Thursday, April 30, 2009
「平安のハムレット」と「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは?
照る日曇る日第252回
アーサー・ウェイリーがもっとも高く評価し偏愛した源氏物語が、本巻に収められた「夢の浮橋」を含むいわゆる宇治十帖でした。
ここで活躍するヒーローは、源氏の息子、薫(しかしてその実体は、源氏の目を盗んで女三の宮と通じた柏木の息子)と匂(天皇と皇后の三男)、そしてヒロインは、八の宮の遺児である美人の三姉妹、総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟です。
とかく男はこの世では惚れた女には惚れられず、それほど好きでもない女性からは逆に愛を打ち明けられておおいに戸惑ったりいたします。薫と総角の場合は前者の典型で、男は熱愛しているものの、女の方では「いい人」カテゴリーに入れており、それでも再三再四のチャンスに強引に女をモノにすればいいのですが、草食系男子の薫にはそういう典型的な肉食系男子であるライバルの匂のような乱暴なことができません。爬虫類脳の指令が男根に直結している匂と違って、薫の内部では、大脳前頭葉からの突撃命令を下半身が拒否することが往々にしてあるのです。
その原因は彼の生誕の背後にひそむほの暗いコンプレックスであり、生存の深奥部に突き刺さったトラウマに基づくものでしょうが、このことが彼の生来身に備わったペシミズムとニヒリズムと遁世願望に根強く繋がっているのです。
生きたい。欲しい。しかし欲望できない。征服できない。このもどかしいジレンマを、この無防備なニッチを、ペニスむき出しの現世的人間、匂が激しく衝き、まず小芹が、ついで浮舟がその血祭りにあげられます。美しい想い人をキツネに奪われたカラスは無念をかみしめ己の浅はかさを厳しく責めながらますます自己滅却の衝動に駆られていくのです。
紫式部の時代からおよそ一〇〇〇年後の今も、宇治川の流れは思いがけず激しいのですが、宿命の恋のライバルに引き裂かれてこの激流に身を投じたはずの浮舟が、冥界のヴェールの底から蘇る日、薫と匂は果たしてどういう行動に出るのでしょうか? 「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは何なのでしょうか? 生きながら死せる存在であるわれらが「平安のハムレット」に、はたして起死回生の劇的な瞬間は訪れるのでしょうか?
あらんかぎりの幻想と夢と希望を世界に振り撒きながら、この人類史上最高最大の物語は、大団円に向かってひそやかに助走を開始したところで、まるでそれが作家の当初の計画であったかのように、不意に幕を閉じるのです。
春暗し男共皆縞縞背広 茫洋
なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ
男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し
Wednesday, April 29, 2009
西暦2009年卯月茫洋歌日記
鎌倉の花の都に遊びけり
我こそは森の王なるぞおろち桜
蝶と見えまた花と見え散る桜
テポドンを嚥下しけり春の海
鰤頭とろとろ煮られ花曇り
われもまた酔って全裸で叫んでみたし
桜咲く生きてしあればそれでよし
桜散る仕出かししことの後始末
懐かしきボヘミアの歌うたうフランツカフカ
*
8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る
見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙
酔っ払って裸になって叫ぶ人それを警察に突き出す人
君たちも一緒に裸で叫びなさいガタガタ騒ぐなアホ馬鹿マスコミ
おおアオバセセリよ お前にこんなところで出くわすとはまるで夢のようだ
口丹波由良川の水澄みわたり蚕の里をゆるゆる巡る
ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは
鳥歌い花は弾けて水緩み箱根全山笑いさざめく
懐かしき巡り合いかな地に伏して万事を捨ててなお眠る人
猫どもは恐れも知らず日溜まりに遊び戯れ眠り呆けたり
名も知らぬあまたの花が咲き乱れシュレーゲル蛙鳴く湿生花園
いちりんそう咲きにりんそう咲く花の園さんりんそう求めて池を巡りき
外輪山の雲間を裂きて薄日差しミズバショウの池蛙声さわがし
ひさかたの光のどけき花の園カタクリ散れどマメザクラ咲きたり
腰を折りマイクを振りて歌うなり息子のおはこ千の風に乗って
青池様のおかげをもちて訪れし箱根の森に広がる笑顔
新宿直久のラーメン&餃子セット750円喰らいおれば黄昏る黄昏る俺っちの人生が
三十六の燃ゆる瞳に見つめられ二十の春にたちかえりけり
老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く
あら懐かしや狭心症の胸騒ぎ4月8日4時30分
御馴染みの狭心症の胸騒ぎ4月8日の4時半に起こる
白人の男を屠ふり金髪の女を犯さんむとして発作に襲わる
父上と母上より賜りしわが心の臓激しく震う
わが狭き心の谷間の奥底でかの臓物はぶるぶる震え
かつてわが勤めし会社よ強欲の投資ファンドの玩具餌食となりたり
段葛降り積む桜の花びらをエアメールで送りしこともありき
「そりゃあ酷ですよ」緒方拳のドラマのセリフを唱える息子
鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり
フィリピン210円エクアドル350円台湾420円さあどれを買おうか3つのバナナ
春の日の桜が丘の小田急に両脚切られて泣き笑う男
黄セキレイ鳴く上空に飛来しミサイル捜索準備している大型哨戒ヘリコプター
軽やかな「乙女の祈り」に変りたり4月1日鎌倉市清掃車
君の言葉君の振舞い奇妙なれど天からの贈り物とて素直に受けむ
自閉症のわが子に優しき二人の女性いずれも拒食症を病みてけるかな
曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け
着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ
ヴェテランの運行指導にそっぽ向く新米女性バス運転手かな
*
親戚詩集 K兄
新宿駅西口のいちばん代々木に近いトイレから、下のボタンをはめながら出てくるK兄さんと出くわした。
「おお」、と「おお」、「久しぶり」と「お久しぶり」とが期せずしてぶつかった。
折しもラッシュアワーで大混雑する駅構内、
「いまちょうど紀伊国屋でね、君の本を買いに行ってきたんだ」
「あんなくだらない本をわざわざ奥沢から買いにいらしたとは。共著のうえに短い文がちょこっとだけ出ている本だから、お送りしなかったんです。まことに申し訳ありませんでした」
と急いで詫びて、それ以上立ち話もできず、「じゃあ元気で」、「お元気で」と頭を下げたのが永の別れとなってしまった。
春ともなれば奥沢の川面を埋め尽くした桜花―
K兄さん、あなたは初めて上京した私に自由が丘一丘眺めのいい部屋を紹介してくださった。
K兄さん、誇り高き帝国の軍人よ。
一度ならず二度までも米国の駆逐艦に撃沈され、太平洋の波濤に投げ出され、そのつど奇跡的に友軍に救助された歴戦の勇士よ。
胸を張り、背筋を伸ばし、頬を紅潮させ、
「いくさに身を捧げしわが生涯に悔いなし」
と声を張り上げられた、在りし日のあなたの姿を私は忘れない。
み空よりあまたの豚ども天下り地球最後の日は近づけり 茫洋
Tuesday, April 28, 2009
「1年丸ごと夏目漱石」カレンダー
今日で4月が終わる。4月が終わるととうぜん5月が来る。すると4月のカレンダーとは永久にお別れとなる。それが私にはすこうし寂しいのである。
2000年の1月にサラリーマンを辞めたので私の家ではカレンダーを手に入れるのに苦労することになった。会社員をやっていると取引先からかなりの数のカレンダーを頂ける。また当時勤めていた会社でも自社製のものを作っていたから、そんな苦労は知らずにすんだ。いわば選り取り見取りで好ましいデザインのものを自宅に持ち帰って数か所にかけていた。
ところがそういう既得権?を失ってしまうと、残るのは出入りのプロパンガス屋さんとか息子が通っている授産施設の特製?カレンダー(これは何枚も購買している)くらいしか当てがなくなり、トイレなどは失礼ながら鶴岡八幡宮の年間カレンダーで我慢することに相なってしまい、そうかこれまではずいぶんバブリーな暮らしをエンジョイしておったのだなあ、とある種の感慨を懐きつついたずらに長かった俸給生活を振り返ったことだった。
そうこうするうちにわが「茫洋亭」(陋屋のことです)のあちこちが風雨と経年変化で痛みはじめ、やむなく近所のリフォーム会社に改修工事をしてもらったのだが、そこの店長さんから去年の暮に「偉人の筆跡カレンダー」という大型の豪華版を頂戴したのである。
2008年版のそれは「美を創り、拓いた偉人」というテーマのもとに、1月千利休、2月マリー・アントワネット、3月ウイリアム・ブレーク、4月オディロン・ルドン、5月堀辰雄、8月伊藤若冲、9月ジョルジュ・サンド、11月国吉康雄、12月佐伯祐三等々の著名人が実際に書いた数字だけで当月のカレンダーが構成されているという代物で、わたくしの趣味にいたく叶ったのであった。
そしてその翌年、つまり本年用に頂戴したのが、なんと「1年丸ごと夏目漱石」カレンダーであった。1年12枚の紙片はすべて別々の和洋の数字でデザインされており、上部の中央には漱石山房の原稿用紙やロンドン留学中に正岡子規に送った絵葉書などがさりげなく添えてある。いわば1年365日漱石と共に過ごそうという趣向がことのほか気に入って、曜日を確認するという本来の目的を離れて暇さえあればこのカランドリエに眺め入っているいつという次第。
聞くところによるとなんでもこの「偉人の筆跡カレンダー」シリーズは1988年の「世界の建築家・芸術家」編からはじまって翌年の「世界の音楽家」編、翌々年の「日本の文学者」編など通算22年の長い歴史を閲しており、毎年の全国カレンダー展で何度も栄えある金賞を獲得しているという。これまでいくつかの素敵なカレンダーに巡りあったが、個人的にはこのMホーム社のものがいちばん気に入っている。
♪フィリピン210円エクアドル350円台湾420円さあどれを買おうか3つのバナナ
茫洋
Monday, April 27, 2009
西御門の「旧里見弴邸」を訪ねて
鎌倉の西御門は幕府の西側の門があった場所ですが、かつてこの近辺には作家の江藤淳や外交官の加瀬俊一、そして白樺派の作家である里見弴などが住んでいました。加瀬邸は氏が最近亡くなられて間もないというのに跡形もなく取り壊されて別の安直な住宅になってしまいましたが、旧里見邸はいまなお「石川邸・西御門サローネ」として健在です。
里見弴は長兄が作家の有島武郎、次兄が画家の有島生馬で、この3人を3馬鹿トリオではなく団子三兄弟でもなく、なんと「有島芸術三兄弟」と呼びならわしております。
弴の恩師は作家の泉鏡花ですが、彼は恩師の文学世界とはあまり関係がなさそうな「善心悪心」、「多情佛心」、「極楽とんぼ」などの作品を書き、その業績はもてない男、小谷野敦氏の伝記などによって近年急速に再評価されています。
永井龍男が随筆「里見さんの家」で書いているとおり、この建物は大正15年に作家がみずから設計しました。里見はまったく素人のくせに建築趣味があって当時完成したばかりのライトの帝国ホテルなどを熱心に研究したそうですが、この洋館のロビーや暖炉のある応接間やアールデコ風の装飾などになんとなくその影響が感じられます。
洋館の隣には彼が知り合いの大工に命じて造らせた仕事場兼茶室として使った茅葺の和室もありますが、これなら素人でもできそうです。しかし和と洋の良さを生かしきったこの快適な生活空間を建築のけの字も知らないアマチュアが設計してしまったとは驚きです。
里見弴は鎌倉のあちこちを激しく転居しています。最近取り壊されてじつにつまらない普通の家になってしまったかつての扇が谷の自邸とそのエントランスをなしていた見事な日本庭園も、いつまでもそこに居たいと感じさせる日本画のような情趣にあふれていました。
また彼は最近まで鎌倉にあり、現在では遠く長野県に移築された次兄有島生馬の住居、それから裏駅のいまスターバックスがある場所にあった漫画家横山隆一のアトリエと住居も設計したそうですが、その話を聞いた私は、横山隆一の「おとぎプロ」の入り口にあった大きな褐色のモニュメントを思い出しました。もしかするとあれも弴の作品だったのでしょうか。
♪8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る 茫洋
♪見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙
ロッシーニのオペラ・ブッファ「新聞」を視聴する
スタンダールによって「ナポレオンは死んだがロッシーニが誕生した」と称された音楽家のオペラ「新聞(ガゼッタ)」をビデオで堪能しました。
05年7月10日にスペインのリセウ歌劇場でその管弦楽団・合唱団をマウリチオ・パルバチーニが指揮した公演のライブでしたがなかなか楽しめました。
お話の筋はここに書いてもしようがないほどいい加減なもので、ともかくイタリアのお金持ちの男が自分の娘の夫にふさわしい人物を新聞広告で募ったところ、クエーカー教徒やイスラム教徒やトルコ人、アフリカ人など世界各地から希望者がおしかけ、すでに恋人がいた娘とでたらめな父親との間にさまざまな騒動が盛り上がるのですが、最後には例によって例のごとくお決まりのハッピーエンドに滑り込むという他愛がなくとも十分に楽しめるオペラ・ブッファの傑作です。
歌手ではヒロインの娘リゼッタ役を歌って演じているスタイル抜群で超セクシーなティレツィア・フォルラがダントツにチャーミングで、恋人のフィリッポ役のピエトロ・スパーリョともども、さながら雌雄2羽の鳥が次第次第に壮絶に鳴き交わし合うようなロッシーニお得意のクレッシェンドでは、白熱の歌合戦を繰り広げて満場の拍手喝采を呼んでいます。
指揮者もベテランの味をたっぷり出していますが、しかしそれ以上に賞賛すべきは、この公演の美術・衣装をも担当した(ノーベル文学賞受賞者でもあるという!)ダリオ・クオーの素晴らしい演出。美しく幻想的な色彩の氾濫はそれ自身が雄弁な音楽であるといっても過言ではないと思います。
♪蝶と見えまた花と見え散る桜 茫洋
Saturday, April 25, 2009
ポネル、ベーム、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴する
これまでモーツアルトのオペラの演出はポネル、指揮はベームと長きにわたって信じ込んでいましたが、レーザーディスクからDVDに音源を移そうと久しぶりに「フィガロの結婚」を勢い込んで視聴してみたところ、やはり演奏も演出もいささか古色蒼然としていて、かつてあれほど牢固として確立していたはずのおのれの信念がかすかに揺らぐのを覚え、少し落胆しないわけにはいきませんでした。
もちろん古いものは古いなりに良いのですが、続々と登場する新しい演奏、例えば食えない狸爺のアルノンクールや嫌味な突貫小僧ハーディングなどの演奏に接し続けていると「こいつ軽佻浮薄な奴め」と思いつつもいつしかこちらの耳が馴染んできます。そして、「汚染された」その耳で過去の名演奏を聴くと、その古めかしさが厭でも耳につくのです。
しかし改めて名匠ジャン・ピエール・ポネルの演出に注目してみると、このライブではなく映画版のそれでは伯爵と従者フィガロの階級対立がじつに先鋭に描かれていることに気付きます。そして伯爵夫人を痛めつける伯爵の暴力的な攻撃の凄まじいこと。フィッシャー・ディースカウにブン殴られたキリ・テ・カナワの表情は痛々しい限りですが、こういうところがポネル以降の新進気鋭の演出家にどんどん取り入れられるようになり、ついには伯爵への意趣返しにケルビーノと寝てこの美少年を後年の色魔ドン・ジョバンニに成長させる手引を行わせるという先進的?な演出までもたらすようになったのでしょう。
細かいところでは、第2幕冒頭のこの伯爵夫人の哀切極まりないアリアの箇所などでは声は聞こえても映像の彼女は歌わず幸福であった新婚時代の回想シーンが写し出されるのですがこれはいささか通俗的に過ぎますし、終幕の夜の森のシーンでヘルマン・プライのフィガロを追おうとしてさかんにカメラがパンしたり、ズームしたりするのも気になります。
しかしカール・ベーム翁とウイーンフィルの面々の懐かしい演奏に耳を傾けると、テンポはとてもゆったりしていて、スザンナ役のミレルラ・フレーニなどの歌手たちも美しい旋律を心ゆくまで歌いあげており、ちょっとした間奏曲や行進曲のひとくさりにしても、「やはりモーツアルトはこうでなければ」という思いがしみじみとこみ上げてきます。
モーツアルト以降のえぐいロマン派の音楽と違って、モーツアルトではわずか数小節の間に恋が生まれ、死に、また蘇ります。なんの不自然さも違和感も説明もなしに。モーツアルトにおいては瞬間毎に人の世の真実が書き換えられるのです。その新鮮さに接したときの驚きがモーツアルトを聴くよろこびなのでしょう。
いずれにしてもベームも、ポネルも、名コンマスのヘッツエルも冥界の人となってしまいました。ミレルラ・フレーニはいまだ健在のようですが、かつて英国で華やかに活躍したキリは、クラシック界を去ってもうずいぶんになります。最近はいったいどうしているのだろう。それにしても、歌手の盛りは長いようでやはり今年の桜のように短いな、と思いつつ深夜のブラウン管を切ったことでした。
♪「そりゃあ酷ですよ」緒方拳のドラマのセリフを唱える息子 茫洋
Friday, April 24, 2009
60年代のメンズカジュアル
60年代のメンズ・カジュアルファッションといえばなんといってもジーンズでしょう。アメ横には米軍から放出された大量のジーンズが人気を集めていました。
1964年に「平凡パンチ」、66年には「週刊プレイボーイ」が創刊され、VANに代表されるアイビールックとJUNなどのコンチネンタルルックが覇を競い、TPOなる言葉が石津謙介氏によって流行語となりました。
60年代後半からはベトナム戦争が泥沼化し世界各地で反戦運動が起こります。パリの5月革命、日本の全共闘運動などを背景にカウンターカルチャーが全盛となり新しい思想文化、とりわけ先鋭的なモードが全世界で澎湃として巻き起こってきました。
例えば英国で起こった服飾の新潮流モッズはmodernの略ですが、50年代終わりのロンドンで誕生し、ビートルズなど時代の先端を行く若者や服装の代名詞となっただけでなく日本のGSにも大きな影響を与えました。
また米国原産のサイケデリックは、ヒッピーで流行したLSDによる幻覚を指し、これが現代アートに激烈に作用します。そして前記のモッズと後者のサイケがヒッピーファッションに大合流し、当時の若者の服飾の主流を形成するようになるのです。
67年に登場した新宿フーテン族、演劇では寺山修司「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」などのアングラ、そして69年には新宿西口でフォークゲリラが激発します。広告の世界では「モーレツからビューティフルへ」「フィーリング」などという言葉が流行語となる頃、モードの古典的な規範は崩壊に近づきつつありました。モードの底が、いったん抜け落ち、擬制の自由とやらにみな酔った振りをしたのです。
長髪と反アイビーの西海岸ジーンズなどが、反体制のシンボルとして定着し、「アンチ・ファッションという名のファッション」が市民権を得たわけです。続いて西海岸に発生した数々のアウトドアルック、パンク、そしてさまざまなイタリアンカジュアル。80年代まで世界中で疾風怒涛のファッド旋風が吹き荒れます。私がベルボトムをはき、ヘレンカーチス第2液を買ってきてはじめてパーマをかけたのもこの頃でした。
♪8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る 茫洋
♪見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙
Thursday, April 23, 2009
猫と辞書
箱根の湿生花園で2匹の野良猫がひなたぼっこしていました。
さて、その「猫」をちょっと辞典で引いてみましょう。
「広辞苑」(岩波書店)
広くはネコ目(食肉類)ネコ科の哺乳類のうち小形のものの総称。体はしなやかで、鞘に引き込むことのできる爪。ざらざらした舌、鋭い感覚のひげ、足うらの肉球などが特徴。一般的には家畜の猫ろいう。エジプト時代から鼠害対策としてリビアネコ(ヨーロッパヤマネコ)を飼育、家畜化したとされ、当時神聖視された。現在では愛玩用。在来種の和ネコは奈良時代に中国から渡来したとされる。古称ねこま。
「大辞泉」(小学館)
「ね」は鳴き声の擬声、「こ」は親愛の気持ちを表す接尾語。食肉目ネコ科の哺乳類。体はしなやかで、足裏に肉球があり、爪を鞘に収めることができる。口のまわりや目の上に長いひげがあり、感覚器として重要。舌はとげ状の突起で覆われ、ざらつく。夜行性で、目に反射板状の構造をもち、光って見える。瞳孔は暗所で円形に開き、明所で細く狭くなる。単独で暮らす。家猫はネズミ駆除のためリビアヤマネコやヨーロッパヤマネコなどから馴化(じゅんか)されたもの。起源はエジプト王朝時代にさかのぼり、さまざまな品種がある。日本ネコは中国から渡来したといわれ、毛色により烏猫・虎猫・三毛猫・斑(ぶち)猫などという。ネコ科にはヤマネコ・トラ・ヒョウ・ライオン・チーターなども含まれる。
「大辞林」(三省堂)
食肉目ネコ科の哺乳類。体長 50cm内外。毛色は多様。指先にはしまい込むことのできるかぎ爪がある。足裏には肉球が発達し、音をたてずに歩く。夜行性で、瞳孔は円形から針状まで大きく変化する。本来は肉食性。舌は鋭い小突起でおおわれ、ザラザラしている。長いひげは感覚器官の一つ。ペルシャネコ・シャムネコ・ビルマネコなど品種が多い。古代エジプト以来神聖な動物とされる一方、魔性のものともされる。愛玩用・ネズミ駆除用として飼われる。古名、ねこま。
なーるほど。だいたい似たりよったり、大同小異というところ。
しかしちょっと待て。私の大好きな大槻文彦さんのを読んでみてほしい。
「新訂大言海」(冨山房)
ねこまの下略。寝高麗の義などにて韓国渡来のものか。(中略)人家に畜う小さき獣、人の知るところなり。温従にして馴れやすくまたよく鼠を捕うれば畜う。形、虎に似て2尺に足らず。睡りを好み寒を畏る。毛色、白、黒、黄、駁等、種々なり。その瞳朝は円く、次第に縮みて正午は針のごとく、午後また次第にひろがりて、晩は再び玉のごとし。陰所にては常に円し。(後略)
どうですか。これこそが辞書らしい辞書というものでしょう。「その瞳朝は円く、次第に縮みて正午は針のごとく、午後また次第にひろがりて、晩は再び玉のごとし」などという下りなど、猫という対象を、まるでセザンヌかゴッホのように真剣に見つめて1語1語を自分の言葉で書いている。観察が鋭く、それになによりも愛情がこもっているではありませんか。
これに比べると他の辞書など生きた人間ではなくまるでロボットが代筆しているような気がしませんか。しかも現在わが国で出版されているすべての国語辞書が規範にし参考にしたのがこの大槻文彦が明治24年に出版した「言海」(ことばのうみ)であると知れば、現代の国語辞典は過去1世紀余りの間にその表現方法においてもっとも大切なものを見失ってしまったと言わざるを得ません。
♪酔っ払って裸になって叫ぶ人それをわざわざ警察に突き出す人 茫洋
♪われもまた酔って全裸で叫んでみたし
♪君たちも一緒に裸で叫びなさいガタガタ騒ぐなアホ馬鹿マスコミ
Wednesday, April 22, 2009
こんにちは、ベンジャミン
雨上がりの午後、散歩でもしようかと玄関を出た私は思わぬ光景にびっくり仰天しました。鉢植えのスミレになんとアオバセセリが蜜を吸いにきているのです。
アオバセセリを漢字で書けば青羽挵蝶、学名choaspes benjamini。分布は青森県から八重山諸島。九州以北では年2回(5~6月、7~8月)の発生。飛び方は速く、雄は林間の空地などで長時間同じコースを飛ぶ。幼虫の食卓はアワブキ科のアワブキ、ヤマビワなど。越冬態は蛹。
などと図鑑に出ています。
この近所にはヤマビワはありませんが、アワブキならたしかどこかで見たことがあります。、燃やすと切り口から泡が出るというあの樹木の葉を食べながら育った幼虫が、この暖かさにうかうかと羽化してしまったのでしょうか。だからこんなに小さいのかしら。
私がこれまでにたった2度ほど見掛けたアオバセセリは開張45~50センチでかなり大型でしたが、これは30センチくらいの小型です。しかし、よくも私の家に迷い込んでくれたこと。同じ木を食草とするシミナガシやカアオアイを食べるギフチョウともどももう生きている間は二度とお目にかかることはないだろうと思っていただけに、私はほんとうにうれしくなりました。
最近は仕事に恵まれず、いろいろ行く末について思い悩むことが多く、毎日鬱々と朝比奈峠を猫背で歩いていた私は、これこそはさだめし天からのよき便りであろう、と久しぶりに痛む背中をますぐに伸ばして4月の青い空を仰いだことでした。
思えば今を去る01年の夏に、私はなんとなく、ほんとうに何心なくこんな俳句を詠んだことがありますが、今日はじめてアオバセセリの学名を知って、私は思わず、「ああ、僕は長い間きみに会いたかったんだ」と思ったことでした。
♪ベンジャミンてふ名の友を持ちたきこの夕べ 茫洋
Tuesday, April 21, 2009
既製服の台頭
ふぁっちょん幻論 第48回
昭和45年1970年ごろに米国からもたらされた、「人間工学に基づいたスーツの仕立て技術」。これがオーダーメイドを駆逐し既製服の時代を切りひらきました。
例えば故石津謙介氏が設立したVANのアイビールックは、米国式工業生産システムが生んだ胴をシェープしないボクシー(箱型)な直線的シルエットが特徴でした。そして当時はVAN、JUN、ACEなどの既製服ブランドが相次いでヤング世代のおしゃれ心をしっかりとつかみ、これが世代を超えた「注文服離れ」を惹き起こしたのです。
その一方では、前回にも述べたように欧州の洗練された高級既製服(プレタポルテスーツ)が日本に進出し、例えばピエール・カルダンのエッフェル塔のようなパゴットラインなる最新モードも登場。その他テッド・ラピドス、サンローラン、レノマなどのフランス製のメンズモードも躍進を遂げていました。
しかし昭和48年1973年の石油ショックがオーダーメイド業界にとどめを刺しました。その影響によって最盛期には10万人を数えたテーラー人口が、その4年後にはたった1万人に激減してしまったのです。
これをデータで見ると、わが国の1969年の既製服化率はおよそ45%でしたが、当時欧米のそれは95%の多きに達しており、日本のみならずメンズスーツのプレタポルテ化現象は全世界の先進国に及んでいたということが分かります。
ちなみに現在の大手服飾メーカーの生産仕様は、90年代に採用されたドイツ縫製メーカーの「M仕様」が主流であり、ここにも依然として欧米モデルに依拠するわが国メーカーのお得意パターンがひそかに生き延びていることが分かります。
♪かつてわが勤めし会社よ強欲の投資ファンドの餌食となりたり 茫洋
Monday, April 20, 2009
ムーティ指揮スカラ座でヴェルディの「ファルスタッフ」を視聴する
ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」はシェークスピアの「ウゥンザーの陽気な女房たち」を原作にしたオペラです。
シェークスピア原作による彼のオペラはほかに「マクベス」と「オテロ」があってどれも傑作ですが、ヴェルディ最後の作品となったこの「ファルスタッフ」はそれらを凌駕するのみならず、私見では彼の最大の傑作だと思います。
そのことは処女作の1839年の「オベルト」から42年ノ「ナブッコ」、47年の「マクベス」、53年の「椿姫」、57年の「シモンボッカネグラ」、59年の「仮面舞踏会」、67年の「ドンカルロ」、71年の「アイーダ」、87年の「オテロ」、そして93年遺作となったこの「ファルスタッフ」と順番に聴き進めていくと誰の耳にも明らかになるのではないでしょうか。ヴェルディは88歳の生涯の80歳の年の最後の作品で彼の最高の作品を書いたのです。
「ファルスタッフ」は陽気で悪知恵が働き好色で酒と料理と金儲けには目がない太鼓腹のおいぼれ騎士です。なんでもこの騎士サー・ジョン・フォルスタッフの恋物語をシェークスピアはエリザベス1世のリクエストによって創作したともいわれているようですが、まことに愛すべきキャラクターではあります。
私が今回鑑賞したのは2001年4月にヴェルディの生誕地であるイタリア・ブセートのジュゼッペ・ヴェルディ劇場で行われたリッカルド・ムーティ指揮、スカラ座の公演のライヴビデオでしたが、題名役を演じるアンブロージョ・マエストリとマドンナ役であるフォード夫人アリーチェを歌うバルバラ・フリットリが好演。ムーティとスカラ座のオーケストラなら第三幕の大詰めなどもっと盛り上がるはずですが、まずまずのバックアップといえるでしょう。
かねてから世間の鼻つまみ者であるファルスタッフは、地元ウィンザーの奥方に勝手に横恋慕したところを、住民たちやかつての従者たちの陰謀にたわいなくひっかかって、よってたかって川に投げ込まれたり、真夜中の森で袋叩きにされるなど、じつに気の毒な目に遭ってしまうのですが、その途中の展開部ではシェークスピアの「真夏の夜の夢」やモーツアルトの「フィガロの結婚」を思わせる情景が繰り広げられ、喜劇的なセリフの周囲を草の蔓のようにぐるぐる巻きにすると音楽が完全に一体化して時折は無調に突入する瞬間すらあるのです。あくまでも真実を求める言葉と音楽が、そのもっともふさわしい関係に立とうとすれば、古典的な調性は破綻せざるをえない好個の例かと思われます。
オペラでは最後に「人間はみな愚か者」という陳腐なアリアを大合唱して幕が下りるのですが、シェークスピアの原作にはそんな道徳訓はこれっぽっちもありません。私が偏愛する坪内逍遙の訳では、フォード氏の次のようなセリフで非劇的な結末を迎えるのですが、これこそが本来の終わり方であったと思うのは私だけでしょうか。
「さうしませう。ジョンさん、でも、あなたは、ブルックへの約束だけはやッぱりお守りなすたんですよ。なぜなら、あの男は今夜フォードのおかみさんと寝ますよ」
♪自閉症のわが子に優しき二人の女性いずれも拒食症を病みてけるかな 茫洋
60年代のスーツ近代化
1960年代になると西欧から優れたテーラーたちが続々わが国にやってきます。また昭和30年1964年の東京オリンピック開催時には、国際注文服業者連盟国際大会も併せて開催され、翌年から若手優秀者がロンドンのサヴィル・ロウでの研修に派遣されるようになりました。
昭和36年1961年にはパリの仕立て技術者A・クリスチャーニ、昭和39年には伊ローマからアンジェロ・リトリコ(JFK、フルシチョフ、マストロヤンニの服)、英ロンドンマスターズテーラー協会理事長のパッカー、副理事長のスタンバレー(サヴィル・ロウのテーラー「キルガー・フレンチ&スタンバレー」)などの各氏が来日、欧州仕立ての真髄を披露しました。
彼らは「日本のスーツ職人は手先は器用だが、胸のドレープの表情に乏しい、スーツ全体のボリュームがなく扁平すぎる。プロポーションが悪く、アイロンが軽すぎる」などの指摘を行ない技術の改善を指導したために、スーツの仕立て技術が大きく向上しました。
こうした技術革新の波を受けて、74年には三宅一生らの「TD6」が父上がり、72年には「ブリリアント6」が結成され、上原宗市、細野信、中右茂三郎、石川栄治、今井文治などが第1回コレクションを発表。第2回からは池田茂樹、五十嵐九十九、隅谷譲次、松田法明たちも参加し、73年には上原宗市、細野信がイタリア・サンレモのテーラーデザインコンテストで1位を受賞します。しかしこうしたオーダーメードの団体活動は、既製服業界の追い上げと職人賃金の高騰などによって、昭和60年1985年には終了してしまいます。
♪鰤頭とろとろ煮られ花曇り 茫洋
Saturday, April 18, 2009
「吾妻鏡」現代語訳 5征夷大将軍を読んで
建久元年1190年から同三年までは、源頼朝の絶頂期ではなかっただろうか。
平家一門、弟の義経に続いて奥州平泉の藤原氏を滅亡させたこの関東の武人は、相州鎌倉を拠点に都の後白河法皇との平和共存体制のもとで武家政権を確立し、関東以北を中心とした東国支配を貫徹していく。その後の日本国を象徴する権力の東西二重構造の出現である。
この三年間にどんなことが起こっただろう。鶴岡八幡宮は、大火の後で現在の地に再建され、奥州中尊寺の二階大堂を模して造営された永福寺も山紫水明の地に成り、すでに完成していた父義朝を弔う勝長寿院と合わせて豪華三点セットの七堂伽藍が完成するのである。(余談ながら私の家の近所に大慈寺が建立されて四点セットが完成するのは頼朝の死後のことになる)
その永福寺は頼朝自らが建設場所を選び、恐らくは手ずから図面を描き、何度も現地に足を運んで北条義時や畠山重忠に巨石を担がせて鎌倉二階堂に建立した平安貴族風の雅やかな御殿であり、建久三年に生まれた実朝がちょうどこの季節には花見や蹴鞠を楽しんだ寺院であった。(余談ながらこの近くには晩年の江藤淳や外交官の加瀬俊一、作家の里見敦なども住んでいた)
生涯のライバルであった後白河院亡き後、頼朝は念願の征夷大将軍に就任し、その声望は天下の頂点に到達する。同年一二月三日に生後間もない実朝を両腕に抱いて千葉常胤、三浦義澄、小山朝政、和田義盛、畠山重忠、安達盛長、梶原景時など幕府叢生の苦労をともにした御家人の前に喜色満面の笑みをたたえて姿を現した頼朝は、「此嬰児鐘愛殊に甚し、各意を一にして将来を守護せしむ可きの由、慇懃の御言葉を儘され、あまつさえ盃酒を給ふ」(岩波文庫吾妻鏡三)と原文にあるように、源家の将来を託した息子への忠誠を、心と言葉を尽くして信頼する武将たちに頼んだ。
御家人衆はそれぞれが実朝を抱き、各自がそれぞれ腰刀を献上して頼朝の要請に応えることを確約したのだが、のちの北条政権の陰惨な歴史が残酷なまでに示しているように、その大閣秀吉の晩年にも似た征夷大将軍の悲願が実現される日は、ついに訪れなかったのである。
ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは 茫洋
Friday, April 17, 2009
網野善彦著「歴史としての戦後史学」を読んで
照る日曇る日第250回
映画「舞踏会の手帖」を思わせる古文書の返却の旅
岩波書店から孜々として刊行され続けている網野善彦著作集の第18巻である。
この巻の主題は、著者が後半生の最大の責務となった「古文書の返却の旅」である。戦後の観念的な極左革命運動に挺身し、おのれの人生と学問の前途に光明を失っていた著者は、1950年になって日本常民文化研究所月島分室を主宰するやはり元左翼のシベリア帰りの文書学者、宇野脩平氏の好意によって同所に勤務することになる。
当時宇野氏はソ連の文書館を理想とした巨大なアルヒーフ建設を夢見ており、水産庁と日本常民文化研究所を動かして日本全国の漁村の古文書をねこそぎ借用し、それらを整理、編集・刊行して我が国最初の本格的な資料館を立ち上げようという大事業を計画していたが、たまたまその成り行きに飲み込まれてしまった著者も、この前代未聞の古文書借用騒動に巻き込まれることになる。
月島の小さな分室はたちまち膨大なリンゴ箱であふれかえり、それらを複写、撮影、調査、整理、整頓する人材も制度も予算も枯渇していくなかで、いたずらに数十年の歳月が流れ去った。宇野氏の功績は偉大であり、そのおかげで著者は観念的な史観を脱して実証的な文献研究の重要性にめざめ中世史研究者としての基礎を叩きこまれることにもなったのだが、その反動も大きかった。文書の大半は返却されずいたずらに死蔵されたのである。
借用文書は各所に分散し、貴重な資料提供者や研究者の怒りと抗議が舞い込み、宇野氏はじめ多くの関係者が物故するなかで、責任を痛感した著者による、さながら映画「舞踏会の手帖」を思わせる文書返却の長い長い旅路が始まるのである。
ゆいいつ救われるのが、数十年振りに返還された古文書を前にした各地の資料提供者がひたすら平身低頭する著者たちに対して示す寛容な態度であり、いったいこの不始末の落とし前はどうなるのか、と息を凝らして読み進んできた読者も、やれやれと胸をなでおろすことになる。
これらの古文書を活用して、著者たちが画期的な成果をあげた中世海民の役割再評価の研究ではあったが、二度とふたたびこのような誤りを繰り返してはならないであろう。
余談ながら本書176pに、渋沢敬三が高く評価している民俗学者として、敬愛する磯貝勇氏の名前が出てきたのはうれしかった。渋沢敬三が序文を寄せ、磯貝氏が郷里の由良川の源流や故事や風俗についてとつとつと語った「丹波の話」(昭和31年東書房刊)こそは、わが枕頭の書なのである。
♪口丹波由良川の水澄みわたり蚕の里をゆるゆる巡る 茫洋
箱根に行ってきました
鳥歌い花は弾けて水緩み箱根全山笑いさざめく
懐かしき巡り合いかな地に伏して万事を捨ててなお眠る人
猫どもは恐れも知らず日溜まりに遊び戯れ眠り呆けたり
名も知らぬあまたの花が咲き乱れシュレーゲル蛙鳴く湿生花園
いちりんそう咲きにりんそう咲く花の園さんりんそう求めて池を巡りき
外輪山の雲間を裂きて薄日差しミズバショウの池蛙声さわがし
ひさかたの光のどけき花の園カタクリ散れどマメザクラ咲きたり
腰を折りマイクを振りて歌うなり息子のおはこ千の風に乗って
青池様のおかげをもちて訪れし箱根の森に広がる笑顔
Wednesday, April 15, 2009
偉大な指揮者 凡庸な指揮者
ウィーン国立歌劇場再開50周年記念ガラコンサートの映像を見ていて思うのは、最初の一振りで、ああ、こりゃあだめだ、というできの悪い指揮者と、「おおこれは!」と声にならない感嘆の声がでてしまうかのカルロスタイプの指揮者がやはりいるなあ、という当たり前の事実であり、その証拠に前者の最たるものがわが国を代表する世界のO氏であったのは今日のこの日のハレの舞台の演奏でもまったく変わらず、冒頭の序曲レオノーレにしてもフィナーレのフィデリオの終曲の合唱にしてもリズムもアジア風?のみようちくりんなものだし、こんな強引な変拍子に無理やり付き合わされているウイーンフィルも世界に冠たる名だたる名独唱者も気の毒と言えば気の毒だったが、そーゆーお馴染みの憂鬱をぶっ飛ばしてくれたのがかのダニエレ・ガティ選手とクリスチアン・ティ-レマン選手のオペラの、「音楽とはこうゆうもんじゃ」、といわんばかりの堂に入り壺にぴたりはまった妙技であり、目も覚めるような光彩陸離たるヴェルディやワーグナーやシュトラウスやをさんざん聴かされると、やはり音楽を生かすも殺すも指揮者の棒次第だなあとまたしても思わされたのだが、現在ウィーン国立歌劇場のシェフであるO氏の後任に決まっている墺国自慢のフランツ・ウエルザー・メスト君が出てきて細長い指揮棒を一閃した直後に出てきたとんでもなくとろい音響に腰を抜かすほど驚かされ、やれやれこれではウィーンのオペラ・ファンも二代続けてかくも凡庸な指揮者の音楽を聴かされるとはじつに気の毒なことよと同情せざるを得なかったわけだが、最後に一言わが国民的アイドルであるO氏の名誉のために付け加えておくと、この人が04年6月のザルツブルク音楽祭で同じオーケストラを指揮してベンジャミン・シュミッドが独奏したコルンゴルドのバイオリン協奏曲の演奏(OEHMS)はなかなかであった。もっとも曲自体が誰が演奏しても素晴らしいうえにシュミッドの腕前が冴えわたっていたからだけど。
♪新宿直久のラーメン&餃子セット750円喰らいおれば黄昏る黄昏る俺っちの人生が 茫洋
Tuesday, April 14, 2009
メンズモードの戦中・戦後
昭和12年1937年に日中戦争、昭和16年1941年にはアジア太平洋戦争が勃発するとメンズモードも決定的な影響をこうむりました。仕立て職人たちはどんどん戦場にやられ、おしゃれもへったくれもないファッションの不毛の時代に突入したのです。
カーキ色のウールの軍服がのさばり、「国民服」が大手を振ってまかり通る暗黒時代の訪れでした。そのなかでかろうじてVゾーンだけがささやかなおしゃれのスペース、自由の証だったのかもしれません。
「五族協和」、「八紘一宇」のいんちきスローガンのもと、後発帝国主義の代表選手としてアジアに覇を唱えようとした日本は、ほとんど全世界を向こうに回して、なんの目算もなく愚かで狂気の海外侵略戦争に乗り出し、およそ310万の犠牲者を出して完膚なきまでに敗れました。
しかし朝のこない夜がないように、ファッション界にもまた新しい太陽が昇るようになりました。復興への道がようやく前途に現れたのです。昭和24年には第1回全日本紳士服技術コンクールが開催され、第1席には佃鶴次郎、第2席に中右茂三郎が入りました。そしてその翌年の朝鮮戦争による特需景気でテーラー業界は急成長を遂げます。
昭和34年の岩戸景気の頃には、既製服のスーツは生産量650万着で平均価格は8000円。これに対してオーダーメードは430万着で、価格は平均1着18000円でした。
オーダーメードが既製服の価格の2倍になったとき、双方のシェアは半々になり、4倍になるとオーダーメード需要は10%を割る。これが(業界だけで)有名な「既製服とオーダーメードの法則」といわれるものですが、その後既製服はどんどんオーダーメードに肉薄するようになるのです。
春の日の桜が丘の小田急に両脚切られて泣き笑う男 茫洋
Monday, April 13, 2009
葛原岡を訪ねて
葛原岡(くずはらおか)神社の祭神は後醍醐天皇の側近、日野俊基卿です。日野家は先祖代々文章博士の家柄で俊基も当代きってのインテリ公家だったそうです。
俊基は同じ日野家の資朝卿とともに後醍醐天皇を中心とした討幕計画を進めます。修験者に扮装して紀伊の国に赴き楠正成などの武将の参画を得ようとしきりに活動していたのですが、密告により幕府に露見し、京都六波羅にとらわれの身となります。世に正中の変と称される事件です。
許された俊基はふたたび討幕計画を進めますが、これまた幕府の知るところとなり、元弘元年1331年僧文観、円観とともに捕われ(元弘の変)て鎌倉に護送され、後醍醐天皇は隠岐へ流されてしまいます。
そしてこの年の6月3日、俊基は当時刑場であったここ葛原が岡において、
秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらむ
古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清
の辞世を残し、恨みを呑んで処刑されました。
以上は「葛原岡神社由緒」からの自由な引用ですが、この地はきっと秋になれば葛の花が咲き誇りカラスアゲハが乱舞したのではないでしょうか。おそらく鎌倉時代の「異境」として商取引や芸能、そして処刑が行われたこの山の近辺には、いつ訪れてもどこか無常の風が吹き募っているように感じられます。
頂を一気に駆け下りれば、そこは新田義貞がしゃにむに攻めた化粧坂です。義貞はこの狭隘な坂道を突破することができず、遠く迂回して稲村ケ崎から鎌倉の市内に乱入したのでした。
♪三十六の燃ゆる瞳に見つめられ二十の春にたちかえりけり 茫洋
MARIA CALLAS 「The Complete Studio Recordings」を聴きながら
マリア・カラスが1949年から1969年までスタジオでレコードした全69枚のCDを1枚140円のEMIの廉価盤で入手し、毎日毎晩舐めるようにして聴いています。いわゆるひとつの至福のいっときというやつでしょう。
まずは49年11月8日から10日にかけてイタリアのトリノで録音された最初のリサイタルを聴いて驚きました。アルトゥーロ・バジーレ指揮、トリノイタリア放送交響楽団の伴奏に乗せておもむろに歌いはじめた「イゾルデの愛の死」は、録音こそ古いもののまさしくカラスの胴間声。いささか青臭く、なんとなく自信なさげで、未熟といえば未熟な歌唱ではありますが、時折聴こえてくるどすの効いた迫真のサビとうなりはすでに自家薬籠中のものとなっています。
そうなのです。ハイCで切開される鋭い線のような高音はもちろんですが、このブルブル震えるような低音こそが、カラスなのです。一度聴いたら二度と忘れられなくなる、懐かしくも恐ろしいその声。聞く者の内臓に食い入り、深々と肺腑をえぐっては泣かせる、この表情豊かで戦慄的なバスの音色こそが、カラスという人の専売特許なのです。
ベルリーニの「ノルマ」と「清教徒」からのアリアの抜粋もじつに見事なもの。まさに「栴檀は双葉より芳し」を地でいく鮮烈なデビュー振りといえるでしょう。
今度は一転して、最晩年のカラスを聴いてみることにしました。69年2月と3月にパリのサル・ワグラムで録音された本当に最終期のカラスの歌唱です。
カラスは、ニコラ・レッシーニョの指揮するオルケストラ・ドゥ・ラ・コンセルバトワール管をバックに、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」、「アッティラ」、そして「イ・ロンバルディ」からの3つのアリアを、かすれるような声で懸命に歌っていますが、音程は下がり、あの豊かだった胴間声は激しくきしみ、さながら魔女の断末魔の叫びのようにも聴こえます。
しかしその蹌踉たる絶叫のなかに、私は無残な老醜をそれと知りつつ超克しようとする女の誇りと意地のようなものを感じ取り、一掬の涙を銀盤に灌いだことでした。
♪老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く 茫洋
Saturday, April 11, 2009
「超流行上口中等洋服店」
これまで明治維新以降のわが国の洋服化の歴史について縷々述べてきましたが、実際は和服に親しむ人たちの潜勢力は根強いものがあり、ようやく大正13年の関東大震災以来、洋服が次第に定着することになったのでした。
昭和7年1932年12月16日、日本橋の白木屋本店(現在のコレド日本橋)で火災が発生し、死者14名、重傷者21名の惨事となりましたが、このとき着物を着ていて、消防夫に下からのぞかれることを苦にして逃げ遅れて亡くなった女性がいたそうですが、この話を伝え聞いた多くの人々が洋装に切り替えたといわれます。
さて「ふぁっちょん幻論43回」で木村慶一、山崎隆造、丸山幸作などメンズの偉大な師匠たちをご紹介しましたが、昭和を代表する個性的なテーラーといえば、(私の母の身内であるという身贔屓からではなく)、まずは上口愚朗(作次郎)に指を屈することになるでしょう。
上口愚朗は、明治25年に東京の谷中で生まれました。彼は小学校を卆業後、宮内省御用の大谷洋服店に弟子入りしテーラーとしての腕を磨きました。当時の慣習に従って丁稚奉公しながら自学自習に励んだようですが、ボタンホールの手縫いの精密さはピカイチだったそうです。
そして大正末期に「超流行上口中等洋服店」を開店したのですが、なんといってもこのネーミングが最高ですね。当時はモガ・モボが新古典派、和服地モーニングなどで銀座を徘徊していました。「超流行上口中等洋服店」のポリシーは、“客自らが来店しないと作らない。値段は教えない。国産生地は使わない。採寸せずに仕立てる”という猛烈なものだったそうですが、逆にこれが人気を呼んで棟方志功など熱烈な愛好者たちが谷中に殺到したそうです。
昭和初期の背広の仕立代は1着25円だったのに、この店では100円以上。ファンから稼いだ金で上口愚朗は江戸時代の大名時計や中国・韓国・日本の茶陶器を収集し、これが現在の谷中の「大名時計博物館」の貴重なコレクションになったのです。
上口愚朗は昭和13年に川喜田半泥子を訪ねて作陶に打ち込み、井戸、志野、黄瀬戸、唐津、古瀬戸、山茶碗、彫三島、天目掻落し、独創的な野獣派陶碗などを彼独自の「ウンコ哲学」で制作しましたが、昭和45年に78歳で没しました。私の祖父も、彼が作ってくれた背広を長く愛用していたそうですが、もはや影も形もないことが残念でなりません。
♪桜散るわが仕出かししことの後始末 茫洋
Friday, April 10, 2009
春の点鬼簿 K兄に
新宿駅西口のいちばん代々木に近いトイレから、下のボタンをはめながら出てくるK兄さんと出くわした。
「おお」、と「おお」、「久しぶり」と「お久しぶり」とが期せずしてぶつかった。
折しもラッシュアワーで大混雑する駅構内、
「いまちょうど紀伊国屋でね、君の本を買いに行ってきたんだ」
「あんなくだらない本をわざわざ奥沢から買いにいらしたとは。あれは共著で短い文がちょこっとだけ出ている本だから、お送りしなかったんです。まことに申し訳ありませんでした」
と急いで詫びて、それ以上立ち話もできず、「じゃあ元気で」、「お元気で」と頭を下げたのが永の別れとなってしまった。
春ともなれば奥沢の川面を埋め尽くした桜花―
K兄さん、あなたは初めて上京した私に自由が丘で一等眺めのいい部屋を紹介してくださった。
そしてK兄さん、誇り高き帝国の軍人よ。
一度ならず二度までも米国の戦艦に撃沈され、鱶がうようよ泳いでいる太平洋の波濤に投げ出され、そのつど奇跡的に友軍に救助された歴戦の勇士よ。
胸を張り、背筋を伸ばし、頬を紅潮させ、
「いくさに身を捧げしわが生涯に悔いなし」
と声を張り上げられた、在りし日のあなたの姿を私は忘れない。
桜咲く生きてさえあればそれでよし 茫洋
Thursday, April 09, 2009
フランツ・カフカ著・池内紀訳「失踪者」を読んで
以前新潮社から出ていたこの作品は、タイトルが「アメリカ」で、主人公の少年は17歳ではなく、16歳になっていました。それだけではなく物語の最後が今回の池内紀氏の翻訳とは少し違っていました。
どうしてこんなことが起こったかというと、旧訳の1927年版はカフカ全集を編集したマックス・ブロートの構成によるものでしたが、カフカの死後70年余りたった1983年になって、作家がある友人にあずけていた自筆の生原稿が出てきて、これはその貴重な手稿版の翻訳なのです。同時に題名もブロートが命名した「アメリカ」からカフカが日記にメモしていた「失踪者」に変わったというわけです。
「失踪者」はカフカの就職活動を扱った一種の「シュウカツ小説」です。世界の果てまで自分にもっともふさわしい居場所と働き場所を探し続ける若者の物語です。
そしてカフカのすべての物語がそうであるように、第1行を書き下ろすや否や、物語は後先構わずまっしぐらに前進、前進、また前進します。この前のめりの疾走感覚、失敗を恐れない無謀な前駆機動想像力こそが、この作家の最大の持ち味なのです。
カフカの分身である主人公カール・ロスマンは、いまはやりの17歳の草食動物少年です。カールは郷里プラハの実家で女中に逆レイプされて子供が出来てしまい、少年の行く末を案じた両親は、大きなトランクとこうもり傘だけを持たせて、はるばる新天地アメリカまで旅立たせます。「可愛い子には旅をさせよ」を、地で、いや海で行ったわけですが、この物語の冒頭ではどことなくドボルザークの新世界交響曲の遠い響きがこだましているような気がいたします。
無事にニューヨークの港に到着したものの、カールを待ち受けているのは異国の人々のおおむねは冷たい仕打ち、時折はやさしいはからいです。船中での喜劇的なやりとりのあと、カールの「アメリカの伯父さん」が突如登場して主人公を温かく迎えてくれますが、これがカフカ的不条理であっというまに掌が返され、再び放浪の身に。ようやくホテル・オクシデンタルのエレベーターボーイにありついたものの、悪友につきまとわれて首になり、流れ流れて理想のエンターテインメント施設、オクラホマ劇場の技術者として就職することになります。
オクラホマ劇場は、無理やり日本に当てはめるとディズニーランド、いや岡山の木下サーカスに似ています。ここはおそらく現役で唯一の国産サーカスで、毎年大卒を募集しています。初任給なんと26万円でフジテレビと同じですが、こんな不毛?の職場よりももっともっと夢とロマンにあふれているに違いありません。
物語の最後の場面は、かつてニューヨークのメトロポリタン歌劇場がセントラルステーションから全米夏季巡業に出発した華やかな光景を彷彿とさせ、カールの苦悩に満ち満ちた「シュウカツ」は、ここでついに幸福な結末を迎えるのです。
♪世界の果てまで自分にふさわしい仕事を探し続けたりフランツ・カフカ 茫洋
Wednesday, April 08, 2009
日本とイタリアの背広の違い
ふぁっちょん幻論 第44回
スーツは微妙な有機物ですから、壁紙に包まれたような着心地では絶対にだめです。人間と一緒に動く服でなければ本物ではありません。ところが明治、大正、昭和と日本のテーラーが引くパターンは、体には合うが画一的で無個性になりがちでした。
欧米のテーラーは彫刻的な造型ラインをフリーハンドで描けます。とりわけイタリアのサルトリア(仕立て屋)では1針ごとの正確さよりも全体的な柔らかな着心地にこだわるのが特徴です。例えば背広のラペルの裏側のハ刺しで襟と芯に馴染みが良くなる、というように。
ミラノの著名なサルトリアであるA・カラチェニは、フィアットの元会長ジャンニ・アニエッリや、デザイナーのジャンフランコフェレが顧客であり、ボローニャのグイド・ボージーは指揮者のカラヤンやリッカルド・ムーティが顧客でした。このいささか芸風と体格が異なる2人のマエストロが同じテーラーの製品を着て指揮棒を振るっていたとは意外ですね。
それから南に下がってナポリの「ロンドンハウス」はマリアーノ・ルナビッチの工房で映画監督のビクトリオ・デ・シーカ監督などが顧客でした。ともかくイタリアの仕立て技術は世界屈指のもの。20世紀前半に英国で完成された紳士服スタイルを現代のニーズに合わせてイタリア人がリ・デザインしたわけです。
いっぽう日本は前回にも述べたように、礼服が仕立ての最終到達点。一生ものの頑強な物作りを背広に適用したために永井荷風などが文句をいうわけです。工場にはイタリアのようにパタンメイクと縫製技術を総合的に統括する役割を担うモデリストが不在で、とにもかくにも肩くずれしない「ハンガー美人」製品ばかりがのさばるようになったのです。
それでも1957年当時の日本の背広の世界では優秀なテーラーたちがそれなりに活躍していたのですが、60年代に入ると(政治と同様に)米国既製服の下請けと化し、イタリアのように夜郎自大に自由に振舞えなかったことがいまも悔やまれます。
♪段葛降り積む桜の花びらをエアメールで送りしこともありき 茫洋
Tuesday, April 07, 2009
Monday, April 06, 2009
「東林寺跡やぐら」を尋ねて
やぐら巡りの最終回は、「東林寺跡やぐら」です。
私が愛読してやまない「鎌倉廃寺事典」は、「沙石集」の記述を引用して、泉の谷にある東林寺には塔と地蔵堂があったこと、そしてそれが守る人もなく頽廃していたことを伝えています。
また、お馴染みの「鎌倉志」には、このお寺は現存する浄光明寺の向かいにあって、その開山は浄光明寺と同じく真聖国師真阿であると伝えていますが、両寺ともに律宗のお寺として栄えていたようです。東林寺には足利尊氏の教書がありましたが現在では浄光明寺の宝物となっています。
いずれにしてもいまでは由緒ある東林寺は廃寺となり、その跡地は浄光明寺の墓地となってしまいましたが、往時の栄華のよすがを伝えるように貴重なやぐらが残っています。
そのひとつは船の舟底形天井のやぐらです。これは穴全体が住居の様相を呈しており、切妻造の屋根があり、奥壁には柱の跡や梁を渡した穴の跡が見られる立派なものです。
もうひとつはまるでアパートのように重層的な構造をもったやぐらです。1階と2階が数個の個室(龕)に分かれており他では見られない豪華で貴重なものです。
♪口笛吹くような「乙女の祈り」に変りたり4月1日鎌倉市清掃車 茫洋
Sunday, April 05, 2009
スコット・フィツジェラルド著「バビロンに帰る」を読んで
村上春樹によるスコット・フィツジェラルド短編集翻訳の2巻目です。
最近米国のみならず、この稀代のアル中作家の声望が同時代の大作家ヘミングウエイのそれを次第に圧倒していると聞きますが、それもむべなるかな、という気持ちにさせられる珠玉のような名編(と偉大な失敗作ぞろい)です。
フィツジェラルドの最大の特徴は、(村上春樹選手の日本語訳で読む限り、という注釈つきですが)その文章の天才的なうまさにあるといえましょう。
例えば、最初におかれた短編「ジェリービーン」の冒頭は、
「ジム・パウエルはジェリービーン(のらくら)だった。私だって彼のことを魅力的な人物として描きたい気持ちはやまやまなのだが、でもそれでは読者に嘘をつくことになる。彼は生まれながらの、まさに骨の髄からの、99%のジェリービーンだった。」
というもので、じつにうまいものですね。
次の作品「カトグラスの鉢」のはじまりは、
「旧石器時代があり、新石器時代があり、青銅器時代があり、そして長い年月のあとにカットグラス時代がやってきた。」
というもので、こういう文章はつい真似をしたくなりますがところがどっこい、なかなか様にならないものなんですね。(ちなみに素晴らしいのは序幕だけではありません。本書100pからフィナーレまでは疑いもなくフィツジェラルドが生涯に書いた最高の数ページでしょう)
お次はパリのアメリカ人が出てくる「新緑」ですが、これは
「ブーローニュの森の屋外席で食事ができるくらいに暖かくなった。それが最初の日だった。栗の花はテーブルの上をはらはらと舞って、我がもの顔にバターやワインの上に落ちた。」
というもので、こんなのを読まされると思わずパリに行きたくなってしまいますね。
では表題作の「バビロンに帰る」がどうなっているかといいますと、これが村上選手が激賞しているようにとんでもない代物で、いきなり主人公とバーのマスターの会話からはじまります。
「それでミスタ・キャンベルは何処にいるんだろう?」とチャーリーは訊いてみた。
「スイスに行ってしまわれました。ミスタ・キャンベルは具合がおよろしくないんですよ、ミスタ・ウェールズ」
29年の世界恐慌でジャズエイジの黄金時代が一夜にして崩壊し、失われた世代の自己恢復の痛苦な物語がここからはじまるのですが、この渋くさりげないオープニングに一驚された方はぜひとも本書を手にとって頂きたいものであります。
♪テポドンを嚥下しにけり春の海 茫洋
Saturday, April 04, 2009
鎌倉の花の都に遊びけり
春の日の昼下がり、桜見物を兼ねて北鎌倉の「台(だい)の峯」に行ってきました。案内人は最近岩波書店から写真集「鎌倉の森 台峯」を出版された写真家の関戸勇さんです。
1964年、鎌倉では作家の大仏次郎などの提唱で鶴岡八幡宮の裏山一帯を市民が買い上げることに成功しました。これが日本で初めて実現したナショナルトラスト運動(貴重な歴史的自然環境を市民が買い上げる)でしたが、1998年、2回目のナショナルトラスト運動が起こりました。それがこの台(だい)の峯緑地36.7ヘクタールと広町の森38ヘクタールの保全運動です。
不動産会社が買い上げ開発しようとしていたこの広大な手つかずの自然の森を守ろうと関戸氏など自然を愛する心ある人々が立ち上がって署名と交渉と陳情を繰り返した結果、ついに2002年10月に広町を、そして2004年12月にはこの台峯を鎌倉市が不動産会社から買い取ることで合意しました。最後に残されたこの植物と動物(そして市民の)聖域を死守することができたことは、この町とこの町に住む人たちにとっての大いなる幸福と誇りであり、ユネスコの世界遺産になど登録されなくとも、後世への最大の遺産となるでしょう。
台峯は北鎌倉の駅で下車して円覚寺の反対側の山の上に向かって20分くらい歩くとその入口に到達する北西から南東に長々と伸びた尾根、3つの谷戸と1つの池、そして中央公園と田圃を含む広大な森です。そこは四季折々に花々が咲き、樹木が茂り、チョウやホタルが乱舞する現代の秘境です。
今日は梶原の急坂を登って鎌倉中央公園の右側の細道を進んで、関戸さんが自ら命名された巨大なお化け桜「大蛇(おろち)桜」をとっくりと観賞したあと、清水谷戸に降りて北大路魯山人旧庵の右側を通って倉久保の谷戸に入り、清らかな水を湛えた谷戸の池を抜けてふたたび高台に登りました。
眼下にさえぎるものなく隈なく見えるのは六見山とその麓の円覚寺、北鎌倉駅、そして山全体をぎっしりと埋めたソメイヨシノ、オオシマザクラ、ヤマザクラの大パノラマです。これまで私は鎌倉で最も見事な景観は円覚寺の高台から眺めた台峯の麓と信じてきましたが、あにはからんや、その上をいく光景が横須賀線を挟んでちょうど反対側にあったとは! 関戸さんが自画自賛されるまでもなく、これぞ天下の絶景、鎌倉随一の眺望でしょう。
思う存分桜を堪能しながら春の森林浴を楽しむことおよそ3時間、私は全身に心地よい花疲れを覚えながら帰路についたことでした。
♪鎌倉や花の都に遊びけり 茫洋
♪我こそは森の王なるぞおろち桜
♪鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり
Friday, April 03, 2009
大門正克著「小学館日本の歴史15巻戦争と戦後を生きる」を読んで
これは1930年から55年にいたる4半世紀をひとつのパッケージとしていろいろな角度から観察した日本(およびアジア太平洋)の歴史です。普通の通史ですと1945年8月15日の敗戦を大きな区切りにしてその前後の断絶に強い光を当て、総力戦から帝国崩壊と一億総ざんげ、ファシズムから民主主義、抑圧の解放から自由、旧弊から改革進歩への躍進、軍国主義の蹉跌から経済成長への道行を論ずることが多いのですが、本書は必ずしもそうではありません。
ここに戦前戦後を貫く一本の電線のようなものを思い浮かべてみると、芯の部分には昔から変わらない人々の生活と生存の固有の様式があり、この中核部分を政治経済社会システムが皮膜のように十重二十重にひしと取り巻いています。そして芯と皮膜の間にはたえず激烈な相互運動が激烈に展開されていますが、著者はこの両者のインターフェースに徹底的にこだわって、双方の交渉と角逐の渦中を生きる人間像をできるだけ具体的に記述しようと努力しています。つまり歴史→人間ではなく、歴史→←人間ということですね。
そこで本書の冒頭に登場するのはこのアジア太平洋戦争と敗戦後の25年間を懸命に生き抜いた15人の日本(およびアジア)人の肉声です。あの戦争と激動の時代を生き抜いた人々の貴重な証言がこの本に精彩を加え、歴史書としての価値を高めているのではないでしょうか。いわばドキュメンタリーの魅力と迫力を兼ね備えた異色の現代史といってもいいでしょう。
広田弘毅内閣が国策として主導した満州移民に対して現地視察を行った結果、五族協和の実態を知って分村移民に反対した村長がいたこと、その満州事変に反対した「東洋経済新報」の石橋湛山が上海事変では一転して日本軍を支持したこと、「死線を越えて」の著者でありキリスト教の社会活動家として著名な賀川豊彦が甘粕に招待されて満州に行き、武装移民を理想的と賞賛し、ついには「満州基督教開拓村」を提案、実行したこと、日本帝国の植民地では日本人と朝鮮人、現地人の間で2重3重の差別があったこと、南京虐殺など中国の戦争の実態を写した村瀬守保、戦後の日本の真実を写したジョー・オダネルの素晴らしい作品、戦争の悲惨さを鮮烈に詠んだ鶴彬の川柳、東条英機の「戦陣訓」の犯罪性、東京大空襲の先鞭をつけた日本軍の「重慶無差別空爆」、日本軍の大陸からの強制連行、1945年2月14日の「近衛講和上奏文」の重要性と昭和天皇の積極的な戦争参画(同年6月22日の最高戦争指導会議の主導、47年5月6日のマッカーサーとの会談)、戦後日本への歴史の贈り物としての日本国憲法と教育基本法などディテールの記述も興味深いものがあります。
時代を大きくえぐり取ることを義務づけられた通史でありながら、硬直した理論に振り回されず、切れば血の出る生身の人間史としてなんとか55年体制の確立のくだりまで完走できたのは著者の並々ならぬ意欲と力量の賜物でしょう。
黄セキレイ鳴く上空に飛来しミサイル捜索準備している大型哨戒ヘリコプター 茫洋
Thursday, April 02, 2009
背広の値段
明治20年代当時、もりそばは1銭5厘、下宿代3円50銭、フロックコート仕立て23円、英国地フラノスーツは16円であった。そこで高価な1着であらゆるTPOに対応するべく、明治の洋服は礼服(主にフロックコート)需要に集中したのである。
明治22年、正岡子規は、「3年前に8円で作らせた軍艦羅紗の外套が粗悪品だったので12円で上等品を仕立てた」と彼の随筆「筆まかせ」に書いている。
この頃の注文服は大卒初任給の給料と同額であったが、これはその前の時代の「仕事着としての和服」を月給を前借りして1か月分の値段で仕立てていた伝統が残ったものと思われる。
ちなみに昭和3年1928年の大卒初任給は50円。これは当時のオーダーメードと同額であり、きわめて高価な「高嶺の花」ともいうべき価格であった。そこで「着心地より丈夫で長持ち」の思想が生まれる。
私の知人で最近バーバリーのコートを大枚をはたいて買った女性がいるが、「一生物を長く大切に着たいから買った」と言っていた。
衣服にも資産価値を追求する思想をinvestment clothingというが、これはファッション誌「ハーパースバザージャパン」の最新号のテーマであるから、およそ100年近く威力をふるっている衣装哲学であるといえよう。
♪着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ 茫洋
Wednesday, April 01, 2009
「世界自閉症啓発デー」に寄せて
今日は「世界自閉症啓発デー」なので、渋谷区神宮前の「東京ウイメンズプラザ」では朝からシンポジウムなど数々の記念式典が行われていることでしょう。
そもそも今を去る20年前には、自閉症とは脳の先天的な器質障碍、具体的には中枢神経系統の機能障碍を原因とする認知や知能やコミュニケーション等の多種多様な不具合であるとは誰一人思っておらず、医師も世間も10人が9人、心因性の病気だと決めつけておりました。
つまり自閉症というのは、心のどこかの具合が悪くて四畳半の押し入れの奥に引きこもる文字通り「自閉的な」病気であり、その原因は親の躾や育て方のあやまちにあると考えられていたのです。そういう意味ではこの四半世紀の私たちの孤立無援の、それこそ「必死」の取り組みは、ようやくある程度の収穫をもたらしたように思われます。
しかしこれほどの脳ブームを迎え、脳の医学的な研究が急速な進歩を遂げた現在においても、依然としてこのしょうぐあいの本当の原因は究明されていませんし、脳のどこの部位のどのような機能の障碍であるかも解明されていないことは非常にもどかしく、この無様なていたらくがいつまで続くのかと残念無念でなりません。
このしょうぐあいの人々は、いかに見かけが普通ぽくとも、天下の悪法「障害者自立支援法」が勝手に決め付けているような「一人前の健常者として自立すること」などなまなかのことではけっしてできませんし、従って彼らには「生涯にわたる介助者の同伴」が不可欠なのです。「もしも自分が死んだらいったいこの子の面倒は誰が見てくれるのか」というのが、自閉症児者を持った親たちのいちばん大きな悩みなのです。
それはさておき、最近どういう風の吹きまわしか「発達障害」なる言葉が独り歩きしているようです。
自閉症に近接すると称されているさまざまな障碍を、なんでもかんでも「発達障害」のグループに入れてわがこと足れりとする人たち。個々のしょうぐあい者の違いやきめ細かい個別的対応をぜんぶネグレクトして、やれアスペルガー症候群だの高度自閉症だの低級自閉症だののいかにももっともらしいレッテルを貼る偉い人たちがあちこちにいらっしゃるようですが、じっさい自閉症を発達障害のひとつに数えたとしても、それは言葉だけの言い換えに過ぎず、単なる気休めに過ぎません。
「発達障害ごっこ」はもうたくさん。そんなことより私たちは目の前の愛すべきしょうぐあい者と親しく向き合い、なんとかお互いのしょうぐあいを全うしたいだけなのです。
君の言葉君の振舞いいささか奇妙なれども天からの贈り物とて忝く受けむ 茫洋
Tuesday, March 31, 2009
梅原猛著「うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成」を読んで
能の大成者である観阿弥(世阿弥の父)の出生地は、大和ではなく断じて伊賀である。
観阿弥は伊賀に縁の深い上島家、永冨家、南朝の功労者楠正成の親類縁者として当地に生まれて能の一座を立ち上げたのちに初めて大和に進出した。
正成ゆかりの観阿弥は、とうぜん南朝の流れを汲む武士の一族であり、二人の兄を戦乱のさなかに亡くしていたが、観世音菩薩(観阿弥、世阿弥、音阿弥の命名はここから)の加護によってただひとり河原者となったが、「南北朝の調停者」であった北朝側の支配者足利義満の思惑によって引き立てられ、格上の金春座などを抜いていっきょに猿楽のスターダムにのし上がった、と著者は熱く説く。
「観阿弥伊賀出生説」はかつては学会の定説であったが、明治四二年(一九〇九年)吉田東伍が「世阿弥一六部集」を出してこれを疑い、能勢朝次の「能楽源流考」において大和説に逆転したのだが、すでに80歳を超えた梅原翁が、この大和説をうのみにする能学の権威者香西、表(岩波文庫「申楽談義」の編者)両氏に全面的には歯向い、筆鋒鋭く反論するさまは阿修羅のようにものすごく、本署の白眉である。
ここには能という孤城に閉じこもり、能の先駆者の生き方や南北朝の政治経済文化状況、仏教の本質についてあまりにも無感覚で不勉強な斯界の専門家に対する激しい憤りが感じられる。著者がみずから告白するように、この本はまさしく梅原翁に乗り移った観阿弥世阿弥の霊が書かせているような気もする。
しかし私はこのいささかエキセントリックな前半の論難部分よりも、後半でじっくりと描かれる観阿弥の能の名作「自然居士」「金礼」「卒塔婆小町」「百万」などの情意を尽くした見事な評釈の方がよりいっそう心に沁みた。
♪曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け 茫洋
Monday, March 30, 2009
西暦2009年茫洋弥生歌日記
親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや
遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら
坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子
もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが
少年にして少女のかんばせカルジャが撮りし17歳のランボー
われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし
真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声
新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし
春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく
洛北の北白川なる重度しょうぐあい施設湯船を埋めし黄色い雲古かな
我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな
青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず
土佐文旦手に持てばわが失いしもの程の重さかな
息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき
吾のため子のため母のためたった7年で地球を2周せしカローラの妻
北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰
言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました
隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう
金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる
月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり
己の屁の臭い嗅ぐああ生きているな
懐かしき人死して鶯さわに鳴く
春三月わたしの園を荒らすのは誰だ
千葉県で太陽に向かって吠える男
コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな
蛇のような棒か棒のような蛇か
いつも物見の上にいる鷹のやうに
―ある回想
夢の中でKに会った。Kは言った。W大闘争を総括してみろ。
俺は答えた。あれはスポーツだったよ。
夢の中でWに会った。俺は言った。
貴様は俺をリストラしたうえ会社を目茶目茶にしてしまったな。
Wは怯えた目をして走り去った。
にんげんは過去のしがらみからはどうしても逃げられないものである。
♪新宿ビックカメラで60円で売れたCD-RWうれしいやら悲しいやら 茫洋
Sunday, March 29, 2009
浄光明寺と「地蔵やぐら」
またこの浄光明寺には、これら数多くの史跡とともに、これからご紹介する「地蔵やぐら」通称「網引きやぐら」があります。
「地蔵やぐら」の天井には天蓋をつりさげた円形とそれを支えた梁の跡の溝がみられ貴重な遺跡となっています。また安置されている地蔵像は制作年代が正和2年1313年と銘記されていることが評価されており、冷泉為相が寄進したという伝承があるそうです。母の阿仏尼の尽力に深く感謝してこのお地蔵さまを造営したのではないでしょうか。鎌倉時代から南北朝にかけては訴訟の時代であり、男性はもちろんのこと阿仏尼のような女性たちも幕府に対してどんどん異議申し立てを試みています。
さらにこの浄光明寺には徳川家ゆかりの尼寺英勝寺に仕えた水戸徳川家の家臣の墓地やぐらや、鶴岡八幡宮の神職大伴氏とその家族の純神道式の笏型墓碑が3基あり異彩を放っています。
けれども私がもっとも心を傷めたのは、つい最近亡くなられたこの浄光明寺住職にして偉大な考古学者兼中世史研究家であった方のお墓でありました。思えば今を去る20数年前、私がはじめてこのお寺を訪ねたおりに、懇切丁寧に寺院や仏様の由来について説明してくださったのは、ほかならぬ大三輪龍彦氏でありました。
私は鎌倉の歴史について多くの示唆を与えてくれたこの先学に深々と頭を垂れてから、うぐいす鳴く浄光明寺を辞したのでした。
懐かしき人死して鶯しきりに鳴く 茫洋
千葉県で太陽に向かって吠える男
Saturday, March 28, 2009
春の浄光明寺を訪ねて
浄光明寺は皇室の菩提寺である京都の泉涌寺を本山とする「準別格本山」であり、慶長3年1251年に6代目執権の北条長時が真阿上人を開山として創建したお寺ですが、それ以前に源頼朝が頼んで文覚上人が建てたお堂がそもそものはじまりだそうです。
元弘3年1333年には後醍醐天皇の勅願所となるいっぽう、真言、天台、禅、浄土の4つの勧学院を建て、学問の道場としての基礎を築きました。また足利尊氏は建武2年1335年にこの寺にこもり、後醍醐天皇に反逆することを決意したといわれており、尊氏、直義兄弟の帰依と奇進と受けたのです。兄弟が足利家執事の高師直の軍勢に十重二十重に取り囲まれたのもこの寺でした。
本堂横の収蔵庫には本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩が安置されています。地蔵菩薩立像は矢拾地蔵とも呼ばれ、足利直義の守り本尊でした。篤信家の直義でしたが兄尊氏との私闘に敗れ、最後は同じ鎌倉の浄妙寺で無念にも殺されてしまいます。しかしその同じ直義が後醍醐天皇の皇子護良親王を暗殺しているのですから因果は巡る風車といったところでしょうか。
浄光明寺の裏山には、一四世紀の歌人、冷泉為相の墓(宝塔印塔)があります。為相はあの有名な歌人藤原定家の孫で、父の死後遺領の相続をめぐって異母兄と争い、その訴訟のために鎌倉へ下向した「十六夜日記」で知られる母の阿仏尼のあとを慕って当地に入ったのです。
♪北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰 茫洋
Friday, March 27, 2009
バレンボイム・ベルリン国立で「コシ・ファントゥッテ」を視聴する
02年9月のバレンボイム指揮ベルリン国立ライブで「コシ・ファントゥッテ」を視聴する。
近年モーツアルトのコシはますます上演機会が増え、さまざまな演奏と演出が登場してわれわれを楽しませてくれるようになった。それはこのダポンテ・オペラの最後の作品がすばらしいアリアと女と男という現代的なテーマでわれわれの心をとらえるからに違いない。
かりそめの恋愛に絶対はなく、その恋愛の対象は時間と環境を変換すればたちどころに置き換え可能であり、その定かならざる不定性こそが男女の関係性の本質そのものであることを、この音楽と心理の天才はよく知っていた。どんな男女の間でも恋愛は可能であり、また不可能であることを歌うこのオペラの音楽の魅力は不滅であろう。
いまや押しも押されぬ大家となったバレンボイムは、手兵のベルリン国立歌劇場管弦楽団をよく掌中におさめ、そんなモーツアルトの名曲をいとしむように、楽しみながら振っている。それは彼が目指しているフルトヴェングラーの演奏とは対極にあるものだが、それなりに身をゆだねて聴くことができる。カテリーナ・カンマーローアー、ドロテア・レシュマンなどの歌唱もおおきな破綻はなく、手なれたアンサンブルが予定調和的に醸し出されるが、時代を60年代の終わりに設定したリス・テリエの演出はシャープな切れ味をみせた。
♪春三月わたしの園を荒らすのは誰だ 茫洋
Thursday, March 26, 2009
ドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する
08年1月のミラノ・スカラ座ライブでドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する
「マリア・ストゥアルダ」はて何じゃらほい、といぶかしく思う向きもあるだろうが、なんのことはない、これはスコットランドの女王、「マリー・スチュアート」のイタリア語読みである。
スコットランド併合を企む9歳年上の従姉イングランドの女王エリザベス一世と政治的に対立したばかりか、レスター伯爵をめぐって激しい恋のさや当てを演じる。そしてマリーが、宿敵エリザベスによってとらわれ、英国に18年間幽閉された挙句にとうとう断頭台で斬首刑に処せられる悲劇は、かのシュテファン・ツヴァイクの史伝「メアリー・スチュアート」などでひろく知られている。
その有名な原作を音化したドニゼッテイは、序曲から終曲のカタストロフまで朗々たる歌謡の極致を体感させ、イタリアオペラの楽しさを心ゆくまで味あわせてくれる。
エリザベス(エリザベッタ)役のアントナッチはまずまずだが、表題役を歌うマリエラ・デヴィーナのハイCがすごい。演奏はアントニーノ・フォグリアーニ指揮のミラノ・スカラ座管弦楽団で文句なし。演出・美術・衣装の3役兼ねたピエール・ルイージ・ピッツイは最後の処刑場で史実通りに真紅のドレスをマリア・ストゥアルダに纏わせ、首切り役人の一撃で鮮やかに全曲を切断してみせた。
隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう 茫洋
Wednesday, March 25, 2009
「相馬師常やぐら」を訪ねて
相馬師常は源頼朝の重臣、千葉常胤に次男で、相馬氏の祖となった武将です。1180年(治承4年)の頼朝挙兵に父常胤と共に参加して活躍した相馬師常は、その後も奥州征伐などで多くの戦功を挙げました。念仏行者として端坐、合掌して没し(即身成仏という)多くの人々が感動した逸話でも知られています。
彼の父親の常胤は千葉県の名の元にもなった名家の出身ですが、その父親常重と頼朝の父義朝が相馬御厨の所有権を巡る騒動もあり、「吾妻鏡」にあるようにただちに三〇〇騎をもって頼朝の救援に駆け付けたわけでもないようです。
それはともかくこのやぐらは、玄室奥壁中央部の大きな龕(がん)が切り石でふさがれている独特の形態であり、玄室左奥の一石五輪塔も非常に珍しいものです。伝承とはいえ被葬者の名前が知られているきわめてまれなやぐらとして貴重です。
♪新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし 茫洋
Tuesday, March 24, 2009
「瓜ヶ谷やぐら」を訪ねて
今度は坂道を東にわたって田圃に降りて海蔵寺の麓あたりに位置する瓜ヶ谷やぐらに向かいます。ここは別名「東瓜ヶ谷やぐら」、五つの穴がありますが、一号穴は「地蔵やぐら」とも称される約二〇畳くらいの大型やぐらです。壁面には多くの彫刻があり、第一級のやぐらとして高く評価されています。この先の葛原岡神社付近はかつての刑場跡といわれ、このやぐらの山稜部では荼毘所の跡が発掘されているので、このやぐら近辺も一連の葬祭施設が点在していたと推測されています。
一号穴は天井の一部崩壊により造立時の床は底上げされていますが、地蔵菩薩を中心に仏殿形式が整っています。中央には地蔵菩薩坐像が鎮座しており、左腕と胸の間の溝に塗色らしきものがみられます。左壁には龕(仏像を納める厨子)と納骨穴、奥壁には高さ一六七センチの坐像、高さ一五一センチ厚肉彫の大五輪塔、龕と納骨穴がずらりと並び、右壁には鳥居と神殿、地蔵菩薩立像、神像、龕などがあり、神仏融合の面影が残っています。
二号穴は厚肉彫の大五輪塔があって梵字がよくのこっています。また三号穴は三方に石棚があって壁には五輪塔が八基刻まれており、彫りかけの状態のものもあります。
♪吾のため子のため母のため7年で地球を2周せしカローラの妻 茫洋
Monday, March 23, 2009
洋服解体新書
幕末から明治にかけて洋服の強制的な導入はさまざまな混乱をもたらした。たとえば和服は直線裁ちであるが、洋服は曲線裁ちである。曲線裁ちのできる洋服職人もそんな技術も不在だったので、足袋職人が最初の縫製士となった。足袋職人たちは外国人から仕立てを学び、洋服を解体しては組み立てて縫製を行なった。医学のみならず洋服も「解体新書」の時代があったのである。
江戸時代の洋服は「蘭服」と呼ばれていた。オランダ、阿蘭陀の蘭である。明治5年1872年学制公布の一環で詰襟背広の洋装が導入され、当時の帝大で明治19年1886年に軍服を手本として学生服が採用されたが、これは学生が着る蘭服だから、学ランと呼ばれるようになった。黒の生地に5つの金ボタンの詰襟に学帽というスタイルが以後の原型になったのである。
1980年代には日本被服工業連合組合が襟のカラーは白、ボタンは5個、装飾的な刺繍などが裏地に入らないことなどの細かな基準を決定。認証マークつけた。卒業式に女性が第2ボタンをもらう習慣の起源は武田泰淳の小説「ひかりごけ」(特攻隊員がひそかに思いを寄せていた兄嫁に軍服の第2ボタンを渡した)という説があるそうだが、そんなことが書かれていたかなあ。
(後段の情報は朝日新聞のコラムより転載しました)
♪我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな 茫洋
Sunday, March 22, 2009
母7周忌に寄せて
真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声
われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし
天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり 日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音 教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり 陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり 千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき 白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな 我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う 母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ 太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花 千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり 滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
Saturday, March 21, 2009
「一四やぐら」を訪ねて
私たちはまず北鎌倉の「西瓜ヶ谷やぐら」を訪ねました。鎌倉時代に鎌倉とそれ以外の地を切り離している地点に十王堂橋がかかっていました。ここには関所(交番)もあり、この十王堂橋から大切岸(瓜ヶ谷やぐら)または梶原方面に抜ける切り通しがあったと伝えられています。あの一遍上人が北条時宗によって追い払われたのもまさしくこの場所ですが、私たちはここから坂を登ります。
「西瓜ヶ谷やぐら」は別名「一四やぐら」ともいわれ、このやぐらを含む森全体が遺跡とみられています。かつてここには寺院があり、埋蔵物も多いと考えられています。
ちなみにこの瓜ヶ谷という地名は、かつて源頼朝の乳母、比企の禅尼がこのあたりで瓜園を造ったからだそうです。そのせいか、この近所では都会では珍しくまだ田圃が残っています。
山麓にある「一四やぐら」は鎌倉時代後期の造立で、一級の厚肉彫五輪塔が残存しています。五輪塔とは五つの鎌倉石を積み上げた塔で、下からそれぞれ地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼んでいます。
ここでは故人の冥福を祈る追善供養のために、初七日から7日ごとに五輪塔を造り、後に一周忌などの法要にさらに塔を増築したと思われます。また中央の大型の塔(四五日法要用)には梵字の一部が残っています。
板碑と五輪塔はかなり風化していますが二か所あり、上段のやぐらは左側にも広がっていると考えられます。五輪塔の下の塚は人工的に盛り土されたもので「富士塚」または「経塚」跡とみられています。
♪息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき 茫洋
Friday, March 20, 2009
早春賦
今年もまた春が来ました。亀田さんの庭に桜の花が咲き、樋口さんの庭ではだいぶ前から白いモクレンが咲き誇っています。
朝の驟雨がお昼にはおさまって青空がのぞいたので、妻君と一緒に近くの朝比奈の滝まで散歩に出かけました。土饅頭のようなうてなの上には、朝の光をさんさんと浴びて、無数のスミレが可憐な水色の花をつけています。
私は漱石の「菫程の小さき人に生まれたし」という俳句を思い出し、生まれ変わったら来世ではこの美しい植物、あるいはその上空を飛び回っていたルリタテハになりたいと念じたことでした。
漱石は絵も字も名刺までもとても小さくて細いのを好む人で、それがこの作家の独特の繊細さと狂気すれすれの神経過敏の度合いを物語っていると思います。
どうして急に漱石を思い出したかというと、私の家のカレンダーが漱石だからです。1年12か月の12枚全部が、漱石が実際に書いた和洋の数字でできているという、世にも不思議なカレンダーを毎日眺めているので、散歩しているときにもふいに漱石が出てきたのでしょう。
朝比奈の滝が昨夜来の雨で増水して音を立てて落下しています。すぐそばには鎌倉市が2,3日前に立てた「国史跡朝夷奈切通し」の看板があって、当地の由来が4カ国語で説明されています。
私たちは無人の朝比奈峠をゆっくりと登って行きました。左右の沢からは清流が勢いよく流れ下り、その音がウグイスやキセキレイのさえずりと混じってまるでこの世の極楽のような気持ちにさせてくれます。
私は妻君を落葉が散り敷いた斜面に案内し、「ほら見てごらん、今年もオタマが孵ったんだよ」と自慢げに言いました。もう10年以上前からこの一角はいろんな種類のカエルが水溜りで交尾し天然自然に産卵する、市内でも貴重な場所なのです。ところが市の土木課が突然「世界遺産にするための環境整備」と称してこの周辺の樹木を伐採し、いままであった数少ない水溜りをブルドーザーで埋めてしまいました。
仕方なく私は長靴を履き、スコップを持って汗だくで原状を回復してやったのですが、そのささやかなスペースに今年もまたいくつかのカエルの卵とそこから孵化した小さなオタマジャクシを見つけたときの喜びは、なにものにもかえがたいほどでした。
「あらまあ、おかあさんガエルがいるじゃないの」
と妻君が驚いたように言いました。見ると水溜りの中に一匹の黄色いカエルが両手と両足を少し広げるようにしてふわりと浮かんでいます。
「おやおや、これはびっくりだ。ようこそカエルさん」と私が言うとそのカエルが突き出した瞳をちょっと右に動かして私たちの方を見ました。
カエル君をあんまり驚かせるとよくないので、隣の水溜りを覗いてみると、なんとそこにももう一匹のチビガエルがあわてて水底に潜り込もうとしていました。市役所があれほど野蛮な工事を行なったので、あんきに冬眠していた動物たちは全滅したのではないかと心配していたのですが、杞憂だったようです。
「また昔のように一〇組以上のカエルが盛大に交尾するようになると楽しいよね」
と妻君が言ったので、私は「うん」と大きく頷き、
「しかしこのままだと蛇や人に見つかって全滅するおそれがあるから、ここのオタマを今のうちに分配しておこう」
と言いながら、掌に掬った小さなオタマジャクシを、近くの他の水溜りにせっせせっせと移してやりました。
家計や日本経済と同じで、こういう風にリスクヘッジしておかないと、現在またまたま繁盛している生息箇所も、初夏の旅立ちまでの長丁場に、不意に破壊されたり、死滅してしまう危険があるのです。
「やっと終わったぞ。今年もなんとか元気に生き延びてくれよな」
と、祈る思いで緑色のうるんだ卵の塊を見つめていると、
「おとうさーーん。おかあさーーん」
という野太い声が、峠の麓の方から聞こえてきました。私たちが散歩に出たと知った長男が、急いであとを追いかけてきたのでしょう。
声に驚いてウグイスが飛び立った椿の梢から、一輪の紅い花弁がぽとりと落ちました。
♪コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな 茫洋
Thursday, March 19, 2009
アーサー・ウェーリー英語訳・佐復秀樹訳「源氏物語3」を読んで
アーサー・ウェーリーによる源氏物語は谷崎などの翻訳とは一味もふた味も異なっていて、物語の進行速度がはやい。物語の推進を邪魔する枝葉の部分を大胆にカットしていること、紫式部が念入りにこさえた、どこが頭でどこが尻尾か分からない海鼠のような文章を、ここが主語、ここが述語、ここが形容句という風に因数分解して、抜群によく切れるナイフで整除しているために、そういう爽やかで明快な印象が際だつのである。
進行速度ということでは与謝野訳が早い方だが、仮にこれをモデラートとすると、ウェーリーはアレグロ、谷崎はアダージオというところだろうか。調子に乗ってもっと音楽に喩えると、谷崎版はフルトヴェングラー、ウェーリー版はトスカニーニ指揮のテンポで、この世界で3番目に偉大な交響絵巻を演奏している感じがする。(ちなみに1番は旧約聖書、2番はシェークスピア、3番の同着はプルースト)
この第3巻で源氏はあっけなく息を引き取り、物語は彼の息子の世代の活躍が始まるのだが、その疾風怒涛のプレストが、逆にこの不世出の大恋愛家にして大心理家の喪失の悲しみをそそっているのかもしれない。
葵上も、紫も、夕顔さえもが六条の御息所(「みやすんどころ」と読む)の怨霊に執拗に祟られてとり殺され、その恐るべき悲嘆が源氏のいのちを奪い去る。そしてその怨霊の呪いと祟りを当の御息所にさえ制御できなかったとすれば、平安時代の貴族や民衆の精神を支配していた魑魅魍魎の無量の闇の深さはいかばかりであったろう。
宮中を華やかに彩った美人も才子はもことごとく姿を消し、今年もまた紫の上があれほど眺めたかった桜が咲こうとしている。そして、その春の梅や桜の花々を目にした私たちは、あの美しく貞潔だった紫の儚い生涯と行方も知らぬ後生をゆくりなくも偲ぶことになる。思えば紫式部はなんという驚異の物語を遺したものだろう。
♪こぞの花いずくにありや春の風 茫洋
Wednesday, March 18, 2009
小川国夫著「イエス・キリストの生涯を読む」を読んで
イエスの言葉については郷里の丹陽教会で、S牧師をつうじて再三再四にわたって日夜聞かされたが、神やイエスの実在について、わたしはどうしても信じることができなかった。まことに失礼ながら、時折はまるで夜店の香具師のような説教だとも思ったものである。
それはこのたび小川国夫のこの聖書講義を読んでも、本当のところは同じように感じた。信じる者と信じられぬ者、神につく人とつかぬ人。彼らと私の間には、たったの1歩を隔てて、どうしても飛び越えることができない千尋の谷底が横たわっており、彼らはその谷の向こうから神聖なることどもを、さまざまに語りかけてくるのであるが、やはりそれらはすでに異界に居住する賢人、聖人の言葉であって、しょせん私のような異邦人には解しがたい言葉なのであった。
そもそも新約聖書は、神様と人類のあたらしい契約、約束の書であるから、罪を犯した人類のために犠牲となったイエスの聖なる言葉とその復活を信じない者が読んでもほんとうは意味をなさない。契約を拒んだり無視しようと決めた人間などが手にしてはならない文書であると言っても差し支えないだろう。
しかし私は、謎のようなエホバの言葉、意味が分からないけれども妙に惹かれるイエスの言葉の深遠さに文学的な面白さを感じて、新旧ふたつの聖書を折にふれてひもとくようになったのである。
例えば私は、虐げられた人々の側に立って、「あなたたちの中で罪がない者がまず石を彼女に投げつけるように」(ヨハネ伝8章)と優しい言葉をかけるイエス、そして、その反対にエルサレムの神殿に乗り込んで、牛、羊、鳩を売る者を追い出し、両替する者たちの机を覆し、「私の父の家を商いの家とするな」と怒り、「この神殿を壊すがいい」と阿修羅のように絶叫する秩序破壊者のイエスが好きだった。(P113~118)
精神の王国にしか住めないイエスは、商業による蓄財と家族による平和の絆を本心では蛇蠍のごとく忌み嫌っていたのではないだろうか。そして少年時から青年時代にかけての私は、そんな「戦うイエス」を激しく愛していたのである。
けれども私にとってキリスト教はついに異国の一神教にすぎず、神と聖霊と子は難攻不落の砦であり続けるだろう。しかし、次に掲げる「南北戦争に従事して盲目になったある南軍兵士の祈り」なら私にも理解できるし、これを“神様の御業”と讃えた亡き大伯母の気持にも素直に寄り添うことができそうだ。
「答えられた祈り」(原文英語、アイリーン・ベン投稿 左近允訳)
功績をたてるために神の力を求めたのに
謙遜に従うことを学ぶように無力にされた。
もっと大きなことをするために健康を求めたのに
もっとよいことをするように虚弱を与えられた。
幸福になるために富を求めたのに
賢くなるように貧しさを与えられた。
人々の称賛を得るために権力を求めたのに
神の必要を感じるように無力を与えられた。
人生を楽しむためにあらゆることを求めたのに
あらゆることを楽しむためにいのちを与えられた。
求めたものは何も得られなかったのに、
望んでいたものは何でも得られた。
ほとんどわたし自身にかかわりなく、わたしの無言の祈りは答えられた。
すべての人の中で、わたしは最も豊かに恵まれた。
「ああ神様、おお、しかし神様」と身もだえしながら祈りしわが父よ 茫洋
Tuesday, March 17, 2009
感傷的な日記
昨日は久しぶりに東京に出ました。お世話になっている方が先日結婚式を挙げられ、おまけに新居も完成されたというので、長男が通っている施設で作った陶器を差し上げるつもりで紙袋に入れて駅までのバスに乗ったのですが、ここでまたしてもお得意のポカをやってしまいました。座席の隅に置き忘れてしまったのです。
それに気が付いたのは駅の改札を通り抜けてしばらくしてからのこと。急いで引き返しました。スイカ・カードを入口に駅員さんに見せ、「用事が出来たので電車に乗らずに外へ出たいんだけど」と言うと、20代前半とおぼしきその若い女性は、にっこり笑って「いいですよ」と言って入場料金を消してくれました。ほんとうはこのケースでは私がスイカを改札機にくぐらせて初乗り料金を支払わなければいけないのでしょうが、彼女は私にそうしろと言う代わりに格別の配慮を示してくれたのです。
改札口を出た私は、さっき降りたバスを捜しましたが見つかりません。焦った私がうろたえていると、京急バスの職員さんが、「どうかしましたか」と尋ねるので、「これこれしかじかで困っている」と説明すると、忘れものの形と中身を確かめてからすぐに携帯でバスの駐車場を呼び出し、「すぐにこちらに向かうバスがあるので、忘れものを持ってこさせます。あなたは5番のバス停のところでしばらく待っていてください」と言いました。
待つことしばし、「大丈夫かなあ」とやきもきしていた私の前に、突然さきほどの駅員さんが現れ、「忘れ物はこれですか」とくだんの紙袋を差し出しました。「そうです、そうです、これです、これです」と私はいっぺんで嬉しくなり、「ほんとうにありがとう。助かりました」と頭を下げますと、その30代後半の職員さんも自分のことのように喜んでくれ、丁寧に帽子を取って「いえいえ、うまく出てきてよかったです」と言いつつお辞儀をしながらにっこり笑いました。
しばらくして横須賀線の車上の人となった私の心のうちに、次第にほのぼのしたものがこみあげてきました。私は、いまさらながら「親切」ということを思いました。この人たちが私に対して示してくれた親切は、企業の規則やマニュアルに従った行為ではありません。ささやかではあっても、彼らの心の裡に生まれた自発的な行ないです。目の前で人が困っている。だから助けてあげよう、という素直な気持ちです。それが私の心に響いたのです。
「小さな親切 余計なお世話」という言葉もありますが、この世知辛い世の中でさりげなく小さな親切を実行する人たちは間違いなくこの世の宝であり、社会の根っこを支えているはずです。その証拠に、昨日私が直面したトラブルを昨日の二人のようにさりげなく処理する国など、おそらく世界中のどこの国にもないでしょう。
まさに「小さな親切 大きな感動」ですね。こうして久しぶりに拙い日記を綴りながら私にとってつくづく昨日は格別に良い日であったことが振り返られ、それと同時に、その恩返しということではないのですが、私もできるだけ人には親切にしよう、と殊勝にも思ったことでした。
♪春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく 茫洋
Monday, March 16, 2009
「やぐら」はインド、中国渡来
広辞苑によれば「やぐら」とは「岩石に穴を掘って物を貯蔵しておく倉。また墓所。鎌倉付近に多い」と解説され、矢倉あるいは窟という漢字があてられ、イハクラ(岩倉)の訛りではないかと想像されています。しかしこのような即物的な記述ではこの窟の宗教的な背景を捉えそこなってしまうことは前回に申し述べたとおりです。イハクラがどうしてやぐらに転訛したのかも言語学的にはおおいに怪しまれるところです。
斉藤顕一氏の見解では、やぐらという言葉自体が江戸時代になって定着したものだそうです。つまりあのような岩窟を鎌倉時代になんと呼んでいたかは分からないというのです。鎌倉時代から江戸時代までにはおよそ400年の歳月が横たわっていますが、私たちが現在鎌倉と鎌倉時代の文物についてもっともらしく語っている情報の7割以上がで出所が不明か怪しいと言われるのですから、なにを信じ、なにを退けていいのかおおいに迷います。
さてやぐらの形状については、山腹に垂直面、前面に平場、矩形の開口部、垂直の内壁と平天井、玄室・羨道・羨門という特徴を持ち、その機能としては納骨と供養をつかさどります。また火葬にされた骨を埋葬するための骨蔵器が仏像や五輪塔、宝篋印塔、板碑、壁面浮き彫りなどの傍に備え付けられており、床下には壇と龕があります。
やぐらからは華瓶、茶碗、かわらけ、小皿、写経石、古銭、鏡などが出土することが多く、内部で使用されている塗色は胡粉、漆、金泥などです。
またやぐらの起源については、鎌倉時代の宋から渡来したさまざまな文物、宗教、文化などのなかにこのやぐらという思想と建築物があって、時の幕府の要職にあった人々がこれを先進的に取り入れたのではないか、という学説が有力だそうです。ということはこうしたカルチャーはおそらく西インドのエローラ、アジャンターなどの石窟寺院や仏教文化がさまざまな仏像と共に中国に東漸し、これが朝鮮半島を経由してわが国に渡来したのでしょう。
鎌倉の立派な石窟を眺めているとE.Mフォスターの小説「インドへの道」の謎の場面が思い出されます。
♪遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら 茫洋
Sunday, March 15, 2009
鎌倉の「やぐら」を訪ねて
鎌倉ガイド協会が主催する「やぐら」探訪シリーズの第3弾に参加しましたので、ここしばらくはその報告をしたいと思います。なお、これから記述する内容は、同協会制作の資料とツアーコンダクターの斉藤顕一氏のコメントに小生の感想を随時付け加えたものですあることをお断りしておきます。
「やぐら」とは中世鎌倉を取り巻く山稜、山腹を穿って造られた横穴式墳墓のことです。ここは小さな石造りの仏殿であり、埋葬、納骨のための墳墓窟でもありました。
この埋葬、納骨は、当時の人々が浄土を求めるひたむきな願望の表れとして営まれたものですから、やぐらは単なる岩窟ではありません。こうしたやぐらのある谷戸全体を聖なる宗教的空間としてとらえる必要があるのではないでしょうか。
さてこのやぐらに埋葬されたのはまずは僧侶たちであり、次にはその僧侶を尊崇して同じ場所に葬られたいと願っていた武士たちであると考えられています。これらのハイソサエティに属するエリートたちはその大半が火葬にされ、やぐらの内部に丁重に葬られましたが、それ以外の一般大衆はほとんどが海岸の近くに土葬にされました。彼らの身体は清浄な海の砂によって清められたと考えられます。
ちなみに現在由比ガ浜のすぐそばにある駐車場や消防署、京急バスの事務所や裁判所などの地下には、これら鎌倉時代の民衆の無数の遺体が発掘されました。私は以前これらの発掘現場に行きましたところ、由比ガ浜の地下数メートルのところに3人の親子と思しき全身の骨が、相模湾の夕日に照らされていた荘厳な光景を忘れるわけにはいきません。
親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや 茫洋
Saturday, March 14, 2009
ビゼーの「カルメン」を観たり聴いたり
ジョルジュ・ビゼーは1875年にモーツアルトと同じ35歳で死んだ。活躍した時代は1世紀近く離れており、その作風も作品の数も違うが、その音楽の純なること、歌の直截さ、そして泉のように汲めどもあふれる旋律の美しさという点では、似ていないこともない。ともかく素晴らしい音楽と歌が次々に出てくるのである。
ところで、ビゼーの歌劇「カルメン」の第4幕の大詰めでは、表題役のジプシー女(最近ではロマというそうだ)が、恋に狂う元伍長のドン・ホセに執拗に復縁を迫られるのだが、断固として哀れな男の求愛を拒否するところが、どこか騎士長に「悔い改めよ」と強要されて三度ノン、ノン、ノンと拒んでついに地獄落ちしてしまうモ氏の傑作「ドン・ジョバンニ」の終幕と似ている。もしかしてビゼーが真似(引用)をしたのではないだろうか。
ここのところを2つの映像で見ると、演出と指揮を兼ねたカラヤン・ウイーン国立歌劇場soによる1967年の劇場映画版(グレース・バンブリーのカルメン、ジョン・ヴィッカーズのドン・ホセ)よりも、07年の新国立劇場版(ジャック・デラコート指揮東フィル、マリア・ホセ・モンティエルのカルメン、ゾラン・トドロヴィッチのドン・ホセ、鵜山仁の演出)の方が第2幕の空間設定と共にはるかに勝っていた。
カラヤンという人は交響曲や管弦楽では破綻が多いが、(77年普門館日本公演ヴェートーヴェンの5番、6番の超レガート奏法でいっぺんで辟易)、ことオペラではつねに満足できる演奏をする不可思議な指揮者であるが、調子に乗って演出や映像監督に手を出すとこれがまたいつも失敗に終わるので有名だった。
そのことはビルギット・ニルソンが自伝で「彼はちっとも歌の練習をしないで舞台美術ばかり熱中している」と文句を言っていることでも分かるし、この劇場映画の第2幕のダンスでマリアンマ&スペイン舞踊団を起用したのはいいけれど、肝心の音楽と舞踊のリズムがばらばらであることにも如実に表れている。
しかしカラヤンの音楽と歌のなんと生命力にあふれていること。ジャック・デラコート指揮東フィルなぞ足元の爪の垢にも及ばない。
カラヤンは歌手をのびのびと歌わせている。後にベルリンフィルと入れた時はアグネス・パルツアだったが、この劇場映画版のカルメン役はグレース・バンブリー、1964年に同じウイーンフィルと入れた時はレオンタイン・プライス(「クリスマスの歌」の名盤あり。お相手のドン・ホセはフランコ・コレルリ、ミカエラは劇場映画版と同様ミッラ・フレーニ)でいずれも黒人だった。1987年ただ1度だけウイーンフィルの元旦コンサートに出演した時もキャスリーン・バトルという黒人のスーブレット・ソプラノを起用して「春の声」を歌わせていたから、結構黒人の声の魅力をかっていたのだろう。
そのグレース・バンブリーは2年前に来日してなんと70歳記念コンサートを行ったがすでに往年の面影はなく、時間にルーズで我儘なためにジェームズ・レバインからメットを追放されたキャスリーン・バトルも次第に活躍の場を失いつつあるようだ。
己の屁の臭い嗅ぐああ生きておる 茫洋
Friday, March 13, 2009
吉田秀和著「永遠の故郷 薄明」を読んで
冒頭に懐かしいヴィクトル・ユゴーの詩が掲げてあって、そこからこのフランス語とドイツ語と日本語が入り混じった多声的な語りに加えて、随所に手書きの楽譜が自在に挿入され、もはや小林秀雄の入眠落語を超越した吉田翁独自の音楽と文学と人生のたわむれが緩やかにはじまる。
Limmense bonte tommbait du firmament.(アクセント符号・記号等を省く)
「測り知れぬほど大きな優しさが大空から降りてきた。」(吉田秀和訳)
そういえばユゴーには、私の好きなこんな言葉もある。
「海よりも広いのは空である。空よりも広いのは、人の心である。」
新しい音は昨日の思い出を、昨日の思い出は明日の人生を、そして今日の人生がまた若き日の記憶の底へと古池の落葉のように沈んでいく。
語り部は、はたしてまだ生きているのか、それとも、もう死んでしまったのか、冥界からの子守歌のような無限旋律は、われらの心を限りなく慰藉するのである。
土佐文旦ずしりわが失いしもの程の重さかな 茫洋
青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず
Thursday, March 12, 2009
鎌倉の廃仏棄釈 十二所の歴史と宗教 その2
明治初年の廃仏毀釈によって鶴岡八幡宮寺の大伽藍や仏像や宝塔はことごとく廃棄され、価値ある仏像や経文の多くは市内や遠くは浅草寺にまで散逸してしまった。先日の中国清朝の彫刻やインドのガンジーの眼鏡と同様、文化財は本来の場所に返還されねばならない。
神仏分離令では一夜にして坊主が神主になり替わった。それまで縦に木魚などを叩いていた僧侶が突然横に幣を振り始めたので脇を痛めて困っている、と当時の文書に書かれているが、ともかく神道では平気で魚などを食らい殺生していたのに、仏教ではかたく禁じていたから、大きな矛盾に逢着した。そこで両者が知恵を出し合って作ったのが放生会という儀式で、まずはウナギとドジョウを食らったあとでこれらの生き物を川に逃がしてやったのである。
鶴岡八幡宮には二五坊があるが、十二所にも数多くの僧侶が二五か所の寺院に多数住んでいた二五坊が存在したのではないかと考えられる。御坊谷、御坊橋、御坊井、御坊坂など現在の地名がそれを跡付けている。二五坊というのは阿弥陀仏が来迎する際にその周囲に連なっている二五の仏にちなむ二五の寺院を指す。
太陽の神は烏であり、月の神は兎と蟇蛙である、とするのは中国の神話であるが、それが日本に入ると太陽神はやはりカラスであるが、月からはカエルが姿を消してウサギだけになった。(竹取物語)。ちなみに中国の最高神は龍であるが、本邦に入ると鯉となった。
いずれにせよ中国では日月の神は常に対になっていて、本地垂迹説によって本邦では日光、月光両菩薩のようにペアで仏が建造されることになる。十二所には御坊橋の近所に月輪(がちりん)寺の旧跡があるので、当然その付近に日輪寺もあるだろう。
あまでうす独白。
かつて私が日輪寺と想定した中世共同埋葬センターの向かいの谷戸は、三浦氏も寺院跡であると認められた
―日経連載中の小説を読んで
♪坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子 茫洋
Tuesday, March 10, 2009
十二所の歴史と宗教 その1
地元の十二所公民館に、鎌倉国宝館の三浦勝男氏が来訪され十二所の歴史と宗教について短い講演をされたので簡単に抄録しておこう。
まず鎌倉で往時の面影をいまに伝えているのは、ここ十二所と山崎と扇谷の3箇所だけである。特に十二所は滑川が流れ、船着き場があり、港へのネットワークが発達して盛んに交易を行っている点で「もっとも鎌倉らしい鎌倉」と言える。十二所は鎌倉七口のうち西御門(晩年の江藤淳が住んでいた)と並んで幕府にとってはもっとも重要な脱出口であった。(朝比奈峠から六浦を経て房総半島にいたる)
あまでうす曰く。巴里が仏蘭西にあらざるが如く、紐育が米国にあらざる如く、現在観光客が群れ集って殷賑を極めている小町通りなどは「もっとも鎌倉らしからぬ鎌倉」であろう。
次に、「十二所」(じゅうにそう)という地名は秋田県大館、兵庫県養老、福島県会津など数か所あるが、いずれも熊野信仰に基づく。当時の人々は、死ぬとその霊は「八咫烏(やたがらす)」という三本足のカラスが熊野にまで運ぶという信仰があった。だから熊野は、それらの霊を祀り穢れを清める神聖な霊場であった。また熊野神社は空海ゆかりの高野山系真言宗の本拠地でもあるが、後白河法皇などは源頼朝から金千両をせがんでは幾度も熊野に詣でた。
しかしその熊野にいます十二神をワンンセットで勧請したのは当地だけであり、そういう意味ではきわめて格式が高い。しかもそれを鎌倉の光触寺に勧請したのはほかならぬ一遍である。
一遍は時宗を興した。彼は当初は時宗ではなく「時衆」と称していたが、北条氏の弾圧により改名せざるを得なかった。時宗は同じ鎌倉新宗教の禅宗に似ていて、己の欲を断てと民衆に説き、財産や係累のすべてを捨てよと力説した。そのために光触寺の住職と懸命に資料を捜したが出てこなかった。恐らく一遍が全てを廃棄したのだろう。
その一遍は1282年に小袋坂から鎌倉に入ろうとしたが北条時宗に追い返された。親鸞も同様で、宗祖としてただ一人入鎌できたのは日蓮だけだった。大きな法難を被ったにせよ、それが可能だったのは、彼の出身が千葉の網元でそこが北条氏の領地であったことが影響していると考えられる。
月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり 茫洋
追伸 昨日アップした「レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「海への新しい小径」を読む」は「滝への新しい小径」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。
Monday, March 09, 2009
レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「滝への新しい小径」を読む
五〇歳で亡くなった米国の作家の遺作詩集である。
ガンで五〇歳の男が死ななければならない、ということはどういうことか、次の詩を読むと分かる。
「若い娘」
思わずたじろいだ出来事をみんな忘れてしまおう。
室内楽にかかわることもすっかり忘れてしまおう。
日曜日の午後の美術館だとか、そういうあれこれ。
古き時代の巨匠たち。そういうものすべてを。
若い娘のことも忘れよう。なんとかしっかり忘れてしまおう。
若い娘たち。そういうあれこれすべて。 ―The Young Girls
そして、カーヴァーの最後の詩集のいちばん最後におかれたのは、次の数行だった。
「おしまいの断片」
And did you get what
You wanted from this life,even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved,to feel myself
beloved on the earth. ―LATE FRAGMENT
生涯の最後の最期である 人よ何を想うか 茫洋
Sunday, March 08, 2009
小松祐著 小学館日本の歴史「いのちと帝国日本」を読む
明治時代中期から1920年代までを取り扱う本巻は、通時的叙述ではなく、「いのちと戦争」、「いのちとデモクラシー」、「いのちと亜細亜」という3つの主題ごとに共時的にテーマを設定して人民と帝国の相関関係を骨太に追っている。そして時代を経るごとに、われら臣民の生命がどんどん精密に管理され、秩序化されていくありさまが具体的にえぐりだされていく。
まずは文明国への入学試験である日清戦争とその卒業試験である日露戦争への悪魔的な道行の過程が克明に描かれるが、もしも日本が近代日本史の試験をやりなおすことができるとすればやはりこの段階だろう。
著者によれば、当時平民社では階級的視点に立つ非戦論を唱えながら幸徳秋水、安部磯雄などがスイス、オランダ、デンマークなどの小国を理想とし、軍事大国化路線を否定して民衆生活の安定と地方自治の確立、教育・社会福祉の充実、科学技術の発展などを通じて小国自立をめざしていた。
こうした考えは歴史的には自由民権期の中江兆民や植木枝盛、明治20年代の国粋主義者三宅雪嶺にもさかのぼることができるが、すでに田中正造も「いのち」の観点に立つ非戦論を唱えていたし、与謝野晶子、大塚楠緒子流の肉親愛に立脚する非戦論、さらには宮武外骨流の良心的非戦論者なども一定の影響力を持っていた。
また同時代の柏木義円の「柔和なる小日本主義」から見れば、日露開戦の理由などまったくみあたらないし、両国が旅順や二〇三高地で大量の犠牲者を出す必要はなかった、ということになる。
スイスを理想とする柏木の思想は、のちに「東洋経済新報」に拠る石橋湛山の政治思想に影響を与え、小さくともキラリと光る国をめざした武村正義などに引き継がれて現代にいたっているが、世界のグローバル大国との熾烈な競争と徒労に満ちた角逐を放擲して、あえて「アジアの一小国」へと隠遁することも二一世紀末葉の日本の魅力的な選択肢ではないだろうか。
ああ疲れた重き荷物を抛り投げて懐かしの峠の我が家に帰るのだ 茫洋
Saturday, March 07, 2009
橋本征子著・詩集「破船」(2004年刊)を読んで
「夏の呪文」「闇の乳房」に続く最新の第3詩集が本書である。
北の国で積み重なった幾星霜が、この詩人の思想をさらに深く沈潜させたのだろうか、その詩的世界はますます豊穣な収穫を生み出しているようにみえる。
例えば「吹雪がぴたっと止んだ夜 急にまたたき始めた星に気をとられて転んでしまった」という詩句から始まる「地底びと」を見よ。
地下鉄工事現場の覆工板から覗いた野戦病院のような灼熱の空間には、上半身裸の赤銅色のたくましい腕に青の薔薇のタトゥーをした男達が地底を掘り進めており、縄梯子を伝ってさらに下っていくと、青い海の底の部屋で籐の椅子に腰かけた若い女性が薄桃色のケープを編んでいて、よく見ればそれはいまは亡き母の姿であり、わたしはいつの間にか母となり、母はわたしと化してしまう。
さりげない日常のささやかな割れ目からするすると異界へ忍び込むと、過去の思い出や、忘れ難き幻影、懐かしき面影が茫洋と立ち上がり、詩人は遭遇した他者や「もの」たちへといともたやすく憑依して、軽々と自己滅却と自己再発見の旅へと旅立つのである。
そしてそのあとに残される風景とは、次のようなものであり、ここに詩人の詩作に対する秘法と、生の基本的な枠組みが一挙に示されているように思われる。
「もうそのひとはいない 覆工板の
間からあかあかと光が洩れているだ
けだった 地底びとよ 燃える水の
神殿に沈んだ者たちよ 地を這うわ
たしを身守れよ わたしが地の底の
眠りにつくまで 海の母乳をむさぼ
る嬰児となるまで――」
ちなみに、著者は詩誌「極光」同人で日本現代詩人会、日本詩人クラブ、北海道詩人協会の会員である。
金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる 茫洋
Friday, March 06, 2009
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
照る日曇る日第238回
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
Thursday, March 05, 2009
鈴木和成著「ランボーとアフリカの8枚の写真」を読んで
最近詩人アルチュール・ランボーの研究は、彼が37年の短かい生涯の中でアフリカで過ごしたおよそ10年間の後半生における生活と文学活動に集中している感がある。
17歳でパリ・コンミューンに加担し、19歳で「地獄の季節」を出版し、20歳で「イリュミナシオン」を完成し、21歳でピストルで撃たれた「恋人」ヴェルレーヌと決別し、23歳で明治日本へ行こうと夢見た天才詩人は、25歳にしてはじめて東アフリカ、現エチオピアのハラルを訪れ、当地を拠点として武器弾薬、象牙、香料、コーヒー等をなんでもあつかう灼熱の砂漠の大商人として活躍するのだが、この間に友人知己、家族、地理学協会に書き送った書簡が、若き日の詩作に勝るとも劣らぬ「文学作品」として、彼のアフリカ生活と共に再評価されているようだ。
かつて黄金のように輝かしい詩篇を生み出したこの19世紀最大の詩人は、けっして詩作を断念したのではない。いっけん無味乾燥と考えられがちな、この簡潔で事務的な商業文、そしてその行間から立ち現れる「新アフリカ人」としての生活、偉大な大旅行者の足跡そのものが「生の文学」に他ならない。あの南太平洋に遁走したゴーギャンが、旧態依然たる西欧美術に弔鐘を打ち鳴らしたように、ランボーもまた、というのである。
1891年11月10日午前10時、ランボーはフランスの港町マルセイユのコンセプシオンン病院で全身がん腫に冒され、右足切断の犠牲も空しく没するが、最後の最後までアフリカに戻ること願い、その遺言は「何時に乗船すれがばいいかお知らせください」であった。ランボーは恐ろしい激痛を堪え、彼の最期の作品を死を賭してマルセイユで書いた。
またランボーは、巨費を投じて当時の最新メカであったカメラと撮影機材一式をパリからハラルに送らせ、彼自身のポートレートを含めた8枚の写真を撮ったが、それが本書の執筆動機になっている。ある意味では晩年の詩人のドキュメンタリー的小説であり、ある意味ではアフリカにおけるランボー研究の最新レポートであり、またある意味ではランボー研究家が自作自演する色っぽい推理小説でもある。
色っぽいといえば、著者はヴェルレーヌとの関係において「ランボーは女であった」と断定しているが、それはどんなものだろう。アフリカにおける彼の多彩な女性関係や「地獄の季節」における性的叙述、そしてなによりも両者の詩風(男性的なランボーと女性的なヴェルレーヌ)を考えれば、その役割は逆ではなかったか、と愚考するあまでうすでありました。
少年にして少女のかんばせ カルジャが撮りし17歳のランボー 茫洋
Wednesday, March 04, 2009
網野善彦著作集第4巻「荘園・公領の地域展開」を読んで
本巻の月報で犬丸義一が若き日の網野について書いている。
1949年4月犬丸が東大に入学したとき、網野は歴研を代表して挨拶した。
この年は1月の総選挙で共産党の議席が一挙に35に伸張し、東大生の支持政党の第一位が共産党になった左翼の季節で、巷では「9月革命説」が流布していた。実際に国史学科に入った16名のうち実に9名が日共に入党している。
網野は卒業後は渋沢敬三の日本常民文化研究所に就職し歴史研究会の委員として活躍しながら、日共の指導部にいて引き続き革命運動に打ち込んだ。国民的歴史学運動の華やかな展開の中で、青年歴史家会議の議長に就任し、歴史家会議の指導部にいた石母田正、松本新八郎、藤間生大などと共闘していたのである。
当時党の地下指導部からはカーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類が配布されていたが、犬丸はそれを月島の常民文化研究所にいた網野から受け取って、民科歴史部会のグループ員に渡していたという。
53年3月、犬丸は網野らの指示によって深夜密漁漁船で当時国交のなかった共産中国に渡り、北京郊外の中国人民大学で日本近代史、労働運動、共産党史などを教え、58年7月、中国からの最後の引き揚げ船白山丸で舞鶴港に着いた。
東京に着くと密出国の罪で留置・起訴されたが最終的には懲役3か月、執行猶予1年の判決を受けたが、網野は終生このことを苦にして責任を感じていたという。
もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが 茫洋
Tuesday, March 03, 2009
橋本征子著・詩集「夏の呪文」(1993年刊)を読んで
詩人が「あたしは」と呪文のようにつぶやくとき、地軸は停止し、世界は沈黙し、失われた遠い日の思い出が一挙に蘇る。
―とつぜん春になったので、ビルの最上階の歯科医院は歯槽膿漏の患者であふれ、エーテルの匂いのする若い歯科医はうっすらと汗ばみながら腫れた歯肉を切り裂いてゆく。
―わずかばかりの夏 あたしのひとりきりのたった一度の海 赤いビーチサンダルをはいた少年を波打ち際の砂に埋めた。少年の声は次第にうず高く積まれる砂の中で恐怖の声に変り 生温い海水の中に沈んでいった。
―ふとった女医が外科器の触れ合う音にうっとりしながら慣れた手つきで掻爬している。光は光にかみつき 次第に自滅し 太陽の手錠は少しずつずれて静かに夏は老いてゆく。
―晴れた秋の日 火葬場では人が燃え 隣のグランドでは 少年たちがラグビー球を蹴っている。
―冬が来た。けれどあたしの蹠の王国では時折夏の残照が燃えて 吹雪の夜 爪など切っていると剥きでた薄桃色の皮膚のうえに多肉植物の切り口のような緑の臭気がたちのぼってくる。
(以上は、別の作品の詩句を無断でコラージュさせていただきました)
詩人の心臓から流れ出した真紅の血潮は、乾ききった不毛の荒野を流れ流れて干天の慈雨のように私たちの魂を潤す。
天使のように優しく、悪魔のように大胆な性と聖と生の饗宴に、私たちは思わず言葉を失ってしまうだろう。
それにしても海や空を漂う夥しい嬰児の亡骸は、詩人の妄想であろうか。それとも亡霊に仮託したおのれの切実な体験であろうか。
♪言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました 茫洋
半藤一利著「幕末史」を読んで その2
明治6年の征韓論騒動は、林子平、会沢正志斎、吉田松蔭、橋本佐内、藤田東湖など多くの幕末の憂国の志士達の衣鉢を継いだ西郷明治政府が引き起こした国権拡張運動だが、
大久保などの非征韓論派に反対にあって引きずり降ろされた年末に、その西郷どんが、
白髪衰顔 意とする所に非ず
壮心 剣を横たえて勲なきを愧づ
百千の窮鬼 吾何ぞ畏れん
脱出す 人間虎豹の群
などと悲愴な漢詩を詠んでいるところをみると、やはり本気で討ち死にするつもりだったのだろう。
しかし西郷を下野させたその大久保が、不平士族などの怒りを国外に解消するべく「琉球人(日本人にあらず)の保護」を名目に台湾出兵を強行するのだから、征韓論者と選ぶところはない。どっちもどっちの海外覇権侵略主義者輩の蛮行であり、これの延長線上に日清、日露、大東亜戦争の悲惨があった。逆に言うと明治時代の台湾、朝鮮への出兵、武力進出がなければ大日本帝国の成立はなかった。
わが国を地獄の底まで引きずり込んだ元凶は、軍隊による統帥権の独立独占であるが、著者によれば、これは悪知恵の働く山県有朋の陰謀によって明治22年の明治憲法発布をさかのぼる明治11年12月5日にすでに確立されていた。「国の基本骨格のできる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していた」のである。
歴史に「たられば」はないけれど、しかしもしも著者が説くように、ペリー来航以来攘夷か開国かで大揉めに揉めていた大騒動が、1865年慶応元年10月に晴れて結着した段階で幕府と朝廷が1つに結束し、薩長などの尊皇攘夷派が暴力による倒幕運動に乗り出さなければ、少なくともあの無意味で悲惨な内戦だけは避けられただろう。
戦争と夫婦喧嘩はいともたやすく開始されるが、その終息ほど困難なものはない。茫洋
Sunday, March 01, 2009
半藤一利著「幕末史」を読んで その1
東京生まれの東京育ち、しかも祖父が戊辰戦争で官軍と奮戦した越後長岡藩出身という著者ならではの、じつに面白くてとても為になる幕末・明治10年史である。
当然ながら基本的には薩長嫌いの著者は、漱石や荷風同様、明治維新を「維新」ととらえるよりは、徳川(とくせん)家の瓦解、という視点からこの「暴力革命」の日々を眺めていくことになるわけであるが、しかしご本人がそう芝居がかって意気込むわりには、西郷も大久保も木戸も坂本も否定的に描かれているわけではない。
また著者ごひいきの勝海舟を引き倒していることもない。むしろ類書よりも彼らの行蔵を温かく親切に見守っている趣もあり、この人の懐の深さが思い知られるのである。
明治史を成り上がりの薩長とそれ以外の諸藩の内紛の歴史、つまり戊辰戦争の拡大ヴァージョンとして語ることは一面的であるかもしれないが、まさしく「長の陸軍、薩の海軍」、昭和になっても官軍閥が強力に存在していたのは間違いがない。
永井荷風は「大日本帝国は薩長がつくり、薩長が滅ぼした」と語ったそうだが、太平洋戦争直前の海軍中央部は薩長の揃い踏み。こいつらが日本をめちゃめちゃにした挙句、最後の最後に国家滅亡を救ったのが関宿藩出身の鈴木貫太郎、盛岡藩の米内光政、仙台藩の井上成美の賊軍トリオという不思議な暗合も因縁めいて興味深いものがある。
著者いわく。「これら差別された賊軍出身者が、国を救ったのである。」
勝てば官軍負ければ賊軍勝たず負けず不戦で行きたし 茫洋
Saturday, February 28, 2009
照る日曇る日第232回
異様な妄想に駆られたわが国の軍人たちが、赤の他人の国にでっちあげた奇妙な植民地、満州。1931年生まれの著者は、国民中学生として家族とともに敗戦1年後までの9年間をこの奇妙な植民地第3の都市ハルビンで過ごした。
総面積およそ130万平方キロで現在の日本の3.4倍、仏独伊を合わせた面積よりも広いこの王道楽土の大帝国は、関東軍の陰謀によってわずか半年間で誕生し、たった13年で崩壊した。
人口3000万の満州を、たった20数万人の日本人が支配できたのは、ひとえに関東軍の武力があったからだ。満州事変(宣戦布告すると中立国からの軍需資材の輸入がのぞめなくなるから、戦争ではなく事変と命名した)における死傷者は1199人だったから、日露戦争のわずか100分の1の犠牲者で、日本は満州全土を手に入れたことになる。
敗戦2か月前、学徒勤労令によって満洲の奥地にある王栄開拓団に派遣されていた中学3年生の著者は、1945年8月9日、ソ連侵攻の急報を受けて命からがらハルビンに帰還する。そこで見たものは中国人の白昼堂々の略奪と、われらが精鋭関東軍の鮮やかな遁走という悪夢だった。
ソ連の満州侵攻は寝耳に水だったが、じつは関東軍は、開拓団や一般市民を「棄民」して満州防衛から朝鮮防衛に作戦を切り替えることは敗戦の3か月も前から決めていたのだった。
やがてソ連軍がハルビンに進駐してくると、著者の周囲では暴行、襲撃、略奪、集団自決が相次ぎ、父は「いざという時のために」家族全員に青酸カリを渡す。そして次々に襲いかかる生命の危機と苦難に満ちた屈辱の日々がはじまる……
病気で寝ていた父は中国人の警官に連行され、ハルビンから約200キロ東南にある牡丹江の収容所に入れられ、九死に一生を得たものの、この時の無理がたたって舞鶴に引き揚げて三年後に五〇歳で世を去る。
また髪の毛を切って少年を装っていた姉は、突然侵入してきたソ連兵にマンドリン銃を突きつけられる。
「その時だった。母が飛び出して銃口の前に立ちふさがり、『まだ子供だから何もしないで!』とロシア語で叫んだ。小柄な母が仁王になった」……
我々の優秀な先輩たち、私やあなたの賢明にして愚かな祖父や父親たちが引き起こした未曾有の国家的災厄が、植民地に生きる平凡な一家族の身の上に突如嵐のように襲いかかり、日々の平安が根底から根こぎにされていくありさまが、一人の少年の汚れなき瞳にくっきりと映じる。
その描写はあくまでも冷静に抑制され、歴史的な事実が淡々と述べられていることが、かえって私たちの胸を打つのだが、同時に、「それらの惨劇がそもそもなぜ、どのようにして引き起こされたのか?」という鋭い問いかけも忘れられてはいない。「これだけは後世に語り遺しておきたい」という著者の熱い想いがひたひたと伝わってくるのである。
「一度目のあやまち」を故意に忘却しようとし、「二度目のあやまち」を犯そうとする日が急速に近づきつつある今日この頃、平成の大瓦壊期に棲息するすべての国民にとっての必読の書であろう。
これだけは次の世代に伝えたい 恩師が綴りし入魂の一冊 茫洋
Friday, February 27, 2009
西暦2009年茫洋如月歌日記
愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典
あやしくも胸揺るがすは極彩のジンタブラスの猛き咆哮
わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪に添いて妻と楽しむ
果樹園の白梅いまだ四分咲きにして富士のお山は本日見えず
長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜
大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む
遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ
つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら
明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった
嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳
雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君
オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ
香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり
余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけた白き髪
君は岳私は大天使ガブリエル二人で成りきる風のガーデン
お父さんがく君のがくは八ヶ岳の岳だよと息子いい
思藻がないから語らない 歌がないから歌わない
拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る
障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ!
キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人
悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし
おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで地獄の釜が抜けるまで
新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律
あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙あり
人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし
この春もおたまに出会いしうれしさよ
紅白の梅を咲かせた古家かな
落ちていく世界の底が抜けるまで
鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク
春雨を聴くや五尺の土の下
コゲラ叩く大樹の下を通りけり
ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり
♪青空や日本全国梅便り 茫洋
Thursday, February 26, 2009
牧原憲夫著「小学館日本の歴史・文明国をめざして」を読んで
明治7年1874年7月、に尊敬すべき父兄の遺体を平然と火葬する仏教徒に怒り狂った神道派の要請を受けて、同年7月、明治政府は「火葬禁止令」を布告すると、火葬派の仏教徒のみならず多くの国民からの反発が高まった。
著者によれば、わが国における火葬の歴史は、文武天皇4年700年の僧道昭からはじまる、と「続日本紀」に記されているが、実際にはそれ以前に火葬された人骨が多数出土しているそうだ。私の住まいのすぐ近所にも鎌倉時代の「国立中世火葬センター」の遺跡があるし、火葬は我が国の伝統的な古くからの葬礼作法のひとつだった。
お釈迦さまも火葬されたが、たまたまそれがインドの風習であったからに過ぎず、「そもそも仏教の教義と火葬とはまったく関係がない」と、著者はいう。実際当時の仏教徒の大半は土葬であり、江戸時代の江戸、大坂、京などで火葬が広まったのは、墓地不足が原因だった。
ただし浄土真宗だけは例外で、祖霊信仰を否定した親鸞が簡便な葬礼として火葬を勧めていたために、「火葬禁止令」が出ると、各地の門徒は土葬した墓の上で薪を燃やして心を慰めるしかなかったそうだ。
翌明治7年、「朱引内埋葬禁止令」が出されたのをきっかけに、火葬派がいっせいに反撃を開始する。「火ほど清いものはない。埋葬スペースが狭いから都市計画の妨げにならないし、どこで死んでも家族と離れずに郷里の墓に入れる」。「火葬は残酷だというが、「大切なる体を泥土中に埋め、漬物のように大石を置き、ゆるゆると腐らし、そろそろと蚯蚓責めにするのはいかがなもののか」などと、当局に懸命にアピールした。
事実「復活」に備えて遺体を保存してきたキリスト教国でさえ、都市の墓地不足や衛生を理由に火葬が盛んになり、ちょうどこの年には英国でも「火葬協会」が設立されていた。
ちなみに幕末に浦上の家呉隠れキリシタンが捕縛されたのも、仏式葬儀の拒否が発端だった。明治政府は幕府以上にキリスト教を弾圧して国際的な批判を浴びており、キリスト教式の葬儀や墓地をめぐるトラブルも絶えなかったのである。
その結果、明治8年5月には「火葬禁止令」は廃止され、神葬祭用に設置された東京の青山墓地や谷中墓地まで一転して宗教とは関係のない公営墓地になった。また同じ年の11月にはキリスト教を含めた信教の自由が公式に認められ、10年には神道派の拠点であった教部省が廃止され、役場による伊勢神宮大麻の配布も翌11年には中止された。
かつて私はジェーン・バーキンを鎌倉の収玄寺に案内したおりに、彼女から日本の火葬の歴史について質問され、恥ずかしながらろくに答えることができなかったのであるが、いまならなんとか説明できるぞ、と本書を読んでおそまきながら思ったことだった。
思藻がないから語らない 歌がないから歌わない 茫洋
Wednesday, February 25, 2009
梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その2
著者が梅棹忠夫、上山春平などと打ち合わせが終わって、京都・祇園のお茶屋で四方山話に興じていると、突然酔っぱらった吉川幸次郎が部屋に乱入してきた。
偉大なこの中国文学者は、酒が入ると荒れる傾向があったが、その日はなにやら異常な殺気のようなものが漂っていた。危険を感じた梅原はそっと席を移ったので、その結果吉川は梅棹の隣の席に座ることになった。
すると酒乱の大学者は、いきなり「お前がつまらん学問をやっている梅棹か。お前のやっているフィールド研究などというものはいい加減なものだ。文献を読まないような学問は学問ではない」と面罵した。
そこで梅棹が、「文献研究だけではとても歴史の真実は解らない。文献には結構嘘が書いてある」と反撃すると、当時70代の吉川は激怒して50代の梅棹に殴りかかった。
すぐに腕っ節の強い上山と福永光司が中に入り、すぐれた道教の研究者であるとともに柔道5段の福永が吉川をはがいじめにして隣室へ連れて行ったそうだ。
さらに梅原は、「その後ろ姿に梅棹が、『この馬鹿ジジイ』と浴びせた罵声が、いまだに私の耳の底に残っている。それは私の幻聴かも知れないが、確かに私はそう聞いたと思う。」と記してから、己の学問に絶対の自信を持つ2人の碩学へのオマージュを捧げている。
私はこの興味津々たるエピソードを目にして、梅棹忠夫と福永光司がさらに好きになったが、この「唐詩選」の編者がかのアルコール・ラムボオ的政治家、宮沢喜一や中川昭一と同じ穴の貉であることを知っていっぺんで嫌いになったが、なぜか本書の著者に対してもいささか興醒めしたことを告白せざるを得ない。
♪拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る 茫洋
Tuesday, February 24, 2009
梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その1
日本書紀によれば秦の始皇帝の子孫と伝えられる秦氏は、応神天皇の14年に百済より渡来し、優れた養蚕技術で仁徳天皇の御代に素晴らしい絹織物を生産したために「波陀」、雄略天皇の時代には、「うずまさ」の姓をたまわり、現在広隆寺がある葛野を拠点に京都盆地全体で隆盛を極め、京都文化の基礎を作ったといわれている。
現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの偉大な一族の末裔である。ちなみに私の丹波の郷里は古代からこの秦氏の一大根拠地であり、偉大な養蚕家にして基督教者、波多野鶴吉翁が創立された郡是製糸の本社もこの地にあった。
さて聖徳太子の政経ブレーンとして活躍した秦河勝は、太子一族の没落後、藤原鎌足の陰謀によって流罪の身となり「うつぼ舟」に乗って西海を漂い、播磨の国坂越に漂着し死後は大荒大明神として祀られた。
河勝には3人の子があり、1人は武を、1人は楽を、もう1人が猿楽を伝えた。武を伝えたのは大和の長谷川党で、楽を伝えたのは河内の四天王寺の伶人、そして猿楽を伝えたのが円満井の金春大夫である。世阿弥の娘婿金春禅竹は、秦河勝から数えて40余代の孫であるから、秦河勝は能の創始者といわれている。
また著者によれば、秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、彼の庇護者であった聖徳太子もそれに影響されたと思われる。ペルシアのササン朝に保護されたネストル派のキリスト教(景教)は当時ペルシアから中国在住の中国人(秦人)に広まり、それが朝鮮半島を経由して日本の播磨の国坂越に上陸してそこにダビデ礼拝堂が建てられた。それが現在の大避神社で、古来から存する井戸はヤコブの井戸であったと考えられる。
なお著者は、このキリスト教伝来と同時に、あの謎に満ちた摩多羅神も輸入されたのではないかと考えているようだ。
キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人 茫洋
提案と回答と感想 その2
○提案
鎌倉市の「障がい者計画」への要望
1「障がい者自立支援法」と合わせて市の障害福祉計画の見直しを!
「障がい者自立支援法」は、障がい者を無理やり自立させようとして施設から追い出そうとしたり、収入のない障がい者に従来よりも経費負担を強いて自活困難に追い込むなど、数多くの問題点をかかえており、現在各政党でも白紙撤回や改定を検討中である。従ってこの法律をもとにした障がい福祉計画の実施は、新法の成立までいったん中止しそれから再検討するべきではないだろうか。
2障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を!
市の障がい福祉計画の福祉施設から地域生活への移行の「数値目標」にあまりにも力点がおかれすぎている。施設からどうしても移行できない障がい者も数多く存在しているのに、そうした個人個人の実態とは無関係に年度別の数字で減少計画を立てることは無謀であり非人間的である。数値計画自体を撤廃し、もっと障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を充実させるべきではないだろうか。
3収容施設の増設を!
現在鎌倉市にはかなりの数の通所施設や地域作業所が存在しているが、入所施設は1か所しかない。今後その需要は急速に高まると予想されるので、その増設を希望する。
4「障害者」から「障碍者」へ
現在逗子市など全国の多くの市町村では、いわゆる障害者のことを「障碍者」と表記するようになっている。それは「障害」という表記がなにか悪いもの、世間に悪をなすもの、という印象をともなうところから、あえてニュートラルな「障碍」あるいは「障がい」という用語を使うように変化しているのである。本市でも遅まきながらこの表現法を採用されんことをのぞむものである。わたしたちは害虫ではない。
○回答
お寄せいただきましたご意見につきまして、次のとおりお答えいたします。
1について
平成18年度に施行された障害者自立支援法では、全市町村に「障害福祉計画」の策定を義務づけており、鎌倉市においても、鎌倉市障害者福祉計画を策定いたしました。
今回の計画の改定作業も、障害者自立支援法に基づき、国の指針を受けて、平成20年度末までに全市町村で取り組まなければならないものです。なお改定にあたっては利用状況やニーズをふまえ、検討や見直しを行います。
2について
障害福祉計画は、利用状況やニーズに対応したサービスの提供の確保を図るための数値目標を定めた計画となっています。数値目標やサービス種別は国の指針に基づき全国共通のものとなっております。なお、地域生活支援事業の部分につきましては、任意事業も含め、市独自の内容となっています。
利用者一人ひとりの利用状況に対応したきめ細かい事業の展開はとても大切なことと認識しており、計画期間中においては進行評価を行い、点検、管理をしていきます。
3について
いわゆる親なきあとのケアについては、市としても重要な事項としてとらえております。社会福祉協議会やNPO法人などと連携して成年後見制度利用支援事業などを推進していきます。
国は新たな入所施設を認めない方針でいるため、新たな施設を作ることは困難な状況ですが、施設入所が必要な利用者には利用者の生活環境や状況に応じた支援を実施します。さらに在宅でのサービスを利用する方への支援も事業者と連携を図り、事業の充実を図り実施していきたいと考えています。
4について
「障害者」の表記につきましては、鎌倉市障害者福祉計画を策定する経過の中で検討した際、「法律用語としてはひきつづき表現が残ることから今後も国の動向を見据えていく」、「表記よりもまず施策等の充実を図ることを推進すべき」という意見があり、「障害者」の表記を使用することとなった経緯があります。 しかしながら、ご指摘いただきましたように、表記を工夫している市町村もありますので、表現方法も含め、よりよい施策や事業の推進が図られるよう、表記から市民が受けとめる印象も考慮して、ひきつづき研究してまいりたいと思います。
今後とも、市民に信頼される市政を進めてまいりますので、ご理解ご協力のほどよろしくお願い申しあげます。
平成 21 年 1 月 7 日 鎌倉市長 石渡德一
○感想
市長より懇切丁寧な回答をいただいたことには感謝しているが、やはりお役所一流の官僚的な答弁の域を出ない点に不満を覚える。こういう要望にはこういう風に答えておけばよい、とでもいうような。
卒璽ながら私はこれから障がい者のことを「障ぐあい者」と呼びたいと思います。
障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ! 茫洋
Monday, February 23, 2009
提案と回答と感想 その1
○提案
拝啓 松竹本社殿
貴社築地歌舞伎座建て替え問題についての提言 このたび貴社が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをひとたびはめざされたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。 このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。 わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという都知事の鶴の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」こそ、貴社が、そして私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。 だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊してきた三菱地所さんもかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままの形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。 そこであの不朽の「寅さんシリーズ」をはじめ貴社の輝かしい映画歌舞伎製作と興業を愛し続けてきた小生からの切なるお願いは、貴社が先日マスコミ発表された「都知事推薦の現行案」を廃棄して、もう一度「当初のオリジナル案」に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を断行していただくことです。 貴社と歌舞伎の愛好者、そして全国の心ある人々は、必ずや貴社の勇気ある決断を支持することでしょう。 敬具
○回答
この度は、歌舞伎座再開発に関しまして、貴重なご意見をいただき誠にありがとうございました。 また、返信が遅くなりまして、誠に申し訳ございません。 いただいたご意見は関係者に回付いたしました。 歌舞伎座再開発につきましては、耐震性能の確保、劇場機能の改善、環境保全や地域との共生など様々な角度から計画を検討し、 なによりお客様の声を第一に反映できるよう、努力してまいる所存でございます。 今後ともご理解とご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。------------------------------------ 松 竹 株 式 会 社 東 京 本 社
○感想
暖簾に腕押しとはこのことか。関係者とはどこのどなたでござるか。
せっかくおだててあげたのに、あまりにつれない返事にがっかり。
石原都知事の意見など反映せずに、私の意見をしっかり反映してほしい。
人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし 茫洋
Saturday, February 21, 2009
永井荷風、西洋料理を論ず
ゼントルメンともあろう人物が、洋服に憂き身を窶しても料理にはてんで構わないのはまことにおかしい。
そもそも西洋料理の出来栄えは、コンソメ、吸い物を味わえば、そのすべてがわかる。フルコースなど喰らう必要はないのである。
1926年(大正15年)現在、本邦の西洋料理のベストは、横浜・神戸のホテル、銀座、神田小川町の順である。されどデザートや洋酒の備蓄が弱いのは残念なり。白ぶどう酒はボルドー産は甘すぎて食事に適せず。すべからくライン産を備えよ。
銀座周辺地区においての第一位は銀座竹川町コットなりしが、今はなし。日比谷帝国ホテル、築地明石町オテルサントラルよろしからず。けだし東都最美味は虎ノ門東京倶楽部なるべし。されど外交官、華族集会場なれば身分なきものは出入りしがたし。
銀座南鍋町の風月堂良し。木挽町精養軒、芝口有楽軒、京橋三橋亭だめなり。麹町富士見軒、新橋金春通り壷屋よし。
東京市中でアイスクリームが登場したのは明治32、3年頃のことなり。当時はチップを1割与えしものなり。
浅草公園の料理屋に個々のテーブルなく、NYウオール街のレストランのごとくカウンターで食事するスタイルの食堂あり。これ本邦の最新型スタイルなるべし。
されど、売春婦を写真と切符で買う国民は、世界広しといえども日本国のみならん。浅ましきこと限りなし。
嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳 茫洋
雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君 茫洋
永井荷風いわく、「画工・詩人・音楽家・俳優などは方外の者なり。」
仏蘭西では、画工・詩人・音楽家・俳優などは「方外の者」とみなされ、礼儀に拘捉せざるも之を咎むる者なし。
されば、この仲間の弟子には自ら特別の風俗あり。頭髪を長く伸ばし、衣服はビロードの仕事服にて襟飾りの長きを風になびかし、帽子は大黒頭巾のごときを冠る。
冬も外套を着ず、マントーを身にまとう。眉目清秀なる青年にてその姿ややみすぼらしきが雪の降る夜なぞ胡弓入れたる革靴を携え、公園の樹陰を急ぎ行く姿なぞ見れば、何となく哀れに、また末頼もしき心地せらるるなり。かかる風俗巴里ならでは見られぬなり。
あまでうす曰く、これさながら「ラ・ボエーム」の一場面のごとし。
♪悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし 茫洋
Friday, February 20, 2009
愛犬ムクを悼む歌 没後7周年の夜に
OH!アデュー 人語をはじめてに口にして
老犬ムクは いま身罷りぬ
ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す
鎌倉の 山野を駆けし細き脚
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり
ここで跳べ ザンブと飛び込む滑川
ウオータードッグよ 輝きの夏
大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク
ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす
17年 一直線に駆け去りぬ
今一度鳴け 野太きWANG!
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり。
庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり
崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハ雌雄乱舞す
まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク
春雨を聴くや5尺の土の下
Thursday, February 19, 2009
永井荷風いわく、「赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし」
ふあっちょん幻論第38回 メンズ漫録その16 断腸亭主人紳士洋装論その7
ハンケチは晒し麻白を上等とす。熱帯植民地はかならず驟雨があるので、欧州では外出時に傘を携行するのである。
ヘルメット帽は雨には傘となり、炎天には空気が通いて涼しく、熱帯には最高である。日本でも一時流行したのに、なぜ最近廃れたのか?
赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし。ただし絶対に礼式用ではない。だのに日本でフロックコートを着て赤皮の半靴を履く人種あり。これは、紋付羽織袴で足袋を履かずにいるようなものなり。
コゲラ叩く大樹の下を通りけり 茫洋
Wednesday, February 18, 2009
永井荷風いわく、「肌着を人目にさらすなかれ」
永井荷風またいわく。メリヤス(ニット)肌着は褌(ふんどし)と同様、いかなる場合にも人目に触れてはならない。
ホワイトシャツの袖を捲り上げても、肌着は出すな。シャツは米国では白のみならず変わり縞多数あり。これ英国流にあらず。
近年堅いカラーの代わりにシャツと共色の柔らかい襟を使う例あり。これぞ米国の若者流なり。
米国は欧州と違って夏暑いので、お上品ではない。日本では温度は米国より低いが、湿度は高い。洋服には不便であるが、むかしは「武士のカラ脛、奴の尻の寒晒し」と言うておった。いつの世にも勤めはつらいものなり。されど極力、南洋植民地風にせず、せめてNY風をめざすべし。
ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり 茫洋
Tuesday, February 17, 2009
荷風いわく「鳥打帽はパリの新聞売りのためのものだ」
永井荷風またいわく。帽子は洋服に合わせること。鳥打帽は銃猟、航海旅行用、そしてパリの新聞売りのためのものだ。黒の山高帽が普通である。
米国の東部の都市では晴雨ともに風の勢いが甚だしいので、中折れ帽は吹き飛ばされて不便である。その点夏炎天下でも山高帽は大層具合がよろしい。
中折れ帽は春から夏にかぶるべきものであるが、毎年色々な流行があるので、すべからく背広に合わせよ。日本人の古ぼけた中折れは西洋では職人労働者のものだ。
ただし米国では白人階級の上下の差別が無いため、日曜日には職人も黒の山高帽を頭にのせて女房同伴で教会へ行く。パナマ帽は英国で少しは見かけるが、米国では全然見かけない。英米はなんといっても麦藁帽が主流である。
おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで 茫洋
Monday, February 16, 2009
荷風いわく「日本製は中国に劣る」、と。
永井荷風いわく。洋服仕立ては日本より中国に限る。とりわけお薦めしたいのは帝国ホテル前のシナ人洋服店である。銀座の「山崎」などは糸を惜しみ、なおかつ高い。縫い目、ボタンのつけ方健固ならず。まことに「日本の商人ほど信用を置きがたきはなし。」
あまでうす註。この山崎とは、米国ミッチェル裁断学校を卒業した山崎隆造を指す。後に彼は明治37年開催の米国万国博覧会仕立て服コンクールで金賞を受賞し、銀座に「山崎高等洋服店」を開いたが、荷風はその「山崎」が駄目だと言っているのである。また当時の国産よりも中国人による縫製に軍配を上げているのも興味深い。荷風自身もシナ人などと慎太郎風の「差別用語」を使っているように中国への蔑視はあるのだが、にもかかわらずいながらも、見るべきところをきちんと見ている冷徹な文学者の視線に感動すら覚える。
それはともかく、いずれ21世紀のわが国の全産業部門で、こういう荷風的事態を迎えることだろう。
新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律 茫洋
Sunday, February 15, 2009
断腸亭主人の紳士洋装論その3
断腸亭主人、荷風散人いわく。洋服の手本は西洋である。しかし色白の西洋人に似合っても、黄色の日本人には合わない色柄が多い。例えば英国人が着るキツネ色の外套は、日本人には似合わない。
日本人には黒・紺・ネズミが無難である。また縞柄の粗いものは下品になりがちだ。しかし霜降りなら無難である。
形は、背広、モーニングコート、フロックコート、燕尾服がある。背広は普段着でまあ着流しと同じようなものだ。日本人は背が低いから、モーニングは似合わない。
スーツは米国では欧州に較べて上下ともゆったりした仕立てだが、同じ欧州でも英国は少しゆるやかな感じである。仏蘭西はキチンと身体に合わせたシルエットであり、袖のつけ方なども堅苦しい。
婦人物なら仏蘭西が一番と言われるが、紳士の背広は英国が世界で随一だ。しかし私の経験では、日本人には米国風が一番似合うようだ。
上記の永井荷風の見解には、あまでうすも同感です。
あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙 茫洋
この春もおたまに出会いしうれしさよ 茫洋
Friday, February 13, 2009
Thursday, February 12, 2009
永井荷風の紳士洋装論その1
日本人洋服の着始めは、旧幕府仏蘭西式歩兵の制服であった。その頃、人々はこれを「膝取りマンテル」などといった。御一新となり、岩倉公らの西洋視察(明治4-6年)後、文官の大礼服もでき、上級役人は洋服を着て馬に乗ることとなった。日本では洋服は役人と軍人が公式時に着るものとなった。
内務省の役人だった荷風の先考久一郎は、とてもダンディな人だった。明治12年現在だというのに10畳洋間にイス、テーブル、長椅子をすえつけ、ストーブをたいて、テーブルで家庭料理を楽しんだ。
役所から帰宅すると、彼は洋服を脱ぎ、エビ色のスモーキングジャケットに着替え、英国風パイプでお勉強に励んだ。また雨の日には、木の底をつけた長靴で出勤したという。
断腸亭主人いわく。「上野精養軒にいきて、わが家と同じ料理なりと奇異の思いしたり。」
鹿鳴館華やかなりし頃、荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、ここから洋服で幼稚園に通っていた。小学校時代は海軍服に半ズボン姿でそれは15、6歳まで続く。
「襟より後ろは肩を被うほどに広く折り返したカラーをつけ、幅広きリボンを胸元にて蝶結び。帽子は広いつば、鉢巻リボン。頭髪は西洋人のように長く刈り込みたり」
永井荷風はファッションはもちろんのこと、衣食住のすべてにおいてヤングジャパンの欧化文明の最凸端で生活していたことになる。
余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけし白き髪 茫洋
メンズ漫録その9 ヤングジャパンとメンズスーツ
日本におけるスーツ受容の歴史の特徴とは、①前回の明治天皇家の事例でみたように、
あくまでも「上」からの指令で着せられたこと。②軍服の機能性をウリに官吏の権威を振りかざして大衆化していったこと。③従ってなかなかTPOまで手が回らなかった。ことなどが挙げられます。
最後の点については戦後石津謙介氏が提唱するトラッドが登場するまでわが国の男どもには身につかなかったという意見があるくらいですが、それほど長いメンズ暗黒時代が続いたわけではありませぬ。
たとえばここで紹介しようと思う荷風散人なぞは鴎外、漱石などほぼ同時代の文学者に比べても抜群にお洒落でありました。私はメンズモードの初期の規範はこのダンディによてはじめて確立されたのではないかとひそかに考えております。
前置きはこれくらいにして次回から永井荷風のファッション論を紹介してまいりませう。もっともその材料はすべて1916年(大正5年)に発表された彼の「洋服論」に基づいておりますので念のため。
明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった 茫洋
Tuesday, February 10, 2009
メンズ漫録その8 明治皇后の衣服改革
明治19年、天皇は病気がちで執務と行幸を怠ったが、その代理を洋装で務めたのが皇后だった。
宮廷の旧来の類型を打破して、皇后が初めて洋装で公衆の面前に登場したのは同年7月30日に華族女学校に行啓し、卒業証書授与式に出席した時だった。
翌月の8月10日には、皇后は天皇とともに西洋音楽会に出席し、洋服姿で初めて外人客に接見した。それは鹿鳴館の物真似ではなく、聡明な彼女の内部で芽生えた自立的な自己意識の産物だった。
さらに皇后は、天皇の代理で横須賀造船所で行われた軍艦武蔵の進水式に出席したり、赤羽で行われた近衛兵の戦闘訓練を観戦し、11月26日には巡洋艦浪速、高千穂に試乗して水雷発射作業を観覧し、「事しあらばみくにのために仇波のよせくる船もかくやくだかむ」と詠んだ。
翌20年の元旦、皇后はこれも開闢以来初めて洋装大礼服を着け、宮中の祝賀を受けたが、以後このコスチュームがこの種の儀式での慣例となった。1月17日に彼女は女子服制に関する「思召書」を発布したが、ここで彼女は「着物は14世紀南北朝以来の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明に適しないばかりか、古代の日本女子の服装とも異なる。着物よりもむしろ西洋女性の服装が古代につながる。『宜しくならいて以って我が制と為すべし』と述べ、これが国産服地の改良、販促につながることを期待したのであった。
以上はD・キーン著「明治天皇」からの抜粋でしたが、私はこのような男勝りのスーパー国粋派女帝や三韓征伐に挑んだ神功皇后よりも皇室の非人間性に窮して病気がちの雅子妃の自虐的に抵抗しつつ苦悶する態度の方がよっぽど普通ぽくて好ましく感じられます。
つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら 茫洋
世界のオケのライブを聴く
「レコード芸術」の1月号をぱらぱら見ていたら、世界各地のラジオ放送を無料でポッド・キャスッティング聴取ができるようになったという記事が出ていた
最近バイロイト音楽祭やベルリンフィル、メトロポリタンオペラのライブや過去の放送を有料で聴取するシステムができたことは知っている。我が国の新日フィルの演奏が「日経パソコンの特設サイト」で、読響のライブが「第2日本テレビ」の映像で視聴できることも知っていた。しかしニューヨーク・フィルやシカゴ交響楽団までもが無料で最近の、あるいは過去の名演奏をネットで聴かせてくれるようになったとはついぞ知らなかった。
早速昨日からドゥダメル指揮NYフィルのマーラーの5番やピンカス・ズーカーマンの独奏によるクヌセンのバイオリン協奏曲、ムストネン独奏のモーツアルトのピアノ協奏曲11番などを聴きまくっているが、演奏も音質も素晴らしい。
ただひとつだけ残念なのはシカゴ響をバックにモーツアルトの13番と23番の協奏曲を弾き振った内田光子の昨年12月の演奏の再放送期限が2月2日で切れてしまっていること。切歯扼腕とはこのことか。
しかしこれまでプロムスなどをさんざん楽しんできた英国BBC放送局のクラシックチャンネルとあわせて、またしても新しく魅力的な世界が眼前に広がった大いなるよろこびを覚える。
http://nyphil.org/attend/broadcasts/index.cfm?page=broadcastsByMonth
http://www.cso.org/main.taf?p=15,1
大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む 茫洋
Monday, February 09, 2009
滋味ある演出
なぜだか最近NHKと仲良くしている富士テレビが、「風のガーデン」に続けて山田太一脚本の「ありふれた奇跡」というドラマをやっている。自殺未遂の三人の男女を中心に展開する愛のドラマだが、前回は脇役の二人の女性の間でこんなシーンがあった。
ヒロインの母親役の戸田恵子が(女装趣味に走ったりしている夫にあきたらず)不倫に走ったが無残なまでに振り棄てられて落ち込んでいる。そこへ姑の八千草薫がウイスキー片手にやってきて慰める。
「まあまあそんなに落ち込んでかわいそうに。でもねえ、私もあなたくらいの年ごろの時にもう死んでしまおうと思ったことがあるのよ、あなたとは理由が違うんだけど」というような前置きがあって、彼女はいい歳をした家庭の主婦が亭主とは別の男に真剣に恋した話を淡々と語る。
俄然全身が耳になった嫁が、「まあ、お母様のような大人しい方にそんなことがあったなんて」と驚いていると、八千草薫が「でもあの男はよくなかった。やめておいてよかった。それが正解だったのよね」とさらりというのだが、その時遅く、かの時早く、戸田恵子は義母のその告白が嫁の行状の全てを鋭く見抜いたうえでの「お話」であることに気づいて愕然とするのである。
こういうさりげないけれども人間の心肝を寒からしめる「ありふれた奇跡の一瞬」こそ山田太一の真価であり、最近の若い脚本家にはなかなか真似ができない境地なのだろう。
長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜 茫洋
Sunday, February 08, 2009
鉄腕アトムと坂本選手と谷川選手
なぜだかNHKで「鉄腕アトム」の番組をやっていた。いろんな人がいろんなことを述べていたが、坂本龍一が、「手塚治の最大の特徴は曲線の美しさにあると思う」というので、またまたそんな出まかせを、でももしかするとホントかなあ、と半信半疑で「リボンの騎士」の表紙を見てびっくり。
そのすらりと伸びた騎士の足の描線の官能的なまでにデリケートな美しさに三嘆。坂本選手はさすがだと思った。それから手塚治はおそらく美脚フェチだったろう。
せっかく褒めた後ですぐくさすのもなんだが、その坂本選手があまりにも早すぎる自叙伝のようなものを新潮社の「エンジン」に連載しているのはいかがなものか。
鈴木編集長のいつもながらの「目のつけどころのシャープさ?」には敬服するが、こういうものは死ぬ間際の日経の「私の履歴書」か、死んでから第三者が書くものだろう。そうではないかね、坂本君。
それにしても「鉄腕アトム」の主題歌は素晴らしい。これをすこし音程をはずしながら手塚治が歌っている画面を見るとなんだか泣けてくる。作詞は谷川俊太郎だが、これは彼のこれまでのどんな詩よりも素晴らしいと思うのは、私だけだろうか。
紅白の梅を咲かせた古家かな 茫洋
Saturday, February 07, 2009
メンズ漫録その7
ふあっちょん幻論第30回
このようにして洋服は、大元帥陛下の軍服を頂点に、軍国主義と官僚主義の2つに跨って新しい権威の象徴となった。
最初に洋服になじんだのは、官吏、インテリ、富裕層だった。彼らは、昼は燕尾服(テイルコート)、夜はフロックコートを上手に着こなしたのだが、これはなぜか正式の英国流とは異なる着方だった。
英国ではダブル前の丈の長いフロックコートが長期にわたって昼間の正装であったが、1926年にジョージ5世が準正装のモーニング(午前中に行なう乗馬のために前裾がカットされ背中には裾を留めるボタンが2コついている)を着てチェルシー・フラワーショーに出席したのを契機に、モーニングがフロックに代わって昼の正装になった。明治のエリートたちはそんなことなどお構いなくわが道を歩んでいたのである。
現在の我が国では、モーニングは昼夜を問わぬ正式礼服であり、燕尾服は格調高い宮中最高礼服として通用している。大隈重信、板垣退助、伊藤博文など明治の政治家もその大半がフロックコートを着用していた。
ちなみにタキシードは、絹布が張られた剣襟かへチマ襟の上着と顕章つきシングルズボンの夜の正装である。色はクロかミッドナイトブルーで黒の蝶ネクタイとカマーバンド、エナメルのオペラパンプスなどとともに着用する。ブラックタイ着用とあればこれを着るのが無難だろう。
ちなみついでに、このタキシードはNY郊外のタキシードパークでタバコ王ロリラード家の4世がここにタキシードクラブをつくり、1886年10月10日にパーティを開催したのだが、その時に英国帰りの息子が、「尾のない燕尾服型の上着」を一着におよんで登場したのが起源だという。
しかし英国人は、これは「ディナージャケットだ。本物のタキシードはエドワード7世の注文で1865年ヘンリープールが制作したのだ」と称して異を唱えているという。
以上の記述の大半は、服飾評論家中野香織氏の指摘による。
わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし 茫洋
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪なれども妻と楽しむ
Friday, February 06, 2009
メンズ漫録その6
明治5年11月12日、文武百官の大礼服は、正服は洋服、祭服だけは衣冠束帯と改められた。そしてこの決定を待っていたかのようにして、ちょうどこの年に岩倉使節団が海外に旅立つのである。
翌明治6年以降、明治天皇は死ぬまでのおよそ40年間洋服に身を包んでいたが、それには海外から帰朝したばかりの近代化論者の大久保利通の意向が強く働いていた。けれども明治から昭和のはじめまで一般大衆はビジネスシーンにおいて和服を着ることが多かった。和から洋への転換は、あくまでも天皇の権威を借りた上からの強制であることに留意する必要がある。
この転換がまだ中途半端であることをみてとった明治政府は、急遽「上滑りまま走り続ける洋化政策」を採用する。明治16年には日比谷に鹿鳴館が竣工。ここを拠点とした鹿鳴館外交を通じて治外法権と関税統制を撤廃し、不平等条約を改正しようとしたのが井上馨の狙いだった。
ちなみにこの失われた名建築の設計は英国の建築家ジョサイア・コンドルで、この「鹿鳴」の名は「詩経」から取っているが、これは井上馨夫人の武子(三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロインである元芸者朝子のモデル)の前夫中井弘の命名にかかる。中井はパリのムーランルージュのレビューを見て、京の「都踊り」を着想した才人でもあった。
明治18年と20年11月3日の天長節に、伊藤博文&梅子夫妻主宰の大晩餐会がここ鹿鳴館で開催されたことは、よくテレビドラマなのでも紹介されている。
国がおいらにも2万円くれるのか早くくれもっともっとおくれ 茫洋
Thursday, February 05, 2009
Wednesday, February 04, 2009
桐野夏生著「女神記」を読んで
次々に新しい活動の領域を開拓している気鋭の著者によって、「古事記」の解体と再構成、語りなおしが敢行された。
ここでは「古事記」における神話的な伝承と言葉が、現代にも通底する男と女、女と男のかかわりあいの生々しい対立とぎりぎりの対決の問題として解釈され、語りなおされている。
私たちは著者とともにイザナギ、イザナミの二神になりかわって、国や山河や八百万の神を、つまりはこの世を、全世界を、産み直すのであり、そのことを通じて、父母未生以前の原始的な創世期における、人と人、とりわけ男と女、女と男の相関関係についての記憶と認識を新たにすることになる。
いっぽうそれは、国土未生の状態から初源の国産みにいたる全プロセスの追体験でもあり、柳田國男や折口信夫などの民族学者たちによって考察された南方諸島文化と本土文化の相関関係に対する現代文学からの清新な回答でもある。
「古事記」では諸神中の神として鎮座ましましているイザナギ、イザナミの二神は、ここでは愛と憎悪、怒りと悲しみの化身となり、黄泉比良坂をいくたびも往還しながら、人間的な、あまりにも人間的な、男神と女神の壮絶な争闘を繰り広げ、とどのつまりはギリシア神話にも比定すべき氷のように美しい女神の哀切な勝利宣言で全編の幕を閉じる。地球と宇宙は、母なる子宮と原子心母を軸にして繋がっているのだろうか。
私はこの下りを目にしながら、ムラビンスキー、レニングラードフィルによる「悲愴」の息も絶え絶えな終楽章の断末魔の響きを確かに聞き取ったのである。
遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ 茫洋
Monday, February 02, 2009
平川新著「開国への道」を読む
小学館の日本の歴史もそろそろ大詰めに近づいた。今回は19世紀の江戸時代を取り扱っている。
本書ではまず西欧、ロシア、米国などが日本に押し寄せてくる環太平洋の時代のなかにあって、露西亜との北方領土画定のせめぎあい、大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛などの漂流民や人質外交戦においても、我が国がそれなりに「帝国」としての存在感を示して列強諸国の圧力に耐えたことが指摘される。
また江戸時代がけっして幕府の専制独裁の世の中ではなく、ルールにのっとった建策はかなりの程度まで受け入れられ採用された民主的?なシステムをもっていたこと、またこの潮流が幕末のペリー来航の際のオープンな開国論議に引き継がれていたこと。
庶民の正義の味方として高く評価されている大塩平八郎が、その裏面では水戸藩に対して特別の好意を示して米価の引き上げにつながるような便宜を図っていること、天保の改革で風俗を取り締まって倹約を断行した老中水野忠邦はもっと再評価されるべきであること。
さらにはそもそも百姓もある時期までは一本差しなら武装が認められており、高杉晋作の奇兵隊以前に、江戸市中に散在した道場主やメンバーの大半、近藤勇の新撰組やその前身の浪士組のメンバーの大半が武士ではなく、もっぱら百姓や神主などの平民であったこと。そしてその歴史と実績が幕末に物をいい、かれら「草莽の庶民剣士」こそが明治維新の立役者であったことなどが、きわめて実証的に語られるのである。
香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり 茫洋
Sunday, February 01, 2009
オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を視聴して
オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を衛星放送で観劇しました。これはパリのシャトレ座における04年12月のライブです。
シャトレ座といえば昔パリ管の指揮者で売り出し中だった、まだ若手か中堅時代のダニエル・バレンボイムが「ドンジョバンニ」を振った夜に、聴衆の見解がそれこそ賛否両論真っ二つに割れて、ブラボーとブーの2つの叫びが5分間も続いたことが忘れられません。その間、当のバレンボイムが胸に手を当てたまま審判に身をゆだねている姿が印象的でした。
何事につけても良い悪いの意思表示がはっきりしているのがパリの民衆の特徴なのですが、この日の演奏に対してはきわめてノリが悪く、ようやく拍手がわいたのは表題役を演じるフェリシテーィ・ロットの最初のアリアのときでした。浅草オペラなどで一世を風靡したブン大将をフランソア・ルルーが好演していますが、やはりなんといってもベテラン姥桜ロット様の貫禄の歌唱と演技の勝利でしょう。
永井荷風ゆかりのこの浅草オペラでまたしても思い出すのは、田谷力三がうたっていた
スッぺの喜歌劇「ボッカチオ」の有名なアリア「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」や「恋はやさし百合の花よ」です。かつての私の上司は、これを宴会であざやかに歌いこなして万座の喝采を博したのでしたがいまどきのリーマンにこのように奥の深い芸当ができるでしょうか?
マルク・ミンコフスキー指揮のグルノーブル・ルーブル宮音楽隊は、ブンチャッチャ、ブンチャッチャの力演で、かつてリュリが指揮杖でおのれの足を刺し貫いたさまをしのばせましたが、やはり音楽は2拍子からはじまって3拍子、4拍子へと進化していったのではあるまいかと、まるで阿呆のように思ったことでした。
♪元わが上司N氏の名歌唱「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」をもいちど聴きたし
茫洋
Saturday, January 31, 2009
メンデルスゾーンの代表的作品「MENDELSSOHN THE COMPULETE MASTERPIECES」を聴いて
毎度おなじみ超廉価のソニーBGMグループの全30枚組オムニバスを聴き終えました。
なんでメンデルちゃんなのかといいますと、今年は彼の生誕100周年にあたるのでこういう記念盤がぞろりと発売されるのです。有名な「イタリア」とか「スコットランド」のニックネームがついている交響曲はクルト・マズア指揮ゲバントハウス響の古式豊かな演奏で楽しめますが、ロイ・グッドマンが指揮してハノーバー・バンドが演奏している若書きの弦楽シンフォニーもとてもフレッシュで魅力的です。
意外にも?感銘を受けたのが、ヘンシェルカルテットが奏でる3枚組シリーズの弦楽四重奏曲集とこれまた3枚も収録されたオルガン曲たち。後者はさすがバッハの「マタイ受難曲」をバッハ時代以来はじめて蘇演したこの作曲家らしく、まるで生前のバッハもかくやと思われるほど生き写しの演奏にびっくりしました。これはスイスの古い教会のオルガンをステファン・ヨハネス・ブレイシャーが重厚かつ荘重に弾きこなしています。
私の大好きなエーリッヒ・ラインスドルフがボストン交響楽団を率いた「真夏の夜の夢の音楽」は、クレンペラーの名演には及ばないものの深沈たる夜の森の妖精たちを眼前させてくれる見事な演奏です。
今を去る四半世紀の昔の7月4日、純白の夏服に身を包んだ彼が指揮棒一閃、スーザの行進曲「星条旗を永遠なれ」をニューヨーク・フィルを立たせて颯爽と演奏した東京文化会館の夜を懐かしく思い出したことでした。
良家のぼんぼんとして何不自由なく健やかに成長し、ワーマール共和国のゲーテとも親交のあったメンデルスゾーンですが、わずか38歳で夭折します。そのせいか、彼のどの曲を聴いても永遠の若々しさが輝いているような気がしませんか。
♪愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典 茫洋
♪あやしくも胸揺るがすは極彩の音高鳴るジンタブラスの咆哮 茫洋
Friday, January 30, 2009
西暦2009年茫洋睦月歌日記
ブルーベリー、苺無花果林檎ジャム数々あれど柚子が大好き
何事のおわしますかは知らねども胸に満ち来る光一筋
われもまたソウル・トレインに乗り込んで、世界の果てまで旅立ちたし
武士は義に女は恋に死すべしと元録の掟ついに定まる
昼下がり舗道に伏したる黒猫は薄き血吐きて瞑目しており
「新世界」の第4楽章は行進曲ではない讃歌である「歌え歌え」とクーベリックは叫ぶ
やたら雷、津波を連発するなかれ気象庁とマスコミはピーターと狼
豚のごとく太りしもの武道館にこけつまろびつ還暦ジュリーコンサート
6時間ぶっちぎり武道館還暦ジュリーは日本のプレスリー
なにやらんかなしききもちになりにけりじへいしょうきょうかいがつくりしぼうさいはんどぶっく
災害はいつどこで起こるか分からない君のために何ができるか
殺すか殺されるか一つを選ぶ苦しさよ
かくすればかくなるものとは知りながら御身大事に敵殺す君
遥かなる遺恨のほどはさておきて眼下の敵はみなみな殺せ
夜叉の如き形相で嬉々としてパレスチナ人を血祭りにあげているイスラエル外相
眼には眼を歯には歯を旧約の教えにいそいそと従うユダヤの民かな
自分探しなぞというありあわせの言葉を用いて己の営為を規定しようとするそのお粗末さ肌寒さよ
美しい人の心が美しいかどうかがはっきりと見えたらいいのに
サンキュロットたちを仇やおろそかにすれば罰が当たるぜよ
南蛮服に身を包み真紅のワイン飲み干したり織田信長
着物を裂き足袋職人が洋服に縫う沼田氏こそはヨウジの大先輩
大人しき雌の駱駝に跨りて砂漠往くなり猛きベドウイン
どうせわたしをだますならさいごのさいごまでだましだましつづけてほしかったあ
望みなきにしもあらずなおも一縷の希望を胸に進みたし絶望も希望も虚妄ならば
堕落腐敗しきった平成俳句界にいまひとりの碧梧桐出でよ
管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し
こんな小説のどこがおもろいんじゃあと叫びて屑籠めがけて投げつける
どんな革命にも大中小の獅子がいた吼えよライオン
女性の蜂起なくして真の革命なし昔も今も
歌舞伎座やオリンピックに口出しする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事
若水をこころに浴びて命かな
立ったまま朽ちてゆかなむ0九年
市田柿1箱498円鎌万の安さ畏るべし
武士道は辞世一発死ぬことと見つけたり
遠い日を思い出させて遠い景
おお天よ、われらが運命に形を与え給え
☆青い空には雲がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
京都には百万遍がある
鎌倉には十二所神社がある
綾部には「てらこ」がある
百貨店には屋上庭園がある
サーカスにはブランコがある
リーマンにはボーナスがある
カレンダーには旗日がある
機動隊には7つある
小田急線にはロマンスカーがある
機動隊には貸しがある。
吉本隆明には借りがある
愛犬ムクには墓がある
手術台にはメスがある
佐々木小次郎には物干し竿がある
露台には植木鉢がある
食堂の戸棚にはドラヤキがある
隣の親父には抜け毛がある
新国籍法には抜け道がある
金融業には悪がある
障碍児には無垢がある
我が家の玄関には灯りがある
イエスにはマリアがある
大刀洗には井戸がある
畳の上には布団がある
猫にはタマがある
男にも玉がある
竜宮城には玉手箱がある
赤ちゃんには乳歯がある
処女には処女膜がある
老人には萎びた珍宝がある
レノンにはイマジンがある
サントリーには山崎がある
私には2人の子供がある
ジョン・フォードにはジョン・ウエインがある
助さんには格さんがある
私には可愛い奥さんがある
蝶には翅がある。
臍には胡麻がある
眼には涙がある
道には石がある
身体には骨がある
人には理想がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
♪オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ 茫洋
Thursday, January 29, 2009
ロドリゴ・ガルシア監督の映画「美しい人」を見る
衛星放送で先日やっていた05年公開のアメリカ映画です。
タイトルが妙に気になったので、ほんとに美しい人が出てくるのかと期待していましたら、ホリーハンターとかシシースペイセク、とどめにグレン・クローズまで登場します。これは「美しい人」というよりは「元美しかった人」ではないかなとちょっと思ったりしましたが、それは冗談。心の清い女性が陸続と登場する上出来のオムニバス映画でした。
ちなみに原題は「nine lives」。9人の女性の人生の断面をワンシーン、ワンカットであざやかに描いています。
グレン・クローズは、たしかNHKのBS2であの超面白かった「ホワイトハウス」のあと番組(題名忘却)で、じつに見事な演技を披露していました。マーチン・シーン主演の「ホワイトハウス」も抜群だったけど、これが謎が謎を呼ぶまたしても超々面白い連続ドラマでした。
ああそれなのにたったワンクールで打ち切りにしてしまうとはNHKはけしからん!
こういう超一流のドラマにくらべたら「篤姫」なんかまるで幼稚園のお遊戯みたいなもんでござんすよ。
ところでハリウッドでは(でも?)、もう若くはない演技派女優の出演機会が極端に減ってあほばか美貌肉体誇示女優にとって替わられているようです。そのことを主題にした映画も数年前に制作されていたような気がしますが、これはあほばか男性の一員として分かるだけにちと心が痛む話。老いも若きも、美しい人も、美しくない人も末長くよい映画に出演していただきたいものです。
♪美しい人の心が美しいかどうかがはきりと見えたらいいのに 茫洋
これが歌舞伎座?松竹は、歌舞伎座建て替え案を白紙撤回せよ
「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」。これが私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。
だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊した悪評高い三菱地所もかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。
東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままんも形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。
だとすれば、このたび松竹が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをめざしたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。
このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。
以上の観点から、松竹本社は昨日マスコミ発表された都知事推薦の現行案を廃棄して、もう一度当初の案に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を再検討していただきたいのです。心ある市民は必ずや松竹オリジナル案を支持することでしょう。
Wednesday, January 28, 2009
松竹は「石原都知事案による歌舞伎座建て替え」を中止せよ
東京築地の歌舞伎座では、いま異例のさよなら公演を行っています。
1924年に建てられ、米軍機による空襲で被災し、50年に改修され、02年に国の登録有形文化財に指定されたこの由緒ある建物については、私もこれまでこの日記で再三触れてきましたが、その老朽化が進んだためにどうしても建て替えるというのです。
物には寿命があるので建て替え自体は仕方がないのでしょうが、親会社の松竹が都に申請した第1次建て替え案を石原東京都知事が却下したために第2案に変更したというので驚きました。
今回の計画に携わった伊藤滋・早大特命教授らによれば、当初松竹は現在の歌舞伎座の原型となった太平洋戦争前の歌舞伎座を復元する計画だったそうです。ところが知事が事前の調整段階で注文をつけて、私見ではこのきわめてまっとうな復元計画を己の一存で葬ったというのです。
28日附の朝刊にはその改定案の写真が掲載されていましたが、それはこれまでも丸ビルや表参道ヒルズなどで実施されていたオリジナルの一部を形式的に踏襲する中途半端な折衷案でした。しかし施主が当初目指していたのは、価値ある文化財を単に復元するのみならず、光輝ある歌舞伎の殿堂をより歴史に忠実に再現復古しようとする意欲的な方法論でした。
これはたとえて言えば両国の国技館の立て直しにあたって江戸時代の回向院の相撲小屋、連合軍の爆撃によって崩壊したドレスデンの国立オペラをその一時代前の様式で再建しようとする試みにも似た「本格的な復古再現建築」への挑戦でした。
わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという一知半解の近代化論者の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。
逗子海岸の丘の上の豪邸に住み少年時代から金持ちのぼんぼんとして育ったこの人物は、おそらく生まれてから一度も銭湯などに入ったことがないでしょうし、宮大工が秘術を尽くして建造した全国各地の銭湯建築や、庶民のあこがれが生み出した富士山のタイル絵の実物を見たこともないでしょう。
東京千住「大黒湯」の絢爛豪華な外装と内装の華麗な宮造りスタイル、花鳥の絵が色彩豊かに描かれた格天井、大寺院にもひけをとらないその完成度を一度でも目にした人なら、「銭湯みたいで好きじゃない」などとは口が裂けても言えないはずです。そのような不遜な言い草は我が国が誇る「銭湯文化」に対する無知であり、いわれなき差別でもあります。
また歌舞伎はいわば日本のオペラで、西欧のオペラとほぼ同じころに誕生した芸能ジャンルですが、それぞれに深い歴史と伝統がありますから、それにふさわしい建築様式で敬意を表さなければなりません。とりわけ本邦の歌舞伎建築においては、オペラ座の大理石と鉄とガラスではなく、重厚な木と紙と漆喰の壁で構築しなければ長唄、下座音楽、義太夫、清元の音響がなじまないのです。
ちなみに現在の歌舞伎座の音響の精妙さは国立劇場はもとより、サントリーホールやカーネギーホールなどをはるかにしのぎ、世界の劇場でも有数のものであることをほとんどの人が知りません。知事がいったいどこのオペラ座を想定しているのか知りませんが、新歌舞伎座は断じて「オペラ座のようにしては」なりません。
また知事周辺は「建て替えに反対したわけではない。ただ劇場とビルの調和がとれていなかった」と話しているそうですが、この場合、調和を破っているのは、そんじょそこらのどこにでもあるモダンなビルのほうです。
古今東西にわたって永久不滅の銀座の象徴であるべき劇場が、もしもありきたりのモダンなビルと調和していたならば、そのビルの外装やデザインをこそ劇場(新歌舞伎座)に合わせて根本的に変えなければならないはずです。
銀座のランドマークともいうべき交詢社ビルや和光ビルの形式的な保存改装が、首都の建築遺産にどれほどの文化的損失を与えたかを考えるとき、残る唯一無二の「世界に向かって開かれた銀座の顔」をどのように維持・保存・強化するのかはきわめて重要な問題です。
わたくしはこの際松竹本社に対して、フランスや中国の文化に圧倒的に無知で無理解な知事のアホ馬鹿勧告を勇気をもって退け、今回発表された改造案をただちに白紙撤回して当初原案に基づく新改築計画に復帰されることをせつに望むものです。
時こそ今は 傾け歌舞伎座!
♪今こそは天下分け目の関ヶ原松竹は断固石原案を退けよ 茫洋
♪歌舞伎座やオリンピックごっこする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事