグネス 協力:株式会社ライゾマティクス
コミッティー:オオタファインアーツ/ギャラリー小柳/児玉画廊/小山登美夫ギャラリー/シュウゴアーツ/タカ・イシイギャラリー/タロウナス/ヒロミヨシイ/山本現代/レントゲンヴェルケ

会場 東京神楽坂「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂 2-20-1TEL: (03)3267-5505FAX: (03)3267-5513
会期:1/12(土)11:00~19:00
   1/13(日)11:00~18:00
両日ともに受付は終了の15分前まで
入場料:¥1,000


♪小便の泡で描きたる髑髏かな 亡羊

Saturday, January 05, 2008

G・ガルシア=マルケス著「迷宮の将軍」を読む

照る日曇る日第85回

ラテンアメリカ諸国の統一を夢見て1830年、サン・ペドロ・アレハンドリーナの別荘で47歳の生涯を終えた偉大な革命家であり、軍人であり、政治家であり、詩人であり、歌手でもあったシモン・ボリバールが本作の主人公である。

現在のベネズエラのカラカスに新大陸でも屈指の名家の末子に生まれたボリバールは、その生涯の大半を国内の敵対者や占領者のスペインと戦いながら、1819年36歳の暮れには現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルを統合した大コロンビア共和国を創設し、国会によってグラン・コロンビア共和国大統領に選出される。

しかしスペインのみならずアメリカ帝国主義に対峙する巨大な南米共和国連合を目指すこの理想主義者の美しい夢は、相次ぐ内外の分離主義者の敵対と裏切りと反乱に遭遇して次第に蝕まれ、政治的にも軍事的にも後退を余儀なくされ、彼の孤独な死によってついに完膚無きまでに潰えたかに見えた。

しかしその後欧州連合の成功に刺激されたMERCOSUR(南米南部共同市場)の大同団結は、ある意味ではシモン・ボリバールの理念と理想の21世紀版ともいえるだろう。ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラで構成されたMERCOSURは、人口2億5千万、GDP1兆ドルの実力を備え、アメリカ、カナダ、メキシコのNAFTA(北米自由貿易協定)国と熾烈な競争を繰り広げているのだから。

1989年に発表されたこの小説において、マルケスは長期にわたる取材と膨大な資料の渉猟、研究をつうじて実在した英雄の生涯の最期に肉薄し、「なぜシモン・ボリバールが死に至る病に冒されていたとはいえ、過酷な政治と現実との戦いから逃避し、すべてを放擲するようにして自滅していったか」という謎を明らかにしようとしたが、その執拗なまでのエネルギッシュな追求が、将軍の心の闇に潜む迷宮の秘密を解明することに成功したとは言いがたい。

しかしながら、この小説の冒頭で、

「古くから仕えている召使のホセ・パラシオスは、薬湯を張った浴槽に将軍が素っ裸のまま目を大きく見開いてぷかぷか浮かんでいるのを見て、てっきり溺れ死んだにちがいないと思い込んだ。それが将軍の瞑想法のひとつだということは分かっていても、恍惚とした表情を浮かべて浴槽に浮かんでいる姿を見ると、とてもこの世の人間とは思えなかった」

というくだりを一瞬でも目にした読者なら、たとえ途中で日本列島に大隕石が激突し、関東大震災が再来し、悪夢の2党大連合が実現し、原節子と山口百恵が2人そろってカムバックして仲良く共同記者会見したとしても、最後の最後まで読み続けようと願うに相違ない。


♪道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ

Friday, January 04, 2008

森見登美彦著「有頂天家族」を読む

照る日曇る日第84回

この人の小説は初めて読んだが、とても面白かった。

かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていく。

具体的には実際にぜひ手にとって読んでいただくしかないのだが、血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって数少ないのではないだろうか?

著者の内部に血肉化された古今の文藻や和漢の典籍の素養、1300年の古都の歴史や土地の記憶が、若き魔法使いの杖の一閃によって縦横無尽に出現し、またたちまちにして消え去る疾風怒濤のありさまを迎え入れ、うたた呆然と見送っているうちにこの奇跡の平安幻想ゴシック小説は大団円を迎えるのだが、とりわけ私は絶体絶命のピンチを脱した狸一族が、狸特製の「偽の叡山電鉄」にうちまたがって丸太町から寺町通りへと全速力で乗り込み、木屋町界隈を風神雷神扇子の暴風で吹き飛ばして金閣、銀閣一家をやっつけるシーンなどは思わず手に汗を握ったことであった。

ちなみにかつて京都の東大路には重厚長大な市電の6番が高野、北白川まで走っており、猛暑の8月には百万遍の交差点から叡電前辺りで鉄路がぐにゃりと曲がっていたことを覚えている。叡電はいまもなお出町柳から叡山に向けて走っているが、本書の内容には叡電よりもこの豪奢な市電のほうがふさわしかっただろう。

それはともかく、金曜倶楽部の面々や冷たい美貌のヒロイン弁天、主人公の恩師赤玉先生、元許婚の海星などなど、すべての登場人物の造型もくっきりと心に残る。作者がいうように、「ああ、面白きことは良きことなり」。小説を読む醍醐味が、ここには満載されている。 
この本の背後に古のカルガンチュアとパンタグルュエルやトリストラム・シャンディの面影を感じる読者も多いことだろう。


♪誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に永遠に馨るよ

Thursday, January 03, 2008

ケルアック著「オン・ザ・ロード」を読む

照る日曇る日第83回

東京の明治通りの千駄ヶ谷小学校の交差点をビクターの録音スタジオ、明治公園方向に下っていくと左側の交差点に河出書房がある。じつはこの近所に私が勤務していたかなり大きな会社があって、よくここまでランチを食べに来たものだった。

さうしてこの一度つぶれて新社になって再出発はしたものの、はかばかしいヒット作を出せないでいるこの小さな出版社を、「いまにつぶれるだろう、そのうちつぶれるだろう」と思っているうちに、あにはからんや私の会社のほうがどどーんと倒壊してしまい、私自身も弾き飛ばされたばかりか、いまやその社屋の跡形もない有様を見るにつけ、人の浮世のはかなさと私自身の読みの甘さとおろかさをふたつながらに痛感する次第である。

その、小さいけれど不倒翁の如きその出版社から、2度目のジャク・ケルアックの代表作が出た。前回は福田実の訳でタイトルは「路上」、今度は青山南の新訳で題名が原題をカタカナに変えた「オン・ザ・ロード」になったが、訳者や全集編集者の池澤夏樹ががたがたいうほど大きな変化があるわけではない。中身はおんなじジャク・ケルアックのロード小説である。一人の海のものとも山のものともつかない若者がなにかに憑かれたように何度も何度も北米大陸を横断する話である。

「ディーンに初めて会ったのは、妻と別れてまもない頃だった。ひどい病気から立ち直ったばかりのときだが、その話はあまりしたくないので、くたくたに疲れた別れのごたごたと、なにもかもおしまいだというぼくの気分が原因の病だった、とそのくらいにしておく。ディーン・モリアティの登場で、ぼくの人生のもうひとつの章、路上の人生とでも言えそうなものが始まったのだ」という出だしの文章を読んだだけで、村上春樹じゃないが、「やれやれ」という気分に駆られるのはなぜだろう。

なんだか分からないけれどここに人生に行き悩んだ若者がいて、その仲間もいて、ワアワア騒いでいて、突然春が来て、モンシロチョウなんぞがひらひら舞って、「そうだ、京都行こう」ならぬ「そうだ、サンフラン行こう」と喚いて無一文でヒッチハイクの旅に出る。あとはお決まりの女と酒と大冒険という、それだけの与太話である。

誰だって旅には出たいし、世界一週旅行をやりたいし、実際にやるやつはやっただろうが、そのやったリアルな話が誰にとっても面白おかしいわけではありません。同じ旅行記でもスイフトや芭蕉ならホラも交えて面白く読ませてくれるが、自分の体験よりは友人の実体験をぐだぐだ書き連ねただけの実録メモランダムが、現代の大方の読者を楽しませてくれるとは私には思えない。

なんでも英語の原文で読めば珠玉の名文であるらしいのだが、全然外国語を解しない私にはこの小説めいた駄文に1950年代という時代に生きたビート世代の生の記録以外の文学的価値があるとは到底思えない。当時の「KY」という時代の空気が彼に書かせ、時代が支持しただけの吹けば飛ぶよな一過性の文章であるよ。

訳者のあとがきによれば、ケルアックはアレン・ギンズバークの詩集「吠えるHowl」やウイリアム・バロウズの「裸のタンチNaked Lunch」も「ビート・ジェネレーション」という言葉そのものも命名したそうだ。彼の最大の手腕は、本文そのものではなく、「On the Road」というタイトル作りに存分に発揮されたのである。


♪おみくじを引かずに帰る鎌倉宮 亡羊

Wednesday, January 02, 2008

神津朝夫著「山上宗二記入門」を読む

照る日曇る日第82回

お正月といえば、なんとなく初釜やお茶の会などを思う。

もうずいぶん昔になるが、私は東京の裏千家のお茶の会の末席を汚したことがある。どんなものかと興味津々だったが、しかしてその実態は、書画や茶碗を無暗に褒めたり、その凡庸な茶碗をひっくり返して無名の銘をしかつめらしく確認したり、飲む作法にもいちいち勿体を付け、あまつさえ主人のくだらない俗悪至極のいわゆるひとつの人生訓を長々と垂れ、さらには菓子の切り方だの座り方だの、手水の使い方だのの瑣末な規則が次々に東海の粗野な蛮人(私のことです)の前途に入れ替わり立ち代り登場し、文字通り痺れが切れた私はほうほうの体でその「こていなお座敷」を逃れ去ったのだった。
以来表も裏も真ん中の千利休も千昌男も忌み嫌って茶席をごめんこうむっている。

ところが、かつて私が憎み軽蔑していた某国のトーリー党党首の獅子のごとき髪の持ち主が、「お茶なんて自分流に勝手に飲めばいいんですよ」と豪語しているのを聞いて、彼の主張と政策に対する全面的な敵対者であった私も、そのときばかりは珍しくも共感したことを覚えている。

たかがお茶である。くだらない能書きや儀式なぞ実力で粉砕して、ただぐいっと飲んじまえばいいのだ。

と思いつつ、この本を読みました。

さて山上宗二は天文13年(1544年)生まれの堺の商人兼茶人で、師匠である辻玄哉から乗り換えて兄弟子の千宗易(後の利休)に師事した。信長、秀吉に重用され一時は千宗易、津田宗及、今井宗久など堺の10人の会合衆の上位にランクされる茶道の指導的な役割を果たしたが、秀吉の小田原北条氏攻めの際に気狂い太閤の常軌を逸した怒りをかい、鼻耳を削がれつつ哀れ非業の死を遂げた。尊師利休の死に先立つことわずか一年であった。

宗二はおそらく当時唯我独尊の境地に酔っていた秀吉の行き方を批判的に直言してこのような極刑を受けたといわれているが、幸いにも日本茶道の黎明のありかを伝える一冊の本を遺した。それが「山上宗二記」で、茶の湯の歴史や茶室の変遷、古今の茶人の来歴、茶道具名物のその所有者と伝来、茶人心得などについて書かれた本邦最初の書籍である。

私は立花実山が元禄時代に編纂した利休直伝の茶道書「南方録」を一読して、これぞ茶道の極意と勝手に考えていたのであるが、著者によればこれは偽書であり、茶道の始まりは「南方録」が唱えるように足利義政ではないというので驚いた。その義政にわび茶を伝授した村田珠光が元祖であり、そのあとが大名茶の武野紹鷗、そしてそのさらにあとを否定的に継承したのが辻玄哉や千宗易、田中宗二という流れになるそうだ。

また著者によれば茶の湯は禅宗とはまったく無縁の存在で、茶道中興の祖紹鷗は浄土宗だし、そもそも禅院茶礼では釜を据えて客の前でお点前が行なわれることはないという。
 おまけに、幕末の大老井伊直弼に「茶湯一会集」という茶道本があり、ここで直弼は茶の湯の交わりは一期一会と喝破したことで有名だが、この考え方は「山上宗二記」の引用によるとものだということを、私は本書によっておそまきながら知ったのだった。

♪初日の出今年も市中に山居せむ

Tuesday, January 01, 2008

ある丹波の女性の物語 第39回 菊人形

遥かな昔、遠い所で第61回

 25年春には長男が綾部幼稚園に入園し、秋には綾部商工会議所主催の「綾部菊人形」が始まった。会場は町はずれにあるので、行き帰りの客で商店街は大賑わいであった。

催し物として「宝塚少女歌劇」の公演もあった。あんなに街中が活気にあふれた事は無い。長女がバレエで出演した事もあり、十年程菊人形も続いたが、時代も流れ移り、風水害後、復興する事も無く終わった。

 追々物価も上がって、売上金の勘定に百円札の束がかさ高くて困ったが、その頃千円札が発行され便利になった。

 26年には長男は小学1年生、次男は2年保育の幼稚園に入園した。
 長男は女の子のように可愛く、どことなく亡き母の面影があった。父はこの子を格別可愛がった。女の子も生まれたので私にかわる愛する対象物も出来、次第にやさしく、おだやかなおじいちゃんに変わり、孫達を方々の旅行にも連れて行ってくれるようになった。

 29年には末の長女も幼稚園に入園、私も育友会、参観と3人分掛けもちで忙しく、夫も商店街や自治会の仕事に追われるようになった。

 丹陽教会も戦後の基督教ブーム到来で信者も増え、父は京都府下の信徒会とか、「ギデオン」という全国的な実業家の信徒の集まりにも参加して活躍、小康状態の継母をも同伴するようになった。

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ  愛子

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて 愛子

Monday, December 31, 2007

謹賀新年

謹賀新年

♪ある晴れた日に その19

こぞ今年生きてしあればそれでよし

元旦やわれよりもまず家族かな

在庫無く迎える朝に日が昇る

亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな

なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ

京大和の御節頂く寿福かな

本年もよろしくお願いいたします。

Sunday, December 30, 2007

さらば2007年 亡羊師走詩歌集

♪ある晴れた日に その18


満月やわれに二、三の憂いあり

土佐文旦優しき母の匂いなり

糞1個ひり出す午後の寒さかな

ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い

イヴ・クラインの青切り裂くやF30

大空を2つに切り裂くF-4EJ

袈裟懸けに双子座より落つる流れ星

その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる

沖縄スズメウリ繁茂す 沖縄独立せよ

グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ

脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

建長寺の若き僧侶の青頭

念仏は脱兎の如し若き僧

こもごもに短き詠歌となえつつ老婆が2人峠越えたり

一座建立一日一恕の幸せを君に

高窓の光のどけき冬の朝妻と並びて抜き手切りたり

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

会者定離盛者必滅と鵺が鳴く

電車の中で彼女が生涯にわたって絶対見ないであろう部位をじっと見ている私

盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり

なにやらんこていな料亭ありしかど無残な更地になりにけるかも

秋晴れの丸一日を費やして描きし路線図を破り捨てたる息子

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

百葉落ち死者に近しき夕べかな

戦友が放り投げたる赤ん坊をこう突き刺したんだとT氏語りき

あどけなき無言の挽歌うたいつつ小楢散るなり夕陽の丘に

窓際を流るる秋に呼びかけよ かのモルフォ蝶いずくにありやと

年毎に故人増えゆくアドレス帳

人生といふ棒を振ってしもうた男なり

朝な夕な新聞のページ薄くなりあと数日で年改まるか

来年も生きてしあればそれでよし

Saturday, December 29, 2007

空の空なる空はない

♪バガテルop32&鎌倉ちょっと不思議な物語94回

ひところの私の趣味はデジカメで毎日自分の顔と空の写真を撮ることだったが、最近は空を飛翔するものを撮影することに「固まって」きた。

飛翔するものならトンビでも烏でもスズメでもUFOでも何でもいいのだが、圧倒的に飛行機が多い。ジャンボやヘリやプロペラ機やいろいろな飛行機がだいたい5分か6分に1機くらいの頻度でいろいろな方向に飛び交っている。

部屋にいてどこかでブーンという音が聞こえると愛用のデジカメを持って道路や露台に飛び出して上空にキョロキョロ探し求め、ともかくその機影をとらえる。朝から晩までこれをやっているから夜中でもブーンという音が聞こえると目が覚める始末。まるでノーローゼである。

自宅の周囲はあまり空が広くないので、近所の神社や広場や空き地で空にレンズを向けているから、向う三軒両隣の人々はほとんど狂人扱いで、最近は朝晩の挨拶にも顔を背ける人が増えてきたような気が心なしかする。

それはともかく自宅の上空を、毎日毎日これほど頻繁にこれほど多くの航空機が往していようとは夢にも思わなかった。先日横浜の栄区にある栄プールの上空で1機を撮影していたら、もう一機が近接遭遇したので思わずあっと叫んだくらいだ。

鎌倉は最近米軍の陸軍第一軍団前方司令部が進出してきたキャンプ座間にも、同じく米海軍空母の母港である横須賀にも、自衛隊の厚木基地にも近く、おまけに羽田や成田を発着する民間航空機の侵入離脱航路にも近いので、軍民合わせて飛来する頻度がこれほどの数になるのであろう。

幸い大和市や厚木市などのように上空すれすれに巨大な戦闘機が耳を聾せんばかりの轟音をあげながら接近することはないから助かっているものの、一日中鳥しか飛ばないのんびりした空、無人の空、旧約聖書の伝道の書にいう「空の空なる」空はもはや1瞬も存在しないことがはじめて分かった。
航空機に許された飛行範囲がきわめて限定的なものであることを考えれば、いまや大空も陸地並みの交通ラッシュ状態に近づいているといえそうだ。


♪大空を二つに切り裂くF-4EJ

Friday, December 28, 2007

五味文彦著「王の記憶」を読む

照る日曇る日第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語93回


京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉

という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。

発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。

後に鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実は流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。

それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。

またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。

また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。

すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。

頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)

このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。

鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。


そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。

都市   原理    基軸   性格
京都   中央    ヒト   政治
博多   境界    モノ   港湾
奈良   異界    ココロ  宗教

これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。

では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。

♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊

Thursday, December 27, 2007

ジョン・アーヴィング著「また会う日まで」を読む

照る日曇る日 第80回

05年に出たジョン・アーヴィングの最新刊が本書である。上下2巻約2500枚の原稿は書くも書いたり、訳も訳したり、そして読むも読んだりの大長編である。それを簡単に要約すると、著者を思わせる少年がまだ見ぬ父に再会するまでのあれやこれやを例によって世界中を寄り道しながら半世紀にわたって旅する自伝的ビルダングスロマンというようなものであろうか。

しかし前半は刺青の話が延々と続くので消耗する。主人公の母も父もタトーをたしなみ、とりわけ母親は名だたる名人からも高く評価される腕前である。その刺青で客を取りながら自分を捨てて北欧へ行ってしまった主人公の父親を捜し求めるうらぶれた旅路が、これでもかこれでもかと描写される。

父親はオルガンの名手で教会の名オルガンを求めて放浪の旅を続けているがいたるところで女性とトラブルを起こしては追放されているらしいが、親子はついにめぐり合えないままで郷里に戻ってくる。

中盤は一転して主人公の故郷カナダのトロントにおける恐ろしく早熟な性体験と演劇クラブ活動などがアマルガムになった猥雑な小中高、そして大学までの奇妙な学校生活が執拗に描かれる。まことにシュトルムウントドランク、嵐のような青春時代である。

そしていよいよ後半は成人して俳優になった主人公がどういう風の吹き回しかオスカーを手中に収めて著名人となり、最後の最後に瞼の父と再会するのだが、このシーンはあらゆる予想と期待を上回る素晴らしさで、「さすがアービング!」と叫びたくなる。

気が狂う寸前まで本作と取り組んだ成果が、下巻第5部第39章に全面的に発揮され、540ページからそのクライマックッスが訪れる。どうか途中で投げ出さずにおしまいまで読んでください。

余談ながら主人公ときたら、「いつも」いろいろな女性に自分のペニスをつかまれながら、さまざまな映画を見ていたようだ。黒澤の「用心棒」で切られた片腕を銜えた犬が歩いているのを見た三船敏郎の怒った顔がかっこいいと述べているが、そのときだって美貌の女教師にそれをむんずとつかまれていて、「つい勃起してしまった」などと平気で書いているのだが、そんなことで真面目な映画鑑賞といえるのだろうか?
 
1985年のトロント映画祭では、なんと両サイドの美女から2本の手で陰茎をつかまれながら三島のドキュメンタリー映画「ミシマ」を見ていて、その映画館で「ゴダールのマリア」が上映されていると誤解した熱烈なカトリック信者からデモ隊の攻撃を受けているが、それくらいは当然のことだろう。喰らえ生卵!

ちょうどこの年のこの頃、私はパリのシャンゼリゼのたぶんバルザック座で同じ「ゴダールのマリア」を見ていたはずだが、いくら左右を見回してもちょっとでもペニスを触ってくれそうな女性はただのひとりもいなかったことを寂しく思い出したことだった。

♪イヴ・クラインの青切り裂くF30 亡羊

Wednesday, December 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第38回 夫と父

遥かな昔、遠い所で第60回

 父と一人娘と養子、というだけでも仲々むずかしい人間関係であるのに、継母との関係もあり、父の積極的な性格に、養子タイプのおとなしい夫の性格は相反して、却って相性がいいのではと、私は思ったのであるが、綾部での同居の生活が始まってからは、それぞれに言い分があり、私にはそれぞれの立場が理解出来るだけに、むずかしい立場に立たされる事が多かった。

 丁度その時私は居合わせなかったので、直接の原因は分らなかったが、一寸したはづみで、夫はもう限界だからこの家を出て行きたいと、父に言う事件が起きた。夫は抑えに抑えて来た思いを抑えきれず、父に投げつけたのである。

 いずれそういう事もあろうかと思っていた私は覚悟はしていたので、父に「長い間お世話になりました。私も夫に従ってこの家を出させていただきます」と言った。
父はただオロオロするばかりであったが、平伏して、「ワシが悪かった。謝る。どうぞ出て行かんでくれ」と夫に詫びた。

その後も、夫は何度か口惜しい思いをしたであろうし、父も我慢出来ぬ我慢をしてくれたであろうが、そうした事は二度と起こらなかった。
 程なく、父は履物店の経営には全く口を出さず、経済的にも干渉しなかった。
 父は甥達2人と京都でネクタイの事業を再開したのである。


秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに 愛子

弘安さん納骨の日
なき人を 惜しむように 秋時雨 愛子

Tuesday, December 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第37回 大阪

遥かな昔、遠い所で第59回

 9月22日に次男が生まれた。産湯を使うと、一番大きい盥にいっぱいになるような大きな子であった。

 その後、商店街は次々店が開き、戦前の体裁がととのうようになった。
 我が家も夫の就職口もなく、店を再開しょうと私は父と大阪へ仕入れに行った。梅田の駅を降り、堺筋から難波まで市電に乗ったが、途中只1軒、山中大仏道という仏具屋の真新しい、大きな建物が目立つだけで、北から南まで一面の焼野原であった。
父がこの土地を今買っておきたいものだ、といったのを、大阪へ行くたびに思い出し今昔の感にたえぬ。

 一応商品が揃うようになってからと思ったので、他の業者より一歩おくれたけれど、履物店を再開した。おかげで、昔からの信用もあり、女の子1人をおいたけれど、花緒をたてるのが間に合わず、外へ出して頼む程よく売れるようになった。

 23年7月には長女が生まれた。父の思い通り、眞善美の3人が揃ったわけである。
 継母は相変わらず床に就く事が多かったが、夫は健康を取り戻し、店の仕事にも次第に慣れては来たが、初めての経験なので、父を頼りにし、自然父と娘が店の主流になる事が多かった。

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も 愛子

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか 愛子

Monday, December 24, 2007

鈴木清順監督の家

鎌倉ちょっと不思議な物語91回

クリスマスイブイブの夜に義母と話していたら、彼女たちが昔住んでいた長谷の家は、映画監督の鈴木清順氏の旧宅だったというので驚いた。

そこは吉屋信子氏の斜め前にあって、私もある夏の日に一度だけ訪ねたことがあったが、いまは取り壊されてしまった。なんでも玄関までのアプローチが長く、前庭の左側に丈の高い竹が欝蒼と茂っており、蓋をした井戸があったような気がする。

義母の話では外側はおんぼろだが内部は広く、立派な茶室や映画の機材やフィルムの現像室など数多くの部屋があったそうだ。また鈴木監督が引っ越したばかりで郵便ポストには誰かからのラブレターが入っていたそうだが、どこに届けていいか分からないので結局行方不明になってしまったという。

後年あの傑作「ツイゴイネルワイゼン」でベルリン国際映画祭特別審査員賞に輝いた鈴木監督は、当時おそらく日活から解雇され仕事がなくなりつつあった時期だから、生活費に困って鎌倉の寓居を手放してしまったのだろう。

夜になると鼠が天井裏を走り回り、なんだか怪談じみた不気味な雰囲気をかもし出したというが、確かに真夏の昼なのに、長い廊下や納戸のあたりに暗き闇と中世鎌倉の地霊が棲みついていたような気がする。

鈴木監督の代表作には釈迦堂切通しや小町通りの奥にあるミルクホールなど鎌倉ゆかりの旧跡や隠れ家が登場するが、私は確か「ツイゴイネルワイゼン」で大楠道代が潜んでいた水の底のイメージは、この長谷の閉じられた秘密の井戸にあったのではないかと想像を逞しくしてしまった。

いずれにせよ監督の鎌倉滞在は彼の芸術に決定的な影響を与えたのである。

ところで私自身もこの海岸から遠からぬこの古びた家とその住人に大きな感銘を受け、その翌日生まれて初めてひとつの短歌を詠んだ。

♪鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり

当時私は神田鎌倉河岸のほとりにある小さな会社に勤務していたが、消費者から受けた苦情に対する謝罪文などを、「どうかご海容下さいませ」などと気どって書いて、それを総務のタイピストをしていた年配の小柄な女性に渡すと、彼女は「へええ、あんた若いのに海容なんて言葉をよく知ってるわねえ」と褒めてくれるのだった。

そこで歌が出来た翌日、早速彼女に私のそのつたない短歌を披露すると、彼女はしばらく考えてから「へえー、生まれて初めての歌にしては悪くないわね。でも最後の「たり」を「おり」にするともっといいわよ」という助言を受けた。

若く傲慢不遜だった私は、「いや、やっぱり「たり」がいいです」と言ってその場を立ち去った。それから間もなく、私はこの不可思議な趣のある旧家に住んでいた若い女性縁あって結ばれたが、その年配の小柄な女性が、俳人として知られる井戸みづえさんであることを知ったのはずいぶん後になってからのことだった。

Sunday, December 23, 2007

日曜日が待ち遠しい

鎌倉ちょっと不思議な物語91回

毎年恒例の市の健康診断を受けた後、横須賀線の鎌倉駅の裏駅のそばを自転車で走っていたら、線路際の料亭『吉兆』が営業を終了していた。この日本料理の店は私の近所の人が経営していて、一時はマスコミにも大きく取り上げられ、クロワッサンなどの雑誌を硬く握り締めたおばさん集団が門前市をなして詰め掛けていたが、好事魔多しでなにかまずいことがあったのだろう、広大な自宅もいつの間にか取り壊されていた。

そのほか鎌倉ではT工務店が倒産して一家が夜逃げしたという噂だし、日本経済の再びの地盤沈下と小泉格差政策の荒波をかぶってあちこちでよからぬ事件が起こっている。物言えば唇寒き師走である。

踏切を越えて小町に入ると、「Vivement dimanche!」なる喫茶店がある。最近世間ではこの「きっちゃてん」という立派な日本語をリストラして、得体の知れないカフェーという呼称に全面的に切り替えようとしているが、「Vivement dimanche!」というおふらんす語をつけていはいても、実態は普通の喫茶店である。店主がトリュフォーの大ファンらしく、店の外装や内装もカラフルで、とりわけ奇妙な看板が印象的である。

Vivement dimanche!というのはフランソワ・トリュフォーというフランスの映画監督の作品のタイトルである。邦題では『日曜日が待ち遠しい!』とネーミングされたこの作品は、前作の『隣の女』に続いて、彼の短い晩年の最後の恋人であったファニー・アルダンが主演し、共演がジャン・トランティニヤン、音楽はお馴染みジョルジュ・ドリリューのコンビによる小粋なサスペンスコメディであるが、何度鑑賞しても白鳥の歌とも思えぬその軽やかな疾走感が、残された私たちをかえって悲しませる。

当時トリュフォーはすでに不治の病に冒されており、翌1984年10月21日の日曜日に亡くなってしまうので、『日曜日が待ち遠しい!』は彼の遺作になってしまった。
私はちょうどその頃、彼を起用してテレビコマーシャルを製作しようと考え、すでにその了承ももらっていただけにこの突然の訃報はショックだった。

しかし幸い同じヌーヴェルヴァーグの監督ジャンリュック・ゴダールが、死せるトリュフォーに代わって私の「世界の映画監督シリーズ!」第1回の企画を救済し、2本のCMを作ってくれたことは大きなよろこびだった。1968年のカンヌ国際映画祭がきっかけで決別したこの2人の間を私が製作したCMがつないだことを思うと、その世にも不思議な奇縁に我ながら驚く次第である。

しかし思えばトリュフォーは、ジャン・ルノワール、オーソン・ウエルズ、ヒッチコックの剄い系譜を受け継ぐアレグロ・アッサイの演出家であった。餘りにも生き急いだ彼は、そのイストワールの余情や余韻をあえてかなぐり捨てて非情とも言うべき乾いた猛烈な速度で進行し、逆にかえってそのことが、観客に対して無上のリリシズムとあえかに夢見られた彼岸への憧憬をもたらしたのである。

Saturday, December 22, 2007

ある丹波の女性の物語 第36回 ズンドコ節

遥かな昔、遠い所で第58回


 そんな暮らしが2、3年も続いた。追々ヤミ商品が街に沢山並ぶようになり、古着も店につるされて売買されるようになった。お金さえあれば、何でも買えるようになったが、貯金は封鎖され新円に切り替えになった。

教会の礼拝に行っている留守の間に、その新円を泥棒にすっかり取られてしまい、当座とても困った。親戚から折角送って来た虎屋の羊羹も、ついでに持って行かれ、甘党の父はすっかりしょげてしまった。

 戦後の開放感が拡がっていった終戦後はじめての21年のお盆には、誰が始めたのか大通りに自然に盆踊りの輪が出来た。それが次第に当時はやりの「ズンドコ節」に変って行ったのである。タンスにしまいこんであった浴衣姿の若者、おじいちゃん、おばあちゃんまで加わり踊りは一晩中続いた。

 何かが爆発したような異常な興奮の渦が街中に広がって行った。その後も毎年盆踊りは続けられたが、ズンドコ節のあの激しさはもう無かった。
 
久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ  愛子

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ  愛子

Friday, December 21, 2007

ある丹波の女性の物語 第35回 虚弱体質

遥かな昔、遠い所で第57回

 早々に復員が始まり、内地に配属されていた近所の人達も帰って来た。
暫くしてガダルカナルで戦死した番頭の兼さんの遺骨も帰って来た。父が引き取りに行き、夜おそく提灯をつけて兼さんの自宅に遺骨は帰った。

出征時おなかにいた末の子は、白木の箱を持ち先頭に立っていた私の父を見て、「お父ちゃん、お父ちゃん」と喜び、みんなの涙をさそった。真夏の事で供える花もないままに、私の庭の秋海棠の花を手折って供えた。秋海棠は、そんな想い出と共に悲しい花となった。

 うちでは夫には召集もなく、みんな揃って終戦を迎える事が出来たが、遠慮のない父は、「うちの輸入品は弱虫ばかりで困る」と、母や夫のことをなげいた。言われる当人達はそれ以上に、この上なく辛い事であったろうが、二人とも呼吸器が弱く、とても労働の出来る身体ではなかった。

私達も頑強ではなかったが、力を合わせて野菜作りにはげんだ。豆の季節には、豆の中にお米がまじっているような御飯、夏ならお芋や南瓜であった。戸棚にごろごろしている南瓜を見ると力強かったし、土間に拡げられたじゃが芋、さつまいもを見ると、心がゆたかになるような気がした。

 父は昔の知り合いを訪ねて、商品の残り物を食品に換えて来てくれたり、以前のお手伝いさんは、私の派手な着物類は農家の娘さん用に喜ばれると、お米と交換してくれたりした。 

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ 愛子

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに 愛子

Thursday, December 20, 2007

より良い古典音楽演奏を求めて

♪音楽千夜一夜第30回

例えば下手な絵描きが描いた下手な絵が、3次元の絵画的空間ではなく、単なる絵の具の堆積として私たちの目に映ることがありますが、ジャンルは異なるとはいえそれとまったく同様な「展覧会の絵」現象がいま全国のコンサート会場で起こっているような気がします。

ではどうしてこういうことが起こるのでせうか?
部外者で素人の私にはよく分かりませんが、それは演奏家とりわけ指揮者の精神の内部に自分独自の音楽がないか、もしいくばくかのそれがあったとしても、それを楽員や聴衆に対して自信を持って的確に伝える能力が欠けているからではないのでせうか?

音楽の創造にとってもっとも重要なこと、どういう音楽を立ち上げ、それをどうやって外部に伝えるかということでせう。しかし現在の音楽教育や演奏の現場では、後者の音楽におけるHOWという機能を最優先するあまり、もっと重要なWHATの創造の課題がおきざりにされているのではないのでせうか。さうして苦労してせっかく手塩にかけて培養した幼く稚拙な創造の芽さえ効果的に周囲に伝達できないので、だからあれほどにつまらない演奏が日夜かくも膨大に流通しているのではないかと思うのです。

いろいろな努力と遍歴を重ねてはみたけれど、自己の音楽ヴィジョンをついに強固に確立できず、ただ楽員とのおためごかしの協調性と協奏のよろこびだけでその場しのぎの音楽をやろうとする指揮者たち(例えば小沢氏のウイーン国立オペラ就任記念演奏会におけるブルックナー9番の演奏やロストロポーヴィッチ氏との最後の「ドンキホーテ」のリハーサルにおけるテンポの設定不指示をカール・ライスター氏に指摘されても反省しない没主体的な指導性)が年々粗製乱造され、その成り行き次第のダルな演奏態度によって現代の再現芸術のレベルを日々劣化させているのではないでせうか?

この致命的な機能不全を解消する秘策はありませぬ。というのは音楽におけるWHATの創造は、音楽以外の暗黙知と広範な人生体験から生まれてくるからです。ひとりの人間としてより深く、より良く生きようとする不断の努力と研鑽からしか良き音楽家は生まれないと私は信じています。

いくら朝から晩までヤマハが買収したベーゼンドルファーを弾きまくっていても、あるいは神仏に祈って7度生まれ変わっても、所詮漢(おとこ)バックハウスにはなれないし、天才コルトーやリパッティには逆立ちしたってなれませぬ。けれどもたとえ永平寺で100年修行を積んだからと言っていい音楽家になれるとは限らないのです。

それではすべてお手上げかというとそうでもなくて、私たちは偉大な先人の音楽文化伝承の技術を丁寧に学ぶことによっていくらかはWHATからHOWへとつながるこの問題をキャッチアップできるはずです。

なぜなら演奏のエッセンスは、楽譜の解釈にあり、楽譜の解釈は楽譜の物語化、象徴化にあり、指揮者の仕事はこの独自な物語とシンボルの立ち上げと効果的な移植にあると考えられるからです。
指揮者(演奏家)は己の脳中と胸中に浮かんだ抽象的なWHATを、あれやこれやの具体的な指示へと置き換えなければなりませぬ。

いつか斉藤秀雄氏の弟子の飯森泰次郎氏が、死せる師匠の指揮法についてピアノを演奏しながら具体的に語っておりました。それは「タンホイザー序曲」の冒頭のシーンでありましたが、「ここは疲労困憊したローマの巡礼たちの思い足取り、ここは彼らにようやく希望の光が見えたかすかなよろこびの瞬間」というふうに、斉藤氏はまるで平家物語の語り部さながらに一小節ずつ弾き振りの指導を行なったといふのです。(ここでセルの演奏を参照してください)

また今は亡き朝比奈氏は、ベートーヴェンの第7交響曲の練習で、「ここは縦の線は無視してください。音は汚くても構わないから歌って、歌って、歌ってください」とまるでトスカニーニのように大フィルを叱咤しておりました。(なんというアバウト小氏との違いでありましょうか!)

さらにはクライバーやチエリビダッケやムラビンスキーやミュンシュやクーセヴィツスキーのリハーサルをご覧あれ。すべてがこの物語化と象徴化による音楽の結晶化作業の連続です。

さうして彼らが楽員に強烈に彼らの物語を解説し、象徴化へいざない、あるいは反抗する楽員を説得し、折伏する指導的言語と、その教育的指導を受けたあとの楽員による演奏は、その前後であきらかに顕著な違いがあるのです。音楽的境地の瞬間ごとの生成進化があるのです。

こうした音楽の物語化は演奏芸術における象徴化作業にきわめて忠実な手法であり、いまでもけっして古びてはいないし、教育的有効性を失ってはいないはずです。

最後に私は、楽譜と音楽は不即不離の関係にこそあっても、楽譜そのものは実は音楽演奏とも、ノイエザハリッヒカイトなんちゅう客体的な楽譜解釈による客観的な?演奏とも、さらには思い切って音楽の本質とも原理的には無関係ではないかと思うのです。

世間で信じているやうに、楽器の演奏ができることと、演奏された音楽の本質が理解されていることとはまるで関係がないので、かのジャン・クリストフではありませぬが、プロより頑是無い子供の素人のほうが演奏されたその音楽の本質を直観していることが多いように思われます。


盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり 亡羊

Wednesday, December 19, 2007

徳富蘇峰著「終戦後日記Ⅳ」を読む

照る日曇る日 第79回


徳富蘇峰は1863年熊本生まれで福沢の慶応を嫌って京都に出て新島襄の同志社に学び、1887年に民友社を設立して「国民之友」「国民新聞」などの有力メデイアを発行しいわゆる平民主義を唱道した。
明治、大正、昭和の3代を生き延びた言論人にして政治家の彼は、戦時中は大日本文学報国会会長、大日本言論報国会会長をつとめ、その天皇中心主義を生涯にわたって貫いた。

いわば筋金入りの保守であるが、言論人兼政治家という点では最近の読売社主兼主筆兼3流暗躍政治家のナベツネ、あるいはその先々代の正力と同類項の言行一致型の策士である。不仲であった松方、大隈の両領収手を握らせ、念願の松隈内閣を誕生させた影の立役者こそ誰あろう国民新聞社主の蘇峰だった。

蘇峰のみならず明治の御世には、尾崎行雄、犬養毅、子規の恩人日本新聞の陸羯南をはじめ数多くの新聞記者や社主が政界に進出し、彼らの理想を実行に移そうとしていたのである。平成の御世に生きる一新聞社主が自民民主両政党の連合を企むことはそのアイデアがいかに虚妄であろうともそれをやってはいけないと誰もいうことはできない。しかし彼奴がワンワン吼えても歴史は勝手に動くだけの話だ。

さてその蘇峰が書き継いだ日記「頑蘇夢物語」の完結編「終戦後日記」が本書である。日記といっても当時蘇峰は巣鴨に収容こそされなかったが立派なA級戦犯であり、進駐軍によって監視されていたから外部には公開されないままについに今日に至ったいわくつきの日記である。

本書の前半で、著者はなぜ日本が過ぐる大戦に敗れたか執拗に自問し、自答している。蘇峰が挙げるのはまずは人物の欠乏で、上は恐れ多くも明治天皇と昭和天皇、下は桂と東條、海軍の東郷平八郎と山本五十六、陸軍の大山、児玉と山下、板垣などの人物の出来具合を月旦する。

次はルーズベルトやチャーチル、スターリン、蒋介石とわが帝国首脳のスケールの大小、さらにわが帝国の東亜民族指導の資格欠如、大和民族の先天的後天的欠陥、戦争の構想の欠落、満州から中華事変への暴走起点となった盧溝橋事件の処理方法に言及し、中国の真価を知らずに蔑視して突入した支那事変を「世界戦史上最愚劣の戦争」であったと決め付ける。

ユダヤ人と並びおよそ世界で最強の漢民族と事を構えたわが帝国の無謀と愚劣を痛罵してやまないのだが、ではかつての日清、日露と同様にわが帝国の命運を賭けた大東亜戦争を肯定し、全面的に加担し、積極的に応援したご本人の立場との整合性はいったいどうなるのだろう。

結局は自分ひとりが賢くて優秀で、自分以外の日本および日本人はすべて阿呆であったとでも言いたいのだろうか? しかも日本がこの史上最悪の戦争に突入したすべての原因は、鬼畜米英と悪辣非道なソ連の陰謀にあり、わが帝国の落ち度は皆無であると他方では断言するのだから何をかいわんや。己の過去の言動を正当化する不敵な物言いとしか思えない。もしこの人が存命ならば己と帝国の無謬に乗っかったまんまで次の戦争の準備をするだろう。

しかし後半の「百敗院泡沫頑蘇居士」と題する失敗に満ち満ちた半生の記は、伊藤、井上、松方、大隈、陸奥などとの交友や人物像、東武グループの総帥根津嘉一郎の陰謀によって手塩にかけた国民新聞を追われたいきさつなどを赤裸々に描いてじつに興味深い。

また本書の執筆当時に急激に進行しつつあった米ソ冷戦の初期の動向の観察の鋭さ、その後の世界予測の正確さは、94年の生涯をしたたかに生き抜いた硬骨漢の真骨頂をものの見事に表現しているようだ。


♪ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い 

♪高窓の光のどけき冬の朝妻と並んで抜き手切りたり

Tuesday, December 18, 2007

NHKは大好きなのですが、N響が

♪音楽千夜一夜第29回

先日の「第9」公演では、近くに座った中年男が演奏中にさかんに巨大な望遠レンズをつけたキャメラで舞台を撮影していました。鎌倉の芸術観ではよく頑是無い赤子を泣かす若い母親がいたり、いびきを立てて爆睡するリーマンがいたりしますが、東京では演奏中に携帯で会話する聴衆が後をたたず、マーラーの9番の消えゆく余韻を会場のみんながかみ締めようとした瞬間、突然狂ったようなウラアの蛮声を浴びせかける体育会系男が出没するのみならず、最近は客同士が乱闘したり演奏中に交尾するカプルまで出現したという話を聞くので、私は極力演奏現場から遠ざかってクラシックの演奏を録音や録画を楽しむことが多いのです。

前にも書いたように「NHK大好き人間」の私は、当然NHK交響楽団の演奏を視聴する機会が多いのですが、それにしても昔ながらに相変わらずなんと退屈でつまらない演奏が延々と続いていることでせう。

ケント・ナガノとか準メルクルなぞの日系の若者についてはこれまでは多少応援しながら聞いておりましたが、浦和の闘莉王の素晴らしい仕事ぶりに比べたらまるで月とスッポン、比較の対象ですらなく、さんざん聞いた私が馬鹿だった。もうとうに彼らの将来はあきらめております。

以前の首席のシャルル・デユトワさんも、首になったモントリオールのオケとデッカに入れたフランス音楽の光彩陸離の演奏があまりにも素晴らしかったので大いに期待していたのですが、音響最悪巨砲ホールでのあまりにも空虚な演奏は(最初と最後とその中間の元妻との競演を除いて)いちじるしく精彩を欠き、その跡を継いだアッシュケナダ氏は、力余ってルイ14世の宮廷楽長リュリのように指揮棒で右手を刺し貫いたときには、これからどう大器晩成してくれるかと一抹の不安とともにこれまた大きな期待を小さなこの胸に懐いた次第ですが、やはりその不安が現実のものとなり、哀れ安部首相ともどもシドニー響に転出となった模様です。

彼はバレンボイムと違って指揮よりピアノがやはり本領だったようですね。いっそプレトニコフかロジャー・ノリントンを招くという手もあるかと思ったのですが、アシュケにこりた当局はもはや首席をおかないことにしたようです。

ロバの耳を持つ私には、スクロバチエフスキー(読響にいった)もプレビンもマリナーもつまらなかったし、多少ともましなのはでぶでぶネルロー・サンティさんくらいでせうか。

それにしても近年N響に客演する多くの指揮者たちによる演奏を聞いて感じられることは、彼らの多くが、音楽ではなくて音符を精密機械のように音響工学的に、オートクチュールではなくてプレタポルテ風に、四輪の運転マニュアルのように安直に演奏しているように感ぜられることです。

それは確かに楽譜どおりの演奏なのでせう。しかしながら私個人にとっては音楽的感興に打ち震える瞬間なぞは微塵もないのがとても残念です。だから愛する超ローカルオケ鎌響にせっせと通っているのです。
蓼食う虫も好きずきとはいえ、高いお金を払いながらあの紅白歌合戦ホールに毎月通い続ける定期会員の方々の心根が、私にはてんで理解できまへん。


♪その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる 亡羊

Monday, December 17, 2007

下手な小説のような松木武彦著「列島創世記」を読む。

照る日曇る日 第78回

石器時代から縄文、弥生、そして古墳時代に入るまでの、のちに日本列島と呼ばれることになる地域の歴史物語が、本書である。

あえて物語と書いたのは、この本が単なる石器や土器やらの物理的資料本位の考古学&歴史学概説にとどまることなく、「ヒューマン・サイエンス」とかいう現在欧米の人類学、経済学、歴史学などで大流行の最新型の学説を援用して、この父祖未生以前の時代の来歴について大胆な推理と解釈を施しているからである。

旧態依然とした考古学の分野に、人工物や行動や社会の本質を「心の科学」(認知考古学)によって見極め、その変化のメカニズムを真に迫って描き出そうという若き学徒の言うやよし。さいかしいざ読んでみると、「人間みな人類、我々はみなホモ・サピエンスの末裔であるからして、その心性は15万年間にわたって普遍的である」、と暗に仮定し、「新人も現代人もさぞや同じ知性と感性の働きをするに違いない」、という証明不能の粗放な科学的立場から、大昔の人々の生活と意見をさながら小説のように奔放に語るので迷惑する。
どだい嘘か真か誰にも分からぬ話を、その道の専門家から、いかにも本当でござい、としかつめらしくしゃべられても、こちとらは「ははあ、さようでございますか」、と黙って拝聴するほかないのである。
具体的には、著者は縄文や弥生の時代ごと、地域ごとに「物質文化」の変化の波が現れ、それは土器の過度の修飾などの人工物に「凝り」が盛り込まれる方向性に現れ、その方向性を読み取ると当時個人と集団のどちらのアイデンティティをより強く表現していたかが科学的に解明できる、とかなんとか講釈するのだが、私のみるところではそれこそ跡付けの見てきたような思い付きと主観的な思い込みと想像と予断の積み重ねに過ぎない。せめてそれぞれの講釈の根拠となった資料や引用箇所を網野氏のようにちゃんとそのつど表示してもらいたいものだ。

しかし梅原猛や網野善彦や岡本太郎や和辻哲郎などの思い付きと主観的な思い込みと想像と予断を笑って許せた私だが、著者のそれにはなかなか素直にうなずけなかったのはどちらの人(にん)の出来の所為だらうか。

ただひとつ確かなこと。それは著者もいうように、列島には約4万年前から1500年前までの間に列島が寒冷化していく時期が2回あり、(①第一寒冷化期=後期旧石器後半の約2万年前まで、②第一温暖化期=後期旧石器後半から縄文前期、約2万年前から7千、6千年前まで、③第2寒冷化期=縄文前期から晩期、7千、6千年前から2800、2700年前まで、④第2温暖化期=弥生前半2800、2700年前から紀元前後まで、⑤第三寒冷化期=弥生後半から古墳時代を経て奈良時代後半の紀元前後から後8世紀末ごろまで)この気候変動こそが、現代と同様、列島史を動かした最大の要因であるということだ。


♪脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

Sunday, December 16, 2007

♪日本語で歌う「第9」演奏会を聴く

♪音楽千夜一夜第29回

最近ドイツの長老指揮者ハンス・マルチン・シュナイトを音楽監督に迎え、人気、実力とも赤丸上昇中のオケなのでとても期待していたのだが、結果は見るも、じゃなくて聴くも無残なものだった。

冒頭の「エグモント序曲」で最初の野太い音が出たとき、「ああ、さすがはプロだ。いつもの鎌響とはさすがに違う骨のある音作りだなあ」、と感嘆したのだが、うれしい驚きはそこまでだった。
あとはまるで中学校のブラバン(中学生とブラスバンドには大変申し訳ないのですがものの譬えなのでご勘弁を)のように健康的で、陽気で、元気で、単細胞な音楽が延々と続けられたのだった。

その演奏は精緻なダイナミクスの計算がなく、音色の繊細さや音楽の光と影の交錯に乏しく、それでいて正確無比で、細部が異常なまでに磨きぬかれ、私が評価しない、あるいはできない小沢やサバリッツシュやブロムシュテットやオーマンディやムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の音楽作りに似ている。

例えば第9のもっとも美しい第3楽章では、なんの叙情も音色の自己耽美もなく音は国道1号線を疾駆するダンプカーのように走りすぎ、最終楽章のはじめのところで、チェロとコントラバスがひそやかに歌い始めた美しい「歓喜の歌」のメロディが2丁のバスーンなどによって同伴される箇所などは、凡庸な指揮者の演奏でも思わず息を呑まずにはいられない霊妙な音楽的佳境の瞬間であるはずなのに、彼ら演奏者は格別の思い入れもなく、淡々と通過してしまう。

それに続くバリトンの第1声がドイツ語ではなく、「わが友よ、歌うならもっと快い歌を歌おう!」という翻訳のゆるい日本語であったのには驚いたが、演奏自体はもはや私にとってなんの感動も伴わず、知性の陰りや理性のひらめきはおろか、ひとかけらの霊感すら天上から降臨しないまま、能天気な音符たちが1時間以上もえっちらおらっち眼前を軍隊行進していき、気がつけばすべてが終わってしまっていたのだった。

最初の「エグモント序曲」で野太い音が出たと書いたが、この音は20年以上も前に愛聴した新星日響の音だと演奏中に気がつき、あとで現田茂夫という指揮者の経歴を調べたらはしなくもこのオケの出身者であった。

あのころの新星日響はコンサートマスターをウイーンフィルのヘッツエルのように不慮の事故で失い、その悲しみを消去しようと毎回それこそ松脂から炎の出るような全都随一の激烈で悲愴な音楽をやっていたが、あれから四半世紀を経ていまや中堅の域に達したこの指揮者になんら進歩の形跡がないことに気づいた私は、「にんげんそう簡単に変わるもんじゃあないぞ」の思いを新たにしたことだった。

私は音楽の生命が光り輝く精霊の森に分け入りたかったのに、案内されたのは鳥も花も死んだ冷たい化石の森だった。嗚呼、冷感症の自称音楽家たちによってずたずたに傷つけられたベートーベンの名曲よ! こんな演奏は悪魔にでも食われてしまえ!と(私だけは)心の中で呪ったことであったよ。

老婆心ながらこれからベートーベンを演奏しようと思う若い人は、間違っても小沢など斉藤秀雄ゆかりの教師につかず、古い図書館の地下室に眠っているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を開いてほしい。そしてそのなかで、主人公の少年が生まれて初めて彼の交響曲のライブを耳にした瞬間に彼の魂を震撼させた音楽の圧倒的な素晴らしさ、また音楽が人生を変えることの恐ろしさ、その無上の快楽と毒性について知ってから指揮棒(楽器)を手にしてもらいたいものである。

指揮 現田茂夫 演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
独唱
ソプラノ 亀田真由美
アルト 稲本まき子
テノール 小林彰英
バリトン 末吉利行
合唱 日本語で歌う「第9」2007合唱団
会場 鎌倉芸術館


♪グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ

Saturday, December 15, 2007

坂口弘著「常しへの道」を読む

照る日曇る日 第77回

1972年2月19日のあさま山荘事件で警察官2名、民間人1名が射殺され、同年3月に群馬県の山林で12人、千葉県で2人のリンチ殺人が行なわれた。そしてこのすべての事件に直接かかわっていた坂口弘の2番目の歌集が、この「常しへの道」である。
その題名は、旧約聖書詩篇49章9節の「魂を購う価は高く、とこしえに、払い終えることはない」によっている。

坂口は、たしかにリンチに加担した。

途方もなきわれらの事件よ
主導者の独りよがりも
桁外れなりき

年雨量の三分の一が降れる日よ
銃撃ちまくれる
かの日思えり

腫れ上がる顔面といふより
膨れ上がる顔面といふべし
リンチの凄惨

坂口は、とても生真面目な性格の持ち主である。

新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国

人の為ししことにて
解けぬ謎なしと
信じて事件の解明をする

指導部の一員なれば
その罪を
組織に代わり負うべきと知る

坂口は、日々死におびえる死刑囚である。

おそらくは
妻子と離縁をせしならむ
苗字を変へて執行されたり

執行のありしこと知り
下痢をしぬ
くそ垂れ流し曳かるるはこれか

望みなき
わが人生の終点に
転車台のごときものはあらぬか

坂口には、愛する家族がある。

明日もしお迎えあれば
今際なる父の食みしごと
林檎食みたし

これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる

また坂口は、啄木を愛する詩人である。

気配せる
闇の外の面に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃きなり

屋上へ運動に行かむ
梅雨なれば
綾瀬川の水匂ひもすらむ

知らぬまに花茎を伸ばし
ふいに立つ
死神のごと彼岸花咲く

しかし坂口には、まだいうべきことがある。

かの武闘を
論外なりと言われしが
核心を衝く批判はされざりき

坂口の
死刑執行がまだされずと
不満を佐々氏が述べてゐるなり

死刑ゆえに
澄める心になるという
そこまでせねば澄めぬか人は

悪党といふ他はなき男はや
絞首刑されよ
とまでは言はずも

そして坂口は、昔のわたしに少し似ている。

演説のできぬ
左翼にありしかど
焚き付くるほどの怒りもなかりき



♪一日一恕の幸せを君に 亡羊

Friday, December 14, 2007

ある丹波の女性の物語 第34回 敗戦

遥かな昔、遠い所で第56回

 8月15日正午の終戦の放送は、ほんとにホットして開放されたという思いがした。
 灯火管制がなくなり、明るい電灯の下で、晴れがましいような思いで夕食を食べた。
 その記憶はこの間のように、ハッキリ思い出す事が出来るのに、その前後の事は、突然フイルムが切れて、何コマかがとんでしまったように思い出す事が出来ない。

 東京で一人で病んでいた夫を、父が迎えに行った事、大阪への転勤が決まり一時、東京の荷物を京都まで運び、その後綾部へ戻した事等が、どんな順序で、いつ行われたのか、どうしても思い出す事が出来ないのは、どうした事なのだろう。

 無我夢中の言葉をそのままに、とにかく長男を加えて、父、継母、夫、私の5人の、今までとは全然ちがった生活が始まったのである。

 そして食糧難時代もいよいよ本番を迎えた。食糧の配給はおくれながらも続けられたが、バケツ一杯の砂糖であったり、とうもろこし粉であったり、今までの主食の観念をまるきりかえてしまうような事もあった。

 それでも戦争に負けたのに、何の危害も加えられず、いままでの敵国から食糧が配給され、無事に日常生活が出来た事を、だれもが一応は感謝していた。

♪拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ


♪拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

Thursday, December 13, 2007

ある丹波の女性の物語 第33回 戦後、幼い子供達

遥かな昔、遠い所で第55回

 昭和19年に入るとあらゆる物が統制になり、店の営業は殆ど出来なくなってきた。これからは食べる事だけのために生きているという時代になったのである。

 綾部のような田舎でも灯火管制が行われ、町内会で防空壕を掘り、飛行機の燃料にと、男の人達の松根堀りの奉仕作業も始まった。

 20年に入ると都会の空襲は激しくなり、舞鶴の軍事施設も爆撃されて、綾部からも夜空に燃えさかる火の手が見られるようになった。

 私は毎晩、赤ん坊の長男をいつでも背負って逃げられるよう、枕元に衣類や負い紐を用意して寝たものである。

 貸していた畑を返してもらい、春にはじゃが芋を植えた。父と二人でじゃが芋の芽を切り分け、灰をつけるのであるが、何分馴れぬ事で、二百坪の畑の畝に適当に並べているうちに日が暮れてしまい、土をかぶせるのは又明朝という事にして帰った。

夕食もすみ、お風呂に薪をもやしていると戸をたたく音がする。畑の近くの人がわざわざ自転車で「芋は上に土をかぶさないと芽がでませんよ」と知らせにきて来れたのである。親切は嬉しかったが、父と大笑いした。


♪炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨

♪弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

Wednesday, December 12, 2007

ソープオペラ

♪バガテルop31&♪音楽千夜一夜第28回

さてお立会い。水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちしょんべん……
では皆さん、ここで小粋な住宅について考えてみると、縄文時代の早期はほとんど円形または楕円で、後期になると四角、弥生時代には竪穴から平床で西部では床が付きはじめる。んで、わが国に大きな影響を与えた大陸文化には床つきの住宅はなく、床は稲作と結びついて南方から入ってきた。平安初期までのお寺は土間に仏を祭っていた。しかし弥生中期に日本に渡来し国家統一を行なった北方系の……。

♪たりり、たら、たらん。
  頭の中で鈴が鳴る。

毎日毎日くだらない事件ばかりが続く。もういい加減にしてくれええ……

いきなり洪水のような下痢が一晩中続いたり、家族がそれに感染したり、でも面白くもない毎日を面白う住みなすことが人生だったりする、と高杉氏も遺言していたりするし、「たり」は繰り返して使います、とアホバカウインドウズが狂ったように警告したりするので、アホバカとは何ぞやとつらつら考えてみたりすると、馬を呼んでは鹿と呼んだり、鹿を呼んでは馬というたりすることらしいから、いよいよおいらはバガテル人間だあ。

ところで最近巷で極左冒険主義新聞という噂の某夕陽新聞を読んでいたりしたら、フィンランドでは通行証のことを「クルクルパ」というたり、あのルワンダでは唐辛子のことを「ウルセエンダ」と呼んだりするらしいので、おいらはフィガロの結婚の1幕だか2幕だかで誰かが「タスカリマシタ」と日本語で叫んだりしているのがいつまでも耳を離れなかった。

さて本日の結論
およそ現代のご立派な議論にあって、最後に誰かが「so what?」 と反問して一挙に崩壊しない程度にご立派な理屈は存在しない。

♪たりり、たら、たらん。
わが余生よ 安かれ!

so what?

Tuesday, December 11, 2007

ある丹波の女性の物語 第32回 継母

遥かな昔、遠い所で第54回

 私は翌年10月出産と分かり、夫を東京に残し綾部へ帰った。9月はじめと思う。

綾部へ帰れば食糧は何とでもなると安心していた私は、留守中の夫の為に、私の移動申告をしないで帰ってきたのであるが、帰る早々お米の配給がもらえぬと継母に非難され、ひどく困った辛い思い出がある。

なくなった母なら、古い馴染みを通して食糧の確保も容易であったろうが、来たての継母にはむずかしかったにちがいない。産み月せまった私にはどうしょうもなく、片身せまくみじめな思いをした。我が家でこんな思いをと情けなかった。

其の後、父も食糧係りとなり色々カバーしてくれたが、父をめぐる子と後妻との関係は、今まで経験した事のない感情だけに、そのむずかしさを日毎に痛感した。

 昭和19年10月16日、長男が誕生した。秋祭りの翌日早朝の事である。父の喜びはたとえようもなかった。私の3人の子供のうち一番華奢な体つきは胎内での食糧不足で致し方ないが、髪が長くて、女の子のような可愛らしい子であった。

 夫は交通事情も大変むづかしくなっていたのに、等々力で2人で作った大きい大根を土産に帰ってきてくれた。


♪くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    (注「ともし」は面白いの意。)

♪おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

Monday, December 10, 2007

ある丹波の女性の物語 第31回 本郷、青山、銀座

遥かな昔、遠い所で第53回

 日曜日には時々主人と共に本郷教会へ礼拝に出かけた。教会も階下は食糧倉庫になっており、礼拝を守る人数も少なくなっているので、会議室のような所で行われたが、安井てつ女史が黒紋付の羽織姿でいつも出席され、賛美歌の奏楽は大中寅二先生であった。

 昼食は牧師夫人が用意してくださる事もあり、青山5丁目の長兄宅に立ち寄りご馳走にもなった。長兄の家の隣に土屋文明先生のお宅があり、急に身近な人のように感じた。

 銀座へ廻る時もあったが、防空壕が出来るのか、舗道のところどころが掘り返されていた。綾部ではモンペ姿が通常であったが、道行く人は和服の着流しも多く、東京の人の方が余裕があるなとほっとしたが、レストランで出された大根葉のスープには驚いた。

 夫の長姉の夫は海軍主計中将であったので、お祝い事で水交社へ招かれた事がある。ここばかりは昔ながらのフルコースである。まだこんな世界もあるのかと、これにも驚いた。

或る日突然雀部の父が出張で上京し、歌舞伎座へ私達夫婦を招待してくれた。出しものは「菊五郎の襲」と「羽左ェ門の勧進帳」であった。幕際で六法を踏む弁慶の姿が忘れられない。戦前の歌舞伎座で今はない名優の芝居を見た。数少ない東京での豪華な思い出である。


♪十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

♪命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

Sunday, December 09, 2007

宮本常一著「なつかしい話」を読む

照る日曇る日 第76回

民俗学者の宮本常一が生前行なったいくつかの対談のアンソロジーでどこからでも読めて、どれも題名どおりに懐かしい気分につつまれるいわゆるひとつの「珠玉の名篇」である。

とりわけ面白いのは歴史家の和歌森太郎との幽霊対談で、実際には会ったことのない2人が仮想対談する仕組みもユニークだが、中身も面白い。

和歌森が網野と同様、いやもっと昔から化外の民や海民の重要性に言及しているところや、宮本が指摘する「山人の海民化」も興味深い。例えば古代のカモ部は、当初京都賀茂神社や大和葛城などの山中に住んでいたが、次第に瀬戸内海の島々などに降りてきたとか、長野県安曇の山民が滋賀県の安曇川などに降りていって海人部を宰領するようになったという。

「中世雑談」における宮本の「昭和25年の対馬では時計もなく、1日2食で、1日の時間としては朝と夜があるだけで昼がなかった」、時間の経過におそろしく無頓着だったという話も興味深い。わが国の大事な祭りはすべて夜であり、たいまつを焚き、夜を徹して行なわれるお神楽が終わって白々と夜が明けてくるその瞬間に、祖先は一期一会という言葉を実感したのではないかと説くのである。

さらに半農半漁の村でも漁業の民家はすべて田の字ではなく並列型であり、農業はすべて引き戸であるのに対して、後者ではしとみ戸であると指摘し、「衰弱した漁村」と見えるものもその実態は「陸上がりした漁業」であることを、その漁民の間取りに即して具体的に説明しているところには、柳田國男などの前頭葉偏重学者にはないきめ細かな観察と生きた思索の真価がよく示されている。

著者によれば、昔は夕方のいわゆる逢魔が時にはお互いに必ず挨拶をする慣わしがあった。もしも向こうがこちらの挨拶に答えてくれなければ、それは魔物だとされたそうだが、私などは最近朝比奈の峠で多くの魔物に遭遇したことになる。

では最後に、本書で紹介されているなつかしい昔話から、福島県の出稼ぎのをひとつ。

かかあが言うには、「おトト、おまえさん出稼ぎに行くともう半年も会わねいから」というてね朝っぱらから重なった。そしたらそこへ子供が出てきて「おトト、おカカ何してるんだて」。それでおカカ「バカ、トトは出稼ぎいぐんだいや。おまえはあっちいってろ」「あっちいってい、いうたってこんなせまいとこ、どこいくわな」「ニワトリ小屋いってえい」。子供はニワトリ小屋いった。そしたらニワトリもまたチョコンと重なっちもうた。子供たまげてとんできて「「トト、カカ、ニワトリも出稼ぎに行く!」一期ブラーンとさがった。

♪年毎に故人増えゆくアドレス帳

Saturday, December 08, 2007

ある丹波の女性の物語 第30回 等々力

遥かな昔、遠い所で第52回

 父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。

 私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。

 等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。

 綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。

東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。

銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。


♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえづり 聞きてうれしも

♪次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

Friday, December 07, 2007

ある丹波の女性の物語 第29回 谷中

遥かな昔、遠い所で第51回


父はその帰路、谷中の伯父の家へ連れて行ってくれた。そこは公然の秘密にはなっていたが、私の生母の兄の家であり、母の実家であった。

 上野の下町から坂を上がって行くと全くの住宅地があった。玄関をあけると「ガラン、ガラン」と大きな音がして驚いた。玄関の足元から各種の時計や美術品がいっぱいに散らばって並べてあった。

まるで骨董屋である。洋服屋と聞いていたが、まるきりそれらしいものは見当たらぬ。よくは分からぬが、ウェストミンスターと言うのか大きな時計が5分とか10分おきに、ちがった響きのある音で時をきざむので、その美しい音色には魅せられた。

広い庭は草茫々。小川が流れ、陶器を焼く窯があった。手彫りのテーブルの上に手焼きの食器が並べられ、そばをご馳走になった。

 伯父いわく「この戦争は必ず負けますよ。われわれはどうしても生きのびなければならない。私は洋服屋は止めましたが舶来の生地をシッカリ買いこみました。食料は勿論、ビタミン等の薬品類、それにダイヤ等も。あなたも有金全部払戻して必需品を買い込みなさい。」

私達はこの怪気炎にまかれて帰宅した。なかなかその真似事も出来なかったが、これが伯父と姪との最初で最後の出会いであった。


♪今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

注 谷中の伯父とは上口愚朗(作次郎)。明治25年谷中生まれ。小学卆後宮内省御用の大谷洋服店に弟子入り大正末期に「超流行上口中等洋服店」開店。江戸時代の大名時計の収集家としても知られる。旧邸跡地に現在大名時計博物館がある。

Thursday, December 06, 2007

ある丹波の女性の物語 第28回 結婚

遥かな昔、遠い所で第50回

 翌18年、京都のネクタイ工場は強制疎開でこわされてしまった。戦況は日に日に悪化していたが、国民には知らされていなかった。

 10月11日、東京本郷教会に於いて私は田崎牧師夫妻の媒酌により、根岸精三郎を養子として迎える事になり結婚式をあげた。

根岸家は倉敷市で古くから米問屋を営んでいたが、父は早死にし、店はすでに破産していた。

本人は兄弟姉妹合わせて11人きょうだいの七男であったが、その殆どが東京におり、元倉敷の牧師が仲人をして下さったのである。

精三郎のすぐ上の兄が綾部の丹陽教会へ伝道に来ていた事もあり、この話はスムーズにまとまったのである。結婚に先だって父は私をつれて上京、一応見合いをした。おとなしい養子タイプの人であったので、これなら父に従っていけそうだなと思った。


♪みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

♪七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

Wednesday, December 05, 2007

ある丹波の女性の物語 第27回 母の死

遥かな昔、遠い所で第49回

 昭和16年3月、寒い日であったが父は丹陽基督教会の代表として、綾部警察署に留置された。

母は病床にあったが、みんなが私を力づけてくれた。毎日食事を差し入れに行くお手伝いさんの「おはようございます。」と言う大きな声に、どれほど勇気づけられたことかと父は後日話した。

 「天皇は神である」と言えと毎日強要されたそうである。父は牧師や信者が拷問に会い多数獄死しているので、万一の時の死をも覚悟したそうであるが、一週間程で釈放された。

 そのうち、主食を始めとして食料品が切符制となり、さらに金属回収も始まり、火鉢、銅の屋根、お墓の扉まで供出した。

 昭和17年9月10日朝、番頭の兼さんが出征した。兼さんは出発の直前まで母の枕元で別れを惜しみ、母も、もう若くない番頭さんの身を案じ共に泣いた。

 父が二十連隊まで送っていった留守に母は息を引き取った。看護婦さんが座をはずし私が1人付き添っている時であった。

 「9月10日風静かにして姉ゆきぬ」
母の弟儀三郎は色々のおもいと共に、棺の中にこの句を入れた。体中の腫れがすっかりひき、美しい母の顔に戻っていた。数えて58歳であった。

 両親、夫、弟妹、家族全員に力おしみなくつかえた一生であった。かつての店員、お手伝いさん達も心からその死をいたんだ。
 優しい母であった。


♪陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし 

♪由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

Tuesday, December 04, 2007

ある丹波の女性の物語 第26回 結婚前後 

遥かな昔、遠い所で第48回


 幼い日の思い出は私の心の中でもう風化しているので、それなりに美しくなつかしいものとして蘇って来るので、あまり考える事もなくペンを進めて来たが、結婚前後、苦しい戦時中の事となると、何となくためらいがちになるが致し方ない。

 昭和14年頃は、一応戦局は勝ちいくさという事になっていたので、そんなに悲壮感はなく、京都まで出ると、外映も2本立てで古い映画が見られた。「舞踏会の手帳」のように美しい映画も見られたし、コリエンヌリシェールとか言う知的な女優の「格子なき牢獄」も封切られ評判になった。

 店をまかされていた母は、若い店員が皆兵隊に行ってしまい番頭さん一人となったため、お手伝いさんにも店を手伝わせ、なかなか気苦労の多い毎日であった。母はいつも「うちの旦那さんは床柱になるように生まれたお方だ。」と言っていたが、父はいくら貧乏しても下積みの暮らしはした事がないので、思いやりには欠けており、連れそうには人に言えぬ苦労があった。癇癪持ちの父に対等にズケズケ話せるのは、私位しかいなかったのであるまいか。

 母は以前から糖尿の気があり、自分で検尿し、インシュリンを注射していたが、だんだん薬も入手出来にくくなり、腎臓炎を併発、血圧も200を越すようになり、臥せり勝ちになった。

 国民服と言うのが出来、ネクタイも贅沢品ということにはなったが、まだ製造はつづけており、自然私が履物店を守るようになった。

 大政翼賛会が発足し、公務についている人は入会し、川で禊をするような世の中になった。戦争をすすめて行く為には国粋主義を掲げ、国民の気持を一つにまとめて行かねばならなかったのであろう。思想、言論の自由は失われていった。時代の流れに押しつぶされてしまわない為には、一応時代の波に沈まぬよう、たゆとうて自衛するより外なかったのである。

♪師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ    「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

♪母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

Monday, December 03, 2007

網野善彦著「無縁・公界・楽」を読む

照る日曇る日 第76回

いまから四十年の昔、「なぜ平安末・鎌倉時代に限って偉大な宗教家が登場したのか?」と都立北園高校の1生徒に問われた著者は教壇で絶句してしまう。
しかしその難問に対するおよそ10年後の回答が、中世のみならず日本史全体の書き換えをうながす「革命的な」著作の誕生につながった。それがこの「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」である。

 著者はまず平安末・鎌倉は、非農業的な生業の比率が比類なく高まった時代であるという。供御人、神人、寄人など多様な職能民の集団が、天皇・神仏の直属民として、課税・関料を免除されて活発に活動し、天皇・神仏の奴婢と自称する彼らは、俗世の政治権力に対峙しつつ独自の「聖性」と権益を獲得しつつあった。

またそれと平行して、平民百姓の中にも海民、製塩民、鵜飼、山民、製鉄民、製紙民などの非農業的な生業をいとなむ人々が急増していた。

「百姓」とはその名が示すとおり、農人以外の商人、船持ち、手工業者、金融業者などの平民を多数含んでいた。彼らの多くが堺、中州、川中島、江ノ島などの都市に住み、交易、商業、流通、金融の経済活動を、時の権力から一定の距離をおきながら、独自の自由で平和で初期資本主義的生活を営んでいた。そして非農業的な彼らが生息していた場所こそが、世俗との縁が切れた「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた空間であった。

彼らの生産物は、いったん聖なる場=「市庭」に投げ込まれてはじめて「商品」となる。そしてその商品が商品交換の手段としての「貨幣」として神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極地とも言うべきその交換機能を果たすことになる。

わが国では、弥生時代以降13世紀までは米、絹、布など、13世紀以降は銭貨、米などがそのような貨幣の機能を果たした。
さらに貸付によって利子をとり、多くの職能民の労働力を雇用して建築土工事業をいとなむための「資本」も神仏の物として蓄積されていくが、そうした巨大な事業を推進経営できたのは中世では絶対権力から「無縁」の勧進聖、上人だけであった。

このように商業・金融などの経済活動はきわめて古くから人の力を超えた聖なる世界、神仏と深くかかわっていた、と著者はいう。

ちなみに、鎌倉時代の治承2年1178年に書かれた「山楷記」には銭を用いた出産時の呪法が紹介されている。
父親は手に99文の銭を持ち新生児の耳に「天を以って母とし、金銭99文を領して児寿せしむ」という祝詞を3度唱える。その後産婦がへその緒を切ると父親は児の左手をひらき、「号は善理、寿千歳」とまた3遍唱える。ここで乳付けが行なわれ父親はさきの銭袋を枕元において儀礼が終わる。
このように出産や埋葬に銭が使われるのは銭が生命を育む大地とつながっていた証であるという。

そして13世紀から14世紀にかけて、この「無縁」「公界」「楽」という舞台で銭貨の交換と資本蓄積によって大きな経済成長を遂げ、「悪党」や「海賊」とも蔑称された彼ら自由民たちの「重商主義」路線は、商業・金融を抑制しようとする権力者側の「農本主義」と政治的・思想的に鋭く対立することになる。

そうしてあくまでも自由を求めてやまないこの「悪人」を積極的に肯定し、自らもその渦中に身をおいた法然、親鸞、一遍、日蓮など鎌倉仏教の始祖たちがこの未曾有の乱世に陸続と登場することになった。

14世紀から15世紀にかけて禅宗、律宗は幕府と結びついてその立場を確立したのに対して、15、16世紀には真宗、時宗、法華宗もその教線を拡大し、とくに真宗は教団として大きな力を持つにいたり、都市型自由民の反逆の戦いとして知られる一向一揆の原動力となるが、最終的には「無縁」「公界」「楽」の重商主義の旗に結集した平民の初期資本主義的・原始宗教的エネルギーは、農本主義を旗印にした世俗権力(織豊政権と徳川幕府)のゲバルトによって圧殺されていったのであった。

私はこの本を読みながら、学問の厳しさを思った。
「武家と朝廷の専制と圧制と抑圧と課税にあえいでいたはずの農民に、いったいいかなる自由と平和があったのか? あれば教えてほしい」というほとんどすべての歴史研究家の嘲笑と否定的評価を、敢然と受けて立った思想家の孤独を思った。

しかし不撓不屈の独創的な反権力者によって営々と書き継がれたこの本は、「学問とは何か?」「学問には何が可能?」という私たちの問いかけに対するひときわ鮮やかな回答でありつづけている。

♪真夜中に武者共喚きて切りかかる物音がする谷戸の冬かな

Sunday, December 02, 2007

ある丹波の女性の物語 第25回 京都へ

遥かな昔、遠い所で第47回


 翌昭和13年春、綾部高女を卒業した私は、京都府立第一高等女学校補習科に入学した。
 
 一学期は銀閣寺近くの寄宿舎に入った。綾部からは薬屋さんの娘さんと二人であった。朝寝坊すると電車では間に合わなくなり、荒神口まで35銭也のタクシーをよく利用した。5人も乗れば市電並みであった。

 「柳橋をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」
春の京阪沿線の鴨川ぞいは和歌の通りに美しく彩られる。私は一寸心にいたみを覚えつつも京阪電車に乗って、実母の待つ桃山へ心はづむ思いで出かけたものだった。

 学校の選択科目には、裁縫、英語、数学、国語があった。私は無条件で国語をえらんだ。
私達4人は源氏物語、枕草子、万葉集などを膝を交えて学んだ。私は紫式部より清少納言に魅力を感じた。万葉集の大らかさに感動し、自然、明星の華やかさより、アララギ派が好きであった。墨汁一滴も輪読した。今の私には、明星の歌にも心ひかれるものが沢山ある。年を重ねた故であろう。

講師として京大から美術の源先生、心理学の岡本先生が出講されたがいずれも、ていねいな講義であった。法隆寺へも案内していただいた。玉虫の厨子はハッキリ覚えているのに、うす暗かった故か壁画が思い出せぬ。もったいないようなあの機会に、どうしてもっと真剣に学ばなかったのかと悔やまれる。

 戦局と共に軍の衿章作りの奉仕や、炊き出しの訓練も行われた。2学期からは父の紫竹のネクタイ工場から通う事になった。
 秋には九州への修学旅行があったが、母の病気の為私は綾部へ帰った。母は追々弱って行くのである。

♪築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

♪手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

Saturday, December 01, 2007

ある丹波の女性の物語 第24回 修学旅行

遥かな昔、遠い所で第46回


 そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。

 昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。

 山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
 東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。

上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。

♪老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

Friday, November 30, 2007

♪2007年11月の歌

♪ある晴れた日に その17

学校の帰りの電車で歌いつつ踊る少女を好ましと見る
天高く鳥に告げたり残し柿
何事もなき一日ではなけれども何事もなく今日も暮れたり
斑鳩の法隆寺より柿届く子規が好みし美味しその味
柿食えど鐘は鳴らずに喰らいけりその法隆寺より送りこし柿
鐘ひとつ聴こえぬままに喰らいけりかの法隆寺より送りこし柿
バーキンにもらった飾りでクリスマス
大地震来たれば山のこの芝を燃さば大丈夫とわが妻は言う
よろばいて地低く飛ぶやヤマトシジミ
すれすれに籬の上を越えていくヤマトシジミの後姿よ
人知れず灰色の歌をうたうなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
低き声で過ぎし昔を偲ぶなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
ソット・ヴォーチェで過ぎし昔を歌うなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
障碍者の介護に追われし三十年まだ海外に行けぬわが妻
プールには死体がひとつ浮いている
鎌倉や私の好きな古い家
鎌倉やカメラを禁ずる寺院あり
鎌倉や会うのは老人ばかりなり
瑞泉寺節子が棲みし庵あり
鎌倉や家建てる人こぼつ人
ジャックタチによく似ていた今は亡き僕の鎌倉の伯父さん
あらホントでもそんなことどうでもいいのよ
五の指を綺麗に伏せて眠る妻
人を怒鳴り黒き胆汁流れ出す
わが怒り黒き胆汁流れ出す
累々と死骸並ぶや秋の道
立冬や犬の絵を描く男あり
立冬の夜に死にたる屁こき虫
鳴きながら死んでしまった油蝉
油蝉ムンクのように叫んでいる
丸ビルをダイナマイトで爆破して元の姿に建て替えるべし
この色とこの形に惹かれてかすべての人は烏瓜盗む
何故にそなたは烏瓜に手を伸ばす橙色の卵に惹かれて
80にも90にもなりて自らを僕と書ける人の図太き神経
さびさびと霜月朔日にセミが鳴く
妻子去り寡暮らしの家ありて2階の窓にベゴニア咲きたり

Thursday, November 29, 2007

続・NHKが好き

♪バガテルop30

 昨日NHKには多少の知性があるが、民放にはそれもなくて痴性しかないと暴論を吐いた。しかしそれにはそれなりの原因がある。ドラマにせよ、ニュースにせよ、NHKと民放では制作費のスケール、そして制作費の大元である経営母体の売り上げが違うのである。

例えば民放首位のフジテレビの06年度の総売り上げは5826億、日テレ3436億、テレ朝2511億に対して、NHKは単体でも6432億、これに加えてNHK子会社は2310億の受信料収入予算をもって世間のよいこの皆さんに純良番組を提供している。
だから、その大半が民間企業からのCM収入に依拠している民放が、もしも本気でNHKの大河番組やスペシャル番組に挑んでも、はなから勝てるわけがないのである。

 もしも民放がNHKのような「世のため人のためになる番組?」を真剣につくったとしても、テレビを玩具にしながら自らも資本のペットと化しているあほばか大衆の視聴率は取れないし、取れなければ売り上げが減って会社がつぶれてしまうので、民放はますますあほ馬鹿番組の制作に血道をあげ、かくて我ひとともに文字通りの白痴となって亡国の道を疾走するしか能がないのである。

スポンサーと巨大広告代理店だけが神様である民放には、そもそも表現の自由も真実を追い求めるジャーナリズムもへったくれもはなから存在せず、普通の企業と同様の単なる熱烈な利益追求会社であるにすぎない。その点では、南京虐殺番組ひとつをとっても政府御用達のNHKのほうがまだましなマスメディアである。

聞けば、NHKの番組受信料が高すぎるからもっと安くせよ、と総務省の役人が迫っているようだが、私は年間1.5万円くらい払い続けても構わないからNHKはあまり視聴率を気にせず、いまのままでそれこそ粛々と番組つくりに精出してほしいと思っている。

問題は、あほばか番組に狂奔する民放である。

NHKは有料だが民放は無料だと思っている人がいるかもしれないが、トンでもない。06年度のテレビ広告費2兆円の実態は、すべてトヨタやサントリーや資生堂やソフトバンクなどの大企業の広告宣伝費であり、その膨大な経費の大半は、私たちが購入するカローラやウーロン茶や白つばきや携帯の価格に全額転嫁されている。

では具体的にどれくらいの金額なるのか計算してみよう。
さきほど述べたように06年のテレビ広告費はおよそ2兆円、これをわが国の総所帯数約5000万で割ると1軒当たりおよそ年間4万円を私たちは身銭を切って負担していることになる。ちなみに現在あほ馬鹿民放局は東京だと5局あるから、われらあほ馬鹿視聴者は、1局あたり年間8000円も投じてあほ馬鹿番組の制作に全面協力していることになる!

このように民放のあほばか番組は、私たちのとぼしい財布のお金を原資として、どこの誰とも知れないあほばかプロぢゅーサーとその奴隷的抑圧のくびきにあえぐ低賃金労働者たちがせっせせっせと製作しているのだから、私たち納税者ならぬ第1次スポンサーは、もっと声を大にして彼らの視聴率第1主義と拝金主義、ならびにその非人間性と低俗性と死に至るニヒリズムをテッテ的に攻撃し、「私たちが本当に見たい番組」をつくらせるようにダンコ要求するべきなのである。っっと。

もっとも「その私たち」が本当に見たい番組が、あの「オーラの泉」や「ズバリ!言うわよ」であるならば、それこそ「なにをかいわんや」なのですがね。


♪天高く鳥に告げたり残し柿

Wednesday, November 28, 2007

NHKが好き

♪バガテルop29

私は何を隠そう民放テレビ大嫌い、NHK衛星放送大好き人間である。その理由はいままでさんざん民放テレビで放送される番組、ではなくて、その番組のおまけで放映されるCMをさんざんつくってきたので、もうCMなんか二度と見たくもないからである。

CMのない番組といえばNHKしかない。そこで朝から晩までNHK、特に衛星放送のニュースと大リーグ野球と海外ドキュメンタリーとよいこの童謡とちりとてちんとFMと映画とクラシック番組を鑑賞し、あとの2種類についてはすべて録画してDVDに収めている。
恐らくその大半は墓場の中でゆっくり鑑賞することになるだろうが、それがまあ私の唯一の趣味といえば趣味である。

私はニュースもCMがみだりに乱入しないNHKの、とくに衛星第一放送の定時放送を好む。理由は第一に私の好きな冷たい美貌のひらゆき姫が出てくるからだが、美形の女子アナにかまけているのは民放も同様だから、この点ではあまり大きな違いはない。思えば80年代のテッド・タナーのCNNがこの素敵な悪趣味を先導したのだ。

理由の第二は、NHKが報道価値が高いと彼らなりに判断した価値観の順番にしたがって、つまり重厚軽薄の濃度の順に、それなりの報道人らしい秩序と規律をもって、事実だけをたんたんと普通の日本語でアナウンスするからである。

多くの民放テレビのように、ニュースと娯楽、犬と猫、味噌と糞とを混同したり、脳天を直撃するような金切り声(特にフジテレビの女子アナ)で絶叫したりしないからである。

番組の最中に食事をしたり、セックスしたり(はしないか)、実際にはその場にいないはずの人物の品格皆無の馬鹿笑いが聞こえたり、いったいどこが面白いんだか食えないメニューを美味そうに食うという虚偽を演出してぬか喜んだり、「実食!」などと奇怪で醜い造語を乱発したり、平気で漢字を間違えたり、それを絶対に訂正してお詫びもしなかったり、ナレーションの7割を体言止めにしたりしないからである。

そして第三に画面のレイアウトが、きれいとまでは言わないが、まずは普通でおとなしいからである。民放の白髪3千丈風の扇情的なテロップ、まずい食い物をマイウーとうなり、腹の中では驚いてもいないのに、ウソオーとおどろいて見せ、まともな情報は皆無でもこれでもかこれでもかと羊頭狗肉を叩き売り、朝のテレ朝の時刻表示の人を馬鹿にしているような異様な大きさを見よ!

民放のほとんどの番組は、私のような棺桶に片方の足を突っ込んでいる超保守的視聴者にとっては糞であり、奇体なガジェットであり、空虚なごらくであり、文字通り無意味な、死せる映像と音声の氾濫である。こんなもん全局今日の午後に突然なくなっても、おいらはちっとも構わないぜ。

ではあるが、しかし民放がぜんぜんだめかというとそんなこともなくて(笑)、先日ビートたけしが主演する松本清張原作のテレビドラマ「点と線」を見て、久しぶりに面白かった。

 昔原作を読んだときには1番線から15番線の間に4分間だけ見通せる時間帯があると思っていたのだが、13番線から15番線だというので、それなら40分くらい空白の時間があったのではないかと思ったりしたが、それもやはり私の寄る年波にせなのであろう。

しかし惜しむらくは演出がまるでゆるかった。音楽もおざなりであった。あれだけ制作費を投入するなら、せめて霊界で暇をもてあましているだろう野村芳太郎とか内田吐夢に演出させ、伊福部昭か武満徹に曲をつけさせたかったと思うのは、私だけだろうか。

Tuesday, November 27, 2007

吉本ばなな著「まぼろしハワイ」を読む

照る日曇る日 第76回

「だってさあ、天国に行っても、きっとお酒は飲めるし。でもそこにはきっと順番はないの。きっとさ、思ったことがさっと叶うんだよ。父さんと母さんはそういうところにいるの。きっと。まわりの空気がゆっくりと甘くて、包まれてるみたいで、ハワイみたいなところだよ。こんなところに行きたいと思ったらひゅっと行けるし、私たちの顔が見たいと思ったら、すぐに来れる。順番はないんだよ。そこには。靴をはくにはひもを結ばなくっちゃってことはないのよ。きっと。」
姉さんは言った。(同書p167)

著者の日本語は、いつものようにわれらにしみじみとした滋味豊かな世界を髣髴させてくれる。登場人物の表白のあとに、どの人物がその主体であるかをあえてことごとしく明示する文体もそれなりに個性的であり、最近朝日新聞での連載が終わった萩原浩?の座敷童子?やその後で始まった長島有?の(私にとっては)たったの1行すら読むに値しない小説の無残な出来栄えに比べれば、まるで月とスッポン、雲泥の違いである。


それはともかく、両親自殺や交通事故で奪われ、地上に残された子供たちが死者を忘れるために訪れ、しかし死者の思い出に引きずり込まれ、最後に再び死者たちの記憶から解放されて新しい人生に旅立っていく。それが常世の國ハワイである。らしい。

私はまだ一度も行ったことはないが、著者自身にとっても、ハワイはこの世の天国であり、もしかするとこの世とあの世をつなぐ生と死の通い路なのであらう。

たしかに南国には無数の精霊がいるだろう。しかし著者は1941年に死んだ真珠湾の兵士たちの亡霊の存在だけは都合よく忘れてしまっているようだ。

私はハワイと同様グアム、サイパン、ロタなど今なお祖霊彷徨う戦死諸島に、なんら心のひっかかりさへ感じないであほ馬鹿観光に行く日本人が大嫌いだ。

しかし、世の中にはいろいろな障碍があって海外旅行など一生できない数多くの人たちがいるというのに、思いついたらハワイへ「ひゅっと行ける」人が超うらやましいな。

それにしても、ばななはどうしてこうも親を死なせる小説を書くのだろう。もしかしてファーザーズコンプレックスの持ち主なのだろうか。

ふたたび本書の引用をして終わろう。

「飲みに行ったとしましょう。居酒屋に行く、座る、マスターに挨拶、メニューを見る、飲み物から決める、相手がいたら相手とおつまみを相談する、そして注文して、それがひとつずつ来て、食べる。それが生きてるってこと。死んだらできない唯一のこと、つまり順番を追ってきちんと経ないと進まないってことだけなのよ。現実は。」
姉さんは言った。

Monday, November 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第23回 前田先生

遥かな昔、遠い所で第45回

若い日の私に一番影響をあたえたのは前田先生であろう。先生は日毎に軍国主義になって行く事への不安と批判を語られた。そして私が感じている家の宗教としての基督教への不満にこたえてくれる、唯一の人であった。

 作文は新任の横田先生が来られ、前田先生は本来の歴史の先生に戻られた。
 横田先生は前田先生のようには心酔出来なかったが、私がだんだん万葉集にひかれていったのは、この先生の影響であったろうか。時々先生は酔ったように万葉の歌を詠じられた。

 大本教弾圧につづいて、2、26事件、そして日中戦争と、大きな事件が一番感じ易い時代に次々と起こった。しかし私は幼い時からの基督教的な影響や、物事を冷静に正しく見る目を前田先生に養われていたから、時流に流される事はなかったと思う。前田先生に学ぶ歴史教室は一般教室から独立していたから、遠慮なく時局の動きに就いても正確に話してもらった。

 年号の暗記は意味のない事だ。教科書に書いてある事は自分で読めば分る。歴史の勉強とは、正しい目で事件の本質原因を究明し、結果を勉強する事だと教えられた。教科書問題を裁いた今の裁判官にもきかせてやりたい言葉だ。
その間には、京都でみて来た洋画の事や、新刊の本等の事も面白く語られ、いつも実に新鮮で興味深かった。先生の時間は楽しみで、みんな生き生きと、目をかがやかせて聞き入ったものだった。

 時局柄そうせねばならなかったのであろうが、校長先生以下国粋主義を高揚される先生方の中にあって、前田先生は全く異色の存在であった。
 先生は独身で長身、音楽が好きで、すべての点でみんなの憧れの的であった。時には孤独な身の上を語られた。また若い日に病を養いながら、日蓮宗に夢中になり、禅宗に凝り、
プロテスタントからカトリックへと動いた心の遍歴をも語ってくださった。

 信仰は与えられるものではなく、自ら求めるものであると思い、幼い日からの自分の信仰に贅沢な悩みを持っていた私は、かたくなな心がとききほぐされてゆくようなものを感じた。
先生は悩みを聞いて解決策をあたえるのではなく、聞く事によって心の重荷を軽くして下さる方であった。「病弱な自分は二十九歳まで生きられたら充分であると思っている。」等と話されると、同情も加わって、先生の人気は尚上昇した。


♪もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

♪おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

Sunday, November 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第22回 大本教弾圧事件

遥かな昔、遠い所で第44回

 一番小さい店員さんが、満豪開拓少年団に入隊していったのもその頃だった。
 女学校でも毎朝、朝礼で軍時色の濃い歌を斉唱するようになり、月の何日かは日の丸弁当を持参するようになった。日中戦争が進展し、占領のたびに提灯行列が行われた。

 しかし女学校時代の一番強烈な事件は、やはり昭和10年12月の「大本教弾圧事件」であった。
 夜明け前に突然物々しい警察の機動隊が大本教本部を襲った。町民は何の事かと分らないまま物すごい足音に目をさました。

 通常どおり女学校の授業は続けられたが、すぐ近くで行われるすごい破壊力には肝をつぶした。五重の塔の屋根も大音響と共にサカサにひっくり返り飛んでしまった。すべての建物はこわされて行った。私はその地響きと、恐ろしさを身近で体験した。

 その頃、大本教は本宮山に十字型の長生殿を建設中で、王仁三郎さんは駕籠で上がり下りしていた。教祖は市の瀬に土まんじゅうのような墓所にまつられていたが、不敬罪という名のもとに弾圧が行われ、教主、信者多数が投獄されていった。
あまりのすさまじさに、言葉もなかったが、何だかとても大きい権力が、おおいかぶさって来るような恐ろしさを感じた。

♪花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

♪なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

Saturday, November 24, 2007

ある丹波の女性の物語 第21回 金丸先生

遥かな昔、遠い所で第43回

 近くのお菓子屋さんに下宿していた作文の金丸先生は、ずんぐりしてみかけは悪かったが、私を可愛がってくれた。

作文の研究発表会というのがあり、府下の先生達の教材に私の作文が選ばれた。橋立への修学旅行の感想文だったと思う。私はその頃かぶれていた吉田絃二郎風に書いたので、テレくさくて「どんな気持で書いたか」と言う問いに、しどろもどろになり、何と答えたのか分らなかった。

金丸先生は一年の三学期の初めに、大阪城の資料館の館長になり綾部を去られた。ニコニコした丸い顔と、マグロのさしみのような唇が印象的だった。

 その後任に前田先生が入って来られた。初めての授業の日、教壇をうつむいて動物園の熊のように行ったり来たりされた。「この新米先生、テレてるな」小さくて前列に並んでいた私はそう思った。
 これが前田先生との初めての出会いであった。

 満州国の建国もあり、世の中は動き出しているのに、私達はあまり関心がなく、友達と宝塚に夢中で、福知山線で宝塚歌劇をよく観に行った。男装の麗人、小夜福子と葦原邦子が人気を二分していたが、私は一寸しぶい汐見洋子が好きで、当時騒がれたターキー等はわざと観にいかなかった。

 父はチャップリンの「街の灯」とか、新劇の「綴方教室」「オーケストラの少女」とか、話題に上がるようなものは京都へ観に連れて行ってくれた。またヘレンケラー女史の講演会にも、学校を早退させ大阪の扇町教会で一緒に聞いた。


♪なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

♪わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

Friday, November 23, 2007

エドワード・ラジンスキー著「アレクサンドルⅡ世暗殺」を読む

照る日曇る日 第74回

ロシアを代表する人気作家エドワード・ラジンスキーが書いたロマノフ朝第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世の治世とその暗殺を描いた、上下巻あわせて750ページのドキュメンタリー超大作である。

ロシア文学は好きだが、ソ連とかスターリンとか日ソ不可侵条約の侵犯とか、この國の暗くて寒くて陰湿きわまる国家社会の内幕には、ロマノフ朝も含めて興味も関心もなかった私だが、読んでみると非常に面白かった。

そもそもロマノフ王朝はそれまでの混乱と対立に終止符をうってかのピヨートル大帝が1682年に創生したというのだが、1725年大帝の死後この偉大なる王朝を継いだエカテリーナ1世の前身は、なんとバルト海岸に住んでいた美しい料理女マルタであるというから驚く。

エカテリーナ1世の死後、当時全権を掌握していた近衛兵に担がれて帝位を継いだのは、そのエカテリーナ1世の娘エリザベータであったが、彼女はピヨートル大帝の子ではなく、マルタの夫の子であった。
エリザベータは自分の甥を皇位継承者に任命し、このピヨートル3世に妻となるドイツの公女エカテリーナ2世を娶わせた。しかし勇猛な近衛兵アレクセイ(および近衛兵軍団)と結託したエカテリーナは、気弱な夫を暗殺して彼女の王朝を独占した。2人の間に生まれた皇子パーヴェル1世はエカテリーナの情夫アレクセイとの子供であったといわれる。

してみれば偉大なるロシア史に燦然と輝くロマノフ王朝には、じつは無名の料理女の好色な血が脈々と流れてきたことになる。ロマノフ王朝打倒を目指したデカブリストたちはこの王朝の世紀の秘密を知っていたのかもしれない。

それはともかく、この本を読むと、夭折した天才プーシキンをはじめ文豪ツルゲーネフオブローモフ、トルストイ、チエーホフ、そしてドストエフスキーが生きて愛して死んだロシアという國の文化的風土というものがなんとなく分かったやうな気になる。

さうして嘉永の黒船来航から明治維新を経て西南戦争後の、つまりは日露戦争にいたるまでのこのロシアという大國を覆っていた封建制、政治的専制、農奴制、社会的後進性などの重苦しい風圧を体感することができる。やうな気がするのである。

さらには、農奴制を廃止しただけではなく、憲法発布にも鋭意取り組んでいた「英明なツアーリ」アレクサンドル2世が、自らの保身のためとはいえ、なぜ自らの首を絞めるような進歩的な自由化改革を進めたのか、さうしてその結果ナロードニキの台頭を許し、彼らの決死的自己犠牲と革命的テロルの犠牲となって王座を血まみれにして哀れな最期を遂げるにいたったかが、私の黄昏色の薄ぼんやりした脳みそにもかすかに理解されてくるからまっこと不思議である。げに恐ろしきロシアン・ドキュメンタリズムの勝利というべきか。

アレクサンドル2世は、6度繰り返された暗殺の魔手をそのつど間一髪逃れてきたが、不撓不屈のテロリストの通算7回目の企てによって、占い師の不吉な予言どおり明治14年(1881年)3月1日ついに暗殺された。

その朝必死に外出を止める新婚で最愛の皇妃エカテリーナを「公邸で陵辱する」ことによって沈黙させ、彼は死出の旅に出るのだが、最初のダイナマイトの爆発からかろうじてまぬかれたにもかかわらず、他の複数のテロリストが待機している現場を立ち去ろうとせず、ついに2度目の爆発の犠牲者となってしまう道行は、さながら飛んで火にいる蛾のように不可解であり、もう少し賢明に振舞っていれば、隻脚を失ったとしても恐らく一命を取り留めていたに違いない。

この日皇帝のおびただしい出血で血まみれになった冬宮の大理石の廊下と階段を、靴やズボンを祖父の血で汚しながら連れてこられた13歳の少年がいた。
その少年ニキは、おびただしい血の中で皇太子ニコライとなり、成人して大津で日本の巡査のサーベルで血にまみれ、そして1917年に真っ赤な血の中でロマノフ王朝最期の皇統を絶たれるのである。

当時アリーヨシャがテロリストとなる「続カラマーゾフの兄弟」を執筆していたドストエフスキーは、アレクサンドル2世が暗殺されるわずか2ヶ月前に亡くなった。
書斎で落としたペン軸を拾おうとして重い書棚を強引に動かしたために血を吐いてその完成を見ることなく、あっけなく死んでしまったのである。
ドフトエフスキーの部屋の隣には、暗殺の実行犯たちのアジトがあり、晩年の作家はテロリストたちと交流しながら続編の想を練っていた、と著者はほのめかすが、それは恐らく眉唾だろう。

しかし著者が記録するドフトエフスキーの最期の姿は、皇帝アレクサンドルの最期と同じように私たちの胸を打つ。
死の当日、彼は流刑されたデカブリストの妻たちが昔彼に贈った福音書をアンナ夫人と息子のフェージャに差し出し、有名な「放蕩息子の寓話」を声を出して読むように頼んだ。   そしてそれが終わると、彼はこう言った。

「子供たちよ、ここでたったいま聞いたことを決して忘れてはならない。主に対する一途な信仰を守り、主の許しを決してあきらめてはならない。私はお前たちをとても愛している。しかし私の愛も、主がみずからおつくりになったすべての人々に対する無限の愛と比べると、無も同然だ。忘れないでほしい。お前たちが生きているうちに犯罪に手を染めることがあったとしても、それでも主に対する希望を失ってはならない。お前たちは主の子供であり、お前たちの父に対するように主に対してへりくだり、主に許しを乞いなさい。そうすれば主は放蕩息子の帰還を喜んだように、お前たちの悔い改めをお喜びになるだろう」

ドストエフスキーが死んだというニュースは、瞬く間にペテルブルグ中を駆け巡り、彼の住居はまさに聖地巡礼の場になった。さうして死んだ作家の顔に見えるのは死の悲しみではなく、よりよき別の生の曙光だった、と伝えられている。

Thursday, November 22, 2007

ある丹波の女性の物語第20回女学生時代

遥かな昔、遠い所で第42回
 
「大学は出たけれど」と言う言葉が、流行語になるような就職難時代がやって来たけれど、私は相変わらず暖かい家庭に包まれていた。お茶の稽古に行き、初釜と云うと訪問着や絵羽織を作ってもらって喜んだりしていた。

 春には両親と揃って醍醐の花見に行き、黄檗山で普茶料理をいただいて、夜は都踊りを楽しむような何年かが続いた。父には絶対服従の母の楽しみは十二月の顔見世見物で、昼夜通しで見たあと、翌日は岡崎へ文展を見に行くのが恒例であった。

 私は昭和8年4月、京都府立綾部高等女学校へ入学した。近在から入ってくるのは村長さんか、郵便局長さんの娘さん位で、小学校の同じ組からも10人もいなかった。
 後で知った事だが、同級生の中には500円で芸者の見習いに売られた子もあったという。その頃、女学校の授業料は年間35円位、寄宿舎は1ヶ月食事を含めて10円だったと思うが、授業料の催促で事務室へ呼ばれている人もあった。先生も余っていたようで、文系の先生は京大大学院出の優秀な先生であった。

 不景気風と共に軍国主義が徐々に強まって来たがまだまだのんびりした時代であった。夏休みには丹後の小天橋に学校の臨海学舎が開かれ、私も参加して泳ぐ事を覚えた。夜になると浜辺の松林をうなりを立てて風が吹き荒れた。生まれてはじめての親と離れての経験だったが、夜はキャンプファイァーに興じたりした。友達同士の1週間は楽しかった。

 12月23日は街に待った皇太子誕生で、みんな素直に喜び、行動で「皇太子さまあ、お生まれえなした」という歌を斉唱した。


万葉植物園にて棉の実を求む
♪棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

♪いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

Wednesday, November 21, 2007

長楽寺跡を偲ぶ

鎌倉ちょっと不思議な物語90回

長楽寺はかつて長谷211番地から225番地にあった廃寺で、文応元年1260年の大火事で焼けたそうだが、その場所は、つい先日まで中原中也展が開催され、その庭園に秋バラが咲き誇っていた鎌倉文学館のすぐ傍にあった。

『鎌倉志』によればこの寺には法然の弟子で隆寛という僧が住んでいたという。『日蓮聖人御遺文』『日蓮上人註画賛』に、日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がこの寺にいた、とあるのは、この隆寛のことではないだろうか。

以上は主にわが枕頭の書『鎌倉廃寺事典』をからの孫引きだが、もっと耳よりな情報がある。それは昔むかし、この文学館の入り口の小さな寿司屋で、若くして亡くなった人気女優Nと流行作家のIが夜な夜な逢引していたそうな。

このI氏はまごうかたなき短編の名手であるが、長編は苦手である。というのは彼は一刻も早く連載を終えて賭け事や遊びに飛んで行きたいので、あまり長くなるとプロットを忘却してしまい、死んだはずの登場人物が突如現れたり、その逆がかなりの頻度で起こる。

これは実際私が週刊新潮の連載で体験したことであるが、読者はみんな忙しい。昨日の新聞や先週の週刊誌などをひっぱりだして再確認する暇人などおそらく1000人に一人もいないだろう。それに、そもそも小説など真面目に読む人などほとんどいないので、登場人物が死のうが生き返ろうがどうでもいいのである。

そんな次第でI氏には本人にも復元が難しい数多くの幻の長編小説があるらしい。廃寺事典ならぬ廃文事件である。

Tuesday, November 20, 2007

ある丹波の女性の物語 第19回

遥かな昔、遠い所で第41回

 座敷が新築されてから、基督教の伝道に来る先生方の宿を進んでするようになり、賀川豊彦先生は5、6度も泊まられ、その他本間俊平先生など多数の先生方が宿泊された。
 今の世も何かを求める時代と言われるが、当時賀川先生の講演会等は、公会堂も超満員で、その場で受洗希望者が聴衆の中から沢山進み出た。

先生は燃えるような人であった。胸を病んでおられたから、いつも柱にもたれていられたが、睡眠時間は短く、祈りの人でもあった。父は冷静な学者タイプの先生より、行動派の先生に傾倒したようである。
今の生協の基となった「生活協同組合、共益社」を作り、父は組合長になり、日常生活品や賀川服等も一時売っていたように思う。

 私には幼児洗礼を受けさせ、物心つく頃から日曜学校に通わされたが、いつも何となく批判的で、父の祈りにこたえる事の出来ないような子であった。何か悪い事をすると親に詫びる前に、祈って神に許しをこわねばならぬのには閉口した。教育にも熱心で、玉川学園の小原国芳さんの教科書を取り寄せたり、小学生全集も揃えてくれたが、病後ハネ廻って遊ぶ事の出来なくなった私は、自然隣の本屋に入りびたり、本屋の小母さんに可愛がられることを良い事に、列んでいる雑誌を興味本位に読みまくった。

少女の友、主婦の友、婦人倶楽部、婦女会等の小説それに新青年、宝石等のミステリー物が大好きであった。牧逸馬などが当時の流行作家で色々のペンネームを持っていた。とにかく手当り次第で、何かで見た中勘助の「銀の匙」に感激したり、吉屋信子は美文調で甘すぎる等言って小母さんを苦笑させた。芥川竜之介も大好きで、自殺に憧れたりした。

 履物店は製造を止めて母の仕事となり、店員5、6人、お手伝いさんは行儀見習いのお姉さんが1人か2人いてくれた。けれど仕入れだけは父の仕事で大阪の問屋へよく連れて行ってくれた。

日曜日に行くと、午前中は大阪の教会で礼拝を守るのには不服であったが、昼食はレストランやホテルでフルコースの食べ方を教えられる事もあり、心斎橋の洋服店のウインドに出ている流行の服も買ってくれた。

 戦争前の履物問屋街は、実にひどい所が多かった。今はすっかり焼けてその面影もないが、種類によっては被差別部落の問屋のある裏通りへも行った。父はどんな店へ行っても態度を変えず、パリッとした背広で、きたない座ぶとんに腰かけ、差し出されるお茶もおいしそうに飲み、私にも飲ませた。

♪かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり  愛子

Monday, November 19, 2007

ある丹波の女性の物語 第18回

遥かな昔、遠い所で第40回

 4年生の頃と思うが、夏休みの後半の夜中から私は40度を越す高熱がつづいた。何人もの医師をかえても熱は下がらず、医師の合議の結果、腎盂炎らしいという事になり、頭とおなかを冷やし、絶対安静の一ヶ月を送った。

その頃は今のように抗生物質の薬品がなく、そうするより療法がなかったのである。窓に西日が射しはじめると、ああ又熱が出るのかと悲しかった。その後京都の病院で、自分の尿から自家ワクチンを作ってもらい、長い間注射に通った。二学期の殆どを休みそれ以後、急激な運動は出来なくなった。

 父は一日中忙しく過ごす人であったが、忙中閑ありと云うのか、若い頃から俳句をたしなみ、句会で選に入り碧梧洞の「槻(つき)(トネリコ)の根に巣立ちして、落ちている」という軸をもらっている。何だか変な句と思うが、前田夕暮さんに師事していた隣の本屋の小父さんも、字がサカサになったり、斜めになるような詩を作っていたから、そういう時代だったのかも知れない。

童謡を作る事もはやったようで、私も作文の後の頁に童謡らしきものを、よく書いた覚えがある。父は書画骨董にも興味があり、丹波焼をも収集し、佐々木ガン(我)流と称して投げ入れを楽しんだ。

謡曲、仕舞も宝生流をよくし、私と一緒に入浴すると、羽衣や西玉母をうたってくれた。私も仕舞の手ほどきを受けたが、父の多忙というより、私の不熱心でいつ頃か止めてしまった。先日テレビの「謡曲入門」で一寸真似てみたら、案外すらすらと自然に声が出るのには驚いた。

 父は政治運動にも感心があり、土地の民政党の代議士を応援し、選挙になると、町田さんとか若槻さん等に選挙資金をもらいに行った。金銭に対しても皆から絶対の信頼があったからである。 
当時、政友会と民生党が二大政党で、選挙に負けた方の違反が摘発され、警察署長もその結果で更迭された。昔の議員は井戸塀と言い、自分の全財産をなげうって選挙を戦い、私欲を肥やす事はなかったように思う。昔日の感がある。

犬養木堂さんも丹波へ来られたようで、自筆の額が今も家にある。
 父は自分自身も町会議員選に出、郡是社長、大本教幹部に続いて第3位で当選した。当選の夜の異常な興奮と華やぎを今も思い出す事が出来る。私は選挙の不思議さと面白さを、小さい時から冷静に眺めていたようである。

♪子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人  愛子

Sunday, November 18, 2007

ある丹波の女性の物語 第17回

遥かな昔、遠い所で第39回

 父の訪米は父自身の人生の一大転機となった。機を見る事にさとかった父は、かねてから履物業には見切りをつけていたので、アメリカ人の家庭の洋服ダンスの中の沢山のネクタイ、婦人のかつら靴下等が、その時々の服に合わせて使用されているのに驚き、これからの自分の事業はこれだと決めたそうである。

 帰国後、直ちに西陣にネクタイの製織工場を作り、資本金の多くいる靴下は、関係のある郡是製糸で作るように提言し、塚口工場が出来た。色々の曲折はあったが、ネクタイ会社も郡是と同じ基督教精神を基とし、京都に工場、大阪に本社、東京八重洲口にも支店を、後には上海にも出張所を持つまでになった。

 翌昭和4年5月、家の改築をする事になり、裏座敷から始まった。座敷の天井は謡曲の声がやわらかく共鳴するようにと桐張りにしたり、炊事場は関西では珍しい板バリで、食料品の貯蔵庫として六丈位の地下室があり、水は日立のモーターで屋上のタンクに貯えられ、炊事場、風呂場、洗面所、二階のトイレ等にまで配水された。

炊事場の屋上はコンクリートの物干し場となり、当時の田舎では超モダンで、参考にと見に来る人が多かった。トイレ、風呂場のタイルも60年たった今も健在で、昔の職人の入念さが偲ばれる。
 三階建ての店舗の設計図も残っていたが、母がすっかり疲れ切ってしまい、中断のままになってしまった。

 その年にはアメリカから親善人形が送られ歓迎の学芸会が行われた。それぞれの生徒も市松人形を持ち寄り、西洋人形と一緒に飾り、その前で私もお遊戯をした。

 綾部にデパートが出来たのもその頃と記憶する。町の呉服店3軒が合併して出来たのである。鉄筋コンクリート三階建て、その上に展望台もあった。京都府下では最初の百貨店である。中々繁盛し、日曜日等には郡是製糸神栄製糸の女工さん達で賑わった。

三階には催場があり、何の宣伝だったか市丸さんも来て、歌ったり踊ったりしたのを思い出す。勢いにのって福知山にも、エレベーターのある支店まで作るようになった。

♪うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむる 愛子

Saturday, November 17, 2007

ある丹波の女性の物語 第16回 小学校時代

遥かな昔、遠い所で第38回

 「しょうわあ、しょうわあ、しょうわのこどもよ、ぼくたちわ」

歌いながら一年生の私達は、運動会でお遊戯をした。
 昭和元年は年末の僅か6日間で、昭和2年になってしまったのである。

 その年に丹後大地震が起こった。丁度、店員さんに交じって夕食を食べていたら、電灯が「パタッ」と消え「グラグラッ」と大揺れが来た。気がついてみたらお箸をにぎったまま、番頭の兼さんにおぶさって新開地の方へ逃げていた。紫にピンクの椿柄のメリンスの羽織を着ていたから冬だったと思う。その晩は何回も余震があり、店の表にむしろを敷き火鉢を出して、大人は寝ずの番であった。

 城崎方面の被害は甚大で、家屋全壊の報が入り、丹陽教会では慰問品をつのり、父も大きな袋をしょって被災地へ出かけて行った。温泉にはいったまま死んでいる人もあったそうであるが、それについては父は多くを語らなかった。生まれてはじめての恐ろしい出来事であった。

 翌3年、春休みに両親と揃って別府温泉へいった。大阪の天保山から船に乗って出かけた。瀬戸内海の島々が見えかくれして絵のように美しかった。日本海は橋立とか高浜へ海水浴に行きよく知っていたが、陽光に光る瀬戸内の海の色や、松の美しさにどれほど感動した事か。温泉めぐり、砂風呂も楽しかったが盆地育ちの私には、船の展望台から見たあのきらめくような明るい瀬戸内の波の美しさが忘れられなかった。

 同年6月、父はロサンゼルスで開催される世界日曜学校大会に、友人と二人、丹陽教会の代員として、他の教会の信者と共に天洋丸に乗って渡米した。片道2週間位はかかったと思う。60年前の当地としては大旅行であった。

世界各国の人々と大きな輪になり手をつなぎ合ったそうである。会の後、ミラーさん等の招待で各地を見て歩いたらしい。いつ帰国したか覚えていないが、帰国後は各地で招かれて講演をした。高度な文明や、建築物の事などを語ったであろうが、ナイヤガラの瀑布、ヨセミテ公園の巨大な木の事など、神の御業(みわざ)の偉大さを話したように思う。

 私にはハワイが此の世ながらの楽園であった事を語り、是非ハワイに住まわせたい等と言った。ハワイで食べたアイスクリームやハネジューが如何に美味しかったか顔をほころばせて話してくれた。
 帰ってからは、朝はオートミルか食パン。パンも大阪の木村家から取り寄せ、M.J.Bのコーヒーをパーコレーターで沸かして飲んだ。母は、ぶどう、苺、いちじくでジャムを上手に作ってくれた。

 又、アメリカの野外礼拝堂のすばらしさに感激したようで、友人と協力して、山に大きな十字架をコンクリートで作り、その麓に基督教の共同墓地を作った。イースターにはその十字架の下で昇天祈祷会が例年行われた。今は周囲の木が茂り見えにくくなったが、当時は山陰線の車中から見える十字架は偉観であった。


♪あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし 愛子

Friday, November 16, 2007

ある丹波の女性の物語 第15回

遥かな昔、遠い所で第37回

 大正15年4月、私は隣の本屋の幸ちゃんと綾部幼稚園に入園した。幸ちゃんは男のくせに色白で、よく風邪をひき、いつも着物で冬はくびに真綿を巻いていた。2人とも朝寝坊でよく遅刻した。誰も通らなくなった通学路の坂道を2人で上がっていった。坂を上りつめた所には大きな榎の木が二本立っていた。もう暫く行けば幼稚園なのである。

 2人とも教会の日曜学校へ通っていたので、その木の大きな根元に腰かけて「どうぞ幼稚園の時計がおくれていて、遅刻になりませんようお守り下さい。アーメン」とよくお祈りをしたものである。

 榎の枝の間から見える教会の十字架は、まるで額ぶちにおさまった絵のように美しかった。写生の良い材料になったが、その大木も、交互に植わっていた桜と紅葉の並木も、いつの間にか切り倒されて今はない。
 幸ちゃんも戦争に征く事もなく、20歳を待たずに急死した。

 坂の上から見晴らしのよくなった十字架を見るたびに、幸ちゃんと過ごした幼い日がよみがえって来る。

♪もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ  愛子

Thursday, November 15, 2007

ある丹波の女性の物語 第14回

遥かな昔、遠い所で第36回

 叔母の夫は、結婚した当時から妾宅に子供があった。毎晩のように出かけて行く夫を見送り、夜中に迎えねばならなかったそうで、辛抱に辛抱を重ねた叔母の発病だったので、父は如何様にしてもいたわってやりたかったのであろうが、折角の新築の家に住む事もなく叔母は天国へ旅立ってしまった。

 それから後祖父は3、4年生きていたであろうか。目は全然見えなくなり、杖をつかねば歩けなかったが、芝居見物やラジオを聞くこと、レコードで義太夫を聞くことが楽しみで、娘義太夫をひいきにしていた。

「一太郎やあい」と言うのも良く聞いた。祖父は訪れた人には「家の嫁のような親孝行者はない。優しい嫁じゃ。新聞に書くように言うて下され」とよく言っていた。それが祖父の精いっぱいの母への感謝の表現だったのであろう。

やがて祖父も中風でなくなった。3、4日の患いであった。うわ言に「らいこや、らいこや」と私の名らしい事を言った。この祖父も私を心から愛してくれていたのだろうか。

 その頃、父は教会の役員になり、色々奉仕をしていた。結婚式の仲人も夫婦で何組もつとめた。私は銀行の役員の長男、小笠原和夫さんと2人で、花束を持って、新郎新婦を先導する役であった。真っ白い不二絹にレースと造花をあしらったワンピースを作ってもらい、得意になってその役をつとめた。

 銀行は勧業銀行、百三十七銀行、高木銀行等沢山あったが、家の近くの京都銀行はその頃何鹿(いかるが)銀行(何鹿郡綾部町であったから)と言い、綾部では数少ない鉄筋コンクリート造りであった。

町では一番の繁華街の四つ角にあるので、夜になると、バイオリン弾きが来て「枯すすき」等を歌って楽譜を売った。どういう訳か赤坂小梅さんが派手な着物で、レコードの宣伝に来て歌った事もある。今のようにテレビがないので、夜の街で子供達も遊んでいた。そんなコンサート?には大勢の人が集まったものである。

 何曜日かには救世軍がやって来て、太鼓をたたいて賛美歌を歌い、“あかし”(信仰告白)をした。子供達は「たあだしんでんが来た」とみんなで見に行った。夜までよく遊んだ昔がなつかしい。

 何でも珍しいものには興味があった。琴の稽古をはじめたのもその頃であろうか。小学校、女学校のお姉さんにつれられて警察の署長さんの奥さんのところへ通った。
 琴の前に座っても先まで手がとどかず、ざぶとんを重ねてもらってやっと弾けた。数え唄、松づくし等からはじまって黒髪なども習った。

「黒髪のみだれて一人ねむる夜はーーー」などと、幼い子供が無邪気に声に出して歌いながら弾じたのだからおかしくなる。署長の転勤でお師匠さんも変わったが、六段の調べや、お姉さん達の弾いた千鳥の曲など古典はいいな、と今も思う。

♪刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる    愛子

Wednesday, November 14, 2007

友達の友達

♪バガテルop28

14日附の日経朝刊によると、法務省は来日する16歳以上の外国人に対して、指紋採取と顔画像の提供を義務付け、来る20日より全国27空港と126の港湾で実施するそうだ。新システムは特別永住者や外交官、日本国の招待者を除く全員に適用され、この措置を拒んだ外国人は入国させないそうだ。

これは鳩山“喋蝶”大好き法相の“お友達のお友達”の侵入を水際で撃退するためらしいが、私は世界で米国についで二番目にヤマト国が誇らしげに導入したこの措置に賛成しない。
というのもこうした外国人への対応は、性善説ではなく、性悪説に立っているからだ。すべての外人は警戒すべき異人であり、犯罪予備軍であり、「人を見たら泥棒と思え」という考え方に結局は基づいているからである。

その性悪説が次々に新たな敵意と反発を、さらにはそれを抑止するために創案されたはずのテロと戦争さえも生み出すことは、かつての大戦やパレスチナ戦争、相次ぐ軍拡や原水爆保有競争、つい最近の9・11同時テロに続くアフガンやイラク戦争の成り行きを見れば火を見るより明らかではないか。
つねに最初に武装する者が、次に武装する者を生むのである。

2番目の理由は、私自身がヤマト国と同じような非友好で敵意に満ちた不愉快な対応を外国の空港でされたくないからだ。お見合い写真ならともかく警備員に顔写真を撮られたり、指紋を採取されたりするくらいなら私は死ぬまで外国に行かないことを選ぶだろう。それは個人の尊厳の侵害であり冒涜である。

そのうち成田や関空に行くと、彼奴らは私のちっぽけなおちんちんも「見せろ!」と言い出すに決まっているぞ。いくらちっちゃくてもおちんちんなら見せてもいいが、ついでにオシッコひっかけてもいいけれど、指紋と写真と貞操だけは許せねえ!

私が息巻いてそういうと、「ではお前の友達の友達の中にはきっと治馬敏羅人と知恵偈原がいるに違いない」と指摘する人がきっとでてくるだろうが、何を隠そう実は彼らは私の親しい友なのだ。
だからといってヤマトに芸者遊びにやってきた2人が、私の大好きな小林旭のように

♪ダイナマイトがよお、ダイナマイトが150トン!

などと歌うわけがないだろう。
ところで、あなたの友達の友達ってみんな悪い人ですか?

さて私の最後の反対理由は、今回の措置が世界中の人間の自由を貶め、人品を卑しめるからだ。最下層遊民の私は、ヤマト国がいくら貧しくなり、人口が減り、アジアの三等国いや最低国に成り下がり、経済成長がぱったり止まってもいっこうに構わないが、ヤマト人間の根幹の矜持が腐っては困る。

かの中原中也も歌っているではないか。

♪人には自恃があればよい!
その餘はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。(中原中也『盲目の秋』)

ところがヤマト国と米国は、またしても腕を組んで同伴出勤して、この人倫に悖る行為を世界で率先しようとしているのだ。この馬鹿たりが。 

テロは許されないし、容認すべきではないが、すべての外国人をテロリスト予備軍とみなすヤマト国の野蛮な措置に、私は寄る年波のその年甲斐も恩讐の彼方に投げ捨てて、断固抗議したいのですね。

さうしてヤマトは、世界の悪人と善人を等しく大切にする、世界で最も自由な國であり、できたら永世アジール夢共和国であってほしいな。

Tuesday, November 13, 2007

♪スキップする少女

♪ある晴れた日に その16

高い空から秋の夕陽が落ちてくる図書館前の路上で、少女が突然スキップしはじめた。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

そのとき、さっと母親の手を解き放った少女は、
両手を軽やかにスイングしながらイサドラのように踊る、踊る、飛ぶ、跳ねる――
御成小学校の交差点をスキップしながら走りぬけ、ほら、もう佐藤病院の前で母親が来るのを待っている。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

ジーンズのスカートに赤と黄色の刺繍が紅葉のように散り、おかっぱがつむじ風にはらはら揺れて――

そしてあっという間に、少女は江ノ電の踏み切りの向こうに消えた。
母親と一緒に見えなくなった。

私は思う。
やがて、少女は気づくに違いない。いつのまにかスキップをどこか遠いところにおき忘れてしまったことを……
そしてある朝、大人になった少女はしみじみ振り返るだろう。
その夕べこそは、生涯で最も幸福ないっときであったことを……

Monday, November 12, 2007

網野善彦著「中世東寺と東寺領荘園」を読む

降っても照っても第73回

著者の著作集第二巻に、1987年に初版が刊行された「中世東寺と東寺領荘園」が再録された。

題名の通り東寺の荘園制の歴史的変遷を、時代の推移を追って、客観的かつ実証的に執拗に追っていく。その圧巻は足掛け20年以上に及ぶ厖大な「東寺百合文書」の解読に基づく荘園内権力のありようの研究であろう。

東寺は、鎌倉幕府が成立し頼朝の支援を受けた文覚上人の活躍によってその荘園制経済と内部権力の基盤が確立された。しかし南北朝の争乱と室町幕府の成立を経て、幕府指名の守護地頭など公的権力が台頭し、かつては寺社や貴族が支配していた荘園のヘゲモニーを奪い、と同時に、荘園の内部で伸張していた供僧や農民などの下層階級の自由と権利獲得の戦いを抑圧する結果を生むことになる。

自らの立場に無自覚であった下層の民衆は、時の権力にある部分では鋭く抗いつつも、他の部分では無定見に妥協し、戦いを放棄してしまう。そのことが戦国大名による専制につながり、ひいては天皇制の存続を許す結果を生んだ、と著者はいいたいようだ。

また本書では、後醍醐天皇の建武の親政を支えた悪党たちがいつどのようにして歴史の舞台に登場したのかつぶさに知ることもできる。

例えば東寺の所領であった播磨の國矢野荘では「国中名誉悪党」と称された在地領主寺田氏が日本中に勇名を馳せ、時には東寺上層部、時には山僧とつながり、一時は貴族と肩を並べるほど成り上がりながらも、諸勢力との抗争に敗れてから姿を消していったありさまをうかがい知ることができよう。

さらに本書は、客観や実証よりもマルクスやエンゲルスのイデオロギーを盲目的に崇拝していた、かつての著者の徹底的な自己批判の書でもある。

客観的かつ実証的な学術研究を、それだけで果たして自立的な学と呼べるだろうか?
それは学問の重要な手段であることに異論はないにしても、その前提あるいはその同伴者としての主体的な思想的立場を不問にすることは許されるのだろうか? 

と、著者は今も私たちに鋭く問いかけているようだ。

Sunday, November 11, 2007

「ヒトラー最後の12日間」を観る

降っても照っても第71回

まずはブルーノ・ガンツの怪演に驚き、そのヒトラー以上のヒトラーさに俳優の業の凄まじさとえげつなさを覚える。

演技といえばゲッペルス夫妻の最後の姿に圧倒される。5人の女の子に睡眠剤を飲ませ、(実際にはもうひとり男の子がいたはずだがこの映画には出てこなかった)さらに青酸カリの液体を口唇に注ぎ込む悪鬼のような所業には思わず身の毛もよだつ。

ゲッペルスが出たからには我らがフルトヴェングラーもぜひ顔を出してほしいところだが、そのかわり?にヒトラーお気に入りの建築家のアルベルト・シュペーアが登場してくれる。 

シュペーアが国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型をヒトラーに見せると、この独裁者は、この壮大な建築物こそが、自らの死後も第三帝国の栄光について永遠に語るだろう、と奇怪な妄想にふける。そうしてその姿が、建築と権力者の関係を雄弁に物語るのである。

いずれにしても自国の歴史の恥部を深々と覗き込み、じっくりと正視する勇気を私たちももちたいものだ。

最後に、この映画を観ての私の感想は、「おいらも自殺用の拳銃が1挺欲しいよ」。

Saturday, November 10, 2007

大澤真幸著「ナショナリズムの由来」を読んで

降っても照っても第72回&勝手に建築観光27回

ファシズムはある過剰性を帯びたナショナリズムであり、その過剰性は通時的には一種の現状変革への熱烈な欲求として、共時的には過剰な人種主義の形態をとり、共同体への亀裂を嫌い、熱狂的な指導者崇拝を伴う。

しかしそのようなファシズムは、民主主義の理想的政体と称されたワイマール共和国の内部で生み出された。ファシズムは、きわめて現代的な現象である、と著者はという。

 さらに著者は、「高さへの意志」は、ナチズムあるいはファシズムの特質のひとつではないか、と指摘している。

事実常に高さを指向するヒトラーは、政務の中心をオーバーザルツベルクの山荘におき、建築家アルベルト・シュペーアにパリの凱旋門の2倍の高さを持つベルリンの凱旋門の建設を命じ、ナチスドイツは、ロンドン空襲に顕著に見られるように、高空からの攻撃に執着した。

ちなみにナチの軍需相で建築家のシュペーアは、映画「ヒトラー最後の12日間」でも顔を出していたが、国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型を見ながら奇怪な妄想にふけるヒトラーの狂気の姿がリアルに描かれていた。

 かのバベルの塔の神話はさておくとしても、安土城から天下を睥睨した織田信長、大阪城の豊臣秀吉はもとより、ニューヨークの摩天楼のペントハウスの住人たち、現代ニッポンの超高層ビルの最上階に陣取るわがヒルズ族まで、「高さへの意志」をあらわにする人々は跡を絶たない。

うぞうむぞうの民衆たちが蟻のようにうごめく下賤の巷を低く見て、みずからは超高層の高みにおき、エリートだけに許された超特権意識にひたりつづける非人間性と超俗性こそは、古くて新しいファシズムの根っこかもしれない。

またヒトラーは、シュペーアが唱える「新しい建築物は、幾世紀を経ても永遠の美に輝く廃墟となるように設計されなくてはならない」という“廃墟価値の建築論”に心酔していたが、汐留や品川や六本木ヒルズや東京ミッドタウンなど現代ニッポンの最新超高層ビルジングたちは、このナチス建築の理想の忠実な信奉者によっておっ建てられているともいえるだろう。
 
後者の建築は、幾百年の経過を待たずして、「すでにあらかじめ廃墟と化している」点だけが違っているとはいえ、ここにも“現代ファシズム萌え”がちらついているようだ。

Friday, November 09, 2007

ある丹波の女性の物語 第13回

遥かな昔、遠い所で第35回

 祖父が愈々目が不自由になった頃、舞鶴の酒屋に縁づいていたつる叔母さんが、肋膜炎になり帰って来た。嫁ぎ先では養生させてもらえず、父が見かねて、二男二女を残して離縁してもらったのである。うちで養生して全快後、将来の為何か身につけたいと、神戸の外人さんに洋裁を習いに行った。

 父は末の男の子を引き取り、叔母に洋裁店を開業させようと、目抜き通りに家を新築する事にした。私は板囲いのあるその普請場へ、毎日のように父と見に行ったものである。

叔母はどれ位修行したのか分らないが、次々私のために、別珍のワンピース、レースの洋服にお対の帽子、半ズボン、毛糸編のワンピース等を作ってくれた。家が立つ間、祖父と叔母が離れのコタツに差し向かいで当たっていた事やミシンを踏んでいる束髪の叔母の後姿が目に浮かぶ。洋服は色あせた写真でしか見ることができないが、神戸土産の西洋人形は、今もテレビの上から私にほほえみかけてくれる。
 
4歳位の頃かと思うが、苺の季節に叔母は亡くなった。折角の父の心づくしもすべてが無駄になった。臨終の後、私にも口をしめらせてくれた。亡くなる前日だったか、叔母が、苺を細い指でつまんで食べさせてくれた事が忘れられない。

 不幸な叔母の為に盛んな葬式が教会で行われた。私は大勢の人が集まるのがとても嬉しくて、火葬場で飛んだり跳ねたりしたようである。帰るなり母は、みんなの前で私の背中にお灸をいくつもすえた。泣き叫んだが誰も止めてくれなかった。

♪うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く  愛子

Thursday, November 08, 2007

ある丹波の女性の物語第12回 幼児期と故郷

遥かな昔、遠い所で第34回

 「山家一万綾部が二万福知三万五千石」と福知山音頭にうたわれているように、綾部は九鬼二万石の城下町である。田町の坂を上がると大手門跡があり、それからは上は家中(かちゅう)といって士族の住居地であった。

私の幼い時は、家のある本町通りとカギの手になった西町通りが商店街であった。そのカギの手の角の家がこわされ、駅へ行く新開地が出来たのはいつだったろうか。立派な家がこわされたのは覚えているのだが、私の幼い記憶は新しい新開地の思い出に飛んでしまう。
 
 田圃の中に道路が出来、秋になると田の中に番傘を広げていなごを取った。一晩糞を吐かせて佃煮にしてもらったが、美味しいものではなかった。広場にはすすきや野菊がいっぱい咲いた。

 サーカスも来た。ジンタの天然のしらべの音楽がはじまると何となくウキウキして、テントの前につないである馬などを見に行った。時々表のカーテンがあいてサーカスのショーの一部をのぞかせてくれるが、すぐにカーテンはしまって見せ場はのぞかせてくれない。次の瞬間をみんなで待った。サーカスの子供は売られた子だとか、人さらいにあった子だとか、私達はヒソヒソ話をしたものだった。

 衛生博覧会や見せ物が、次々に原ッパで開かれたように思う。テントの杭打ちが始まるとこんどは何が来るかと楽しみだった。

 そのうち道の両側に次々家が建ちはじめ、みるみる綾部駅まで家がつまってしまった。長楽座という芝居小屋も建った。廻り舞台、両花道、早替わりのぬけ穴、舞台の両側には、はやし方がすだれの中に座っているのがのぞかれた。

 歌舞伎も、天勝も、石井漠のバレエも来た。そのたびに中の桟敷も二階席も満員になった。トイレの匂いが気になったが、花道横の一段高い所に、お茶子さんにざぶとんを敷いてもらっておいて、見に行くのは楽しみであった。有名な演し物は母がいつも連れて行ってくれた。

今ふり返ってみると大正文化の華やいだ頃というのであろうか。福知山には歩兵工兵隊、舞鶴には要港があったが、戦時色などというものはなかったように思う。

 そのうち芝居小屋はだんだん活動写真を上映する事が多くなった。舞台の下にはオーケストラボックスもあり、ピアノ、バイオリン等の楽師さんが沢山いた。今から思うとずいぶん贅沢な事だったと思う。

 綾部の町にはもう一つ帝国館という映画劇場もあった。映画はあまり見に行った覚えはないが、「二十六聖人」というキリスト教の映画、それに「何が彼女をそうさせたか」という映画の及川通子という女優さんを、とても知的で美しい人だと思った覚えがある。

綾部の町を有名にしたものには大本教もあるが、町の発展に力があったのは、やはり郡是製糸であろう。綾部には本社と本工場があり全国に沢山の分工場があった。蚕種研究所には大学出の研究者も数多くいた。社宅の子供達は皆賢かった。

 郡是製糸は基督教の精神を基として設立されたので、波多野社長の所属する丹陽教会は、その社員も多く、会社の発展によって出来た金融機関等の人や文化人も集まるようになった。矯風会支部も出来、教会婦人会などは、インテリ婦人の社交場のような雰囲気さえあった。

 又、月見町という芸妓置屋の集まる町も出来た。玉ツキ、射的場、カフェー等も出来て行った。

 大本教も盛んになっていった。開祖の、お直ばあさんを父はよく知っていた。近所に住む紙くず買いであったが、時々気が狂って大声を出してあばれるので、よく留置場に入れられたそうである。

「予言者は故郷ではいれられず」の言葉があるが、土地の信者は殆どない。養子の王仁三郎さんが生神様扱いされるようになっても、父は普通の人・王仁三郎さんとしてつきあっていた。私達もその子、孫さんと通常のつきあいである。

♪谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る 愛子

Wednesday, November 07, 2007

11/8 ある丹波の女性の物語 第11回

遥かな昔、遠い所で第33回

 最後に私を生んでくれた母と父の事を少しのべたい。

父は前述の雀部の長男儀三郎である。姉も美人であったが、父も長身、秀才、美男であった。土地の京都三中、三高、東大独法科を卒業した。田舎では有名であり自慢の息子であった。「末は大臣か―――」等という祖父母の期待を裏切って、芝川という貿易会社に就職、横浜に住んだ。

当時は非常な好景気で、派手な贅沢な暮らしであったようである。この癖は終生つきまとった。会社が不景気風と共に破産、その後もやはり個人で貿易をしたらしい。その間に結婚もしているが、いろいろ就職しても昔の夢が忘れられず、その後京都での市の貿易協会に招かれ得意の腕を振るう事ができたのはしあわせであった。

 母美代は東京上野下谷の生まれである。長く京都に住んだが言葉の江戸っ子は死ぬまで直らなかった。親代わりの兄は外交官等の仕立てをする高級洋服店を営んでいた。本郷に下宿していた父と、どのようにして結婚したのか、とにかく福知山の祖父母をはじめとして、田舎の親戚は大反対であった。

そんな訳で夫が失職したり、困った時は全部兄に面倒をみてもらったらしい。不義理を重ねたこの妹夫婦には兄もあいそをつかしたらしいが、晩年は江戸時計博物館などを持っている兄を訪ね、一緒に焼物などを焼いて楽しんだと言う事である。

 母は大柄でどちらかといえば、不器量であったが、父には至れり尽せりの妻であった。京では毎日のように一流料亭にバイヤーを招いていた父を、いつも満足させる味の料理をつくり、針仕事も玄人はだし、綺麗好きで家中ピカピカであった。

私が似ているといえば不器量と、花作り好き位であろうか。それでも子供の話が理解出来るよう、ラジオで中国語講座を聞いたり、野球などのスポーツも理解した。伏見の家から京の街へもほとんど出たことのない、ほんとの家庭夫人であった。

♪山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける    愛子

Tuesday, November 06, 2007

ある丹波の女性の物語 第10回

それ以来、父は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれだしたので、このままでは祖父の二の舞をやりかねないと、自分ながら不安になり尊敬する波多野社長の信ずるキリスト教は、禁酒禁煙だしそれを見習えば間違いなしと、動機はいささか不純で功利的であったが、キリスト教へと心を傾けていった。

教会通いをしているうちに、元来神信心のあつい父はキリストへの信仰に目ざめ、大正7年丹陽教会において洗礼を受けた。この頃から養蚕教師はやめていたらしい。

 そんな大きな動きのある最中、一文なしの祖父が師走の夜中に帰ってきた。前非を悔いて土下座して詫びる祖父を父は許さなかったが、母はやさしく迎え世話をする後家さんを見つけ、一緒に住まわせた。

70歳を過ぎる頃、祖父は一人になったので、家の離れに住まわせ緑内障でだんだん目が見えなくなっていく祖父の杖がわりになり、山の小屋に太鼓の響く日には、重箱にお弁当をつめて芝居小屋へ連れて行ったのを覚えている。

そんな母のやさしさに父もだんだん心がほぐれ、町では三番目にラジオも買い与えた。大阪から技師が何日も泊りがけで来た。当時のラジオは、夜になると近所の人が聞きに来るような珍しさだったのである。

 父は後年母に心から感謝し「おらが女房を誉めるじゃないが」と人によく話した。
 先になくなった祖母には誠意をつくして看護し、祖父には父の分まで孝養してくれた事を、妻のおかげで親不孝のそしりを受けなくてすんだ事は、最大の感謝であるといっていた。

♪あかあかと 師走の陽あび 山里の
  小さき柿の 枝に残れる  愛子

Monday, November 05, 2007

護良親王の首塚を遥拝す

鎌倉ちょっと不思議な物語89回

後醍醐天皇の皇子護良親王は、かの「建武の新政」で晴れて征夷大将軍となったのだが、父後醍醐のために、全知全能を傾けて、日本全国の戦場を駆け巡ったにもかかわらず、宿敵足利直義の手によって、鎌倉の大塔宮の石牢から引きずりだされて斬首された。

さぞや悔しかったことだろう。さぞや父を恨んだことだろう。

その護良親王の墓は、実朝の墓と同様、鎌倉に2箇所ある。1箇所はその大塔宮だが、もうひとつが今日ご紹介する「首塚」だ。

大塔宮(鎌倉宮)から浄明寺の第二小学校方面に迂回すると突然長大な石段が現れる。その急峻な長い長い石段を息を凝らして登っていく者は、次第に不気味な胸騒ぎを覚えるだろう。

晴れた日にも、雨の日にも、またうす曇りの日にも、春夏秋冬恒にここには「尋常ならざる何か」がある。絶対にある。あの「あほばかの泉」の水を飲んだこともなく、神仏なぞ信じたこともないこの私が言うのだから間違いない。

恨みを呑んで死んだ皇子の怨霊が800年経っても鬱蒼とした森林の中を彷徨っていることが肌寒いまでに実感できる。
さうして切り立った石段の頂上から下界を見下す者は、微かな眩暈を覚えるだろう。
そう、ここは明らかに異界である。

高鳴る動悸を抑えてさらに前進する勇気のある者は、頂上の神殿の裏手の奥を目指してみよ。
そこには、疑いもなく護良親王の生首が埋まっている。

ちなみに、鎌倉ならでは霊地はこの首塚を筆頭に、御霊神社や前にご紹介した妙本寺、北条高時腹切り矢倉など数多い。
死んだ作家の高橋和己は、余りにも短かすぎたその晩年を、あろうことか、この首塚のすぐ傍の、小さな小さな英国風の洋館で過ごしたが、幾夜どのような妖気に満ちた夢を見たことだらう。

Sunday, November 04, 2007

ある丹波の女性の物語 第9回

 そのような中にあって、祖母は胆嚢の手術をした。土地の医師を母が看護婦の経験を生かして助けたのである。妹のつる叔母を舞鶴へ嫁がせたが、金三郎叔父は職が長続きせず、しまいには朝鮮へ高飛びし、その間、三回もの結婚離婚を繰り返し、失敗する度に実家へ帰っている。

 その頃の綾部には産科の医師もなく、出産といえば取り上げ婆さんを頼む時代であったので、開業していない母なのに、むずかしいお産といえば無理に頼まれ遠い村からは駕籠が迎えに来たそうである。

 そのうち祖父は借金がかさんで綾部にいられなくなり、とうとう有り金をかき集め、若い芸者を連れて、隠岐の島に逃げてしまった。その後の両親の苦労は並大抵のものではなかったらしいが、店は母にまかせて父は養蚕教師をつづけた。

 大正の初め、土地の郡是製糸が大損をして株が大暴落し、会社の存亡が危ぶまれる事件が起こった。城丹蚕業学校の創立者であり、父を蚕糸業へ導いた大恩のある郡是の波多野鶴吉氏の窮乏を救いたい一心の父は、残されている唯一の桑園を売り、発明した蚕具でもうけた金を全部つぎこんで、どんどん安くなる郡是株を買いあさったのである。

ところが一年あまりでアメリカの好景気で郡是製糸は立ち直り、株価はどんどん上がった。義侠心でやった行為が父に大金を得させたのである。そのお陰で、払い切れぬ程の借財はすべてなしてしまい、何日も親戚、知友、隣近所を次々に招いて盛大な祝宴を開いた。母はその時買ってもらったダイヤの指輪、カシミヤのショールを終生大事にしていた。夫婦ともに33歳であった。

♪色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに    愛子

Saturday, November 03, 2007

鎌響の「カルミナ・ブラーナ」を聴く

♪音楽千夜一夜第27回&鎌倉ちょっと不思議な物語87回

久しぶりの晴天の午後、鎌倉芸術館を訪れて、わが愛するローカルオケの演奏を聴いた。創立45周年記念第90回特別演奏会である。青い空に白い雲が浮かんでいる。私の好きなマチネーである。

 鎌倉交響楽団は昭和38年6月に創立され、一の鳥居の傍にあったいまは失われた旧中央公民館で第1回の演奏会が開かれたが、その日のメインであったシューベルトの未完成交響楽(曲と書かずにわざとこう書くその理由は賢明な諸兄ならお分かりだろう)が当日の2曲目に演奏された。
1曲目は例によって八代秋雄作曲の最高に素晴らしいヘ長調の鎌倉市歌である。(http://machimelo.web.fc2.com/kamakurasika.wmv

 シューベルトのこの曲D759は昔は第八番と呼ばれたが、現在では第7番で落ち着いたらしい。昔は未完成とハ長調の第9番D944の間に未発見の大曲ガシュタイン交響曲が想定されていたが、他ならぬそのガシュタイン交響曲が第9番であることがわかって、結局9番が最後の交響曲8番となった。

 それはともかく改めて聴く未完成は完全に完成した2楽章で構成されており、2つの楽章はまるでシャム双生児のようなネガポジの関係にある。主題自身もほぼ裏返しになっていて、展開方法もまるで同じ。2つの楽章というよりは自民・民主の大連立状態に陥っている。

第三楽章の冒頭でシュベちゃんは筆を投げたが、よほど意想外のメロデイーで開始しない限り、このシンフォニーは第9番と同じ泥沼ぬかるみ団子状態になったはずだ。
最後の大曲第9番も名曲であるが、もはや全身に梅毒が回った最晩年のシュベちゃんは、往年の流麗なメロディラインの在庫に底がつき、曲想の自在な展開を盛り込むことができずに、それでも根性でリズムとハーモニーの自同率のみで勝負してなんとか終らせてはいる。
レコードで聴くなら、フルトヴェングラーはハーモニーで、トスカニーニはリズムを強調した立派な演奏でモノラルながら両盤ともおすすめできる。そんな名曲の「未完成」だが、鎌響はまずはオーソドクスに破綻もなく演奏してのけた。

驚きは次の大曲と共にやってきた。カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。ドイツの作曲家オルフは、中世ミュンヘンの民衆が書き残した24の自由奔放な詩歌をサンプリングしてそれらにもっと自由奔放な音楽をつけた。

キリスト教の戒律によって縛り付けられていた中世の世俗の民が、飲んで騒いで恋をする。そのアナーキーで放埓な生き方を、オルフは現代音楽にも通じるような強烈なリズムと生命力が躍動するダンスミュージックを創造したのである。

ダンス、ダンス、ダンス!  恋せよ乙女、堕ちよ、人! メメント・モリ! 酒歌煙草に一時を忘れよ。それは中世と現代、宗教と無秩序、人と獣、愛と憎悪のアマルガムであり、世俗賛歌をつむぎだす壮大な錬金術であった。

若き指揮者星野聡に率いられた100名のオケと清冽なソプラノ松原有奈、バリトンの牧野正人、テノールの山田精一、そして100名の市民混声合唱団は、この狂気をはらんだ長大な難曲を、打楽器の強打を駆使しながら巧みに導き、全曲の最後の最後に素晴らしい音楽的法悦をもたらすことに成功した。

これこそが私たちが待ち望んでいた至高の瞬間であり、音楽が人間に対してできる最大の事業を見事にやってのけた奇跡的な瞬間でもあった。さうして私たちは、じつはこの瞬間の訪れだけのために長い年月を生きているといっても過言ではないのである。

超ローカルオケ、鎌響よ! 音楽を熱愛するすべてのアマチュア音楽家たちよ、永遠なれ!

Friday, November 02, 2007

ある丹波の女性の物語 第8回

 当時はまだ鉄道もなく、花嫁達は福知山街道を人力車にゆられて夕方、佐々木家についた。提灯の灯に浮かび上る母の姿を見て、金三郎叔父は「おお!きれいな嫁さん」と見とれて、大きなため息をついたそうである。

 売り出しには商いに店に立つ母の姿を、近在から見に来るほどであったらしい。私がそんな話を聞いて来て母にすると、困ったような顔をして、
「お父さんの所へ来たのが一番幸福だった。沢山の家からもらわれたが、他のどこの家へ縁づいても、めかけがいるような家ばかりやったから」
と心の底からそう思っているようであった。

 母が縁付いた頃は雀部家はすっかり傾き、商売がえをしてみてもうまくいかなかったが、何分ぼんぼん育ちの祖父の事で、お米はすし米、お茶は玉露というような日常であったので、使用人の多い佐々木家の大世帯の粗末な食生活にはびっくりしてしまったそうである。
麦の方が多い麦飯、それに大根も入る時があり、暫くは食べられなくて困ったそうである。

 その頃、父は養蚕教師となり、四国では日本一の成績をあげる高給取りであった。しかし借金の返済や商品の仕入れにすべてあてられ、その中でも祖父の女遊びや花札バクチが続き、いくら父が家に金を入れてもドブに捨てるような物であった。差し押さえにあい嫁入り道具類にまで札をはられた事もある、と母は言っていた。

♪梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり  愛子

Thursday, November 01, 2007

田村志津枝著「キネマと戦争 李香蘭の恋人」を読む

降っても照っても第70回

最近は昭和史の本がたくさん出ているようだが、当時の日本と中国と「偽満州国」と日本統治下の台湾において、いったいどんな映画が、誰によって、どのような条件下で作られていたのかを知る機会がほとんどなかった私は、本書によってその渇を十分に癒すことができた。

当時、上海の租界には、抗日映画を製作する数多くの中国の映画会社があり、偽満州国には、大杉栄と伊藤野枝を惨殺した甘粕正彦が2代目理事長を務め、本書のヒロイン李香蘭を擁する国策映画会社の「満映」があり、日本軍が包囲する上海には川喜多長政が日本側代表を務めた日華共同出資の映画会社「中華電影公司」があり、華北にも同様の国策会社の「華北電影公司」があり、本土には戦意高揚国策映画を大量生産し続けた「東宝」や「松竹」があって、彼らは、映画というメディアを駆使しつつそれぞれの顧客たちに対して思い思いのプロパガンダを発していたようだ。

日本と中国と偽満州国と台湾という4つの国家(地域群)を舞台に、アジア全体を巻き込んだ巨大な「戦争」と、それが「映画」界にもたらした暗く不吉な影に、著者は丁寧にスポットライトを当てていく。

厖大な資料を綿密に読み込みながら、長年にわたってじっくりと進められたに違いない著者の精密な解読作業によって、満州事変から敗戦にいたるまでの戦争と映画史の相関関係が、はじめて白日のもとに晒されたといえるのではないだろうか。

このようなアジアの戦争と映画史の骨太のドキュメンタリーを後景に据えた著者は、その気宇雄大な舞台の前景に、若き二人の主人公を登場させ、「偽の中国人俳優」を演じる日本人女性李香蘭と、皇民化政策によって強制的に「偽の日本人を演じさせられた台湾人映画監督劉吶鷗」との間に演じられたサスペンスドラマの世界を描き出し、その大小2つの世界を頻繁にカットバックする手法を採用することによって、全編にリアルな緊迫感を盛り上げている。

かつてわが国にニュージャーマンシネマ、さらには台湾映画ブームを招来させた著者らしい「映画的な構成」といえよう。

急速に広がっていく戦火と、その未曾有の混乱のなかで、ほんらい平和のうちに映画創造に献身できたはずの若者たちが次々にテロルに倒れ、ほのかな恋の炎さえもあえなく吹き消されていった。

本書によれば、劉吶鷗は前途有為な台湾生まれの映画監督&製作者であったが、1940年9月3日、上海の目抜き通り四馬路のレストラン京華酒家で何者かの手で暗殺されてしまう。

著者がいうように当時は
「抗日戦争を巡る熾烈な戦いがあり、国民党の特務機関は対日協力者潰しに躍起になり、一方で日本側および汪精衛政権の特務機関は、抗日人士を標的にして逮捕・拷問・暗殺を繰り返し、また国民党残置機関の襲撃に暗躍していた」
が、にもかかわらず、戦乱の中国にはこういう能天気で純粋な青年はいっぱいいただろう。
いや一部の確信的行動主義者をのぞけば、民衆の大半が劉吶鷗のようなノンポリかオポチュニストだったのではないだろうか?

ところで劉吶鷗が暗殺されたちょうどそのとき、李香蘭は京華酒家から遠からぬパークホテル(国際飯店)で彼が来るのを待っていたのだという。

しかし著者の調査では、映画『熱砂の誓い』の北京ロケのために東京を発つ9月5日を目前に控えた暗殺当日の9月3日に、彼女がこの場所に居ることは不可能に近い。事の真相は、彼女が勘違いしているのか、嘘をついているのか、本当に待っていたのか、のいずれしかない。

「そしてもし本当に待っていたのだとすれば、劉吶鷗の知られざるもうひとつの仕事がそこから浮かび上がり、彼の暗殺の謎を解く重要な鍵のひとつが見つかるはずだ」

この謎のサスペンスドラマを解明しようと、著者は本書の最後で、李香蘭こと山口淑子に宛てた質問状を突きつけている。

この李香蘭こと山口淑子という女性について、私はこれまで何の興味を覚えたこともなかったが、本書を読んでどうも面妖かつ不可解な人物であるように感じた。

そもそも日本人なのに中国人に成りすまし、その二重国籍をケースバイケースで使い分けてアジア各国の舞台で媚を売るという了見がよく理解できない。暗殺された劉吶鷗との関係も曖昧だし、日本軍の満州&中国侵略のお先棒を担ぎ、時の政治権力に好きなように利用され、そのことにも無自覚に、ただ時流に流され続けた愚かな芸能人なのではないだろうか?

それに比べると、私は劉吶鷗のほうによほど親しみが持てる。台湾人でありながら日本国籍を強要され、民族の二重性に引き裂かれつつも、“イデオロギーとは無関係な自由な映画作り”にあこがれ、おのが才覚を存分に発揮しながら群雄割拠する中国各地を泳ぎ回っているうちに、結果的に日本軍の映画政策に取り込まれ、それが彼の若すぎた死を招いた。

当時同じ「漢奸」の汚名を着せられたヒーローとヒロインだったが、一方は無残に殺され、他方は故国に生還して“赤い絨毯”を踏んだりしている。もしも二人の間に燃えさかる恋があったと仮定すれば、山口淑子は著者の問いかけに無関心でいられるわけがない。 

しかし私はなぜかこの公開質問に対して永遠のヒロインは永遠に回答を留保するような気がしてならない。そしてそのことを著者はどうやら予期しているようでもある。

なぜならもしも本気で彼女の回答が欲しいのであれば、著者は万難を排して彼女に直撃インタビューを敢行しただろうし、それがドキュメンタリー作家の常道というものだ。
そしてインタビューが成就してもしなくとも、著者はその結果を読者に報告して本書の執筆を終えたはずである。

それをせずになんと本書の「あとがき」の文中において、彼女からの返答期し難い宙ぶらりんの質問状を挿入したところに、私は著者の微妙な心意を忖度したいのである。
同じ「あとがき」ではしなくも洩らしているように、著者は別に劉吶鷗と李香蘭の真実を究明するためにこの本を書いたのではない。

「私は台南で生まれた。歳を重ねるに従って故郷に強く惹かれる自分を意識する。できることなら台南で暮らしたい、と思う。劉吶鷗は上海で仕事に明け暮れながら、あの南島に帰りたいとの思いを心の底に抱いていた。亡くなったとき、彼はまだ三十五歳だ。生き延びたとしたら彼はどこで何をしたのかと、思わずにはいられない」

この短い文章を眼にしたとき、私はまだ見ぬ南の島を吹く一陣の爽風を心の中に感じた。著者の望郷の思いが、『李香蘭の恋人』という侯孝賢の『悲情城市』を思わせる透き通った叙事詩を書かせたのである。