Saturday, March 07, 2009
橋本征子著・詩集「破船」(2004年刊)を読んで
「夏の呪文」「闇の乳房」に続く最新の第3詩集が本書である。
北の国で積み重なった幾星霜が、この詩人の思想をさらに深く沈潜させたのだろうか、その詩的世界はますます豊穣な収穫を生み出しているようにみえる。
例えば「吹雪がぴたっと止んだ夜 急にまたたき始めた星に気をとられて転んでしまった」という詩句から始まる「地底びと」を見よ。
地下鉄工事現場の覆工板から覗いた野戦病院のような灼熱の空間には、上半身裸の赤銅色のたくましい腕に青の薔薇のタトゥーをした男達が地底を掘り進めており、縄梯子を伝ってさらに下っていくと、青い海の底の部屋で籐の椅子に腰かけた若い女性が薄桃色のケープを編んでいて、よく見ればそれはいまは亡き母の姿であり、わたしはいつの間にか母となり、母はわたしと化してしまう。
さりげない日常のささやかな割れ目からするすると異界へ忍び込むと、過去の思い出や、忘れ難き幻影、懐かしき面影が茫洋と立ち上がり、詩人は遭遇した他者や「もの」たちへといともたやすく憑依して、軽々と自己滅却と自己再発見の旅へと旅立つのである。
そしてそのあとに残される風景とは、次のようなものであり、ここに詩人の詩作に対する秘法と、生の基本的な枠組みが一挙に示されているように思われる。
「もうそのひとはいない 覆工板の
間からあかあかと光が洩れているだ
けだった 地底びとよ 燃える水の
神殿に沈んだ者たちよ 地を這うわ
たしを身守れよ わたしが地の底の
眠りにつくまで 海の母乳をむさぼ
る嬰児となるまで――」
ちなみに、著者は詩誌「極光」同人で日本現代詩人会、日本詩人クラブ、北海道詩人協会の会員である。
金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる 茫洋
Friday, March 06, 2009
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
照る日曇る日第238回
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
Thursday, March 05, 2009
鈴木和成著「ランボーとアフリカの8枚の写真」を読んで
最近詩人アルチュール・ランボーの研究は、彼が37年の短かい生涯の中でアフリカで過ごしたおよそ10年間の後半生における生活と文学活動に集中している感がある。
17歳でパリ・コンミューンに加担し、19歳で「地獄の季節」を出版し、20歳で「イリュミナシオン」を完成し、21歳でピストルで撃たれた「恋人」ヴェルレーヌと決別し、23歳で明治日本へ行こうと夢見た天才詩人は、25歳にしてはじめて東アフリカ、現エチオピアのハラルを訪れ、当地を拠点として武器弾薬、象牙、香料、コーヒー等をなんでもあつかう灼熱の砂漠の大商人として活躍するのだが、この間に友人知己、家族、地理学協会に書き送った書簡が、若き日の詩作に勝るとも劣らぬ「文学作品」として、彼のアフリカ生活と共に再評価されているようだ。
かつて黄金のように輝かしい詩篇を生み出したこの19世紀最大の詩人は、けっして詩作を断念したのではない。いっけん無味乾燥と考えられがちな、この簡潔で事務的な商業文、そしてその行間から立ち現れる「新アフリカ人」としての生活、偉大な大旅行者の足跡そのものが「生の文学」に他ならない。あの南太平洋に遁走したゴーギャンが、旧態依然たる西欧美術に弔鐘を打ち鳴らしたように、ランボーもまた、というのである。
1891年11月10日午前10時、ランボーはフランスの港町マルセイユのコンセプシオンン病院で全身がん腫に冒され、右足切断の犠牲も空しく没するが、最後の最後までアフリカに戻ること願い、その遺言は「何時に乗船すれがばいいかお知らせください」であった。ランボーは恐ろしい激痛を堪え、彼の最期の作品を死を賭してマルセイユで書いた。
またランボーは、巨費を投じて当時の最新メカであったカメラと撮影機材一式をパリからハラルに送らせ、彼自身のポートレートを含めた8枚の写真を撮ったが、それが本書の執筆動機になっている。ある意味では晩年の詩人のドキュメンタリー的小説であり、ある意味ではアフリカにおけるランボー研究の最新レポートであり、またある意味ではランボー研究家が自作自演する色っぽい推理小説でもある。
色っぽいといえば、著者はヴェルレーヌとの関係において「ランボーは女であった」と断定しているが、それはどんなものだろう。アフリカにおける彼の多彩な女性関係や「地獄の季節」における性的叙述、そしてなによりも両者の詩風(男性的なランボーと女性的なヴェルレーヌ)を考えれば、その役割は逆ではなかったか、と愚考するあまでうすでありました。
少年にして少女のかんばせ カルジャが撮りし17歳のランボー 茫洋
Wednesday, March 04, 2009
網野善彦著作集第4巻「荘園・公領の地域展開」を読んで
本巻の月報で犬丸義一が若き日の網野について書いている。
1949年4月犬丸が東大に入学したとき、網野は歴研を代表して挨拶した。
この年は1月の総選挙で共産党の議席が一挙に35に伸張し、東大生の支持政党の第一位が共産党になった左翼の季節で、巷では「9月革命説」が流布していた。実際に国史学科に入った16名のうち実に9名が日共に入党している。
網野は卒業後は渋沢敬三の日本常民文化研究所に就職し歴史研究会の委員として活躍しながら、日共の指導部にいて引き続き革命運動に打ち込んだ。国民的歴史学運動の華やかな展開の中で、青年歴史家会議の議長に就任し、歴史家会議の指導部にいた石母田正、松本新八郎、藤間生大などと共闘していたのである。
当時党の地下指導部からはカーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類が配布されていたが、犬丸はそれを月島の常民文化研究所にいた網野から受け取って、民科歴史部会のグループ員に渡していたという。
53年3月、犬丸は網野らの指示によって深夜密漁漁船で当時国交のなかった共産中国に渡り、北京郊外の中国人民大学で日本近代史、労働運動、共産党史などを教え、58年7月、中国からの最後の引き揚げ船白山丸で舞鶴港に着いた。
東京に着くと密出国の罪で留置・起訴されたが最終的には懲役3か月、執行猶予1年の判決を受けたが、網野は終生このことを苦にして責任を感じていたという。
もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが 茫洋
Tuesday, March 03, 2009
橋本征子著・詩集「夏の呪文」(1993年刊)を読んで
詩人が「あたしは」と呪文のようにつぶやくとき、地軸は停止し、世界は沈黙し、失われた遠い日の思い出が一挙に蘇る。
―とつぜん春になったので、ビルの最上階の歯科医院は歯槽膿漏の患者であふれ、エーテルの匂いのする若い歯科医はうっすらと汗ばみながら腫れた歯肉を切り裂いてゆく。
―わずかばかりの夏 あたしのひとりきりのたった一度の海 赤いビーチサンダルをはいた少年を波打ち際の砂に埋めた。少年の声は次第にうず高く積まれる砂の中で恐怖の声に変り 生温い海水の中に沈んでいった。
―ふとった女医が外科器の触れ合う音にうっとりしながら慣れた手つきで掻爬している。光は光にかみつき 次第に自滅し 太陽の手錠は少しずつずれて静かに夏は老いてゆく。
―晴れた秋の日 火葬場では人が燃え 隣のグランドでは 少年たちがラグビー球を蹴っている。
―冬が来た。けれどあたしの蹠の王国では時折夏の残照が燃えて 吹雪の夜 爪など切っていると剥きでた薄桃色の皮膚のうえに多肉植物の切り口のような緑の臭気がたちのぼってくる。
(以上は、別の作品の詩句を無断でコラージュさせていただきました)
詩人の心臓から流れ出した真紅の血潮は、乾ききった不毛の荒野を流れ流れて干天の慈雨のように私たちの魂を潤す。
天使のように優しく、悪魔のように大胆な性と聖と生の饗宴に、私たちは思わず言葉を失ってしまうだろう。
それにしても海や空を漂う夥しい嬰児の亡骸は、詩人の妄想であろうか。それとも亡霊に仮託したおのれの切実な体験であろうか。
♪言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました 茫洋
半藤一利著「幕末史」を読んで その2
明治6年の征韓論騒動は、林子平、会沢正志斎、吉田松蔭、橋本佐内、藤田東湖など多くの幕末の憂国の志士達の衣鉢を継いだ西郷明治政府が引き起こした国権拡張運動だが、
大久保などの非征韓論派に反対にあって引きずり降ろされた年末に、その西郷どんが、
白髪衰顔 意とする所に非ず
壮心 剣を横たえて勲なきを愧づ
百千の窮鬼 吾何ぞ畏れん
脱出す 人間虎豹の群
などと悲愴な漢詩を詠んでいるところをみると、やはり本気で討ち死にするつもりだったのだろう。
しかし西郷を下野させたその大久保が、不平士族などの怒りを国外に解消するべく「琉球人(日本人にあらず)の保護」を名目に台湾出兵を強行するのだから、征韓論者と選ぶところはない。どっちもどっちの海外覇権侵略主義者輩の蛮行であり、これの延長線上に日清、日露、大東亜戦争の悲惨があった。逆に言うと明治時代の台湾、朝鮮への出兵、武力進出がなければ大日本帝国の成立はなかった。
わが国を地獄の底まで引きずり込んだ元凶は、軍隊による統帥権の独立独占であるが、著者によれば、これは悪知恵の働く山県有朋の陰謀によって明治22年の明治憲法発布をさかのぼる明治11年12月5日にすでに確立されていた。「国の基本骨格のできる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していた」のである。
歴史に「たられば」はないけれど、しかしもしも著者が説くように、ペリー来航以来攘夷か開国かで大揉めに揉めていた大騒動が、1865年慶応元年10月に晴れて結着した段階で幕府と朝廷が1つに結束し、薩長などの尊皇攘夷派が暴力による倒幕運動に乗り出さなければ、少なくともあの無意味で悲惨な内戦だけは避けられただろう。
戦争と夫婦喧嘩はいともたやすく開始されるが、その終息ほど困難なものはない。茫洋
Sunday, March 01, 2009
半藤一利著「幕末史」を読んで その1
東京生まれの東京育ち、しかも祖父が戊辰戦争で官軍と奮戦した越後長岡藩出身という著者ならではの、じつに面白くてとても為になる幕末・明治10年史である。
当然ながら基本的には薩長嫌いの著者は、漱石や荷風同様、明治維新を「維新」ととらえるよりは、徳川(とくせん)家の瓦解、という視点からこの「暴力革命」の日々を眺めていくことになるわけであるが、しかしご本人がそう芝居がかって意気込むわりには、西郷も大久保も木戸も坂本も否定的に描かれているわけではない。
また著者ごひいきの勝海舟を引き倒していることもない。むしろ類書よりも彼らの行蔵を温かく親切に見守っている趣もあり、この人の懐の深さが思い知られるのである。
明治史を成り上がりの薩長とそれ以外の諸藩の内紛の歴史、つまり戊辰戦争の拡大ヴァージョンとして語ることは一面的であるかもしれないが、まさしく「長の陸軍、薩の海軍」、昭和になっても官軍閥が強力に存在していたのは間違いがない。
永井荷風は「大日本帝国は薩長がつくり、薩長が滅ぼした」と語ったそうだが、太平洋戦争直前の海軍中央部は薩長の揃い踏み。こいつらが日本をめちゃめちゃにした挙句、最後の最後に国家滅亡を救ったのが関宿藩出身の鈴木貫太郎、盛岡藩の米内光政、仙台藩の井上成美の賊軍トリオという不思議な暗合も因縁めいて興味深いものがある。
著者いわく。「これら差別された賊軍出身者が、国を救ったのである。」
勝てば官軍負ければ賊軍勝たず負けず不戦で行きたし 茫洋
Saturday, February 28, 2009
照る日曇る日第232回
異様な妄想に駆られたわが国の軍人たちが、赤の他人の国にでっちあげた奇妙な植民地、満州。1931年生まれの著者は、国民中学生として家族とともに敗戦1年後までの9年間をこの奇妙な植民地第3の都市ハルビンで過ごした。
総面積およそ130万平方キロで現在の日本の3.4倍、仏独伊を合わせた面積よりも広いこの王道楽土の大帝国は、関東軍の陰謀によってわずか半年間で誕生し、たった13年で崩壊した。
人口3000万の満州を、たった20数万人の日本人が支配できたのは、ひとえに関東軍の武力があったからだ。満州事変(宣戦布告すると中立国からの軍需資材の輸入がのぞめなくなるから、戦争ではなく事変と命名した)における死傷者は1199人だったから、日露戦争のわずか100分の1の犠牲者で、日本は満州全土を手に入れたことになる。
敗戦2か月前、学徒勤労令によって満洲の奥地にある王栄開拓団に派遣されていた中学3年生の著者は、1945年8月9日、ソ連侵攻の急報を受けて命からがらハルビンに帰還する。そこで見たものは中国人の白昼堂々の略奪と、われらが精鋭関東軍の鮮やかな遁走という悪夢だった。
ソ連の満州侵攻は寝耳に水だったが、じつは関東軍は、開拓団や一般市民を「棄民」して満州防衛から朝鮮防衛に作戦を切り替えることは敗戦の3か月も前から決めていたのだった。
やがてソ連軍がハルビンに進駐してくると、著者の周囲では暴行、襲撃、略奪、集団自決が相次ぎ、父は「いざという時のために」家族全員に青酸カリを渡す。そして次々に襲いかかる生命の危機と苦難に満ちた屈辱の日々がはじまる……
病気で寝ていた父は中国人の警官に連行され、ハルビンから約200キロ東南にある牡丹江の収容所に入れられ、九死に一生を得たものの、この時の無理がたたって舞鶴に引き揚げて三年後に五〇歳で世を去る。
また髪の毛を切って少年を装っていた姉は、突然侵入してきたソ連兵にマンドリン銃を突きつけられる。
「その時だった。母が飛び出して銃口の前に立ちふさがり、『まだ子供だから何もしないで!』とロシア語で叫んだ。小柄な母が仁王になった」……
我々の優秀な先輩たち、私やあなたの賢明にして愚かな祖父や父親たちが引き起こした未曾有の国家的災厄が、植民地に生きる平凡な一家族の身の上に突如嵐のように襲いかかり、日々の平安が根底から根こぎにされていくありさまが、一人の少年の汚れなき瞳にくっきりと映じる。
その描写はあくまでも冷静に抑制され、歴史的な事実が淡々と述べられていることが、かえって私たちの胸を打つのだが、同時に、「それらの惨劇がそもそもなぜ、どのようにして引き起こされたのか?」という鋭い問いかけも忘れられてはいない。「これだけは後世に語り遺しておきたい」という著者の熱い想いがひたひたと伝わってくるのである。
「一度目のあやまち」を故意に忘却しようとし、「二度目のあやまち」を犯そうとする日が急速に近づきつつある今日この頃、平成の大瓦壊期に棲息するすべての国民にとっての必読の書であろう。
これだけは次の世代に伝えたい 恩師が綴りし入魂の一冊 茫洋
Friday, February 27, 2009
西暦2009年茫洋如月歌日記
愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典
あやしくも胸揺るがすは極彩のジンタブラスの猛き咆哮
わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪に添いて妻と楽しむ
果樹園の白梅いまだ四分咲きにして富士のお山は本日見えず
長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜
大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む
遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ
つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら
明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった
嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳
雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君
オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ
香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり
余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけた白き髪
君は岳私は大天使ガブリエル二人で成りきる風のガーデン
お父さんがく君のがくは八ヶ岳の岳だよと息子いい
思藻がないから語らない 歌がないから歌わない
拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る
障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ!
キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人
悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし
おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで地獄の釜が抜けるまで
新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律
あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙あり
人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし
この春もおたまに出会いしうれしさよ
紅白の梅を咲かせた古家かな
落ちていく世界の底が抜けるまで
鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク
春雨を聴くや五尺の土の下
コゲラ叩く大樹の下を通りけり
ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり
♪青空や日本全国梅便り 茫洋
Thursday, February 26, 2009
牧原憲夫著「小学館日本の歴史・文明国をめざして」を読んで
明治7年1874年7月、に尊敬すべき父兄の遺体を平然と火葬する仏教徒に怒り狂った神道派の要請を受けて、同年7月、明治政府は「火葬禁止令」を布告すると、火葬派の仏教徒のみならず多くの国民からの反発が高まった。
著者によれば、わが国における火葬の歴史は、文武天皇4年700年の僧道昭からはじまる、と「続日本紀」に記されているが、実際にはそれ以前に火葬された人骨が多数出土しているそうだ。私の住まいのすぐ近所にも鎌倉時代の「国立中世火葬センター」の遺跡があるし、火葬は我が国の伝統的な古くからの葬礼作法のひとつだった。
お釈迦さまも火葬されたが、たまたまそれがインドの風習であったからに過ぎず、「そもそも仏教の教義と火葬とはまったく関係がない」と、著者はいう。実際当時の仏教徒の大半は土葬であり、江戸時代の江戸、大坂、京などで火葬が広まったのは、墓地不足が原因だった。
ただし浄土真宗だけは例外で、祖霊信仰を否定した親鸞が簡便な葬礼として火葬を勧めていたために、「火葬禁止令」が出ると、各地の門徒は土葬した墓の上で薪を燃やして心を慰めるしかなかったそうだ。
翌明治7年、「朱引内埋葬禁止令」が出されたのをきっかけに、火葬派がいっせいに反撃を開始する。「火ほど清いものはない。埋葬スペースが狭いから都市計画の妨げにならないし、どこで死んでも家族と離れずに郷里の墓に入れる」。「火葬は残酷だというが、「大切なる体を泥土中に埋め、漬物のように大石を置き、ゆるゆると腐らし、そろそろと蚯蚓責めにするのはいかがなもののか」などと、当局に懸命にアピールした。
事実「復活」に備えて遺体を保存してきたキリスト教国でさえ、都市の墓地不足や衛生を理由に火葬が盛んになり、ちょうどこの年には英国でも「火葬協会」が設立されていた。
ちなみに幕末に浦上の家呉隠れキリシタンが捕縛されたのも、仏式葬儀の拒否が発端だった。明治政府は幕府以上にキリスト教を弾圧して国際的な批判を浴びており、キリスト教式の葬儀や墓地をめぐるトラブルも絶えなかったのである。
その結果、明治8年5月には「火葬禁止令」は廃止され、神葬祭用に設置された東京の青山墓地や谷中墓地まで一転して宗教とは関係のない公営墓地になった。また同じ年の11月にはキリスト教を含めた信教の自由が公式に認められ、10年には神道派の拠点であった教部省が廃止され、役場による伊勢神宮大麻の配布も翌11年には中止された。
かつて私はジェーン・バーキンを鎌倉の収玄寺に案内したおりに、彼女から日本の火葬の歴史について質問され、恥ずかしながらろくに答えることができなかったのであるが、いまならなんとか説明できるぞ、と本書を読んでおそまきながら思ったことだった。
思藻がないから語らない 歌がないから歌わない 茫洋
Wednesday, February 25, 2009
梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その2
著者が梅棹忠夫、上山春平などと打ち合わせが終わって、京都・祇園のお茶屋で四方山話に興じていると、突然酔っぱらった吉川幸次郎が部屋に乱入してきた。
偉大なこの中国文学者は、酒が入ると荒れる傾向があったが、その日はなにやら異常な殺気のようなものが漂っていた。危険を感じた梅原はそっと席を移ったので、その結果吉川は梅棹の隣の席に座ることになった。
すると酒乱の大学者は、いきなり「お前がつまらん学問をやっている梅棹か。お前のやっているフィールド研究などというものはいい加減なものだ。文献を読まないような学問は学問ではない」と面罵した。
そこで梅棹が、「文献研究だけではとても歴史の真実は解らない。文献には結構嘘が書いてある」と反撃すると、当時70代の吉川は激怒して50代の梅棹に殴りかかった。
すぐに腕っ節の強い上山と福永光司が中に入り、すぐれた道教の研究者であるとともに柔道5段の福永が吉川をはがいじめにして隣室へ連れて行ったそうだ。
さらに梅原は、「その後ろ姿に梅棹が、『この馬鹿ジジイ』と浴びせた罵声が、いまだに私の耳の底に残っている。それは私の幻聴かも知れないが、確かに私はそう聞いたと思う。」と記してから、己の学問に絶対の自信を持つ2人の碩学へのオマージュを捧げている。
私はこの興味津々たるエピソードを目にして、梅棹忠夫と福永光司がさらに好きになったが、この「唐詩選」の編者がかのアルコール・ラムボオ的政治家、宮沢喜一や中川昭一と同じ穴の貉であることを知っていっぺんで嫌いになったが、なぜか本書の著者に対してもいささか興醒めしたことを告白せざるを得ない。
♪拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る 茫洋
Tuesday, February 24, 2009
梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その1
日本書紀によれば秦の始皇帝の子孫と伝えられる秦氏は、応神天皇の14年に百済より渡来し、優れた養蚕技術で仁徳天皇の御代に素晴らしい絹織物を生産したために「波陀」、雄略天皇の時代には、「うずまさ」の姓をたまわり、現在広隆寺がある葛野を拠点に京都盆地全体で隆盛を極め、京都文化の基礎を作ったといわれている。
現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの偉大な一族の末裔である。ちなみに私の丹波の郷里は古代からこの秦氏の一大根拠地であり、偉大な養蚕家にして基督教者、波多野鶴吉翁が創立された郡是製糸の本社もこの地にあった。
さて聖徳太子の政経ブレーンとして活躍した秦河勝は、太子一族の没落後、藤原鎌足の陰謀によって流罪の身となり「うつぼ舟」に乗って西海を漂い、播磨の国坂越に漂着し死後は大荒大明神として祀られた。
河勝には3人の子があり、1人は武を、1人は楽を、もう1人が猿楽を伝えた。武を伝えたのは大和の長谷川党で、楽を伝えたのは河内の四天王寺の伶人、そして猿楽を伝えたのが円満井の金春大夫である。世阿弥の娘婿金春禅竹は、秦河勝から数えて40余代の孫であるから、秦河勝は能の創始者といわれている。
また著者によれば、秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、彼の庇護者であった聖徳太子もそれに影響されたと思われる。ペルシアのササン朝に保護されたネストル派のキリスト教(景教)は当時ペルシアから中国在住の中国人(秦人)に広まり、それが朝鮮半島を経由して日本の播磨の国坂越に上陸してそこにダビデ礼拝堂が建てられた。それが現在の大避神社で、古来から存する井戸はヤコブの井戸であったと考えられる。
なお著者は、このキリスト教伝来と同時に、あの謎に満ちた摩多羅神も輸入されたのではないかと考えているようだ。
キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人 茫洋
提案と回答と感想 その2
○提案
鎌倉市の「障がい者計画」への要望
1「障がい者自立支援法」と合わせて市の障害福祉計画の見直しを!
「障がい者自立支援法」は、障がい者を無理やり自立させようとして施設から追い出そうとしたり、収入のない障がい者に従来よりも経費負担を強いて自活困難に追い込むなど、数多くの問題点をかかえており、現在各政党でも白紙撤回や改定を検討中である。従ってこの法律をもとにした障がい福祉計画の実施は、新法の成立までいったん中止しそれから再検討するべきではないだろうか。
2障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を!
市の障がい福祉計画の福祉施設から地域生活への移行の「数値目標」にあまりにも力点がおかれすぎている。施設からどうしても移行できない障がい者も数多く存在しているのに、そうした個人個人の実態とは無関係に年度別の数字で減少計画を立てることは無謀であり非人間的である。数値計画自体を撤廃し、もっと障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を充実させるべきではないだろうか。
3収容施設の増設を!
現在鎌倉市にはかなりの数の通所施設や地域作業所が存在しているが、入所施設は1か所しかない。今後その需要は急速に高まると予想されるので、その増設を希望する。
4「障害者」から「障碍者」へ
現在逗子市など全国の多くの市町村では、いわゆる障害者のことを「障碍者」と表記するようになっている。それは「障害」という表記がなにか悪いもの、世間に悪をなすもの、という印象をともなうところから、あえてニュートラルな「障碍」あるいは「障がい」という用語を使うように変化しているのである。本市でも遅まきながらこの表現法を採用されんことをのぞむものである。わたしたちは害虫ではない。
○回答
お寄せいただきましたご意見につきまして、次のとおりお答えいたします。
1について
平成18年度に施行された障害者自立支援法では、全市町村に「障害福祉計画」の策定を義務づけており、鎌倉市においても、鎌倉市障害者福祉計画を策定いたしました。
今回の計画の改定作業も、障害者自立支援法に基づき、国の指針を受けて、平成20年度末までに全市町村で取り組まなければならないものです。なお改定にあたっては利用状況やニーズをふまえ、検討や見直しを行います。
2について
障害福祉計画は、利用状況やニーズに対応したサービスの提供の確保を図るための数値目標を定めた計画となっています。数値目標やサービス種別は国の指針に基づき全国共通のものとなっております。なお、地域生活支援事業の部分につきましては、任意事業も含め、市独自の内容となっています。
利用者一人ひとりの利用状況に対応したきめ細かい事業の展開はとても大切なことと認識しており、計画期間中においては進行評価を行い、点検、管理をしていきます。
3について
いわゆる親なきあとのケアについては、市としても重要な事項としてとらえております。社会福祉協議会やNPO法人などと連携して成年後見制度利用支援事業などを推進していきます。
国は新たな入所施設を認めない方針でいるため、新たな施設を作ることは困難な状況ですが、施設入所が必要な利用者には利用者の生活環境や状況に応じた支援を実施します。さらに在宅でのサービスを利用する方への支援も事業者と連携を図り、事業の充実を図り実施していきたいと考えています。
4について
「障害者」の表記につきましては、鎌倉市障害者福祉計画を策定する経過の中で検討した際、「法律用語としてはひきつづき表現が残ることから今後も国の動向を見据えていく」、「表記よりもまず施策等の充実を図ることを推進すべき」という意見があり、「障害者」の表記を使用することとなった経緯があります。 しかしながら、ご指摘いただきましたように、表記を工夫している市町村もありますので、表現方法も含め、よりよい施策や事業の推進が図られるよう、表記から市民が受けとめる印象も考慮して、ひきつづき研究してまいりたいと思います。
今後とも、市民に信頼される市政を進めてまいりますので、ご理解ご協力のほどよろしくお願い申しあげます。
平成 21 年 1 月 7 日 鎌倉市長 石渡德一
○感想
市長より懇切丁寧な回答をいただいたことには感謝しているが、やはりお役所一流の官僚的な答弁の域を出ない点に不満を覚える。こういう要望にはこういう風に答えておけばよい、とでもいうような。
卒璽ながら私はこれから障がい者のことを「障ぐあい者」と呼びたいと思います。
障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ! 茫洋
Monday, February 23, 2009
提案と回答と感想 その1
○提案
拝啓 松竹本社殿
貴社築地歌舞伎座建て替え問題についての提言 このたび貴社が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをひとたびはめざされたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。 このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。 わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという都知事の鶴の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」こそ、貴社が、そして私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。 だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊してきた三菱地所さんもかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままの形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。 そこであの不朽の「寅さんシリーズ」をはじめ貴社の輝かしい映画歌舞伎製作と興業を愛し続けてきた小生からの切なるお願いは、貴社が先日マスコミ発表された「都知事推薦の現行案」を廃棄して、もう一度「当初のオリジナル案」に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を断行していただくことです。 貴社と歌舞伎の愛好者、そして全国の心ある人々は、必ずや貴社の勇気ある決断を支持することでしょう。 敬具
○回答
この度は、歌舞伎座再開発に関しまして、貴重なご意見をいただき誠にありがとうございました。 また、返信が遅くなりまして、誠に申し訳ございません。 いただいたご意見は関係者に回付いたしました。 歌舞伎座再開発につきましては、耐震性能の確保、劇場機能の改善、環境保全や地域との共生など様々な角度から計画を検討し、 なによりお客様の声を第一に反映できるよう、努力してまいる所存でございます。 今後ともご理解とご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。------------------------------------ 松 竹 株 式 会 社 東 京 本 社
○感想
暖簾に腕押しとはこのことか。関係者とはどこのどなたでござるか。
せっかくおだててあげたのに、あまりにつれない返事にがっかり。
石原都知事の意見など反映せずに、私の意見をしっかり反映してほしい。
人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし 茫洋
Saturday, February 21, 2009
永井荷風、西洋料理を論ず
ゼントルメンともあろう人物が、洋服に憂き身を窶しても料理にはてんで構わないのはまことにおかしい。
そもそも西洋料理の出来栄えは、コンソメ、吸い物を味わえば、そのすべてがわかる。フルコースなど喰らう必要はないのである。
1926年(大正15年)現在、本邦の西洋料理のベストは、横浜・神戸のホテル、銀座、神田小川町の順である。されどデザートや洋酒の備蓄が弱いのは残念なり。白ぶどう酒はボルドー産は甘すぎて食事に適せず。すべからくライン産を備えよ。
銀座周辺地区においての第一位は銀座竹川町コットなりしが、今はなし。日比谷帝国ホテル、築地明石町オテルサントラルよろしからず。けだし東都最美味は虎ノ門東京倶楽部なるべし。されど外交官、華族集会場なれば身分なきものは出入りしがたし。
銀座南鍋町の風月堂良し。木挽町精養軒、芝口有楽軒、京橋三橋亭だめなり。麹町富士見軒、新橋金春通り壷屋よし。
東京市中でアイスクリームが登場したのは明治32、3年頃のことなり。当時はチップを1割与えしものなり。
浅草公園の料理屋に個々のテーブルなく、NYウオール街のレストランのごとくカウンターで食事するスタイルの食堂あり。これ本邦の最新型スタイルなるべし。
されど、売春婦を写真と切符で買う国民は、世界広しといえども日本国のみならん。浅ましきこと限りなし。
嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳 茫洋
雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君 茫洋
永井荷風いわく、「画工・詩人・音楽家・俳優などは方外の者なり。」
仏蘭西では、画工・詩人・音楽家・俳優などは「方外の者」とみなされ、礼儀に拘捉せざるも之を咎むる者なし。
されば、この仲間の弟子には自ら特別の風俗あり。頭髪を長く伸ばし、衣服はビロードの仕事服にて襟飾りの長きを風になびかし、帽子は大黒頭巾のごときを冠る。
冬も外套を着ず、マントーを身にまとう。眉目清秀なる青年にてその姿ややみすぼらしきが雪の降る夜なぞ胡弓入れたる革靴を携え、公園の樹陰を急ぎ行く姿なぞ見れば、何となく哀れに、また末頼もしき心地せらるるなり。かかる風俗巴里ならでは見られぬなり。
あまでうす曰く、これさながら「ラ・ボエーム」の一場面のごとし。
♪悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし 茫洋
Friday, February 20, 2009
愛犬ムクを悼む歌 没後7周年の夜に
OH!アデュー 人語をはじめてに口にして
老犬ムクは いま身罷りぬ
ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す
鎌倉の 山野を駆けし細き脚
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり
ここで跳べ ザンブと飛び込む滑川
ウオータードッグよ 輝きの夏
大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク
ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす
17年 一直線に駆け去りぬ
今一度鳴け 野太きWANG!
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり。
庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり
崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハ雌雄乱舞す
まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の
春風に吹かれて一声吠えるムク
丘に立ち一声吠えしうちのムク
鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク
春雨を聴くや5尺の土の下
Thursday, February 19, 2009
永井荷風いわく、「赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし」
ふあっちょん幻論第38回 メンズ漫録その16 断腸亭主人紳士洋装論その7
ハンケチは晒し麻白を上等とす。熱帯植民地はかならず驟雨があるので、欧州では外出時に傘を携行するのである。
ヘルメット帽は雨には傘となり、炎天には空気が通いて涼しく、熱帯には最高である。日本でも一時流行したのに、なぜ最近廃れたのか?
赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし。ただし絶対に礼式用ではない。だのに日本でフロックコートを着て赤皮の半靴を履く人種あり。これは、紋付羽織袴で足袋を履かずにいるようなものなり。
コゲラ叩く大樹の下を通りけり 茫洋
Wednesday, February 18, 2009
永井荷風いわく、「肌着を人目にさらすなかれ」
永井荷風またいわく。メリヤス(ニット)肌着は褌(ふんどし)と同様、いかなる場合にも人目に触れてはならない。
ホワイトシャツの袖を捲り上げても、肌着は出すな。シャツは米国では白のみならず変わり縞多数あり。これ英国流にあらず。
近年堅いカラーの代わりにシャツと共色の柔らかい襟を使う例あり。これぞ米国の若者流なり。
米国は欧州と違って夏暑いので、お上品ではない。日本では温度は米国より低いが、湿度は高い。洋服には不便であるが、むかしは「武士のカラ脛、奴の尻の寒晒し」と言うておった。いつの世にも勤めはつらいものなり。されど極力、南洋植民地風にせず、せめてNY風をめざすべし。
ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり 茫洋
Tuesday, February 17, 2009
荷風いわく「鳥打帽はパリの新聞売りのためのものだ」
永井荷風またいわく。帽子は洋服に合わせること。鳥打帽は銃猟、航海旅行用、そしてパリの新聞売りのためのものだ。黒の山高帽が普通である。
米国の東部の都市では晴雨ともに風の勢いが甚だしいので、中折れ帽は吹き飛ばされて不便である。その点夏炎天下でも山高帽は大層具合がよろしい。
中折れ帽は春から夏にかぶるべきものであるが、毎年色々な流行があるので、すべからく背広に合わせよ。日本人の古ぼけた中折れは西洋では職人労働者のものだ。
ただし米国では白人階級の上下の差別が無いため、日曜日には職人も黒の山高帽を頭にのせて女房同伴で教会へ行く。パナマ帽は英国で少しは見かけるが、米国では全然見かけない。英米はなんといっても麦藁帽が主流である。
おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで 茫洋
Monday, February 16, 2009
荷風いわく「日本製は中国に劣る」、と。
永井荷風いわく。洋服仕立ては日本より中国に限る。とりわけお薦めしたいのは帝国ホテル前のシナ人洋服店である。銀座の「山崎」などは糸を惜しみ、なおかつ高い。縫い目、ボタンのつけ方健固ならず。まことに「日本の商人ほど信用を置きがたきはなし。」
あまでうす註。この山崎とは、米国ミッチェル裁断学校を卒業した山崎隆造を指す。後に彼は明治37年開催の米国万国博覧会仕立て服コンクールで金賞を受賞し、銀座に「山崎高等洋服店」を開いたが、荷風はその「山崎」が駄目だと言っているのである。また当時の国産よりも中国人による縫製に軍配を上げているのも興味深い。荷風自身もシナ人などと慎太郎風の「差別用語」を使っているように中国への蔑視はあるのだが、にもかかわらずいながらも、見るべきところをきちんと見ている冷徹な文学者の視線に感動すら覚える。
それはともかく、いずれ21世紀のわが国の全産業部門で、こういう荷風的事態を迎えることだろう。
新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律 茫洋
Sunday, February 15, 2009
断腸亭主人の紳士洋装論その3
断腸亭主人、荷風散人いわく。洋服の手本は西洋である。しかし色白の西洋人に似合っても、黄色の日本人には合わない色柄が多い。例えば英国人が着るキツネ色の外套は、日本人には似合わない。
日本人には黒・紺・ネズミが無難である。また縞柄の粗いものは下品になりがちだ。しかし霜降りなら無難である。
形は、背広、モーニングコート、フロックコート、燕尾服がある。背広は普段着でまあ着流しと同じようなものだ。日本人は背が低いから、モーニングは似合わない。
スーツは米国では欧州に較べて上下ともゆったりした仕立てだが、同じ欧州でも英国は少しゆるやかな感じである。仏蘭西はキチンと身体に合わせたシルエットであり、袖のつけ方なども堅苦しい。
婦人物なら仏蘭西が一番と言われるが、紳士の背広は英国が世界で随一だ。しかし私の経験では、日本人には米国風が一番似合うようだ。
上記の永井荷風の見解には、あまでうすも同感です。
あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙 茫洋
この春もおたまに出会いしうれしさよ 茫洋
Friday, February 13, 2009
Thursday, February 12, 2009
永井荷風の紳士洋装論その1
日本人洋服の着始めは、旧幕府仏蘭西式歩兵の制服であった。その頃、人々はこれを「膝取りマンテル」などといった。御一新となり、岩倉公らの西洋視察(明治4-6年)後、文官の大礼服もでき、上級役人は洋服を着て馬に乗ることとなった。日本では洋服は役人と軍人が公式時に着るものとなった。
内務省の役人だった荷風の先考久一郎は、とてもダンディな人だった。明治12年現在だというのに10畳洋間にイス、テーブル、長椅子をすえつけ、ストーブをたいて、テーブルで家庭料理を楽しんだ。
役所から帰宅すると、彼は洋服を脱ぎ、エビ色のスモーキングジャケットに着替え、英国風パイプでお勉強に励んだ。また雨の日には、木の底をつけた長靴で出勤したという。
断腸亭主人いわく。「上野精養軒にいきて、わが家と同じ料理なりと奇異の思いしたり。」
鹿鳴館華やかなりし頃、荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、ここから洋服で幼稚園に通っていた。小学校時代は海軍服に半ズボン姿でそれは15、6歳まで続く。
「襟より後ろは肩を被うほどに広く折り返したカラーをつけ、幅広きリボンを胸元にて蝶結び。帽子は広いつば、鉢巻リボン。頭髪は西洋人のように長く刈り込みたり」
永井荷風はファッションはもちろんのこと、衣食住のすべてにおいてヤングジャパンの欧化文明の最凸端で生活していたことになる。
余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけし白き髪 茫洋
メンズ漫録その9 ヤングジャパンとメンズスーツ
日本におけるスーツ受容の歴史の特徴とは、①前回の明治天皇家の事例でみたように、
あくまでも「上」からの指令で着せられたこと。②軍服の機能性をウリに官吏の権威を振りかざして大衆化していったこと。③従ってなかなかTPOまで手が回らなかった。ことなどが挙げられます。
最後の点については戦後石津謙介氏が提唱するトラッドが登場するまでわが国の男どもには身につかなかったという意見があるくらいですが、それほど長いメンズ暗黒時代が続いたわけではありませぬ。
たとえばここで紹介しようと思う荷風散人なぞは鴎外、漱石などほぼ同時代の文学者に比べても抜群にお洒落でありました。私はメンズモードの初期の規範はこのダンディによてはじめて確立されたのではないかとひそかに考えております。
前置きはこれくらいにして次回から永井荷風のファッション論を紹介してまいりませう。もっともその材料はすべて1916年(大正5年)に発表された彼の「洋服論」に基づいておりますので念のため。
明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった 茫洋
Tuesday, February 10, 2009
メンズ漫録その8 明治皇后の衣服改革
明治19年、天皇は病気がちで執務と行幸を怠ったが、その代理を洋装で務めたのが皇后だった。
宮廷の旧来の類型を打破して、皇后が初めて洋装で公衆の面前に登場したのは同年7月30日に華族女学校に行啓し、卒業証書授与式に出席した時だった。
翌月の8月10日には、皇后は天皇とともに西洋音楽会に出席し、洋服姿で初めて外人客に接見した。それは鹿鳴館の物真似ではなく、聡明な彼女の内部で芽生えた自立的な自己意識の産物だった。
さらに皇后は、天皇の代理で横須賀造船所で行われた軍艦武蔵の進水式に出席したり、赤羽で行われた近衛兵の戦闘訓練を観戦し、11月26日には巡洋艦浪速、高千穂に試乗して水雷発射作業を観覧し、「事しあらばみくにのために仇波のよせくる船もかくやくだかむ」と詠んだ。
翌20年の元旦、皇后はこれも開闢以来初めて洋装大礼服を着け、宮中の祝賀を受けたが、以後このコスチュームがこの種の儀式での慣例となった。1月17日に彼女は女子服制に関する「思召書」を発布したが、ここで彼女は「着物は14世紀南北朝以来の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明に適しないばかりか、古代の日本女子の服装とも異なる。着物よりもむしろ西洋女性の服装が古代につながる。『宜しくならいて以って我が制と為すべし』と述べ、これが国産服地の改良、販促につながることを期待したのであった。
以上はD・キーン著「明治天皇」からの抜粋でしたが、私はこのような男勝りのスーパー国粋派女帝や三韓征伐に挑んだ神功皇后よりも皇室の非人間性に窮して病気がちの雅子妃の自虐的に抵抗しつつ苦悶する態度の方がよっぽど普通ぽくて好ましく感じられます。
つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら 茫洋
世界のオケのライブを聴く
「レコード芸術」の1月号をぱらぱら見ていたら、世界各地のラジオ放送を無料でポッド・キャスッティング聴取ができるようになったという記事が出ていた
最近バイロイト音楽祭やベルリンフィル、メトロポリタンオペラのライブや過去の放送を有料で聴取するシステムができたことは知っている。我が国の新日フィルの演奏が「日経パソコンの特設サイト」で、読響のライブが「第2日本テレビ」の映像で視聴できることも知っていた。しかしニューヨーク・フィルやシカゴ交響楽団までもが無料で最近の、あるいは過去の名演奏をネットで聴かせてくれるようになったとはついぞ知らなかった。
早速昨日からドゥダメル指揮NYフィルのマーラーの5番やピンカス・ズーカーマンの独奏によるクヌセンのバイオリン協奏曲、ムストネン独奏のモーツアルトのピアノ協奏曲11番などを聴きまくっているが、演奏も音質も素晴らしい。
ただひとつだけ残念なのはシカゴ響をバックにモーツアルトの13番と23番の協奏曲を弾き振った内田光子の昨年12月の演奏の再放送期限が2月2日で切れてしまっていること。切歯扼腕とはこのことか。
しかしこれまでプロムスなどをさんざん楽しんできた英国BBC放送局のクラシックチャンネルとあわせて、またしても新しく魅力的な世界が眼前に広がった大いなるよろこびを覚える。
http://nyphil.org/attend/broadcasts/index.cfm?page=broadcastsByMonth
http://www.cso.org/main.taf?p=15,1
大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む 茫洋
Monday, February 09, 2009
滋味ある演出
なぜだか最近NHKと仲良くしている富士テレビが、「風のガーデン」に続けて山田太一脚本の「ありふれた奇跡」というドラマをやっている。自殺未遂の三人の男女を中心に展開する愛のドラマだが、前回は脇役の二人の女性の間でこんなシーンがあった。
ヒロインの母親役の戸田恵子が(女装趣味に走ったりしている夫にあきたらず)不倫に走ったが無残なまでに振り棄てられて落ち込んでいる。そこへ姑の八千草薫がウイスキー片手にやってきて慰める。
「まあまあそんなに落ち込んでかわいそうに。でもねえ、私もあなたくらいの年ごろの時にもう死んでしまおうと思ったことがあるのよ、あなたとは理由が違うんだけど」というような前置きがあって、彼女はいい歳をした家庭の主婦が亭主とは別の男に真剣に恋した話を淡々と語る。
俄然全身が耳になった嫁が、「まあ、お母様のような大人しい方にそんなことがあったなんて」と驚いていると、八千草薫が「でもあの男はよくなかった。やめておいてよかった。それが正解だったのよね」とさらりというのだが、その時遅く、かの時早く、戸田恵子は義母のその告白が嫁の行状の全てを鋭く見抜いたうえでの「お話」であることに気づいて愕然とするのである。
こういうさりげないけれども人間の心肝を寒からしめる「ありふれた奇跡の一瞬」こそ山田太一の真価であり、最近の若い脚本家にはなかなか真似ができない境地なのだろう。
長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜 茫洋
Sunday, February 08, 2009
鉄腕アトムと坂本選手と谷川選手
なぜだかNHKで「鉄腕アトム」の番組をやっていた。いろんな人がいろんなことを述べていたが、坂本龍一が、「手塚治の最大の特徴は曲線の美しさにあると思う」というので、またまたそんな出まかせを、でももしかするとホントかなあ、と半信半疑で「リボンの騎士」の表紙を見てびっくり。
そのすらりと伸びた騎士の足の描線の官能的なまでにデリケートな美しさに三嘆。坂本選手はさすがだと思った。それから手塚治はおそらく美脚フェチだったろう。
せっかく褒めた後ですぐくさすのもなんだが、その坂本選手があまりにも早すぎる自叙伝のようなものを新潮社の「エンジン」に連載しているのはいかがなものか。
鈴木編集長のいつもながらの「目のつけどころのシャープさ?」には敬服するが、こういうものは死ぬ間際の日経の「私の履歴書」か、死んでから第三者が書くものだろう。そうではないかね、坂本君。
それにしても「鉄腕アトム」の主題歌は素晴らしい。これをすこし音程をはずしながら手塚治が歌っている画面を見るとなんだか泣けてくる。作詞は谷川俊太郎だが、これは彼のこれまでのどんな詩よりも素晴らしいと思うのは、私だけだろうか。
紅白の梅を咲かせた古家かな 茫洋
Saturday, February 07, 2009
メンズ漫録その7
ふあっちょん幻論第30回
このようにして洋服は、大元帥陛下の軍服を頂点に、軍国主義と官僚主義の2つに跨って新しい権威の象徴となった。
最初に洋服になじんだのは、官吏、インテリ、富裕層だった。彼らは、昼は燕尾服(テイルコート)、夜はフロックコートを上手に着こなしたのだが、これはなぜか正式の英国流とは異なる着方だった。
英国ではダブル前の丈の長いフロックコートが長期にわたって昼間の正装であったが、1926年にジョージ5世が準正装のモーニング(午前中に行なう乗馬のために前裾がカットされ背中には裾を留めるボタンが2コついている)を着てチェルシー・フラワーショーに出席したのを契機に、モーニングがフロックに代わって昼の正装になった。明治のエリートたちはそんなことなどお構いなくわが道を歩んでいたのである。
現在の我が国では、モーニングは昼夜を問わぬ正式礼服であり、燕尾服は格調高い宮中最高礼服として通用している。大隈重信、板垣退助、伊藤博文など明治の政治家もその大半がフロックコートを着用していた。
ちなみにタキシードは、絹布が張られた剣襟かへチマ襟の上着と顕章つきシングルズボンの夜の正装である。色はクロかミッドナイトブルーで黒の蝶ネクタイとカマーバンド、エナメルのオペラパンプスなどとともに着用する。ブラックタイ着用とあればこれを着るのが無難だろう。
ちなみついでに、このタキシードはNY郊外のタキシードパークでタバコ王ロリラード家の4世がここにタキシードクラブをつくり、1886年10月10日にパーティを開催したのだが、その時に英国帰りの息子が、「尾のない燕尾服型の上着」を一着におよんで登場したのが起源だという。
しかし英国人は、これは「ディナージャケットだ。本物のタキシードはエドワード7世の注文で1865年ヘンリープールが制作したのだ」と称して異を唱えているという。
以上の記述の大半は、服飾評論家中野香織氏の指摘による。
わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし 茫洋
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪なれども妻と楽しむ
Friday, February 06, 2009
メンズ漫録その6
明治5年11月12日、文武百官の大礼服は、正服は洋服、祭服だけは衣冠束帯と改められた。そしてこの決定を待っていたかのようにして、ちょうどこの年に岩倉使節団が海外に旅立つのである。
翌明治6年以降、明治天皇は死ぬまでのおよそ40年間洋服に身を包んでいたが、それには海外から帰朝したばかりの近代化論者の大久保利通の意向が強く働いていた。けれども明治から昭和のはじめまで一般大衆はビジネスシーンにおいて和服を着ることが多かった。和から洋への転換は、あくまでも天皇の権威を借りた上からの強制であることに留意する必要がある。
この転換がまだ中途半端であることをみてとった明治政府は、急遽「上滑りまま走り続ける洋化政策」を採用する。明治16年には日比谷に鹿鳴館が竣工。ここを拠点とした鹿鳴館外交を通じて治外法権と関税統制を撤廃し、不平等条約を改正しようとしたのが井上馨の狙いだった。
ちなみにこの失われた名建築の設計は英国の建築家ジョサイア・コンドルで、この「鹿鳴」の名は「詩経」から取っているが、これは井上馨夫人の武子(三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロインである元芸者朝子のモデル)の前夫中井弘の命名にかかる。中井はパリのムーランルージュのレビューを見て、京の「都踊り」を着想した才人でもあった。
明治18年と20年11月3日の天長節に、伊藤博文&梅子夫妻主宰の大晩餐会がここ鹿鳴館で開催されたことは、よくテレビドラマなのでも紹介されている。
国がおいらにも2万円くれるのか早くくれもっともっとおくれ 茫洋
Thursday, February 05, 2009
Wednesday, February 04, 2009
桐野夏生著「女神記」を読んで
次々に新しい活動の領域を開拓している気鋭の著者によって、「古事記」の解体と再構成、語りなおしが敢行された。
ここでは「古事記」における神話的な伝承と言葉が、現代にも通底する男と女、女と男のかかわりあいの生々しい対立とぎりぎりの対決の問題として解釈され、語りなおされている。
私たちは著者とともにイザナギ、イザナミの二神になりかわって、国や山河や八百万の神を、つまりはこの世を、全世界を、産み直すのであり、そのことを通じて、父母未生以前の原始的な創世期における、人と人、とりわけ男と女、女と男の相関関係についての記憶と認識を新たにすることになる。
いっぽうそれは、国土未生の状態から初源の国産みにいたる全プロセスの追体験でもあり、柳田國男や折口信夫などの民族学者たちによって考察された南方諸島文化と本土文化の相関関係に対する現代文学からの清新な回答でもある。
「古事記」では諸神中の神として鎮座ましましているイザナギ、イザナミの二神は、ここでは愛と憎悪、怒りと悲しみの化身となり、黄泉比良坂をいくたびも往還しながら、人間的な、あまりにも人間的な、男神と女神の壮絶な争闘を繰り広げ、とどのつまりはギリシア神話にも比定すべき氷のように美しい女神の哀切な勝利宣言で全編の幕を閉じる。地球と宇宙は、母なる子宮と原子心母を軸にして繋がっているのだろうか。
私はこの下りを目にしながら、ムラビンスキー、レニングラードフィルによる「悲愴」の息も絶え絶えな終楽章の断末魔の響きを確かに聞き取ったのである。
遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ 茫洋
Monday, February 02, 2009
平川新著「開国への道」を読む
小学館の日本の歴史もそろそろ大詰めに近づいた。今回は19世紀の江戸時代を取り扱っている。
本書ではまず西欧、ロシア、米国などが日本に押し寄せてくる環太平洋の時代のなかにあって、露西亜との北方領土画定のせめぎあい、大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛などの漂流民や人質外交戦においても、我が国がそれなりに「帝国」としての存在感を示して列強諸国の圧力に耐えたことが指摘される。
また江戸時代がけっして幕府の専制独裁の世の中ではなく、ルールにのっとった建策はかなりの程度まで受け入れられ採用された民主的?なシステムをもっていたこと、またこの潮流が幕末のペリー来航の際のオープンな開国論議に引き継がれていたこと。
庶民の正義の味方として高く評価されている大塩平八郎が、その裏面では水戸藩に対して特別の好意を示して米価の引き上げにつながるような便宜を図っていること、天保の改革で風俗を取り締まって倹約を断行した老中水野忠邦はもっと再評価されるべきであること。
さらにはそもそも百姓もある時期までは一本差しなら武装が認められており、高杉晋作の奇兵隊以前に、江戸市中に散在した道場主やメンバーの大半、近藤勇の新撰組やその前身の浪士組のメンバーの大半が武士ではなく、もっぱら百姓や神主などの平民であったこと。そしてその歴史と実績が幕末に物をいい、かれら「草莽の庶民剣士」こそが明治維新の立役者であったことなどが、きわめて実証的に語られるのである。
香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり 茫洋
Sunday, February 01, 2009
オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を視聴して
オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を衛星放送で観劇しました。これはパリのシャトレ座における04年12月のライブです。
シャトレ座といえば昔パリ管の指揮者で売り出し中だった、まだ若手か中堅時代のダニエル・バレンボイムが「ドンジョバンニ」を振った夜に、聴衆の見解がそれこそ賛否両論真っ二つに割れて、ブラボーとブーの2つの叫びが5分間も続いたことが忘れられません。その間、当のバレンボイムが胸に手を当てたまま審判に身をゆだねている姿が印象的でした。
何事につけても良い悪いの意思表示がはっきりしているのがパリの民衆の特徴なのですが、この日の演奏に対してはきわめてノリが悪く、ようやく拍手がわいたのは表題役を演じるフェリシテーィ・ロットの最初のアリアのときでした。浅草オペラなどで一世を風靡したブン大将をフランソア・ルルーが好演していますが、やはりなんといってもベテラン姥桜ロット様の貫禄の歌唱と演技の勝利でしょう。
永井荷風ゆかりのこの浅草オペラでまたしても思い出すのは、田谷力三がうたっていた
スッぺの喜歌劇「ボッカチオ」の有名なアリア「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」や「恋はやさし百合の花よ」です。かつての私の上司は、これを宴会であざやかに歌いこなして万座の喝采を博したのでしたがいまどきのリーマンにこのように奥の深い芸当ができるでしょうか?
マルク・ミンコフスキー指揮のグルノーブル・ルーブル宮音楽隊は、ブンチャッチャ、ブンチャッチャの力演で、かつてリュリが指揮杖でおのれの足を刺し貫いたさまをしのばせましたが、やはり音楽は2拍子からはじまって3拍子、4拍子へと進化していったのではあるまいかと、まるで阿呆のように思ったことでした。
♪元わが上司N氏の名歌唱「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」をもいちど聴きたし
茫洋
Saturday, January 31, 2009
メンデルスゾーンの代表的作品「MENDELSSOHN THE COMPULETE MASTERPIECES」を聴いて
毎度おなじみ超廉価のソニーBGMグループの全30枚組オムニバスを聴き終えました。
なんでメンデルちゃんなのかといいますと、今年は彼の生誕100周年にあたるのでこういう記念盤がぞろりと発売されるのです。有名な「イタリア」とか「スコットランド」のニックネームがついている交響曲はクルト・マズア指揮ゲバントハウス響の古式豊かな演奏で楽しめますが、ロイ・グッドマンが指揮してハノーバー・バンドが演奏している若書きの弦楽シンフォニーもとてもフレッシュで魅力的です。
意外にも?感銘を受けたのが、ヘンシェルカルテットが奏でる3枚組シリーズの弦楽四重奏曲集とこれまた3枚も収録されたオルガン曲たち。後者はさすがバッハの「マタイ受難曲」をバッハ時代以来はじめて蘇演したこの作曲家らしく、まるで生前のバッハもかくやと思われるほど生き写しの演奏にびっくりしました。これはスイスの古い教会のオルガンをステファン・ヨハネス・ブレイシャーが重厚かつ荘重に弾きこなしています。
私の大好きなエーリッヒ・ラインスドルフがボストン交響楽団を率いた「真夏の夜の夢の音楽」は、クレンペラーの名演には及ばないものの深沈たる夜の森の妖精たちを眼前させてくれる見事な演奏です。
今を去る四半世紀の昔の7月4日、純白の夏服に身を包んだ彼が指揮棒一閃、スーザの行進曲「星条旗を永遠なれ」をニューヨーク・フィルを立たせて颯爽と演奏した東京文化会館の夜を懐かしく思い出したことでした。
良家のぼんぼんとして何不自由なく健やかに成長し、ワーマール共和国のゲーテとも親交のあったメンデルスゾーンですが、わずか38歳で夭折します。そのせいか、彼のどの曲を聴いても永遠の若々しさが輝いているような気がしませんか。
♪愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典 茫洋
♪あやしくも胸揺るがすは極彩の音高鳴るジンタブラスの咆哮 茫洋
Friday, January 30, 2009
西暦2009年茫洋睦月歌日記
ブルーベリー、苺無花果林檎ジャム数々あれど柚子が大好き
何事のおわしますかは知らねども胸に満ち来る光一筋
われもまたソウル・トレインに乗り込んで、世界の果てまで旅立ちたし
武士は義に女は恋に死すべしと元録の掟ついに定まる
昼下がり舗道に伏したる黒猫は薄き血吐きて瞑目しており
「新世界」の第4楽章は行進曲ではない讃歌である「歌え歌え」とクーベリックは叫ぶ
やたら雷、津波を連発するなかれ気象庁とマスコミはピーターと狼
豚のごとく太りしもの武道館にこけつまろびつ還暦ジュリーコンサート
6時間ぶっちぎり武道館還暦ジュリーは日本のプレスリー
なにやらんかなしききもちになりにけりじへいしょうきょうかいがつくりしぼうさいはんどぶっく
災害はいつどこで起こるか分からない君のために何ができるか
殺すか殺されるか一つを選ぶ苦しさよ
かくすればかくなるものとは知りながら御身大事に敵殺す君
遥かなる遺恨のほどはさておきて眼下の敵はみなみな殺せ
夜叉の如き形相で嬉々としてパレスチナ人を血祭りにあげているイスラエル外相
眼には眼を歯には歯を旧約の教えにいそいそと従うユダヤの民かな
自分探しなぞというありあわせの言葉を用いて己の営為を規定しようとするそのお粗末さ肌寒さよ
美しい人の心が美しいかどうかがはっきりと見えたらいいのに
サンキュロットたちを仇やおろそかにすれば罰が当たるぜよ
南蛮服に身を包み真紅のワイン飲み干したり織田信長
着物を裂き足袋職人が洋服に縫う沼田氏こそはヨウジの大先輩
大人しき雌の駱駝に跨りて砂漠往くなり猛きベドウイン
どうせわたしをだますならさいごのさいごまでだましだましつづけてほしかったあ
望みなきにしもあらずなおも一縷の希望を胸に進みたし絶望も希望も虚妄ならば
堕落腐敗しきった平成俳句界にいまひとりの碧梧桐出でよ
管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し
こんな小説のどこがおもろいんじゃあと叫びて屑籠めがけて投げつける
どんな革命にも大中小の獅子がいた吼えよライオン
女性の蜂起なくして真の革命なし昔も今も
歌舞伎座やオリンピックに口出しする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事
若水をこころに浴びて命かな
立ったまま朽ちてゆかなむ0九年
市田柿1箱498円鎌万の安さ畏るべし
武士道は辞世一発死ぬことと見つけたり
遠い日を思い出させて遠い景
おお天よ、われらが運命に形を与え給え
☆青い空には雲がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
京都には百万遍がある
鎌倉には十二所神社がある
綾部には「てらこ」がある
百貨店には屋上庭園がある
サーカスにはブランコがある
リーマンにはボーナスがある
カレンダーには旗日がある
機動隊には7つある
小田急線にはロマンスカーがある
機動隊には貸しがある。
吉本隆明には借りがある
愛犬ムクには墓がある
手術台にはメスがある
佐々木小次郎には物干し竿がある
露台には植木鉢がある
食堂の戸棚にはドラヤキがある
隣の親父には抜け毛がある
新国籍法には抜け道がある
金融業には悪がある
障碍児には無垢がある
我が家の玄関には灯りがある
イエスにはマリアがある
大刀洗には井戸がある
畳の上には布団がある
猫にはタマがある
男にも玉がある
竜宮城には玉手箱がある
赤ちゃんには乳歯がある
処女には処女膜がある
老人には萎びた珍宝がある
レノンにはイマジンがある
サントリーには山崎がある
私には2人の子供がある
ジョン・フォードにはジョン・ウエインがある
助さんには格さんがある
私には可愛い奥さんがある
蝶には翅がある。
臍には胡麻がある
眼には涙がある
道には石がある
身体には骨がある
人には理想がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
♪オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ 茫洋
Thursday, January 29, 2009
ロドリゴ・ガルシア監督の映画「美しい人」を見る
衛星放送で先日やっていた05年公開のアメリカ映画です。
タイトルが妙に気になったので、ほんとに美しい人が出てくるのかと期待していましたら、ホリーハンターとかシシースペイセク、とどめにグレン・クローズまで登場します。これは「美しい人」というよりは「元美しかった人」ではないかなとちょっと思ったりしましたが、それは冗談。心の清い女性が陸続と登場する上出来のオムニバス映画でした。
ちなみに原題は「nine lives」。9人の女性の人生の断面をワンシーン、ワンカットであざやかに描いています。
グレン・クローズは、たしかNHKのBS2であの超面白かった「ホワイトハウス」のあと番組(題名忘却)で、じつに見事な演技を披露していました。マーチン・シーン主演の「ホワイトハウス」も抜群だったけど、これが謎が謎を呼ぶまたしても超々面白い連続ドラマでした。
ああそれなのにたったワンクールで打ち切りにしてしまうとはNHKはけしからん!
こういう超一流のドラマにくらべたら「篤姫」なんかまるで幼稚園のお遊戯みたいなもんでござんすよ。
ところでハリウッドでは(でも?)、もう若くはない演技派女優の出演機会が極端に減ってあほばか美貌肉体誇示女優にとって替わられているようです。そのことを主題にした映画も数年前に制作されていたような気がしますが、これはあほばか男性の一員として分かるだけにちと心が痛む話。老いも若きも、美しい人も、美しくない人も末長くよい映画に出演していただきたいものです。
♪美しい人の心が美しいかどうかがはきりと見えたらいいのに 茫洋
これが歌舞伎座?松竹は、歌舞伎座建て替え案を白紙撤回せよ
「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」。これが私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。
だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊した悪評高い三菱地所もかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。
東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままんも形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。
だとすれば、このたび松竹が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをめざしたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。
このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。
以上の観点から、松竹本社は昨日マスコミ発表された都知事推薦の現行案を廃棄して、もう一度当初の案に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を再検討していただきたいのです。心ある市民は必ずや松竹オリジナル案を支持することでしょう。
Wednesday, January 28, 2009
松竹は「石原都知事案による歌舞伎座建て替え」を中止せよ
東京築地の歌舞伎座では、いま異例のさよなら公演を行っています。
1924年に建てられ、米軍機による空襲で被災し、50年に改修され、02年に国の登録有形文化財に指定されたこの由緒ある建物については、私もこれまでこの日記で再三触れてきましたが、その老朽化が進んだためにどうしても建て替えるというのです。
物には寿命があるので建て替え自体は仕方がないのでしょうが、親会社の松竹が都に申請した第1次建て替え案を石原東京都知事が却下したために第2案に変更したというので驚きました。
今回の計画に携わった伊藤滋・早大特命教授らによれば、当初松竹は現在の歌舞伎座の原型となった太平洋戦争前の歌舞伎座を復元する計画だったそうです。ところが知事が事前の調整段階で注文をつけて、私見ではこのきわめてまっとうな復元計画を己の一存で葬ったというのです。
28日附の朝刊にはその改定案の写真が掲載されていましたが、それはこれまでも丸ビルや表参道ヒルズなどで実施されていたオリジナルの一部を形式的に踏襲する中途半端な折衷案でした。しかし施主が当初目指していたのは、価値ある文化財を単に復元するのみならず、光輝ある歌舞伎の殿堂をより歴史に忠実に再現復古しようとする意欲的な方法論でした。
これはたとえて言えば両国の国技館の立て直しにあたって江戸時代の回向院の相撲小屋、連合軍の爆撃によって崩壊したドレスデンの国立オペラをその一時代前の様式で再建しようとする試みにも似た「本格的な復古再現建築」への挑戦でした。
わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという一知半解の近代化論者の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。
逗子海岸の丘の上の豪邸に住み少年時代から金持ちのぼんぼんとして育ったこの人物は、おそらく生まれてから一度も銭湯などに入ったことがないでしょうし、宮大工が秘術を尽くして建造した全国各地の銭湯建築や、庶民のあこがれが生み出した富士山のタイル絵の実物を見たこともないでしょう。
東京千住「大黒湯」の絢爛豪華な外装と内装の華麗な宮造りスタイル、花鳥の絵が色彩豊かに描かれた格天井、大寺院にもひけをとらないその完成度を一度でも目にした人なら、「銭湯みたいで好きじゃない」などとは口が裂けても言えないはずです。そのような不遜な言い草は我が国が誇る「銭湯文化」に対する無知であり、いわれなき差別でもあります。
また歌舞伎はいわば日本のオペラで、西欧のオペラとほぼ同じころに誕生した芸能ジャンルですが、それぞれに深い歴史と伝統がありますから、それにふさわしい建築様式で敬意を表さなければなりません。とりわけ本邦の歌舞伎建築においては、オペラ座の大理石と鉄とガラスではなく、重厚な木と紙と漆喰の壁で構築しなければ長唄、下座音楽、義太夫、清元の音響がなじまないのです。
ちなみに現在の歌舞伎座の音響の精妙さは国立劇場はもとより、サントリーホールやカーネギーホールなどをはるかにしのぎ、世界の劇場でも有数のものであることをほとんどの人が知りません。知事がいったいどこのオペラ座を想定しているのか知りませんが、新歌舞伎座は断じて「オペラ座のようにしては」なりません。
また知事周辺は「建て替えに反対したわけではない。ただ劇場とビルの調和がとれていなかった」と話しているそうですが、この場合、調和を破っているのは、そんじょそこらのどこにでもあるモダンなビルのほうです。
古今東西にわたって永久不滅の銀座の象徴であるべき劇場が、もしもありきたりのモダンなビルと調和していたならば、そのビルの外装やデザインをこそ劇場(新歌舞伎座)に合わせて根本的に変えなければならないはずです。
銀座のランドマークともいうべき交詢社ビルや和光ビルの形式的な保存改装が、首都の建築遺産にどれほどの文化的損失を与えたかを考えるとき、残る唯一無二の「世界に向かって開かれた銀座の顔」をどのように維持・保存・強化するのかはきわめて重要な問題です。
わたくしはこの際松竹本社に対して、フランスや中国の文化に圧倒的に無知で無理解な知事のアホ馬鹿勧告を勇気をもって退け、今回発表された改造案をただちに白紙撤回して当初原案に基づく新改築計画に復帰されることをせつに望むものです。
時こそ今は 傾け歌舞伎座!
♪今こそは天下分け目の関ヶ原松竹は断固石原案を退けよ 茫洋
♪歌舞伎座やオリンピックごっこする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事
Tuesday, January 27, 2009
照る日曇る日第225回
見るたびに日本絵画の底知れぬ磁力に引き入れられる「松林図屏風」であるが、この六双の名品を描いた長谷川等伯を主人公とする時代小説が本作である。
絵師一族とその生涯を取り巻く時代背景をじっくりと調査し、そこから浮かび上がった創作の秘密に大胆な推理と想像を凝らして偉大な芸術家の真実に迫った手際はあっぱれ。第二回日経小説大賞を受賞したのもむべなるかな、といえがばいえようが、まずはタイトルと主題で得をしている。
思いがけないどんでん返しやら時代考証的な意外性も随所に盛り込まれ、飽かせずになんとか最後まで引っ張っていく構想力と筆力はたいしたものだと思うが、さてそれで読後になにが残ったのか。これが信長、光秀、秀吉、家康の治世を生き抜いた絵師のほんとうの生きざまだったのだろうか、と問い返せば胸の裡にうすら寒い空々しさが垂れこめている。どうせ騙すならもっと徹底的に騙して欲しかった、となにやら歌謡曲のうらめしいリフレーンのような木霊が返ってきた。
根も葉もない嘘っぱちを書いていかにもありそうな話だと得心させたら小説として大成功だが、そこそこ根と葉のある話を徹頭徹尾得心させることも意外に難しそうなのである。
♪どうせわたしをだますならさいごのさいごまでだましだましつづけてほしかったあ
茫洋
Monday, January 26, 2009
T・Eロレンス著・田隈恒生訳「完全版 知恵の七柱1」を読んで
デビッド・リーンの名作「アラビアのロレンス」の主人公T・Eロレンスは、あの映画の冒頭の印象的なシーンで見られるように、1935年5月19日、不慮のオートバイ事故で46歳で急死した。彼の自伝であるこの本は、すでに全3冊で同じ東洋文庫から出版されているオックスフォード普及版のオリジナル原典版にあたる内容で、これからなんと全5冊で発売されるという。やれやれ。
しかし同じタイトルの短縮版に加えて拡大ヴァージョンの正規版も併せて公刊するとはさすが天下の平凡社。これぞ出版社の鑑といわなければなるまい。
ちなみに「知恵の七柱」という題名は、旧約聖書の箴言第9章の冒頭「知恵はその家を建て、その7つの柱をきり成し、その畜をほふり、その酒をまぜ合わせ、そのふるまいをそなえ、そのはしためをつかわしてまちの高き所に呼ばわりいわしむ。拙き者よここに来たれと云々」に依る。かなり思わせぶりだが本書の内容とはあまり関係がなさそうだ。しかし冒頭の捧詩はロレンスのかつて愛した御稚児さんへの愛の言葉らしい。
第1次世界大戦中の1916年、アラブがトルコに反乱を起こせば英国はドイツと戦いながらトルコを打倒できるだろうと考えた英国は、ロレンスをアラビアに派遣、ベドウインの首長(シャリーフ)フサイン・ブン・アリーとその子息アリー、アブドゥツラー、ファイサル、ザイドに加担したロレンスはいよいよ灼熱の砂漠にその生涯の活躍の舞台を見出すのである。
ところでロレンスは、この砂漠の遊牧民の反乱の物語を、「白鯨」や「カラマーゾフの兄弟」に匹敵する偉大な物語に仕上げたいという野望のもとに執筆にかかったそうだが、出来上がったものは、もちろんそうとうに違った内容になった。
けれども以下に引用する個所(第二部「アラブ軍、攻勢に出る」第二六章「行軍命令」)には、ロレンスが自作をそれらの名作になぞらえようと懸命に努力した形跡があって微笑ましいものがある。
「右翼の従軍詩人が不意に耳障りな歌声を張り上げた。一篇の創作二行連句で、ファイサルと彼がワジェフで与えてくれるはずのよろこびを歌っていた。右翼の隊は詩句に耳を澄ませてから頭に入れ、一度、二度、三度と誇りと自己満足を誇示する前に、左翼側への嘲りをこめ、繰り返すたびに前よりも挑発的に斉唱した。しかし四度目に得意を誇示する前に、左翼の詩人が烈しく独唱に入った。右翼のライバルのカブレットに対する即席の返歌で同歩格で相応する押韻により詩人の情感を完結し、あるいは最後を締めくくるものだった。左翼の部隊は勝ち誇ったようにどよめきつつ、それを復唱する。すると太鼓がふたたび鳴り、旗手が臙脂の大旆を振りかざしつつ、右翼、左翼、中堅の全親衛が士気を鼓舞する節回しの連帯歌を斉唱した。
われはブリテンを失い、ガリアを失いぬ、
われはローマを失いぬ、ましてつらきはララゲーを失いしこと!」
♪大人しき雌の駱駝に跨りて砂漠往くなり猛きベドウイン 茫洋
Sunday, January 25, 2009
メンズ漫録その4 本邦初のパタンナー
1853年にペリーが来日すると、「毛唐柄」(唐桟(細番の綿糸で平織りにした縞織物、紺+浅黄、赤の羽織りや着物に使用)や「唐人仕立て」が流行するが、幕府は百姓・町人の異国風衣装を禁じた。しかし部分的には国防強化のため軍事訓練用に洋装、軍服を取り入れるようになる。
このときに活躍したのが初代裁断士の沼田守一で、彼は古着を解体し、足袋職人12人に羅紗、型紙を与えて洋服を製作した。彼こそは本邦初のパタンナー兼デザイナーというべき人物である。
ちなみに「洋服」という言葉は、1867年に発行された『方庵日記』に初出しており、ご一新以後一般にも使われるようになったそうだ。また福沢諭吉の著書『西洋衣食住』には、袴とズボン、帯とベルトなど着物と洋服の類似点や、彼独自の洋服着こなしノウハウが記述されているそうだが、私はまだ読んだことはない。
♪着物を裂き足袋職人が洋服に縫う沼田氏こそはヨウジの大先輩 茫洋
Saturday, January 24, 2009
メンズ漫録その3 南蛮服から日本の服へ
西欧は洋服の本場であるが、では日本のメンズモードはどのように移植されたのだろうか。
16世紀の中葉に宣教師たちが渡来すると、南蛮服、えびす服、紅毛服による洋服受容がはじまった。「南蛮服」のアイテムとしては、「合羽」(ケープがなまった)軽珍(カルソン。形状はbreechesブリーチズで半ズボンに近い)、無縁帽子、羅紗、ビロード、毛留(むうる)、鹿皮等であるがこれらはそのまま後世に伝えられて現代のファッション・アイテムになる。
1587年に豊臣秀吉がキリシタン排外政策を開始し、1633年の徳川幕府が鎖国令を宣言すると南蛮モードの流入は下火になる。しかしその後も、プロテスタント国のオランダから輸入された羅紗(厚くて粗いウール、陣羽織や火事羽織り・袋物に使用)や緞子(文様を織り出した絹織物)等は権力者によって珍重されたが、その後取り締まりがさらに強化され、1643年に町人の羅紗合羽の着用が、1652年には歌舞伎役者のビロード襟が禁止された。
しかし諸外国からの影響が強まる中で、1720年に幕府は洋書の禁を解き、蘭学を解禁した。それ以前から出島のオランダ人は「えびす言葉」を話し「えびす模様」の「えびすの長衣装」(紅毛服)を纏い、蘭学者は「えびす流」または「唐人仕立て」と呼ばれる装束を纏っていた。前野良沢や杉田玄白は和服の襦袢の上に洋服の上着、チョッキを着、のちの大黒さんと称するズボン様のものをはき、吾妻コートに似た袖なし、折襟型のオーバーのようなものを着ていたのである。
♪南蛮服に身を包み真紅のワイン飲み干したり織田信長 茫洋
Friday, January 23, 2009
メンズ漫録その2 フランス革命とスーツの誕生
1789年のフランス革命では国王・貴族・僧侶以外の第3階級=市民階級が台頭した。彼らはバスティーユ監獄を襲撃し、ルイ16世とマリー・アントワネットを処刑し、国民公会による共和制政府を樹立した。
この蜂起の主役たちをドラクロアの名画「民衆を導く自由の女神」で観察してみよう。画面に登場する庶民派・労働者の戦士たちはすべて長ズボンのサンキュロット(sans culotteあるいはパンタロンpantalon。丈夫で安価な直線裁ちの簡素なズボン)をはいている。
キュロット(culotte半ズボン、ブリーチズ)をはいた貴族・ブルジョワ階級の独裁を、怒れるサンキュロットたちが実力で打倒したのがメンズ・ファッションにおけるフランス革命であり、このためにフランス革命を「サンキュロット革命」ともいう。
しかしフランスの共和制はロベスピエールらによる5年間の恐怖政治、ナポレオン・ボナパルトによる帝政と欧州征服の15年間を経て弱体化し、代わって産業革命をいち早く経験した英国が19世紀初頭に覇権を確立する。
そして19世紀中頃になると、現代のスーツの原型であるサックススーツが登場した。
このスーツの原型についてはハーディー・エーミス卿などが唱える乗馬服説と室内着ラウンジスーツ説の2説があって対立している。どう見ても下にキュロットはいた乗馬ジャケットがスーツの原型とは考え難く、後者の楽なラウンジ説が有力であるが、いずれにしても上下のユニットの下のパンツはサンキュロット・スタイルである。
フランス革命は、近代の政治経済社会の礎石を築いたが、同様に西欧衣服史のあざやかなメルクマールでもあった。市民革命と西洋のメンズスーツを創造したサンキュロットたちは、自由で自立した個人の原型であり、ここに歴史上はじめて市民(シビライズドマン)が誕生したともいえよう。背広=市民服=civil clothingというテーゼが、近現代を貫く衣装哲学であることを、世のリーマンたちはいっときも忘却してはならない。
♪サンキュロットたちを仇やおろそかにすれば罰が当たるぜよ 茫洋
Thursday, January 22, 2009
ふあっちょん幻論第24回
日本の武士の本質は「葉隠」がいみじくも喝破したように死ぬことにあり、潔く戦って潔く死ぬための文武の修業、具体的には剣術と切腹の稽古、そして生涯の経綸を一瞬で総括するための最低限の文化である辞世を遺す練習に励んだ。
この最後の部分の価値を知らず、あるいは知ってはいてもあえて無視して「俳句第二芸術論」を唱えた桑原武夫のような曲学阿世がいまも跡を絶たないようだが、すべからく現代の君子士人は平素より腰折れの2つ3つを即座に詠める「最低の教養」を身につけておかねばなるまい。俳句には芸術よりもっともっと大事な意義があるのだ。
ところでモーツアルトの最晩年時代、すなわちフランス革命前夜の西欧の貴族は日本の武士が切腹の稽古に励んだように、みな乗馬を好んだ。馬に乗る際には長い革長靴をはく。その長い靴と美的に調和し、ヒップの線を美しく強調し、馬上の運動を快適にするために、彼らは短いキュロット(culotte半ズボン、ブリーチズ)をつけた。
キュロットをつけた両足で挟んだ馬体を蹴ると、馬は直進する。これが競馬になる。その直進運動を轡を引いて制御すると、動と反動の相反運動の対峙状態となる。これが曲馬の始原であり、人馬一体の芸術の端緒である。これこそは究極の男の美学であり、第三階級などにはついぞ無縁の貴族の特権的快楽だったのである。
♪武士道は辞世一発死ぬことと見つけたり 茫洋
Wednesday, January 21, 2009
Tuesday, January 20, 2009
京都思文閣とわたし
むかしたった1年間だけ京都で下宿していたことがある。左京区の田中西大久保町という叡電前や百万遍や出町柳や高野に近いところだが、そのすぐそばに思文閣という骨董屋があったと知ったのは、四半世紀の時間が経過して偶然この会社のカタログが時折送られてくるようになってからのことだった。
思文閣ははじめは古本屋だったのが次第に美術品を扱うようになり、最近では若社長の田中大氏が12chの「何でも鑑定団」の審査員として出場するまでになっている。
それはともかく、年に数回届けられるようになったカタログはオールグラビア印刷の立派なもので、ほんらいはそのカタログであれやこれやの高価な珍品を発注するための商材なのだが、私はそんな持ち合わせも余裕もないのでもっぱら古今東西の優品を眺めて楽しんでいる。
私のような素人には図版の上から眺める商品の真贋など知る由もなく、よしんば本物の若冲の逸品であっても自分のものにできるはずもないのだが、それでも漱石、鴎外、露伴、紅葉など文人墨客の筆のすさびを眺めているだけでもしばし浮世の憂いを忘れることができるのである。眼福とはけだしこのようなことをいうのだろう。
しかも毎回陸続と登場する屏風、仏像、彫刻、和洋の絵画と書、壺や陶器、写経、古文書、写本、浮世絵、刷り物、硯、版木、色紙、書簡や断簡零墨に至る多種多様な骨董・美術品には、当たり前のことだがすべて値札がつけられていて、同じ画家や文学者、政治家でもずいぶん値段が違うところが興味深い。
例えば、松平不昧候書状42万円也、頼山陽書状31万5000円、華岡青周洲書状47万2500円也。
いったい何を根拠にこの値段がついているのだろうと考えて見ても、おそらくは誰も決定的な根拠を明かせないところがまた面白いのである。
維新のぼんくら政治家田中光顕(こやつのいたずらに巨大で空疎な墓石を見よ)と足尾銅山の田中正造の短歌が並んでいて、前者が65000円、後者が150000円というのはなぜか納得できるような気がするが、子規の同門である高浜虚子の短冊「一つ根に離れ浮く葉や春の水」が200000円であるのに対して、河東碧梧桐の「ざぼんに刃をあてる刃を入るゝ」がたった120000円であるのがどうにも解せない。
作品、筆跡、人物のいずれをとっても虚子ごとき凡庸な俳諧師の風下に立ついわれのない偉大な野人芸術家碧梧桐のために、私は京都思文閣の鑑定に断固異議を唱えたいのである。
♪堕落腐敗しきった平成俳句界にいまひとりの碧梧桐出でよ 茫洋
Monday, January 19, 2009
アーサー・ウェイリー・佐復秀樹訳「源氏物語2」を読んで
ウェイリーによれば紫式部はこの物語のすべての登場人物の年齢や地位や境遇を一瞬たりとも忘れることなく各帖を整然と記述しているという。物語のディテールではなく、その壮大な時間的・空間的な全体構造をきちんと押さえてからこの翻訳に入ったことは、彼のいかにも几帳面で学究的な性格を物語るとともに、この翻訳と凡百の日本語訳との決定的な違いを生んでいる、と思った。
よく源氏物語はプルーストの失われた時を求めてと比較されるが、この両者に共通する骨太の物語構造と近代的な心理分析を最初に発見したのがこのエキセントリックなキングズ・カレッジアンだった。彼の翻訳を読んでみると、谷崎や与謝野は全体構造の強固さには無自覚にただ細部の美を舐めるように慈しんでいるにすぎないことがよく分かる。
原作は同一でも、それを極東のローカル文学にとどめるか、はたまた世界最高の文学に押し上げるかは、翻訳者の世界文学の理解の深さの差であることが愚かな私にもはじめてわかったような気がする。
流謫の地から権力の中心に復活した源氏は、二条の館を離れて春夏秋冬四つの季節の名前をつけた東西南北四つの対からなる広大な屋敷を新設し、そこに正妻の紫の上、秋好皇后(六条御息所の娘)をはじめ、明石の上、玉鬘、花散里なぞの愛人たちをそれぞれ配し、対から対へ、御殿から御殿へといくつもの渡り廊下を伝って、あるいは鑓水に浮かべた小舟で遊覧する。
乱れ咲く四季折々の花々と天空から降り注ぐ大宮人の妙なる管弦の響きはまさにこの世に顕現した華麗な一幅の極楽絵図そのものである。ウェイリーはこのくだりを「モーツアルトの交響楽のなかの律動と似ている」、と評しているが、巻二四「胡蝶」を目にしている私の耳朶にも、たしかに彼の最後のハ長調交響曲の終楽章のコーダが遠く鳴り響いていたのであった。
巻末のウェイリーの「解説」も興味深いが、翻訳の佐復秀樹が多用している「主要な」
という現代日本語の使用法は、文法の正則に照らして正しいとはいえない。世間でよく使っている「親交を深める」というジャッグルした表現が正則から少し外れているように。
♪管弦の楽高鳴れば春鶯囀大宮人の宴は果て無し 茫洋
掘田善衛著「掘田善衛上海日記」を読む
敗戦直前の1945年3月24日、当時27歳の「心からやりたいということ、心から何事かをなしたいという欲求がさらにない」一人の若者は、松岡洋右の息子の仲介で日本を飛び出し、「上海客死」の覚悟で欧州をめざした。しかし当時欧州直行便は存在せず、やむなく著者はこの動乱の地で8月15日を迎え、1947年1月に帰国するまで当地の武田泰淳宅に転がり込む。
その間の私的な記録がこの日記である。そこには支配から脱して自らに目覚めつつある等身大の中国と生身の中国人たちの動向、そして敗戦国民に転落して動揺する日本人たちの狂乱ぶり、さらに異国での異常な体験と燃え上がる愛に戸惑う孤独な魂の彷徨がとぎれとぎれの断想のように記されている。
日本人を憎んで密告したり殺したりする中国人もいたが、戦争中とまったく同じようにつきあう中国人もいる。しかし大半の日本人は戦争中とがらりと態度を変えて民主主義人間に変身してしまう。いっぽうこの人物はといえば、敗戦から国共内戦開始という天下の大乱のさなかに木の葉のように右往左往しながらも、「天下国家のために何をなしたいという野望もない。また自分一個のためにすら何をしたいとも思わぬ。つまらないことおびただしい。自分で自分がまったくつまらない。食物をこしらえたり、皿を洗ったりする瞬間がもっとも充実しているように思う」と書いていて、若いのにさすが掘田、と大いなる共感を覚える。敗戦の日にわざと陸軍兵の軍帽をかぶり、戦勝を寿ぐ中国人たちで雑沓する市街に単身身を乗り入れる著者の勇気は感動的ですらある。
1946年5月21日
今日から自分と戦うことについて考えよう。
したいことはしない。
したくないことはしない。
1946年8月10日
アインシュタインが宇宙の構成は単一であると言ったとき、ヴァレリーが「その単一なることを証明するものは何であるか」と問うたところ、アインシュタインは「それは信仰だ」と決答した。これに対して、ヴァレリーは「このときほど自分は感動したことがない」と慨した。信仰のない科学は所詮うすめられた毒薬の注射以外のものでない。信仰がないからその毒に耐えきれないのである。されば科学自体も発展しないし、人格も決して人に卓越せるものとなりえない。
1946年10月18日
岸田劉生の「美の本体」に「運命に形を与えれば実在だ」という言葉がある。これは芸術と人生を深く深く見たまことの芸術家の言葉である。とらえがたきこの世の運命に形を与えたもの、それが文学である。実在である。
「それは美だ。在るといふことの美だ」。
などの日記も、なかなか示唆に富む。
広場の孤独やゴヤの作家の揺籃の地はまさに上海にあったことを雄弁に物語る貴重な青春の記録と評せよう。
♪おお天よ、われらが運命に形を与え給え 茫洋
Saturday, January 17, 2009
エルサ・モランテ著「アルトゥーロの島」、ナタリア・ギンズブルク著「モンテ・フェルシモの丘の家」を読んで
前者は少年の継母への淡い初恋を軸にした偽ビルダングスロマンであるが、どこがイタリアを代表する女流作家らしいのか理解に苦しむ。こうしたテーマでは中勘助などのわが国の少年文学のほうに1日の長がある。私はそぞろ下村湖人や山本有三なぞをまた読み返してみたくなった。
2作のうち取るとすれば、まだ後者か。これはローマからアメリカのプリンストンに脱出した作家を中心にその係累たちがお互いに取り交わす書簡から構成される家族の物語で、翻訳を亡くなった須賀敦子が担当していてそれなりに読ませるものがある。
池澤夏樹の個人編集による河出書房新社の世界文学全集は、これまでは比較的駄作が少なかったが、本巻はその数少ない例外といえよう。
♪こんな小説のどこがおもろいんじゃあと叫びて屑籠めがけて投げつける 茫洋
Friday, January 16, 2009
佐藤賢一著・小説フランス革命「バスティーユの陥落」を読む
ヴェルサイユで打ち上げられた烽火は平民の町パリの要塞で大爆発を遂げ、それが7月14日の革命として結実した。
この小説の冒頭で大活躍するのは、ミラボーの陰謀によって暴発した弁護士デムーランである。パレ・ロワイヤルの行進からはじまった反貴族、反軍隊、ネッケル復活を旗印とするパリ民衆のデモンストレーションは、ついにテュイルリー公園でのドイツ傭兵との武力衝突を引き起こすが、フランス衛兵隊の支援によって竜騎兵を撃退したデムーランは、一夜にして一躍パリ市民の英雄となる。
しかし王と政府は、シャン・ド・マルスなどパリの四囲に強大な外国軍を待機させ、武力介入の機会をうかがっていた。武器には武器で対峙しなければならない。ダントン、マラーなどとともにデムーランを指導者とするパリ市民は、武器が隠匿されていると思われたバスティーユ監獄に弁天橋さながら遮二無二に突入し、ついに難攻不落の要塞を陥落させる。
フランス革命の一里塚は、このような偶然の暴発ともみえる民衆の盲目的なエネルギーの全面展開によって築かれたのである。暴動こそが革命の母なのだ。かくしてパリの権力は、各種ブルジョワ混成軍の手によって奪取された。
このような首都の高揚を人民の果実とせず、王冠の祝祭と化すためにミラボーは、ルイ一六世のパリ訪問を提起し、それは実現される。一七八九年七月一七日、パリ市政庁の露台に上がった国王は、ヴィヴラフランス、ヴィヴルロワの大歓声に包まれた。
ヴェルサイユの憲法制定国民議会は、ミラボーなど保守派の逡巡躊躇を押しのけてルソーがかつて種を播いた人権宣言を採択し、ロベスピエールを感涙させたがその革命的な法案をルイ16世は批准しようとはしなかった。閉塞状態に陥った事態を打開したのは、パリの平民女性の蜂起だった。降りしきる雨の中「パンを寄こせ」とシュプレヒコールを挙げながらグレーヴ広場からヴェルサイユまで歩き続けた彼女たちは、ミラボー、デムーラン、ロベスピエールなどの革命指導者たちを乗り越え、ヴェルサイユ宮殿の内部まで乱入しルイ16世と王妃マリー・アントワネットを実力で拉致し、再びパリに取って返してテュイルリー宮に幽閉する。無名の、無数の女性たちの活躍で、フランス革命は決定的なメルクマールを刻んだのである。
♪女性の蜂起なくして真の革命なし昔も今も 茫洋
Thursday, January 15, 2009
佐藤賢一著・小説フランス革命「革命のライオン」を読む
そもそもの始まりは王国の財政難だった。貴族が課税に抵抗したためにフランスの国政が混乱し、1788年、貴族の傲慢な居直りを背景に高等法院と政府(財務長官ネッケル)は決定的に対立した。
翌年の8月8日、国民の声に押されて魔がさしたルイ16世は、よせばいいのに何を血迷ったのか全国3部会の招集を発令する。
ここに全国から集まった平民、僧侶、貴族の政治的対立がフランスの国民意識の覚醒をうながし、それが同89年7月14日のバスティーユ要塞攻撃に引火していくのである。
このシリーズの第1巻は、革命前夜の全国3部会の動静をつぶさに描いて興味深い。そこでは王、第1身分の聖職者や第2身分の貴族たちから蔑視されながら徐々に己の権利と権力にめざめていく第3身分の平民たちの姿が、プロバンスの貴族でありながら第3身分代表として全国3部会、後の国民議会の議員となったミラボー伯爵を中心に生き生きと描かれている。
「革命の獅子」と呼ばれたミラボーの豪傑ぶりと、その清濁併せ呑む政治的言動に魅了されながら、次第に力を蓄えていくアラスの弁護士で後の独裁者ロベスピエールの初々しい姿、「第3身分とは何か」を書いた僧侶のシェイエス、アメリカ独立戦争にボランティアとして従軍したラ・ファイエット将軍などの実像も新鮮そのもの。あの悪筆家の塩野七生ほどではないが、文章の一部に生硬な表現がみられるが、そんなことより今後の展開が大いに期待される。
♪どんな革命にも大中小の獅子がいた吼えよライオン 茫洋
Wednesday, January 14, 2009
加藤廣著「謎手本忠臣蔵」を読んで
「此間の遺恨、覚えたか」と叫びながら、浅野内匠頭はなぜ上野介に刃傷に及んだか。「此間の遺恨」とは何か。著者は主に五代将軍綱吉とその僚友側用人柳沢吉保の視点をつうじてこの松の廊下刃傷事件を解明しようとしている。
元禄14年当時の彼らにとって最大のテーマは、綱吉の母桂昌院の従一位授与問題「桂一計画」であった。栄耀栄華を極めた京堀川の八百屋の娘を史上最高の官位に就け、愛する母に死土産として贈りたい。この綱吉の悲願を達成するために、柳沢吉保が朝廷に対する折衝と政治工作のために特命を授けて送り込んだのが吉良上野介であった。
ところが先祖代々朝廷贔屓で知られる浅野家は、親しい関白を通じてそのような朝幕間の内部事情に通暁しており、こうした幕府の理不尽なごりおしに反発を懐いていた。
そしてたまたま朝使饗応役に任じられた浅野内匠頭の前に吉良上野介が登場し、「桂一計画」において自分が担っている大役を誇らしげに漏らした。そのとき、内匠頭が何らかの否定的な発言を行ない、それに対して上野介が武士のプライドを傷つけるような種類の発言を行ない、堪忍袋の緒を切らせた内匠頭が斬りつけた、というのが著者の解釈である。
当初仇討に否定的であった内蔵助はこうした朝幕間の醜い争いを外部に漏らすことなく恨みを呑んで刑場の露と消えた内匠頭の真意を知ってはじめて討ち入りに立ちあがる。それは主君への私怨をはらすのではなく公儀への異議申し立てであった。
いっぽう吉良上野介の朝廷への働きかけが不成功に終わったことを知った綱吉と吉保は、上野介の限界を悟って別のルートから猛烈に運動し、桂昌院の従一位授与問題は討ち入り寸前に成就する。
松の廊下事件が喧嘩両成敗ではなく一方的に浅野内匠頭に不利な裁きであったことから反発する世論をなだめるために、綱吉と吉保は、赤穂浪士の策動を隅々まで熟知しながら上野介暗殺を許したというのである。
まあこの説が嘘か本当かはにわかに断定できないが、従来悪人とされてきた綱吉と吉保の功罪を洗い直し、彼らの暦や貨幣改革とオランダによる暴利の追及、さらには家康が福島正則に書いた密書の行方など数々の派生的エピソードにいそいそと言及している点も思いがけず楽しめる。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは綱吉と彼を裏面操作した側用人柳沢吉保の陰謀である、というのは、この間読んだ秋山駿著「忠臣蔵」と同じ結論であるが、この本の引用は、ほとんど福本日南の「元禄快挙録」と徳富蘇峰の「近世日本国民史・赤穂浪士」の二著に依存していたために、そのくわしい実証的な説明はなかった。本書では、その渇を存分に癒すことができるだろう。
♪昼下がり舗道に伏したる黒猫は薄き血吐きて瞑目しており 茫洋
Tuesday, January 13, 2009
最終回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
家族の方へ 災害後の助言by日本自閉症協会会長・石井哲夫氏のアドバイス
「子供さんにもよりますが、高機能で生活行動の自立した子供さんの場合は、まず不安が取れず興奮しているわが子の気持ちをいやすことを考えてください。そのためには傍らにいて静かに話しかけたり、好きな音楽を聴かせたり、本を読ませたり、ゲームをさせたりするとよいと思います。そしてこの機会に災害から逃れた状況に関してわが子の取った行動をほめてほしいと思います。特に自分から気づいたり判断したりしたことがあれば、それを繰り返し話し、本人の気付きをはっきりさせることが良い教育になるのです。
自立していない子供さんの場合は、嫌がらない場合にはよく抱きしめてあげたり、一緒に毛布やふとんの中でくるまって落ち着かせる工夫をしてください。」
いかにもこの人らしい温和な対応ですね。30年前のその昔、私は石井氏などが主張する、自閉症児の障碍をただありのままに受け入れようと主張する「受容療法」に批判的でした。症状と障碍のもっと本質に肉薄して損傷部分を活性化する積極的な療法にかつえていたのです。しかし障碍者に対して強制的にかかわる際の反発や逆効果などを考慮すると「大人になった」今では、こういう受け身の対応もあながち全面的に否定するものではありません。
昔は自閉症の原因を「脳の器質障碍」であると考える医者や学者はきわめて少数で、たとえば神奈川県戸塚のこども医療センターに勤務していた東大精神科のあほばか医師などは、ふたりとも自閉症の専門家を自称していたにもかかわらず、私の長男の障碍の原因を母親の育児の失敗(当時「母原病!」と呼んでいた)によるものである、となんの科学的根拠もなく、一方的に決め付けてくれました。
その後こういうお偉い人たちも、主流派の情緒障碍説から機能障碍説へとこっそり「転向」したのでしょうが、あの時の彼らのしたり顔を思い出すたびに、きょうもふつふつと怒りがこみ上げてくるのです。
それはさておき、私はかつて1日両切りピース50本の猛烈なヘビースモーカーであり、強度のニコンチン依存症であったために、その毒が妻の胎内に入って障碍児を誕生させたと確信していますので、若い人たちにはどうしても禁煙してほしいのです。
♪「新世界」の第4楽章は行進曲ではない讃歌である「歌え歌え」とクーベリックは叫ぶ 茫洋
Monday, January 12, 2009
第5回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
12君が海や川のそばにいたら
・津波で突然水が増えてくるので、海岸や川岸から離れよう
・海岸で強い揺れに襲われたら、いちばん恐ろしいのは津波。避難の指示や勧告を待つことなく、安全な高台や避難場所を目指す
13学校・職場と確認しておくことは
・集合場所、避難場所を決めておこう
・「私は大丈夫です。ここにいます」と家族に伝える方法を決めておこう。
・「助けてカード」を家族と作り、いつも持っていよう。
・帰宅地図を家族といっしょに作ろう。トイレや水の補給できるところを記入しておこう。
・ペットボトル、飲料水、チョコレートやあめなどを職場に置いてもらおう。
・災害が起きたときには、すぐに家に帰るかどうか職場や学校に決めてもらおう。
14局地的豪雨、雷雨、台風、竜巻にも注意
・川は突然水が増えてくるので大急ぎでその場を離れよう
・町中では水が来たと思ったら側溝に落ちないように電柱などを目印に傘などで安全を確認しながら高いところへ避難しよう。地下街では急いで階段へ。手すりにつかまって上がろう。
・車のドアは水深60センチになったら開かなくなるので、その前に逃げよう。
・雷雨 ぴかりときたら屋内へ。野原では身を低く。
♪やたら雷、津波を連発するなかれ気象庁とマスコミはピーターと狼 茫洋
Sunday, January 11, 2009
第4回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
8駅では
・線路には絶対に下りてはいけません。危険!
・駅員さんのいうとおりにしよう
9電車やバスの中では
・吊皮やボールにつかまろう。勝手に外には出ない
・運転士さんのいうとおりにしよう
10遊園地・公園では
・乗り物の中にいたら、しっかりつかまる
・家族やいっしょに来た人と、はぐれないように手をつなぐ
11君がひとりだったら
・大声で「助けて」という
・近くの人・制服の人(駅員・警察官・警備員)に助けてもらおう
・助けに来てくれた人に「助けてカード」、身分証明書、サポートブックなどを見せ、避難場所に連れて行ってもらおう
・家族に連絡してもらおう
・駅や乗り物の中では、係りの人のいうとおりにしよう
避難するときの注意
・あわてず落ち着いて
・割れたガラスなどの落ちているものを踏まないように注意
・はしらない。急ぎ足で移動する
・人を押さない。順番を守る。とくに階段やエスカレーターでは皆が倒れて事故になるので注意
・係りの人やお店の人がいるときは、いうことをきいて行動する
・係りの人がいないときは、非常口のマークの方に移動する
♪遠い日を思い出させて遠い景 茫洋
Saturday, January 10, 2009
第3回「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
4地震のとき外にいたら
・落ちてくるもの、看板・ガラスなどから逃げる
・カバンなどで頭を守る
・切れた電線にさわらない
・電柱・ブロック塀・自動販売機やマンホールから離れる
5君が学校にいたら
・あわてて飛び出さず先生のいうとおりにしよう
6デパート、スーパーでは
・店員さんのいうとおりにしよう
・エレベーターに閉じ込められたら、あわてず非常ボタンを押す。すべての階のボタンを押す
・バッグや買い物かごなどを頭に乗せ、ショーケースなど倒れやすいものから離れよう
・非常口マークを普段から確認しておく
・エスカレーターでは前の人との間をあけて、かならず手すりにつかまるように習慣づけておこう
7地下街では
・柱や壁に寄りかかり、定員さんのいうとおりにしよう
・バッグなどを頭に乗せ、揺れがおさまるのを待つ
・あわてず、地上に出る
・脱出するときは、壁伝いに歩いて避難
・火災が発生しなければ比較的安全なので、あわてず行動すること
♪豚のごとく太りしもの武道館にこけつまろびつ還暦ジュリーコンサート 茫洋
♪豚の如く醜き男駆け回る日本武道館還暦ジュリーコンサート
♪6時間ぶっちぎり武道館還暦ジュリーは日本のプレスリー
Friday, January 09, 2009
続「自閉症の人たちのための防災ハンドブック」
自閉症の人たちは、もし災害にあったら
・落ち着いて身を守りましょう
・1人でいてもあわてないこと。必ず助けが来ると信じよう
・お家の人といっしょだったら、お家の人のいうとおりにしよう
・いっしょにいる人と離れないようにしよう
こんなときにはこうしよう
1地震が来た時家で寝ていたら
・ふとんをかぶろう
・割れた窓ガラスでけがをしないように注意
・枕元に履きなれた靴、懐中電灯、携帯電話、ラジオなどを準備
・寝室に倒れそうなものを置かない
・頭の上に物が落ちてこないところに寝る
2地震が来た時部屋にいたら
・机の下にもぐり、机の脚にしかりつかまる
・食器棚、倒れてくるものから離れる
・物が飛んでくることもあるので気をつけて
・頭にクッションなどをのせて揺れがおさまるまでそのままでいる
・戸をあけて出入り口を確保
・あわてて戸外へ飛び出さないように
・無理に火を消しに行かない
3お風呂、トイレに入っていたら
・風呂場、トイレからあわてて飛び出さない
・湯船から出ないで洗面器をかぶる
・けがしないようにバスマットなどで足を守る
・ドアをあけ、逃げ道をつくる
・割れた鏡、タイルに注意
♪なにやらんかなしききもちになりにけりじへいしょうきょうかいがつくりしぼうさいはんどぶっく 茫洋
バガテルop80
○災害が起きたら、自閉症の人たちはこうしよう
①まず落ち着くこと
深呼吸を3回くらいして助けを待とう
②危険から体をまもろう
③人を呼ぼう
④安全なところへ連れて行ってもらおう
○災害が起きたら、家族はこうしよう
A災害が起きたら、
親がまず落ち着くこと
「大丈夫だよ」と声をかけよう
本人に分かりやすい言葉や方法で本人を落ち着かせよう
B普段からの準備と心構え
練習していないことはいざというときには役に立たない。
①気づいてもらうために
「助けてカード」を作成し、本人にいつも持たせる
『助けて』と声を出す練習、ホイッスルを吹く練習
衣服への記名、サポートブックを作成し、持たせる
②日頃からわが子の存在を知っておいてもらう
隣近所とのお付き合いを
民生委員とのコンタクトも
要援護者名簿に登録
ひとりになったときを想定し、普段からの準備・訓練を
③家族で防災会議をしよう
家族同士の連絡方法などについて
④地域での避難訓練に参加を
⑤自宅以外で宿泊する体験をもとう
♪災害はいつどこで起こるか分からない君のために何ができるか 茫洋
Wednesday, January 07, 2009
川上弘美著「どこから行っても遠い町」を読んで
道路の左端に江戸時代に建立された馬頭観音と右かなざわ道と書かれた道路標識が立ち並んでいて、この一帯が古代から幹線道路として重要視されたかすかな面影を伝えていた。
鎌倉石でできたその二基の標識のすぐ隣に立っている一軒の魚屋さんが、おそらくはこの小説の最初に出てくる魚屋「魚清」のモデルではないだろうか、と私は勝手に想像を逞しうした。なぜならその魚屋は小説と同じように三階建てで、一階では魚を商っており、二階は住居部分であり、三階には小さな小屋があるのだが、それを除いた広大なスペースを利用してよくアジやイカなどを天日干にしているからである。
「魚清」を起点にして著者がはじめるのは、東京近郊のとある小さな町の住人たちが織りなす生と死と愛と希望の物語だが、私は私で別の空想を楽しんでいた。
その魚屋には年老いた夫婦二人が長らく商売を続けてきた。彼らの一人息子は東京の大学でフランス文学を専攻し、ソルボンヌに留学をしてからリヨンの大学で教員をしていたと風の噂で聞いたことがある。ところが理由はまったく不明だが、彼は今から一五年ほど前に突然帰国し、しばらくはフランス語の家庭教師の看板をカツオやヒラメの隣に掲げていたのだが、受験勉強に追われるいまどきの学生にこんな時代遅れの言語を学ぼうとする者などいるはずもなく、ある日父親に向かって「俺は魚屋のあとを継ぐ」と宣言したのだった。
魚屋の向かいにはここから鮮魚を仕入れている仕舞店風の鮓屋があったが、いつが営業日でいつが休日なのか客も店主にもよく分からない気まぐれな店だったので、一握りの馴染み客しか寄り付かなかった。
そんな鮨屋金兵衛をことのほか贔屓にしていたのが、金兵衛の隣のガソリンスタンドで働いていたFさんだった。氏は九州大学の理学部を卒業したインテリだったが、ある日大企業を突如リストラされ、とにもかくにも月々の生活費を稼ぐためにエッソスタンダードに飛び込んできたというわけだった。
私とFさんの唯一の接点は、障碍児を持つ父親ということだった。二人は時々金兵衛でゲソなぞをつまみながら、まるで同病相哀れむように、他人にはとうてい聞かせられない情けないグチをこぼしあう仲だった。
新しい年が明けてまもないある夜のこと、いつものように私が金兵衛の暖簾をくぐると、この店ではついぞ見かけたことのない若い女が、ねじり鉢巻きを巻いた徳さんに向かって「もう、あたし我慢できない」と何度も叫ぶように言いながらううすい背中を震わせて泣いていた。
……まあ、ざっとそんな感じの、因果は巡る花車小説です。
かくすればかくなるものとは知りながら御身大事に敵殺す君 茫洋
遥かなる遺恨のほどはさておきて眼下の敵はみなみな殺せ 茫洋
Tuesday, January 06, 2009
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その5
蒙古襲来後、鎌倉幕府では頼朝恩顧の御家人と北条一族ゆかりの得宗御内人との対立がきしみはじめ、それが幕府の執権政治のみならず天皇家や朝廷の権力闘争、さらには中世の社会構造にまで大きな影響を及ぼそうとしていた。
双方の権力闘争が最高潮に達したのは、弘安8年1285年11月の霜月騒動だった。安達氏の館は代々甘縄にあったが、泰盛はそこは子息宗景に譲り自宅の松谷の別邸に住んでいた。
その年の11月7日、なにか異常な雰囲気を感じて午前10時頃にそこを出た泰盛は、正午ごろ小町大路と横大路が交わる塔の辻の屋形に向かい、すぐ近所の執権貞時の館に参じようとしたところで御内人たちに行く手を阻まれ、死者30人、負傷者10人の被害を出した。
それをきっかけにこの辺を中心とする合戦が始まり、激闘の中で周軍の御所も炎上した。午後4時に戦闘は終わった。泰盛方は完全に敗れ、泰盛以下子息宗景、弟長景、時景色ら安達氏一族は自害・討ち死にし果てた。
安達氏とともに分流大曽禰氏、二階堂氏、小笠原氏など錚錚たる豪族も滅びた。鎌倉では泰盛の婿金沢顕時が下総に流され、ここに御家人最大の流派は滅んで内管領平頼綱の独裁政治が始まることになる。しかしその頼綱も頼綱執権貞時の手によって永仁元年1293年4月にうち滅ぼされたのである。
夜叉の如き形相で嬉々としてパレスチナ人を血祭りにあげているイスラエル外相 茫洋
眼には眼を歯には歯を旧約の教えにいそいそと従うユダヤの民かな 茫洋
Monday, January 05, 2009
初夢
嵐の中を疾走するシカゴ行きの夜行列車に乗ってどこか比較的大きな駅に着いた。プラットホームに停まった蒸気機関車から野生の獣の荒い息のように白い蒸気が噴き出ている。どうやらこの駅でしばらく停車するようだ。私はホームの端にある改札口を出て駅前広場のあたりをふらふらと歩きだした。
その暗闇の街でなにか大きな事件が起こったということはないと思う。あったとしても覚えていない。しかし私はそこでいつも夢の中でしか出会わない建物や風景と久しぶりに出会い、とても懐かしい思いに駆られた。
気が付くとそうとうの時間が経過していた。私は大急ぎで駅に引き返して闇を透かしてプラットホームをのぞくと、蒸気機関車とそれが牽引する何両かの古ぼけた木造の客車の姿は何度見直してもそのかけらもなかった。列車はもうとっくに出発してしまっていたのだ。
私は茫然として改札口に立ちすくみ、さてどうしたものかと考えた挙句に、改札口の傍にある小さな詰所に入っていった。幸いなことに駅員がいたので、私は事情を説明してなんとかならないかと尋ねると、彼は「もう上りはないよ」と冷たく言ってドアを閉めようとしたので、焦った私はドアの下に靴を入れてそれを防いだ。
「しかし下りで一駅戻れば上りの新幹線に乗り継ぐことができるのではないだろうか」といまそこで思いついたことをいうと、それが当たりだったと見えて、駅員は彼のほんらいの地である親切そうな表情に戻り、デスクで仕事をしていたもう一人の同僚に声をかけ、連絡と乗り継ぎの計算と新幹線の予約作業を猛烈な勢いで開始した。
ところがようやくその時になって、私は胸に納めた財布にたった1円もなく、この駅までの切符さえ持っていないことにはじめて気が付き、大いにうろたえ、さらにうろたえ、限りもなくうろたえているのだった。
♪市田柿1箱498円鎌万の安さ畏るべし 茫洋
Saturday, January 03, 2009
秋山駿著「忠臣蔵」を読む
大阪城崩壊から80年を閲し、原城の反乱の記憶も次第に遠ざかると血なまぐさい硝煙にかわって美服に薫じられた上方流のかぐわしい香の匂いが人々を魅了するようになる。華麗なる元禄文化の開幕である。
そこで権力者は、血を血で洗う戦乱の世に別れを告げ、太平に慣れ親しみ、平和というものに倦み果てた武士たちに対して、かつての宮本武蔵の「五輪書」や山本常朝の「葉隠」に代わって新たな「武士道」の規範を示さなければならない。恒久平和の時代における武士の生き方のバイブルを制作しなければならない。そのために活用されたのがこの前代未聞の仇討である、と著者は説く。
忠臣蔵の思想は、形は吉良の首を打って亡き主君の恩に報じるというものだが、その核心を流れるのは「武士であろうとする者は死を尖端に置く考えと行動によって義を護る者だ」ということだ。この独創的な元禄版武士道を立ち上げた大石内蔵助の義挙を民衆の潜在的な支援とあいまって直接間接にバックアップすることによって、5代将軍綱吉と側用人柳沢吉保は泰平の時代の武士道を確立した。そしてこの新武士道はそれ以後の徳川、明治時代を貫通し、明治天皇崩御の時点まで生命を保っていた。そういうのである。
せんじつめれば赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄時代の強権独裁者である綱吉と彼を裏面操作した側用人柳沢吉保の陰謀である、というのが著者の結論であるが、しかし誰かに都合よく洗脳された浅野内匠頭が突然でくのぼうのように上野介に斬りかかったわけではあるまい。
論理の大筋は簡明だとしても、各論の証明があまりにもお粗末。これは歴史の理屈をうんぬんするのではなく、忠臣蔵をめぐる著者のユニークな文学的歴史散歩に耳を傾けるべき書物であろう。
♪武士は義に女は恋に死すべしと元録の掟ついに定まる 茫洋
Friday, January 02, 2009
高橋源一郎著「いつかソウル・トレインに乗る日まで」を読んで
驚いたことには高橋源ちゃんの小説にはほとんど駄作がなく、おまけに駄作であったとしても必ずそれが現今の文学に対する鋭い異議申し立てになっている。そしてそれは今回も例外ではない。
なんせ「生涯初の、そして最後の」、と銘打たれた超恋愛小説である。主人公は某マスコミに勤務する相当垢が溜まった中年の俸給生活者であるが、作者と同様に元サヨクの前歴を有するこの主人公は大多数の日本人と相違してなぜか韓国とその国の住人に大いなる親和力を有しており、その結果この小説のヒロインとの超絶的恋愛が発生する。
という仕儀は多少不自然であり、説明不足のようでもあるが、どうやら主人公は韓国の特派員時代にこの国の反権力闘争に加担していた形跡もあり、その運動参加者とのシンパシーがこの小説の登場人物たちとの連関を構成している。
らしいのであるが、そんなことはどうでもいい。ともかく主人公は半死に状態の日本と自分を捨ててこの国に呼び寄せられ、そこで2度目のファム・ファタルと遭遇し、2度目の、そして最後の恋愛に深く埋没していく。案の上愛は男を覚醒し再生し復活させるのだが、それが達成されたと見えた瞬間にまるで一場の夢のように崩壊する。(衝撃のラスト?ゆえにわざとこのように書いています。くわしくは手に取って読んでください。)
というようなプロットもじつはどうでもよくて、作者がここでやりたかったのはとても不器用な愛の経験の零からの再構築であり、その愛の結晶化作用と同時に構築されていく小説構造自体の破壊的再構成なのである。つまり作者は、愛と小説をほとんど幼児が粘土の人形を作っては壊すように、作りながら壊し、壊しながら何か新しいものを作り出そうとしている。その製造過程をここで臆面もなく公開すること、それが小説だと言いたいらしいのである。
しかし「何か新しいもの」とは最後までわからない。作者にもわからないものが、どうして私たち読者にわかるだろうか。けれども、そういう無手勝流のはちゃめちゃでアナーキーな小説作法をいくら読者が少なくなろうと断固として譲り渡さないところが、時代に媚びず時代に先駆けるこの作家の革命的根性なのである。
♪われもまたソウル・トレインに乗り込んで、世界の果てまで旅立ちたし 茫洋
Thursday, January 01, 2009
青い空には雲がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
京都には百万遍がある
鎌倉には十二所神社がある
綾部にはてらこがある
百貨店には屋上庭園がある
サーカスにはブランコがある
リーマンにはボーナスがある
カレンダーには旗日がある
機動隊には7つある
小田急線にはロマンスカーがある
機動隊には貸しがある。
吉本隆明には借りがある
愛犬ムクには墓がある
手術台にはメスがある
佐々木小次郎には物干し竿がある
露台には植木鉢がある
食堂の戸棚にはドラヤキがある
隣の親父には抜け毛がある
新国籍法には抜け道がある
金融業には悪がある
障碍児には無垢がある
我が家の玄関には灯りがある
イエスにはマリアがある
大刀洗には井戸がある
畳の上には布団がある
猫にはタマがある
男にも玉がある
竜宮城には玉手箱がある
赤ちゃんには乳歯がある
処女には処女膜がある
老人には萎びた珍宝がある
レノンにはイマジンがある
サントリーには山崎がある
私には2人の子供がある
ジョン・フォードにはジョン・ウエインがある
助さんには格さんがある
私には可愛い奥さんがある
蝶には翅がある。
臍には胡麻がある
眼には涙がある
道には石がある
身体には骨がある
人には理想がある
青い空には雲がある
雲の上には光がある
光の彼方に夢がある
Wednesday, December 31, 2008
Tuesday, December 30, 2008
西暦2008年茫洋師走歌日記
身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーのごとき裁定者欲し
ブルックリンのドラッグストアの四つ角でプカリ浮かんだジタンの煙よ
ハイランドの坂をあえぎながら登りゆきし3台のトラックの名は信望愛
ねえニザン20歳がもっとも醜いときだなんて誰もが知ってるさ
おやびんのためなら滅私奉公 お国も王も喜んで裏切りますぜ
奏者全員死者のミサ曲聴けば冥界より手招きさるる心地して
硝煙燻ぶるバリケードに仁王立ち最後の1発を放ちし老革命家に乾杯
遥かなるエルドラドの輝きは幻かわれら冷え行く鉄の時代に生きる者
俯いて地面に何を書いていたのか己に罪なしと信ずる者より石を打てといいいし人は
意味のある言葉を吐きたくない朝もある
平安の御代の源氏も式部も紫も雅な京都弁を喋っていた
楽しみは亡き母ゆかりの谷根千をひとり静かにさすらうとき
文を読めば音楽が聞こえてくるような文を書きたし
文を書けば己の血がでるそのような文も書きたし
時代も世紀も煎じ詰めればこの一瞬のわれらの行状に尽きる
フルベン王は死せり後は洪水垂れ流すのみとカラヤン嗤う
夕焼けの公孫樹の下に眠りたり雑司ヶ谷なる大塚夫妻
さらばベネチア沈みゆく関東ローム層で弔鐘を鳴らすのは誰
ぐららがあぐ おんぎゃあどれんちゃ ぶおばぶば ぐちゃわんべるる ううれえんぱあ
またひとりパパゲーノ見つけたり広大なるロシアの森に
障害者を障がい者とひらくこころの優しさよ
降っても照っても元気に行くよ俺たち陽気な3馬鹿大将
バーキンが別れに呉れし☆リース部屋に飾りてクリスマス迎う
サラリマンは哀しきものよアホ馬鹿の咎を背負いて血肉であがなう
異邦人を愛したことのない人は永遠に彼らを差別するだろう
われもすべてをなげうちおどりくるうてだいくわんきのうちにしにたし
困った時には神風が吹く安んじて死地に赴け汝陛下の赤子共
☆俸給生活者はつらいよ
俸給生活者は達成不可能なノルマもなんとか達成しなければならぬ
俸給生活者は他社より劣った製品をそれと知りつつ売り込まねばならぬ
俸給生活者は40度の高熱を押して出社せねばならぬ
俸給生活者は哀しいよ
俸給生活者は理不尽な人事の憂き目を見なければならぬ
俸給生活者は嫌な上司も好きにならねばらぬ
俸給生活者は最低の部下も愛さねばならぬ
俸給生活者はえらいよ
俸給生活者はアホ馬鹿消費者のわがままを否定しない
俸給生活者はクレーマーの唾を浴びながら謝罪する
俸給生活者はアホ馬鹿社長に代わって土下座までする
俸給生活者は楽しいよ
俸給生活者はともかく毎月給料をもらえる
俸給生活者は会社の金を使える
俸給生活者は会社をだしにして己の欲望をかなえることができる
俸給生活者はすごいよ
俸給生活者は家庭や家族を忘却することができる
俸給生活者は会社の金で豪遊できる
俸給生活者は棚牡丹餅ボーナスを年に2回ももらえる
俸給生活者はサイコーだよ
俸給生活者は仕事ができなくても出世できる
俸給生活者はなんだか分からぬ権力を手中に収める
俸給生活者は何の根拠もなく己を偉い者だと思ったりする
しかし俸給生活者は、ある日突然リストラされる
柚子四ツ浮かべたる風呂の楽しさよ
雪でも降れだんだん東京が厭になる
吉田家でプーランク聴こえる小町かな
ルビコンを渡らぬ人のいとおしき
国も人も三割縮む年の暮
オオフロイデ、蛍の光で年は暮れ
では皆様、よいお年を!
Monday, December 29, 2008
西暦2008年茫洋読書回想録
歳末につき、08年に私が読んだ本の中からベスト数冊を挙げておきましょう。
まずはわが敬愛する歴史家網野善彦の著作集(岩波書店)から「第5巻蒙古襲来」と「第11巻芸能・身分・女性」の2冊。いずれも日本中世の深奥に血路を切り開く知の冒険は身震いするほど感動的です。ただ情報や資料を客観的に分析して要素還元式レポートを書いていればそれで良しとする学者と違って、彼には彼独自の不逞な志があり、それが私を魅了するのだと思います。
「日本人は思想したか」(新潮文庫)は梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書です。今から10年以上前の対談ですが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値があると思います。
吉田秀和「永遠の故郷-夜」(集英社)は、音楽ファン以外の人にもお薦めの1冊。小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆です。
今年は小島信夫の本をかなり読んだのですが、いずれも深い感銘を受けました。
「菅野満子の手紙」(集英社)では、作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとしています。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことはしょせんは絶望的に不可能なのですが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かけるのです。
そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのですが、そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくるのでした。
森見登美彦著「有頂天家族」(幻冬舎)のエネルギッシュなエンターテインメントには脱帽しました。
かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていくのです。血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって珍しいのではないでしょうか。
次は川上弘美の「風花」(集英社)です。そんじょそこいらのどこにでもいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置してしまう。これこそ当代一流の文学者の凄腕でしょう。
続いては、私の尊敬するマイミクさんでもある新進気鋭の思想家、雑賀恵子さんの新著「エコ・ロゴス」(人文書院)に瞠目しました。「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら、私たちを未踏の領域に導いていきます。
さて、今年はずいぶん遠ざかっていたドストエフスキーを久しぶりに手に取りました。話題の光文社版ではありません。手垢のついた米川版です。昔から雑誌は改造、文庫は岩波、浪曲は廣澤虎造、小唄は赤坂小梅、沙翁は逍遙、トルストイは中村白葉、ドストは米川正夫と相場が決まっているのです。 「カラマーゾフの兄弟」(昭和29年河出書房版)の最後の最後のエピローグで、多くの子供たちに囲まれてアリョーシャが別れの言葉を述べるくだりは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の末尾の合唱を思わずにはいられません。それは愛と許しと世界の平和を願う音楽です。同じ作曲家による「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナの歌や少年天使の歌、近くはパブロ・カザルスの「鳥の歌」と同じ主題をドストエフスキーは臆面もなく奏でているような気がしました。
私にとって、本を読むということは、毎日ご飯やパンを食べるようなものです。食べるはしから排泄していって昨日の朝は何を食べたのかすら忘れてしまう。これではあまりに健忘症ではないかということで06年の7月から読書覚書をつけるようになりましたが、さきほど今年読んだ本を数えてみたらわずか90冊。年々気力体力視力が衰えてくるので消化する本の数も落ち込んでいくのです。
しかし読むべき本の数は年々積み上がります。晩年の中原中也がいうたように、量より質、1冊1冊を一期一会、最後の晩餐とみなして精読し、壊れゆく脳内の記憶を死守していきたいと願っている次第です。
♪国も人も三割縮む年の暮 茫洋
Sunday, December 28, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その4
いわゆる元寇は、第1回が文永11年1274年、第2回目が弘安4年1281年であるが、来襲したモンゴル、高麗、漢、(弘安の役は江南軍も)の大軍勢はいずれも台風の被害に遭っている。
しかし「文永の役」でそれがあったかなかったかについてはまだいろいろな議論があるようであるが、「弘安の役」における暴風雨の来襲は確実で、戦死・溺死する者元軍10万、高麗軍7千、総敬14万の大軍はそのおよそ4分の3を失った。
著者は、元軍壊滅の原因は台風ももちろんであるが、モンゴル、高麗、漢、江南軍の4つの混成寄せ集め部隊の内部対立が主因であり、宿敵同士の指揮官の行動には終始統一と団結が欠けていた。さらに専制的な強制によって建造された軍船はモンゴルによって滅ぼされた中国の船大工が手抜きしたといわれるほど脆弱な造りであったことなどを指摘している。
しかし日本軍の防衛体制も脆弱そのもので挙国一致などとはお世辞にもいえず、まことに薄氷の勝利であったと言わざるをえない。世評とは裏腹に無能の将軍北条時宗は鎌倉八幡宮に異国降伏の祈祷をするくらいのことしかしていないが、そこは腐っても鯛、執権政治の最盛期であったために竹崎季長、河野通有などの勇猛な御家人の敢闘の前に、元軍の侵攻は「失敗すべくして失敗」したのである。
ところが戦後油然としてわき起こったのは元軍敗北は神風の仕業であり、寺社仏閣の神威であるという愚かな見解であった。以前からあった、日本は神国であり神明の加護する特別な国であるというあほらしい考え方はさらに強まり、仏は神が姿を変えて現れたとする反本地垂迹説や伊勢神宮外宮の神官度会氏の唱える伊勢神道はこのような愛国的空気のなかで形成され、その663年後、このアトモスフェアをKYした狂気の軍人どもによって「神風」特攻隊の悲劇が起こったことを私たちは忘れるわけにはいかない。
♪困った時には神風が吹く安んじて死地に赴け汝陛下の赤子共 茫洋
Saturday, December 27, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その3
ちょうどその頃、一遍は京の五条烏丸東の因幡堂の縁の下で乞食と共に眠っていたが、弘安2年1279年の8月、信濃の善光寺に向かった一遍は食器の鉢をたたき、念仏を唱えながら踊り出した。一遍が踊ると乞食も癩の者も頭をふり、足をあげ、高声で念仏を唱えて踊りはじめた。
はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの
のりのみちをば しる人ぞしる
ともはねよ かくてもをどれ こころこま
みだのみのりと きくぞうれしき
踊りと念仏のなかで、人々は歓喜に導かれていった。このようにして
おのずから動く手足を動かし、心のままに躍り声をあげることによって自然な野生のよろこびを一遍は抑圧された民衆の心にわきたたせていったのである。
一遍は遍歴・漂泊する人々と共に歩み、遊行した。弘安7年1284年、京の桂を発って丹波の篠村に着いた一遍の周囲にいたのは「異類異形にしてよのつねにあらず」、利のために狩猟、漁労などの殺生を業とする人たちであった。彼らが頭を振り、肩をゆすり、一糸まとわぬ姿になって踊っていると頭上から花々が降り注ぎ、紫雲がたなびいたという。
正応2年1289年、摂津国兵庫島の和田岬で一遍は静かな往生を遂げたが、「葬礼の儀式をととのうべからず。野にすててけだものにほどこすべし」という遺言は守られず、彼の遺体は岬の観音堂に埋められた。彼の死に接し入水自殺を遂げた7人の僧と非人の成仏する姿は「一遍聖絵」で今日もつぶさに見ることができる。
以上は、本書からの自由な引用でした。
♪われもすべてをなげうちおどりくるうてだいくわんきのうちにしにたし 茫洋
Friday, December 26, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで その2
「立正安国論」を書いて国難に臨む執権時宗に意見具申をはかった日蓮は「念仏は無間地獄、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説なり」という「四箇の格言」を掲げ、モンゴルを退けうるのは日本第一の法華経の行者われをおいてほかになしと小町の門々で絶叫したために、文永8年9月12日、得宗御内人の代表的人物平頼綱によって逮捕され、いままさに瀧口寺で処刑されようとした。
伝説では「一天にわかにかき曇り大なる雷鳴なりひびき刀は宙に舞いにけり」ということになってはいるが、実際には平頼綱の最大のライバル筆頭御家人の安達泰盛の時宗への進言の結果である、と著者はいう。蒙古襲来の前夜、鎌倉幕府の御家人と得宗との対立はぬきさしならぬ様相を呈していた。
九死に一生を得た日蓮であるが、その説教はますます火を吐くように過激になり、その攻撃の矛先は鎌倉極楽寺の勧進上人、忍性に向けられた。
日蓮は、「生身の如来」と仰がれながらじつは布絹財宝を貯え、利銭借請を業としている生臭坊主の貧民への施しは偽善でしかない、と弾劾し、この年の大旱魃に当たって祈雨の法験を争おう、と忍性に挑んだのである。
北条一門と癒着する宗教者のみならず北条政権そのものに対してもまっこうから批判を加え始めた日蓮は、はげしい弾圧に身をさらしつつ、この弾圧それ自体のなかに法華経の真理のあかしを読み取り、その確信のなかから「われはセンダラ(賎民)が子、片海の海人が子」という発言が生まれた。権力の課した過酷な弾圧は、ここに一個の不屈の思想家を誕生せしめたのである。(P139)
しかしながら日蓮は、「モンゴル来襲の非常時に忍性ごときを信じている輩は殺され、女は他国へ連れ去られるだろう。白癩・黒癩・諸悪重病の人々、多かるへし」と差別的妄言を吐いている。かれども、その癩病の患者を背負ってこれを救おうとした人こそ、ほかならぬ忍性であった。
♪異邦人を愛したことのない人は永遠に彼らを差別するだろう 茫洋
Thursday, December 25, 2008
サラリマン音頭
俸給生活者はつらいよ
俸給生活者は達成不可能なノルマもなんとか達成しなければならぬ
俸給生活者は他社より劣った製品をそれと知りつつ売り込まねばならぬ
俸給生活者は40度の高熱を押して出社せねばならぬ
俸給生活者は哀しいよ
俸給生活者は理不尽な人事の憂き目を見なければならぬ
俸給生活者は嫌な上司も好きにならねばらぬ
俸給生活者は最低の部下も愛さねばならぬ
俸給生活者はえらいよ
俸給生活者はアホ馬鹿消費者のわがままを否定しない
俸給生活者はクレーマーの唾を浴びながら謝罪する
俸給生活者はアホ馬鹿社長に代わって土下座までする
俸給生活者は楽しいよ
俸給生活者はともかく毎月給料をもらえる
俸給生活者は会社の金を使える
俸給生活者は会社をだしにして己の欲望をかなえることができる
俸給生活者はすごいよ
俸給生活者は家庭や家族を忘却することができる
俸給生活者は会社の金で豪遊できる
俸給生活者は棚牡丹餅ボーナスを年に2回ももらえる
俸給生活者はサイコーだよ
俸給生活者は仕事ができなくても出世できる
俸給生活者はなんだか分からぬ権力を手中に収める
俸給生活者は何の根拠もなく己を偉い者だと思ったりする
しかし俸給生活者は、ある日突然リストラされる
♪サラリマンは哀しきものよアホ馬鹿の咎を背負いて血肉であがなう 茫洋
Wednesday, December 24, 2008
網野善彦著作集第5巻「蒙古襲来」を読んで
鎌倉時代の農民とは一線を画して、海賊をも業とする海民、殺生をも業とする山民の世界があった。
11世紀半ばに「鬼の子孫」と自称し、都の人々からもそう呼ばれていた京の都の郊外の里に住む八瀬童子は、代々刀自に率いられた集団であったが、山門の青蓮院門跡に属し天皇の賀輿丁もつとめた彼らは、炭を焼き、薪を売るなどの山仕事を業とする山の民だった。
大原の里に住む人々もこれと同様な集団で、当時の大原女は鈴鹿山の女盗賊と同じように荒くれだった炭売り商人であり、現在の鄙びた花売り娘とはまるで違う逞しい存在だった。
桂、大井、宇治など山城を中心に流れる河川のすべてを漁場として天皇から認められていた鵜飼の女性たちは、大原女と同様に頭に白い布をまき、鮎などの魚を売り歩く商売女であった。
宝冶2年1248年、漁場の争いに激昂した桂女たちは院の御所に集団で押しかけちょうど退出してきた摂政近衛兼経の背に向かって声高に罵ったという。
その桂女は室町時代から特徴あるかぶりものをかぶる遊女の一種とみなされ、そのたおやかな優艶さで知られるようになっていくが、これを女性の存在の仕方の時代的進化と呼ぶのか退化と呼ぶのかは微妙なところである。
♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーこそは闘士なりけり 茫洋
♪身を挺し敗者の胸を抱きとめるレフリーのごとき裁定者欲し 茫洋
Tuesday, December 23, 2008
こんな夢を見た
昨夜衛星放送で黒澤の「夢」という映画をやっていた。前にも見たことがあるのだが、随所に素晴らしい情景が出てくる名画なのでじっと眼を凝らしていたのだが、そのうちに猛烈な睡魔に襲われてしまった。仕事の疲れがどっと出たらしい。仕方なく幻の兵隊が回れ右して暗闇のトンネルにザックザックと姿を消したあたりで寝室に引き揚げて眠ってしまった。
「夢は第2の人生である」という名文句を吐いたのは仏蘭西の偉大な詩人ジェラール・ド・ネルヴァルだが、そんな因果の関係からなにかひとつくらいささやかな夢を見るかと思っていたのだが、ひとかけらすら見なかった。
そこで、というのも妙な話だが、2002年10月3日に私が見た夢を備忘録として記しておこう。
昨夜見た夢の中で昔死んだ近藤さんを見かけた。近藤さんの顔は茶色の斑点入りのヴェールのようなもので覆われていたためにちらとしか見えなかったが、たしかにそれは近藤さんだった。彼女が腰をおろしていた丸いテーブルの反対側にはでっぷり太った広瀬さんが座っていた。でもどうしてガンで死んだ女性が生きているのか。もしかして男性の広瀬さんももう死んでしまっているのではあるまいか、と怪しみながら、僕が丸いテーブルの方へ近づいたとき、突然マガジンハウスの雑誌編集者のI君がその部屋に滑り込んできた。そして背中に背負ったリュックサックをどさりと投げ出すと、そこから2枚のLPのアルバムを取り出して部屋の片隅の壁のたもとに丁寧に並べた。僕がI君に近づくと、彼は僕の顔をみるなり少し顔を赤らめてリュックをつかむとさっと走り去った。そこで僕は好奇心に駆られてアルバムを手にとった。その1枚はカール・リヒター指揮、ミュンヘンバッハ演奏のバッハのブランデンブルグ協奏曲全曲のレコードだった。1枚のジャケットに2枚のレコードが入っていた。
♪バーキンが別れに呉れし☆リース部屋に飾りてクリスマス迎う 茫洋
天才とは?
いまを去る遠い昔の某月某日、
天才とはどんな人であるかと聞かれた建築家のフランク・ロイド・ライトが、
天才とは、自然を見る目を持つ人のこと。
天才とは、自然を感じる心を持つ人のこと。
天才とは、自然に従う勇気をもつ人のこと。
と答えたそうであるが、なかなかよい答えではないだろうか。
なんでも「マビノギオン」という古代ウエールズの三題詩からに引用らしいが、私は
そういう天才なら、身近にいる多くの知的障碍者なら、みんな立派にこの3馬鹿大将に該当するなあ、と思ったことであった。
・
♪降っても照っても元気に行くよ俺たち陽気な3馬鹿大将 茫洋
Monday, December 22, 2008
ちゃんと就職したいと願っている君に
あっという間の就職氷河期の到来である。なかには内定が決まっていたのに門前払いを食わす不届きな企業もあるときく。法律違反だから断固闘えと檄を飛ばす厚生労働省の某大臣もいたようだが、かといっての臨時職員に雇ってあげようというでもない。
この突然の世界不況の元凶はひとえにアメリカ帝国を中心とした金融資本主義者および同国の金に目がくらんだ亡者どもの常軌を逸した欲望の狂乱にあるのであり、わが国をはじめとした世界各国のいっぱんピープルにはまったく無関係に一〇〇年に一度の大波乱が起こった。あのサブプライムローン問題さえなければ、このような悲劇は起こらなかったのである。
したがって今次の世界不況の影響を被ったすべての国家と組織と個人は、ただちに彼らに対して抗議するとともにアメリカ大使館に波状デモをかけ、その被害の多いさに応じて損害賠償の大衆訴訟を起こすべきである。それなのにあほばか大国の愚挙の尻拭いをどうして国内のメーカーや自治体が行う必要があるのか理解に苦しむ。これほど明々白々たる因果は、いまこそ正確に応報しなければならない。
それはさておき、来年卒業する予定の大学生や専門学校生の諸君の不安はいかばかりであろう。微力な私にできるコト。それは彼らに対して、「それほど悪くはない就職口」をたったひとつだけ、しかし自信をもって紹介することだろう。
いまとても困っている学友諸君は、つぎのホームページにアクセスされたい。
http://tomoni.or.jp/saiyou/saiyou.html
♪柚子四つ浮かべる風呂の楽しさよ 茫洋
Sunday, December 21, 2008
ポール・オースター著「幻影の書」を読む
この人の本は「偶然の音楽」以来2冊目になる。前作も良かったが、こちらのほうが一段と読み応えがあった。
何といっても映画「スモーク」の原作者・脚本家だけに、ストーリー自体が抜群に面白い。映画的だ。
愛する妻子の突然の事故死からはじまって、無声映画の最後の巨匠との思いもかけない邂逅、そこで明かされる巨匠の生涯の秘密、そして主人公の前に現れた運命の女性アルマとのたった8日間の凝縮された愛、そしてなおも巨匠の最後の作品と死をめぐって最後まで残された黒い疑惑、シャトーブリアンの膨大な回想録からの気の利いた引用、(「人間はひとつの生を生きるのではない。多くの、端から端まで置かれた生を生きるのであり、それこそが人間の悲惨なのだ」)、本編に挿入されて実際に映画化された「マーチン・フロストの内なる生」のシナリオの素晴らしさ等々、これは第1級の娯楽読物であり、優れた人生の書でもある。
とりわけ喜劇俳優や若い女性、ポルノ女優、小人、大学教授などのインテリゲンチャなどそれぞれの人物像の水際立った造形とディテールの精密な押さえ方は見事なもので、この1947年ニューアーク生まれの若い作家の才能は底知れない、というべきだろう。
ニューヨークの街角のドラッグストアを舞台にハーヴェー・カイテルとウイリアム・ハートが主演したウエイン・ワン監督の「スモーク」もいかにも都会的で洒落た映画だった。ラストでゆっくりと立ち上る煙草のけむりのはかなくも美しかったこと。確か共同プロデューサーには独文の堀越君が参加していたっけ。ああいうユーモアとエスプリがきらりと光る映画を目にしなくなってひさしい。さびしいことだ。
♪ブルックリンのドラッグストアの四つ角でプカリ浮かんだジタンの煙よ 茫洋
Saturday, December 20, 2008
ニザン著「アデン、アラビア」を読んで
ポール・ニザンは1905年トゥールに生まれ、独ソ不可侵条約に衝撃を受けて共産党を脱党した39年に召集され、翌40年にダンケルクから撤退の途中、不幸にも敵弾に当たって戦死した。享年35歳は奇しくもモーツアルト、正岡子規と同年である。
ニザンはサルトルと同様超エリート校、高等師範学校に進学したが、1926年、パリの腐敗堕落したブルジョワ生活に絶望して(あのアルチュール・ランボオも訪れた)イエメンの不毛の地アデンに逃走し、およそ1年間の滞在の後に本書を書きあげた。
出発の前年の20歳の時にはファシスズム運動に参加していたのに、アデンから帰還するとフランス共産党に入党するのだから、その間の思想的な振幅はかなり大きかったに違いない。
「僕は20歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」
という冒頭の一句は昔から人口に膾炙する名文句として知られ、(私には「けっ、なんてキザであほなやつ!」としか思えなかったが)、なかにはそのロマネスクとリリシズムに感動してアデン、アラビアならぬアジア、アメリカ、ヨーロッパに旅して故国に帰らぬ若者までいたようだ。
しかしそれに続く文章はそれほど華麗なものではなく、むしろ苦渋に満ちたものだ。内容も若々しく真摯ではあっても独創的な思藻はほとんどなく、知識人によくある青春の悩みという程度の代物にすぎない。
しかし当時極度に消耗し、思想的大混乱のさなかで自己崩壊寸前に立ち至った著者が、旧世界の中で居場所を失なった己を立て直すために、思い切って遠いはるかな地平に投げ入れることを決意し、その空間移動と異郷体験によって己の心身がこうむった変化について沈着冷静に観察、報告していることだけは高く評価できよう。
遠い旅から帰還した若者の感想は、次のようなものだった。
「結局、僕のヨーロッパに対する考え方は出発前とちがうものになっていた。ヨーロッパは死んでなどいない。ベンガルボダイジュのようにあちこちに副次的な根を伸ばしているのだ。まずはこの株を攻撃しよう。この木の葉陰で、誰もが死ぬ」
♪ねえニザン20歳がもっとも醜いときだなんて誰でも知ってるさ 茫洋
Thursday, December 18, 2008
倉地克直著「徳川社会のゆらぎ」を読む
小学館の「日本の歴史」シリーズはいずれも近来の力作ぞろいだが、とうとう11巻まできた。今号で徳川幕府が揺らいだら、まもなく明治維新がやってくるのだろう。
本書によれば、江戸時代には多くの穢多非人が存在した。
非人は穢多と違って平民身分に戻ることができたが穢多はできなかった。元和・寛永ごろに非人の組織化が行われ、江戸では非人頭、大坂では長吏が統率したが、その江戸の非人頭は穢多頭によって統率されていたので、穢多は非人よりも偉かった?ことになる。
彼らの組織には「乞食の法度」と称される独自の規律があった。4か所で集団生活していた江戸の非人小屋には、ボスの非人頭の下に非人手下(「てか」と呼ぶ。やくざ映画などのテカはここから来たのだろう)がおり、さらにそのまわりには野非人からくりこまれたばかりの非人小屋居候がいた。
その非人居候には、元浪人や僧侶、職人、芸能者やライ病者、障碍者、さまざまな犯罪者たちがいた。17世紀にはキリシタンが流入し、文化11年1814年には岡山乞食(当地の非人組織名)の中から禁教の日蓮宗不受不施派の信者が多数摘発されている。
このような縦型の身分制度は、ひとり穢多非人集団のみならず、政党、官僚、私企業、町内会、軍隊、教職、宗教団体、監獄からホームレス集団にまで時代を超えて散見される。
♪おやびんのためなら滅私奉公 お国も王も喜んで裏切りますぜ 茫洋
Wednesday, December 17, 2008
堀江敏幸著「未見坂」を読んで
一天にわかにかき曇るとものすごい強風が吹き募り、大粒のにわか雨が降りはじめたある夕べ、突然家がつぶれるのではないかと思うほどの衝撃があった。
慌てて家族全員が店の表に飛び出してみると、てらこ履物店の傍らに立っている木造の大きな電信柱がぽっきりと折れ、見たこともない1台の自動車が巨大な褐色のカブトムシのように木の根元に停まっていた。
米軍のジープだった。ジープのそばには3名の兵士がヘルメットから雨しぶきを滴らせながら呆然とたちすくんでいたが、やがて真ん中の真黒な顔をしたいちばん背の低い兵隊が、やはり真黒な瞳を持つ大きな目玉をおずおずと動かしながら、懸命に彼らが犯したあやまちを詫びようとおそらくはアイアム・ソリーとでもいうような外国語を何度も何度も分厚い唇から発した。
それが私がうまれてはじめて耳にした英語であり、はじめて目にした黒人だった。
これは私が本書に触発されて書いた例文であるが、例えばそのような、ある任意の時代の、ある任意の街の、ある住人たちの身の上に起こるささやかな、しかしなかなかに忘れ難い事件や経験を、作者は慌てず急がずに言葉を選び、その言葉を舌の上で何度も転がせるように吟味しながら、真っ白な原稿用紙の上にきれいに並べて見せ、あるいは幼年時代の自分の過去を心ゆくまで再現しようと決めた少年のように、もはや書くことを忘れて屋根の上の白い雲の去来に呆然と見入っている。
フィリツプ・ソレルスの忘れ難い「神秘のモーツアルト」の訳者でもある著者は、本書を皮切りにフォークナーの、かの“ヨクナパトーファ・サーガ”の平成版を目指しているに違いない。
♪ハイランドの坂をあえぎながら登りゆきし3台のトラックの名は信望愛 茫洋
Tuesday, December 16, 2008
歳末クラシックCD談義 後篇
シフのバッハ12枚組は最高で、後期シューベルトもとても良かったのです。昔聴いたケンプのシューベルトも後期のピアノソナタも素晴らしかったので、この際全曲を聴こうと思って7枚組全集4590円を買ったついでに、ブレンデルの7枚組をなんの期待もせずに3789円で買いましたら、これが定評あるケンプよりもはるかに素晴らしかったのは意外でした。
最近引退したばかりのこの人のモーツアルトは、ヴォックス録音以来(最近独ブリリアントから超安価で全集が出た)さんざん聴いて満足していたのですが、シューベルトはヴェートーベンよりず抜けて良かった。こんなことなら内田光子の問題作も併せて買って聴き比べておけばよかったと後悔しています。あれは確か8枚組で5500円だったっけ。
タワーで仏united archivesが廃盤になるというのでさよならバーゲンしていたので、ブダペストSQの50年代ライブ録音によるヴェートーベンSQ全集8枚組を2690円、モーツアルトの最後のプロシア王SQ2枚組を1590円で衝動買い。ヴェートーベンは米コロンビアの40年代録音を持っているが、そちらの演奏の方がやや充実しているような気がします。プロシア王は未聴。
バーンスタインのヴェートーベン交響曲全集とモーツアルトの後期交響曲&レクイエム&ミサ曲集6枚組が(当然のことながら)とても良かったので、最晩年のニューヨーク・フィルとのチャイコフスキー後期交響曲集4枚組2590円を聴いたら、これまた6番の「悲愴」が血わき肉おどる名演で満足。くたばれカルタゴ&小澤&カラヤン。
名門ニューヨーク・フィルといえば、アンドロメダ盤から出たブルーノ・ワルター指揮のモーツアルトの後期交響曲集が秀逸。選ぶならステレオのコロンビア盤よりもむしろこちらか。しかしモーツアルトの交響曲全集なら、墺ならぬ豪州出身のさすらいの棒振り男チャールズ・マッケラス卿がプラハ室内響と入れたテラーク盤10枚組の高い完成度には及ばない。かのバルリン&ベーム翁も追い越して、数ある演奏のなかで現在の私のベストです。
♪奏者全員死者のミサ曲聴けば冥界より手招きさるる心地して 茫洋
Monday, December 15, 2008
歳末クラシックCD談義 前篇
今日も相変わらずクラシックを聴いています。
年々仕事が減り、世界同時不況が到来するずっと前から不景気なので、CDの購入は基本的に1枚1000円以下、中心価格は200~500円までと定め、暗い世相をせせら笑いながら東京のバスガイドの浜美枝さんのように、都電荒川線の車掌の倍賞千恵子さんのように♪明るく明るく歌いながら、乗り切って参りました。
さて先々月はパドゥラ・スコダのシューマンのピアノ独奏曲全集2500円也という廉価版を「ふんスコダか、グルダに比べてお前はなんて凡庸なんだ」、と軽蔑しながらも買ってきて13枚続けて聴いたら、ポリーニやアルゲリッチよりいい演奏だったのですっかり脱帽。
先月はジョージ・セル、クリーブランド響が51年から69年までフィリップスとデッカに入れた(ソニー以外の)全録音5枚組と、ピエール。モントゥーが56年から64年までに同じくその2つのレーベルに入れた7枚組の録音を聴いたが、これも素晴らしく珠玉の名盤とはこのような演奏をいうのだろうと思いました。ちなみにモントゥー老のロンドン響「ベト4第1楽章冒頭」と中島みゆきの「ファイト」が私の人生の応援歌です。
わずか1000円で4枚組という廉価版での思いがけない掘り出し物は、独クアドロマニアのプッチーニの「マノンレスコー」と、「蝶々夫人」のそれぞれ1930年スカラ座、49年メットの知らない指揮者の全曲演奏。録音がひどいので途中でやめようかと思いましたが我慢して聞いているうちにオペラ的感興がわき出てくる名演。後者では私の好きなエレノア・スチューバーが好演しています。
気をよくして同じレーベルの「ラ・ボエーム」と「トスカ」を買ってきたら、いずれも1938年の録音ですがベンジャミン・ジーリとカラスの黄金コンビがスカラ座とローマ歌劇場でちょうちょうはっしの白熱のクライマックス。オペラだけは昔の歌手と昔の演奏で聴くべきだとしみじみ思ったことでした。
そういうわけで、ただいま同じクアドロ盤のクナパーツブッシュの「パルシファル」(1951年バイロイト音楽祭ライブ)をかけていますが聖金曜日の音楽がすさまじい迫力。これはもしかするとフィリップスのステレオを超えた演奏ではないでしょうか。
1000円盤といえば、アルトゥスから出たアンドレクリュイタンス&パリ管の生前唯一無二の東京文化会館におけるベルリオーズの「幻想交響曲」のライブがあまりにも素晴らしかったので、1986年10月15日東京文化会館における神様チエリビダッケ指揮ミュンヘンフィルの「ブラームス4番」&「死と変容」の超絶的名演、同じく1991年11月2日サントリーホールにおけるクーベリック&チエコフィルの「我が祖国」を、フルトヴェングラーの51年7月29日バイロイトのオルフェオ盤「合唱付き」といっしょに買ってきました。
もったいないので、すぐには聴かないでいましばらく机の上であたためているところ。私だけのささやかな楽しみです。
♪吉田家でプーランク聴こえる小町かな 茫洋
Sunday, December 14, 2008
エリック・ロメール監督の「グレースと公爵」を見る
革命と反革命とではいずれかの2者択一であり、人間は敵か味方かのいずれかであり、あらゆる選択肢について第3の道なぞ考えたことすらなかった。
もとよりフランス革命も絶対的な善であり、その不滅の歴史的、社会的、政治的、思想的意義を認めようとしない輩なぞは、人間の屑とみなして平気だった。テーヌやらマチエやらルフェーブルの革命史を読んではやたら興奮しておった。
ラファイエットやダントンやジョゼフ・フーシェなどは人民の敵で、過激なマラー、ロベスピエールのほうがよっぽどかっこいいのであった。あなおそろしや。まだ私も青くさく若かったのである。
なんやかんやでつねに心の中は革命の炎が燃え盛っていたので、苛烈に弾圧され人民の敵というレッテルを貼られて断頭台の露と消える当時の王党派の貴族たちについては、かくも長きあいだにわたって、てんで想像すら及ばなかったのである。
しかし正義と自由と平等という錦の御旗を振りかざし、ラ・マルセイエーズの軍歌に乗って迫りくる暴徒たちにおびえながら、彼らはいったいどのような毎日を送っていたのだろう。どんな思いで日々を支え、どんな愛憎をはぐくみながら朝を迎えていたのだろう。
そういう素朴な質問に対するうってつけの回答がこの映画の半面の相貌であるが、名匠エリック・ロメールは、史上未曽有、驚天動地の時代を誠実に生きた男女に焦点を当て、その不滅の愛を淡々と描く。
女は英国人でありながらルイ16世に忠誠を誓うグレース・エリオット、そして男は、王の従兄でありながらフランス革命の理念を奉じ、王の死に1票を投じながらもロベスピエールの策謀によってギロチンの刃の下に斃れた悲劇の公爵オルレアン。時代の悲劇を超えて、運命のふたりがどのように深く愛し合ったか、とくとごろうじろ。
♪硝煙燻ぶるバリケードに仁王立ち最後の1発を放ちし老革命家に乾杯 茫洋
Saturday, December 13, 2008
クッツェー著「鉄の時代」を読む
南アフリカのケープタウンに住む元ラテン語教師の70歳の女性がアメリカに住む娘に宛てた長い遺書である。彼女はガンに冒されていて余命いくばくもないが、アパルトヘイトのただなかにあるこの極南の地にあって、いっけん自由な、そして孤独な生活を強いられている。
トランジットしては通過して行く者たちのように彼女の家を訪れるこれも孤独で心を固く閉ざした男や通りすがりの女、そして彼女の子供たちがいる。
誘蛾灯にさそわれて飛んできた蛾のようにいつの間にか老女の周りに集まってくる見知らぬ赤の他人たち。その醜悪で悪臭を放つ気味の悪い連中を、われらが老いたるヒロインはあたたかく迎え入れ、非道な国家権力や警察の暴力によって日常生活の平安を徹底的に脅かされながらも、容易に他人の善意を信じようとしない彼らと誠実に向かい合う。
残された日が短い彼女にとって、この世におけるゆいいつの救いとは、たまさかに彼女の懐に落ち込んだ任意の男、限りなく胡散臭く、薄情で誠実さのかけらもない1人の中年男をひたすら信じきること、その1点に賭けることなのだ。
彼女にとってこの悲惨で絶望的な争闘の「鉄の時代」のあとに来るべきは、人類が友愛でゆるやかに結ばれるはずの「青銅の時代」であり、それに続く「銀と金の時代」なのである。おお、なんと勇気凛々の超楽天主義者であることよ!
それゆえ、小説の掉尾をあえかに彩る2人の抱擁は、少しく感動的ですらある。
♪遥かなるエルドラドの輝きは幻かわれら冷え行く鉄の時代に生きる者 茫洋
Friday, December 12, 2008
網野善彦著作集第11巻「芸能・身分・女性」を読む
婆娑羅(バサラ)と呼ばれる異類異形の風体の輩の源流は、平安後期の「江談抄」に「放免が分不相応の美服を着るのは非人のゆえ禁忌を憚らざるなり」とあるをもって嚆矢とする。金銀錦紅の打衣、鏡鈴のごとき風流、派手な模様の狩衣を着て異様な棒(鉾)を担ぎ、大きなひげをはやした放免(検非違使の部下)は、非人であるがゆえに俗世界のタブーには触れないとされた。
しかしこのバサラは頻々たる禁制にもかかわらず博戯、双六、飛礫の流行とあいまって悪党の進出とともに急速に浸透し、その悪党どもがついに後醍醐天皇と結託して都を制圧したのが建武新政であった。彼らの圧倒的なエネルギーは公家・武家の政治を根底から揺り動かし、バサラな非人の綾羅錦繍の装束、金銀珠玉のファッションは、小舎人童、大童子、牛飼童子、猿楽田楽法師、供奉人までも虜にしたのである。
またバサラも着用した「柿の衣」は主に中世後期の無縁の非人、とりわけ癩の病人々の衣装として定着していった。癩の病といえばいまでいうハンセン氏病のことだが、これに犯された兄弟子の養叟に対する弟弟子一休の驚くべき罵倒の言葉を忘れるわけにはいかない。ここには後年にいたって顕在化する障碍者への卑賎視がうかがえる。
一揆の衣装には世界的に赤と白が使われてきた。「一遍上人絵詞伝」に登場する乞食非人の指導者は、白い覆面・頭巾をつけて六尺棒を持ち、赤ならぬ柿色の僧衣を身にまとっているし、明応5年近江の馬借一揆の柿帷衆は、全員ふだん彼らが身につけていない柿色の帷を着て近江から侵入した斉藤妙純の軍勢と戦った。
江戸時代の百姓一揆では困窮した百姓たちは蓑・笠をつけ俵を背負い、非人の姿をし、妻子には地頭所の前で乞食をさせて都の強訴に旅立った。差別された最下層の身分に自らをおくことをためらわない不退転の決意をそこに示したのである。
柿色の衣は山伏の衣装でもあり、鎌倉時代の義経も、南北朝の護良親王も日野資朝も山伏姿で各地を逃亡した。山伏は山の霊力を身に備えた聖なる存在であり、聖なる非人でもあった。彼らがまとった非人性を象徴する柿色の衣は平安、鎌倉、室町、江戸時代にも連綿と伝わり、歌舞伎の江戸三座に引き幕の中央にはつねに柿色が据えられ、遊女屋の暖簾も柿色であった。
しかしその反面、江戸時代の奉行の足軽たちは柿色の羽織を着て街を見回ったので、「柿羽織」と呼ばれており、彼らが腰にさす鼻捻という棒は江戸の非人頭も持っていたそうだ。柿色の象徴的機能の別の面を物語るといえよう。
聖にして非なる柿色ファッションカラーは現代にも流れており、歌舞伎一八番の「暫」の鎌倉権五郎景政の衣装は、柿色地に三升大紋であり、その権五郎役をお家芸とする市川団十郎家は柿色を先祖代々の家の色と定めている。云々。
飛礫、博打、旅する女性、非人を真正面から論じた本巻は、疑いもなくここまで読み進んできた網野善彦著作集の白眉である。
♪俯いて地面に何を書いていたのか己に罪なしと信ずる者より石を打てといいいし人は 茫洋
Thursday, December 11, 2008
鎌倉市の「障がい者計画」への要望
1「障がい者自立支援法」と合わせて市の障害福祉計画の見直しを!
「障がい者自立支援法」は、障がい者を無理やり自立させようとして施設から追い出そうとしたり、収入のない障がい者に従来よりも経費負担を強いて自活困難に追い込むなど、数多くの問題点をかかえており、現在各政党でも白紙撤回や改定を検討中です。
従ってこの法律をもとにした障がい福祉計画の実施は、新法の成立までいったん中止し、それから再検討するべきではないでしょうか。
2障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を!
市の障がい福祉計画の福祉施設から地域生活への移行の「数値目標」にあまりにも力点がおかれすぎています。
施設からどうしても移行できない障がい者も数多く存在しているのに、そうした個人個人の実態とは無関係に年度別の数字で減少計画を立てることは無謀であり、「非人間的」です。数値計画自体を撤廃し、もっと障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を充実させるべきではないでしょうか。
3親亡きあとの障がい者のケアを!
障がい者の親にとって最大の関心事は、親亡きあとの障がい者のケアであります。そのために物心両面の支援を手厚くしてほしいのです。
現在鎌倉市にはかなりの数の通所施設や地域作業所が存在していますが、入所施設は1か所しかありません。今後その需要は急速に高まると予想されるので、その増設を希望するとともに、既存の施設に対する格別の配慮をつよく希望します。
4「障害者」から「障碍者」へ
現在逗子市など全国の多くの市町村、あるいは一般企業の求人広告においても、いわゆる障害者のことを「障碍者」と表記するようになっています。「障害」という表記がなにか悪いもの、世間に悪をなすもの、という印象をともなうところから、あえてニュートラルな「障碍」あるいは「障がい」という用語を使うように変化しているのです。
そこで本市でも遅まきながらこの表現法を採用されてはいかがでしょうか。それは単なる言葉狩りというレベルの問題ではなく、恵まれない弱者に対してどのように接するかという人間としての態度の問題です。わたしたちは、害虫ではないのですから。
5 追記
最近幼女の殺人容疑で知的障碍の男性が逮捕されたが、彼が本当に健常者とおなじ認識と行動でそれを実行したのかは軽々に即断することはできないと思います。
もし彼が結果的に殺人を犯した場合でも、明確な殺意の元で自覚的にそれを行なったのかどうか、専門家の参画のもとでよく調べていただきたいのです。なんとなれば、私が知る限りの知的遅滞者は、殺人を考えたり、実行を計画したり、直接手を下すことなぞ絶対に不可能な人たちだから。
♪障害者を障がい者とひらくこころの優しさよ 茫洋
Wednesday, December 10, 2008
黒澤明の「デルス・ウザーラ」を見て
黒澤がほとんど単身でロシアならぬソビエトに乗り込んで1年有半の格闘を経て命懸けで撮った映画は、驚くべきことには彼の最上の美質が発揮された名品だった。
そこには自然の恐ろしさとすばらしさをふたつながらに受け入れる愛すべき冒険者である狩人がおり、原初的な人間と獣との対決と友愛がある。雄大で神秘的な大自然への畏敬の念と、その豊かな恵みへの感謝があるかと思えば、密林の奥まで侵入する開拓の毒牙があり、都市の論理の前になすすべもなく敗退して自滅するイノセントな魂への万斛の哀歌がある。
黒澤は、そうした人と動植物が語らいあっていた黄金の神話時代から銀の時代、青銅の時代から英雄の時代までをほとんどのびやかに描く。ほんらいの自分に立ち返ったように軽く深呼吸しながら……。ああ、なんという幸福な映画であることか!
ヘシオドスが記録した時代の流れは、さらに鉄の時代を経て艱難と労苦に満ち満ちた現代にまで及ぶが、黒沢の映画的時間は懸命にもそこに到達することを避ける。ショスタコービッチが歌わざるを得なかった「森の歌」を歌うことを拒否して、あざやかに日本に帰還するのである。
この映画には、黒沢の映画でなければけっして私たちに贈り届けられなかったような人類史上の不滅の一瞬、映画ならではの特権的な瞬間が70ミリシネマスコープのフィルムの上にくっきりと刻印されており、私たちは人と自然と映画とがひとつに溶け合った奇跡を目の当たりにすることが許される。
映画に対して、誰がそれ以上のものを望むことができるだろうか。
♪またひとりパパゲーノ見つけたり広大なるロシアの森に 茫洋
Tuesday, December 09, 2008
黄昏の渋谷で「アンドリュー・ワイエス展」を見る
遅まきながらはじめて副都心線に乗って、見慣れぬ駅にたどり着き、渋谷東急文化村まで死ぬほど歩いたあとで、アンドリュー・ワイエスの素描、水彩、テンペラを見ました。1917年にアメリカペンシルヴェニア州に生まれた画家はことし91歳、現在もなお元気に描き続けているそうです。
荒涼とした草原にたたずむいかにも頑固そうな農夫、丘の上の孤独な家、鳥や鹿や樹木。とある古い農家の一角に差し込む午後の光線、砂のようにザラザラした感触の若い女の素肌、突然降ってくる粉雪……、彼は本国と同様わが国でも人気が高いそうですが、いかにも現代人に受けそうな画題とタッチをしています。極北に生きる禅僧のような異端者の孤独な魂は、わたしたち現代人の心にかくもたやすく触れ合うのでしょうか。
が、じっと眺めているうちに、画相といい表現といいあまりにも表面的な感じがしてだんだん肌寒い気分に襲われてきました。こういってはいけないかもしれないが、あまりにも通俗的で感傷的な作風ではないだろうか。こんなもん、もしかしてお金儲けのためにかきなぐっているのではないだろうか。もしかしてフェイクではないだろうか、という疑いです。
もとより私などに偽物とまで断言する勇気はありませんが、(新設された地下鉄副都心線といい安藤忠雄設計とやらの渋谷駅といい、道玄坂の汚らしさといい)残念ながら最近の展覧会のなかではいちばん共感できなかったシロモノでした。
♪雪でも降れだんだん東京が厭になる 茫洋
Monday, December 08, 2008
ブライアン・ヘルゲランド監督「ペイバック」を見る
メル・ギブソンが主演する1999年製作のアメリカ映画「ペイバック」を見た。どうにも面白くなく、やりきれない気分にふさわしいじつにくだらないギャング映画であった。そういう意味ではとてもマッチグーであった。
粋がっているチンピラのギブソンがちょいと悪事に手を染め、やっと手に入れた七万ドルを親友とおのれの妻に奪われてしまい、それを死んだ気になって巨大な悪の組織と全面的に対決しながら取り返すまでの波乱万丈、支離滅裂のハードボイルド大アクション映画であった。
なんでも大ベストセラーの映画化らしいが、こういうあほばかシナリオを愚直に演じさせたらメル・ギブソンにかなうものはない。ルーシー・リュウー演じる強烈な暴力サディストの演技も見ものだった。
♪ぐららがあぐ おんぎゃあどれんちゃ ぶおばぶば ぐちゃわんべるる ううれえんぱあ 茫洋
横須賀交響楽団の「第9」を聴く
この素晴らしいオケのコントラバス奏者であり、私のマイミクさんでもある笑み里さんのご招待で、年末恒例のヴェートーフェンの「合唱付き」を楽しませていただきました。
日曜午後のマチネーです。須賀線の横須賀駅を降りて寒風吹きすさぶ港を見ると大きな潜水艦がちょうど岸壁に接岸されるところでした。嬌声を挙げてデジカメで撮ろうとする見物客を制するがごとく、反戦平和を唱える小柄な尼僧が「南無妙法蓮華経!南無妙法蓮華経!!」と手に持った小太鼓を連打しながら通り過ぎる。いつもながらのヨコスカ・ハーバーです。
演奏は同じヴェトちゃんの「合唱幻想曲」から始まりました。構成に大きな破綻があるものの、いかにもヴェトちゃんらしい荒削りな作品を、象のように巨大な体躯を揺さぶりながらピアノの久保千尋が力奏しました。
休憩のあとはお待ちかねの「第9」です。はじめの3つの楽章が破綻こそないものの、あまりにも優等生的な安全運転で、今日はどうなることかと案じましたが心配無用。最後の楽章でオケも指揮者も合唱も大爆発。世界の恒久平和を祈念する歌と旋律を、腕も折れよ、喉も裂けよ、バチも折れよ、とばかりに超満員で立ち見まで出ている巨大なホールにぶちかまし、折からの寒波で心まで冷え切っていた聴衆の胸のなかを灼熱の嵐に巻き込みました。
指揮者は最近絶好調の神奈川フィルを牽引する若き棒振り現田茂夫。おそらくは徹底的なリハーサルでオケをしごいたのでしょう。アマチュアオケ屈指の実力を誇る横須賀交響楽団から思い通りの音色とバランスと色彩と力感を生み出し、この至高の難曲を見事にドライブしました。私はこれほど最終楽章にピークを設定した演奏を聴いたのははじめてで、オケもさることながらコーラスのすさまじい威力に圧倒されました。今日の主役はまぎれもなく横須賀芸術劇場合唱団でしょう。
安定した弦、とりわけヴェトちゃんには必須の低音部をゴンゴン築くコントラバス軍、活気ある打と管、とりわけリズム感抜群のパカッションが素晴らしく、管弦楽と管楽器の美しいハーモニーは聴きごたえがありましたが、ピッコロの音程と強度、トライアングルの鳴らし方、それから前にも触れたようにこの指揮者の曲の解釈については私には強い異論があり、正直に告白すれば3つの楽章の演奏には失望を禁じえませんでした。若きマエストロの今後の自覚と精進に期待したいと思います。
「第9」を打ち上げたあと、驚いたことには「蛍の光」のアンコールがあり、それにしてもヴェトちゃんを上回る?なんという天下の名曲かなと一掬の涙がきらりと漏れたことでした。ロンドンの「プロムス」のように場内大合唱になるともっと盛り上がるのですがね。
♪オオフロイデ、蛍の光で年は暮れ 茫洋
Saturday, December 06, 2008
アーサー・ウェイリー&佐復秀樹訳「源氏物語1」を読む
1925年刊行のアーサー・ウェイリー訳の源氏は、与謝野晶子の小説的翻訳のあとをおうようにして英国の日本語(そして中国語も)独学者の熱い心と冷たい手によって大戦前の全世界に向かって公刊された。
ドナルド・キーンによれば、ウェイリーの翻訳は、まず原文を繰り返し熟読玩味し、しかるのちにそれを脳髄から放擲し、今度は英語として噛み砕いた文を「振り返らずに」書き下ろし、あとで原文と照らし合わせて趣旨が同じなら多少の欠落や付加があろうともそれでよしとする、という手合いのものであったらしく、そのことがあまたの翻訳にない独特の魅力を形作っている。
正宗白鳥が評したように、「原文は簡潔とはいえ頭をちょん切って胴体ばかりがふらふらしているような文章で読むに歯痒いのであるが、訳文はサクリサクリと歯切れがいい。糸のもつれのほぐされる快さがある。翻訳が死せるが如き原作を活き返らせることもあるものだ」と感じさせてくれるのである。
そのようにウェイリーの訳文は、原文→英語という変則クッションを介在させているにもかかわらず、物語の主人公である紫式部の主人公性を強調し、原文には想定されていない「主語」を樹木の幹のように樹立するとともに、述語と形容句、副詞の補助的な機能を英文脈の論理に準じて華麗な枝葉のように巧みにアレンジしたために、まるで海鼠のように目鼻すら区別できない膨大なやまと言葉のかたまりが、ジェーイン・オウスチンやマルセル・プルーストに匹敵する格調高い西洋小説に変身してしまったのである。
佐復秀樹の翻訳は、そのようなウェイリーの訳文をさらに現代的な日本語に置き換えようとしたもので、これをあの有名な紫式部の名作などと過剰に身構えなくても素直に楽しめる物語、面白くて本格的な大河小説として換骨奪胎することに成功している。
これまで私の源氏翻訳ランキングは1位窯変橋本、2位谷崎、3位与謝野であったが、ウェイリー・佐復組の仕事はそれらのいずれよりも光源氏とその恋人たちのキャラクターを生き生きと光彩陸離に再現しているように思われる。
ただ明石の巻で入道につかえる下人たちが「時にはかなりの時化になるんやが、たいていはずっと前にわかるもんや」などと関西弁(明石弁?)でしゃべらせているのだが、それなら源氏や紫や葵上も京都弁にするべきだし、そうすると野卑な?明石弁と雅な都ことばとの差別化をはかる必要も生じるんとちゃうやろか?
♪平安の御代の源氏も紫も雅な京都弁を喋っていた 茫洋
Friday, December 05, 2008
森まゆみ著「旧浅草區まちの記憶」を読む
森まゆみの本や文章は「矢根千」の時から好きで、なんでも好んで読んで後悔しない。私にとってはいまどき希少な作家である。
彼女の案内で旧15区(麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川)のうち旧浅草區を歩こうというのが本書の企画である。すでに神田を歩いているそうだが、未読。いずれそのうちに。
こういう年寄りじみた好企画を連発していた毎日新聞社の「アミューズ」もいつの間にやら休刊になってしまったようだ。勢いがあるのは右翼系のファシズム雑誌ばかりとは情けないやら腹立たしいやら。そのうち防衛庁のアホ馬鹿軍人どもがクーデターに打って出て政権を奪取し、日清日露戦争でもおっぱじめて新満州国設立にでも乗り出すのだろう。
おっといけねえ、ついまた愚痴が。そんなきな臭いことより江戸探しでござった。
誰かが過去は新しく、未来は懐かしい、とか口走っていたようだが、私はもう新しいことには皆目金輪際興味がない。そして最近どんどん死んでいく懐かしい人や失われた時代に無性に惹かれる。私はてって的な保守主義者であり、反改革主義者であり、現代に棲息する絶滅寸前の縄文人であるからして、過去の沈湎とした記憶や思い出、退嬰的なノスタルジーに心ゆくまで浸りながら急性アルツハイマーになって夢見るようにねんねぐーしながら安らかに死んでいきたいのである。
話が脱線したので万やむを得ずもうこの本の紹介ははしょってしまおう。読みたい人は読めば大いなる心の慰安を得るであろう。最後に、私がときたま東京を訪れるときの最大の楽しみは文人墨客の掃苔であることを告白してご挨拶にかえたいと存じます。ご静聴ありがとう。
♪楽しみは亡き母ゆかりの谷根千をひとり静かにさすらうとき 茫洋
Thursday, December 04, 2008
池田清彦・養老孟司著「正義で地球は救えない」を読んで
地球における二酸化炭素の急増と温暖化の相関関係に疑問を投げかけることからはじまって、環境問題の本質は、食糧とエネルギー問題にあると喝破し、もろもろの「地球にやさしい」環境運動の虚偽と虚妄を鋭くえぐる問題提起の書である。環境原理主義者に対する反環境原理主義者の弾劾の書でもある。
例えばここ2年間くらいの企業の広告活動をみると、その中心的なテーマは環境問題であって、その一極集中ぶりは異常なものがある。環境さえPRしておけばそれで良し、とする体制順応型の対消費者コミュニケーション活動そのものが、この国の産業活動の疲弊と腐敗と堕落を物語っているようだ。
それでは企業や消費者にとってそれほど環境問題、とりわけ地球温暖化問題がどれほど切実な課題として認識されているのかといえば、それらは極めて表層的なものにすぎない。
たとえば先の洞爺湖サミットで我が国はじめ世界各国は「50年までに排出量半減」することを認めたが、具体的な行動計画については誰もなにも言わなかった。しかし養老氏が説くように、二酸化炭素排出の最大の要因は石油の使用なので、本気で温暖化を抑えたければ、石油生産を抑止するのがもっとも効果的だ。
これを年々計画的に抑制すれば多少経済活動は弱まるが「50年までに排出量半減」など簡単に実行できてしまう。ところがそれがわかっているくせに手もつけず、同じサミットで逆に産油国に対して石油増産を要請するというのは矛盾そのものである。
つまりはおそらく(日本国をのぞいて)世界中の国々が本当に本気で二酸化炭素の削減に取り組んでいるわきゃあない。ここは思案のしどころだよと著者たちは警告するのである。
確かに気象変動の要因は複雑怪奇だから、二酸化炭素の増減だけで地球温暖化を説明することはできないだろう。もしもあるパラメーターを恣意的に導入することによって過去100年間の気候変動を上手に説明することができたとしても、一歩先の未来について確信の持てる予測をすることは困難だろう。
肝心要の二酸化炭素の増減や地球温暖化の因果関係についても最終的にはまだ学問的な決着はついていない。にもかかわらずそれを己の金もうけや政治的野心の道具として利用しようとする輩が陸続と登場し、科学的真実の探求そっちのけでわれがちに世界崩壊だの人類絶滅の未曾有の危機だの目の色変えて叫んでいるようだ。科学と論理に弱い(どうでもよい?)私には、いずれが正かいずれが邪か今やそれすら見分けがつかなくなってきたので、この問題からはしばらく降りて様子を見ることにしよう。いまわあわあ叫んでいる連中がみんな死んじまったころにはおのずと結着がつくだろう。
しかしだからといって池田が言うように、京都議定書に始まる世界各国の取り組みがまったくナンセンスであり、こんな愚かな活動に全国民を巻き込むのは愚の骨頂であるばかりか税の無駄遣いであり、アメリカ帝国主義の大陰謀である、と偉そうに説くのはいかがなものであろうか。(日本だけが損をする)排出量取引が排出量低下自体につながらないことはいうまでもないが、それでもあの漫画的なクールビズだのエコバッグだのエコカーだって、印税稼ぎの駄弁を弄するだけで何もやらないよりは多少はましではないのではなかろうか。
しかし事の重大さからすれば、著者たちが力説するとおり、石油の産出が終了する前に代替エネルギーを開発して全世界の持続を可能にするとともに、極力世界人口を低減させていくことは、ツバルやベネチアやオランダの陥没やホッキョクグマの絶滅を心配することよりもはるかに重要な「地球人の使命」であろう。
♪さらばベネチア沈みゆく関東ローム層で弔鐘を鳴らすのは誰 茫洋
Wednesday, December 03, 2008
鎌倉文学館で「吉田秀和展」を見る
よい小春日和になったので、久しぶりに自転車を飛ばして長谷の文学館まで行って企画展吉田秀和「音楽を言葉に」を覘いてきました。
入口の紅葉が見事でみんな写真を撮っていましたが、それは見事なものでした。
しかし肝心の展示会場には中原中也の時と違って格別印象に残るものはなく、ただ秀和さんの来歴データや日本ハし日本橋で生まれたご幼少のみぎりから現在までのご真影や、生原稿や、著作が1階と2階の2つの会場にパラパラ並べてあるだけなので、ちょっとがっかり。考えてみれば、じゃあそのほかに何を展示すればいいのか私にも分からないが、イのいちばんの展示物が文化勲章というのはご本人にも失礼だし恥ずかしくはないのかい?
と、やや辛口のコメントを並べているのは、先月の15日に行われた「吉田秀和氏と音楽をたのしむ」という文学館の特別講演の抽選に外れてしまったからなんで。要するにひがんでいるのさ。しかし限定20名なんて確率が低すぎる。あんな狭い部屋なんかやめて広い庭園でやったらどうなのさ。海も太陽も紅葉も見えるし。
なんてぼやきながらもグールドのゴルトベルクが流れる旧前田伯爵邸を茫洋が茫洋と歩いていると、小林秀雄と大岡昇平が秀和さんに宛てた葉書を見つけました。いずれも昭和30年代前半の発信です。
秀雄さんのは2通あって、いずれも秀和さんが送ったレコードへの礼状。1枚はデ・ヴィトーのヴァイオリン曲で、「やはりヴィトーは男性とは違う女らしさがある」と評し、もう1枚のグールドのそれに対しては、「極めて新鮮!」と大書してその驚きを率直に言い表しています。短にして要を尽くした達筆です。
これに対して昇平さんのは、まるでみみずがのたくったような筆跡で、「あなたは音楽界の中原です」と褒めそやしています。これはちょうどそのころ、秀和さんが雑誌にはじめて掲載した中原中也の思い出話を読んだ昇平さんが、自分のそれまでの中也論も裸足で真っ青になって逃げ出すくらいの卓論名文であると絶賛しているのです。
蛇足ながら、この中原という言葉は、中原中也の中也と野原(ここでは音楽界)の中心とを掛けているのですね。
しかし音楽について一家言のあった昇平さんは、ただ秀和さんを褒めるだけでなく、自分が最近書いたハイドン論に自信があったらしく。それをぜひ読んでくれ、と頼んでもいます。
そういえば大岡昇平は「モオツアルト」はもう小林秀雄教祖にまかせて、生涯をつうじてハイドンやバルトークに血道をあげ、現代音楽も聴きあさっていたことをはしなくも思いだした私は、いずれ昇平さんの音楽論もまとめて読んでみたいと思ったことでした。
♪文を読めば音が聞こえてくるそのような文を書きたし 茫洋
♪文を書けば己の血がでるそのような文も書きたし 茫洋
Tuesday, December 02, 2008
ビルギット・ニルソン著「ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯」を読む
ビルギット・ニルソンといえば、なんといっても20世紀を代表するワーグナー歌手ということになるであろう。
ただちに思い浮かぶのは、名物プロデューサー、カールショー、ゲオルグ・ショルティ、ウィーンフィルと組んだデッカの「指輪」全曲録音、1966年7~8月のカール・ベーム指揮バイロイト祝祭soによる素晴らしい「指輪」の全曲ライブ演奏、同じメンバー+相棒ヴィントガッセンとがっぷり4つに組んだ「トリスタンとイゾルデ」の空前絶後の名唱、翌年の春、死ぬ直前のヴィーランド・ワグナーの厳命でピエール・ブーレーズと大阪にやってきてアホ馬鹿N響相手にぶっつけ本番で歌ったトリイゾなどであるが、とりわけ私の心に突き刺さったのは1983年1月ニューヨークのメトロポリタン歌劇場創立100周年記念ガラコンサートに登場した彼女が、いきなり「ワルキューレ」第2幕の有名な「ホヨトホ!」の叫び声を上げた瞬間、超満員の聴衆が満腔の歓呼の声を挙げた光景だった。
ただひと声で満場を歓喜の坩堝と化すことができるのは、世界に名歌手多しといえども「オテロ」のデル・モナコとビルギット・ニルソンだけであろう。
この本はそのスウェーデン生まれのソプラノ歌手ビルギット・ニルソン(1918-2005)の自伝である。
田舎の牧場の娘がふとしたことから音楽の道に入り、ストックホルムのオペラハウスを振り出しにウイーン、スカラ座、メット、バイロイト、テアトル・コロンなど世界の有名オペラハウスや音楽祭に出演するようになり、ワーグナー作品をはじめ、トスカ、トゥーランドット、アイーダ、仮面舞踏会、マクベス、サロメ、エレクトラなど大作の主役を演じるようになり、エリッヒ・クライバー、フリッツ・ブッシュ、クナパーツブッシュ、カイルベルト、ベーム、カラヤン、ショルティ、クレンペラー、ラインスドルフ、クロブチャールなどの棒で歌うようになる。(余談ながらカイルベルトとクロブチャールの指揮に対する彼女の高い評価にいたく共感)
彼女の徹底したカラヤン嫌いの理由、クレンペラーからいきなり「独身?」と口説かれる話など、世界の一流指揮者の実力と人柄に生身で接したリアルな月旦評も抜群の面白さだ。
その間彼女が共演したビョルディング、フランコ・コレッリ、ホッター、カラス、テバルディ、レオンタイン・プライス、シオミナート、ディ・ステファノなどの名歌手たちの逸話、彼女を生涯にわたって追いかけたマリリンモンロー似のストーカー悲話も興味深いものがある。
例えば、彼女とフランコ・コレッリがメットの「トゥーランドット」で繰り広げたハイC競争は壮絶なものであったらしい。
そのほとんどはコレッリが勝ったらしいが、たった一度だけニルソンが勝利した時のこと、コレッリが姿を消したので支配人のルドルフ・ビングが捜したところ、コレッリは怒り狂って拳骨でテーブルを力任せに叩いて血だらけになり、コレッリ夫人が救急車を呼ぼうとしていた。しかしまだもう1幕残っていたので、ビングが「次の幕でトゥーランドットに口づけするときに噛みついて復讐しろ」とささやいて彼を舞台に立たせ、自分は逃げ出したという。
指揮者のレオポルド・ストコフスキーはそんなことがあったとはなにも知らなかったそうだが、あとで演出家からピングの悪知恵を聞いた彼女は、支配人に宛てて次のような電報を打ったそうだ。
「噛まれて負傷したために、次回公演はキャンセルします―ビルギット」
クラシックのアーチストの評伝はどれも当たり外れがないが、この本は著者の誠実さ、温かな人間性と巧まざるユーモア、そしてなによりも音楽への愛と献身が際だっていて、読む者がたとえ耳に一丁♪なき音痴であったとしても、そのささくれだった心の裡をほのぼのとした気持ちに変えてくれるに違いない。
♪時代も世紀も煎じ詰めればこの一瞬のわれらの行状に尽きる 茫洋
Monday, December 01, 2008
川口マーン恵美著「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」を読む
そのように性急に二者択一を迫られると困ってしまう。
私の答えはもちろんフルトヴェングラーに決まっているのだが、だからといってカラヤンの演奏も特にオペラには素晴らしいものが目白押しである。クラシックの演奏家のリストからこの才人を抜かせばそのあとはかなりさびしい姿になるに違いない。特にかつて吉田秀和氏が推薦していたカ氏の晩年のモーツアルトのセレナードの演奏は老鶴万骨枯れたしみじみとした、当世はやりの言葉でいうと泣かせる演奏だった。
この本の面白さは、ベルリンを五回訪れた著者がまだかろうじて存命中の延べ一一人のベルリンフィルの演奏家たちに数度のインタビューを敢行し、かつての統領の人柄や力量について遠慮なく尋ね歩き、予想外の率直な回答を引き出したことにある。クラシックファンにとって面白くないわけがない好企画である。
インタビュー直後に急死した名物ティンパニー奏者のテーリヒンは有名なカラヤン嫌いであるが、カラヤン好みの正確無比の太鼓叩きフォーグラーの登場によって一九七九年六月以降の全ライブと録音から外された彼が怒り狂ったのは当然だとしても、その背景には情動の一撃か精巧の打刻かというこの世界最高のオーケストラに君臨した双頭の鷹の演奏哲学の違いが生んだ不可避の悲劇ではなかっただろうか。
しかし、栄華を誇った英雄の晩年はいずれも孤独で悲しい。
フルベンはその晩年に聴力を失うという現実に直面して完全に生きる気力をなくし、そのあとの衰弱は極めて急速で、死ぬ前に夫人に「死ぬことがこんなに簡単とは知らなかったよ」といいながらまるで自殺のように息を引き取ったらしい。
またカラヤンは一九八四年の大阪公演では、曲を振り間違え、スカラ座ではアンコールをバッハの「アリア」に決めていたのにマスカーニの「友人フリッツ」のつもりで振り始め、一九八八年の最期の日本公演における「展覧会の絵」は誰の耳にも無残な演奏であった。その極めつけはザビーネ・マイヤー事件にはじまる手兵ベルリンフィルとの対立と永訣であったが、それは誰あろう帝王カラヤン自身が招いた悲劇であった。(第一三章フィンケ氏との対話)
慨嘆しつつこの本を読み終わった私は、気を取り直して元楽員の多くが激賞しているフルベンのシューマンの四番とラベルを聴きなおしてみたいと思ったことだった。
♪フルベン王は死せり後は洪水垂れ流すのみとカラヤン嗤う 茫洋
秋日掃苔
秋晴れの午後、池袋のフジフィルムにデジカメの修理に行ったら、1時間もかかると言われた。およそ半年おきにCCDにゴミが溜まるのである。そのたびにはるばる池袋くんだりまでやってきてゴミ掃除をしてもらうのだが、これって欠陥商品ではなかろうか?
いままでのカメラではこんなことはなかったのに、また鳥取砂丘に旅行したわけでもないのに、いったいどうしたわけだろう。まったくやれやれである。
その代わりにといっては何だが、この近所に私の大好きな往来座という古本屋さんがある。海外文学は扱わない代わりに本邦の文学や映画、美術関連が充実しており、いつ行ってもヴィクターの古いけれどもよい音を出すスピーカーSX3からボブディランの音楽が流れている渋いお店であるが、若くて清潔な感じがする店主に道を訪ねて久しぶりに雑司ヶ谷霊園まで足を運んで私の唯一の趣味である掃苔を楽しんだ。
1-1区画にはわが敬愛する荷風散人、漱石が「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」と一代の絶唱を詠んだ大塚楠緒子、小泉八雲、泉鏡花などが長い眠りに就いている。私は彼らの墓石の上に降り積んだ銀杏の葉を両の掌で払い落して霊前に額ずくことができた。
永井荷風は三ノ輪の浄閑寺に葬られることをのぞんだのだが、幸か不幸か窮屈な一角に眠っている。ハーンの墓もとってつけたように狭い。楠緒子さんは法学博士の夫と仲良く並んでいる。
秋の日はつるべ落しにぐんぐん沈んでいく。私はこの近所にある小栗上野介、岩瀬忠震、成島柳北、中村是公と漱石、森田草平とケーベル博士の墓前には欠礼して黄昏の霊園を後にしたのであった。
夕焼けの公孫樹の下に眠りたり雑司ヶ谷なる大塚夫妻 茫洋